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気が早いけれど、9月以降の桜坂劇場8月最終週(8/23~8/29)までの桜坂劇場のラインナップについては6月21日の日記に書いたけれど、同劇場のサイトでその後の上映予定を見ながら、既にああだこうだと思いを巡らせる気の早い自分です。まずは8/31~9/5の『迷子の警察音楽隊』。日本での評価はイマイチのようだけれど、フランスでは『ル・モンド』紙も『カイエ』誌も高い評価で、観客評も良好な作品で、ちょっと気になります。ちなみに余談ですが、海外の評と言えば、disney nature productionsというちょっと胡散臭さも感じる『プルミエール 私たちの出産』の予告編に、1文だけを引用して、さも仏『ル・モンド』紙がこの作品を絶賛しているかのようなテロップが出るのだけれど、実際に『ル・モンド』紙の記事を読むと酷評しています。こういう宣伝には気をつけないといけませんね。 そして9/6~10/3と桜坂劇場としては上映期間の長い『歩いても 歩いても』。これは『誰も知らない』の是枝裕和監督の新作。同時上映というか、日時はまだ未定だけれど『誰も知らない』もかかるらしい。新作はともかく、DVDでしか見ていない140分の『誰も知らない』も劇場で見ておくべきかどうかは迷うところ。 9/13~9/19の週で面白そうなのは、ベルリン映画祭受賞作『トゥヤーの結婚』もちょと気になるけれど、何と言っても『コミュニストはSEXがお上手?』。桜坂劇場のプログラムディレクター・真喜屋力さん(沖縄映画『パイナップル・ツアーズ』3編オムニバスの第1話の監督)のコメントを引用させていただくと「一応、ドキュメンタリーの範疇に入る作品だが、現在の世相をリアルタイムに切り取るのではなく、過去のニュース映像などをかき集めて、比較するいたって真面目な内容。ただし、比較する対象が『東西ドイツのSEXに対する認識』というところが、人間臭くて笑える。笑える題材を真面目に考察するところが、またおかしくて笑ってしまう。もちろん過去の文化比較のふりはしているが、その裏には現代への痛烈な風刺が隠されている。アメリカに渦巻く保守的キリスト教への批判もありそうだし、単純に愛の本質を忘れた現代人への批判も見え隠れする。とどのつまり観客も笑いながら、笑われている。洒落た作品です。さて、あなたは東派?西派?どっちだ。」ということだ。 古い日本映画では朝丘ルリ子特集の3本。『銀座の恋の物語』(9/13~9/19)、『私が棄てた女』(9/20~9/26)、そして何と言っても高校生か大学生の頃テレビで見てインパクトのあった『愛の渇き』(9/27~10/3)。三島由紀夫原作のこの映画は見ておられない方がいらしたら大のオススメだ。遠藤周作原作の『私が棄てた女』も見ていないだけに楽しみだ。どちらも音楽は黛敏郎。あと同じ9/27から2週間上映される『シークレット・サンシャイン』。韓国映画には疎い自分だけれど、カンヌ主演女優賞のチョン・ドヨンの演技が気になる。10月以降に予定されている作品ではジャック・リヴェットの『ランジェ公爵夫人』。どうせなら去年上映された同じリヴェットの『恋ごころ』も関連再映して欲しいところ。もう一度スクリーンで見たい。あとはニキータ・ミハルコフの『12人の怒れる男』が12月の予定されている。ミハルコフは『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』が良かっただけに楽しみだ。 そしてそして、何と言ってもいちばん楽しみなのは、11/1からと予定されているフェリーニの『8 1/2』。イタリア語では「オット・エ・メッツォ」だけれど、日本語で何と読むのかな?。「ハッカニブンノイチ」or「ハチトニブンノイチ」?。ちなみに「8 1/2」のような帯分数は今の学校では教えられておらず、「17/2」という仮分数で済ませるらしい。2時間を超える長い作品だけれど、2~3度スクリーンで見ておきたい。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.20
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EN KARLEKSHISTORIAA SWEDISH LOVE STORYスウェーディッシュ・ラブ・ストーリー aka 純愛日記Roy Anderssonロイ・アンデション aka ロイ・アンダーソン114min(1:1.66、スウェーデン語)(桜坂劇場 ホールCにて)いや~、感動、感動!。『スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー』という題名で公開されているこの作品、『純愛日記』という題で短縮版が『小さな恋のメロディ』と同時公開されていた。原題は「ある愛の物語」ぐらいの意味。ロイ・アンデション監督26才位のときの長編初監督作品。『メロディ』は好きでビデオも持ってますが、劇場では見ていないので、この『純愛物語』も知りませんでした。予告編は、基本ストーリーである15才と13才の純愛面だけを見せるもの。まあこの手の映画は嫌いではないけれど、見にいくかどうか迷いました。後にCF監督としてカンヌ国際広告祭で8回もグランプリを受賞している人だけあって、映像が魅力的だったことが映画館にボクの足を運ばせてくれたのですが、大感動。好きな『メロディ』よりもボクとしてはかなり上を行く作品になりました。メインは15才のペールともうすぐ14才のアニカの恋物語。それぞれ療養中の祖父と叔母を郊外の病院に家族で見舞いに訪れた春の暖かい日、庭園のカフェで互いに目と目を合わせ恋のはじまり。ペールたちのアイテムは革ジャン、バイク、ロック、ピンボール等々1960年代末の思春期の若者の姿だ。ここに2年後のヴィスコンティの『ベニスに死す』の美少年タッジオを演じたビヨルン・アンドレセンがちょい役で出ていた(下の写真の左、赤いバイクの男の子)。やがて2人は街で再会。互いに惹かれ合うけれどなかなか相手に自分の気持ちを伝えられない。いじらしい。途中ペールは、アニカを自分のものとでも勝手に思っている年長の男の子に暴行されたりするけれど、時間とキッカケの問題で、2人はつきあい始める。両親が出かける日にペールはアニカの家にやってきて、最初は彼女の作ったオープンサンドを食べたり、ギターを弾いてテープレコーダーで録音とかしているけれど、やがて彼女はラムか何か酒を持ってきて一緒に飲んで・・。キスをして、たどたどしく抱き合って、どこまでの肉体的接触(美しい純愛として描かれているから、こういう言葉を使うのもちょっとはばかれる)があったかはわからないけれど、朝2人は一つのベッドで寝ている。1着のパジャマの上を彼女が、下を彼が身につけ。そこに誰かが訪ねてきてペールはクローゼットに隠れる。来たのは叔母エヴァ。ペールも出てくるが、特にとがめるでもない。エヴァは上手く行かなかった人生ゆえに結婚もできずに独りで、孤独ゆえに精神のバランスを崩しているけれど、この辺がいかにもスウェーデン的かも(その点は後でまた書きます)。そして、ザリガニ・パーティー(kraftskiva)をやてるから8月(8月8日がザリガニ漁解禁日)、北欧ではそろそろ夏の終わりだけれど、ペールの両親の湖畔の別荘にアニカがお泊まりにやってくる。パーティーにはアニカの両親も招かれてやってくる。パーティーを途中で大人たちから離れた2人は、納屋か何処かで2人だけの一夜だ。余談になるけど、むかし大橋巨泉の11pm(日本テレビの深夜番組)に、セクソロジストとして石渡利康教授が出演するなどしてスウェーデン特集のようなシリーズをやっていた。内容はあまり憶えていないけれど、印象に残っていることが2つ。1つは幼稚園か小学校低学年の性教育の授業でコンドームを膨らませて風船にして遊んでいたのと、水を入れたメッシリンダーにタンポンをヒモを持ってぶら下げてメッシリンダーの中に浸ける。本体が水を吸って膨らみ、ヒモを上に引くとメッシリンダーごと持ち上がる様子。こんなことをスウェーデンでは6~7才ぐらいの子供に教えているんだなとちょっとビックリした。もう1つは好き合った中学生のカップルの一方が、相手の家に住んでいる例。別にその子の家庭に問題があるとかではなく、好き合っているんだから一緒にいたいわけで、ならば一緒に住まわしてしまうという親だ。寝室も一緒だったかリポートされていたかは忘れてしまった。この映画でペールの一家は湖畔の小さな別荘に夏休みをい過ごしに滞在するのだけれど、アニカはそこにお泊まりにやってくる。そんな昔のテレビを思い出した。チラシや予告編から、もっと単純なローティーンの恋物語と思ったけれど、かなり印象が違った。最初にペールの家族が祖父を見舞いに行った病院の(隣接の?)広い庭園内のカフェで、家族の誰かが「退院」と口にしたとき、祖父は突然黙り、涙ながらに「自分は病院から出ない。孤独な者にとって外の世界は決して幸せな場所ではない。」と言うのだ。一方精神のバランスを崩して入院していたアニカの叔母エヴァは姪アニカと2人のシーンで、スチュワーデスになりたかったけれど採用試験に落ち、翌年は友人の勧めでガイドになろうとしたが叶わず、3年目のスチュワーデス再度挑戦も病気をして試験を受けられなかったこと、結局結婚も出来ずに独り身でいること、そんな失敗した人生と孤独を語る。どちらの場合も人間の実存的孤独がまず提示される。そしてペール、アニカの両親や親族の問題、最後のパーティーでの大人同志のことなだが描写される。映画を見ていると、そういった2人の恋の背景が実はメインで、その陰に恋物語もあるとさえ感じられる。しかし両者は実は別の2つのテーマなのではなく、2つ合わせて1つのテーマだ。平凡な大人たち、金や地位や名誉や車種や家や職業や、そんなことにこだわり、優劣をつけ、優越感なり劣等感を持っている。「そんな大人たちを嫌っている若い2人」という解釈もあるけれど、2人はそんな大人たちのあり方がイヤなのだ。だがたぶんその原因、根底にある人の孤独を2人は良く知っている。いや感じている。実存的に孤独で独りだからこそ愛を求めるわけで、その一つの究極の姿が男女間の愛だ。アニカの両親はどちらも病的寸前の孤独を抱えているけれど、それを互いに分かち合うことはできない。一言にすれば2人の間には愛がない。イングマール・ベルイマンはアンデション監督の映画を誉めたらしいけれど、似通った精神風土を描いていると言ってもよい。そんな暗い救いのない精神を描くベルイマンやこのアンデション。あるいはちょっとテイストは違うけれどデンマークのラース・フォン・トリアー。フィンランドのカウリスマキ、またポーランドのキェシロフスキやズラウスキー。いずれも冬の寒さ・暗さの厳しい国の人たちだ。その地理的風土とも無関係ではない。この映画の最後の場面で若い2人はしっかり厚手のセーターを着ている。でもザリガニ・パーティーだから8月。これからスウェーデンは長い長い冬に突入する。もっと北部なら真冬は夏の白夜の反対で1日中太陽は昇らない。コペンハーゲンあたりでも冬は一日中薄暗く、天気が良く太陽が昇っても昼間の数時間だという。そんな風土の中では孤独がなお一層重くのしかかる。精神にゆとりが少ないから、それだけわがままであったり、自己中心であったり、マイナスの側面も出やすい。精神が病めば酒に手も出る。もっと現実的ことで言えば、寒いからアクアヴィット等の強い酒を飲む。深酒やアル中は当然また人間関係を破壊する。寒い国としてソ連・ロシアは挙げなかった。ロシアのモスクワはスウェーデンのストックホルムとほぼ同緯度。内陸だから寒さはなお一層厳しい。だからタルコフスキー(や、文学で言えば北欧がイプセンやストリンドベルイならドストエフスキーやチェーホフ)の世界ももちろん似ている。ただロシアには芸術至上主義的映画の伝統があり、一風独自な雰囲気を持っている。また余談に流れてしまったけれど、風土が厳しいかどうかということとは無関係に、ここで描かれるような人間の実存的孤独というのはあるわけだ。そしてそれを描くと同時に、だからこその愛の必要を幼い2人の初々しく美しい純愛として描いたこの作品は、深くぐっと感動的な映画だった。『ベニスに死す』の美少年ビヨルン・アンドレセンは脇で、美形というよりむしろただ純朴そうなマスクや表情のロルフ・ソールマンの演じるナイーブなペールは良い。またアニカを演じたアン・ソフィ・シリーンは、少女のあどけなさと大人の女の魅力の両面を兼ね備えていて、そうした魅力をもった2人を見つけて配役したことが、この映画の成功のもとだろう。同時代の同種の映画として『メロディ』があり、好きな作品ではあるけれど、この『スウェーディッシュ・・・』の方がはるかに深く、良く、好きな映画だ。『メロディ』はちょうど1年後に公開された映画だから、もしかしたら一種の真似だったかも知れない。1970年のベルリン映画祭に正式出品されたが、1970年と言えばベルリン映画祭が混乱した年。審査委員長の米国監督ジョージ・スティーヴンスがベトナムでの米兵士による少女レイプ・殺害事件を元にした西独作品『OK』(ミヒャエル・ヘルホーファン監督)のボイコットを提案し、事態は紛糾して全審査員の辞任をもたらした。結果各賞の選定が行われなかった。この『スウェーディッシュ・・』は金熊賞にノミネートされていただけに残念だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.12
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PALE FLOWERMasahiro Shinoda白黒96min(1:2.35、日本語)(桜坂劇場 ホールCにて)1964年3月1日に公開されヒットした作品だけれど、映画の完成はその8ヶ月ぐらい前だったらしい。非合法の賭博の世界をリアルに描いたことで検閲の問題もあったらしいし、映画会社の松竹にもこの作品の是非の迷いがあったのでしょう。つまりは1963年夏頃に撮られたということか。まあいずれにしても日本(日本人)にとって一大イベントだった東京オリンピックを前にした時期であり、高度経済成長が始まろうという頃だ。そんな時代に、生きることの価値や感動を見出せないような人物たちを描いた作品が作られていた。石原の同名の原作短編小説(読んでいない)が書かれたのはもっと前かも知れないけれど、篠田は1963年にこの映画を作ったのだ。でもなんとなく時代のこういう気分、心性ってわからないでもない。そしてそういう気分がいわば当たり前になって、その上で一種享楽的にそれを忘れようとしている状態、それが今日現代かも知れない。その意味では非常に現代性のある映画だ。自分は普段、仁侠映画というのは見ない。だから北野武の映画は避けてしまうことが多い。しかしこの作品は篠田正浩の作品だし、そして何よりも若い頃の加賀まり子が出ているのだから、一も二もなく(休みの日に早起きしなければならなかったが)映画館におもむいた。結果は正解。ヤクザの世界を使ってはいたけれど仁侠映画ではなかったし、若い加賀まり子はやはりとっても魅力的だった。船田組の村木(池部良)は3年前に敵対していた安岡組の男を刺して刑務所に入っていた。出所して東京に戻ってきた村木だけれど、大阪の今井組の関東進出もあって、今では船田組と安岡組は手討ちをしていた。表面的には何も変わっていない世界ではあるけれど、村木は状況に馴染めなかった。で賭博場に行く村木なのだけれど、そこで見知らぬ、誰も素性を知らない若い娘が豪快に賭をしていた。撮影当時加賀はまだ19才だから、そんな年齢の女だ。村木はそんな彼女に興味をひかれる。倒産寸前の古い時計店の2階に病気の父が寝たきりの昔の女(原知佐子)を訪ねると、彼女は今も村木にぞっこんだけれど、抱いてはみるものの賭博場の謎の娘が気になって燃え上がることはない。ある晩屋台のおでん屋で謎の娘と村木は一緒になる。「わたし冴子」と名乗った彼女は村木に、もっと賭金の大きな賭博をしたいと言う。そんな冴子を突き動かしているのは、まあ青春のエネルギーなのだろうけれど、ケタケタと笑う彼女は生の燃焼を感じる強い感覚を得たい。一方「殺しをしたときだけは生の実感があった」と語る村木だ。どちらも生の実感を求めるということで何かが通じ合ったと言える。そんな欲求に貪欲に突き進もうという若い冴子の姿に、燃焼できない状態に停滞にある村木は魅力を感じたのだろう。ヤクザ仲間のつてでそんな賭金の大きな賭博場を紹介すると村木は約束した。ネタバレにならないこの時点でちょっと深読み、裏読みをしてみよう。1960年代米ソ冷戦下で、何も自主的なことの出来ない日本(日本人)の無力感のようなものを象徴して描いたと篠田監督は語っている。そういう枠組でこの映画を見ると、船田組とは日本で、安岡組がアメリカ(及び西側世界)、そして更に今井組はソ連(及び中国)であるとは言えないだろうか。刑務所から出てきてみたら、もともと仲の悪かった安岡組(アメリカ)と村木(日本人)の属する船田組(日本)は仲良くしていた。そして共通の敵は今井組(ソ連)なのだ。戦前と戦後の価値観の一大転換について行けない日本人の象徴が村木かも知れない。船田と安岡の主張するのは暴力団の近代化であり、その象徴と言えるのか、そして戦後の日本の欧米化の象徴でもあろうが、親分2人(宮口精二・東野英治郎)はモナリザの複製の飾られた高級レストランで慣れないナイフとフォークで会食をしている。親分2人は競馬場で双眼鏡を手に観戦しているけれど、レストランの2人といい、この競馬場の2人といい、何か滑稽さを感じさせる。村木は離れた場所にいる姿として望遠レンズで写される。この世界の中ではなく外にいる感じだ。作中の役の年齢が示されないので演じる役者の年齢で考えると、加賀は1943年、池部が1918年の生まれ。終戦時に加賀はまだ誕生日前だから1才。池部は27才。2人が1963年の同じ無力感の中に生きていると言っても、27才で既に戦前の価値観を自分のものとしていた村木に対して、まったく戦前の価値観と無関係に育ったのが冴子だ。また仁侠の世界を使ったのは、我々の通常の社会よりも、その社会への帰属や従属が明確だからだろう。世界の国々の力関係など、ヤクザの抗争と同じだという含みもあるかもしれない。そしてもう一つ感じたのは賭博の宗教性・儀式性だ。最初に引用した写真のように左右対称の賭博場の構図は教会をも思わせるし、声の出し方や、花札を鳴らす音などには様式があり、儀式的なのだ。賭博が生の実感を与えてくれるとするならば、従来の価値観のなくなった人々にとって、賭博(場)とは生に意味を与えてくれる宗教(教会)なのかも知れない。(そろそろ少しネタバレ)村木は弟分・相川(杉浦直樹)の仕切る連込み旅館で催されている賭博に冴子を連れていく。豪快に勝負する冴子だけれど、そこにはそんな彼女を秘かに見つめ、一方村木を監視するような無気味な男・葉(ヨウ)が片隅にいた。船田の親分が客人としている香港人とのハーフで、麻薬中毒の殺し屋だ。何度かこの賭博場に通うある夜、警察の手入れがあった。(場所は連込み宿だから)とっさに村木は冴子を連れて一室に逃げ、ふとんにもぐり込み単なる情事客を装って警察を逃れる。騙されて去っていった警察官。そんな状況を冴子はいつもの調子でケタケタと笑った。ふとんの中の2人はいっときじっと見つめ合うが、村木は冴子を抱こうとはしなかった。結局この世界に自分に居場所はないと感じている村木が、この世界に執着するものを持ちたくなかったのかもしれないし、そんな自分に冴子を巻き込みたくなかったのかも知れない。さっきのメタファーとして言えば自分が過去の日本人であるのに対して、冴子は現在の日本人だ。そんな現在の日本人の将来に対する希望なのかも知れない。ある晩村木は葉に襲われる。葉の投げるナイフからは逃れたが、夜悪夢を見る。葉に麻薬を打たれ、麻薬中毒にされている冴子の夢だ。この映画の制作は1963年。『仮面ペルソナ』や『狼の時刻』はまだ作られていないが、『第七の封印』『野いちご』『鏡の中にある如く』は既に公開されている。この夢のシーン、ソラリゼーションまで使った幻想的な白黒映像なのだけれど、その筆致が実にベルイマンなのだ。手法の引用、パクりとも言えるけれど、時代的な雰囲気を表現するのに有効な表現法だったのかも知れない。(以下ネタバレ)安岡組の者が今井組に殺され、船田親分は子分を集めて今井殺しの刺客を募るけれど適当な志願者はいない。そこで「自分が」と言ったのは村木だった。それは自分の居場所のないこの世界からの(刑務所への)逃避でもあったろうが、冴子への愛でもあった。葉とつきあい、麻薬も始めたらしい冴子に、村木は「賭博よりも、麻薬よりもいいものを見せてやる」と言う。自分が今井を殺すのを見せようというのだ。今井がいる名曲喫茶に冴子を連れて向かうシーンは4~5分の長回しだ。セリフをうろ覚えでやや自信な気の池部良にテストと言って篠田が撮影したのは実は本番だった。そんなちょっとおどおどしたような演技を監督は利用したのだ。この映画は仁侠の世界の映画でありながら、暴力シーンはほとんどない。村木を殺そうとした安岡組の若いチンピラは指を詰めるけれど、そんなシーンや詰めた後の手が写されることもない。そして唯一仁侠映画的この最後の殺人シーン。それも名曲喫茶の洋館的インテリア、音楽はオペラがバックに流れる中、リアリティーではなくいわばオペラチックな演出で描写される。まったくの反仁侠映画と言えるかも知れない。そして2年後刑務所の中庭で散歩の運動をしていて、入所してきた相川と出会う。相川は冴子が薬中にされた挙げ句、葉に殺されたことをを村木に教える。「それで彼女の素性がわかったんです。」と相川が言ったとき、看守が「村木、時間だ。」と言うが、村木はあえて相川に彼女の素性を尋ねようとはしなかった。今回は「池部良特集」ということで『現代人』と2本が上映されたが、50年代、60年代の古い白黒日本映画を、先の小津の『東京物語』ともども、堪能させてもらった。45年前に篠田監督が、希望を含むものとして村木に深い関心・共感・反発・愛情を与えた冴子は、結局殺され、生きていくことはなかった。そのなれの果てが現代の日本であり、冴子と同じように生の実感を強く感じることのできない現代の我々かも知れない。その意味では現代的心性で共感して観られる映画だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.11
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靖国 YASUKUNILi Ying123min(1:1.85、日本語)(桜坂劇場 ホールAにて)この映画について(1):ここのところ桜坂劇場に劇映画を見にいくことが多かったので、この映画の予告編は10回ぐらい見せられた。映画自体は大したことがなさそうな印象だったので迷ったが、この作品をめぐる周辺の社会現象があり、とりあえず自分も見ておくことにした。平日の昼下がりということもあったけれど、観客の8割ぐらいは60才を超える年輩者だった。内容はほとんど予告編で予想した範囲のもの。最後の部分で荘重な音楽をバックに、日本刀による中国人等の惨殺の記録写真映像がスライドショー的に映されていたのが、「ああ、こういう締めくくり方だったのね」と構成として予告編ではわからなかったことだ(これってラース・フォン・トリアーの『ドッグヴィル』や『マンダレイ』のエンドロールの真似?、って感じたり)。でも少なくとも「一見では」大した内容ではないし、作りも平板。ただそのことが含意することに関しては、最後の方に書きたいと思う。映画上映をめぐる賛否:この映画の上映阻止や上映推進にまつわる社会の騒動だけれど、これは実際の映画を見る前に始まった。ポイントはただただ「中国人」が「靖国神社」をテーマにしたドキュメンタリーを作ったということに尽きるのではなかったろうか。仮にほぼ同じ内容のドキュメンタリーを、日本人が、たとえばNHKが番組として制作して放送したとしたら、不快感を感じる者もいただろうし、右翼系の抗議電話や示威行動はあったかも知れないけれど、これほどの騒ぎにはならなかったのではないだろうか。靖国派にとってもその程度にほとんど「無害」な内容の映画に思えて仕方がない。その意味で、あまりに過敏に反応してしまった不快感派は、実は靖国派である自分たちの論理的根拠の脆弱性を自ら暴露してしまったと言えるのかも知れない。ボクは実はある意味彼らの論理性の欠如は必要なのかも知れないとも思ってはいるけれど・・。そして一方の上映推進派は、靖国派の論理性の欠如ゆえに、いつもいくら彼らと意見を衝突させても建設的な議論が成立しないジレンマのようなものを暴露してしまったとも言える。映画に関する観客レビュー:この映画を見にいったボクの動機は、どういう映画であるかを実際に確認するだけであった。そしてボクの関心は、映画そのものよりも、上の両者の行動や、実際に観た観客の反応など、そういう映画の周辺にこそ強い。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という諺があるけれど、ボクは映画評を読んでいて感じることに「坊主憎けりゃ袈裟をけなそう」というのがある。たとえば男性中心社会を批判した内容の映画があったとする。正直なところそれに不快感を感じた批評家は、そのテーマ以外の部分で映画を酷評する。やれ表現が常套的過ぎるだとか、役者の演技が平板でリアリティーがないとか・・等だ。「女なんてそんな高級なものではなくって、やっぱり男の方が偉いんだ」と言いたくても、そう言ってしまってはスキャンダルとなってしまう。そこでテーマに触れない部分で映画を酷評することで、読者に観に行かせないようにし、映画を葬ろうとするのだ。この手の批評は、海外の映画評ではよく見かける。それはもちろん意図的である場合だけではなく、テーマが気に食わないから映画そのものも駄作に見えるという無意識の場合もある。そしてそういう無意識的不快感を感じさせるレビューが、この映画の観客レビューにはけっこう多いのではないかと感じた。それともう一つは、少なからずあったレビューの論旨が「もっと客観的なドキュメンタリーを見せて欲しかった」というものだ。ドキュメンタリーでも、劇映画でも、「客観的」などというものはあり得ないということを知らない幼稚な発想を持った人々が多いことは、ある意味「危惧」するべきかも知れない。日本人の非論理性に関して:自分は決して「急進主義」でも「原理主義」でもない。社会的宥和の必要性だって理解しているつもりだ。しかしそれでもこの日本的社会で自分が馴染めないのは、「本質」の無理解や無視にある。例えば妊娠中絶。基本的には刑法の堕胎罪として禁止されている。ただし母体保護法により「身体的叉は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれ」がある場合は罰されることはない。日本の妊娠の約20%はこの規定の適用で堕胎されている。もちろんその多くはこの母体保護法の拡大解釈(?)による合法的中絶だ。子供のいないお金持ちの夫婦の専業主婦が妊娠し、まだ子供は欲しくないからという気持ちで、妊娠の事実を子供を欲しがっている夫に知らせないまま、勝手に中絶することだっていともたやすく出来てしまう。つまりいくばくかのお金さえ用意すれば、自由に妊娠中絶が出来る国なのだ。実質的に自由だから、フランスのようにフェミニスト団体が女性の権利として「中絶の自由」を叫ぶことはない。母体保護法の主旨の「本質」は無視されており、また「本質」的に権利としての自由を求めることもしない。議論の不可能性に関して:この戦争や靖国神社の問題に関して、明確な論理的議論がなされることはない。そこにはもちろん、さっき「靖国派の非論理性はある意味必要」と書いたこととも関連するけれど、それはまた後で触れる。戦勝国による極東裁判という枠から離れて、一般論として、「戦争犯罪」とは何なのか。それに従えばあの戦争での戦犯とは誰が該当するのか。ジュネーブ条約では日本は何に賛成し、何を批准していたのか。御国のために戦う中で戦争犯罪を犯した者は国賊なのか。それとも御国のために戦ったという大義によりその犯罪は許されるのか。信教の自由が保証される憲法下で、国家の意志で戦死者を神社に祀ることの正当性は何処にあるのか。そういうことのすべての関係の論理的な判断が、それぞれ各派によって明示されることがない。しかしそれは、実はそう簡単に出来ないことでもある。この映画について(2):それは米国による戦後統治のあり方の結果でもある。来るべきソ連(中国)との対立の構図を睨んでの、日本の利用の仕方だったわけだ。サンフランシスコ講和条約による体制もそうなわけだけれど、この条約にはソ連と中国は加わっていない。戦後日本の4分割統治案もあった。ドイツと同じように英米仏ソの4国による分割統治だ。首府東京はベルリンのようにまた4分割されたのだろう。当然そうなっていれば、ソ連共産圏の北日本と、英米仏による西側・南日本の2国に分裂していただろう。米国は対ソ(対中)構造の中で主義思想的および軍事的に日本を味方(支配下)に置きたかったわけで、それに成功した。そのために歪められてしまったのが、良くも悪くも戦後60年の今の日本だ。論理的根幹に触れないでこそ成立している状態なのだと思う。そして根本を少しでも変えることはしないままに、その状態に安住してしまっている現在の日本がある。この映画の上映の賛否両派の対立というのは、その安住状態の表層での小競り合いだとも言える。平和憲法と自衛隊の問題も同じである。そしてかつては日米安保条約に対する反対もあったわけだけれど、結局論理や本質を見ようとしない現状維持第一の日本人だから、戦後40年、50年、60年という長い時間の中で、それに慣れ切ってしまった。しかし根底にある論理的矛盾は合わせ持っているから、その不自由さのゆえに、安易なナショナリズムや保守化の傾向も強くなっている。石原都知事のように論理ではなく怒りで、小泉首相のよに論理でゃなく居直りで、自らの立場・思想を表明することしか出来ないのだ。この映画は、実はそういう渾沌とした曖昧な状態に安住する日本を描いているのではないだろうか。実態が曖昧だから、それを描いたドキュメンタリーも曖昧なとりとめのないものとした。結局は何も語らない老刀匠へのインビューをあれほど延々と入れている意味もそこにある。だからこの映画に反対するにしても共感するにしても、見落として(誤解して)はならないのは、根本的にこの映画がテーマとしているのは「過去の日本の侵略や虐殺」ではなく、戦後60年間に作り上げてきた日本の現状なのだと思う。そしてそれは単なる日本批判ではなく、米ソ・米中関係で米国主導で進められた歴史の必然(日本が現在のようになってしまったという必然)を確認しているのではないだろうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.10
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CASHBACKSean Ellis102min(1:2.35、英語)(桜坂劇場 ホールCにて)監督のショーン・エリスという人は、自分は知りませんでしたが、その世界では名の通ったファッション写真家だそうですね。予告編を見て、なんとなく見に行ったのですが、実際に見て、「あ~、あの映画だったんだ」というものでした。よく行くフランスの映画サイトがあって、スーパーマーケットに裸の女性のいるポスターを数年前よく見せられていたからです。それだけ(フランスでは)話題の映画だったんでしょうね。実はこの作品の2年前にエリスの撮った同名(Cashback)18分の短編があって、これはそれを引き伸ばして長編にしたものらしいです。短編に方は各地の映画祭で高く評価されたらしいです。この長編版の海外の評価を見てきたら、評価は二分です。もとの18分部分は良いけれど、あとは単なるつまらない引き伸ばしでしかないとする批判派と、この長編版自体を評価する派です。ボクは18分版は見ていないけれど、そこそこ、まあ、なかなか、楽しませてもらいました。物語は複層的なのだけれど、全体としては、失恋をした画学生の主人公が不眠症となり、眠れないのでスーパーの深夜勤のバイトを始め、そこで知った女性との真の愛を成就させるというラブストーリー。それと重なる形で、まだやや子供っぽい主人公が大人に向けて成長する物語でもあり、また古今東西の画家に創作意欲を与え続けてきた女性の裸の魅力の物語でもあり、監督は写真家、主人公は画家として、流れる時間の一瞬を静止した作品に固定することに関する物語でもあり、また無名の画学生が成功して認められた画家となるという物語でもある。そしてそこに、イギリス風と言って良いのだろうか?、そういうギャグというか、ユーモアのバカバカしい喜劇が挿入されている。映画は主人公ベン(ショーン・ビガースタッフ)と恋人スージー(ミシェル・ライアン)の喧嘩のシーンで始まる。激しくベンを罵るスージーの顔のアップで、スローモーション。だから彼女の声は聞こえない。手にしていたマグカップをスージーはベンに投げつける。これはたぶんベンの回想としての主観シーンなのだろうけれど、深く刻み込まれた思いが記憶の中で持つ時間というのは時計的時間ではないことが既にここで表現されている。バックにはベルリーニの歌劇『ノルマ』のアリア「カスタ・ディーヴァ(清らかな乙女よ)」が流れていて、んんん~ん、実に気持ちのよい映像/音楽によるスタート。チラシ等の解説には「ガールフレンドにふられたショック」とあるのだけれど、ちょっと違う感じ。精神的に成長出来ていないゆえに(もしかしたらスージーも)、誰か異性と継続的に関係を築いていくことが出来なかったベンなのだ。そしてそしてそれゆえの何かを言って彼女を怒らせてしまったわけで、実は彼からの別れだったような感じで、だから彼を不眠症にまでしてしまう失恋のショックというのは、スージーを失ったことだけが問題なのではなく、そうでしかあれない自分に対する自己嫌悪をも含んでいる。とにかくそのショックで眠られなくなったベン、1日の時間が1/3増えた。余談ながら眠っていた8時間が起きている時間として増えたということなら、眠っている時間はもともとカウントされていないわけで、ならばもともと起きていた16時間に8時間がプラスされたわけで、1日は1/3ではなく1/2増えたと思ってしまう自分です。そこでスーパーマーケットの深夜勤のバイトを始める。登場するのは、2人(後に3人)の男性の同僚、レジの女性シャロン(エミリア・フォックス)、それと店長。彼らとともに物語は進んでいく。基本は演説好きの独り善がりの熱血漢の店長と、エキセントリックな3人の同僚との喜劇タッチの進展。イギリス的ユーモアの世界かどうかは知らないが、これは特に面白くはない。ところがベンは何故か時間を止める術を身につける。時間を止めると人々はマネキンのように動かなくなる。動いているのはベンだけ。それでベンは女性客の服を脱がせてスケッチをする。でもそこにイヤらしさはない。ベンを演じたショーン・ビガースタッフという人は『ハリー・ポッター』に出ていた人らしいけれど、なにぶん見ていないのでわからない。彼の少年的あどけないキャラクターのお陰だろう。画家がヌードのモデルを描いているだけだ。もちろんその根底にはエロスがある。そのエロスと女性美との関係がここではテーマとされている。彼をその世界に引き込んだのは、つまりは画家となることを志望したのは、少年時代に見たスウェーデン留学生のヌードだった。女性の造形美に表出した人間の生=性(エロス)であり、またまた逆にそれを造形美に仮託する。「らしいな!」と感じたのは、何でもない女性客の胸や下半身は露出させてスケッチするベンだけれど、後に恋愛関係の成立するレジ係シャロンはそこまで脱がせてしまわないことだ。(以下ネタバレ)ベンとシャロンのロマンスはお決まりの別れ(シャロンがベンの元カノとのことを誤解する)があるけれど、瓢箪(友人のイタズラ)から出た駒で画廊のオーナーに認められ個展を開く。そこにあるのはシャロンの絵ばかりだ。そこにやってきたシャロン。その絵に自分へのベンの愛を確認して、時間が止まった中、動いているベンとシャロンが空中に雪が一面に浮かんだ夜の街へ出るという、やり過ぎ的ロマンティシズム。愛の結晶化された止まった時間の中の2人ということだろう。それにしてもエミリア・フォックスという女優さんはキレイですね。その彼女が、監督の写真家的目かも知れないけれど、ベンの気持ちが深くなるに連れてより美しく、魅力的に撮られていた。彼女をキッカケにポランスキーのあの映画でもみましょうか。(ちなみにこの映画の日本語タイトルの表示のあり方に対する不満は昨日の日記に書いてあります)。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.09
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外国映画のタイトル考上のチラシ画像は、先日見た『フローズン・タイム』という映画のものです。いずれレビューを書きますが(追記:明日の日記にレビュー書きました)、この映画はイギリス映画で、なので原タイトルは英語で、『CASHBACK』。チラシのタイトル部分を拡大すると下のようになります。1行目:A SEAN ELLIS FILM2行目:FROZEN TIME3行目:フローズン・タイムと大きな文字があり、画像の下の方、赤い下線を付した部分に、とても、非常に、かなり、物凄く、小さな文字で、英語原題『CASHBACK』が書かれています。「凍りついた時間」等と日本語ではなくカタカナの題にしたかったのだろうし、さりとて「キャッシュバック」ではイメージが違うと感じたであろうことは理解できますが、このチラシ(やきっとポスターも同じ)を見たら「FROZEN TIME」が英語の原題に見えてしまいますね。上の『エコール』も同じようなケースです。こちらはフランス語ですが。ちなみにフランス語原題は『INNOCENCE』。英語でもフランス語でも、原題そのものの片仮名書きではない、同じ言語による別タイトルはやめて欲しいです。いや、やめるべきです!!。フランス映画『アパートメント』のアメリカ版リメイク『WICKER PARK』の日本語タイトルは『ホワイト・ライズ』。題名のつけかた自体は同じ様式。英語原題『WICKER PARK』を、英語カタカナ書きの『ホワイト・ライズ』(「WHITE LIES」)にしています。こちらはチラシやポスターではなくDVDジャケットですが、「WICKER PARK / ホワイト・ライズ」としていて、「WHITE LIES / ホワイト・ライズ」としていないところがまだ良心的ですね。一目瞭然、「WICKER PARK」が原題だとわかります。この『美しき運命の傷痕』の場合には、日本語の題名だから表示の問題はありませんね。むしろ右下赤い下線部分のようにフランス語原題と英語題を載せてくれているのは親切かも知れません。ただ日本語題名の付け方としては疑問もあります。キェシロフスキ監督が脚本執筆途中で死んだために実現しなかったとはいえ、この作品はダンテの『神曲』を下敷きにした「天国」「煉国」「地獄」の三部作なのだから、『美しき運命の傷痕』という題はいただけないですね。原題『L'ENFER』は「地獄」の意味。同じ3部作の「天国」は『HEAVEN』(=天国)として映画化されています。その日本語題は『ヘヴン』です。せめてどこかに「地獄」を入れて欲しかったですね。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.08
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探偵事務所5 Another Storyマクガフィン 劇場版Hayashi Toma58min(ビデオ作品、日本語)(桜坂劇場 ホールCにて)昨日の日記に書いたような経緯で、昨年首里劇場で見たこの作品を、今回また桜坂劇場で見てきました。探偵事務所5とは: 永瀬正敏主演の「私立探偵濱マイク」シリーズを送り出した映画監督・林海象のライフワーク『探偵事務所5』は「5」を先頭にする三桁の番号を持った探偵たちが活躍するシリーズである。林海象が監督を務めた二部構成の劇場版『私立探偵591 ~楽園~』『私立探偵522 ~失楽園~』と共に、ネットではそのサイドストーリーを配信。宍戸錠、佐野史郎といった名俳優がレギュラーとして出演し、その他、石橋連司、ベンガル、柏原収史、成宮寛貴など、そうそうたる顔ぶれがシリーズで活躍する。またコミック版や、スポンサーとコラボレーションした特別版など、多様なメディアで展開している。(突貫シアターちらしより)。と言うわけで、その探偵事務所5・沖縄支部の探偵は515(藤木勇人)。515というナンバーは1972年5月15日の沖縄返還の日から選ばれたのでしょう。沖縄の本土復帰というのは映画の内容にもかかわっています。人のいい探偵515は依頼者から探偵料取れない仕事をしたりで、借金を抱えていて、探偵事務所・本部には隠れて、運転代行を副業にしている。彼に付きまとっているのが、根は悪くはないのだろうけれど、ちょっとやばいことも含めて、何かと金、金、金を稼ごうとしている久手堅(津波信一)。昨夜も515と久手堅は運転代行でヤクザがらみの仕事して小金を稼いだ。翌朝埠頭で久手堅は515に分け前の10万円を渡すけれど、そのまま「借金の返済分ね」と取り上げてしまう。そんなとき515は臨月に近い大きなお腹の妊婦(洞口依子)を見かける。事務所兼住居に515が戻ると探偵事務所5の川崎の本部から久しぶりの仕事の電話が入る。資料のファクシミリも既に来ていた。依頼は沖縄に来ているらしい女・成子を見つけだすことだったが、それは何と朝埠頭で見かけた妊婦だった。慌てて埠頭に引返した515だったが、女・成子は風景をスケッチしていた。話しかけると成子は見逃してくれと言う。こうして515はたぶん沖縄に関連があるらしい失った幼い頃の記憶を辿る成子につきあうことになる。ちょっと余談かも知れないけれど、題名の「マクガフィン」についてちょっと説明しておきましょうね。マクガフィンの意味なんて知ってる、って方はこの段落を飛ばして下さい。ただこの映画では、結局女・成子が誰にどうして追われているかは最後まで示されないことや、後半で動物用の麻酔銃が出てくるのも「あのマクガフィン」への関連だとだけ言っておきましょう。マクガフィンというのはヒッチコックの映画手法なんですが、アルフレッド・ヒッチコックという人は、映画の中で語られることっていうのは映画の中だけのことであって、細かなリアリティーなどにことさら重きを置いていなかった。彼の関心は、観客をいかに操るかであり、作中人物が味わう恐怖を観客にも味わわせることだったんですね。それでこんな逸話を語っています。「ロンドンからエジンバラに向かう列車車中に2人の乗客が乗り合わせた。その1人が『すみません、網棚にお乗せの妙なお荷物は何なんですか?。』『ああ、あれ?、あれはマクガフィンです。』『マクガフィンって何ですか。』『スコットランドの山中でライオンを捕まえるための道具ですよ。』『でもスコットランドの山中にはライオンなんていないでしょう。』『そうですか。じゃああれはマクガフィンじゃないですね。』」というものだ。つまりマクガフィンというのは、観客の関心を引くために、作中人物たちにとっては重要な何かであると示されるけれど、結局観客には何であるかはわからないことなんですね。映画に戻ると、成子は絵本作家なのだけれど、スケッチブックに自分でもわけがわからずに「MacGuffin」と書いていた。そして沖縄返還の頃、それ以前のことを成子は少しずつ思い出し始める。檻の窓の並んだ動物園、その一角にあった彼女の部屋(檻?)、閉館後に動物たちと遊んだこと、「お薬飲みましょマクガフィン」。そして彼女の道案内で515の運転する車がやってきたのは廃屋となった動物園だった。久手堅はマクガフィンとは米軍基地関連の何か秘密だと推理して、基地関連でのし上がった人物たちにカマをかけ、むかし軍の秘密の動物実験・人体実験をやっていたらしい人物が浮かび上がってくる。推理ものなので、ハッピーエンドだということだけにして、この後の展開の詳細は書かないでおく。この映画はガンで子宮摘出手術を受けた洞口依子の女優復帰作品だ。子供を産めなくなった彼女が妊婦を演じ、彼女が沖縄の人々や海に癒されたように、この地で記憶を取り戻し、海に癒され、海の中で出産する。そういう彼女の経験や思いと物語の成子を重なり合わせた見事な脚本(當間早志・利重剛)で、もちろん洞口の演技も素晴らしい。沖縄の本土復帰、成子の過去からの再生、女優・洞口の病気からの再生が巧みに重ねられている。そしてどこの国でも「軍」が行っているだろう暗黒の実験。それはここ沖縄では特に意味が深い。それは過去の歴史だけではなく、現在のこととしてもである。詳細や事実関係は知らないので根も葉もない噂の域を出ないものと理解していただきたいが、PTSDを負った米軍兵士の治療と社会復帰の実験の場に沖縄が使われているという話もある。その治療の失敗の結果が何であるかを書くことは辞退させていただきたい。昨年首里劇場で見た30分ずつの前・後編版は途中(前編最後と後編最初)に無用の部分があって流れをそがれたが、劇場版として58分にまとめられていたのは良かった。60分というとオムニバス作品の一編か、あと思い出すのはキェシロフスキの『デカローグ』だけれど、1本の映画として映画館で同じ1本分の入場料金を取られるのはちょっと損をした感じもないではないけれど、60分という枠は十分にしっかりした内容の物語を描けるということだ。最近の日本映画を見ているといたずらに2時間を超える作品があるけれど、凝縮した内容で、しかも映画的時間を味わわせてくれたこの映画は好きな一編だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.07
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楽しくもちょっと忙しかった週末いつも通っている桜坂劇場、普通には映画館なのですが、ライブや講演などのイベントも催されます。でこの7月5日(土)、6日(日)はマルチアーティスト石田英範さん御一行のイベントがありました。石田さんは女優の洞口依子さんとパイティティというウクレ・レユニットをやっておられます。そこで一つはニュー・アルバム発売記念&PV完成記念のライブ。そのパイティティが音楽を担当し、洞口さんが主演のネットムービーで、沖縄では昨年5月に首里劇場で公開された『探偵事務所 5/マクガフィン』劇場版の公開(1週間)。さらに6日には洞口さんが病気に関して書かれた手記『子宮会議』のリーディングセッション&シンポジウムのイベントです。パイティティの新しいPV(YouTubeでもう見られるらしいです)を製作したのはウルトラマン等の特殊メイクで有名な、そして御自身『ミカドロイド』等の監督でもあられる原口智生さん。今回のこの一連のパイティティ御一行のイベントの様子を原口さんがみえてドキュメント作品として撮影されていて、うちのギターの森も撮るっておっしゃっられて、お店にも来られ、そんなこんな、ライブや講演に行ったり、御一行の方々がお店に見えたり、このライブでファルコンさんが使うギターをお貸ししたりと、充実した楽しくもちょっと忙しい週末でした。昨年5月のときには書かなかったので、今回しめくくりに見に行った『探偵事務所 5/マクガフィン』のレビューは近日中にアップする予定です。追記:明日の日記に映画『探偵事務所5 Another Story マクガフィン』のレビューをアップしました。ついでに携帯写真ですが、下に5日のライブの写真を追加しました。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.06
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CEUX D'AUJOURD'HUIMinoru Shibuya白黒112min(スタンダード、日本語)(桜坂劇場 ホールCにて)見応えのある作品で、感心・感動しました。戦後50年代、60年代、まだ自分が生まれる以前、あるいは幼かった頃の日本映画、大映作品はテレビやビデオでずいぶんと見ていますが、松竹作品はあまり見ていませんね。映画の上映が始まって、まず富士山の松竹ロゴ画面なのだけれど、右下に「1952」と見慣れぬ数字。と続いて「CEUX D'AUJOURD'HUI」とフランス語のタイトル。あれっ?、って思っているとキャスト・スタッフのクレジットもすべてフランス語とローマ字。なんとフランス版プリントだったんですね。全編画面下にはフランス語のセリフ字幕が入っていた。それで帰ってネットで調べたら、1953年第6回カンヌ国際映画祭・正式出品作品だった。この年のカンヌには日本からは他に新藤兼人『原爆の子』と衣笠貞之助『大仏開眼』が出品されている。ちなみに最高賞(当時はグランプリで、まだパルムドールではなかった)はクルーゾーの『恐怖の報酬』が受賞した。この時の審査委員長はジャン・コクトーで、以下審査員もほとんどフランス人だった。非フランス語系の人は米俳優エドワード・G・ロビンソンぐらいだ。なのでこのフランス語版プリントはカンヌ仕様なのかも知れない。既に余談気味だけれど、更に脱線するなら、この当時のカンヌ出品作の選定がどうなっていたかはわからないが、1952年の松竹の出品作品は中村登の『波』で、1953年がこの『現代人』だ。後に世界的名作となる同じ1952年松竹作品の『東京物語』は選定されていない。小津のこの作品がフランスで公開されたのは25年後の1978年。それまでほとんど小津の映画はヨーロッパでは知られていなかった。もしも1953年のカンヌで『東京物語』が上映されていたら・・、なんて考えるとちょっと面白い。この時点では全く無視された可能性だってある。さて『現代人』。映画の中にもセリフとして出てくる「アプレ」といいう言葉。アプレ・ゲール(仏:apres-guerre)すなわち戦後という意味で、戦前と価値観が一変し、既存の道徳観のなくなった若者をさす言葉として戦後流行した言葉らしい。そういったものを「現代人」と呼んだタイトルだろうが、公式のフランス語タイトルは複数になっているから、池部良演じる小田切徹をとりわけ指しているものではないだろう。国土省建設局。課長の萩野(山村聡)の妻は胸を患い療養所に入っていて、年頃の娘・泉(小林トシ子)と2人暮らし。土建屋の岩光(多々良純)に付け込まれ、入札を操作するなどして岩光に仕事を回し、賄賂を受け取っていた。療養所の費用も必要だし、岩光に紹介された銀座のクラブのマダム・品子(山田五十鈴)との愛人関係にもお金が必要だった。一緒に汚職をしていた主任の三好が配置変えになったのを期に萩野は岩光と手を切ろうとするがなかなか上手くはいかない。三好の後任は小田切(池部良)。真面目な青年と思われたが、意外と簡単に岩光との関係を築いて小遣い稼ぎをスマートにやってのける。そのドライさは「アプレ」っていうことなのだろうが、小田切の父親は赤本出版をしていて、ガード下の作業場兼住居の劣悪環境の中で家族は貧乏暮しをしていた。小田切はそれを見て、地道に役所の安月給で生きるなんていうのはアホらしくなったんでしょうね。この辺の一種の当然の理由、そういう社会に対する批判も込められている感じです。そんな小田切青年なんですが、だからこそと言えるのかも知れないけれど、上司・萩野の純粋な娘・泉を見て恋に落ちると純愛そのもの。一方の泉もそんな彼に惚れる。泉は父の汚職も愛人も知らないのだけれど、母の病気が治って親子3人世界でいちばん幸せな家族になることを夢見ていた。ドライなアプレであるというのは社会に対する冷めた目であって、実は純粋であるからこその歪みなのかも知れない。だから一方では純粋である部分の反動も内在する。それで泉の望みを叶えようと考える。それは一つは泉の父・萩野を汚職から手を引かせる、つまりは萩野をいつまでも利用しようとして離さない岩光に萩野を解放させることであり、今一つは萩野と愛人・品子を別れさすことだ。(以下ネタバレ)そのやり方はアプレ的に実にドライ。岩光の方は自分が一手に汚職の相手を引き受けることで萩野を解放しようとする。品子の方は、彼女を誘惑して寝取ってしまうという形で萩野と別れさす。でもそれが済むと品子をポイなんですね。しかし品子のバーで岩光と飲んでいて、酔っぱらってわけもわからずに小田切は岩光を殺してしまう。逃げてもどうせいずれは捕まる。事件が明るみに出れば泉の父の汚職も世間にばれてしまう。そこで早朝の役所に行って彼は証拠隠滅を計ろうとする。でも問題の書類は鍵のかかった萩野のデスクの引き出しの中。時間も迫る中、彼はガソリンを撒いて火を放つ。逮捕された彼は汚職、殺人、放火だから、当然に死刑判決を受ける。世間は隠された事情は知らないから、新聞は「アプレの犯罪」とまくしたてた。一種の自暴自棄状態。父の出版社に出版させようという「死刑囚の手記」に、「今日は泉さんが面会に来てくれた」と愛の喜びをしたためていた。泉の母は病状が悪化して死んでしまい、泉の夢は叶わないのだけれど、父と娘は父が自首して真実を語ることを語り合うのだった。山田五十鈴と言うと自分にとっては気っ風のいい粋な姉さん、でもかなり老けたおばさんやおばあさんの役のイメージが強いのだけれど、このとき35才ぐらい。小田切という若造に騙されたと知りながら、泉を思う彼の気持ちを受け止めて事件の背景は何も話さないと小田切に約束する。この辺の心理を演じる山田の貫禄と演技には目を見張るものがありました。娯楽映画であるのに、社会派でもある内容、そして何よりもこの映画で描かれた倫理性っていうのが良かったですね。昔の日本映画というのはこうだったんですね。やはり何処か一本筋が入っているという感じです。ホームドラマである『東京物語』ではなく、この作品をカンヌに持って行きたかった松竹の首脳陣の気持ちもわかるような気がします。そのままフランス映画としてリメイク出来そうな内容と言えるかも知れません。どうして最近の日本映画は、真面目そうな内容でもオチャラけた、そして何よりも薄っぺらい作品が多くなってしまったのでしょうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.05
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知らなかったことを一つ知る(Le Monde de Marty)さっき1952年、池部良主演・渋谷実監督の『現代人』について調べていて、思わぬことを知りました。1年ほど前に見てレビューも書いた『約束 ラ・プロミッセ』(1999)についてです。この映画の原題は主人公の少年マルティーの名をとって「マルティーの世界(Le Monde de Marty)」。1956年カンヌ国際映画祭で最高賞に輝いたのは海洋学者ジャック=イヴ・クストー(ルイ・マルが共同監督)の『沈黙の世界(Le Monde du silence)』という映画なのですが、そのポスターに少年マルティーはイタズラ書きをする。「du silence(沈黙の)」の部分を消して、「de Marty(マルティーの)」に書き換えてしまう。これで「Le Monde de Marty(マルティーの世界)」となるわけだ。そのことはレビューにも書きました。ところがその「Marty」という少年の名前。フランス語にない変な名前だとは感じていて、殉教者を意味する「martyr」への含みかな?、なんて思っていました。ところがこのMartyというのは前年1955年のカンヌ・パルムドール受賞、デルバート・マン監督のアメリカ映画の題名(主人公の名)だったんですね。日本語題は『マーティ』です。他映画へのオマージュというのはその映画の本質ではないけれど、こういうことを知ると映画鑑賞にはまた別の楽しみが増えます。まだまだ知らないことだらけの映画の世界です。それとこの『マーティ』という映画、カンヌ受賞というだけではなく評価も高い作品なので、ちょっと見てみたくなりました。レンタルDVDとかあるのかな?。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.04
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2 DAYS IN PARISJulie Delpy101min(1:1.85、フランス語/英語)(桜坂劇場 ホールBにて)女優ジュリー・デルピーの脚本・製作・主演・音楽・編集&初監督作品、面白かったです。表面的にはスケッチが連続するような軽快に進むラブ・コメディーですが、二重構造の作品だと思います。一方では「アメリカ/フランス」というカルチャーギャップがテーマであり、それと重なる形で「男性/女性」と、その愛の可能性/不可能性がテーマ。ここでは男性はジャックというアメリカ人で、女性はマリオンというフランス人だけれど、だからと言ってどちらがどっちということではないと思います。デルピー自身がパリとロスに暮らすフランス女性で、またもちろん男性との恋愛もあるのだから、自身で演じるマリオンという人物は、非常にラフな意味では自伝的人物でもあるのでしょう。マリオンとジャック(アダム・ゴールドバーグ)はニューヨークに暮らすカップル。マリオンは写真家で、ジャックは建築家。2人はある意味倦怠期とでも言うか、ちょっと難しい局面にあったのでしょう。甘~い恋と言えばヴェネチア。そこにリフレッシュのラブラブ旅行を試みる。実際にはピューリタン的潔癖主義のジャックには旧世界たるイタリアでは食事も合わず、ずっとお腹を壊していたらしい。2人はアメリカに帰る前にマリオンの両親の住むパリに、両親に預けてあった猫を引き取るという用事もあって、2日間ほど滞在することにすることにしてやってくる。列車でやってきた2人だけれど、リヨン駅に着いた早々タクシーは行列だし、「テロが危ない」と言ってジャックはメトロもバスも乗りたがらない。タクシーに乗れば窓の外に見えるのはエッフェル塔など絵葉書のパリだけれど、運転手とマリオンのフランス語での会話はジャックには解らない。そう、ここはパリ。中華思想のフランス・パリだから、フランス語を話せば人間。話さなければエイリアンなのだ。いやあ、良くも悪くもこれが一種フランスやパリの現実。フランス語を話せば人々との交流は広がるけれど、話せなければ部外者であって、人間ですらないかも知れない。パリやフランスに旅行してフランスやフランス人に馴染めなかったという日本人観光客も少なくないようだけれど、それはフランス語を話せないからなんですね。2人がやってきたのはマリオンがパリに持つアパルトマン。便利だからと両親の住むアパルトマンの上の部屋をマリオンは買っていたんですね。部屋に入るや雑然としたマリオンの部屋、古い建物で浴室にはカビが生えてたりして、「清潔過ぎるからアレルギーにもなるのよ。昔は寄生虫だらけだったけれどアレルギーなんてなかった」と平気なマリオンだけれど、潔癖過ぎる清潔好きのジャックには耐えられない。「浴室は封印だ」とまで言い出す。ちょうど2人がベッドインしていたとき、管理のために鍵を預けられている母親が、「洗濯物はない?」って部屋に入ってくる。「今着替中だから」とか部屋の奥まで母親が入ってくることは差し止めるけれど、マリオンはもともと別に動じてもいないんですね。一方のジャックは焦っていて、プライバシーがないとこぼす。セックスというのは他人に見せるものではないし、逆にしげしげと観察・覗き見るものでもないけれど、当然の行為だということでしょう。別の映画の中で、父だけかと思って朝子供が父の部屋のドアを開けたら父が母とベッドで抱き合っていた。子供(少女)は「あっ、失礼」って言って、悪びれもせずすぐドアを閉めて去る。そして両親の関係が危ういことを危惧していたその子供は、お父さんとお母さんがベッドで抱き合っていた、って喜んで兄に報告に行く。見るものでもなく、見せるものでもないけれど、当然の行為だという認識ですね。もちろんその行為が単に性欲だけのものではないという前提があるわけです。ある知人(日本人)が、フランス映画とかのラブシーンだと、何の恥じらいもなく女が服を脱いで裸になってしまって、色気もへったくれもなくってつまらないと言うのですが、裸になることを恥ずかしがるというこの色気というのは、実はイヤらしい性欲的要素ではないでしょうか。脱線してしまいましたが、ここでジャックはかなり男性中心主義者として描かれてもいます。その気になった2人がベッドで抱き合い始めるのだけれど、マリオンが上になりたいというのを、ジャックが頑に自分が上だと言い張って、マリオンは「その気がなくなった」ってやめてしまうシーンは笑わせられました。ジャックがアメリカ人であるとかいうこととは無関係に、男女間に存在する究極的行き違いの象徴でもあるように感じられます。この映画に登場するマリオンやその両親、彼女の多数の元カレ、それが多くのフランス人の典型像ではないし、ジャックがアメリカ人の典型像というわけでもない。多分に戯画化、カリカチュアライズされてはいます。でもそんな姿やセリフからは、やはり大西洋を隔てたフランスとアメリカの人々の実像というものが浮かび上がってくる。決して親切に説明的には語られないけれど、その辺を見るのが面白い。最初に書いたようにこの映画では「男性/女性」と「アメリカ/フランス」という2つの2項対立が重なっているのだけれど、ジャックがマリオン→フランス(人)を理解出来ず、マリオンがジャック→アメリカ(人)を理解出来ないとすれば、それはすなわち男性が女性を、女性が男性を理解出来ないという構図でもあるわけです。もちろん舞台はパリであり、デルピーの演じるマリオンというフランス人で女性である人物から見たアメリカや男性なわけだけれど、あるがままの欲求や気持ちを外に出してしまおうというフランスと、潔癖に、ピューリタン的に、何かを決めてしまってそれに従おうとするアメリカの対立かも知れない。マリオンと外出したジャックは、彼女の元カレと次から次へと出会う。ジャックは一度別れた元カノとは決して会わないという。マリオンは既に別れてしまっていても友達づき合いは続けるのは当然だと言う。もちろんそうやってつき合っていれば、今は友人とは言っても、過去形ではなく現在形として一人の男と一人の女であることも事実だ。ジャックのようなあり方をボクはかつて「遮眼帯の貞操」と名付けたのだけれど、自分以外の異性を相手に見せずに自分を選ばせ続けること、あるいは相手以外の異性を見ることなしに相手のみを異性として選んでいること、そこには欺瞞に満ちた安定があるだけなのではないだろうか。それは他国の状況を国民に見せることなく国民を自国の体制に従わせようという何処かの国と同だ。少なくともここでは男と女や、その愛における本質の追求において、マリオンの方がより成熟していることは確かで、ジャックの姿が子供に見えてしまう。冒頭からスノーボールを画面いっぱいに大写ししたのは名画『市民ケーン』のオーソン・ウェルズへのオマージュ。あるいは愛の一つの究極を描いたベルトルッチの『ラストタンゴ・イン・パリ』の引用。それのわかる映画好きをある程度観客に想定してもいるだろうし、また誤解を恐れず思っていることを説明的ではなくどんどんセリフで言ってしまうといいう作り。そこには解ってくれるであろう観客に対する信頼のようなものがあって、あるいは解られなければそれでも良いという潔さが感じられるのだけれど、それもこの映画の魅力かも知れない。映画館でドカ~ンと一発全体を見せられたのは良かったと思っているけれど、今度は(時間があれば)DVDで詳細にセリフなどを検討してみたい作品だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.03
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TOKYO STORYVOYAGE A TOKYODIE REISE NACH TOKYOCUENTOS DE TOKYOVIAGGIO A TOKYO東京物語Yasujiro Ozu白黒136min(桜坂劇場 ホールAにて)小津安二郎と言うと、ゴダールだ、トリュフォーだ、コッポラだと、海外の重鎮的映画作家に評価される、いわば日本映画を代表する顔の一人だ。では自分はどうかと言うと、ちょっと妙な感覚を持っている。映画館の上映スケジュールに小津の名前を見たとき、あるいはレンタル屋でビデオやDVDのジャケットを手にしたとき(いずれの場合も既に見たことのある作品なのだが)、「あ~、小津か~、小津ね!」っていう冷めた感覚なのだ。しかし今回のこの『東京物語』もそうだったのだが、実際に見ると強い感心・感動を与えられる。物凄い傑作なのである。有名作品であり、もう55年も前の映画なので、ネタバレは気にせずに簡単にストーリーをまず紹介しよう。尾道に暮らす老夫婦・平山周吉(72才)と とみ(68才)。二人には3男2女の子供がいた。長男・幸一は東京で内科の町医者をしており、結婚して妻と2人の息子がいた。長女・志げは結婚し、東京で美容院を経営。次男・修二は8年前に戦死していたが、未亡人の紀子は今も独身を通し、会社員をしながら東京のアパートで一人暮らしをしている。三男・敬三は国鉄職員で大阪暮らし。末の次女・京子は小学校の教師で、尾道で両親と一緒に暮らしている。1953年夏、周吉/とみの老夫婦は、東京に住む子供達のもとを訪ねる旅に出る。今でこそ新尾道で乗っても、あるいは在来線の尾道で乗っても、新幹線を使えば東京まで5時間はかからないのではないだろうか。でも1953年と言えばまだ在来線の「こだま」もできる前だから、東京⇔大阪間だけでも9時間程度はかかったろう。全部で半日は優に超える15時間といった長旅だ。もちろんブルートレイン等といった優雅な寝台列車ではない。つまりは70才前後の老身の夫婦にとっては一世一代の大事業なのである。東京駅に着いた老夫婦(笠智衆/東山千栄子)は長男・幸一(山村聡)と長女・志げに伴われて幸一の診察所を兼ねた住宅にやってくる。迎えるのは幸一の妻・文子(三宅邦子)と2人の息子。やがて戦死した次男・修二の妻・紀子(原節子)がやってきて、仕事で東京駅に出迎えに行かれなかったことを詫びる。夕食は和やかに進むが、それが済んで夜老夫婦2人となったとき、幸一が東京と言っても場末でつまらない町医者をしていることの失望感を周吉は洩らす。翌日の日曜日は幸一が老両親と息子たちを連れて東京見物に出かけるはずだったが、急患で中止せざるを得ない。数日後老夫婦は今度は美容院を営む志げ夫妻(杉村春子、中村伸郎)の家に来るが、夫婦は忙しく、両親の相手をしている暇がない。志げは紀子に老夫婦の世話を頼む。小さな会社に勤める紀子は、1日休暇をもらい(その分翌日夜残業をして自分の仕事を片付けなければならないのだが)、義理の両親を東京見物に案内する。彼女の真心のこもった世話で、老夫婦は楽しく、幸せな1日を過ごすことが出来た。老夫婦は義理の娘・紀子に、修二のことは忘れて再婚するなど新しい人生を送ることを願う。この後志げがいわば厄介払い的に幸一と僅かなお金を出して両親を熱海の安旅館へ旅行に出し、また周吉は東京に出ているかつての尾道での旧知と酒を飲むが、その辺の詳細は割愛する。自分達は厄介者で居場所がないと感じた老夫婦は尾道に帰ることになる。そんな子供達に腑甲斐無さを感じつつも、「東京は人が多すぎる」とか「私たちはそれでもましな方」、「そう私たちはどちらかと言えば幸せなのだ」と、温厚な老夫婦は怒ることはない。終始表面的にはにこやかだ。しかし帰り道、とみが体調を崩し、大阪で途中下車して三男・敬三(大坂志郎)の家で療養する。いちおう回復して2人は尾道に帰るが、数日して東京の子供たちの元に母・とみが危ないという電報が届く。幸一夫婦、志げ夫婦、紀子は駆け付けるが、出張中で連絡を遅れて知った敬三は母の死に目に会えなかった。葬儀が済むと早々に東京へ帰っていく子供たち。しばらく残ったのは紀子だけだった。そんな兄や姉たち、とりわけ葬儀も終わるや早々に自分の欲しい物を形見分けとして要求した志げに対する不満を、末の京子は紀子に「親子ってそんなものじゃないでしょ」と言って洩らす。紀子は「年を取ると自分の生活の方が大切になるのよ」と京子を慰める。そして「そうはなりたくないけれど、私もきっとそうなるのよ。」と続ける。この映画は昔と現在(未来)という時代の対立、若さと老齢の対立、地方と大都市の対立、そういう2項対立をテーマとしている。大都市生活の子供たち若い世代の心にゆとりがなくなり、自分のことしか考えられなくなっている現実の確認が一方にあり、それは正しいとまでは言えないにしても正当な説明のつく状況でもある。そしてその一種のエゴイズムに対する過去の老世代の諦念、その対立とバランスの物語だ。日曜日に急患で出かけられなくなったとき、とみは小さな孫を連れて散歩に出る。祖母は、将来の夢や自分が死んでしまってからのことを孫に尋ねるが、孫は答えることはできない。老夫婦は「自分たちは幸せな方」と考えることで現状としての絆を維持することしか出来ないのだ。各人にはそれぞれの理由を持っている。志げはやや悪者的に描かれてはいるけれど、とみに「昔はあの子ももっと優しかったのに」と言わせているように、戦後期にこうして自営の美容院を構えるまでには色々な苦労があったことが想像される。小津の映画を見ていると、この『東京物語』などは特にそうだけれど、社会や人々の変化に対する郷愁と批判、そしてそう感じる自分に対する一種の自己批判があるような気がする。人々が当然に思い、また小津も共感していること、例えば子供に対する期待もそうだ。「人の多すぎる」東京で、場末のしがない町医者である幸一になぜ親は不満、腑甲斐無さを持つのか。その発想自体が既に親の子供に対するエゴではないか?。他の作品でいうなら妻を早く失って娘が父の世話をし、それで嫁に行き遅れるというテーマがある。子供は子供の人生であって、親の所有物ではないのだけれど、ついそこに甘えてしまう親の当然の心情、それに小津も共感をたぶん持っているのだろうが、それは過度な要求だと自覚しなければならないけれど、事実そう感じることの不条理。この映画では一方には尾道の老夫婦と京子がいて、一方に東京の子供たちがいる。その中間に位置するのが紀子で、いわば周吉とは別の意味で小津の分身的存在なのだろう。彼女は8年前に夫を失っていながら、前へ進もうとせず、停滞の状態に満足している。しかし「私もきっとそうなるのよ」と言うように、新しく自分の人生を生きることに踏み出さなければならないのだ。そんな紀子が尾道を去るとき、学校の教室の窓から見える線路を紀子を乗せた列車が通っていく。授業中の京子は「時計」を見て通過時間に窓から列車を見送る。一方車中の紀子は義母の形見として周吉にもらった「時計」を取り出して見ている。時間は否応なしに進み、社会も人の心も変化していくのだ。この映画についてはアントニオーニを思わせる物や無人の風景の撮り方とか、イマジナリーライン(想定線)を無視したカットバックとか、書きたいことも少なからずあるのですが、なにぶん劇場で見て(3度目?)、手元にDVD等を所有していないので、また別の機会にしようと思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.02
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やっぱり映画は映画館(?)5月27日の日記に書いた映画館(桜坂劇場)での好み的映画ラッシュですが、結局6月は14本を映画館で見ました。おおよそ2日に1本。6月はまだDISCASを休止していなかったのでDVDも見たけれど、その6月分を見終わってからは1本もDVDやビデオを見ることがなくなってしまいました。自分はもともとテレビを見ない(今は見れさえもしない、よってNHK受信料も正当に払っていない)というのもあるけれど、映画を「家で」「テレビ画面で」見ることに何か違和感をも感じるようになってしまいました。どうしても見たいと思ってヤフオクとかで入手してあるレアなビデオやDVDにも手が伸びない状態です。でも最近の東京などの映画事情はどうなっているのでしょうか。かつての名画座は無くなったとして、半年前とか1年前に公開された作品を上映する二番館のようなものはあるのでしょうか。そういうのがないと、結局DVD等に頼るしかないわけですね。実現しない夢とは思いつつ、観客の映画館へのUターン現象なんてものに期待したいですね。以下が最近映画館で見た作品です。5月末:『モンテーニュ通りのカフェ』『タクシデルミア ある剥製師の遺言』6月:『エルミタージュ幻想』『地上5センチの恋心』『ぜんぶ、フィデルのせい』『そして、デブノーの森へ』『モレク神』『牡牛座 レーニンの肖像』『プライスレス 素敵な恋の見つけ方』『CONTROL コントロール』『4ヶ月、3週間と2日』『エンジェル』『ハーフェズ ペルシャの詩』『人のセックスを笑うな』『譜めくりの女』『アイム・ノット・ゼア』7月:『パラノイド・パーク』『東京物語』『パリ、恋人たちの2日間』『現代人』『探偵事務所5 マクガフィン』『靖國』監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.01
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