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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2024.10.12
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 道鏡はこれまで、平将門・足利尊氏と並んで天下の三大悪人と称されました。
 道鏡は女帝を寵絡した天下の悪僧と呼ばれ、平将門は朱雀天皇に対し新皇を自称し、足利尊氏は後醍醐天皇をないがしろにしました。
 ”道鏡 悪僧と呼ばれた男の真実”(2024年4月 筑摩書房刊 寺西 貞弘著)を読みました。
 女帝に取り入って皇位さえうかがった野心家として、様々な謎に包まれ悪評にまみれた奈良時代の僧・道鏡の実像に迫ろうとしています。
 戦前は皇国史観が盛んに唱えられ、三人は天皇に弓を引いた大悪人として扱われていました。
 しかし、戦後の民主化によって皇国史観が払拭されると、三大悪人に対する見方も大きく変化しました。
 とくに足利尊氏については、後醍醐天皇の保守性に対し武家社会の要望に応えた一面が評価されています。
 では、道鏡についての評価はどうでしょうか、悪僧との評価がどれほどまでに改められたでしょうか。
 本書では、さまざまな伝説を検証し最新資料を検討しています。
 すると、道鏡は実際には政治に関与せず天皇への仏教指導に終始した人物という意外な実像が見えてくるといいます。
 寺西貞弘さんは1953年大阪府摂津市生まれ、1978年に関西大学文学部史学科日本古代史を卒業しました。
 1983年に同大学院博士課程後期課程満期退学し、1989年に文学博士となりました。
 1984年に和歌山市立博物館学芸員、同館学芸課長、副館長を経て、2002年に館長となりました。
 2015年から有田市郷土資料館学芸員を務めました。
 道鏡は700年に河内国若江郡、現在の八尾市の一部で生まれ、俗姓は弓削氏の弓削連でした。
 弓削氏は弓を製作する弓削部を統率した氏族で、複数の系統があります。
 道鏡の属する弓削連は物部氏の一族で、物部守屋が弓削大連と称してから子孫が弓削氏を称したといいます。
 道鏡は葛城山などで厳しい修業を積み、修験道や呪術にも優れていたそうです。
 若い頃に法相宗の高僧・義淵の弟子となり、奈良の東大寺を開山した良弁から梵語を学びました。
 禅に通じていたことから、宮中の仏殿に入ることを許され禅師に列せられました。
 当時は第45代聖武天皇の治世の時代でした。
 このころ、藤原氏は自家出身の光明子の立后を願い、後に光明子は非皇族として初めて立后されました。
 聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず、阿倍内親王のみでした。
 阿倍内親王は弟の第一皇子が夭逝し他に適任者がなかったため、749年に聖武天皇が譲位し孝謙天皇が即位しました。
 孝謙天皇は重祚して、称徳天皇とも称した、第46代天皇および第48代天皇です。
 史上6人目の女性天皇で、天武系からの最後の天皇です。
 この称徳天皇以降は江戸時代の第109代明正天皇まで850余年、女性天皇が立てられることはありませんでした。
 『続日本紀』では終始、高野天皇と呼ばれ、ほかに高野姫天皇、倭根子天皇とも称されました。
 母の光明皇后とその甥の藤原仲麻呂の支援を受けて政治を行なっていました。
 758年に母の光明皇后の看病を理由に、藤原仲麻呂の推す大炊王に皇位を譲り、孝謙天皇は上皇となりました。
 大炊王は淳仁天皇として即位し、760年に光明皇后が崩御しました。
 孝謙上皇と道鏡が出会ったのは、その3年後の761年のことでした。
 761年には平城宮の改修のため、都が一時的に近江国保良宮に移されました。
 そのとき孝謙上皇が病気を患い、道鏡は傍に侍して看病しました。
 藤原仲麻呂や淳仁天皇は、道鏡への寵愛を深める孝謙上皇を諌めました。
 しかし、孝謙上皇はこれに激怒し、孝謙上皇と淳仁天皇は一触即発状態になりました。
 孝謙上皇は女性天皇であるが故に、生涯独身である必要がありました。
 そして、子がなかったため常に後継問題に悩まされていました。
 道鏡はそんな孝謙上皇の心のすき間に入り込み、信任を得ていきました。
 そして、病気を治したことから重用されるようになり、その寵を受けることとなりました。
 762年に孝謙上皇は、淳仁天皇が不孝であるとして仏門に入り別居し、政務を自身が執ると宣言しました。
 淳仁天皇はこれに対して意見を述べたため、孝謙上皇と淳仁天皇とは相容れない関係となりました。
 763年には慈訓に代わって道鏡が少僧都に任じられ、764年には太政大臣禅師に任ぜられました。
 764年9月に、藤原仲麻呂が軍備を始めたことを察知した孝謙上皇は、淳仁天皇から軍の指揮権を奪いました。
 藤原仲麻呂は乱を起こして対抗しましたが、敗れて殺害されました。
 そして淳仁天皇を廃して流罪にすると、孝謙上皇は同年10月に再び皇位に返り咲いて称徳天皇となりました。
 765年に道鏡は法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進しました。
 道鏡の後ろ盾を受け、弟の弓削浄人が8年間で従二位・大納言にまで昇進するなど、一門で五位以上の者は10人に達しました。
 加えて、道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対し、藤原氏らの不満が高まりました。
 769年には、宇佐八幡神託事件とも道鏡事件とも呼ばれる事件を起こして失脚しました。
 これは、道鏡を天皇の位につければ国家は安泰とする、偽の神託を奏上させる事件でした。
 弓削浄人と大宰府の主神の中臣習宜阿曽麻呂が、宇佐八幡宮の神託があったと称徳天皇に奏上したのでした。
 称徳天皇は喜び、神託の真偽を確かめるために和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣しました。
 ところが和気清麻呂が受けた神託は、皇位は皇族が継ぐもので無道の人である道鏡は早く追い払えというものでした。
 怒った称徳天皇は、和気清麻呂に別部穢麻呂という屈辱的な名前を与えて流罪にしました。
 道鏡も和気清麻呂を暗殺しようと試みましたが、急に雷雨が巻き起こり実行は阻止されたといいます。
 この事件により道鏡は、女帝をたぶらかして皇位を狙った不届き者として日本三悪人に数えられるようになりました。
 事件の翌年の770年に称徳天皇が病気で崩御すると失脚し、道鏡の権力は一気に低下しました。
 軍事指揮権は、太政官である藤原永手や吉備真備に奪われました。
 道鏡は長年の功労により処刑されませんでしたが、弓削浄人ら親族4名は土佐に流されました。
 道鏡は下野国の下野薬師寺別当に左遷されそこで没し、死後は一庶民として葬られました。
 道鏡を研究する際に必要不可欠な史料である『続日本紀』は、古代律令国家が編纂した立派な歴史資料です。
 これは古代律令国家が国家の威信をかけて編纂し、天皇とその国家の非を書き記すことは絶対にしないといいます。
 そのため、道鏡は、必要以上に悪人として語られてしまっているのではないでしょうか。
 本書はこのような観点から『続日本紀』を読み返して、道鏡の評価を再考しようとするものです。
 第一章では、うわさの道鏡として道鏡にまつわる伝承を取り扱います。
 第二章では、仏教との出会いとして道鏡が出家するまでの過程を検討しています。
 第三章では、道鏡と律令国家として、国家政治における道鏡の位置づけを考えています。
 第四章では、称徳朝政治と道鏡として、称徳朝における道鏡の政治的立場を検討しています。
 第五章では、称徳天皇の崩御と道鏡の左遷として道鏡の左遷に至る経緯を再確認しています。
 以上から、道鏡の生涯を総覧すべく述べ来って述べ終わったといいます。


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道鏡 悪僧と呼ばれた男の真実 (ちくま新書 1790) [ 寺西 貞弘 ]


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Last updated  2024.10.12 05:29:27
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