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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2023.04.29
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 通称をとった黒田官兵衛=かんべえ、あるいは剃髪後の号をとった黒田如水=じょすいとして知られています。

 ”黒田孝高”(2022年9 吉川弘文館刊 中野 等著)を読みました。

 播磨国に生まれ毛利攻めをすすめる織田信長に接近し、のちに豊臣秀吉に臣従しました。

 九州平定後の豊前を支配し、領国経営に励んだ官兵衛、如水の号で知られる、黒田孝高の生涯を紹介しています。

 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、軍師であり、また、洗礼名ドン・シメオンというキリシタン大名でもありました。

 軍事的才能に優れ、戦国の三英傑に重用され、特に豊臣秀吉の側近として、調略や他大名との交渉などで活躍し、のち、筑前国福岡藩祖となりました。

 秀吉の参謀と評され、後世、竹中半兵衛とともに、両兵衛、二兵衛と並び称されました。

 ただし、このような評価は必ずしも学術的な裏づけをもつものではないという見解もあります。

 1589年に子の長政に豊前の所領12万石を譲りましたが、なおも秀吉に用いられ、朝鮮出兵にも参加しました。

 秀吉没後に石田三成と対立し、関ヶ原の戦いでは長政を関ヶ原に出陣させ、みずからは豊前に残って大友義統を滅ぼし三成派を一掃しました。

 中野 等さんは1958福岡県嘉穂郡生まれ、1985年に九州大学大学院文学研究科博士後期課程を中退し、1995年に豊臣政権の研究で文学博士となりました。

 柳川古文書館学芸員、九州大学大学院比較社会文化研究院助教授を経て、2006年より九州教授となりました。

 黒田氏は賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村、現在の滋賀県長浜市木之本町黒田の出身とされますが、定かではありません。

 孝高の祖父の重隆の代に、備前国邑久郡福岡村から播磨国に入りました。

 龍野城主の赤松政秀、後に守護の赤松晴政の重臣で、御着城を中心に播磨平野に勢力を持っていた戦国大名の小寺則職、政職父子に仕えました。

 小寺氏は黒田氏を高く評価し、1545年に重隆を姫路城代に任じました。

 重隆の子の職隆には政職の養女を嫁がせ、小寺姓を名乗らせました。

 孝高は職隆の嫡男として、播磨国の姫路に生まれました。

 1561年に小寺政職の近習となり、1562年に父と共に土豪を征伐し初陣を飾り、この年から小寺官兵衛を名乗っています。

 1567年頃、孝高は父の職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光=てるを正室に迎え、姫路城代となりました。

 また、従兄弟の明石則実との同盟を結びました。

 1568年9月に、放浪中の足利義昭が織田信長と美濃国で会見して上洛を要請し、三好三人衆を退けて室町幕府15代将軍となりました。

 1569年に、毛利元就により滅ぼされていた尼子氏の残党の立原久綱、山中幸盛らが、再興のために決起しました。

 尼子勝久を擁して、但馬国の山名祐豊や浦上宗景らに後援され、元就の背後をつく形でした。

 元就は義昭に救援を要請し、祐豊に対して木下秀吉が率いる2万の兵が差し向けられました。

 さらに、義昭と誼を結んだ赤松政秀が、姫路城に3、000の兵を率いて攻め込んできました。

 政職は池田勝正、別所安治らに攻められ、宗景は宇喜多直家に離反され、孝高には300の兵しかありませんでした。

 しかし、奇襲攻撃などで2度にわたり戦い、三木通秋の援軍などもあって撃退に成功しました。

 政秀は浦上宗景に攻められ降伏し、この後、三好三人衆が一旦は勢力を立て直し、信長包囲網が張られ、義昭と信長の関係も険悪になり始めました。

 1573年に、包囲網は甲斐国の武田信玄の発病などにより弱体化し、信長が勢力を盛り返しました。

 4月に東播磨の三木城主の別所長治が攻めこんで来て、7月に内紛により三好氏の篠原長房が討死しました。

 9月に信長が浅井長政を討って義昭を追放し、12月に浦上宗景が信長と和睦しました。

 1575年に、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君の小寺政職に長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言しました。

 7月に羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見し、信長から名刀を授かりました。

 さらに年明けには政職にも、赤松広秀、別所長治らと揃って京で謁見させました。

 一方、9月に浦上宗景が宇喜多直家に敗れ、小寺氏の元に落ち延びてきました。

 1576年1月に、丹波国の波多野秀治が、赤井直正攻めの明智光秀を攻撃して、信長より離反しました。

 2月に義昭は、毛利輝元の領内の鞆の浦へ逃れました。

 4月に信長と本願寺の和睦が決裂し、7月に輝元の叔父の小早川隆景配下の水軍の将の浦宗勝が、信長の水軍を破りました。

 1577年5月に、毛利氏は本願寺勢力に属していた播磨の三木通秋と同盟し、浦宗勝を通秋の所領である英賀に上陸させました。

 孝高は500の兵で逆に奇襲をし、5、000の兵を退けました。

 この戦いの後、長男の松寿丸を人質として信長の元へ送りました。

 10月に、信長は信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐させました。

 孝高は一族を父の隠居城である市川を挟んで、姫路城の南西に位置する飾東郡の国府山城に移らせ、居城であった姫路城本丸を秀吉に提供しました。

 そして自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになりました。

 1578年に、荒木村重が信長に背いたとき、単身摂津有岡城に乗りこんで説得に当たりましたが、捕らえられて城中に抑留されました。

 翌年、信長により有岡城が落ちたとき救出され、以後、秀吉に重く用いられることになりました。

 小寺からもとの黒田姓にもどったのもこのころです。

 1582年に清水宗治の拠る備中高松城を攻めるとき、地形を見て水攻めが有効であることを秀吉に献策しました。

 本能寺の変で信長が殺されたことを知って途方にくれる秀吉に、天下を取る好機とけしかけたといわれています。

 その後、山崎の戦、賤ケ岳の戦、そして四国攻めと戦功をあげ、1586年に秀吉本隊の出陣を前に軍奉行として九州に渡り、九州の諸大名に対する勧降工作を精力的に行いました。

 九州攻め後、豊前中津城12万石を与えられましたが、1589年に家督を子長政に譲ったものの、まったく隠居したわけではなく、翌年の小田原攻めにも軍師として従軍しました。

 1600年の関ケ原の戦のときは、子の長政と共に東軍に属し、長政は家康に従って関ケ原に出陣していました。

 豊後中津城で留守を守っていた孝高は、浪人を傭い入れ、旧領回復に動き出した大友吉統の兵と石垣原で戦って破りました。

 関ヶ原の合戦の後、徳川家康はまず長政に勲功として豊前国中津12万石から、筑前国名島52万石への大幅に加増し移封しました。

 その後、井伊直政や藤堂高虎の勧めもあり、如水にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示しました。

 しかし、如水はこれを辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送りました。

 晩年は福岡城に残る御鷹屋敷や、太宰府天満宮内に草庵を構えました。

 また、上方と福岡を行き来し、亡くなる半年前には所縁の摂津国有馬温泉に療養滞在しました。

 1604年4月19日の辰の刻、京都伏見藩邸にて享年59歳で死去しました。

 今日、「軍師」として語られる人物の多くは、江戸期に隆盛した軍学の始祖に位置づけられています。

 実際の戦場体験から会得された戦法や陣方を基に理念的な整理され、体系化され軍学が成立し、甲州流・越後流・北条流・長沼流などさまざまな流派として伝授されました。

 「軍師」はその体現者として、実際の戦という史実と、理念が求めた虚構の間に、位置づけられました。

 いずれにしろ、「軍師」という概念は黒田孝高にとっても後世のものにすぎず、その人物を評するあたって前提におくべきものではありません。

 今日の孝高像が創られる上で規定的な役割を果たしたのが、貝原益軒の編著「黒田家譜」でしょう。

 貝原益軒は、福岡黒田家に仕えた儒学者でした。

 1671年に、孝高の曽孫にあたる福岡黒田家の三代光之は、益軒に黒田家の家史編纂を命じました。

 この益軒が17年間をかけて完成させたのが「黒田家譜」16巻です。

 今日からみても有用な書物ですが、孝高の没後7、80年を経ての著述であり、また、黒田家の「正史」であるがゆえの限界は否定できません。

 説話的教訓的な要素もあると考えられ、史実としての信憑性は必ずしも高くありません。

 「黒田官兵衛」ないし「黒田如水」のイメージは、史実とは別次元の場で増幅され、再生産されたと思われます。

 とはいえ、一次史料の伝存状況に限りがあることは否めません。

 こうした欠を幾分かでも補うため、本書では幕末から明治にかけて活躍した長野誠の遺業に大きく依拠したといいます。

 長野誠は、福岡黒田家に仕える長野家の養子となり、幕末の福岡黒田家で、学問所本役や軍事御用1891右筆格などを務めた人物です。

 福岡黒田家11代当主の長溥から依頼をうけて、黒田家の家史編纂に従い、1891年に享年84歳で没しました。

 本書の目的は、虚実交々に語られてきた黒田孝高の生涯を、当時の一次史料から追い、それをもとに人物像を再構築することにあるといいます。

はじめに/播磨・黒田家(孝高の出自と戦国時代の播磨/孝高の祖父重隆/孝高の父職隆)/小寺家の家臣として(孝高の登場/織田と毛利のはざまで/家督継承と織田家への接近/別所長治の謀反/摂津有岡城での幽囚/摂津・播磨の状況)/羽柴秀吉への臣従(黒田苗字に復す/秀吉のもとで/本能寺の変/織田家中の争いと毛利家との対峙)/中国・四国経略(毛利家との領界交渉/小牧合戦と紀州平定/四国出兵/孝高の洗礼)/九州平定(先駆けとしての九州出勢/豊前国内での転戦/日向への侵攻)以下細目略/豊前での領国支配と家督移譲/失意の朝鮮出兵/再起を期した「関ヶ原」/孝高の晩年と慰め/孝高の死/むすびにかえて―その後の黒田家/黒田孝高関係系図/略年譜

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黒田孝高(315) (人物叢書) [ 中野 等 ]

黒田如水 (福岡市文学館選書) [ 福本日南 ]







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Last updated  2023.04.29 08:22:25 コメントを書く


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