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6月24日(月)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (32) 作歌机辺私記(97年7月)「文学の血」昭和九年五月五日、中村憲吉が尾道市千光寺山腹の病気療養のために借りて住んでいた寓居で死去します。その家が長く荒れたままとなっていたのを市が補修、「憲吉終焉の家」として公開、保存されることとなりました。たまたま、わたしの八十四歳の誕生日でもありました。家は千光寺に登る急な坂と石段の途中にあり、尾道水道を眼下に見下します。「千光寺に夜もすがらなる時の鐘耳にまぢかく寝(い)ねがてにける」の歌碑が地元の人らによりすでに建てられています。四女の裕子さん、五女の礼子さんも参加され、共にテープカットをしました。山はつつじが咲き盛っていました。式の後、市の小会館の一つで記念講演をすることとなっていて、そのために、久々に憲吉の全作品を予め読み返す機会を持つこととなりました。そうして、そのようにしながら、わたし作品生涯に、憲吉の歌の影響というべきものが、最も底のところで意外に深く滲透しているのを、改めて気付くことともなったのでした。わたしが「アララギ」に入会したのは昭和六年末、憲吉選歌として作品がその誌面に掲載されたのは翌七年二月号のころだったでしょうか。その最初の師でもあるべき憲吉は間もなく病状悪化のため選歌を止め、九年には死去します。わたしが実質的に師事したのはそのわずかな間だったのですが、わたしの作品の最低辺のところに今もある影響とは何なのか。そのことを思い、歌集を読み返し、一種の感慨を抱いてその日の小講演の壇に立ちました。その『馬鈴薯の花』から『林泉集』『しがらみ』『軽雷集』から遺歌集『軽雷集以後』に至るどれも、歌を作ろうとする初心の日に傾倒として読んだものとして、わたしの今日に至る全作品の原型とも知らずなっていたのでしょう。その一つが、対象を、その微細な部分においてうたい把える技法の機微ともいうべきものではないでしょうか。それを「写生」ということばで憲吉は語らうとします。「散るときも牡丹の花は美しき一日のうちに重なりて散る」の「一日のうちに重なりて散る」の部分です。最初の師の憲吉の死後、わたしはわたしなりの作品生涯をたどり、わたしの短歌世界は憲吉のそれと大きく隔たるものとなったと人は見るかもしれませんが、そのことと別に、抜き難いまでに受け継いで来たものがあったはずです。「文学の血」としてかって書いたことがあります。わたしが憲吉から承けたその「文学の血」であるものを、今、有難いものとして思い返そうとしています。あわただしい日程の中、尾道の町に出掛けた思いもその中にあります。わたし自身はその憲吉に連なる最も末端の門人のひとりでもあったのです。(1997・7)
2024.06.24
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6月24日(月)歌集「未知の時間」(前田鐵江第一歌集)(6)2014年5月25日発行:角川学芸出版*:駿東郡清水町在住の歌人。元静岡県歌人協会常任委員(同じ時期わたしも常任委員でお世話になりました)(注)若い頃父上に反抗した頃を思いだした歌の後に、次の歌があります。 台風の夜更けの駅にずぶ濡れの父が立ちをりきわが傘を手にこの歌を読んでわたしは、これが短歌だと叫んだのでした…Ⅰ 1980年~1990年(5)わたしの名前(一九八三)(3)隣席の女項垂れて降りゆきぬつぶやきひとつ床におとして餌を売る自販機ありてどの鯉も肥満体なり忍野八海帰省せる息子の注ぐ酒をひと息に呷りて夫は饒舌となるあたらしき戦場の夢か耳馴れぬ敬語など言ふ夫はねごとに (つづく)
2024.06.24
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6月24日(月)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。土屋文明私論(ニ)「国ありて始めての時」まで(1)その唯一の青春歌集でもある第一歌集『ふゆくさ』の、浪漫性、ないし西欧的リリシズムとも呼ぶべき世界の自己否定の上に、土屋文明が、壮年の都市生活者知識人として実人生に立ち対う、あらあらしい現実主義短歌を模索し確立し展開していく時期が、それにつづく第二歌集以後、すなわち『往還集』『山谷集』『六月風』、さらに『少安集』の相次ぐ刊行の間であったとするなら、その期間は同時に大正末年から昭和十六年太平洋戦争開戦に至る、日本の近代史の、激動と、暗澹とした悲劇下の一時代でもあったと言い得る。そうであればそこでうたわれるべき作品は、もし土屋文明が真正の詩人であるならばその生きる現実から逃れてあるはずはなく、その生きる歴史と関わらずしてあるはずもなかった。みずからの文学の自己否定といい、模索、確立、展開といい、すべて同様である『ふゆくさ』の世界を脱し『往還集』以後『少安集』にかけての制作の経路は当然屈折し、作品自体もまた多様であるが、それらの間を縫い、それらの間を通してうたわれていったものが何かを把え出すことが、土屋文明という一現代歌人の意味を考えることともなろう。『往還集』が刊行されたのは昭和五年であるが、作品は大正十四年に文明は長野県の中学校長の職を捨て上京、法政大学予科教授となる。三十五歳。以後、都市生活者としての人生がつづくはずだが、それはどういう日であったのか。年表によれば、大正が昭和と改元された翌年、金融恐慌が発生、さらに昭和四年にはアメリカのニューヨーク株式市場暴落に起因する世界恐慌がこの国に波及する。日本に経済不況がひろがり、農村は貧困にあえぐ。そうして、その中から兆されていくものを恐れる国家権力による、三・一五事件、さらに四・一六事件などという陰惨な思想弾圧がつづく。治安維持法が大正十四年に公布されている事実もこの時点で象徴的なのであろうか。しかも、そのような間において「日本無産者芸術聯盟」が生まれ「プロレタリア作家同盟」が結成され、弾圧による共産主義思想の退潮に一見逆流するかのようにプロレタリア文学運動が隆盛する。短歌の場合も同じである。「プロレタリア歌人同盟」が生じたのは昭和四年、当時青年歌人が競って参加した。昭和初年、生き方を求め苦悶する日本知識階級にとって、いわゆるマルキシズムは良心の問題であったという歴史を見過ごしてはならない。繰り返せば、その時期が『往還集』の作品の日々であった。休暇となり帰らずに居る下宿部屋思はぬところに夕影のさす巻頭の一首であり、それに始まる、感傷を断った、表面無感動ともいえる歌集の日常生活詠その他の作品の世界を、何のゆえにという問いと共に絶えずそうした歴史背景と重ねて見ていかなければならないのであろう。かぜひきて食欲のなき夕食に塩鮭を買ひ焼くをたのしむ蕨汁に鰊を入れて食ふことを妻も子供もよろこびとせず父死ぬる家にはらから集りておそ午時に塩鮭を焼く日常生活詠、あるいは小市民生活詠ともいえよう。都会の一隅に、その生活を守って生きる小市民としての思いが乾いた感情としてうたわれているが、それはそのまま、次の『山谷集』或いはそれ以後の歌集にもつづく。 (つづく)
2024.06.24
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6月24日(月)短歌集(316)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版吉田正俊(17)疎まれつつ死にゆきしかばみ冬づく庭の牡丹も囲ふ人ぞなき韮にら切りて逝ゆく春の日の疾風ときかぜよ埃ほこりをあげてただに吹きゆくはたざをを培つちかひたりし吾が過去の何ぞ鰊にしんを焼けば思ほゆ悲しみは悲しみをさそひ果てしなし来りて仰ぐ紅梅こうばいの花職を求むる若き数多あまたにたじろげば怒いかりは何に向ひ放はなたむ (つづく)
2024.06.24
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6月24日(月) 昭和萬葉集(巻十三)(182)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅲ(20) 過疎化する農村(20)米づくり(4)本田南城田植ゑ終へて早苗振(さなぶ)り酒に酔ひし夜は泥の匂ひを持ちて眠りぬ神吉幸子冠水にいたみし苗を差し替へて今年の永き田植も終る吉田恵弘植ゑ終へて並びよろしきさみどりのいや濃き早苗風に揺らるる中井正義股引(ももひき)をふかく濡らして田舟曳く夕べかなしもみづからの呼吸(いき) (つづく)
2024.06.24
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6月23日(日)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (31) 作歌机辺私記(96年8月)「赤彦の骨格」小さな文章を求められて書くことがあり、そのために、久々に島木赤彦の歌集を読み直す機会を持ち得た。『馬鈴薯の花』『切火』『氷魚』『太虗集』ないしは遺歌集『柹蔭集』などがあるが、赤彦独特の世界が確立していくのは『氷魚』以後、むしろ『太虗集』『柹蔭集』の時期と思ってよいであろう。わたし自身の回想をいえば、それらの歌集を、遠く少年期、短歌という一詩型を文学として知っていく最初の日に啄木や茂吉らのものと同様に読み、そのことをわたしの短歌生涯の出発点ともした。否、今さえ、赤彦の短歌は遥かな時を隔てて、わたしの短歌の、抜きがたい原点の一つともなっているのではないかとさえ思っている。その久々の歌集を読み返しながら思ったことに、短歌の「骨格」とも呼ぶべきものがある。赤彦の晩年の作品にかけて形成されていく、その「骨格」の意味である。三十一音律の一詩型の上に、作品一首、ゆるぎない完成のことであり、「骨格」の正しさ、「骨格」の厳しさ、ないしはそこに自ずから具わっていく気韻ともいうべきものであろうか。それを知り、それを求めて晩年にかけての赤彦は「写生」ということをいい、「鍛錬道」ということをいい、あるいは「寂寥所」「寂寥相」などということをいい、そのためにまた周囲に誤解と反感を生みながら孤独な求道者としての一短歌作者であることの道を自らに課し、自らに律し、『太虗集』『柹蔭集』の諸作品をわたしたちに残した。その赤彦の作品世界は、その日において、言い換えれば日本の近代短歌史の大正から昭和初期にわたる時期にかけて、一つの典型ともされていき、やがて、読むことがやや忘れられかけようとしているともいえる。それら峻厳な自然詠、人生詠が、同時に免れ得なかった自己限定の狭さともなり、その死後において、わたしたち読者の側も昭和初期の歴史激動を見て生きなければならなかったためもあろう。わたしの若くして所属した「アララギ」内部においても、土屋文明を中心において、かって赤彦、ないしは赤彦によって統率された歌風に対して批判、反撥がひそかにあり、そのことが、自ずからな評価の仕方ともなっていったことがあったのではなかろうか。それは短歌の世界全体にわたって、同じくひそかに、今日に続いているともいえる。だが、そのことと、赤彦作品に具わる、短歌一首完成のために求道者のような厳しさのうえでの「骨格」の意味とは違う。わたしたちはすでに赤彦のように湖の氷の上の三日月の峻厳世界はうたえないのかもしれないが、そこにあった短歌一首完成、ないしその「骨格」ということの示すものを、やはり学び、自らの作品のこととして見定めておかなければならない。(1996・8)
2024.06.23
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6月23日(日)歌集「未知の時間」(前田鐵江第一歌集)(5)2014年5月25日発行:角川学芸出版*:駿東郡清水町在住の歌人。元静岡県歌人協会常任委員(同じ時期わたしも常任委員でお世話になりました)(注)若い頃父上に反抗した頃を思いだした歌の後に、次の歌があります。 台風の夜更けの駅にずぶ濡れの父が立ちをりきわが傘を手にこの歌を読んでわたしは、これが短歌だと叫んだのでした…Ⅰ 1980年~1990年(5)わたしの名前(一九八三)(2)コンプレックス持ちつづけゐしわが名前堂堂と書く傘寿の色紙に梅雨の雲霽れて棗の梢に差す日はさらさらとさらさらと午後東北なまりのガイドの声になごみつつわれのみのバス終点に着く頬ずりの痛き記憶のかなしけれ父はうぶ毛のごとき髯剃る (つづく)
2024.06.23
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6月23日(日)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。土屋文明私論(一)「擬輓一連」をめぐって(3)茂吉と文明の間に八歳の年齢差がある。だが、明治から大正初年にかけて、彼ら二人の少年期、ないしは精神形成期を生きた時代の推移は急である。自然主義を内面体験として経過したかしなかったかは、両者の文学の根底であるものを分けることになる。青年となった土屋文明は出京、伊藤左千夫を頼ってその牛舎で働こうとし、翌日、すでに東京帝大医科大学生となっていた茂吉と出逢う。「アララギ」の先進とし、新鋭の歌人とし、文明はその奔放な詩才の前に最初に立たなければならないこととなる。文明の上京は明治四十二年、後に『赤光』として世にむかえられることとなる茂吉の青春作品がようやく絢爛とした開花に向かおうとしていた時期であった。そうして、その茂吉の文学の上に文明が見たものは何か。ないしは眩惑としたものは何か。いうまでもない。そこにあった西洋世界の香気であろう。茂吉の場合、わたしはそれまでの日本詩歌にはうたわれようとはしなかった人間の内面的なもの…内面性と端的に考える。あるいは、茂吉自身、後年「写生」の「生」ということばで語ろうとしたものであったかもしれない。そうであれば、文明もまたそこから歩み出さなければならぬ。その、未知であったものの眩惑を全面的に受けて、といえる。楢原の春の若芽に灰ふる日木の間にうすき影をふみつつなどの初期の作品から、鼻をよせ口をゆがむる汝がくせの幼きにしては淋しきものをのごとき後期作品に兆されていくものへの第一歌集『ふゆくさ』の歌風の遷移の過程も、それを、茂吉の影響と、そこからの脱出の苦渋の経過として見ていくことが出来よう。『ふゆくさ』に、ひとすぢに南に向ふ白道をわれは歩めりゆふべといふにという一首がある。大正八年の作であるが、それに対比させて茂吉の『あらたま』の中の歌を引例する。あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけりたまたま、「道」という素材が一致するだけで、それ以上に意味はないが、ここからも両者に共有されるものと、相反し、隔絶していくはずのものとが見出し得る。茂吉の、具象というよりはむしろ抽象に近い、描線を消してしまったような表現を通してうたわれる内面性、むしろ瞑想性ともなすべきものに対し、文明の場合、あまりにも明晰であり、理知がまとう。茂吉に近付こうとしながら、茂吉の全身的な詩の陶酔とついに無援のところで文明はついに迷い歩まなければならなかったのであろう。そうして、その脱出、ないし脱皮が『ふゆくさ』から『往還集』への転化だった。第二歌集『往還集』は大正十四年の次のような作品に始まり、それはそのまま、たとえば「擬輓一連」などを含む世界につづく。休暇となり帰らずに居る下宿部屋思はぬところに夕影のさす冬至すぎてのびし日脚にもあらざらむ畳の上になじむしづかさ脱皮を現実主義、自然主義的なものへの転化というなら、むしろ、それらにつづく以上の諸作品を例示した方がわかりやすい。
2024.06.23
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6月23日(日)短歌集(63)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版吉田正俊(16)かなしみは極(きは)まらむとす風さやぎ月の光の乱るるたまゆらしろじろと砂に光の流るればなべては過ぎてゆきしごとしもこの夕べ如何(いか)なることより思ひつき紙縒(こより)を作り始めしならむ作り並べし紙縒を見ればかすかなるものとし思(も)へど一人飽(あ)かなくに天(あま)の川(がは)かたむく夜半(よは)に縁(えん)に覚(さ)めこころは遠し一つ蜩(ひぐらし) (つづく)
2024.06.23
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6月23日(日) 昭和萬葉集(巻十三)(180)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅲ(19) 過疎化する農村(19)米づくり(3)水島伸介畦を塗る足より姪が吸いし血の泥足ゆえに殊(こと)更(さら)赤し三上久子水盗む百姓の所作も知りつくす盗まれつつもわれも盗めり佐藤正憲「稲が可愛さうで見てゐられない」うまいことを言ひながら水盗みあふ一ノ瀬 光暗き雨吹き荒るる新開田植ゑ急ぐ今日は冗談を言ふ者もなく板宮清治苗代の泥濘(でいねい)の中にひと日ゐて日の沈むころ虫歯が痛む (つづく)
2024.06.23
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6月22日(土)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (30) 作歌机辺私記(96年3月)「観念世界の開拓」この文を書いている今日は一月十三日、1996年の新年の後である。そうしてわたしはこの年、八十三歳になろうとする。すでに人生の老年であるのはまぎれもない。その1996年新年詠として朝日新聞に次のような歌を作っておいた。風に立ち掌に包む小さき炎とも英知を思え生き向かう未来このときに世界史を思う無明より人間が見て来し「知」の信頼に「ケ」と「ハレ」ということがある。新聞などのために作る新年詠などはその「ハレ」の歌であるべきだというわたしの考えがある。そうしてそのことの上にひそかにうたい続けようとするものがあることはかって旧著「歌い来しかた」のおいて触れておいた。その上で、このような歌を観念の歌、観念世界の作品というのであろう。新年詠にかぎらず、わたしの作るものにそうした作品が多くなろうとして来ていることは、たとえば若い加藤治郎なども指摘してくれている。ひそかに、そのことを意図しようとしているといえなくもない。一つには、老来、いきて触れていく世界がしだいに狭くなろうとし、逆に、関心の範囲が自らの内面に向けられていくのが多くなろうとしていることがあるであろう。それを「思想」と呼ぶことばでいっていいのかもしれぬ。うたうべき表現の衝迫の世界が、しだいにそこに向かおうとしているのを、わたし自身は長く生き、長く歌を作って生きたことの上の自然な方向のようにも思っている。その上で、その方向に、まだほとんど未開拓な、一つの歌の世界が切り拓かれていけるのではないかとも思っている。観念世界の歌であり、「思想詠」であるべきものと思っている。それは今までに、近代短歌の先進らによりうたわれることが少なく、むしろ、うたうことが避けられていた領域だったといってよい。あまり人の作品を読むこともなくなった中で、「アララギ」の、小暮政次さんの最近の歌に注目している。たとえば、 敢てねがふ尚しばし間の安らぎとその安らぎを包めるものをなどがある。小暮さんはわたしより五歳年長、夫人をもなくされた。その歌はしだいに自分の内面とだけ向かい孤独な自問自答を繰り返しているようなものになろうとしている。いわば、外部世界を絶った観念の歌であり、わたしたちの先進によってはうたわれなかった領域ともいえる。すなわち、老年の先に、まだまだそのような世界が未開拓の荒野のように残されているということを、同じ「未来」の、老年を迎えようとするみなさんにも思ってもらいたいことである。何も観念の歌、思想詠に限らない。(1996・3)
2024.06.22
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6月22日(土)歌集「未知の時間」(前田鐵江第一歌集)(4)2014年5月25日も発行:角川学芸出版*:駿東郡清水町在住の歌人。元静岡県歌人協会常任委員(同じ時期わたしも常任委員でお世話になりました)(注)若い頃父上に反抗した頃を思いだした歌の後に、次の歌があります。 台風の夜更けの駅にずぶ濡れの父が立ちをりきわが傘を手にこの歌を読んでわたしは、これが短歌だと叫んだのでした…Ⅰ 1980年~1990年(4)わたしの名前(一九八三)(1)つよくなれ祖父のつけたる名を長く生きてまはりにだあれもゐないわが名前略字に書けば金偏に失ふなれば金運拙し「高価にて金を買ひます」わたくしの名前の金は非売品です「鐡は金の王なる哉」ゆゑ気に病むな後藤直二氏ハガキくださる (つづく)
2024.06.22
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6月22日(土)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。土屋文明私論(一)「擬輓一連」をめぐって(2)ただし、これら二つの挽歌を対比させるためには、素材の共通という一点を別にしていくつかの留保条件を置かなければならない。一つは、茂吉の「死にたまふ母」の制作が大正二年であるのに対し、「擬輓一連」が作られたのが昭和十四年、その間二十六年という歳月の経過があり、しかもそれは単に歳月の経過という意味だけではないということである。言い替えれば、大正初年がまだひとりの青年の詩的陶酔を許した時代であったとすれば、昭和十四年はもはや日本が戦争の苛酷な歴史に向う日である。その間の時間を、わたしたちは見ずして二つ連作の世界の違いを考えることは出来ない。同様に、「死にたまふ母」を作ったときに茂吉は三十代に入って間もない青春の年齢であったのに対し、「「擬輓一連」の文明はやがて五十歳に至ろうとする。あるいは、五十歳の壮年に至るまでの人生遍歴を重ねている。生母の死という事実に向けて抱かれていく悲しみの内容はすでに同一平面のものではない。しかも、それらの留保の上に両作品の間には隔絶し合う世界がある。むしろ、対極として立つ何かがある。何なのか。文学の、質の違いであり、そのことは、その作者相互の文学質の相違として捉えていかなければならないはずのものなのであろう。「「擬輓一連」は昭和十四年の作品であるが、それに先行して、たとえば、『往還集』に「六月二十六日」として、酔ひしれてかへり来りし暁に仏のふみよむ何故となく父死ぬる家にはらから集りておそ午時に塩鮭を焼くあるいはその直前に、親しからぬ父と子にして過ぎて来ぬ白き胸毛を今日は手ふれぬ遠々と来て診たまへる君がまへにくどくど病を云ふ父を聞くなどがある。昭和三年から四年にかけて、同じく血縁である父の病、ないし死を素材としてうたわれており、その父は「彼はただ貧困の中に自らの物欲をあふりあふり生を終へたと言ふべき種類の人間であった」と作者みずからによって後年に回想されていることにより作品の輪郭を明らかになし得る。ついでに例示すれば、やはり昭和三年、「祖母を悲しむ」として、たてまつる枕花は損料といふかなや長き一生は足りし日なしに仏づくりかがまる骸ををさめまつる棺に虫くひの孔をさびしむ があり、死の悲しみでありながら、そこに詠嘆を介在させない現実凝視は「「擬輓一連」へそのままにつづく。ここでは血縁ということを越えて、さびさびとして人間の事実が突き離した眼で見定められている。そうして、そのことを理解する一つの鍵として、同じく「「擬輓一連」のなかに次の作品があるのをわたしたちは知る。すなわち「この母を母として来るところを疑ひき」から「自然主義渡来の少年にして」とうたいつづく最初の少年回想詠の一首の意味である。生母の死の事実に向かいながら、土屋文明はそのみずからの出生を疑った少年の日の追憶と共に、それが日本の「自然主義渡来」の時期と重なったという感慨を告白として告げる。文明が、自身の出生ないし少年期をやや語っているものとして第一歌集『ふゆくさ』の巻末雑記の文章がある。さらに、それは後年にわたり、たとえば次のような回想作品として幾度にもうたい繰り返されている。年若き父を三人目の夫として来りしことを吾は知るのみ 『少安集』夜ふかく父母争ふを見たりける蚊帳の眠よ幼かりけり 『往還集』父の罪に警察に偽証せし幼き夜の記憶打ち消しがたし 『山谷集』大阪に丁稚たるべく定められし其の日の如く淋しき今日かな 『白流泉』彼の生地は群馬県榛名山麓の農村、生家は「生糸や繭の仲買」を兼ねた小農であった。父はやがて石灰焼きなどの事業に手を出し、没落して都市流出者となって死ぬ。そうして、その少年期に、祖父である人が、「博徒に身を持ち崩した揚句、強盗の群れに投じ徒刑囚として北海道の監獄で牢死した」と同じく『ふゆくさ』の後記に記される一家の秘密をも知る。無言の周囲の指弾でもあったはずである。日本の、「自然主義渡来の日」がもし明治三十年後半、日露開戦前後にかけてとするなら、同じ時期に文明はそうした出生を負ったまま小学校から高崎中学生となり、その文学覚醒へとつづく。すなわち、彼が最初の覚醒とした文学とは、明星浪漫主義退潮の後に波のごとく海彼から押し寄せ、渡来して来た自然主義思潮であり、繰り返せば歌人としての出発はその日に重なる。負って生きる出生ゆえに、それは体ごと浴びた波だったとも言える。そうして、そのことを文明は作歌生涯の原点とし、茂吉はしなかったともまた言い得る。たとえば『赤光』に、書よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭呉れたまひたりはるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の実の熟める畑になどがある。日露戦争を背景とする初期の作品ではあるが、茂吉の場合、将来された自然主義は真正面からあびる波ではなかった。 (つづく)
2024.06.22
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6月22日(土)短歌集(327)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版吉田正俊(15)妥協なりて涙ぐみゐる若き四五人あり呆然ぼうぜんと見てゐる薄明はくめいの空そら窓あけてふれる白霜淡々と見てゐるこころ人には言はず (以上『黄茋集』より)氷こほりたる沼ぬまの上を吹く昼の風枯かれ葦あしむらにとよもして過ぐ荷車引き上のぼりなづめる馬を打つ人弱々し冬光ふゆかげの中冬の月の光さえざえと射す夜半の厠かはやにて吾が涙もよほす (つづく)
2024.06.22
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6月22日(土) 昭和萬葉集(巻十三)(180)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅲ(18) 過疎化する農村(18)米つくり(2)高野せいぎ田掻き馬川に洗へばふたすぢの鞭打ちしあと熱もちてをり冷害の稲の穂しごき田の畔の水に浸せばみな浮かぶ籾飯塚可男代掻ける田泥の波は畦越えて隣り田の澄む水を濁しぬ山本節子かがまりて田に水を引く吾の背に幼眠りて重さ増し来る橋本 顕一日置きに乏しき水を譲り合ひ隣田の友と畦塗り励む (つづく)
2024.06.22
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6月21日(金)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (29) 作歌机辺私記(95年12月)「重ねていく」「未来」も四十幾巻かの誌齢をすでに重ねて来た。そうして、それぞれに参加して来られたみなさんの多くも、誌齢と共に自ずから年齢を重ねて来られた。わたしも無論である。さいわい、わたしたちの雑誌には絶えず若い作者らが加わり、それがつねにみずみずしいエネルギーを満たして下さって来ているのも事実だが、同時に、長く共に歌を作って来た人らが、老いを増していかれるも止むを得ない。選歌をしながら、そうした長い作者らが、作品としての低迷を見せていくのに気付くことがある。この人もうたうことを失って来ているのではないかと思うことがある。うたう世界を失っていること、うたう感動を失っていくのではないかと思うことがある。ないしは「詩」であるものの枯渇といえるのか。作歌者として長く生き、老いというものがそれだけのことであったなら寂しいではないか。老いとは、世に長く生きてきたことであり、世に長く生き、その間にさまざまな人生を重ね、それをくぐって来たことでもある。そうして、とりわけてわたしたちが生きた人生とは、戦争と戦後激動とをはさんで、わたしたちの前に生きた人らも知らず、わたしたちの後に生きる人らも知るはずのない、大変な歴史の時でもあったとも思ってよい。その中でわたしたちには生きてくぐって来たことがあり、見て来たことがあり、知って来たことがり、当然、それらの上に思ってきたこともあるはずである。思ってきたものの上に抱かれるものが「思想」でなくて何か。それをうたえよ、といっているのではない。だが、みなさんの短歌が何らかの意味において自己表現であるならば、みなさんのうたうもののすべての底に、そのようにしてくぐり、そのようにして見、そのようにして知り、更には思いとして来たはずのものを、つねに、ひそかに重ねていくことを思われてよいのではなかろうか。ひそかに重ねていくことを、といった。ひそかに重ねていくために、そこにはみなさんの日常があり身辺があり、それら小些事の世界があるのであろう。否、老年というのは、しだいに世との関わりを絶って自らの周辺にのみこもっていくことであり、うたうことのすべて、その範囲になっていくことを逃れ得ない。それにも拘わらず、うたうものが自分ひとりの個のことであるなら、自分ひとりの個の心の世界が必ずあるはずであり、自分ひとりの個の思いの世界が必ずあるはずである。その心であり思いであるものの底に自ら重ねるべきものが何かをわたしは言ってきた。それは容易とはいえない。だが、容易でないからこそ、立ち対うに値するものなのであろう。老いの歌というなら、わたしたちにとってもまだまだ未達成の世界である。(1995・12)
2024.06.21
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6月21日(金)歌集「未知の時間」(前田鐵江第一歌集)(3)2014年5月25日発行:角川学芸出版*:駿東郡清水町在住の歌人。元静岡県歌人協会常任委員(同じ時期わたしも常任委員でお世話になりました)(注)若い頃父上に反抗した頃を思いだした歌の後に、次の歌があります。 台風の夜更けの駅にずぶ濡れの父が立ちをりきわが傘を手にこの歌を読んでわたしは、これが短歌だと叫んだのでした…Ⅰ 1980年~1990年(3)何祈るらむ(3)小綬鶏のするどく鳴きてまなかひを羽毛にまみれし猫よぎりゆくうつすらと塵浮く卓に幼児の手のあと残し家静もりぬすれちがふ人に告げつつ足どりのかろし行手に虹を見てより夢に来てこゑなく語る亡き人の喉ぼとけのみさめておもへり木守柿喰ひちぎりては風の中にとび立つ鳥の声の鋭き (つづく)
2024.06.21
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6月21日(金)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。土屋文明私論(一)「擬輓一連」をめぐって(1)土屋文明に「擬輓一連」と題される一連の小連作がある。この母を母として来るところを疑ひき自然主義渡来の日の少年にして年若き父を三人目の夫として来りしことを吾は知るのみ父の後寛かに十年ながらへて父をいひいづることも稀なりきこの母ありて吾ぞありたりし亢ぶり思ふべきことにもあらじ吾を待ち待ちつつ言に言はざれば待ち得て次の夜にむなしも葡萄をばよろこびとりて惜しみつつ西瓜おきたるを長くと思ひき枕なほれば歌をえらみて夜を通す弟三人酔ふにもあらず今日のため乞食一躯敬ひて鉦のこゑあり吾はぬかふす意地悪と卑下をこの母に遺伝して一族ひそかに拾ひあへるかもすすみ寄りその白きをば吾が抱く清らに今はなり給ひたり歌集『少安集』の中にあり、昭和十五年の発表作品とされる。昭和十五年の『短歌研究』一月号掲載とされているから、制作はその前年、昭和十四年末と想定される。すなわち、作者四十九歳のときの作品である。一連はいうまでもなく、その母の死のために作られた挽歌である。年譜によれば昭和十四年十一月七日、生母ヒデ、七十九歳で東京深川の弟筆司の家で没している。わたしは土屋文明の短歌について語らなければならない場合、しばしば、この「擬輓一連」の作品を、同じように生母の死を悲しんで作られた斎藤茂吉の「死にたまふ母」を想起し、対比することから始めていくのを例とする。なぜなら土屋文明の文学、ないし文学生涯ともいうべきものを確認する一方法として、わたしはつねに彼の先進者であった茂吉の存在を一方に置いて考えることが有益であり、必要でもあると知って来ているためである。茂吉の「死にたまふ母」がどのような作品であるかは記すまでもない。それがまた、詩人茂吉の出発にどのような意味を持ったかは語るまでもない。ただ、考察の必要のため一部だけを引例しておく。はるばると薬をもち来しわれを目守りたまへりわれは子なれば寄り添へる吾を目守りて言ひたまふ何かいひたまふわれは子なれば長押なる丹ぬりの槍に塵は見ゆ母の辺の我が朝日には見ゆ死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆるのど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなりさらに、文明の一連のうちの「意地悪と卑下をこの母に遺伝して」ないし「すすみ寄りその白きをば吾が抱く」に対比させるために次の二首も付記しよう。火を守りてさ夜ふけぬれば弟は現身のうたかなしく歌ふ灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり何が言えるのであろうか。土屋文明の場合、母の死に集るものは「弟三人酔ふにもあらず」とうたわれる肉親らであり、彼らは「意地悪と卑下をこの母に遺伝して」と詠まれる作者と共にひそかにその骨を寄って拾い合う。その場面は無論、都会の片隅の火葬場か何かなのであろう。一連を通して、血縁の死への悲しみは人生の日常の中に冷え冷えとした自己凝視を置いてうたわれている。それに対し、茂吉の弟は「現身のうたかなしく歌ふ」弟であり、「朝日子ののぼるがなかに」遺骨を拾う感傷である。母の死の時間の中には「遠田のかはづ」の声が天に満ち、「のど赤き玄鳥ふたつ」がその屋梁から見守っている。すなわち、繰り返せば一方が日常現実の間における血縁の死という事実の冷厳な凝視であるのに対し、他はそのことを「詩」という別次元に置いてうたった詠嘆なのであろう。「遠田のかはづ」も「のど赤き玄鳥」も、ここではすでに、現実のものでありながら同時に現実だけの世界ではない。あるいは、前者にあるものがリアリズムとするなら、後者を覆うのはそれを包んだ豊な詩的浪漫性と言えよう。 (つづく)
2024.06.21
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6月21日(金)短歌集(312)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版吉田正俊(14)枕(まくら)より頭もたげて吹きすぐる風をし聞けば早眠らえず暁(あかつき)の風をさまりししばらくをしとしと露(つゆ)霜(じも)おりぬべしかすかなる火種(ひだね)おこして虚(むな)しきに論(あげつら)ふ声いきほひながら包丁(ほうちやう)をとぎつつ思ふこの日ごろ何かしてないと心危いのを足袋(たび)にそへ賜(た)びし小豆(あづき)ををしみつつ掬(すく)ひ飽かぬかもこの年の暮 (つづく)
2024.06.21
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6月21日(金)昭和萬葉集(巻十三)(179)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅲ(17)過疎化する農村(17)米づくり(1)浅井喜作霜白き田に打うち初ぞめの幣ぬさたててあけぼのくらき空ををろがむ沢畑 実よしあしきとやかくいはずわれの田を心に足らふ肥土となすべし小島千代子代しろ掻きて泥平ならされし苗代に蛙の卵ちぎれちぎれに浮く中平彦作掻きし田のなめらかなるを田螺たにしあまた殻曳きずりて動き初そめたり (つづく)
2024.06.21
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6月20日(木)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (28) 作歌机辺私記(95年11月)「二首を一首に」月々の幾首かの作品を作ろうとするとき、それらが自ずから連作のかたちをとっていくのは、そのことを意識するかしないかは別として、今日では普通のことなのであろう。事実、連作という手法を用いて、短歌という小詩型のうたい得る世界が広がったことだけはいえるのであろう。何かで小説である人の、小説の書き方とでもいうべき文章を読んだことがある。小説を書き終えた後、その原稿の、書き出しの数枚と、書き終えるあたりの数枚を削除するという勧めである。そのことは短歌の一連の作品を作るときにも同じくいえる。みなさんはそのようにして短歌を作ったときに、少なくとも最初の一首か二首、ないしは終りのあたりの作品を、割愛することを試みられるとよい。そうした作品にはしばしば、全体の一連のための、説明だけであるものが交じりがちである。それは一連の完成のために無駄な部分であり、連作の効果のためには弛緩の箇所となりがちである。皆さんの作品を見ていく場合、とりわけて、終りの方の一首か二首、むしろ無い方がよいのではないかと思うことが多い。それらの作品にはどうしても理が入りがちになるものでもある。文章でもそうである。文章もまた、いかに筆を終えるかというのは大事なことでもある。延々と一文の総括などをするものではない。その一連の作品を作り終えた後に、見直し、二つ並んだ作品を併せて一首としてしまう、といった配置も必要である場合がある。たとえばその一首の上の句と、それにつづく作品の下の句とをつなぐ、といった工夫である。なぜなら、いくつかの歌をつづけて作ろうとする場合、それぞれの作品が、辻褄が合ってしまったものになるというのがしばしばであるからである。そうした作品には理が入り、作品一首であることの緊張感ともいうべきものが希薄となりがちである。二首を一首としてしまうことにより、むしろそれによる作品の辻褄が合わない何かが詩としての面白さとなっていくことが、よくあるものである。こんなことを書くとみなさんは、それでも少ない作品がますます少なくなっていくのをなげかれるのであろう。だが短歌とは、そのような少ないことばとしてのかたちに、自らを攻め、自らを攻めして作っていく、そのような詩のかたちのことであるべきなのでもあろう。そのようにして作った作品を、書きとどめ、書き綴り、手もとにおいてつねに読み返していく。そうしたときに、たちまちに思い浮ぶ一首がある。一瞬に生まれる一首といってよい。わたしの場合、自ら満足する作品は、そのようにして生まれたものの方が多い。そうであればやはり一連の歌のためにかける或る一定の時間というものはどうしても必要なのであろう。(1995・11)
2024.06.20
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6月20日(木)歌集「未知の時間」(前田鐵江第一歌集)(2)2014年5月25日発行:角川学芸出版*:駿東郡清水町在住の歌人。元静岡県歌人協会常任委員(同じ時期わたしも常任委員でお世話になりました)(注)若い頃父上に反抗した頃を思いだした歌の後に、次の歌があります。 台風の夜更けの駅にずぶ濡れの父が立ちをりきわが傘を手にこの歌を読んでわたしは、これが短歌だと叫んだのでした…Ⅰ 1980年~1990年(2)何祈るらむ(2)わが裡の玻璃のかけらはときをりにきらめきみせて寝ねがたき夜妥協しつつ今日を終はりぬ八重咲きのまだらの椿朽ちしを払ふ真夜起きて星流るるを仰ぐ娘の何祈るらむ露にぬれつつおのづからゆれはじめたる木蓮のはらりとおとす花のひとひらくちなしの葉裏にすがる青虫の動くともなし夏の終はりに (つづく)
2024.06.20
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6月20日(木)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。『土屋文明序説』(十五)よりそのあとに、今日に至る長い老年がつづく。文明の歌に内面性ともいうべきものが深く増し、老年の心境を述懐する。それが日本の詩歌伝統のトータルの上の「詩」の美しさにおのずから連なるとき、至りついた一つの世界がある…八十幾年かの生と、文学とをこのように概括してみた。そうした生涯の文学において歌いつづけられて来たものは何だったのか。さまざまな作品に拘わらず、生きていく日に、その生きていく思いをみずからのうちに問いつづけ、語り出すことばだったと文明の場合に言えよう。その生きていく日は繰り返せば明治末年から今日に至る歴史の激動の時代であり、あらあらしい音を立てて何かが崩れていく時期でもあった。その中に、ことに戦前と戦争と戦後との三つの時があり、文明もまた苦しんでそれらの時を潜って来た。彼の短歌はそうした歴史の時を、「如何に生きるか」との問いに生きることばであるべき「詩」として歌われた、とわたしは大きな筋として思う。さらにそのような日に、彼は日本の知識階級者であった。それは同時に生活を曳きずる貧しい都会の一小市民の人生であることを意味する。問いつづける「生き方」の思いであり「詩」であるものはその二重の「生」を負うことでもあった。文明がリアリズムの歌人であったという意味はいまそのことの上にのみいえる。そのことの上にのみ厳しい現実凝視があり、現実凝視の上に表現があった。文明にとり短歌であるべきものである。そのような作者にとって、表現とは認識であることを意味する。表現者である文明は当然認識者であった。何の認識者なのか。いうまでもなく、わたしたちの生きていく「生」を含めた、現実と呼ぶ「歴史」の意味であろう。文明の作品の中に、ことに戦争から戦後にかけて冷厳に見据えられていた「歴史」があったとすれば、そのことを「思想」とすでにいい代えてよいのであろう。(1976・12『土屋文明論考』より)
2024.06.20
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6月20日(木)短歌集(298)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版吉田正俊(13)しらじらと漂(ただよ)ふごとき日本の国帰り来て心しづめてをれどついばみつつやさしき鶏(とり)を相手としこもらふ我を妻のいやがるひとつかみほど唐黍を持ち来たりついばむ音に心かなしむとどろきて風のふきゆくよもすがら折々にして目を開(ひら)くはや私(わたくし)を超(こ)えてひろごる悲しみの何(いづ)れの日にか消(け)ぬるにやあらむ (つづく)
2024.06.20
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6月20日(日)昭和萬葉集(巻十三)(179)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅲ(16)過疎化する農村(16)農薬萩原淑子幾度も水替へすすぎし作業衣に農薬のにほひかすかに残る仲 宗角農薬の残効期限が切れしより血の清まるか眩暈めまひ遠のく嘉戸瑩子呑めば死ぬ毒薬背負ひ噴霧器の先ほとばしる霧の中ゆく古屋利之農薬のけぶりに霞む地平にてけふの入日は黄に濁りたり長田芳江農薬の故かと云へり波の間の死魚を見て佇つ農婦の友が (つづく)
2024.06.20
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後藤瑞義 入選歌・入選句自己主張することのなき父なりきことわざなども常に用いて 下田市 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月十九日 入選 花山多佳子 選)高くたかく揚げ復興鯉幟 下田市 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月十九日 入選 橋本榮治 選)
2024.06.19
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6月19日(水)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (27) 作歌机辺私記(94年12月)「水脈の名残」歌舞伎というものなど、ほとんど見ることもなくなってしまったが、その歌舞伎のことで、一つの文章に出合った遠い記憶がある。名優と呼ばれる、ひとりの女形の役者がいた。或る舞台で、その女形が出演した。それは舞台の上手から出て、下手に入る、ただそれだけの役であった。そうでありながら、科白一つなく、仕草一つあるわけでなく彼が歩み過ぎた後に、舞台にはしばらく水脈のようなものが漂い残り、観客は息を呑んだ。それだけのことであった。何の舞台であったか。何という女形だったのか。ないしは書いた劇評の文章はだれのものであったかもすべて忘れてしまった。そうして、わたしたちの短歌において、「詩」というものも、そのような水脈の名残のようなものではなかろうかと言う感想を、同じ遠い日に、わたしもまた書いたことがあったと思う。それは一首読んだ後に残る、何かかたちないかげのような何ものかであり、かすかなそのゆらぎともいえるものなのであろう。わたしは陰翳ともいうことばでそれを語ろうとしたこともある。すなわち短歌一首の「詩」ともいうべきものは、そこにうたわれている事柄にあるのでなく、ことばことばにあるのでなく、ましてその意匠などの範囲にあるのではなく、一首そのものにある。たとえばひとりの名優の女形が幕のかげに消えた後に舞台に漂い残る水脈の名残のようなものであり、かすかな陰翳のようなものであり、その感動であり心ゆらぎであるべきものなのであろう。短歌一首作るとは、それらをどのように一首の後にうたい残していくかということなのでもあろう。そのためには、作品がどのように寡黙であるかが大事なのであろう。むしろ、つつましく、さりげないままであるべきなのであろう。いたずらに「詩」らしい事柄を連ね、「詩」らしいことばで飾り立てるのとは別のことなのであろう。舞台を過ぎていく女形はその間何の科白も語らず、何の仕草も残さなかったといった。やたらに飾り立て、やたらに饒舌なのは田舎廻りの役者のすることともいえる。更に、同じく短歌において、その作者がプロかアマかを分けるのもそのことにあるのであろう。すなわち、たとえば茂吉などの場合において、何とつまらないことをうたっているのだろうと思って読んでいって、あとにいいようなく胸にからんでいくかすかな感情を知っていくことがある。心のゆらぎ、とわたしはいっており、それを「詩」と呼ぶものと思っている。繰り返せば短歌を作ることとはその「詩」を一首の中にうたい秘めていくことであり、プロとは、そのことを知って歌を作るもののことであろう。或いは、そのことの技法であり秘密であるものをひそかに秘めて、といえるかもしれぬ。(1994・12)
2024.06.19
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6月19日(水)歌集「未知の時間」(前田鐵江第一歌集)(1)2014年5月25日発行:角川学芸出版*:駿東郡清水町在住の歌人。元静岡県歌人協会常任委員(同じ時期わたしも常任委員でお世話になりました)(注)若い頃父上に反抗した頃を思いだした歌の後に、次の歌があります。 台風の夜更けの駅にずぶ濡れの父が立ちをりきわが傘を手にこの歌を読んでわたしは、これが短歌だと叫んだのでした…Ⅰ 1980年~1990年(1)何祈るらむ(1)霜よけて植ゑかへしたるはまゆふの莟みつけて夫のよぶこゑ土の上に散りこぼれたるさざんくわの花白じろと瞑れども見ゆわたの実のおのづとはじけまざまざとさらす白さよ凍土の上きれぎれのオルゴールの曲聴きゐつつつひに告げざること思ひをり風響りのとほくよりきて戸を鳴らし吹きゆくはてを闇に思ひぬ (つづく)
2024.06.19
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6月19日(水)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。『土屋文明序説』(十四)より土屋文明という、明治、大正、昭和の三代にわたって短歌と関わった歌人を概観するために、その文学を、生きた生涯と共に時の経過の上にたどってみた。推移するものと、推移の間に重ねられていくものと、さらにそれらを通して一人の文学に本質として流れつらぬかれたものを知るために、それが一番ふさわしい方法と思ったからである。その過程において文学と呼び思想となすものに出来るだけ接近して見ることがこの概説的作家論の目的であった。明治の終りが大正へと替わる日に文明は知的憂愁をたたえた一少年リリシズム歌人として出発した。発足したばかりの「アララギ」一同人でもあった。それにはこの国の短歌史の歩みの上に「近代」と呼ぶ西欧文芸思想の世界が初めて淡い影をおとしていた、といえよう。だがその大正が昭和に移るとき、文明はリリシズムの少年詩人でなく、冷厳の眼を現実にむけるリアリズムの作者に推移する。すでに生活者である文明は、生活を通し、生きる現実即物的な表現の中に歌う。昭和になり日本は経済恐慌とそれに重なるマルキシズム思想の嵐の時期を通過し、そのあとに戦争とファシズムの時代が迫り寄る。そうした日に文明は一人の生き方であるべきものを文学として問い求め、その思いを重く、あらあらしく、苦渋の作品として歌い重ねる。それは戦争の時代にもぎりぎり守り抜かれる。求められては戦争賛歌を作ったという事実を逃れられないが、文明の戦争詠の多くはその時に生き、その戦争をたたかう日本の無名の市民の「個」の運命の関心の上にだけ抒情として作りつがれた。そうして、戦後の時代に彼は同じように戦後の荒廃に生きる思いを歌う。敗戦を歴史の中に凝視し、一人の疎開者である位置から日本に推移するものを歌った。その視野の中につねに民衆があり、民衆の呼び交う歌があった。「生活即短歌」という言葉が自らの文学主張を明らかにするものとし、歌論としてこの日に語られる。(つづく)
2024.06.19
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6月19日(水)短歌集(311)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版吉田正俊(12)幾人(いくたり)か吾れにやさしき征(い)でゆきていつしか国にいのち捧げぬすがすがしき夜半の空気よ天翔(あまがけ)る君のみ魂(たま)に相会ふごとしおとろふる炎(ほのほ)の街の明けゆきて嗚呼(ああ)潮(うしほ)なし群れゆく人(ひと)等(ら)垂れさがる電線を越えてペタル踏む吾が足の力ただ頼(たの)むかな天地(あめつち)に今日の悲しき勅(みことのり)たえだえとして声さへになし (つづく)
2024.06.19
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6月19日(水) 昭和萬葉集(巻十三)(177)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅲ(15) 過疎化する農村(15)野の機械化(2)北口年夫五ヘクタールの田を耕しし耕耘機と夕映の畔を吾が帰り来る飯島治正機械購かふだけに追はれて貧乏する農の生活も思案に暮れる竹中美樹岐路に立つとふ意識もちつつ動力の農機具求むあせり心に岡村田一路耕耘機購もとめんために牛を売る家内相談まとまりがたし (つづく)
2024.06.19
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6月18日(火)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (26) 作歌机辺私記(94年11月)「長塚節を」七月末、宮崎まで講演に出掛けた。台風七号が南九州沖に滞ったまま動かず、その間、わずかに通う空路を頼るかのような旅であった。宮崎空港に伊藤一彦さんらが出迎えられ、そのまま青島の対岸に連れられた。台風の沖の曇りに打ち上げる潮のしぶきに濡れ、島に通う橋も行き来が絶たれていた。その対岸の浜の熱帯植物園に長塚節の歌碑があり、わかりにくい場所なのを伊藤さんが探し出してくれた。「とこしへに慰むる人もあらなくに枕に潮のおらぶ夜は憂し」の歌であり、歌碑の裏に一自由労働者が之を建つ、といった意味のようなことが彫られていた。死を前にして節はこのあたりを旅し、連日の時化に遭い、漁村の宿で呻吟している。日豊線など当時なく、乗合馬車と船との旅であった。来て見て作品の背後にあるものを実感とする。そのこともあったわけではないが、歌会の席その他で、長塚節の歌あたりから読み直すことのすすめを、最近繰り返すことが多いのに気付いている。或いは、東京歌会でも出席者を前にそのようなことをいったのかもしれない。今、つづけているわたしたちの短歌の上に、一度、その原点であるべき何かに立ち返るために、或るいは、それを自分のうちに見定めることのために、という意味でもある。創作とは、つねに限りない変化を求めていく営為であり、短歌もまたその例外であるはずはないが、同時に、その底に、短歌というものの原点、ないしは原型ともいうべきものを絶えず見据えておくことを忘れてはならないのであろう。何が短歌かという自らへの問いつづけでもある。それを見失うと、短歌という一定型詩型、一抒情詩型はとめどなく拡散し、糸の切れた凧のように風のまにまに飛び散ってしまうかもしれない。少なくとも自分のこととして、意欲的な作者ほどそれは自分のうちに知っておかなければならない。すなわち、繰り返せば、短歌がどのように多岐なひろがりを持とうとも、つねに、それが短歌であるという、何か原点であり原型であるものがあるはずなのである。その意味では、定型詩型というもの自体、まことの脆い、相互容認の上にある小文芸世界であるしかない。その原点、原型をどこに求めるかは再びまた定めがたいが、わたしたちの場合、一応万葉集などの古典と思ってよい。しかしそれより、直接の実作のために、近代短歌のどこかに見ていくことがよく、さしあたり、わたしは今、長塚節あたりをじっくり読み、それを見定めておく必要をみなさんを前にして繰り返している。理由は、わたし自身の気持として、という以上はない。その上で、近代短歌を一つの歴史の継続としてしっかりと自分の内に畳み込んでおく作業が必要なのであろう。それをかってしてなかった人らの仕事の脆さを知って、ともいえる。(1994・11)
2024.06.18
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6月18日(火)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。『土屋文明序説』(十三)よりそうした作品はさらに内面化し「或る夜の槐のうれの星屑の落ちて空しき一生とおもへや」「暁に眼をひらくあたり人のなしかくの如きか墓壙の目ざめ」等と、しだいに事象を絶った瞑想ないし観念の世界に入る。それらはすでに蒼古とも言える古典的格調を持つ。このような歌が「目の前の谷の紅葉のおそ早もさびしかりけり命それぞれ」「老い朽ちしさくらはしだれ匂はむも此の淋しさは永久のさびしさ」等と並ぶとき、長い作歌生涯のはてに至りついた世界ということと共に、この国の千数百年にわたる和歌…詩歌伝統のトータルの上に達した「詩」ともいうべきものの達成の意味を改めて思わずにはおれない。ほとんど平坦と見えた老年の境涯の或る日、昭和四十九年、土屋文明はその長子に思いがけず先立たれる。八十四歳である。寂寥は翌年に至りようやく「思ひ出でよ夏上弦の月の光病みあとの汝をかにかくつれて」等と歌われる。「病みあとの汝をかにかくつれて」は『ふゆくさ』等の遠い記憶につながる回想であろう。老いて残されたものの深い哀傷が告げられているが、作品はなお雄勁であり、調べ高く、表現に寸分のゆるぎを見せない。 (つづく)
2024.06.18
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6月18日(火)歌集「蝸牛節(まいまいぶし)」(藤岡武雄第十歌集)(112)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)家族の顔を(4)いづこへかわが家の鍵を落としゐて後期高齢者の保険証届く池の面を叩く氷雨か水滴の秀(ほ)ごとに生れくる春の光は赤き実の熟するをねらふ鳥たちよ顔出せばみなわれをうかがふ未来といふひとすぢの道を行かむとて障害物競争をくり返しする寅年の猛(たけ)き虎にはなり得ずにひたすら廻る掌の上のコマ (つづく)
2024.06.18
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6月18日(火)短歌集(58)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版吉田正俊(11)ひねもすに降りつぐ雨のとだゆる時さみしきこゑの蜩(ひぐらし)きこゆしやがまりて小犬の蝨(だに)をとる妻のあはれになりて吾れは見てをり白雲は北に退(そ)きゆくしきりにてこころあやしき旧盆の月庭(にわ)隅(くま)のおどろ刈りそけ清(すが)しとぞ思ひしのみに吾がまどろみぬ図抜けし体力はよく戦ひけむと思ふばかりに涙しながる (つづく)
2024.06.18
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6月18日(火) 昭和萬葉集(巻十三)(175)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅲ(14) 過疎化する農村(14)農の機械化(1)赤城里子作業みな機械化されし農村に馬喰(ばくらう)はいつか訪はずなりたり野口丈夫耕耘機買ひたる隣の太一郎共同田植を離れてゆきぬ古山 蔚体力なく百姓に適せぬ己を思ひつつ一日山畑にトラクターつかふわがトラクターに擦れ違はむとせし牛が俄に畔を駈け出してゆく (つづく)
2024.06.18
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6月17日(月)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (25) 作歌机辺私記(94年8月)「素材のパターン化」五月中旬、十一日間の中国の旅をして来た。すなわち、北京に向かい、さらに洛陽、西安をめぐり、上海を経て帰国した。中国は四年ぶり、北京は一九八九年の天安門事件直前に訪れてから五年ということになる。ひそかにその後の中国を知りたい思いもあった。平安であり、街が豊かになった印象を抱いて帰ったともいえる。旅自体のことはここではふれない。帰ってきて、たまっていた「未来」の選歌をしなければならなかった。そうして、みなさんの作品の中に、例の南アフリカの選挙のことをうたったものが少なからず交じっているのにやや気付いた。黒人の指導者、マンデラが大統領になったことなどである。平常、そのようなことをうたわないはずとおもっていた作者までが、一様といってよいまでに同じことをうたっていた。南アフリカの選挙の黒人勝利がニュースとして伝えられたのはわたしの旅以前であり、事実を知らないわけではなかった。そうして、それらみなさんの、相次ぐといってよい同じ素材の作品を、わたしは選歌しながら多分ほとんど落としたのではなかったかと思っている。理由、一様に短歌一首として水準が低いとしたからである。みなさんの作品はその素材への関心に拘わらずはぼ一様に同じ事実、同じ感動を申し合わせたかのように同じパターンとしてうたっており、そのための常識的という水準を越えられなかった。なぜなら、それらはすべて新聞で読み、テレビで見た感動の範囲でうたわれていたからである。作品の感動はその範囲のものであり、それはどの作品にも一様に、その範囲の程度において分けられているということになる。常識的な範囲ということに結果はなるのであろう。詩としての、作者ひとりの「個」といい「内面」というものの不足である。ないしは作者ひとりの「思想」であるものである。時事詠ということばがある。わたしはそのことばを嫌うが、たとえばかっての戦争の日に、斎藤茂吉は新聞や当時のニュース映画を見ては激しいその日の時事詠、戦争作品を作っている。そうしてその多くに、わたしは優れたものがあると思っている。なぜなのか。茂吉はニュース映画などを見ながら、それこそのめり込むような感動としてそこで見たものをうたっている。戦争は茂吉にとり、全身全霊としてのものであり、単にそれを見て知った感動という程度のことではなかったのである。みなさんは南アフリカの選挙を、どの程度に全身全霊のこととしてうたわれたであろうか。それにも拘らずわたしたちは、もしそれが心の関心であり感動であるならそれをうたうことを避けてはならないものとも思わなければならない。なぜなら、それもまたわたしたちの生きる現実であり、ついには「個」の「内面」のことでもあるからである。(1994・8)
2024.06.17
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6月17日(月)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(111)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)家族の顔を(3)いくばくのわれに余命はありやなしつくつく法師のきそふ声待つ巡り逢ふ螢の灯り五つ六つふたたびといふことは起こらず霜柱ざくざくつぶし一心に少年の日を呼びもどしゐるあと幾年生きる答えの欲しくして病院通ひの道ひとすぢに (つづく)
2024.06.17
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6月17日(月)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。『土屋文明序説』(十二)より昭和二十六年、文明は疎開地の川戸から東京に帰り住む。六十二歳である。やがて明治大学教授として教壇に戻る。その間、『万葉集私注』二十巻の仕事をつづけている。そうしてその日から今日に至るまで四半世紀の歳月が経過した。『青南集』『続青南集』『続々青南集』の各歌集がある。それが彼の文学生涯の、長い、老年と呼ばれるべき時期であろう。昭和二十八年には同じように茂吉が疎開先から帰京した後に死ぬ。眼前の巨峰の死を見て文明の晩年は始まると言える。文明の歌はしだいに身辺のこととなり、それに覊旅詠が相次いで作られていく。老年にむかい、彼はしきりに万葉に歌われた地をたずねての旅を重ねる。そうしてそれら身辺詠あるいは覊旅詠は、これまでに増して重厚と沈潜とを加え、また時としてしばしば「軽み」とも言える諧謔をまじえるようになる。技巧の巧緻さは表現の自在ともなり、老年とは思えない眼をみはるような作品の新鮮を生むことがある。そうしてその中に「白き人間まづ自らが滅びなば蝸牛幾億這ひゆくらむか」「旗を立て愚かに道に伏すといふ若くあらば我も或いは行かむ」等と、鋭い批判をこめた思想詠ともいうべきものが歌い出されていく。核兵器開発の狂奔のはて地を覆う放射能に人間が亡んだあと、幾億の蝸牛がいきて這いめぐる幻想を、文明は愚かさが作りなす歴史の彼方に冷酷に見据えている。(つづく)
2024.06.17
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6月17日(月)短歌集(322)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版吉田正俊(10)短く鷭ばん啼なけばわが立止るこの瞬間のこの現実は言ひ難がたし国興るいたましさなど思へどもこころ弱きは滅びてゆかむいくつかの思想うづまく中にゐて身じろぎならぬ齢よわひ至りぬ事ことしあらば捧げむ命いひ切りて君ゆきしかば吾は乞こひ禱のむ戦たたかひは終あらめやとこころ決きむ出でゆく君と留まる我とあたらしき国を護りの戦たたかひを予想してゆけり老兵君は (以上『天沼』より) (つづく)
2024.06.17
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6月17日(月) 昭和萬葉集(巻十三)(175)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅲ(13) 過疎化する農村(13)農地の変貌増田照子地価上るを待ちて作らぬ畑多きこの辺あたり日毎ひごと土埃はげし内海清子萌えいでし麦もろ共に埋立てられ次々に建つ市営住宅大石桂司工場が村に建ちゆく成行きに陸稲おかぼ畑雑草しげる弘田義定峡ふかく標しめ立てて養ふパルプ材資本力はこの山をも抑ふ長沼利夫工場の煙突の煙しるく立つこの風下に野菜育たず森山耕平ダムの水減れば嘗ての耕せる土あらはれて涙ぐむとぞ (つづく)
2024.06.17
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6月16日(日)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (24) 作歌机辺私記(94年5月)「軽すぎないか」選歌と言う仕事が、やや重労働に思えるようになって来た。そうして、この「机辺私記」がそのわたし自身の選歌の後の疲労の上に書くのを例となって来た。選歌の間の感想であると共に、疲労に伴う不機嫌が、多分みなさんに気付かれているのであろうと思うことがある。今回選歌をしながら、みなさんの作品の中にしきりと擬声語とでもいうべきものが交えられているのが気になった。雪が「ほっかり」と積むとか、子供が「ピチピチ」と跳ねるように、といった例である。それらの多くは一種の幼児語であり、それらを交えることは作品を当然に幼いものとする。ある種の軽み、ともいえるかも知れないが、やはり基本的において、不用意に用いるべきでないということを承知しておくべきであろう。少なくとも、わたしたちはそうしたことを最初にだれかに教えられてこの世界に入った。今はそれが何か恰好がよいものだという程度に受けとめられ、流行を生んでいるのであろうか。そうしたことを含め、みなさんの作る作品が一体に軽々しく、上すべりになって来ているのではないかと思うことがある。軽々しいちょっとした体験の上にうたわれ、ないしはその上の機知の範囲で作られている作品が、しだいに普通となっていると気付くことがある。否、わたしたち周囲にある短歌世界はほとんどそうしたものばかりとなって来ているのを知っている。わたしの選歌欄はそうであってはならない、というのが選者であるわたしのひそかな願いであるぐらい、気付いていて欲しい。旅行詠というものがある。物見遊山の程度でそれを作るものでない、と一度書いたことがある。その意味は旅行詠だけにかぎらない。すべてにわたっていえる。今回選歌で気付いたものに、内閣改造や福祉税の怒りの歌が少なからずあったことがある。それらの多くが新聞報道ならびにテレビ解説の範囲でありその繰り返しであったりする。むかし、床屋政談という言葉があった。物見遊山の時局詠版であってはならない。一体に歌が軽々しくなって来ているといった。わたしたち自身のすべての日常が、そうした間に過ぎ、そうした中に生きていることから来るものといえよう。それが「当世」的であるぐらい、知らないわけではない。しかし、わたしたちが短歌を作る地点とは、それとはやや違うのではなかろうか。その「当世」の中に生き、しかも今短歌を作ること自体、或る意味では一種の愚直ともいうべきものへの敢えての選択ではなかろうか。なぜなら「当世」と言う板一枚底に、本当は今日の現実が渦巻き、その歴史現実の渦流に恐れ戦くことを知るのみが、本当は愚直の言葉を吐き、詩人である他はないといえるからではなかろうか。(1994・5)
2024.06.16
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6月16日(日)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(110)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)家族の顔を(2)心ある心は今日も伝はらず心のドアは開け閉めしきり首かしげのぞきゐる犬よ 偽装せる食品嘆くに「お前もさうか」イントロも長きがよきといふなかれフランスパンをしきりに噛めどぼんやりと外に立ち居れば虫たちは小さき羽をふるはせてくる怠惰なる日の暮れ方に聞きたりしひぐらしひとついづこに去れる (つづく)
2024.06.16
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6月16日(日)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。『土屋文明序説』(十一)よりだがその日に、同じように作品に俄に加わっていくものに「思想」と呼ぶ内面の世界があったとわたしは考える。生活と、生活を通して歌う時代への凝視の作品に、その表現の多様な屈折と共に歌い込められていくものである。再びいうならそれは過ぎ移る戦後という歴史の視野の中に、静かに見定められていく、国と、社会と、生きて苦しむ民衆への「思い」である。歌人である文明はこのころからようやく思想者としての「思い」を作品に籠めていく。そうした時期と重なって例えば、「短歌は生活の表現といふのでは私共はもう足りないと思ってゐる。生活そのものである」(「短歌の現在及び将来に就いて」)等という言葉が語り出される。「生活即文学」の思想である。この場合「生活」は「生」ないし「生き方」とも言い替えるべきであろう。その場合もまた「生活」は「生き方」でもなければならない。「文明選歌欄」の仕事を通して、文明の眼は深い愛情を民衆と呼ぶものの上に向けつづけられていく。昭和二十五年、すなわち『自流泉』の終りに近い時期に「道の上の古里人に恐れむや老い行く我を人かへりみず」「この谷に入りなばゑぐの残るらむ雨のふる田を見て引きかへす」の一連があり、少年の日に離れ去った故郷を久々に訪れる老年の感傷が告げられる。だがその感傷には「道の上の古里人に恐れむや」という思いがつねにともなう。そこは彼と共に、彼の父と一家とが追われるように捨て去った地である。故郷に対していだく感情は長く懐かしさだけではなかった筈である。彼の故郷再訪、もしくはその追憶の作品はもっと早く、例えば『少安集』に「亜炭の煙より食物を錯覚せし少年の空腹を語ることなし」、『山の間の霧』に「馬鈴薯が村に入りし頃の記憶あり真珠なす新しさ堀り飽かざりき」等、ことに戦時にかけて随所にみられるが、それらに少年時回想として歌われているものは貧の記憶であり屈辱を込めた農村への共感が覆いかぶさっていく経過を、わたしたちは疎開者の日々の作品にかけてしだいにたどっていくことが出来る。老年につれて歌われていく愛情、共感は都会の知識階級として生きた文明が生涯心の底に持ちつづけたものであり、彼の生き方を含めて文学ないし思想というべきものを根底に規定するものだったのであろう。 (つづく)
2024.06.16
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6月16日(日)短歌集(307)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版吉田正俊(9)いたくさみしき君が葬はふりの費用には退職金を貰もらひて当てぬ夕ゆふ茜あかね久しき空にひびかひて鐘なるときに頭かうべ垂れゐつ幾人いくたりか救はれたりし鐘かねの音ねのうつつに聞けばひとりさびしゑ雷らい鳴りて一所青く澄む空のこの国にして思ひ遠しも石投げて逃げゆく鹿しかの幾匹か泥あびて丘の上につくばふ (つづく)
2024.06.16
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6月16日(日)昭和萬葉集(巻十三)(174)(昭和三十五年~三十八年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅲ(7)過疎化する農村(12)農作の変貌(2)板宮青治徒長とちやう枝しを剪きり払ひたる果樹園の空明るきにわが涙湧く横田正義県境まできている雪を感じつつ葡萄の蔓を地に這わせおり入江真雄畑仕事止めるときめて持て余す二アールの隅に妻花を植う藤森青二植ゑ替へをなほざりにせる水仙の花芽もたぬが群りて萌ゆ (つづく)
2024.06.16
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6月15日(土)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (23) 作歌机辺私記(94年3月)「高年の人へ」広島の一旧制高校生として「アララギ」入会の手続きをしたのが昭和六年暮、考えて見れば十八歳、ずいぶん若かったなと今ではおもうのだが、当時、わたしの周囲を見渡しても文学に入る年齢、ないし短歌を作り始める年齢は大体にその程度が普通であり、少なくとも戦後しばらくの時期まではそうであった。すなわち、文学、とりわけて短歌は、十代の終りから二十代にかけて始めるべきものであり、それを過ぎての人など、まれであり、例外のことでもあった。そうして、そのことが今ではやや変って来た。わたしの周囲において、そのような若さで歌を作り出す人は無論あり、それは当然よいことという思いは変らないが、それでも、それを過ぎた高年齢で短歌を作り出そうとする人が多くなり、それがいつからか一般的なことのようになってしまって来た。ことに「未来」の、わたし自身の選歌欄にかぎっていえば、男性のかたで、六十代、ないしは七十代、人生の一定の時期を生きた後になって作歌を思い立ち、入会して来られる方がしだいに目立って来たように思われる。女性についても、いわゆる子育ての年齢を過ぎ、何らかの内的遍歴を経て歌を作ろうと考えられ、集って来られた方が多い。そうしてそれは、良いこととわたしは今は思っている。なぜならそれは、定年後ないし老年期の趣味ないしは老化防止の程度に思って始められる少数の人を別にして、それぞれ文学をかなり深いものとして知り、自己表現の世界と考えられている人が一般である。或いは、かってあった青春の日に短歌を作ろうとはしなかったことへの、一種の悔恨を秘めて始められる場合が多い。当然作ろうとなさるものには、その間の人生経歴ないしは思想の厚みともいうべき何かが、若く始める人にはないものとして加わっているはずであり、その作品世界の深さともなっていくのであろう。ただしそのような人らには、反面、ほぼ共通して或る盲点があるとも思われる。自分自身の短歌への、最初から何らかの思い込みであり、そのために、作り出す短歌にあるその思い込みの範囲を頑として出ず、作品を独善のものとしていることである。短歌とは、そうした思い込みの範囲の世界のものではないことを早く知り、それを一度捨て切ることが大事であろう。カルチャー教室などでそうした人が加わって来られる場合、わたしは最初にそのことをいう。それまで持っていた何らかの短歌への知識を一度捨て、白紙の状態から出発することである。若くして歌を作り出す人には最初からその白紙がある。白紙だから彼らは次々に吸収し、その上に自分の文学を築いていく。一定の年齢の上に短歌を作ろうと思われる人には共通して必要なのはその白紙の意味であろう。自分の作品が相当なものであるなどという思い込みを、先ず捨ててかかることである。(1994・3月)
2024.06.15
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6月15日(土)歌集「蝸牛節まいまいぶし」(藤岡武雄第十歌集)(109)平成28年発行:あるご短歌会 *:三島市在住。歌人。日大名誉教授。わたしが、静岡県歌人協会の役員の折、お世話になりました。(著者90歳の時出版した歌集、現在は98歳です。)家族の顔を(1)それぞれに妻がたためる洗濯もの陳列するがに家族の顔を楽観は不安の中に育ちゐて安心感を日々太らせるもの忘れすること多しいつの間にスーパー通ひが日課となれる道の駅山峡深くあらはれて人らしんみりと椅子に並べり「アー」と言ふ吾「アッ」と言ふ妻 それぞれが違つたことで声の一致す (つづく)
2024.06.15
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6月15日(土)近藤芳美「土屋文明:土屋文明論」より岩波書店近藤芳美集第七巻「土屋文明…土屋文明論」よりの転載です。『土屋文明序説』(十)より東京青山の自宅を空襲で焼け出された土屋文明は家族を連れて群馬県吾妻郡原町大字川戸に疎開し、その地で敗戦をむかえた。川戸は榛名山の裏、吾妻川の渓谷に添う小村である。同じ群馬県…上州ではあるが、榛名山を隔てて故郷の西群馬郡上郊村とは反対に位置する。文明と同様茂吉もその故郷山形県に疎開し、敗戦を知り、「このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね」「くやしまむ言も絶えたり炉のなかに炎のあそぶ冬のゆふぐれ」と、敗戦に打ちひしがれた悲しみの歌をうたい重ねる。だが、土屋文明はそれとは違ったかたちで同じ日をむかえる。「出で入りにふみし胡桃を拾ひ拾ひ十五になりぬ今日の夕かた」「分ちとるものに憤るこころならず草より拾ふ乏しきはしばみ」と歌われる日々である。その、鍬を振り、畑を拓く峡村の貧しい疎開者の生活の思いから彼の戦後作品は始まる。孤独は歌われているが、そこには敗残者である茂吉の悲哀はない。そうしてその孤独な疎開の生活の中から静かに見据える眼が戦後と呼ぶ日本の歴史の一時期にむけられる。「この者もかく言ふ術を知れりしか憤るにあらず蔑むにあらず」「北支那より帰りし君を伴へど雪の下には採るべきもなく」と歌うものを通して再び表現者としてのことばが語られ出す。敗戦は茂吉にとっては敗戦であり悲劇であった、文明にとては違った。歴史である。今はその凝視の眼が、戦後の虚脱と混乱とその中に生きひしめく民衆の上に、疎開者であるみずからの日常の位置を通して歌われていく。敗戦から昭和二十六年講和条約締結に至る『山下水』『自流泉』の二つの歌集の時期である。この間峡村の疎開者の生活をつづけた、そうした生活の作品の上に、老いの自覚がしだいに加わっていく日ともいえる。 (つづく)
2024.06.15
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6月15日(土)短歌集(293)中公文庫:日本の詩歌29より昭和五十一年十一月十日初版吉田正俊(8)酔ひ酔ひてなほしらじらと言ひ出でぬ誰たれも誰も希望もてりとも見えず常臥とこぶしとなりたる姪めひの感傷して再び吾れに寄することもなし北ぐにの街まちのみ寺に鐘鳴りて乾きし空気にびびくやさしさただ民はやすけき生いきを恋ひ恋ふとこの北国きたぐにに思ひまがなし朝あしたより何かいらいらゐし妻よ吾がもの言へば涙ぐみたり (つづく)
2024.06.15
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