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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2022.10.15
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 ”鷹見泉石 開国を見通した蘭学家老”(2019年2月 中央公論新社刊 片桐 一男著)を読みました。

 藩主土井利位が大坂城代在任中に起きた大塩平八郎の乱で、大塩父子召し捕りを指揮した下総古河藩家老の、鷹見泉石の生涯を紹介しています。

 鷹見泉石=たかみせんせきは1785年に、古河藩の御使番役・鷹見忠徳の嫡男として古河城下に誕生しました。

 諱を忠常、通称を又蔵、十郎左衛門と言い、字を伯直、号は泉石の他に楓所、泰西堂、可琴軒と言いました。

 また、ヤン・ヘンドリック・ダップルという蘭名も署名に用いています。

 1797年に調役給仕として出仕して以降、目付、用人上席、番頭格などを経て、藩主土井利位=どいとしつらに重用されました。

 1831年に280石の家老、役高500石へ昇進し、主に江戸にありました。

 譜代大名の土井家は代々幕府の要職を歴任し、土井利厚・利位父子もまた寺社奉行や大坂城代、京都所司代、老中などの要職を務めていました。

 泉石は藩主の利厚・利位に近侍して全国各地へ同行し、これら職務の補佐に務めました。

 いち早く危機意識を持って海外情報の収集に努め、その知見は学者や幕府要人などに広く影響を与えました。

 土井の鷹見か鷹見の土井か、と言われるほど、その能力は賞賛を受けました。

 片桐一男さんは1934年新潟県生まれ、新潟県立与板高等学校を卒業し、1967年に法政大学大学院人文科学研究科日本史学専攻博士課程を単位取得退学しました。

 法政大学同助手、1968年文部省職員を経て、1977年に青山学院大学文学部助教授、1981年に教授となり、2003年に退任し名誉教授となりました。

 1983年の阿蘭陀通詞の研究で青学文学博士となり、1986年角川源義賞を受賞しました。

 専門は、蘭学史、洋学史、日蘭文化交渉史です。

 公益財団法人東洋文庫研究員、洋学史研究会会長を務めました。

 古河藩は、下総国葛飾郡、現、茨城県古河市に存在した藩で、藩庁は古河城でした。

 安土桃山時代から江戸時代初期に、土井家は下総国佐倉より16万2000石で入封し、利勝は徳川家康の落胤とする説がある人物です。

 家康の時代から徳川家に仕え、徳川秀忠・家光の時代に大老・老中として幕政を統括しました。

 古河では家康を縮小したような人物として、小家康と称されました。

 利勝は家臣団編成と組織の構成に尽力し、天守閣の造営などを行なって藩政の基礎を固めました。

 利勝の嫡男で第2代藩主の利隆は暗愚だったと伝わり、若年寄罷免に始まり、およそ藩主にふさわしくない不行跡が多かったといいます。

 孫の土井利益のとき、本来ならば無嗣断絶のところでしたが、利勝の功績などから許されて存続し、志摩国鳥羽へ移封されました。

 その後、江戸時代中期には、5000石の大身旗本土井利清の次男の利見が、本家の唐津藩主家を相続していた兄の利延が死去し、その養子となって家督を相続しました。

 幕府では奏者番となった後、国替されて家祖利勝時代の領地古河へ復帰しました。

 さらに寺社奉行を経て京都所司代にのぼり、老中の一歩前まで来たところで死去しました。

 利里は子に恵まれず、西尾藩主松平乗祐の十男の才百を迎え、利見と名乗らせ家督を相続させましたが、利見は1か月足らず後に死去しました。

 利厚は摂津尼崎藩主・松平忠名の四男で、利見の養嗣子となり、はじめ利和と名乗りました。

 その後、45年の長きにわたり古河藩主となりました。

 この間、寺社奉行、京都所司代、老中などの重職を歴任し、1万石の加増も得ました。

 1804年のロシア使節レザーノフ来航時、利厚が幕府の対ロシア問題の担当となったため、泉石も対外交渉のための調査に従事しました。

 これをきっかけに、泉谷は蘭学の学習と海外情報の収集を行うようになり、その後、泉石の収集した情報と知見は幕政にも生かされました。

 1853年に書かれた、ペリー来航を受けての提言書”愚意摘要”は、退隠後の古河で書かれたものですが、開国と和親通商を主張するものでした。

 利厚には跡継ぎがいなかったため、1822年に分家の三河刈谷藩主土井利徳の四男・利位を養嗣子に迎えました。

 利位は古河藩主となり、1825年に寺社奉行に就任し1829年に退任しましたが、1830年から1834年に再任しました。

 1834年から1838年にかけて、大坂城代・京都所司代・江戸城西之丸老中を歴任し、大坂城代在任中に大塩平八郎の乱を鎮圧しました。

 1839年に老中に就任し、1844年に老中を辞任しました。

 鷹見泉石が古河で育ったのは1975年の11歳までで、12歳のときに江戸藩邸に移り、古河藩第十代藩主である土井利厚・利和に近侍しました。

 また、学問もできるうえ書や歌の才もあり、藩校である盈科堂において講書・武芸をすすめ、土井家中興の名君といわれています。

 13歳で調役給仕、15歳で大小姓、17歳で御部屋附、大小姓近習番、19歳で給人打込席、部屋住料十人扶持、20歳で小納戸格取次となりました。

 24歳で目付、29歳で者頭から用人にすすみました。

 30歳で家老相談役に加わり、32歳の年に公用人兼帯となりました。

 この頃から、藩政に加えて幕政にもかかわりを深めていました。

 1821年に父が病没し250石の家督を継ぎ、1822年に古河藩が1万石の加増で8万石の藩となると、泉石も30石の加増を受けて、計280石取りとなりました。

 その年に藩主利厚が病死し、泉石は新葬御用掛を務め、次いで新藩主利位家督御用役も務めたあと、御内用勤となりました。

 1831年に、47歳で500石を給せられて家老となりました。

 1834年に利位が大坂城代となり、泉石も藩主に従って大坂に赴きました。

 1837に大塩事件が起きると、家老であった泉石は陣頭に立って働き鎮定し、帰府すると藩主に代わって浅草の誓願寺に参詣し、事件の鎮定を報告しました。

 その帰路、泉石は渡辺崋山の許に立ち寄っており、崋山が正装の泉石を描いたのはこのときです。

 肖像はやがて完成、のち、肖像画の白眉として国宝に指定され、万人の眼を集め続けています。

 藩主利位は、事件鎮定の同年、その功により京都所司代に、翌年には西の丸老中に進みました。

 泉石も京都に赴き、次いで帰府、さらに翌年、本丸老中付きで内用役を仰せ付かり、ますます繁忙をきわめていきました。

 ときの首席老中であった水野越前守忠邦は天保改革を推し進め、利位は海防掛を専管する老中となりました。

 泉石の蓄積された蘭学知識がますます生かされることとなり、海岸御人数調御用掛を務めました。

 水野忠邦が老中職を失脚すると、利位が首席老中に就任し、1845年に泉石は50石加増され330石となりました。

 1844年に江戸城本丸が焼失し、利位は老中として普請役の任を担いましたが、上納金など難問題が続出しました。

 藩内と身内にも事情が生じ、利位は老中を辞任しました。

 1846年には泉石も家老職を免ぜられ、古河に退隠し62歳で隠居しました。

 そして、1858年に、古河長谷町の隠居屋敷、現、古河歴史博物館の鷹見泉石記念館にて、74歳で死没しました。

 12歳から60年間にもわたり、自らの公務を中心に”鷹見泉石日記”が書き留められました。

 ほかに、書状・地図・書籍・絵画・器物など、古河歴史博物館が所蔵する鷹見泉石関係資料3153点が、2004年に国の重要文化財に指定されました。

はじめにー国宝となった鷹見泉石像/第1章 レザーノフ来航/第2章 江戸藩邸で情報収集/第3章 海外に目を向け、蘭学と欧風趣味にのめり込む/第4章 混迷する幕政・藩政に取り組んで/第5章 古河退隠で蘭学に没頭/第6章 世界のなかの日本を見据えて

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Last updated  2022.10.15 07:23:10 コメントを書く


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