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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2023.11.11
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 ソニーの快進撃が続き2021年度にはソニーグループで過去最高益を達成しました。
 今やトヨタと並び日本を代表する世界的企業といっていいでしょう。
 しかし、ソニーという会社名は知っていても、そのソニーをつくった井深大と盛田昭夫のことを知る人は今どれだけいるでしょうか。
 ”井深大と盛田昭夫 仕事と人生を切り拓く力 ソニー創業者の側近が今こそ伝えたい”(2023年3月 青春出版社刊 郡山 史郎著)を読みました。
 私利私欲から動く経営者や個人の尊重を忘れた経営者が増えてきたように思える現在では、井深さんの生き方と盛田さんの働き方は令和の時代にますます必要だといいます。
 元ソニー常務である著者は、2人の側近として仕事のやり方やマネジメントその生き様を間近で見続けてきました。
 二人はどこにもないものを生み出し、新しい未来を切り拓いた名経営者です。
 彼らが立ちあがった戦後という時代は、先が見えないという意味では私たちが生きているこの時代に通じるものがあります。
 「過去には何の価値もない」という井深の教えを守り、これまでは積極的にソニーについて語ることを避けてきました。
 しかし、彼らの生き方や働き方が混迷の時代を生き抜く道標となるのではないかと思い、今語ろうと思うといいます。
 本書では、名経営者の力強い言葉の数々を紹介しています。
 郡山史郎さんは1935年鹿児島県指宿市生まれ、1954年にラ・サール高等学校を卒業し1958年に一橋大学経済学部を卒業して伊藤忠商事に入社しました。
 1959年にソニーに転じ1973年にシンガーに転じました。
 シンガー日本代表を経て、1981年にソニー映像事業部長となりました。
 1984年にソニー情報機器事業本部長、1985年にソニー取締役、1988年にソニー経営戦略本部長となりました。
 1990年にソニー常務取締役、1991年にソニー一般地域統括本部長、資材本部長、サービス本部長、物流本部長となりました。
 1995年にソニーPCL代表取締役社長、2000年にソニーPCL代表取締役会長、クリーク・アンド・リバー監査役となりました。
 2002年にソニー顧問となり、2004年にCEAFOMを設立して代表取締役に就任しました。
 人材紹介業をおこなう傍ら、これまでに5千人以上の定年退職者をサポートしたといいます。
 井深 大は1908年栃木県上都賀郡日光町、のちの日光市生まれ、祖先は会津藩の家老でした。
 2歳の時に青銅技師で水力発電所建設技師であった父、甫の死去に伴い、愛知県安城市に住む祖父のもとに引き取られました。
 安城第一尋常小学校卒業、のちに再婚した母に従い母の嫁ぎ先の神戸市葺合区、現在の中央区に転居しました。
 兵庫県立第一神戸中学校、のちの兵庫県立神戸高等学校、第一早稲田高等学院、早稲田大学理工学部を卒業しました。
 学生時代から奇抜な発明で有名であったといいます。
 東京芝浦電気の入社試験を受けるも不採用で、大学卒業後は写真化学研究所に入社しました。
 学生時代に発明し、PCL時代に出品した「走るネオン」がパリ万国博覧会で金賞を獲得しました。
 後に日本光音工業に移籍し、その後、日本光音工業の出資を受けて日本測定器株式会社を立ち上げて常務に就任しました。
 日本測定器は軍需電子機器の開発を行っていた会社で、その縁で戦時中のケ号爆弾開発中に盛田昭夫と知り合いました。
 敗戦翌日に疎開先の長野県須坂町から上京し、2か月後の1945年10月に、東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業東京通信研究所を立ち上げました。
 後に朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が盛田昭夫の目に留まり、会社設立に合流しました。
 翌年5月に株式会社化し、資本金19万円で社員20数人の東京通信工業、後のソニーを創業しました。
 義父の前田多門(東久邇内閣で文部大臣)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田昭夫が常務(営業担当)、増谷麟が監査役でした。
 以来、新しい独自技術の開発に挑戦し、一般消費者の生活を豊かに便利にする新商品の提供を経営方針に活動を展開しました。
 そして、多くの日本初、世界初という革新的な商品を創りだし、戦後日本経済の奇跡的な復興と急成長を象徴する世界的な大企業に成長していきました。
 盛田昭夫は1921年愛知県名古屋市白壁生まれ、生家は代々続いた造り酒屋で父親は盛田家第14代当主でした。
 愛知県第一師範学校附属小学校、旧制愛知県第一中学校、第八高等学校、大阪帝国大学理学部物理学科を卒業しました。
 太平洋戦争中、海軍技術中尉時代にケ号爆弾開発研究会で井深大と知り合いました。
 終戦後、1946年に井深らと、ソニーの前身である東京通信工業株式会社を設立し常務取締役に就任しました。
 ソニー創業者の一人で、製品開発に独創性とスピードを求め、他社に先駆けた革新的製品を作り出しソニーブランドの人気を高めました。
 1955年に日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を、1979年にウォークマンを発売しました。
 1959年ソニー代表取締役副社長、1960年米国ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ取締役社長、1971年にソニー代表取締役社長に就任しました。
 ソニーの会長兼CEOを務めた出井伸之が2022年6月に亡くなり、10月25日にお別れの会が催されました。
 出井と著者は1年違いでソニーに入りました。
 著者は2歳年上で、出井の事実上の上司だった時期もあります。
 取締役になったのは4年早かったが常務だった1995年に出井は14人抜きで社長になりました。
 このとき著者はソニーを退社しましたが、出井のことは人間的に好きで尊敬もしていたといいます。
 出井はソニーの社長を5年、会長兼CEOを5年務めたあと、2006年にベンチャー支援などを手がけるクオンタムリープを創業しました。
 著者が2004年に人材紹介ベンチャー「CEAFOM」を起業したとき、出井は個人で出資してくれたそうです。
 新型コロナウイルス感染症の流行で経営が圧迫され、結局、投資してもらったお金を返せないまま、出井とお別れすることになりました。
 出井の訃報は、本書をまとめるきっかけのひとつでもあるといいます。
 祭壇から展示のほうへ移動して展示物を観て回りながら、あることに気づいたとのことです。
 井深大、盛田昭夫の写真がないのです。
 出井が育てた人、引き上げた人は写っているのに、上司や先輩にあたる人たちの写真はなかったのです。
 井深と盛田は、会社経営の役割は違いましたが、「過去にとらわれない」というマインドは共通していました。
 二人が目を向けたのは常に未来でした。
 過去にとらわれないから、若い世代に古い価値観を押し付けることはありません。
 死ぬまで「老害」とは無縁でした。
 とくに井深は「時代が変われば、人間も価値観も変わる」とよく話していたそうです。
 井深にとって、ソニーが時代とともに変化するのは当然のことでした。
 その意味で、出井は「井深イズム」の継承者でした。
 盛田はソニーの事業を通して「井深イズム」を世に広めていきました。
 かつて日本の電子産業が世界を席巻した時期がありました。
 日本の電子産業をリードしたのがソニーであり、井深と盛田という二人の経営者でした。
 日本人が世界で再び大活躍できるならどこに可能性があるか、と探ってみるのは楽しいことです。
 井深大の生き方、盛田昭夫の働き方は、日本人が力を取り戻すうえで大いに参考になるでしょう。
 少なくとも、元気をもらえるはずです。
 本書を読まれたあと、将来のために役立ててもらえるなにかしらのヒントを得ていただければ幸いといいます。
第1章 運命を変えた、二人の名経営者との出会いー私とソニーと、井深と盛田/第2章 井深大の「生き方」-「個人」を尊重する思想の原点/第3章 盛田昭夫の「働き方」-「天性の人たらし」の素顔/第4章 井深大と盛田昭夫ー日本、そして世界を変えた最強の二人





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Last updated  2023.11.11 08:19:52
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