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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2024.10.26
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 土倉庄三郎は=どぐらしょうざぶろうは、1840年奈良県川上村大滝に生まれ、幼名は、丞之助、族籍は奈良県平民でした。
 父の庄右衛門も林業家で、1856年に父に代わり家業に従事し名を庄三郎と改めました。
 ”山林王”(2023年3月 新泉社刊 田中 淳夫著)を読みました。
 吉野川源流部の川上村に居を構え、近代日本の礎づくりに邁進し豪商三井と並ぶ財力を持った山林王の土倉庄三郎を紹介しています。
 植林から育成、伐採、運搬にいたるまで、独自の造林技術を全国へ広めました。
 また、吉野林業の特徴である山の所有者と管理者を分け山を維持する山守制度を築きました。
 1868年に紀州藩による吉野川流下木材の口銭徴収反対運動を起こし、民部省に請願し廃止させました。
 1869年に吉野郷材木方大総代、吉野郡物産材木総取締役になりました。
 1870年に水陸海路御用掛となり、吉野川の水路改修工事に尽力しました。
 1873年には東熊野街道の開設に着手し、1887年に街道が完成しました。
 1887年から1897年にかけて、群馬県伊香保、兵庫県但馬地方、台湾などの造林も手掛けました。
 1899年には鉄道計画にも参加し、吉野鉄道株式会社の設立にも携わりました。
 明治期における吉野林業と日本林業の先覚者であり、吉野郡内では山林経営に従事しました。
 100年先を見すえて生涯1800万本の樹木を植え、手にした富は社会のために惜しげも無く使い切ったといいます。
 田中淳夫さんは1959年大阪生まれ、静岡大学農学部を卒業後、出版社、新聞社等に勤務しました。
 その後フリーの森林ジャーナリストになり、森と人の関係をテーマに執筆活動を続けています。
 土倉庄三郎は、林業分野とどまらず多方面で活躍した日本林業の父であり吉野林業の中興の祖です。
 父から山林経営の手法を学び、伝統の吉野林業を集大成し、日本全国に植林の意義を広め林業興国を説きました。
 庄三郎には卓越した先見の明があり、行動は林業分野にとどまらず、政治、経済、教育など多方面に及びました。
 林業における庄三郎の功績として、土倉式造林法があげられます。
 父祖伝来の吉野林業の造林技術の上に工夫を加え、通常の3倍近い本数の苗を植える超密植多間伐を行いました。
 良質な材として全国に知られ、滋賀県西浅井、群馬県伊香保、兵庫県但馬、静岡県天竜など、各地への造林が始まりました。
 そして台湾台北県での造林にも進出し、台湾で植林されたものは戦後沖縄に電柱として輸出されるようになりました。
 また、庄三郎は林業の要は運搬にありとしてインフラ整備に目をむけました。
 林業のみならず地域経済の発展に貢献し、陸と川と海の交通路の整備を担当しました。
 庄三郎は自らの財産を国のため教育のため事業のために3分し、教育にも充分な支援を行いました。
 1875年に私費を投じて川上村大滝に小学校を作り、教科書や文房具などを支給しました。
 1882年に敷地の隣地に私塾芳水館を開設し、近在の青少年にも受講を認めました。
 その後、入塾希望者が増えたため、3年後西河地区に寄宿舎や教師の住宅も備えた学舎を建築しました。
 漢学、算術、英語、武道の学科があり、私塾の枠を超え中等教育機関へと発展しました。
 1881年に、次男、三男等の教育のため、新島譲と面談して同志社大学の設立に賛同し出資を約束しました。
 庄三郎は自身の子供の教育にも熱心で、男女11人の子供のほとんどを同志社に通わせました。
 次女のマサは同志社女学校のほか、米国ペンシルベニア州のブリンマーカレッジでも学ばせました。
 また、女子の高等教育の必要性を説く成瀬仁蔵の日本女子大学の設立について寄付を行い、1901年に日本女子大学が創設されました。
 さらに、1877年頃から自由民権家らと交流し、1880年に中島信行の遊説の際に資金を提供しました。
 1881年に大阪で立憲政党が結成されるとこれに加わり、1882年に日本立憲政党新聞の出資者となりました。
 1882年に、自由民権運動の中心人物であった板垣退助の洋行費用を提供しました。
 1973年にトンネルが開通する前は、川上村に入るには結界の山を登って五社峠を越えなくてはなりませんでした。
 帰国後板垣はすぐ、五社峠を越えて川上村詣を行ったといわれます。
 ほかに、山県有朋、井上馨、伊藤博文、太隈重信、松方正義、後藤象二郎、中島信行などの要人も、支援を求めて川上村詣をしたといいます。
 五社峠を越えたわけは、川上村在住の土倉庄三郎に面会するためでした。
 土倉家は代々続く大山主で、所有山林は最盛期で9,000ha、県外と台湾を加えると23,000haに及びました。
 山から伐り出された木材は吉野川を下り、和歌山から大阪そして全国に運ばれました。
 それらによって生み出された富は非常に大きく、明治初年の土倉家の財力は三井家と並ぶと称せられました。
 その経済力とともに、庄三郎という人間の信念と行動力が明治の世を動かしました。
 庄三郎は川上村から明治の社会を見据え、時代と四つに組みました。
 新たな教育を広め、技術革新を進め、国土の改良に取り組み、政治を揺さぶりました。
 武器は林業であり、森から明治という時代を動かしました。
 しかし、長い年月の間に庄三郎の事績は忘れられつつあります。
 庄三郎に関する資料は少なく、本人直筆の文書も庄三郎について語られた記録も数えるほどです。
 そこで庄三郎の生きた時代を洗い直し、交わった人々が残した断片的な記録を拾って再構築する作業を進めたということです。
 それらを基に、本書において土倉庄三郎の実像に迫りたいといいます。
 筆者が庄三郎を知ったのは、1980年代末に川上村を初めて訪れて磨崖碑を目にしたときだったそうです。
 2000年代に入ってから詳しく調べようとしましたが、資料は少なく、実像を知るまでいきませんでした。
 基本文献は、一つは1917年に配布された佐藤藤太著『土倉庄三郎ー病臥、弔慰、略歴』でした。
 もう一つは、1966に出版された土倉祥子著『評伝土倉庄三郎』です。
 前者は簡素であり、後者は記事の多くが真偽を確認する必要があったそうです。
 そこで、同時代の雑誌や新聞、吉野の歴史や林業の文献から、庄三郎に関わる点を拾い出すことに注力しました。
 少ない資料からなんとか庄三郎の足跡を拾い出し、2012年に『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』を刊行しました。
 この本を出版したことで、次々と新資料が寄せられたといいます。
 複数の庄二郎の子孫縁戚の方から連絡があり、資料も提供されたそうです。
 前著の刊行後10年を超え、新たに得た情報を取り込んで庄三郎の実像を描き直そうとしました。
 すると、単なる増補には収まらなくなり、全面的に書き改めることとなったとのことです。
序 源流の村へ/第1章 キリスト教学校と自由民権運動/第2章 山の民の明治維新/第3章 新時代を大和の国から/第4章 国の林政にもの申す/第5章 土倉家の日常と六男五女/第6章 逼塞の軌跡と大往生/終章 庄三郎なき吉野/あとがき/年表/参考文献

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Last updated  2024.10.26 08:49:13
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