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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2023.04.01
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カテゴリ: カテゴリ未分類

 名は通説では「於市」で、「お市姫」「お市御料人」とも言い、別の資料には「秀子」という名も見られます。

 ”お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治”(2023年1月 朝日新聞出版刊 黒田 基樹著)を読みました。

 織田信長の妹で浅井長政との結婚し柴田勝家と再婚した天下一の美人とされるお市の方の、初めての評伝です。

 織田信長の妹として、さらには「天下一の美人」と評された、戦国一の美女として知られています。

 その意味で戦国時代の女性としてもっとも著名な一人といえるかもしれませんが、動向を伝える史料は極めて少なく、その生涯については概略しかわかりません。

 著名にもかかわらず、実像はほとんど判明しないため、お市の方についての評伝書は、これまでほとんど見られませんでした。

 史料が少なく実像も明らかにならないにもかかわらず本書で本格的に取り上げるのは、お市の方の織田家における政治的地位に注目したいからだといいます。

 とくに信長死後におけるお市の方の地位が重要なのだろう、と考えられます。

 家老筆頭の柴田勝家と結婚し、死後に茶々、初、江の三人の娘が豊臣秀吉に引き取られ、やがて茶々は秀吉の別妻になり秀吉の嫡男の生母になりました。

 お市の方は織田家でどのような政治的立場に置かれていたのでしょうか、浅井長政との結婚、柴田勝家との再婚の歴史的・政治的な意味とはどのようなものでしょうか。

 黒田基樹さんは1965年東京都世田谷区生まれ、1989年に早稲田大学教育学部を卒業し、1995年に駒澤大学大学院博士課程を単位取得満期退学しました。

 1999年に駒澤大学より博士 (日本史学)の学位を取得し、2008年に駿河台大学法学部准教授、2012年に教授となり今日に至ります。

 専門は日本の戦国時代・織豊時代史で、相模後北条氏や甲斐武田氏に関する研究を展開しています。

 歴史学研究会、戦国史研究会、武田氏研究会の活動もあり、また千葉県史中世部会編纂委員や横須賀市史古代中世部会編纂委員を務めています。

 お市の方について、前半生はほとんど記録がなく不明で、実名も一次史料には見られず定かではありません。

 通説では、1547年に尾張那古野城内で生まれたとされています。

 戦国大名の織田信長の妹または従妹で、信長とは13歳離れています。

 通説では、父は織田信秀でその五女と伝えられ、母は土田御前とされています。

 しかし、生母については不詳で、土田御前を生母とする説では、信行、秀孝、お犬の方は同腹の兄姉になります。

 子に豊臣秀吉側室の茶々、京極高次正室の初、徳川秀忠継室の江がいます。

 孫にあたる人物には、豊臣秀頼、豊臣完子、千姫、徳川家光、徳川和子などがあります。

 江の娘の徳川和子は後水尾天皇の中宮となり、その娘は明正天皇となりました。

 婚姻時期については諸説あり、古くは1564年と考えられてきました。

 浅井長政は戦国時代の武将であり、北近江の戦国大名で浅井氏の3代目にして最後の当主です。

 浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていました。

 1565年12月に和田惟政が織田と浅井両家の縁組に奔走したものの、長政側の賛同を得られずに一度頓挫しました。

 婚姻は次の機会の、1567年9月または1568年1月から3月ごろであったとされます。

 このころ長政側から急ぎ美濃福束城主の市橋長利を介して、信長に同盟を求めてきたとされ、この縁談がまとまって、市は浅井長政に輿入れしたとされます。

 この婚姻によって織田家と浅井家は同盟を結びました。

 その後、長政との間に、茶々、初、江の3人の娘を設けました。

 なお、この時期長政には少なくとも2人の息子が居たことが知られていますが、いずれも市との間に設けられた子供ではないと考えられています。

 1570年に信長が浅井氏と関係の深い越前国の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶しました。

 しかし、政略結婚ではありましたが、長政と市の夫婦仲は良かったようです。

 なお、江に関しては小谷出生説に異論を唱える史料もあり、小谷城を脱出したのは市と娘2人であり、市は岐阜で江を出産したという説があります。

 長政が姉川の戦いで敗北した後、1573年に小谷城が陥落し、長政とその父の久政も信長に敗れ自害しました。

 市は3人の娘と共に、藤掛永勝によって救出され織田家に引き取られました。

 その後は、従来は市と三姉妹は伊賀国の兄の信包のもとに預けられて庇護を受けていたとされましたが、尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたという説も出ています。

 この説では、織田信次が天正2年9月29日に戦死をした後は、信長の岐阜城へ転居したことになります。

 柴田勝家は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名で、織田氏の宿老であり、主君の織田信長に従い天下統一事業に貢献しました。

 本能寺の変後の清洲会議で、織田氏の後継者問題では秀吉への対抗もあり、信長の三男・織田信孝を推しました。

 明智光秀を討伐した秀吉が、信長の嫡孫の三法師、後の織田秀信を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなりました。

 ただし近年、実際には三法師を後継者にすること自体には秀吉・勝家らの間で異論はなく、清洲会議の開催は三法師の存在を前提にしていた、とする説も出されているといいます。

 この会議で諸将の承諾を得て、勝家は信長の妹・お市の方と結婚しました。

 従来は信孝の仲介とされてきましたが、勝家のお市への意向を汲んで、秀吉が動いたと指摘されています。

 清洲会議終了後、勢力を増した秀吉と勝家など他の織田家重臣との権力抗争が始まりました。

 勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで、秀吉と対抗しました。

 ですが、秀吉は長浜城の勝家の養子の柴田勝豊を圧迫したうえ懐柔しました。

 次に、岐阜の織田信孝を攻め囲んで屈服させました。

 1583年3月12日、勝家は北近江に出兵し、北伊勢から戻った秀吉と対峙しました。

 事前に勝家は、足利義昭に戦況を説明し毛利軍とともに出兵を促す書状を出しましたが、義昭では既に時代に合わずうまくいきませんでした。

 4月16日、秀吉に降伏していた織田信孝が滝川一益と結び再び挙兵し、秀吉は岐阜へ向かい勝家は賤ヶ岳の大岩山砦への攻撃を始めました。

 しかし、美濃大返しを敢行した秀吉に敗れ、4月24日に北ノ庄城にてお市とともに自害しました。

 お市の方は、戦国時代の女性としてもっとも著名な一人です。

 そのエピソードとして、「天下一の美人」と評されたこと、兄信長に夫長政の離叛を密かに伝えた小豆袋の話がよく知られています。

 また信長の死後に、羽柴秀吉がお市の方に想いを寄せていたという話もあるといいます。

 しかしそれらのエピソードは、当時の史料によるのではなく、後世成立のものにみられています。

 それらが事実かどうか、きっちり検証する必要があるでしょう。

 当時の状況を伝える信頼性の高い史料に、「渓心院文」と「柴田合戦記」があります。

 そこでは、長政との死別については、「御くやしく」思っていたと、また「ことの外御うつくしく」と、記されているといいます。

 そして、柴田勝家と死をともにすることについて、「たとい女人たりと雖も、こころは男子に劣るべからず」と発言したそうです。

 そこからは、「美しさ」とともに、非常に信念の強い女性であったことが伺えます。

 本書においては、当時の史料、あるいは当時の状況を伝える信頼性の高い史料を中心にして、お市の方の生涯をたどることにしたいといいます。

 そのなかでお市の方が、織田家においてどのような政治的地位にあったのか、それが生涯をどのように規定し、また三人の娘の生涯に影響を及ぼしたのか、考えていくことにしたいとのことです。

 こうしたことから本書は、お市の方について本格的に検討する、初めての書籍となるでしょう。

 巻末には、お市の方に関する重要史料二編を収録しました。

 お市の方に関する史料は少ない中、重要にもかかわらず全体を容易に参照できない状態にある史料が存在しています。

 お市の方についての記述は一部分にすぎませんが、史料の性格を認識するためには全体の把握が必要になります。

 そこで一般の人々や、これからの研究のための便宜をはかって、二編について全文を収録することにしたとのことです。

 今後の関連研究の進展に寄与することは間違いないでしょう。

 お市の方の生涯については、現状において可能な限り解明することはできたと思いますが、一方で、関連する事柄について課題ばかりが認識されるものとなったといいます。

 今後、信長の一族や家族についての解明がすすんでいけば、本書での想定についても考え直さなければならないことも出てくるかもしれません。

 それらについての解明が本格的に進展していくことを期待したいといいます。

第1章 お市の方の織田家での立場(「お市の方」の呼び名/本名は「いち」/「いち」は「市」であったか/お市の方の姉妹たち/確実に確認できる信秀の娘たち/生年は何年か/姉妹のなかでの長幼関係/母はどのような存在か/信長の養女となったか)/第2章 浅井長政との結婚(結婚に関する唯一の史料/結婚の経緯/浅井長政の前半生/長政は戦国大名か、国衆か/長政と織田信長との関係/三人の娘を生む/小豆袋の話の真実/小谷城からの退去)/第3章 柴田勝家との結婚(織田家での庇護者/柴田勝家と結婚する/なぜ勝家を結婚したのか/信長百日忌主催の意味/お市の方の覚悟/三人の娘を秀吉に引き渡す/お市の方の最期/「天下一の美人」は本当か)/第4章 三人の娘の結婚(秀吉の庇護をうける/秀吉から茶々に結婚の申し入れ/江と佐治信吉の結婚は事実か/初と京極高次の結婚/江と羽柴秀勝の結婚/茶々は秀吉の別妻になる/江と徳川秀忠の結婚)/史料集

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Last updated  2023.04.01 08:22:28 コメントを書く


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