2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全33件 (33件中 1-33件目)
1

LOULOU GRAFFITIChristian Lejale寸評:とってもな駄作。でも頭にはこなかった。ルイ・マルの同邦題映画とは無関係。子供向け作品?。これも10円とか50円で買っておいた中古ビデオの1本。ちょっと気掛かりな気分で時間を潰さんければならなかったので見た。駄作と言えば駄作だけれど、頭にくることはないし、フランス語の勉強目的ならもう一度くらい見てもよいと思う。この映画、もしかしたら子供向きに作られたものなのかも知れない。だからあってもよさそうな大人主人公男女のラブシーンはないし、原産国フランスのポスターもなんとなくそんな雰囲気。テレビで放映され、暇で他に何もなければ見てもいい映画だと思います。とくに小学生ぐらいのお子さんと一緒でも安心して見られます。(以下ネタバレ)パリのとある家の夜中の薄暗い室内。男が音をたてないように、カメラとかウォークマンとか金めのものを手に取り、カバンに入れている。女がデスクにうつ伏せに居眠りをしている。ちょっと泥棒を思わせる。邦題にもあるように泥棒の暗示。でも男はデスクで居眠りの彼女と暮らしていた男性らしく、ドアの把っ手に置き手紙を挟んで出ていく。外には女が待っていて、一緒に車で去っていく。翌朝寝坊したデスクの女はジュリエット、おもちゃ等の売れない発明家。手紙を手に会社の打ち合わせへ。そこで彼女は上司コスタンディエに、今回彼女の提案のテレビカメラ付きラジコンヘリコプター「ヴォルティジュール(空中曲芸師)」の実現は無理だと言われ、またリストラされてしまう。朝の置き手紙を読むと、別れて出て行くというもの。ジュリエットは夫(同棲の彼)と仕事の両方を失ってしまった。セーヌ河岸で手紙をバラバラに千切って川に捨てると、部屋の鍵がないことに気付く。そこにいた少年ルル。料金の高い鍵屋に頼まなくても自分に出来るという。家に一緒に行くとルルは簡単にピッキングして鍵をあけた。部屋に入るとジュリエットの発明したオモチャの数々。両親を知らない孤児院育ちのルルと、夫と職を同時に失った空虚な心のジュリエットは互いに心が通じ合い始めていた。ソファーで眠ってしまったルルに毛布を掛けるジュリエット。だが朝目覚めるともうルルはいなかった。ルルは孤児院を抜け出して、ジャン・レノ演じる天才的大泥棒ピック・ラ・リュンヌと一緒に泥棒の仕事をして暮らしていた。もう一人の仲良い相棒は黒人のタムタム。三人は郊外の隠れ家に暮らし、第一次世界大戦の頃の戦闘機に乗って夢の世界に遊んでいた。ピック・ラ・リュンヌは隊長で、ルルは機関銃手だった。ピック・ラ・リュンヌは昔ブロックが警視になったときに彼の部屋から収集の古い戦闘機の金属製模型を盗んで持っていて、事件のたびに現場にその模型を一機ずつ自分のサインとして残し、ブロック警視への挑戦を表現していた。ピック・ラ・リュンヌが一つの窃盗を成功するたびにブロック警視にはコレクションの模型が一機ずつ戻されていたわけで、その残りもあと一機になっていた。ピック・ラ・リュンヌは泥棒家業を辞め、高飛びして暮らすつもりでいる。彼の愛する妹はかつてスチュワーデスで、航空機事故で死んだのだ。それは彼の人生を狂わせ、それ以来泥棒家業をやりながら、過去の思い出に生きていた。ルルはピック・ラ・リュンヌにパリに居ることの危険を注意されながらも、ジュリエットに会っていた。廃案にされたヴォルティジュールを彼女は完成させ、そのテスト飛行のプロポを操作するのはルル。セーヌ河岸でのテスト飛行、ヴォルティジュールの出来は完璧、ルルの操縦テクニックは天才的だった。その頃ジュリエットを解雇した上司コンスタンディエは、彼女の発明を自分のものとして日本人業者に高額で売ろうとしていた。社長も同席してのテスト飛行公開の日、自分のものの方が優れていると自信のあるジュリエットはルルにプロポを握らせ、隠れてコンスタンディエを阻止しようとする。互いに自分の夢への情熱に生きる者として、ジュリエットと互いに惹かれ合い始めていたピック・ラ・リュンヌ、捕まる危険を押して、このジュリエットの計画に協力した。2機のラジコンヘリ。さながら空中戦のようだ。しかしヘリの性能も操縦技術もコンスタンディエよりもジュリエットやルルの方が上だ。コンスタンディエのヘリは木に激突して爆発・炎上してしまう。テレビモニターをみながら、「こっちの方が高性能だ」と言う日本人バイヤー。一体誰が本当の発明者なのだと追求されたコンスタンディエは逆上し、ピストルを手にジュリエットたちを探した。一方ブロック警視はテスト飛行の行われている屋敷を警官隊で包囲していた。ピストルを向けるコンスタンディエ。そこに立ちはだかるピック・ラ・リュンヌ。銃弾は発射されピック・ラ・リュンヌは倒れる。救急車が到着するが彼は瀕死状態だ。社長に戻って契約しないかとジュリエットは誘われるが、彼女はピック・ラ・リュンヌを選び、ルルとともに救急車に同乗して去る。救急車内でルルは泣きながら機関銃手として隊長ピック・ラ・リュンヌの言葉を聞いている。しかしコンスタンディエに撃たれて血を流し倒れるのはピック・ラ・リュンヌのトリックと演技だった。救急車の後からはブロック警視のパトカーがついてきていたが、救急車を奪うと3人で逃走。自暴自棄で水中に車ごと突っ込んだ警視と部下を後に、3人を乗せた旧式水上戦闘機は離陸して空の彼方へ飛んでいく。子供向きの作品と考えればまずまずの出来かも知れません。でもジャン・レノの演技などは、たぶん監督の指示なんていうのではなく名優に任せっ切りといった感じ。セーヌ河岸で鍵のないことに気付くジュリエットのシーンなどは、何故彼女が鍵のないことに気付くかとか、全然脈絡がない。ただストーリー上必要な「ここで鍵がないことが発覚」というだけ。お粗末なものです。それでもジュリエットとルルの心の交流など、瞬間的にリアリティーのある部分などもありましたが、これは役者の役づくりの結果でしょう。その先に必要な監督の演出が全く不足です。全体を色々な面で航空機と泥棒の2つで描いたシナリオの発案は悪くないかも知れません。ブロック警視の収集のマニアック性、ジュリエットとピック・ラ・リュンヌの相思関係、警視とピック・ラ・リュンヌの対抗の心理関係、こういうものがもっと深く描ければ、同じストーリーも立派なドラマになるはずだと思います。ジュリエット役の女性に魅力がないと言う方もいらっしゃるでしょうが、大人の男性向けであるより、子供の目に魅力的な女性なのだと思います。あとはなんでもかんでもジャン・レノというファンの方にはもちろんお勧めです。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.31
コメント(0)

PAS SUR LA BOUCHEAlain Resnais寸評:あのアラン・レネの作品。軽佻浮薄なオペレッタに抵抗がなければ楽しめる。ボクとしては監督がレネだけに色々考えてしまう。アラン・レネと言えばボクにとっては初期短編や『夜と霧』、そして『二十四時間の情事』や『去年マリエンバードで』や『ミュリエル』のアラン・レネだ。新作は1980年の『アメリカの伯父さん』までしか見ていない。そのレネが81歳にして彼が生まれた頃のオペレッタ(喜歌劇)を映画に撮った。一体これは何なのだろう。何故なのだろう。ボクはオペラは好きだけれど、今まで見た中ではベルイマンの『魔笛』以外は、オペラ映画ほどつまらないものはない。またミュージカル映画も好きでない。この『巴里の恋愛協奏曲』を見始めたら、なかなかいけるという感じ。レネは『二十四時間の情事』でも迷った末に岡田英次にフランス人役者の吹き替えを使わず、岡田本人のフランス語を採用した。ここでも歌の部分を歌手による吹き替えにはせず、必ずしも歌の専門でない役者本人に歌わせている。だから専門の歌手のような歌唱はなく、そこに不満を持つ向きもあるようだが、ボクはこれはこれでかえって良かったと思う。歌とセリフでの声の断絶がないし、歌が専門的歌唱でないことが、結果としてこの作品を映画らしくしているかも知れない。ストーリーはごくごく簡単で、3人ずつの男と女が愛のどたばたを演じて、最後にはめでたく3つのカップルが成立するというもの。ところが始まって45分くらいのところで、巴里に外国人が多くて、巴里は巴里じゃなくなっている。掃除をしないと。というような移民排斥論のような歌が歌われ、『アクション・フランセーズ』という右翼新聞がデカデカと画面に映される。新聞記事自体にはそのような文字はないと思われるが、字幕スーパーの「民族排斥運動」というのは的確な意訳だ。フランス人観客に読めるのは、たぶんただ「L'ACTION FRANCAISE(アクション・フランセーズ)」という新聞名だけだが、フランス人ならシャルル・モーラのこの新聞(や組織)の意味はわかる。ここで見ているボクの思考回路はやや別の方向に向かされてしまった。いったい何故レネはこの新聞を大写しにしたのか。ここに、上に書いたレネがこの作品を撮った理由があるのか?。そう言えばレネがかつて『薔薇のスタビスキー』で取り上げた疑獄騒動スタヴィスキー事件も『アクション・フランセーズ』に関連する。(アクション・フランセーズ、スタヴィスキー事件、シャルル・モーラス等の詳細はWIKIPEDIA(http://ja.wikipedia.org/)で調べて下さい。)そしてそのまま見続けると、ばからしくも楽しいオペレッタは大団円を迎えて映画が終わる。なかなか単純には楽しめた。終わる直前にカーテンコールのようなスタイルで主演8人の役者を一人ずつ紹介するように登場させた演出も洒落ている。そんな面倒なことを考えなくても・・、と言う方もおられるだろうが、ディズニーのアニメですらドナルドダックのキャラクターの設定などにディズニー氏の政治的主張が込められている。軽佻浮薄なコメディーをそのまま楽しむことはボクにはできない。だいたいが監督はレネなんだし。ここでやっかいなのは、これが既に存在するオペレッタの映画化で、台本は新しくレネ等によって書かれたものではないということ。それでもこの作品を選んだレネには何らかの意図はあるだろうし、そもそも新聞の大写しを敢えてしたのもレネだ。そうやって見てくると、エリック・トムソンなるアメリカ人闖入者の意味にも考えはおよんでくる。口へのキスを拒絶するというのにもピューリタン的潔癖性を感じるし、第三幕の部屋の管理人とのやり取りでの金銭万能主義。他のフランス人の登場人物の彼に対する相手のし方も考え合わせると、現代的に解釈するなら一国主義的アメリカとそれを嫌う旧世界という構図も見えてくる。一方の『アクション・フランセーズ』の排外主義の方はどう捉えるべきか。右傾化する社会にレネがなんとなく安住しているとも感じられるし、逆にこの家族の非時代性を冷ややかに見ているとも感じられるし。役者はみんな大物でいい演技をしているが、管理人フォワン夫人を演じた男性歌手・俳優のダリー・カウルがなかなか良かった。彼の最後の出演になってしまいましたね。ダリー・カウルはレネより3つ年少で、ちょうどこのオペレッタができた1925年生まれですが、この映画の2年ちょっと後にガンで亡くなってます。余談ですが、この映画の第一幕・第二幕の舞台ヴァランドレ家があることになっているのと同じ巴里郊外ヌイーのダリー・カウルの自宅は、彼の葬式の数日後に泥棒に入られてしまっています。それにしても現在84歳のアラン・レネ、88歳のイングマール・ベルイマン、94歳のミケランジェロ・アントニオーニ、みなさん元気ですね。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.30
コメント(2)

MINA TANNENBAUMMartine Dugowson寸評:ストーリーはいいが、もしかしたら色々な面で欲張り過ぎで、内容・構成・演出・演技すべてに関して崩れる寸前の危ういバランスで出来ている。あと含みが多く、本当に味わうには60・70・80年代のフランスに関するかなりの知識が必要。1958年4月に生まれたミナとエテルというユダヤ系フランス人の女の子の半生を、2人の友情と離反を中心に、題名通り画家ミナの物語の枠で描いている。脚本・監督が1958年生まれであり、自伝ではないけれど自分の生きてきた時代を描いていると言えるだろう。寸評に知識の必要性と書いたが、フランス社会におけるユダヤ人の位置づけはもちろんのこと、マシアスやダリダのシャンソンにしても、1968年の5月革命にしても、ただ流行歌や事件という理解ではなく、フランス人にとっての印象や思い出と深く結びついている。その辺の理解があればあるほど深く鑑賞することができるということだ。(以下どうしてもネタバレを含む)映画はちょっとマーラーの交響曲の緩徐楽章風の荘重な音楽とともにタイトルロールが始まる。そこで夭逝した女性画家ミナ・タンネンボームを生前知っていた人々の彼女に関する短いインタビュー風のコメントが挿入される。やがて従姉が登場し、カメラに向かってミナの生涯を語り始める。その内容がほぼ映画の全体で、従姉も要所要所で語り手として登場し、最後に冒頭の従姉の場面に戻り、この従姉が取材カメラに向かって話をしていた、という枠を示す映像で映画が終わる。1958年4月初め、ミナが生まれ、その68時間後にエテルが同じ産院で生まれる。ほとんどの解説やレビューは「同じ日に生まれた」としているが、最初の産院の風景は1958年4月5日で、そのときミナは生後73時間、エテルは生後8時間とナレーションが入る。観客のレビューならいいけれど、goo映画等の映画専門サイトやアマゾン等ショッピングサイトがこういう安易な間違いをしているのはお粗末。物語の構成は3つの時期からなると言えるだろうか。2人が10才で出会って、ミナは眼鏡のためにいじめられっ子で、エテルは肥満のゆえに、どちらも容貌に自信がなく、また親との問題もあって、互いに精神的に頼り合う奇妙な友情で結ばれている時期。次にそれぞれが自分の人生を送るようになり、やがて離反していく時期。最後は再会で、エテルは懐かしみながらも既にミナを必要とせず、ミナは交通事故で顔に傷が残るなどの不幸や、それとも関連してエテルが自分の幸福を奪ったという思いの中で一人孤独な人生を送っていて、不可能なエテルとの幼少時代の復活に夢を抱き、結局人生に絶望して自殺する時期の3つだ。寸評に「欲張り過ぎ」と書いたようにあまりにも内容が盛りたくさんなので、いちいちの説明はせず、印象の羅列を書くことにする。自伝ではなくとも自分の生まれて生きてきた時代を監督は描いた、と上に書いたが、結局のところどこに物語の、あるいは監督の言いたい主張があるのかがちょっと不明確。たとえば親子の断絶。特にユダヤ人独特の伝統的な信仰や人生観の親世代と新しい自由を求める子供世代、そのどちらに軍配を上げているのか、つまりどちらを肯定的ないし否定的に描いているのか、主張したいのかが、ボクの知識の範囲内で見るかぎり明確ではない。明確な視点の欠如だ。あるいは、たとえば1968年はテレビの連続ドラマの影響で女の子たちはみんなバレリーナに憧れたといい、2人もバレエ教室に通うシーンがあるわけだけれど、映画の中の誤りをあげつらう仏サイトを見ると、電話番号の桁数とか商店の計量秤の形式とか、時代考証はかあなりいい加減らしい。主人公たちと同時代を生きた監督のイメージ的回想だから誤りはあってもいい、とも言えないことはないが、結果としては正確な年代記にはなっていない。その意味では監督の主観的記憶の物語と解釈した方がいいのかも知れない。あとは冒頭で産院の看護婦たちが新生児を抱いてバレエのように踊る演出、2人の出会いのシーンでそれぞれの守護天使たちが空に現れ言い争うシーン、カフェで言い争うミナとエテルからそれぞれの分身が現れて、実際の2人とは別に分身たちが取っ組み合いをするシーン、その一方では最初の方で眼鏡でいじめられて去っていく並木道の静かで美しい映像、そんなこんな映画の描き方の流れに統一感がない。こういう演出で一つだけ効果的だったのは、家のエレベーターを降りた今のミナが、入れ違いにエレベーターに乗る眼鏡でランドセルをしょったかつての子供のミナを見るシーン。ここは美しかった。この映画の中で最も美しいシーンかも知れない。最初に2人が出会うキッカケとなる二人のひそひそ話しをする少女を描いたゲーズボロのミナの模写。最初の部分では10才のミナの絵の上手さを描いているし、絵自体は二人を象徴する2人の少女の絵で、喧嘩のときにミナに返されたこの絵が部屋に残って最後を締めくくる。なかなか上手い使い方です。ボクは役者としてではなく女性としてはロマーヌ・ボーランジェにはほとんど何の魅力も感じないのですが、演技的にはミナとエテルを演じたロマーヌ・ボーランジェとエルザ・ジルベルスタンがともに好演してますね。欲張らずにもう少し整理して作っていたら、ミナの心情ももっと良く描かれたと思います。彼女の悲劇の人生をあまり暗く描きたくなかったのかも知れませんが、孤独の絶望による自殺が明るいはずはもともとあり得ません。なんかの受賞をしているだけにシナリオは良く書けていると思いますが、もう少し整理すればもっといい映画になったのかも知れません。でもやっぱり明確な視点を欠いていますかね。でもなんとなく忘れ難い映画です。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.29
コメント(0)

IDENTIFICAZIONE DI UNA DONNAMichelangelo Antonioniミケランジェロ・アントニオーニって言うと、『情事』、『太陽はひとりぼっち』等イタリア時代の白黒作品や初カラーの『赤い砂漠』、外国に出て撮るようになった『欲望』~『さすらいの二人』等のカラー作品は、好き嫌いはありますが評価は高いし、特別に好きな人もいますね。なにせカンヌ、ヴェネチア、ベルリンのすべての映画祭でグランプリを受賞している映画監督です。彼は1985年に脳障害で倒れますが、その直前のこの『ある女の存在証明』と1995年にヴィム・ヴェンダースの助け借りて作った『愛のめぐりあい』になると、どちらかと言えば不評なようです。(3話オムニバスの1編を撮った『愛の神、エロス』はまだ見ていません。)この映画、おそらく20年ぐらい前にパリの映画館で見たのですが、大して難しい会話はないのでフランス語字幕はほぼ解ったものの、映画自体はよく解りませんでした。解らなかったという記憶があるからかも知れませんが、ずっと印象には残っていて、気になる作品でした。ある種のインパクトはあったんでしょうね。で今回VHSで見ました。まず感じたのは、イタリア時代のモニカ・ヴィッティの作品、特に同じくカラーのせいか最後の『赤い砂漠』そして『愛のめぐりあい』と同じ雰囲気を感じました。アントニオーニだって知らなくても、もうアントニオーニの雰囲気ですね。つまりは作品の出来・不出来以前に、やはりこの人は独自のエクリチュールを持っているということで、これはシネアストに限らず表現者には必要なことです。『愛のめぐりあい』とは、アントニオーニの分身的存在の映画監督が次作の構想を練るという物語的基本枠も同じですか。この映画の中で2度別の人物の口から言われる同じセリフがあります。テロリストカップルの話です。「二人は政治的思想も同じなら、活動も生活もすべて一緒だった。でもそこに違いが出来たとき、女は子供も夫に押し付けて去ってしまった。」と、だいたいそんなセリフです。2度も使われるということは意味は大きいはずです。それまでアントニオーニが描いてきた「愛の不毛」とか「人間間のディスコミュニケーション」というのは、過去の時代との対比です。つまり、それを戦前とするか、前世紀とするか、そういう特定はあえてここではしませんが、たとえばキリスト教を中心とする世界観や信仰、要するにほとんどの人々、社会全体に共通の世界観、信じ込みが、現代にはなくなってしまったということです。「神の存在自体あやしいのに」なんてセリフが『赤い砂漠』にもありましたね。ベルイマンなら「神の沈黙」となることですね。テロリストのカップルは共通の世界観・政治思想を持っていたから愛も可能だった。でもその共通が失われたとき、愛も不可能となるということです。白っぽい壁か何かの中央より下の部分に茶色っぽい四角い何かがある。そんな固定映像から映画は始まります。やがて画面下の部分にドアが開き、主人公の映画監督ニコロ(トーマス・ミリアン)が登場する。上からの俯瞰だったんですね。この最初のショットの視点が初め観客に解らないこと、これには意味が感じられます。世界観が共通に定まっているということは、世界を見る視点が皆同じということです。でも世界観が自分一人でも明確に持てなかったり、人々それぞれで異なっているということは、世界を見る視点がハッキリしないということです。冒頭で視点の不確実性を観客に突き付けるところから映画は始まるわけです。ニコロは旅行から帰ってきたらしい。カバンを持っています。階段を昇って自分の部屋の前に来ますが、防犯警報装置解除のための鍵を持ってないことに気付く。仕方ないからドア開けて、床を這って進むんですが、でも警報が鳴り始める。室内の隠してある合鍵捜して警報を止める。ニコロは離婚したらしい。階段のところで彼はメモします。「恐怖心の強かった妻は去ったが、警報装置は残していった。」とかなんとかです。そんなことはメモすることでは普通ありません。きっと映画制作のためのメモなんでしょう。ニコロが実人生と映画制作、つまりフィクションである映画の中で描く世界を混ぜ合わせにしていることが語られているわけです。見知らぬ男から電話があり、是非に話したいことがあるというのでカフェに会いにいくと、チンピラ風の男が「あの女性とはつき合わない方が良い、と忠告する。」と言う。ニコロの姉は病院の産婦人科の主任なんですが、彼女の職場で彼が姉に代わって電話の応対をすると診察希望の女性マーヴィ(ダニエラ・シルヴェリオ)からで、「映画監督という職業がら、声を聞いた人に実際に会ってみたい。」とかニコロは言うんですが、彼はマーヴィとつき合うようになる。そしてこの彼女が忠告された女らしく、家を監視されたり、尾行されたり実際にする。この時間関係もはっきりしないですね。カフェでの忠告の方が実際にマーヴィとの付き合いが描かれるより前に描かれるわけです。その後の映画の流れは時間通りに進みますから、やはりここも、映画冒頭で物事、出来事、また記憶などの不確実性、曖昧性を観客に提示しているのかも知れません。(以下ネタバレ)ニコロはマーヴィとつき合い、彼女の家庭の世界であるお金持ちたちのパーティーとかにも一緒に行ったりしますが、その閉鎖的社会にはニコロの接点はない。マヴィは子供の頃から嫌っていた男性に呼び止められ、実は彼女の実の父親であることを知らせられたりする。そんなこんな色々なことがあるうちに、実は彼女の母親がニコロとの関係を持たせないようにしているらしいことがわかってくる。田舎に借りている家にニコロはマーヴィと夜車で向かう。途中濃い霧で思うように先にも進めない。言い争って車を降りた彼女。後から彼女を捜す彼。何も見えない。車に戻ると彼女は助手席に座っている。でもこのかなり長い時間に何が彼女にあったかは解らない。追っ手の誰かに会ったのかも知れない。人々はバラバラで、共通の何かを持たないから、愛し合う(?)相手のことすらつかめないんですね。2人はニコロの借りている家に着く。二階建ての家の下はローマの遺跡で空洞となっていて、少しずつ上の家を崩壊させているらしい。土台のしっかりしない空虚の上に成り立った世界は崩れ去るしかない、という意味でしょう。それがニコロやマーヴィや2人の関係を象徴しています。部屋でマーヴィは「愛している」と言って欲しいと言いますが、ニコロは「好きだ」とは言っても「愛している」とは言わない。一度も言ったことはないと言います。恥ずかしいからだと説明しますが、実は信じるものなしに愛など語れないということです。やがて彼女は突然消えてしまう。ニコロは訪ね回って居場所を突き止めますが、彼女はもちろん会うことを拒否しているわけで、窓から道路を見下ろす彼女と道路から窓を見上げる彼が見つめ合っての別れです。これはオムニバス『愛のめぐりあい』の第1話の最後に似ています。『愛のめぐりあい』のレビューでは別の見方を書きましたが、もしかしたらどちらの場合も、仮に惹かれ合い、愛し合っている2人でも、愛を根拠づける何かがなければ愛は不可能だということかも知れません。ニコロは次に前衛劇団のイダ(クリスティーヌ・ボワッソン)とつき合うようになる。最初は消えたマーヴィの探索や脅迫の主をつきとめようとしているのとダブッていて、イダは調べてマーヴィの消息のヒントをニコロに教えたりします。マーヴィとの付き合いを良しとせずに脅迫していた主を知ろうとしても、今さら何の意味があるの?、とニコロに訊きますが、信じるものを持てずにいる彼は、自分を取り巻く何らかの疑問を解消することの欲求が強いわけです。共演者の病気で時間の出来たイダをニコロはヴェニスに連れていきます。ラグーナの寂しい静かな水面にボートで漂う2人。ポチョピチャとボートに当たる海の水の音だけがします。何の拠り所も失い、ただ水音だけがし、ゆらゆらと揺れて定まらないボート。あたかもニコロが世界を見るはっきりしない土台そのもののようです。ホテルに戻るとイダに検査結果で妊娠が確認されたことを知らせてる電話。子供が出来たことをイダは喜んではいるが、ニコロへの思いがあるので簡単ではない。彼とつき合う前の関係の子供だ。ここでイダの口から例のテロリストカップルの話が語られるわけだが、結局共通のものを持てないニコロは去るしかない。ニコロの姉が産婦人科医で、その診察室で妊婦のお腹など写真の載った専門誌を見ること、あるいは最後にイダが妊娠することなど、こんな不確かな世界の中でも次から次へと人類が存続していることを言いたいのかも知れません。原題にある「una donna」=「一人の女」とは、別れた妻でも、マーヴィでも、イダでもない。象徴的にニコロは次回映画の主演女優を探しているが、世界観のような土台を共有し、「愛している」と言える、だが決して見つからないであろう「一人の女」なのだろう。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.28
コメント(0)

海流堀内真直(ホリウチマナオ)(95min)那覇・桜坂劇場にて1972年沖縄本土復帰の十年以上前アメリカ統治時代1959年に沖縄ロケが行われた映画。50年近く前の沖縄がカラーで記録された映画でもあり、沖縄の年配層には人気がある。フィルム劣化で上映されることは久しくなかったが、2000年那覇市中心の国際通りと交差する沖映通りに名を残す沖映本館の取り壊し時に退色はあるものの状態の良いプリントが発見され上映され好評で、今回松竹のオリジナルネガからのニュープリントが実現した。翌1960年は年間574本の映画が作られ(最高記録)、娯楽の王道として映画が生きていた時代の松竹作品だ。1959年は美智子妃が今上天皇(当時皇太子)とのご成婚でテレビが普及した時代であり、この574本のピークを境に映画が衰退していった。そういう意味で日本の映画界にいちばん活気があった頃の作品と言える。原作は前年『週刊女性』に連載された新田次郎の人気小説であり、当時有馬稲子と松竹の二枚看板だった岡田茉莉子主演、復帰前の沖縄ロケとリキの入った作品で、娯楽作品として完成度が高い。今も残っている建物なども写っており、現在沖縄に住む自分にとっては、昔の沖縄の街並が見られるのも興味深い。台湾沖を航行中の紅洋丸は台風8号で遭難、救命艇で助かった者、水死体で見つかった者、ラジオニュースをアナウンサーの葉子が伝えている。一人行方不明のままなのは通信長の豊野だけだ。実は豊野は葉子の恋人だった。その豊野は流木にしがみつき漂流しているところを謎のサングラスの男が船長をする船に救助される。しかしその船は密貿易船で、ボス稲本は秘密保持のために豊野を殺すように命じるが、サングラスの船長は沖縄での連絡先を教え、なぜか逃がしてくれる。船長は救助した豊野を見たとき、見知っているかのような顔をする。サングラスで豊野には船長の顔は分からないが、聞いたことのある声だった。沖縄島の岸近くで海に飛び込んだ豊野は泳いで岸にたどりつく。豊野は海に浸けてしまって壊れた父親の形見の腕時計を修理にだす。サングラスの船長に教えられた宝石店への連絡を待つ以外に、豊野には何のあてもなかった。首里の守礼門で日傘の美しい女性に声をかけられるが、豊野は逃げるようにその場を去った。豊野は新聞記者の新城に追い回され始める。記者の勘で豊野が何か記事ネタになりそうな事情を抱えていると感じたのだ。しかしやがて2人は友情で結ばれるようになり、記者新城は自分の部屋に同居させる。豊野を連れて新城は富川家を訪れる。ここの娘節子は沖縄舞踊家で、新城は彼女に思いをよせているのだ。豊野は彼女に紹介されるが、それは守礼門の日傘の女性だった。( 以下完全ネタバレ)豊野の仕事の世話を父親に頼んでくれと新城に頼まれ、豊野に惹かれ始めていた節子は父親の運転手、家の庭仕事などの仕事として父親に雇わせ、自分のそばに置く。節子はひめゆりの塔、中城城址などに案内し、中城城址では沖縄の唄を歌って聞かせる。新城の部屋で豊野は新城にラジオの葉子の声を聞かせ、恋人だと教える。新城は豊野の事情を調べあげていて記事にさせてくれと言うが、自分の身の危険を犯してまで助けてくれたサングラスの船長の命にかかわるからと、豊野は書かないでくれと頼む。そして豊野は沖縄民謡、節子が歌ってくれた唄を口ずさんだので、その唄は沖縄の女性が生涯一度だけ愛の告白で歌う唄だと新城は教え、節子が生涯の恋として豊野を愛していることが明かとなる。豊野はサングラスの船長に呼び出され会いにいくと、それは戦友の杉岡だった。杉岡は組織が彼を殺そうとしているので密航船で本土に帰れと言う。節子の家を新城が訪ね豊野に内地へ逃げるようにさとすが、豊野は節子を愛するようになっており、雨の日の雨宿りの折に既に二人は結ばれていた。このまま沖縄に残ると言う。それを聞いて節子は「その言葉だけで十分です」と。外には追っ手がすでに迫っていて、豊野は修理した形見の腕時計を節子に渡し、新城と杉岡の手引きで密航船の待つ海岸へと向かうが、杉岡は犠牲となって射殺される。東京に戻った豊野はかつての恋人葉子に会いにいくが、彼女は別の男性と既に結婚していた。死際に杉岡に世話を頼まれた妹小枝を訪ねると、若い彼女はバクチと酒と男の自堕落な生活を送っている。豊野は小枝の隣のアパートに住み、兄の死は告げぬまま、彼女をまともな生活に更生させようとする。そんな豊野に小枝は惹かれ始めていた。沖縄では節子が沖縄舞踊団の東京公演を思いたち、新城の新聞社の主催・後援で実現する。節子と新城は東京を訪れ、豊野と3人東京での再会を喜ぶが、新城は自分も節子が好きだが二人の思いを知っているので、一人席を外す。小枝の部屋で豊野と二人で兄の誕生日の祝いをしようと約束していた日、食事の準備が出来た小枝は隣室の豊野を呼びに行くが、彼が節子と抱き合っているのを気付かれずに見てしまう。劇場での舞台稽古の日、小枝は豊野に金をねだろうと訪れるが、節子と3人で顔を合わせると、小枝は2人の様子を見て、また実は兄が死んだことを聞かされ、「兄に頼まれた義理をはたしていただけなのね」と言うと、外に待たせてあったボーイフレンドのバイクに相乗りし、スピードに悲しみを紛らそうとする。豊野は車で後を追うが、小枝はハンドルを握る男にどんどん飛ばすように求め、最後は100キロの猛スピードで崖から転落してしまう。小枝が死んだことで節子は、一生あなたを愛し続けるけれど、小枝の影はずっと豊野と2人の間に立ちはだかってしまうだろうからと、別れる決心を告げる。公演の終わった劇場の楽屋。節子は涙を流していた。そこに新城が現れ豊野に節子の帰りの航空券を渡して言う。「男ならその航空券を破ってみろ」と。そこに小枝の日記が届けられ、自分は豊野に惹かれてはいるが、節子との愛の成就も願うべきだという思いが書かれていた。新城は「小枝は考えていたよりずっと大人だったんだよ。」と言う。豊野は小枝の思いと死を背負いながらも、節子への愛を成就しようと、航空券を破り、節子と抱き合うのだった。脚本はしっかり書かれているし、沖縄の観光紹介的要素もありながら不自然でなく全体の物語に溶け込ませていて、実に立派に出来ています。演出や演技も良く、涙を誘われそうにさえなります。小枝の日記を読んで新城が「小枝は考えていたよりずっと大人だったんだ」とたしか新城が言い、それで二人が小枝の死を消化して愛を成就させる心理過程がもう少ししっかり描かれていたらもっと良かったですね。ちょっと唐突な感じですが、ハッピーエンドはやはり嬉しいものです。岡田茉莉子は吉田監督との結婚前で当時26才、思ったことは実行する明るい性格と深い情愛を兼ね備えた役を演じ、とても魅力的です。印象ですがこの時代の映画に描かれる女性は、理想であってリアリズムではないのかも知れませんが、今より古い男女制度に縛られていながらも、信念を持った強い女性として描かれている気がします。これもいいですね。この作品、やはり日本映画黄金時代の娯楽大作と言えるんでしょうか。「松竹グランドスコープ」とか「イーストマン松竹カラー」というクレジットや「現像:東洋現像所」なんていうのも何かいいです。余談ですが、岡田茉莉子がこの映画でも日傘持ってクルクル回したりしていますが、これって彼女のトレードマークなんでしょうか。1967年の『炎と女』でも2002年の『鏡の女たち』でも日傘さして回してます。特に若い頃の作品では、彼女のちょっと甘えているような魅力を表現している感じです。土曜深夜の楽天さんの定期メンテナンスが終了した後に確認すると、その前には正常だったのに一部が文字化けしていました。元の文章のバックアップはなかったので一部書き直しました。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.27
コメント(3)

LES FABULEUX DESTIN D'AMELIE POULAINJean-Pierre Jeunet寸評:無邪気な顔をしているが、もしかしたら政治的マインドコントロール映画?。人口6400万のフランスでの観客動員数が900万以上という大ヒット作。日本では約100万人、世界で3000万人以上という(Wikipedia Franceによる)。上に「政治的」とか大袈裟な寸評をしたが、なぜかちょっと胡散臭さを感じる映画。映画自体は良く出来ていて、日本人が娯楽として楽しむぶんには政治性などは気にすることはないかも知れない。評価とともに批判も各種あるものの、日本社会にとっては大きな害はないとは思います。せいぜいクレーム・ブリュレが流行になる程度です。原題の直訳は「アメリ・プーランの寓話的(or 架空の or 素敵な)運命」。父親が幼いアメリに聴診器を当てたとき、親から他にスキンシップをまったくされていなかったために、診察の際父親に触られるアメリは異常にドキドキし、結果父親は彼女が心臓障害だと判断。他の子供たちとつき合うこともなく、一人孤独の中で育てられた。また幼い彼女が母親とパリのノートルダム寺院を出てきたとき、投身自殺のカナダ人女性が母親の上に落ちてきた。妻を失い増々妻への思いに閉じこもる父親。そんな子供時代を過ごしたアメリは空想の世界に生き、また他者とのコミュニケーションに問題を抱えていた。アメリは22才で実家を出、パリ・モンマルトルのカフェ「レ・ドゥー・ムーラン」(2つの風車)で働いている。水切り遊びが好きで、それに適した薄い小石をみつけるとポケットに入れる彼女。モンマルトルの丘からパリの屋根屋根を眺めながら、「今絶頂に達しているカップルは?。15組。」などと空想を楽しむ、そんな彼女だ。時は1997年8月30日夜。ちょうどテレビがダイアナ妃の死を報じているとき、部屋の浴室のタイルが浮き、外したタイルの陰から昔このアパルトマンに住んでいた少年が隠したらしい宝物を発見する。そして彼女は大人になっているはずの40年前の少年を探し出し、その宝物を返してみようと思いたつ。それが成功して、自分だとは明かさずに40年後の少年が思い出で幸福感を得たのを見て、アメリは犯罪的でもある術策を駆使して、身近な人々の幸福の手助けをするようになる。かなりひとり良がりに。それは彼女がテレビでドキュメンタリーを見る70年くらい前のアメリ・プーラン、人々の困窮を一人で救おうとし、23才で夭逝した女性アメリ・プーランを彼女的になぞることでもあった。(以下ネタバレ)周囲の人々の幸福の手助けをする彼女の行為を色々と論じる人もいるが、ボクの見方では、それを通じて彼女が世界や人々とのコミュニケーションが出来るようになり、その結果思っている男性と幸せになることにも成功するという、その過程、彼女の変化を描いた作品だと思う。そしてむしろここで描かれるのは、普通の庶民の小さな幸福とは何か、というような気がする。この作品は本国フランスでは、大衆からも批評家からもおおむね良い評価を受けた。カフェ勤めの彼女の収入では職場の近くモンマルトルであの部屋に住むことは不可能だとか、あれだけの自由時間はないはずだと言った批判もあったようだが、完璧なリアリズムでなくとも、「映画だから」とその辺は気にしないこともできる。左翼系の批評家から、バルベス・ロッシュシューアールといった移民マイノリティーの多い地域に目と鼻の距離にあるモンマルトルで移民系の人々が映らないのは不自然だというのもあった。それはボクも大いに感じる。こんな元来のフランス系の人種しか居ないのは不自然過ぎる。監督はリュシアンを演じたジャメル・ドゥブーズがアフリカ系だとお茶を濁している。なるほどこの俳優はモロッコ系で、見てそれと分かるが、けっしてまともな人物として描かれてもいない。あとは北駅でアメリに声をかける3人組の黒人。この扱いも、後ろからつけ、声をかけ、アメリを不安そうにする者として描かれる。さてここから冒頭に書いた「政治性」や「胡散臭さ」の問題。それはオドレイ・トトゥ演じる主人公「アメリ・プーラン」という名前だ。「AMELIE POULAIN」という綴りを並び換えると「OUI A L'AMI LE PEN」となる。訳すと「友人ル・ペンに賛成」ないし「友人ル・ペンにYESと言う」といった意味だ。LE PEN(ル・ペン)とは何者か。フランスの極右政党FNの党首ジャン=マリー・ルペンだ。彼は移民排斥やEU脱退、ユーロではなくフランス・フランへの回帰、その他右翼的主張の政治家だ。そのことを知ってこの映画を解釈し直したらどうなるだろうか。ここで語られるのはル・ペンないしジュネ監督の理想とする、移民のいない正当フランス人だけの伝統的なフランス人庶民の小さな幸せの礼賛ではないだろうか。そう言えばタイトルロールでフラン硬貨も大きく映されフランス人の郷愁を刺激するし、市場のみかんの価格ボードの原産地FRANCEの文字もしっかり映される。そう解釈すると、無邪気な顔をしたこの映画、普通のフランス人に監督(ないしル・ペン)の理想とする社会の良さをしみ込ませる洗脳的、マインドコントロール的映画と言えるのではないだろうか。移民はやはりいない方がいいから排斥すべきだ、そうすればこの映画の中の人々のようにフランス人の幸せな暮らしが戻ってくる、と。900万人以上のフランス人が観たのだから、アナグラムにサブリミナル効果はないだろうから、変なアナグラム(OUI A L'AMI LE PEN→AMELIE POULAIN)を使っていなければもっと巧みだったと言えるのかも知れない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.26
コメント(2)

UN COEUR EN HIVERClaude Sautetフランス映画が好きな自分なのですが、クロード・ソーテという監督さんにある種の偏見を持っていて、それまで見ようとしていませんでした。偏見の原因は主に邦題の付けられ方にあったと思います。『夕なぎ』であるとか『とまどい』とか『エマニュエル・べアール 愛を弾く女』とか、ビデオのジャケット表の写真などのデザインと相まって、ボクが嫌いとするオーラを発していたんですね。先日『とまどい』を見て偏見解消。それどころか好きになり、今回『愛を弾く女』を見ました。ものすごく良く出来た作品でした。似たような原題のトリュフォーの「ジュールとジム」は『突然炎のごとく』になり、「セザールとロザリー」は『夕なぎ』ですか。1972年の状況では『セザールとロザリー』では駄目だったんですかね?。1995年『とまどい』の場合「ネリーとアルノー氏」ではやはり興行的に難しかったでしょうか。この『愛を弾く女』の場合は「en hiver」と「Un」、英題がフランス語原題の直訳だから英語で説明すると、「A Winter Heart」ではなく「A Heart in Winter」の「in Winter」の特に「in」の部分と、最初の不定冠詞「A」が日本語にしにくいですか。「冬の心」ではちょっと違いますし、日本語としても何か違う感じがあります。この「心」の主は男性主人公ステファンですが、「愛を弾く女」として人気のエマニュエル・べアールで売ろうとしたんでしょうね。というわけで、この映画の主人公は、屈折して孤独な、悪く言えばプライドの高過ぎるステファンという男です。ダニエル・オートゥイユと言うと『ザ・カンニング』シリーズの喜劇的イメージもありますが、ステファンという難しい役を秀演しています。物語はもちろんエマニュエル・べアールが演じるバイオリニストのカミーユとの愛の物語ですが、ステファンという人物を描くための恋愛相手カミーユの役を、べアールも秀演しています。監督も彼女を魅力的に撮っています。驚かされたのはべアールのバイオリンを弾く演技がほぼ完璧だということです。普通ピアニストとか指揮者とか、その演技が本当っぽくなくて、笑いや恥ずかしさを感じて、シリアスなストーリーを追う上で気分を殺がれるんですが、べアールのバイオリンは立派です。彼女実はバイオリン弾けるの?、なんて思ってしまいます(事実は知りません)。(少しネタバレ)この映画の半分ぐらいのところでしょうか、カミーユがスタジオで録音をしていて、その休憩のときにステファンと近くのビストロに行くのに雨に降られるシーンがあります。ここでの2人は実に緻密に描かれていて、演技もよく、映画全体を要約しています。ここにこの2人のすべてが語られてしまっていて、あとはそれを実際の物語で消化するだけといった感じです。名シーンですね。このシーンに至るまでに、ステファンがカミーユに惹かれていること、そしてカミーユもステファンの同僚のマクシムと愛情関係にありながらも、彼には自分のすべてを投げ出すことができないのに、ステファンにはそれができることが描かれている。この辺は同じソーテ監督の『とまどい』とも共通しますね。『とまどい』のアルノー氏は誰にも語ったことのなかった秘密をネリーに語る。同じようにカミーユも誰にも話さなかったことをステファンに話します。で、このシーンなんですが、スタジオから出てきたカミーユとステファンが「演奏が良かった」とか話していて、ステファンが「お茶でもちょっと飲みに行きます?」って誘う。カメラはリバースショットでカミーユの顔を捉えるんですが、彼女の喜びの表情がほんのほんの微かに描かれる。満面の笑みなんてのではない。本当に微かな表情の変化です。ものすごい名演技だし、名演出です。外に出ようとすると雨が降ってくる。躊躇するステファンをよそに、彼女は街に駆け出す。彼は追う。雨が強くなってきて、彼女は道路を渡ろうと飛び出して車に轢かれそうになって彼が後ろから彼女の身体を抱きとどめる。またすぐに走り出して道を渡り終え、軒下で雨宿り。彼女は先に早く進みたいという思いで雨の様子をうかがおうと空を見ている。ステファンも同じように雨の様子を見ていますが、彼の方は一人外の世界ではなく自分の殻の中の世界にいて、自分には関係のない世界を見ているかのようです。彼女はステファンに惹かれ、誘われ、思いは先へ先へと待てない思い。車に轢かれそうになるのも先しか見ていないからでもありますが、ここでステファンが肉体的接触で彼女を抱きとどめるのは、比喩的に彼女が心も体もステファンに委ねている象徴でしょう。マン・レイの『アングルのバイオリン』ではないけれど、そもそもバイオリンは女性の体の形をしていて、カミーユが自分の大切なバイオリンを修理・調整のためにステファンに託すというのは、自分自身をステファンに委ねることの象徴でもあるんですね。そして混雑したビストロのカウンター。雨の中で彼女に上着を貸して、ワイシャツ姿の彼はびしょ濡れ。でも感情は出さずに「大丈夫だ」と言う。彼女がビールとチーズを注文すると、彼の方は冷静に「キャフェ」とコーヒーを注文する。これがコーヒーであることと、その「キャフェ」という言い方も上手いです。席が空いてテーブルに移る2人。近くのテーブルで男と女が言い争いをしている。その様子を面白そうに見るカミーユ。彼女は喧嘩する2人をバカにして楽しんでいるのではない。男と女が感情を出し合っている様子に好感を感じている。「男は泣いてるみたい」と彼女はステファンに言いますが、ステファンが感情を彼女にぶつけ、弱さをも出してくれるような関係、ステファンのしないこと、それを彼女は求めているのであり、映画的には対比して見せているんですね。そろそろ時間だと迎えがきて、彼女は「この後の録音にも来てくれるわね?」と言って去りますが、次のシーンの電話で彼が結局スタジオに行かなかったことがわかる。この雨のシーンは見事、見事。何度見てもグッときますね。素晴らしいシーンです。(以下ネタバレ)ストーリーをごく簡単に書いておきます。バイオリンの製造・修理・鑑定・販売などをしているバイオリン工房を一緒にやっているステファンとマクシム。マクシムには若い女性バイオリニストの恋人カミーユがいる。カミーユとステファンは出会って互いに惹かれ、彼女はその情熱に突っ走るけれど、彼は自分の殻から出ようとせずに「愛していない」と彼女に告げる。カミーユはステファンに出会って、今までになく特別に彼に惹かれる。既に書いたように誰にも話していなかったことが彼には言える。全身全霊投げ出すことのできる相手だったんですね。英語のラブソングを聞いているとよく「set me free」という歌詞が出てきます。「自分を自由にしてくれる、解放してくれる」という意味でしょうか。誰かに出会って愛して、自分をそのまますべて相手に投げ出せたとき、set freeされるんですね。でもマクシムが言うように、マクシムに対しては自分のどこかを守って、すべてを委ねることはできない彼女。それができるのはステファンだった。そう感じる相手と出会ったとき、その相手なしには自分が何であるかも解らないほど自己喪失をしてしまう。彼女が言うように「もぬけの殻」になってしまう。相手が自分を愛していないのなら、それはそれで悲しいことであるにしても単なる一つの失恋でしかない。しかし相手も自分に惹かれているステファンが自分を拒否するのだから話は深刻です。ではどうしてステファンはそうなのか。理由を訊かれた彼は「幼少期のトラウマが・・・、とか説明すればいいのか」と皮肉混じりのことを言います。この言葉は映画の中での2人の会話のコンテクストでもありますが、監督の世間一般に対する皮肉でもあると思います。世間はいとも簡単に幼少期のトラウマとかで一人の人物の今を説明する。でも実際にはそんなに簡単に説明できるものではない。そして映画でもそういう安易なステレオタイプ的発想で描いていい気になっている、と。それがどういう経緯でそうなったかは別として、自分を外に晒すことのできないステファン。プライドが高いと言えば高い。子供が駄々をこねて親に何かをねだる。成功すれば望みはかなっても駄々をこねた自分は残る。失敗すれば無様な自分だけが残る。ならば望みを我慢してしまえばいい。そうすれば決してプライドが傷付くことはない。こうして自分の殻に閉じこもり外界に自分を晒すことをしない。残るのは我慢と孤独だけだ。しかしそれでも内部に残る欲望や情熱、それは夢の世界として音楽を聴く。そんなステファンのような人間には2つの道しかない。慣れ親しんだ殻の孤独の人生を続けるか、容易には出来ない努力をして自分を変えるかだ。しかし自分を変えるなど簡単にはできない。ステファンにもそれは出来なかった。その機会は何回もあった。カフェでの修羅場の後、朝ステファンはカミーユを訪ねる。来訪を取次いだレジーヌに彼を通すことをカミーユは許す。この時点ではまだ彼女はステファンを諦めてはいないということだ。しかし彼の第一声は「謝るつもりはない」なのだ。この映画で平行して描かれているのがマクシムやステファンなどの音楽学校の恩師である老ラショームの物語。晩餐の日にステファンは外界には関わらずに一人離れて食卓の準備の手伝いをしているが、残りの人々は一緒に散策している。そしてラショームはステファンに関して「彼は特殊ケースだ」と言う。思うに自分を晒せないステファンをそのまま受け止めて愛情を持ったのがラショームだったのではないだろうか。だからステファンも彼を愛することが出来た。彼がカミーユに言うように「ラショーム以外を愛せはしないのだ」。ラショームが病身で先はもうない苦しみばかりになったとき、彼は身近な者に安楽死の注射を願う。しかしステファン以外にはそれは出来なかった。それをしたステファンが冷酷なわけではない。他の者はラショームを愛しているという自分の気持ちを相手に投げかけてしまっているからだ。これが普通の愛だ。しかし自分の相手に対する感情に流されずに、死を望むラショーム本人をそのまま受け止めたのがステファンだ。それはステファンのあるがままを受け止めたラショームと同じだ。2人の絆は、あるいは愛はそこにあったのだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.25
コメント(0)

OLTRE LA PORTABEYOND OBSESSIONLiliana Cavani寸評:『愛の嵐』のリリアーナ・カヴァーニのほのかな香り。エレオノーラ・ジョルジ。共演はトム・べレンジャーの他、マストロヤンニにピコリと豪華。カヴァーニの『愛の嵐』は好きな映画だし、『ヌードの女』のエレオノーラ・ジョルジも好きだし、こんな映画があることを知って探したのですが、レンタル落ちのVHS3500円はちと高いし、アメリカ版の中古を送料込みで700円ぐらいで買いました。それゆえ字幕なしの英語盤での鑑賞。とりあえず一回通して見ましたが、いずれ重要な部分を中心に少し英語の聞き取りをやろうと思っています。日本語タイトルといい、「官能の映像詩」「究極の退廃美」という日本版ビデオのコピーといい、『愛の嵐』につなげてエロティック系・ポルノ系として売ろうとしている感じですがちょっと大袈裟ですね。原題は「扉の後ろ」と言ったような意味で、物語の重要な秘密を暗示するものです。トム・べレンジャーが演じるマティゥーはアメリカの石油会社に勤めていて、ローマの大邸宅に妻ニーナ(エレオノーラ・ジョルジ)と幸せそうに暮らしている。ところが黒い車に乗った、黒いコートの、黒眼鏡の男(マストロヤンニ)が家をうかがっている。夫マティゥーが車で出社すると、電話が鳴り、ニーナが受話器を取る。たぶん黒眼鏡の男からなんでしょうが、彼女は一瞬まず驚き、そして自らの存在の不安といった表情になる。彼女が慌てて夫の事務所に行くと夫は不在。やむなく車を家に向かって走らせると、例の黒眼鏡の男の黒い車が後をつけてくる。そこで突然場面が変わってモロッコ。車を走らせるニーナ。ここから物語はモロッコのマラケシュが中心。ニーナとマティゥーが出会い、映画冒頭に描かれたように2人がローマで一緒に暮らすようになるまでの経緯が描かれ、最後にまた冒頭のローマの続きが描かれるという構成。休暇でマラケシュを訪れたマティゥーはニーナに出会って好きになる。そして追いかけまわす。でも彼女の方は約束をすっぽかして別の女性を行かせたりと、どこか距離をおこうとする。彼女は旅行代理店に勤めてるんですが、夜は怪しげな場所でも働いている。彼女は時々刑務所に入っているエンリコ(マストロヤンニ)に面会にいっている。当時のモロッコの刑務所が実際にどうだったかは知りませんが、地獄の沙汰も金次第というか、金さえあれば刑務所内でも優雅に暮らせるんですね。そのための金を彼女は稼いでいたわけです。そしてやがてこのエンリコと彼女が特別の関係だということがわかる。(以下かなりネタバレ)マティゥーは拒絶されながらも彼女を諦めずに追いかけるのですが、彼はニーナやエンリコの過去を調べ始める。ニーナはムッティという男と妻の間の子で、別れた妻がエンリコと再婚する。そしてニーナと養父エンリコは離れられない愛憎混じった関係で結ばれてしまう。妻は自殺しニーナはそれを知っているんですが養父が殺人犯となって刑務所へ。彼女にとってエンリコを失わずに、しかも自分の手の内で管理もできる手段はこれしかなかったんですね。ニーナはマティゥーとヘリコプターで郊外に遊びに行きますが、エンリコの手や目から離れられたと感じたときのニーナは実に自由に活き活きと気楽そうにしています。そんな関係の2人なんですね。マティゥーはニーナの実の父ムッティ(ミッシェル・ピコリ)にも会いにいくんですが、そこで思わぬことを聞かされる。やがてエンリコの家で、真相を理解したマティゥーはエンリコをある部屋に案内する。これが原題の「扉の後ろ」というか「扉の中」というかで、この部屋にある真相が隠されていた。ニーナが女中と2人で隠していた秘密です(ネタバレしないでおきます)。これを暴くべきではなかったと言う女中を後に、空港に行って、ニーナとローマに発つ。それで冒頭のローマの2人につながるわけですが、マティゥーの事務所に来たニーナとエンリコと3人での対決があって映画が終わる。最後はばらしませんが、だいたい想像できるでしょうか。描かれ方がちょっと中途半端ですが、ニーナとエンリコの関係、愛と言えるのかどうか、嫌い合い、憎しみ合ってもいながら、でもどうしても離れられない、結ばれてしまっている、この関係はやはり『愛の嵐』のカヴァーニのものです。エレオノーラ・ジョルジはやっぱり美しい。根底にどうにもできない不安をかかえた微妙なニーナを好演していますが、もっと明るい役の彼女を見たいですね。字幕なしの英語での鑑賞で、誤りもあるかも知れませんが、だいたいそんな内容です。英語がもう少し聞き取れたら、あるいは字幕版で見る機会が持てたら、内容を補足したいと思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.24
コメント(0)

ANNA OZEric Rochant寸評:シャルロット・ゲンズブールが嫌いでなければ、難しいことを言わなければ楽しめる映画。シャルロット・ゲンズブールがパリのアンナと、夢の中に出てくるヴェニスのアンナの二重の役を演じた幻想的サスペンス物語。二人の分身的な自分を演じるという意味でキェシロフスキの『ふたりのベロニカ』が構想のどこかにあるだろうが、全然別の扱いの映画であり、真似とかなんとかではなく、それなりに成功していると思う。また深いものではないが精神分析的風に自我とか夢が扱われていることと、眼球の扱いなどベルイマンの『仮面ペルソナ』を連想する部分もあった。でもとにかくいずれも軽い娯楽的な扱いで、気軽に幻想的な雰囲気を味わうにはいい映画だ。伏線的なことが最後に向かって一つのストーリーに統合されていく脚本もよく出来ていると思う。2人のアンナを微妙に演じ分けているシャルロットの演技もなかなかの出来。映像も美しい。パリに住む普通の女の子アンナ・オズ。写真現像のラボか何かでスポット修正のような仕事をしている。コリンヌという同僚・友人がいて、彼女はアンナの兄のトマとつき合っていたらしいが今は離れいる。アンナも兄トマとは2年も口をきいてないとか。アンナにはマルクという恋人がいる。そのアンナ、実際には行ったことのないヴェニスにいる自分の夢を見るのだが、その夢が毎晩続いた物語になっている。この夢のヴェニスのアンナと夢をパリで見ているアンナ、その2つが交錯して描かれる。そして夢でパリのアンナが作り出したヴェニスのアンナが、元のパリのアンナにとって代わろうとする物語。ヴェニスのアンナはパリのアンナが眠っている間しか存在できない。夢の中のヴェニスで「シャッターを押してくれ」と頼まれて撮った写真が、パリの職場のラボに現像処理で出されたり、夢が現実化する奇怪な出来事も起こる。アンナは数日前、改装工事中のホテルで何か事件を目撃したらしいが記憶はない。そのことで警察の事情聴取を受ける。そしてこの事件がまた夢の内容とも関連していたりする。そのように色々パリとヴェニスの出来事として描かれる一つ一つの細部が、映画の最後に向かって一つの物語に収斂していく。そんな構成の映画だから、あまり内容を書くとすべてネタバレになってしまう。なかなか楽しめる映画なので、ネタバレは控えます。夢であるはずのヴェニスのトマがヴェニスからパリを訪れるシーン、2つの都市間を結んだ2回の電話なども巧みに使われ、どこまでが誰の夢なのか、現実なのか空想なのか、なかなかよくできています。最初の方でパリのアンナが同僚のコリンヌと話しているちょっとした話題が全体にも意味を持ってくるので、しっかりじっくり見るべき映画だと思います。(追記)こういう娯楽ベースの映画を解読することにどれだけ意味があるかに疑問はありますが、既に死んでいるらしい父親は夢の方で登場させるしかないのは当然として、パリでの現実で嫌ってはいない2人の人物、友人コリンヌと恋人マルクはヴェニスの夢には登場しないことが、物語理解のヒントかも知れません。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.23
コメント(0)

LES RENDEZ-VOUS DE PARISEric Rohmer寸評:ロメール好きには嬉しい映画。パリの観光案内としてもいい。エリック・ロメールっていうと、いつも変わらず同じような、内容のない映画を次から次へと作っている人って言って嫌う人もいますね。一方には熱烈なファンもいる。ボクは後者で、ロメールの映画は好きです。この映画のポイントは2点あるように思います。一つは題名にも「パリの」とあるように、パリという街の特殊な魅力。二番目は、不倫というのでもないけれど、今思っている相手がいる場合の、他の異性に対する感情のようなものでしょうか。こんな話は芝居でも出来るという批判をどこかで読みましたが、それでは視覚的にパリの街という背景は描けませんね。ロメールの映画にはパリ郊外に作られた人工的、近代的ニュータウンを舞台とした作品が少なからずありますが、普遍的なものであるかどうかは別として、少なくもロメールにとっては特別の意味のあるパリの街における人の生活感のようなものが根底にあります。この作品はパリを舞台とした男女の3話の物語のオムニバスですが、第1話では友人となった2人の女性の一人が南仏モンペリエ生まれでもう一人がパリ生まれで、2人はパリという街のことをちょっと語りますし、第2話では主人公の女性はとにかく地方や郊外を嫌い、パリに住むことの絶対的欲求を語りますし、第3話では主人公の画家がパリの街の色のことなどを語っています。パリという街は、幸い戦争でもヒットラーに破壊されることはなく、少なくも200年ぐらいの歴史(実はもっと長い歴史)が街のいたるところに染み付き、また現在に生きている。それは人々の歴史であり、生活感です。それと現在そこに自分が一体となって存在しているという不思議な感覚がする街です。たとえ短期の滞在でも、観光客的視点ではなく生活者の視点でパリを感じると、人生の感情的ものや、生活感が街と一体になっていて、街は単なる自分がいる外界ではないんですね。これがロメールが描くように郊外のニュータウンにはない。そのために本当の自分の感情生活も郊外ニュータウンでは送れないというような疎外感のようなものとして描かれもする。例えばパリの映画館で、映画の舞台はパリでなくてもいいから、良く出来た人間ドラマの映画を見たとします。そして映画館から出てくるとそこはパリの街なんですが、街も人々も映画のドラマの延長線上というか、違和感のない世界がある。生きた人間の感情が息づいている。これが他の多くの都市だと別世界なんですね。映画館から出てきた自分のそこでの生活は映画とは無縁となってしまう。これこそがパリの街としての魅力ですね。第1話『7時のランデブー』は主人公が女子法学生エステルの物語で、彼女はオラースという恋人がいるんですが、色々言われて彼の誠実さに疑いを持ち始める。友人エルミオーヌや知り合ったばかりのアリシーとの会話が中心でしょうか。でもたまたま路上でナンパしてきた男に対する感情のようなものが一つの見どころでもあります。第2話『パリのベンチ』では主人公の女性(名前はない)はブノワという恋人があって、以前は深く愛していたらしいんですが、今は醒めているらしい。でもその辺もちょっと疑問もあって、まだ完全に別れてはいない。そして恐らく今ほど醒める以前から今の恋人(名前なし)とパリの色々な公園など歩いてデートをする。でもこれって、ブノワでは満たされない部分を補うためのような感情なんですね。だからもしブノワと完全に別れてしまったら、この新しい男性との関係にも必要性はなくなってしまうんでしょう。第3話『母と子 1907』は妙なタイトルですが、美術館で見るピカソの絵の題名です。画家の若い男が中心に描かれているようですが、ロメールが描きたかったのはむしろ新婚だという若い女性の方ですね。画家が路上で声をかける女性は、新婚で、自分の夫に対する気持ちには確固とした揺るがない自信があるなどと言ってはいるし、別に結果として何かが起こるわけではないけれど、ナンパしてきた画家に対して何らかの感情を一時の間持っているとボクは解釈します。その辺が面白いですね。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.23
コメント(1)

LA PEAU DOUCEFrancois Truffaut寸評:トリュフォーはやはり性に合わなかった。フランス映画が好きだと言うと、ちょっと映画に詳しい人にだと、「トリュフォーとかは?。」って訊かれることがあるほど、フランソワ・トリュフォーと言えばフランス・ヌヴェルヴァーグを代表する名監督であり、映画好きにも好まれている。でもボクはトリュフォーは、彼の持つ映画に関する豊富な知識や、映画作りの技法的上手さは十分に評価しながらも、映画自体はあまり好きになれません。いい映画を作るんですが、やや、ちょっと、どうも、好きにはなれないんです。今回相当久しぶりに『柔らかい肌』を手持ちのビデオで見ました。きっかけはドヌーヴ・ドヌーヴ・ドヌーヴ映画『逢いたくて』を見たので、姉のフランソワーズ・ドルレアックも久しぶりに見たくなったという経緯です。(ラスト以外ネタバレ)古い有名な映画ですがサスペンス調でもあり、最後だけは書きませんが、あとは完全ネタバレです。ピエール・ラシュネィ(44才)は著名な文芸評論家で、地位も名誉も財産もある(ジャン・ドザイ)。講演か何かでリスボンへ向けて家を発つ風景で、飛行機に遅れそうで忙しく、車を飛ばしてオルリー空港へ向かう。やっと乗れた飛行機の中で美しいスチュワーデス(注:キャビン・アテンダントなんて面倒で言ってられません。だいたい「女性の」とか付けないと女性であることは不明確だし、アメリカのポリティカル・コレクトネスの影響は迷惑千万!。話がそれましたが、女性客室乗務員の)ニコール(ドルレアック)と知り合い、リスボンで食事を共にし、レストランで朝まで語り明かす。中年おとこの迷いって言ってしまえばそれまでですが、とにかくニコールを知ってからは妻フランカ(ネリー・ベネデッティ)なんて眼中になくって、もうニコールしか見えない。それでパリでも会うんですが、色々な制約があってなかなか思うように2人のデートができない。ピエールは『アンドレ・ジッドとお金』とかいう評論を出版していて、地方都市ランスでのマルク・アレグレ監督の『ジッドと共に』か何かの上映会の舞台挨拶を引き受け、ニコールを連れていく。そこで2人だけの不倫旅行で彼女と2日ほどゆっくりしようと考える。しかしランスでは名士の訪問で晩餐会が用意されていたりと、保守的なブルジョワ階層に取り囲まれてしまい、ニコールと食事も一緒にできない。挨拶を終えたら抜け出してニコールと田舎のコテージに行こうと思っているんですが、友人などになかなか放してはもらえず、嫌々カフェで友人とビールを飲んでいる間にも外を歩くニコールは男に声をかけられたりしている。やっとホテルに戻ったものの、ニコールは放ったらかしにされ、夜の路上で不快な思いもし、泣き出す始末。でもなんとかなだめてコテージへ向かう。そこでの2日間を楽しく過ごすんですが、パリの妻との電話で不穏な行動をとっていることを妻に疑われてしまう。帰ると2晩眠られず疲れている妻と言い争いになるんですが、妻が「離婚」と言う言葉を口にすると、そのまま荷物持って出ていってしまう。そうするともう彼は待ってはいられない。ニコールと結婚して一緒に住むことしか頭にない。買うんだか借りるんだか新築中の家を彼女と下見に行って、ここを書斎にして、ここは娘サビーヌ(サビーヌ・オードパン)が来たときの部屋とか、ニコールに説明する。でもニコールは冷ややか。彼女はこの男の本質をきっと本能的に見抜いている。結局ニコールにとって彼女不在の、単なる身勝手な男の感情であることを感じる。だから別れを告げる。この後の結末は書きませんが、出口無しの状況に置かれた3人のうちで出口を見出したのはニコールだけなんでしょう。そんなストーリーをピエールの焦燥感を表すかのようにヒッチコックばりのサスペンスタッチで、実に巧みに映画はできている。そして結末については批判する人もいるけれど、もともとが実際にあった三面記事を元にしているから、それはそれでいいし、そうでなくともボクも納得する。サスペンスタッチの映画作りは巧みだけれど、同じ物語、もっとじっくりと3人の心理を描いてくれた方がボクの好みであることは事実だが、それもまあ納得しよう。ではなぜボクがトリュフォーを好きになれないか。この映画はピエール、ニコール、フランカを中心に描かれているわけだが、それ以外の人物を含めて「こういう人々」とか「こういう人間観をもった人物なり社会」を描くことはもちろんいい。それは例えばピエールなら、彼がどんな女性観を持っていようと、そういう人物として描くのはいい。でも映画全体から監督トリュフォー自身の人間観、特に女性観が見えてくるような気がする。そしてそれは他の作品でもしばしば感じるのだが、女性に対する一種の蔑視、蔑視と言うのが言い過ぎなら、ある種女性を見る目の品のなさだ。そういう下品さを持った人物や社会を作中のものとして描くことと、監督自身の下品さが感じられることはまったく別である。前者には何の問題もない。でも後者は、もちろんボクの勝手な感じ方かも知れないけれど、それを感じさせられてしまう以上、観客としてもボクには不快なのだ。別の意味で例えばヴィスコンティにも品性の卑しさのようなものを感じるが、彼はそれを自分で知っている。トリュフォーの場合はそんな自分に対する絶対の自信のような驕りを感じるのが鼻持ちならない。書き忘れていたけれど、フランソワーズ・ドルレアックが若くして亡くなってしまったのは残念ですね。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.22
コメント(0)

NELLY ET MONSIEUR ARNAUDClaude Sautetここのところ年齢のことばかり書いていますが、この作品は監督クロード・ソーテ70才ぐらいでの最後の作品です。いわば遺言とでも言えるような作品かも知れません。この映画の5年後に76才で亡くなっています。老いて引退生活をしているアルノー氏を監督より4才下の名優ミッシェル・セローが好演していますが、監督のアルターエゴ的役柄と考えてよいのでしょう。ちなみに若いネリーを演ずるエマニュエル・べアールは撮影時に30才くらいです。一言で言えば、この二人の友情以上恋愛未満の物語とでも言ったらいいでしょうか、しっとりと落ち着いた雰囲気のいい映画です。上の写真はべアールに演技をつけるソーテ監督ですが、ここでべアールを見る監督の目は映画のアルノー氏の目でもあり、べアールが監督を見る目もネリーがアルノー氏を見る目であり、また映画の中で若いネリーを知って情熱を回復し回想録を執筆するアルノー氏というのは、べアールを目の前にして映画制作をするソーテ監督でもあるんですね。最初の方でネリーが夫にアルノー氏を説明するのに「老人ではなく年配」と言いますが、この辺がアルノー氏に託したソーテ監督の自分自身への思いなのかも知れません。映画自体の作りは、原題が『ネリーとムッシュー・アルノー』というように、中心にあるのはアルノー氏とネリーの物語ですが、映画の基本枠としてはネリーの物語だと思います。映画の最初と最後に描かれるのはネリーの人生であり、その中間に通り過ぎていくのがアルノー氏です。ただ単にアルノー氏(ソーテ監督)とネリー(べアール)の物語としていないところに、作品作りの上手さ、また奥ゆかしさのようなものを感じます。ネリーには失業中の夫ジェローム(シャルル・ベルラン)がいるんですが、もう1年も彼は仕事をしようとしないで、家でテレビを見たりしてる。ネリーがパン屋とかでパートの仕事をしているんですが、家賃は滞納している。ある日友人のジャクリーヌ(クレール・ナドー)とカフェにいると偶然そこにジャクリーヌとかつて恋人関係ももあった友人のアルノー氏が入ってくる。ジャクリーヌは2人を紹介する。ジャクリーヌが電話をかけにいって2人だけになるのですが、世間話をしていてネリーの状況を知って、アルノー氏はお金を都合しようと申し出る。ネリーは断ります。アルノー氏としては、金で彼女を・・・、なんて下心があるわけではなさそうで、若い彼女を見て、その魅力に惹かれもし、そして若さとか、生きる情熱とか、なんか自分の現在にない、あるいは歳を重ねて段々に失われて行く自分の何かを刺激されたんだと思います。そして執筆中の回想録の口述筆記のワープロ入力の仕事を彼女に提案する。ネリーは家に帰ると夫にその老紳士にお金を借りたと話をするけれど、わけのわからぬ男からの借金でありながら反対もしない。「他にもそんないい知人はいないの?」なんて言う始末。そんな夫を見てネリーは夫と別れる決心をし、夫に告げる。本当に夫が自分を愛しているかに疑問も感じたのでしょうし、自分の存在が原因で夫は仕事もしないという状況だと前から感じてもいたんですね。家賃の滞納があったからその生活も変えにくかったものの、アルノー氏からお金を借りればそれが解決できるわけで、せいせいと別れられるわけです。とりあえずその晩はジャクリーヌの家に泊めてもらい、その後ワンルームも借りて、アルノー氏の家でのワープロ・オペレーターの仕事も始まる。口述筆記の仕事ですが、回想録っていうのは自伝だから過去のアルノー氏のことも知り、そして現在こうしてアルノー氏と仕事をしていて、段々にネリーは彼という人間に関心をもっていく。そしてここは冗長だ、ここは詰まらない、カンマに位置はここの方がいい、と忌憚なく感想を述べるようになる。アルノー氏もそんな批判に最初は怒りを感じつつも、彼女が彼の著作や、ひいては人生や人間にも関心を持ち、心を開いていると感じ、逆に彼も彼女に心を開いていく。誰にも話したことのないドラベラという謎の人物との過去の一件についても秘密を語る。ここで成立しているのは紛れもない人間としての相互理解であり、愛なんですが、ただ一つ2人とも、特にアルノー氏が踏み切れないのは年齢の壁。(以下ネタバレ)一方ネリーがアルノー氏の原稿を持って行った出版社のヴァンサン(ジャン=ユーグ・アングラード)はネリーに一目惚れで、彼女は彼とつき合うようになっている。ネリーはアルノー氏に年寄りの金持ちばかりが客の高級レストランで食事を御馳走になり楽しく過ごす。でもその夜彼女はヴァンサンと会って一夜をともにする。この辺の彼女の心理が微妙ですね。ヴァンサンを愛しているのかどうかは疑問です。年配のアルノー氏に惹かれる自分の心があって、一方相手から愛されて普通につき合っているヴァンサンがいて、そういう自分でも解らない自分の心を確かめたいという思いなのかも知れません。別れた夫ジェロームが睡眠薬を飲み過ぎて病院に担ぎ込まれたという電話を受けてネリーは病院に駆け付けるんですが、病室の夫はピンピンしていて、自殺でもなんでもないただの事故だった。夫の今の彼女というのも現れ、夫はちゃんと仕事をしているという。ネリーの心は複雑です。夫がちゃんと仕事をすることもなく、夫とある意味正常な関係を持てなかったのは自分が原因だと感じてるんですね。そんなことからネリーはアルノー氏との共同作業でも心ここにあらず状態になって、それにイラついたアルノー氏と言い争いになってしまう。でもこれも彼のネリーに対して気持ちがあるからなんでしょう。ジャクリーヌ夫妻の喧嘩の仲裁を2人がすることになったりして、二人の関係は戻り、アルノー氏もドラベラを過去に破産させ、社会的に葬り去ったことなど秘めた汚い自分をも晒し、二人の見えない絆は深まっていく。独身主義を標榜していたヴァンサンだが、ネリーと暮らしたいと思うようになる。それで一緒に住むために借りる家も下見してきたと彼女に迫るんですが、彼女に「今のままではダメなの?」と言われて別れを告げる。ネリーとしては夫のこともあり、そういうことへに不安がまずある。自分は相手をダメにする女ではないかと。それとアルノー氏とがそうであるような、本当の心と心のつながりがヴァンサンとの間にあるかには疑問を感じている。そして家に帰りたくないネリーは夜アルノー氏の家を訪ね、一晩泊めてもらう。裸でネリーが寝る傍らに来たアルノー氏。肌に触れずに撫でるようにするが、それ以上は踏み切れない。彼女が寝返りをうって彼に気付くと、手を預けて握っていてもらう。彼女が眠ってしまうと彼は部屋を出てカフェのカウンターで一人もの思いに耽る。翌朝彼女が起きると、夫アルノー氏と別れて愛人とジュネーヴで暮らしていた妻が訪ねてきていた。妻の愛人が亡くなったのだ。ネリーは来週月曜に裁判所で夫との正式の離婚手続きがあり、火曜にまた来ると言って去る。正式の離婚も成立してアルノー氏の家にやってくると彼は旅行の用意を済ませている。妻と懸案であった世界旅行をして最後にシアトルの音信のない息子に会いにいく計画を実行することにしたと。彼が愛しているのはネリーなんですね、きっと。でもあの晩も自分は彼女を抱くということに踏み切れなかったわけで、こういう形でネリーから離れようと決心したわけです。一人取り残されて寂しく街を歩く彼女。やっぱり男と幸せになれる自分ではないのかも知れないという思いが彼女にはあるんですね。映画の最後のアルノー氏の決断は、もう自分は過去に生きるだけで、新しく映画を作ることはない、というソーテ監督の思いを描いていると考えられます。単なる物語ではなく、ソーテ監督の思いと重なっているので情緒深いです。しっとりとしたいい映画です。派手な感情をあの目で表現するいつもの彼女とは違う、落ち着いた演技のべアールが魅力的です。アルノー氏を演じたセローはこの映画でフランスのオスカーにあたるセザール賞をとっていますが、落ち着いた中に深い感情を込めた名演です。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.21
コメント(0)

AU PLUS PRES DU PARADISTonie Marshallいきなり女性の年齢から入るのもちょっと失礼かも知れませんが、フランスの大女優カトリーヌ・ドヌーヴは1943年10月22日生まれ。この映画の撮影は2001年の9月か10月頃までだから、ドヌーヴ58歳になる直前の作品です。そのドヌーヴが恋する女性を演じた作品で、彼女はほとんど画面に出ずっぱりだし、一から十までドヌーヴ、ドヌーヴ、ドヌーヴの作品です。監督は女優でもあるトニー・マーシャル。また女性の年齢ですが、ちなみに監督はドヌーヴより8つ年下。トニー・マーシャルって言うと、ボクにとっては『男と女と男』のジュリエット役で出ていた姿ですが、それだけなのに何か印象の強い人です。前半部分がパリで、後半部分はアメリカが舞台。アメリカでの撮影が2001年9月14日からに予定されていたらしいですが、その3日前に例の9・11同時多発テロがあって、撮影は大変だったらしいです。超特別にマンハッタンで2日間の撮影が許可されたらしいですが、エンパイアステートビルはカナダでのセットを作っての撮影。映画の中でウィリアム・ハート演じるマットが「飛行機は怖い」と言いますが、このセリフはテロを踏まえたものなのかも知れませんし、絵の撮影の予定が変更されるというのも映画の撮影予定が狂ったことを折り込んだのかな、なんて空想もしてしまいます。というわけで前半はパリ。美術出版の仕事をするキャリアウーマンのドヌーヴ。久しぶりに出席した同窓会の帰り道、ドヌーヴ演じるファネットは旧知のベルナール(ベルナール・ル=コック)に声をかけられる。でも彼に対してつれない。自分を誰かに投げ出そうとしない冷たい彼女につい苛ついてファネットをひっぱたいてしまったりします。他にも何人もの男性に言い寄られているんですが、誰に対してもつれない。相手にもしようとしない。その一方で彼女はケーリー・グラントとデボラ・カー主演の1957年の名作ラブロマンス『めぐり逢い』を何度も見に行っては涙を流す。この映画自体が『めぐり逢い』のオマージュ的作品で、エンパイアステートビルで会うという設定など引用しています。ちなみにファネットが映画館でベルナールに会うシーンで上映されている日本映画は1953年衣笠貞之助の『地獄門』かな?。もともと愛に自分を投げ出すことの出来なかった彼女、この年齢でもう愛だ恋ではないと思い、男性からの接近を避けている。でも愛を充足してこなかっただけに彼女の中ではまだロマンティックなことへの憧れはある。それで『めぐり逢い』のロマンスに浸る。また彼女には過去に愛していながらフィリップの愛を受け入れなかったという心残りもあって、ずっとフィリップへの思いを断ち切れずにいる。そんなファネットの心の動きを描いたのが、この前半パリ部分。ボクの見落としか聞き落としがあったのか父親が誰であるのかわからないのだけれど、ファネットには年頃の娘リュシー(エレーヌ・フィリエール)がいて、美しい母に比べての劣等感をもっているが、母の他人につれない様子にも抵抗を感じているようで、その辺の母娘の関係もなかなか良く描かれている。ここまでが見どころだとボクは感じた。この後彼女は出張でニューヨークに発つのだけれど、その前に彼女はフィリップからの手紙を受け取っていた。「君は愛する女になれるのか?。1日23時、エンパイアーステートビルのてっぺん、天国にいちばん近い場所で待つ。」(そろそろネタバレ)美術書のための写真撮影でニューヨークへ。そこで写真家のマットと知り合う。手違いなどあって2人はマットの旧式の車でボストンへ。彼は彼女に言い寄り、彼女もマットのペースに巻き込まれて段々彼に心を開いていく。この辺はどうもしっくり来ないですね。彼女の急変というか。旅先だということ、フィリップとの約束を控えていること、英語でのやりとりやフランス人とは違うマットのペース、そんなことがあるのかなって想像してみたり。内省的だった前半のフランス部分に対して、とにかく後半アメリカ部分は彼女が殻から出て愛の実践に生き始めるってしたかったのでしょうが、ちょっと弱いですね。9・11による撮影の混乱で監督のペースが乱れてしまったのでしょうか。残念です。そしてフィリップとの約束の晩。強引に誘われて時間までマットとレストランで食事をする。マットにとってはフィリップとやらに盗られずに彼女を自分のものとする賭けですね。でも彼女はエンパイアステートビルへ。彼女はそわそわしています。エレベーターの列に一度は並んだものの、次には乗れるという土壇場で逃げてしまいます。フィリップかマットか、揺れ動くおんな心って言ってしまえばそれまでですが、ボクが解釈するにはフィリップに走るというのは「誤った過去」へ戻ることなんでしょう。フィリップの愛を受け入れなかった過去の繰り返しが待っているのかも知れない。それと成就しなかった愛として、記憶の中で誇大化した実体のない愛なのかも知れない。それでフィリップに逢うことはやめるんですね。外に出ると道路を隔てて向こうにマットがいる。愛することを目覚めさせてくれたマットです。それで車に轢かれそうになりながら道路を渡る。彼女の空想の中の愛の形が映画『めぐり逢い』だったとすると、映画のデボラ・カーとは逆の動きをする。デボラ・カーはエンパイアステートビルに向かおうとして道路で車に轢かれた。でもファネットはビルを背に道路を渡る。つまり空想上の実体のない愛への憧れを捨てて、実体のある現在の愛を選ぶという意味です。後半のアメリカ部分、特にラストは、ボクなりにかなり補って解釈しました。マットにも、多数のフランス男にも彼女はモテるんですが、彼女は美しいけれど、それもちょっと描写不足。たぶん監督が女性だから、男性の目で女を見るという視線が欠けているのかも知れません。余談ですが、グラントとカーの映画の時代はエンパイアステートビルは事実「最も天国に近い場所」だった(建造物として)。ボストンのカフェでファネットはエッフェル塔の話をしていますが、エッフェル塔のいちばん上の展望台は地上276.1メートルで、エンパイアステートビルの102階は381メートル。でも2001年には貿易センタービルの方が高かった。それがテロで破壊されて、文字通りエンパイアステートビルがまた「最も天国に近い場所」だったというのが、なにか面白いです。エンパイアステートビルが天国に最も近いとした映画の設定が貿易センタービルの崩壊を予告していたようで・・・。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.20
コメント(0)

ELISAJean BeckerVHSを持っていたのですが、ビデオジャケット(上左)がちょっと気色悪くて、見ていませんでした。監督ベッケルの『殺意の夏』は好きだし、製作フェシュネール、音楽プレイスネル、興味をそそられる点は多かったのですが。DVDジャケット(上右)は少しマシになっていますね。というわけで2.35対1のシネマスコープの映画をテレビ画面に合わせて左右をカットしたバージョンでの半端な鑑賞。『殺意の夏』と大筋で似たところがあります。主人公の若い娘、どちらも素行的に不良っぽい娘が、過去に母が受けた不幸の犯人に復讐しようとするサスペンス調物語です。『殺意の夏』はイザベル・アジャーニ、こちらはヴァネッサ・パラディ。どちらも脚本が綿密に構築されています。どうなんでしょうね、どちらの作品も構想の段階からアジャーニやパラディが監督の念頭にあったと思います。映画を見ながらよく思うことがあります。4分の3ぐらいまで見たところで、そこまでとてもいい映画なんですが、いったいどういう風に終わらせるのかな?、と。もし文句の付けようのないラストであればその映画は傑作です。でも「あれ?!」ってラストの映画もある。例えば復讐のドラマなら、復讐に成功しても復讐を結局しなくても、どちらのラストでも観客からは評価と批判の両方があったりする。我々はスッキリと完結した物語を求めるわけですが、復讐に情熱を燃やす主人公の心理と行動を描くことが目的でもいいのではないかな。ならラストが多少「あれ?!」であってもいいのかな、と思うんです。この作品も見る人によっては、そういうラストのスッキリしない映画かも知れません。映画の題名は『エリザ』。パラディの演ずる娘はマリーです。「エリザ」はマリーの母の名であり、また監督がたぶん構想を得、作品を捧げたセルジュ・ゲンズブールのシャンソンの題名『エリザ』でもある。映画の中でゲンズブールを思わせる音楽家(フィリップ・レオタール)が出てきます。彼はフランスたばこ「ジタンヌ」のヘビースモーカーとして登場し、風貌も似ています。彼がマリーに語るリボヴィッチという音楽家の物語はゲンズブールの物語でもある。ゲンズブールの両親はロシア系ユダヤ人で、ゲンズブールは戦争中黄色いダビデの星を服の胸に付けさせられ、ナチから逃げ隠れもした子供時代を送っています。作中のリボヴィッチもユダヤ人で、両親がフランス名のデムーランに変えたとジタンヌを吸う音楽家は語りますが、彼が語るレボヴィッチと語る彼自身を合わせてゲンズブールなわけです。そしてゲンズブールの『エリザ』という曲を作曲したのが、作中では妻エリザを思ってのリボヴィッチという設定になっているわけです。映画が捧げられたゲンズブールのことを長々と書きましたが、メインのマリーの物語と同時に、ゲンズブールへのオマージュは作品の重要な要素です。またマリーが「いつも幸せは同じ人ばかりにしかめぐまれない」と言うように、孤児院出身のマリーやソランジュ(クロチルド・クロー)、黒人の子アメド、しがない書店の初老の店主サミュエル(ミッシェル・ブーケ)、あるいはユダヤ人など、マージナルな人々を描くことも主題にあると思います。物語は14年前のクリスマスイヴの悲劇から始まります。建物の配管が最初に映しだされ、その配管を伝ってくる各家庭のクリスマスの楽しげな話し声。配管を追ったカメラはやがて一室の洗面台の蛇口に到達する。その部屋で3才のマリーはクリスマス・ツリーの絵を書いています。母エリザは思い詰めた様子。マリーをベッドに寝かせ、『エリザ』のシングル盤をかけると、枕を娘の顔に押しあて窒息死させ、自分は拳銃で自殺。奇跡的に助かり17才になった娘マリーの回想です。それからマリーと同じ孤児院で育った仲良しのソランジュとマリーを慕っている黒人の子供アメド。いつもつるんでいる3人のかっぱらいや詐欺などの日々の様子が明るく描かれます。その合間に、何かをきっかけとして、冬の寒い日(悲劇の直前)に幼いマリーを連れて両親の家を訪ね、「しばらく家に置いてくれ」と頼んだけれどすげなく追い出す両親(マリーの祖父母)との場面、孤児院での様子、そうした過去のマリーの回想が挿入されます。(以下ネタバレ)マリーは自分の母を自殺に追いやった父の消息をたどる。そして母が売春をしていたことを知る。父はジャック・デムーラン(ジェラール・ドパルデュー)。マリーが孤児院に入ったとき、売春斡旋罪容疑で法廷不出廷で3年の刑で服役中。マリーは父親を探し出して母の復讐をすることを決心する。マリーは駅のロッカーから思い出の品を入れた靴箱とお金を取り出し、密売人から拳銃を購入。駅のトイレの個室で靴箱の中の品々、映画冒頭で映されたぬいぐるみやクリスマス飾り、あの日描いていたツリーの絵、一つ一つ思い深げに脳裏に焼きつけると便器の中に捨てていく。そして購入した拳銃を握りしめる。過去の暗い回想が挿入されるものの、ここまではマリーの明るく生きる様子をむしろ楽しく描いていた映画が、密売人から拳銃を購入してトイレに向かう途中、ジプシーか何かの物乞い路上音楽家がいて、その悲しいメロディーと憂いの表情をした少女が映され、この音楽と映像によるマリーの内省と復讐の思いへの心理の移行が実に良く描かれている。上の方で映画全体での物語の完結性の必要・不必要性のことを書いたが、ロッカーからトイレまでの部分のパラディ、これだけを見せてくれるだけでこの映画はボクにとっては名作だ。マリーは季節外れのクリスマスパーティーを優しくしてくれたケビンやサミュエル、仲間のソランジュやアメドを招いて開き、それぞれに贈り物を贈る。サミュエルにはアメドの世話を頼み、彼にだけ自分が去ることをもらし、こうして親しい人々との別れを密かにする。マリーはジタンヌの音楽家から父のことを聞き、遺品にあった『エリザ』の譜面の書かれた父から母へのサン島の絵はがきを見て、面積58ヘクタール、人口250のブルターニュ半島先端の沖にある小島サン島にやってくる。町のカフェにいると、そこにレボと呼ばれる飲んだくれの男を発見。雨の中店を出た彼を追い、酔いで倒れた男にマリーは拳銃を向けるが引き金を引くことはできず、拳銃を海に投げ捨てる。翌日から彼女は男に付きまとうが、自分の名はエリザだと名乗り、自転車をこぎながら露わになった太ももを見せつけたり、海岸で全裸になったりして男を挑発する。島のダンスパーティーの日、マリーはソバージュの髪をアップにし、派手な化粧をして会場に現れる。男はステージ上でキーボードを弾いている。ダンスをした男性に「私と付き合いたかったら、ステージのあの男に500フラン払って。」と言う。父が母に売春をさせていたヒモだったことの当てつけだ。男と500フラン払いにきた男性は喧嘩になる。男が家に帰るとそこにはマリーがいた。先に寝てしまった男に全裸のマリーはすがり、「私を愛せるか?」と訊き、男は「愛している」と答える。彼女が眠ると男は島でつき合っている女性の部屋へ。「愛、愛なんてオレにはもう」。男は鏡を見ながら妻エリザを去ったときを回想する。男は妻との生活や売れない音楽家としての生活に疲れ、「音楽を続けてもらうために、売春までして生活費を稼いでいたのよ。行かないで。」と言う妻を捨てたのだ。翌朝男が家に帰るとマリーはいない。マリーは、男があの悲劇のクリスマスの頃妻に出し、宛先人死亡で返送されてきた手紙、「お前が忘れられない、愛している」という手紙を読み、母と自分の写った写真とあのサン島の絵はがきを置き、「このろくでなし」と書いて去ったのだった。それを見て男はすべてを理解した。男が灯台に行ってみると、波打ち際で震える彼女がいた。男は彼女を抱きしめ、「お前は20でオレは40。人がなんと言おうと関係ない。」とシャンソン『エリザ』のセリフを口ずさみ、抱き合う2人のバックにゲンズブールの『エリザ』が流れるエンディング。脚本が巧みに書かれていますね。男の服役は法廷不出廷であって売春斡旋や強要はたぶんしてないこと。だから法廷不出廷という言葉は聞き落としてはいけない。これは逃げたのではなく、法廷に出ていれば妻の売春を事実とすることになるので、妻をかばって法廷不出廷の罪を負ったんですね。そして父と母との別れの経緯はちゃんと男の回想で描かれる。まだ生まれていないマリーが知るはずのないこと。事実の視点がしっかりしています。マリーと父親と、どちらが何を知っているか、その差がちゃんとしています。両方の回想を知っているのは観客だけですね。途中に『市民ケーン』の引用を思わせるスノーボールが出てきますがオーソン・ウェルズの傑作に対するオマージュでしょうか。『市民ケーン』も「薔薇のつぼみ」の謎は観客しか知らないわけです。マリーの回想について3才の記憶があるだろうかという疑問を持つ方もいるでしょうか。ちょうどこのマリーぐらいの年齢の頃、母親が自殺未遂をした友人がいるんですが、両親は子供は知らないと思っているようですが、友人はしっかりと記憶があるそうです。最後がちょっと「あれ?!」ですが、『殺意の夏』とちがい暗いものではないので、何度も見たい映画です。あと、パラディとクローの2人がいいですね。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.19
コメント(0)

DEAD POETS SOCIETYPeter Weir寸評:感動の名作、でも普通のアメリカ映画としてはこれが限界か。アメリカ映画はあまり見ないのですが、テーマもいいし、演技もいいし、映像も美しいし、アメリカ映画だけの中の評価としては90点くらい。この作品は300億円とかの興行収入を得ているのだから良い映画だし、成功作なのでしょう。正直に言って、ただ身を任せて見ていたら涙まで誘われる作品です。でも結局のところボクが映画に期待するものとはやっぱり違うということです。映画全体の中で採点したら良くて60点程度です。多くの方が好きなこの作品、ではどこがどう気に入らないか、ってことを書いてみます。そのためにストーリーをネタバレしない程度に簡単に紹介すると、1959年、アメリカ・ニューイングランドの伝統ある有名寄宿制進学校。ただただ名門大学に進学させ、末は博士、医者、弁護士にすることを、アメリカ社会の最高のエリートに子供をするために親はこの学校に子供を預けている。勉学も規律も厳しい。そこにこの学校のOBのキーティング(ロビン・ウィリアムズ)が国語教師として赴任してくる。彼は生徒たちに言う。「Carpe Diem」。今の瞬間をつかみとれ、=いまを生きろ、と。やがて死すべき人として、人生を悔いのないように、自由にやりたいことをやって、自己実現をし、今を大切にしろ、というのが彼が言う意味です。学校や親の価値観に縛られて、いい生徒やいい子供を演じていた生徒たちが、やがて彼の授業を通して自分たち自身を語るようになり、自由な生き方を模索し始めます。しかしこれが親や学校の意向と衝突しないわけにはいきません。このように映画のテーマ自体はものすごくいいんです。感動的です。でも問題はその描き方なわけです。まず登場人物の描かれ方がまったくのステレオタイプなわけです。だから映画としては実にわかりやすい。でも人物にリアリティーがない。例えば厳格な校長にしても、問答無用で息子を自分の言いなりにしようとする親にしても、その人間的背景には、どうして今そうなのか、という歴史があるはずなわけです。それが子供の価値観とは違っていても、現にそういう価値観を持った親がいる以上、子供にもその親の歴史の理解、つまり一人の人間としての親への理解があるはずです。だからこそその親と自分の葛藤に悩むわけです。親のそれが何も描かれないし、感じられない。ただ厳格な規則を押し付ける学校の体制や校長があり、ただ子供を医者なら医者に是が非でもしようという親があるだけなのです。これでも物語は当然成立はします。(以下ネタバレ)例えば役者になりたかったニール。「医者にすることだけを求め、役者になることを認めない父親を持った息子がいて、でも良い子で父親の権威に逆らえないニールは絶望して自殺をしてしまいました。」この2行の説明以上の何が映画の中で描かれていたでしょうか。正直言って映画に入って見ていれば、その場では感動もするし、この息子なり父なり母なりの悲しさらしきを感じる、かも知れない。でも見終わって30分もすると、このエピソードにしてもまったく悲しく思い返されはしない。この映画を見てちょうど30時間ぐらいたっているんですが、ストーリーとか散文的なことを除けば、感情的なものはもうほとんど記憶に残っていません。その程度に薄っぺらいんですね。いうなれば一人のキャラクターとして現実感に乏しいということです。映画はこの2行を言葉で語る以上の何ものももたらしてはくれない。ではそのような単純化された人物と物語ではなぜいけないか。それはこの映画を見る前と見た後で、何ら観客の考えは進展しないからです。父親はこういう人生を送ってきていて、だから子供に対しても権威的だし、そしてたとえ親のエゴであっても息子はどうしても医者にしたい。そしてそれが自分にとっても子供にとってもいちばん幸せなんだ。子供は小さい頃からこんな風に育ってきて、だから親の権威に逆らえないし、でもこうこうこういう理由で役者になりたいと思っている。そして父親や母親の歴史の結果の今の両親はこうなのだということにも理解できなくはない。そういうリアリティーを持った人間が描かれてこそ、直接描かれなくとも感じさせてくれてこそ、子供の心の葛藤が理解され、自殺までいたる心理もわかる。そしてそれがあってこそ観客はそれを見て色々とものを考えさせられるわけです。女優の岸恵子さんのお嬢さんが20歳くらいで日本に来たとき、日本のテレビのある時代劇を見て、それを子供番組だと思ったらしい。ボク自身はステレオタイプ化された人物設定のお決まりストーリーのドラマを否定はしません。特にある種の喜劇とかアクションものならそれもいいのではないかと思います。でもこの種のテーマの映画ではテーマの主張ということに何の大きな実りももたらさないと思います。たとえは悪いんですが、こういう映画のあり方っていうのは、とりたてて独自のストーリーがないポルノに似ていると思います。ファックシーンを見てその場で興奮はしても、後には何も残りません。フランス映画はわかりにくい、という人が多いけれど、そしてフランス映画のすべてが名作なわけではないけれど、登場人物の性格や思いなどが深く描かれてこそ人物の行動を理解できる、あるいは解らなくとも考えさせられることで人間理解が深まるわけで、これがドラマなわけです。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.18
コメント(4)

LA REPETITIONCatherine Corsiniエマニュエル・べアールとパスカル・ブシェールが幼なじみの2人の女性を演じた映画です。監督は女優・脚本家でもあるカトリーヌ・コルシニ。主演2人は悪くはありませんが、結局のところ何が言いたいかったのかわからない作品でした。ボクは女性監督の作品っていうとちょっと警戒するのですが、やはりダメでしたね。これは何も女性差別をしようというのではない。数え切れないほどの男性映画監督の中でも名監督は数パーセント。女性監督は絶対数が少ないから、その同じパーセントをかけたら女性の名監督なんて数人くらいしかいないかも知れないわけです。(ちなみに女性名監督の筆頭はボクにとってはマルグリット・デュラス。)この映画は幼なじみで今30代の2人の物語ですが、映画は学生時代の芝居の稽古風景に始まり、後半は舞台女優となったナタリー(べアール)の『ルル』の舞台稽古が描かれます。だから原題は『LA REPETITION』(芝居等の稽古の意)なんですが、このフランス語はもともと「繰り返し」という意味で、2人の屈折した関係のドラマが何度も繰り返されるという含みがあるのでしょう。でも観客にとっては同じことを飽きずに何度も繰り返して見せられるというのがこの映画です。この2人が登場する別の映画があったとして、その映画で10分程度で描かれてしまうだろう2人の屈折した感情関係だけを描くのに繰り返して繰り返して90分使っているといった感じで、他には何もありません。(以下ネタバレか?)ストーリーはもちろんあるにはあるけれど、ほとんどないにも等しいです。最初にほんのちょっと子役の演じる2人が11歳だった頃の仲良し風景が映って、それから芝居の勉強をしている学生時代。美貌にも恵まれ、自由奔放に生き、芝居の才もたぶんあって、でもある意味子供っぽいナタリー。そのナタリーに憧れ、彼女になりたいと思っていて、それで彼女を愛し、また嫉妬し憎んでいる地味な、そしてやはり幼いルイーズ(ブシェール)。芝居の上演でナタリーは注目を浴び、自分は無視される。ルイーズのナタリーに対する複雑な感情はもともとルイーズ自身の問題で、その関係に耐えられなくなったルイーズは手首を切って自殺をはかり、死に切れなかったけれどナタリーと絶交する。自己中心の子供であるナタリーは(自殺未遂のことは知らないけれど)絶交をしたルイーズの心情なんてわからない。ここまでが学生時代で、この後10年後くらいに舞台女優となって活躍するナタリーと歯科技工士となり結婚して地方都市で地味に生きるルイーズが再会してからが映画の中心的物語なのだけれど、新しいことは何も出てこない。学生時代の2人はある意味そのままだし、感情関係も同じ。2人の間に生じる同じドラマを「繰り返して」観客は見せられるのみ。結局最後にはまた決裂して別れがあるだけなのだ。憧れと嫉妬から成り立ったナタリーへの愛と独占欲のルイーズの行動が心理的サスペンスとして観客を引きつけるから、ある意味退屈はしないけれど、どうなるのかというサスペンスに対する結果が何もないです。あえて少し内容分析。「ルイーズはナタリーの奇麗で高そうなシガレットケースを盗むけれど、これはもちろん物が欲しいわけではない。憧れているナタリーの象徴であり、自分をナタリーに同化するためのアイテム。でもそれを知ったナタリーの反応は単なる物取り扱い。」とか、「恋人で劇作家・演出家のマティアスにナタリーは言われる。君は自分に似た役しかやろうとしない、と。精神的にまだとても幼く自己中心的で、だから他の人の心理を理解して役づくりなんてきっとできない。少なくともやりたいと思わない。これはルイーズに対する態度でもあるわけです。そしてそうマティアスに批判されると、彼を抱きしめて愛の行為にもっていくことで話ははぐらかしてしまう。ルイーズに手首の傷痕は絶交した日に切ったと告白されると、やはり(同性愛的に)彼女を抱くことではぐらかしてしまう。」とか、「あるいは冒頭の学生時代の稽古風景。もともと仲良しの2人で競演して演じるはずだった芝居だけれど、やっぱり一人で演じた方がいいと言い出して、2人は別々の芝居を演じることになるのだけれど、これはたぶん既に2人が一緒であることの不可能を象徴している。」とか、でもこんなこと分析してみても不毛ですね。それで結局この映画は何なのさ、って言うと何もないんだから。この映画、なんとカンヌ映画祭正式出品作品。批評家とかの映画専門家はほとんど厳しい批判ばかりなんですが、こんな作品をなんで正式に出品しようなんて発想が出るんですかね。フランスのある映画サイトの観客評を見てみたら、けっこう高得点つけてる人が多い。一部(あるいは多数?)の観客はこういう映画も好きなんですね。それはそれでいいでしょう。でもフランス映画の悪い側面が強調された作品だと思います。心理的重さだけをそれらしく描けばいい、っていうような。ボクとしては映画の最初と最後での人物の、成長とは言わなくとも、少なくも変化を期待します。しかしそれがありません。むしろどっちかが冒頭で相手を殺してしまって、そこに至る心理的経緯を描くって方がマシかも、なんて感じてみたり。もっと扱いようがあるテーマで、豪華な女優さん使って、お金も労力も使って作られたことを考えると、もったいないな~!って感じです。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.17
コメント(0)
こういうことを数字にするのは無理はあるものの、なんとなく数字化してみると、映画のセリフ、日本語なら98%以上、フランス語80~99%、英語15~40%、イタリア語2~20%、ドイツ語2~20%、スペイン語1~15%、スウェーデン語1~15%、ポーランド語1~5%、中国語0~1%ぐらいだろうか、とりあえず理解できる。だからまあ字幕なしで鑑賞できるのは日本語とフランス語に限られる。最近見た映画で『内なる傷痕』は英・独・仏語、『愛のめぐりあい』は伊・仏・英語、『さすらいの二人』がスペイン・独・仏・英語、『真昼ノ星空』が日本・中国語等、1本の作品に色々な言語が混ざって出てきます。『彼女たちの時間』もフランス語の他にちょっとデンマーク語が出てきましたか。こういう作品ってボクは好きです。ヨーロッパを旅行していると、ほとんどのアメリカ人観光客も日本人観光客も英語オンリーで通そうとしているのを見かけます。アメリカ人は何処へ行っても英語以外使おうとしない人が多いし、日本人は外国語と言えば英語だと思っている人が多い。ボクは片言ながらも現地語を少しでも使うようにします。たとえばドイツ語は得意ではなくても、また意味が解らなくとも、聞き取りは意外と楽にできます。だからドイツをレンタカーで旅行していても、用意して憶えておいたドイツ語を使って公衆電話からホテルにドイツ語で電話して部屋を予約したりします。もちろんホテルの現場で複雑なことを話さなければならないとき、特にクレームをつけるときは相手かまわずフランス語で捲し立てますが。喧嘩では勢力的に相手に負けていたら不利ですから。ふだん我々は日本語オンリーの閉じた島国に暮らしていますが、ヨーロッパは違います。それぞれの国の言葉があり、またそれぞれの人が英語なり仏語なり独語なりの外国語を、上手くまた下手に話します。多言語映画、特にヨーロッパを舞台としたものは、この感覚を味わわせてくれるので好きなんです。アメリカ人は英語以外を使おうとしないと書きました。移民による他民族国家ではありますが、アメリカもある意味英語で閉じた国なのでしょう。戦争映画とかでもアメリカ映画はアメリカ兵もドイツ兵もみんな英語しゃべってたりしますね。だからブッシュの政治にしても自国中心的一国主義的になりやすい。そういう意味では日本も同じ側面をもっているかも知れない。だから多言語が共存する世界を描いた映画にひかれるのかも知れません。アメリカ人や日本人にとっては、こういう映画は世界観を広げるための勉強になるかも知れませんね。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.01.16
コメント(4)

MON HOMMEBertrand Blier簡単コメント:微妙なバランス、思わぬ佳作、グランベールが美しく好演。ベルトラン・ブリエ監督、名前はよく目にするのだけれど、これまで作品を見た記憶がありません。忘れてるだけか?。この映画は、監督の感覚的なところと理性的なところの両方が見える気がします。加えてシリアスに描けば重くもなるテーマを半ばコミカルにも描いていて、安っぽさと崇高さが共存したような、微妙にバランスを保ったなかなかの作品だと思います。テンポもいい感じです。フィルムはヨーロッパ映画ではコダックの方が好きなのですが、奇麗ではあるけれど品の少しないフジの色彩が妙にこの映画にはマッチしていたとも感じました。VHSで見たのですが、ビデオジャケットには映画冒頭部分の主人公カップルのラブシーンだけ捉えて「忍耐のあとに訪れる暴力的なまでのエクスタシー」とか「淫靡な言葉を耳に囁きかければ、手の中で小鳥が起き上がる」だとか「究極のエロティシズム」とか扇情的なコピーが羅列されていて、嘘ではないけれど、作品のほんの一部でしかありません。自ら好んで、天命をも感じて、男に喜びを与え、金も稼ぎ、自らも楽しむという娼婦の充実した毎日を送るマリー(アヌーク・グランベール)が、寒い冬の夜自分の住むアパートのゴミ捨場で寝ている浮浪者ジャノ(ジェラール・ランヴァン)に出会い、彼を部屋に招き食事を与え、暖房の横で寝させる。彼女はこの男に何かを感じ、彼を招いて抱き合い、無上のエクスタシーを感じる。そして彼に自分の「優しいヒモ」になることを求め、娼婦とヒモの日々が始まる。しかし・・・。(以下ネタバレ)この監督のひとつの単なる安易なやり口とも考えられないこともないのだけれど、そうでもない何かこの監督の感覚的なものをもボクは感じるのが、宗教性。ゴミ捨場の浮浪者を見て放ってはおけない。浮浪者が「明日食べるための小銭をくれ」と言うと彼女は尋ねる、「今日は何食べたの?」と。「サンドイッチ」「じゃあ昨日は?」「サンドイッチ」。それで彼女は暖かい料理したものを食べさせてあげたいと思う。作りおきの仔牛のシチューか何かが家にはあるんですね。で階段昇らせて、部屋に招いてシチューとワインを食べさせる。で彼は帰ろうとするんですが、今度は「外は寒いでしょ。部屋の暖房の横で寝てもいいわよ。」とまた部屋に招き入れる。なんかこの辺を見ていると聖書ルカ伝の善きサマリア人の逸話を思い出してしまう。浮浪者の風貌はなんとなくキリストを思わせもするし、フランスでは平凡な名前だとはいえ彼女の名はマリー(=聖母マリア)だし、ジャノに見切りをつけたマリーとサンギーヌが行く先は教会で、そこで「孤独がいちばん恐ろしい」と言う老婆に優しくされるし、出所したジャノにまとわりつく女ベランジェール(ドミニク・ヴァラディエ)の家は遠目にちょっと教会風の建物で、室内の十字架がちょっと強調もされてるし、最初のラブシーンのバックには荘重な宗教音楽風の曲が流れ、ジャノを与えてくれたことをマリーは手を合わせて神に感謝する。最初のセックスシーン。これまで彼女が本当に誰かを愛したってことがあるかどうかはわからない。少なくもこれまでは、もちろん本当に感じるセックスになることはあったとしても、主に男に与える、男を喜ばせる性だったんでしょうね。でもジャノと出会って本当に愛し、エクスタシーにも達する。肉欲だけって見えそうだけれど、ほんとに純粋な純愛というか。ジャノに食べさせようと朝焼き立てのクロワッサン買いにいくのなんていじらしい。彼女は神に感謝し、ジャノにヒモになってくれ、って求める。この辺の男女観は男性中心的で男に都合が良過ぎるとフェミニストからは批判されそうですが、教会の老婆が言うように、人は孤独では生きていけないから、愛を求めるって理解で、男女観云々には深入りしないでおきましょう。マリーとジャノの娼婦とヒモの生活が始まる。マリーが客をとっているときはジャノは外をぶらつくとか、部屋にはいられない。上等の服着て、ピカピカの靴履いて、コロンつけて時間を潰す。ジゴロになろうとしてどこか板につかない。でも彼はもてるんですね。何人か別の愛人を作る。その一人がマニュキュア師のサンギーヌ。爪のお手入れしてもらってたら胸元が眩しかった。ここで彼、見えないようにしてくれる、って言うんですが、そしたら彼女は「店主の指示なんです」って。まあ何処にでもよくある話だけれど、なんか社会を皮肉ってますね。この辺からフラッシュバックならぬフラッシュフォーワードというか、ジャノが警察の一室で取り調べを受けていて、そこにマリーとサンギーヌがいる(未来の)映像がチラチラ所々に挿入されて、「上手くいってたのに」なんてジャノのモノローグが入る。この映画作り、テンポも良くて、監督の力を感じます。ジャノは何を思ったのか。マリーのような女をさらに作ればもっとお金が入るといい気になったのか、もっと本物のジゴロらしくなろうとしたのか、サンギーヌの自分への惚れ具合を確認したかったのか、それともマリーのヒモとして自分自身何もしないことに飽いて、何か自分からの行動をしたいと思ったのか、サンギーヌにも売春させてそのヒモになろうとする。ボクの印象としては色んな理由すべてでしょうか。でもサンギーヌにはどうしても売春ができない。それで囮捜査に引っかかって、売春強要罪でジャノは捕まる。これが先ほどのフラッシュフォワードだったんですね。マリーはジャノのやっていたことを知る。自分の渡した大金で車を買って、サンギーヌにプレゼントしていたとか・・・。この一件でジャノは刑務所に。マリーとサンギーヌは知り合う。マリーは最初はジャノに弁護士つけて刑を軽くするとか考えていて、サンギーヌにも冷たいんですが、バーで一緒に飲みながら二人はいい友達になっていく。そしてマリーが思ったのは平凡な夫と子供2人という家庭生活はどうだろうかということ。彼女のこの発想の急変はちょっと唐突とも感じられますが、監督としてはその先に言いたいことがあった。マリーは今まで常識的・世間的普通の考え方からは外れた生活をしてきた。それにつまづいて、じゃあ世間的な生き方ってどうだろう。でも結果から先に言うと夫が失業でこの生活もなかなか上手くいかない。夫ジャン=フランソワは職安で冷たくあしらわれて職を得られず、道で物乞いをしようとするけれど誰も振り向いてくれない。身なりのいい通行人に事情話すと「こうするんだよ」って帽子をとると、通行人がみんなお札とか入れてくれる。「貧乏人が物乞いしたって誰も恵んではくれないよ」ってわけで、ジャン=フランソワはその男に「少し分けてよ」って言うけれど「自分で稼がないと」って一銭もくれない。職安で追い返されたのにしても、貧乏人で何の資格ももってないから仕事がなかった。こうしたことを見ていると、監督の社会に対する痛烈な批判が感じられる。映画の冒頭にマリーが普通の主婦捕まえて売春に誘うシーンがあって、主婦が「男からいくら貰えばいいの」って訊いたのに対して、「相手を喜ばせる前から金、金、金って、金貰うことばかり考えている」って批判する。浮浪者との出会いでマリーは善きサマリア人のように隣人愛を持っていて、あるいは教会で会った孤独を恐れる老婆はマリーとサンギーヌが寒そうにしているので自分のショールか何かを掛けてくれる。途中が抜けたけれど、ジャン=フランソワは刑期を終えて出所。正面のベンチに女が座っていて、マリーと思って近付くけれど、出所してくる人を見ているだけという別人。彼は刑務所に戻ろうとする。娑婆が上に書いたような冷たく不条理な世界であることに勘付いている。何も考えずに生きていられる人生の休暇は終わりで、また人生に出ていかなければならない。もちろん「君の居場所はもうない」と言われ、追い返される。刑務所というシステム自体はそういう社会の一部なんですね。で再び外に出ると先のベンチの女が付きまとってくる。「暖かいコーヒーはどう?。」彼女はちょっと無気味にも描かれるけれど、要するにやはり孤独で、愛を分かち合える男性を求めている。一方マリーはカフェで見かけた失業中のジャン=フランソワと結婚して子供が二人。でも夫は失業中でお金がない。やむなく昔の衣装をカバンから取り出して娼婦の装いを身につける。箪笥の上のカバンを取るマリーを見てると、やるせなく、悲しいですね。しかし街に出たものの誰も彼女を買ってはくれない。金だけが目的で、かつてのように喜びを持って溌溂と娼婦をやっていた頃の魅力はない、とでも解するべきなのでしょうか。サンギーヌが通りかかり、「娼婦をバカにするのは許さないわよ」と、マリーをバカにした男になぐりかかる。サンギーヌは妊婦でお腹が大きい。マリーがサンギーヌを連れて家に戻ると腑抜けになったようなジャノが来ている。サンギーヌが産気づき、マリーに促されてジャン=フランソワは産院に連れていくけれど、ここの部分がボクにはよく解らなかった。マリーはジャン=フランソワに言う。フランス語セリフの直訳で「セックスするのはあなたなんだから」って。これがどういう意味なのか。サンギーヌのお腹の子も彼の子なんでしょうか?。ともかく2人が出ていってマリーとジャノが残る。ジャノは「マリー、すまなかった。女性たちみんな、すまなかった。」と。感想や解釈を交えてストーリーらしきを中心のレビューを書いてきたけれど、なんとなく作品の持つテーマが解っていただけると幸いなんですが、このテーマを深刻に描いたら実に実に重く暗い。なんとなくコミカルに、ユーモア入れて、軽めに描いているのがいい。最後の終わり方だけが少し意味不明で、弱い感じはありますが。アヌーク・グランベールはたぶん当時ブリエ監督の愛人だったと思いますが、そういう彼女だから監督は美しく撮ってます。ベルリン映画祭で主演女優賞をとった。いい感じに美しく好演。魅力的。マリーの客役で出演のミッシェル・ガラブリュ、ジャン=ピエール・レオ、取調べ警察官のジャン=フィリップ・エコフェ等の名優が脇を固め、助演のジェラール・ランヴァンや特にサンギーヌ役のヴァレリア・ブルーニ・テデスキも好演です。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.16
コメント(0)

HIROSHIMA MON AMOURAlain Resnaisこの映画、ボクが最も評価し、また最も好きな作品の一つです。ただ今回また見て、やはり一種の時代感を持ちました。1970年代に見ていたときにはあまり感じなかった。この四半世紀で世界が随分と変貌したということでしょうか。1960年生まれの諏訪敦彦監督が2001年にこの作品のそのままのリメイクをしようとし挫折するという『H story』を撮ったのも同じ感覚かも知れません。ちなみにこの映画は大映との合作なので、正式に日本版のプリントではタイトルは『二十四時間の情事』、配役等も日本字で出ます。(ネタバレ)以下ネタバレです。そうしないと書けないので。(2人の登場人物には名前がないので、役者の名前エマニュエル・リヴァの「リヴァ」と岡田英次「岡田」を主に使います。)フランスの女優リヴァが平和をテーマとした映画の撮影のために広島に来ている。朝の飛行機で帰る前々夜にフランス語を話す建築家の岡田と行きずりに出会い、2人が深夜リヴァの泊まるホテルの部屋で抱き合っているシーンから映画は始まる。抱き合っているといっても腰から肩あたりまでのアップの暗い映像で、体の断片が絡み合っているようだ。原爆の死の灰を象徴するように特撮で皮膚に砂や灰、そして抱擁による汗に覆われたりする。「ヒロシマで私は全てを見た」というリヴァと「君は何も見ていない」という岡田の対話が繰り返される。彼女は原爆記念館で、病院で、「ヒロシマを見た」と言い、記念館や病院の映像、当時の記録フィルム等の映像が挿入される。「何も見ていない」というのは、ヒロシマを知識的に頭で理解することは真のヒロシマ理解ではないということ。ヒロシマを語ることはできない。語ることの不可能性を語れるのみなのなのだ。ヒロシマを話題にすることなど何処でもできる。一夜限りの不倫のベッドでも話すことができる。これが不謹慎と言うなら、広島になされたことの方が不謹慎なことなのだ。そして人がヒロシマについて何を語ろうが、結局のところ個人その人の人生の方が各自にとってはヒロシマよりも重要でしかない。先に起きたリヴァは、うつ伏せに寝ている岡田の手が震えるように動くのを怯えた表情で眺める。かつての失われた愛の物語、戦争中に恋人だったドイツ兵が狙撃され、死んでいくときの記憶が蘇ったのだ。リヴァは映画の役の赤十字看護婦の衣装で、その彼女に岡田はまた会いたいと言うが、彼女は拒絶する。別れ際リヴァは「かつて私はヌヴェールで狂気にあった。狂気は知性と同じで、説明はできない。狂気にあるときは理解しているけれど、そこから去るともう理解はできない。」と言う。映画の撮影はほとんど終わっていて、最後の平和行列のシーンが残るのみだ。この映画が真面目なものであるにしても、単なる同じような映画の上塗りでしかない。岡田は木陰で居眠りをしているリヴァを見つける。二人は岡田の家に行く。原爆が落ちたとき岡田は戦地に行っていて助かったが妻は死んだ。リヴァも岡田も今の夫や妻と子供と、平凡に幸せだと語る。二人はまた抱き合うが、その愛の行為の中でリヴァはヌヴェールでの過去を語り始める。翌日の出発までの時間を過ごさなければならない。その時間の減少に反比例して二人の愛は強くなっていく。16時間後には否応無しにそれぞれ自分たちの日常に戻っていくしかない。しかしまだまだ16時間は長い。川に面したカフェ「どーむ」。リヴァはヌヴェールでの狂気を話し始める。ドイツ占領中のフランスのヌヴェール、リヴァは19才。初恋の相手は敵兵のドイツ人だった。ヌヴェール解放の直前、恋人のドイツ兵は何者かに狙撃され、倒れた彼が死ぬまで、死んでも彼女は彼の身体を抱きしめていた。直後にヌヴェールは解放され、敵国の兵士を愛したゆえに、彼女は辱めを受け、髪を坊主にされた。リヴァが愛した相手が敵兵で人々から辱めを受けたこと、これは一人の女の個人的な物語でしかないが、人が人に成す愚かさであり、広島になされたことと本質は同じだ。薬局を営んでいた両親は不名誉の娘を死んだものとして家に閉じ込め、彼女が叫ぶので地下室に幽閉した。段々に理性が戻り、ある日母親が来て20才になったことを教える。そして髪も伸びてきた彼女、狂気から抜け出した始めた彼女は、人気のない夜中にパリへと向かい、そこで広島の原爆投下のニュースを知る。ヌヴェールとドイツ兵への愛、広島と岡田への愛、すべてが混ざり合い、彼女がヌヴェールを語るのは、理性的記憶ではなく、無意志的回想で当時の狂気を生き直す狂気の中で語られる。二人は至高の愛で見つめ合うが、それは未来のない愛であり、ヌヴェールでの愛と同じで、すでに忘却の中に組み込まれた愛、つまりは絶対の姿となった愛そのものだ。耐え切れないリヴァは岡田から離れて一人深夜の広島の街をさまよい歩き、岡田は幽霊のように彼女を追う。とあるバーに入ったリヴァ。岡田も追って入るが、二人は離れた別々のテーブルから見つめ合うだけだ。リヴァは日本人の男に英語で話しかけられ、二人は繋がっていながら既に物理的に互いに手の届かない、成就のない愛であることが強調される。夜明け前にホテルの部屋に帰ったリヴァ。ドアをノックして入ってくる岡田。何も起こらないし、話すこともない。周囲にはホテルの部屋という外界世界があるだけ。ヌヴェールの不幸そのものであるリヴァと、ヒロシマの不幸そのものである岡田、その二つは呼応し合い、対応するかのように、既に名もなき二人は互いにヌヴェールとヒロシマと名付け合うことができるだけだ。広島の原爆を普通に原爆の物語としてまた新たに描くことには意味が少ない。なぜなら語る者にとっても、聞く者にとっても他人事だからだ。それぞれの人にはそれぞれの人生があるのみで、それぞれの人にとっては過去の広島の悲劇よりも重要なのだ。それは映画の冒頭でリヴァが「私はヒロシマで全てを見た」と主張するような理性的理解でしかない。だから広島を広島の原爆の物語として語るのではなく、リヴァにとって本質的に同じ意味を持つヌヴェールの物語として描き直す。そうすることで見る我々に、リヴァと同じように広島を自分の物語として生きる可能性を与え、結果として広島の本質を我々は生きたものとして捉えることができる。デュラスの小説を読むとき我々は理性的言語で書かれた内容を読むののではなく、彼女の提示する情念や愛の狂気に浸らされる。このような形でヌヴェールの物語を映画は我々に提示するから、リヴァのヌヴェールの物語を通して我々はヒロシマの本質を生き直すことができる。デュラスとレネの共作によって希有に成功した広島映画。そしてヒロシマを抜きにしても、本人以外の監督作品でたぶん唯一の真にデュラス的世界を描いた映画作品。まぎれもなく映画史上の傑作の1本。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.15
コメント(3)

PROFESSIONE: REPORTERPROFESSION: REPORTEREL REPORTEROTHE PASSENGERMichelangero Antonioni改めてじっくり鑑賞しました。英語タイトル『THE PASSENGER』は「乗客」「同乗者」という意味か。マリア・シュナイダーが運転し、ジャック・ニコルソンは同乗者の予定が、撮影始めたらシュナイダーが車の運転ができない。ニコルソンが運転をする形になった。マリアの運転するシーンが2つあり、確かに後ろから見た頭だけや、車の上の部分だけですね。結果として最も美しい、並木道を走るオープンカーに後ろ向きになったシュナイダーが風に髪をなびかせるシーンを見ることができます。運転できないというハプニングを最高のシーンにかえてしまう監督のセンスはさすが。英国の有名テレビリポーターのデイヴィッド・ロック(ニコルソン)が仕事や人生に疲れ、アフリカのホテルで知り合った英国人で急死したロバートソンと容姿が似ていることから、彼になりすまして別人の人生を歩もうとする。でもロバートソンはゲリラに武器を密売する人。殺し屋や、夫の死に疑問をもつ妻に追われ、偶然ロンドンで見かけ、バルセロナで知り合い愛し合うようになった若い娘(シュナイダー)と逃避行をする。人のアイデンティティー、社会や政治と個人の問題などがテーマ。注意してないと重要な部分を見落としてしまうほど計算しつくされてます。ホテル室内から鉄格子のある窓を抜けて部屋の面する広場に出、外からまたその室内を見るに至る最後の5分強の長回しを特殊カメラ移動装置を使って実現しているのも有名。デイヴィッドはゲリラとの接触に失敗、車は砂の中にスタック、やっとホテルに帰着。隣室ではロバートソンが心臓発作でベッドにうつ伏せに死んでいた。デイヴィッドは仕事や妻との関係に疲れていた。死人の風貌は自分に似ていた。デイヴィッドはこのロバートソンに成り代わってその人生を生きようと考える。(以下ネタバレ)パスポートの写真の張り替え。死んだロバートソンとの会話をテープ録音で聞きながらデイヴィッドは作業する。窓の方を見る。画面もその視線に合わせてパンしていくと窓の外にロバートソン。後からデイヴィッドも姿を現し実際に会話している。2人は室内に戻り、デイヴィッドが画面外に消えロバートソン1人の画面が壁沿いにパンしていくと、パスポートの写真を張り替えているデイヴィッドに。巧みに現在と回想を連続させている。似た手法はテレビドラマでも見るが、ここではデイヴィットがロバートソンに入れ代わる過程をうまく表現している。物語はこの技巧的なシーンに始まり、最後の長回しで終わる。最後の方はロバートソンことデイヴィッドの部屋から始まり、カメラが部屋を出て最後にはその部屋を外から眺めることで、アイデンティティーの融合が終わり、客観的視点を回復する。ロバートソンになり代わった彼はロンドンへ。ベンチで読書する若い女(名前がないので以下マリア)に目をとめる。次はミュンヘン。ロバートソンがゲリラに武器密売をやっていたことを知る。次は手帳の予定通りバルセロナ。デイジーなる人物と会うことになっている。しかしデイジーではなくロンドンで目にしたマリアにガウディ建築カサ・ミラで出会う。妻が差し向けた追っ手が自分を捜していることも知り、マリアに頼んでホテルをチェックアウトし荷物を取ってきてもらう。2人が落ち合うと、車にはマリアの荷物。手帳のスケジュールをたどりながらの2人の逃避行が始まる。2人は愛し合うようになるが、マリアが手帳にあるロバートソンの予定を読みあげる。何人もの女性と会うことになっている。「デイジーが多いわ。お気に入りのようね。」と言うマリアだが、デイヴィッドは「デイジーって男じゃないかな」と言うのでマリアは怪訝な顔をする。これは伏線。妻は送られた死んだ夫のパスポートの写真が違うことに気付き、夫の死に増々疑問を持ち、スペインまでロバートソンを捜しにやってきた。DSに乗った2人の殺し屋も段々に迫っていた。途中車も故障し、無関係なマリアに去ることをデイヴィッドは求め、彼女は去る。手帳にあったオスーナのホテルにデイヴィッドが到着。ロバートソンと名乗るが、ホテルの主人は「奥様が既にお見えで、ロバートソン夫人名義のパスポートを拝見しているので、あなたのパスポートは必要ない」と言う。部屋にはマリアが。ホテル主人のセリフでデイヴィッドも観客もシュナイダー演ずるこの女性の正体を知ったはずだ。デイジーとはロバートソン夫人。ロンドン、バルセロナで出会い、一緒に逃げてきたマリアその人だ。ここで彼女は鏡に写った姿で登場する。人は光学的および周囲の人の目という鏡像からアイデンティティーを獲得する。ここまでただの若い女であった彼女のアイデンティティーがここで初めて明確になる。ある意味転換する。だから実像ではなく鏡像だ。デイヴィッドは40歳で手術で目が見えるようになった盲人が、世界のあまりの汚さに3年後自殺した話をする。教会のある風景画が映る。絵の中の世界は美しい。「君は私とこんなバカなことをしていてはいけない」と彼は別れを促し、彼女は部屋を出ていく。隣室でカバンに衣類を詰めるが、椅子に腰掛け泣き始める。彼女の姿はキリストを裏切ったユダなのか。画面はデイヴィッドの部屋に戻り、彼は窓を開けベッドに横になる。サングラスが置かれている。サングラスを外して醜い世界を見た盲人と同じようにデイヴィッドも絵の美しい世界ではなく、醜い現実の世界を見ているのだ。彼はうつ伏せとなり、映画冒頭でロバートソンが死んでいたのと同じ姿勢となり、彼の死が予告される。カメラは鉄格子の張られた窓へと近付いていく。あてどなく広場を歩いているデイジー。ファンファーレのような音楽が流れ、群衆の声援のような音がする。広場にいる少年は闘牛士が牛に剣でとでめを刺すときのような姿勢をする。デイヴィッドがこれから殺されることの暗示。DSが到着し白人、黒人の2人が降り、白人はデイジーに気付き話しかけるが、彼女はイライラと振払う様子。黒人はホテルの方へ。ドアが開いて閉まる音。窓を画面の中心に据えていたカメラが右にパンして窓ガラスが画面に入る。そこに薄らと黒人殺し屋の影が見える。運転教習車のエンジン音に紛れるように銃声。再びドアが開いて閉まる音。外に出たカメラはデイヴィッドの妻を乗せた警察車両の到着を写し、ホテル主人、警官、デイジー、妻が部屋に入っていく。今は外から鉄格子越しに部屋の内部を見ている。室内というデイヴィッドの場所からの視点に始まり、今は外から客観の視点で彼を見ている。苦労して長い一続きのシーンを撮る必要はここにあった。デイヴィッドは冒頭で死んだロバートソンと同じうつ伏せの姿勢で死んでいる。警官に「知っている人か」と問われ、妻は「これまで会ったことはない」と、デイジーは「知っている」と答える。妻が夫をわからないはずはないが、ロバートソンと名乗り、殺し屋に殺されるような彼に彼女は会ったことはない。人のアイデンティティーとは体と名前、属性、すべてを含む一体で、体だけでは夫ではない。デイジーは最初からロバートソンと名乗ったデイヴィッドを知り、彼女にはすべてが一体となった一人の人物だ。外は暗くなり、ホテルには灯りが点り、運転教習車も去っていく。何事もなかったように世界は継続していた。回想シーンでロバートソンは、「現地人と理解し合うのが難しい」とこぼすデイヴィッドに言う。「君は壊れやすい言葉やイメージを使って仕事をしてる。僕は形のある商品を扱う仕事で理解は得やすい。」人の体は形のある物だ。がアイデンティティーとは「壊れやすい言葉やイメージ」なのだ。デイヴィッドが取材したフィルム映像が流れる。反政府活動で捕らえられ銃殺される男。ゲリラは存在しないと答える大統領。妻が指摘するようにデイヴィッドの取材は真実や理想の追求はなく、現実を受け入れ、大衆が見たいと望むものを作るというものになっていた。追悼番組を作るという同僚に「彼は平凡な記者でしかなかった」と妻は言う。祈祷師という男のインタビューで「君は人の話を誠実に理解し、学ぼうとしない。」と言われ、祈祷師にカメラの向きを変えられてデイヴィッド自身が逆に写されてしまう。他人のことを取材するより自分をちゃんと見つめろという意味か。しかしそれも彼だけの責任ではなく、既成社会が要求することでもある。アントニオーニが描くのは社会との関係性の持ち方という政治的な問題でもある。そもそもゲリラの取材や、ゲリラ活動への理解を示すロバートソンが物語の中心にある。人気レポーターにはなったが彼は自分に対する欺瞞、そこから抜けられない自分が嫌になっていた。だから他人の人生に逃げようとしたのだ。「自分はすべてから逃げている」と言い、ロバートソンの人生からも逃げて別のことをしようと安易に考える。がマリアにそのすべてを「無理、ロマンチック過ぎる、不似合」と否定される。ロバートソンのスケジュールを実行しながらも上手く行かず、投げ出そうとしたときには「諦めるのは嫌い」と彼女に言われてしまう。偶然危ない人生を送っている男になりすましてしまったが、彼の運命の原因は彼自身の生き方そのものだ。その投げやりな死さえ彼の選択だ。デイヴィッド・ロックとして名乗り出れば暗殺されることはなかっただろうから。マリア・シュナイダーが魅力的。彼女が実はロバートソン夫人、デイジーだと気付かない人もいるようですが、それを知った上で最初からまた彼女を見るのもまた面白いです。最後にストーリーとは意味的に無関係に自動車教習車が出てきますが、シュナイダーが車の運転ができなかったというハプニングを踏まえてアントニオーニは使ったのかな、とか考えたりして・・・。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.14
コメント(3)

LA CICATRICE INTERIEUREPhilippe Garrelこの作品、「前衛的な映画か?」と問われれば「まあ・・」と答えますが、「難解な映画か?」と問われれば「いや」と答えます。解釈するような映画ではないと思うからです。戦後生まれのガレル監督自身「自分の父親の世代は映画を観にいって理解しようとしたが、自分の世代は感覚的に映画を観にいく。」と言ってもいるように、この映画も感覚で捉える作品かも知れません。約1時間の中編映画ですが、約20シークエンス、約25カットで、カメラの移動とズームによる3分とか5分の長回し1シーン1カットをつなぎ合わせたものです。(以下ネタバレ)物語というものがほとんどないので、ネタバレと言えるかどうかはわかりませんが、逆に何を書いてもネタバレになってしまいます。映画は上の写真の場面でいきなり始まります。ガレル監督の当時の愛人のニコ(モデル・女優・歌手、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌姫)が荒涼とした土地に半寝状態で座っていて、遠くからフィリップ・ガレル監督が近付いてきます。フィリップは彼女を起こして連れて歩き始め、ニコが英語で「何処に連れていくの?」と一言。ここまでで約3分、単一カットです。画面がかわって上5連写真のシーン。ニコは砂漠らしきところに座っていて、「息ができない、お願い助けて」と号泣していて、フィリップは彼女を引っ張っていこうとしますが動じないので画面左の方へ去っていく。そのフィリップの歩行をカメラはトラヴェリングで追っていく。約3分歩き続け、またニコの右から戻ってくる。フィリップもカメラも実は円を描いていただけなんですね。ニコの周囲が360度にわったって広い何もない荒野(砂漠?)であることが示されます。ここで「♪精神異常の清掃人/幼児に脅かされ/空の揺りかごを石のように硬くする・・・」とニコの歌声がバックに流れます。フィリップがもう1周してまたニコのところに戻ってくると、ニコは立ち上がってフィリップを突き放し、「いなくていいから、あっち行って。一人で何とかするから。」と言い、フィリップを残して去っていきます。場面がかわって氷上を歩くフィリップと後ろからくるニコ。映画が始まって約15分のところで鍾乳洞のニコが映り、今度はドイツ語でのモノローグ。ここで画面下部に『LA CICATRICE INTERIEURE』とタイトル文字。映画最後はエンドロールもなく突然終わるので、これが唯一のテロップです(日本語字幕は除く)。この映画には対話が一つもありません。あるシーンで一人の人物が言葉を吐くだけで、相手がいてもそれに答えての対話はありません。また言葉もニコの英語と独語、後から出てくる人物の仏語と、バックの英語の歌、色々混ざっています。ガレル監督は最初この映画の公開にあたって、いかなる翻訳字幕も禁止したそうです。上の2枚の写真の少年役はニコが生んだアラン・ドロンとの間の息子アリ・ブーローニュ(母ニコの姓でアリ・ペフゲン等その他の名前もあり)です。ちなみにブーローニュはアラン・ドロンの継父の姓、またドロンはこの子を認知していません。この後、上写真のような『トリスタンとイゾルデ』を思わせるシーンや、火山から火を持ち帰って地球外の何処かに火をもたらすとか、剣を石で打ってニコに贈るとか、神話的、古代的イメージが続きます。最初に解釈の不必要を書きましたが、あえて感想的解釈をちょっとしてみます。最初のニコとフィリップの場面、1つ目で出会い一緒に何処かへ行く。しかしどこへとも、どうしてとも分からない。2つ目でフィリップはニコの元を去るものの円を描いてまた戻ってくる。ニコを離れようとしても離れられない。そして3つ目の場面ではニコは「あっちへ行って」と拒否りながらも、フィリップの後を歩いてくる。出会ってしまって、お互いに苦しめ合うだけだけれども、どうしようもなく離れられない「愛?」にある2人の関係を象徴しているように感じました。その辺は同監督の『ギターはもう聞こえない』を見て下さい。もう一つ感じたのは、この作品の撮影が行われたのは70年、71年(場所はチュニジアとアイスランドだそうです)らしいんですが、68年のフランス五月革命の夢の後を引きずっている感じです。五月革命というのは、基本は教授制の強大さに反対した学生の自治要求という大学制度の問題でしたが、広く旧既成制度に対する労働界、思想界、宗教界、その他各界における反発、自由化への要求という方向に発展していった。そしてそのユートピア的夢は不完全な形で挫折する。そういう精神風土がこの作品のガレルに見られる気がします。だから文明以前あるいは文明の誕生、古代宗教、そういうことへの関心がある気がするんです。物語を求める観客の方には決してお勧めしません。ただ雰囲気に浸って見られる方にはお勧めです。あとはこの絶対的なる存在感を持ったニコのファンにもお勧めです。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.13
コメント(0)

クロエ利重剛利重剛監督の作品を初めて見ました。ボリス・ヴィアンの小説の翻案・映画化。なかなか良い映画だと感じました。ただ見ながらこの監督、どこか完全にはシックリ来ないところがあって、今のところちょっと「?」としておきます。『BeRLiN』とか他の作品も見てみないとまだ何とも言えません。ボリス・ヴィアンの小説はシュールレアリスティックなもので、そのまま全体を映画化っていうのはかなり難しいと思いますが、コランとクロエ(高太郎と黒枝 )の物語を中心に、小説全体もある程度映画化されています。シュールな表現はほとんどなく、肺の中で蓮の花が育つことと、家が段々小さくなっていくこと、この2つ程度でしょうか。ジャン=ソール・パルトルとしてヴィアンが皮肉ったジャン=ポール・サルトルは、KITANOというカリスマ・アーティストとして登場させていますが、これは誰か特定の人物を皮肉っているのでしょうか。名前からは連想する人物は実在しますし、印象としてはオ○○の麻○○○にどこか似てますね。(以下ネタバレ)基本的物語は、児童科学館でプラネタリウムの解説なんかをしている高太郎(永瀬正敏)が叔母さんの絵の個展の会場で、義理で来ていた黒枝 [クロエ](ともさかりえ)と運命的な出会いをして、めでたく結婚。ところがある日クロエが奇病になる。肺の中に蓮のつぼみがあって肺の機能を阻害している。手術で摘出するんですが、そしたら今度はもう一方の肺にも同じ蓮のつぼみが。手術した方の肺は機能しておらず、もう手術はできない。ある日高太郎は他の花がクロエの肺の中の蓮のつぼみの成長を遅らせることに気付き、買ってきた花で室内をいっぱいにする。しかし些細なことで職場を解雇されてしまう。蓮が肺の中で開花して死んでしまうまでの時間を高太郎となるべく多く過ごしたいと思うクロエ、その時間を犠牲にしても働いて花を買って少しでもクロエの延命に努力する高太郎。2人で居られる時間はどんどん減っていく。そしてある日運命のときが。葬儀を終えると池に蓮の花が一輪美しく咲いていた。KITANOなるカリスマ芸術家にうつつをぬかし、借金までしてその著書の収集に耽り、最後は金を借りている友人に殺されてしまう英助、英助を捨て切れず、彼が殺されたことも知らずに苦しみの元であるKITANOを殺害する日出美、奇病を取り巻く世間の冷酷さ、大衆に根ざしたキリストを語る牧師、その他色々なこととがこの基本的ストーリーに織りまぜて語られる。この映画は2時間以上あり、長い方だ。テンポがゆっくりとしていて、そのこと自体はいいのだけれど、すこし内容的に欲張って色々なものを入れ過ぎているのではないかと感じた。その一方で特に後半ではクロエと高太郎の場面が簡単過ぎるのではないか?。部屋が段々と小さくなっていくことにしても、その効果が十分には描かれていない。ただヴィアンの原作にあったから描いたというだけに留まっている感じ。なるほどクロエを取り巻く光と花の画面は美しいけれど、それならばもっと美しくもできたはずだ。そうすればクロエ以外の世界との対比がもっと鮮明になる。最初の方で利重監督についてボクはとりあえずの「?」を付した。その疑問とは、最初の2人の出会いから結婚に至るまでの描写、クロエの性格設定、花と光線に囲まれたクロエの部屋の美しさ、こうしたものが利重監督の内なるものなのか、それとも単なる既成概念の利用なのか、その辺のことだ。異論もあるようだが2人の主人公の演技も十分だし、この映画自体はこれとして十分良いものになっている。しかしクロエという美しい娘の体内にあるのが蕾で、咲こうとしているのが美しい蓮の花だという、この互いに一致&矛盾している美の感覚もそうだが、こういう感覚を監督自身の感性で捉えて、それを表現しているかというと、どうも疑問を感じてしまう。ちなみにボリス・ヴィアンの原作『日々の泡』(or うたかたの日々)は、1968年にフランスでシャルル・ベルモン監督が映画化している。しかしちょうど五月革命の混乱の中で忘れられてしまったようだ。DVD化などはもちろんされていないが、こちらも見てみたいものだ。利重監督はこの作品を見たのだろうか?。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.12
コメント(0)

AMATORKrzysztof Kieslowskiキェシロフスキの初の長編劇映画『傷跡』(1976)から3年後1979年の長編劇映画第2作。と言っても『傷跡』の前年の『スタッフ』が(残念ながらまだ見たことありません)彼の長編劇映画第1作だし、『傷跡』と同じ年に『平穏』という44分の中編劇映画等も作っています(これも未見)。『傷跡』が監督本人が言うように失敗作だとしても、この『アマチュア』は堂々とした立派な長編劇映画だと思います。首尾一貫とした流れがあり、その意味で曖昧な所はない作品です。各役者の演技も良いし、編集も優れています。ときどき入る叙情的な映像と音楽が美しく、監督が後にフランスで撮った4本の作品につながります。しかしその中に描かれていること、作者が提示したかったことは多岐に渡っていると思います。主人公フィリップは娘の誕生を期に8ミリ映画カメラを買って娘の成長記録を撮ろうとします。孤児院出身で、まともな仕事、相思相愛の妻、念願の娘、そして住宅難の中でのアパートへの入居、そうしたものはすべて手に入れたはずなのに、それでは飽き足らずに、工場長の依頼で工場の式典の記録を撮ったことから、カメラの目を通して現実の真実を捉えようと映画制作にはまっていき、周囲からも反発も招き始める。ポーランドの体制の中では描いてはいけないことも多々ある。一方妻との関係では映画熱で家庭を顧みなくなり・・・、といった物語。キェシロフスキの自伝的要素(事実関係というより映画作りというものに関して)が多分に含まれていると思います。工場長に祝典の記録映画を撮るように依頼されるわけですが、フィリップの関心は舞台裏に向かう。これはキェシロフスキのドキュメンタリーのあり方と同じですね。表に隠れた裏がある。象徴として描かれていたのが奇麗に改装された表と汚いままの銀行の裏ですか。裏はすべての表を生じさせているものでもあり、何かを問えばいちばん重要なこと。そしてこの部分にこそキェシロフスキの関心は強い。しかしこれは個人生活であれ、国家といった体制であれ、多くの場合当事者はあからさまに晒されたくないもの。個人の場合には映画作家がそこに踏み込んでよいのかという倫理の問題があり、体制について言えば共産体制のポーランドではもともと不自由が多い。そうすると中途半端に現実・真実を写したドキュメンタリーよりも、その裏の本質を巧みにフィクション化して描く方が表現力は強いのではないか。そう考えてキェシロフスキはフィクションに転向したのだと思う。そしてこの作品はその過程を描いているだと感じました。演出が良い、と言ってしまえばそれまでだけれど、ポーランドの役者さんたちは本当にいい演技しますね。役者であるという以前に実存的に生きるって根本があるからなのでしょう。役作りがしっかりとしている。一人の同じ役者が別の映画で色々な役を演じるわけですが、我々が映画を見ているとき、たとえばイェジ・シュトゥールなら、ここではフィリップに、別の映画ではユレクに、別の映画ではアルトゥルの兄に見えなければならない。これは役者の演技(役づくり)だけの問題ではなく、映画全体の出来にも関係することですが、俳優イェジ・シュトゥールに見えていたらダメなんですね。観客はフィリップを見ていてそのフィリップをシュトゥールが演じていのであって、シュトゥールを見ていてそのシュトゥールがフィリップを演じているんではないんですね。あくまで普通の映画の場合は、ですが。そういう意味で各役者の演技に安心して身を任せていられる。『カムフラージュ』の上映会と監督との語らいの会が描かれ、クシシュトフ・ザヌーシ監督が本人役で登場。評論家のタデウシュ・ソボレフスキも。ザヌーシに関しては、実際に色々所に行って上演・講演・討論などをやっていた本人を本人として登場させることでドキュメンタリー的にリアリティーを持たせるためなのでしょうか。ソボレフスキに関しては業界人的雰囲気を出せるので役者よりやはり真実味がある。この2人や映画コンクールの様子などから当時のポーランドのこの種の世界がどんなであったかがかいま見られるのも面白かった。あと作中フィリップが見ている映画の本のページが写る。ケネス・ローチの『Kes』とか。キェシロフスキは他の作品の中でも他の映画からの引用やオマージュを何気なく入れているけれど、こういうのもキェシロフスキ・ファンにとっては興味深いですね。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.11
コメント(0)

真昼ノ星空 Starlit High Noon 日正当中的星空中川陽介(92min)那覇・桜坂劇場にてなかなか雰囲気のあるいい映画でした。ボクとしては及第点+αといったところ。前に見た『FIRE!』も映画的質感があって好感があったので劇場に見にいきました。今年初の劇場映画鑑賞です。ワン・リーホン演じる台湾ヤクザ組織の殺し屋リャンソンは、父が台湾人、母が沖縄・宮古の人という設定。抗争する組織のボスの殺害を終えたリャンソンは、誰にも知られていない沖縄・那覇の隠れ家に一人身を隠している。彼は毎日プールに通って魚のごとくしなやかに泳いでいる。ときどき空を見上げては「ヒマラヤでは空気が澄んでいて真昼に星が見えるという」と、星を探すが、沖縄の空に星の影はない。真昼の星空、それはリャンソンにとっての憧れでもあり、幸福の象徴なのかも知れない。このプールの受付担当のサヤ(香椎由宇)。彼女はほとんど言葉を交わすことはないが、毎日泳ぎにくるこの謎の青年に心惹かれている。その様子を見つめる同僚(柳沢なな)。彼女はサヤに憧れを感じていて、サヤの生に自分を同化している。一種の同性愛的な感情をもボクは感じた。リャンソンが夜洗濯にいくコインランドリー。いつも土曜には少しやつれ、どこか陰のある由起子(鈴木京香)がやってくる。リャンソンは由起子に心のときめきを感じている。この静かな3人の孤独な人生が交差する物語。(以下完全ネタバレ)ある日偶然、由起子の働く弁当屋の配達車両に乗った由起子を目にしたリャンソン。次の土曜日、コインランドリーでリャンソンは由起子を食事に誘うが断られる。次の土曜日、彼女は拒まなかった。リャンソンは彼の家で得意の中国料理のフルコースを御馳走し、初めての気持ちで自分でもわからないが由起子に恋をしたと告白をするが、「愛するのはいいけれど、その後が私はダメなの。」と由起子は言う。過去の愛で深く傷付き、彼女は愛することを避けているのだ。送っていった別れ際、たまたま通りかかったサヤが二人の様子を目撃する。台湾の組織への電話。抗争相手組織のボスを殺して優位に立ち、手打ちをして共存しようとしたが、相手の出した条件は飲めるようなものではなかったと知らされる。リャンソンにはそれが自分の引き渡しであることが想像できた。もう2~3ヶ月身を隠せという指令に、彼は翌日台湾に帰ると告げる。彼は「台湾に帰る。もし空港に来てくれなければ、そのまま沖縄に戻ってくることもないだろう。」と由起子への手紙を書き、その手紙を由起子に届けてくれとプールのサヤに託す。サヤは由起子の働く弁当屋に手紙を持っていくが、由起子が出てくる前に去ってしまい、手紙は捨ててしまう。サヤの目には涙が浮かび、それを見つめる同僚。那覇空港で由起子を待つリャンソンだが、彼女は来ない。そして飛行機は飛んでいく。台湾に着くが空港では相手組織をかわし、清掃職員の姿でリャンソンはまた相手を殺す。台湾の山中に身を隠し、登山好きの彼は山歩きを楽しむ。しかし台北では組織抗争の戦争が激しく行われたらしい。再び那覇、夜のコインランドリー。別れるときにリャンソンは「もう決してあのコインランドリーには行かない。」と言った。いつものように由起子がやってくると、そこにはリャンソンの姿が。由起子は洗濯機を回すと静かにリャンソンの隣に座る。しかしこれは誰の幻想か、夢なのか。それとも現実なのか。それはわからない。白い飛行機雲の線だけの真昼の青空には星影はなかった。上にストーリーをネタバレで書いてきて感じたのは、文の出来はともかく、ものすごく簡単に書けたこと。それだけシンプルなストーリーだということだ。その中に3人、あるいは同僚を含めて4人の孤独な生がみごとに語られている。雰囲気だけで何かを感じさせる手法は巧みだと思う。これ以上別に4人の人生を語る必要はもちろんない。だがもう一歩それぞれの心性を感じさせてくれたらもっとよかったのではないだろうか。例えば由起子のことについて言うと、ほんのわずか前の男との別れの場面らしき回想と、庭に投げ捨てられたコップと朽ちたコップの映像などは紹介される。彼女は前の愛で傷付いて、そして今の彼女があるのだけれど、その彼女の心の状態がイマイチ表現されていない。過去に傷付いて今の彼女があるが、その心そのものまで観客の全面的な想像・解釈に委ねてしまうというのはどうだろうか。誤解のないようにもう一度言うと、こと細かに彼女の過去を描け、というのではない。傷付いて孤独なんだぞ~、ってことはわかっても、そしてそういう様子をしているけれど、その彼女の心情があまり伝わってこないし、何よりも観客の空想に発展性がないのだ。別の言い方をすれば発展性があり過ぎる。つまり映画に描かれた彼女が無定形であるために、観客のではない、映画の中の彼女の心の理解を進める意味では発展性がないということだ。こんな不満を感じるのは前日にアントニオーニの『太陽はひとりぼっち』を見たせいかも知れない。この映画の中でもモニカ・ヴィッティ演じるヴィットリアの心情は多く語られるわけではないけれど、観客の勝手ではない作中のヴィットリアの心情はひしひしと伝わってくる。目指すものの違いで中川監督はそういうことをしたかったのではないかも知れないが、ボク個人の好みや感想で言えば、そこがもっと感じられる作品となっていたら名作、傑作、一流の作品になっていたような気がして、そこが少し残念だった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.10
コメント(0)

L'ECLIPSEMichelangelo Antonioniいきなり最後の「END」マークの画像を引用しました。街灯の光のアップによる日食を思わせるような映像です。この映画の原題は『日食』、太陽が月の陰になって見えなくなる天体現象です。この映画の日食は実際の日食ではありません。太陽が沈んで闇となり、街灯の灯りが太陽にとってかわる。自然物を人工物が覆い隠す日食。物の世界に埋没した人間の空虚感が映画の中心テーマ。21世紀の今見るとやや古い時代を感じさせないでもありません。しかし20世紀になり、2度の破壊的大戦を経験し、自然や神の存在が希薄となった時代、米ソの核の不安もあった時代の精神風土を反映した60年代的作品ではあっても、結局のところ表面的には変わったようで、当時の「現代」は2007年になった今も実は継続しており、そういう意味ではアントニオーニの映画作法的完璧さだけではなく、内容的にも今日的意味をまったく失ってしまった作品ではないような気がします。(以下ネタバレ)タイトルロールが終わって最初のショット。電気スタンド、コーヒーカップ、本、その本の上の白い物体。それは男の腕。空気の流れ、しかしそれは扇風機の人工的な風。ヴィットリア(モニカ・ヴィッティ)と婚約者リカルド(フランシスコ・ラバル)が2人のことを話し合って明けた重苦しい朝。カーテンを引くとわずかな木々と人工的なキノコ形の給水塔。彼女は彼との関係を清算する。何故か?。「君を幸せにしたかった。」「あなたを知った20才の頃、私は幸せだった。」「もう僕を愛してないのか、それとも結婚がイヤなのか。」「わからないわ。」何か特別の出来事があったわけではない。とにかく「幸せじゃないのよ。」彼女はリカルドの部屋を後にする。ヴィットリアは証券取引所へ。そこには母がいた。素人投資家として株の売買に夢中。娘の話を聞こうともしない。死んだ株式仲買人の死を悼んで取引を一時中断して1分間の黙祷。人々は静かな中、電話など物だけは鳴り続けている。ヴィットリアは証券仲介業者のピエロ(アラン・ドロン)に声をかけられる。夜部屋に戻ったヴィットリア。彼女が買ってきたのは植物の化石が残る石板。お隣の奥さんのケニア帰りの友人宅に遊ぶ彼女。そのご主人の操縦で小型飛行機の遊覧を楽しむ彼女。でも空虚な彼女の心を満たしてはくれない。証券取引所では株式が大暴落。ヴィットリアの母も何百万もの負債を負うことに。5000万を失った男をヴィットリアがつけると、彼がカフェに座ってメモ用紙に描いたのは花の絵だった。彼女はカフェでピエロに一杯誘われる。失われたお金はどこにいくの?、という問いに対する彼の返事は「いや、どこにも。」と。株式の相場などというのはもともと実体のない数字なのだ。事後始末に忙しいピエロ。夜ヴィットリアの部屋の窓辺の下を通る酔っ払い。そしてピエロがヴィットリアと話しているとその酔っ払いがピエロのアルファのオープンカーに乗って去っていく。翌日川に水没したアルファが昨夜の酔っ払いの死体を乗せたまま引き上げられる。立ち会うピエロとピエロによばれたヴィットリア。ピエロはヴィットリアに迫るが彼女はなかなか受け入れない。彼が語るのは新しい自動車のこと、つまり「物」のことだ。彼女は言う。「愛していれば、わかり合えるもの。わかろうとする必要はないわ。」そしてピエロに「私が望むのはあなたを愛さないことか、もっと深く愛すること。」と。簡単に愛すればそれはリカルドのときと同じ。それなら愛したくはない。苦しみが待っているだけだから。でも本当に深く愛すことができるのなら、そうしたい。そういう意味だろう。しかしそれが難しいからヴィットリアは躊躇する。2人は彼のオフィスで抱き合う。そして別れ際に、明日も会おう、明後日も、そしてその次の日も。今夜も8時にいつもの場所で。しかし去っていく彼女には愛することへの不安が過っている。約束のいつもの場所。支配するのは物、物、物。時間の経過を示すように前にも見た軽馬車が通り過ぎ、乳母車の女性。バスから下りた男性は米ソの核競争を報じる新聞を読んでいる。顔の部分アップにより、人としてではなく物として描かれる人間。そしてその約束の場所には2人の姿はない。以前水をたたえていた桶の底には穴があいて水が下水溝へと流れだしている。そして太陽が沈み、偽の太陽たる街灯が灯るのだ。アントニオーニに冠される「愛の不毛」とは誰が流行らせた言葉だろう。なるほどアントニオーニは愛人モニカ・ヴィッティを使って愛の物語を中心に4本の作品を撮った(本作以外に『情事』『夜』『赤い砂漠』)。しかし愛を含む現代の人間を表現した。戦後の混乱・荒廃から脱し、日常の生活が戻ってきた60年代に、人々の心性としてあったのは、信じる価値観(場合によっては神)を失い、人と人との相互理解や、もっと根本的に自分自身の生きる根拠を失った空虚感。日常の楽しみにごまかすことも一つのあり方だが、根源的に何か空漠としている。物に支配され、自然や人間性を失った世界。戦争とて人と人が直接にぶつかり合って血を流す肉弾戦ではなく、兵器という機械に支配されているだけだ。そしてその最大のものとしての核兵器があり、ボタン一つで世界の終末さえもたらしかねない。人一人一人になせるものは何もない。そういう精神の空虚感、空漠感を描いた作品だ。この映画から半世紀がたとうとしている今日、表面的には変わってみえるが、実は根底に流れる同じ疑問はまだ未解決ではないだろうか。画面は実に美しい白黒画像だし、フレーミングやモンタージュは計算に計算しつくされている。映画作法の観点で分析し、論じれば、まだまだ書きたいことはたくさんある。例えば最初の枠だけの額縁に物を配置するヴィットリアや、ケニア帰りの女性の家を湖畔の写真の外の壁面に指差すヴィットリアなど、フレームに入っているものとフレームの外にあるもの。これは映画のフレームの問題でもあり、とても興味深い。それにしても今日のDVDというメディアはそういうことを分析するにはとても便利なものだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.09
コメント(0)

ROMANCECatherine Breillatアルファベットの「X」を見ると、我々は普通「未知のもの」とか、「X-rated」というような意味でポルノ的性表現を想像する。しかしこの『ロマンス X』は、「ロマンス ばってん」、タグを使った表現をすれば『ロマンス』で、ロマンスの否定だ。そしてさらに「Romance」の「m」の文字だけがばってんと重なってひびが入っていることにも意味あるかも知れない。「m」はmasculinなりmaleなり「男性」を示していると考えれば、女性監督ブレイヤによる男性神話崩壊のための物語かも知れない。強姦的であったり、SM的であったりの性描写もないではないが、やはりジャンルはエロティック(やポルノ)ではなくドラマだと思う。小学校の先生をしているマリー(キャロリーヌ・デュセイ)は、広告写真モデルのポールと付き合っている。まずこの設定で女主人公の名前がマリーであることと、ポールの職業が写真モデルであることに意味を感じる。マリーはフランス語で聖母マリアのこと。彼女は一見ふしだらな性行動をとるし、映画は彼女を通しての女性の性欲の物語でもある。しかしこのマリーという命名は、彼女がふしだらであったり淫乱であるのではない、むしろ無垢な一人の女性で、ただ自分に忠実なだけであることを示そうとしている。一方モデルという職業は一般には女性を連想させるが、その男性版がポールの職業。ここに既に性の逆転を見るのは行き過ぎだろうか。名前ということで言えば、最初に体を許すゆきずりの男性はパオロであり、ポールのイタリア語名。彼女にとって精神のポールと肉体のポール(パオロ)という2人で1人の男性を構成するという含みだろうか。2人は付き合って3ヶ月ぐらいらしいが、最初から、そして特に最近はポールはマリーを抱こうとしない。ポールは浮気をしているのではない。あるいはバーで酒を飲みながら別の女性と踊ったりもする。しかし彼は「抱けば君を蔑み、愛せなくなる」と言う。精神的に愛することと肉体的に愛することの一致を普通に求めていたマリーだが、やがて色々な体験から愛とは無関係に自分の内部に肉体的性欲があることを確認していく。(以下ややネタバレ)最後の方で珍しく彼が求め、抱き合う二人。彼女は言う。「あなたは女で、私の立場にあるのよ。私はあなたの男で、あなたを抱いてあげるのよ。」この言葉にポールは激怒してマリーをベッドから突き落とす。この言葉への反発に象徴される旧来の男性中心のセックス観、女性の性欲を認めないことも含め、それは程度の差はありながらも男にも女にも染み付いている。フランスの観客評を見ていると、そこに固着していたいと思う人々の反発がいたずらに激しいのが面白い。逆に日々そういう社会のあり方に苦労している人、特に女性の評価は高いことになる。今の日本の状況、少なくもボク自身の持つセックス観から言えば、何をいまさら、という気がしないでもないが、反発を招くということは表現する意味があるのだろう。またボク自身の中にもこの種の男性のエゴを理性とは別に見出さないではないわけだが、そのことの考察としては話が単純であり、男を主人公として描かなければないだろう。それをこの映画に求めるべきではない。また印象としては、これは観客の質にもよるだろうが、もっと性場面の描写に頼らない作り方をしていれば、かえって趣旨はよく理解されたのではないかと思う。でもこういう形で社会を挑発することをブレイヤ監督は意図しているのだろう。そういうわけで、男性中心のセックス観の揺さぶりを目的とした映画なので、映画全体や性描写にポルノ的な内容を期待しても無駄であると、最後に付け加えておきます。そういう期待で見てもガッカリすると思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.08
コメント(0)

AL DI LA DELLE NUVOLEMichelangelo Antonioni / Wim Wendersアントニオーニ監督は『ある女の存在証明』(1982)撮影後脳卒中で倒れて脳障害となり、再起が絶望と言われていたが、ヴィム・ヴェンダースを補佐にして4話からなるオムニバスを撮った。本編4つをアントニオーニが、プロローグ、プロムナード(各話のつなぎ部分)、エピローグをヴェンダースが監督したということになっている。脚本はアントニオーニ自身が80年代に書いた短編小説がもとになっている。この作品については、過去に映画史上の偉大な作品を残し、多くの後進にも多大な影響をあたえてきた、病身の老巨匠(82才)に対する敬意があって、お茶を濁すような中途半端な批判が多いような気がする。「愛の不毛」などという言葉で有名であり、また『太陽はひとりぼっち』ではアラン・ドロンとモニカ・ヴィティの美しさでヒットしたらしいが、もともと一般大衆に解りやすい映画ではない。だから例えばソフィー・マルソーのファンが見たとしても、マルソーのヌード云々というのを外せば、映画としては簡単に面白い作品ではない。そこでひとつの評価としてこんなことを考えてみた。「アントニオーニのファンであるあなたは、この作品がなかった方がよかったですか?、それともあった方がいいですか?。」ともし問われれば、「あった方がよかった。」とボクは答えるだろう。(以下ネタバレ)物語はジョン・マルコヴィッチ演ずる(アメリカの?)映画監督「私」が、映画の着想を探す旅でイタリアに到着するところから始まる。第2話では「私」をもストーリーに巻き込みながら、4話の愛を中心とした物語が語られる。「私」のモノローグは、映画ではいかに人間の真実(現実)が描けるのか、といった映画の方法論も語られ、いわばアントニオーニの分身と言ってもいいのだろう。ヴェンダースの描いた冒頭は霧の中の街で、『ある女の存在証明』を思い起こさせる。(第1話)舞台はどこなのだろう、コマッキオの街か、シルヴァーノ(キム・ロッシ=スチュアート)は車を止めて自転車の女カルメン(イネス・サストレ)に近くにホテルはないかと尋ねる。教えられたホテルに泊まるとそこにはカルメンも泊まっていた。互いに興味を惹かれ合い、夜それぞれの部屋に戻るとカルメンはベッドでシルヴァーノのノックを待つが、シルヴァーノは決心し切れずに女の部屋には行かなかった。翌朝彼女はすでに出発済みで離れ離れになるが、男も女も互いに強く相手を愛したと「私」のモノローグが言う。3年後フェラーラ(アントニオーニ監督の出身地)で偶然に再会し、男は女の部屋にいく。裸で向き合うものの男は手や唇を微かに女の体から離して触れずに愛撫する。そして突然一人帰ってしまう。窓から去っていく男を見つめる女と、振り返って女を見つめる男。男はその後女に合うことは二度となかったが、生涯女を深く愛した、と「私」のモノローグ。(第2話)絵はがきの写真を見てポルトフィーノにやってきた「私」。路地を歩いていて、とある家から出てきたコートの女(ソフィー・マルソー)の後をつける。女は小さな港に面する洋服店の店員だった。店に入る「私」。女はもう一人の店員に席を外してもらう。女をみつめる「私」。「私」の視線を避けるようにしながらも、みつめられる女。言葉はない。やがて「私」は店を去るが、窓越しに女は「私」に広場の方を指差す。「私」がカフェのテラスで読み物をしているとそこにやってきた女。「12回刺し、私は父を殺した。」そういう女をじっと見つめる「私」。勾留はされたが無罪となったらしい。そして「私」に「今夜一緒に過ごしたい。」と言う。女の部屋で2人は抱き合う。「私」は去っていく。(第3話)パリのカフェ。若いイタリア女オルガ(キアラ・カゼッリ)がパリに住むアメリカ人中年男ロバート(ピーター・ウェラー)に話しかける。2人は愛人関係となった。3年後ロバートは妻パトリシア(ファニー・アルダン)にオルガとは別れると言い、酒に逃げ酔っぱらった妻を抱くが、オルガの部屋を訪ねると、結局またオルガの肉体を貪る。 パリの高層マンションの近代的なガラス張りの部屋にカルロ(ジャン・レノ)が出張から帰ってくると、部屋からは家具が運び出されていてない。妻から電話で出て行った、探さないでと。ドアのベルが鳴りパトリシアが。この部屋を借りることにした者だ、と。彼女は夫から去ってきたのだ。同じような境遇の2人に新しい愛が芽生える。 (第4話)エクス・アン・プロヴァンス、「私」の泊まるホテルの向かいの扉から若い女(イレーヌ・ジャコブ)が出てきたのを若い男ニコール(ヴァンサン・ペレーズ)が追い、話しかける。女は清澄な笑顔をたたえている。女は教会のミサに急いでいた。教会の中で眠ってしまうニコール。外に出ると路面の花の模様を女はしゃがんで指でなぞっている。雨が降り出し、2人は走って彼女の家に向かい、途中で彼女は滑って転んでしまうが、屈託なく笑う。女を追って階段を登るニコール。部屋のドアの前で「明日もあえるね?」と問うと、女は「明日修道院に入る」と答える。最後にヴェンダースによる映像。ホテルの部屋の窓が外からいくつか映り、それぞれの室内の様子をかいま見させるが、人様々の人生があると。ところでこの最後の部分、ヴェンダースによるキェシロフスキ『デカローグ』へのオマージュ、ないし引用ではないだろうか(そうでなければパクリ)。人それぞれの人生が窓の中の各部屋の中で展開されているというのは『デカローグ』全体のテーマであり、また映像自体は『デカローグ・第6話』そのもの。ベッドで女が来るのを待つ3番目くらいの室内の男はどこか『デカローグ・第3話』のヤヌーシュに風貌も似ていた。そういうことから書き始めるなら、第1話から映像はアントニオーニの世界だ。画面をいくつかの部分に区切る構図、人物を画面中央ではなくズラして配置するあり方とか、足もとだけ写すのとか。しかし単なるアントニオーニのスタイルで、旧名作とは違い、それによる表現的意味は薄い。『太陽はひとりぼっち』などではフレームに入っていないフレーム外とかも意味を持たされていた。第3話のところの2枚目に引用した写真は夫婦がガラス越しにキスをするシーンだが、これは『太陽はひとりぼっち』にも出てきた。この映画、4つの物語を個別に見ていると、なるほど退屈するほどではないにしても、どうして?、だから?、が描かれてはいない。その意味で最も詰まらないのは第3話だ。でもどうなんだろう。もともとこの映画の額縁は、「私」なる映画監督の新しい映画のための素材の取材だ。その枠で接した4つの人生模様であり、それぞれは1本の長編映画になる素材として捉えたらどうだろう。例えば第2話の若い女は何故父親を殺したのか、なぜ「私」と簡単に寝てしまうのか、そういうことは描かれない。それは観客が映画を作るつもりでイマジネーションを働かせることなのだ。映画監督の「私」は様々な人生を捉えること、そして真実にそれを映画に描くことを自問している。そこに観客は身を置くべきなのではないだろうか。映画を作っている監督が映画作りの疑問をただ描くのではなく、観客にその立場に身を置くことを要求した映画とは言えないだろうか。その上で4つの小話全体での意味がある。第1話の2人は深く愛し合ってはいるが肉体関係に至らない。それはセックスや同居という日常的に現実的な男女関係になってしまえば、その後に待っているのは「愛」の終焉でしかない。第2話は、人と人のある一時の人間的相互共感があれば、いわゆる愛がなくともセックスを必要とし、それが可能だということだ。これは肉体的快楽という意味ではなく、もっと精神的なこと。第3話はいちばん普通に俗世的な男女の営み。そして第4話は俗世間の人間的悩みから超越(逃避?)すべく神に自らを捧げようという若い女。彼女は螺旋状の階段を昇っていき、いちばん上の部屋が彼女の家だ。そこを天にいちばん近い場所と言っていいのだろうか。追ってきた男はその最上階までは昇らない。その少し手前で「明日修道院に入る」と女に言われ、ドアの中に消えた女を後に、彼はまた階段を下界に向けて降りるしかない。4つの物語を通して投げかけられた監督の問いは全く明解そのものではないだろうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.07
コメント(1)

TIME IS MONEYPaolo Barzman(Filmed in English)珍しい作品ですね。フランス映画ながら英語で撮影が行われています。ネットで調べたら「仏英合作」ともあり、「出資100%フランス」ともあり、よく事情はわかりません。舞台は南仏プロヴァンスで、マルセイユからも遠くないという設定。主人公がアメリカ人と理解していいのでしょうか。ジョー・カウフマンという老作家(小説家・脚本家)が若い妻イリーナと住む天国荘(Le Paradis)という田舎屋が舞台で、外からくる郵便配達人との会話だけがフランス語でされています。これも10円か100円で買っておいたVHSの1本で、この作家と元ピアニストの妻を演じているのがマックス・フォン・シドーとシャーロット・ランプリングという以外はあまり強い興味がなく、これまで見ていませんでした。作品や監督に関する情報はあまりないし、期待はあまりありませんでしたが、見てみるとなかなかいけました。ジョー・カウフマンは、かつては有能な作家であったらしく、アカデミー脚本賞でも取ったのでしょう、オスカーがかつての栄光を示しています。ジョーにかつて世話になり、今の自分があるのもジョーのお陰、と言うマックが出版社との間に立って、次作小説の前金ということでジョーはお金を受け取っているらしのですが、全く仕事をしようとしません。毎日妻イリーナや周囲の人々に皮肉を言うのみの日々。いつからこういう状態かはわかりませんが、相当に長いらしい。献身的に世話をしながらもイリーナはウンザリしてもいます。書く気力とかインスピレーションが枯れてしまったのでしょうか。死を気にしていることも確かで、自分は凍死と溺死のどちらがいいか、なんて自問したり周囲に訊いたりしています。突然目が見えなくなった、自分は病気だ、なんて仮病まで使ったり。マックが訪れ、「みんなジョーの新作を待っているから、なんでもいいから書いてくれ」と言われますが、「書くことなど何もない」と。やがてマックが送り込んだ若い秘書のデイヴィッドがやってきます。ジョーは追い返そうとしますが、自らも作家で、ジョーを尊敬しているというデイビット、根気強くジョーのイヤミも我慢し、新作を書かせようとします。今までの妻イリーナとの2人の生活に若いデイヴィッドが加わって、これからどうなっていくのでしょう。到着早々ジョーのオスカーを落として首を折ってしまうのが伏線かも・・・。(以下ネタバレ)それまでイリーナと2人の生活だったわけですが、2人というのはある関係性での日常が出来てしまうと、なかなか変化しにくい。あり得るのはその関係性の強化・発展でしかない。ところが若いデイヴィッドが加わったことで、2人の関係が3つできあがる。ジョーにはデイヴィッドとの関係、共犯関係が可能になって、それをイリーナに見せつけることもできる。それはイリーナにとっても同じこと。デイヴィッドとイリーナの共通の目的はデイヴィッドに執筆活動をさせること。ジョーはデイヴィッドに悪態つくというか、イヤミ言ったり、皮肉言ったり、でもデイヴィッドはしつこく食い下がる。イリーナとデイヴィッドの間に男女関係ができるわけではない。だからといって親しさを持たないわけでもない。自宅のプールで夜黙々、ただ逆方向に泳ぐ2人。それを覗き見ているジョー。すると翌日は、年老いた夫を持つ妻が若い男にその肉体をむさぼるように求める小説の一節をデイヴィッドに口実筆記させたり、音読させたりする。作品がとりあえず完成。しかしデイヴィッドはタイプ原稿を渡しながら「最低の出来だ」と正直に言う。翌日に出てってもらう、とイリーナに息巻いているものの、作品の不出来で本人も知ってはいるのだろう。認めようとしないだけだ。やがて税金の督促状が来て、10日以内に納付しないと財産を没収するという。イリーナが頼んだのでしょう、マックがやってきて私財で助けてはくれる。しかしジョーの作品は最低だと言い、デイヴィッドに書いてもらうことにすると告げる。この辺りからイリーナとデイヴィッドのジョーに対する扱いが変化してきて、イリーナはピアノの練習を始める。マックがコンサートをまたやればいいと言っていたのだ。バルトークはやめてくれというジョーにはおかまいなしに楽譜を取り寄せる。デイヴィッドは自分の作品の執筆を始める。そしてある日成り行きからデイヴィッドはうるさいジョーを鍵で部屋に閉じ込めてしまう。一緒に食事をしながらイリーナは「革命ね!」とデイヴィッドに言う。オスカーを壊したことが伏線であったように、デイヴィッドは過去の栄光で周囲に偉そうにしているだけで、現在を生きようとせずに無為に過ごすジョーの首根っこをへし折ったとでもいいますか。ここまでも既にネタバレなのですが、最後は書かないでおきます。原タイトルは『Time is money』。マネーという語があるのは実際にお金を稼がなければならないという物語にかけてもいるのでしょうが、人間死ぬまで現在を生きなければならないということだと思います。特別何か大事件が起こるわけではなく、3人を中心とした日々がプロバンスの田舎屋の美しい風景の中で淡々と描かれるだけです。でもさすがに名優の2人、見応えのある名演ではないかと思います。特にシャーロット・ランプリング、エキセントリックな微妙な役柄が多いだけに、こういう、もちろん屈折してはいますが、ある意味普通の女性を演じるのを見るのは興味深い。人としての普通の優しさを演じるのを見て、とても魅力的に感じました。このシャーロット・ランプリングは、普通の意味で「いい女」です。最後はちょっと弱いというか、唐突だとも感じますが、見た後の気分もよく、なかなかの佳作だと思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.06
コメント(0)

LES NOUVEAUX TRICHEURSMichael Schockこれも安価に買ってあったビデオで見ました。しばらく色々な意味で重い作品ばかり見ていたので、たわいのないものもいいかと。まあいわゆる青春映画とでも言ったらよいでしょうか。リセアン(つまり高校生)のカルルは同じクラスのリセエンヌ(つまり女子高校生)のソフィーが好きなんだけれど、カルルが憧れている年上の友達のマルクをソフィーは好きになって、でもマルクは駆け出し舞台女優のクリスティーヌに夢中。そしてクリスティーヌにはフランクという恋人がいる。そんなありきたりのストーリーです。クリスティーヌが受講している演劇学校の授業の様子や、抜擢されて出演することになったサルトルの『汚れた手』の稽古と上演が出てきたりで、ちょっと文芸っぽいスパイスも効かせています。うるさいことを言わなければ、暇つぶしにならまあ許せる映画、ってとこでしょうか。(以下ネタバレ)お金持ちの母子家庭の息子で高校生のカルルは、マルクという年長の若者に憧れていて親しくしてる。彼はヤングに人気のありそうなジーンズとかの小さな店やっていて、自由気ままに生きている。車もシトロエンのDSかなんかに乗っちゃっていて、まあカッコイイ風に描かれている。そんなマルクに会ってソフィーは体を任せ、妊娠してしまうけれど、マルクにはただの遊び。カルルから話を聞かされてもソフィーに会いにいくなどしないし、「ピル飲んでないで妊娠したのは女の責任だろ」と言って、金持ちのボンボンのカルルに「(中絶費用)3000フランなんとかしてくれ」といった調子。マルクは目下クリスティーヌに夢中なのだ。クリスティーヌも恋人で芝居の共演相手でもあるフランクを振ってマルクに夢中なんだけれど、そのうちにやっぱり自分勝手なマルクにはついていけなくなる。ここで原題、「またまたズル男たち」とでも訳せばいいのかな、つまり相手の女に誠実じゃない、ゴマカシの男たち、ってこと。でクリスティーヌはマルクを捨てちゃうんですね。でもマルクは、これまで誠実に女を愛したことなんてないから、自分の苦しい気持ちが自分でもよくわからない。きっとクリスティーヌを愛してしまったんですね。でも、だから、どうしていいかもわからない。それでできるのは悪態つくことだけ。上演中の劇場に行って舞台に登り、「クリスティーヌ!」って叫んでつまみ出される。自分が原因で上演を滅茶苦茶にしてしまった彼女は泣き出し、その彼女を共演の元彼フランクが優しく慰める。つまみ出された方のマルクはDSに乗って夜のパリを自暴自棄に暴走し、パトカーとカーチェイスの果てに自爆事故で死んでしまう。病院に駆け付けたカルルとソフィーはマルクが死んだことを聞かされ、カルルは「ボクが君と子供の面倒をみるからマルクの子供を生んでくれ。」ってソフィーに同意を求めるところで終わり。簡単に要約してしまえば、中味カラッポの不誠実、よく言えば野性的な男の方が、ただ誠実で優しい男よりも女には魅力があるってことでしょうかね?。でもこれっていったいどういう観客層をターゲットに作られたんだろう。やっぱり若い子たちなんでしょうかね。適度にセックスシーンも出てきますし。それにしてもキャラクター作りが安易すぎるように感じます。それとカルルとソフィー、フランクとクリスティーヌ、この古巣の両カップルはどうなるんでしょうね。こういう関係って続くものでしょうか?。それと男としてはソフィーやクリスティーヌでいいんでしょうかね?。でもまあ、最初にも書いたように暇つぶし程度に見るなら見れないこともないです。まずまず画面も奇麗ですし。ボクにとってはフランス映画を見る一つの目的、というよりも結果としての効果はフランス語の勉強ですから、その意味ではフランス語映画なら無価値ってものはありませんし。余談ですが、マルクがパリの街を暴走するシーンで、セーヌの河岸を突っ走るんですが、それを見て久しぶりに『ポンヌフの恋人』が見たくなりました。連想の効果っていうのは面白いものです。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.05
コメント(0)

LUNE FROIDEPatrick Bouchitey10円とか100円で買ってまだ見ていない映画のビデオがフランス映画を中心に30本ほどあります。そのうちの1本『つめたく冷えた月』を見ました。マイナーながら日本版DVDも出ているようで、レンタルもあるようです。名前からも想像がつくように父親がポーランド系のアメリカの作家チャールズ・ブコウスキの2つの短編小説を混ぜての翻案映画化。よくわかりませんが映画自体ももともと短編があり、撮り足して長編映画にしたらしいです。監督はパトリック・ブシテーというもともと俳優やってる人。上の写真の向かって左の人で、デデ役で出演もしています。この人は2、3本監督作品がありますが、好きな人は好きなようで、カルト的に好かれているようです。主人公は2人の四十才くらいのどうしようもない不良中年デデとシモン。デデは仕事はしないし、妹夫婦のところに居候。飲んだくれで、女のケツは追うは、駐車場で車のタンクからガソリン盗むは。でジミヘン好き。見ているにボクには好感持てないヤツなんですが、どこか憎み切れないところもないでもない。そんな彼にくっついているのがシモン。こちらは漁港か魚市場のようなところで夜ちゃんと働いていて、行動も常識の範囲内からはあまり出ない。そんなシモンは満たされない欲求というのか、自分が外れ切れない小心のせいか、デデの無軌道な行動には手を焼きつつも魅力も感じている。デデがジミヘン好きなのに対してシモンがプロコル・ハルムの「青い影」が好きというのは2人の性格の対比になっているかも知れない。シモンはジミヘンのカセットテープを入手してきてデデにあげたり、デデが欲しがっていたフェンダーのストラトのビンテージ(ジミヘンと同じギター)をデデにと楽器店から盗もうとまでする。映画の大部分は酔っぱらった2人のハチャメチャな行動だったりするのだけれど、見ていてボクにとってはまあ退屈するでもないけれど、特に白黒の画像が美しいわけでもないし、特に面白いものでもない。ただこの部分でシモンの人物描写がそれとなくシッカリ行われている。「青い影」って曲はバッハの曲をモチーフにしているから、宗教性ってのがあるわけだけれど、シモンが宗教心にあついってのでもないけれど、「気持ち」を持った人物であることが描かれていて、この点は映画の最後のエピソードの理解には必要かも知れない。それとやはり最後のエピソードにつながる伏線的会話が何度か出てくる。(以下ネタバレ)バーで暴れて2人は追い出されるのだけれど、その前にバーの中でシモンが「送っていくよ」と約束していた女を連れて3人で海辺に行く。そこでその女とやっちゃてるときに、回想の形で2人の秘密である過去のあるエピソードへと物語は移行する。ある夜2人は死体を病院から運び出しているのに遭遇。無くなったらさぞ慌てるだろうと、イタズラして白いシーツに包まれた死体の一つを盗み出す。シモンの部屋に持ち帰ってベッドに横たえる。でシーツを剥がしてみると若い美女。シモンは欲情して抱いちゃうんですね。確かに死んだ女の体だから、映画の宣伝が言うように「屍姦」と言えば屍姦なんですが、おぞましい感じはまったくない。むしろ既に描かれてきたシモンの人物描写があるから、なんというか宗教性のようなものまで感じる。若くして死んでしまった女の弔いのようでもあり、なんかとっても美しいんです。これが変質者のような男ではダメで、そのためにはここに至るまでの物語、どうしようもない不良中年としての人物設定が必要不可欠なんだと思います。2人は明け方に彼女を海に運んで、シモンが海に流すんですが、これまた切ないですね。既に死んでしまっているわけだから、そして死んでしまってからの出会いなわけだから、相手から報われることのない愛なんですね。シモンが彼女を抱えて沖の方へ進み、そこに彼女を放つと、波に揉まれて彼女が一瞬人魚のように見える。最後のエピソードは何度も見たくなるものです。結果としていい映画でした。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.04
コメント(0)
![]()
SAUVAGE INNOCENCEPhilippe Garrel普通我々は映画に、ストーリーを語って見せてくれることを期待します。だからそのようなエンターテーメントとして作られることを期待する。でも絵画・彫刻や詩の場合はどうでしょうか。表現の欲求を持った作者が、自分の芸術や人生を追求するために悩み、制作をする。それがごく当たり前だと思うわけです。ならば映画という表現手段でそれをやるのもアリでしょう。ガレルのこの作品はそういう面が強いと思います。この映画の原題は『SAUVAGE INNOCENCE』。映画の中で映画が作られる物語です。劇中で制作される映画のタイトルは『SAUVAGE INNOCENCE』で映画自体の題名と同じ。日本語字幕が『残酷な無邪気さ』としている「SAUVAGE=残酷な」という訳が適当かどうかは別として、映画のタイトルと映画の中で作られる映画のタイトルが同じであることは解るようにしておくべきです。映画監督のフランソワが、麻薬のオーバードーズ(以下OD)で死んだかつての愛人キャロルとのことを未だ精神的に整理できていず、反麻薬映画を作ろうとするものの資金が得られないが、麻薬の密輸に手を貸すことを条件にシャスという人物が資金提供をするという。この矛盾に本人も悩みますが、どうせ誰か別の運び屋が同じヘロインを運ぶなら、自分が運んで資金を得、それで何万人もが見る反麻薬映画を作れるなら意味があることではないか、と自分を納得させます。いわばフランソワはファウストであり、シャスはメフィストフェレスです。そして映画冒頭で知り合って恋仲になった駆け出し女優のリュシーに主演させる。(複雑なので作中人物は青い字、実人物は赤い字で示します。)この作品自体として見るぶんには、ストーリーは難解でもなんでもない。ごくわかりやすく作られています。でもやや分析的に見ると色々とややこしい。劇中の映画監督フランソワはフィリップ・ガレルでもあり、麻薬のODで死んだかつての愛人キャロルとはガレル監督の死んだ愛人ニコでもあり、また作中のリュシーその人でもある。映画の中で監督フィリップ・モージュの父として登場する人物は俳優モーリス・ガレルですが、この映画の監督フィリップ・ガレルの実の父。また娘役ではないけれどガレルの実の娘エステル・ガレルも登場する。キャロルの写真はニコの写真。つまりこの映画『白と黒の恋人たち(残酷な無邪気さ)』は映画の中で制作される『残酷な無邪気さ』でもあり、また別物でもあるのです。映画の最初の方でかつての愛人キャロルの若い息子から母キャロルの写真や手紙、詩の原稿などの遺品を、フランソワは貰う。そしてその代価というわけではないのだろうけれど、いくらかの金銭を彼に渡す。写真や原稿という、興味のない人には無価値でもフランソワにとっては価値のある、つまり金銭に換算できないものを金銭に置き換える。同じようにODで死んだキャロルの映画を作りたいという金銭に換算できない表現欲求も実現には600万フランという金銭に換算しなければならない。表現欲求と金銭という映画作りのスタート地点での矛盾がここで描かれる。(以下ネタバレ)そして映画制作が進むにつれて、実は普通の人間であるリュシーは実在モデルのキャロルを演じることを求められる結果、キャロルに迫ろうとして段々に精神的に追い込まれる。だからフランソワと知り合って別れたそれまでの同棲相手、ごく普通の人間に連絡をとって応援を求める。フランソワはフランソワで2度目のヘロイン密輸の件が気にかかるのと、映画制作で死んだキャロルとの過去、彼女の死に罪悪感をも持っているキャロルのことにとらわれ、リュシーと疎遠になっていく。結果としてリュシーはフランソワに隠れて麻薬に助けを求め始め、終にリュシーはODで撮影中に死んでしまい、キャロルと同じ運命をたどる。フランソワはキャロルが住んでいた家での撮影を希望し、相棒である撮影監督と意見を異にする。その直後にサンドイッチを食べるが、映画制作はサンドイッチのように分け合うことは出来ない。出来上がった映画を目標とするだけではなく、映画を作ることでキャロルへの思いに決着をつけようというフランソワの問題が描かれている。リュシーを撮るシーンで、フランソワはOKを出さずにテイク2を撮る。ガレルは「自分の映画はすべて映画を作るやり方についてのドキュメンタリーだ」と言うが、最初であることを重視してのワンテーク主義の実ガレル監督と作中のフィリップは相違する。映画の中のフランソワにとっての実人生であるキャロルの思い出、この映画の監督であるフィリップ・ガレルにとっての実人生であるニコの思い出、そういうことが複雑に交錯している。ガレルが映画を撮ることについての、三重に交錯しあった物語と言える(ニコ、キャロル、リュシー)。撮影のラウール・クータールはゴダールやトリュフォーの映画の撮影をしてきた人。この映画の撮影時にはたぶん75才くらいだと思いますが、白黒の画像は実に奇麗です。リュシー役のジュリア・フォールは美しいし、フランソワ役の本業は作家のメディ・ベラ・カセムもいい。シャス役のミッシェル・シュボールもいい味出してます。テンポがのろいと感じる人もいるでしょうが、画面自体見飽きることはありません。邦訳題は『白と黒の恋人たち』で、予告編を見てもわかるように配給会社としてはフィリップとリュシーの恋として売ろうとしています。なるほど最初の部分の2人の恋の物語はパリの街を舞台として美しく描かれている。しかし全体は決してそうではない。ガレル自身の人生や映画に対する思いの考察です。この映画を見て面白かったという方には、やはり自伝的なニコとの物語をニコの死の2~3年後に撮った『ギターはもう聞こえない』をお勧めします。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.03
コメント(0)

QUAND ON EST AMOUREUX, C'EST MERVEILLEUXFabrice de Welz新年最初にふさわしい作品かどうかは疑問ですが、タイトルに免じてお許しを願います。『ワンダフル・ラヴ』、原題の直訳なら「誰かを愛してるって素敵なこと」とでもなるでしょうか。素敵な題名でしょう?!。昨年最後に取り上げた『変態村』のDVD特典映像で、ドゥ・ヴェルツ監督の6年前の20分程度の短編です。これを見ると『変態村』がさらによくわかりますね。テーマは類似しています。男には無縁の40才のオールドミスのララ。自分の誕生日を祝うために部屋を飾り、ケーキを用意し、ムーディーなレコードをかけ、宅配男子ストリッパーを頼みます。そのジョーのパフォーマンスをうっとりと眺めるララ。しかしショーが終わるとジョーは帰り支度をし、ただギャラを要求するだけ。ララの妄想の世界につきあってなどいられません。(以下完全ネタバレ)ララはケーキを食べるフォークをジョーに突き刺してしまいます。死んだ血だらけのジョーとテレビを見、抱き合い、肉屋で買ってきた牛タンをソテーして一緒に食べ、風呂に入れたりします。死んでいることを半ばわかってもいながら、彼女の妄想の中では愛する男との幸せな時間なわけです。でも相手は無反応ですから、どこかもの足りない。いつも牛タンを買っている行きつけの肉屋の親爺に「刺激としてスパイスが必要だ」と言われて、今度は宅配の本番ショーを依頼する。死んでいるジョーは光の当たらないソファーに座らせてのショーの鑑賞なわけですが、女はジョーが死体であることを見てしまい、一瞬驚きますが、そのとき愛を求めながら得られない人生を送ってきたララの孤独を察知します。そしてララに優しく迫りますが、男はその様子に耐えられず帰ってしまい、女も後を追います。肉屋の小僧のアダン。前からララに惚れていて、ララの窓の下で愛の歌を歌ったりしています。「明日牛タンを届けて」とララに言われて、喜びいっぱいにララの部屋を訪ねますが、映画はここでお終い、この後はいったいどうなるのでしょう。グロテスクな物語、画像ではあるけれど、好演のエディット・ル・メルディー演じるオールドミス・ララの孤独が20分の短編ながらひしひしと迫ってきます。人は愛を必要とし、求める。そしてそれが得られなかったとき、狂気の妄想でもそれを満たそうとする。もし最初からララがアダンと出会っていたらどうなっていたんでしょうね。狂気というのは、決して狂気の人にだけの特別なものではない。我々「正常」と思っている人の中にも同じ傾向があり、それが極端まで進んでしまったのが狂気。だからこそ狂気の物語を描き、鑑賞することにも意味があるわけです。この映画では本番ショーによばれた2人組の女の行動が感動的。いちばん好きな場面です。ジョーが死体であることを発見しながらララの孤独を理解する。胸を触らせ、キスをし、商売(?)であるのかも知れないけれど、優しいですね。『変態村』のマルクがキリストなら、この女はさしずめマリアでしょうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.02
コメント(0)

あけましておめでとうございます。2007年はどんな映画の日々になるかな?。ボクは子供の頃から変わらないいくつかの趣味があって、それぞれの時期にそのどれかが表に出てきます。昨年2006年の春頃から映画熱が再び浮上してきていて、最近は劇場・DVD等で週に十数本の映画を見ています。ここのブログも11月末から1日最低1レビューを目標に書いています。数年前までは横浜に住んでいましたが、都市が大きく、また東京も近くにあるので、かえって見たい映画を見にいくのが大変でした。今は地方都市の中心部に住んでいるので、歩いて10分、15分のところに2つ映画館があり、その一つに主に通っています。近くて便利ですし、ホールが3つあって単館系作品も多く、毎月20数本のラインナップの中で「見たい作品」が2~3本、残りもだいたい「見てもいい作品」です。今年の劇場映画初めは何時、何になりますやら。下の写真の6本のどれかになるのかな?。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.01.01
コメント(0)
全33件 (33件中 1-33件目)
1


