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賽の河原は、仏教説話に登場する親より先に亡くなった子どもたちが辿り着くとされる場所です。 ”賽の河原 供養の宗教学”(2025年7月 筑摩書房刊 村上 晶著)を読みました。 親より先に亡くなった子どもたちが辿り着くとされる賽の河原を中心に、日本の供養について考察しています。 賽の河原は金門の上に位置し、死者の魂が集まるとされている河原です。 三途の川のほとりにあり、親に先立ち亡くなった子どもが集まるとされています。 三途は、世の中には地獄道、餓鬼道、畜生道という3つの苦しみの世界があるとの考えに由来しています。 子どもたちはそこで親への供養や自身の成仏を願い、石を積む苦行を強いられるのです。 親より早く死んだ子供たちは、その親不孝の罪により石積みをさせられるのです。 しかし、完成する直前に鬼が来て、苦労して積んだ石塔を崩してしまうといいます。 すると、子どもたちは、一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のためと唱えながら、壊された石を何度も積み直します。 そして最終的には、地蔵菩薩が現れて子どもたちを救済するとされます。 死別した愛する人は、どこにいってしまったのでしょうか。 人間はその答えを求めて、 死後の世界についてあれこれ考えを巡らせます。 日本では、亡くなった子どもの行先として、独自の「賽の河原」が考えられました。 本書は、賽の河原を中心に日本の供養を考えています。 村上晶さんは、現在、駒澤大学仏教学部仏教学科の准教授です。 筑波大学第二学群比較文化学類を卒業し、同大学院人文社会科学研究科哲学・思想専攻を修了しました。 博士(文学)で、日本の民間信仰と社会との関係性を研究しています。 2020年から2023年まで、国立歴史民俗博物館の 共同研究員でした。 2020年から現在まで、國學院大學、研究開発推進機構日本文化研究所の共同研究員です。 2021年から駒澤大学仏教学部仏教学科講師、2025年から准教授を務めて現在に至っています。 これまで宗教は、死後の人間の魂の行く末を人々に示してくれる一つの有力な知識の源泉でした。 キリスト教やイスラム教であれば、神のもとでの永遠の生を得るか地獄に落ちるかになります。 ヒンドゥー教や仏教では、基本は輪廻となります。 しかし、人間は死後の世界を確かめる術をもっていません。 これまでは、宗教が提示する死後の世界のプランに影響を受けてきました。 それだけでは満足せず、さまざまな要素を加えたり変更したりしながら生きてきたのです。 特に、亡くなってしまった子どもの行く先に対する不安は大きいです。 キリスト教の場合は、基本的には洗礼を受けていることが地獄落ちを回避するための最初の条件です。 このため、洗礼を受ける前に亡くなってしまった赤ちゃんの行き先は地獄になってしまいます。 仏教でも、たとえば浄土真宗では「南無阿弥陀仏」を唱えると極楽浄土へ行くことができると説きます。 そのため、言葉を発することができないままに亡くなった赤ちゃんは極楽へ行けないことになります。 これらの問題については、神学・教学においてさまざまな議論が繰り広げられていました。 現在でも、決着はついていないといいます。 しかし、人間は、生まれたばかりの赤子に地獄行きを宣言できるほど徹底できるわけではありません。 そこで、さまざまに抜け道が考え出され、子どものあの世での居場所と救済策が形作られてきました。 たとえば、カトリックでは辺獄という場所が考え出されました。 洗礼を受けないまま亡くなった子どもの魂の行き先として、地獄の縁に位置付けられたのです。 しかし、聖書には辺獄の出典がなく、公式の教義には含まれていません。 日本にも辺獄と同じような発想があり、それが餐の河原です。 賽の河原の物語が流行したのは、江戸時代です。 地蔵信仰の中心とも言えるくらいに流行した、といわれています。 襄の河原と地蔵の物語は、子どもに対する供養に一つの筋書きを与えるものでした。 賽の河原は、仏典に由来するものではありません。 初出は、室町時代の『富士の人穴草子』であろうとされます。 人穴とは、富士山の噴火によって流れ出た溶岩の通り道が洞窟となったものです。 行者たちの修行場としても活用されるなど、人々の宗教的発想力を刺激してきました。 主人公がこの人穴を通って、地獄などの六道を見てきたというのです。 そこに襄の河原が登場し、河原には13歳くらいまでの幼い子が幾千と集まって石の塔を組み上げるのだといいます。 しかし、強い風で倒れてしまい、それを集めてまた組み上げます。 すると、傍から炎が上がり、河原は火に包まれ子どもたちは逃げ惑います。 子どもたちが燃えて白骨となってしばらくすると、地蔵菩薩が現われます。 賽の河原の説話は、地蔵信仰と深く結びついています。 地蔵菩薩は、賽の河原で苦しむ子どもたちを救済するとされています。 そして、安産や子どもの守り神として信仰されています。 地蔵菩薩は、手に持っている錫杖でかき混ぜて唱えごとをして、元の人の形にするといいます。 なぜ、そうした場所を賽の河原と呼ぶのでしょうか、賽とは何なのでしょうか。 その名前の由来には諸説があり、どれも確実なものではありません。 柳田国男などは「塞の神」、つまり集落の境界の神である道祖神とのつながりを指摘しています。 江戸時代の実貫という僧侶が記した『桜陰腐談』(1710年)には、サイコロの賽が由来だとしています。 子どもが石を摘むのが、双六のようであることから来ているそうです。 尾張の国学者である天野信景は、随筆『塩尻』の中で「佐比の河原」だとします。 山城国紀伊郡の佐比里(現在の京都市伏見区の辺り)にある、鴨川と桂川が合流する地点です。 この地が古くは埋葬地であったことから、佐比の河原が賽の河原と表記されるようになったとします。 また、餐の河原図については、室町時代末期頃に定番の構図がほぼできあがっていたといいます。 この頃と推定される『矢田地蔵毎月日記絵』に、すでに「さいのかわら」が描かれているそうです。 賽の河原はこの世ではないし、もちろん天国ではありません。 また地獄といわれると少し違い、あくまでも地獄のキワです。 日本民俗学の父である柳田国男は、賽の河原のことを「和製の地獄」と呼んでいます。 興味深いことに、日本の場合は餐の河原が実在していて全国に無数にあるのです。 日本各地で、荒涼とした景色が死を連想させる場所が、賽の河原と名付けられています。 本書は、餐の河原を中心にそこでの供養について考えていくものです。 筆者は10年以上にわたって、津軽地方のシャーマンたちの調査をしてきました。 その過程で、川倉奏の河原のような供養霊場でも多くの時間を過ごすこととなったそうです。 気づけば、これまで立ち会わせてもらった口寄せの場面は100件を超えるといいます。 供養実践を知ることは、大切な人を失った先人たちがいかに折り合いをつけてきたかを知ることです。 何かをせずにはいられなかった人々の行為の蓄積が、現在みられる供養といえるでしょう。 本書の前半で、本書の基本的立場を確認して、供養や餐の河原とはそもそも何なのかを考えています。 そのうえで、花嫁人形供養などの実践を通して、想定されている死者イメージを明らかにしています。 本書の後半は、津軽地方のみならず仏壇や手元供養など、多くの人にとって身近な事例を扱っています。 共通して言えるのは、人は死者に対して正解をもちえないということです。 死者は戻ってきませんので、確かめる術はないのです。はじめに/第1章 口寄せとは何か/第2章 供養と賽の河原/第3章 津軽の地蔵と川倉賽の河原の祭り/第4章 あの世で成長する子ども/第5章 生活の中の死者/第6章 供養の現在/あとがき/注/読書案内 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし] 賽の河原 供養の宗教学 (ちくま新書 1866) [ 村上 晶 ]賽の河原宿・鬼女将日記 この世の果てで、おもてなし (富士見L文庫) [ 遠藤 まり ]
2026.02.28
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龍造寺隆信は、戦国時代から安土桃山時代にかけての九州を代表する武将です。 ”龍造寺隆信 軍事に通じ甚だ機敏”(2025年4月 ミネルヴァ書房刊 中村 知裕著)を読みました。 かつては肥前の一国衆に過ぎなかったが戦国期に、周辺の国衆をも次々と従えてのし上がり、九州各地に進出した龍造寺隆信の生涯を紹介しています。 1529年に、龍造寺周家の長男として、肥前佐嘉郡水ヶ江城の東館天神屋敷で生まれました。 幼少期は、宝琳院の大叔父にあたる豪覚和尚の下に預けられて養育されました。 宝琳院は711年行基建立と伝えられ、佐賀城下鬼丸町の南部にあります。 1536年に、7歳のとき出家して寺僧となり、中納言房あるいは中将を称しました。 法名を円月とし、12、13歳の頃より20歳くらいの知識があり、腕力も抜群であったとされます。 1545年に、祖父の龍造寺家純と父の周家が、主君である少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられました。 少弐冬尚が龍造寺氏を攻撃し、祖父と父は少弐氏重臣の馬場頼周によって誅殺されました。 ほかに、水ヶ江龍造氏一族の多くが討たれました。 隆信は、曽祖父の家兼に連れられて、筑後国の蒲池氏の下へ脱出しました。 1546年に、家兼は蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興しました。 しかしまもなく、家兼は高齢と病のために死去しました。 家兼は、隆信に還俗して水ヶ江龍造寺氏を継ぐようにという遺言を残しました。 翌年、隆信は重臣石井兼清の先導で兼清の屋敷に入り、還俗して水ヶ江龍造寺氏の家督を継ぎました。 胤信を名乗り、曾祖父から曾孫への家督継承という、滅多に見ることのない事例となりました。 胤信は、大内義隆から偏諱をうけて隆胤とし、次いで隆信と改めました。 中村知裕さんは1974年福岡県生まれ、1997年に福岡大学人文学部歴史学科を卒業しました。 同年、福岡県立早良高等学校の常勤講師となりました。 2004年に、福岡大学人文科学研究科史学専攻博士課程後期満期退学しました。 2007年に博士(文学)となり、筑紫女学園中学校・高等学校教諭となりました。 日本史研究会、大阪歴史学会、戦国史研究会、中世史研究会、日本古文書学会その他の学会に所属しています。 その後、龍造寺隆信は、1559年に少弐氏を下剋上で倒しました。 1574年に、須古城主平井経治を滅亡させ、翌年から須古城に大規模な改修を加えました。 その結果、東西長軸560m、南北長軸580mに及ぶ県内最大の戦国期平山城となりました。 隆信は須古城を拠点に、佐賀、長崎、福岡、熊本、大分にまたがる大領国を築きました。 1578年に大友宗麟が耳川の戦いで島津義久に大敗すると、大友氏の混乱に乗じて大友氏の領国を席捲しました。 これにより大友氏からの完全な自立を果たし、それまでの国衆を服属化させ戦国大名となりました。 恵まれた体格と凶暴さから、肥前の熊と呼ばれました。 1580年頃に家督を政家に譲り、隠居の名目で須古城に移りました。 有馬氏は守護の大友氏に従っていましたが、隆信やその支援者の圧迫を受けました。 晴信も、隆信の攻勢の前に臣従せざるを得なくなりました。 しかし、1584年に島津義久と通じて、晴信は龍造寺氏から離反しました。 晴信は深江城を攻め島津がこれに加勢したため、隆信は深江城を救援しようと軍勢を差し向けました。 有馬攻めは遅々として進まなかったため、隆信は大軍を率いて島津・有馬連合軍との決戦を決意しました。 龍造寺軍は大軍が隘路に誘い込まれ、島津家久軍と有馬勢から挟撃されて敗北を喫しました。 龍造寺方は多くの将兵を失い、大将の隆信が島津氏の家臣の川上忠堅に討ち取られてしまいました。 隆信の死後、龍造寺氏は島津氏に引き続き苦しめられ、最終的に嫡男の政家が島津氏へ投降しました。 1607年に政家の子の高房が自死し、政家もその後すぐになくなり、龍造寺氏は断絶してしまいました。 著者は、佐賀市を拠点に戦国期の肥前国と周辺国に勢力を誇った、龍造寺隆信の生涯を明らかにしたいといいます。 肥前国は多くの勢力が割拠し、絶えず権力争いが繰り広げられた地域です。 隆信はまだ肥前の一国衆にすぎませんでしたが、九州の巨大勢力の大友氏と対峙して肥前から排除しました。 さらに周辺の国衆を次々と従えて、一代で肥前を代表する地域権力にのし上がりました。 のし上がる過程で、親族の多くが少弐氏によって討たれました。 隆信は龍造寺家の内紛に巻き込まれて、一時的に本拠地を逐われました。 また、大友氏の大軍によって居城を包囲されるなど、絶体絶命の事態に幾度も見舞われています。 しかし、重臣・一族のサポート、もしくは隆信自身の機知により克服し、奇跡的な逆転劇を果たしています。 隆信の生涯は、創作物語に見られるような予想外な展開の中に、波瀾万丈な側面を持ち合わせています。 そのため、現代においても代表的な戦国大名の一人として、さまざまに取り上げられています。 しかし、隆信の事蹟はあくまで隆信の死後に、編纂物をもとに描かれたものです。 根拠のない伝承が、事実であるかのように書かれていて、本当の姿を明らかにしていると言い難いです。 隆信は、歴史上よく知られているようにみえて、実際にはよくわからない人物なのだ、といいます。 こうした事態を克服するために、隆信に関する事蹟を拾い上げる作業が必要となります。 二次史料である近世の編纂物に頼ることなく、一次史料である存命期に発給された文書に即して考察します。 隆信関係の文書の大半は無年号であるため、正確な年次比定をさまざまな視点から行うことになります。 このような作業を積み重ねることで、隆信の実像を描き出すことが期待できます。 また、隆信がいかにして一代で勢力拡大を成し遂げたのか、その要因を探りいます。 時代を遡って考察するため、曾祖父の家兼の動向についても考察します。 このため、隆信登場までにも紙幅を割くこととなる、といいます。 隆信は多くの苦難に見舞われながらも、敵対勢力を次々と打ち破り、肥前のほぼ大半を支配しました。 隆信は、優れた戦略眼と実行力を有する人物であったと考えてよいでしょう。 弟の長信を通じて領内の山林資源を大いに活用し、交通路の確保や城郭の構築を積極的に進めていました。 隆信は、後方支援を充実させ、城郭・道・橋などの普請をフル活用して勢力拡大を成し遂げました。 なお、本書には、これまで人々が抱いていた隆信に関するイメージと異なる叙述もあります。 隆信の家督相続は順調に継承したわけではなく、一族の鑑兼が家督放棄したことで家督の座についたこと。 隆信は従来いわれているような五州二島の大守ではなく、その勢力はせいぜい筑後南部にとどまること。 暴君として語られた隆信が、実際に暴君として振る舞った形跡はないこと。 よく知られた今山の戦いを、龍造寺氏・大友氏の抗争の一餉とみなしたこと。 これらは、近世の編纂物ではなく一次史料をもとにした筆者の見解であるといいます。はしがき/序章 龍造寺隆信研究の現状と課題/第一章 鎌倉・南北朝期の龍造寺氏/第二章 室町・戦国期の龍造寺氏―龍造寺家兼の実像/第三章 龍造寺隆信の登場/第四章 龍造寺隆信の勢力拡大/第五章 肥前における勢力基盤の確立/第六章 龍造寺氏による周辺諸国侵攻の実態/第七章 島原合戦と隆信の戦死/終章 隆信死後の龍造寺氏/参考文献/あとがき/略年表 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]龍造寺隆信 軍事に通じ甚だ機敏/中村知裕【1000円以上送料無料】戦国の肥前と龍造寺隆信/川副義敦【3000円以上送料無料】
2026.02.14
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