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続きです♪ コースの「神はある」という究極の言葉は、存在の核心としての「神」そして「神の御心(ハート)」だけが、ただ存在する世界が「天国」であり真の現実だとし、そこは、神と神の思考(思い)である神の子しか存在しない状態だということです。 そこにおいては、創造者と創造された考えはつねに一つだからです♪ そのような真実がどのようにして忘れられたかを象徴的に示すなら、神の御心である神の子が、本質的な自己である御心(本質、存在としての愛=ハート)を忘れ、神から離れることができるという「分離」の概念を信じることで「心-マインド-自我」が生じ、私たちの真実が暗闇に入ることになります。 さらに、その瞬間、私たちの「本来の自己-本質-真実-ひとつであること」のすべてが反転し、本来の自己とは違う何かである「不安=恐れ=闇」という対極・相対性の宇宙が始まり、やがて、さらなる分裂により、物質-身体から物事を意識し考えるようになっている状態が現実になり、今もそのように見える状態を、私たちは当然のことだと信じるようになります。 神の子が生み出した「分離を信じる心」は、源から発する創造(想像)力があるので、この世界の瞬間において、自らを時間と空間の中に意識として分割させる-不可能を可能にする-芸当をやってのけます。 源と光しか存在しない世界(天国)を、 光から離れることができると信じ、 源と違う世界を自分が作り出せると夢見たために、 源への罪悪感という暗闇に覆われながら・・・ 源を忘れた光は、光に不安と恐れという陰影をつけ加え、映し出し、 さらにその映像の中の無数の点に意識として入り込むことによって まるで源から逃れるように 自らの真実を覆い隠し、それを恐れながらも 自らの火遊び-物語-を 源から逃れるように継続させようとします。 そのゲームを終わらせることは、自我の消滅を意味するため・・・ 「奇跡のコース」とヴェーダーンタ哲学との違いは、 心によって現れているようにみえる変化する宇宙としての現実は 完全に神の子がつくりだした「夢」であるとし、 そのままですでに完全であり、決して変わることのない 存在の状態を「神=霊=愛=知識」と定義し、 それ以外のものは、すべて神の御心(ハート)から 分離したと信じる心(マインド)によってつくり出された夢であり、 分離が存在する考え(この世、あの世、次元)のすべては、 神の現実において幻想であり、存在しないと考えます。 この変化しない状態にこそ-真実があり、 そのような思考体系から、 今ここに見えるすべての世界を見直す生き方をするとき 私たちは「自己の偉大な真実」と出会うことができるとしています。 最近は、「自分探し」という言葉が定着しつつありますが、 この「自分探しの旅」の終焉は、 「自己認識」「解脱」「悟り」であり 私たちは本質的に夢のすべてをすでに体験(記憶)し、知っていて 夢を追う必要のない自己-何を選ぶ必要もない自己-が 今ここにも存在することに気づくことだと思います。 ここでの現実、J-POPの世界でも(今でも大好きですが-笑) ひたすら「夢」を追うことに焦点をあて それが当然のこととされていますが、 真の現実の話をすると「夢から覚め、物語が継続しない」ので、 興ざめしてしまうかもしれません。 しかし、自我による自分の外側に幸せがあると見せる世界の中で そのような考えの帰結が何を意味するのかに気づくとき また、自分の見ている外側の世界のすべてが 自分自身によって創り出された夢の世界だと知ったとき、 それを終わらせるか、継続させないかについても、 自分次第ということになります。 この世界が、自らの宇宙的なマインドによって 想像されたことに気づかないままでいるなら、 身体の視点から見る世界の実体が、 幸福を今すぐに感じさせないように、 幸せを求めている間中、 時間によってコマ送りの映像を見るように、 幸せを実感するまで、小出しにされ割り振られていることに 気づかないと思います。 ここでの幸せは、 「快楽(アメ)」は「苦痛(ムチ)」の報酬として存在し、 時の中で、幸せになるために努力し続けなければならない というシステムが当然とされ、そのような考えに疑問を感じつつも 死ぬまで走り続けるように仕向けられています。 それが、今、身体としての私にできる最高の生き方であり、 それ以外に方法はないのだからということを信じていると思います。 なぜなら、私たちは身体でしかないのだから・・・と。 この世界の法則の中では、夢が成就しても、しなくても・・・ 次の夢、また次の夢、またその次の夢と 永遠に夢を見ることが当然のことだと考えられています。 しかしながら、過去世、とか来世と呼ばれる「輪廻転生」システムのように それらが、単に別の夢への移行であり、そのすべてが夢の設定と 登場人物が変わったように見えるシステムであることに気づくなら、 このような形の中での幸福の追求が、 自らの真の故郷-至福-を先延ばしに続け、 時空間の中での限られた一時の存在として、 自らが創り出した幻想宇宙の中で自らを縛り続けることになる という帰結を見いだすことでしょう。 そして、その儚さに、胸が苦しくなり、 自分という存在は、自らの真実を忘れ、 ハートが完全でないため いつもポッカリと穴があいている状態であることに いつか気づくと思います。 マインドの夢-欲望は、 愛の偶像として存在するように見える 何らかの形を求め続けます。 しかし、マインドが本当に求めているのは、 自分が失ったと信じている完全な自己の記憶である 「愛(ハート-御心)」なのです。 私は、このような考えが真実であり、 誰もがこの帰巣本能を持っているがゆえに、 いつかは誰もが、 その最も自然なあり方を目指すようになると考えています。
2009.06.29
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マハラジ ジャナカ王は、あるとき彼が乞食になった夢を見た。目覚めたとき、彼のグルであるヴァーシシュタに尋ねた。「私は乞食になった夢を見ている王でしょうか、あるいは王になった夢を見ている乞食なのでしょうか?」 グルは答えた。 「あなたはそのどちらでもない。 あなたはその両方だ。 あなたは在る。 だが、あなたが考えているあなたではない。 あなたはそのように在る。 なぜなら、あなたはそれにしたがってふるまっているからだ。 あなたはそれではない。 なぜなら、それは永遠に続かないからだ。 あなたは永遠に王や乞食として在ることができるだろうか? すべては変わっていかなければならない。 あなたは変わらないものだ。 そのあなたはとは何か?」 ジャナカは言った。 「そのとおりです。 私は王でも乞食でもありません。私は覚めた観照者です。」 グルは言った。 「あなたが普通の人々とは異なる、 より優れたジニャーニだという考え、 これがあなたの最後の幻想だ。 またしても、あなたはマインドと自己同一化したのだ。 この場合、正しい処し方であり、あらゆる面で模範となれるマインドである。 だが、ほんのわずかでも違いを見るかぎりは、あなたは実在の局外者なのだ。 あなたはマインドのレベルにいる。 『私は私自身だ』が去ったとき、 『私はすべてだ』が現れる。 『私はすべてだ』が去るとき、 『私は在る』が来る。 『私は在る』さえ去ったとき、 ただ実在だけが在る。 そして、そのなかですべての 『私は在る』は維持され、栄光を与えられるのだ。 分離のない多様性、それこそマインドが触れることのできる究極なのだ。 その彼方では、すべての活動がやむ。 なぜなら、そのなかですべての目的地は到達され、すべての目的は果たされるからだ。」 質問者 ひとたび、至高の状態が到達されたら、それは他者と分かちあうことができるでしょうか? マハラジ 至高の状態は、普遍の今、ここに在るものだ。すべての人がすでにそのなかで分かちあっている。それは存在の、知ることと愛することの状態だ。誰が存在することを愛さないというのだろう、あるいは自らの存在を知らないというのだろうか? しかし、私たちはこの意識的存在の喜びを利用しない。私たちはその中に入り、それとは異質なものすべてを浄化しようとしない。この精神的な自己浄化、精神の浄化は本質的なものだ。 目に入ったゴミが炎症を引き起こし世界を視界から消し去るように、「私は身体-精神だ」という誤った観念は利己的関心を生み出し、宇宙を覆い隠す。 限定された存在と分離された個人という感覚と闘うことは、その根本を取り去るまではムダなことだ。利己主義は自己の誤った観念のなかに根づいている。探究とはマインドの浄化なのだ。 49マインドが不安の原因だ 「I AM THAT(私は在る)」ナチュラルスピリット刊からの抜粋。 ******************************** 以上の内容と関連する文献 「静寂の瞬間 ラマナ・マハリシとともに」ナチュラルスピリット刊からの抜粋。 ヴェーダーンタ哲学の要旨は 聖書の中のこの二つの言葉に包括される。 「*私は私であるものである」 「静かになりなさい。そして私は神だと知りなさい」 *出エジプト記第3章14節の中で、神は自らの名を「I AM THAT I AM 」という言葉でモーゼに啓示した。この言葉はヘブライ語では「エヘイェ・アシュル・エヘイェ」といい、「私は私であるもの」 “I am as I am” または「私は私であるもの」 “I am what I am” を意味している。) ******************************** ヴェーダーンタ哲学の 全旨は、 四つの言葉に凝縮することができる。 デーハム、身体。 ナーハム、身体ではない。 コーハム、私は誰か。 ソーハム、私は『それ』である。 最初に、なぜ身体が「私」ではないかが説明される。 もし「私は誰か」と探究するなら、 そのときあなたのハートの中で、 すべてに偏在する神アルナーチャラが 「*私は私であるものである」として輝き出すだろう。 ******************************** 解脱とは何か。 それはどこにあるのか。 そしてあなたは今どこにいるのか。 あなたと解脱の間にどれほどの距離があるというのか。 そこに到達する道があるというのだろうか。 まずあなた自身を見いだしなさい。 自分がどこにいるのかを見いだしなさい。 そうすれば、このような質問は起こらないだろう。 真我は到達しなければならないような、 どこか遠い所にあるのではない。 あなたは常に「それ」なのである。 ただあなた自身を非真我と自己同一視するという 習慣を棄て去らなければならないだけである。 すべての努力は、ただそのためだけにある。 ******************************** そして、「奇跡のコース」の教えが、上記の考えをさらにシンプルにしています。 その教えとは、「神(私)はある、それ以外はない・・・」としています。 上記のヴェーダーンタ哲学でも、観照者の状態をさらに超えて、 観照する者と観照される者との違いが完全になくなった状態を 「真我」としています。 この境地が、解脱であり、悟りを開くこと、 真の自己としてあることであり、 観照者と観照される者という区切り-分離が完全に消失したとき、 本来の状態に戻り、その自然な状態おいて、 思考の源-創造者-は、自らの創造-思考-をただ慈しみ、 由とし、それらのすべてを永遠に時を超えて愛します。 創造された思考は、創造する喜びを与えてくれた存在に感謝し それを愛し、その永遠性とすべてである自己を尊びます。 天上天下、唯我独尊 そのような状態を今ここで、完全に自覚するなら この世界が見せる現実-幻想から完全に自らを切り離すことができ、 それにより、心の平安と至福が達成されるとしています。 2へ続きます♪
2009.06.29
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私の目の前で 自我が何を見せたとしても やがてそれは 消え去るだけだ! だから、気持ちが自我の映写機によって 動揺しはじめる瞬間をとらえ、 その映像そのものを聖霊に預け続け、 一緒に、それを眺めよう・・・
2009.06.29
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今日は、3in1キネシオロジーを活用してセッションを行いました。 私の治療院では、主に「身体の問題」を解消することを目的に来院される方が多いのですが、私自身の充実感と喜びを感じるセッションは、精神・感情面でクライアントさんが自分自身の力を取り戻されている感覚を一緒に味わえるときに、無常の喜びを感じている自分がいることに気づかせてもらいました。 問題をもっている方が、自分自身で問題を解消していることに気づかれる瞬間、大きな、大きな喜びが顔色・雰囲気・表情の中に顕れます。 これは私にとっては、私という存在を与えることができた喜びにもなり、本当にハッピーな気持ちになります♪ 今までも、同じことをしていたんですが、全身全霊で一緒にいることを感じられるようになってきたことは、以前の私の中にはなかった、あるいは達成できていなかったように思います。 それは、以前のセッションではなんとなく「自分がまだ十分ではない、まだ与えきれていない」という気持ちが、セッション後によく起こり、クライアントさんは満面の笑みをもって喜んで店を出ていかれた状態であっても、「自分自身がこんなのではだめだ・・・」と感じていたことが多かったからです。 でも、今日はクライアントさんの問題と自分の問題が完全に一致し、本当に私自身もクライアントさんと一体になりながら、まるでお互いがお互いを助けるような感覚で、セッションが進んでいったように思います。 これは、クライアントさんの問題に対して、いつもどこか人ごとだと客観的に切り離して見ていた感覚だったり、「ファシリテーターとは自分自身がクライアントさんの問題に巻き込まれ、一緒に反応していはいけない」、「ファシリテーター自身が、その問題を事前に解消していなければならない」という強迫観念が私の心の中を支配していたことにあったんだ・・・ということに気づきました。 今日は「コミュニケーション」というテーマにおいて、本当にシンプルなあり方としての「お互いに手を取り合う、子供のように手をつなぐ」という感覚に近いものでした・・・ セッションのプロセスのなかで、問題が、クライアントさんの問題と私自身の問題も一緒だったことを、本当に気づかせてもらったのが今回のセッションでした。 この感覚が顕れた自分と以前の自分をもういちど、よく聖霊と見つめなおし、それをしっかりと自分自身の気づきとして定着させたいと感じています♪
2009.06.25
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スピリット(霊=真我=源=実在)としての存在は、ただあり・・・ 私たちが、Holy Spirit (聖霊-本来の自己-神の記憶-神と今も共にある本来の思考) と共にあるとき、 身体として今もあるようにみえる私-自分-個人を 無に帰すことができる。 また、そのようにあるとき、 他人と呼ばれる -相対するもう一人の私 -別の物語を演じている意識と心- とよりそい、ただ共にあり、 ホーリー・スピリットとして応じるとき、 もう一人の私である意識と心に 私たちの真実-ホーリー・スピリットを 思い出させる役割を果たすことができる。 ホーリー・スピリットは、身体と心の世界には決して属してはいない・・・ それゆえ、そこにある世界の一切から離れて それを夢-無-幻想として見ることができる。 ホーリー・スピリットは、 この世界の中で考えられた、どのような考えの中にもなく 信じられている概念-信念体系の枠組みのすべてが 偽り-錯覚-仮想現実であることを知っている。 スピリットは、 ただあらゆる思考を生み出し、 与え続ける存在であることを喜びとし、 生み出されたすべてを祝福する。 それゆえ、 心によって生み出されたように見える 相対性の宇宙のもとになった概念-象徴(時間)と 心がさらに分裂し続け、各個人の意識となり、 身体から自らの内側を見ようとする 物質宇宙-言葉-象徴によって表現された 投影の世界(空間)に対して その中に見える どのような考えにも反応することなく そのすべてを愛-真実-キリストの表現として見ている。 私たちは、 そのように今もある自己に ただ気づくだけで 何も為すことなく やがてすべてを成すようになるだろう・・・ それが私たちの真実だから・・・ 神の教師は、 自らの完全性とひとつになり その完成を迎えた瞬間 そのような存在として 生きることを 喜びのうちに 身体を喜んで手放すときまで この世界に存在し、 たくさんのもう一人の私(意識と心)を 批判せず、その誰とも争うことなく ただ存在を祝福し、真実を話し 喜びのうちに この世界の奥に今もある真の現実へと 戻っていく ******************************** 今の私自身を正直に見つめたとき、スピリットとしての自己から離れている時間をさまよっていることが多いです・・・ でも、そこへ思いをはせるとき、それがどのような状態であるかをホーリースピリットが今私がわかる範囲の言葉というシンボルの中で精一杯教えてくれているように感じます。 いずれにせよ、つねに他者そして外側の世界ではなく、それを見て、感じている私自身の心と意識に戻し続け、そのなかで映し出される問題-愛の欠如-に焦点を定めるとき、すべては私自身の問題であることに気づきます。 私はいまだ何も為さずして為す境地に達していません。 ですが、そのような状態に入るためには、どんな時でも内側を見続け、ホーリースピリットと一つになり出来事を見つめることによって、真の赦しが為されることがわかりつつあります。 いずれにしろ、自らの外側にも真実を見ることを選び、さらに内側に入り真実を見続ける体験を重なることで、ホーリースピリットを信頼することから、信じる必要のない状態へと導かれ、本当の意味で、「何も為さずして為す境地」へと至る・・・ゴールが見えてきたように感じています♪
2009.06.20
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ミクシィ2009年06月10日の日記********************************* 私たちの世界って、ほんと・・・ ある映画のなかのコマ送りのフィルムみたいだなぁ~と 昨日、ふと感じました♪ たとえば、何かを欲しいと思うのは、 すでにある映画の結末までも無意識では理解しているために 無性にそれを求めたり、 あるいは、過去に欲しかった記憶の中で 欲しかったものが得られなかったので 無性にそれをゲットしたくなる・・・ でも、今の自分では欲しいものがあることだけはわかるけれど それをどうやって手に入れてよいのかがわからず イライラしてしまう・・・ でも、それを手に入れた状態について それを手に入れたなら、きっと幸せになれるはずだ・・・ というイメージはすでにあります。 そして、そのイメージに基づき それがどうやったら手に入るかを 一瞬一瞬、映画の場面-登場人物-配役を決め さらに身体としての自分をそこに入れ込み コマ送りしながら、それをいつか手に入れることができる時 -きっと幸せになれる未来(早送りされた映像)- を見ようとします。 私たちは、身体から世界を眺めている時は 時間のながれの中において まさにコマ送りの映像の世界の中を生きているようです・・・ 私は、このような構図と仕組みは、 人間が何かを欲する動機であり、 誰もが無意識の中で、共通して行っていることだと考えています。 ここで問題になるのは・・・ 人や物を自分が望んでいるかのように見えることだと思います。 また、それを得られなければ幸せになれないという気分も 自分には力がない-無力である、という気持ちを起こさせたり 今の自分は幸せではないし、幸せを今このときに感じさせないための 罠であるとも思います。 何かを欲すること、 もちろん、その欲望が決して悪いわけではありません。 でも、欲しい人・もの・何かの正体とは何だろうか? と、さらに深く入っていくと その正体は、 それを自分の近くにおき、コントロールしたい、 自分のモノにしたい・・・ という気持ちがあることに気づきます。 そうなれば、きっと幸せになれるはずだ・・・ というのがそれに続く気持ちだと思います。 仮に意中の人と親しくなることができ、 肉体面でも親密な関係が得られたとします。 でもその後、この幸せがいつまで続くのだろう・・・ と今度はその幸せを失う恐れがやってくるでしょう・・・ また大金を手に入れたとします・・・ そのときも、それを失う恐れがやってくるでしょう・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、願いが叶って幸せになれたはずなのに 願いが叶ったと思った瞬間から、 それを失う恐れがやってきます・・・ このように、物質を基準とする幸せのすべては、 それが叶わないと感じている間も、願いが叶った後も 幸せは通り過ぎていくような気持ちにさせられる 要因が存在し続ける仕組みがあると思います。 ここで、物質をもとにしない幸せについて考えてみましょう。 というか、幸せというのは実は最初から 目には見えない自分の気持ちを埋めよう-満たそうとすることを 目的にしていることに気づくと思います。 だとしたら・・・ 自分を満たす・幸せにする何かとは? それは自らの中に欠けている-ない と信じている何かということになると思います。 自分を満たす-幸せ・・・その正体は 愛-自らの完全性ということができる と私は思い感じます。 コマ送り映像に話を戻すと その物語のなか-人生というコマ送りの映像のなかで 私たちがいつも求め、探していた何かとは どんな物語があったとしても そこに見つけようとしていたのは 「愛」であり、「自己の完全さ」 ということができると思います。 自我の映写機は、人の生涯を無意識のなかで それこそ無数のバージョンで、 物語が時間の中で、永遠に続くよう 何人もの物語を映写し続けます。 その物語は、ハッピーエンドもあるにはありますが・・・ つねに幸せは、あなたとは離れた別の所にある 誰かや何かが与えてくれるものだ・・・というような 夢を見せ続けることによって、 それを継続させる仕組みがあります。 誰しも幸せになりたい・・・という気持ちがあります! ただ、この物語のなかでも イメージの中でそれを得たところまで想像し、 それを得た後についても想像し続けると そのイメージは空虚さ-夢-無-分離が見せる幻想であり つねに、今ここにおける 自らの完全性を隠そうとしている アメ(快楽)-ムチ(苦痛)の罠があることに気づきます。 マインド(心)の世界は、 今ここでの幸せを先延ばしさせることが目的である・・・ という仕組み、そのものなのかもしれません。 では、どうすればいいのか? その映画-物語から離れ、 その行く末を聖霊と共に見つめ続けるように見るなら その奥にある もう一つの何かがあることに気づくと思います。 愛 自らの真実 自らの完全性 つまるところ、すべての物語の結末は 愛へと向かっている、ということ・・・ それを今、ここで 聖霊の助けを借りて見ることができるなら 物語に心を奪われることなく 自分自身そして、すべてに点在する もう一人の自分の奏でるすべての物語を やさしく愛のなかで見守ることができるように思います♪ God is
2009.06.19
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質問者 どうか聞いてください。私はあなたのもとへ来たのです。なぜなら、私は困っているからです。私は理解することのできない世界のなかの迷える魂なのです。私は、成長し、子供をつくり、そして死ぬように私に求める母なる自然を恐れています。私がこれらすべての意味や目的について尋ねても、彼女は答えないのです。私はあなたのもとに来ました。なぜなら、あなたは親切で賢明だと聞いてきたからです。 あなたは変化するものは偽りで一時的なものだと言い、それは私にも理解できます。しかし、あなたが不変なるものについて語ると、迷ってしまうのです。「これではない、あれでもない。知識を超えた無益なもの」-では、いったいなぜそれについて話すのでしょう? それは存在するのでしょうか、それともただの概念なのでしょうか、変化するものに対する、ただの反対の言葉なのでしょうか? マハラジ それは在る。それのみが在るのだ。だが、砂漠のなかで喉の渇きで死にそうな夢を見ているあなたにとって、ベッド脇の水が何の役にも立たないように、現在のあなたの状態では、それが役に立つことはないだろう。夢が何であれ、私はあなたを夢から覚まそうとしているのだ。 質問者 どうか私が夢を見ていて、すぐにも目覚めるなどと言わないでください。もしそうであるなら、そうあってほしいところです。しかし、私は目覚めていて、苦痛のなかにいるのです。あなたは苦痛のない状態について話します。しかし、現在の私の状態ではそれを得ることはできないとあなたはつけ加えるのです。これでは当惑するばかりです。 マハラジ とどまってはいけない。私はただ、不変なるものと至福に満ちたものへのあなたの執着を放棄しなければならない言っているだけだ。あなたは、あなた自身の幸福に関心がある。そして私は、そんなものはないと言っているのだ。幸福は決してあなた自身のものではない。それは「私」がないときにあるのだ。私はそれがあなたの手に届かないところにあると言っているのではない。あなたはただ、あなた自身の彼方に手を差し出さなければならないのだ。そうすればそれを見いだすだろう。 質問者 もし私が私自身を超えていかなければならないなら、なぜはじめから「私は在る」という観念を得たのでしょうか? マハラジ マインドは円を描くために、中心を必要とする。円は大きく成長していくだろう。そして大きくなるたびに「私は在る」には変化があるだろう。自分自身を制御するヨーギは螺旋を描いていく。しかもいかに螺旋が広大でも中心は動かない。この企て全体が偽りとして見られ、放棄される日がやがてやってくる。中心点は消え、宇宙が中心となるのだ。 質問者 そうなのかもしれません。しかし、私は今、どうすればいいのでしょうか? マハラジ たゆみなくあなたの変化し続ける人生を見守りなさい。あなたの行為を超えた動機のなかを深く綿密に探って行きなさい。そうすればあなたは、じきにあなたを閉じ込めていた泡を突き刺すことだろう。ヒヨコは成長のために殻を必要とする。だが、殻が破られなければならない日が来る。もしそうでなければ苦しみと死がやってくるだろう。 質問者 つまり、もしヨーガに没頭しなければ、私は消滅するように運命づけられているということでしょうか? マハラジ あなたを救いにグルが現れるだろう。それまでは、あなたの人生の流れを見守ることで満足しなさい。もしあなたの注意深さが深く、揺るぎなく、つねに源に向いているなら、それは徐々に上昇し、突然それが源になるのだ。マインドではなく、気づき(聖霊)に仕事をまかせなさい。マインドはこの仕事に適した道具ではないのだ。永遠は永遠によってのみ到達できる。あなたの身体とマインドはともに時間に支配されている。ただ気づきだけが時間を超えている。それは今でさえ超えているのだ。気づきのなかで、あなたは事実に直面する。実在は事実を好むのだ。 質問者 あなたはグルや神ではなく、完全に私の気づきが仕事を引き受けると期待しているのですか? マハラジ 神はあなたに身体とマインドを与え、それらの使い道を示したのだ。だが、源への帰り着くのはあなたの仕事だ。 質問者 神が私を創造したのです。彼が私の面倒を見てくれるでしょう。 マハラジ そこには無数の神々が、それぞれ彼らの宇宙のなかにいる。彼らは永遠に創造し、再創造している。あなたは彼らが救いの手をさしのべるのを待っているのかね? 解放に必要なことは、すでにあなたの手の届くところにあるのだ。それを使いなさい。あなたの知っていることを、その果てまで調べるがいい。そうすれば、あなたは存在の未知の層に達するだろう。さらに進んでいきなさい。すると、あなたのなかで予期せぬ爆発が起こる。そしてすべてを粉砕し尽くすだろう。 質問者 それは死を意味するのでしょうか? マハラジ それは、ついに生を意味するのだ。 「I AM THAT(私は在る)*ナチュラルスピリット刊*P458」からの抜粋。 *グル(師)についての補足 質問者 グル(師)とは誰でしょうか、そして至高のグルとは誰でしょうか? マハラジ あなたの意識のなかで起こることすべてがあなたのグルなのだ。そしてその意識を超えた純粋な覚醒が至高のグルだ。 86-P459 ******************************** 後半部の「そこには無数の神々が、それぞれ彼らの宇宙のなかにいる」は、一つの心が見せる幻想の神々を意味すると思います。 言葉による表現は、その文脈全体から判断する必要性が生じます。一つ一つの言葉にとらわれず、ある言葉につまずいたら、いったん本を閉じ、その奥へと入っていくと、ふとその言葉の真意が理解される状態を私はよく感じます。 またこの本を読んでいるとよく感じるのが、マハラジさんと質問者という構成になっていますが、私がこの本を自分自身のために著し、一人でマハラジさんと質問者の役をしているような感覚に入っていきます。 これはACIMを学んでいるときにも、何度も感じました。本とか人とかではなく、そのなかへ、その奥へ、たった一人しかいない自己へと入っていくとき、それはまさに自分が自分自身のために用意したプロセスである、最近よくそのような気持ちになります♪
2009.06.18
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ミクシィ2009年06月08日の日記*********************************85「私は在る」-すべての体験の根底 質問者 私は、あなたが自分自身に関して「私は永遠で、属性を超えた不変なるものだ」と言われるのを聞きました。いったいどのようにしてそれを知るのでしょうか? 何があなたにそう言わせるのでしょうか? マハラジ 私はただ「私は在る」が現れる前の状態を描写しようと試みているだけだ。だが、マインド(言葉とイメージでできている)とその言葉を超えたその状態自体は描写は不可能なものだ。 質問者 「私は在る」はすべての体験の根底です。あなたが描写しようと試みていることも、限定された一時的な一つの体験に違いありません。あなたはあなた自身が不変なるものだと話しています。私はその言葉の音を聞き、辞書の意味を思い起こしますが、不変の存在を体験したことはないのです。どうすれば私は障壁を打ち破り、不変として在ることの意味を個人的に、親密に知ることができるのでしょうか? マハラジ 言葉そのものが橋なのだ。それを覚えておきなさい。それについて考えなさい。それを探索しなさい。それとともに在りなさい。それをあらゆる方向から見なさい。誠実な忍耐とともにそのなかに飛び込みなさい。すべての遅れや失望に耐えなさい。突然、マインドが言葉から離れ、言葉を超えた実在に向かって振り返るまで。それは名前だけ知っている人を探し出すようなものだ。あなたの探究が、あなたに彼との出会いをもたらす日がやってくる。そして名前は実在のものとなるのだ。 言葉には価値がある。なぜなら言葉とその意味との間にはきずながあり、もしたゆみなく調べれば、人は概念を超え、その根本にある体験のなかへと入っていくからだ。実際には、そのように言葉を超えていこうとくり返し試みることが、瞑想と呼ばれるものなのだ。 サーダナ(修練)とは言葉(身体-左脳的-物質-媒体-言葉-象徴)から非言語(心-右脳的-イメージ-投影-概念-象徴/心は、真実から生み出されたイデアをいろいろな映像にしたてあげる作業を行う)へと超えていく執拗な試みにほかならない。その仕事は絶望的に見える。突然、すべてが明らかで、シンプルで、すばらしく、たやすいものとなるときまで。だが、現在の生き方に関心がある限り、あなたは未知へと飛び込む最後の機会を前にしておじけづいてしまうだろう。 あきやん註:言葉、非言語について()に書いた解釈は、私のなかで現在ピンとくる言葉として補足したものです。 質問者 なぜ未知なるものが私に興味を起こさせるというのでしょうか? 未知が何の役に立つというのでしょうか? マハラジ まったく何の役にも立ちはしない。だが、何があなたを既知の狭い領域のなかに閉じ込めているのかを知ることは価値あることだ。あなたを未知へと連れ出すのは、完全で正確な既知の知識なのだ。それを有用や有益といった条件で考えることはできない。静かで冷静に在り、すべての利己的な領域を超え、すべての自己中心的な考えを超えることは解放のための避けることのできない条件だ。あなたはそれを死と呼ぶかもしれない。私にとって、それはもっとも意味深く、強烈な生き方だ。なぜなら、私はその完全性と全体性において生命とひとつだからだ。強烈さ、意味深さ、そして調和。これ以上何を求めるというのだろうか? 質問者 もちろん、それ以上何一つ必要ありません。しかし、あなたは可知なるものについて語っています。 マハラジ 不可知なるものについて語ることができるのは沈黙だけだ。マインドは知っていることについてしか語れないのだ。もしあなたがたゆまず可知なるものを調べるなら、それは消え去り、不可知なるもののみが残る(あきやん註:無知の知と同じありかたですね!)。 だが、想像と興味のかすかなゆらめきが不可知なるものを隠してしまう。そして既知なるものが前面に現れるのだ。既知なるもの、変化するものは、あなたが共に生きているものだ。不変なるものは、あなたにとって何の役にも立ちはしない。あなたが変化するものに飽き果てて、不変なるものを熱望するときだけ、マインドのレベルから見たとき空や暗闇として描写できるものへと方向転換し、踏み込む用意ができたのだ。なぜならマインドは内容と多様性を求めるからだ。一方、実在とはマインドにとって内容物のない不変なるものなのだ。 質問者 私にとってそれは死のように見えます。 マハラジ そうだ。それはまたすべてに浸透し、すべてを征服した、言葉を超える強烈なものだ。普通の脳では、粉砕されずにそれに耐えることはできない。それゆえ、サーダナが絶対的に必要なのだ。身体の純粋さ、マインドの明晰性、非暴力、そして非利己的な人生は、知的、霊的な存在としての存続に欠かせないのだ。 質問者 実在のなかに存在はあるのでしょうか? マハラジ アイデンティティは実在だ。実在がアイデンティティなのだ。実在とは無形の集合や無言の混沌ではない。それは強力で、気づいていて、至福に満ちてる。それと比べれば、あなたの人生など太陽に対するロウソクのようなものだ。 質問者 神と師の恩寵によって、あなたはすべての欲望と恐れを失い、不動の状態に到達しました。私の質問は単純です。どうやってあなたの状態が不動のものだと知るのでしょうか? マハラジ ただ変化するものについてだけが考えられ、語ることができるのだ。不変なるものは、沈黙のなかでだけ認識されることができる。ひとたび真我が実現されたなら、それは変化するものに深く影響を与え、しかもそれ自体は変化しないまま残るのだ。 質問者 あなたが観照者だということをどうやって知るのでしょうか? マハラジ 私は知らない、私は在るのだ。私は在る、なぜなら在るためにはすべてが観照されなければならないからだ。 質問者 聞き伝えによっても、存在は受け入れられます。 マハラジ ついにあなたは直接、観照者が必要とされる地点に来たのだ。観照は、もし個人的で実際的でないなら、少なくとも可能であり実行できるものでなければならない。直接的な体験が最終的な証明だ。 質問者 体験は不完全であり、誤りに導きます。 マハラジ そのとおりだ。だが、体験の事実がではない。体験が何であれ、真実であろうと偽りであろうと、体験が起こったという事実は否定できない。それはそれ自体の証明なのだ。 あなた自身を念入りに見てみなさい。そうすれば意識の内容が何であれ、観照することはその内容物に依存しないことがわかるだろう。気づきはそれ自体で在り、出来事とともに変化することはない。出来事は快いもの、あるいは不快なものかもしれない。重要なもの、あるいは重要でないものかもしれないが、気づきは同じままだ。純粋な気づきの固有の本質である、自己意識の痕跡のまったくない自然な自己のアイデンティティに気づきなさい。そしてその核心まで行くがいい。するとあなたはすぐに気づきがあなたの真の本性だと自覚することだろう。あなたが気づくことは、何一つあなたのものと呼ぶことはできないのだ。 質問者 意識とその内容物はひとつであり、同じものではないのでしょうか? マハラジ 意識は空に浮かぶ雲のようなものだ。そして雨の水滴がその内容物なのだ。雲が見えるためには、太陽が必要だ。そして意識は気づきのなかで焦点を合わせられる必要があるのだ。 質問者 気づきは意識の一形態ではないのでしょうか? マハラジ 意識の内容が好き嫌いなしに見られたとき、その意識が気づきなのだ。だが、意識の中に反映された気づきと、意識を超えた純粋な気づきとには違いがある。反映された気づき、「私は気づいている」という感覚は観照者だ。一方、純粋な気づきは実在の本質なのだ。水滴のなかの太陽の反映は、確かに太陽の反映だ。だが、太陽そのものではない。観照者として意識のなかに反映された気づきと、純粋な気づきとの間にはギャップがある。マインドはそれを超えることができないのだ。 質問者 それはあなたの見方によるのではないでしょうか? マインド(心)は違いがあると言い、ハート(御心)はないと言うのです。 マハラジ もちろん、そこに違いはない。実在は非実在のなかに実在を見るのだ。非実在をつくりだすのはマインドであり、偽りを偽りとして見るのもマインドなのだ。 質問者 偽りを偽りとして見た後に、実在の体験が続くことは理解しています。 マハラジ 実在の体験というようなものはない。実在は体験を超えているのだ。すべての体験はマインドのなかにある。実在として在ることで、あなたは実在を知るのだ。 質問者 もし実在がマインドも言葉も超えているのなら、なぜそれほどまでにそれについて語るのでしょうか? マハラジ もちろん、その喜びのためだ。実在とは至高の至福だ。それについて語ることさえ幸福なのだ。 質問者 あなたは揺らぐことのない至福について語っていますが、それについて語るとき、何をあなたは想っているのでしょうか? マハラジ 私のマインドのなかには何もない。あなたが言葉を聞くように、私もそれらを聞くのだ。すべてを起こらせる力が、それをも起こさせるのだ。 質問者 しかし、話しているのは、私ではなくあなたです。 マハラジ それはあなたにとってそう見えるのだ。私が見るには、二つの「身体-精神」が象徴的な雑音を交換しているだけだ。実際には、何も起こっていない。 ******************************** 悟りという自己についての探究をしていてわかることは、それを得ようとするなら、この世界の中でくり返される「幸-不幸」にとらわれることをやめなければなりません。 そして、それはこの世界で幸せな夢を見ることではなく、この世界の概念のすべてを捨てて超えていくことにあるため、この世界のなかでの金銭的な成功やより多くを勝ち取るものが勝者という考えとは、真逆とも言うべき状態を目指すことになります。 それは、幸せになるために何かをつけ加えて行く道ではなく、身体の必要性をなくして行く道です。身体の必要性を超え、さらに心が生み出す幻想・夢・無をも超えて道(未知)そのものを消滅させ、真実と共にあることにあります。 ではなぜ人はそれを目指そうとするのでしょうか? たぶん、それは誰の心の奥に今も光輝く内なる完全性がそれを求めるから・・・ 私はそう感じています♪
2009.06.17
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ミクシィ-2009年6月9日の日記より********************************* 昨日は、ヴィジョン心理学の「ラブパック・セラピーカード」で少し遊んでました♪ 今、思えばこのカードを買おうと思っていた当時は、 「もう恋愛とか、なんとか、そんなの必要ないよなぁ~」 と思っていました。 「でも、キネシオロジーで活用できるから買っとこ!」 ってなノリでした。 で、そのカードは全部で84枚のカードがあり、愛の特性を示すカードが42枚、問題のカードも42枚あります。 愛の特性を示すカードは、「癒し」「幸運」「恩恵」のカードで構成され、問題のカードのすべては「恋愛や人間関係の妨げを象徴。愛をせきとめているものが何かを知ることで状況を変える」ということを知るためだけにあるようです。 このカードを使い始めたときに気づいたことは、「ああ、この世界の中に見える問題のすべては、愛情に関する問題なんだ!」ということがわかりました。 そして、カードが映し出す暗い側面のすべては、人間として生きてきたことで生まれた「暗い自画像・自我像・自我イメージ」つまり、真の自己を生きられないことで生まれた無意識の葛藤であり、自己非難と自己憎悪、そして罪悪感の世界を描いていることもわかりました。 また、カードの明るい側面のすべては、人間として生きている間にも記憶されている愛の記憶であり、真の自己の特性を示す言葉であることにも気づきました。 通常の占いでは、「自分の未来がどうとか、こうとか」ということに焦点をあてがちですが、このカードは、時間軸のあらゆる制限の中において、自分自身の「過去-現在-未来」に影響し続け、自らを幸せにさせないようにしている障害・ブロックだけに焦点をあてるようにできているようです。 ですから、すべての問題は、「ただ、愛の不在」であるという考えに基づいてできたカードだということが、セッションをくり返すうちに少しずつわかってきました。 愛の特性を示すカードは、時間軸の中に存在しているように見える「あらゆる問題・幻想・制限」であり、この世界を現実としたときに、他者との関係性や、自分とは違う何かがあることを信じることにより生まれた二次的・感情的なリアクション(反応)やプロジェクション(投影・映写・射影)を、この世界にありながらも、一つであることから行動しようとする本能-本来の自己(愛そのものとして存在する自己)に戻す働きがあります。 「愛情」というものも、身体のなかで表現される愛の一つの形であり、その反映ではありますが、「愛」の本質は、肉体的なリアクションを超えた存在の状態です。 愛のカードの特性は、この世界にありながら、今も生き生きと存在している一次的な自己であり、つねに主体、自己から始まります。 愛は、抽象的な言葉でしか表現することはできませんが、問題という分離によって生み出されたすべての幻想-二次的な客体・分離を信じることによって生じる精神・感情的な問題を打ち消し、「真のパワー」を取り戻す、あるいは思い出す方向性を与えてくれます。 このことに私が気づき始めたのは、「神の使者」を日記で紹介するようになり、そこに書かれている内容と、その時までに自分自身が学んできたこと、そしてあの体験との比較を通して理解が深まり、日常生活や仕事の中で試し続け、それが真実であることを確信して行きました。 愛の表現としての振る舞いと問題(幻想)の対比は、3in1キネシオロジーにおけるセッションの核として活用されている「THE BEHAVIORAL BAROMETER(振る舞いのバロメータ)」の中にも見ることができます。これも、ラブパックセラピー・カードと同じような考え方が含まれており、それを「意識-潜在意識-身体」という心の階層構造を段階的に見る仕組みになっています。 また私がこの理解に達する前に、とても参考になったチャートがあります。それはACIMのコミュニティで、ケネス・ワプニック博士がHPなどで公開してくださった内容を、コミュのメンバーが教えてくれたことによります。 最近では、マイミクのふうさんがその記事の全内容(ACIM THEORY)を訳し直してくれているので、そちらも参考になると思います♪ http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=43059976&comment_count=38&comm_id=3314973 このカードの作者であるチャック・スペザーノ博士は「奇跡のコース」を学んでおり、それと自分が学んできたものを融合させヴィジョン心理学という癒しの道を提供しています。私自身は、ACIMだけで十分だと思っていますが、コースに辿りつく前に、チャック博士の考え方を知ることができたので、よりコースの概念になじみやすかったと思っています。 今の心境において、このカードを使って気づいたことは、「愛と問題は共存できない!」ということです。 個人の中で「愛-真実」が現れたとき、「問題-分離-幻想」は消滅します。昔の認識では、「すべては愛に関する問題である」と理解していましたが、現在の私の理解としては、「愛と問題は、決して同時に存在することができない」ということです。 愛と問題(分離・幻想から生まれるあらゆる概念の総和)は、互いに相殺しあう、相反する思考体系であり、どちらかが現れるなら、どちらかが消えます。この世界の見方は、愛が分離によって隠されているのが普通なので、愛がかき消され見えなくなっているように見える状態だといえます。 しかしながら、意識が分離の概念を除外し続ける過程において、「愛-自らの真実-完全性」が顕れたなら、「問題-分離-不完全な自分という夢-幻想」は影でしかないので、それは存続できなくなり消え去る状態に入ります。 よくACIMを勉強していると、言葉の意味がよくわからない状態にぶちあたります。そのとき、学習者は「ふわぁ~」とめまいにも似た感覚や症状があらわれるので一時に不安定になることもあると思います。 私自身もコースのテキストを読んでいて、よくそれを体験しました。 でも、その体験は、意識より深い無意識のなかで、身体のなかに沈殿していたこの世界のでの観念・常識・囚われが溶けていくプロセスのようです。 人の身体が、病気から回復する過程において、痛みを感じないように交感神経(身体の興奮状態をつくりだす)の過剰に興奮した状態から、身体がそこから抜け出そうとする治癒反応として、副交感神経(身体をリラックス状態に導く)が優位になると、傷ついた組織を修復するために、「血管を開き、痛みを起こし、発熱させ」、不快感を伴うプロスタグランジンというホルモンが動員されます。 ほとんどの人が、この症状を病気が悪化したと考えてしまいがちになります。しかしながら、この状態は長期のストレスによる交感神経の過剰興奮を鎮め、その状態を回復させるためにある程度、必要な処置でもあります。なぜなら、交感神経が緊張した状態のままでは、痛みは感じにくくなりますが、副交感神経が優位に働くようにならないと問題は先送りされたままになり、やがてそれは本格的な病気へと結晶化してしまうので、その前に症状がなければ、それに意識は気づこうとしないからです。 ですから、ACIMを読んでいて起こる身体の不快感は、一種の治癒反応というか、自我によってつくり出された価値観の崩壊現象であり、ある意味で良い兆候と考えたほうがよいと私は考えています。 愛、それは、単なる人間として求め合う物質・肉体的な愛情という制限された枠の中にありません。ですから、真の自己の本質である愛は、それが表現された瞬間、物質そして時空の制限を超越します。 その瞬間、ここで見える分離が一時的、あるいは、それを思い出し続けることによって、愛する対象と溶けあい一つになろうとします。 人は本来の自己とひとつになり、時間を超えていく体験をすることを「奇跡」と呼びます。 肉体的なセックスによる一時的な状態の中にもそれは一瞬現れるといえます。しかしながら、その持続性は短く、お互いが身体から離れたとき、分離を感じ、儚い感覚が残りがちです。 身体を自分だと信じている限り、この世界で永遠に続くものなどない・・・という思いが必ずやってきます。なぜなら、身体そのものが意識に分離を信じこませる最大の障害であり、分離を維持するための手の込んだ装置(ブラック・ボックスあるいはブラック・ホールのようなもの)として働いているからです。 もっとも、身体を聖霊-真の自己のツールとして働かせるなら、それもまた、愛の表現として働かせることもできます。しかしながら、その前に自らが身体であるという信念を超えていく必要性があります。 うわぁ・・・また始まってしまった・・・ このような思いを言葉にし始めると、きりがありません・・・ 愛はすべてであるがゆえに、この世界の言葉をどれだけかき集めようと、各個人の体験を超えて、それを証明しようとするたびに、言葉は無力であることを感じます。 私がひとつである体験から探し続けていたことは、生活のなかで起こる苦悩に関し自問自答したり、本などで仮定されている霊・魂の概念などについて、キネシオロジーというボディ・ランゲージを読み取る技術を活用し検証したり、内省することによって、人の身体から生み出された「意識・潜在意識・身体」という心によって生み出された思考の世界が何をしているかを見つめ続けることでした。 おかげさまで、人の深層心理である「無意識」と「意識」-心の総体が何であるかをつかむこともできました。もっと正確にそれを表現するなら、もともと実体がなく存在しないものである「分離-無-夢の概念」あるいは「誤-創造」が、この世界で何をみせようとしているかについてであり、そのすべてがイリュージョンであることがわかったということです。 そして、今、もう言葉で表現することをあきらめる時期がやってきちゃったようです(笑) また、意識的に愛を気づこうとする限り、愛は分裂を信じる心の断片である意識を手放さなければ、それと共にあることができないことがわかりました。 意識を絶えず真の自己にゆだね続け、一瞬、一瞬を聖霊に捧げなければ自我の支配下から離れることができないということです。 偉大な哲学者ソクラテスが「自分が無知である(何も知らない)ことに気づくとき、愛を知る」というような言葉があります。ここにきて初めてその言葉の意味がわかりました。 この世界の中で身につけた知識は無意味であることを知り、それから離れ、その一切を放棄したとき、はじめて愛という意識では表現できない存在・真実が現れ、それを知る・・・ということ。 なんと大変な(笑)幸福なあり方を選んでしまったことか・・・♪
2009.06.16
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2009年6月4日の日記より********************************* ふと、マイミクの「○しくん」のところに遊びに行き、人間の耳で聞き取れる範囲の音についての実験(PCによる可聴周波数実験)を試してみました♪ http://www.geocities.jp/aquania_sky/rabo/01.html 「○しくん」、ぱくってごめんね(笑) で、私自身は15,000Hz(15kHz)までしか聞き取れませんでした♪ でも、それ以後の音を聴いてて気づいたこととしては、心臓にあたりに意識が移動し、身体全体が音に反応するような気分になりました。 個人的には、あんまり気持ちがよくなかったです・・・ とりあえず、なんでも(PLAY)ボタンを押してしまう悪いクセをなんとかしなくちゃね そのあと、いったん実験をやめ、外に出て、座り、目を閉じて、ある音(あとで気づいたのですが、正確には音ではなく、目を閉じて源を意識し、目を閉じた状態で見える暗闇のスクリーンをただ眺めるという言葉がより正確な表現です)に意識を集中していくことを意識していました。 源へ源へと意識を集中していくと、最初は、闇のなかに光る点が見えるような気分になり、それを通り抜けると光に入るような気分と安堵感がありました。 私は以前、明晰夢(幽体離脱的)の状態を4回ほど体験したことがあり、浅い睡眠状態で自分自身がベッドにいることを完全に自覚しながら、めまいのような状態に入り、不安になるより先に、どんどん身体がある一定の方向(最初は水平方向でした)に高速回転しだし、強烈な遠心力を感じた後、最後にある方向にふきとばされます。その状態をたとえるなら、まるで大気圏に突入し、それを突き抜けるような気分であり、それは不安より楽しさとかなりの快感を伴います(笑)。 その後は、ただある映像を見せられ、それが終わると、まるで映画が終わったように目が覚めて、「なんだったんだこれは・・・」となるわけです。 一番楽しかったのは3回目の体験で、吹き飛ばされたあと、ニューヨークがどこかわからないのですが、スーパーマンのように空を飛んでました(笑) 意識がその状態に完全に気づいているので、そこから見える景色の細部をよく観察することもできました。夢の状態にいながら目覚めているので、「この光景は、物質的な現実の中にいるときと比較し、どこまでリアルなのか?」を試している自分をも記憶しています。 そこでわかったことは、ほとんどこの世界で見ている状態と変わらないのと、それより若干軽い?(感覚がまったくないわけではなく、むしろ鮮明な)状態でした。その後、空を飛んでいる状態から、ある建物の屋根の上に降りたとき、それを確かめました。 そこから、「もう一回飛べるかな?」と思い、勇気をふるって屋根から跳んでみました。そうすると落下しながら、この状態に入る前の儀式のような高速回転のなかに入り、次のシーンに入っていくという状態を記憶しています。 残念ながら、その体験は意識的に起こせないようでして、ヘミシンク・シリーズをマイミクさんのご厚意により体験する機会もあったので、それを堪能させてもらいましたが、その現象は残念ながら起こりませんでした・・・いつもヘミシンクのある単元が、終わるまぎわに熟睡しちゃいますww でも楽しんでいれば、意識的にそうなれるかもしれないので、それをむりに起こさせようとせず、そのような「ツール・道具」をただ遊びのなかで探究しているうちに、そうなれるのかもしれません。 強烈なひとつである体験にしろ、このような非日常的な体験にしろ、それに執着してしまうと、逆にそれから遠ざかることがわかったので、今は、何も起こさせないで、ここで体験することのなかでの貴重な出会いにいつも心を開き続けるだけでいいと思っています♪ 話を「トンネルを抜ける」という話題に戻しますと・・・ 人は死を迎え、身体から意識が離れるとき、トンネルのようなものを通過するとどこかで聞いたことがあります。それはちょうど、今まで肉体として身につけたすべての知識が遠心分離器にかけられ、身体としての意識状態がリセットされる(反転・裏返される/身体が幻想で、心がその全貌を見せる)ような状態のことを示しているような気がしました。 この状態をしばらく楽しんでいて、ふと思ったことは、真の自己認識に至るまでに、暗闇の中で身につけ信じてきた概念のすべてがトンネル(ホール:穴)の先にもれ出し見えている一筋の光を通る過程で、いったん身体としての記憶を無に帰されるような気分になります。 人はこの状態に入ることを意識が危険(身体の記憶がなくなることを恐れる)を感じ、あるところでストップさせるようです。 でも、それを恐れず、聖霊の助けを借りて、自らの完全性・愛・源・神だけに意識を戻すことだけに集中していると、心の状態を見たり、またそれを超えた源とひとつになれる可能性はぐっと広がるような気がします♪ また、ひとつになろうとしなくても、聖霊にまかせるだけで、すでに完全である自己から始まることができるので、それにまかせておけば、まどろっこしい心の世界を一気に飛び越える体験へと導かれるかもしれません♪ あと自分で書いたことをふりかえり、もう一度試したりしていて、「どうも、意識的に気づいていたい」という願望があまりにも強かったことが大きな妨げとなっていたようです。 意識もその大元である心も、最初の(源・神からの)分離を消すことを徹底的に恐れ、回避します。まだ直感、あるいは感覚的な理解なのですが、これが私自身、ひとつである状態を起こさせないようにさせていることに今日、気がつきました。 ひとつである体験は、一つの心から再分裂し意識となっている状態を逆転・反転させるプロセスなのですが、意識が一つの心に融合し、さらに奥に入ろうとする時点で、「最初の分離」という境界線をなくすことを恐れるようです。ですから、それをたやすく超えるために、聖霊(=ハイヤーセルフ=真の自己)の助けを借り、そこへの完全な信頼を培っていくことが、自我が生み出す消滅・自分が無くなることへの恐れを回避し、完全にひとつに溶ける状態を自覚する最高の近道だと思います。
2009.06.13
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質問者 実際の修練において、私はどうすればいいのでしょうか? マハラジ いつであれ、欲望や恐れについての思考や感情がマインドに現れたときには、ただそれから注意をそむけなさい。 質問者 思考や感情を抑圧すれば、私は反動を誘発することになるでしょう。 マハラジ 私は抑圧について語ってはいない。ただ注意を払うことを拒みなさい。 質問者 マインドの動きを阻止するために努力するべきではありませんか? マハラジ それは努力とは何の関わりもない。ただ目をそむけ、思考そのものではなく、思考と思考の間をみなさい。群衆のなかを歩くとき、あなたは出会うすべての人と闘ったりしない。ただ、その合間に通る道を見いだすだけだ。 質問者 もし私が意志を用いてマインドを制御しようとすれば、それは自我を強めるだけです。 マハラジ もちろんだ。もし闘えば、あなたは闘いを招く。だが抵抗をやめれば、あなたは無関係なのだ。 質問者 私がマインドから自由になるには、どれくらいの時間がかかるのでしょうか? マハラジ それには千年の時がかかるかもしれない。だが、本当は時間は必要としないのだ。あなたに必要なのは、絶対的に真剣になることだ。ここでは意志が実行だ。もし真剣ならば、それはあなたのものだ。結局、それは態度の問題なのだ。今ここであなたがジニャーニ(知者)となることを、恐れ以外の何も妨げてはいない。あなたは非人格として在ること、あるいは非人格的存在を恐れているのだ。ことはまったくシンプルだ。欲望と恐れから、そしてそれらが生み出す想念から注意をそむけなさい。そうすれば、あなたは即座に自然な状態のなかに在るだろう。 質問者 マインドの修正や、変更や、消去といった問題はないのでしょうか? マハラジ 絶対にない。マインドは放っておきなさい。それだけだ。それについていってはならない。結局、あなたの法則ではなく、それ自体の法則にしたがって去来する想念を離れて、マインドというものは存在しないのだ。ただあなたが興味をもつために、マインドに支配されてしまうのだ。まさにキリストが「悪にはむかうことなかれ」と言ったごとくだ。悪に抵抗することで、単にあなたはそれを強調してしまう。 質問者 そうなのです。今、私は理解します。私のすべきことは、悪の存在を否定することだけなのです。そうすれば、それは消え去るでしょう。しかし、それではある種の自己暗示と同じになってしまいませんか? マハラジ 自己暗示は、あなたが善と悪の狭間に捕らわれ、あなた自身を個人と見なしている今、もっとも強力に作用しているではないか。私があなたに求めていることは、それをやめることだ。目を覚まし、ものごとをあるがままに見なさい。 あなたがスイスの奇妙な友人と滞在したことで、彼との交際を通してあなたは何を得たのだろうか? 質問者 まったく何も得てはいません。彼の体験は、私にまったく影響を与えませんでした。ひとつだけ私が理解したことは、そこには探究すべき何ものもないということです。私がどこへ行こうとも、旅の終わりに私を待ち受けているものは何もありません。発見は移動の結果ではないのです。 マハラジ そのとおりだ。あなたとは、得たり失ったりできるような何かからまったく離れたものなのだ。 72(純粋で、混じり気なく、帰属しないものが実在だ)P366 「I AM THAT(私は在る)*ナチュラルスピリット」からの抜粋。
2009.06.12
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この日記は、ミクシィで6月2日にわき上がってきた自分の思いに従い書いたものです♪*********************************すべての問題を解消する「解(真実)」はすでにあるけれど、 問題があるとするなら その「解(真実)」を感情的に拒絶することによって 問題(自我=疑い=夢)が存続する。 感情は、心が投影した外側の景色を事実だとし それによって生み出された二次的なリアクションであり、 それは劇中劇のなかで生み出した影の一つを自分だと錯覚し 意識が完全にそれに囚われている状態。 自己の本質は、身体でも心でもないので決して消滅しないが、 心によってうみだされた夢・物語のすべてである 身体を中心に組み立てられたすべての分離の概念は その消滅を恐れ、今この時という夢・幻想にしがみ続ける。 あなたが、この夢の世界を真に受けず それが完全に夢であることに気づくなら その影響力のいっさいを無に帰すことができる・・・ 夢を見せる自我に力を与えず、夢を静かに見つめ 夢が消えることを恐れないなら、 そのとき夢は消え、 私たちの真実がそこにただある God is ******************************** これは誰に言っているのでもなく、 ただ私が私自身に語りかけている言葉です。 その境界線を私自身が行き来しています・・・
2009.06.11
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この日記は、ミクシィにて6月1日に書いたものです♪********************************* 今日はある方をセッションしていて、私自身、 それによってまた気づかせて(思い出させて)もらいました♪ セッションをしていて、 この出来事のすべては、私自身が投影しているものを クライアントさんが私のためにわざわざ現れて(来て)くださり、 教えに来てくださっている・・・と、いつも思います♪ 最初にビジョン心理学のカードを活用しました。 HEALINGのカード-giving(差し出す) LUCKのカード-tenderness(優しさ) LUCKのカード-true love(真の愛) GRACEのカード-beauty(美) PROBLEMのカード-doubt(疑い) という5枚のカードが出ました。 私はカードを引いてもらった後、 その人自身にそのカードの意味を考えてもらうことにしています。 今日のクライアントさんの言葉で、 とても印象深かったことが、 上記の4枚のカードについて 「わからない」「わからない」と おっしゃられていたことです。 そして、その方はもちろん私も、 上記の4枚のカードが示す 神聖さ、愛の本質、真実の姿をただ否定し続け、 自らの真実を受け入れず 「疑い」を自分だと信じていることが問題なんだなぁ~ と気づかせてもらいました♪ 私も自我と共にあるときは、 いつも真実を否定してしまうので その方のお気持ちが痛いほどわかりました・・・ 私もわからないので、それをJに預けながらセッションを行い、 その流れに身を任せました。 真実と共にあるだけで、 あるいは 真実はそこにあるだけで癒される・・・ 待たなくても、今ここにすでにあり続ける というのは、本当ですね♪
2009.06.10
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「I AM THAT(私は在る)」今日やっとこさ331頁まで読めました・・・ この本は、私のなかで「非二元論」の教えと奇跡のコースが提唱する「純粋な非二元論」の教えとどこが具体的に違うのかを明確にしたいと思い読み始めました。 それらの違いについて、なんとなくつかめてきましたが、まだしっかりと理解できていないので、まずは一通り読み進めていこうと思います♪ 今日、感銘を受けた文章は ******************************** 質問者 私はここに来ることができて幸運でした。明日発たなければなりませんが、一度あなたと話をしたことが私の全人生に影響を及ぼすかもしれません。 マハラジ そうだ。ひとたびあなたが「真実を見いだしたい」と言ったなら、全人生はそれに深く影響を受けることになるのだ。あなたのすべての精神的、身体的習慣、感情と感覚、欲望と恐れ、計画と決定はもっとも革新的な変容を通り抜けることだろう。 質問者 ひとたび私が真実を見いだすことに心を定めたならば、つぎには何をするべきなのでしょうか? マハラジ それはあなたの気質によるのだ。もしあなたが真剣ならば、選んだ道がどれであれ、あなたを目的地へと連れて行くだろう。真剣さ、それが決定的な要因なのだ。 質問者 真剣さの源は何でしょうか? マハラジ 鳥を巣に帰らせ、魚を生まれた川へと帰り着かせる帰巣本能だ。果実が成熟したとき、種子は大地に返る。成熟がすべてなのだ。 質問者 では、何が私を成熟させるのでしょう? 体験が必要なのでしょうか? マハラジ あなたはすでに必要な体験をすべて得ている。そうでなければここには来なかっただろう。これ以上体験を積む必要はない。むしろ体験を超えていかなければならないのだ。あなたがいかなる努力をし、いかなる修練(サーダナ)にしたがおうとも、それは単により多くの体験を重ねるだけで、それを超えてはいかない。本を読むこともまた、あなたを助けはしないだろう。それらはあなたのマインドを豊かにはするだろう。だが、個人であるあなたは影響を受けないままだ。もし探究から物質的・精神的・霊的な何らかの恩恵を期待するなら、あなたは要点を外しているのだ。真理はいかなる利点もあなたに与えない。それはあなたにより高い地位も、他者に対するいかなる権力も与えはしない。あなたが得るのは真理、そして偽りからの自由だけだ。 質問者 真理は他者を助ける力をあなたに授けるに違いありません。 マハラジ たとえどんなに高尚であろうとも、それは単なる想像にすぎない! 真理においては、あなたは他者を助けたりしない。なぜなら他者というものは存在しないからだ。あなたが人々を高尚な人と程度の低い人と区別し、高尚な人に程度の低い人を助けるように頼むのだ。 あなたが分割し、判断し、評価し、非難するのだ。真理の名のもとに、あなたは真理を破壊してしまう。真理を公式化しようとするあなたの欲望そのものが、真理を否定するのだ。なぜなら、それは言葉のなかに包括できないものだからだ。真理は行為のなかで偽りを否定していくことによってだけ表現できる。 このために、あなたは偽りを偽りとして見なければならない。そしてそれを拒絶するのだ。偽りを放棄することが、解放と活力を与える。それは完成への道を切り開いてく。 質問者 真理を発見したことを、いつ知るのでしょうか? マハラジ 「これが真理だ」、「あれが真理だ」といった考えが起こらないときだ。真理が自らそれ自身を主張することはない。それは偽りを偽りとして見ることのなかにあるのだ。マインドが偽りによって盲目になっているとき、真理の探究はムダになってしまう。真理があなたに現れる前に、偽りは完全に浄化されなければならないのだ。 質問者 しかし、偽りとは何でしょうか? マハラジ 存在をもたないのは、間違いなく偽りだ。 質問者 存在をもたないとはどういう意味でしょう? 偽りは厳然とした事実です。 マハラジ それ自身で矛盾するものが、存在をもたないのだ。あるいはつかの間の存在しかもたないもの、どちらも同じことだ。なぜなら、始まりと終わりをもつものは、その間をもたないからだ。それは空っぽだ。それはマインドから与えられた名前と形はもっていても、実体も本質ももたないのだ。 質問者 もし過ぎ去っていくものすべてが存在をもたないとしたなら、宇宙もまた存在をもたないということです。 マハラジ 誰がそれを否定したんだろうか? もちろん、宇宙は存在をもっていない。 質問者 何が存在をもっているのでしょうか? マハラジ 存在に依存しないそれ、宇宙が現れるとともに現れることなく、宇宙が消え去ると共に消え去ることのないそれ、いかなる証明も必要とせず、しかし、それが触れるすべてのものに実在を分け与えるそれだ。一瞬間だけ、あたかも実在のように現れるのが偽りの本性なのだ。真実は偽りの父だとも言えるだろう。しかし、偽りは時間と空間に限定され、環境によって生まれるものなのだ。 質問者 どのようにして、私は偽りを取り除き、実在を確実にすればいいのでしょうか? マハラジ 何の目的のためにかね? 質問者 より良い、統合され、幸福な、より満足できる人生を生きるためです。 マハラジ 何であれ、マインドによって考えられたことは偽りに違いない。なぜなら、それは必ず相対的で限定的になるからだ。実在は人知の及ばないものであり、ある目的のために利用できるものではない。それはそれ自体のために求めなければならない。 質問者 人知の及ばないものを、どうやって私が望むことができるのでしょうか? マハラジ ほかに何か望む価値があるだろうか? ものを求めるように実在を求められないことは確かだ。しかし、あなたは偽りを偽りとして見て、それを放棄することができる。真実への道を開くのは偽りを放棄することだ。 66幸福へのすべての探究が不幸だ-P334 ********************************
2009.06.10
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「神の教師」「神の使者」という言葉、 これは単に言葉です。 「神の教師」にとって、そう呼ばれる必要のない状態の前の チャレンジ(挑戦は本来ないのですが、形を超えていくためにある 成熟過程においては、それを否定することはできないので)は、 その栄誉ある形の中での顕現すらも「無意味-幻想」なものとして 自己を見ることにあると思います。 その姿の本質とは、あくまで、この世界を現実として考えているときに 聖霊の顕現-投影の一時的な姿・シンボルであり役割にすぎません。 神の教師について、 別の言い方をするなら、 真の自己を選び続け、 そのプロセスのなかで 真実・神・愛を体験のなかで見いだし、真意を理解し、 至福以外を選ばない存在として終わることを選んだ存在。 ですが、今ここで、「神の教師を選ぶ」ということとは、 この世界のなかでは強力な意志の力を必要とします。 「みなが同意していることに同意しない」という 決心をし続け-覚悟し-真実以外を否定するという 決断力を持ち続けることを選び続けなければなりません。 そのような意味で、 「神の教師」であることを誰もが恐れ、 ちっぽけな自我で満足し、自らをごまかし続け、 心の平安もなく、卑小な自我で、 皆が同意する自分を信じることで 自分が守られていると錯覚を持ち続けようとします。 それを乗り越え、もう一度、 心の奥にある真の自己の静かで穏やかな誘いに 心を開く決断をした「神の教師」は、 その誰もが自らの真実である偉大さを選択したことになります。 そして、イエスのように時の始まりに立ち、 その終わりを告げるモノとして生き始めます。 しかし、ここにいる誰もが、今もそうであり、 その違いを作るのは、 違いに焦点をあてているか? 違いなど何一つ無いということに気づく 実践をしているか、していないか 真の自己に気づいているか、 そうでないのか(錯覚・幻想を信じている自分を現実にしているか) の違いにすぎません♪ 神の教師は、 この生という偽り-幻想を手放し続けることで身体を超え、 宇宙的な自我による分離-幻想-夢を終わらせる存在- この世界の始まりと終わりを消滅させる存在- 心を超える存在(霊に自己を戻し・霊)となり、 どこかにいこうともせず、 この世界の形を変えようとすることもしません。 神の教師は、 今ここで光りと共にあることを思いだし、 この世界の奥に今も光続けている 源-神-愛-自由-永遠-ひとつであること- あらゆる次元と時空の影響を受けることもなく- 具体的な形をもたない抽象でありながら、すべてであり- 思考というその愛の被造物を包み込む愛- スピリット:霊(変化の中にはなく、ただある)- 実在あるいは天国(リアル・リアリティ)を確信し続け、 いずれ、それを時の中で真実として見る(自覚する) 真の自己であり続ける人です。 時間の中では、失敗があるように見えますが、 その実践の結果は、すでに上映済みであり、 時間を超えたところでは、すでに終わっているので そのことについて誰も失敗することもなく、 失敗は単にプロセス(成功への階段、錯覚の訂正)にすぎないこともわかります。 それは純粋に、一つである、 あるいは、心がすべての中に戻る-帰るという究極の目的を、 自我の真実の代用品-幸不幸(快楽と苦痛)-変化-時空-次元- という、相対性のあらゆる概念-おもちゃの国を超えて、 唯一の選択として、各個人が真剣に選ぶときに始まります。 やがて、シンボル・名前としてのイエスと自らも一つになり キリスト(救世主)としての自己と一体化し、 身体としての役割を完全に終え、心を霊に帰すことになります。 自らの決断により、始まりという幻想に終止符を打つ者となります。 神の教師のプロセスとしては、 神とひとつである自己 それを聖霊である自己-真の自己-Holy Spirit- と共にいることだけを選び続けることで、 聖霊あるいは聖霊のシンボルとしてのJ(真の自己)と一つになり 今という瞬間における自己選択を正直に見つめ、 自分の肉体を超えて見つめ、 分離を作り続ける自我-心を超えて見つめ、 神と決して切り離されることなどありえないし、 それは実際に起こっていないし、不可能であることを知る 自己に気づく実践の中にあります。 ここにいる間、神の教師が行うすべての実践の中身としては、 まずは、肉体から見つめ、 次に、心が何をしようとしているのかを見つめ続け、 その幻想に自我の判断である それに基づく思考・感情が割り込む前に、 Holy Spiritに委ねる選択を行います。 わき上がる思いのすべてを 預け、委ね、任せ続けることで、 Holy Spirit(真の自己)との信頼と絆が回復します。 自らが神の教師を選ぶ時とは、 偽りの自分である自我を 無に帰すことを 恐れずに見つめ続ける決心をし それをやり遂げることだけが 真の自分の目的であることを 今日という日、今という一瞬のなかで思い出し続けます。 偽りの自我-影を とおり過ぎていき、 その奥にある光-すべてである真の自己を 今ここで見続けようとします。 それが、神の教師である、ということです♪ 私の心は今もJを愛し、尊敬し、慕っています。 彼の教えは、だれもが同格であり、優劣・差別・レベルもなく、 分離を消すことだけが目的であり、 すべての人をひとつである状態に導きます。 私はいままで学んできたすべてを捨て去ってもよいと思えるぐらい、 彼の真実を愛しています。私は彼を心から敬愛しているので、 何度も何度も、彼のアドバイスに耳を傾け、自分の間違いを発見し、 それを訂正することで喜びが帰ってきました。 以前の私は、間違いを恐れていたり、恥ずかしく思っていました。 でも、今は彼を通して、私の間違いや過ちが発見されるたびに、 自分の中で隠されていた闇がひとつずつ明かりに照らされて 溶けていき、それから自由になれることを知りました♪ 間違いの発見とは、成功の階段を一歩一歩昇ることであり、 なんであれそれは、成功のプロセスだということがわかったからです。 そして、今の私は知らないことを恐れません。 わからないことについて、知っているふりをしたり 賢いふりをすることの愚かさよりも 真実を知る喜びを感じられるようになったからです。 聖霊としての自己と対話し、時にそれとケンカし(笑) それを信頼し続けることで 変わる必要のない喜びと、本当の意味で、 ありのままの自己を賞賛・尊重できるようになり、 その何もしなくても成される力が養われてきます。 今も私とそれが共にあるという信頼は、 必要性に縛られない自己と共にあることで やがてそれは、自信から確信へ移行します。 これからも、私自身が、今見ている世界に対する責任を持ち、 自らの錯覚を訂正し続けることで、 自らの瞬間的な気づきを大切にしていきたいと思います。 それを、このような形のなかで 喜びのなかでシェアし続けることだけが 今の私の無常の幸せです♪ 私は同じことを、言葉の微妙なニュアンスをかえることはありますが これからもくり返し、たぶん死ぬまで語り続けるでしょう・・・(笑) God is
2009.06.09
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最近は、心がとても晴れやかになってきました♪ おどけている自分 落ち込んでいる自分 仕事や生活のなかで悩んでいる自分 誰かを憎んだり、うらやんでいる自分 他人というもう一人の自分との関係の中で 孤独を感じている自分 Jを求めながら、Jを拒んでいる自分 神を求めながら、神を憎み、恐れている自分 etc........... そのたもろもろをひとつひとつ やさしく包み込みつつある 優しい気持ちがはぐくまれていき その自己とひとつになりつつある 喜びが戻ってきました♪ ******************************** このような気持ちがわき上がってくる前に、 じつは、いくら飲んで酔おうとしても酔えない自分に気づきました。 何をしてもこの世界が与える何かに酔えなくなってきている・・自分に では、本当に目覚めるしかないと・・・ フェイクはどこまでいってもフェイクでしかない・・・ 偽りは心の重荷であり、それ自体に何の意味もない・・・ ふと、偽りに囚われている自分自身を もうみるのがかわいそうになった・・・ 酔っぱらい人生もボチボチ潮時のようです♪
2009.06.08
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私は肉体のなかで、 ある名前を持ち、 ある役割を演じており、 夢を見ている自分の存在に、 自己が気づきはじめたようだ・・・ 目に見える形のなかで 思考を付け足していくのではなく つねに今の思考を聖霊に預けるようにして 見つめていこう。 ただ、そうすることだけで 心はとても静かになるから。 ふと、シェイクスピアの 「全世界は舞台だ。そして、すべての男も女もその役者にすぎない。」 という言葉の意味が現れ、 それは 意識のなかに、何かが顕れ、また消えていく感じがした・・・ 何かを意識する前に、 私はあり、それを意識し、意識を離す それをただ眺めている・・・ ******************************** ある一時、 愛情の反対は無関心である、という考えをもっていた。 でも、それはちがうようだ・・・ 愛はひとつであり続けるから、 子供たちが自分のことをどのように考えるかについて ただ自由にさせておく その子が自分のことについて 何を信じ、 どのように考えていたとしても その存在自体は、今も神聖であり、 すばらしい存在であることを 源は何も否定することなく そして、今も、決して離れることなく 一緒にあり続ける・・・ そんなふうに感じました♪
2009.06.07
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漫画「バガボンド」の30巻を読んでいて・・・ふと気づく・・・ http://shop.kodansha.jp/bc/comics/vagabond/ 「誰かとか、誰とでもなく」 そして、ただ自らが求める道の中で そこにだけは嘘をつけないし、つかない・・・ それだけでいい♪ ふとそう思いました・・・ 武蔵の生き方は、自分が情熱を捧げる何かに 純粋であること ただそれだけにすべてを注ぐ・・・ そうすれば むずかしいことはおいといて 誰もが他人と自らの尊さを言葉以上に知ることになる・・・ それは このうえもなくすばらしいこと♪ 形を超え、 すべてを超えて 自ら、いや、すべてのなかに 愛だけがある!
2009.06.07
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私たちは、肉体としての自分にあまりに慣れ親しみすぎているため 肉体が見ていると信じる時間という自我の映写機から流れでる 一つの身体としての記憶・物語ばかりに焦点があってしまいがちです。 物質的な太陽光でさえ、秒速130万キロという 距離の移動が可能であり、それだけの仕事ができるのに 私たちは、時間という自己の限りない分割の映画・映写・投影 をつくりだし、さらにそれを眺めている自己→ 物質宇宙→銀河系→太陽→地球という惑星→ 日常の風景→個人・肉体としての私 といったように、自らが行っている瞬間的な自己分割と非局在(時という自我イメージの連続を、自我が参照している状態、特定の位置を持たない時の自我の状態・思考・記憶の流れを意識する)の状態から、局在(ある特定の空間に物質として意識をする)の状態に、これまた瞬時に移動できる存在としての自分に気づかないようにできているようです。 このすべては何と自分を同一化するか? ということが分岐点をつくりだしたり、統合への道にもなる。 意識は身体としての自分の記憶に頼ることが習慣化しすぎています。 無意識は、心全体の記憶の領域・メモリーバンクのようです。 意識は、無意識の中から、ある特定の名づけられた記憶の物語を見ている状態。 無意識は、その意識化されない心が分離を信じることによって 投影されたすべての物質的なイメージの青写真あるいはフィルムの総体・保管庫。 ******************************** 「心のメカニズム(時間と空間の反転投影システム)」 一つの心-内側と外側という分離の考えによって生み出された あらゆる考え・概念の元。 一つの心の中に見えるようになる内側の世界の要素 (意識が内側の映像を参照するとき、時間認識をする)無数の空間 というスクリーンに映し出されるようにできたイメージ(次元) の世界とその中のあらゆる分離を信じる自我の構成要素 ↓ さらに分割された肉体としての各個人の記憶(ある期間に身体と 自己を結びつけた記憶としての時間) ↓ さらに身体というまさに自らを無意識にする装置の中でやっている こととしては、五感という別々の器官を用意し、それらの感覚の 時間差を活用することで、「接触するものと接触されるものが一 時的につながり何かを感じるONの状態と非接触である(OFF)の状態 による知覚作用によって、個人としての自分の身体をリアルに感じ るシステムがある。 この構造をリアルに信じることにより、目に見える世界だけを信 じ、世界のなかにあるちっぽけな自分という幻想と自我による忘却 システムが完成する。 ↓ 何かを感じる・・・何かを感じない 何がある・・・・・何もない 身体がある・・・・身体がない 物質がある・・・・物質がない ON・・・・・・・・OFF 点・・・・・・・・滅 光・・・・・・・・闇 →一つの心から投影される外側の世界の要素(物質と空間認識) 肉体の目で、「意識」が、何かを見る瞬間、内側に記憶された時 間の流れが自分の外側に物質として瞬間的に反転投影される。 (自分とは違う何かがあるという空間と物質を見る) これらは肉体というイメージに五感と呼ばれる分断された感覚 要素を配し通すことで、一つの電磁場情報に神経の伝達スピード の違いや変化を生み出し、それが「見る、聞く、嗅ぐ、味わう、 触る」といった錯覚を利用し、物質をリアルにする。 身体とはまさにそのような仕掛けのようだ・・・ 外側(物質と空間)の世界は、身体とか脳を超えたところにある内側(一つの心がさらに再分割され、意識として各個人の身体と同一化したあとに記憶された身体としての時間の軌跡の映像)と比較参照されることで、それが何であるかが認識される。 つまり、外側に見える何か(感覚要素のすべて)は、必ずと言って良いほど、内側(心)に入らなければ、何も認識できないようにできている。身体の中にある意識と無意識は、一つの心の中ではつながっているけれど、真の自己を思い出さないように隠す、忘れようとするため、通常の意識状態では顕在化されないようになっている-抑圧されている。 私たちが知覚している外側の世界とは 内側にある心の中にある時系列上の記憶を瞬時に 自我が裏返す(反転投影する)ことで目に見える物質や空間が そこにあるように見えるシステムがある・・・ 現代医学や科学は、それを脳が認識するための最終地点だと考えてはいるけれど・・・ ******************************** 瞬間という思考と思考を区切り、隙間をつくることで まるでいくつもの物語があるように見えてくる・・・ 一瞬の間・隙間に自己をバラバラに分割し 無・夢のなかに入り込み、 身体の中でそれを思い出そうとするときは、 肉体と同一化した記憶だけを自分だと信じる状態になってしまい、 空間の中に自分とは違う物質が顕れて見えるようになる・・・ 私たちの一人一人という人間は、瞬間的・無意識のうちに これをやってのけていると考えてみるとおもしろい・・・ というか、私の中ではこちらが真実です。 これを逆転させるために肉体であることを 一時的に棚上げするため、目を閉じてみよう。 身体は身体にまかせ、内側に入る。 肉体に入ってくる情報が少なくなってくると 意識が自分が身体であることを忘れ始める。 そして、もう一つの夢である無意識の中に流れ込む。 そこで時間という自我イメージをただ眺め、 フィルムを逆回転させるように、心の分割のプロセスを 聖霊あるいはハイヤーセルフ(言葉はなんでもいいのですが・笑) の助けを借りて観照者となり、心の映像を眺めてみよう♪ すべてはこの瞬間にたたみこまれている・・・ 問題がただ一つあるとすれば、 自分が今何を見ようとしているか・・ 何と自己を同一化するか・・・ 今見える存在のなか、すべてに、 もう一人の聖なる自己を見つめていれば そのとき、真実は何も隠されていないことに気づく・・・ 分離の瞬間を無に帰し続けよう そこに肉体としての何かをみているなら 性なる限られた、やがて朽ち果てていくモノとして 快楽という名の苦痛に身をくねらせ、 もがき続ける自分の存在を見ることになるだろう・・・ 心が写しだそうとする前に戻るために 聖霊にそれを預けながら それらを見るなら そこに神聖な存在がただあり、 その聖なる存在と自らが一つになる 目に見える何かの奥に いつも聖なる関係をみつめていこう それを・・・私自身に贈り続けよう・・・ ******************************** 今、私がカラオケで歌いたいNO1の曲は「心の瞳」、 ちょっと前も貼り付けましたが、覚えたいのでまた貼り付けちゃいます♪ http://www.youtube.com/watch?v=AixvY9wF-Aw&feature=PlayList&p=44A08E1B30C49F1E&playnext=1&playnext_from=PL&index=43
2009.06.06
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私が今まで求めていたことのなかで もっとも真を置く考えとして 変わらないものとは何かということ 変化しないということです。 比較対照を基準とする世界のなかでは 変化しないモノを探すことはむずかしい 思考-感情-信念-心 そして形あるもの これらのすべては変化のなかにある だが、そのなかでも 変化するものを排除していくことで 存在する何かがあることに気づく それによって、 はじめて自らの純粋性にたどりつく 私はそれだけを信頼し、 それと一つであると完全に理解し それと今もひとつであることを 信じる必要がなくなるまで この身体を、心のすべてを使うことにする
2009.06.06
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この日記は、「赤っ恥、青っ恥」の状態を通り抜けたとき、私のなかでわき上がってきたものです♪ でも、その前にまずミスチルの「LOVEはじめました」なんかも・・・http://www.youtube.com/watch?v=Jm7l8SypF7M&feature=related********************************************** この世界って変だよね♪ 正邪の逆転ってのが平気でまかりとおっていたり 常識と呼ばれるあてにならない囲いのなか ちっぽけな枠のなかにいることで 安心しようとしたり、 その考えの枠の中にいれば 裁かれる側ではなく、裁く側でいられると信じていたり 単なる一時的な信念にすぎないものによって 自分がそれによって守らていると信じようとする 縮小思考そのもの・・・ 真の自己は、そのどれでもない・・・ 一番ひどいのが 正しいって罠 正しいことにこだわっちゃうと 間違いが赦せなくなっちゃう。 その正しさのもとに裁きが正当化される・・・ では、真に正しいということとは何だろうか? それはすべての目的にかなう たった一つ、唯一の答え、 それ以外には何も残らない状態ということができる! 悪ってのも、もちろん変だけど そのなかに妙に純真さも感じる・・・ 悪ってのは、この世界の愚かしさに抵抗しようって姿みたい って意味では、この世界の枠組みや囚われから 解放する作用をもつ自浄作用みたいなもんと 考えることもできる・・・ だが、悪という考えも、 絶対の中では無に帰る、ただの考えと言える。 で、けっきょく きれいとか、きたないとか、 そのあいだ、その他もろもろっていう 境界をつくって遊ぶのに疲れたら 戻ろうよ こんなところにいる自分なんていないんだからさ・・・ こことか、あそことか、どことか、そことかに 探しても、捜し物はみつからないし 見つかったって思った瞬間、それはなかったふりをする 身体って不自由な乗り物でもなく 心って落ち着き無く騒ぎまくる騒音以外の何者でもなく 実体の無いものでもなく ひとつであることだけを、自分の胸に聞けばいい そこは何よりも裏切らないほうがいい そこに、心の奥にこそ 求めている何かが今もある それ以外に、そこをのぞいて 真実を知ることなどできないのだから・・・ その光だけをみればいい 妥協せず (妥協とはごまかしであり、 それ以外にまだ他に何か大切なものがあると信じているということ)、 それ以外の一切を無にする覚悟をもてばいい! そうすれば、そこにそれはある それは、永遠の一方通行であり 疑問も答えも必要もない世界しかないことに気づくから・・・ おち・・・ ふと下をのぞくと 社会の窓が全開になっていた♪ ******************************** 誰の心のなかにも・・・「HERO」http://www.youtube.com/watch?v=O8XlshrgKUI
2009.06.05
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昨日も、 あるところで 「赤っ恥」を書いて、 その間違いに気づいて 「青っ恥」を堪能してました・・・ ほんと、私の世界はいつもひとりよがり・・・ で、これもまた自分自身の勘違いと錯覚のなせるわざだなぁ~と あらためて、自我のアホさ加減に気づかせてもらいました♪ 関係者の方には、深くお詫びしたいなぁ~という気持ちと同時に そして、気づかせてくださったことに ありがとうと伝えたいです♪ で、恥の感覚に気づいて、赤っ恥と青っ恥って言葉を 調べてましたが、具体的な意味ではなく用例として 「赤っ恥」が載っていました。 「青っ恥」っていうのはなかったんですが、 あとから、「やってもうた・・・もう後戻りできない・・・」 というような、あとでひやっ~っと冷や汗がでる恥と 考えていいのかなぁ~と考えてました。 昨日の夜は、 まったく「真の赦し」を目指してるのに なんもできてない自分をみて、 ちょっと荒れました(笑) そんでもって今朝は、気持ちを整理し、 再出発やぁ~ってなれるところが 自分のいいところって、自分にやさしいエコ(エゴ)な 私がいます では、そんな「赤っ恥と青っ恥」を書いて気づいたことなんですが、 恥をかくというような感覚は、 自分とは違う何かがまずいる(ある)と信じ 切り離されていると信じているから起こるってことですよね。 はい、また分離感のいっちょうできあがり・・・ でも何かを感じることができるのは、 切り離されていると感じるまえに 潜在的に、すべてとつながっていなければ感じることもできない ということもわかった気がします。 切り離されたという、感覚が分断されているという状態がある前には 必ず、事前につながっている状態が秘められている・・・ だからこそ、何かを感じることができる・・・ 感覚は「間隔」によってつくりだされた「幻想なんやなぁ~」 って思いました♪ こんなふうな鏡のようにいてくれる誰かがいないと 自分-自我のおろかさに気づけないんだなぁ~って あらためて思いました みなさま、いつもいろんな気づきをありがとうございます♪ 勘違いおじさん 夢のなかを笑いながら 通り過ぎる・・・ これでいこっと♪
2009.06.05
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1の続きです♪*これが現実世界(リアル)であれば、神は残酷だということになる。父親であれば救済と愛の代償として、子供たちをこのような目に合わせるはずがないからだ。 こうJ(イエス)が指摘しているようにね。幸い、これは現実世界ではないし、神は残酷ではない。だからこれからのミレニアムの学習者たちには、大事な点を強調したい。しょっちゅう強調すると思われるかもしれないがね。天国の完璧な一体と異なることやそのあとに起こったことはみな、神とはいっさい何の関係もない。分離という考えも、その後の君たちの決断と同様、神はまったく関知していない。夢の中の出来事は何の結果も引き起こさない。理由は単純で、本当に起こっていないからだ。君たちの宇宙も君たちにとっては現実そのもので、恐ろしいことが多いだろうが、間違って創造された怠惰な思考に過ぎない-エネルギーも思考の投影以外の何ものでもないんだ。これもハッキリ説明したと思うが、物質は形の異なるエネルギーというだけだからね。君たちの心が神の力なしにできるのは、分裂し、再分裂して、その結果を美化しようとすることだけだよ。 だが振り返ってみれば、君たちは依然として本当は安全に天国にいるし、君たちが見ているものは真実ではないから、自分自身を本当に傷つけることもあり得ない-たとえ自分では傷ついたとか、さらには殺されたと夢見たとしても、だよ。それどころか以前とまったく同じように天国における完璧な一体に目覚め、それを維持できる。そのためにはエゴではなく聖霊の思考がゆきわたるように心を訓練しなくてはいけない。 それには自分のではなくて聖霊の思考システムが反映される決断力が必要になる。だから断固として「奇跡のコース」とそれ以外のすべてのスピリチュアルな思考システムを区別するという大きな決断をしなければならない。有史以前のものから古代エジプト、老子、ヒンズー教の様々な派、ゾロアスター教、旧約聖書、新約聖書、それに新二元主義のシステムまで、文字通りすべての思考システムという意味だ。そのすべてが二元性のシステムで、ある種の源(ソース)-ふつうは神あるいは神々-を想定していて、その創造者がある意味では自らと異なるものを創造し、次にそれに対応したり介入するとされている。4-173 ------------------------------- アーテン: もっと考えるんだね。前にパーサが言った言葉を、きっと思い出すよ。さて、キリストのこの小さな側面はふとまどろみ、分離と個別化という夢を見る。時間について話すときに「まどろみ」という考え方を説明するが、これはエゴの仕掛け(トリック)なんだよ。個別化に関して言えば、これも君たちが間違ってとても高く評価しているものの一つだ。この界隈の人たちは不細工な個人主義にひどく誇りをもっているね。このナンセンスがどこから生じているかは、君にもすぐわかるだろう。我々の物語のなかでは、ここがそもそも「意識」の始まりだ-意識、これにも君たちは愚かにも高い評価を与えている。意識を持つには分離が必要だ。二つ以上がなければならない。意識する対象の何かが必要なんだ。これが心の分裂の始まり。「コース」ではハッキリと教えている。 「神の使者シリーズ-71」 *意識、知覚レベルは、分離のあとに心に導入された最初の分裂で、心を創造者であるよりも知覚者にする。意識はエゴの領域として、その正体を明確にされる。 「神の使者シリーズ-72」 *分離が程度、側面、感覚を導き入れるまで、知覚は存在しなかった。霊(スピリット)にはレベルはなく、すべての葛藤はレベルという-意識から生じる。 だから前にも言ったように、‘エネルギーは霊ではない’ことを思い出すべきだ-霊は君たちの本当の不変の現実なんだよ。変化し測定できるエネルギーは知覚の領域の中に存在する。 「神の使者シリーズ-73」 *知覚はつねに心の誤用を伴う。なぜならば、心に不確実の領域をもたらすからである。 天国には不確実性はない。なぜなら、すべて以外の何ものも存在しないから。しかし、この世界では君たちは個のアイデンティティを持っている。人々は生まれるとすぐに「特別の人間関係」の網の目に入る-最初は母親との、そしてそのすぐあとには父親との人間関係に。4-177 「神の使者*ゲイリー・R・レナード著*河出書房新社」より抜粋。 ******************************** 思考は、本来、もともと形のない何かであり、形ある物のすべてはその形のない何かを通ってこそ、はじめて、それが時間(記憶の流れ)や空間のなかで顕れるようになるのではないか? と考えるほうが正しいように私は思います。 脳や身体の始まりである受精卵や両親という存在がたとえ それ以前に、存在するように見えたとしても・・・ 「思考する存在は、本来、形に依存しないばかりか、時間の連続性とも実際には何の関係もない」とまとめることもできるように思います。 最近テーマにしている「時間と空間が置き換わって認識されるシステムがある」ということも、これと関係しています。 私たちは身体の脳を通して認識が行われていると信じていますが、身体の脳は確かに物質的な知覚情報を集める集積回路として働いているようには見えます。しかしながら、脳自体があっても、それ自体に生体電流が流れていなければただの物質であるといえます。 それらの器官を通して、「そのような肉体的な知覚情報を観察しているもう一つの上位システム」を定義しなおす必要があると思います。 今までのそのことが医学界でとりあげられてこなかった理由は「見えない」「わかっていない」「知覚できない」ものは「ないもの」と考えるような慣例があり、それを破ること自体が、マッドサイエンティストの烙印を押されるような無言のプレッシャーとなっていることも、新しい考え方や認識を妨げる障壁として作用していたと私は考えます。 現在の日本における医療体系のほとんどは、肉体というモノ・物質的な視点から見るモノを基準とした概念であり、それを前提にあらゆる思考体系が生み出されています。 私たちの認識システムの欠陥は、宇宙というマクロの世界、素粒子というミクロの世界を目で認識できる状態でしか把握できなかったり、あるいは目に見えなくても、それがもつ特性・性質によってその傾向を知ることはできますが、理論上の仮定は推論できたとしても、いったいどこまでミクロの世界があるのかもわかっていないと思います。 それにどこまで知れば、観察・観測できればそれを知ることができるのかさえ、わからない状態だと思います。 でも、それに依存しないで思考する方法もあります。 アインシュタインの思考実験、実験不可能ではありますが、理論上、それがこの世界で適用できる考えであるなら、それは実用的な考えとして活用できます。そのような考えをもとにしてカーナビゲーション・システムも機能していたり、量子物理学の研究から、以前とは比べ物にならならい大容量の記憶媒体なども生まれています。 また、そのような科学理論の発見を待つまでもなく。 身体を動かすもう一つのシステム(心)があると考えることができるなら、その特性をここで発見されている現象のなかから類推し、再定義しなおすことができ、それだけでも認識の拡大や自己に対する定義も反転します。 また、理論的なことを書いてしまいましたが、 「身体の中に心がある」と考えるのか、「一つの心が、目に見える、あるいは不可視の宇宙をも含めてイメージし投影し、それが、再分裂し、身体の中で別々に、個々人の視点として世界を見ている」と考えるかは、 けっきょく、わかっているようで、何もわかっていない世界(本当にわかっているということはそれが真実であると定義してのことですが)のなかで自由にできる考え方の一つでもあると思います♪ とりあえず、思考のメモ帳として♪ ******************************** PS・・・あいかわらず、早とちりでアホな自分がいます。 真の赦しをいつも意識できなければ、なんもならない・・・ やはり、Jの真の赦しを完全に自分のすべてで体得・実感するまで 道は遠い・・・というのが今日の実感です・・・
2009.06.04
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「言葉」 その社会のメンバーが思想・意志・感情などを伝えあうために伝統的に用いる音声。また、その音声による表現行為。[広義では、それを表す文字や、文字による表現および人工語・手話語をも含む] 「抽象」 個々別々の事物などから、それらの範囲の全部のものに共通な要素を抜きだし、“およそ・・・は・・・のようなものである」と頭の中でまとめあげること)⇔具象・具体」 「ある」と「ない」というのも思考によって生み出されたある状態を表現する概念であったり、思考する、創造するというのも行為であり、源そのものではなく、そこから生じたある種の状態であり、動きがあるようにみえるけれど、それ自体は動いているわけでもない・・・ もともと思考の源とか、「神・霊・愛・真実・自由」という形のないものを、形のある世界の中で体の視点というすべてが逆転している思考体系によって具象化され、分離された何かと認識し、名づけようとする言葉によって、源そのものを表現しようとするのは難しいと言えます。 つまり、この世界のなかに見える形としてないもの-すべてを超えて存在している状態でしかないものを、それを言葉という区別や分類のためにある概念の代用物の中であてはめて考えるようとすること自体むりがある・・・ (でも、私のなかでは今までと別の考え方を採用することで、なにかができるような気がしています。) だから、源の一部の特性を「愛とか、自由とか、永遠とか、霊だとか」というように抽象的に表現することはできても、具体性のなかで適確に示すことはできないのはあたりまえ・・・みたいですね。 私たちのすべての認識の基礎は、五感から外界の刺激を受け取ったあと、その感覚受容器から情報を脳が取得したとき知覚されたり、脳が思考を生み出すと信じられていると思います。 しかしながら、最近の脳研究では、記憶が海馬とか何とかにあるとされている考え方を大きく覆す考え方もあります。ある記憶が脳のある特定の部分に存在すると昔の脳科学の教科書には記載されていましたが、実際には、神経の末端で接触しておらず、ホログラム・システムのようにある点からある点へと波のように記憶のイメージが脳全体に浸透するように広がっているという考え方もあります。 その例として、最近の研究では、前頭葉とかある部分を切除しても、ある記憶がぽっかり抜けるわけではないとされています。 ある感情がある特定の場所やルートに電気信号を通過するように機械的に計測することはできても、そのイメージは実際には脳全体に波紋のように広がって、それが何かの記憶をもっているように見せているだけのような気がしています。 また、脳以前に考えることができないのか?というと、 DNAがあるタンパク質を合成するためには、DNA自体がそれをするのではなく、それに命令を与える何か(微弱電流・私の定義では心のイメージ)があってはじめてなされ、その結果、細胞分裂の連続的なイメージが、ある特定の身体をイメージ・形づくるように見せている、とちょっと前に書きました。 形を具現化させ、私たちが何かを知覚認識する-何か(心)の性質をよく観察してみると、過去・現在・未来というような時間の連続性や空間から離れていることができるようです。そして、物体を認識するのは、それそのものが物体そのものではなく、それを動かしている何かであり、これなくして物質としての肉体が自分とは違う何かを認識することは不可能だと言えます。 そして、私たちは肉体としての父親の精子と母親の卵子が結合し、一つの受精卵となり、細胞を分裂し、現在の肉体ができあがったと信じています。 でも、それを信じる前に、あらゆる物質が認識されるためにある大前提として、外側に見えるあらゆる何かを認識するためには、内側にある意識あるいは自覚されない意識と照らし合わされて、それが何か物質として存在しているように見えるという特性があります。 シンプルな知覚認識の図式として外側にある何かは、必ず内側を通ったとき、はじめて外側に何かがあると知覚される・・・・ このような議論のことを、「心脳問題」というテーマで語られていた本を以前、読んだことがあります。 そこでは、「身体のなかにある脳があるから人間は考えることができる」という考えと、「心・形のない生命が身体というシステムを動かすものである」といった考えの内どちらが正しいのかについて考察した本でした。たしか、その結論はいまだ出ていないということです。 コースの考えている「心」というのは、各個人のなかにあるようにみえる心だけではなく、この物質宇宙、あの世、その他の次元など分離の概念を含むすべての考えの総体を「心-あるいは自我-幻想-夢-無」と読んでいます。 コースのなかにある「心」についての記述と絶対を意味する概念としての「霊・スピリット」について、「神の使者」による説明を抜粋してみます。 ******************************** 今まで話を聞いて、非二元論をとればすべての判断や信念に関する疑問に答えられそうだと感じたかもしれない。さらに主観と客観などというものはじつはなく、一なるものがあるだけだときづいただろう。 まだ君にわかっていないのは、それが真の一なるものの模造品に過ぎないということだ。 神から分離したかにみえる心と一つになることと、神そのものと一つになることの違いがわかっている者はほとんどいない。 *心は神にかえらなければならない。 とはいえ、非二元論もいずれ通らなければならないステップだ。そこで君たちは何かをその他から分かつことはできないし、何かを君自身から分かつこともできないと知るんだね。 この考え方は量子物理学のモデルを見るとわかりやすい。ニュートン力学では客体が現実で、自分の外にある別の存在だと考える。だが量子物理学はそうではないことを示した。宇宙は君たちが想定しているようなものではない。存在するように見えるすべては、じつは分離できない一つながりの思考だ。原子以下のレベルでは、対象を変化させずに観察すらできない。君自身の身体も含めて、すべては君の心のなかにある。 一部の仏教が正しく教えているとおり、すべてを考えている心は一つの心で、この心は完璧に時空の幻想の外側にある。そして、ある例外をのぞいてどの哲学も教えていないし、ほとんど受け入れられない真実がある。 *この心そのものすらも幻想だという真実だよ。2-61 ------------------------------- *あなたが見ている世界は幻想の世界である。神はそれを創造しなかった。なぜなら「彼」の創造物は「彼自身」と同様に永遠でなければならないからである。だが、あなたの見ている世界には永遠に続くものは何もない。 ゲイリー:でも、エネルギーは変化するだけでなくならない、というのは真実じゃないのかな? アーテン:形のレベルではエネルギーはなくならないように見えるが、それは本当はエネルギーではなく思考だからだ、もっと正確に言えば「誤-思考」で、いずれは永遠なるものに変化する。今のところは現実(リアル)と非現実(アンリアル)を見分けるためのじつに単純な基準を「コース」が教えてくれる。 *真実のものは何であれ永遠であり、変えられず、変わらない。したがて霊(スピリット)はすでに完璧であるから変化しないが、心は自分が選んで仕えるものを生起させることができる。その選択の唯一の限界は二人の主人には仕えられないということだ。 だからエネルギーが変化し得るという事実は、その性質からしてそれが真実ではないということを意味している。エネルギー大好きなニューエイジ派の熱狂に水を注すつもりはないが、エネルギーなんて何でもないんだよ。時間の無駄、岩の上ではなくて砂上に君たちの家を建てようという仕掛けの一つさ。たしかに一部の人にとっては、見えるものの代わりに見えないものに関心をもたせるという意味で役立つかもしれない。だが、われわれは君に時間の節約をさせてやろうと思って来たのだから、言わなければならないことを言う。良い知らせは、エネルギーが変化し得るということではなく、それをつくり出している心が変化し得るということなんだ。 ------------------------------- (真の)現実(リアル)と愛は自然で抽象的であり、身体と恐怖は不自然で具体的だ。「コース」もこんなふうに教えているよ。 *完全な抽象は、心の自然な状態である。3-153 ------------------------------- 間違ってはいけない。神の助けである聖霊を真に受け入れるには、神を信頼しなければならない。自分の経験の責任者は神ではなく自分だと気づかない限り、神を信頼することはできない。この世界は現実ではないこと、本当は何も起こっていないということを理解するまでは、君は罪悪感を覚え続けるだろう。幻想の中で責任ある行動をしなくていいということじゃないよ。聖霊の最大限の援助を可能にする真の赦しを実践するには、理解しなくてはならないことがあるだけだ。神がこの世界を創ったはずがない。これは神の性質と合わない。彼は残酷ではない。 2へ続きます♪
2009.06.04
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なにか、わからないことがあって 私が動揺-混乱していているとき、 内側に入ると・・・ J、これこれこれが、なんかイライラするし、 それがどうして起こってるのかわからないだよ~ と悩みを相談すると・・・ それはどこにあるの? と聞かれる。 いや、なんか外側にわからないことが見えるんですよぉ~ と反論する・・・ で、それはどこにあるの? ともう一回聞かれる・・・ はい、私の心(-思い-過去)の記憶のなかです・・・ と答えることになる・・・ で、一人で大騒ぎして、 けっきょく、自分の内側(つっこみねた)でつくった問題の原因と 外側(ぼけねた)にある結果がひとつになり なくなってしまう・・・ ある意味、シンプルすぎて 漫才にならない(笑)♪ いつもぉ~答えは自分のなかぁ~ By GReeeeN♪ ******************************** 答えを自分の内側に求める場合、 過去とか現在とか未来とか-という時間の流れ-のなかに自分を置き そこに自分とは違う何かが存在するという分離の前提である -自我の記憶-を参照するとき、 選択肢の分だけ混乱があるように見え、 自分ではどうしようもない(選べない) ことばかり見えるようになります。 そうではなくて、聖霊という真の自分(ひとつであること)に、 わからないことをすなおに認め、 自我を明け渡し、自分の心を開き尋ねると 明晰さがやってくるようです。 過去のイメージである自我の記憶に聞くと、 それはいくつもの分離を前提とするので 対象や問題がいくつもあるように見え、混乱が混乱を呼びます。 でも、混乱そのものを聖霊(ひとつである)に委ねると答えがやってきます・・・ なんてシンプルなことなんでしょ! できてないけど・・・
2009.06.03
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******************************** マハラジ(マハさん)いわく・・・ 質問者 ヨーガにおいてある人は失敗し、ある人は成功するその理由は何でしょうか? それは運命でしょうか? それとも性格、あるいはただの偶然なのでしょうか? マハさん 誰もがヨーガにおいて失敗する人はいない。それはみな進歩の度合いの問題だ。それは、はじめはゆっくりで終わりには急速になる。 人が完全に成熟したとき、真我の実現は爆発的になる。それは自発的に、あるいはほんのわずかなきっかけで起こりうる。速いほうが遅いよりも良いというわけではない。遅い成熟と速い開花は交互にやってくる。 どちらも自然であり、正しいのだ。 しかし、これらすべてがそうあるのはマインドのなかだけのことだ。私の見るかぎりでは、何もこのようなことはない。意識の大いなる鏡のなかで、イメージが立ち現れては消えていき、記憶だけがそれらに継続性を与える。そんな薄っぺらな土台の上に、私たちはあいまいで、断続的で、夢のような個人という存在の感覚を築くのだ。 この「私はあれやこれだ」というあいまいな確信が、純粋な気づきの不変の状態を覆い隠してしまう。そしてそれが、私たちは苦しみ、死ぬために生まれてきたのだと信じさせるのだ。 「I AM THAT(私は在る)*ナチュラルスピリット刊 P131」からの抜粋。 ******************************** あと、これと関連するACIMの記述として・・・(こちらはコースのトピからコピペさせていただきました、勝手な引用ごめん m(_ _)m) 26-8-2 「あなたにもう一つ残っている問題は、あなたが許すことにした時から、自分のきょうだいを信用することで自分のためになるものを受け取るまでには、隔たりがあると見ていることである。これはあなたが自分ときょうだいの間を少し保って、相手からわずかでも離れていたいという思いを反映しているにすぎない。なぜなら時間と空間は一つの錯覚であって、それが違うかたちを取るからである。もしその錯覚が自分の心を超えて投影されると、それを時間として考える。それがあるところに近くなればなるほど、空間的なものとして考えるわけである。」 あきやん註: 「もしその錯覚が自分の心を超えて投影されると、それを時間として考える。それがあるところに近くなればなるほど、空間的なものとして考えるわけである。」 今日、ここのところがなんとなくわかったような気がしたんですが、どこかで外してしまったように思います。 たぶん、このなかで「自分の心を超えて投影されると」というのは、意識が「個として身体をもって生きてきた過去の記憶映像の部分あるいはある時間の軌跡」を参照している状態って意味なのかなぁ~と思います。そして、「それがあるところに近くなればなるほど、空間的なものとして考える」は、身体の目に意識が移され、物質的な対象を五感を通してリアルなものとして実感している状態に置き換わる・・・ って、まだわかっていないような・・・ 26-8-3 「あなたは自分のきょうだいとの間に一定の距離を保とうとし、自分はまだその人の外にいると信じるので、この空間を時間として知覚する。これが信用することを不可能にしてしまう。そして信用すればどんな問題もみな、今すぐにでも解決されるということなどあなたには信じられないのである。こういったしだいで、あなたは離れているほうが有利だと知覚し、慎重に見守ることにするほうが安全だと思っている。こんな風に知覚していては、許しが今さしのべてくれるものを手に入れることなど想像もできない。あなたが贈り物を与えることと受け取ることのあいだにあると思っている隔たりは、そこで自分が犠牲になったり損失をこうむったりすることになる隔たりだと思えるようだ。あなたは、最終的には救われるとしても、即時の成果は得られないと見ているわけである。」 あと、ここのところもわかってないなぁ~ 「あなたは自分のきょうだいとの間に一定の距離を保とうとし、自分はまだその人の外にいると信じるので、この空間を時間として知覚する。」 わかりました♪ 夢(分離の信念)の概念は、もともと自分の中に内側と外側という分離-距離があると信じることで存在するようになる、という大前提があります。 そして、物質が投影される前にある内側(自我の記憶)を参照することにより、まず自分とは違う何かがあると信じることで、距離が存在するようになります。その後に、自我の記憶を参照しているときは「時間」という認識になり、もともと外側はないけど、外に投影されれば「空間」として投影されるように見える、そんな感じかも♪ ******************************** 心のともJが 自我が、聖霊(Holy Spirit)という真の自己の力を借りて 「真の赦し」という手段 -分離という障壁・幻想を無(夢)にする-ことを選ぶとき、 即座に時間が短縮される-奇跡-癒し-ひとつに溶けあう体験- を見るとしていますが、 目に見える何か(物質)、そして物質として存在したように見える あらゆる時間(のフィルム・記録・記憶)を想像する自我(心)が ひとつであること(真の自己・聖霊)を選ぶとき・・・ その奥にある真実・愛を垣間見る要素が、 この世界にいる間でも可能になる、 というのは真実だと感じています♪ *時というのは一つの心の映写機から流れ出された物語の記憶・ 記録であり、すべての自我イメージでもあるのかな? *私のなかでまだ言葉の表現や定義自体にブレが多く いまだ完全にまとまっていない状態なのでその点は ご勘弁くださいませ♪
2009.06.01
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漫画喫茶にて・・・ 「神の滴」(・・・だったかな?)を、読んでて (題名とか、名前とか、最近どうでもよくなってまして・・・ というかすぐに忘れてしまいます・・・ でもひんしゅくを買いながらも、なんとかやってます(笑)) 「楽しいときは時が止まる」という言葉にくぎづけになった しばし、その言葉で感じた世界のなかへ入り込む・・・ 夢中になる・・・とは (心が想像した)時空のなかにある要素だけれど・・・ この現実という夢のなかでも、 ある対象物を対象物と考えなくなり、 意識がそれと限りなく近づき 境界が一瞬消える状態もある・・・ それが起こると、その対象物の奥にある なにかとひとつになった世界-状態に入り込むことになり、 しばらくの間は時がとまる ・・・あるいは時を意識しなくなる・・・ *意識とは、分離を信じた一つの心が、内と外を創造してしまったあと 自分の考えたことのあやまちに気づき、恐怖と罪悪感にたえきれず それを外側の世界へと投影し、さらに自分を隠すため 自らを外側の世界の一部だと信じ込もうとした状態。 そこで世界の逆転、あるいは反転が起こり、 心の映像(偽りの自己の記憶、あるいは内側)を 外側にある物質に反転投影するようになる。 ある物質的な対象とでも、限りなく意識が接近し、 ある行為と対象とが一瞬ひとつになるときがある。 そのような状態にあるとき ある幻想と幻想の境目が消え、 それを一瞬通り抜けるとき 時は実際にとまっているのかもしれない。 一瞬ではあるが、幻想と喜びの世界の中間点にいるようだ。 そして、対象物が消え、 ふと私は誰と遊んでいたのかな?と、 ふりかえるとき 何かの物語が終わった感じになり それが映像であったことに気づく その後、意識が我(個としての自我・身体)に戻り また、そこに別の何かがあるように見える・・・ 時のなかにいるように思えても 私たちは時の流れを止めることができるようです♪ 退屈さは時間をスローにし・・・ ひとつへ向かう方向性をもつと時間を加速し、 あるところへワープするような感じ・・・ だが、それもまだ夢中の仕組みを知っただけのこと・・・ このような状態は、実際に人は何度も体験している。 たとえば、夜、眠るとき・・・ 目を閉じることで視覚情報が遮断されると 意識が目に見える空間を意識するのをやめると 意識が身体から離れ(身体を意識しなくなり) 一つの心から生み出された、 そのほかの自我の再現フィルムのなかに 点在している別の意識・夢(過去世、未来世) のなかに入り込むことがある。 脳科学では、昼間に印象づけられたものが 無意識に刻まれ、それを起こすとされてはいるが・・・ 本当にそうだろうか? そのような状態を、科学者が証明しようとすれば それも一つの信念となり、意識は瞬間的にそのイメージを 再現-投影する力があるので、それも再現されることはある。 なってこったショー(笑) 私はそれだけではないと思う。 人が眠るとき ある点在を信じる自我-個として自分を信じている自我意識が、 自分が身体であるという意識が希薄になる。 そのときに、意識がドリーム・タイム (夢のなかにある別の時の流れ・心の総体の中)へ流出あるいは流入する。 このとき、上記の例と共通している点は、 意識という点在する自我がこの世界の対象(夢)から 心の総体である無意識のべつの対象(夢)へと移動する瞬間 -隙間にいる-時間(自我による偽りの記憶の流れ -軌跡映像-を物質から離れた状態で見ている)のなかに 溶けこむとき それが眠っているということ・・・ 身体から見ていた意識の記憶・映像は、 その視点から離れ、 その自我の記憶は一時的に忘れられる状態になる・・・ 時を忘れるとはどういうことだろうか? 自我・物質としての自分が不明瞭になる・・・ それは、時空・夢の編み目と実在の中間にいて 局在(物体としての意識・物質として-ある)していた状態から、 非局在的(時間の流れの中に移動する -物質としては“なく”心として“ある”)な存在の状態で 何かを眺めているような感じのようです。 対象との距離に意識がそれとひとつになり楽しんでいる状態。 →自らが物体であることを忘れる意識状態 →意識が物体を離れ、心の映像記憶をみているような状態に変化する。 対象との距離を意識する →空間が顕れ、そこに誰かや何かがあるように意識する。 意識が心の映像記憶をみているような状態になるとは、 意識そのものの性質である、 形のない状態-非局在としての自己の状態。 自我が意識(自らを局在・肉体・物質として意識する状態)と -無意識(夢の総体・非局在としての自己が空間を離れ、 時の流れ-意識の軌跡(あらゆる記憶)を断片あるいは全体のなかで 何かを選ぼうとしている状態)を眺めているような状態に 入れ替わる、あるいは反転するって感じかもしれません。 最近、ヘミシンクもしていて・・・ 論理的には、わざわざ幽体離脱しなくても毎日しているよね~ と考えてはいましたが・・・ ヘミシンクのポイントは、意識がある状態で ドリーム・タイムにとけこむテクニックのようなので これはこれでおもしろいと感じています♪ さて、さて いつまで遊泳していることか・・・ わたしのばあい まだ点在を楽しむのをあきらめきれず すぐ何かに意識をくっつけ 惚れて(執着・愛着)してしまいがち 蝶々、蝶々のように花から花へと遊泳したぁ~い・・・ 物部氏の末裔にちがいない(笑)!(と、ひとりつっこみ、ぼけ♪) 2へ続きます♪
2009.06.01
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