ふらりかずたま ひとり言
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GW同窓会2日目は、みんなでお出かけ。どういう訳か妙にまじめな集団で、社会科見学のようなコースです。まず、富岡製糸場の見学です。今年1月、政府が世界文化遺産として正式推薦し、来年開催される世界遺産委員会で登録の可否が審議されることになった近代産業遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」。明治5年、日本初の機械製糸工場として建設された官営模範工場で、フランス人技師の指導のもと大量生産を進め、またその技術を全国に広める中心となりました。 レンガ壁に埋め込まれた明治5年創業の石ぶみ当時、明治政府は富国強兵策を強引に進め、欧米列強と対等に交渉を進めるパワーを持とうとしてきました。近代的な軍隊を創設し、軍事力の拡大を遂げるために、殖産興業を推進し、軍事費を賄おうとしたのです。佐渡金山、石見銀山の官営化、官営の炭鉱開発に加え、外貨獲得の最有力候補とされていた生糸生産の大規模化、高品質化を目的として、養蚕の盛んだった群馬県に近代的な製糸工場を建設することにしました。建設に尽力した渋沢栄一の言葉を借りると「富岡の製糸は官による経営で採算性を無視できたから成功した…日本の製糸の近代化に真に貢献したのは、富岡に刺激されて近代化を志した民間の人々である」と。つまり、工場建設に当たって、フランス製造の機械を導入し、フランス人技師、フランス人女工を高額報酬で雇い入れ、士族や有力自作農の子女を日本人女工の一期生として採用、訓練しました。使命感に燃えた彼女たちは製糸技術を習得し、各地の工場へ指導女工として転属して行きます。明治8年、フランス人技師たちは再雇用せず、日本人による操業が開始されましたが、大規模過ぎる工場を効果的に機能させることが出来ず、明治26年三井財閥に払い下げられ、以降横浜の原合名会社、片倉工業へと転売され、昭和62年まで操業が続けられました。 ボランティアガイドの引率で製糸場内を見学富士山の世界遺産登録が確定的と報じられた直後のせいか、製糸場を案内するボランティア・ガイドさんも気合が入っている様子。ツアーの団体さんも次々と訪れます。ガイドさんの説明を聞き、展示の解説を読むと、富岡製糸場がいかに日本の殖産興業に貢献したか、いかに模範的な操業を行ってきたかなど、「光」の部分が、これでもかと強調されています。展示を見ながら、「俺のうちでも、カイコを飼って繭玉取っていたなあ」と長野のダンナ、「女工哀史みたいなことはなかったんだろうか」とうちの母ちゃん、「女工哀史は野麦峠だから岡谷、諏訪なんかは厳しかったんでしょうね」と博識の沼津のダンナ。 立派な寄宿舎。感心させられたが「外人女工用」だった「光」の部分だけじゃなくて「影」の部分も公開してこそ、世界遺産としての価値があるというようなことを話しながら、富岡製糸場見学を終えたのでした。ちなみに、当初は官営模範工場として採算度外視の操業を行っていた富岡製糸場の女工さんの生活や仕事ぶりについては、和田(旧姓・横田)英の「富岡日記」が引用され、書籍化されています。それによると、彼女は国益と家名のために進んで伝習生(女工)となった人で、1年後には富岡を退場、長野県松代町に建設された日本初の民営機械製糸場の創業に参画し、教授として指導的な役割を果たしました。実際、官営時代の富岡は、厚生面・待遇面でも模範的であったようです。しかし、民間払い下げ後の富岡の女工たちがどのような扱いを受けたかは何の説明もないので分かりません。「野麦峠」に代表される、家のため家族のために、莫大な前借金を抱え、紡績工場で働かざるを得なかった女工さんと富岡の伝習女工を同列に扱うことはできません。実際、各地の紡績工場でストライキに突入した女工さんたちは、1日15~16時間も働かされ、しかも工賃は切り下げ、健康を害しても医者に診てもらえない過酷さに抵抗したのです。そのことを知っている人間には、和田英の「富岡日記」をもって、「当時の女工さんの暮らしぶり」と認めるわけにはいきません。むしろ「籠の鳥より 監獄よりも 寄宿舎暮らしは なお辛い」という女工さんの詠嘆の方が真実なのだと思います。 大規模な製糸機械群。ここに女工さんたちが並び生糸を作っていたポーランドの世界遺産として「アウシュヴィッツ-ビルケナウ ナチスドイツ強制絶滅収容所」が登録されていますが、負の遺産を大切にすることも人類が未来に向けて歩き続けるうえで極めて大切のことだと思います。さらに付け加えると、富岡ほか大規模製糸工場が稼働をすすめ、国際市場に打って出たことと密接に関係するのが「秩父困民党」事件や「群馬事件」。大暴落した生糸相場による打撃と当時の政府のデフレ政策によって、借金と重税に苦しむ農民たちが、自由民権運動と連動して蜂起した事件です。これらも製糸場と関連する「負の遺産」だと言えます。まあ、わが国はA級戦犯が総理大臣になれる国であり、その孫が総理として君臨し、「改憲」や「核武装」を声高に叫べる国ですから、富岡をはじめ製糸場の「女工哀史」を隠ぺいするくらい、平気なのかもしれません。現に、ボランティアガイドさんは「富岡ではそういうことは一切なかった」と誇らしげに語っていました。 創建1400年の貫前神社。江戸初期の社殿は重要文化財富岡製糸場のほか、社会科見学団は、1400年の歴史を持つ一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)へ。重要文化財に指定されている社殿は、三代将軍徳川家光の命令で造営されたものです。「どうしても!」という沼津のダンナのリクエストに応えて、安中市の後閑城址へも行ってきました。整備された坂を登りつめると妙義山などの山なみが一望できる中世の山城跡を公園として整備、桜の時期にはけっこう混雑する市民の憩いの場所だとか。 中世の山城・後閑城址から妙義山の山なみを見る真面目に群馬での1日を過ごした、中年たちと老人1名(私のこと)の社会科見学でありました。
2013年07月04日
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