2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全23件 (23件中 1-23件目)
1

『ゴダールのマリア』JE VOUS SALUE MARIE 内の1編LE LIVRE DE MARIEAnne-Marie Mieville27min(所有VHS)ジャン=リュック・ゴダールの『ゴダールのマリア』は2編の構成になっていて、最初がミエヴィル監督の27分のこの短編『マリアの本』、それと切れ目なく連続して後に80分のゴダールの『こんにちは、マリア』が続く。今日(木曜)は2つ目の昼間の仕事が休みだったので、昨夜(と言っても今朝未明)は店閉めたらゆっくり映画を見ながら・・・と思っていたのだけれど、閉店があまりに遅くなってしまった。でもこのまま寝てはフラストレーションが残ると思い、『ゴダールのマリア』の前半のこの27分を見ることにした。この作品は20年ぐらい前に劇場で見て、その後もテレビ放送で1度見たかも知れないが、中古を安く買ってあったビデオはまだ見ることはなかった。スイス・ジュネーブ近郊、レマン湖畔に面する家。13才のマリーは一人っ子で、父親と専業主婦の母と3人暮らし。しかし両親の諍いが絶えない。保守的で妻を家に閉じ込めておこうとする父、もう何年も前からそんな境遇に満足できなくなっている母。年令的にも多感な時期だけれど、たぶん父親譲りでマリーは感性が鋭く、ひきこもり勝ちの、芸術家肌の少女。一方母親の方はもっと現代的個人主義で、どちらかと言えばクールでドライ。離婚に向けて両親は別居することになり、父親は町のアパルトマンで一人暮らしを始める。マリーは週末は父のアパルトマンのもとへゆく。両親、特に父にマリーは深く愛されているし、マリーも両親が好きだ。しかし現実は彼女を寂しい立場に置く。それは個人であること、あるいは人が孤独であることをマリーが突き付けられることなのかも知れない。美しい湖面や空、リンゴやタマゴなどの静物のアップ。スチル写真のような固定カメラのその映像は、やはりほとんどが固定カメラのフレームの中に描かれる人物の映像とモザイクされ、いちいちが少女が甘受し消化しなければならない立場、人の孤独を、淡々と静かに伝えている。そして最後の方でマーラーの9番の交響曲の最終楽章をかけながらマリーの踊る即興バレエは圧巻だ。演じたレベッカ・ハンプトンという子役(その後は映画よりテレビに多く出ているようだ)、撮影当時11才だと思うけれど、どうしてこれほどの演技ができるのかと感じるほどに微妙な少女の感情を表現しています。この映画は1986年度セザール賞の最優秀短編作品に輝いていますが、大好きな映画です。ちなみに映画の中でマリーがテレビで見ているのはゴダールの『軽蔑』で、ピコリ/バルドーのカップルの破局の物語だし、マリーが詩を朗読するボードレールは母親の再婚によって母との楽園を喪失した人ですね。(なお写真はテレビ画面を撮ったデジカメ画像なのであまり綺麗ではありませんが、実際の映像は非常に美しいものです。)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.31
コメント(0)

CELINE ET JULIE VONT EN BATEAUJacques Rivette186min(DISCASにてレンタル)ジャック・リヴェットは『カイエ・デュ・シネマ』三代目の編集長で、20本以上の映画を作っている、ヌーヴェル・ヴァーグの重要な映画人。でもその作品はこれまで(たぶん)見たことがなかった。日本では『美しき諍い女』がエマニュエル・ベアールのヘア修正問題などで有名で、また一部ではカルト的人気もある。ボクはひねくれているから、フランス映画は好きだけれど、日本であまり話題になる作品はどうも敬遠してしまう。まあ敢えて言い訳をするならば、日本では最近はあまり好まれないフランス映画が好きだということは、逆に言えば日本で話題になるフランス映画は、フランス映画でもボクの好むフランス映画らしくない可能性があると思ってしまうんですね。それが昨年行きつけの桜坂劇場に『恋ごころ』を見にいったら、これが物凄く良かった。でレンタルなどで他の作品も見始めたというわけです。この人の映画はとても長い。『美しき諍い女』は約4時間、『恋ごころ』2時間35分で、『OUT 1: NOLI ME TANGERE』という作品はなんと12時間30分もある。今回の『セリーヌとジュリーは舟でゆく』も3時間6分。でもこれも『恋ごころ』も決して退屈することもないし、どちらも(かなり睡眠不足状態で見たけれど)眠くなるようなことはない。むしろ終わってしまうのが寂しいと思わせるほどに、その映画の世界の虜にしてくれます。明らかに作為的世界ではあるけれど、ある意味これが映画というものの本質なのかも知れない。映画中映画という二重構造の映画は少なくないけれど、ボクの見た2本はどちらも映画中芝居が出てくる。『恋ごころ』では登場人物が舞台演出家や舞台女優で、その公演が物語の一部になっているし、この『セリーヌ・・・』は主人公2人の女性の幻想・妄想の世界に2人の女性も侵入する形で、別の物語が平行して描かれるのだが、芝居の開幕を告げる床を棒(や槌)で叩く音が挿入されており、また最後の方では映画的な自然な化粧ではなく、ドーランを塗りたくった芝居の化粧で人物が登場していて、芝居への連想を観客に喚起している。図書館勤めのジュリー(ドミニック・ラブリエ)、彼女は魔術とかオカルト的ことに興味があるのだけれど、夏の午後パリの小さな公園のベンチで魔術の本を読んでいた。そこに緑色のまがい物オーストリッチのストール(よく娼婦がしているような)をした派手なファッションの女が足早に通りかかり、サングラスを落とす。それに気付いたジュリーは呼び止めるが女はそのまま振り返りもせず立ち去るので、ジュリーはサングラスを拾い後を追う。途中さらに落としたスカーフを拾い、人形を拾い、途中からは立ち止まって振り返る女をジュリーは見ない振りをしたり、で2人の間には一種の共犯意識のようなものが形成されていく。モンマルトルの丘で女はケーブルカーに乗るが、乗り遅れたジュリーは横の階段を駆けて登り、その様子をなんとなくケーブルカー車内から女も見ている。女が着いたのは2階に部屋もある場末(ポルト・ド・ラ・シャペル辺りか?)のカフェ。チェックインした女は宿帳に「セリーヌ・サンドラール/1950年1月15日生まれ/職業:魔術師」と書く(ちなみにセリーヌを演じるジュリエット・ベルトの実の誕生日は1月16日だ)。大通りをはさんだ向かいからジュリーはカフェの2階を眺めているが、部屋の窓からセリーヌも彼女を見ていた。ここまでほとんどセリフもないわけだが、そして延々何分のシーンだか気にもしなかったが、実に活々としていて飽きさせない。そしてモンマルトル周辺の一軒家や細い路地のある街並、ちょっと普段は見ないパリのたたずまいも良い。翌朝ジュリーがカフェを訪れるとセリーヌはコーヒーを飲んでいて、テーブルに着いたジュリーはスカーフを返し、テーブルの上に既にあったコニャックを飲み、2人の間には既に芝居がかったセリフがやりとりされていた。そしてジュリーの勤める図書館。絵本を何冊も机に積み上げたセリーヌは、ジュリーの関心を引こうとしているかのようにわざと物音をたてている。再び公園のジュリー。セリーヌがまた通ることを期待しているかのようだが、彼女は来ない。しかしジュリーが部屋に戻ると膝をケガしたセリーヌがドアの前にいた。セリーヌはシャワーを浴びたいと言い、こうして2人の生活が始まる。セリーヌはあることないことその場を楽しませ、本人も楽しむために作り話をする癖があったが、子守りとして勤めていたお屋敷で小さな娘をめぐる何か秘密のようなものと関わり、逃げて来たと語る。翌日ジュリーは仕事を休むと、セリーヌの言った リンゴの天底街7番地2 のお屋敷へ向かう。時刻はちょうど午後3時。遠くから教会かなにかの3時の鐘が聞こえてくる。呼び鈴を押すとドアが開き、彼女が中に入るとドアは閉じられる。その頃セリーヌは、幼い頃以来始めてジュリーが再会する結婚を約束した男ギルーからの電話で約束をし、ジュリーに成りすましてギルーに会い、その後友人たちと屋外のカフェで語らっていた。そこでも彼女は面白可笑しく作り話をし、ジュリーをアメリカ人の富豪として話していた。ジュリーは大きなショックを受けて平静を失った様子で屋敷を出てくると、タクシーに乗り、セリーヌのいるカフェにやってきた。彼女は屋敷で何があったのかを忘れてしまっていた。セリーヌが奇術師としてステージに出ている小さなキャバレーでジュリーはセリーヌのステージを見ていたが、短いフラッシュバックのように、断片的に屋敷での出来事を思い出していた。部屋に帰った2人だが、はっきりしないジュリーの様子にセリーヌは苛立っていた。がタクシーの中で口から出したアメ玉をジュリーが再びなめると、屋敷での出来事が思い出された。次にはセリーヌが屋敷を訪れ、出したアメ玉をまたなめることで屋敷での出来事をジュリーに語り、こうして2人は(映画の)カメラに向かって並んで座って、テレビの連続ドラマか何かを見ているかのように、屋敷での出来事を見ていた。映画中劇のその物語は、ヘンリー・ジェイムズの『あちらの家』を翻案したものだろう。上に書いたようにこの映画中劇は芝居の体裁もとっているが、ジェイムズの『あちらの家』自体がもともと戯曲として発案されたものだった。映画の中での翻案された物語には妻ナタリーを失ったオリヴィエ、そのナタリーとの間の娘マドリン、ナタリーの妹カミーユ、もう一人の女ソフィー、そして病弱なマドリンの世話をする看護婦ミス・アンジェルが登場するが、どちらが記憶を語るかで、ミス・アンジェルはジュリーだったりセリーヌだったりする。娘マドリンの幸福を願い、ナタリーは死ぬとき、マドリンのいるうちは決して再婚はしないと夫オリヴィエに誓わせていた。それに立ち会ったのは友人のソフィーだ。継母に育てられた不幸を味わわせたくはなかったのだ。カミーユは誓いを無視しようとし、ソフィーは誓いを無効にするために幼いマドリンを亡き者にしようと企んでいた(3人の男女を演じるのはビュル・オジエ、マリー=フランス・ピシィエ、バルベ・シュローデル)。そんな悪巧みをジュリーとセリーヌは魔術を使って劇中に侵入し、阻止しようとするのだが・・・。そして最後はフリダシに戻って、最初のシーンがジュリーとセリーヌが入れ代って描かれ、カメラを見つめる猫のアップでエンドロールへとつながる。この映画を何度も見て色々な部分の意味を深く解釈しようという方もおられるようだが、ずばり単純に映画の世界に入って3時間を楽しめば良いのではないかと思った。映画とは映画の中で描かれることがすべてであり、映画の中に描写されることはすべて映画的真実なのだ。最後の方ではオリヴィエがトランプの王冠をかぶっているが、これは『不思議の国のアリス』への暗示であろう。セリーヌは『アリス』の中の白ウサギであり、『アリス』の少女が白うさぎを追うことから不思議の国に迷い込むのと同じように、ジュリーはセリーヌ(=白ウサギ)を追うことで不思議の世界に入っていくわけだ。それにしてもベルトとラブリエ2人の瑞々しい演技が魅力的映画だ。2人の会話のセリフは撮影の前の晩に仲の良いこの2人の女優が話し合って作ったらしい。綿密に計算されたリヴェットの土台にそうした即興性が乗り、実に面白い映画となっている。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.30
コメント(7)

LA CEREMONIEClaude Chabrol111min(所有VHS)2万本以上の映画を見ている蓮實重彦氏になると、未知の作品を見ても監督(や撮影監督さえ)が誰であるかがおおよそ判ると言う。ヌーヴェル・ヴァーグの重要人物クロード・シャブロル、多作な人で60本以上の映画を作っているのではないだろうか。ボクは何故か『美しきセルジュ』『いとこ同志』『二重の鍵』の最初の3作を含めた5~6本しか見ていないと思う。しかしそれでもこの映画が始まって30秒~1分ほどで、「シャブロルの世界だな~!」と感じた。ごく日常的なシーンなのに、カメラの動きや役者の演技が、何か狂気を孕んでいる。シャブロル作品をあまり見ていないと書いた。それは日本で、ビデオやDVDでのみ発売されるのを含めて、彼の映画があまり見られないこともあるが、この狂気を孕んだ雰囲気、そしてその狂気が人間を実に深く洞察したものなので、その重苦しさを敬遠し勝ちなのだ。でも実際に見ると、実に実に良い作品であることが多いし、決して嫌いな世界でもない。この『沈黙の女 ロウフィールド館の惨劇』もそうだった。もちろん(?)後味はあまり良くはないが・・・。この映画の原題は『La Ceremonie』で「儀式」といった意味。日本題は『沈黙の女 ロウフィールド館の惨劇』。主人公の女性は言葉少なだから「沈黙の女」だろうか。英作家ルース・レンデルの原作小説の邦訳題が『ロウフィールド館の惨劇』なので、この副題が付されたのだろう。でも舞台はフランスに翻案されているので「ロウフィールド」なる固有名が出てくるはずもなく、やや不自然。原作小説(原題はA Judgement in Stone)を読んでいないのでその中心主題が何であるかは知らないが、この映画では「儀式」というタイトルが実に合っていた。出だしは何処だろう。物語の舞台はフランスのブルターニュ地方、大西洋英仏海峡岸の小都市サン・マロ郊外の大邸宅だから、内陸にある県都レンヌなのだろうか。ジャクリーン・ビセット演ずる館の奥様カトリーヌ・ルリエーヴルの待つカフェにソフィー(サンドリーヌ・ボネール)がやってくる。ソフィーがルリエーヴル家の女中になることになっての面接というか顔合わせだ。お屋敷で仕事を始めたソフィーは完璧で、家族からも喜ばれていた。家族と言うのはジョルジュとカトリーヌ・ルリエーヴルの夫妻、息子ジル、それとジョルジュの前の結婚の連れ子、つまりはジルと腹違いの姉メリンダ(ヴィルジニー・ルドワイヤン)。彼女は別居しているようだが、足しげくこの家にもやってきていた。混成家族だが上手くいっている。フランスではたしか14才になると無免許で原付バイクに乗れるはずだから、このジルはそれ以上の年令、メリンダは二十歳の誕生日を目前にしているという設定だ。屋敷に着いて部屋に案内されたソフィーは早速テレビをつけて見入るのだが、単なる娯楽番組を一心に見入る真剣さは無気味だ。テレビをつけた時も、どのスイッチを押して良いかがわからずに当てずっぽうに押していた。彼女は知恵遅れなのか?。しかし料理も掃除も、仕事は完璧だ。彼女が手をつけないのは書庫の整理だけだった。ある日ソフィーが誰もいないお屋敷に戻ると手書きのメモがあった。困惑するソフィー。自室に駆け昇ると、荷物の中から1冊の本を取り出した。写真入りの手話の本だった。メモの文字と同じ語を本の中に探してメモの内容を手話化することで理解しようとしている様子だ。目的を達することができずに途方に暮れるソフィー。その時ちょうどメリンダがやって来て、たまたま床に落ちたメモを拾って「白いワンピースにアイロンをかけておいて。」と声を出して読み上げ、「これはあなたへのメモだわ。」とソフィーに渡す。メリンダに読んでもらって偶然にも事なきを得た。また別の日にはスーパーに届けさす日用品の注文リストを渡され、「電話で注文しておいてね。」と奥様に言われてしまう。車の運転が出来ない彼女は歩いて離れた町に向かう。少し前に知り合って仲良くなり始めていた郵便局務めのジャンヌ(イザベル・ユペール)を訪れ、家の電話が故障したと言って、リストを渡して上手いことジャンヌに電話してもらう。そして品切れの商品を別の店で買い、その荷物を持って屋敷に徒歩で戻るのだが、ちょうど帰宅する奥様が車で通りがかり、拾ってもらう。そして「品切れの商品を買いにいってました。」と言うので、ソフィーの信用は増々上がる。この郵便局務めのジャンヌ。奥様と同じくらいの年令という設定で、若くても四十前ぐらいだろう。年令の割に落ち着きがなく、常識がないようで、どちらかと言えばきっと周囲からは敬遠されていた。そんなジャンヌといつしかソフィーは仲良くなっていくのだが、2人には似たような過去があった。ジャンヌの幼い娘もソフィーの父親も事故か他殺かはっきりしない事件で死亡していて、2人とも娘殺し・父殺しの容疑で告発され、証拠不十分で無罪となったという過去があり、それも2人を結びつけていた。実際がどうであったかは(この2人の人物を謎にすることでサスペンス性を盛り上げているのだと思うが)最後まで明かされない。しかしお屋敷のご主人ジョルジュは「あの女は娘を殺したんだ。」とジャンヌを毛嫌いしていた。そんなジャンヌと親しくし、屋敷にも出入りさせていることを知って、ジョルジュはソフィーを嫌い始めていた。忘れた書類を差し向ける運転手に渡してくれという電話を無視されたという恨みもジョルジュにはあった。もちろんソフィーは文字が読めないから逃げただけなのだけれど。ジャンヌは教会のボランティア活動に参加していたが、ソフィーをも誘っていた。しかしソフィーが誘われた日曜日は、ちょうどメリンダの誕生パーティーの日だった。最初は良い顔をして「日曜まで仕事はさせない」の、「私たちでなんとかする」のと言っていたカトリーヌ奥様だったが、当日になると結局はソフィーを外出させようとはしなかった。この映画の解説を読むと「何の罪もない家族に恨みを募らせ・・・」とあるのだが、それではこの映画の主旨を全く見れてないことになる。本当は「知らず知らずのうちに罪を犯している家族」なのである。まずは直接はこの家族の責任ではないことではあるが、金持ちは最初から金持ちで、決して損はしない(そんなセリフがジャンヌの口で語られている)。そして貧乏人(ソフィー)の人間性を無視して、自分達の我がままでどんどん虐げていて、でも眼が悪いならメガネを作ってあげるの、車の運転も習わせてやるの等々と、善行を施しているように自分達では思っているのだ。これと相似的に描かれているのだが、教会のボランティア活動でジャンヌとソフィーが寄付の品々を集めにいった家の夫婦は、汚れたり、破れたりで使えない衣服や、消費期限切れの缶詰めを寄付する。ジャンヌはそれに怒りを爆発させて教会に戻るが、教会の神父は神父で「教会の信用を落とすようなことをしてもらっては困る。」と2人を追い出す。すべてが欺瞞と欺瞞の社会なのだ。(ちなみにジャンヌのセリフに「みんな私達を ゴミ だと思っているのよ。」という字幕があったが、「私達を ゴミ 箱だと思っているのよ。」が正しい。)物静かで、でも自分の失読症で深いコンプレックスを持ったソフィーが、どのようにこの一家に恨みを募らせていくかの物語なのだけれど、実はどのようにこの家族がソフィーの恨みを買っていくのか、その家族の責任の問題として見るべき物語だ。「丁寧語(vous)ではなくタメ口(tu)で話して」と言うちょっと好感の持てるメリンダのようではあるけれど、ソフィーが失読症だと気付いてソフィーに語りかける優し気な言葉は、結局のところ「安全な場所にいての、上からの同情(憐れみ)」であって、「対等の心遣いや優しさ」では決してない独り善がりであることがわかってくる。だからこそその言葉に対してソフィーはメリンダの秘密をばらすと脅すような行動に出るわけだ。2人の心は通っていない。家族の行動、言動、その裏にある優越感が、ラストの衝動的行為へと彼女を動かす素地を作っている。最後のソフィーの行為はソフィーの積極的能動ではなく、ルリエーヴル一家が招いた必然と見るべきであって、この作品もフランス映画らしく「犯罪者の心理の必然」を描いた名作だ。(ちなみに映画の中でカトリーヌとジルの親子がテレビで見ているミッシェル・ピコリの出ている映画は、シャブロル自身の映画『血の婚礼』だ。)(註)ソフィーは識字教育を受けなかったがゆえの「文盲」ではなく「失読症」。失読症(ディアレクシア)というのは、先天的(また後天的)脳障害によるもので、会話などは普通にできるが、文字を認識することが出来ない。読みだけ、または読み書き両方など程度の強弱も色々だが、知能そのものとは無関係で、エジソン、ジョン・F・ケネディ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、グラハム・ベル、マーロン・ブランド、キアヌ・リーブス、ジョン・レノン、タランティーノ等々、著名人で失読症の人も少なくないという。(cf:ウィキペディア「ディアレクシア」の項)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.29
コメント(351)

LAITAKAUPUNGIN VALOTAki Kaurismaki78min(DISCASにてレンタル)この映画は先日レビューを書いた『過去のない男』と、その前の『浮き雲』と合わせたカウリスマキ監督「フィンランド敗者三部作」の第三作。原題は『Laitakaupungin valot』で、1931年のチャップリンのサイレント映画『街の灯』のフィンランド語タイトルが『Kaupungin valot』だから、あきらかに関連性が見えます。じゃあこの映画の題名の頭に付いた「Laita」とは何か。フィン語の辞典は持ってないし、ネットの無料自動翻訳も見当たらないし、でもどうも「脇」という意味がありそうだとまで辿りついた。フィン語版ウィキペディアの「kaupunki」は英語版の「town」や仏語版の「ville」にリンクされているから「町」という意味があるようなので、チャップリンの『Kaupungin valot』は正に「City Lights」。「valo」が「光」の意味であることはもともと知っていたので「t」が付こうと格変化か複数形だろうと想像できる。では「City」の「脇」とは何か。当然「町外れ」とか「場末」の意味だろう。これはフランス語題の『Les Lumieres du faubourg』やドイツ語題の『Lichter der Vorstadt』に正に適合。英語タイトルは『Lights of the Dusk』(夕暮れの灯り)なのだけれど、こんな苦労してたらこの映画の英語版ウィキペディアに、原題の直訳は「Lights of the Outskirts」とちゃんとあった。以上くどくどと書いたけれど、「他の人々の生活」が『善き人のためのソナタ』とされ、「見知らぬ女」が『題名のない子守唄』にされてしまう日本の映画の興行の性格があるので、まずは原題の意味を調べることがボクにとっては重要で、その過程のようなものをちょっと公開させていただきました。で、だから、この映画の日本語題は、チャップリン作品『街の灯』と関連付けて『街のあかり』で、まずまず正解。でも『街外れの灯』が原題を反映するものだったかも。そんなわけでチャップリン作品と関連がある。チャップリンの作品の主人公は浮浪者で、盲目の少女を救うけれど、身に憶えのない犯罪で刑務所に入れられ、最後は目が見えるようになった盲目の少女が主人公の手を握って、その浮浪者がかつての恩人だったことに気がつくのがラストだ。カウリスマキの映画の方の主人公は浮浪者ではないが、無実の刑で刑務所に入ることや、最後に手を握るシーン等はチャップリン作品を引用している。物語は、そして映画の作りも実に単純。例のごとく動きの少ないカメラ、単純なセット、各シーンのフェードアウト、感情を排したようなセリフ回し。『過去のない男』同様、一方では最新のセキュリティーシステムが出てくるものの、他方では50年代か60年代の車を使ったりで、時代感がはっきりしない。主人公が銀行に開業のための資金の融資を依頼に行くシーン。普通ならば、街の広い通りに面した銀行の入り口から主人公が銀行内に入っていって、廊下を歩いたり、エレベーターに乗ったり、受け付の女子行員に来行目的を説明したり・・・と、その全部ではないにしても色々描かれるのではないか。それが単なる待合室のような所でファイルを持った主人公が座って待っているらしいところがまず写り、次ぎはパソコンの置かれたデスクのある部屋で担当行員と話をする。カメラは固定だし、しかも会話も融資を断られるほんの2、3往復の短いセリフのみ。ここで何の資格も経験もない主人公が銀行員からまともに相手にされないことが示されはするが、ただそれのみ。そこでの慇懃な銀行員の態度や言動、それでも強く主張しようとする主人公、そういうシーンをさもありをうな風にリアルに描くことはない。物語の進行にとってはそれで十分だし、銀行員の言動や表情、主人公のそれ、それをいちいち描くのではなく、要約しているような描き方だ。だから当然映画も78分という短さになるのだろう。どのシーンもこういう要約的語りで進むのだけれど、何故かそこに深い情緒のようなものが伝わってくる。それがカウリスマキの映画なのではないだろうか。物語は、警備会社で働く主人公コイスティネンは誰ともほとんどつき合うこともなく、仕事が終わると帰宅するだけの毎日を送っていて、同僚にはバカにされるし、上司からもあまり良く思われていない。恋人も家族もなしの一人暮らし。時々立ち寄る公園のトレーラーカフェスタンドの女性アイラはだけはそんな彼に秘かに恋していたが、そんな彼女の気持ちに気付こうともしないコイスティネンだった。バーの前に繋がれたままでエサも与えられていないらしい犬(演じるのは『過去のない男』でカンヌ映画祭パルム・ドッグを受賞した犬タハティを母に、『白い花びら』の名優ピートゥを祖母に、『ラヴィ・ド・ボエーム』のライカを曾祖母に持つ俳優犬一家のパユ)を不憫に思ってバーの中の飼い主に文句をつけようとするが、反対に飼い主のチンピラに痛い目にあわされてしまう。そんな彼に目をつけたのはギャング団一味。ボスの女ミルヤを彼に近付ける。彼女に恋をしたコイスティネンは、ギャング団の計略にまんまとはまり、彼が仕事で見回りをするショッピングセンターのドアの暗唱番号を知られてしまう。ミルヤに呼び出されたコイスティネンが睡眠薬を飲まされて車の中で眠っている間に、ギャングたちはショッピングセンターの宝飾店を襲い、20万ユーロの宝石を盗みだす。警察に捕まったコイスティネンは証拠不十分で一度は釈放されるが、コイスティネンの部屋を訪れたミルヤが盗んだ宝石の一部を彼の部屋に隠し、ギャング団が警察に通報する。今度は証拠があるから窃盗ほう助罪で服役することになってしまう。彼はミルヤが宝石を自分の部屋に隠したことを知っていたが、取調べや裁判で彼女のことを口にすることは決してなかった。そしてこれはギャング団が予想したことでもあったのだ。(以下ネタバレ)裁判も傍聴し、服役中は手紙を送り、そんな彼を見守っていたのはトレーラーカフェのアイラだったが、送られてきた彼女の手紙をコイスティネンは読まずに破ってしまう。刑期を全うして出所した彼は簡易宿泊所に住み、食堂の皿洗いとして働いていたが、偶然その食堂に客としてギャングがミルヤを連れて来ていた。見つめ合うコイスティネンとミルヤ。しかし店主にコイスティネンは服役の過去をバラされ、食堂をクビになってしまう。宿泊所に戻った彼はナイフを研いでギャングを刺そうと決意する(以下・・・)。悪い奴はとことん悪く、しかし世の中を上手く渡っていくけれど、不器用で、不運で、でも愛した女への信義を守るような男コイスティネンにとって、世界はあくまでも冷たく、不条理だ。ただ彼が最後になってやっと気付くのは、近くにあった本物で深いアイラの愛であった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.27
コメント(2)

KAIRO, aka PULSEKiyoshi Kurosawa118min(DISCASにてレンタル)この映画の中の恐怖(?)というのは、パソコンに現れる映像を見て、あるいは赤いテープで封印された部屋の中に入ってしまうことで、その人が段々物思いに耽っているようになって、周囲の人ともつき合おうとしなくなって、やがて自殺(体も消滅)してしまう。そして地上からどんどん人が居なくなる。そういうものです。しかしこのホラーの面はいわば外面であって、実は幽霊でもオカルトでもない、もっと別のことを寓意的に描いているのだと思います。例えば昔東京から横浜に電車に乗っていこうとすると、まず出札口で「横浜2等1枚」とか言うと、ガラスの向こうの係の駅員さんが目の前の棚に並んだたくさんの切符のなかから 東京→横浜 の切符を1枚抜き取って、日付けを印字して、お金と引き換えに渡してくれた。そして改札口に行くと専用の切符切りハサミを持った係の駅員さんがいて、お客さんの流れが不均一だとに「チャランチャラン・チャラン・チャラン」と空切りで音を鳴らしてリズムを取ってたりりするのだけれど、こちらが手渡す切符を受け取るとハサミを入れ、それをまた返してくれた。単に行きずりではあるけれど、既に2人の人との関係を持ったことになる。それが今は無人の券売機で切符買って、無人の自動改札に切符を入れるだけ。人との関わりはない。人件費削減の合理化なのだけれど、券売機や自動改札という機械を作る技術がないと実現できないわけで、テクノロジーの産物だ。技術が進歩して人と人との関係性が減少する。子供たちは昔は学校や近所の友達と外で遊んだけれど、今は一人家でファミコンやプレステ。そして大人はパソコン・インターネットの世界。リアルの人間関係そっちのけでブログや自分のサイトにうつつをぬかす。それと直接の関係があるかないかはともかく、他人との関係の持ち方を知らない電車男が話題になり、引きこもりなる人々も少なくない。「一緒に遊ぼうよ!」という友達の誘いに対して「今日は家でテレビゲームするから(あるいは今日は塾だから、も)」と断ったとすれば、断られた子供にとっては断った子供が自分の前から消滅したことに他ならない。今まで買い物に来ていたお客さんがネット・ショッピングをするようになって店に来なくなれば、店員にとってはそのお客さんという人間が消えたことだ。ネットにのめり込んでリアルのつき合いが減った人の知人にとっては、その人が(部分的・一時的ではあっても)居なくなったことに他ならない。本来あるべき人間同志の関係性がなくなるということは、それぞれの人にとって他者が消えることであり、こうしてテクノロジー、とりわけインターネットによって人間性が疎外されていく現代に疑問を呈した映画なのだと思う。物語は、最初と最後(役所広司出演部分)が洋上の船でつながる枠構造におさめられているが、本体部分は観葉植物販売会社勤務の工藤ミチの物語と、大学生川島亮介の物語が平行して描かれ、終結部で2人の物語が統合される形式となっている。ミチの部分では職場の同僚の田口が自殺していなくなり、彼の残したフロッピーか何かに見入ってしまったもう一人の同僚矢部も消えてしまった。亮介の部分では使い始めたパソコンが不思議なサイトにつながってしまい、やがて彼の回りでも人が消えてゆく。共通するのはある種のサイトを見てしまうと、あるいは赤いテープで封印された部屋に入ってしまうと、孤独感に襲われ、やがて消えてゆくということだ。ここでパソコンというのはもろパソコン・インターネットの世界ではあるが、赤いテープの封印も四角いドアや窓の周囲に赤いテープを貼ることで赤い四角形が描かれており、パソコンのモニターを象徴するかのようである。映画の中で大学院生の吉崎は「霊界での受容容量がいっぱいになり、それがこの世界に溢れ出してきている。そしてその霊界からやってきた幽霊と出会ってしまった人は孤独感から自殺に追い込まれ消滅する。」と、また「一度このシステム、つまり " 回路 " が成立してしまうと、それが自律的に作動する。」と語る。ホラー映画仕立てだから霊界だの幽霊だのと言うが、これは人間のリアルな関係を捨ててパソコンやインターネットのバーチャルな世界に行ってしまった人、つまりは我々の前から人間の実質として消えてしまったに等しい人の暗喩であり、回路というのは社会のシステムや風潮のことだ。だから「霊界と現実世界で起こることの関係がわからない」といった良く目にする感想は映画の見方を根本から間違っていることを示しているのではないだろうか。大学生川島亮介の物語として見ると非常にわかりやすい。パソコンは持ってはいるもののまだ使ったことがなかった彼が、パソコンを使うようになり、そして霊界、すなわちバーチャルなインターネットの世界の虜になり、やがて・・・。以下は2008年5月29日加筆分です。この作品、最初に見たのは昨年の5月で、レビュー書いていないと思ったら既に書いていました。『叫』、『降霊』、『LOFT』、『ドッペルゲンガー』等を見たついでに記憶で書いたんですね。この作品を1年前に見たとき、DISCASのレンタルで1回見ただけだったのですが、実は良く解らないところがあった。で、もう1度見てからと思ってその時はレビュー書かなかった。で今回安価な中古ビデオがあったので買ったわけです。2度目に見たら良く解りました。最初に見て解らなかったのは、実は役者さんの顔なんですね。テレビは見ないし、昨今の日本映画もそれほど見ていないから、知っている顔は役所広司と風吹ジュンぐらいで、加藤晴彦と小雪はすぐ区別ついたのですが、麻生久美子とか有坂来瞳とか、あれ?、これあのミチだっけ?、って感じで、少々混乱して見てました。麻生久美子っていう人はこの映画では主人公なわけだけれど、女優としてのボクの印象は「平凡」って感じですが、小雪って人は、なかなか独特の味があって、フランス映画とかに出しても通用しそうですね。前回1月に書いたレビューを読み返して感じたのは、印象としては間違っていないのだけれど、ネットのバーチャル性の問題を中心に書いていて、この映画のもう一つのテーマである人と人とのかかわりの問題にあまり触れてないということです。もちろんこの2つのテーマは互いに関連したものではありますが。一種の倫理の問題でもあります。植物栽培会社に勤めるミチの上司が言う「人の悩みにどれだけ他者がかかわれるのか?」という問題であり、小雪の大学院の先輩の作ったプログラムにある、点と点は近付きたがるけれど、近付き過ぎると反発したり消滅したりするという問題であり、小雪(役名は春江ですか)の語るこの世の人の孤独の問題です。この問題は、小雪が加藤晴彦に言う「誰かとつながっていたいからインターネットをするのか?」ということで、第1のバーチャルというテーマとつながっているわけです。これはどこの国の人についても同じことなのでしょうが、特に日本社会的テーマでもある気がします。それは日本人が「和」を重んじるからです。誰かとつながっているためには同調が求められる。卑近な例で言うと、これはある友人が言っていたことなんですが、喫茶店に友人・仲間と5人ぐらいで入って、他の4人が「コーヒー」「僕もコーヒー」って先に言ってしまうと、「自分はコーラ」って言いにくい無言の圧力を感じてしまうってことです。まして「チョコレートパフェとアイスティー」とはもっと言い出しにくい。つまり自分を曲げてまで同調することを求められる。西洋社会のように「異」をもって他者と関係を持つっていうのではないんですね。一事が万事こういいう性格を持つから、他者とつながっていたいけれど、他者とつながるのはウザクもあるわけです。こういう同調と和を受け入れていれば、西欧社会のような孤独を感じないでオメデタク生きられるのですが、それをウザイと感じて離反したときには、たった1人の孤独(孤立)が待っている。西欧社会の人々は最初から孤独であって、だから孤独同志の求め合いの文化があるけれど、日本では単なる孤立になってしまう。余談ながらちょこちょこ書いていることだけれど、統計的に日本人はセックスの回数、特に未婚者のセックスの回数が極端に少ないらしいけれど、それはセックスが孤独同志の求め合いを癒すものだからなんですね。黒沢作品に描かれる「日本人」、日本的文化から見ると見えにくい面もあるのだけれど、例えば西欧的視点で見ていくと、日本人である(日本社会である)ゆえの人々の病性が見えてくる気がするのですが、みなさんはいかがでしょうか?。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.26
コメント(8)

ポータブルDVDプレーヤー?昨年の 6月にマックのノートが不調になったのだけれど(昨年6月8日の日記)、とりあえずは長時間でなければ旧OS9でなら使えていて、PAL盤のDVDも見られたのだけれど、いよいよそれも怪しくなってきてしまった。このノートもかなり古いので新しいのが欲しいけれど、ボクは買うなら最下級機種か最上級機種のどちらか主義なので、でもそうは簡単には最高価格機種の30万円をすぐに出せる状態にないので、中古案も含めてどうするかまだ迷ったままだ。で思ったのがポータブル DVD プレーヤー。5万もするメーカー品を買うつもりはないけれど、中国製とか1万円前後から安いのが出ている。パソコンとは無関係にあって不便するものではない。7インチ程度の液晶ながら、どこでも持っていって映画が見られるのは嬉しい。どなたか使用したことのある方はいらっしゃらないでしょうか?。是非使ってみての感想(耐久性なんかも)をお聞かせ下さい。ちなみに現在は10年前の iMac という仮環境。DVDは見られません。もし突然このブログの更新が途絶えたら、この iMac まで駄目になったと思って下さい。とは言っても携帯からの更新もできるはずですね。今日は『パリ ジュテーム』をちらちらとノートで見ながら、何回かに分けて書くつもりだったレビューを始めようとしたのだけれど、出来なくなってしまいました。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.24
コメント(2)

DOPPELGANGERKiyoshi Kurosawa107min(DISCASにてレンタル)黒沢清作品、自分はごく初期の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』を除けばここ10年ぐらいの作品しか見ていません。「黒沢清→Jホラー」なんてイメージもあるし、「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」なんていうのもあって、人々はホラーを予想して見始めるのではないでしょうか。でも全く外されますね。例のごとく「人間の本性は何か?」なんて問いが根底にあって、一種倫理的とも言えるのですが、作りはかなりコミカルですね。主人公役所広司の分身のドッペルゲンガー役所広司の役のキャラ自体からしてかなりコミカルですね。ボクはもう15年以上ほとんどテレビは見ないから、昨日の日記にも書いたようにこの人の存在を忘れていたのですが、永作博美という女優さん良いですね。いつかテレビで一度見て、良い感じの人だな、爽やかで、実存性もあって、で適度に色気もあって、なかなか魅力的な人だなって思った記憶がありました。ナガサクというちょっと変わった名前なので憶えていました。三十代になってなお魅力的ですね。その永作博美演じる独身女性由佳。エタラジストか何かやっていて、作家志望の弟隆志と2人で一緒に暮らしている。ある日仕事帰りに仕事で使うものをホームセンターで買って駐車場に戻ると隆志を見かける。「一緒に乗ってく?」って声をかけるけれど、弟は反応なく去って行ってしまう。ところが由佳がアパートに帰ると隆志は既に家にいてテレビを見ている。ちなみにそれは台風のニュースか何かなんですが、これがちょっと良いですね。政治や殺人事件のニュース、あるいはバラエティーやドラマ等と違って、台風ってのは自然現象だからニュートラル。それに加えて非日常性もある。黒沢映画って日常的でありながら非日常の空気があって、その感覚が面白いのだけれど、台風接近のニュースという選択は合ってます。由佳が夕食か何か台所で作っていると電話が鳴る。「手離せないから出て!」って隆志に言うのだけれど電話は鳴ったまま。やむなく彼女が電話に向かうと、隆志の姿はない。で電話に出ると警察からで隆志が自殺したという知らせ・・・。葬式とかも済ませたらしいんですが、やがて彼女の前には隆志の分身、ドッペルゲンガーらしきが現れるようになり、由佳はその弟の分身と一緒に暮らし始める。今まではグータラで姉に頼り切っていた隆志なのだけれど、分身の隆志は姉の世話をうるさがり、熱心に執筆に勤しんでいる。一方発明家早坂道夫(役所広司)は医療機器メーカー務め。かつて10年前に画期的血圧計を開発して会社には利益をもたらしたが、現在研究中のロボット椅子(?)だか介護椅子(?)のようなものの開発は行き詰まっていて、本人も苛立ちを覚えると同時に会社からも急かされている。そんな煮詰まった精神状況にあったある日、家に帰った早坂に自分と瓜二つの分身が姿を現す。研究所で早坂には男女2人の若いアシスタントがついていたが、その女性アシスタントが由佳の友達だったことから、早坂と由佳は同じようにドッペルゲンガーに悩むということで近付くことになる。多重人格と言うと「ジキルとハイド」(サイレント時代の『狂へる悪魔』等)や『イブの三つの顔』が有名だ。最近ではちょっとひねった『迷宮の女』が面白かった。二重人格・多重人格は同じ1つの身体の人物が複数の人格を交代で持つだけだから、異常心理の世界と言ってもオカルト性、ホラー映画性は低い。しかしここでは二重身(ドッペルゲンガー)だ。同じ人物の2つの人格が2つの身体を具えて登場する。こうなると幽霊と同じで、もう非現実(的)の世界。でも描くことは同じかも知れない。『イブの三つの顔』では、静か過ぎる内気なイブ・ホワイトの人格と、相反する蓮っ葉なイブ・ブラックの人格が合わさって、バランスの取れた本来あるべきイブの人格に統合される。この映画では由佳の弟隆志は自分の中の別の人格を体現したドッペルゲンガーと出会ったことで、それを受け入れることが出来ずに自殺する。早坂の分身は早坂に欠けるものを本来の早坂に指摘する。本来の早坂は最初はまず分身の存在を否定しようとするが、少しずつどこかで分身の存在に影響されるようになり、最後にはある形で2つは統合されることになる。それは自分自身の中にありながら自分でも認めたくない面であったり、自分には欠ける何かであったりする。映画はそれを克服して本来あるべき自分になって、それで解放される過程を描いた物語だ。だから黒沢作品には珍しく最後は一種のハッピーエンドであり、とても清々しい。彼の開発している介護ロボット車椅子(?)のようなものは、手足が不自由でも座っている者の意志にしたがって移動し、人造の腕が意志通りに動いてカップを持ってコーヒーを呑んだり、タバコを吸ったりできるもの。この椅子自体が肢体不自由者の肉体的分身のようでもあって、ドッペルゲンガーという分身の物語とリンクしているのが巧い。もともと一人の人物の本体と分身なのだからいつまでも2体が併存し続けるわけにはいかないわけで、統合された人格(&肉体)を得るにはオリジナルとドッペルゲンガーのうち片方が消滅しなければならない。だから早坂が開発した介護椅子は、最後は象徴として、ああなるべきしてああなるのだろう。多重人格は1つの身体の中での複数の人格の葛藤だから、同時に両者が現れることはない。しかしドッペルゲンガーでは同時に2者が存在して対話もする。そういう意味では自分を反省してあるべき自分を模索する物語であるとも言える。早坂が車の中で元同僚村上(柄本明)にそういうことを語るシーンもあった。そんな村上がああいうことになったのは、村上がたぶん分かっていながらもそれを受け入れることが出来なかったということなのかも知れない。頭の中で「自分はこうだけれど、本当はこうあるべきだ」等と悩むのと同じ過程を、一方を分身として実在させることによって映画は描いてということだ。そして早坂は(ああいう形ではあるけれど)それに成功するのであり、だから清々しいのだ。ロボット介護椅子を完成させた早坂が売り込み先で語ること、つまり肢体不自由者のためと美しいことを言うけれど、介護椅子で結局会社はそれをネタに大儲けしようとしているだけであり、ノーベル賞等を受賞して名誉を得ることであり・・、といったことだ。このまあちょっと陳腐なセリフを聞きながら思い浮かべてしまったのはアメリカ的ビジネスの世界だ。そしてそれを美化するために作られた大企業のプロパガンダ映画『ふるさと物語』でもある。最後に一言付け加えるなら、この映画のタイトル『ドッペルゲンガー』は色々な意味で正解だと全く認めるのだけれど、個人的希望としては「二重身」にして欲しかった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.23
コメント(6)

映画鑑賞記録日記今日(火曜夕方~水曜未明)は、まずちょっと時間があったので夕方にDISCASで借りていた黒沢清の『ドッペルゲンガー』を見ました。いずれ独立したレビューを書く予定ですが(すぐ書くつもりだったのが、下記のような理由で映画見てしまいました)、ホラーであるよりはコミカルでした。テレビを見ないのでこんな女優さんがいることを忘れていましたが、永作博美が出ていて、なかなか良い感じでした。夜は友人3名がメグ・ライアンとトム・ハンクスの『めぐり逢えたら』を見ていたのですが、音だけ近くで聞こえてきて、途中から一緒に見てしまいました。テンポはのろいし、ベタなお話だけれど、それなりに良かったですね。ただ今回見ていて感じたのは、メグ・ライアンっていう人は可愛い顔をしているんですが、どこかお底が浅いって感じで、そこが究極的魅力に欠けるのかも知れないと思いました。ベルイマン映画の撮影監督をしていたスヴェン・ニクヴィストのカメラを見るという興味でも見ていられる作品です(下写真は向かって左ベルイマン、右ニクヴィスト)。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.22
コメント(0)

LA RIFFAFrancesco Laudadio90min(DISCASにてレンタル)時間がない日々だし、パソコンも仮環境で鈍いし、DISCASの予約リストには7ページ249本もの作品を入れてしまっていて、その管理もかなりいい加減になっている。なのでかなり意図的に上位に移動した作品以外は、何が送られてくるかあまり気にしていない。DISCASの予約リストがフォルダ分け出来たら良いのになんて思ったり。基本はフランス映画をなるべく見たいのだけれど、いつの間にやらイタリア映画が送られてくることが多くなりました。そんな経緯で送られてきた作品。1990年にテレビ映画等2本( Vita coi figli と Briganti )に端役で出演していたのを除けば、たぶんモニカ・ベルッチ初の主演長編劇場作品だと思います。今とあまり変わっていませんね。昨日の日記のカトリーヌ・スパークが十代でアイドルだったのに対して、ベルッチはこの映画のとき既に25~26歳で、大人になってからの女優さんなんですね。この映画を見たのは昨年暮だったのですが、あまり大した作品ではなく、レビューも書かないでいたのですが、ある意味昨日の『女性上位時代』とつながると言うか似ているので、感想を書いてみることにしました。昨日の『女性上位時代』と何が似ているかというと、どちらもイタリア映画で、どちらもカトリーヌ・スパークなりモニカ・ベルッチを見る(見せる)ためのような映画で、そして何よりもどちらの映画でも夫が突然死んで冒頭からカトリーヌもモニカは後家さんになってしまうというプロットです。違いは2人が未亡人になってからですね。カトリーヌはもともとの自分の家の財産や夫の財産がたくさんあって、これからも贅沢な暮らしがしていけたのに対して、モニカの方は夫が借金残して死んでしまって、それまでのお金持ちの生活からいきなり路頭に迷う(ちょっと大袈裟?)ことになってしまうこと。おまけに幼い子供も一人抱えている。同様な映画は他にもあるだろうから、この2本だけを比べて論じること出来ないかも知れないけれど、1968年から1991年という二十数年の間に世の中が変わったなという印象。より現実的で、辛辣な条件が主人公の未亡人に課されている。アイドル映画なんていうのはネオリアリスモなんていうのとは対極のような世界だけれど、観客である大多数の人々にとってより自分にも近い境遇が描かれるようになった。一生遊んで暮らすこともできるようなお金持ちの世界は観客にとっては無縁の世界で、そういう物語では観客は満足しなくなったという側面があるような気がします。どちらの映画もほとんど夫は登場しないまま映画が始まるのすが、これは一つにはベルッチやスパークを見せるアイドル映画としては当然かも知れないけれど、男性ではなく女性を主人公にするということ、女性の立場から男性主導社会を見るという視点が、昨日イタリア映画について書いた既成ジェンダー観への諷刺を作品に盛り込むためのような気がしてなりません。物語はそういうわけで、実業家の夫が死んでみたら、遺産で子供と二人暮らせるどころか、家賃は1年分以上未払いだし、子供の保育園のお金も払っていない。彼女は家具・洋服・宝飾品等売れるものはすべて処分し、広いマンションはがらんどうになる。彼女は紹介してもらって、かつては自分も顧客だった高級服飾店の一介の売り子になるけれど、そんなことで多額の借金の返済も出来るはずはない。子供の保育園を維持しようというのは当然として、家賃も高いであろう広い高級マンションを出ないのが面白いですね。それは単に「思い出が・・」とかいうことではないのでしょう。衣食住の住(家)というのはヨーロッパの人にとって生活の基盤、単に住という機能としての基盤ということ以上に、ライフスタイルや、ひいてはその人のアイデンティティーとも関わるような、物理的&心理的基盤という性格があるのではないでしょうか。イタリア人監督ベルトルッチの『シャンドライの恋』でもピアニスト・作曲家でもあるキンスキー氏はシャンドライの願いを叶えるために、家具・調度から始めてピアノまで売ってしまって広い住居はカラになってしまうけれど、家自体は売らない。ローマのスペイン広場の裏にある4階とか5階建ての家一軒だから、これを売ってしまえばピアノまで買い叩かれて売らなくとも、別に立派な家を買うことぐらいできるはずだけれど、それはしないんですね。この映画でモニカ・ベルッチ演ずる後家さんフランチェスカは、若いし美人で妖艶だし、男にはもてる。それで、映画の原題は『La Riffa』で、懸賞 とか くじ とかいうい意味なんですが、彼女はある案を思い浮かんで実行に移す。金持ち20名に1口1億リラでくじを売る。賞品は彼女を4年間独占できるというもの。ところが警察だか検察だか当局にばれてしまう。しかし彼女は頭が良いと言うか、したたかで、実は当局に密告をしたのも彼女ではないのかなんて考えたくなるような見事な結末で映画は終わります。ネタバレはしないでおきますが。まあ金で女を手に入れようというのは男の身勝手と言えば言えなくもないのですが、それを女が手玉にとるというストーリーは、やはり昨日も書いた意味での男女観に関する諷刺が入っているのでしょう。最後になりましたが、この映画はそこそこ楽しめますが、どなたにも特にはオススメはしません。ベルッチの男性ファンにもあまり勧められませんね。アイドル映画として昨日のが満点だったとすれば、こちらはそういう見方で採点しても及第点は無理かも。中途半端な作品です。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.21
コメント(2)

LA MATRIARCAPasquale Festa Campanile94min(所有DVD)昨夜見たのは40年前のちょっとエッチなイタリア産お色気コメディー。この映画は相当前にテレビで見て、その時に録画した吹替え&ややカット版のβテープは探せばどこかにあるのですが、2000年にリバイバル上映されたらしく、DVD化もされていたのを知って、1年くらい前に運良くかなり安価に中古盤を入手していました。なんと言ってもこの映画はカトリーヌ・スパークを見るためのもの。本当に可愛ゆらしく魅力的です。1945年生まれのスパークはたぶん1960年にジャック・ベッケルの『穴』のちょい役で映画デビュー。他に日本では共に1962年のイタリア映画『太陽の下の18歳』『狂ったバカンス』がDVD化されていて、またロジェ・ヴァディムの『輪舞』は1964年。この『女性上位時代』は1968年で彼女が23才ぐらいで、小悪魔的(?)可愛ゆらしさの中に大人の女の色気もあって、いちばん魅力的なのではないでしょうか。衣装やインテリア等もイタリアン・デザインがオシャレで、セックスシーンも実質的にはほとんどなく、この手の作品としては満点を付けてもよい作品だと思います。共演はジャン=ルイ・トランティニャン。イタリア映画で、監督も他の共演者もイタリア人、言語もイタリア語ですが、主演の2人はフランスの役者さんたちですね。そのことにちょっと意味も感じるのですが、それは書ければ最後の方に書きたいと思います。(次の段落は禁止ワードがあるということでエラーになるので「*」マーク入れてあります。)主人公のミミ(カトリーヌ・スパーク)はお金持ち、イタリアのお金持ちっていうのは桁が違いますよね、そんなお金持ちの娘に生まれて、若くしてやはりお金持ちの男性と結婚した。映画の中で、行きずりの男と関係した彼女が娼婦と勘違いされて、望まないのに男からお金をもらうのだけれど、そのお札を額に入れて飾って「私の稼いだ最初で最後のお金」なんて言ってます。まあ専業主婦とも呼べるのかも知れませんが、家事は女中とかがやるわけで、実に良くわからない身分でもあるかも知れません。子供を生み育てれば母親という役が出来るのだから、また違ってくるでしょうが。そんなミミの夫が突然死に、とにかく彼女は20才で未亡人となってしまう。その葬式のシーンで映画は始まります。夫との夫婦仲は良かったのだろうけれど、だからと言って深く悲しむでもない。弁護士から財産リストの説明を受けると、そこには夫の友人でもあったその弁護士マルディーニも良く知らないマンションが一軒あった。ミミが行ってみると床・壁・天井がすべて鏡張りになった、夫がセックスを楽しむ部屋だった。自分のサ*ド・マ*ゾだったりする性*行為の様子を撮ったフィルムが大きなスクリーンに映せるようになってはいるし、そのフィルムには彼女の女友達クラウディアも写っている。色々な女性を経験、想像力、積極性・・・等の項目で採点したリストまである。しかしそのリストには自分の名前ミミはない。(今のボクの視点で見れば)異常性欲とか変態的性欲というほどのものではないかも知れないが、夫が他の女から妻である自分は除外して、ここで奔放なセックスを楽しんでいたことをミミは知る。夫が貞淑な妻だけを自分に求め、楽しみの性は別の女性とこの部屋でしていたことに、驚くとともに、除け者にされた気持ちを持ってしまう。性をも含めて一人の女であるならば、ミミは夫から一人前の女として扱われていなかったということだ。そして親友のクラウディアまでもそういう楽しみを持った女だった。ミミは『異常性欲』なる分厚い研究書を買って勉強を始めると同時に、まずは弁護士マルディーニを皮切りに、彼を誘惑してこの部屋でセックスをし、それからかかりつけの歯科医、テニス教師、街での行きずりの男、クラウディアの夫、パーティーで知り合った名前も知らない男・・・と、次から次へと実地体験を重ねていく。夫の死後普通でなくなったと感じていた母親やその友人に一度医者に看てもらうことを勧められる。病院でくまなく精密検査をミミは受けるが、そこで放射線医師デ・マルキ(ジャン=ルイ・トランティニャン)に強く惹かれる。彼女は彼を前にクシャミをするが、性欲がクシャミの形であらわれる人がいると研究書にもあった。そして不用意に診察室で足をねんざした彼女は、移動のためにデ・マルキ医師におんぶされるが、おぶられて移動することに強い性的快感を感じた。研究書にもそういう性欲が古代からあることが書かれていた。それが映画の原題の『LA MATRIARCA』であるのだが、この語の意味はもともと「女家長制」のような意味だと思う。男性中心・主導の社会の反対概念としての意味だから、そういう意味での「女性上位」だ。物理的(体位的?)にも女が男の上にいる。なかなかの邦訳タイトルだと思う。「時代」が付されていることの意味も後で書くことにする。物語はこの後、ミミが医学生に扮してデ・マルキ教授の講議に出たりして、彼女ペースで女性関係に不馴れな彼を上手く攻略し・・・と続き、最後には奥手と思われた彼との間で一種の勢力逆転があったりして、ハッピーエンドに終わるのだけれど、まあもともとたあいもないストーリーなので、その辺はネタバレしないでおいて、でもっと別のことを書きたいと思う。この映画が製作されたのは1968年。ちょうど40年前だ。ボクの印象では、イタリア映画の一つの流れとして、ポルノとまではいかない、お色気映画や性を題材とした映画の系譜があるような気がしてならない。例えば『青い体験』とか、まだ見ていないが『マレーナ』等にもそういう要素があるのではないだろうか。ここでのミミの夫やクラウディア等、有産・有閑階級の自由な性、不倫とか自由恋愛とか、そういうものはもう古くから存在する。一方ではルネッサンスの人間復興、あるいは南国的情熱があるが、一方ではバチカンのお膝元で宗教意識やそれによる抑圧は強いし、特に南部では男性中心の因習的ジェンダー観のある文化。そういう中で、国全体としては、(今日までも)性解放に抵抗が強い社会なのだと思う。フェミニズムにしても、男性に虐げられた女性が自由を得ようとするのを、因習的な女性たちが足を引っ張って邪魔をするというようなイタリア映画も見たことがある。(ここでは女の敵は男ではなく女なのだ。)だから性解放や因習的男女観の打破が根底にあるような気がしてならない。この映画の基本スタイルにもそういうものがあるのではないだろうか。男が四つん這いになって女を馬乗りにさせることなど、因習的男性には絶対に許せないだろう。正にタイトルは「女家長制」でもあり、お気軽なお色気コメディーに見えて、実は諷刺的メッセージが根底にあるような気がする。時代は正に「女性上位時代なのだ」と言いたげだ。そしてそれを演ずるのが、自国イタリア人であるよりも外国フランス人である方が、因習的人にとってもまだ受け入れやすいという側面があったのではないだろうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.20
コメント(0)

ALICE ET MARTINAndre Techine124min(DISCASにてレンタル)アンドレ・テシネの作品は日本ではなかなか見られない。昨今はギャスパー・ウリエルの魅力なのか『かげろう』が若い女子を中心に人気があったりしますが、自分はまだ見ていません。20年以上前に見たカトリーヌ・ドヌーヴとパトリック・ドベールの出た『海辺のホテルにて』だけしか見てないかも知れません。やはり同じ監督の作品なんですね。良くは憶えていないものの、似た雰囲気を思い出しました。この映画では主演のジュリエット・ビノシュが素敵ですが、それとは別にこういう映画をもっと多くの方に味わってもらいたいな~と思い、テーマに「おすすめ映画」を選びました。もともと感性的に捉えた人間を描いているのでしょうが、映画作りとしては意図的な部分が豊富で、それを分析して見るのも一つの楽しみです。見ていて主人公男性マルタンの父親ヴィクトールの墓にわざとらしく(?)天使の像があったのと、逆受胎告知を思わせるシーンがあって、この物語は各人物の天使性、つまり明るく、保護し、幸せをもたらす面と、その逆の面の対比がかなりはっきりしていることに気付きました。また父殺しはオイディプスの変形でもあり、ならばイオカステ、つまり母親は誰かというと、3人プラス海の4つをマルタンは持つ。フランス語では別の語ですが母と海は同じ発音のラ・メールです。10才のマルタンが実の父親に引き取られた直後のシーンで、昼間だけれど雨戸を閉めて暗くなった部屋に父ヴィクトールは登場する。明るい天使ではなく闇をもたらす者としてのヴィクトールが描かれている。あるいはヴィクトールの標本にされた蝶やはく製の動物は、死んではいるけれど姿は生きているままで、マルタンが生きながら真に生きていないことを象徴しているかのようであり、地球儀や世界地図はマルタンが外の世界に出ていくことの象徴でもある、等々。こういう細部の小物と人物の状況や心理を分析的に関連付けて見るのは面白いし、監督の意図が何処にあるかが読み取れるわけです。(以下ややネタバレ含む)フランス南西部の都市カオールで美容院を営む実の母ジャニーヌのもとで暮らす少年のマルタン。このジャニーヌがマルタンの一人目の母。父親は離れた所に住む地方の企業家ヴィクトール。彼女はヴィクトールとの日々は幸せだったと語るけれど、身重で(あるいは幼いマルタンを連れて)ヴィクトールのもとを逃げ、一人でマルタンを育てた。ヴィクトールは経済的援助はしていたのかも知れないが(←これはボクの想像)、マルタンを認知せず、マルタンは私生児として育った。ヴィクトールにはリュシーという妻がいて、フランソワ、フレデリック、バンジャマンの3人の息子(マルタンの異母兄弟)がいるのだけれど、その辺の関係がはっきりしない。ジャニーヌが先妻でリュシーが後妻のような解説もあるけれど、マルタンはバンジャマンら異母兄弟より年少だからそれはおかしい。リュシーという妻があっての愛人ジャニーヌが正しいのではないだろうか。実母ジャニーヌはマルタンに父親ヴィクトールの下で暮らすように強いる。ヴィクトールにとってはたぶん4人目の息子をも支配しようという感情なのではないだろうか。マルタンは10才にして楽園を喪失する。すべてを支配しようとする実父ヴィクトール。マルタンは父に気に入られようと努力もするが空回りするだけだ。二人目の母である養母リュシーはそれなりにマルタンに優しい。それは子供の頃のマルタンが病気になったときの母親らしさや、そんなことには無関心なヴィクトールをよそに20才の誕生日にはシャンパンを用意して祝ってくれるという形で描かれている。バンジャマンはそんな父親のもとを去って役者志望でパリに出ていたが、マルタンの誕生日で帰省した。しかしヴィクトールは自分の支配下から抜けたバンジャマンは嬉しい存在ではない。深夜バンジャマンとマルタンが飲んでいると兄フランソワから「工場で待っていると父に伝えてくれ」と電話がある。二人が工場に行くとフランソワは首をくくっていた。自由に自分の人生を生きるべきだというバンジャマンの勧めもあって、マルタンはパリに出ることを決心して荷物をまとめるが、それに気付いたリュシーはヴィクトールに告げ口をする。母親であるよりもまるで小学生の子供だ。ヴィクトールの全き支配下にあるとも言えるし、後半に出てくる孫(フレデリックの息子)が母親に服従していない姿との対比も印象的。ヴィクトールと口論になったマルタンは父を階段から突き落とし、結果父を殺してしまう。動転して家を飛び出したマルタンは、金もなく田舎をさまよい逃げるが、農家の鶏舎に忍び込んで卵を盗んだり、ただ空腹を満たすことしかない動物のようだ。死んでハエのたかる鹿の死体を啄む猛禽の映像はその象徴だ。そして動物が罠にかかるがごとく捕まってしまう。醜聞を良しとしないリュシーが農家に弁済し釈放されるが、父の死も事故ということになっていた。そんなマルタンがパリのバンジャマンの安アパートを突然訪ねるとバンジャマンと同居するアリス(ジュリエット・ビノシュ)がいた。ゲイのバンジャマンと肉体関係はなかったが、二人は深い絆で結ばれていた。このアリスをマルタンは愛するようになるが、それは父ヴィクトールの支配によって標本の世界に閉じ込められていたマルタンが外の世界に出て初めて接した女性だからだ。最初アリスはそんなマルタンの愛を受け入れない。マルタンはあまりに成長を欠いた子供だからだ。アリスはマルタンより10才年長。しかし結局彼女は自らをマルタンの愛にゆだねる。アリスはマルタンにとって3人目の母としての性格も兼ね、愛人(妻)でもあり母でもある存在だからオイディプスにとってのイオカステだ。(ちなみにマルタンはスカウトされて広告写真のモデルとして売れっ子になっていた。)しかしやがてアリスは妊娠をし、そのことをマルタンに告げる。アリスは受胎告知の天使ガブリエル。でも真に精神的に独立して父親になることを受け入れるためには、マルタンには障壁があった。それは過去の精算だ。それゆえアリスによる我が子の受胎告知は彼の精神を破壊してしまう。スペインのひと気のない海岸の家を借りて2人で住んでいたが、マルタンはアリスを既に母としても恋人としても受け付けなかった。ただ海で泳ぐことで母(la mere)たる海(la mer)に自らをゆだねることができるのみなのだ。映画の原題は「アリスとマルタン」。日本語題名『溺れゆく女』は「つまらぬ愛に溺れて破滅していく女」か何かを想像させるが、ジュリエット・ビノシュの演じたアリスという女性はそんな女ではない。ひとたびマルタンの愛を受け入れ、愛したら、何があろうとマルタンを支え、建設的な未来に向かおうという、前向きで決して後を見ない魅力的な女性だ。父性が社会の象徴であるなら、子供であるマルタンが消化して父(社会)との関係を築き、自分が父になるという物語であり、それを支えるのは母であり妻であるアリスの愛なのだ。必ずしも喜びに満ちたものではないが、心に残るハッピーエンドなのだろう。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.19
コメント(4)

LA FEMME PUBLIQUEAndrzej Zukawsuki110min(所有DVD)難物監督と言えばよいでしょうか、アンジェイ・ズラウスキー。その1984年フランスでの作品。この人はチェコ系のポーランド人らしいですね。作品リストを見ると、『夜の第三部分』『悪魔』『ポゼッション』『私生活のない女』『狂気の愛』『美しさと哀しみと』『シルバー・グローブ/銀の惑星』『私の夜はあなたの昼より美しい』『愛人日記』『ワルシャワの柔肌』『フィデリテ』等で、狂気・暴力・性・死・哲学・政治・宗教などが絡み合った作品が多く、見る人の評価や好き嫌いが別れる作品ばかり。でも物凄く濃いインパクトがあって、この人の作品だという個性があります。現代の人間の生を実存的に考察している感じで、ボクは好きな方です。日本ではイザベル・アジャーニ出演の『ポゼッション』、ソフィー・マルソーの『狂気の愛』や『私の夜はあなたの昼より美しい』に人気がありますが、ボクは(全部を見ているわけではありませんが)『ワルシャワの柔肌』が面白かった。この『私生活のない女』も見たいと思いつつレンタルなども見つからず、今回比較的安くDVDが買えたので購入しました。ヴァレリー・カプリスキーのヌードを期待して見る方々もいらっしゃるようですが、ボカシは煩く不快で、カットは困りますが、カプリスキーのヌードもヘア無修正版なんていうのもどうでも良いです。ちなみにヴァレリー・カプリスキーはパリ郊外ヌイーの生まれで、カプリスキーというのはお母さんの旧姓。このお母さんはポーランド系かロシア系なんでしょうかね。カメラは名撮影監督サッシャ・ヴィエルニーが回していて美しいのですが、露出的な短いスカートの服を着たヴァレリー・カプリスキーが足早に闊歩(ないし小走り)するのをローアングルで追ったトラヴェリングショットで始まります。場所はパリらしいんですが、これポーランドでなくパリなの(?)と疑ってしまうような暗い寂びれた感じ。この背景と女の様子と緊迫した空気、これだけで既にズラウスキーの世界。この人は女を闊歩させるのが好きですね。『ワルシャワの柔肌』も最初と最後がそうでした。カプリスキー演じる20才のエテルはやや複雑な家庭環境にあるんですが、嫌でも何でも生まれた以上人は生きなければならない。懸命に目的を持って前向きに生きるなどというまだ楽観的な生ではなく、どんな面倒な条件に置かれ、面倒な事々が降りかかってくる日々であっても、生きるしかない(自殺をする以外は)。それは受動ではなく、強制された能動。生きるというのはそういうことなのでしょう。この緊迫した女の闊歩はそんなことを表現しているように感じさせます。彼女はとあるさびれたバー(カフェ)の店員を捕まえて、中にいる男に渡してくれと金をあずける。エテルは男に会うのを避けて逃げている。後でわかるのはこれは母親と別れて出て行った父親で、今は浮浪者の生活をしているらしい。でもこの父と娘は妙に親密な関係でもあって、父親がアメ玉のようなものを前歯にくわえたのを娘が前歯で受け取る、互いに了解しているお決まりの行動をする。エテルは家で母親と二人暮らし。この母親が凄く暗くて、夫が出ていったことが彼女の精神を荒廃させてしまったようだ。娘との関係がこれまた妙で、変な共犯意識のようなものが有るような無いような。娘の気に入りそうな服を作ったりして、娘にに迎合して気に入られようとしているような感じで、精神的には娘にすがろうとしている。あるいは経済的に生活の糧を稼いでいるのが娘で、頭が上がらないのだろうか。出来てしまったそんな家族関係の条件・環境がイヤになっていながらもそれを続けるしかない。生活のために素人カメラマン相手のヌードモデルをして稼いでいるが、エテルは女優志願。オーディションで鬼才の映画監督ケスリングの目にとまり、ドストエフスキーの『悪霊』を翻案した映画のリサ役に抜てきされる。しかしなかなか監督の要求する演技が出来ない。ケスリングは「各シーンを巧く演じようとするのでなく、役のリサになれ!」と言う。この映画の原題は『La femme publique』。la は英語の the で定冠詞。femme は 女 。publique はフランス語読みでは ピュブリック だが、意味は日本語で言う パブリック 。「誰か特定の人の」ではなく「みんなの」ということだ。変な訳をすれば「公衆の女」。彼女はヌードモデルをしている。普通女は自分のヌードを公衆には晒さない。しかし彼女は金で誰にでもヌードを晒すわけで、ヌードは既に「公衆」のものだった。ケスリングは「役になれ」と言う。個人エテルが役リサの各シーンを演じて見せるだけでは、彼女は彼女自身を公衆に晒してはいない。ケスリングの要求は彼女がエテルであることを捨ててリサになれと言うのではない。エテルでありながらにしてリサになれということだ。そうなったとき彼女はリサの役として彼女自身を公衆に晒すのだ。(ネタバレはなるべくしないために経緯は書かないが)エテルはケスリングにかくまわれ、雇われてもいるらしいチェコ人の亡命者ミランと知り合う。ミランは恋人だった女優エレナが忘れられない。才能がないとケスリングに非難されたエテルは、やがてエレナの身代わりとしてミランの恋人役を引き受け、ミランの部屋で暮らし始める。思い込みか空想か、妄想か狂気か、ミランはエレナとして彼女を愛した。髪まで染めてエテルはエレナになっていく。しかしこれはエテルとしてエレナになることであり、正にケスリングが要求したのと同じことだ。そういうシーンが実際にあるわけではないけれど、エテルがエレナとしてミランに抱かれて喘ぎ声をあげたとしたら、それはエテルがエレナの喘ぎを演じているのではなく、喘ぎ自体はエレナその人の実際のものだ。役になるというのはこういうことなのだ。つまり演技を公衆に見せるのではなく、役を通してその人自身を公衆(映画カメラあるいはスクリーン)に晒すことであり、「La femme publique 公衆の女 」になることだ。映画の面白いのはこの点であり、ボクが諏訪敦彦監督の作品のレビューなどで書いていることと同じだ。こうして撮影現場に戻ったエテルはリサをケスリングの要求するように演じることが出来た。新しい本物の女優の誕生だ。映画には2つの殺人事件も絡んで描かれる。一つはエレナらしき女性の殺人であり、もう一つはパリを訪問していた次期枢機卿とも噂されるリトアニアの大司教の暗殺事件。ケスリングやミランへのエテルの疑惑が描かれる。カトリック教会というのはポーランド等では一つの政治勢力としての意味をも持っている。ローマ教皇となったポーランド出身のヨハネ・パウロ2世の存在は連体等ポーランドの反体制(対ソ)民主化運動に大きな意味を持ったが、それを象徴するかのようであり、ならば体制としては暗殺して亡き者にもしたいわけだ。ミランはどこか(だれか)に操られる存在でもあるのか(?)。映画にはそんな政治的気分も絡んでいる。映画中映画の撮影で、ケスリング演じるスタヴローキンのセリフに「大きな蜘蛛」というのがあるが、これはイングマール・ベルイマンの『鏡の中にある如く』の蜘蛛でもある。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.18
コメント(9)

LOFT ロフト黒沢清115min(桜坂劇場/DISCAS)去年ではなく一昨年になるんですね、11月頃に映画館で見たのですが、ちょどこのブログを本格的に始める前だったのでレビューも書いていません。『叫』を見たキッカケに再度見たくなり、DISCASでレンタルしたので感想を書きたいと思います。ホラー映画はたいていそうだとも言えるし、また黒沢作品のすべてではないけれど、黒沢作品の魅力の一つはリアリティーのある映像です。たしかに冒頭からどこか現実離れした雰囲気、そうある種の静謐さのような感じ、あるいは何処かに有りそうで無いようなシンプルなインテリアとか、そういう感じはあるけれど、でもごく当たり前にありそうな世界の描写から始まる。小説家の春名礼子(中谷美紀)は次作のインスピレーションが湧かずにスランプにある。化粧をする(落とす?)鏡に映った彼女のアップは美しくもあり、また無表情。でもよくあるように単に物思いに耽っている女性の表情ではない。そして吐気を催して彼女は吐く。でもそれは血ではなく漆黒の泥のようなもの(余談ながらこれは白黒映画では描写のしようがないでしょうね)。彼女は編集者(西島秀俊)のオフィスを訪れる。編集者は彼女にプロとして早く作品を仕上げることを要求する。感じが悪くて、ちょとイケスカナイ感じの男なのだけれど、でも非常に現実的な世界の人物。でもこの2人の対比も含めて、もう既に黒沢映画の世界。創作のために環境を変えたいという彼女の希望に、編集者は緑の自然の中の古い洋館を世話する。 遠からぬ隣には大学の研修施設だという廃屋に近いロフトがある。こうなるともう全き黒沢ワールド。この映画では森の木々や風の音、無気味な沼、幽霊、と古典的な怪談話ないし映画の世界ではあるけれど、あるいは洋館は江戸川乱歩の世界にも通じるけれど、『回路』や『叫』もそうであったように、廃屋は過ぎ去った近代文明を見るかのようであり、それと自然の対比がある。『叫』や『回路』は終末論的世界でもあった。そして 文明以前の自然 と 文明の終焉 の中間にある登場人物や我々にとって、自然は文明の人間疎外からの逃避としては安らぎであると同時に、文明の日常にどっぷり浸かった人々には精神を裸に剥かれる恐怖でもある。否応なく人々は実存的に自らを反省することに誘われてしまう。分析的に言えば『回路』が火と風の世界であったとすれば、ここでは水と地の世界だ。この映画の冒頭には「その女は永遠の美を求めて沼に沈み、ミイラとなった。千年ののち、彼女はめざめ、そして私に呪いをかけた。恐るべき、永遠の愛という名の呪いを。」とテロップが出る。ある夜礼子は隣のロフトに男(豊川悦司)がシートに包まった死体のようなものを運び込むのを見てしまう。調べると男はミイラを研究する大学教授の吉岡で、彼の大学のチームは近くの 緑沼 から千年前のミイラを発掘したらしい。黒沢作品をそれほど見ているわけではないけれど、ごく初期の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の主人公が洞口依子だったのを除けば、黒沢映画の主人公はおおむね男性だ。この映画の主人公は女性作家で、脇で登場するミイラも幽霊も女性。他の映画に比べて女性の側からの心理を描こうとしているし、また春名と吉岡のロマンスの物語でもある。謎のロフトの曇ったガラス窓に外から手を当てる礼子。それに気付いて内側からその手に手を合わせる吉岡。礼子はそのことに理性的・物質的には気付かないが、感覚的に何かを感じて手を引っ込める。微妙さが美しい出合いのシーンではないだろうか。このシーンは短いが、精神・肉体両面の愛の交渉を表し得ている。そして女が手を差し伸べていて、そこに男が手を合わせるという方向性も象徴的だ。女は未知の男に手を差し伸べるのであり、男は求めてそれにすがろうとする。そして接触した瞬間に引かれる手は、女の躊躇やおののきを示している。(以下少しネタバレ)冒頭のテロップにあったように千年前の女は若いままの美貌を永遠にしようと保存性のある沼の泥を飲み、沼に沈んだ。それと呼応するのは冒頭(他)で描かれた鏡に映る礼子だ。そして幽霊(安達裕美)は春名礼子が今住むこの洋館の前の住人の作家志望の女子大生。礼子と同じ編集者に認められなかった。そして3年前から行方がわからない。この彼女に呼応するのもスランプで書けずに編集者に急かされる礼子でもある。そういう意味ではミイラや幽霊は礼子の内面の一部の別表現でもある。吉岡の夢か妄想か、あるいは現実か、吉岡と幽霊(やミイラ)との関係が描かれるが、この映画を吉岡と礼子のロマンスという点で捉えるなら、これもその複雑な内面関係の別表現でもあり、吉岡のミイラや幽霊に対する接し方は礼子に対するものの比喩でもある。この映画ではどこからどこまでが現実で夢や妄想の世界であるかの境界が特に後半では曖昧だが、この幻想の世界、あるいは寓意の世界に対して、編集者だけが全き現実の世界にいる。もともと映画などすべてが作り事というのを置けば、編集者にまつわる部分だけが映画内的世界の現実と考えられるように作られている。作品が作品だけにこれ以上のネタバレは避けるが、印象に残ったセリフを数カ所引用したいと思う。吉岡:後悔する。礼子:してもいいわ。幽霊:男を破滅させるために。 行こう、私と地獄へ。礼子:今の吉岡さんには私がいる。吉岡:ボクは全部捨てる。君以外の全部を捨てる。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.16
コメント(2)

LE CONCILE DE PIERREGuillaume Nicloux101min(DISCASにてレンタル)んんん~、物語の筋を追うことで楽しみ、あるいは2人の大女優の出演を喜び、それはそれで良いけれど、映画としては駄作中の駄作なのではないでしょうかね!?。こういうオカルチックな内容のホラーないしミステリーはもともとボクの範疇でない。新年元旦から順調に映画を見ているのだけれど、1日・2日の2日間で見た5本の作品は米2本、伊1本、日本1本、仏1本。その仏1本は18編のショートからなる『パリ ジュテーム』で、フランスの役者も出ているし舞台はどれもパリだけれど、フランス人が監督したのは4編だけ。外国人の見たパリであったり、出演も外国人だったりで、どうもフランス映画を見たという感じがしない。仕事でも研究でもなく趣味で映画を見ているのだから自分に何かを課す必要なんてないわけだけれど、やはりちょっと本分であるフランス映画が少ない。それに気付いてDISCASの予約リスト内のフランス作品をあまり考えずに上の方へ移動したら、これが送られてきた。自分はこの手の本も読まないからジャン=クリストフ・グランジェの原作がどんなで、そして原作で読んだらどうなのかはわからないが、映画としては支離滅裂。撮影のアイディア自体がイマイチなのに加えて、編集はイマサンと言った感じ。筋を作るためのご都合主義っていうのはやはりいただけない。もともとサスペンスだからストーリーを紹介するのはネタバレの危険があってやりにくいのだけれど、それでも少し書こうと思ってこの文を書き始めたけれど、なんか気力が失せてしまった。モニカ・ベルッチ演じるローラという女性は不妊症ゆえにアジア(モンゴル)系の養子リウ=サンをもらうのだけれど、その子が7才の誕生日を迎える頃から奇怪なことが起こり始め、調べていくうちにローラはリウ=サンともども狙われ、周囲では殺人事件が連発し、それは秘密結社ル・コンシル・ドゥ・ピエール(ストーン・カウンシル)の仕業だった・・・。『ローズマリーの赤ちゃん』ではないけれど、彼女の周囲の親しい人はみんなこの結社のメンバーだったりして。リウ=サンが捨て子(?)として発見された時に身に付けていた変な形のペンダントがあって、ローラはそれがモンゴルにあるある湖の形であることに気付くのだけれど、どうしてそれがローラがパリで手にしている地図と同じ縮尺で、(幾何学的に言えば)図形的に相似でなく合同なのか、つまりサイズまで同じなのか、これに代表されるようにすべてが安っぽい作り。モニカ・ベルッチはいつものような妖艶な女の役ではないのだけれど、それでも意味もなく(とボクは思う)ヌードシーンを出したり。この映画のわずかばかりの収穫は2つでしょうか。1つは『題名のない子守唄』でもちょっとそのこと考えたのだけれど、実の親子でない母と子の愛情。互いに血縁はないことを知っているがゆえにかえって純粋に親子の愛情関係があるような気がする。この面に関してリウ=サンを演じた子役もモニカ・ベルッチもなかなか好演していた。もう1つはローラがルームシェアする友人クラリスが出てきたとき、ちょっと雰囲気ある良い感じの脇役だな、誰だったかな(?)と思ったらエルザ・ジルベルスタインで、『ミナ』でエテル役だった人。ちょい役だったけれど、この人をこの人らしい使われ方で見られたのは良かった。おおむね批評家にも観客にも不評なようだけれど、一部に「フランス産オカルトミステリーの傑作」のようにありがたがっている人もいるようだ。ボクとしてはフランス映画らしくもっと情念(la passion)を深く描いて欲しかった。(オススメしない度100%と言いたいところだけれど、一歩譲ってとりあえず98%かな。)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.15
コメント(0)

L'AGE DES POSSIBLESPascale Ferran106min(所有VHS)若者を描いた作品で『a.b.c.(アー・ベー・セー)の可能性』ですか。ビデオジャケット表には「彼と寝た意味は何!? フランス式恋の悩み、セックスの不安。」とコピーがあって、性的な方向に誤解をしてもらうことを目的にしたちょっとえげつない邦題ですね。原題の意味は「可能性の年頃」ぐらいでしょうか。でも「a.b.c.」が全く創作かというとそうでもない。Agnes、Beatrice、Catherine、Denise、Emmanuelle、Frederic、Gerard、Henri、Ivan、JacquesのイニシャルA~Jまで10人の若い成人の卒業~就職期の日々を描いているからです。上記はフランス語綴りのアクサン等の記号が抜けているけれど、お解りになる方はお解りになられるように、ABCDEの5人が女性、FGHIJが男性。だから同棲(←この言葉はどうもしっくりきませんが)している2人もいれば、一夜だけの関係を持つ2人もいる。でもそれは年令的に言って性愛だけの問題ではなく、結婚するとか、家庭を作る、子供を生むなどという社会的問題とも無関係ではない。そして映画全体としては男女間のことを含めて、でももっと広く学生から社会人にという、既成の社会への適応を余儀無くされた若者たちの疑問や葛藤の日々を実存的に描いています。舞台はフランス北東、ライン河によるドイツとの国境の町ストラスブール。ストラスブール国立劇場付属演劇学校の学生たちが演じています。既にテレビドラマとかに出演経験のある人も2人いるけれど、ほとんどが映画初出演で、その後映画俳優になった人もいればない人もいる。もともと演劇学校の学生だから映画俳優への道は無縁ではないわけだけれど、彼ら・彼女ら自身がある意味映画の中で演じている役のような可能性と選択の時期の若者なんですね。みんな自然体で好演しています。たしかDeniseかな、まさに彼女は演劇学校出てバイト生活している。役者の道は諦めて普通に就職するべきか、あるいは既にテレビドラマの主演女優になった同級生の言うようにパリに出て役者を目指すべきか。もちろん彼女には同級生に対する嫉妬(や憧れ)と自分の才能に対する不安を持っているわけですね。パスカル(監督のパスカル・フェランではなく有名な思想家のブレーズ・パスカル)は書いてます。「人生で最も大切な選択は職業の選択だ。しかしほとんどの場合それを命じるのは偶然だ。」と。この年代はまだ多くの選択の「可能性」を持った幸せな年頃であるよりはむしろ(と同時に)悩み多き年頃でもある。そんな若い成人たちの日々を、批判まではないけれど社会の構造に対する疑問をも少し含めつつ、嫌味やわざとらしさなしに上手く描いていますね。女性監督が描くこういうことをボクはどちらかというと嫌いなんですが(この点を少し詳しく書くと、女性の本性や生理から見た世界は歓迎なんですが、男性社会の中の女性という、ある意味男性的論理の視点で見ているのは嫌いなんですが)、この映画にはそういうイヤな面はありませんでした。何かイヤな予想をして買ってから10年くらい見ないでいたビデオでしたが、小粒ながらなかなか良い映画でした。書き忘れたことを付記しますが、この10人は奨学金やバイト・正社員等で経済的に独立しているようだけれど、住むのも独立して住んでいて、親との関係がまったく出てこない。仮に経済・住居が独立していても、心理的・物質的に相互依存・干渉を続ける場合の多い日本とはかなり違う個人主義の世界で、同じ年代でも日本の若者よりも大人だな(大人であることを要求される社会)と感じました。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.14
コメント(2)

BROKEN BLOSSOMS or THE YELLOW MAN AND THE GIRLDavid Wark Griffith90min(所有DVD)まあ主にアメリカ映画界での話かも知れないけれど、このグリフィス監督は「映画の父」なんても呼ばれるようです。1915年の『國民の創生』は3時間近くあって、アメリカ初の本格的長編作品。翌1916年の『イントレランス』はもっと規模が大きい。映画というものを芸術の一つとして認めさせた人とも言われますね。カットバックや、後にエイゼンシュテインが理論化するモンタージュ手法等も使っていて、この映画も特に後半は無声であることや、稚拙な画面のことなど忘れさせてくれて、いつの間にか物語に引き込まれてしまいます。恐怖を表すリリアン・ギッシュの演技が大写しで映され、見ている者を映画に引き込む力があります。「彼女を助けてあげた~い!」って心理です。カットバックで助けに向かう中国人青年と交互に映されるサスペンス。約90年前の映画ですが、既に今日の映画技法を完成していると言えるのでしょう。『國民の創生』は南北戦争を南部側からの視点で描いているので北部では不評で、また人種差別的KKKを美化して描いているという批判があるようですが、この映画では差別主義者の父親を悪、黄色人種の中国人青年を善として描いています。暴力的な西洋人に仏教の教えを広めようという志を持ったチェン青年はロンドンに向かうけれど、現実は厳しくロンドンの貧困地区で細々と商店を営み、阿片や賭博に明け暮れる日々。そのスラム街に住む少女ルーシー(リリアン・ギッシュ)。母は彼女がまだ幼い頃に死に、今は暴力的で差別主義者のボクサーの父に毎日虐待されている。そんな純情で可憐なルーシーを街で見かけて、チェンはもともとの純な気持ちを思い出し、心安らぐのだった。ある日父親に折檻された少女は家を抜け出し、偶然チェンの店の中に行き倒れる。チェンは2階の住居のベッドに彼女を寝かせ、介抱する。彼はどう自分の気持ちを彼女に表現して良いかもわからない。しかし2人の気持ちは通じ合い、純な恋心が。そしてほんの一時の幸せな時間が。しかしそれもつかの間。事態を知らされた父親はチェンの留守に部屋をめちゃくちゃに壊し、ルーシーを家に連れ帰って激しく折檻する。彼女は小部屋に逃げ込み、事情を知った青年は助けに向かうが、既に時遅し。チェンが着いた時にはルーシーは父親の激しい暴力に息絶えていた。チェンは持参したピストルで父親を撃ち、自らも命を絶つのだった。まあ、本当に暗い暗いお話。リリアン・ギッシュの演技は見事です。父親に「笑え」と言われて、指で口の両端を広げて無理に笑い顔を作る彼女は痛々しい。でもその笑顔は美しいですね。(以下は発展的考察で、映画には直接関係ないかも知れません。)人種差別というのは自分のアイデンティティーを得るための最も簡単で、最も卑怯なやり方ですね。例えばアーリア人でありさえすれば、何のトリエもなく自己嫌悪に落ち入るような人でも、アーリア人であるだけでどんなに優れたユダヤ人よりも自分は偉いと思えるわけです。でも多かれ少なかれ、本質的に同じような心の傾向は誰にでもあるんですね。それを認めた上で、それが発現しないように、そうあらないように努力しなければならないと思います。もう一つは男による娘(や妻)の虐待。こういうのは何故かイギリス映画に多いでしょうか。(ちなみにこの映画は舞台がロンドンなだけでアメリカ映画です。)男っていうのは一方では女を必要として求めるのだけれど、他方女っていうのは男を見透かしている感じがある。と言うか女は男にとって自分を映す鏡のようなものであるのかも知れない。だから欲求不満やコンプレックスを持ったとき、そんな女を屈服させること、鏡を壊す衝動を持つのではないでしょうか。まあとにかく男っていうのはそういうどうしようもない生き物です。それを自らに認めるところから始めないといけませんね。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.13
コメント(4)

THE BANGER SISTERSBob Dolman98min(DISCASにてレンタル)正確な記憶もメモもないのだけれど、ゴールディ・ホーンの映画は5本とか10本とか見ています。題名なんかも忘れてしまっているものがほとんどだけれど。でもどんな駄作(?)映画でもこの人を見ていると、それだけで楽しいですね。生きる気力を与えてくれるような女優さんで、いつも魅力的です。ボクは人を年令で判断するのは嫌いだけれど、敢えて言うなら彼女は1945年の生まれだからこの映画の撮影当時56とか57才。共演のスーザン・サランドンは1946年の生まれで1才年下。実際に本人の素顔に接したらどんな方々かはわからないけれど、メイク等を施したスクリーン上では実に若々しいです。余談ながら、「こんな歳でバケモノだ」なんて言う人(特に男性)もいるけれど、ちょっと勝手なこと・過激なこと(でも本心)を言えば、そんなことを言う奴らはぶっ飛ばしてやりたいですね。物語はロスの場末のライブハウス勤めのスゼット(ゴールディ・ホーン)。かつてはイケイケのグルビーで鳴らした彼女。過去の栄光(?)にすがって生きているとも言える。まあキッパリと潔い生き方ではあるんですが。でも店の店長が代わって、簡単にポイされてしまう。生活の糧を失ったというのもあるけれど、彼女にとってはこれまでのアイデンティティーを無にされたような大きな喪失感。それで現在はフェニックスに住むかつてのグルビーの相棒ラヴィニア(スーザン・サランドン)のもとへ車を走らせる。途中ドライブインで潔癖性の売れない作家ハリー(ジェフリー・ラッシュ)を乗せることになり一緒にフェニックスへ。スゼットがラヴィニアを訪ねると、彼女は政界進出も考える弁護士の夫の良き妻に収まっていて、娘が2人。そんな彼女はかつてのままのスゼットを決して歓迎はしない。今はもう心底実際に若い頃の生活は卒業したというよりも、真の自分を曲げて、自分に無理を強いて貞淑な妻になろうとしている彼女には邪魔な存在なんですね。スゼットは行き場を失ってハリーの泊まるホテルの部屋に押しかける。彼女は彼に問答無用で迫って彼の心を解放していく。スゼットはそのホテルで、たまたま高校の卒業パーティーでハメを外して酔っぱらった(薬でダウンした)ラヴィニアの長女ハンナ(エリカ・クリステンセン)を介抱する。彼女はお固い親の価値観から自由になって自分らしく生きたいと思っているけれど、それがなかなかできなくて内心もがいている。妹のジンジャー(エヴァ・アムッリ)は神経質な超わがまま娘。そんな2人の娘、母親ラヴィニア、作家ハリー、そんな人々をスゼットがより人間的な生き方(と言うか音楽とかいうこととは限らず「ロックな人生」っていうことでしょうか)に導いていくとでも言ったストーリー。まああり勝ちな平凡な物語ではあるのだけれど、そこはゴールディ・ホーンのキャラゆえに見ていて楽しいですね。ラヴィニアの弁護士の夫を含めて悪者が一人も出てこないし、ハッピーエンドだし。スーザン・サランドンも素敵に役をこなしていたし、サランドンの実の娘エヴァ・アムッリのわがまま娘も好演だし。母親役が実の母親だったので、なんか一種悪のり的にわがまま放題を演じるのが楽しかったのではないでしょうか。エリカ・クリステンセンもちょっとひねりのある娘役に味な雰囲気を与えていたし。ただこの映画を見ていて思ったのは、それは不満なのだけれど2つあった。一つはやはり「こういうお話」と最初から決まったことを映画にしているに過ぎないということ。もちろん偶然やハプニングはあるだろうけれど、そうではなく「映画を作ること」によって、作っている監督(等)も「何かを見つけ、何かを考える」っていうのがない。結局のところハリウッド映画をボクががつまらないと感じるのはそこなのだと思います。作者が神であることの否定、サルトルの『フランソワ・モーリアック氏と自由』ということですね。もう一つはスゼットがラヴィニアとディスコで踊るシーンに代表されるようなシーンのあり方。なるほど2人の女優が踊る姿を見せられるのは悪くはないんですが、こういうシーンは10秒でも5分でも結果として物語には関係ない。そういうのを長々と見せるのは内容の希薄な時間稼ぎでしかない。必要性の説得力に欠ける。こういう映画の作り方は好きになれません。映画的時間としては「死んだ」時間なのだと思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.12
コメント(2)

HOME TOWN STORYArthur Pierson61min(所有DVD)所有DVDで見たのですが、マリリン・モンロー脇役ちょい出演のこの映画が特別見たかったわけではありません。ヴィヴィアン・リーの『哀愁』とヒッチコックの『レベッカ』と3枚セットのパブリックドメイン安DVDの1枚にあったからです。物語には後半ある種サスペンス性があって、と言っても結論は見え見えなんですが、61分という短さもあり、暇な時にテレビをつけたらやっていた、ぐらいの軽い乗りで見れば、まあなんとかという程度の作品。出演シーンは数回で計2~3分ですがフィーバーする前のマリリンが凛とした女性を演じているのを見るのは無駄ではなかったし、あとはこの時期にこういう企業によるプロパガンダ的映画が作られていたという知識として、まあそんな鑑賞価値の映画でしょうか。マリリンが出ていなかったら日本でDVDが出るなんてことはなかった作品だと思います。往年の名画っていうと『カサブランカ』は有名な1本だけれど、これももともとは国策映画で、ナチドイツ(その傀儡である仏ヴィッシー政権)は悪い奴らだから我が国(米国)が参戦する必要があるんですよ、ってプロパガンダ映画だったわけです。たまたまハンフリー・ボガードやイングリッド・バーグマン他の役者の好演があって名画になってしまった。若きマリリン出演のこの映画は、GM(ゼナラル・モーターズ)が作らせた映画で、大企業の企業活動は国や国民にとって価値のあることなんですよ、っていう内容の作品。若い上院議員ブレイク・ウォッシュバーンは選挙で再選されず、故郷の町に戻ってくる。かわりに当選したのは地元の大企業マク・ファーランド社の社長の息子だった。ブレイクの叔父は地方紙『フェアーファックス・ヘラルド』って新聞の主筆・編集者で、帰郷した甥ブレイクにその職を譲る。ブレイクは大資本マク・ファーランドを叩くキャンペーンを新聞の一面に毎日掲載する。なるほど彼の意図には真面目に大資本の悪を批判しようというのが無いではないのだけれど、正直そこにはマク・ファーランドを叩いて自分が議員に返り咲こうって野心がある。小学校の教員をする恋人や友人でもある新聞社の記者などはそんなブレイクを見かねて批判するのだけれど、彼は聞く耳を持たない。そんな彼を父マク・ファーランド社長が訪れて、大資本・大企業が社会にいかに大きな貢献をしているかを説くけれど、ブレイクはわかろうとしない。プロパガンダ映画としての主張はこのマク・ファーランド氏の主張に要約されている。その後にブレイクの幼い妹が校外学習で行った先で事故にあって生命の危険に落ち入り、それを救うのがマク・ファーランド社の存在であるという落ちで、ブレイクも簡単に考え方を変えてしまう。まあたわいのない内容です。いったいこの映画がどういう公開のされ方で、どういう人に見せられたのかわからないけれど、イヤになるほど単純な大資本・大企業擁護論のこの映画を真に受ける人々がいたんでしょうか?。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.11
コメント(0)

LEVOTTOMATAku Louhimies110min(DISCASにてレンタル)DISCASのサイトの紹介文に「本国フィンランドで大ヒットした問題作」ってあったのに興味をひかれて予約リストに入れておいたら思いの他早く送られてきて、正直「これか!」ってややガッカリだったのですが、実際に見たらとっても面白かった。しっかり月4回(8枚)借りるためにはスケジュールが迫っていたのですぐ返してしまったけれど、もう一度見たい作品、あるいは所有したい作品です。この作品の作りはかなりの多様性を巧く混ぜ合わせている感じで、なので色々な切り口で分析できるのだけれど、自分としては全く内容の違う作品ではあるもののパゾリーニの『テオレマ』を連想しました。最初と最後にはアリのモノローグが入り、事実主人公は救急救命医アリなのだろうが、そして彼の物語として始まり、また終わるけれど、一面ではアリは『テオレマ』の謎の青年(テレンス・スタンプ)に似た人間心理に対する触媒的存在でもある気がするのだ。アリは、子供の頃には色々な夢や希望があって、その中には愛する女性との家庭を築くというようなものもあったのだろう。だが成人して医師という職も得た今、心は虚しく人を愛することの意味もわからなければ、実感もない。しかし、「しかし」と言うより「だから」とも言えるのだろうけど孤独だ。バーやディスコで遊び、行きずりの女と一夜限りのセックスに耽る毎日。そんなアリはある日海岸でティナと知り合う。2人はベッドインするが、アリはいつものように1回限りのつもりだった。これは彼がふしだらだからではない。孤独が他者との結びつきを求め、欲求があるからセックスはするが、でも自分には人を愛する感情がないことを知っているからだ。恋人としてステディーな関係を続けることはできないし、結局は相手の女性を不幸にすることを知っている。そして悩んでもいる。しかしアリを愛するようになったティナは執拗に彼に迫った。ティナには学生時代の良き仲間達の2カップルがいた。そんな彼等と3組6名で一緒に小島の別荘で過ごしたりすることになる。(以下ややネタバレ)そして、彼のセリフにもあるように、彼が求めたり強要したからではなく、女たちの自発的意志からアリはティナの仲間の2人の女性イロナともハンナとも関係を持つようになってしまう。なるほどアリはイイ男ではあるけれど、イロナやハンナがアリに惹かれたのは、無感動な自分の正直な感情やセックスへの欲求に従うだけの嘘のないあり方なのだろう。2人の女性はアリと接することで、それぞれのパートナーへの気持ちやその関係のあり方に嘘や欺瞞があることを知ってしまう。「恋人の親友であり、仲間の彼女である女性たちとまで寝てしまうのは・・・」というレビューをどこかで読んだけれど、テオレマたるアリには必要な役割なのだ。必ずしもそれは宗教だけではないが、信じ込みの価値観や信仰があってこそ人は幸せを得ることができる。自由になって、また経済的にも食うや住むや遊ぶに大きな苦労がなくなったとき、人々は生きる目的、生き甲斐を見失い、ただ惰性で日々を送るようになってしまった。映画の原題『LEVOTTOMAT』がフィンランド語でどういう意味か調べても正確にはわからなかったのだが、「安らぎを得られぬ人々」とか「不安な人々」という意味かも。そんな意味でベルイマンの「神の沈黙」やアントニオーニの「愛の不毛」と同じ精神風土ではないだろうか。流行やブランド志向や日々の生活の快楽に走る日本の現状も結局は同じ精神風土の結果だろう。(以下ネタバレ)結局この一種のニヒリズムとそれゆえの孤独をいちばん良く知っていたハンナと互いにいちばん惹かれ合うことになったような感じのラストだ。それが愛することの根拠になるかどうかは別として、どうにもならない似たような自分の孤独を互いに理解し合えた2人なのだと思う。ティナを演じたちょっとサンドリーヌ・ボネール似の女優も普通に魅力的だったが、微妙なハンナ役のイリナ・ビョークルンドが、真摯に生きようとしながらも脆く壊れそうな女性を演じていたのが印象に残った。救急隊の同僚の子供が胸に十字架の入った十字軍のようなオモチャの衣装をつけて剣を持って遊んでいたが、ボクはなんとなく聖杯の騎士を連想してしまい、もしかしたらアリを「無垢な愚か者」パルシファルになぞらえているのかも知れない、なんて勝手な想像をした。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.09
コメント(3)

降霊(KOUREI aka SEANCE)黒沢 清97min(DISCASにてレンタル)正月早々黒沢監督の『叫』を見て、なんかその作品世界にはまったところがあって、同じ監督のまだ見ていない作品やもう一度見たい作品をDISCASの予約リストの上位に移動したら、この『降霊』が送られてきました。後で色々調べていて知ったのですが、この映画はもともとテレビの地上波で放送された2時間ドラマなんですね。1999年というともうはるか昔にテレビを見なくなっていたので、こんなドラマがあったことも知りませんでした。テレビ映画、言い換えればB級映画とも言えるわけで、不満は少なからずあるものの、そうした作品としてはまあ小さな名作として楽しめました。テレビで放映されたものでもあるし、ややネタバレもしながら感想書くことにします。東京近郊の緑(田畑?)の中の一軒家に住む中年夫婦。2人に子供はないけれど、普通にいそうなごく平凡な夫婦で、価値観なんかも穏健で、人柄もまったくもって善良そう。夫の佐藤克彦(役所広司)は、業界のことは良く知らないので正社員なのかフリーなのか、テレビ局で働く効果音の技師。妻純子(風吹ジュン)は専業主婦(?!)。今専業主婦にハテナとビックリを付したのにはわけがある。実は彼女は霊媒師とまでは言わなくとも、ものすごく霊感が強い。で人づてに聞いてきたのか身近な者の死で心に悩みを持つ人の相談に乗ったり、必要があれば降霊なんかをやっている。似たような話で『ギフト』っていう映画があったけれど、そこでは夫に先立たれて子供を抱え、生活費を稼がなければならないケイト・ブランシェットは占いを商売にしていた。でも純子は子供もいないし、夫にそれなりの稼ぎがあるから占いや霊媒はボランティアなのでしょう。克彦はもちろん純子の霊能力を知っているんですが、そういうことを忘れて普通に暮らした方が良いと思っている。純子は生活を変えようと電話での霊媒依頼は断り、ファミレスでウエイトレスのパートを始める。でも客が連れてくる幽霊とかが見えてしまう。天から与えられた彼女の一つの能力(ギフト)なんですが、普通の人には見えない幽霊が見えたり、周囲の人間に言っても好奇の目や不審の目に曝されたり、決して幸せな能力ではない。この2人とは全く無関係に身代金目的の少女誘拐事件が発生する。犯人は少女を連れて富士の山中に隠れていたらしいのだけれど、少女が犯人の目を盗んで逃げ出す。少女が犯人に追われて逃げる途中に、ちょうど木々や風の音を録音に来ていた克彦がいた。そして彼が気付かぬうちに少女は半開きだった大きな機材トランクの中に隠れ、知らずにそのトランクを克彦は家に持って帰る。現金の受け取りに失敗して逃げた犯人は警官に追われ、工事現場で事故にあい意識不明となってしまう。大学で霊能力などを研究するたぶん大学院生の早坂(草なぎ剛)は以前から純子を研究対象としようとしていたが、受け持ち教授の友人がたまたま誘拐事件を担当する刑事で、行方不明の少女の消息を知ろうと純子の霊視を要請する。しかし少女のハンカチを借りて帰った純子が家で発見したのは夫の機材トランクに入った仮死状態の少女だった。以下もっとネタバレします。この映画にはマーク・マクシェーンという人の原作本があって、その翻案らしいのだけれど、脚色での問題点が2つあったと黒沢監督は言ってます。一つはトランクの中に少女を発見してからの夫婦の行動にリアリティーがないこと、いま一つは原作では死んだ少女は幽霊として現れないこと。この映画では少女の消息を言い当てることで一躍有名になるという誘惑に純子(と克彦)が惑わされ色々小細工を始めるのですが、経緯あって克彦が少女を殺してしまい、死体を山中に埋め、少女の幽霊に苦しめられるという風になっています。原作がどうなっているかは知りません。でもこれでもまだリアリティーがない感じです。なるほど夫は仕事に追われる人生で、妻は自分の能力に苦しみながら何もできない。2人はただこうした日々を送りながら年老いていくだけ。自分らしい何かを達成することなどない。お払いをしてもらう神主は「平凡を恐れず、ささやかに生きること」をすすめるけれど、それに飽き足りない何かをもきっと感じている。また実際に純子は少女のハンカチから霊感で夫のトランクに少女が居ることを感じ取る。でもこれとて見ていたのは夫だけで、誰も彼女の能力ゆえだとは信じてはくれないだろう。有名になるということもあるだろうけれど、それ以前に自分を(つまりは自分の能力を)認めて欲しいという彼女は満たされることはない。だからセンセーショナルな「行方不明の少女を霊感で発見」というストーリーを彼女は欲した。しかしそれでも十分なリアリティーは感じられませんでした。テレビの夜9時からの2時間サスペンスドラマという枠、コマーシャルを除くと正味90分強という制約、製作費や製作日数に関する制約、スポンサーやテレビ局の注文、その他色々な制約的条件はあったのだとは思うけれど、そして原作があったこともあるだろうけれど、結局のところ黒沢作品としてはやや中途半端になってしまったのではないだろうか。一人でも自分を自分として認め、受け入れてくれる伴侶がいれば人は満足ではないだろうか。夫婦の絆(や愛)の描き方が曖昧だ。あるいは私的に悩める人々の相談に乗り、霊媒などすることの、自分の持てる能力を活かしたささやかな行為の積み重ねは純子に幸せ、と言わないまでも日々の充実感を与えはしないだろうか。逆に大それた野心的行動を取るにしては、その心理の描き方が不十分ではなかっただろうか。随所に細々と黒沢らしい魅力があるだけに、全体としてはやや残念な作品だった。(付記:この作品、昨年見た『アコークロー』というホラー映画の下敷きになっているような気がしてならない。)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.08
コメント(2)

LA SCONOSCIUTAGiuseppe Tornatore121min(桜坂劇場にて)1月3日の日記にも書きましたが、この映画も日本語タイトルが気に入りませんね。「見知らぬ女」か「素性のわからぬ女」ぐらいにして欲しかった。何度も言うように情緒的・感傷的タイトルをつけるのはやめて欲しいです。この映画なかなか良かったのだけれど、知らない監督の作品だったら日本語タイトルゆえに見なかったかも知れません。ところで前回の『叫』に続いて、この作品もネタバレしないで感想書くのが難しいです。映画の冒頭に「ラストに秘密があるので見ていない人にバラさないように」みたいなテロップが出てました。同じトルナトーレ監督の『記憶の扉』もそういうタイプの映画でしたが、大どんでん返しがあるというよりも、見ているうちに段々と物語(や主人公)を観客が理解していくとう感じで、後半とか2/3ぐらいになると、ラストはおおよそ見当はつきます。でも最初から知っていたのではつまらないのかも知れません。この映画はテンポ感が良い感じでした。最初の方はどんどん小気味良く物語が進んでいって、段々ゆっくりと最後の情緒に向かう。121分と長めですが飽きさせません。この映画のチラシの紹介文を読むと「イタリアの、とある都市にあらわれた女。名前はイレーナ・・・」とあるんですが、政治的・社会的・文化的国境意識の欠如からくる説明ですね。舞台は北イタリアでも、旧ユーゴスラビアと接する複雑な都市トリエステ。ここはかつてはオーストリア・ハンガリー帝国の港町。一次大戦でイタリア領となり、イタリアが二次大戦に破れて英米とユーゴにより南北が分割統治。ユーゴからスロベニアとクロアチアが分離独立してからは南は更に二分割統治。そういう複雑な都市であり、イタリア側から見れば東欧と接する場所なんですね。そして主人公のイレーナはウクライナ出身。映画のメインの物語自体は日本国内のものとしても描けるものかも知れないけれど、この複雑な地理的・政治的背景が物語に通奏低音として流れて、例えばイレーナという主人公の人物理解にも不可欠かも知れません。最初のシーンは暗くて、ある意味ややショッキング。若い女性の売買のためのオーディションのようなもの。そこで抜群のプロポーションで選ばれ、買われたのがイレーネらしい。そんな過去を持つ彼女がトリエステにやってきて、ある金細工工房の工場兼自宅の入る建物の向かいのアパートメントに居を構える。彼女はその家のメイドと仲良くし、鍵を盗んで合鍵を作り忍び込んで何かを調べたりもする。そこは夫婦の金細工師と幼い娘がいるんですが、イレーネはかなり強引な手段でそこのメイドの職を奪い取る。いったい彼女の目的は何なのか。どうもこのアダケル夫妻の4才の娘テアに関係があるらしい。また最初のシーンと関係があるのか怪しい雰囲気の男たちに襲われたりもする。何を書いてもネタバレになってしまうので、なかなか上手く書けません。10年、20年前の作品ならもっとネタバレで書いてしまうんですが、まだ時期尚早ではないでしょうか。チラシに書いてあることはバラしてしまって良いとすると、「母性を宿したすべての女性に贈る衝撃の感動作」とあり、また「母の愛は、いつどんなときも強く、揺るぎのないものなのです。」という監督の言葉が紹介されています。でもボクの印象としてはこの「母性」というのは男性トルナトーレの観念での母性、あるいは女性であっても「母性はこういうもの」という信じ込みの世界として描かれているような感じがしました。女性の生理はないですね。そしてそれよりも「人間の情念」の世界だと思います。ある情念に捕われた人は何でもするということでしょう。そしてウクライナという彼女の出身やトリエステという特別な町で、そういう情念による行為も理解できる、一面許容できるものとして描かれているのではないでしょうか。彼女のような境遇でそのような情念に捕われるに至ったことを誰が非難できるか、ということです。そして最後に、記述したら陳腐とも感じられるかも知れないものですが、暖かい感動へと持っていく、トルナトーレあっぱれ、非常に巧いですね。でもこの作品は『記憶の扉』もそうかも知れないけれど、人間ドラマをミステリー仕立てで描いたものであるよりも、まずミステリーありきで、そこに人間ドラマを持ち込んだという感じです。だからこの映画をキッカケに誰かと人間について語ることはできても、この映画に実際に描かれた内容として母性や人間を深く語ることはできないと思います。でも映画としてはやはり一流で、新年初映画館として十分楽しませてもらいました。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.07
コメント(4)

叫 (SAKEBI aka RECONTRIBUTION)黒沢 清104min(DISCASにてレンタル)1月3日の日記にも書きましたが、あまり見ていないながら 難解 とも言える黒沢映画の中では単純明解、実に解りやすいのではないでしょうか。相変わらず物語の脈絡に飛躍や不整合があって、また現実と非現実の区別が不明確ではあるけれど、とっても親切な筋運びだと思います。しかしそのぶん話が秘める深みが減じたようにも思います。彼の映画を見て「ちっとも恐くない」と不満を洩らす人もいるようですが、表面的にはホラー、サスペンス、スリラーの体裁はとっていて、そしてそれは事実なのだけれど、彼の映画のホラー性は表面的なホラーではなくむしろ心理的だし、ホラーと言ったときに我々が普通に想像するようなものではないですね。その裏に描かれる、なんと言うか 倫理的 とでも言ったものが、ボクにとっての黒沢映画の魅力です。そういう意味でこの映画も非常に面白いものでした。ただ深く見ると、あるいはもしかしたら元の映画の内容以上に発展させて見てしまうと、かなりの 重み のあるものなので、aire_rinoさんの日記にもコメントしたように、その時の自分の気分によっては近付くのを躊躇ってしまう場合もあります。こういう映画のレビューはネタバレしてしまってはいけないと思うのだけれど、でもネタバレしないと書きたいことも書けず難しいのですが、決定的なネタバレはしないように、そのため少し脱線や類考を交えながら、感想を書いてみたいと思います。東京の湾岸地区の埋め立て土地造成現場のような空地で、そこかしこは水たまり。そこで赤い服を着た若い女性が殺害される。海水の水たまりに顔を押し浸けての殺人だ。犯人の男性の顔は見えないが、遠景のショットでは役所広司演じる主人公の刑事吉岡のシルエットのように見える。そこには犯人の車であるらしい荷台がピックアップになったダットラのような小型トラック。主人公の吉岡刑事は自宅の古いアパートの一室にいる。そこには恋人らしき春江(小西真奈美)のい姿も。二人はほとんど言葉を交わすこともなく、彼女は異様に無表情だ。何かに悩む、苦しむ吉岡をヒザに抱いて優しく撫でる。そしてまた地震。この辺の論理は解らないが、埋め立てで、あるいは近付く大地震の前触れだか、液状化現象とかで、かなりの揺れの地震が頻発しているらしい。近代文明のなれの果ての終末論的イメージか(?)。春江は「帰る、また。」と言って去っていく。普通にリアリティーがあって、別に非現実的な映像があるわけではないのだけれど、既に黒沢映画の独特な雰囲気だ。吉岡を含む警察は現場を捜査し、吉岡は事件を担当することに。しかしそこで彼が発見したボタンは自分のコートのボタンと同じであり、家に帰って調べるとボタンが取れて一つない。また女性の死体の爪からは吉岡の指紋が検出される。自分は犯人なのか(?)。身元不明でF18号と名付けられた被害者の女性に吉岡は見覚えはなかった。思い出そうとするが出来ない。様子や行動がおかしいこともあって同僚の宮地刑事も不審の目を向ける。病院で入荷した薬剤を医師に手渡す看護婦は「使い過ぎると筋弛緩するので注意して下さい」と言う。医師は秘かにその薬剤を自分のカバンに入れる。オペ前なのだが医師を訪ねてくる高校生の息子。医者なら手に入るだろうと大量の注射器を父親に要求する。医師は拒絶するが息子は先輩に50万円の借金があると言って去っていく。夜医師は息子を連れ出し、先の薬剤を投与した上、海水に顔を浸けて殺害する。吉岡は直感で逃走中の医師を見つけだして逮捕する。同じ手口の犯行だが、この医師による連続殺人なのか(?)。吉岡は赤い服の見知らぬ女の幽霊の出現に苦しめられていたが、取調室で医師は幽霊の出現に恐怖する。しかし警官の誰にもその姿は見えない。職務によるストレスの治療として、すすめられて吉岡は精神医の高木のカウンセリングを受ける。高木は語る。過去の自分の失敗に対する罪意識が幽霊を出現させる。例えば捜査を誤った罪悪感を警官は忘れようとするが自分の中で処理できず、被害者の姿として現れる幽霊を見るのだ、と。この映画の原題はもちろん『叫』なのだけれど、欧米での公開タイトルは『RETRIBUTION』。報いとか罰とかいう意味だ。捕まった医師は息子殺害の動機を語る。息子は中学までは良い子だったけれど、高校生になって不良化して手に負えなくなった。それは自分の子育ての失敗だ。その責任を取るためにすべてを無かった状態に戻そうとした、と。何がマトモかという価値観には触れないとして、マトモでない一人の人間(息子)を存在させてしまった事実は取りかえしがつかない。これは親子という非常に近しい関係だけれど、我々は近くの他者、顔も見たことのない遠くの他者、そういう人々と否応無しに関係を持たされている。仮に悪気のない行為だとしても、その行為が他者に結果する責任とは何なのか。国内生産ならば300円するものを我々は安い中国製を百均ショップで買い、200円の節約は我々の生活を豊かにする。しかしこれは安い労働力の中国人を搾取していることに他ならない。それによって倒産に追い込まれる国内の製造業の人々もいる。街ですれ違い様に何の気なしに冷たい、あるいは好奇の視線を送った見知らぬ人にだって我々は影響を与えている。オウムの麻原の死刑判決を人々はいとも簡単に当然とするけれど、松本智津夫を麻原彰晃にしてしまったことの周囲の人々の責任は何か。社会の責任は何か。その社会を構成して動かしているのは我々一人一人でもある。話がかなり飛躍してしまった感もあるだろうが、本質は同じだ。そしてもう一つ。我々は殺人犯は殺人犯として悪者、自分(やその他一般)は犯罪を犯さない善人と簡単に2分してしまっていないか。この2者は実は本質的な差などない同じような人間ではないのか。その同じような人間が状況や偶然で犯罪を犯すのではないかという疑問の提示もあるような気がする。役所広司はボクはどちらかと言うと苦手なのだけれど、今回のヒゲ面のむさ苦しい雰囲気は良かった。スッキリとした姿よりも雰囲気があって良いのではないだろうか。小西真奈美も無表情な中に母性的優しさのようなものを上手く演じていた。精神科医のオダギリジョーはやはり薄っぺらでボクは駄目ですね。この映画でボクが感じる問題は、そこが一種のコミカルで、監督の意図なのかも知れないけれど、葉月里緒奈演じる赤い服の幽霊が笑えてしまう。窓から飛んでいくCGとか、最後の方の洗面器のシーンとか。洗面器のシーンなんかは『カリスマ』では洞口依子が刺されるシーンなんかと同じで、ある種の映像を映画的にやってみたいという監督の好みかも知れないのだけれど(この洗面器のシーンは別のホラー映画でもっと違った文脈の中で見せられたら恐いかも知れないが、この映画ではむしろ笑ってしまう)。全体の質感が、独特の不思議な雰囲気はあるもののリアリティーのあるものだから、妙な不自然な場面を入れることがない方が重厚で良い作品になるような気がしてならない。最後の方で吉岡が春江を抱きしめているシーンも、吉岡の主観による映像と映画の語りの客観による映像がカメラの切り返しで解りやすく描かれてはいたが、どちらか一方で良いと思った。 (もう少しネタバレして書いてしまえば)かつてフェリーから吉岡も見ていた赤い服の女の幽霊。吉岡も医師もF18号の犯人もその幽霊に直接は関係も責任もないのだろうけれど、自分で消化し切れない過去の過ちや責任を象徴するものなのだろう。そして幽霊が吉岡を許したように、忘れ去ろうとするのではなく自分の罪は罪として意識して、真摯にそういう罪を犯さずに努力することしか我々人間には出来ないのだ。人は常に他者に対して多かれ少なかれの責任を負って生きているということだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.06
コメント(4)
みなさん、あけまして、おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。年末は30日、31日と忙しく、明けて1日、2日は自分の最近の生活では少し時間にゆとりがあったので、ややゆっくりと、パソコンにもあまり近付きませんでした。これから暇を見て、またみなさんのページにもお邪魔させていただきたいと思います。年越しは友人・知人と過ごし、その一人と朝まで色々な話をしていて、遅く起きた1日は昨年DVDの初回限定バージョンを衝動買いしたオムニバス映画『パリ ジュテーム』を見ました。また一作ずつ見直しながら、余談・雑談・脱線的レビュー書く予定です。DISCASから送られてきていたので、夜はなんと新年早々から、黒沢清監督の『叫』を見ました。黒沢監督の最高傑作などと宣伝文句があり、また良い、そして好きな作品ですが、内容がものすごく解りやすくなった感じで、その分深みが減じた気もしました。2日は初映画館。トルナトーレ監督の『題名のない子守唄』を見てきました。トルナトーレと言うとボクにとっては『シネマ・パラダイス』よりも『記憶の扉』のトルナトーレです。変な日本語題に不安を感じながら見に行ったのですが良い映画でした。いずれレビューでも書くだろうけれど伊原題は「La Sconosciuta」で、英題「The Unknown」米題「The Other Woman」仏題「L'inconnue」だから「見知らぬ女」とか「素性のわからぬ女」ぐらいで良いのでは。帰ってきて、はる*37さんご紹介の『散り行く花』(米1919サイレント)を鑑賞。リリアン・ギッシュのこの作品は何十年も前から見たいと思っていました。夜は友人・知人が一緒に見ようと言っていたのでDISCASで借りておいた『バンガー・シスターズ』を見ました。アメリカ映画ですが、話も良さそうだし、ゴールディ・ホーンだから、ボクも見る前からけっこう楽しみでした。良かったですね。これはオススメ映画です。そして見てたらエリカ・クリステンセンが出ていて、必ずしも彼女の魅力が出切った使われ方ではなかったけれど、思わぬハッピーなおまけがつきました。と言うわけで、1日、2日で5本の映画を、1本は映画館で見る好調な映画生活の始まりとなりました。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.03
コメント(4)
全23件 (23件中 1-23件目)
1


![]()