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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2024.03.16
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、ムスタファ・ケマルともケマル・パシャとも、ケマル・アタテュルクとも呼ばれます。
 トルコ革命を指導してトルコ共和国の初代大統領となり、トルコを世俗的な近代国家とすることに務めました。
 ”ケマル・アタテュルク オスマントルコの英雄、トルコ建国の父”(2023年10月 中央公論新社刊 小笠原 弘幸著)を読みました。
 父なるトルコ人の意味のアタテュルクと呼ばれる、トルコ共和国の建設者で初代大統領のムスタファ・ケマル・アタテュルクの生涯を紹介しています。
 1881年頃、オスマン帝国領セラーニク県の県都セラーニク、現ギリシア領テッサロニキ生まれ、父親は税関吏でした。
 父母からは選ばれし者の意味のムスタファと命名され、後に入学したサロニカ幼年兵学校の数学教官から完全な者の意味のケマルというあだ名を付けられました。
 1886年頃、西洋式教育の学校に入学しましたが、1888年に父親が亡くなり家族でサロニカに戻り叔父の許に身を寄せました。
 その後、しばらくして母が再婚したため叔母の家に身を寄せました。
 1894年頃、サロニカ幼年兵学校に入学し、1896年にマナストゥル少年兵学校に入学しました。
 小笠原弘幸さんは1974年北海道北見市生まれ、青山学院大学文学部史学科卒業後、2005年に東京大学大学院人文社会系研究科博士課程を単位取得退学しました。
 2006年日本学術振興会特別研究員となり、2008年にオスマン朝の研修で博士(文学)となりました。
 専門はオスマン帝国史とトルコ共和国史です。
 公益財団法人政治経済研究所研究員、青山学院大学総合研究所員などを経て、2013年に九州大学大学院人文科学研究院歴史学部門イスラーム文明史学講座准教授となりました。
 2018年に樫山純三賞を受賞し、日本イスラーム協会理事を務めました。
 ケマル・アタテュルクは、1899年に陸軍士官学校に入学しました。
 1902年に同校を歩兵少尉として第8席の成績で卒業しました。
 陸軍大学校に進み、1905年に修了して参謀大尉に昇進し、研修のためダマスカスの第5軍に配属されました。
 士官学校在学中からアブデュルハミト2世の専制に反感を抱き、ダマスカスで設立された「祖国と自由」のシンパになりました。
 オスマン帝国は弱体化し、バルカン半島や西アジアで領土を次々と失って瀕死の病人といわれるようになりました。
 帝国の衰退をとめるために、それまでの硬直した古いスルタン政治の打破をはかる運動が青年将校の中にあらわれまし。
 1905年に日露戦争で仇敵ロシア軍が新興国日本に敗れたことは、オスマン帝国の軍人に大きな刺激を与えました。
 1906年にマケドニアで設立された「統一と進歩協会」本拠がフランスのパリに置かれると、「青年トルコ党」の現地支部を設立して「祖国と自由」を吸収しました。
 ケマル・アタテュルクは1907年に第3軍司令部に転属され、赴任地で「青年トルコ党」の現地支部である「統一と進歩協会」に加入しました。
 1908年に「青年トルコ」が挙兵しミドハト憲法を復活させて第2次立憲政治を実現させ、翌年にはスルタンアブデュルハミト2世を退位させて革命を成功させました。
 以後、オスマン帝国は「青年トルコ」政権による立憲体制がとられることになりました。
 しかし、スルタンは実権を失ったものの依然として存続していました。
 政権は安定せず革命の混乱に乗じて周辺のオーストリア、ブルガリア、ロシアなどが領土的野心を露わにしました。
 さらに、イタリアがオスマン帝国領の北アフリカに進出するなど、帝国主義の荒波にさらされることとなりました。
 ケマル・アタテュルクは、1909年に第3軍隷下のサロニカ予備師団参謀長に任命されました。
 3月31日事件が勃発すると、軍はサロニカの第3軍とアドリアノープルの第2軍から部隊を編成して、帝都イスタンブール鎮圧に派遣しました。
 ケマル・アタテュルクは第3軍所属の予備師団作戦課長として鎮圧部隊に連なり、終了すると第3軍司令部に帰任しました。
 1910年には、ムスリム住民の多いアルバニアでも反乱が起こりました。
 「青年トルコ」は憲法の復活による立憲政治の再開と、オスマン主義による国民統合を主張しました。
 しかし、次第にその内部にトルコ民族としての自覚を重視するトルコ民族主義も台頭し、安定を欠いていました。
 一方、帝国主義列強による侵略が強まり、1911年にリビアに侵攻したイタリア軍との戦争に敗れてトリポリ・キレナイカを失いました。
 ケマル・アタテュルクは1910年からの同軍士官養成所勤務を経て、再び第3軍司令部に戻りました。
 1911年に第5軍団司令部に配属され、第38歩兵連隊を経て参謀本部付となりました。
 伊土戦争が勃発してイタリアがリビアに侵攻したため、「統一と進歩協会」の志願者と同行してトリポリタニアに赴きました。
 ケマル・アタテュルクは少佐に昇進し、アレクサンドリア経由で陸路ベンガジに潜入し、ベンガジ・デルネ地区東部の義勇部隊司令官に着任しました。
 1912年にデルネ地区の司令官に任命されゲリラ戦を指揮しましたが、第一次バルカン戦争が勃発したためリビアから呼び戻されてダーダネルス海峡地区に着任しました。
 混成部隊司令部の作戦課長を拝命し、同部隊がボラユル軍団に再編された際も同職を続けました。
 オスマン帝国は1912年の第1次バルカン戦争でも、イスタンブールを除くバルカン半島を放棄しました。
 1913年に軍団主力の第27師団はボラユルの戦いで、ブルガリア勢の第7リラ歩兵師団に敗北し、アドリアノープルはロンドン条約調印により、ブルガリア王国に割譲されました。
 同年の第二次バルカン戦争では、ボラユル軍団とともにブルガリア軍に対して攻勢に出てケシャンを落としました。
 さらに、イプサラ、ウズンキョプリュ、カラアーチに入り、ディメトカを経由してアドリアノープルを奪還しました。
 ケマル・アタテュルクは街を離れ、ブルガリアの首都ソフィア駐在武官に任命され、セルビア首都ベオグラードとツェティニェの駐在も兼任しました。
 バルカンの戦禍を逃れた多くのイスラーム教徒が帝国領内に移住してきて、イスラーム教徒の比重が高まりました。
 1914年に青年トルコの軍人エンヴェル・パシャがクーデタによって権力を握り、軍部独裁的な青年トルコ政権を樹立しました。
 第一次世界大戦が勃発すると、青年トルコ政権のエンヴェル・パシャはロシアとの対立関係からドイツ、オーストリアとの提携を強め、同盟国側で参戦し独断で開戦に踏み切りました。
 オスマン軍はドイツ軍の援助を受けて、バルカン半島ではイギリス・フランス連合軍との戦いで勝利するなど健闘しましたが次第に連合軍に押されました。
 また、中東でもパレスティナをイギリス軍に占領され、アラブ人の反乱もあってオスマン帝国軍は翻弄され次第に劣勢になりました。
 1918年にスルタンのメフメト6世は単独で講和を決定し、孤立したエンヴェル・パシャはドイツに亡命しました。
 敗戦国となったオスマン帝国は翌年のセーヴル条約で壊滅的な領土割譲を余儀なくされ、青年トルコ政権の中枢部は国外に逃亡しました。
 敗戦後、オスマン帝国政府が連合国との間に領土分割その他の屈辱的なセーヴル条約を結ぶと、国民的な抵抗運動が起りました。
 ケマル・アタテュルクが指導者となり、1919年にイズミル侵攻を企てたギリシア軍と戦いました。
 1920年にトルコ国民党を率いてアンカラにトルコ大国民議会を召集し、イスタンブールのスルタン政府と絶縁して新政権を樹立しまし。
 1921年にサカリャ川の戦いでギリシア軍を大破して、国民軍最高司令官としてガージーの称号を得ました。
 1922年にギリシア軍は撤退し、イズミルの奪回に成功しました。
 ギリシアとの講和後、同年にスルタン制を廃止し、連合国とはセーヴル条約を破棄し、オスマン帝国は滅亡することとなりました。
 改めてローザンヌ条約を締結してアナトリアの領土を回復し、独立と治外法権の撤廃を認めさせました。
 1923年10月29日にトルコ共和国の成立を宣言し、共和人民党を率いて初代大統領に選出されました。
 翌年憲法を発布し、カリフ制を廃止して政教分離を実現し、トルコの世俗主義化につとめました。
 ケマル・アタテュルクの業績は、大きく2つに分けることができるといいます。
 ひとつはオスマン帝国の軍人にして救国の英雄として、もうひとつはトルコ共和国という国をつくりあげた政治家としてです。
 戦士としては、列強による祖国分割を阻止せんとして立ちあがった愛国者たちを糾合しその指導者となりました。
 国民は奮闘し、ギリシア軍を激戦のすえ追い返して、列強の野望を打ち砕くことになりました。
 政治家としては、祖国に平和世界に平和のスローガンを掲げどの陣営にもくみせず中立を保ちました。
 現在のトルコは中東・バルカン諸国でもっとも成功した国のひとつであり、その礎を築きました。
 ただし、裏の顔もつきまとい、大統領に就任してのちともに戦った盟友たちを追放あるいは処刑し、権力を固めました。
 トルコ民族主義を強硬に推し進めたゆえにクルド人を弾圧し、宗教を抑圧しました。
 なお、近年では親イスラームの公正発展党を率いるエルドアン大統領のもと、アタテュルクの業績を暗に批判されているといいます。
序章 黄昏の帝国/第1章 ケマルと呼ばれる少年ー1881~1904年/第2章 ガリポリの英雄ー1905~1918年/第3章 国民闘争の聖戦士ー1919~1922年/第4章 父なるトルコ人ー1923~1938年/終章 アタテュルクの遺産





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Last updated  2024.03.16 08:40:59 コメントを書く


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