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ヴェネツィアはイタリア共和国北東部に位置し、陸地から4キロほど離れたアドリア海のラグーナ=潟に浮かぶ118の小さな島からなっています。 その周辺地域を含む人口約26万人の基礎自治体で、ヴェネト州の州都でありヴェネツィア県の県都です。 ”ヴェネツィア-美の都の一千年”(2016年6月 岩波書店刊 宮下 規久朗著)を読みました。 英語読みのベニスとして知られているヴェネツィアを、建築や美術を切り口にその歴史と魅力を多くの写真とともに紹介しています。 自治体としてのヴェネツィア市は、ヴェネタ潟の島々や、メストレなどの本土側も市域に含み、面積は412.54 km2 におよびます。 市域に含まれる有名な島には、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島、ジュデッカ島、リード島、サン・ミケーレ島、ムラーノ島、ブラーノ島、トルチェッロ島などがあります。 中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄え、アドリア海の女王とか、水の都、アドリア海の真珠などの別名をもちます。 ウィリアム・シェイクスピア、トーマス・マンをはじめ、今も昔も世界的に有名な戯曲、小説、漫画、映画の舞台にたびたび登場しています。 宮下規久朗さんは、1963年愛知県生まれ、東京大学文学部卒業、同大学院修了、現在、神戸大学大学院人文学研究科教授、美術史家です。 著者は、イタリアのうちどこか一か所行くならどこがよいかと問われたら、迷わずヴェネツィアと答えるといいます。 世界広しといえど、ヴェネツィアほどユニークな町はありません。 海の都ヴェネツィアは、風光明媚な古都として世界中の観光客が訪れる一大観光地です。 町を歩き回るだけでも楽しいし、どこを切り取っても絵になり、思わず写真に撮りたくなります。 都市としてのヴェネツィアは、面積5.17?のヴェネツィア本島に築かれています。 巨大なテーマパークにもたとえられますが、テーマパークのような人工的な雰囲気とは対極にあり、古都の風格や歴史の重厚さに満ちています。 島々の間を道のように運河が縦横に走り、400もの橋がこれをつないでいます。 ただ、この寄木細工のような町の隅々にまで1500年近い歴史が息づき、どんな細部にもいわれがあるそうです。 今でも、乳母車と車いす以外の車が禁止され、自動車のないひっそりとした道を歩くと、その歴史の重みがあちこちから伝わってきます。 2000年近く前に、無数の杭をラグーナに打ら込んで昨作った人工的な都市が今でも存続しています。 この都市はまた、類まれな美術の宝庫であり、世界最高の美術の島であることはあまり知られていません。 イタリアは中世から近代にいたるまで西洋美術の中心として、国際ゴシック、ルネサンス、マニエリスム、バロックといった重要な傾向を生み出してきました。 ヴェネツィアはそのいずれの潮流にも独自の貢献をし、ローマ、フィレンツェと並ぶ美術の一大中心地でした。 各時代に次々に天才が生まれ、巨匠が集まり、狭い島から膨大な名作を生み出してきました。 それらの多くは売却され、収奪されて、パリのルーブル美術館をはじめ、世界中の美術館を飾っています。 ヴェネツィアには今なお、その最良の精華がそっくり残っています。 本書では、ヴェネツィアで見られる作品を中心に、ヴェネツィアの美術と歴史の歩みを振り返ります。 もともとビザンツ帝国とのつながりによって繁栄したヴェネツィアは、その影響によってサン・マルコ大聖堂に見られるような見事なモザイク芸術を生み出しました。 15世紀のベッリーニ一族は大きな工房をかまえ、そこから数多くの優れた画家が輩出しました。 16世紀はティツィアーノの圧倒的な影響のもとに優れた画家が続出しましたが、ことに世紀後半には、ティントレットとヴェロネーゼが屹立しました。 17世紀はローマでバロック芸術が開花しましたが、ヴェネツィア美術は停滞しました。 18世紀になると再び活気を取り戻して、第二次ヴェネツィア派とよばれる画家たちが登場しました。 ヴェネツィアは東西の優れた丈化が流人する地理的条件や豊かな経済力に加え、ヴェネツィアが長く独立を保つ過程で培われた強い愛国心がありました。 ヴェネツィアは国家の偉大さや名声を高めるためには何でもし、それによって町そのものを壮大な記念碑にしようとしました。 町の名誉のために行事や式典を繰り近し、壮麗さを愛し、美や歓楽を好む気風が自然に育まれました。 1000年にわたって独立を保ったこの共和国は、ラーセレニッシマ=いとも静穏な国という別名のとおり、つねに社会が安定しており、芸術文化を育てるのに適していました。 商人の国ヴェネツィアは、現実的で打算的な気風が支配的です。 一方、驚くほど信心深く、この狭い地域は教会で埋め尽くされていて、少し歩けばすぐに教会に行き当たります。 ヴェネツィアでもっとも重要であったのは、同信会です。 同じ守護聖人を信仰する民間の宗教団体をスクオーラと呼び、それらの集会所として使われた建物がたくさん残っています。 同信会館は会費によって豪華に装飾されましたが、ヴェネツィア美術のもっとも重要な作品群がこうした同信会館のために制作されました。 会員たちは宗教的な祝祭や都市の行事に参加し、同信会が競い合うことによってヴェネツィアを活性化させてきました。 ヴェネツィアの絵画は400年にわたって、西洋絵画の最高級のブランドであり続けました。 どんな地域でもその自然環境と美術とは関係がありますが、この町を歩きどっぷりつかってからヴェネツィア絵画を見ると、環境と非常に調和していることが分かります。 ヴェネツィア美術は当地で見てこそ、その美しさを堪能できるといいます。第1章 曙光の海-ヴェネツィアの誕生 6~12世紀・初期中世第2章 地中海制覇への道-共和国の発展 13~14世紀・ゴシック第3章 黄金時代-絶頂期のヴェネツィア 15世紀・初期ルネサンス第4章 爛熟の世紀-動乱のルネサンス 16世紀・盛期ルネサンス第5章 衰退への道-バロックのヴェネツィア 17世紀・バロック第6章 落日の輝き-ヴェネツィアの終焉 18世紀・後期バロック・ロココ終 章 生き続けるヴェネツィア
2017.02.27
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ノーベル賞者の益川敏英さんが、受賞するまでの来し方行く末をユーモアあふれるエピソードでつづっています。 益川敏英さんは、宿題嫌い、英語嫌いだったそうです。 ”僕はこうして科学者になった”(2016年7月 文藝春秋社刊 益川 敏英著)を読みました。 中日新聞・東京新聞に掲載された連続コラムをまとめたものに、ノーベル賞受賞講演録を加えています。 益川敏英さんは1940年名古屋市中川区生まれ、昭和区、西区で少年期を過ごし、向陽高等学校を経て名古屋大学理学部を卒業しました。 1967年に同大学大学院理学研究科博士課程修了、同大学理学部助手、1970年に京都大学理学部助手、1976年に東京大学原子核研究所助教授となりました。 1980年からから2003年まで京都大学基礎物理学研究所教授、理学部教授、大学院理学研究科教授、基礎物理学研究所教授、基礎物理学研究所所長を歴任しました。 2003年に京都産業大学理学部教授、2007年に名古屋大学特別招聘教授、2009年に京都産業大学益川塾教授・塾頭、名古屋大学特別教授を務めました。 第25回仁科記念賞(1979年度)、第1回J.J.サクライ賞(1985年)、第75回日本学士院賞(1985年度)、朝日賞(1994年度)、第48回中日文化賞(1995年度)を受賞しました。 また、欧州物理学会2007年度高エネルギー・素粒子物理学賞を受賞し、2008年にはノーベル物理学賞を、南部陽一郎、小林誠と共同受賞しました。 2001年に文化功労者となり、2008年に文化勲章を受賞しています。 なぜ科学に興味を持ち研究者を目指したのか、どんないきさつでノーベル賞を受ける研究に収り組んだのか、そしていまどんなことを考えているのかなどを綴っています。 生家は戦前は家具製造業で、戦後は砂糖問屋を営んでいました。 科学や技術の雑学に詳しかった父親の影響で、科学に興味を持ちました。 しかし学校の勉強は大嫌いで、宿題など一回もやったことがなかったそうです。 次第に数学や理科は進んで勉強するようになりましたが、英語嫌いは今に至るも直っていないとのことです。 英語の論文は書かないし、ノーベル賞受賞記念のスピーチも初めて日本語でやらせてもらいました。 高校の成績も悪かったそうですが、新聞で名古屋大の物理学者・坂田昌一教授が発表した画期的な学説を知り、大学進学を決意しました。 父親との大ゲンカの末に進学を果たしました。 同級生との激論や、思わず吐いてしまう暴言の影響などものともせず研究に取り組み、ノーベル賞を受賞することになるテーマ”CP対称性の破れ”に出会いました。 学生時代から議論好きで、違った視点や仮説を提起して議論を活性化させました。 その背景には、仁科芳雄さんから、武谷三男さん、坂田昌一さんに至る研究環境と、坂田モデルに始まる名大での活発な研究活動があるようです。 ノーベル物理学賞を受賞して生活がいろいろ変わりましたが、一番変わったと思うのは駅のホームの歩き方とのことです。 それまでは勝手な場所を歩いていたけれど、賞をもらってからは線路から離れて必ずホームの中央を歩くようになりました。 なぜかというと、握手を求めて突然に手が飛び出てくるからです。 考え事をしながら歩いているとき、目の前に急に何か出てきたら人間はびっくりして飛びのくものです。 もしホームの縁を歩いていたら、レールの上に飛びのかないとも限りません。 最近はだいぶなくなってたけど、もうそういう癖がついたといいます。 特に東京からの下りの新幹線は名占屋の人がたくさんいるので、よく声を掛けてもらい色紙を出されたこともあるようです。 とっさに思い付きで、”よく間違えられるんですが、私は双子の兄弟のデキの悪い弟の方なんです”と言うと、さっと色紙を引っ込めて立ち去ってしまったそうです。 兄弟はなく、ちょっとした冗談のつもりだったが悪いことをしたとの付記があります。 受賞の知らせのノーベル財団からの電話が高飛車で、腹が立ったといいます。 それゆえ、大してうれしくない、バンザーイなんてやらないよと述べました。 若いいころアインシュタインの相対性理論を勉強して不思議に思いましたが、いまふたたびその謎にあこがれて同時ということの意味を考え続けているそうです。 時間は実に不思議で、いつかあなたと払の時問が交差して、もしかしたらどこかの駅のホームに同時に存在することだってあるかもしれません。 あとがきで、若い人には憧れとロマンを持つてほしいということです。 握手/予感/カチン/泣いた/爆弾/砂糖問屋/砲台/銭湯の道/図書館通い/ばれた/英語嫌い/卒業文集/坂田教授/尾頭付き/決闘状/調べろ/ぶつけ合い/六〇年安保/暴言/浮気性/さん付け/坂田研究室/奇妙な現象/入試廃止/恋人は/式の真実/不採用/十年遅れ/組合活動/湯川先生/小林誠君/やろうか/だめだ/六種類だ/理解されず/目利き/お墨付き/仁科賞/空白の十年/親孝行/ばかやろう/博士論文/最後の一つ/最大の危機/予知能力/予言通り/突っ切れ/もてなし/どっちだ/消える本/ダーチャ/私と猫/ごちそう/入院/原発講義/原発の後始末/科学と戦争1/科学と戦争2/科学と国境/平和憲章/科学とスパイ/恩師の言葉/二百年後/井の中の蛙/ドンーキホーテ/棚上げ/英語は大事/まだ謎解き/CP対称性の破れが我々に語ったこと
2017.02.21
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内田 棟さんは1916年長野県軽井沢生まれ、日本プロゴルフシニア選手権で3三位、ホールインワン5回達成しました。 お名前の”棟”は”むねぎ”とのことです。 ”淡々と生きる 100歳プロゴルファーの人生哲学”(2016年11月 集英社刊 内田 棟著)を読みました。 日本のゴルフ文化の礎をつくったと言われる白洲次郎、小寺酉二に薫陶を受け、名門、軽井沢ゴルフ倶楽部に勤務した100歳のプロゴルファーです。 66歳と94歳で二度のがん手術を受けましたが、95歳で日本プロゴルフゴールドシニア選手権大会関東予選出場を果たしました。 10歳でキャディーのアルバイトを始め、独学で身につけたそうです。 20歳で徴兵検査に甲種合格してから、およそ10年間、兵隊として戦地に赴いていました。 従軍先は中国や台湾で、行軍でとにかく歩かされたそうです。 29歳の年に終戦を迎え、台湾、高雄から帰国し、名門、軽井沢ゴルフ倶楽部に勤務しました。 コース整備を担当する間に、プロのスイングを見てゴルフの腕を上げていきました。 当時の軽井沢ゴルフ倶楽部は、名門と呼ばれ、倶楽部でプレーされるお客様には、皇族万をはじめとする各界の名士が揃っていたそうです。 14本のクラブを持ったのは32歳の頃で、まだプロになる気はまったくありませんでした。 しかし、ゴルフ技術が評判となり、田中角栄、佐藤栄作など各界の著名人にゴルフレッスンしてきました。 55歳でプロテストに一発合格しましたが、日本プロゴルフ協会シニアツアーの出場資格は満50歳以上ですので、いきなりシニア・デビューとなりました。 それから数えてもおよそ半世紀が経ち、思えば、いろいろなことがあったとのことです。 いいことばかりではなく、二度にわたるがん闘病、そして、同じくプロゴルファーだった長男や次男に先立たれてしまいました。 それでも生きてきて思うのは、人生は、失意泰然、得意淡然が大事ということだそうです。 いい時も悪い時も、慌てず騒がず、淡々と生きていきます。 遅咲きのプロゴルファーは今でも毎日150球のパター練習を欠かさないといいます。 昨年9月に厚生労働省は全国の100歳以上の高齢者が、前年より4124人増えて、過去最多の65,692人になったと発表しました。 著者もそのお一人です。 女性が87.6%で、46年連続の増加となりました。 医療の進歩などが要因で、今後も増加が続くとみられます。 世界広しといえど、100歳まで現役のプロゴルファーを続けているのは外には見られないと思われます。 100歳になってもゴルフをしているなんて、自分でも思ってもみなかったそうです。 今はちょっと腰を痛めていて、ラウンドは休んでいるとのことです。 ただ、日課の自宅トレーニングを続けていて、体調が復活したらいつでもプレーを再開できるよう、体を鍛えているといいます。 食欲も年齢にしては旺盛で、毎日3食しっかり食べているそうです。 お酒は飲まずたばこも吸わず、朝食の時味噌カツオにつけたニンニクとラッキョウ、そしてリンゴとニンジンのジュースを欠かしません。 特に好き嫌いはなく、やっぱり肉は欠かせません。 週に3、4回は200グラムのサーロインステーキを食べているそうです。 この年齢になってもゴルフを続けているのは、日常の中にゴルフがあるのが当たり前になっているからです。 もう歳なんだからいいだろうという気持ちには、一切ならないし、家族もゴルフをやめろとは言いません。 つまり、ゴルフが好きということになるのでしょう。 94歳で直腸がんになるなど、大病も何度か経験しましたが、入院中もクラブの素振りを欠かしませんでした。 すこしでも練習を休んだら感覚が鈍ってしまうからですし、プロとしてごく自然な行動です。 ゴルフほど運、不運を感じるスポーツはありません。 天候や風など、人間の力ではどうしようもないことに振り回される競技です。 人生も同じ、常にいい時ばかりではなく、時には敗れることだってあります。 でも、どんなに山あり谷ありであっても、心乱されず、自分のやるべきことを平常心でやっていくことが大切なのだと思うということです。第一章 生きるために始めたのがゴルフだった/第二章 遅咲きのプロゴルファー/第三章 私のゴルフ哲学/第四章 仕事ができる人間はゴルフでムダ口をたたかない/第五章 人生の「谷」を歩く時/第六章 100歳から見える景色
2017.02.12
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飛鳥はかつて大和国高市郡にあった地域で、現在の奈良県高市郡明日香村大字飛鳥周辺を指しました。 ”古代飛鳥を歩く”(2016年4月 中央公論社刊 千田 稔著)を読みました。 この国の原点というに相応しい飛鳥とその周辺を歩き、多くの写真とともに当時の歴史を紹介しています。 当時、飛鳥と称されていた地域は、飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側に当たるあまり広くないところと考えられていました。 今日では、飛鳥川の上流や下流、さらに高取川流域地域までを含み、明日香村一帯、あるいはその近隣までを含むとされることもあります。 千田 稔さんは1942年奈良県生まれ、京都大学卒業、同大学院文学研究科博士課程を経て追手門学院大学、奈良女子大学、国際日本文化研究センターで教授等を歴任しました。 現在、奈良県立図書情報館長を務めています。 6~7世紀の飛鳥時代は危機と動乱の時代でした。 仏教伝来、蘇我氏の台頭と聖徳太子の理想、斉明女帝の大公共工事、大化改新、壬申の乱、そして平城京遷都などがありました。 かつて飛鳥には、天皇の宮がおかれたことが多かったです。 推古天皇の592年の豊浦宮での即位から、持統天皇の694年の藤原京への移転までの、約100年間を日本の歴史の時代区分として、飛鳥時代と称しています。 永らく日本の政治・文化の中心地でしたので、宮殿や豪族の邸宅などがたちならび、帰化系の人々も段々と付近に居住するようになりました。 なかでも、のちに有力氏族に成長した阿智使主を氏祖とする東漢氏が、はやくから飛鳥に近い檜隈に居をかまえていました。 6世紀半ばには、飛鳥周辺に仏教が伝来して文化が発達していきました。 7世紀には、飛鳥は古代日本の政治と文化の中心地となり、都市機能の整備がおこなわれるなど宮都の様相を呈していました。 飛鳥時代には、豊浦宮が飛鳥の西方、飛鳥川をはさんだ対岸に置かれました。 また、小墾田宮は飛鳥の北側の小墾田と称される地域にあったとされています。 飛鳥を散策すれば、当時の人々の息吹を感じとることができます。 飛鳥を歩きながら立ち止まって歴史に思いをいたすと、飛鳥の時代と現代の両者が相似ているのに気づく、といいます。 飛鳥の時代は、文化や政治体制が隋・唐といった中国大陸や朝鮮半島から渡来し、近現代においては、欧米文化がもたらされたという事実が見られます。 つまり日本という国の大きな歴史的節目が、どちらも海外からのインパクトによって成立したということです。 ただ、それは表面的な点においてであり、飛鳥の場合、文化・政治における根幹は仏教であり、仏教で国を守る鎮護国家という思想が理想として掲げられました。 同時に天皇をはじめ政治にたずさわる人たちのスタンスは、儒教でた。 徳のあるものこそ、政治に関与すべきだと理念的に考えられました。 近現代は、芸術・医学・理学などの学術、工学などのアートとテクノロジーが欧米からせきを切ったように、わが国に流れ込みました。 しかし、それらの基層にあるキリスト教の思想をほとんどともなうことはありませんでした。 飛鳥時代の風景からは、渡来文化とはいえ、そこに積極的にココロを入れようとした当時の人々の営みが読み取れます。 近現代のそれは、ココロよりも、形骸化したモノをむさぼりつつ今日に至りました。 この国の精神的土壌は、ないがしろにされたままでした。 飛鳥を歩きつつ、日本を考え日本人を考えます。 一体、われわれは、どこに向かおうとしているのでしょうか。 飛鳥を歩くというのは、古代の歴史的痕跡をたどることではありません。 日本のあり処を探ることなのです。 飛鳥を深く知るには、歩くことがよい。 古代の人が歩きながら、風景に目をやり思ったことを追体験するのです。 近鉄吉野線の飛鳥駅から歩きはじめるのが、一般的なコースです。 一日で飛鳥をすべて見て回ろうとしても、それは無理なことです。 本書では、観光あるいは見学コースに沿って述べることはしません。 飛鳥とその周辺の古代の出来事を、年代を追って、現場の風景の前にたたずみながら、日本の歴史において飛鳥とは何かを語っていくつもりである、ということです。1 飛鳥とは/ 2 素顔の蘇我氏/ 3 聖徳太子と推古天皇/ 4 舒明天皇と息長氏/ 5 大化の政変/ 6 斉明天皇と水の祭祀/ 7 壬申の乱/ 8 持統天皇と藤原京/ 9 古寺をめぐる/ 10 墳墓と遺跡
2017.02.05
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