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TEN MINUTES OLDER ~The Cello~HISTOIRE D'EAUX(水の寓話)Bernardo Bertolucci(所有DVD)HISTOIRE D'EAUX(水の寓話)Bernardo Bertolucci(以下ストーリーネタバレ)ところはイタリアの森の中。密入国の難民なのだろうか、狭いトラックから何人もが下ろされる。みんな列を成すように案内される方向に進んで行くが、老人が独り列から逸れて勝手な方向へ向かう。気付いた青年が呼び止めるが老人は気にもとめず去り、一本の大樹の足元に坐り込み、瞑想でも始めるかの様子だ。そして追いかけてきた青年に「水を汲んできたくれ」と言うと、横笛を吹き始める。その様子を近くの囲いの牛が見つめている。インド人らしきその青年が川で水を汲もうとしていると、背後の茂みの上にある田舎道に物音を聞く。道に登ってみると、女(ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)が故障したバイクに悪態をついている。バイクの荷台には生ビールのボンベ。青年が茂みから顔を出す。最初は警戒していた女だったが、修理を任せ、既に微笑みを交わしていた。女の運転するバイクの後ろに青年が乗って、女の経営する飲食店に二人はやってくる。どれだけの時間が経過したのか、身重の女と青年の結婚式。二人は幸せそうだ。店内はインド風に改装されていて、インド人音楽家がインド音楽を奏している。椅子に坐っていた女から床に流れ出る水。破水したのだ。また時間が経過し、娘と息子のいる二人。夫が嬉しそうに、誇らし気に、買った車で帰ってくる。家族3人を乗せてドライブに。川に落ちた車を業者が引き上げている。それを悲しそうに見つめる家族4人。突然夫は走り出す。やがて木立の中に入り、大樹の下に坐って横笛を吹く老人のところへ。「早朝に水を汲みにいったまま随分帰ってこなかったな。」と老人。呆然と立ち尽くす青年の遥か彼方の線路を列車が駆け抜けていく。最初とおなじように牛が見つめていた。映画的には10分、青年の女との物語は20年弱、しかし老人にとっては同じ日に水を待っている何時間かだった。インドの伝説を下敷きにしているらしい。主観的な時間の相対性を描いている。インドの時間的観念は物凄く長い。たとえば釈迦入滅後56億7千万年後に弥勒如来が出現すると言う。その根拠は弥勒が修行・説法を行っている兜率天(トソツテン)での1日は400年に相当するという発想からの計算の結果だ。ちなみに1日が400年なら72分が20年となるから、青年の20年は老人の72分だったのかも知れない。長くもあり短くもある人間の時間を、悠久の大宇宙の長大な時間の中に位置付ける哲学なのだろう。牛の目が見つめているのは、牛を神聖視するインドだから神の目なのかも知れない。異国(異文化)間の恋愛が興味深いとベルトルッチが言っているのをどこかで見たことがある。例えば『シャンドライの恋』はアフリカ出身の黒人シャンドライと西洋人キンスキーの恋を描いていたが、互いの音楽への無理解が素材に使われていた。ここでもイタリア女とインド男の恋と結婚の物語。国際政治の世界では、たとえばプロテスタント(米国)とイスラーム(タリバン等)の場合など、自国の文化を守ろう、押し付けようともする。しかし恋愛にあっては相手への一体化の心理的欲求があり、自分の文化の維持と同時に相手の文化への同化欲求もある。もちろん相手が自文化に同化して欲しいという欲求もある。これはすなわちあるがままの自分として相手に受け入れらたいという欲求だ。この自文化と異文化の問題は後の第5編クレール・ドゥニ監督の『ジャン=リュック・ナンシーとの対話』のテーマでもあるが、人間が他者との関係を求める一つの究極の欲求が異性愛であり、そこにこのテーマを見るのは興味深い。そもそも恋愛というのは、もともと異文化である男と女の、相互的な自己の保持と他者への融合の要求であるわけだし。10ミニッツ・オールダー ~イデアの森~ 第1話『水の寓話』(ベルトルッチ) 第2話『時代×4』(フィッギス) 第3話『老優の一瞬』(メンツェル) 第4話『10分後』(サボー)10ミニッツ・オールダー ~人生のメビウス~ 第1話『結婚は10分で決める』(カウリスマキ) 第2話『ライフライン』(エリセ) 第3話『失われた一万年』(ヘルツォーク) 第4話『女優のブレイクタイム』(ジャームッシュ) 第5話『トローナからの12マイル』(ヴェンダース) 第6話『ゴアvsブッシュ』(リー) 第7話『夢幻百花』(陳凱歌 チェン・カイコー)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.31
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HAPPINESSTodd Solondz134min(DISCASにてレンタル)はる*37さんの『おわらない物語 アビバの場合』のレビューを読ませていただいてソロンズ監督に興味を持ち、DISCASのある4作品を年代順に見る計画の『ウェルカム・ドールハウス』に続く第2作。前作とテーマに共通性があるものの、完成度としては遥かに高く、また色々な意味で 豪華 な作品。製作費は3百万ドルにも満たないものをなぜ敢えて 豪華 と呼ぶか。それはこの作品に出てくる何人かの人物それぞれの物語をふくらませれば、90分なり100分の映画が4~5本出来てしまいそうだと思ったからだ。ではそんな何人もの人物の物語を統合したこの映画のテーマは何か。色々な切り口で論ずることは可能だろうが、ボクとしては「自己中心性と愛を求める孤独」の物語として全体を捉えたいと感じだ。 キーパーソンとなるのはジョイ(ジェーン・アダムス)。名前も正に Happiness に通じる Joy 。映画はこのジョイと2人の姉トリッシュ(シンシア・スティーヴンソン)、ヘレン(ララ・フリン・ボイル)の三姉妹を中心とした構成だけれど、この3人の関係性が面白い。精神科医の夫ビル(ディラン・ベイカー)と3人の子供との幸せそうな家庭生活を送る長女トリッシュ、作家として成功している次女ヘレン、この2人の関係もそうだが、2人は、作曲家志望ながら上手くいかず、三十歳も越えて独身で、通信販売の電話オペレーターという(姉2人の価値観からは)取るに足らない、キャリアとなるような仕事で生活する妹ジョイに対する優越感で、それぞれ自分のアイデンティティーを保っているようでもある。 ♪幸せは求めてるけど得られない♪ なんて(映画のテーマ曲でもある)歌を歌うジョイは、移民援助のようなボランティア的仕事という理想論を実行もするが、男を振れば自殺され、男を愛したと思えば体だけいいように奪われた上に金まで巻き上げられてしまうお人好しなのだけれど、両親の家の子供時代のままの部屋に住み(これはいわばドールハウス)、髪もセミロングのカーリーヘアーで、まだ大人になれていない。あるいは姉たちに象徴されるニュージャージーの中産階級の価値観、一皮剥けば欺瞞の固まりである世界の外にいると言ってもよい。やることなすこと上手くいかない彼女は『ウェルカム・ドールハウス』のドーンの延長線上にいる人物かも知れない。 一見当たり前そうに見える近所の男が『ウェルカム・ドールハウス』ではペドフィリア(少女性愛)の持ち主だった。ここでは成功した精神科医で、妻と子供に囲まれた幸せそうに家庭生活を送っているトリッシュの夫ビルがペドフィリア(少年性愛)だ。作品を書くためにリアルな体験を求めて自分がレイプされる(あるいは少女期にされていた)ことを望むヘレン。そのヘレンのマンションの隣に住むデブの変態男アレン、向かいに住むデブ・ブス女性のクリスティーナ、マンションの夜警ペドロ。みんなそれぞれに表面を繕ってはいるが、一皮剥けばそれぞれの欲望が渦巻いている。実はみんな孤独で、例えばアレンとクリスティーナの間にはいっとき心が通った様子も描かれるが、求めているのはつまるところ中産階級的価値観での成功という体面でしかないし、あるいは自己本意で求めるだけの愛でしかない。(1年前の職場の同僚アンディを誰も憶えていないのも、そのアンディのプレゼントはあくまで愛を得るための道具であるのも、息子が床を掃除する家政婦に無関心なのも、すべてが相手不在の自己本意。) レイプされることを願いながら「タイプが違う」とアレンを拒否するヘレンがいい例だ。レイプに相手のより好みなどあるはずがない。少年レイプで逮捕されるというのはただ事ではないけれど、愛していると言いつつ夫を見捨てるトリッシュ。すべては内容を伴わない表面でしかない。ビルの2人の息子にしても、関心は父親の逮捕よりも自分の性的発達(精通)やオモチャのたまごっち。バーチャルな世界で実体を伴わないこのたまごっちが使われていることも象徴的だ。そして描かれる性の行為はアレン、ビル、息子ビリーのオナニ-という自己満足の性でしかない。 そしてこの映画、観客によって、あの人物や行為は許せないとか、共感できないとか色々怒りや気分の悪さを持つだろうけれど、ボクの印象としては憎み切れない面々なのだ。この映画の人物一人一人の物語はそれぞれが1本の映画になり得ると最初に書いたけれど、そういう風にビルでもウラッドでもアレンでも誰でも、その人物中心の映画として見せられれば、観客はその人物の悩み等に共感して見るはずだ。その集団に属している人々が作る社会ではあるのだけれど、その出来上がってしまった社会から自由になれない人々の物語であり、批判されるべきは個々の人物やその行為よりも、彼らが作り上げてしまった社会そのものなのであり、せいぜいその社会の維持に貢献している彼らだ。そしてこの映画の中心テーマである性は、ビリーの性長にあり方に見るように、グラビア写真やグラビアから出てきたようなプールサイドのセクシーな女性による欲動や、デブでブスであるために満たされぬアレンの曲がった欲望も、社会的に作られ持たされた性的価値観や欲動なのだ。 監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.30
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TEN MINUTES OLDER ~The Trumpet~WE WUZ ROBBED(ゴアvsブッシュ)Spike Lee100 FLOWERS HIDDEN DEEP(夢幻百花)Chen Kaige 陳凱歌(所有DVD)WE WUZ ROBBED(ゴアvsブッシュ)Spike Leeスパイク・リーらしい社会派ドキュメンタリー(基本白黒、引用映像に一部カラー)。原題は「我々は盗まれた」で、大統領選挙で姑息なブッシュ陣営のやり方に「我々ゴア派の勝利」が盗まれたという意味だろう。ゴアの選挙参謀等関係者へのインタビューを、監督の意図に合わせて(またここではほぼ出来事の時間順に)細切れにつなぎ、また関連映像を挿入するといった古典的なドキュメンタリーの手法を用いているが、編集力・完成度は高い。共通テーマの時間ということについて言えば、フロリダの選挙で、ブッシュと関係の深いFOXニュースが、そしてそれに追随して他局が、確定前にブッシュ当選確実のニュースを流し、その前後の出口調査の票の推移と、ゴアや側近の行動の緊迫した時間が語られている。あまり詳しいことを知っているわけではないが、ボクの理解する範囲では、ボクの考える公正な選挙だったとは思われない。映画の中で語られるように事実に反して重罪犯として有権者登録を取り消されたり、ブッシュ陣営の考えたブッシュに有利な投票用紙、不当に早いブッシュ当確ニュース等々。よく政情不安定な国の選挙に国連の決議により行われる選挙監視活動というのがあるが、これを受けなければならないのはアメリカの選挙かも知れない。実際は内政干渉以外の何ものでもないが、ゴアが当選していたらたぶん9・11事件も、イラク戦争もなかっただろうから、アメリカの大統領選挙には内政以上の要素もある。でもこんなことを言い出したら切りがない。100 FLOWERS HIDDEN DEEP(夢幻百花)陳凱歌 Chen Kaige北京の近代的高層マンションに引越屋が荷物を運んでいる。仕事が終わった運送屋に、フェンと名乗る男が引越しの依頼をする。っじゃ行こうということになって運送屋4人のトラックにフェンが同乗し、百花通りのフェンの家に向かう。近代的に設備された道路、窓の外には高層ビルが並ぶ。道がわからなくなったフェンに運転手は「変化が激しいから」と言う。やがて取壊し途中の古い昔の「汚い」家々。そこを抜けてフェンが案内したのは、古い街並を取壊した広大な更地。中央に盛り上がった所に大きな木が一本植わっているだけだ。フェンはそこが自分の家だと言う。頭が変なのだと思った運送屋は立ち去ろうとするが、とりあえずはこれまでの経費を取らなければならず、引き返して、フェンの指示で、架空の引越しを始める。実は何も持っていないのだから引越人夫にとってはすべてパントマイムの世界だ。見えない白檀の衣装戸棚を運ぶふりをし、家宝の壷を運ぶふりをする。ふりだから物を持っている実感はないわけで、タバコの火を求められた人夫は見えない壷から手を離してポケットからライターを取り出す。その瞬間実際に壷が落ちて割れる映像が見え、音が聞こえる。既に割れた壷の姿は見えなくなっているが、その見えない破片を拾いながら「家宝の壷が・・・」と泣き出すフェン。4人の引越屋とフェンを乗せて見えない家を去るトラック。その途上にはフェンの言うように土で埋めたどぶがあり、軒下に吊るす鐘も見つかる。振り返ると盛り土の上にあった木を中心に在りし日のフェンの家があり(夢幻的CG)、白い花びらが空から散っていた。現実の映像に戻ると、引越を終えたことを喜ぶフェンがいた。北京の急速な近代化に対する疑問や批判、ないし古い北京への哀惜と郷愁、そんな変化を心理的に受け入れるためにフェンが必要とした「引越」という一種の通過儀礼、そういうことを描いた作品だろう。世の中は変化するものだろう。これを惜しむ思いというのは単なる心理的保守性なのだろうか。沖縄で言えば国際通りの國映館(50年代に開館し、既に使われなくなっていた独特な建築の映画館)は取壊せれて再開発プロジェクトが進行中だ。あるいは終戦後自然と出来上がった商店街である平和通り、市場通り、栄町市場、あるいは歓楽街であった桜坂も、行政や業者は再開発を実行ないし計画している。実現すれば(那覇)新都心と同じく、日本中どこでも同じような無味乾燥な街並となるだけだ。そんなことも考えつつ、複雑な思いで見た映画だった。10 MINUTES OLDER 第1話『結婚は10分で決める』(カウリスマキ)10 MINUTES OLDER 第2話『ライフライン』(エリセ)10 MINUTES OLDER 第3話『失われた一万年』(ヘルツォーク)10 MINUTES OLDER 第4話『女優のブレイクタイム』(ジャームッシュ)10 MINUTES OLDER 第5話『トローナからの12マイル』(ヴェンダース)10 MINUTES OLDER 第6話『ゴアvsブッシュ』(リー)10 MINUTES OLDER 第7話『夢幻百花』(陳凱歌 チェン・カイコー)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.29
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TEN MINUTES OLDER ~The Trumpet~INT. TRAILER NIGHT(女優のブレイクタイム)Jim JarmuschTWELVE MILES TO TRONA(トローナからの12マイル)Wim Wenders(所有DVD)INT. TRAILER NIGHT(女優のブレイクタイム)Jim Jarmusch素敵な映画ですね(再び白黒、ちなみに第2編の『ライフライン』はカラーで撮影され、最後の最後に白黒にプリントすることにしたらしい)。監督はジャームッシュ。良くは知らない自分ですが、この人は短編系を良く撮っているようです。だからショートの構成はお手のものなのかもしれません。知らなかった女優さんですが、主演のクロエ・セヴィニーが素敵でした。フランス人のような名前だなと思って調べたら、彼女自身はアメリカ生まれのアメリカ育ちだけれど、父親がフランス人、母親がポーランド出身のルクセンブルク人とのこと。アメリカの女優さんなのにヨーロッパ系の雰囲気も合わせ持った人ですね。映画撮影中の女優ケイトが10分だけ与えられた休憩。彼女が自分のトレーラーに来て、また去っていくまでの10分だけの休憩の様子を描いています。外は寒いので防寒のコートを着て登場する女優が中に入ってコートを脱ぐと、映画の衣装のアールデコ風のドレスを着ている。この突然の雰囲気作りが巧みです。もちろん時代映画の中世の衣装か何かだったとしても唐突な雰囲気のチェンジは可能だけれど、それはクロエ・セヴィニーを美しく捉えるものではない。単に映画撮影中の女優として描けば良いのだから、どんな衣装でも選べる。監督はクロエをいちばん美しく見せる姿としてこれを選んだのだろう。そして彼女の衣装や化粧である1920年代ぐらいの世界を体現する彼女(この部分は役)と、彼女の吸う "紙巻き" タバコやラジカセや携帯、出入りするスタッフ(映画内の現実=現代)の重なり具合が面白い。ここに監督の意図の一つがあることは、妙に現代的デザインのラジカセが選ばれていることからもわかる。一方電気スタンドはややアールヌヴォーかデコ風だ。ゴールドベルグ変奏曲のCDが流れ出したとき、見ている自分も女優とホッとする感覚を共有したが、彼女が一時の安らぎを得られるかに思われて、でも現実はそうはならなかった10分という時間を描いている。と同時に、現代と1920年代という時間の隔絶・近接をも描いている。それらすべてを映画として見ている自分がいる。つまり自分が見ているのは、2002年にこの映画に出演しているクロエ・セヴィニーであり、彼女の演ずるケイトがトレーラーでくつろぐ姿であり、また映画中映画(実際には彼女のデコ風衣装等だけだが)の中の彼女、という3つの彼女、時間的にも3つの時間を見ていることになる。それにしても10分が経過して撮影現場に戻らなければならない彼女が、トレーラー内を一瞬見つめる様子が不憫に思われた。そしてこんな窮屈なトレーラーの空間であっても彼女にとっては親密なる空間であるという感じが良かった。TWELVE MILES TO TRONA(トローナからの12マイル)Wim Wenders時間が共通テーマだというこの『10ミニッツ・オールダー』、その第1集「トランペット」の7作を見て、自分的には「時間」がいちばん考察されていない1編に感じました。死ぬか生きるかの10分であると同時に、ドラッグ世代かも知れないヴェンダースが過去を思い出す、振り返る、そういう意味での時間なのかも知れませんが・・・。ところはアメリカ・カリフォルニア辺りの荒涼としたモハーヴェ砂漠。1台のコンバーティブルが町の病院の分院かなにか診療所にやってくる。時間は午後3時59分。運転していた男ビルは何か焦っている。リッジクレストまで12マイルという標識を見て、車のトリップメーターをゼロにすると、イライラしながらビルは車をスタートさせる。リッジクレストの病院までの12マイルを彼は走らなければならないのだ。12マイル=約19キロ。途中携帯で妻キャロルに電話をするが、圏外で通じなかったり、途切れたり。彼はヤクの類をオーバードーズしたらしい。息途絶える前に病院で胃洗浄などの治療をしてもらわなければならない。失われてゆく意識に抗するためにラジオをつけ、流れる60・70年代風ロックを一緒に口ずさむ。窓を開けて風を入れ、やがて屋根を上げてオープンにする。視野が狭まり、虹色に歪んで見える。と突然トリップするビル。風力発電のエオリアが幻想的に並んで静かに回っている・・・。砂漠の中のT字路のまん中で止まってしまったビル。妻と2人の子供の写った写真を手にすると、やってきた若い女学生の運転する四駆にふらふらと歩み寄る。同乗して町の病院まで連れて行ってくれることを願うが、それは現実なのか妄想か。そのむかし流行ったサイケデリック文化への監督の郷愁なのかも知れない。最後のケイトとのやりとりは、生きている実感なのだろう。ケイトはなかなか可愛らしかった。10 MINUTES OLDER 第1話『結婚は10分で決める』(カウリスマキ)10 MINUTES OLDER 第2話『ライフライン』(エリセ)10 MINUTES OLDER 第3話『失われた一万年』(ヘルツォーク)10 MINUTES OLDER 第4話『女優のブレイクタイム』(ジャームッシュ)10 MINUTES OLDER 第5話『トローナからの12マイル』(ヴェンダース)10 MINUTES OLDER 第6話『ゴアvsブッシュ』(リー)10 MINUTES OLDER 第7話『夢幻百花』(陳凱歌 チェン・カイコー)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.28
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LA BELLE NOISEUSE DivertimentoJacques Rivette131min(所有VHS)リヴェット監督作品を見ずにいた経緯は『セリーヌとジュリーは舟でゆく』のところに書いたけれど、去年の8月に『恋ごころ』を見て気に入って、『北の橋』、『彼女たちの舞台』、『地に堕ちた愛』等を立続けに見てきた。どれも良かった。そして入手しやすい作品としてこの『美しき諍い女』が残った。実はこの作品の4時間版ではなく、2時間に再編集された「ディヴェルテイメント」のビデオは持っていた。DISCASにある作品はすべて見てしまい、あとは少々高いお金を払ってDVDやビデオを買うしかない。でとりあえず短縮版『美しき諍い女』を見ることにした。印象はややがっかり。好きな&面白い作品かも知れないが、他の5本の方が面白かった。オリジナル4時間版ではないけれど、それを言えば『地に堕ちた愛』も同じことだ。いつもは劇中劇という作りで、それは舞台演出家でもあるリヴェットにとってはお手のものだ。しかしやはり画家の世界を本当に描くことは出来なかったのではないだろうか。画家フレンホーフェルを演じたミッシェル・ピコリを賞賛する人も少なくないが、ボクには彼が画家にも見えなかったし、作画創作過程もまったく画家のそれには見えなかった。やはりこういう世界は映画のものではなく小説に向いたものなのかも知れない。画家としての演技、というよりも演出は、このピコリよりも『ミナ』のロマーヌ・ボーランジェの方が上とさえ言いたくなる。もちろんこれはピコリの責任ではなくリヴェットの責任だ。さてそのピコリなのだけれど、あまり人は言わないけれど、この映画の大きな部分は実はゴダールの名作『軽蔑』のリメイクなのではないだろうか。まずはバルドーやベアールが惜しげもなくヌードを晒す点が似ている。『軽蔑』の中でピコリとバルドーは愛し合う仲だったけれど、脚本家のピコリが、アメリカのプロデューサーのプロコシュにラングの撮っている作品の脚本の手直しを依頼され、単純化して言ってしまえばプロコシュの金の前に屈してプロコシュに対して卑屈になる。それは本当は意に反してプロコシュの要求に芸術を曲げることだけではなく、愛する女バルドーをも差し出すようなことまでである。もちろんピコリは表立ってそうするわけではないけれど、自分は介入しないという卑怯な態度をとる。それゆえにバルドーはピコリを軽蔑するようになるのだ。そこでフリッツ・ラングが撮っていた映画中映画はオデュセウスの物語だ。妻ペネロペの要求は彼女を狙うすべての求愛者をオデュセウスが皆殺しにすることだった。しかしピコリは逆に別の男に妻を提供しかねない勢いなのだ。このブログにはまだ『軽蔑』のレビューは書いてないので少しだけ続けると、ピコリが屈して卑屈である対象は、生活であれ、映画作りの予算であれ、金という権力を持った人物であり、この映画は男女の機微の物語であると同時に、その背後にある、あるいは人を規定する資本(金)という、ゴダールに親しいテーマが読みとれる。この映画ではピコリとバルドーの家を赤、プロコシュの別荘を青、と色の描き分けをしている。もしかしたら赤は労働者階級の象徴なのかも知れない。 (↑ゴダール『軽蔑』)そのミッシェル・ピコリが、今度はプロコシュの側に回ったののがこの『美しき諍い女』だ。ベアールの恋人の若い画家ブルツタインは金の前に屈っするのではないけれど、隠とんしてしまっている天才画家ピコリに対して卑屈になり、本当は晒したくない恋人ベアールの裸体をモデルとしてピコリに差し出す。そのことでベアールは恋人ブルツタインに苛立ちを覚える。軽蔑したと言っても良いのかも知れない。最初は嫌がっていたベアールだけれど、バルドーがそうであったように、自らピコリに近付くようになる。この映画を労働を考察した作品であるというどなたかが書かれたレビューを読んだけれど、ゴダールの映画と重なっているとすれば、この説もあながち間違いではないかも知れない。さてこの映画の中ではモデルと画家の格闘が始まる。気付いたのは画家がモデルに取らせるポーズが、ある時は腕を上げた絞首にでもなる人の姿であり、またある時は磔刑のキリストのポーズだ。そしてそれを命ずるのは画家だ。ここに関係の非対等性がある。画家とは映画監督の比喩であり、モデルが裸体を画家に晒すように、監督は役者が裸になってその人間を出して演技することを求める。そして実はその求めのためには監督はやはり自らを晒す。役者とは他の人物のふりをするのではない。劇中の人物を演じることによって、自らのすべてを曝け出すのだ。精神分析の患者と医師の関係に似ているかも知れない。だからいずれの場合も、役者やモデルが自分を裸にしたとき、それを作品にしたとき、傑作が成立する。しかしその作品はモデルそのものであり、画家そのものでもある。この関係は通常のセックスをも越えた親密な関係であり、ベアールをモデルに画家が完成させる未完だった傑作の元のモデルである妻ジェーン・バーキンとの関係も複雑だ。それゆえに完成された傑作はこの3名の暗黙の当然の秘密として壁の中に封印される。(今回はこれぐらいで、他は4時間版を見てからと言うことで。)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.27
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TEN MINUTES OLDER ~The Trumpet~LIFELINE(ライフライン)Victor EriceTEN THOUSAND YEARS OLDER(失われた一万年)Werner Herzog(所有DVD)LIFELINE(ライフライン)Victor Erice これは白黒作品。スペインのエリセ監督作品。「La Nueva Espana」という新聞が出てくることから、スペインの田舎が舞台だと思います。時代は新聞の記事に合わせて考えると1940年でしょうか。このオムニバス映画の全体のテーマは時間。ゆっくりとしたリズムの静かな映像、あるいは時間の止まったような昼下がりとでも言った気分、その背後に時計の音がカチコチ カチコチと聞こえている。あるいは洗面台にポチポチと一滴ずつ水滴が落ちる。何があってもなくても、時間は刻々と刻まれている。女がベッドで昼寝をしている。近くに置かれたベビーベッドには新生児。女は昼寝ではなく産後の休息なのかも知れない。山間の村の様子に変わったことはない。静かに日常が流れているようでもある。しかし白い新生児の服に一点の黒いシミ。どんどん大きく広がる黒いシミ。赤ん坊は出血しているらしい。母親は寝ていて気付かない。その不安な気分が作品の雰囲気を構成する。写される新聞記事。写真に鈎十字のナチ・ドイツの旗。国境検問所にナチの旗あがる。1940年6月28日。何の日付かはわからないが、ナチの進出の何かだろうというおおよその見当(後で調べたらソ連とドイツとの密約をもとにソ連がルーマニアのベッサラビアを割譲させた日付)。決して楽しい作品ではないが、白黒の映像も美しく、時は否応なく刻まれ、ナチの台頭が迫る不気味な気分が、赤ん坊の生命の危機の不安感と重なり合った、珠玉の短編だ。 TEN THOUSAND YEARS OLDER(失われた一万年)Werner Herzog カラー、白黒ときて、この3話はまたカラーです(引用画像は白黒ですが)。監督はヘルツォーク。詳しい事実関係はわからないけれど、ドキュメンタリーなのでしょう。TEN MINUTES OLDERのTEN(10)をTEN THOUSAND(1万)、MINUTESをYEARSにしてしまっています。つまりは1000×60×24×365=約5億倍の長い時間を10分に込めてしまっています。1万年前と言えば旧石器時代の終わりか新石器時代の頃。ブラジルのジャングルの奥地で金属器を持たない未開の部族ウルイウ・ワウワウ族が現代の文明に触れずに生きていた。そんな20年前1981年のフィルムと、この映画の2002年頃の彼らの映像を並べて、文明化の意味・功罪を示した作品。20年前には彼らは裸族で、外部から文明人が近付こうとすると毒矢を放って威嚇した。しかし今は洋服を着ているし、飛行機に乗って病院に行ったこともあると言う。摩擦で火を起こしていた彼らは、かつてライターでいとも簡単に火がつくことに驚かされた。文明人を追い払うとかいった、戦いの勝利を劇化した踊りを今の彼らが裸ではなく洋服を着て踊るが、その姿には生彩がない。文明と触れ合ってからの生活に彼らは対応しているようだが、心性はかつてを懐かしんでいるのかも知れない。今の老人がテレビが白黒だった頃や携帯電話のなかった頃を懐かしむのとは数字のオーダーが違う。それはたかだか数十年の昔だ。ウルイウ・ワウワウ族にとっては時間的には20年前だけれど、内容的には1万年の昔なのだ。はたして文明との接触は彼らを幸福にしたのだろうか。しかし逆戻りは出来ない。息子の世代は新しい文明の中で生きる方を望んでいる。10 MINUTES OLDER 第1話『結婚は10分で決める』(カウリスマキ)10 MINUTES OLDER 第2話『ライフライン』(エリセ)10 MINUTES OLDER 第3話『失われた一万年』(ヘルツォーク)10 MINUTES OLDER 第4話『女優のブレイクタイム』(ジャームッシュ)10 MINUTES OLDER 第5話『トローナからの12マイル』(ヴェンダース)10 MINUTES OLDER 第6話『ゴアvsブッシュ』(リー)10 MINUTES OLDER 第7話『夢幻百花』(陳凱歌 チェン・カイコー)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.26
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WAR OF THE WORLDSSteven Spielberg118min(レンタルDVD) 良い映画だった。いつもの友人がまだレンタル期間があるので、と持って来てくれたDVD。『宇宙戦争』とあるからかつて見たことのある古い映画かと思ったが、2005年でトム・クルーズ主演とある。古い方の原題は最初に「THE」がついて、こちらはそれがない。持ってきてくれたから必ず見なければならないという義理はないし、友人もボクの見るような映画ではないと言っていた。レンタルだからジャケットはないが、盤面にスピルバーグとあったので見た。『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』以来スピルバーグには好感を持っている。日本では『映画秘宝』誌のベスト2位とワースト2位の両方にランキングされたように、何を期待するかで評価が別れるようだ。単なるパニック性を求める向きには物足りないのかも知れない。この映画の含み、つまり9・11やナチ・ドイツによるユダヤ人のショア、そういうことへの含みを色々と読み取ることも興味深い。しかしボクはこの映画の原点を別のところに見た。もちろん監督スピルバーグにとっては単なる一つの思い入れであって、作品の主要テーマではないかも知れないが、思い入れであるだけにそのテーマは全編を貫いているように感じる。それは家族の絆の修復(あるいは創造)の物語。それは『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のテーマでもあったが、彼が17才のときの両親の離婚は彼に大きなショックを与えている。ボクの解釈間違いでなければ、主人公レイ(トム・クルーズ)は離婚した妻メリー・アンとの間に10才の娘レイチェルと15才ぐらいの息子ロビーがいる。でも大人になれずに好き放題に生き、夫も父親も失格で、メリー・アンに愛想つかされたんでしょう。そのメリー・アンが旅行で週末を留守にするので、現在の堅実な夫ティムと2人子供をレイにあずけに来る。でも息子ロビーはレイをパパともダディーとも呼ばず、ハグも握手もしようとしない。父として認めていないということですね。そこに宇宙人パニックがあって、レイは2人の子供を連れてメリー・アンのいるボストンの祖父母の家に逃げていく話。途中でロビーとは離れ離れになり、娘レイチェルを連れてボストンに辿り着く。娘を抱きしめて「ありがとう」と言うメリー・アンで、ロビーもレイをダディーと呼び、2人は抱きしめあう。途中娘にせがまれても子守唄一つ歌えない彼だったわけだけれど、その成長の物語でもあり、家族の絆の修復(創成)の物語でもある。離婚した妻が今も独りという設定も可能だったわけだけれど、最初から現在の夫ティムを設定し、絆の復活はなっても元の4人家族には戻れないという、安易なハッピーエンドではない作りも良かった。人生結局覆水盆にかえらずということです。(そう言えば家族の写真に興味を示していた宇宙人も描かれていましたっけ。)あとは9・11への含みですが、挙げれば切りがないですね。と同時にドイツ系の名前ゆえに子供の頃反ユダヤ主義で虐められ、(実際はロシア系ユダヤ人の出自ですが)自分はユダヤ人ではないと学校等で言っていたスピルバーグ。ナチ・ドイツによるショアへの含みの方がボクには目につきました。娘の名前レイチェルからしてユダヤ人を思わせる名前で、逃げて行く難民(?)の行列はナチから逃れて逃げるユダヤ人のようであり、フェリーもそうだし、匿われた地下室はアンネの日記のようなユダヤ人が隠れて暮らした部屋のようであり、踏切を通り抜ける炎に包まれた列車はユダヤ人が列車で強制収容所に運ばれたことへの暗示だろうし。そしてあとは他の映画への暗示(引用)も色々あったのでしょう。地下室の壁から宇宙人が落とす自転車は自らの『E.T.』だし、最後の方の鳥はヒッチコックだろうし、命からが逃げていく人々の手押し車に分厚い本が何冊も積んであるのはトリュフォーかも知れない。それにしても子役のダコタ・ファニングの演技は凄かった。この子は2才にして読み書きをしたという早熟の天才(?)少女らしいですね。いずれにせよ、かなり満足の1本でした。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.25
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Les Contes des quatre saisonsCONTE DE PRINTEMPSEric Rohmer107min(所有VHS)春だからと言うこともないのでしょうが、かなりかなり久しぶりにエリック・ロメールの『春のソナタ』にビデオを引っぱりだしてきて見ました。ロメール好きの映画ファンはいるけれど、彼のいくつかの作品は認めながらも、「また同じロメールか、もういいよ!」とうんざりな人も批評家の中には少なくないようです。前回に見てからもう15年はたっているのではないかと思いますが、内容の細部はほとんど憶えていませんでした。このあたりにロメールの特徴があるのかも知れません。言ってみればほとんど何も起きない映画なんですね。そしてそれを支えているのは会話です。この映画の中でも、最初の女2名のパーティーでの出会い/知り合うシーンでも、4名の主要人物の食事のシーンの哲学談義にしても、まあ良くしゃべるしゃべる。フランス人の会話のあり方を知っているとさほど不自然なことはないけれど、でも言葉による人間の関係のあり方が中心にあることは確かだ。パリ郊外の学校から出て来てパリに向かうジャンヌ。彼女は高校の哲学の教師だ。いきなり余談だけれど、ボクの知る限り日本の高校には哲学の授業などない。倫理社会という科目があるぐらいではないだろうか。大人になって社会人となり、家庭の平凡な父や母になってしまえば、高校で習った哲学など忘れてしまうだろうが、ある程度の高等教育を受けた者が哲学を学び、一定の思想(思索)の訓練を受けているという事実、これは人間や社会の形成に大きな特徴付けをもたらしていると思う。そしてそれは例えばごく普通の娯楽映画のあり方(創作と受容)にも影響していて、それが日本人がフランス映画をつまらないとか、わからないとか言う原因でもある気がする。それが深いものであっても、実は浅いものであっても、何かを思索して映画を作ろうとし、その思索の結果を思索しながら見るというのが、フランス映画なのだと思う。いきなり映画から脱線してしまったが、ここでこんなことを書き始めたのも、主人公のジャンヌが哲学教師だからだ。内なる欲動や情動と、その哲学的分析と解釈、その2つのバランスを保つことが彼女の生であり、それは必ずしも容易ではない(ロメール自身そういう傾向の強い人なのではないだろうか)。こう言うと何かこ難しいようだが、程度の差こそあれ、大多数の人はこの葛藤の中に生を送っているはずだ。「四季の物語」という4作からなるシリーズの第1編のこの作品、冒頭からベートーベンのバイオリン・ソナタ『春』が流れ(ここから日本語タイトルか!。できれば「春のソナタ」「恋の秋」とかでなく『春の物語』『夏の物語』『秋の物語』『冬の物語』、そして全体は『四つの季節の物語』にして欲しかった)、映画は明るい花咲く春を強調する。寒さの厳しいドイツが観念論哲学であるように、冬の暗さと寒さは人を思索的にするが、そんな冬が終わり、明るく、暖かくなり始め、花の咲く春。ジャンヌは、自分の部屋は田舎から試験でパリに出て来ている従姉妹に貸していて、従姉妹が兵役中の恋人と過ごしていることを知り、カップルの邪魔はしたくないと思う。(他でも同じようなことがジャンヌの口から語られるが、自分の必要より他人の良かれを優先しようとする態度は、実は一つの奢りかも知れない。)一方同居中の彼氏は旅行中で、不在の彼の部屋に一人でいるのも気が進まず、結果行き場を失ったジャンヌ。たまたま行った大学時代の友だちの家でのパーティーで、ピアノ科の学生のナターシャと知り合い、彼女が一人で住む父の広いアパートメントに寝泊まりすることになる。ナターシャの父イゴールは6年前に妻(ナターシャの母)と離婚し、今はナターシャとあまり歳の変わらない愛人エーヴと暮らしていたのだ。ナターシャはエーヴを嫌っていた。そしてジャンヌを父イゴールに近付けようとするのだが・・・。ナターシャの住むこのパリのアパルトマンと、イゴールがフォンテンブローに持つ別荘とを舞台にした、女3人(ジャンヌ、ナターシャ、エーヴ)と男1人(イゴール)のそれぞれの思惑、気持ち、恋情、そういったものが基本言葉でぶつかり合う物語。人はそれぞれ自分の考えや気持ちが既に決定していて誰かと関係するわけではない。他人に本心を語り、あるいは嘘を言い、はたまた駆引きとして相手を(そして自分をも)誤魔化すために戦略的な言葉を発する。そしてそれに対する相手の反応があり、そこには同じように真実も嘘もあり、そういうやり取りの相互作用から人は自分の考えや気持ちが自分でもわかり・・・、というのが人と人の関係だ。上の方にも書いたように欲動と理性の葛藤があり、そのバランスを保つことも難しい。そんな人間の有り様を、春の気分の中に描いた作品。ことさら「何か」が起こるのでもなく、ただ人のそういう姿を、心理を扱った作品。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.24
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LE SALAIRE DE LA PEURHenri-Georges Creuzot白黒148min(レンタルDVD) 気になっていた名作の誉れ高いこの作品、しかし1952年製作というとどうしても近付き難い。この時代の映画には、名作でることはわかっても、現代の自分としては生では楽しめない作品も多々あるからだ。今回友人がレンタルしてきたのを見たが、たいへん面白かった。 中米メキシコの近くという設定だろうか(撮影は南フランス)、ラス・ピエドラスという町。ヨーロッパ本国を何かの理由で逃げてきた人生の失敗者たちの吹きだまりの町。石油発掘に進出してきたアメリカの石油会社関連以外は仕事もなく、飢餓・害虫・猛暑・悪疫・失業で人々は死んでいく。アメリカの石油会社もアメリカ本国から来ているアメリカ人以外の人材は営利のために使い捨てで、その生命など虫けらほどにも思っていない。町を出るには旅費やビザも必要だが、仕事もないのでそんな金はない。モンタンが言うように「入るのは簡単だが、なかなか出ることの出来ない監獄のような」町なのだ。2時間半の映画だが、町のバーに集まるそんな男たちの倦怠、焦燥感、希望のなさ、諦念、そうしたものをクルーゾー監督は最初の1時間でしっかりと描く。 後半はニトログリセリンを、トラックで悪路500キロ先の山中まで運ぶという命を賭けた一獲千金のサスペンス&パニックが、極限状況下で人間の本性が露になる男のドラマとして描かれる。最初の1時間で描かれた4人の男たちの性格描写や人間関係の描写、これがこのサスペンス部分に血と肉を与えており、それがなければ昨今のアメリカ映画的パニック映画でしかない。そしてラストはさすがにクルーゾー監督。人間を洞察した辛辣なものだ。 やや以下ネタバレになるけれど、ラストに至る流れについて感想を書こう。2台のトラックに各2名の運転手、計4名が成功報酬1名2,000ドルで危険な旅にでる。ちなみに1ドル360円の時代だから単純計算で72万円であり、1日程度の仕事だろうから物価を考えればかなりの大金だ。マリオとコンビを組むジョー(シャルル・ヴァネル)は落ちぶれたかつてのヤクザの大物。マリオが何故この地にいるかははっきり説明されないが、逃げてきたことだけは確かだ。マリオはジョーに町のことを説明するのに「監獄」という比喩を使うが、彼は(本物の)監獄にいてしかるべき過去を持つとも言えるのではないだろうか。つまりこの一獲千金の危険な旅とは脱獄に他ならない。そしてそれに彼は命を賭けたのだ。もともと事故で燃え続ける油田を救おうなどという気持ちなど決してない。また彼を愛するゆえにマリアに祈り、出発を断念させようとするリンダ(ヴェラ・クルーゾー)をも振り切って出発する。町(=監獄)に幽閉されていることは当然の身であり、そんな中で彼を真実熱愛する女を与えられていながら、それをモ捨てての脱獄だ。彼は過去と現在の罪を精算しなければならないのであり、簡単なハッピーエンドが彼を待っていたのでは絵空事のサスペンス物語に堕してしまう。ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』もそうだったが、人間の行動に対する当然の、あるべき報い、根底にそういう哲学のあるラストなのだ。 監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.23
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TEN MINUTES OLDER ~The Trumpet~DOGS HAVE NO HELL(結婚は10分で決める)Aki Kaurismaki(所有DVD)先日見た『パリ、ジュテーム』以来、オムニバス映画、ショートないし短編にはまってしまいました。オムニバスと言うとエドガー・アラン・ポーの作品をヴァディム、マル、フェリーニが映画化した『世にも怪奇な物語』、カーウァイ、ソダーバーグ、アントニオーニによる『愛の神、エロス』、あるいは一人の監督によるロメールの『パリのランデブー』、アントニオーニの『愛のめぐりあい』、御法川修の『世界はときどき美しい』等をこのブログでもとりあげました。この中で『世界はときどき美しい』は情緒過多で質的にはボクはあまり評価できませんでしたが、どれも面白い作品。90分や2時間で3~5編の作品だと、1編あたり20~35分はあります。その意味で1編5分の『パリ、ジュテーム』は簡潔に凝縮された世界で非常に面白かった。そして感じたのは各編ちょっと時間を置いて2~3度見たくなることです。それで以前からちょっと気になっていた『10ミニッツ・オールダー』を買いました。15人の名監督による時間をテーマにしたオムニバスということですが、『パリ、ジュテーム』の各編のある種の均質性に比べると、ドラマありドキュメンタリーあり、あるいは白黒ありカラーありで、かなりまちまちの作りで、印象としては単に別個に作られたショートをまとめただけの『カンヌ SHORT 5』に近い感じです。題名通り時間は1編10分。そう言えば『カンヌ SHORT 5』に入っていたエステル・ロッソというオランダの女性監督の『プレイ・ウィズ・ミー』が13分の作品で、なかなかの出来でした。5分の『パリ、ジュテーム』を見た後のためか、見ていて10分が長く感じられました。この『10ミニッツ・オールダー』はそれぞれ7編と8編の「The Trumpet 人生のメビウス」と「The Cello イデアの森」の2本の作品にまとめられていますが、1本目「The Trumpet 人生のメビウス」を通して見た感じでは、各編確かに「時間」をテーマにしているものの全体としての流れ・構成はほとんど感じられませんでした。そこで『パリ、ジュテーム』同様、1~2編ずつ感想を書いていこうと思います。第1話はフィンランドのアキ・カウリスマキの「DOGS HAVE NO HELL」。日本語は内容から「結婚は10分で決める」になっていますが、もとの「犬に地獄はない」というのには何か意味があるんでしょうか。『過去のない男』と製作時期もほぼ同じなら、これもマルッキィ・ペルトラとカティ・オウティネンのカップルの物語。このカティ・オウティネンというロシア風の顔の女優さん、決して美人ではないように思うんですが、見ていると不思議な魅力のある人です。(以下ネタバレ)線路に寝ていて捕まっていた男が留置所から出てくる。午後3時20分。共同経営の自動車修理工場に行く。シベリアで石油を採掘する話があり、結婚してそれに行くので修理工場を辞める。愛のためにすべてを捨てる。自分の持ち分を売るから旅費のために金をくれと言う。男がカフェに行くと『過去のない男』のときと同じバンドのマルコ・ハーヴィスト&ポウタハウカが演奏をしている。全体でたった10分なのに、かなり長々と演奏の模様が写される。関係を知っている店主が厨房から女を呼ぶ。テーブル並んで座った2人。一緒にシベリアに行こう。結婚しようと。駅へ向かう2人。宝石店で指輪を買い、3時30分のモスクワ行きの列車に乗る。車室で外を眺める男。何を見てるの?、と問う女に「まだ祖国があるかどうかを」と答え、向かいの席から女の隣に席を移す、以上。3時20分から3時30分までの10分の物語。実際に男の行動が10分ですべて済むかはちょっと疑問も。例によって無表情の演技に最低限のセリフ。それなのに男や女の感情が不思議と伝わってくる。カウリスマキの不思議な純愛の世界。人は普通もっと多様な表情をし、多くを語り、時間も費やす。しかし畢竟男と女の気持ちや本質的関係とはこれだけに集約されるものなのかも知れない。また無表情とセリフの少ないのは日本の能に通じるだろうか。表現が抽象的で少ないだけに、観客はそれを補って観ることを促され、具体的に一定の演技を見せられるより感慨は深まるのかも知れない。それにしても「祖国がまだあるかどうか?」という最後のセリフの意味は何だろう。字幕翻訳の不適切で、実は祖国を去って異境シベリアに向かう男が「祖国にまだいるかどうか」と言ったのだろうか。明るいうちに乗った列車の外は既に暗くなっているので、もう国境を越えたのかも知れない。英語・独語・仏語ぐらいなら何度も戻して聞き取り、意味を調べることもできるがスオミ語ではわからない。いずれにせよ祖国という捨てるのに躊躇する帰属よりも愛を優先した男の感慨と捉えるべきなのだろう。短くも美しい純愛映画だ。10 MINUTES OLDER 第1話『結婚は10分で決める』(カウリスマキ)10 MINUTES OLDER 第2話『ライフライン』(エリセ)10 MINUTES OLDER 第3話『失われた一万年』(ヘルツォーク)10 MINUTES OLDER 第4話『女優のブレイクタイム』(ジャームッシュ)10 MINUTES OLDER 第5話『トローナからの12マイル』(ヴェンダース)10 MINUTES OLDER 第6話『ゴアvsブッシュ』(リー)10 MINUTES OLDER 第7話『夢幻百花』(陳凱歌 チェン・カイコー)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.22
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フリーページに作っていた「監督別作品リスト」と「作品アイウエオ順リスト」、制限字数をオーバーしてしまい、昨年12月以降更新していませんでしたが、とりあえず作品タイトル索引の方を3ページに分けて新しくしました。ページ数をあまり増やしたくないので、監督名、製作年、製作国は省きました。単純な作りにして、また字数をオーバーしたらページを増やして少しずつ下にずらせていく予定です。リンクの不備等気付かれた方はこの下にでもコメントいただけると助かります。監督別リストについては、どうするかまだ検討中です。今回「diary」でページを表示しながらリストを作成したのですが、この約1年半に見た映画、印象の強い弱いの差はありますが、どれも憶えているものです。見ただけにせず、こうして感想等レビューとして書くことで、1本1本記憶に強く焼きつけているようです。またレビューを書くときにキャストやスタッフの名、関連作品、その他色々調べることもあり、映画の知識もよりいっそう増えていきます。今後とも駄文へのおつきあいよろしくお願い致します。作品アイウエオ順リスト:http://plaza.rakuten.co.jp/KarolKarol/4000
2008.03.21
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PARIS, JE T'AIME120min(所有DVD)この『パリ、ジュテーム』というオムニバス映画は、もともとはパリの1区から20区までの20の区を20人の監督がそれぞれ5分のショートとして撮り、それをまとめたものになるはずだったらしい。しかしそのうち2編「11区」と「15区」は本編から外されてしまい、結局18話だけが採用されました。特典DVDにその除外された2編が入っています。出来もいまいちというのもあるかも知れませんが、出来てみたら各作品は必ずしもその区をその区らしく描いてはいないので20すべての区にこだわることはなくなったのと、20編すべてを見て並べ変える段になったとき、なかなかこの2編を入れて一つの全体の流れを作ることが難しかったからなのだと思います。番外編1『11区』ラファエル・ナジャリ監督11E ARRONDISSEMENT Raphael Nadjariこれはある既婚女性のなんてことない朝の風景を描いたものです。主演はジュリー・ドパルデューで、見ようによっては彼女のアイドルビデオのようでもあり、ジュリーが好きな自分にとっては番外編としてでも見られるのは嬉しい一編です。ジュリーは夫アンドレ、中学生(小学校高学年?)の娘クララ、小学生の息子ジュリアンと暮らしている。仕事に出るのに彼女がいちばん早い。で子供起こして、夫起こして、身支度して、出来るだけの準備をしてあとは夫に託し、3人に別れのキスをして出勤していく。夫を起こしているのが7時23分でした。夫が子供たちに学校の用意させて朝食食べさせて、娘を見送り、息子を学校へ送っていく。ただそれだけの物語。手持ちカメラでアップで写されるジュリーの姿はその辺にいるであろうパリの共稼ぎ夫婦の妻の姿なのでしょう。でも平凡でありながら、また平凡であるからこそ、細々としたドラマのかけらが描かれている。子供部屋に息子を起こしにいくと、娘は既に起きているのですが、その娘には「5分でいいから朝食に時間をとってちゃんと食べてね」ってうるさく言うのだけれど、寝ている息子には「ジュジュ、さあ起きてー」って優しいんですね。それをなんとなく嫉妬を含むような目で娘がちらっと見る。次に夫婦の寝室にいくと夫はまだ寝ている。最初は寄り添うようにしてキスなんかしながら愛情たっぷりに起こすのだけれど、夫はなかなか起きない。しまいに持っている洋服か何かを激しく床に叩き付ける3歩手前のような動作をしかけたり。最後は円満に家族3人に別れのキスをして出勤してはいくのだけれど、仕事の事情などはわからないけれど、結局妻に多くの負担がかかっている感じも描かれている。これが似たような女性にごく当たり前の姿だということでしょうか。でもこの映画で、よく西洋人の生活(実際や映画)を見ながら感じることをここでも感じました。一見ほんの微かに微かに描かれた娘の寂しさがあるけれど、母親と出がけにキスをする。この行為には双方の愛情の確認が、相手に対しても自分に対してもある。あるいは忙しいときに起きなくてちょっとイライラした夫ではあるけれど、子供たちとはちがって頬ではなく口と口の、ほんの軽い短いものではあっても目を見つめ合ってのキス。ここでも自分はやっぱり相手をかけがいがないと思っていることを伝え合って、愛の更新行為をしているんですね。形が重要とは言わないけれど、肌と肌を触れ合うこうしたフランス人の行為は大切だと思います。逆に愛情が冷めていれば、その行為のあり方で冷めていることも相手に伝わってしまうのかも知れないわけです。番外編2『15区』クリストファー・ボー監督15E ARRONDISSEMENT Christoffer Boeデンマークのクリストファー・ボー監督の『恋に落ちる確率』という作品は好きな映画です。主演女優マリア・ボネヴィーが素敵な、雰囲気のある映画でしたが、同時に物語を語るとはどういうことかという疑問も考察されていました。この「パリ15区」はその『恋に落ちる確率』の超縮小版といった体裁の作品。5分という制約では無理だろうけれど、もう少し縮小度の少ない短編だったらもっと面白かったと思います。アランは空港へ行こうとしていて映画監督か脚本家の友人ヴィコンが車で通るのに拾われる。車内で新作映画の構想を語り合うのだけれど、ヴィコンはその主人公がアランのような男だと言い、アランはある男と女の出会いの物語を語って提案する。そしてアランの語る物語の構想は実際にアランが演じる形で映像として見せられる。そこでの女アンナとの出会い、超アップの愛の行為は『恋に落ちる確率』のアレックスとアイメのロマンティックな映像に酷似している。それはちょっと違うとヴィコンに言われて、アランの語る少し違ったバージョンが映像で見せられる。アランの語るアランを主人公としたアンナとの物語では、アンナが別れようとしている恋人がアランの友人だという設定だった。やがて車はヴィコンの目的地に到着し、この後車を自由に使っていいとヴィコンがアランに言う。そこにはヴィコンの恋人が待っていたのだが、ヴィコンは彼女に友人アランが車にいるから挨拶だけしておくことを勧める(以下省略)。最後のネタバレはしなかったものの、恐らく大方の方には想像がつくだろう。ここでも『恋に落ちる確率』同様、語られる物語(あるいは映画の物語)と現実の境が曖昧であり、語ることの意味、映画の映画たるゆえん、役を演じることの意味、そういうことが問われてもいる。どうしても5分は短い。しかし結局これももう一つの除外作品も2作とも完成された『パリ,ジュテーム』の他の作品とは馴染まない、毛色のちょっと作品だったのかも知れない。この作品が『恋に落ちる確率』の小型短縮版のようであるのは、ボー監督の個性・筆致と言うべきなのか、それとも想像(創造)力の限界と解釈するべきか。ボー監督の別の長編を見てみたい衝動にかられる。余談ではあるけれど、ある監督(でも作家でも、作曲家でも・・)、ただ一つの良い作品を作ってくれれば、後が続かなくてもそれはそれで、その一作だけで価値はあるとは思うけれど・・・。第1話~第3話第4話、第5話第6話、第7話第8話~第10話第11話、第12話第13話、第14話第15話、第16話第17話、第18話監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.20
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PARIS, JE T'AIME120min(所有DVD)第17話『カルチェラタン』フレデリック・オービュルタン & ジェラール・ドパルデュー監督QUARTIER LATIN Frederic Auburtin & Gerard Depardieuベン・ギャザラとジーナ・ローランズというジョン・カサヴェテス監督にゆかりのある2人の名優を使ってのジェラール・ドパルデューのカサヴェテスへのオマージュということらしいけれど、その辺のことは至って無知な自分なのでよくわかりません。正式な手続はしていないけれどもう何年(いや何十年)も前に別れてしまっているベンが正式な手続のためにジーナの住むパリにアメリカからやってくる。約束のキャルティエ・ラタンのジーナの行きつけのカフェ。迎えるのはオーナーのジェラール。このようにあくまでフィクションなのだけれど、役の名は3人とも役者のファーストネーム。ギャザラとローランズの関係にしても夫婦ではないけれど長年の親しい仲で、ドパルデューも2人の友人だろうし、フィクションであってリアルでもある。役者と演技という映画の基本的姿がここに強調されているかも知れない。ベンとジーナは近況を話し合って、翌日の弁護士を交えての手続を約束して別れる。見ていて感じたのは、なんかこのフィクション自体、このフィクションの中で2人が「ごっこ」をしている感じ。つまり実は今も夫婦で別れるつもりや予定はないのに、そういう設定でカフェで会って離婚ごっこを演じているとでも言うのか。夫婦であろうがなかろうが、互いに相手のことを良く知り合った、その人間としてのすべてを受け入れ合ったような2人の関係が良い感じでした。第18話『14区』アレクサンダー・ペイン監督14E ARRONDISSEMENT Alexander Payne最後らしい作品で、これがなければ最後は第13話『ピガール』ぐらいにするしかなかったのでは。でもペインのこの『14区』があったことで上手く作品全体をしめた感じです。それは特殊から一般化したということです。ここまでの17話はどれも映画の世界だった。そこに描かれた出合いや物語は実際にあり得ることかも知れないけれど、やはり映画の世界。例えば第1話『モンマルトル』や第2話『セーヌ河岸』の男女の出会いは、あるかも知れないけれど、そう毎日のこととして転がっていて、観客が自分のこととしてそう簡単に遭遇するようなことではない。つまり映画の世界。それに対してこの第18話は、フィクションではあるけれどドキュメンタリー的で、マーゴ・マーエィンデール演ずるデンバーから一人でパリにやってきた観光客に、観客は自分を置き換えることが可能なのだ。観客は第1話から第19話までの登場人物にはなれない。類似の経験ができる機会はほとんどない。しかし第20話のキャロルには誰でもなれるのだ。デンバーで郵便配達人をするキャロルはパリに旅行することが夢で、お金をためて一人でやってきた。周りにはパリに住む人々の生活があり、人々は喜怒哀楽の中で生き、愛を語り合うカップルもいる。しかしこの異国の地で彼女は孤独で一人だ。人は生き、そして死ぬ。愛し合った二人の実存主義者サルトルとボーヴォワールも今はただ一緒に眠る。35年間メキシコの独裁者だったポルフィリオ・ディアスも今はここモンパルナスの墓地に眠る。喜び、悲しみ、愛し、憎み、人の一生とはそんな儚い夢。だからその生を精一杯自分らしく生きる。そう人々に感じさせる街、それがパリなのだ。パリというのは不思議な街だ。常識や世間の流行に流されるのではなく、自分らしくあればあるほどこの街での生活(短くとも)は充実し楽しくなる。その人にその人らしさを開花させるよう誘う街、それがパリの魅力だ。そして監督のペインもそのことを知っている。第1話~第3話第4話、第5話第6話、第7話第8話~第10話第11話、第12話第13話、第14話第15話、第16話監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.19
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O CONVENTOManoel de Oliveira90min(DISCASにてレンタル)この映画は現役世界最長老監督と言われるポルトガルのマノエル・デ・オリヴェイラの作品。先日見たブニュエル『昼顔』の後日談『夜顔』が97才の作品で、こちらは約10年前で86才頃の作品ということになるだろうか。映画の内容がどうのということではなく、その筆致というか雰囲気に、何かとても懐かしいものを感じた。イングマール・ベルイマンの1960年代の、やや前衛的な映画作りに近いものを感じたのだ。『ペルソナ』とか『狼の時刻』とか。人物の少ない濃密な室内劇で(映画だから室内劇と言っても屋外もある)、現実と夢や妄想が交錯する(この映画ではそれに魔術的要素も加わる)。『ペルソナ』にしても『狼の時間』や『鏡の中にある如く』もそうだけれど、閉ざされた狭い世界の中だけの物語で、外の世界とは隔絶されている。舞台上だけの世界である芝居に近いのかも知れない。人間心理を化学実験室で薬品混ぜたり、分離したり、そんな風に分析しているような感じでもある。兎に角見応えのある作品だった。映画は主人公の学者が舞台となるポルトガル山中の修道院に到着するところから始まるが、テロップで「この修道院に入る者は、見ざる、聞かざる、言わざるべし」と出る。これは物語が「映画の世界だけのものなのだよ」と言う表明とも受け取れる。この映画は全編通して、すべて固定カメラだ。トラベリング(撮影しながらのカメラ位置の移動)も、ズーミングも焦点移動もない。そういう1カット、1カットの積み重ねで出来上がっている。映画が映画だけの世界ならば、その各1カットのフレーム(スクリーンに我々観客が見る四角い枠内の画面)内だけがその時々の世界全体でもある。例えばAとB二人の人物が写っている画面に歩いて近付いてきたCが画面に入ってそこで立ち止まる。次にAが歩き出して画面の外に外れBとCが画面に残る。Cが画面に入ってくる前Cは何処にいたのか。何をしていたのか。どういう様子でABに近付いてきたのか。それとも画面から外れていただけで最初からAとBの傍らにいて二人の会話に立ち会っていたのか。画面から外れたAは何処かへ行ってしまったのか、それともまだすぐ横にいるのか。そういうことはいっさい示されないか曖昧だ。一見不親切な(非説明的な)描写であるけれど、Cの存在がAとBにもたらす心理効果、Aが去ったこと、あるいはまだ傍らに存在することのBやCに対する心理効果、そういう3人の心理の駆引きの緊張感の中に観客を置く。この映画、オリヴェイラ監督がゲーテの『ファウスト』を下敷きにしたと解説などにあるのだけれど、ポルトガルの女性作家アグスティナ・ベサ=ルイスの『As Terras do risco』(=The Land of the Risk)という小説を原作としている。また映画の原題の意味は「修道院」だ。ポルトガルの(廃?)修道院にある古文書を調べるためにアメリカ人(たぶん)の学者マイケル(ジョン・マルコヴィッチ)がフランス人の妻エレーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)とやってくる。マイケルはシェイクスピアが本当はイギリス人ではなく、スペイン系のユダヤ人で、異端審問を逃れてポルトガルからフィレンツェ経由でイギリスに渡ったという仮説を裏付ける古文書を探しているのだ。マイケルとエレーヌを迎えたのは修道院の管理人バルタール(ルイス=ミゲル・シントラ)だったが、古文書の司書として雇っている若く美しい清らかな女性ピエダーデ(レオノール・シルヴェイラ)を、研究の協力者としてマイケルにあてがう。しかしそれはエレーヌに一目惚れしたバルタールがマイケル/エレーヌの夫婦仲を裂こうという策略だった。バルタールはメフィストフェレスとしてマイケルに知識(ここではシェイクスピアの秘密を解明すること)による男の願望である永遠の生を得ることに誘惑する。一方エレーヌには(ちなみにフランス語のエレーヌは古代ギリシアのヘレナのことであり、ゲーテの『ファウスト』の素材でもある)実は悪魔ルシファー信仰の巣窟であったこの修道院の隠された秘密を跡を見せ、彼女への愛を告白する。エレーヌの提示した条件は夫マイケルとピエダーデの二人の愛を成就させないことであり、そのために森の本能の穴に彼女を誘い込むことだった。到着した直後に修道院を案内されたエレーヌは、丘の山頂にある記憶の聖母の礼拝堂で悪魔の啓示を受けていたのか。清純の象徴であり神を志向するピエダーデの魂の堕落と抹殺が彼女の出した条件であるわけだ。こうした4人の緊張した心理劇が繰り広げられる。光だ闇だ、神だ悪魔だ、という設定で哲学的ことも語られる背景はあるが、つまるところは心理が濃密に描かれた男2人と女2人の愛憎のドラマだ。悪魔たるバルタールがすべてを操っているようで、実はエレーヌ(とピエダーデも)という女性が2人の男を手玉に取っているのがオリヴェイラの女性観か?。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.18
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LES VALSEUSESBertrand Blier118min(DISCASにてレンタル)何がDISCASから送られてくるか、なかなか完全には読めません。いくら自分がずっと前から予約リストの上の方に入れておいても、自分も常時2枚借りてしまっているわけで、それを返却した時にちょうどその作品が誰かから返却されて来なければ、結局別のDVDが送られてくることになるわけです。そういうわけで今回も「あれれん!」ってものが2枚送られてきて、でもそれが2作品とも期待を遥かに超える良作(傑作?)でした。その一つがベルトラン・ブリエの『バルスーズ』。ブリエ監督はやや関心のある監督ではあるのだけれど、この初期作品はあまり良い予感はありませんでした。何がDVDになっているかは知らないけれど、新作の『ダニエラという女』と『私の男』とこの『バルスーズ』の3枚を選んでいるDISCASさんの選択は的確かも知れません。1974年3月20日のこの映画の封切はフランスではセンセーションを巻き起こした。人口約5千万のフランスで6百万人弱の動員を記録。10人に1人以上が観たことになる。時代は1968年の五月革命の実質的失敗の後で、改革を含みながらも大統領がポンピドゥ-からジスカール・デスタンに代わる頃の保守反動の時代。そんな時代に社会を挑発することも目的にあった映画ではないだろうか。タイトルのフランス語は「ワルツを踊る女たち」だが、スラングとして英語の「balls」つまり男性の「タマタ*」の意味がある(最初に掲載したポスターに2個のタマゴを両手でお手玉のようにしてるイラスト)。主人公ピエロ(パトリック・ドベール)とジャン=クロード(ジェラ-ル・ドパルデュ-)はカッパライなんかして自分勝手に無軌道に生きる若者2人で、行動自体は犯罪的だから肯定できる2人ではないけれど、これは自分だけが運良く手にした現在の安定を社会の弱者を無視しても守ろうとする体制順応主義者たちとの対比としての人物設定でしょう。映画の最初の方には、そういう人たちを眺め渡してドパルデュ-が「これでもフランスかよ」って叫ぶシーンがある(原語では「間違いないんだよな、これでオレたち本当にフランスにいるんだよな」ぐらい)。表面的にはちょっとエッチなコメディー仕立てで、オッパ*丸出しのミウ・ミウやブリジット・フォセー、若き日のイザベル・ユペールを見ているのも楽しいけれど、実は社会派の映画でもある。見ていると、大人だからエッチな面もあるけれど、子供のいたずらの延長のように生きる彼らの方が、周囲の常識的(?)人々よりも、自由に人間らしく生きていることが感じられてくる。そして悪さをしているようでありながら、順応主義者たちよりも他人に対して優しくさえあることも感じられる。順応主義者たちは自分の欲望を誤魔化して殺してバランスを保っているから、その欲望を思い出させるような者たちは圧殺するしかないわけだ。それは自分たちの生の根拠や今の生活を根底から覆すことになる。だから自分たちとは違う地平に立つ者は排除しようとする。もちろん他者に対する本当の優しさもない。一方無軌道な主人公たちは表面的にはカッパライとかで犯罪は犯すけれど、自分の欲望充足を第一にしようとするから、他者の欲求とか不幸も見えるわけで、結果的には他者に対して(潜在的に)優しいわけだ。兵役中の夫の休暇に乳飲み子つれて会いにいく若妻(B・フォセ-)に列車の中で迫る(イタズラする)2人は、セクハラだって言ってしまえばそうでないこともないけれど、最終的に強く無理強いしてはいないし、ちょっとセクシャルなことをさせる(してもらう)ためにお金を出すのも、自分らの欲求がまずはあるものの、ドパルデュ-のセリフはあながち嘘ではない。久しぶり(2ヵ月)ぶりに会う夫と、安ホテルじゃなくって高級ホテルの広いベッドで、シャンパン付きで愛の一夜を過ごして過ごして欲しいってこと。自分ならそう願う幸せを彼女にもして欲しいっていうジャン=クロードの優しさである気がする。そうでなければ他に乗客のいないあの列車内ではレイプだって彼らには可能だったろうし。そしてジャンヌ・モローとの挿話。女子刑務所に行けば、服役中にずっとセックスできなかった飢えた女がいるだろうって、実に短絡的な発想をするのだけれど、刑期を終えて出てきたジャンヌ・モローを追い回す。彼女は暗い様子で、もちろん追い回す2人を最初は迷惑がっているけれど、ある意味あまりの無邪気さにはじめてモローが笑う。このシーンは良いですね。彼女には2人の目的はお見通しなのだろうけれど、人間同志理解が成立した瞬間とでも言うか。季節は冬で寒いけれどモローは刑務所から出てきたままの薄着。で暖かい服を買ってくると良いって、ドパルデュ-がお金渡す。海岸のレストランに行って生牡蠣とかの海の幸を食べる(食べさせる)。余談だけれどこのシーン、最初窓の外からテーブルの3人が写され、トーストか黒パンか、とにかくフランスパンではない薄切りのパンにバターのようなものを塗ってるのが見え、緑色の細長いワインのビンも見える。これだけで海の幸にアルザスワインだな、ちょっとリッチな食事ってわけだな、ってわかる。ジャンヌ・モローっていうと『死刑台のエレベーター』が有名だけれど、やっと朝エレベーターから出られたモ-リス・ロネが朝食にカフェでクロワッサンをパクつくシーンがあって、この映画では海岸での食事の前にカフェでやはり朝食にクロワッサンをパクつく。これって一種の引用なの(?)って思った。そもそも男2人とジャンヌ・モローという3人関係自体『突然炎のごこく』の引用かも知れない。映画に戻って、洋服や食事、これだって目的のための投資ではあるかも知れないけれど、やっぱり彼女に幸せを与えたいという気持ちもあるように感じられる。そして高級ホテルで3人で過ごした一夜の果に、思わぬ事態が2人を待っていたけれど、2人が良く理解しないままではあるものの彼女に一時の幸福を与えたのだと思う。そして最初だけかと思っていたら最後まで物語の中心人物だったミウ・ミウ。ちょっと男には都合の良すぎる女の描かれ方ではあったけれど、ミウ・ミウは全身曝け出しての名演。彼女の役名はマリ・アンジュ(Marie-Ange)。マリは聖母やマグダラのマリアだし、アンジュは天使の意味だ。語呂としてはフランス共和国の象徴マリアンヌ(Marianne)に酷似。カタカナ書きで最後の「ジュ」と「ヌ」の差、さらにローマ字で言えば ju と nu だからたったの「j」と「n」の差しかない。上にドパルデュ-のセリフ「これでもフランスかよ」に触れたが、マリアンヌに象徴される現状のフランスではなく、マリ・アンジュに象徴される世界の標榜ではないだろうか。この映画は今のフランス人にとっては35年前の一時代を反映するものなのだろうけれど、性解放(あるいは挑発に使われた性)に関して付記すると、社会・文化・歴史の違う日本とフランスとの単純比較は出来ないけれど、援助交際も当たり前になったような日本の性解放の歴史(つまり人間不在)の中で日本人が見落としてきたことをも読み取ることも出来、そういう意味では現在の日本にアクチュアルなテーマを見て取ることも可能かも知れない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.17
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MALADIE D'AMOURJacques Deray118min(所有VHS)ジャック・ドレ-というとドロン/ロネ/ロミ-・シュナイダ-の『太陽が知っている』(1968) をまず思い浮かべるのだけれど、あとは『パリ警視J』(1973)、『フリック・ストーリー』(1975) 等で、サスペンス、刑事物、アクション物の印象が強い。そんな彼が『恋の病い』(??!)です。共演はミッシェル・ピコリにジャン=ユーグ・アングラード。もともとナスターシャ・キンスキーはどちらかというと苦手で(この映画を見たらなかなか良かったけれど)、なのでこの妙なとり合わせの映画、50円ぐらいでビデオ買ってあったけれど、なかなか見るに至らなかった。でもこの作品は88年度フランスで興行 N0.1 だったらしい。DISCAS切れだったので見てみようかと、かなりいい加減な気持ちで見始めた。なにげなくタイトルロール見てたら ANDRZEJ ZULAWSKI と目に入ってくる。「あれっ!?」と思ってリモコンで戻して止めたら確かに「ストーリー原作アンジェイ・ズラウスキー」とあった。なるほどズラウスキーとナスタ-シャは不思議はないけれど、ズラウスキーとドレ-は不可解。謎は深まるもののズラウスキーの名を見て俄然興味が深まった。結局最後まで見てこの映画を一言にすると純愛メロドラマだ。舞台はボルドー市。新進気鋭の若い有能な癌専門医クレマン(アングラード)と美容室で働くジュリエット(キンスキー)は深く愛し合うようになるけれど、ジュリエットは医学界の重鎮で、病院ではクレマンの上司のラウール(ピコリ)の愛人だった。クレマンはエリートコースを諦めて田舎町の診療所の医師となり、仕事は大変だがジュリエットとの愛の暮らしを送る。しかし先端の医療ではなく一介の診療所医であることに悩むクレマンを見て、ジュリエットは秘かに去ってボルドーに戻り、クレマンには「もう愛してない」と電話で告げた。彼女は本当の愛はないラウールのもとに戻り、しかし愛してくれる彼のもとで贅沢な暮らしを送っていた。クレマンはパリに出て専門研究医として大学で講議も持つなど、エリートコースに再び戻る。ある晩ラウールとオペラを鑑賞していたジュリエットは気分が悪くなり、劇場から出ると突然倒れてしまった。病院で検査を受けると癌の一種ホジキン病だった・・・。(ラストへ向けてのストーリーは書かないが、上で純愛メロドラマと言ったことでおおかたの想像はつくことと思う。)んんん~、何ともな~、そうですか、でもまあ男2人は好演してたし、ナスターシャも良い雰囲気出してた映画かな?、って言いたいところなのだけれど、この原作ストーリーがズラウスキーだということを知っているとそう簡単ではない。細部のどこまでがズラウスキーの原作にあることかはわからないけれど、随所にズラウスキー的なものが垣間見られるのだ。ズラウスキーの他の映画のところでも書いたが、『ワルシャワの柔肌』も『私生活のない女』も、早足に闊歩したり、何かに向かって急ぐように走る主人公の女性のシーンで始まる。後者でエテル(ヴァレリー・カプリスキー)が急いでいるのは、たぶん決して(時計的)時間に追われているのではない。心理的に追いつめられている。『私の夜はあなたの昼より美しい』ではリュカ(ジャック・デュトロン)は謎のウィルスに脳を冒されて失語症へと向かったいた。彼には「言葉を失う前に」という追いつめられた気持ちがある。この『恋の病い』でもジュリエットはホジキン病の既に第3病期にある。病気で先がないというのは残された短い時間で「密度の濃い」生を生きることに主人公を誘う。そういう差し迫った、追いつめられた心理が、忙しなく動きまわる落着かない映像構成で描かれる。この2例のようにいつも実際に病気で先がない話であるわけではないけれど、ズラウスキーの映画には「究極に濃度の濃い生」を生きる人物を通して人間の普遍が考察される。そういう目でこの映画の作りを見ていると、そういう緊迫感が全くない緩慢なメロドラマでしかない。ドレ-らしく男たちの心理を重厚に描いているかと言えば、そうでもない。地位も名誉も金もあるラウールが、愛されているのではないと知りながらジュリエットを失いたくないという、老年へ向かう男性の若さを求める心理、そういうものもはっきりしない。キャリアを捨てて一介の診療所医であることに対するクレマンの焦燥感も強くは描かれない。この3人の心理をもっと追いつめられた狂気として描いていたらさぞ面白かっただろう。そういう意味でズラウスキー本人の監督で見たかった、とどうしても感じてしまった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.16
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映画関連リンク遊びさっきジャン=ユーグ・アングラードをウィキペディアで調べていて、次にアンジェイ・ズラウスキーのウィキペディアのページを見たかった。文字入力して検索すればすぐ行けるのだけれど、それではつまらない。リンクを辿ってマウスクリックだけで目的のページに行くのが面白い。そこでまずジャン=ユーグ・アングラード出演作品リストの『王妃マルゴ』が青色だったのでクリック。そこでキャスト中からダニエル・オートゥイユをクリック。めぼしいリンクがないので Francais をクリックしてフランス語ページの Daniel Auteuil に飛ぶ。そこの伝記の解説で Emmanuelle Beart をクリック。出演作の『Le Temps retrouve(見い出された時)』をクリック。出演者からJohn Malkovich をクリック。ソフィー・マルソーに辿りつきたいのだが、John Malkovich の出演作リストの『Al di la delle nuvole(愛のめぐりあい)』は赤いリンクなので行っても記事はない。アントニオーニの映画だからと思い Italiano をクリックして同じマルコヴィッチのイタリア語ページに飛ぶ。めでたく出演作品リストに青字の『Al di la delle nuvole(愛のめぐりあい)』があったのでクリック。つまりこの映画のイタリア語ページまでやってきた。もちろん出演者の Sophie Marceau をクリックして、伝記(Biografia)に Andrzej Zulawski の文字を探してクリック。日本語をクリックして、やっとアンジェイ・ズラウスキーの日本語ページに辿り着いた。もっと簡単な近道があったのかも知れませんが・・・。暇だとこんなバカなことをやっている自分なんですが、作品や映画人つながりで何処かから何処かまで行けたというのは充実感もあるし、途中のページで思わぬ発見があったり。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.15
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PARIS, JE T'AIME120min(所有DVD)第15話『ペール・ラシェーズ墓地』ウェス・クレイヴン監督PERE-LACHAISE Wes Craven前第14話がドラキュラもので、その暗い夜が明けた真昼の世界。しかし舞台は墓場です。ウェス・クレイヴンと言えば『エルム街の悪夢』や『スクリーム』などホラーの監督。なかなか粋な構成です。第1話から第18話までただ羅列したのではなく、こういう全体構成が考えられている。そのためにナジャリの「11区」とボーの「15区」が本編から外されてしまったのでしょう。監督はアメリカの人ですが、演じるのはクレイヴン監督の『スクリーム3』に出ているエミリー・モーティマーと、ルーファス・シーウェルで、2人ともイギリスの俳優さん。あとオスカー・ワイルドの亡霊役は最後の第18話の監督アレクサンダ-・ペインです。なるほど西洋でも、例えばゴシック・ホラー映画などで、人里離れた教会に付設の墓地があって、そこには朽ちた金属の十字架の墓標などがあって、夜稲妻が光り、一陣の強風が流れ・・・といった恐怖場面はあります。でもこの映画のペール・ラシェ-ズや、モンマルトル、モンパルナスの墓地にしても、日本の墓地のような薄気味悪さは少ないですね。宗教の違いもあるだろうけれど、きっと生者と死者の境界が日本よりも明確なのだと思います。なので観光や散歩のコースにもなるわけです。結婚を控えてスケジュールの都合で結婚前ハネムーンでパリにやってきたフランシスとウィリアムのイギリス人カップル。彼女はサラ・ベルナールやショパンやプルーストの墓があるって言うけれど、ウィリアムの方は墓地なんてきっと興味ない。この3名の有名故人、イギリス人やたぶんアメリカ人のちょっと教養のある人がきっと関心を持つであろう人物たちなのではないでしょうか。この辺のセリフの選択にちょっとニヤっとしてしまう自分です。たぶん日本人ならショパンはともかく、プルーストやサラ・ベールとは言わないでしょう。ちなみにこのペール・ラシェ-ズには他にジム・モリソン、ピアフ、モンタン/シニョレ、モリエール、バルザック、ビゼー、カラス(後に海に散骨)、アベラ-ルとエロイーズ・・・等の墓があります。ここに葬られている人すべての伝記とその人の関連人物を知れば、西欧の、少なくともフランス近現代の政治史、文学・芸術史、思想史、科学史を網羅出来るのではないでしょうか。映画に戻って、フランシスの最大のお目当てはオスカー・ワイルドの墓。やっと見つけて彼女は墓石にキスをする。彼女にとってワイルドは彼一流のユーモアを与えた作家。でもウィリアムにはそれが理解できない。ユーモア(なにせユーモアの好きなイギリス人ですから)を解さないウィリアムに「そんなあなたとはやっていけない」って怒って行ってしまう。そこにワイルドの亡霊が出現する。彼女を失ったらそれは心の死だとウィリアムに忠言する。彼はフランシスを追うとキスをし、「君を正常な人間のように扱う男といて幸せか?」ってワイルドの言葉を言うと彼女もにっこり。めでたく2人が仲睦まじく墓地を去っていく。第16話『フォーブール・サン・ドニ』トム・ティクヴァ監督FAUBOURG SAINT-DENIS Tom Tykwerこの第16話はなかなか素敵な一編です。作りも見事で、色々な要素をこの短い5分間に表現しています。単独の5分のショートということではなく、この『パリ、ジュテーム』というオムニバスの一編として考えると、的確な構想とその実現ではないでしょうか。実際にトム・ティクヴァがどのようにこのショートの発想をしたかはわかりません。でもたったの5分をどうするか。そこでビデオを見るときのピクチャーサーチっていうのでしょうか、ああいうコマ落としにしたらどうなるか。早送りだから10倍速なら5分で50分が描ける。じゃあそれをどういう枠にはめるか。そこで死際に見る人生の走馬灯では暗いから、別れを告げられた男が出会いからの彼女との日々を走馬灯のように回想するのはどうか。更にその主人公を目の不自由な障害者にすれば、見えない人が見るというひねりが加わる。そんなわけで、物語は目の見えないトマ(メルキオール・ベスロン)が家でパソコンに向かって仕事をしていると電話が鳴る。受話器を取ると恋人フランシーヌ(ナタリー・ポートマン)からで、妙に大袈裟で文学めいた長い別れのセリフを語るのだった。ショックで返す言葉もなく受話器を置いたトマは、フランシーヌとの出会いからの日々を走馬灯のように見るのだった。5月15日のこと、トマが街を歩いていると、通りに面した一階の部屋の開け放たれた窓から若い女が助けを願う言葉が聞こえてきた。窓辺から室内を窺うトマだが、目が見えないので女が芝居のセリフを稽古しているとはわからなかった。女優志望の彼女はこれから演劇学校のオーディションで、かつて出たB級映画の中の場面の練習していたのだ。遠くから10時を告げる教会の鐘が聞こえる。オーディションは10時からで慌てる彼女。そんな彼女をトマが近道で演劇学校まで導く。「盲が盲の手を引けば共に穴に落ちる」という聖書の言葉を連想したりしたけれど、彼女は盲でないから2人は穴には落ちない。でも目の見えない者が見える者を導くというのが良い。 全編を通してのことでもあるのだが、この物語は障害者の普通人としての社会参加の物語でもある。そしてそれは単に物語がそうであるだけではなく、ボクの勘違いでなければ、トマを演じた役者メルキオール・ベスロン自身が目の見えない障害者なのだ。演劇学校に合格したフランシーヌはボストンからパリに移り住み、トマと仲良くなる。デートをし、一緒に暮らし、結ばれ・・・、と次から次へと色々な短いシーンが早送りでトマのナレーションの下に繰り広げられる。喧嘩をすればトマは一人最初の出合い時の例の映画を映画館に観にゆき、と言っても彼の目は見えないのだけれど、そして冒頭でフランシーヌが稽古していたセリフのシーンを見ながら(聞きながら)「ゴメン」と独白する。そして映画冒頭の電話を切ったシーンに戻ってくる。再び鳴る電話はまた彼女からだ。難しいセリフをトマ相手に言ってみてリアリティーのある演技が出来たかを確かめたかったのだった。「ボクには君のことが見える」というのが最後のセリフだ。 コマ落としの超短いシーンの連続だから、撮影そのものは大変だったろう。なにしろたった1秒、2秒、10秒のために一つのロケが必要だ。そのためにカフェでも通りでもロケ現場にいた人をエキストラに使い、遠景から望遠で撮影された駅のシーン等では何も知らずにフレームに入っている通行人もいるだろうし、結果パリの人々の生活を生で捉えることになっている。これはパリをテーマにした映画としては適切なことではないだろうか。人生に前向きな活力を表現したナタリー・ポートマンは素敵だったし、実際に目が不自由なメルキオール・ベスロンの役どころは現実の彼と交差するもので良かった。余談だが、普通男の役は男優が演じ、女の役は女優が演じ、子供の役は子役が演じる。ならば目の見えない人物の役を演じる本当に目の不自由な役者がもっといても良いのではないだろうか。第1話~第3話第4話、第5話第6話、第7話第8話~第10話第11話、第12話第13話、第14話監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.14
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L'AMOUR PAR TERREJacques Rivette129min(所有VHS)この映画、『地に堕ちた愛』ってタイトルはいかがなものでしょうか?。なにか「堕落した愛」って感じがしますが、原題にそういう負の意味合いをはたしてリヴェットは込めたかどうか大いに疑問です。この映画はリヴェット監督の作品によくあるように(『セリーヌとジュリーは舟でゆく』、『彼女たちの舞台』、『恋ごころ』など)、映画中芝居の物語です。「PAR TERRE」とフランス語で言うと「地面に」という意味なんですが、西洋の劇場建築の一階平土間をも意味する、あるいは連想させる語だと思います。映画冒頭に出てくるアパルトマンでの芝居上演にしても、この映画のメインストーリーであるリハーサルを重ねて最後に上演される芝居も、アパルトマンや屋敷の部屋での上演で、決して床面=「平土間」から一段高くなったステージ上では演じられません。原題は「平土間の愛」とか「平土間に下ろした愛」という意味で、決して完成したものとしてではなく、芝居というものを地に下ろして分析・考察しようということだと思います。そしてもちろん愛を考察する物語でもあるわけです。映画はエミリー(ジェーン・バーキン)とシャルロット(ジェラルディン・チャップリン)の2人の舞台役者が、一風変わった劇作家・演出家クレマン・ロックモール(ジャン=ピエール・カルフォン)の大邸宅に移り住んで、シルヴァーノともども一週間という短い期間で、まだ最終幕の台本は明かされぬある芝居を仕上げて、最後に上演するというものだ。屋敷には開かずの間があって、そこから不思議な物音(あるいは幻聴)が聞こえてくる。フランス語でピエス piece と言うと、英語のワン・ピース、トゥー・ピーシーズというような意味で、さしずめ日本語では個とか枚いった単位を表す語だ。そしてユヌ・ピエス une piece は家について言う場合の1部屋、芝居について言うと1編の戯曲ないし1つの出し物を指す。つまり開かずの間(piece)というのはドアの背後に隠された1つの芝居(piece)でもある。タイトルにも、作中のこの一語にも、フランス語でなければわからないダブルミ-ニングが隠されている。それを知らずとも映画は十分鑑賞できるが、知っていると映画の内容を理解する大きな指針となる。映画は、なんだかわからないけれど何人もの人が夕暮れのパリの街のとあるアパルトマンの一室に案内されるシーンで始まる。そこには1人の男と2人の女がいる。女2人は上手いこと顔を合わせない。でもその様子を案内された人々は見ていて、当の男と女の3人はその人々の存在に気付かない様子。始まりから何か狐につままれたような訳の解らぬシーンなのだが、これは実はアパルトマンを使った芝居上演だった。リヴェット監督は、冒頭から映画を見ている観客を、現実と芝居の虚構の混交した世界に誘い込む。そしてこの3人の役者エミリー、シャルロット、シルヴァーノはクレマン・ロックモールに雇われ、彼の屋敷で稽古をし、上演することになる。そのキッカケとなるのは3人が勝手に改作して上演していたのはロックモールの戯曲だったこと。創作して戯曲を書く劇作家、それを上演する際に役者が勝手にもたらす変更。上演される舞台というのは一体誰が作るものなのか?。屋敷にはクレマンの友人でライバル(?)のポール(アンドレ・デュソリエ)、クレマンの現在のパートナー(?)のエレオノール、足音をたてずに歩くので「狼足」と呼ばれる使用人のヴィルジル(ラズロ・サボ)等がいた。このヴィルジルは Virgil となっているが Virgile と書いてもほぼ発音は同じで、これは『アエネイス』を書いた古代ローマの詩人ウェルギリウスのことだ。執事のようでありながら、部屋ではシェークスピアをフィンランド語に翻訳してタイプしている。エミリーは自分が死ぬ場面を幻視したりで、それは現実の予知なのか芝居のシーンの一部なのか、どこまでが現実で虚構なのかがわからない物語なのだが、足音をたてずにどこへでも出没する狼足ことヴィルジルはすべての観察者でもあり、一見単なる使用人のようで、実はすべての仕掛人かも知れず、彼がタイプしている原稿こそが芝居(あるいは映画)の全貌なのかも知れない。こうした中でシャルロットとエミリーはクレマンやポールに惹かれていく。最初のアパルトマン上演では男1人に女2人の三角関係だったが、ここでも現実(?)にクレマンやポールをめぐるシャルロットとエミリーの複雑な関係が進行する。そして彼女たちが演ずる芝居には女性役は一つしかなく、最初にそれを得るのはシャルロットで、エミリーはズボン役に甘んじるが、セリフを憶えられないシャルロットに代わってエミリーが彼女の役で稽古したりもする。ポールはマジシャン(ちなみに『セリーヌとジュリー・・』のセリーヌもマジシャンだった)だが、クレマンとポールの対抗関係は芝居とマジックのそれでもある。開かずの扉の中にある隠されたピエス piece(部屋=芝居)とは何か。そこは居なくなったクレマンの元妻ベアトリスの部屋だった。そして上演に向けてシャルロットたちが稽古している芝居とは、このベアトリスをめぐるクレマンとポールの抗争の実話の物語であることがわかってくる。クレマンから鍵を渡されたシャルロットは部屋に入るが、もちろんベアトリスはいない。探究される真理、芝居かマジックか、何重もの三角関係や愛の行方は、そして芝居の最終幕は、すべては空の部屋に象徴されるように謎のままだ。上演の日がやってきて観客が招かれ芝居が上演され、最終幕の原稿が役者に渡される。そして赤い服の女ベアトリスが屋敷にやってくる・・・。ジャック・リヴェットの映画、今まで見た中ではいちばん古い1974年の『セリーヌとジュリーは舟でゆく』と、いちばん新しい2001年の『恋ごころ』の完成度が高く、ボクもより好きな作品だが、彼の迷宮のような世界に身をまかせるのはいつも楽しい。映画、演劇、そして時代のせいかときにやや政治的な気分、そういうものを扱ったリヴェットだけれど、もう一つ彼は女あるいは女優を美しく魅力的に登場させる。『セリーヌとジュリー・・』ではラブリエ、ベルトとオジエ、ピジェ、『恋ごころ』ではバリバール、バスレール、フージェロルだったが、『北の橋』(1981)のオジエ母娘、この『地に堕ちた愛』(1984)のバーキンとチャップリン、『彼女たちの舞台』(1988)のオジエと他の4人、『美しき諍い女』(1991)のベアール、映画が現実の虚構の迷宮なら、女優たちについては、現実の役者と彼女たちが演じる役という虚構、この映画における役者の不思議を堪能させてくれる。この作品はもともと170分と長~い映画のいつものリヴェットだが、2時間に短縮することで公開に漕ぎ着けたらしい。オリジナル170分版もあるとのこと、そちらも見てみたい。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.13
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PARIS, JE T'AIME120min(所有DVD) 第13話『ピガール』リチャード・ラグラヴェネーズ監督PIGALLE Richard Lagraveneseこの第13話は、味わいの深い一編ではあり、主演の二人名優ファニー・アルダンとボブ・ホスキンスの演技も良く、楽しめる一編ですね。二人が夜の街に出てきて歩く背後に芝居のポスターが貼られていて、「ラグラヴェネーズ劇場、本日最終。ファニー・フォレスティエ、ボブ・レアンダー主演、『愛と偶然の戯れ』(マリヴォー)、ボブ・レアンダー演出」(←多少誤りがあるかも)とある。老年にさしかかった夫婦を演じた芝居がこのショートでもあるわけだ。背の高い威圧的なアルダンとはげ頭で背の低い道化のようなホスキンス、夫婦漫才のようでもある。でもこの映画はボクにとってはそれだけですね。たぶんアメリカ人監督ラグラヴェネーズの古きフランス映画への憧れの世界なのだろうけれど、やや映画世界として作り上げられた男女を、しかし奥深く描いたという感じです。ファニー・アルダンという女優さんは昔は苦手でした。トリュフォーの作品の彼女など、ボクは映画界のゴシップとかに詳しくないのでわかりませんが、ある種の無理か不満が口の両脇に出ているような感じで、あまり好きではありませんでしたが、最近の彼女は良いですね。いいおんなになった感じで、魅力的です。第14話『マドレーヌ界隈』ヴィンチェンゾ・ナタリ監督QUARTIER DE LA MADELEINE Vincenzo Natali夜の話が増えてきて、前の第13話が夜の静かな人気の少ない街で終わり、そろそろ一種のメリハリとして本当に夜の世界、つまりヴァンパイアものホラー映画ですね。ネタバレってほどのストーリーでもないので書いてしまいましょう。リュックを背負った若い男が地図で迷いながら寝静まって人気のない夜の寂しい街を歩いている。リュックと地図とアメリカ人(と言ってもヨーロッパ系の血をひくようですが)イライジャ・ウッドが演じているから旅行客なのでしょうが、ベトリと靴底が血のりを踏み付ける。見ると女(ヴァンパイア)が死体の首もとにかがんでいる。ちなみにこの死体を演じるのは次第15話の監督ウェス・クレイヴン。そんな彼女に気付かれた彼は、一瞬女と見つめ合うが、次の瞬間彼は首に噛みつかれてしまう。去っていく女。彼は彼女に恋をしたのか、近くに捨てられていたワインのビンを拾って割ると自らの手首を切って流れる血を彼女に差し出す。しかし彼女は去っていってしまう。彼は出血多量で転倒して階段を転げ落ちる。最後に後頭部を地面に打ち付けて赤い血が流れ出す。そこにやって来た女は尖った犬歯で自分の手首を刺すと、流れ出る血を倒れている彼の口の中に落とす。気付くと彼の犬歯も吸血鬼のそれになっていた。最後に愛おしそうに互いに見つめ合う二人。女が男の首に噛み付くと思いきや、激しく犬歯を女の首に刺したのは男の方だった。突然の驚きと苦痛に顔をゆがめる女だったが、それは恍惚の表情と変わり、女も男の首に噛み付いて、互いに深く抱き合う姿がハート形の中にフェードアウト。出会いと愛の成就というハッピーエンドの物語。このオムニバス映画全体はパリを舞台にして色々な出会いや愛を描いているのだけれど、セックスシーンらしきは一つもない中で、この第14話が唯一エロティックな1編かも知れません。男性が女性の首から血を吸うというドラキュラの物語自体がもともと性的な比喩の物語なわけだけれど、このショートの最後のシーンは、男を愛した乙女が初めて男に身を委ねる情景の比喩であることは明白で、非常にエロティックなシーンだと思います。それをヴァンパイアの物語として実にロマンティックに描いているのではないでしょうか。吸血鬼として恐ろしい存在でありながら、華麗で、特にその少女として持つ無垢な雰囲気をオルガ・キュリレンコが好演していました。このキュリレンコは『薬指の標本』の女優さんで、この映画自体は『O嬢の物語』や『イマージュ』を今さら焼き直した従属愛の作品であまり感心しなかったけれど、彼女自体は好演してました。雰囲気を持った良い女優ですね。色を抜いた白黒に近い画面に血の色だけが赤く、でもリアルではない赤で、映像も綺麗でした。羽飾りがひらひらとしたドレスを風になびかせながら音もなく動き回るヴァンパイアの姿も美しい。一瞬だけ血ではなく、画面全体が赤くなる映像の使い方も効果的。効果音やCGなんかも使い放題だから、ドグマ95なんていうのとは正反対な映画作りだけれど、こういう映画(映像)の楽しみがあることは事実ですね。第1話~第3話第4話、第5話第6話、第7話第8話~第10話第11話、第12話監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.12
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MES NUITS SONT PLUS BELLES QUE VOS JOURS.Andrzej Zulawski110min(所有VHS)最初のソフィー・マルソーとジャック・デュトロンのパリのカフェでの出会いから、既にズラウスキーの世界。神経症的にゆとりを排した語法。映画は常にせわしなく動いていて、落着きや安らぎはない。語られる言葉は、リアリティーがあるようで抽象的だ。あるいは暗喩をも含む。その暗喩とは言葉を口にする人物が何かを隠し、あるいは婉曲化し、あるいは飾り立てているのではない。逆にすべての虚飾を排して語られる生の言葉。そこには話者がその言葉を発する意味のすべてが内包されている。そのすべてが暗喩だ。謎のウィルスに脳を冒されて言葉を失いかけているリュカ(ジャック・デュトロン)。言葉を失うまいと発語し続ける。言葉遊びでもあり、フロイトの自由連想でもあり、ローマン・ヤーコブソンの失語症と言語学でもある。metaphoreとmetonymie(註)。 映画にはストーリーはあってなきに等しいものだが、バックグラウンドとして必要なストーリーないし設定がある。リュカはコンピューター言語の開発者。C言語などコンピューター言語とは人間の思考と "0" と "1" のみからなるコンピューターの思考の橋渡しをするものだ。そんな彼は脳を冒され失語症に向かっている。言葉との格闘。そのウィルスとは生物的存在ではなく心理的存在かも知れない。池での優雅な船遊びの折に少年リュカが岸から見つめていた美しい母と愛人と父の異様な光景のトラウマ。ウィルスとは人の精神に作用する誰か別の人の存在や行動なのかも知れない。一方マルソー演じるブランシュはトランス状態で人の思いや運命を透視する超能力者。彼女を見せ物としてその汁に群がる母や夫や雑多な取り巻き。どちらも他者から逃れられない存在。畢竟多かれ少なかれ人とはそういうものだ。そんな二人の世間的虚飾を排したなまの愛。大西洋岸南フランスの保養地ビアリッツのホテルへ巡業に行かされるブランシュ。後を追うリュカ。過去・現在・未来という時系列とは相容れない、とにかくも今だけの生で真実の愛。 なんと詩的な映画か!。映像詩などではなく映画詩、あるいは映画による詩だ。そもそもブランシュという白を意味するマルソーに与えられた名前は、それだけでもなんと美しいことか。この映画が作られた頃マルソーは26才年長のズラウスキーのパートナーだった。ある女優の美しさがこれほどまでに見事に映像化されたことはあったろうか。少なくともごく稀であることは確かだし、ここでのマルソーは本当に美しい。映画とはストーリーを語って聞かせることだけが目的ではなく、役者にとっては自己表現の媒体であり、監督にとっては役者を描くための場でもある。ストーリー性の高い映画が散文(小説)なら、この映画は韻文(詩)の世界だ。解ろうとせず身を任せて感じるように見れば、そう言葉遊びのようなリュカの単語の連発にしてもその言葉に身を任せ、あるいはとりとめもなく連鎖するシーンやセリフに身を任せ、またマルソーとデュトロンの演技に身を任せ、美しい映像を目にしながら感性で捉えるとき、本当に素晴らしい作品だ。難解だ、わからないと言われるこの作品の鑑賞のポイント、それはここで描かれているちょっと特殊な二人やその物語、その中にどれだけ自分の生と同じものがあるか、愛や孤独の本質を見て感じとれるかどうかだ。(註)metaphore(隠喩):共通の観念による比喩。「あの雌狐」というとき、その女の狡猾さと狐の狡猾さが共通する観念であり、それゆえ女を指すのに狐と言っている。metonymie(換喩):部分で全体、容器で内容、原因で結果を表す比喩。「赤帽に頼もう」と言うとき、駅のポーターが赤い帽子を冠っているので、その外見の一部でポーターという職種の人間を示している。失語症には2つのタイプがあり、飛行機の絵を見せられて「飛行機」と言えずに、空を飛ぶという共通の観念から「鳥」と答えてしまうのがmetaphore的失語症であり、「プロペラ」と答えて一部で全体を意味してしまうのがmetonymie的失語症で、人間の脳の言語的観念連合にはこの2タイプがあるということ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.11
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PARIS, JE T'AIME120min(所有DVD)第11話『デ・ザンファン・ルージュ地区』オリヴィエ・アサヤス監督QUARTIER DES ENFANTS ROUGES Olivier Assayasこの第11話は、主人公は映画出演のためにパリに来ているという設定のアメリカの女優リズだけれど、全18話の中で、ボクの印象としてはいちばんありのままのパリって雰囲気があります。出演者もすべてフランス人の第1話『モンマルトル』よりも現代のフランス映画の一コマを見ている感じが強いです。ちょっと思い出したのはフィリップ・ガレルの『白と黒の恋人たち』。『白と黒』のリュシーの苦悩ほどではないけれど、一人でパリに来て孤独なリズ(マギー・ギレンホール)はドラッグに浸っている。で売人としてやってきたケンはそんな彼女にちょっと惹かれ、また会いたいと電話番号交換するけれどそれっきり、というお話。彼女の弱々しそうな、孤独で、誰か男を求めている雰囲気が、ケンの心を惹いたのだろうけれど、実はこのリズっていうのはもっと冷たいと言うか、男にしたたかな女のような気がする。したたかが言い過ぎなら、ずるい、あるいは自己中心と言い換えてもよい。ケンはちょっとイケメンということなのだろうけれど、地元で普段の日常があり、知っている店があり、親しい人々がいて、恋人がいないとしても恋人未満の男友だちがいて、そういう環境にいたらきっとケンには目もくれない彼女なのではないだろうか。旅先の孤独の中で知り合って、一時2人の関係熱烈に成立したとしても、アメリカに帰れば、仮に男が追いかけてもそれっきりの女のような気がする。そういうちょっと蓮っ葉な女をマギー・ギレンホールは上手く演じてました。撮影を終えた彼女のトレーラーに、ケンは上得意客への仕事が出来たって別の下っ端がドラッグ持ってきて、リズが待っていたケンは来ない。もしかしたらケンは来られるのに敢えて来なかったのかも知れないけれど、気の抜けたようにがっかりするリズ。この孤独感は彼女にとっても真実の孤独なんですね。第12話『お祭り広場』オリヴァー・シュミッツ監督PLACE DES FETES Oliver Schmitzこの監督は名前からも想像できるようにドイツ人の両親を持ち、アパルトヘイト下の南アフリカで生まれ育った人。その差別社会が嫌でドイツに渡った人のようで、そういう映画も撮っているようです。この映画決して明るい作品ではなけれど、と言うか暗くもあるけれど、ショートながら長編1本にも相当する恋愛物語が語られ、また差別とか暴力という問題をも、決して誰がことさら悪いわけではないけれど存在するものとして描いているのが良いと思います。明るくないから「好き」とは言い難いけれど、全18ないし20編の中でも出色の出来だと思います。ちょっと脱線して余談。ボクは父親の仕事の関係で小学生の時にパリに移り住んだのだけれど、当時は日本には今ほど外国人は多くなかったし、テレビで非西洋圏の映像が流れることだって少なかった。だからパリに行って、固有フランス人、アメリカ人、そして初めてに近い出合いだけれどアルジェリア等のコーカソイド、そして中国人、顔は色々だけれど比較的馴染みやすかった。さらに余談に流れると、白人の皮膚って本当に白いんですね。子供にクレヨンとかで人の顔描かせると、日本人は肌色クレヨンがあればそれで顔を塗るけれど、ないと黄色かオレンジか黄土色を使う。でもフランスの子供はピンクを使う。顔が紅潮すると日本人は黄色と赤が混ざって赤めの肌色になるけれど、西洋人は白と赤が混ざって本当にピンクなんですね。で第一の余談に話を戻すと、ブラックアフリカの人々って、本当に漆黒に黒光りするような肌に歯と白目だけが真っ白で、無気味で恐かった。この映画の主人公ハッサンは地下駐車場の掃除人をやっているのだけれど、ボクがパリに行った頃も、もちろんごく一部金持ちの人もいたけれど、痩せて背の高いブラックアフリカンのお兄さんたちは、道路清掃とかゴミ収集とか、そういう3K労働に主に従事していた。と言うか自分が目にし、接するブラックアフリカンはそういう人だった。そんなことを思い出しました。歴史的に考えればヨーロッパ人がアフリカ植民地を搾取してきたのは確かなのだけれど、普段パリに暮らす人々は、白人にしても黒人にしても、いつもいつもそのことばかり考えて生きているわけではない。特に被差別の側にいて、生活条件も良くないアフリカンはそういうことを考える、身にしみて感じる機会は多いだろうけれど、その彼らだって今成立している生活のあれこれ、喜怒哀楽、そういうことの方が重要で、それが人の日々の生活というものだ。この映画の中で描かれるちょっとしたいざこざ、そこにもちろん差別はあるのだけれど、それ自体も既に日常の一部なのだ。主人公の黒人ハッサンが何故パリにいるのか、それはわからない。家を追い出されてギターとカバンを持って広場に座る彼。そういうつもりではなかったろうが、ギターを奏でて歌を歌っていると小銭を置いていく人がいる。きっと自分の生活に一応満足した、あるいは満足を知る余裕を持てる人なのだろう。しかし自分たちも失業に汲々ととし、あるいはちょっとヤクザな世界で上手いことやっている族にとっては、自分の実入りとかち合うか、あるいは不満から誰かを虐めたい心理があって、ハッサンはその犠牲となるわけだ。掃除人として働いていた地下駐車場で一度会ったソフィー。彼女もブラックだったが、医者だか救命士の資格取得を目指していて、自分の車も持つ成功者でもある。そんな彼女に惹かれたハッサンだったが、チンピラに腹を刺されて倒れたとき救急医として駆け付けたのは皮肉にも、あるいは幸いそのソフィーだった。駐車場の出会いでなし得なかったこと、一緒にコーヒーを飲もうという彼に、彼女は近くのカフェからのコーヒー2つの出前を人に頼む。しかし到着した救急車に瀕死の状態で乗せられ、運ばれ去るハッサン。涙を流す彼女に運ばれてきたのは2つのコーヒーだった。救命という使命感に生きようとしているソフィーの初仕事は、こうして挫折に終わる。何かの希望を抱いてパリにやってきたハッサンも挫折の(恐らく)死だ。これは誰がことさら良い、誰がことさら悪いという個別問題を越えた社会の真実なのだ。第1話~第3話第4話、第5話第6話、第7話第8話~第10話監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.10
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A KOLDUM KLAKAFridrik Thor Fridriksson英語版86min(DISCASにてレンタル)東京に住むアツシ(永瀬正敏)がアイスランドで客死した両親の弔いのために冬のアイスランドを旅する話。アツシは水産会社に勤める青年だが、学術研究か何かでアイスランドに住んでいた両親は川での何かの事故で死んでいた。アツシは現代の普通の日本の若者だから、表だった宗教心とかはない。そういうものは迷信の類だ。墓参りの帰り道祖父(演じているのが映画監督の鈴木清順)が孫アツシに、両親の死んだ場所まで行って弔いをしっかりするべきだと諭す。寒いのが苦手なアツシは暖かいハワイにゴルフ旅行に行く予定だったが、予定を変更してアイスランドへ向かうことにする。映画は35mmスコープサイズの1:2.35なのだけれど、短いこの最初の東京部分は16mm、2:3で撮られ、左右を余黒にしてブローアップされている。撮影予算の節減でもあるのだろうけれど、左右を圧迫され、画質もやや粗い画面が、日本の都会の雑然とした風景や生活、その閉塞感を強調しているようで巧みな作りだ。この映画は日本人を主人公とし、また最初の部分は日本やそのサラリーマン世界を描いているけれど、ステレオタイプ的な、でも本当の日本や日本人の姿ではない、よく外国人が描くようなものではなく、ほとんど違和感のないものだった。フリドリクソン監督の日本理解の的確さなのか、あるいは祖父役の鈴木清順のアドバイスが入っているのか。とにかくこういう風に外国人が実像で日本を描いているのは嬉しい。そして一転して広大なアイスランド。左右の余黒がなくなり、雄大なアイスランドの自然が2.35の幅広の画面に広がる。広大と言ってもアイスランドの面積は日本の約3割。でも人口は30万だから、人口密度は100分の1。一口に100分の1と言うけれど、これは5人乗りの乗用車に5人乗って満席だとしたら、500席のジャンボジェットにその同じ5人しか乗っていないという寂しさと同じような感じだ。アイスランド空港に降り立ったアツシは、島を横断して両親の死の場所に行かなければならない。空港で間違って観光ツアーか何かのバスに乗せられてしまい、行きたくもない温泉に連れて行かれたりと、最初から多難なスタートだが、まんまと買わされたポンコツ車で厳しい冬の気候の中を目的地へ向かう。(余談だけれどこの映画は1995年現在の設定だと思うが、ならばこのシトローエンの車はポンコツどころかプレミアのついたエンスー中古車だと思った。)アツシは両親の死の現場に行って両親の弔いをすることが目的ではあるけれど、そういう行為をしたい(あるいはするべき)という明確な意識、気持ちがあったわけではない。途中人に騙されたり、助けられたり、妖精と出会ったりしながら、映画最後で、やっと辿りついた地で彼は日本から持参の線香を焚き、日本酒を川に流し、手を合わせて死んだ両親の霊に祈りを捧げる。しかしこれをありがちに、厳しい大自然の中を旅することでそういう気持ちが芽生えた、無信仰から信仰、という風にはボクは解釈したくない。そんな安っぽく単純な主人公の気持ちの変化の物語ではないと思う。弔いを実現したアツシの心が変化していることは事実だとしても、やはり死者に対する気持ちとか、弔いの意味とか、そういうことはアツシには疑問のままだ。疑問はありながらも何かそういう気持ちが存在するらしいことに気付く、そんな変化なのだと思う。そんなだから、映画自体もはっきりとしたインパクトはなく、とりとめがない。監督は恐らくアイスランドと同じ島国で、火山国で温泉等があり、そういう風土で幻想的な伝説や説話があって幽霊なども登場する、そんな文化的親近感を日本に感じていて、しかし一方は狭い国土が都市化された現代の日本、他方は大自然が残り、特に冬が厳しいアイスランド、そんな対比から人ならばきっと心の中に持つはずの、何教というのではない宗教感のようなものを監督は描きたかったのではないだろうか。途中でアツシが乗せるヒッチハイクのアメリカ人カップルの方は、アメリカ文化の象徴なのかも知れない。テレビモニターではなく劇場の大画面で見る機会があったらもう一度見てみたい映画だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.09
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O BROTHER, where art thou?Joel Coen108min(レンタルDVD)ときどきDVDをレンタルして持ってきて一緒に見ようという知人が、レンタル期限がまだだからって持ってきてくれたDVD。オムニバス映画『パリ、ジュテーム』第4話「チュイルリー」のコーエン兄弟の作品なら見ても良いかと、一人で鑑賞。ホメロスの『オデュセイア』を下敷きにしているというのもちょっと気になった。見て良かったですね。面白かった。ジョージ・クルーニー演じる主人公ユリシーズ・エヴェレット・マッギルは現金輸送車を襲って120万ドルを奪い隠してあったが、隠し場所が4日後にダム工事で水に沈むというので、一緒に鎖でつながれた囚人ピート(ジョン・タトゥーロ)とデルマー(ティム・ブレイク・ネルソン)と3人脱走する。オデュセイアが元だから、基本ストーリーは苦難の末に妻ペネローペ(映画ではホリー・ハンター演じるペニー)に再会して取り戻すというロードムービー。これってネタバレしちゃったのかも知れないけれど、タイトルロールにもホーマー『オディッシー』の翻案って出るのだから良いだろう。物語の最初には手漕ぎトロッコの盲目の老人が出てきて予言めいたことを言うけれどこれは盲目の予言者テイレシアスだろうし、途中で主人公たちを騙して襲って金を奪う片目の大男は旅人を喰うという単眼の怪物キュクロプスだろうし、歌を歌いながら洗濯する女たちは歌声で男を惑わし船を難破させるシレーネで、豚ならぬ蛙に変えられてしまうというのはキルケのことだ。ポセイドンは執拗に3人を追うサングラスの保安官か?。こんな風に古代ギリシャ叙事詩からの引用が満載。時代考証の正確性は解らないが、実在の大銀行強盗は登場し、ゴスペル、カントリー、ブルース等の音楽事情が描かれ、映画『クロスロード』で取り上げられた悪魔に魂を売ってギターの技を得たというロバート・ジョンソンがトミー・ジョンソンとして登場したり。ちなみにこの悪魔は保安官と同一人物であるらしく描かれていた。どちらも犬を連れた無表情な白人という設定で、最後は尻尾の生えた悪魔の姿に戻ったらしき保安官の映像が仄かに見られる。バプティスト派の洗礼・沐浴のシーンがあったり、KKKらしき秘密結社が登場したり、実話と伝説の当時の南部アメリカが描かれている。また映画の題名『O BROTHER, where art thou?』自体が、プレストン・サージェス監督1941年作品『サリヴァンの旅』の中で、作中の映画監督サリヴァンが作ろうとした映画の題名だけれど、雰囲気だけ、またもっとはっきりと色々な形で、たくさんの映画からの引用もありそうだ。妻ペニーの描かれ方はかなり辛辣に見えたが、出てくる人々をコメディーで茶化して、本当に悪くは誰も描かれていない感じが良いのだろう。オデュセイアの知識にせよ、古い映画の知識にせよ、あるいは諷刺されているとも感じられる社会や人々のことも、どれも知らなくても楽しめる映画だけれど、知っているとそれぞれのシーンで見ている者をニヤリとさせる。このイタズラ的な仕業がコーエン兄弟の巧さなのだけれど、そんな色々な観客の反応を兄弟は見透かしている感じだ。そしてそのソフトな気分の中に描かれる、実はハードなこと、例えば改革派で大衆の味方と選挙戦を行う候補が、実はKKKの首領で、いちばんの保守思想の持ち主で、黒人リンチ処刑をしているというような、考えれば恐ろしく重大なこと(似たことをまともに扱ったのはコスタ・ガヴラスの『背信の日々』だけれど)をサラッと描くコーエン兄弟の真意は何処にあるのだろうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.08
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MAIS NE NOUS DELIVREZ PAS DU MALJoel Seria103min(DISCASにてレンタル)はる*37さんの『小さな恋のメロディ』のレビューを読ませていただきましたが、自分の個人的感慨としては偶然にも同じ頃、また自分の感想としてはこの『メロディ』に似た作品『小さな悪の華』を見ました(はる*37さんの日記を読んで『メロディ』を思い出していなければ2つの類似性に気付かなかったかも知れないという意味での偶然です)。はる*37さんのところにコメントしたように『メロディ』は好きな映画なんですが、この2つの映画を似ていると言ったら多くの『メロディ』ファンには怒られそうです。なにせこちらはフランスでしばらく上映禁止になったような作品です(カトリック教会の圧力でしょう)。でも既成社会の矛盾や欺瞞を子供の視点で諷刺した構造は同じで、どちらも1970年頃の作品。一つの共通の時代性を感じます。 映画の構造もラストから先のことは考えられないような作りで、そこで完結しています。『小さな恋のメロディ』がイギリス版白い『小さな*の*』なら、こちらはフランス版黒い『小さな*の*』と言えるのではないでしょうか。と言ってもこの題はどちらも日本公開の意訳タイトル。原題の直訳は「我らを悪からお救いにならないで下さい」ぐらいで、神への祈りの文を逆にしたようなタイトルです。ついでに言うと1976年のブレイヤの『本当に若い娘』(1976)につながる作品かも知れません。ずっと時代を経てソロンズの『ウェルカム・ドールハウス』(1996)への系譜でしょうか。1968年というのは世界的学生紛争の年で、フランスではそれが五月革命へと大規模化し、結果いくつかの変革はあったものの社会の構造は根本的に変わらなかった。1970年頃というのは、そういう挫折感の中で、でもなお社会の不正義に対して目が向いていた時期なのだと思います。 16~7才の少女アンヌ・ド・ボワッシー(ジャンヌ・グーピル)はカトリックの寄宿学校に入れられていた。そこで彼女にくっついている仲の良いただ一人の友達がロール(カトリーヌ・ヴァジュネール)。プライドが高く、賢く、個性も強いアンヌに、より個性の弱いロールがくっついているといった良くあるパターンかも知れない。親分・子分の関係と言ってもよいのだろうが、アンヌは一人で自分の思い通りにするにはまだ弱さも残る年令で、逆に色々思いはありながらも一人では何も出来ない弱い個性のロールがアンヌにくっついている。依存を含んだ支配と、自発的被支配の関係。自己愛的な意味での同性愛的感情もないではないだろうけれど、そこは具体的行動としてははっきりは描かれない。 2人は権威主義で規律のみを押し付ける学校(カトリック教会)に反発していて、また実のところ本当の意味で子供を愛していない親、それらを含めた大人の社会に反抗する2人。アンヌは悪に身を捧げることを自らに誓っていた。ヘビにそそのかされたアダムとイヴの原罪による楽園追放に象徴されるカトリック教義は性の禁忌。モーセ十戒の第6「姦淫してはならない」と第9「隣人の妻を欲してはならない」だ。左右二列にベッドが並ぶ寄宿舎の寝室。カーテンで仕切られた奥は監督のシスターのベッドがある。最後の見回りを終えてカーテンの向こうで着替えるシスター。僧服を脱いだ彼女の長い髪や女の体が灯を背にしてカーテンにシルエットとして映るのを憎悪の目で見つめるアンヌ。また別の日、部屋で2人のシスターが僧服のまま、十字架をバックに、同性愛の行為に及んでいるのを鍵穴から覗き見たこともあった。 夏休み、二人は互いに遠からぬそれぞれの家で過ごすことになる。アンヌ・ド・ボワッシーは名前の「ド」が示すように貴族の出で城のような屋敷に住んでいたが、アンヌを一人残して(執事・庭師など使用人はいる)両親は旅行に出かけてしまう。親と過ごすよりもロールと過ごす方が嬉しいアンヌではあるけれど、実のところこれは親の子供に対する愛情の欠如を示している。普段も週末の帰宅以外は娘を寄宿学校に追い払い、2ヵ月のバカンスは「普段学校に拘束されているのに、休みまで親に拘束されては可哀想だ」などという理論で子供を残して出かけてしまう。出かける時に娘に言うのも「他家にお呼ばれしたら、くれぐれも粗相のないようにね」という世間体を気にした言葉だけで、娘を案じる言葉はない。このような状況はロールも同じだった。 年令的に2人の中にあるのは性の芽生えでもあるのだけれど、2人は周囲の男を若い肢体で挑発する。たまたま夜車の故障で困っている中年男性を助けて彼女たちの部屋(城の別邸を改装したもの)に引き込むが、そこでも2人は濡れた服を暖炉の火で乾かすために下着姿になり、男を挑発する。男は身なりもよく、紳士に振る舞っていたが、挑発に負けてロールが一人になったとき彼女に襲いかかる。もちろんアンヌがロールを一人にしたのも彼女の更なる挑発だったのだろう。学校のシスターも、親の愛情も、何事も表面の体裁だけで実態は汚れているということだ。ロールが2週間不在のときにアンヌはその前にも2人でしたあることを一人で、もっと過激に直接的なやり方で実行する。しかしいたたまれなくなった彼女は今は使われていない城のチャペルに走ってゆき、祭壇に跪いて涙を流す。これは彼女が自分の行為が悪いと知っていて行動しているということを示している。 2人は黒ミサを敢行して互いに血で結ばれ合っていた。そんな2人が最後にどうなっていくか、それは書かないでおくが、上に書いたように『メロディ』同様映画の世界だけで完結した物語の美しいラストだ。途中2人が干し草の山に放火するシーンがあって、夜の闇の中にいくつもの干し草の山が燃えているのは美しい映像だったが、これはこの世界ではない、彼女たちが作り上げた、彼女たちの欲した別の世界の美しさであるかのようだった。2人は汚れたこの世界ではなく、もっと別の美しい世界を求めたのだ。 監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.07
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7 ANSJean-Pascal Hattu86min(DISCASにてレンタル)マイテ(ヴァレリー・ドンゼッリ)の夫ヴァンサン(ブリュノ・トデスキーニ)は7年の刑で刑務所に服役していた。セリフにあるように「明日で1年になる」頃の話だ。何がヴァンサンを刑務所に入れたかは明示されない。7年という刑期はヴァンサンが凶悪犯というほどではないが、でもかなり重大な犯罪を犯したらしいことを示している。だが夫が不在となった2人の家にしても、マイテの近所の女友達の口に出るヴァンサンにしても、彼が犯罪社会のならず者ではないことを示している。その辺のやや怪しい雰囲気をトデスキーニは上手いこと醸し出していた。最初は夫が服役したことはマイテにとって非日常的の特別の事態であっただろう。しかし1年にもなると、週2回刑務所に面会に行って夫と不自由ながらも愛を語り、汚れた衣服を受け取って帰り、それを洗濯してまた次の面会で持って行き、それ以外は夫不在の時間を過ごす、そういうことが日常となっていた。汚れた衣服を洗濯機に入れる前に夫の残り香を嗅ぎ、アイロンで仕上げた服にはゲランのルール ブルー(香水)をスプレーして彼女の香を夫に送ろうとする。夫ミッシェルは長距離トラックの運転手で不在勝ち、妻ジャミラは夜勤もある看護婦をする向かいの家の息子ジュリアンの世話をするバイトをマイテはしていた。マイテに子供はなく、ジュリアンも彼女になついていたので、特に子供の心理には本当の親子のようでもあった。ある日面会を終わって刑務所から出てくると、マイテは一人の男(シリル・トロレイ)に声をかけられる。車で送ろうと言うのだ。辞退する彼女だが、やがて受け入れる。男はジャンと名乗り、兄が同じ刑務所に服役しているという。心の均衡を保つためにも愛人を作ることだと言うジャミラに否定的に答えていたマイテだったが、彼女の中にもそのような欲求はあったのだろう、人里離れた野原に駐めた車の中で彼女はジャンに身をまかせる。しかしこれは儚くも成立していた彼女の心の均衡を揺さぶることでもあった。これまで1年の彼女の生活は、仕事は学校への送り迎えや食事の用意などの子育てで、いわば内に籠った生活だった。それを変えようとしてであったのか町の化粧品店での店員の仕事をしようとするが、それを断ってしまっていた。しかしジャンと出会って均衡が崩れたのか、変化への欲求からか、その仕事を強く求めるが、既に別の人が採用されていて、断られた彼女は取り乱してしまう。夫ヴァンサンは文字通り監禁され自由を奪われた身だが、マイテもこの自由の世界に監禁された身であった。ジャンとの関係にしても彼女や彼の家やホテルなどではなく、広い野原の空間に孤立した一台の車という独房のような閉ざされた空間で行われる。それを明示するかのごとくカメラは車内の様子だけではなく、広い空間の中の車を遠景でとらえる。やがて実はジャンが刑務所の刑務官であることが知れるのだけれど、だからこのジャンは2つの世界を繋ぐ存在だ。しかしジャンも自由ではなかった。刑務所内でヴァンサンと関係することで、ヴァンサンの思い、あるいは彼の持つ人を操るような独特のオーラに支配されていた。妻の写真をヴァンサンに見せられ、彼女に近付き、関係を持ち、そしてヴァンサンの要望で彼女のあの時の声を隠して録音することにもなる。しかしこれはヴァンサンの性的な趣味の異常性や変態性を表すものではない。妻を愛する思いと、抱きたいという欲求と、支配続けたいという願望と、失うかも知れないという不安と、自己に対するうぬぼれと、妻に対する一種のサテ"ィス"ム的愛情行為と、またジャンを支配しようという気持ちと(刑務所内ではジャンが命じ、ヴァンサンが従う関係だ)、そうしたものすべてが渾沌と一体となっての欲求だろう。(以下ややネタバレ)当然のこととしてマイテがジャンと関係していることはヴァンサンに知れ、彼は次の面会でマイテを引っ叩いただけで面会を終える。(途中は省くが)マイテはジュリアンを連れてオーヴェルニュの雪山に旅行をする。そこにやってきたのはジャンで、別の刑務所に転任になったことを告げる。たぶん彼女の希望で二人は最後の関係を持ち、ジャンは去っていく。ボクの印象としてはこの2つのことで彼女の何かが吹っ切れるんですね。マイテが夫を愛していたことは事実ではあっても、夫の支配欲の下にあった。それが自ら選び取る愛として夫を愛せるようになる。刑務所の門で面会時間を待ち、係官に点呼される風景が何度も繰り返し描かれていて、いつも門の右側に他の面会人たちと列を成して待っていた彼女が、最後では門の左側で待っている。服装や髪型も、もちろん態度も、微妙に変化している。マイテは一つ成長し、夫の支配の下で外の世界にありながら幽閉されていたのが、愛する夫は刑務所内にいて、その夫を愛していながらも、外の世界での自由を獲得する、要するに精神的に独立を果たすのではないでしょうか。出来事を描いたり、気持ちをセリフで表現した映画ではない。言葉で語られることは少なく、夫の服にアイロンをかけるとかいったごく日常の何でもないことが描かれる。この状況下での3人れぞれの心理を、そういう何でもない行為の中に言外に表現した手腕はなかなか見事だ。そいう難しい役を3人の役者が好演していた。特にマイテを演じたヴァレリー・ドンゼッリは、『マルタ…、マルタ』のときもそうだったが、崩れてしまいそうな(あるいは実際に崩れてしまう)微妙な心理を言葉少なに上手く表現していた。良くわからないけれど、たぶんこの人の出演作を日本では他にあまり見られないのは残念だ。トデスキーニは持ち前のややヤクザな雰囲気で好演だし、ジャンを演じたシリル・トロレイも、制服役だからこう言うわけではなく、ある種のナチの将校も演じられそうな神経症的不安を内在したような雰囲気が良かった。非常に短期間での撮影だったらしいが、金はかけずとも良い映画は作れるという作品の一つだろう。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.06
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WELCOME TO THE DOLLHOUSETodd Solondz88min(DISCASにてレンタル)トッド・ソロンズ、気になっている監督さんだったのですが、はる*37さんの同監督作品『おわらない物語 アビバの場合』のレビューを読ませていただき、まとめて見てみようかと思いました。DISCASに4作品あったので年代順に予約リストに入れたら、このデビュー作が送られてきました。この映画は2つの要素を上手く一つの物語に盛り込んでいると思うのだけれど、それがとても巧みです。主人公のドーンという中学1年生なのかな、その少女の物語。ドーンは dawn で、「夜が明ける、明るくなる、始まる、わかり始める」っていう意味ですね。まだ大人でもなければもう子供ではない。その大人へ向けての夜明け前ってところでしょうか。このドーンは学校でも家でも身の置きどころがない。学校ではブスって言われて、遊び系の少女たちにも、賢いインテリ志向の生徒にも、不良系の子たちにも、どこにも属さない存在。家に帰れば両親と兄マークと妹ミッシーがいる。妹はピンク色のチュチュ着ていつもバレエ踊って回っているまだ子供。兄マークは何をやるのも、例えばバンドを始めたのも教科外の活動として内申書に書いてもらって大学進学に有利になるため。つまり 一つの 大人の社会のあり方に既に統合されてしまっている。途中で描かれる同級生ブランドンとのロマンスもどきにしても、まだ子供の世界の2人。一線は越えられず、二人の間の障壁は金網で象徴されている。一緒にではないが、二人ともそれぞれ別の理由からNYへの家出を敢行する(ドーンは戻る)。映画の最後はディズニーランドに向かうバスの中の彼女が描かれる。ディズニーランドはもちろん子供の世界の象徴だ。バスの中でみんな一緒に、ドーンも含めて歌っているのだけれど、最後には他の子供たちの子供的歌声ではなく、より声楽的な声で歌う彼女の歌声だけが聞こえる。これから来るべきドーンの大人への世界の幕開けを暗示しているのだろう。もう一つの要素は社会諷刺だ。ドーンは家の庭に隠れ家的小屋を作って、そこで憩っていた。名付けて「特別人間クラブ」。ドーンは、そして彼女に心を開こうとしたブランドンも、一時的なものであっても。社会的少数者。「特別人間」とは「違った人間」という意味だ。周囲を取り巻く矛盾と欺瞞の社会へ自分が統合されることの拒否であり、それゆえに彼女が嫌われ、トラブルを起こす姿の中に監督の社会諷刺の視線があるわけだ。そのように見ていくと、この映画の描く2つの社会、家庭と学校は、相似な関係にあり、さらにそれが象徴しているのはアメリカという国全体ということではないか。マイナーな異質分子、それは民族的マイノリティーでもよいが、家庭や学校でのドーンへの仕打ちは、アメリカ文化がマイノリティーに成している仕打ちと同じものだということだ。ドーンの受ける仕打ちは、異質分子を理解しようとは決してしないこと。結婚20周年を祝う夫婦のガーデンパーティーのために、ドーンのアイデンティティーでもある小屋を取り壊そうという話も、寓話として考えると恐ろしい。そしてそれを受け入れないドーンの分のデザートのケーキを母親がマークとミッシーに分けてしまうのも更に恐ろしい。体制の要求を受け入れない者は当然の富みを奪われるということだ。バンド活動も内申書のためという兄マーク、彼の容貌が拝金主義のマイ***フトのビル・ゲ**に似ていると感じたのはボクだけだろうか。おまけにマークはパソコンオタクという設定でもあった。余談かも知れないが、この中産階級ウィナー家の洗面所に置かれていた使い捨ての紙コップが気になった。歯を磨くたびに紙コップを使って捨てるのか?。恐るべきアメリカ消費文化だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.05
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A SNAKE OF JUNEShinya Tsukamotoブルー系白黒 77min(所有VHS)この映画は題59回モストラ・ディ・ヴェネーツィア(ヴェネツィア国際映画祭)で審査員特別大賞を受賞。審査員賞ということからもわかるように、映画通や玄人受けする作品かも知れません。DISCASの観客レビュー読んでみても「解らない or/and ついていけない」と酷評か、「最高傑作」と絶賛かの二つに別れている感じです。日本でこのような映画が理解されにくいのは、思うに「生と性」、「孤独と愛」の深い実存性に日本の大多数の人々が、少なくも表層意識的に、無関心だからなのでしょう。見る人によっては映画の質感に抵抗感を持つだろうし、ボクもある程度の安っぽさを感じないではないけれど、内容の深い良作だと思います。またボクの趣味とはしない映像が出てくるけれど、塚本監督が彼なりの感性と論理で物語を描くには必要なことなのだと思います。 ある隠し撮影魔による脅迫で始まるゆえに、この犯罪的行為に視点の中心が行きそうだが、実はこれは物語を動かす契機であって、つまり主人公であるある夫婦を再生させるキッカケに過ぎない。この隠し撮影魔を演じているのは塚本監督自身なわけだけれど、映画の中でこの実験台モルモットとされたような主人公夫婦を動かすのは監督の演じる隠し撮影魔であり、またモルモット夫婦を登場させて映画そのものを作っているのも監督であるという関係性がある。映画の仕掛人として、自ら映画の中に入っていって作中の人物に働きかけているということだ。 妻りん子30歳(黒沢あすか)。少し歳の離れた夫の重彦は一流企業のサラリーマン。仕事だと言って帰りは遅いが、実は喫茶店で時間を潰していることもある。重彦は清潔・潔癖症で、家に帰ると浴槽や流し台などを磨くことに専念している。動物も嫌いで、りん子が犬でも猫でも兎でも飼いたいと言うが許さない。夜は妻と共にするベッドから抜け出して一人ソファーに寝る毎日。自分の排便の臭いも嫌い、臭い消しの薬を飲んでいる。「命の電話」の相談員のボランティア(?)をしているりん子は自殺したいと言う相談者たちに「何でも良いから自分のしたいことを見つけて」と答えていた。そんな彼女だが、この生命の通っていないような夫との日々を、それでも一つの均衡の中で過ごしていた。しかし彼女の内奥で「生」は燻っている。動物を飼いたいというのもその内なる欲求の現れだろう。独り家で、スカートを超マイクロミニに切り、胸や背中の開いたセクシーな服を身に着け、そしてマスタ-ベ-ションをするのだった。 ある日「DANNA NI HIMITSU」と書かれた一通の封書が届く。中には彼女のマスタ-ベ-ションの様子を隠し撮影した写真が入っていた。続いて携帯電話の入った封書が届き、その電話は鳴った。りん子が恐る恐る出ると、相手は彼女が命の電話で相手をした男道郎からだった。「写真とネガを返して欲しければ、本当にやりたいことをやれ」と、道郎は携帯で指示するよう行動を求めた。それはマイクロミニのスカートを下着なしではき、リモコン式のバイブレーターを買い、それを下半身に装着し、道郎がリモコンを操作する中で街中を歩き、買い物等をすることだった。脅迫されて従ったことではあったが、実はこれは内奥に閉じ込められた生を解放することであった。ここまでが「♀」と題された映画の第一部で、次の第二部「♂」では監督=隠し撮影魔の視点は夫重彦に向けられる。そして最後にもう一人の男性である隠し撮影魔を加えた短い第三部「♂♀♂」で映画は終結へと向かい、結果としてりん子と重彦は生を回復し、強く結ばれる。 六月は梅雨の季節で東京のコンクリートジャングルは雨(水)が街を濡らす。植物を繁茂させるのも、カタツムリを活動させるのも、この水だ。生を失った都会、あるいはそこでの人間性に、「生」を取り戻させるのも雨(水)なのだ。映画は精神障害、夫婦のセックスレス、隠し撮影、ストーカー、病的清潔・潔癖症、癌、携帯電話、過保護等の母原病、生や性を抑圧する社会常識、暴力団による違法アングラ劇場、あるいはがらっと変わって監督のカメラの趣味(カメラはニコンやライカやピンホールカメラだ)等、そういう多彩な要素から成り立っているが、基本は生を失った現代の都会の人間の生を性によって解放させようという寓話だ。そのためにはりん子も重彦も自らの性を曝け出すことで一度自己破壊をする必要があったのであり、その仕掛人であるのが監督であり隠し撮影魔である塚本晋也なのだ。 監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.04
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THE I INSIDERoland Suso Richter92min(所有VHS)サラ・ポーリーの出ている映画を見たいと思い、DISCASにもあったけれど中古VHSが安かったので買っての鑑賞。2.35のスコープサイズの映画なので、ビデオでは左右がカットかと思っていましたが、上下に余黒のあるノートリミングで、ラッキーでした。余談だけれど、ビデオがDVDより優れている点は2つありますね。一つは場合によって欠点にもなるんですが、字幕が消えないことです。早送り(戻し)で見ても、字幕が見える。だからあるセリフのシーンを探すとか、セリフのない場面だけ早送りして飛ばして見るとか、そういうことができます。もう一つは、仮にテープの一部が傷んでも、残りの大部分は見られるのがビデオですが、DVDだと傷み方によっては全部見られなかったり、見ている途中でストップして先に行けなくなったりです。本当に傷んでいる部分だけでなく、チャプターごと次まで飛ばして見ることになってしまいます。脱線してしまいましたが、この映画、あまり多くはないサラ・ポーリーの出るシーンは良かったけれど、全体としてはイマイチ、イマニでしょうか。欲張り過ぎて中が空っぽ。その割には妙に細部だけ工夫があったり、要は中途半端な映画です。ある朝病院のベッドで主人公サイモン(ライアン・フィリップ)が意識を回復する。立ち会っていたのはニューマン医師(スティーヴン・レイ)。事故だか事件だか前夜病院に運び込まれた。ニューマン医師は「君は死んだんだ」と言い放つ。「でも蘇生処置で2分後に生き返った」と。今日は2002年7月29日。心臓停止していたのは20:00~20:02の2分間らしい。しかしニューマンとの話でわかるのはサイモンが2年間の記憶を喪失しているということで、それは2000~2002年の2年間。数字遊びのようだが、映画はこの2分間に込められた2年間の物語ということだ。ちなみにこのニューマン医師は優しそうな人物で、サイモンも信頼を置き、この後もサイモンが精神的にニューマンに頼るような様子が描かれる。小さい病院で専門医がおらず、本来小児科医のニューマンなのだが、それ故にサイモンに対する接し方も子供に対するようでもあり、父親のそれでもある感じだ。これは必ずしも不可欠ではない一種の伏線なのだが、こんな細部だけは凝った映画だ。2年間の記憶がないから、その間に結婚した記憶もない。しかしニューマンは外で奥さんが待っているという。やってきた女性はサラ・ポーリー。そして彼女が去ってから登場するのはパイパー・ペラーボ。ペラーボは自分は妻アナだと言い、サイモンの記憶喪失を信じないという様子で冷たく去っていく。サラ・ポーリーがクレールという女性であることが段々にわかってくるのだけれど、この彼女の存在させ方が、実は映画の描き方としてのバグ、つまり辻褄の合わないところだ。なぜなら後でわかるように、サイモンは2年前のある出来事以後の記憶がないのだけれど、サイモンはその出来事以前からクレールを知っているはずだからだ。逆に言えばこのクレールこそ、作中人物サイモンにとっては記憶のパズルを再構成する鍵でもあるわけだ。と突然に、サイモンは2年前の同じ病院に戻ってしまう。事故で病院に担ぎ込まれ、一命をとりとめたらしい。しかしこれは単なる回想ではない。何故なら2年前であるはずのそのサイモンは、2年後のことをも知っているからだ。そこで彼は妻アナのことを語り、独身なはずだとトルーマン医師に一蹴される。病院にはニューマン医師などいないと言われてしまう。ここでの担当はトルーマンという医師だ。この2人の医師の名前、前者はnew-manで「新しい人」で、後者はtru(e)-manで「本当の人」だ。この名前だって要らぬ伏線の一つかも知れない。クレールだって「明らかな」という意味のある単語だから、こだわりの命名かも知れない。こうして映画は2年前と現在を行き来する。上に書いたように2年前は単なる回想(記憶の回復)ではないから、2年前を現在として、現在と2年後を行き来しているのかも知れない。少しずつ2年前に実際に起こったことと、そのことに関してのサイモンの後悔、罪意識のようなものが浮かび上がってくる。そして後悔のないように過去(あるいは未来?)を変えようとするサイモンなのだが・・・。あとのネタバレは控えよう。最後に一つの落ちがあって、それまで描かれてきた矛盾だらけなことが回収されるのだけれど、このラストの落ちに映画を見ている途中で気付く人もいると思う。自分も「まさか-----ってこと?!」と予想したら、やはり最後はそうなった。映画は2年前と後の同じ場面を何回か違った風に描いて繰り返すけれど、ラストでサイモンが贈ったワインのビンを、もらった男が棚の上に置くとき、棚にはすでに何本ものワインのビンが置かれていたのは、サイモンがこの男との会見を何度も繰り返しているということなのかも知れない。これもまた妙に凝った細部だ。この映画は静かな心理ミステリーとして良い感じに始まるのだけれど、そして観客はサイモンと一緒に過去の謎解きゲームに参加していく。そこには2つの三角関係とか、秘密を知っての恐喝とか、ラブロマンスとか、事故や殺人とか、まあ色々なことが語られ、その中心はサイモンの後悔の念や罪意識なのだけれど、盛り沢山過ぎて、結局どの一つもまともに描けていない。どれか一つを中心にしっかり据えて深く描いていれば名作に成り得た映画だと思う。観賞後にネットで色々見ていたら、仏『プルミエール』誌にニコラ・シャレールが「中から何も出てこない悪趣味なロシアの入れ子人形」と書いているのがあって、さすがにプロは上手い比喩を使うものだと感心したが、まさにそういう映画だ。要らぬ細部の工夫と上で書いたけれど、こんな細部にこだわって遊んでいるよりも、本題をもっと真剣に考えるべきではなかったか。サラ・ポーリーが素敵だっただけに残念だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.03
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LA VISIONE DEL SABBA(The Vision of the Sabbath, aka. Evil Sabbath)Marco Bellocchio95min (English Version)(所有VHS)監督のマルコ・ベロッキオは他の作品を見た記憶はないのだけれど、イタリア映画界の長老で、最近では『夜よ、こんにちは』の評価が高い。この映画結局見に行きませんでしたが。ベアトリス・ダル出演作なのでビデオを買ってありましたが、英語ということで今まで見ていませんでした。原題は「サバトの幻視」で、サバトとは魔女のこと。森で狩人を殺害した女マッダレーナ(ベアトリス・ダル)は自分が魔女で、1630年の生まれだと主張していた。精神鑑定をするために彼女が収監されている彼女の故郷の町メッサ・マリティマに、若い精神病理学者デヴィッドは幼い子供を妻の母に預け、妻を連れてやってくる。デヴィッドは途中で魔女裁判の夢を見る。針を刺しても痛がらず、血も流さない女の夢だったが、その夢の女はマッダレーナその人だった。彼女に接見したデヴィッドにマッダレーナは、戦争で彼女が住む(ろう城する)城壁都市を敵軍が襲い、先端が金で出来た丸太で城門が破られる夢の話をするが、それを話す彼女にデヴィッドは魅了されていた。この後デヴィッドは、現在の現実と幻想、それと夢の350年前の世界、それらが交錯する中にさまよい始める。ただこの映画の作りは、現在を中心に据え、350年前を幻想として描くというのとは少し違っている。時間を計ったわけではないが、現在と過去はほぼ半々に描かれ、平行した形で二つの時間が重ね合わされている。そこでデヴィッドとマッダレーナの愛の物語が展開されると言えるのかも知れない。彼女の話した金の先端の丸太の夢は、まだ乙女の彼女が最初の男性を受け入れる期待の比喩であることは言うまでもないだろう。そして夢か現実か、二人は結ばれる。この映画、一部に熱狂的なファンもいるようだ。2つの時間を交錯させて平行させた構成は確かにそこそこ巧みだ。前衛バレエのような舞踊でバッカス的享楽の世界が描かれているのだけれど、それと二人の愛の物語の関連性に説得力がなかった。良くも悪くも色々な意味でとてもイタリア的生理の映画であり、そこがボクがイタリア気質にイマイチついていけない要素でもある。この映画で気になるのは主人公2人の名前だ。マッダレーナとはマグダラのマリア、つまりマドレーヌのことであり、マグダラのマリアは悪魔憑きだった罪の女でもある。デヴィッドはイスラエルの王の名だ。そしてその彼女を演じたのは、イタリア人ではなくフランスの女優だ。もちろんこの役にダルの持つ雰囲気は合ってはいるけれど、カトリーヌ・スパーク出演のイタリア映画について書いたように、より保守的イタリア人が許容できることなのかも知れない。あるいは本国の女優が演じたがらなかったのかも知れない。イタリア人が見ても日本人が見てもこの映画の本質は変わらないかも知れないが、イタリア文化の中で育った人々が見た場合には、見る者の違いから別の価値を持つものなのかも知れない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.02
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COSAS QUE NUNCA TE DIJE(Things I Never Told You)Isabel Coixet90min(所有VHS)今日は気持ちの良い映画のことを書きましょうね。『パリ、ジュテーム』の中のショート、『あなたになら言える秘密のこと』に続いてイザベル・コイシェ監督3作目の鑑賞。まだ『死ぬまでにしたい10のこと』はDISCASの順番が回ってこないので見ていないが、この映画は初期作だけあって作りにまだ稚拙さは残るものの、でもかえって瑞々しい意欲があったりして、なかなかに良い作品だった。オレゴン州のポートランドかセント・ヘレンズ辺り。恋人のボブの住む街にアン(リリ・テイラー)は引越してきて写真カメラやビデオ器機等を売る店で店員をしているが、25日前にボブはチェコのプラハに転勤で行ってしまった。そんな彼からある日別れを告げる電話がある。25日前に空港で別れた時には私を愛していたのよね?、という問いに電話の向こうのボブは Yes とは答えない。彼女は衝動的に除光液を飲んで病院に運びこまれる。アンは快復するが、カウンセラーは彼女に命の電話「ホープライン」の案内カードを渡す。アンはチョコレートアイスが好きだったが、ある夜買いに出ると売り切れでなかった。急に乱れる精神バランス。彼女はバカにしていたホープラインに電話をした。コイシェ監督の映画では食べ物が色々と意味を持って使われている。この映画を含めて3本ともそうだ。精神のバランスを保ち難い状況にある者にとって、望む、あるいは安定した、習慣的な食物の摂取はこの精神バランスの維持に有効ではないか?。食物の摂取とはもともと生命の維持のために不可欠な行為であり、味覚欲や食欲を満たす。欲というのは生への指向性だ。禁欲的な食生活を送る『あなたになら言える秘密のこと』のハンナの場合は、重い過去のトラウマのために精神バランスを崩しているのであり、死ぬことは出来ないまでも、生への欲求を拒否しているのではないだろうか。ハイジャックされた飛行機で長時間の不安の苦痛を余儀なくされた乗客が、助かったら何を食べようと色々空想して耐えたと言っていたのを思い出す。コイシェ監督の体型は細いとは言い難いのだが、彼女は食べることが好きなのではないかな、と思ってみたり。電話の相手はドン(アンドリュー・マッカーシー)。父親の手伝いで家を売るのが仕事だが、夜は電話相談員のボランティアもしていた。そんなドンが偶然アンの勤める店に仕事に使うポラロイドカメラを買いにきて、2人は親しくなり、週末に一緒に過ごしたひとときに彼女の家で結ばれる。アンはボブからの別れの電話があって、はじめて自分はボブを愛していることを知ったと言う。彼女は店からビデオカメラを借り、思いを語る自分を写したビデオレターをプラハに送ることを思いつく。カメラを前に一人語る彼女だけれど、実際に目の前にいない相手に語ること、これは想定の相手に語ると同時に、ある意味自分だけの心の反芻でもある。『あなたになら言える秘密のこと』でハンナが目の見えない相手に心を語るのに似ている。最初の別れの電話でも「新聞にも公表する」等と悪態をついていた彼女でもあるのだけれど、このビデオレターも、特にドンと結ばれる様子まで隠し撮りして送ってしまうのは一種の悪態だ。自分の中で消化するべきなのに、他罰的に相手を責めているわけだ。(以下ややネタバレ)その後アンはドンを避けていたが、彼は電話相談をしていた鬱病のスティーヴの自殺を止めようとして事故で撃たれてしまい、病院に担ぎ込まれる。それを知ったアンは病院に駆け付けるが、ドンの生死は危うかった。ちょうどプラハのボブが戻ってくるという電話を受けていたが、病院でドンが助かることが確実になったとき、アンは会うこともせず家に帰り、荷物をまとめると姿を消すのだった。この映画には最初の方と最後の方に踏切待ちをする車の列が写される。最初の方ではまずドンが写り、他人の電話相談なんかしているけれど、逃げ腰な自分のことも実は救えない、という人生を迷う彼の内心の声が聞こえる。カメラがパンしてゆき次から次へとフレームに入ってくる運転者の内心の声が聞こえる。この手法はヴェンダースの『ベルリン - 天使の詩』からの引用だろう。その声は祖母のことだ、英語の勉強のことだ、映画のことだ、入れ歯のことだ、と雑事ばかりなのだが、最後に写り聞こえるのは「私はどうしたらいいの?。」というアンの人生の叫びだ。(以下ネタバレ)こうして人生を問うていた二人が、数年して成長してから、偶然に(必然に)再会する物語なのではないだろうか。(以下余談)ドンが入院した病院 Good Samaritan Medical Mall に「グッド・サマリタン医療センター」と字幕が出ていたが、「善きサマリア人医療センター」とすべきだろう。詳しくは Wikipedia の「善きサマリア人の法」の項を参照。聖書ルカ伝の善きサマリア人の逸話についても、その名を冠した医療のことについても説明がある。善意の医療行為が後々のトラブルの原因になるということで、日本では多くの医師が善きサマリア人の法にあるような行為を避けるという実態があり、みなさんに知っていただきたいと思い、ここに付記しました。更にちょっと長いですが、//plaza.umin.ac.jp/~GHDNet/04/samaritan/もざっと読んでいただけると嬉しいです。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.01
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