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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2025.12.20
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カテゴリ: カテゴリ未分類


 芳春院殿は、戦国大名・小田原北条家二代目の北条氏綱の娘です。
 ”「おんな家長」芳春院殿 関東戦国史を塗り替えた陰の主役”(2024年6月 平凡社刊 黒田 基樹著)を読みました。
 戦国時代に関東武家政権の頂点にあった古河公方足利家を取りしきった、おんな家長だった芳春院殿の生涯を紹介しています。
 氏綱には6人の娘の存在を確認でき、生年が判明しているのは6女と推定されるちよだけです。
 著者は、子どもの出生年をもとに長幼を推測しているといいます。
 芳春院殿の嫡男義氏は、天文12(1543)年生まれです。
 山木大方を姉とみますと、芳春院殿は氏綱の5女だったと推定されます。
 芳春院殿の生年は判明しませんが、結婚時の年齢と第一手出産時の年齢から推定しています。
 結婚が18歳か19歳、第一手出産が20歳か21歳とすると、1523年生まれ、1524年生まれではないでしょうか。
 いずれかに絞ることは難しいのですが、第一子を20歳で産んだという推定なら、生年については1524年となrます。
 この場合、兄の氏康とは9歳違い、夫の足利晴氏とは10歳違いにあたります。
 そして、1561年に38歳くらいで死去したことになるといいます。
 なお、芳春院殿の母については、判明していません。
 氏綱の子どものうち、母について判明もしくは推定できるのは嫡男の氏康だけです。
 芳春院殿のきょうだいには、男兄弟が4人、女姉妹が5人の存在が確認されています。
 生年は、長兄の氏康が1515年、三兄の為昌が1517年、四兄の氏尭が1522年、妹ちよが1526年です。
 姉たちについては判明していません。
 著者の黒田基樹さんは1965年東京都生まれで、1989年に早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修を卒業しました。
 1995年に、駒澤大学大学院博士課程(日本史学)を単位取得満期退学しました。
 1999年に、博士号(日本史学・駒澤大学・論文博士)を取得しました。
 現在、駿河台大学教授を務めています。
 専門は日本中世史で、主に相模後北条氏や甲斐武田氏に関する研究を展開しています。
 2016年のNHK・大河ドラマ『真田丸』で、平山優・丸島和洋と共に時代考証を担当しました。
 戦国時代の武家権力には、多くのおんな家長の存在か見られたそうです。
 戦国時代のおんな家長は、家の運営や他家との交渉において大きな影響力を持ちました。
 領国や家臣支配に関する朱印状などの公文書を発給し、家政だけでなく家長としての全権を担いました。
 その基盤は、出自、婚姻による政治的繋がり、そして個人の手腕と経験によって築き上げられました。
 当主の妻として長年、家の運営を支えてきた経験も、権力基盤を強固なものとしました。
 多くの場合、おんな家長は公家や有力な武家の出身でした。
 そして、女性でも当主を務めその役割を見事に果たすことができる、という前例を作りました。
 しかし、当時の社会や慣習に起因する様々な制約を受けていました。
 当時の社会では、女性の行動範囲や権限には慣習や法的な制約がありました。
 女性が当主となるのは、男性当主が不在の際の一時的な措置で、決して恒久的な地位ではありませんでした。
 家を存続させるための非常手段であり、家を継ぐ男性の後継者を確保する必要がありました。
 おんな家長の功績は、家を守り地域を統治し、後の世の女性の活躍の可能性を示したことにあります。
 男性に代わって家政を切り盛りし、領国統治を代行することで、家の内政安定に貢献しました。
 北条氏綱は1538年の国府台合戦に勝利し、娘を足利晴氏に嫁がせ古河公方家との関係構築を築こうとしました。
 しかし、当時の古河公方には正妻を置く慣例がありませんでした。
 そのため、出自を問わず妾として取り扱われました。
 先に、重臣の簗田高助の娘が晴氏の妾となっていました。
 氏綱は1539年8月に、篠田高助に婚姻の仲介を依頼した上、高助父娘を粗略にしない旨を約束しました。
 その結果、1540年11月に芳春院殿は晴氏に嫁ぐことになりました。
 晴氏は、戦国時代の第4代古河公方で、1535年~1552年まで在職しました。
 室町幕府が正式に認め、影響力を持っていた古河公方として最後でした。
 1531年に、関東享禄の内乱を経て古河公方の地位を確立しました。
 1538年の第一次国府台合戦で、北条氏綱と同盟を結びました。
 そして、父の代から敵対していた叔父の足利義明を滅ぼしました。
 合戦の勝利を賞して、氏綱を関東管領に補任したといいます。
 しかし、氏綱の死後は跡を継いだ北条氏康と敵対しました。
 そして、関東管領上杉憲政や上杉朝定と同盟を結んで、1546年にともに北条領へ侵攻しました。
 河越夜戦で大敗すると、古河公方としての力を失いました。
 1548年に簗田高助の娘が生んだ長男が元服して足利藤氏と名乗り、晴氏の後継者として公認されました。
 晴氏の移動先は、当時の北条氏の支城で唯一下総に存在していた葛西城でした。
 氏康は、芳春院殿とその子の梅千代王丸を北条領に移すことを考え始めました。
 しかし、晴氏の子の藤氏の外祖父である高助の存命中は行動を控え、計画実現は遅れたようです。
 1551年5月に関東管領上杉憲政が越後国の長尾景虎を頼って関東から離れると、晴氏は苦境に立たされました。
 12月に北条氏康と高助の子の簗田晴助との間で起請文が交わされ、晴氏との和睦が成立しました。
 その中で、公方府を芳春院殿と梅千代王丸がいる葛西城に移しました。
 そして、芳春院殿を晴氏の正妻として遇することになりました。
 はじめて古河公方家の正妻に迎えられたことで、藤氏と梅千代王丸の家中での立場が逆転しました。
 晴氏が梅千代王丸を後継者にすることに同意したのは、1552年12月になってからでした。
 これ以降、梅千代王丸に古河公方が行うべき決裁を行い、古河公方の地位は梅千代王丸に移りました。
 また、芳春院殿もその代理として文書を発給していることが確認できるといいます。
 晴氏は激怒し、1554年7月に葛西城から藤氏のいる古河御所に戻って挙兵の準備を開始しました。
 しかし、簗田晴助や一色直朝ら重臣は反対し、氏康も出陣して11月には古河御所を占拠しました。
 そして、晴氏は、氏康によって相模国波多野に幽閉されました。
 これを受けて、氏康は梅千代王丸の元服を急ぎました。
 1555年11月に、葛西城にて梅千代王丸の元服が行われました。
 氏康の要請を受けた足利義輝から、一字を与えられて足利義氏と称しました。
 晴氏は1557年7月に古河城復帰を許されましたが、9月に嫡男の藤氏による義氏打倒の陰謀が発覚しました。
 これにより、晴氏は再び拘束され、栗橋城主の野田氏のもとに預けられました。
 1558年には、氏康の勧めによって芳春院殿と義氏は鶴岡八幡宮に参詣しました。
 その後、芳春院殿の故郷と言える小田原に向かいました。
 氏康は、簗田晴助の居城である関宿城に公方府を移す構想を明確にしました。
 氏康は、晴助に古河城を与え、芳春院殿には晴氏の幽閉を解くと説得しました。
 8月になって、晴氏・芳春院殿・義氏は関宿城に入城しました。
 そして1560年5月27日に、晴氏は元栗橋にて53歳で死去しました。
 6月12日に、甘棠院で葬儀が行われました。
 芳春院殿の嘆きが大きく、7月に出家したと伝えられます。
 秋になって、上杉憲政を奉じた長尾景虎が関東に出兵し、義氏は関宿からの退避を検討しました。
 しかし、芳春院殿は晴氏の墓のある関宿から離れるのを拒んだといいます。
 古河城にいた晴助も長尾軍に合流し、12月以降は関宿城での籠城戦が開始されました。
 籠城戦は半年近くにわたりましたが、その間に長尾景虎が上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領を譲られました。
 晴助の推挙で、藤氏が上杉陣営の古河公方となりました。
 そして、景虎はいったん関東から撤退して、関宿城の包囲が解けました。
 そのような中で、芳春院殿は1561年に病に倒れてしまいました。
 上杉謙信(長尾景虎)の軍が関宿に迫る中でも、最後まで関宿からの退去を拒んだといいます。
 そして、芳春院殿は関宿城の包囲が解けた直後の1561年7月9日に、関宿で38歳位で病死しました。
 義氏は母の死の直後、関宿城の維持を困難と考え、わずかな兵を残して小金城に移りました。
 芳春院殿については、大半の人にほとんど馴染みがないでしょう。
 北条氏綱の娘、北条氏康の妹で、古河公方足利家四代足利晴氏の正妻、五代足利義氏の生母にあたります。
 芳春院殿という名は、死後に贈られた法号で、当時の本名は判明していません。
 そうした本名も判明していない人物の生涯を、なぜ本格的に取り上げようとするのでしょうか。
 それは、芳春院殿か果たした歴史的役割が、関東戦国史等において極めて重要だからであるといいます。
はじめに/第1章 芳春院殿の家族/第2章 足利晴氏との結婚/第3章 葛西城への移住と「葛西公方」の誕生/第4章 梅千代王丸の公方家相続/第5章 芳春院殿・義氏権力の確立/第6章 「葛西様」としての芳春院殿/第7章 関宿城への移住/第8章 関宿籠城戦と芳春院殿の死去/あとがき/芳春院殿関係年表/主要参考文献





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Last updated  2025.12.20 09:39:34
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