2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全21件 (21件中 1-21件目)
1
ある人が最近私に質問した。「自由から転落しないようにするにはどうすればいいのでしょうか?」。私は今、そのときとは別の答えを与えよう。「もしいかなる足跡(印象)もつくらなければ転落はありえない」。 あなたの全焦点を真我に合わせなさい。これがあなたのしなければならない仕事だ。しばらくすれば、それも自動的になる。 私は最近フランス人女性からの手紙を読んだ。彼女もまたこのことについて語っている。彼女は言う。 私の真我である師よ、今この瞬間ニコルにとって、何であれ一日のうちに起こることを完結させるためには、ただ一つのことをするだけでいいと深く感じています。私は私が触れ、見、感じるすべての中に生きる唯一の存在の本質であることを忘れないこと、私がいまだに他者と呼ぶもの通してそれ自体を見ている存在の本質として人生を生きること、そしてもしそれを忘れたなら、ただそれだけが存在するのだから、忘れることもまた存在の本質であることを忘れないことです。存在の本質、空、沈黙は、今同じものとなりました。それらに違いはないからです。 深い敬意と誠実な愛とともに ニコル 新たな質問者 自由への欲望は足跡を残しますか? その足跡は良いものなのでしょうか? それは自由への欲望について何かできるような環境に私たちを導くのでしょうか? パパジ 自由を得ようと決意した人に足跡を残すような足はない。自由を得ようと決意した人とは誰なのか? これは明確に理解されなければならないことだ。誰がこの自由を得ようとしているのだろうか? 質問者 それは私の選択です。 パパジ 確かにそれはあなたの想念かもしれない。だが、この想念はいかなる足跡も残さないのだ。どういうわけか、この自由への想いは記憶にとどまらない。幸運なことに、それは突然現れ、あなたの注意を捕らえる。だが、それはいかなる足跡も残さない。それは現れ、向こう岸から、自由の側から答えが来るのを待つ。この想いをわき上がらせなさい。それは、実際は想念ではない。それは自由そのものがあなたを家へと呼び戻しているのだ。もし望むなら、それを想念と呼ぶこともできよう。この想いをわき起こさせなさい。なぜなら、それは祝福を受けた想念だからだ。それがわき起こるのを許しなさい。そして、彼方から呼び声が返ってくるのを待ちなさい。この想念のこだまに耳を傾けなさい。そのこだまは自由そのものの声なのだ。 P277-278
2009.11.30
コメント(0)
新たな質問者 以前の質問に戻りますが、あなたを仏陀に執着させた印象はあなたにとって有益だったと言われるのでしょうか? パパジ 私には言えない。本当に言えないのだ。それはただ私の内側からわき上がってきただけだ。それがどこから来たのかも言えない。誰も私に仏陀について語った人はいなかった。私はただ歴史の教科書で読んだだけだ。他にも多くのことがその教科書に書かれていた。だが、それらは私に何の興味も与えなかった。私は仏陀の座る姿を見て、彼に恋してしまっただけだ。 質問者 あなたも数々の恐ろしい出来事を人生で見てきたはずです。 パパジ そのとおりだ。 質問者 あなたはまだそれを覚えています。もしまだそれを見ることができるなら、なぜそれはあなたを執着もたらす過去に連れ戻さないのでしょうか? パパジ 解脱を得た人は岩のような存在ではない。記憶はそこにある。だが、記憶に蓄積された出来事に対する執着がないのだ。記憶が表層に現れても、彼はその後を追いかけたりはしない。それが彼の中に欲望や嫌悪感を生みださないからだ。記憶が新しいカルマをつくりだすような場所へと彼を連れて行くことはない。記憶と記憶への執着は、その執着を体験させる新たな誕生へとあなたを引きずり込むのだ。 古代インドに、長年王国を支配した一人の王がいた。ある日、彼は妻に言った、「私の髪は白くなりはじめた。私には他に成し遂げなければならない重要なことがある。私はおまえと別れ、王国を去り、国政を離れて森に行かねばならない。私はそこで瞑想をして解脱を得るのだ。私は真我を探究したい。おまえは大臣たちの助けを借りて王国を統治しなさい。どうか私を追わないでほしい」 彼は森の奥深く入ると、簡素な小屋を建て、そこで瞑想をはじめた。彼がそこで暮らしているとき、ある猟師が妊娠中の鹿を射止めた。鹿は死んだが、子鹿は母親の胎内から出て死を免れた。今やサンニャーシン(遊行僧)となっていた王は、泣き叫ぶ子鹿を哀れに想って連れ帰った。そして彼の小屋で子鹿にミルクを与えて面倒を見たのだった。彼は新米のペットにすっかり恋してしまった。女王と別れながらも、真我に瞑想をする代わりに鹿との恋に落ちたのだ。これが足跡(印象)がどのように現れ、どのようにあなたの未来のカルマを形作っていくかを示す物語だ。この人には二つの強い熱情があった。苦行によって解脱を達成しようという欲望、そして鹿への強い愛情だ。 彼が死を迎えようとしていたそのとき、最後の想いは子鹿のことだった。「もし私が死んだら虎が鹿を食べてしまうだろう」 これは慈悲の心ではある。だが、執着心でもあるのだ。次の生で、彼は鹿として生まれた。それでも過去生と多くの瞑想をしてきたため、バーラトと呼ばれるリシ(賢者)のアーシュラムに鹿として生まれたのだった。彼はそのアーシュラムで生を送り、サードゥのように暮らしていた。彼は他の動物と交わることなく、サードゥとともに座り、彼らの聖典の詠唱に耳を傾けていた。 再生はこのようにして起こる。この王は瞑想への欲望と鹿への執着を抱いていた。そして次の生では鹿として生まれ変わり、森で瞑想するサードゥの仲間になったのだ。 (沈黙が続く) P275-276
2009.11.30
コメント(0)
新たな質問者 もし私が執着や記憶の中の印象をすべて棄て去るなら、それはつまり私の友人や家族への愛を失うことを意味しています。彼らは依然として私の目の前にいるでしょうが、私はもはや彼らのことを気にかけなくなるということです。あなたは過去の友情をもはや抱くことのできない状態、以前興味を抱いていた物事にふたたび影響されなくなる状態について話しているのですね。 パパジ 私たちはプラーラブダ、満たすべき運命とともにこの生を授かった。そこには私たちが生きていく中で関わりあっていかなければならない特定の人々がいる。これらの交流は避けられないものだ。だが、私たちに運命づけられた関係性から影響を受けずに人々と関わりあうことはできる。もしそれが私たちに影響を与え、心を動かすなら、自分自身に新しいカルマを加えることになる。そしてそのカルマは私たちを何度もこの世界に連れ戻すだろう。 誰もが過去生での出来事や、関係性や、欲望や、嫌悪感によって決定された活動が書き記された脚本を手にしてこの世界に生まれてくる。非常に強烈な自由への欲望を抱いてこの生を授かる人もいる。この自由が達成された後も、身体的存続は続いていく。そしてそれは過去生の執着と欲望の結果のすべてを体験することになるのだ。解脱した人の真我はまったくカルマを体験しない。だが身体は過去生の関わりや執着によって決められた脚本に従って地上での一生を終わらなければならない。 ラマナ・マハルシは癌だった。ラーマクシリュナも癌だった。ヨガナンダも癌を患っていた。身体は過去の行為の結果を体験し続けるだろう。だが、真我実現した人がそれらを気にかけることはない。彼は自分が病気で苦痛を体験している身体ではないことを知っている。あるいは自分が身体を動かしている個人ではないことを知っている。彼はただ身体を通してプラーラブタが完結されていくのを超然と見守るだけなのだ。 今生で自由を獲得した人がふたたび生まれ変わることはない。それはつまり最後の人生で未完の身体的カルマをすべて結実させなければならないことを意味しているのだ。そのため、解脱した人は、ときおり非常に病んだ身体で最後を迎えることになる。すべての顕著なカルマが彼らの身体に入りこむからだ。 P274-275
2009.11.29
コメント(0)
新たな質問者 以前あなたが*仏陀の姿を本で見たとき、どのようにそれに反応されたかについて話されました。それは執着だったのですか? それはあなたが語っていることと同じ類のことなのでしょうか? ******************************** *あきやん註 パパジが十三歳のとき、彼は学校の教科書の中の仏陀の姿を見て恋に落ちた。それは現在ラホール美術館に保存されている有名な像の写真で、苦行者として衰弱しきった仏陀の姿だった。ハリヴァンシュ・ラル・プンジャ(パパジの本名)は何かの力に駆り立てられ、自分を仏陀に似せようとして数ヶ月間食事をとらなかった。そのうえ、母親のサリーを着て仏教僧のように装っては托鉢の真似をし、町の広場で仏陀についての講話さえしたのだった。仏陀の真似をするという冒険は、彼がサリーを僧衣にしたことに母親が気づいたことで終わりを告げた。 ******************************** パパジ あなたが執着するとき、ある想念やイメージと結びつくとき、あなたの注意が特定の概念やイメージに与えられるとき、あなたはあなたと結びついたその対象物から何かを得る。サットサンsatsangの「サン」sangという言葉は「結びつき、交際、交わり」を意味している。あなたは真理satと結びつくのだ。その結びつきがあなたの一部になるのを許しなさい。あるいは、あなたはガラクタと結びつくこともできる。そしてそれがあなたの一部になるのを許し、あなたの人生を破壊させることもできるのだ。あなたが自分自身の真我と結びついたとき、あなたがただ真我だけについて話し、真我だけについて考えるとき、あなたはサットサンにいる。どこにいようと、真我をあなたの心の中に保ちなさい。これが再考のサットサンだ。神々や人間の世界において、このサットサンに匹敵するものはない。 感覚はサットサンにいることを望まない。感覚は常にあなたの注意をどこか他のところへそらそうとする。感覚に注意を払って、それを助長させてはならない。あなたが感覚に与える興味が、その活動を維持するのだ。感覚への関心を遠ざけなさい。そうすれば、それはあなたを捕らえられない。内面に集中し続けなさい。 もしそれ以上の助けが必要なら、もし幸運があなたに微笑んでいるなら、真理を体現した人とのサットサンを見いだすことだろう。それは起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。それが起こる保証はない。もしそのような人を見つけたと思ったなら、用心しなさい。あなたの感覚が与える印象を信頼してはならない。感覚の印象はあてにならないからだ。もし善き場所を見いだしたと思ったなら、あなたはその師が真正であることに満足するまでよく確かめる必要がある。純金を買うとき、純正かどうかテストしなければならないように、師も注意深くテストしなければならない。もしあなたが満足したなら、そこにとどまり、その師のサットサンに参加するがいい。もしそのような師を見いだせなければ、独りでいたほうがいいのだ。自由は次の生まで待つこともできる。だが、あなたを導く資格のない愚かな教師に自分を明け渡すことは、あなたの霊的な将来を非常に長いあいだ傷つけてしまう。あなたは自由を達成しないまま死ぬだろう。そしてその後何生にもわたってサットサンに出会わない誕生を通り抜けることだろう。もしあなた自身をゆだねることのできる真正な師に出会えないなら、独りでいたほうがいい。サットとは「真理」を意味し、「真理」とは真我を意味している。真我に注意を払うことで道を踏み外すことはけっしてない。あなた自身の真我を頼りにすることが常に最高の道なのだ。そうすれば、決して道に迷うことはない。 P272-273
2009.11.29
コメント(0)
「32-2.束縛も、解脱も、解脱を求める人も存在しない。これが究極の真理だ」 質問者 それはとてもシンプルに聞こえます。ただこの現在の瞬間に生きるだけです。この現在の瞬間、すべての足跡、私がつくりだしたすべての過去の記憶を実際に消し去ることができるのでしょうか? パパジ こんな話がある。自由を求めている人がいた。彼は真理に導いてくれる道に入門したかったのだ。ある人が彼にこう言った。「このグルのところへ行きなさい。彼が助けてくれるだろう」 彼はそのグルのもとへ行った。だがこのグルは言った。「この神のところへ行きなさい」 このようにして、彼はいくつかの神を訪れ、ついに最高神のもとにたどり着いた。 彼はこの神に言った。「私はグルから神へ、神から別の神へと送られ、ついにあなたのところにたどり着きました。誰もがどこか他のところへ私を差し向けたのです。あなたは私の最後の頼みです。どうか自由へ導いてください」 最高神は言った。「ガンジス河に行って、朝一番に沐浴しなさい。そこで最初にあなたが出会う人があなたのグルなのだ」 沐浴をするため川に来たとき、最初に彼が見たのはオウムを捕まえようとして網を広げている猟師だった。彼はその人のほうへ歩きながら、「この人が私のグルだ」と考えた。だが、そばに近づこうとしたとき、その猟師は言った。「待て! 近寄ってはいけない! 鳥が網に入ろうとしているんだ!」 彼は教えを聞かなかった。猟師に歩み寄った瞬間、捕まえかけていた鳥は飛び去ってしまった。 猟師は怒鳴りつけた。「近寄るなと言ったはずだ。おまえはここで何をしているんだ? なぜここに来た?」 「私は解脱に達するためグルを探しているのです」と彼は言った。「最高神が私に告げたのです。朝一番に沐浴のときに見た人が私のグルになると。あなたがその人なのです。どうか私のグルになってください。私にマントラを授けてください」 怒りのおさまらない猟師は怒鳴り返した。「グルだって? 入門だって? マントラだって? 解脱だって? そんなものはわしは知らん! わしは鳥を捕まえているんだ。そしておまえはわしの仕事を台無しにしたんだ! 帰れ、わしを一人にさせてくれ!」 男は考えた。「これは何かの間違いに違いない。もう一度最高神のところに戻って教えを受けよう」 彼が戻ると、その神はすぐに尋ねた。「私が送ったグルに出会ったかね?」 「鳥を捕まえている人を見つけましたが、彼は悟りについて何も知らないと言ったのです。彼はグルではありませんでした。彼はただの猟師で、仕事の邪魔をするなと言って私を追い返したのです」 「待ちなさい! 待ちなさい!」。 神は大声を上げた。 「そのようにグルを批判してはならない。このために、私はおまえに呪いをかけなければならない。私が送ったグルを批判したため、おまえは今からさらなる輪廻転生を体験しなければならない。八百四十万種の生き物が存在している。人間として誕生して解脱に達するまで、おまえはその一つひとつの種の生を体験しなければならないだろう」 彼は絶望し、途方にくれた。 彼は考えた。「私ははじめ自由を求めていた。未来の転生から自由になりたかったのだ。ところが、神々のもとをつぎつぎと訪ねたあげく、今、さらなる転生という呪いをかけられてしまった。あの猟師は本物のグルだったのかもしれない。もはや神々は助けにならない。ただ呪いをかけられるだけだ。もう一度猟師のところへ行って助けてもらおう」 彼は川岸に戻ると、同じ男がまだ鳥を捕まえようとしているのを目にした。「私は今朝あなたのところに来ました。しかし、あなたは私を怒鳴りつけて追い返しました。あなたは自分がグルではなく、解脱のことなど何も知らないと言われたため、私はそれを信じたのです。それから神のところに戻ると、私はあなたのことをただの無知な猟師でしかないと伝えました。そのために、私は八百四十万種もの誕生を体験しなければならないと宣告されてしまったのです」 猟師は話を聞いていたが、まだ霊的知識を備えた人のようには見えなかった。「八百四十万種? わしはそのようなことは聞いたこともない」 彼らは川岸にいた。そこで、彼は猟師に八百四十万種がどういうことを意味しているのか説明するために砂浜の砂を指さした。 「あれがカブトムシ、あれが蟻です。それぞれの異なった生き物は種と呼ばれます。私は解脱に達するまでに八百四十万種もの生をふたたび生きなければならないのです。最高神が私に呪いをかけたのですから、それを免れることはできません。しかしながら、私は今あなたが私のグルであることを悟りました。それはつまり、この恐ろしい運命から私を救うことができるのはただあなただけなのです。あなたの前にひれ伏します。どうかこの呪いから私を解放してください」 猟師は大笑いするとこう言った。「自由になるのは簡単なことだ。神には神の好きなようにさせるがいい。この最高神は世界の創造主だ。すべての責任は彼にある。もしおまえが彼の世界で生きたいなら、彼の法則、転生、呪いに従わなければならない。だが、おまえはこの世界という現れを去り、彼の影響を受けないところで生きることができる。わしは一瞬のうちにおまえをこの世界全体から連れ出すことができるのだ。神がおまえに言った非難の言葉をちょっとここで書いてみなさい」 彼は呪いの言葉を砂の上に書いた。すると猟師はそれを彼の指でたどり、それから手でかき消してしまった。 「さあ、これでおまえは終わりだ」。彼は言った。「おまえは解脱した。これで本当に幸福に生きられるのだ」 彼は何をしたのか? それをどのようにしたのだろうか? 彼は「八百四十万種」と砂の上に書かせた。それからそれを手でかき消した。八百四十万種の誕生とは、心の中のただの概念でしかなかったのだ。それ以上の何ものでもない。手でそれをかき消したことで、グルは転生がただの概念でしかなく、真の効力をもたないことを男に確信させたのだ。男は八百四十万種の誕生という呪いをかけた最高神が存在するという概念も抱いていた。そのため、グルはその神という概念もかき消したのだ。何百万もの転生やあなたを非難する神々は心の中の単なる概念にすぎない。これらの概念は非常に堅固な思いこみとなってあなたを支配しつづける。そのため、最終的にあなたがそれらを信じるのをやめるまで、くり返し体験しなければならなくなるのだ。このグルはただ単に彼の心から転生という概念を消し去った。そしてその概念が消え去ったとき、彼の輪廻転生は終焉したのだ。 これは起こりうることだ。これをただの物語だと思ってはならない。無数の種が存在し、それらすべてを体験しなければならないという考えは、消し去ることの可能な単なる概念でしかないのだ。足跡は消し去ることができる。自分が行為者だと考えている人も消し去ることができるのだ。 「私は行為者だ」という概念は、あなたをせわしなく物事に夢中にさせる。あなたは常に何かをし、「私はこれをしている」と考える。あるいは次に何をしようかと考えている。あなたはさまざまな活動を通してほかの人たちを助けていると考えているかもしれない。だが、「私は行為者だ」という頑固な概念を楽しんでいるかぎり、あなたは自分自身も他の誰をも助けてはいないのだ。もし自由になりたいのなら、あなたの時間のわずかな部分を真我に注意を払うことに捧げなさい。そしてそれを正しく行うためには、「私は行為者だ」という概念を捨て去らなければならないのだ。あなたは他者のために働き、他者をハートの中に保ち、他者について考え、他者との関係性を通して人生を生きている。わずかでいい、ほんのわずかな時間をあなた自身の真我に注意を払うことに捧げなさい。全人生で、わずかな五分間でさえ自分自身の真我に完全に注意を払う人は一人もいない。他の想念が注意を妨げないようにして、たった五分でいい、あなた自身の真我に完全な注意を捧げなさい。 P268-272
2009.11.28
コメント(0)
再度、「覚醒の炎-プンジャジの教え*デーヴィッド・ゴッドマン編*ナチュラル・スピリット」からの抜粋です。 この章は、カルマ、創造者と被造物という二元性の幻想、インドの聖者たちの身体は解脱後どうであったのか、サットサン(真我との交わり)、自由という深いテーマについて語られています。 これ以上書きますと、私がただ素晴らしいと感じた本を紹介したいだけの状態が、著作権侵害までいっちゃいそうです(いつも、すでにその危うい領域にいっちゃっていますが:笑)。 あまりにも、この本は私にとって興味深くおもしろすぎて、放っておくとまた本の内容を全部入力しかねないので、プンジャジの教えについての紹介は今回で終了しようと思います。これ以上紹介してしまうと、すばらしい本との出会い、楽しみ、味わいを奪いかねませんから(笑) ただすべての文章は、全体の流れや文脈をつかむことによってはじめてその真意がわかると思います。ですから、今回もかなり長いのですが、章全体を抜粋しますね。 ******************************** 32.束縛も、解脱も、解脱を求める人も存在しない。これが究極の真理だ 質問者 記憶についてお尋ねしたいのですが、ときおりあなたは心の中に残された印象、足跡について話されます。それらの足跡は私たちがどのようにふるまい、どのような状況に反応するかについての決定要因になるとあなたは言われました。私たちがしたことやしなかったことの印象を記憶に蓄えないようにするために、何かできることがあるのでしょうか? 例えば、私が道を歩いているとします。そして道ばたでお茶を売っている人を見ます。私は彼に気づき、私の脳裏にはその印象が蓄積されます。もし私がその特定の記憶を想い出したければ、それはそこにあるのです。もし私が完全な自己想定を維持すれば、そのような出来事は記憶に残らないということなのでしょうか、つまり、それは脳に足跡を残さないということでしょうか? パパジ あることは記憶に入りこみ、あることは記憶に入らない。記憶に入ったことは印象を残していく。これが私の語っていた足跡だ。これらすべての足跡(印象)があなたの未来の行為や反応を総合的に決定するのだ。過去生で蓄積されたすべての足跡の結果として、あなたの身体は生まれてきた。これらの足跡が、あなたに満たすべき運命の脚本を与えるのだ。あなたの身体は、蓄積されてきた膨大な足跡の集合によって決定された特定の出来事を体験するために誕生しなければならなかった。そこには慣性の法則が存在し、それを止めることはできないのだ。あなたの行為や想念の責任はあなた自身にある。そしてそれらの行為や想念が、あなたの未来の行為や想念を決定づけるのだ。過去に蓄積したすべての足跡の結果である出来事を体験している間に、あなたは新しい足跡をつくりだし、それは記憶の倉庫に蓄積されていく。そしてこれがまた未来の新しい身体で体験されることになる。こうして、それは果てしなく続いていくのだ。 三つの種類のカルマが存在すると言われている。第一はすべての過去生で蓄積されたカルマ全体だ。その膨大な貯蔵庫の中のある部分が身体を顕現させる。そしてその身体は過去生の印象の中のある特定の一部分を体験する。その特定の生の運命が第二のカルマなのだ。それは全体の中のわずかな一片を占めているにすぎない。それゆえこの生を通して、あなたはこの未完のカルマの非常に小さな部分に働きかけていることになる。そしてこのカルマの小さな部分に働きかける間に、より多くの印象があなたの未体験のカルマの貯蔵庫に蓄積される。そしてその印象はさらなる誕生を未来にもたらすのだ。これらの足跡(印象)が第三のカルマだ。その新しい印象がすでに存在している印象の貯蔵庫に加えられていく。 さてあなたの質問は、「道ばたでお茶を売っている人の印象を、完全な気づきを維持することで消し去ることができるのか?」ということだった。 あなたがこの完全な気づき、この知識、この悟りを得たとき、火は灯されたのだ。この気づきは炎となる。そしてこの炎があなたの記憶に蓄積された足跡の貯蔵庫全体を焼き尽くす。これから現れて問題を起こそうと待ち受けている貯蔵庫の中の何百万ものサンスカーラ(性癖、心の潜在的傾向)は、すべて焼き尽くされ破壊される。この完全な気づき、この知識がなければ、一つひとつのサンスカーラが実を結んでいくことになる。だが、完全な気づきが現れるとともに、それらはすべて炎のなかで灰と化す。この大いなる炎は、あなたの未来と過去をすべて消滅させるのだ。 解脱した人は新しい足跡を蓄積せずに生を生きていく。覚醒の炎が彼の貯蔵庫を焼き尽くしたからだ。彼の悟りは新しいカルマが彼にとりつくことを妨げる。彼にとって、過去と未来はともに消え去ったのだ。そのような人の行為は未来の報酬という概念に動機づけされない。「私がこれをすれば、これが起こるだろう」と考えて行為することはない。行為は起こるだろう。だが、行為をしているという感覚はそこにないのだ。彼は為されたことに特別な興味を示さない。そしてそれに対する執着もない。 あなたにこの最終の誕生と特定の脚本を備えた身体を与えたカルマが、運命づけられたさまざまな活動に身体を従事させ続けるだろう。だが、そこには身体との同一化も、計画することも、あれはすべきでこれはすべきではないという観念も存在しない。あなたはそれを通して夢の中の登場人物のように生きていく。そしてこれまで足跡が生みだしてきた終わりのない転生と苦しみの全課程を理解するだろう。そしてあなたはそれらが今、永遠に終わったこと、そしてけっしてふたたび繰り返すことはないと理解するのだ。 あなたは世界の創造者がけっして存在しなかったことを理解し、それを直接知るだろう。創造者も、創造も存在しない。これが究極の真理だ。もし足跡が残されない場所にたどり着きたければ、創造者も創造も存在しないことを直接知る場所に到達しなければならない。そこで、あなたは決して誰も束縛されていなかったこと、決して誰も解放されなかったこと、誰も真理を求める人はいなかったことを知るだろう。 もう一度繰り返そう。なぜなら、これが究極の真理だからだ。束縛は存在しない。解脱も存在しない。解脱を求める人も存在しないのだ。 P265-267
2009.11.28
コメント(0)
私はあなたの手紙を読んでいた。「長年の探究は終わりました。何百万年もの探究が・・・」。この何百万年が実在の見地からどのように見られるかということをあなたに話そう。数日前、私は自分の過去生のすべてを見たという話をあなたにしたはずだ。だが、もう一度詳しくその話をしよう。なぜなら、それはあなたの言葉と深く関わっているからだ。 あるとき、私はガンジス側の岸辺に一人座っていた。そのとき、私は自分の輪廻転生の物語すべてを見たのだ。それがどのようにはじまり、異なった種の生命から生命へと転生していくのかを私は見ていた。その中で私はあらゆる種類の海洋生物、魚だけではなく、数知れない海中の生き物の生命を通り抜け、岩石としての生命、植物としての生命、動物としての生命を経て、人間としての生命に辿りついた。そこには別の惑星での生命さえあった。私はそこで異なった身体と異なった心をもっていた。この過程が流れていく間、私はこれらの身体を通して生きてきたことを知っていた。だが、同時にガンジス側の岸辺に座っている自分にも気づいていたのだ。岸辺に座りながらこれらの流転を見ていた私は、あたかも一つひとつそれぞれの生命の一生を体験しているかのように感じられた。これを説明することは不可能だ。だが、望みさせすれば今でもその時に見たことを見ることができる。これとは別の機会に、私はより現在に近い人間としての生も見たことがある。 この長い転生の過程の最後に、私は私の師ラマナ・マハルシの姿を見た。そして、あたかもそこにいるように彼が目の前に立って現れた瞬間、誕生の連鎖は終焉したのだ。さて、この出来事全体の奇妙な点は、私がこれらすべての何百万年もかけた生命の流れを再体験している間、ガンジス側の岸辺での時間の経過は一秒にも満たなかったということだ。 真我に帰りついたとき、それまで体験してきた無数の転生における時間の経過は実在ではなかったということを、あなたは即座に理解する。それは一瞬の時のように見える。わが家に帰りついたとき、あなたはこの秘密を直接知って大笑いすることだろう。体験している間、それは非常に長い時間に見える。だが終焉するとともに、それはほんの一瞬の想像がただ拡張されただけにすぎなかったということを知るのだ。 このガンジス側の岸辺での体験以前、私はこの輪廻転生が一瞬のうちに圧縮されているということについて誰に尋ねたことも、語ったこともなかった。その後も私はそれについて人に話さなかった。今まで読んだ本でも、このことについて述べているものはなかった。そのため、私はそれについてただ黙っていた。それから数年後、パリにいたとき、私はある仏典に仏陀がこれと同じ体験をしたと書かれているのを目にした。実際は、その仏典はフランス語版だったため、ある人が訳して読んでくれた。この似通った記述を聞いたことが、ともかくも私を得心させたのだった。 今、私は自分の直接体験から、すべての現象が一瞬のうちに現れると言うことができる。これがあなたが時間を超えたときに明らかにされる秘密なのだ。それと同じことが夜中に起こる。夢の中で途方もない時間が流れたように感じられる。だが、目を覚ましてみると眠りについてからほんの数分しかたっていないことに気づく。夢の中で一生を過ごすこともできる。そして一生分の苦悩を味わうこともできるのだ。 最終的に真我に帰りついたとき、あなたは自分が誰なのか、自分が何なのかを知る。そして長い間あなたを夢中にさせてきた幻想である世界の現れの真の本性を知る。そしてそれを超越したとき、真の自由とは何かを知るのだ。あなたはその最終的な安息の地で、本当は自分が今までどこにいたのかを知るだろう。あなたは自分が何かであり、どこか他のところにいると信じることを選んだため、意味もなく苦しんできた。 実際、あなたは常に知っていたのだが、それを無視することを選んだのだ。あなたは今もそれを無視している。なぜなら、私の言うことが信じられないからだ。その代わりに、あなたは自分の想像を信じている。そして自由が自分の生得権であること、それは常にここに存在し、常にあなた自身であるということが信じられない。誰もこれを信じようとしない。それゆえ、誰もがすでに安らいでいるはずのその場所に到達しようと努力を重ねるのだ。さまざまな方法やさまざまな道が存在する。だが、それらはすべてあなたが本来のあなたとは異なるものだという想像を強め、維持させるだけなのだ。 質問者 私が手紙に書いた状態は静かな満たされた状態でした。外側に走り出す衝動や人々あるいは物事と結びつこうとする衝動は不在でした。それを説明することは困難です。実際、私はまったく何もしたくないのです。 パパジ これがそのときだ。この瞬間は楽しむためにある。できるかぎり楽しむがいい。そして何でも好きなことをするがいい。楽しみなさい! 質問者 楽しみですか、それとも死ぬことですか? パパジ 楽しみなさい! これは喜びなのだ! 質問者 はじめに、あなたは私が死ななければならないと言われました。そして今、私は楽しむべきだと言われます。 パパジ それらは同じことだ。異なっていない。心をコントロールする必要はない。あなたは自分の心をコントロールしなければならないと感じているのかね? 質問者 私にはもうどうやってコントロールするのかわかりません? パパジ (笑いながら)上出来だ! 人々はプラーナーヤーマや瞑想で心をコントロールしようと躍起になっている。これが正しい見方だ。なんとシンプルだろう! 私はボンベイにいる一人の高校生を知っている。彼女は私がボンベイにいるとき、母親と一緒によく私を訪ねたものだ。当時、彼女は十八歳か十九歳だったに違いない。 あるとき、彼女は私に言った。「私は必要なときだけ心を使います。そうでなければ放っておきます。必要のないときはどんな思考も起こりません。学校に行き、勉強をし、食べたら寝たりしますが、そのために心を必要とすることはありません。それでも、何かで必要になれば、それはまだそこにあります」 これが正しい態度だ、心を道具として役立てることはできる。だが、それにあなたの人生を支配させたり、破滅させたりしてはならないのだ。
2009.11.22
コメント(0)
新しい質問者 世界という幻想に夢中になることから目を覚ますために、苦しみが必要とされるのでしょうか? パパジ 苦しみとは何だろうか? 「私は源にいない」、これが苦しみだ。それだけだ。「私は今、わが家にいない」が苦しみなのだ。 今、超一流のホテルでとても心地よく眠っていると想像してみなさい。部屋の扉は閉じている。眠りの中であなたは夢を見はじめる。あなたはその夢の中で海外に行き、そこで強盗に襲われようとしている。彼らはあなたを取り囲み、今にも殺そうとしている。それがあなたの置かれた状況だ。この恐ろしい状況で、あなたは「助けて! 助けて!」と叫ぶ。なぜなら、あなたは本当に殺されてしまうと信じているからだ。誰があなたを助けるというのだろうか? いったい誰が? 実際は、あなたは超一流のホテルにいる。部屋の中には電話があり、すぐにでもマネージャーか警備員を呼び出すこともできたはずだ。あなたは安全な環境にいる。それにもかかわらず、自分自身の想像による夢の世界でひどく苦しんでいるのだ。あなたは源にいない。あなたは夢見の身体と自己同一化することで源を去ってしまった。ただそれだけがこの苦しみの原因のすべてなのだ。 「私は身体だ」という概念は、あなたを源から連れ出した。そしてひとたび源を離れれば、果てしない苦しみが続くことは避けられない。苦しみは常に「私は身体だ」という概念とともにはじまる。誰がこの概念を抱いているのか? 身体は「私は身体だ」とは言わない。自分自身に尋ねて見るがいい。そして身体が何というか見てみるがいい。足から見てみなさい。足は「私は身体だ」とは言わない。「私は足だ」とさえ言わない。それはこの問題とは何も関係ない。「私は身体だ」と言うのはあなたなのだ。 私は身体だという概念への執着は偽りの想像から起こる。想像は、ホテルの中で安全だったにもかかわらず、夢見の身体の中にいたあなたを苦しめた。そして想像は、目覚めの状態で誤って自分が身体だと信じるとき、あなたを苦しめる。真実ではないことを想像するたび、あなたはその結果に苦しまなければならない。それは蛇とロープの物語のようなものだ。ロープを蛇だと想像するとき、あなたは恐怖に苦しむ。だが、それはただのロープにすぎないという真理を知れば、苦しみは消え去るのだ。想像上のものを信じるかどうかはあなたの選択、あなたの決断なのだ。つまり、それを信じないこともできるということだ。想像あるいは概念を信じるかどうかは、あなた自身の決断にかかっている。 私はあなたに強要しているわけではない。だが、いつかはこの決断を下さなければならないときが来る。それはとても静かな過程だ。私はあなた自身の源、あなたの家について語っている。あなたの神は非常に寛大で慈悲深い。あなたはいつでもわが家に、あなたの神に、あなた自身の真我に戻ることができる。それは強制でははい。帰りたいときに帰れば、いつでもあなたは迎え入れられるだろう。もし望むなら、まだ外側で遊ぶこともできる。だが、わが家に帰るという決断をしたなら、あなたは温かく迎え入れられるだろう。
2009.11.22
コメント(0)
あなたが誰かに恋をしたとしよう。そしてその人は今ロンドンにいる。あなたはロンドンに行かなくてはならない。なぜなら、愛しい人がロンドンにいるからだ。あなたはそこまで旅をしなければならず、そのためにはお金も必要だ。だが、もし愛する人が呼吸よりも近くにいるとすれば何が起こるだろうか? もしどこかへ走り出したなら、あなたは彼女のほうへ向かっているのではなく、彼女から走り去ることになるだろう。もし走れば、あなたは愛する人から逃げ出すことになる。いつであれ、何か他のものを探すとき、呼吸よりもあなたに近い彼女以外の何かを求めるとき、あなたは彼女から離れ去ってしまう。これが通常起こることだ。もし自由が欲しいなら、走り出すのをやめなければならない。とどまることを学びなさい。そしてあなたが今いるところに在りなさい。 自由はあなたの内にあり、あなたは分離した物事の中にはないということを理解しなければならない。その場所を確かめたなら、「いつ私は自由が欲しいのか?」ということを定めなければならない。これは大きな決断だ。あなたは何百万年もそれを先延ばしにしてきた。決意しなさい、立った今。 質問者 その決意とは何でしょうか? パパジ (ニュージーランドから来た人に向かって)あなたはこの決意について私に手紙を書いた。それは核心を突いていた。あなたはこの決意の源とどうしてそれをいままでそれを先延ばしにしてきたかについて書いた。そしてついに決意したのだ、「これは私自身の真我だ」と。それはわずかな言葉でありながら、実に素晴らしい手紙だった。私はあなたに何か書くように頼んだ。そしてあなたは決意したのだ。あのような言葉は源そのものから現れる。私はあなたに言葉が生まれだす場所から書いて欲しかった。それをあなたは見いだした。すべての言葉、すべての活動はこの源から現れ出る。 真我、真我実現、悟り、真理、自由-これらは何だろうか? どこにあるのだろうか? この問いに時を捧げなさい。そして自分自身で答えを見いだしなさい。私たちは距離という概念からはじめた。あなたは今どこにいるのか? 目的地に着くまでどれほど行く必要があるのか? それはじまりであり終わりでもある。そして道全体がその中に含まれている。距離も場所も存在しない。つまり道も存在しないのだ。それを知り、理解するとき、すべては終わる。すべてが終焉するのだ。旅すべき距離はもはやない。 あなたは私に言った、「私には言い表せません」と。だが、後で私が描写するようにと説明したとき、あなたはそれを言い得たのだ。それが描写だ。だが、それと同時にそれはあなたの描写ではないのだ。 質問者 それを書いたとき、私はかなり病気だったのです。 パパジ それは「あなたの」描写ではない。「あなた」が描写したのではない。あなた自身そう言ったはずだ、「私には言い表せません」と。あなたのスートラ(一般に経典を意味する。だが、ここでは簡単な言葉に表された偉大な霊的真理を意味している)は「はじまりから終わりまで」だった。それがあなたにとって必要なすべてだったのだ。すべてはこの言葉に含まれていた。これを解くために本の中を探す必要はない。はじまりと終わりが同じ場所にあることを、あなた自身で見いださなければならないのだ。
2009.11.21
コメント(0)
「覚醒の炎-プンジャジの教え*デーヴィッド・ゴッドマン編*ナチュラルスピリット」からの抜粋です。この考え方を、みなさまが信じられるか信じられないかは別にして、私たちの身体意識は、瞬間的にこの現実を知覚効果によってリアルにしていることのヒントが、盛りだくさん紹介されている章だと感じました。何かの参考にしてみてくださいませ。 とても長いので、四回に分けてご紹介したいと思います♪ 「26.すべての現象は一瞬のうちに現れる」 質問者 強烈な苦しみを体験した人たちが、本当に癒されることがあるのでしょうか? パパジ 苦しみは過去の問題、人生で体験したショックな出来事が原因となっている。人々はその問題を解決するために、宗教関連のセンターやヨーガ・センター、セラピー・センターなどあらゆるところを訪れる。それが私が西洋で見てきたことだ。誰もが関係性の破局などから生じた問題を解決しようと、センターからセンターへと渡り歩いている。だが、彼らは間違った方向を見ているのだ。自由、解放、苦しみの終焉をセラピーの類に見いだすことはできない。だからこそ、私は自由への想いを呼び起こすことは実に稀なことだと言うのだ。それは本当に稀なことだ。そのようなセンターへ行く人々は問題から逃げ出しているだけだ。彼らはそれに直面しようとしない。彼らはふだんと違う身なりをしてヨーガや瞑想をすることで逃避している。これらのセンターに参加している人たちは、なぜそこに来るのか聞いてみるがいい。彼らは何かの問題を解決するために来ているのだ。誰も「私は自由を達成したい」と言う者はいない。自由を求める人は本当に稀だ。実に稀なことなのだ。 質問者 この苦しみは「私」と関わる間違った自己同一化から起こるのでしょうか? パパジ そうだ。すべては間違った自己同一化から起こる。苦しみは不運、過去の誤りから起こるとも言えるだろう。だが、主要な原因は身体とその感覚との自己同一化にある。人々が犯す主な過ちは、“感覚器官を通して幸福を見いだそうとする”ことにある。ひとたびこの過ちを犯せば、あなたは一つの関係性から別の関係性へと苦しみ続けるのだ。このような状態にある人々は、しばしば深刻な問題に巻き込まれる。 ある人は恋愛関係の破局から自殺しようと青酸カリをポケットにひそませて私のもとにやってきた。私はそのような人をたくさん見てきた。 私がスイスで出会った人もそのような人の一人だった。彼は私のことを聞いて、瞑想セッションに参加できるかと尋ねてきた。私は歓迎しますと答えた。それから、彼は少しずつ彼の話をしはじめた。彼はパリの数学教授で、家族と別れたばかりだった。「私の妻は生後六ヶ月の息子を連れて、私の生徒の一人と駆け落ちしてしまったのです。私はここに死にに来たのですが、まだそうするだけの勇気がありません。もししばらくここにあなたといれば、勇気を得るかもしれません」 それから、彼は自殺のために用意したものを私に告げた。彼は財産と生命保険の証書をもっていた。それは彼が死んだ後、妻がすべての財産を受け取れるようにしたかったからだ。 彼の話を聞き終わった私はこう告げた。「あなたは愚かな人だ。私とインドに行きましょう。私は最初にパリに行くことになっています。私と一緒にパリに来なさい。それから一緒にインドに旅するのです。自殺などしてはいけない。私があなたに関係性に依存せずに幸福になる方法を教えましょう。あなたが今まで見たこともないような、そのような振る舞いをすることのない、あなたから決して逃げ去ることのない伴侶を紹介してあげましょう」 彼は私の申し出を受け入れた。だが、彼は打ち明けた。「私にはインドまで行くお金がありません。でも、まだ車があります。それを売ればいくらかになるでしょう」 翌日、地元の新聞に広告を載せたところ、買い手が現れた。 「運転してみてください」と教授は言った。 「一日乗ってみて、気に入るかどうか試してください」 「あなたはいくら欲しいのですか?」 「半額でかまいません」 「それは適正な価格とは言えませんね」と買い手が言った。 教授は彼を誤解していた。「走行距離を見てください。ほとんど走っていないのです。私のマンションから大学までの距離しか運転していなかったのですから」 「いいえ、そうではないのです。あなたの売値が安すぎるのです。この車は半額以上の価値があります。それにほとんど使われていない。なぜそんなに安く売るのですか?」 「私は私の師とインドへ行きたいのです。その資金をつくるのには、私にはこれしか残っていないからです。彼と一緒にインドに行くためには、どうしてもそのお金が必要なのです」 その人はその話が気に入ったらしかった。 「それは良いことだ。ぜひあなたに計画通りにしてもらいたい。このようにまでしてインドに行くことは素晴らしいことです。新車と同じ額をお支払いしましょう。これは新車同然です。さあ、これであなたの師とインドに行けますよ」 彼は私と一緒に来て、約一年をインドで過ごした。彼が問題を克服したのを見定めると私は言った。「これでヨーロッパに帰っても大丈夫です。あなたは数学の教授だ。新しい仕事を得るのに困難はないでしょう。もし望むなら新しい奥さんをもらうのもいい。もう何も問題は起こらないでしょう」 人々は深刻な苦悩に巻き込まれ、どう対処していいかわからずにいる。私はそのような人をたくさん知っている。一人や二人ではない。彼らはアーシュラムやセンターを訪れてみたものの、何の変化も改善も見られなかった。真の変化は、幸福や愛が外側の物事とのやりとりから生じることはないと真に理解することで起こるのだ。
2009.11.21
コメント(0)
マイミクの蓮さんからご紹介いただいたダグラス・ハーディングさんのHP http://www.ne.jp/asahi/headless/joy/index.html を今、プリントアウトして読んでいました♪ まだ少ししか読んでいませんが・・・ ここでの現実、あるいは、すべての幻想は、 自分とは違う何かである客体が 存在するという概念-想念によって生みだされています。 これは、完全な光-存在-があるとして、 そこに黒点-無意識-があると想像してみることと関係しています。 この瞬間、この黒点-私-は、自らが何者であるかを見失います。 そして、光と黒点の間に、分離という考え-距離-が生まれたと錯覚し、それが光の中で移動することによって時間という幻想もまたスタートします。 このような初歩的な考え方がわかれば、ダグラス・ハーディンさんの視点の移動の概念も簡単に理解できるように思います。 つまり、すべての“間”違いは、 自分が存在の状態-神-と距離があると想像したことにあり、 その一瞬の間、瞬間、そして今も その物質的な現実を想像することになります。 存在と違う私という間違いは、 その瞬間に無意識を、 まさにこの瞬間に現出させます。 そして、それに続いて生まれた物質宇宙と分離して存在している 私が当たり前の現実として現れたように見え、 その目に見える物質的な距離のちがい すなわち、私と何かとの間に“ちがい”がある と錯覚することによって あたかも、それが現実に存在している という仕組みになっていると感じました。 ダグラス・ハーディングさんは、 それを今ここで体験できる実験を編み出すことで、 そのリアリティについて誰もが理解できる 理系のスピのような感じがします。 とても、すごくて、おもしろく、また真実を、いとも簡単に示す実験があり、世界を180度、反転させてみる視点の移動法と、すべての客体との間にあった概念-想定-距離を消失させることが味わえると感じました。 以前、マイミクのロルロフルさんが、ミクロの世界とマクロの世界を対比させたYouTubeの映像を教えてくださいました。 http://www.youtube.com/watch?v=wTwvkGjsNEY&feature=player_embedded その感覚とこのHPがいわんとすること、奇跡のコース、インドの聖者たちが伝えようとしていること、すべてがここに集結したように感じました。 私という分離状態の意識自体が無いとき、無意識が生まれた瞬間に戻り、無意識という状態があることに気づきます。身体と結びついた意識が、無意識を手放した瞬間、無意識が消滅し、それによって生みだされた私-自我-魂-心そして物質的な宇宙、時空間は消滅し、完全かつ純粋な意識である存在だけが自覚されます。 この自覚は、分離の概念の消滅とともに完全にあることがわかると思います。 今日のタイトルにある「どこにも、(意識が遊びにいかない)視点を定めないとき」、私たちは今ここで完全にすべてのなかにあることを実感できるかもしれません♪ あとは、自らが完全に自覚するだけのようです♪ ******************************** 小さい頃、「今この瞬間に、世界を消してみせる!」 といって目をつぶるようなことをしませんでしたか? ハーディングさんの実験は、 そのようなシンプルな遊びと同じなのかもしれませんね♪ 目をつぶり、 自らのなかで世界を一瞬にして消して見せられることは事実です。 そして、目をつぶって世界が消えても、 境界のない意識としての私があることがわかります。 そして、目を開けた瞬間に 世界が現れたように見えるのも事実です。 そして、目を開けると世界が現れると同時に、 境界のある私と違った色や形の世界が意識化されることがわかります。 あと、ハーディングさんの実験では、私たちの五感というトリックについても言及しています。 それによって、目をつぶった時、まだ音が聞こえるじゃないか? なんてへりくつも(笑)、 海が波の音を聞かないことと同じように 幻想であることがわかると思います。 でもそのシンプルな事実を、人は忘れてしまい、 客体のほうへ、いつも意識が向かってしまいます。 このような技術は、外側の世界を真に-受けた-時、 人生の苦悩やストレスが、いつも現実化されることも 証明しています。 ですから、ストレスを感じた瞬間、 この真実に満ちあふれた実験を 遊び心と共に、空っぽの頭を実感し、 いつも繰り返し試してみるのもおもしろいかもしれませんね♪
2009.11.18
コメント(0)
SYMBOL-1からの続きです♪ もちろん、「私は悟っていない」という考え自体が、悟りがすでに自分のなかにあることを遠ざけ続けることも事実なのですが、「悟り」という境地が、本当の意味でどのような状態であるかを知っておくのは、とても大切なことだと私は考えています。つまり、幻想のなかにある何かが、完全さより素晴らしいと考え、不完全さのほうが良い、という想念に支配されている間は、分離のなかにいる自分や偶像をまだ選んでいるということであり、決してひとつである完全な意識を自覚してはいないということです。 真に悟っている人は、たぶん、こういうのではないでしょうか? 悟りというものも、最初から存在せず、すべては私が夢を見、 無意識の旅に出たと信じていただけのこと・・・ ただ存在だけがあり、それだけが唯一、完全かつ純粋な意識としてあり、 それは永遠に自由であり、真実はいつも今ここにあり、愛以外には何も存在してはいない。 そして、その真実(の私)を、身体がある間中、外側に見えるもう一人の私(世界、兄弟姉妹)に、あるがままに生きる実例を示すことによって、存在の証となる人、そのような人が私は悟りを開いた人だと考えています。 悟りという境地は、「特別な悟りを開いた誰かなど最初から存在してはいない」ということを、頭の理解を超えて、完全に真実として理解し、存在と一体化した状態にあり、かつ、この相対性の宇宙に身体が残っている間中、すべての物事、出来事、そしてあらゆる想念を、ただのシンボル(象徴)として見、聞きしている状態にあると思います。 私たちも、この世界の学びの中で、悟りを開いたと言われる人たちが、「何をいつも観ていたか?」ということについて知り、それを最初のうちは見倣うことで、存在の真実へと少しずつ近づいていくようになると思います。 ここで、「悟り」に興味がないという人もいると思います。でも、私たちは誰もが幸せになることを望んでいると思います。もちろん、小さな幸せはこの世界の中にでも見つけることができると思います。またその時でさえ、人は本当の自己の一部-悟りの状態-を垣間見ている瞬間ですから、それを求めることが決して悪いわけでもありません。しかし、それは私たちの真実に比べれば、とても小さすぎて、本当の私たち-存在としての自己-と比較にならないということができます。つまり、私たちという存在は、誰もが小さな自我のなかには収まりきらない存在だということです。 悟りとは、幸-不幸という二元性のなかにある“私”によって作り出された想念のシンボル(象徴)を超越し、そのなかに私(たち)は存在していないと気づいている状態だと思います。それは、至福の境地であり、つねにそのなかで「永遠-自由-平安-愛-存在-神」を、一切の分離を知覚することなく自覚している状態だと言えます。至福が至福であるのは、時空間という分割が一切存在していないため、五感という幻想によって作り出されたあらゆる感覚を越えた“歓喜”だけがある状態ということができます。そして、この絶頂状態は、決して退屈な状態ではなく、つねにあらゆる創造が一瞬のなかで、同時かつ永遠に拡大し続けることが自然な状態であり、それと並ぶモノなどは存在し得ない状態だと思います。 ですから、人は誰もが最終的に“自らの真実である完全性を悟る”ことだけが唯一の目的であると気づき、「本当に求めていたのは実はそれだったのだ」と、誰もがいつか目覚めを選ぶ日が来ると私は考えています。 自我の神々が支配するこの世界において、自らを「神の化身」と考えることは間違ってはいませんが、神が身体になることなど本当の意味ではありえない、ことに気づくと、偽りの宇宙のなかに何一つ、真実-存在-永遠-自由-愛-は存在していない、とわかるときもいつか来ると思います。 なぜでしょうか? この世界に完全な状態など存在しないからです。 本当の意味で、私たちが悟りを開いたなら、すべての時のなかで、この世界に見えるすべてを、私の想念が見せるシンボルだと気づいており、存在と完全にひとつであり、あるがままの完全性だけしかみえていない状態にある、と私は考えています。 そのような聖者は、「奇跡のコース」を、ヘレン・シュチュクマンに伝えたイエス、あるいはここで実際に存在した人物として、「ラマナ・マハルシ」が、私の中で「悟り」という状態の真実を教えてくれた存在であると感じています♪ ******************************** イデア論について http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%E8%AB%96 イデアとは最高度に抽象的な完全不滅の実であり、感覚的事物はその影であるとする。イデアが存在しているのがイデア界(本質界)で、その陰が投影されているのがわれわれ人間の住む現実界となる。 例えば、現実の世界に、円形をした物はたくさん存在するが、いずれも完全な円ではないし円そのものでもない。しかし、これらの円の背後には永遠不変で、完璧、かつ抽象的な円のひな型であるイデアがあるとする。また、人間が花を見て美しいと感じるのは「美」というイデアが実在しており、個別の花に「美」のイデアが分有されているからである。ソクラテスとアリストテレスは違う存在であるが、共に「人間」のイデアを分有している。 人間の持つ感覚は不完全であるため、五感によってイデアを捉えることは出来ない。プラトンは、理性で認識することによってのみ、イデアに至ることが出来ると考えた。イデアが実在する、と考える点で観念論 (idealism) 、実念論(実在論) (realism) の系譜に属する。
2009.11.14
コメント(0)
「SYMBOL」 SYMBOL:象徴、表象、シンボル、しるし、符牒、記号、符合;《'宗教上の》信条;〔精神分析〕シンボル《抑圧された無意識の欲求を示す行為[物]》。 松本人志の映画「しんぼる」の話ではありません(「しんぼる」もおもしろかったけど(笑))。 ACIMのコミュで、レッスン183「神の御名と自分自身のとを呼ぶ」/184「神の御名を自分は受け継いでいる」のところがトピのテーマになっていました。 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=47900980&comment_count=29&comm_id=3484385 このレッスンは、私自身もよくわからなかったので、再度、学びなおしたところ、改めてすごいレッスンだなぁ~と感じました♪ 今日の日記のテーマ「SYMBOL」は、「奇跡のコース」のレッスンを、誰もがシンプルに適応するあり方にもつながっていると私は感じました。このレッスンは、ふだん私たちが目にする世界、そして私の身体、私の考え、私の気持ち、私と私の周りにあるすべては、存在のなかに顕れたように見える「シンボル」に過ぎないとみなす考え方です。 また逆に、別々のシンボルとして表現され顕れているように見える存在のすべては、実のところ、存在-神-のなかでは、決して切り離して考えることができず、それらのすべてが存在のなかで完全にひとつであるという抽象的な存在の状態にあると考えることができます。もっとも、私たちの思考の範疇では、その状態を決して把握したり、表現できない状態にあると思います。 その理由として、私たちはここでの現実を把握するうえで、名づけ、物事をバラバラにしていくことによって、物事を定義し理解できると信じていることによります。 また、「言葉」という表現形態は、「概念(コンセプト:「・・・とは何か」ということについての受け取り方(を現す考え)、実証(実際)的ではなくて、大ざっぱな様子」や「シンボル(象徴)」をバラバラにして、存在に別々の名前をつけることで具体-具現-化しようとする試みであり、またシンボルは、「唯一でありながらすべてである存在」について、部分的にしか表現することができないからです。 本来、ひとつのなかにある存在のイデア-考え-は、存在のなかで、永遠かつ無限に創造し続ける状態にあり、それこそが生命の本質であると言えます。その状態においては、別々のモノがあるという概念や想念を考える必要などまったくないため、「神には名はない」と『奇跡のコース』の184課では、言葉では決して表現できない神-存在-の状態の本質を示していると私は考えています。 本来、形がなく、すべてであり、自由かつ抽象的な存在の状態は表現することが不可能なのですが、それをバラバラにし、それに名前をつけ、具体的な言葉に当てはめたり、イメージ化するために表現されたモノ、それがシンボルといってもよいかもしれません。 「シンボル」は、本来、存在のなかにあるはずの存在の創造-イデア-考え-が、無意識のなかで、私という想念が誕生してからは、存在の一部のイメージや映像をバラバラにすることで、分離した別々のシンボル(神のように見える象徴や何か)が見える状態だと思います。それはシンボルあるいは仮の姿に過ぎないモノが、存在そのものと同じモノだと錯覚して考えられている状態ということもできます。つまり、シンボルは文字どおり、象徴であり、存在そのものではないということです。 上に書いた「SYMBOL」という言葉の精神分析的解釈によると、それは「抑圧された無意識の欲求を示す行為・物」とあります。まさにシンボルの実体とは、そのようなモノだと私も考えています。 このテーマは、私たちは「誰もがすでに悟っているのに、悟ろうとしている」こと、そして、「探すのをやめたとき愛は見つかる」というケイティが本を通して私たちに伝えていることとも関係しているように思います。 これは、私たちの物質宇宙そのものを、そして私の身体を含めた私という存在を、単に、存在から離れ、顕れたように見えるシンボル-象徴-であることに気づき、私という想念から生みだされたシンボルにとらわれず、存在-真の自己-がすでに今も完全にあることを発見することにもつながると私は感じました。 上記のようなことを理解するプロセスは、事象が顕れることを明瞭にする「悟り」の本質ともつながっていると私は考えています。 悟る:1.迷いからさめ、真理を会得した境地に到達する。 2.隠されていた事情に気がつく。(「覚る」とも書く。) 「悟り」というテーマは、よく“誰”が悟っているとかいないとか、という馬鹿げた話になりがちだと思います。もちろん、「悟り」という状態は、すばらしい境地であることに代わりありません。それは、人生そして輪廻転生と呼ばれる無意識の二元性のサイクルから永遠に解放されることですから、そのすばらしい境地である「悟り」というテーマが馬鹿げた話になるのは、いつも“誰が”という発想があるときにだけそうなると思います。 本当の意味で「悟りを開いた人」とは、存在だけがただあり、私たちの必要性に基づく欲望が消滅し、無心、無私となり、一切の分離-区別-というモノのすべてはシンボルにすぎないと完全に自覚している境地にある人だ、と定義できると思います。 無心とは、私は身体であるという意識-心-が消え、無私となり、存在の御思い=御心(ハート)=創造=神の子=イデア=のなかに、心が完全に戻った状態にあることだと私は考えています。その存在だけが、完全にあると自覚するなら、身体がなくなるまで必要最低限のモノは必要ではありますが、悟りを開き、すべてが私である、と気づいている人が、存在-すべて-以外に何も望むこともないでしょう。 また、真に悟りを開いた人とは、この現実のなかにあるモノやあらゆる想念のすべてが無意味であり、ただの私という想念の顕れ-シンボル-であることを完全に自覚した人といってもよいと思います。ですから、私のように、まだこの世界に私を幸せにしてくれる何かがあるという想念がある間は、いまだ完全さより良いモノがあると信じている状態があるわけですから、真に悟っているということはできないわけです。 SYMBOL-2へ続きます♪
2009.11.14
コメント(0)
昨日からずっと、神について想い-考え-をめぐらせてみたり、 すべての考えを止めることを始めたりしています。 最終的に 私たちが「ある」と信じてきた世界-モノ-が無く 「(神が)無い」と信じてきた状態が逆に今も完全にあり、 それだけが「ある」という結論になりました。 別の言い方をしますと 考えって、私たちの身体のなかを生体電流がめぐっている間中 起こっているわけですが、 この生体電流に見えるエネルギーがなければ、 身体は、ただのモノ-物質-と化します。 この前提から考えるなら、 エネルギーが主(主体)であり、 物質が従(客体)になります。 なぜなら、エネルギーなくして、 物質はその形態を認識(知覚)したり、 留めることすらできなくなるからです。 物質を中心に物事を見る姿勢は、 ニュートン物理学的な見方であり、 依然として、物質そのものを動かしている原因に辿りついていません。 また、それより進んだ考えである量子物理学では、 すべての物質はエネルギーだと考え、 仏教では「空即是色、色即是空」 (エネルギーは物質であり、物質はエネルギーである)」 としています。 でも意識は、ただの物質的なエネルギーではなく、 それ自体が、物質を動かしたり、 あるいはエネルギーと呼ばれる状態をも想像し、 それに指令を送ることができるので それ以上の機能をもっています。 したがって、意識は、ここでの生命、物質、エネルギー、 そして世界を見せる働きを兼ね備えていることがわかります。 身体を通して、いつも考えているけれど、 けっきょく、それを動かしている本体は 「私」という意識・・・ 意識が、私と身体を同一視し、 意識が所有しているように見える“私の”身体、 そして、私の身体という媒体によって生みだされた 知覚を通して得られる周りの世界の情報を 分割して収集している続けている間中、 本来ひとつである意識をバラバラにし続けます。 つまり私についての考えを巡らせている間中、 私と世界という分離した考えのなかを堂々巡りし続けます。 私についての考えと私が考える世界が、 何を信じて良いのかわからないので、 不安をいつまでもつくり続けてしまいます。 身体と結びついた意識のなかでは、 何かが「無い」「足りない」という欠乏感がいつも 知覚を通して自覚されるようになります。 目に見える状態は、事実ではありますが つねにそれを真実だと考えるなら そのなかにある考えそのものを体験し続けるでしょう。 しかし、その体験の元は身体の中を流れる 私と私のまわり-世界-物質-についての考えであり、 その世界そのものが私の考えのなかにいつもあります。 すべては、分割された個としての「私」という考えが そのすべてを現実化させているようです。 この個-分離した私-という考えは、 -私の身体につけられた名前を私だと信じていて、 -身体を動かしている私を知らず、 -自分を見失っている状態だと考えてもよいと思います。 完全な存在としての私を無くしたと信じている意識 -私は何かが欠けている -無いという意識である無意識は -暗闇のなかで漂っているような意識状態です。 完全な私、知識を忘れ、失ったと信じている自己忘却の状態です。 ひとつである完全な意識のなかにあり、 その状態こそが、すべてであるにもかかわらず、 存在の中にあり、存在と共に自由に創造する喜びを与えられた 存在の中にある、ある考えが、 完全さより、よいものがあると考え、 完全ではない私を想像します。 存在はすべてがひとつであり、 それこそが唯一、真理-真実、絶対の状態であるがゆえに、 それより良いモノなど存在することはありません。 そして、本来の意味において、 そこから離れることは不可能な状態といえます。 しかしながら、本来の自己を忘れ、 存在から離れるという分離の概念を考え、 信じることによって、 無意識-眠り-夢-の状態を 想像のなかで作り出すことができます。 分離の概念の導入は、私が真実から離れたと信じるとき、 それは真実ではなく、ただの私が信じていること 「信念」に変わります。 また、分離の信念が誕生したとき、 完全であった存在の知識をバラバラにすることで、 不完全な意識-私-自分-を生みだします。 それが無意識-眠り-夢-のなかで バラバラな物語としてある一点のなか、 光のなかで眠っている忘却点となります。 この忘却点、無意識の総体は、 私たちの身体と結びついている意識が眠りに落ち、 深い眠りの状態に入りこむと、 私の身体と私の世界、時間、空間を忘れます。 この状態は、物質的な状態や重力からの一時的な解放状態も含まれています。 また、その状態から朝目覚めるとき、 この忘却点である無意識の総体は、 ちょうど物質宇宙のなかに存在する「ブラックホール」 のようなものと同質な状態であり、 この一点を反転させ裏返すようにして、再び自己分割を開始し、 重力場のなかに戻す-入りこむ-ような作用があるのかもしれません。 無意識は、物質的な個として反転するとき、 このような重力場を作り出すシステムがあるのかもしれません。 それが無意識の状態であり、 存在-生命-意識-を忘れた状態ではありますが、 決して消滅することはなく、バラバラな無数の考えとして 自動的に機能するようになります。 私はそれが無意識の正体だと考えています。 本来、完全である存在のなかにあった考えが、 存在から離れて作り出せるものといったら、 不完全な自分しか作り出すことができません。 それゆえ、愛-存在-はただの記憶になり、 存在のなかにある本質的な自己-私-を自覚できなくなります。 そして、無意識のなかで生みだされたモノのすべては、 暗闇のなかにあり、愛と対極である不安-恐れ-という 本来一つである存在の考えが、私という意識を生みだします。 その私という意識は、完全な自己としての記憶を 無数に分割することで、不完全さを装います。 そして、ひとつの無意識のなかでバラバラになった 私という意識は、本当の私-存在-を忘れます。 また、無意識はさらに、その状態にいる私を 存在に見つからないように、 さらに存在のなかにあった創造-イデアを 記憶-映像-イメージ-概念として分割し、 無数のバラバラな私の物語にしたてあげたあと、 さらに投影された映像の中に入りこむことで 私の物質宇宙のなかに入りこみます。 それが私たちの世界・・・だと、私は考えています。 無意識のなかで生みだされた世界は、 愛と不安という二元性によって生みだされた 相対性の世界であるがゆえに、 完全さ-神聖、完全、純粋な私が夢-幻想-であり、 物質である肉体が私だという状態が自然な状態になっています。 そこから物事を見ている意識は、 それゆえに、その世界を信じることになります。 二元性の世界の構成要素は、愛と不安、 私と私ではないものでつくられているので、 そのなかでは永遠に見えるモノは存在せず、 絶えず変化し続けます。 それゆえ、目に見え、変化し続けるモノの世界のなかで 別々な存在の状態を真実だと考えている間は、 決して真実を見いだすことができません。 ですから、最終的に、 この世界のなかで目にすることができるすべては、 愛と不安の二元性の連鎖しか生みだすことができないといえます。 暗闇のなかにある私は、不安のなかにあり続けます。 そして、そのなかに私が存在していると信じるなら、 そこから生みだされるすべての考えは けっきょくのところ、 何も本質がわかっていない状態にあります。 また、無意識の世界で見ているモノを 無意識自体が、自らを知ろうとしても、 それ自体が実は本来、存在してはいないので、 そこから抜け出すことができない ということになります。 では、あらゆる分離をつくりだした根元である 無いという意識=無意識そのものが無い-幻想- という意識状態の構造に気づくことができるなら、 それこそが元々、存在してはいなく 「ある」ことだけが真実ということになります。 私たちは、無意識という状態が何であるかを知っています。 (完全な)意識が無いという考えがある、ということを知っています。 では、私の“考え”を越えたところにある 私という存在-ある-そのものを自覚することが 分離し欠乏し、無いという幻想を越える 唯一の答えになります。 ここでの現実を生きていても、 それが自らの自作自演のドラマや物語であることに気づき それらの上映元-無意識の投影を越えて、 その奥にある完全性だけを見つめるなら、 私たちは真実を生きることになります。 あるがままに、あるとともに・・・
2009.11.12
コメント(0)
ガンガジさん、という方をご存じですか? ラマナ・マハルシさんの弟子H・W・L・プージャン(パパジ)が、インドの川ガンガ(ガンジス川)にちなんで、本名アントワネット・ロバートソン・ヴァーナーに、ガンガジという名前を与えたそうです。 私はまだパパジの本は読んだことがないのですが、ラマナ・マハルシという存在のあり方にとても惹かれているので、彼の弟子たちについても興味をもっているところです。 今、ガンガジの「ポケットの中のダイヤモンド*徳間書店*ガンガジ著」を少しずつ読んでいるところなのですが、すごくわかりやすい!ところがいいと思いました♪ ミクシィ内にコミュもありますので、興味をお持ちの方は以下を参照してみてくださいませ♪ http://mixi.jp/view_community.pl?id=2056725 何も隠さず、真実から言葉を発しているというのが心に伝わってきます。私はどうしても簡単なことをむずかしく表現しがちなので、私にとって彼女は「シンプルさ」の師匠って感じがしました♪ ガンガジについては、シリーズにするつもりはありませんが、みなさまにお勧めしたい一冊ではありますので、「6.自分とは何か」のところをご紹介したいと思います。 ******************************** 6.自分とは何か 自分が本当に欲しいものは何なのか深く掘り下げて行くことは、あなたという存在の真実の姿を見つける手がかりになります。もしあなたが本当に求めているのがあなた自身の一番奥深いところにある核心を知ることだとしたら、「自分」とは何なのかについての思い込みを見直す必要があります。 従来の西洋心理学では、私たち一人ひとりを個人として表現するものはその人の性格であるとされています。けれども実際は、性格とは衣装や仮面のように、ごく表面的な簡単に替えることができるものなのです。あなたの性格を変化させたかったらいい本がたくさんありますし、ワークショップもいろいろあります。様々な教材も手に入ります。 性格の改善に努めたり性格を変えようとするのは少しも悪いことではありません。それが大いに役に立つこともあります。たとえば、大勢の人が一つの部屋に仲良く集まるためには、互いに対する節度と尊重を共有できる程度にその人たちが性格を調整できていれば助かります。これはみな性格の領域の話です。性格の改善に努めることは、性格“イコール”あなた自身であると信じこまない限り何の害もありません。あなたはすでに、どんなに性格をよくすることに努めても、そしてついに素晴らしい性格を手に入れたとしても、あなた自身の最も根本的な部分が満足することはないということに気づいているかもしれません。 一人ひとりの個人、ほかと区別された「自我」としての基本的な自己認識は、性格よりも根源的なものです。「自我」とはいったい何でしょうか? 自我を直接体験することは可能でしょうか? 私たちが幸せになるためには、自我は排除、あるいは補強する必要があるのでしょうか? 自我を意味するegoはラテン語で「私」を意味します。実際にはそれは、「私」という思考であり、「私とはこの身体である」という感覚と対をなしています。そしてそこを出発点として、限りなく複雑に拡張していくのです。 人間という肉体を持って生きる私たちには、自分を独立した自我として認識する自然の力が備わっています。それはものすごい能力であり、その能力には何の問題もありません。進化順応の結果であるその素晴らしい力によって、人間はあらゆる局面でほかの生物よりも有利な立場に立ったのです。けれども自我はまた、自己嫌悪、自己虐待、利己心、そして自己超越の原因でもあります。もし私たち一人ひとりの身体/知性/自我が私たちの最終的な真実だと信じるなら、それに続いて引き起こされるのは甚大な、そして不必要な苦しみです。 自分とは自分の肉体に限定されている、と信じて生きていると、意識的にも無意識のうちにも、その肉体を保持することが最優先事項になります。肉体の安全を絶対に保証できるものはない、という認識を持つにつれ、大いなる恐れが生まれます。 遺伝、環境、事故など、肉体は明らかに様々な危険にさらされています。そして最終的にはその機能が使い果たされるのは避けられません。当然、肉体を保持し、安全に保つための試みはどれも、隠れる、攻撃する、といった自己防衛戦略を生みます。そしてこうした戦略は、好戦的性格あるいは服従的性格、また社会的、性的な対人技術へとつながります。そのどれもが、「私とはこの肉体である」という考えを擁護するための方法です。これが自我です。 肉体の保存が最優先課題であるとき、私たちの住む世界は恐れに充ち、身構えたものになります。ほかの人、部族、国を犠牲にして、「私」「私の部族」「私の国」を最優先させるという防衛的な行動は、多くの苦しみを生みだします。こうやって戦争が始まるのです。戦いが兄弟・姉妹の間のものであれ、親子間、夫婦間、あるいは部族、国家間のものであれ、それはみな、他人とは本質的に隔てられた特定の存在が自分である、という非常に限られた自己認識に根ざしています。 自分の肉体、すべての人の肉体、あらゆるものの肉体は死を迎える、という現実が明らかになる瞬間がやってきます。多くの社会、中でも西欧社会はこの事実を隠そうとしますが、肉体の死は最終的に否定できません。意識が覚醒したとき、それまで恐れ、否定し、そこから逃げようとして続けてきた死という悪魔が無意識から呼び起こされ、対峙させられます。そのときあなたは、永久不滅の、意識という否定し得ない存在、すなわちあなたという存在の真実の姿に気づくことができるのです。このことに気づいたとき、自我が現実であるという思い込みは終わりを迎え、代わりに決して終わることのないものが姿を現します。あなたがあなたの肉体以上のものであることは明白です。実はあなたとは、肉体に吹き込まれている生命そのものなのです。 最終的には、自我とは思考にすぎない、ということがわかります。純粋な意識に限界を与えるものは何一つありません。あなたがあなたの真実の姿に気づくのを阻む唯一のものこそが、この「私とはこの肉体である」という自我にのっとった思い込みなのです。この思い込みを持ち続けるためには、あなたが自分はこういう人間だと抱いているイメージに沿った、絶え間のない思考活動が必要です。 この思考活動を止め、代わりに「自分」という中心の思考の内側に意識を向けたとき、あなたは、本質的にどんな思考も防衛の必要性も存在しない、無限の、純粋な意識を発見します。それがわかったとき、自我とは、夢やトランス状態が幻想にすぎないのと同じように、ただの幻想にすぎないことを理解するでしょう。 それはあたかも現実であるかのように見え、感じ、体験されるかもしれません。でもそれは自我の実体を深く追求したことがなかったからです。この追求が自己探求です。幻想、この場合は最も本質的な幻想に率直に疑問を投げかけることこそが、真実をじかに体験することへの手がかりです。 追求すると、個々の「私」とは夢にすぎないことがわかります。甘い夢でも悪夢でも、夢から目覚めたとき、あなたはそれがただの夢だったことがわかります。もちろん、夢や幻想に問題があるわけではありません。それが問題になるのは、夢、特に「私」という思考が現実として受け入れられてしまう場合です。 人は誰しも幻想に騙された経験を持っています。砂漠の蜃気楼や、地平線が世界の果てだと思うように。幻想は、それに問いが投げかけられない限り、非常な力を持っています。真の探究とは、何が真実で何が幻想か、何が永遠で何が一時的なものかを明らかにすることを目的としています。 6.自分とは何か P70 ******************************** 私は今も「奇跡のコース」を中心に学び続けています。そして、私にとって人生についてすべてを見直すきっかけになったのは、「純粋かつ完全な意識」の体験、それがすべてです♪ 私の今は、なんやかんやといいながら、その体験へと逆に戻ることだけに捧げられているような気がしています。 その体験と限りなく一致し、教えのなかで突出しているのは、「奇跡のコース」です。 ところで、あくまで私の学び方なのですが、私が本質だと感じていることについて、ときには違う本を読むことによって、別の言葉で表現されて始めて、コースの内容をより深く理解できることが多いので、このような学び方をしています。 各本によって、言葉の定義が微妙に違うことはありますが、根っこが一緒であるなら、少々のちがいはまったく問題にならないため、私にとっては、表現方法の幅が広がり、それによって今までわからなかったことが、「そういうことか!」と配線がつながることが多く、楽しい発見に満ちています。 また、「奇跡のコース」を始め、ゲイリー・R・レナードの「神の使者」「不死というあなたの現実」、インドの聖者ラマナ・マハルシによる「あるがままに」「不滅の意識」「静寂の瞬間」、ニサルガダッタ・マハラジの「I AM THAT」、バイロン・ケイティの「探すのをやめたとき愛は見つかる」、昨日から読み始めているガンガジ、そのほか、ステファン・ボデイアンの「過去にも未来にもとらわれない生き方」、エックハルト・トールの「ニューアース」などの本もすばらしいと思っています。 上記の本を読んでいて、いつも最近おもしろいなぁ~と感じることは、本から「問い」が発せられたとき、いったん本を置き、じっくり、その言葉の奥-真意のなかへ入っていくとき、半ば瞑想状態になれることです。「ある」の入り口へ、何度も何度も、行き着き戻りつする状態が、今の私には楽しいチャレンジでもあります♪ その他にも素晴らしい本がたくさんあると思いますが、上記の本は、いつも本質(ひとつ)へ向かうことを目的としているので私としてはお勧めしたい宝石のような本だと感じています♪ それぞれの教えの垣根を越えて、 すべてがひとつである道へと つながっていく・・・ 最近の私の心境です♪
2009.11.12
コメント(0)
自分は誰にでも愛されるべきだという思い込みに囚われると、そこから苦しみが始まる。 私がよく言うのは、「私が祈るとすれば、それは、『神よ、愛を求めたり、認めてもらおうとしたり、評価してもらおうとする欲望から我を守りたまえ。アーメン』ということだ。 「探すのをやめたとき愛は見つかる*創元社*バイロン・ケイティ著」 第11章-P287 ******************************** 第11章は、「愛に生きる」というテーマについて書かれています。ケイティ語録だけでは、ケイティが何をいわんとしているかわかりにくいので、今日もケイティがそのテーマについて書いていることを抜粋したいと思います。 ******************************** 「愛に生きる」 純粋な愛を見つけられるようになってくると、自分が愛だと思い込んでいたものを得るためにいかに人を操作していたかが、突然はっきりと明らかになります。それは恥ずかしいことだろうと思うかもしれません。でも実は、それはおもしろく感じられることが多く、自分自身の人間らしさを許すことは簡単なのだということがわかります。認めてもらうためにとっていた古いやり方は、今では明らかになった誤解にすぎないということに気づきます。そして、それに気づいたことに感謝できるのです。 私は電子メールを出して、問い直しがどのように役に立ったかを尋ねました。答えがどんどん返って、あっとういう間に500ページもになりました。読んでいくと、人が本当にいろいろな形で苦しんでいたのだということに心を動かされました。そして、自分の人生で起こっていると思い込んでいたことの夢から目覚めて、本当に起こっていることを見るのがどれほどの喜びだったかということに感動しました。問い直しは、長い、驚くべき旅のあとに戻ってくる魔法の国のようです。暖炉のまわりに座り、乗り越えてきた危険について話し、古い友だちと一緒に笑うことのできる家です。あなたがストレスフルな考えを信じなければ、そこに残るのは愛と笑いだけなのです。 この章は、そのような返事のごく一部を引用したものです。 P-260 ******************************** ケイティの本は、とても読み応えがあります。 また、私がこのような本をみなさまにご紹介したいと思うのは、スピリチュアルな本、また心理療法関係の本なども、たくさんあるのが実情です。そんな玉石混淆とした状況、そして何が真実であるかすらわからない状況において、表面的に役に立つ技術もその時なりに必要なモノかもしれません。しかし、私が考える真実とは、すべての問いに対して、一つの答えを知っていれば、どんな状況においても答えることができる考え方や思考システムこそが、本当の意味で私たちのために役立つモノであると考えています。 もちろん、本は本に過ぎません。でも、私たちはこの世界において「言葉」という表現形態からあらゆるコミュニケーションをとっていく必要性のなかにあります。私たちは、ここで学び続けていく過程のなかで、やがて言葉を発する元である「思考-信念-心」に関心を向けるようになり、最後に、「私(たち)という存在とは誰なのか?」という根本的な問いへと、誰もがいずれ誘われるようになると、私は考えています。 その過程において、あっちこっちへと彷徨うかもしれません。もちろん、自分が信じることを楽しみ、好きなだけ彷徨うことだって自由です。 でも、それがいつしか苦しみに変わったなら、それから救われるための考え方や方法を知らなければ、何をどうしてよいのかすらわからなくなると思います。 私自身、いまだ旅の途中ですが、少なくとも私が悩み迷ったときに一貫して答えを与えてくれる良質な本にも出会うことができました。そして、それは本からの学びではありましたが、私自身の人生に適用することで、実際に私を幸せな状態に戻してくれるという結果によって、その効果を実感しています。 このような教え-思考システム-を紹介することで、誰もが人生の問いや悩みに対して、その答えを自らのなかで発見できるようになれば幸いです♪ ケイティ語録シリーズは、今回で終了です♪
2009.11.07
コメント(2)
私は意地悪だとあなたが言ったら、私は「ありがとう、そのとおりだわ。 あなたが言ったとおり、いえそれ以上だわ。 あなたに見えるものを教えてちょうだい。 そうすれば、私たち二人の力で、私はもっと自分のことをよく理解できるようになるから」。 友だちというのはこういうものだ。 これは誠実さと呼ばれる。 人が私たちについて言うことで、私の人生でどこかで見つけられないものはない。 自分を防衛しなければという衝動を感じることが何か一つでもあったら、それこそは私の内面で発見されるのを待っている真珠なのだ。 「探すのをやめたとき愛は見つかる*創元社*バイロン・ケイティ著」 第10章-P258 ******************************** ケイティ語録もあと1つで終わります。 今日のテーマは、とてもデリケートなテーマではありますが、ケイティの方法で、自分自身を見つめることができれば、これから他人そして自分自身と上手に向き合うとても偉大なプロセスへと入ることができると私は考えています。 第10章のテーマは「愛すべきでないものは? まさか自分?」というものです。この章の解説は、私自身より、ケイティが語ってくれていることそのものを抜粋したいと思います。 ******************************** 「第10章 愛すべきでないものは? まさか自分?」 自分自身の愛を得ようとすることは、他人の愛を求めるのとの同じくらい苦しいものです。そして、その結果は、同じく、不満足なものです。そして、求めることをやめることは、同じように効果があります。自分自身の問い直されていない考えを誠実に問い直すことができれば、愛はちゃんと生まれてくるのです。 苦しい人間関係(配偶者、母親、職場のだれかなど)についての問い直しはすべて、ストレスは自分自身の考えによって引き起こされたことをいつも教えてくれます。問題なのは他人ではないのです。それはあり得ません。そして、ひっくり返しをすると、苦しい考えの反対が、同じくらい正しいか、もっと正しいということがわかります。どこかの時点で、あなたは「私は自分自身に忠実であるべきだ」「私は自分自身を理解すべきだ」、そして究極的には「私は自分自身を愛するべきだ」というような文章に到達します。 これはあなたにとっては耳新しいことではないかもしれません。ほとんどの人が、友人や、家族や、人生相談助言コラムニストから、自分自身を愛するべきだと言われたことがあるでしょう。でも、どうしたらできるのでしょうか。ひっくり返しを生きることなんてできないように見えるという事実ですら、自分を苦しめることがあるのです。「私の何が問題なのだろう? なぜ私は自分を愛せないのだろう?」 このプロセスを強制することはできません。できるのは、問い直して、何が真実かを見つけることだけです。 自分の苦しい考えを読み解いてないのであれば、バブルバスに行って、ろうそくに火をつけ、ポジティブアファーメーション[訳注:自分に言い聞かせるポジティブな言葉]を唱え、あらゆる方法で自分自身を甘やかしても、ひとたびバスタブから出ると、同じ考えが戻ってきてあなたに取りつくのです。そういうやり方はまるで、たぶらかしみたいなものです。たぶらかそうとしている相手が自分だというだけです。 この章は、自分自身をたぶらかしたりだましたりするためのものではありません。ちょうどその反対です。だまされているあなたを救うためのものです。他人を愛することの妨げになるのは、自分の思い込みを信じるということだけです。そして、あなたは、自分自身を愛するうえでもそれが唯一の障害物だということを理解するようになるでしょう。結局は自分にとって真実でないかもしれない信念を発見するために、あなたはいくつものプライベートな質問を自分自身にする必要があります。恥ずかしく思っていることは何ですか? (もう憤っているべきではないと思っているのに)今でも憤っている相手は誰ですか? あなた自身をまだ許せないことは何ですか? この問い直しは操作ではありません。真実への愛のために、あなた自身の中に入っていって、あなた自身の答えを見つけるのです。自分自身を愛するのに苦労するようなら、ワークはまだ終わっていません。 P244 ******************************** 私たちの自我は、とても巧妙です。私自身、長年キネシオロジーを行ってきてわかったことは、自我は「回避、信じこみ、隠し、否定し、逃げる、ウソをつく」ことによって、私たちの真実を見せないことに命をかけています。 キネシオロジーの筋肉反射は、瞬間的なストレス反応なのですが、それを意識的につくろうということまで学習しようとします。そのような反応から、いかに身体という無意識の装置は、実のところ真実を隠し見えないようにし続けるということがわかります。 それはなぜか? 私たちが真実に気づいてしまうと、自我そして身体も生き残れないからです。これは私自身が学び徹底的に見つめてきた私のなかでの真実です。しかしながら、もし、私の考えがおかしいと考えるなら、ぜひ、ご自身のなかで、それを検証してみてください。 とてもおもしろいことがわかるかもしれません♪ あと「愛する」ということについての私なりの考えですが・・・ 私にとって「愛」とは、「存在-ある-ひとつであること-真実-自由-永遠-神」であり、目に見える形の変化の中にはなく、ただ拡大し続けることがその真の本性だと考えています。 私たちは、今ここにおいても、存在している(ように見える)ということは、すでにそれだけで存在に愛され、その真価を認められているからだと思います。 存在がすでにここにあるというのに、存在証明をあえて求める必要などありません。ここでは、自分とは違う何かがあるため相対的な価値がいつも頭を離れにくい状況にありますが、本来、レベルがあるとか、比較するという考え自体が、「愛においては全く無意味なことだ」と私は考えています。そして、愛が愛であるなら、私とあなたはちがう存在だと考えるでしょうか? 愛は分割を意味する言葉なのでしょうか? もし、そんな考えを愛と呼ぶなら、いまだ分離-自我-を愛していると言ったほうが正直だと私は思います。ただ、このことは、ここで個性を尊重しないという意味ではありません。個性と考えられているモノのすべては、決して分断されているモノではなく、ひとつのなかで輝いてこそ、その本領が発揮されるということです。 もっとも、ここに存在する(ように見える)すべての存在は、存在と離れて自分の世界が持ちたいという考えに魅了されなければ、誰もここにはいないと思います。また、そのような私たちの火遊びも、存在-神-は、私たちに永遠の自由を与え、私の子供たちが望んだのだからと、神の子が自らの選択で帰ることを選ぶまで待ってくれているのだと、私は思います。 愛がこの世界で動くとき、それがたとえどのような形に見えたとしても愛であることに変わりなく、愛がすることであり、それが「愛する」という表現なのかもしれません。 でも、それが分離(ウソ、偽り)を愛する(分離と自分を同一視する)なら、分離-無意識-自我-を依然として存在させる-投影する-ことになります。神の子ひとりひとりには、存在から与えられた心の力があるからです。 それに個我・自我の解釈が加わり、愛が愛に見えなくなることはあると思いますが、でもそれは、自我の解釈そのものが真実を見えなくさせているだけのことだと思います。 それでも、存在がどのようにして私たちを愛してくれているのかに気づいたなら、愛は本来の自己を思いだし、心を一つにすることを選び、すべてを拡大させる力を取り戻すことでしょう。 私たちの誰もが、ハートの奥に、それをいつも宿しています。 いつも、ハートが、善悪-正否-男女-二元性を越えた真実を、私たちひとり一人の胸-心に「幸せな気持ち」や「喜び」をもたらすことで、その答えを与えてくれていると、私は確信しています♪
2009.11.07
コメント(0)
私が私でいる方法は二つある。 一つは、それを嫌い、もう一つは、それを愛することだ。 どちらにしようか。オーケー、私は私でいよう、 そして、私がすべての面で完璧だと、 完璧よりもさらに素晴らしいと思えるまで、 自分の考えを問い直そう。 この世界ではだれかが幸せにならなければならない。 じゃあ、私がそれになろう。 私は絶対に手を挙げる。 「探すのをやめたとき愛は見つかる*創元社*バイロン・ケイティ著」 第9章-P250 ******************************** 今日は、私もケイティが決意していることと同じように、 ただ何があっても幸せでいよう・・・ 本来の私でいよう、と思いました。 私はケイティの問い直しという技術も好きですが、 今はシンプルに、私と私が見ている世界(客体・空間)との 間に違いをつくらないことだけを意識し続けようと思いました♪ 間違いはつねに、 自分と世界が分離しているという考えから生じていると思うからです。 私のところへ来てくださるクライアントさんが、 身体が痛い、ここが悪いとおっしゃるなら、 ここで私ができることを行い、 あとは心の奥で、 私がクライアントさんのなかで見たこと、 そして私の考え自体を訂正してくれる 間違いのないところ-聖霊-に手渡し続けます。 そして、私自身が今ここで望むこと-夢-や私の必要性も、 一緒に完全な私へと手渡し続けます。 ただ、今は、それだけのくり返しです♪
2009.11.06
コメント(0)
許しというのは、起こったと思ったことは起こらなかった、つまり、許すべきことなど何もなかったのだということを発見することだ。 ひどいことのように見えるものは、一度それを問い直してみると変わる。問い直されていない思い込み以上に、ひどいものはない。 だから、苦しいときには、問い直し、自分の考えを見つめ、自分を自由にし、子供になろう。 何も知らないまま、自由でいよう。 「探すのをやめたとき愛は見つかる*創元社*バイロン・ケイティ著」 第9章-P242 ******************************** さて今日も、ケイティの「許しというのは、起こったと思ったことは起こらなかった、つまり、許すべきことなど何もなかったのだということを発見することだ」という言葉から順番に、ケイティがどのような考えや真意を私たちに伝えたいのかを、私なりに考えてみたいと思います。 ケイティの「4つの質問」の1番目の問いかけは、「それは本当ですか?」というものです。これは、まず各人が考え信じていることについて軽くジャブを入れるような問いかけです。そのとき、その問いかけに対して、自分の考え-信念-が「正しい-イエス」と考え、答えた人に対して、2番目の「それが本当だと、絶対に言い切ることができますか?」という問いかけによって、ある意味で、その人の信念体系自体に揺さぶりをかけることになります。 もちろん、これはその人が考え信じていることの正否、あるいは善悪を問い詰めているわけではありません。ケイティが求めているのは、ただ、今、自分自身が“自分自身”について信じている考えについて、「絶対に本当かどうかを、絶対-真実-の領域で見直してみましょう」と誘いかけていると私は考えます。 ケイティの「起こったと思ったことは起こらなかった、つまり、許すべきことなど何もなかったのだということを発見することだ」という言葉について再検証してみましょう。 まず、私たちが深い眠り(無意識)に落ちたときに、「起こったと思ったことがあったのか?」、「許すべきことがあったのか?」、あるいは「誰もが人生のなかで考え正しいと信じていたことが、そのとき存在していたのか?」と、自分自身に問い直してみてください。 答えは、「無い」ではありませんか? このような時を、私たちは毎晩当たり前のように過ごしています。深い眠りのなかでは、私たちの身体と結びついた意識の記憶、私たちが「現実」だと信じていた人生の記憶は、一時的ではありますが完全に消え去っています。それは起こっているように見えたり、まったく起こっていない状態があるわけです。つまり、身体と意識が結びついているときは事実として存在しているように見えますが、深い眠りに入り、身体から意識が離れた意識状態、つまり無意識-眠り-に入ってしまうと世界と私、そして時間と空間さえも忘れ去られている状態になります。 このことが何を意味するかというと、ここで「現実」だと信じられている考えのすべては、つねに「一時的な状態」であり、絶対に真実だと言い切ることはできない、ということです。そうなると、絶対-真実-つね-ではない状態が存在しているわけですから、答えはいつも「ノー」ということになると思います。 ただケイティの方法がとてもやさしいところは、2番目の答えが、たとえその時「イエス」であったとしても、それを問い詰めたり、無理に変えようとしないところにあります。ですから、彼女が意図していることとしては、ただ相対的な現実のなかで起こる出来事についての考えやジャッジメント(決めつけ)から、各人を自由にすることだけを目的としていると思います。 ここで相対的な現実が、私たちに何をもたらしているかについて考えてみましょう。私たちの相対的-物質的宇宙の中では、ある考えがあり、その考えが自分の外側の世界のなかで自分の思ったような効果や結果を生みだすとき「その考えは正しい」と考え信じることはできます。 実際、私たちが何かを時間的なプロセスのなかで、何かが起こっていることを認識する場合、最初に物事について考えをめぐらす人がいて、それを外側の世界という自分の記憶に基づき定義されている考えにそってそれを見ます。その見ていることについて、自分の考えていることの“間”に“違い”を見る場合、あるいは今までこの世界で学んできた記憶と見ている結果にズレを見る場合、そのことを私たちは「間違っている」と考えます。 ここで、その思考の流れに気づいて、逆に、“間”に“違い”があると考え信じるようになったから、私と私の見ている世界がまるで違う生きもののように見えてくると考えたならどのような見方ができるでしょうか? つまり、「私と私の見ている世界に違いを見ないという生きかた-ありかた-をする」ということです。 「正しい」と「間違っている」という考えは、物質的な宇宙という分離した世界を真実だと考え、それを前提に物事を考え、知ろうとする視点のなかでは、相対的な評価をつねに生みだし続け、そのような事実が存在しているかのように見えます。 また、「相対」という言葉が示すとおり、自分とは違う何かが存在すると考え、分離を前提とし、その考えを真実あるいは事実だと考えている世界のなかでは、主体と客体の見方が入れ替わった状態において「どちらの見方も正しい」ことがあり得る状態をつくりだすこともできます。 しかし、相対的な現実は、つねに逆の効果も生みだし、主体と客体が存在している限り、「どちらの見方も正しくない」、「何が正しいのかすらもわからない」、あるいは「真実は、相対性あるいは、目に見える世界のなかでは-存在できない-存在しない」ということもできます。 真実とは、真(まこと)が実ると書きます。もっとも重要な考え方として、相対的な真実の視点から物事を見るか、あるいは相対的な状態を無くした状態、またそれをこえた「存在-ある」の領域で、すべてを見直したとき、どのような真実-現実-が見えてくるかとうことだと思います。相対的な状態がない状態は、私たちは、毎晩深い眠りのなかで「私は身体である」という意識を忘れたとき、一時的に消え去ります。これは身体にとって眠りの状態に陥ったときですら、相対的な現実は存在できなくする-相対的な現実が忘れられる状態がある-ことを意味します。 また、「無意識」とはどのような状態でしょうか? 無意識に共通する要素として、「眠り、忘却、夢の中、物理的には死に近い状態」に身体意識が入っている状態ということができます。身体としての意識が“無い”状態は、「無意識」あるいは「無自覚」な状態と呼ぶこともありますが、ここで別の見方をすると「無意識」という存在の状態が“ある”ということになります。つまり、無意識の状態とは意識が自覚してはいませんが、存在しているということです。ですから、無意識という状態のなかに意識が“ある”という状態が存在していることになります。 そして、最後に残るのは、「存在-ある」という状態です。私はこの存在の状態を“悟り”あるいは“真の目覚め”だと考えています。つまり、“無い”は、実際には存在せず「幻想、夢、眠り」であり、その状態から意識が目覚めれば、すべてが“ある”という真あるいは純粋かつ完全な意識の状態が“ただある”ということです。 私たちが日常的に体験している現実と考え、信じていることのすべては、人生-人間の身体と意識が結びつき、人として生きている間の記憶-が、朝起きたときから、何度も映画が上映されるように流れだす状態だと考えることができます。私たちの人生を映画を見るような状態で見直すとき、実際そのようになっていると思います。 あるいは、私たちは誰もが、私たちの人生-ある名前をつけられた私-主人公が外側との関わりなかで演じる物語-映画の台本、あるいは無意識の中にある、名前をつけられたある人生の記憶に基づく-考え-を演じ続けていると考えることもできます。 もっとも、私たちの人生と映画との違いは、ある主人公の物語の短縮版-始まりと終わり-を2、3時間のドラマや映画として客観的に見るのではなく、朝起きるとともに、それを自分自身の人生として台本の行方がわからないまま流れ始め、意識が今の身体と完全に離れるまでを体験します。それが、通常の自分の人生だと信じ続けている状態にあると思います。 ケイティの問い直しの技術は、私たちの演じている物語-ドラマ-を一時停止し、無意識のなかでドラマを演じている自分を見つめる方法と言ってもよいかもしれません。私たちが自分の考えを見つめ、問い直しているときは、いつでも無意識-人生の台本・記憶-を参照している状態にあります。 私たちはこの無意識の台本のままを「ありのままの自分」と考えて、人生を終了することもできますが、それとは別のあり方がまた存在していると私は考えています。 その別のありかた-生き方-とは、私(主体)と私が見ている世界(客体)を越え、無意識から“目覚め”て生きるというありかたです。この“真の目覚め”のことを、別の言葉で「悟り」と呼ぶこともできます。 ここでもういちど「真実とはどのような状態であるか?」を問い直してみましょう。 それは、「永遠に変わらない」ということも意味すると思います。 そう考えたとき、あったりなかったりするような不安定な無意識な状態や、相対的な物質宇宙のなかで、人生の記憶が現れたときにだけ起こる、ある対象に対して感じる気持ち、「許せない」あるいは「許すべき」と考え信じていることは、真実ではないと思います。 ケイティの「許しというのは、起こったと思ったことは起こらなかった、つまり、許すべきことなど何もなかったのだということを発見することだ」という言葉の真意は、私たちの信じる現実そして無意識をさらに超えたところに立ち、分離を越え、俯瞰してすべてをひとつである視野から見る姿勢やありかたのことを言っている、と私は考えます。 このようなケイティの見方を裏づける事実が、少し前に医学関係者あるいは科学者によって発見されました。その事実は、私たちが赤ちゃんの頃、「ミラー細胞」という身体の仕組みを利用し、外に見える世界をただ無邪気にマネをすることから、ここでの現実と意識が結びつき学習が始められる、という発見です。 それによってわかることは、赤ちゃんの頃の私たちの意識あるいは認識の状態は、本来、外側の世界と区別がほとんどなかったことを示していると私は考えます。その状態から、意識が身体と“同化-同一視”していくにつれ、私と私と違う何かがある、ということをどんどん現実化していく仕組みがあると考えることもできます。 ここで、今日のケイティの「だから、苦しいときには、問い直し、自分の考えを見つめ、自分を自由にし、子供になろう」という言葉を思い出すとよいかもしれません。 赤ちゃんとしてこの世界に生まれてきたばかりの私たちは、私と私の見ている世界に区別がなかった状態が本来の姿であったということです。ですから、最初の間違いは、「私と私の見ている世界を違うモノだと考え、信じ、それを問い直していなかった」ことにある、とケイティは言っているように思います。
2009.11.03
コメント(2)
ケイティ語録18-1の続きです♪ ここで少しだけ、私が体験した「存在-ある」の状態について、私のつたない言葉で表現したいと思います。その体験は、私が東京で3in1キネシオロジーのワークショップに始めて参加したときに起こりました。そして、ワークショップの番外編で、お互いの心臓の音を聞きあうというワークを行っていたとき、その不思議な状態に入る前触れがありました。 順番にお互いの心臓の音を聞きあうことになり、私が一人目の方の心臓の音を聞いたとき、ドクンというような心臓が割れるような感覚がまずやってきました。そして、私が二人目の方の心臓の音を聞いたとき、その鼓動がとても大きくなっていき、急に苦しいような切ないような気持ちになりました。そのあと、深い絶望の闇のなかへと沈み込み、ガラガラとこの世界が崩れ去り、私自身も足元から地面が割れたところへ落ちていくような感覚に陥りました。そして、私自身が消えてしまったと感じました。 またその瞬間に、私のまわりの景色、そして私自身も消え去り、光そのもののなかいることがわかりました。その状態にあるときは至福としか表現することができません。つまり、全ての感覚を同時に感じるエクスタシーのなかにあり、何も考える必要すらなく、「ただすべてを感じる」「わかる」「完全にある」という強烈な状態でした。 その私の身体としての意識が消え去っている間、私の身体がどのように見えていたかを、そのセミナーの主催者が、ミクシィを始められたとき尋ねる機会がありました。意識が跳んでいたときの私は、ただただ涙を流していたようでした。私は自分の身体のことを完全に忘れていて、その至福になかに完全に包まれていました。そして、あるとき、ふと我(私)に帰ると、みんなが私の周りを囲んでくれていて、私をいろいろな言葉で励ましてくれているのが聞こえてきました。そして、人との一体感にも包まれ、幸福なひとときを体験させてもらいました。私は、今でもその体験を決して忘れることができません。 ですから、私にとって「真実とは何か?」と誰かに尋ねられたなら、その存在の体験がいつも私にとっての真実(の基準)ということになります。今までの人生の中で、その体験と比較できるものなどはなく、存在の状態は、肉体的な体験、思考、そして感情的な一時的な幸福感のすべてを越えており、その状態より素晴らしい状態があるとは思えないからです。 そのような私の体験と、その当時学んでいた上記の思考体系や技術は、表面的にはとてもよく似ているモノではありました。しかし、どうしてもうまくいかないことがあり、「やがてどこかで何かが違う」という違和感を私に与え続けました。 最終的にその違いに気づいたのは、「奇跡のコース」「神の使者」という本がきっかけでした。それまでは、なにがどのように私の得た体験と異なるのかが、どうしてもわからなかったのです。そのような意味で、本という媒体を通しての学びではありますが、意識的にいろいろな思考や信念体系を、いつも見直す作業をつねに怠ってはいけないと思いました。 それらの思考体系の見直しによって、私があらためて気づいたこととしては、上記の考え方のすべては、二元性の考え方を完全に放棄しきれていない、ということです。つまり、私が感じていた違和感は、完全かつ純粋な意識である存在、一切の分離が存在しない状態とは、明らかに違うことに意識的にもわかりました。つまり、その存在-ある-の状態において、ちがう何かが存在するという考えのかけらなどはまったく存在していませんし、私という意識すらも考えられない状態になるわけです。 ですから、完全かつ純粋な意識の状態と、暗闇そのものである無意識そして、そこから作り出された自我を真実と考えている間は、以前とした闇の中をグルグル空回りを続けることになり、決して真実へたどり着けない分離の壁を残してしまっている、という結論に至りました。 つまり、上記の思考体系を前提にしたままだと、完全かつ純粋な意識の一部が“意識を無くした”と信じた瞬間である無意識そして自我(バラバラな自分が私であるという考え)を存在の源だと錯覚し続け、無意識の世界を自分の居場所や遊び場だと勘違いし続けることになります。その結果、一時の形の中に見える幸せこそが、自分の到達し得る楽しみのすべてであると信じ続けることになります。 それらの思考体系を前提に考えるとき何が起こるかというと、神が私たちを地獄(物質という重力の支配下にある不自由な牢獄のような世界)へ送り、その無意識の神が作り出す人生のプログラムは神のみぞ知るということになります。そうなれば、すべての責任は神にあり、神がこの愛と憎しみに満ちた、不完全で出来損ないの世界を創造したなら、私が何をしてもいいはずだ、ということが正当化されるようになります。 つまり、二元性の世界を神が創造したと信じ続けるなら、かつての宗教や哲学を、ニューエイジあるいはスピリチュアルという名前に置き換えただけになります。ですから、二元性を信じる限り、私たちと神はつねに切り離され壁があることが現実だと考え続けられることになります。そこで、もし存在-神-が分離を創造したとするなら、それは私たちが変更することなどできないでしょう。つまり、私たちは無意識が神と考えるとしたら、それによって作り出された「輪廻転生」の世界の夢を、永遠に回り続けるしかないわけです。その中で、どうやって救いを見いだすことができるというのでしょうか? そのような相対的あるいは二元性の考えを、自らの意識的な選択によって放棄しない限り、無意識の世界-輪廻転生の宇宙、あるいは*メビウスの輪を無限だと信じ、結局、同じ無意識の中を堂々巡りし続けることでしょう。 *メビウスの輪は、無限大のシンボルとしてよく紹介されていますが、よくよくそれを見るとわかるように、それはまさに無意識-二元性-あの世とこの世をめぐり彷徨い続ける魂を現すイメージ、シンボルと言ってもよいように思います。無意識が消滅したときには、それはただの記憶となり、光のなかにそのシンボルが完全に溶けこむような状態になると思います。 ですから、私たちは無意識を越え、バラバラな意識が存在していないところ-真の故郷-存在-を自らの心が選ぶ必要性があります。 つまり、選択の本質は、「全か無か(すべての存在としてあるか、無・夢のままであるか)」の二つしかないということです。 私たちは、この物質宇宙のなかに生きていると信じている間中、本当の意味で自由な存在として生きるためには、無意識のなかにいない真の自己に気づく必要があります。その真の自己を発見するために、この世界がどのような仕組みでできているかをまず理解し、自らが主体的になり、今何を選ぼうとしているかに気づき、自らを、真実-存在-すべて-の視野へ戻し続けなければなりません。 そのような意味で、ケイティはそれを「エクササイズ」だと言っていると私は考えています。 無意識は、完全な意識から創造された意識の一部が眠りについたときできた境界点と考えることができます。それが自己喪失、自分探しの旅、放蕩息子の話のメタファー(暗喩)だと思います。そして、形而上のなかにある夢のなかで様々な次元、あの世の概念のイメージ映像の宇宙、そして、形而下においては、さらにそこから相対性-物質宇宙がビックバンという形が現れ出た(ように見える)のかもしれません。 ここで無意識のおもしろいところとして、形而下の世界においては「私は身体である」という意識が眠りにつくとき、無意識に入るという構造があります。つまり、私たちは毎晩、この無意識の世界へ行き来する状態をくり返しているということです。 このような無意識の構造から、無意識の世界こそが、“無い-夢-幻想”だと気づくと、無意識によって作り出されたようにみえるあらゆる複雑さ、難しさ、を選ばないことができるようになると思います。 また逆に、存在としての唯一の自己から今を始め続けるなら、私たちが本来持っている完全かつ自然な姿を取り戻すことになります。 無意識は、本当の自分を忘れた夢であり、闇の中に自分を置いたがゆえに、そこに自らの意識によって物質的な現実を存在させているように見せていますが、それは消えたり現れたりする状態ですから、そのすべては真実とは言えないと思います。 世界という私の無意識が見せる世界-宇宙-に抵抗せず、完全な意識-存在-として、まず私自身の見方に責任をとるとき、すべてが私を思い出すための贈り物だと自覚できる日が来ると思います。 まずは私自身が、いつもそれを望むことを選び続けたいと思います♪
2009.11.01
コメント(4)
予期せぬことがなぜ私たちに起こるのか、その美しい理由に気づくと、人生は不可解なものではなくなる。 「この予期せぬ出来事が、私に起こったのではなく、私の“ために”起こった本当の理由を考えてみる」というのはゲームではない。 それはエクササイズなのだ。 それは、あなた自身を現実(つまり物事の性質のやさしさ)に引き戻す方法なのだ。 ******************************** 第8章-P227 「予期せぬことがなぜ私たちに起こるのか?」 ケイティのこの問いかけについて私も考えてみました。その予期せぬことがなぜ起こるかというと、そのすべては、自らが作り出した無意識の世界に気づきなさい、ということだと思います。つまり、今も存在しているように見える私と私の世界は、実際には存在していない、という真実に気づくためだけにあるということです。 ケイティの打ち出している「人生を美しく変える4つの質問」と主体と客体を「ひっくり返し」て考える技術の目的および意図していることは、『相対的な現実のなかに真実はない』という結論を導きだすことになると私は考えています。 つまり、私(主体)と私以外の誰かや何かあるいは出来事(客体)があると信じ、自分の期待に反する出来事を真に受け、真実だと信じたときには、つねに世界という客体を中心に考えていて、その状況はいかにも“私に”起こったことのように見えるわけです。 そこで、ケイティの「4つの質問」の中の2番目の「それが本当だと絶対に言い切れますか?」と問いかけることにより、相対的な事実から、絶対領域から考えなおすきっかけを生みだすことになります。 その過程において、主体と客体の構成要素-人生という夢の投影元-である私(たち)の無意識(夢の総体)を見つめることを通して、バラバラかつ自動的に機能しているようにみえる主体と客体のすべては、私が完全な自己から離れたと信じ、“その意識を無く”した瞬間からすべてを見直すことになります。その状態で、主体と客体が織りなす無意識を見つめるとき、その2つを越えて見つめている自己が存在することに気づき始めます。 また、相対的な見方から、自己探求つまり「問い直し」に入るとき、予期せぬことが私たちに起こっているように見えますが、私(主体)と私と違うように見える出来事(客体)を、「ひっくり返し」の手法によって見つめ直すと、自分に起こったように見える出来事のすべては、「私が起こしている出来事」として眺めることになります。 ケイティのプロセスは、まず真実は、相対的な出来事の中に見つけることはできないということや、この物質世界の中でくり広げられる善悪などの二元性の視点は、すべて見方-考え方-次第であることを明確にしてから、ワーク-信念体系の見直しに取りかかります。 そして、ワークシートの「ひっくり返し」のプロセスによって主体と客体の逆転を行うことで、私に起こっている出来事を、“私が起こした出来事”という気づきを促します。 そして、自らの人生の出来事のすべてを、主体である“私”の探究へ連れ戻し、そこから見直すように仕向け続けます。また、その時はじめて無意識(主体と客体が織りなす世界)に翻弄されていた人生が、自分の無意識を見ていたと気づくわけです。そして、真の私、「本当の私は誰か?」、唯一の視野から、その間違った考えを自らが生みだしていることに気づき、ただそれを自らが訂正するだけで、ここでの現実-人生のすべてを完全に自分への贈り物として受け取れるようになります。 「その美しい理由に気づくと、人生は不可解なものではなくなる。」というケイティの言葉は、主体と客体(無意識、二元性が価値あるモノと考える複雑さ、分離の概念)の超越を意味していると私は考えています。 ほんとケイティのメソッドは良くできています。 彼女は天才ですね♪ ところで、今の私を育ててくれた考え方のなかに「ダ○○ネティックス」と「サ○○ントロジー(応○宗○哲学)」という現在、海外ではカルトとして指定されている考え方も、私に大きな影響を与えています。そして、それ以外にも「神との対話」、3in1キネシオロジーという2つの考え方と方法論を長期間信じ実践してきた経緯が、私の中にあります。 上記の考え方はすべて、「人生はゲームのようなものだ」と考えている節があります。この思考体系のなかでは、以前として分離の存在を肯定しているからです。 たとえば、「サ○○エントロジー」のピクチャーブックから一部抜粋しますと、 ゲームとは人対人の、あるいはチーム対チームの競争を意味します。(中略)。ゲームの要素を研究することによって、私たちは自分自身がその人生を所有していることに気づきます。人生はひとつのゲームなのです。ゲームは、自由、障害、そして目的から構成されています。ゲームする能力は、参加への選択権を伴い、自由と障害に対する忍耐力と目的への洞察力から成り立っています。これら4つの要素-自由、障害、目的、そして選択権-が人生を導く要素です。 とあります。確かに「人生」を事実だと考える視点における洞察においては、その通りであるかもしれません。 しかし、私たちの源-存在-の状態において、唯一者とそれが生みだした創造以外に何も存在していないという絶対領域の考えを導入したとき、上記の思考体系はどうなるでしょうか? そう、ゲームで競う相手など存在することもありえないので、無意味な考えとなります。またゲームの必要性など最初からありませんし、唯一者と唯一者が創造した考えのなかでは、すべてがそこにおいて完成されているわけです。ですから、そのような考えこそが存在し得ないし、誰かと競い合うという概念自体が、まったくもって馬鹿げた考え、ということになります。存在は、存在する以外に何も必要が無く、そこから生みだされた存在の考え-生命-意識-は、存在の愛する偉大な子供たちでしかあり得ないからです。 18-2へ続きます♪
2009.11.01
コメント(3)
全21件 (21件中 1-21件目)
1