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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2024.03.02
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 宮本常一は1907年山口県屋代島、現周防大島生まれ、大阪府立天王寺師範学校、現大阪教育大学専攻科を卒業しました。
 学生時代に柳田國男の研究に関心を示し、その後渋沢敬三に見込まれて食客となり、本格的に民俗学の研究を行うようになりました。
 ”今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる”(2023年5月 講談社刊 畑中 章宏著)を読みました。
 日本のすみずみまで歩いて聞き集めた小さな歴史の束から、世間・民主主義・多様な価値から日本という国のかたちをも問いなおした、宮本常一の生涯を紹介しています。
 1930年代から1981年に亡くなるまで、生涯に渡り日本各地をフィールドワークし続け、膨大な記録を残しました。
 柳田國男は1875年生まれの民俗学者・官僚で、農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めました。
 日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者で、位階・勲等は正三位・勲一等です。
 日本人とは何かという問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行しました。
 渋沢敬三は1963年生まれの実業家、財界人、民俗学者、政治家で、第16代日本銀行総裁、第49代大蔵大臣を務めました。
 祖父・渋沢栄一から渋沢子爵家当主及び子爵位を引き継ぎました。
 畑中章宏さんは1962年大阪府大阪市生まれ、近畿大学法学部を卒業し、災害伝承、民間信仰から流行現象まで幅広い領域に取り組んでいます。
 平凡社の編集者として、『月刊太陽』編集部に所属し、多摩美術大学特別研究員、日本大学芸術学部講師を務めています。
 フィールドワークでは、特定の調査対象について学術研究をするとき、テーマに即した現地を実際に訪れ、対象を直接観察します。
 関係者に聞き取り調査やアンケート調査を行い、現地での史料・資料の採取を行うなど、学術的に客観的な成果を挙げる技法です。
 宮本の民俗学は非常に幅が広く、後年は観光学研究のさきがけとしても活躍しました。
 観光学は観光に関する諸事象を研究する学際的学問です。
 観光学は、地域経済の振興、発展、環境保全など解決していくためにあります。
 経済の発達に伴い楽しみのための旅行が広く普及し、マス・ツーリズムの時代が到来しました。
 これに伴い、いかにしてより満足できる観光が実現するか問われるようになりました。
 民俗学の分野では特に生活用具や技術に関心を寄せ、民具学という新たな領域を築きました。
 民具は民衆の日常生活における諸要求にもとづいてつくられ、長いあいだ使用されてきた道具や器物の総称です。
 日本常民文化研究所の前身であったアチック・ミューゼアムでは、民具をきわめて広い対象をあらわす概念としています。
 アチック・ミューゼアムは1921年に、実業家で民俗学者でもあった渋沢敬三によって創設されました。
 その後、財団法人時代を経て1982年に神奈川大学に移管され研究が引き継がれました。
 宮本が所属したアチックミューゼアムは後に日本常民文化研究所となり、神奈川大学に吸収され網野善彦らの活動の場となりました。
 ここでは漁業制度史や民具の研究を中心に、日本の民衆の生活・文化・歴史の調査研究が行われています。
 網野善彦は、1928年山梨県東八代郡御坂町生まれの日本中世史を専門とする歴史学者です。
 宮本の学問はもとより民俗学の枠に収まるものではありませんが、民俗学研究者としては漂泊民や被差別民、性などの問題を重視しました。
 そのため、柳田國男の学閥からは無視・冷遇されました。
 しかし、20世紀末になって再評価の機運が高まりました。
 宮本は自身も柳田民俗学から出発しつつも、渋沢から学んだ民具という視点、文献史学の方法論を取り入れ、柳田民俗学を乗り越えようとしました。
 柳田国男は20世紀の日本列島に住む日本人を「私たち」とあらかじめ措定して民俗学をはじめました。
 そして「私たち」の起原、定義、未来を追求する際、「心」を手がかりにし、「心」の解明によって明らかにできると考えました。
 そのとき、「心」を構成する資料は、民間伝承、民間信仰から得られると考えたといいます。
 これに対して宮本常一は、「もの」を民俗学の入り口にしました。
 たとえば生産活動などに用いてきた「民具」を調べることで、私たちの生活史をたどることができると考えました。
 そして民俗学における伝承調査を、「もの」への注目に寄せていくことで、私たちの「心」にも到達できると考えたといいます。
 日本の民俗学は柳田によって開かれ、同世代の折口信夫、南方熊楠らによって発展していきました。
 彼らのあと有力な財界人でもある渋沢敬三が独自の立場から後進を支援指導し、そのなかで最も精力的な活動を展開したのが宮本常一です。
 宮本は、見て、歩き、聞くことにより、列島各地の歴史や事情に精通し、農業、漁業、林業等の実状を把捉するとともに問題点を明らかにしていきました。
 それは、個別の共同体がどのような産業によって潤っていくかを、共同体の成員とともに具体的に考えていくことでした。
 ほかの民俗学者の民俗学と際だって違うのは、フィールドワークの成果が実践に結びついていったことです。
 宮本は歴史をつくってきた主体として、民衆、あるいは庶民を念頭におきました。
 これまでの歴史叙述において、庶民はいつも支配者から搾取され、貧困で惨めで、反抗をくりかえしてきたかのように力説されてきました。
 しかし宮本は、このような歴史認識は歴史の一面しか捉えていないし、私たちの歴史とはいえないと考えました。
 また宮本は、民俗学はただ単に無字社会の過去を知るだけではなく、その伝統が現在とどうつながり、将来に向かってどう作用するかをも見きわめなければならないといいます。
 そして、歴史に名前を残さないで消えていった人びと、共同体を通り過ぎていった人びとの存在も含めて歴史を描き出しえないものかというのが、宮本の目標とするところでした。
 また「進歩」という名のもとに、私たちは多くのものを切り捨ててきたのではないかという思いから歴史を叙述することを試みました。
 「大きな歴史」は、伝承によって記憶されるだけで記録に残されていない「小さな歴史」によって成り立っていることを、具体的に示そうとしたといいます。
 生活誌、生活史を叙述する際に、私たちが獲得してきた技術や産業の変化に目を向けたことも、宮本民俗学の大きな特色です。
 宮本の民俗学には「思想や理論がない」「その方法を明示していない」とアカデミックな民俗学者から批判されてきました。
 しかし、宮本の民俗学には閉ざされた「共同体の民俗学」から開かれた「公共性の民俗学」へという意志と思想が潜在しているのではないかといいます。
 主流に対する傍流を重視すること、つまりオルタナティブの側に立って学問を推し進めていったことも特筆すべきでしょう。
はじめに 生活史の束としての民俗学/第1章 『忘れられた日本人』の思想/第2章 「庶民」の発見/第3章 「世間」という公共/第4章 民俗社会の叡智/第5章 社会を変えるフィールドワーク/第6章 多様性の「日本」





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Last updated  2024.03.02 05:30:57 コメントを書く


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