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マーガレット・ヒルダ・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher)は、1925年生まれのイギリスの政治家です。 ”サッチャー 「鉄の女」の実像”(2025年10月 中央公論新社刊 池本 大輔著)を読みました。 1975年に保守党党首となり1979年にイギリス初の女性首相に就任した、鉄の女の異名をとった20世紀後半を代表する政治家サッチャーの生涯を紹介しています。 生まれたのは、イングランドのリンカンシャー州グランサムで、食料品店の娘でした。 旧姓を、マーガレット・ロバーツといいました。 父親は、市会議員を務めた地元の名士でした。 1943年に、オックスフォード大学サマーヴィルカレッジに入学しました。 化学を専攻し、1946年にオックスフォード大学保守党支部の会長に就任しました。 1947年に卒業して、化学会社に就職しました。 1949年に、ケント州の選挙区の保守党公認候補となりました。 1950年と1951年には、総選挙で落選となりました。 1953年に、双子を出産しました。 そして、1959年に下院議員に初当選しました。 1970年に、エドワード・ヒース内閣で教育科学大臣に就任しました。 1975年には、女性として初めて保守党の党首となりました。 1979年の総選挙で勝利し、イギリス初の女性首相に就任しました。 以後エリザベス2世女王のもとで、11年間にわたり首相を務めました。 池本大輔さんは1974年東京都生まれ、1998年に東京大学法学部公法学科を卒業しました。 2000年に、同大学法学政治学研究科政治学修士課程を修了しました。 2002年に、オックスフォード大学政治国際関係学部博士課程を修了し、博士(政治学)となりました。 関西外国語大学専任講師、明治学院大学専任講師、同准教授を経て、2017年より同教授となりました。 2013年に、日本学術振興会賞を受賞しました。 専門は、ヨーロッパ統合、ヨーロッパ国際関係史、イギリス政治です。 サッチャーは、ヨーロッパおよび先進国史上初の女性首相です。 新自由主義等に基づいて、その思想信条への一貫性を貫こうとしました。 サッチャリズムと呼ばれる、新自由主義経済政策を推進したのです。 国有企業の民営化と、規制緩和・金融システム改革を掲げ強いリーダーシップで断行しました。 イギリス経済の、再建を目指したのです。 1982年のフォークランド紛争では電撃的な派兵を行い、強力なリーダーシップを発揮しました。 冷戦末期に、アメリカのレーガン大統領と協調し、ソ連のゴルバチョフ書記長といち早く対話を行いました。 欧州統合については、懐疑的な姿勢を示しました。 1990年の党首選挙で勝利はしたものの、支持を失い、首相を辞任しました。 1992年に一代貴族の称号を与えられ、貴族院議員となりました。 そして、2013年に87歳で亡くなりました。 第二次世界大戦後も、イギリスでは階級意識が根強く保守党の首相は上流階級出身が通例でした。 たとえば、ウィンストン・チャーチルは、マールバラ公爵家に連なる政治家でした。 チャーチルの後を継いだアンソニー・イーデンの父は準男爵、母はグレイ伯爵家の出身でした。 ハロルド・マクミランの祖父は、世界的に有名な出版社マクミランの創設者でした。 アレック・ダグラス=ヒュームは、第一四代ヒューム伯でした。 これとは対照的に、サッチャーはつつましい家庭の出身でした。 父アルフレッドは、零細な食料品店を経営するかたわら、メソジスト派の熱心な信者でした。 母ベアトリスは、家族経営の食料品店の店番を務める以外は、主婦としての人生を送りました。 サッチャーが子供の頃は、学校に通う以外の生活の中心は教会の活動でした。 少女時代、サッチャーは地元のグラマー・スクール(公立学校)に入学しました。 バブリック・スクールは、裕福な家庭でなければ賄うことはできなかったのです。 グラマー・スクールは授業料か必要でしたので、入学できたのは奨学金のおかげです。 しかし女子校では多く、オックスブリッジの入試で必要な水準のラテン語教育は行われていませんでした。 教員の個人レッスンで行われていましたが、サッチャーの家柄では受けられませんでした。 そこで父アルフレッドが、わざわざ家庭教師を雇ってラテン語を学ばせました。 サッチャーは大戦中の1943年秋に、オックスフォード大学サマーヴィル・カレッジに進学しました。 このカレッジは、1879年に初めて設立された二つの女性専用カレッジの一つでした。 サッチャー以外にも、インディラ・ガンジー、アイリス・マードックなどの著名な卒業生がいます。 男性首相の多くは古典学や哲学・政治学・経済学を学んでいますが、サッチャーは化学を専攻しました。 指導教員だったドロシー・ホジキンは高名な女性科学者で、1964年にノーベル化学賞を受賞しています。 大学時代には、フリードリヒ・ハイエクの経済学にも傾倒していました。 サッチャーは党の学生組織で活動し、三年次に会長に就任しました。 1945年の総選挙で保守党が大敗したため、他のメンバーと党改革を求めるパンフレットを執筆しました。 サッチャーが初恋を経験したのも、オックスフォードの1つ年下のトニー・プレイという学生でした。 二人の関係は、プレイが軍事訓練に入り近衛騎兵隊の一員としてドイツに赴いて中断しました。 1948年にイギリスに戻ってから一時的に交際か復活しましたが、長くは続きませんでした。 プレイは、キャリア志向の女性を好まなかったのです。 サッチャーが政治のキャリアへの志向は、大学生活を終える時点までに固まっていました。 サッチャーと政治との関わりのきっかけは、父アルフレッドでした。 アルフレッドは、個人の責任と均衡財政を信じる古風な自由主義者でした。 グランサム市参事会員で、市長も務めた人物です。 後年、保守党党首選に出馬する頃から、サッチャーは自らの生まれと父の教えの影響を強調していました。 ただし私生活では、大学入学後は徐々に実家とは疎遠になり、卒業後は更にその傾向が強まりました。 二等学位を得て大学を卒業し修士号も取得してから、本格的に政治への道を模索し始めました。 当時は、つつましい生まれの女性が国会議員になるのは容易ではありませんでした。 サッチャーは大学卒業時点で、弁護士資格を得て政界への足掛かりを得ようと考えていました。 そのためまず資金を稼ぐ必要があり、ロンドン近郊のプラスチックを扱う化学会社に就職しました。 そして、1948年の保守党大会で、ロンドン南東のダートフォード選挙区の公認候補となりました。 この選挙区は保守党候補に勝ち目はありませんでしたが、エネルギッシュな選挙活動が賞賛されました。 選挙に敗れたものの、政治的キャリアの確かな一歩となりました。 保守党支部の会合で、夫に選んだ会社経営者のデニス・サッチャーと出会いました。 1951年の総選挙で再度落選しましたが、結婚してロンドンに移り住みました。 サッチャーは、デニスと結婚して経済的に安定し、自らのキャリアに専念できるようになりました。 1953年に弁護士資格を取得し、二人の間に、キャロルとマークという双子の子供をもうけました。 1959年に下院議員に初当選を果たし、1970年にエドワード・ヒース内閣で教育科学相を務めました。 1974年2月10月の総選挙で、保守党は相次いで敗北を喫しました。 1975年2月に保守党の党首選挙が実施され、サッチャーが現職のヒースを破り党首に就任しました。 そして、1979年5月の総選挙でイギリス経済の競争力強化を公約に掲げ、保守党を政権奪還へと導きました。 その後、1979年から1990年の11年間、イギリス首相を務めました。 サッチャーは様々な横顔をもち、評価が真っ二つに分かれる政治家です。 日本でもかなり良く知られ、様々な書物が出版され、その生涯が映画化されています。 にもかかわらず新たな評伝が必要なのは、イギリスは様々な政治的問題に直面しているためです。 実態を正確に把握するために、サッチャーの足跡や政権の業績を振り返ることが不可欠です。 グローバル化やEUとの関わりについて考える上で、サッチャーが果たした役割は無視出来ません。 サッチャーは、冷戦終結に深く関与した政治家の一人でもありました。 女性の社会進出について、サッチャーの生涯を振り返ることで得られる知見は少なくありません。 これらについてより良く理解するため、サッチ ャーの足跡や政権の業績を振り返る必要があります。 また、日本でのサッチャー像は必ずしもアップデートされていません。 本書では、こうした老練な政治家としての側面にも、十分な関心を払っていきたいといいます。まえがき/第1章 食料品店主の娘が女性初の保守党党首へ/第2章 野党保守党の党首ー一九七五年~七九年/第3章 慎重な滑り出しー第一次政権 一九七九年~八三年/第4章 統治スタイルの確立ー第二次政権 一九八三年~八七年/第5章 退場への道のりー第三次政権 一九八七年~九〇年/終章 首相退任後のサッチャーとその遺産/あとがき/参考文献/略年譜 マーガレット・ヒルダ・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher)は、1925年生まれのイギリスの政治家です。 ”サッチャー 「鉄の女」の実像”(2025年10月 中央公論新社刊 池本 大輔著)を読みました。 1975年に保守党党首となり1979年にイギリス初の女性首相に就任した、鉄の女の異名をとった20世紀後半を代表する政治家サッチャーの生涯を紹介しています。 生まれたのは、イングランドのリンカンシャー州グランサムで、食料品店の娘でした。 旧姓を、マーガレット・ロバーツといいました。 父親は、市会議員を務めた地元の名士でした。 1943年に、オックスフォード大学サマーヴィルカレッジに入学しました。 化学を専攻し、1946年にオックスフォード大学保守党支部の会長に就任しました。 1947年に卒業して、化学会社に就職しました。 1949年に、ケント州の選挙区の保守党公認候補となりました。 1950年と1951年には、総選挙で落選となりました。 1953年に、双子を出産しました。 そして、1959年に下院議員に初当選しました。 1970年に、エドワード・ヒース内閣で教育科学大臣に就任しました。 1975年には、女性として初めて保守党の党首となりました。 1979年の総選挙で勝利し、イギリス初の女性首相に就任しました。 以後エリザベス2世女王のもとで、11年間にわたり首相を務めました。 池本大輔さんは1974年東京都生まれ、1998年に東京大学法学部公法学科を卒業しました。 2000年に、同大学法学政治学研究科政治学修士課程を修了しました。 2002年に、オックスフォード大学政治国際関係学部博士課程を修了し、博士(政治学)となりました。 関西外国語大学専任講師、明治学院大学専任講師、同准教授を経て、2017年より同教授となりました。 2013年に、日本学術振興会賞を受賞しました。 専門は、ヨーロッパ統合、ヨーロッパ国際関係史、イギリス政治です。 サッチャーは、ヨーロッパおよび先進国史上初の女性首相です。 新自由主義等に基づいて、その思想信条への一貫性を貫こうとしました。 サッチャリズムと呼ばれる、新自由主義経済政策を推進したのです。 国有企業の民営化と、規制緩和・金融システム改革を掲げ強いリーダーシップで断行しました。 イギリス経済の、再建を目指したのです。 1982年のフォークランド紛争では電撃的な派兵を行い、強力なリーダーシップを発揮しました。 冷戦末期に、アメリカのレーガン大統領と協調し、ソ連のゴルバチョフ書記長といち早く対話を行いました。 欧州統合については、懐疑的な姿勢を示しました。 1990年の党首選挙で勝利はしたものの、支持を失い、首相を辞任しました。 1992年に一代貴族の称号を与えられ、貴族院議員となりました。 そして、2013年に87歳で亡くなりました。 第二次世界大戦後も、イギリスでは階級意識が根強く保守党の首相は上流階級出身が通例でした。 たとえば、ウィンストン・チャーチルは、マールバラ公爵家に連なる政治家でした。 チャーチルの後を継いだアンソニー・イーデンの父は準男爵、母はグレイ伯爵家の出身でした。 ハロルド・マクミランの祖父は、世界的に有名な出版社マクミランの創設者でした。 アレック・ダグラス=ヒュームは、第一四代ヒューム伯でした。 これとは対照的に、サッチャーはつつましい家庭の出身でした。 父アルフレッドは、零細な食料品店を経営するかたわら、メソジスト派の熱心な信者でした。 母ベアトリスは、家族経営の食料品店の店番を務める以外は、主婦としての人生を送りました。 サッチャーが子供の頃は、学校に通う以外の生活の中心は教会の活動でした。 少女時代、サッチャーは地元のグラマー・スクール(公立学校)に入学しました。 バブリック・スクールは、裕福な家庭でなければ賄うことはできなかったのです。 グラマー・スクールは授業料か必要でしたので、入学できたのは奨学金のおかげです。 しかし女子校では多く、オックスブリッジの入試で必要な水準のラテン語教育は行われていませんでした。 教員の個人レッスンで行われていましたが、サッチャーの家柄では受けられませんでした。 そこで父アルフレッドが、わざわざ家庭教師を雇ってラテン語を学ばせました。 サッチャーは大戦中の1943年秋に、オックスフォード大学サマーヴィル・カレッジに進学しました。 このカレッジは、1879年に初めて設立された二つの女性専用カレッジの一つでした。 サッチャー以外にも、インディラ・ガンジー、アイリス・マードックなどの著名な卒業生がいます。 男性首相の多くは古典学や哲学・政治学・経済学を学んでいますが、サッチャーは化学を専攻しました。 指導教員だったドロシー・ホジキンは高名な女性科学者で、1964年にノーベル化学賞を受賞しています。 大学時代には、フリードリヒ・ハイエクの経済学にも傾倒していました。 サッチャーは党の学生組織で活動し、三年次に会長に就任しました。 1945年の総選挙で保守党が大敗したため、他のメンバーと党改革を求めるパンフレットを執筆しました。 サッチャーが初恋を経験したのも、オックスフォードの1つ年下のトニー・プレイという学生でした。 二人の関係は、プレイが軍事訓練に入り近衛騎兵隊の一員としてドイツに赴いて中断しました。 1948年にイギリスに戻ってから一時的に交際か復活しましたが、長くは続きませんでした。 プレイは、キャリア志向の女性を好まなかったのです。 サッチャーが政治のキャリアへの志向は、大学生活を終える時点までに固まっていました。 サッチャーと政治との関わりのきっかけは、父アルフレッドでした。 アルフレッドは、個人の責任と均衡財政を信じる古風な自由主義者でした。 グランサム市参事会員で、市長も務めた人物です。 後年、保守党党首選に出馬する頃から、サッチャーは自らの生まれと父の教えの影響を強調していました。 ただし私生活では、大学入学後は徐々に実家とは疎遠になり、卒業後は更にその傾向が強まりました。 二等学位を得て大学を卒業し修士号も取得してから、本格的に政治への道を模索し始めました。 当時は、つつましい生まれの女性が国会議員になるのは容易ではありませんでした。 サッチャーは大学卒業時点で、弁護士資格を得て政界への足掛かりを得ようと考えていました。 そのためまず資金を稼ぐ必要があり、ロンドン近郊のプラスチックを扱う化学会社に就職しました。 そして、1948年の保守党大会で、ロンドン南東のダートフォード選挙区の公認候補となりました。 この選挙区は保守党候補に勝ち目はありませんでしたが、エネルギッシュな選挙活動が賞賛されました。 選挙に敗れたものの、政治的キャリアの確かな一歩となりました。 保守党支部の会合で、夫に選んだ会社経営者のデニス・サッチャーと出会いました。 1951年の総選挙で再度落選しましたが、結婚してロンドンに移り住みました。 サッチャーは、デニスと結婚して経済的に安定し、自らのキャリアに専念できるようになりました。 1953年に弁護士資格を取得し、二人の間に、キャロルとマークという双子の子供をもうけました。 1959年に下院議員に初当選を果たし、1970年にエドワード・ヒース内閣で教育科学相を務めました。 1974年2月10月の総選挙で、保守党は相次いで敗北を喫しました。 1975年2月に保守党の党首選挙が実施され、サッチャーが現職のヒースを破り党首に就任しました。 そして、1979年5月の総選挙でイギリス経済の競争力強化を公約に掲げ、保守党を政権奪還へと導きました。 その後、1979年から1990年の11年間、イギリス首相を務めました。 サッチャーは様々な横顔をもち、評価が真っ二つに分かれる政治家です。 日本でもかなり良く知られ、様々な書物が出版され、その生涯が映画化されています。 にもかかわらず新たな評伝が必要なのは、イギリスは様々な政治的問題に直面しているためです。 実態を正確に把握するために、サッチャーの足跡や政権の業績を振り返ることが不可欠です。 グローバル化やEUとの関わりについて考える上で、サッチャーが果たした役割は無視出来ません。 サッチャーは、冷戦終結に深く関与した政治家の一人でもありました。 女性の社会進出について、サッチャーの生涯を振り返ることで得られる知見は少なくありません。 これらについてより良く理解するため、サッチャーの足跡や政権の業績を振り返る必要があります。 また、日本でのサッチャー像は必ずしもアップデートされていません。 本書では、こうした老練な政治家としての側面にも、十分な関心を払っていきたいといいます。まえがき/第1章 食料品店主の娘が女性初の保守党党首へ/第2章 野党保守党の党首ー一九七五年~七九年/第3章 慎重な滑り出しー第一次政権 一九七九年~八三年/第4章 統治スタイルの確立ー第二次政権 一九八三年~八七年/第5章 退場への道のりー第三次政権 一九八七年~九〇年/終章 首相退任後のサッチャーとその遺産/あとがき/参考文献/略年譜
2026.03.28
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アーサー・イグナティウス・コナン・ドイルは、「シャーロック・ホームズ」シリーズの生みの親として世界的に知られています。 ”コナンドイル伝 ホームズよりも事件を呼ぶ男”(2025年11月 講談社刊 篠田 航一著)を読みました。 科学的な推理を身上とする名探偵シャーロック・ホームズを生んだ、コナン・ドイルの数奇な人生を作品とともに解説しています。 推理小説の他に、SF小説や歴史小説、冒険小説なども多数執筆しました。 特に「シャーロック・ホームズ」シリーズは、現代のミステリー作品の基礎を築いたと言われています。 1859年スコットランド・エディンバラ生まれで、イギリスの作家であり医師・政治活動家でもありました。 1868年にランカシャーの寄宿学校ホダー学院に、1870年にストーニーハースト・カレッジに入学しました。 1875年にオーストリアへ留学してドイツ語を学び、1876年にエディンバラ大学医学部に進学しました。 1880年に船医見習いとして北極海へ航海し、1881年に医師資格を取得しました。 1882年にポーツマスで医院を開業し、同時に執筆活動を開始しました。 1885年に医学博士号を取得し、ルイーザ・ホーキンスと結婚しました。 1886年に「シャーロック・ホームズ」シリーズ第1作の、『緋色の研究』を執筆しました。 1891年に「ストランド・マガジン」でホームズ短編の連載を開始し、これが大ヒットとなりました。 1902年にナイトに叙せられ、サーの称号を得ました。 1906年に妻が亡くなり、翌年、ジーンと再婚しました。 1930年に71歳で心臓発作により、自宅で死去しました。 篠田航一さんは1973年東京都生まれ、1997年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、毎日新聞社に入社しました。 2011年から4年間、ベルリン特派員としてドイツを中心に、ウクライナ紛争などを取材しました。 2015年5月から青森支局次長、2017年からカイロ特派員を務めました。 ほかに、甲府支局、武蔵野支局、東京社会部、ロンド派員なども経験しています。 そして、2025年4月より外信部長を務めています。 コナン・ドイルはイギリスの中流階級に生まれ、実家の意向でエディンバラ大学医学部に入学しました。 しかし医学の勉強がイヤで、在学中にも北氷洋行きの捕鯨船に乗りました。 名目上は船医でしたが、実質的には船乗りの一員として7ヶ月も乗り込みました。 その後、平凡な成績でしたが卒業にこぎつけました。 医学士と外科修士の学位を得て医師になりましたが、自分の能力に自信が持てなかったようです。 職場を転々としましたが、妻帯者でしたので生活費がかさみました。 そこで、診察時間の合間に気軽なアルバイトとして、小説の執筆を始めました。 最初は当時の一流文学を目指しましたが、そこそこの評価しか受けられませんでした。 そのため、二流文学とされた探偵小説の執筆に手を染めました。 1886年に第一作の『緋色の研究』に着手し、1ヶ月後に作品を完成させました。 当初は、掲載してもらえる雑誌が見つからなかったといいます。 翌年、「ビートンズ・クリスマス・アニュアル」という雑誌の片隅に掲載されました。 この小説は一躍人気を呼び、単行本化にも成功しました。 その後、コナン・ドイルは大人気作家になりました。 ホームズ物語は19世紀以降、世界で約140年もの間ベストセラーでした。 著者は、書き出しからスイスイ読ませてくれる筆力にうなってしまうといいます。 ドイルは、自分で面白いと思うもの以外は決して書くまいと心に決したのでした。 それが、人を面白がらせる必要条件だと思ったからです。 ホームズのシリーズは、長編4作品、短編56作品の、計60作品です。 特に人気なのは、1902年の長編『バスカヴィル家の犬』です。 著者は、小学生の時にダイジェスト版で最初から最後まで、一気に読んだそうです。 ドイルは雰囲気作りが得意な作家で、序盤からサスペンスを構築するのがうまかったそうです。 即座にドキドキ場面を提示して、読者の好奇心を刺激する雰囲気を作りました。 作品の多くは冒頭から読者の興味をそらさず、早く次を読みたくなる構成になっています。 そして、リズムやスピード感が圧倒的なのです。 しかしながら、ドイルは実は不本意だったのだといいます。 推理作家ではなく、歴史作家として認められたいと思っていたからです。 しかし、その承認欲求は常に満たされませんでした。 社会的には大成功者だったはずですが、ドイルは生涯をいかに生きるべきかという悩みに取り憑かれて過ごしたといいます。 40歳で突然「軍隊に入る」と宣言しました。 「切り裂きジャック事件」の犯人説がありました。 「妖精事件」で世間を騒がせたアガサ・クリスティ失踪で勝手に「心霊捜査」をした、タイタニック号事件をめぐり大論争があった、政治家を目指して二度落選したなどなど。 ドイルが軍隊に入隊しようとした動機は、強い「愛国心」と若者の模範を志向したからでした。 しかし、ドイルは年齢が原因で陸軍の兵役検査に落ちてしまいました。 それでも諦めず、医療奉仕団に医師の一人として参加して戦争に貢献しました。 切り裂きジャック事件は、1888年にイギリスのロンドンで発生した歴史的な未解決事件です。 1世紀以上にわたって多くの説が唱えられてきましたが、いまだに決定的な証拠は見つかっていません。 後世には、実は犯人はドイルだったという説まで浮上しました。 これは都市伝説の類で、まじめに取り上げる話ではありません。 コティングリー妖精事件は、1917年~20年にイギリスで起きた妖精の写真の真偽をめぐる騒動です。 エルシーとフランシスは、妖精が写っているとされる写真を5枚撮影しました。 ドイルは、写真の専門家に鑑定を依頼した後、妖精写真を本物だと信じ雑誌に発表しました。 しかし、ドイルが亡くなってから、エルシーは写真が偽物であったことをあっさり認めました。 ミステリー作家のアガサ・クリスティは、1926年12月3日に自宅を出てから11日間行方不明になりました。 アガサは、夫との大喧嘩の後、幼い娘の乳母に手紙を残して姿を消したのでした。 数千人の警官が動員され、夫による殺害や遺体遺棄も疑われるほど大規模な捜索が行われました。 ドイルは、アガサの夫に会ってアガサの手袋を借りて、知人の霊媒師に渡しました。 11日後、アガサは偽名で保養地のホテルに宿泊しているところを発見されました。 ドイルは、すぐ消息が分かるとした霊媒師の予言が当たったと言い張ったといいます。 タイタニック号の沈没事故は、1912年4月14日から15日にかけて北大西洋で発生しました。 この事故は多くの死傷者を出し、その原因や状況について長年にわたり様々な議論が交わされてきました。 事故当時の新聞は、乗客をボートに乗せて自分は船とともに沈んだスミス船長の自己犠牲を賞賛しました。 しかしバーナード・ショーは、事故の詳細が不明なのに、メロドラマのような話にすべきでないとしました。 これに対し、ドイルはスミス船長を擁護し、英雄的な行為を賞賛しました。 そして、政治家を目指して二度落選しました。 目的は、ボーア戦争でのイギリス政府の行動を擁護することでした。 一度目は、1900年の総選挙にエディンバラ中央選挙区で立候補しました。 二度目の選挙はその数年後で、1906年の総選挙にホーウィック・バーグス選挙区で立候補しました。 小説家としての名声が、政治的な成功に直結することはありませんでした。 ドイルは、医師、作家であると同時に、実はかなり強烈な心霊主義者で愛国者でした。 ドイル自身はホームズ同様、ひょっとしてホームズを上回る面白いキャラクターでした。 一方、心霊に凝ってからはおかしな人になっていきました。 ただし、人間は矛盾を抱えた生き物です。 科学的で合理的な推理と深く心霊の世界に没頭する矛盾を隠さないドイルの姿には、むしろ強く惹かれるものがあるといいます。 ホームズは楽しいです。 熱烈なシャーロッキアンは、ホームズ物語の60作品をCanon(聖書の正典)と呼んで楽しみます。 ドラマも映画も十分に面白いですが、やはり原作は抜群に面白いです。 ホームズ以外のドイルの作品なども、何度読んでも面白いです。 こうした作品の数々を生んだアーサー・コナンードイルとは、どんな人物なのでしょうか。 本書はその足跡をたどり、科学と非科学の間で揺れ動きながらホームズを生んだ不思議に迫っています。第一章 エディンバラの青春/第二章 ホームズ誕生/第三章 二〇世紀と魔犬/第四章 名探偵とタイタニック/第五章 戦争と心霊/第六章 ドイルと現代 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【中古】コナン・ドイル伝 ホームズよりも事件を呼ぶ男(新書)コナン・ドイル伝 [ ダニエル・スタシャワー ]
2026.03.14
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