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IFJTにて、R.先生の講義、第7回。 「マチルド Mathilde」と「金庫 Le coffer-fort」と「ブルータスのように Comme Brutus」と「にんじんからルピック氏への書簡数篇とルピック氏からにんじんへのいくつかの返信 Lettres choisies de Poil de Carotte à M.Lepic et quelques réponses de M. Lepic à Poil de Carotte」の解説。 例によって、講義でのメモを残す。・「マチルド」では、少年の女子に対する意識・性の意識が描かれている。次の「金庫」も同様。・自然豊かで騒々しくなく、花々あふれる情景を描くところは、コレット Colette のような田園文学 littérature bucolique の性質が見える。・田舎の子供は、家畜などの生殖行為を幼い頃から目にしていることもあって、肉体的な交接の認識が幼い頃からある。男女間の愛情について認識するのは、それよりも後である。・田舎の子供は、都会の子供より男女の交わりの真実にショックを受けないのではないか。・「マチルド」に姉・エルネスチーヌが出てきており、マチルドとにんじんが戯れていることを母親に告げ口する。妬みによる行動と言える。・エルネスチーヌは、二人の弟のうち常にフェリックス(=にんじんの兄)の肩を持っていたが、「マチルド」ではそうではない。ただし、にんじんの肩を持つわけでもない。・「金庫」で、にんじんが「Lustucru」というキー・ワードを口にする。これは、「L'eusses-tu cru ?」をもじったものである。・「ブルータスのように」では、にんじんが古典を引用する場面がある。当時、学校でこうした古典が使用されていたが、国語・言語の教育としての意味に加え、道徳教育・啓蒙としての意味も付されていた。しかし、ダダイスムやシュールレアリスムの運動によって、その流れは変わった。・「にんじんからルピック氏への書簡数篇とルピック氏からにんじんへのいくつかの返信」には、にんじんの成熟が現れている。特に、“もの書き”としての才能を発揮しているところが見える。 この日の講義も約30分の延長。 11月25日(土)、12月2日(土)は休講。次回は、12月9日(土)。
2006.11.18
IFJTにて、R.先生の講義、第6回。 「ペン軸 Le Porte-plume」と「紅い頬っぺた Les Joues rouges」の解説。 例によって、講義でのメモをここに記すことにする。・『にんじん』の中で、ほぼ中間に当たる上記2つの部分は、教育機関に関わる事柄が書かれている。・にんじんとその兄のフェリックスが入れられていたのは、全寮制のサン・マルク塾 L'institution Saint-Marc。二人ともこの私塾から、授業を受けるためにリセへ通学した。・作者のルナールは1864年生まれで、政教分離・教育の世俗化といった社会風潮の中で成長した。・1905年の「政教分離法」は、上記の社会風潮の結果。それ以前にジュール・フェリー Jules Ferry(パリ市長、首相などを務めた政治家)が推進した施策のような例が多々あり、非宗教化が盛んに議論されていたのは明らか。・「ペン軸」の中には、健康的 hygiéniqueという言葉が見える。また、「赤い頬っぺた」では、サン・マルク塾で塾生たちが強制的に手を洗わされる場面がある。こうした健康・衛生の意識や規範は、19世紀後半になって出現・流行した。(*1)・医師でもあった作家・セリーヌ Louis-Ferdinand Célineは、衛生のために医療関係者が手を洗うべきと提唱し、同業者の間に議論を巻き起こしたことがあるらしい。衛生観念が一般化していなかった証左では。・「紅い頬っぺた」で登場するヴィオロヌがマルソーに接する態度は、少年愛 pédophilie 的なものである。前の部分である「ペン軸」では、父親の愛情を受けられず嫉妬しているが、この「紅い頬っぺた」では、肉親ではなく他人の愛情に関して嫉妬している。その嫉妬は、青年期に見られる男女の間柄にまつわるものとも違う。子供から青年への移行期にある、微妙な感情を描き出していると言える。・「赤い頬っぺた」は、3~4名の視点が入り混じる。また、はっきりした説明的なことは書かれていない。・にんじんのことが「生彩がなく貧相なピエロ Pierrot lymphatique et grêle」と書かれているが、ピエロ(*2)とは月のイメージがあり《陰・ネガティブ》といった性質である。一方、紅い頬っぺたでチヤホヤされるマルソーは《陽・ポジティブ》であり、赤毛で疎まれるにんじんとは正反対である。・サン・マルク塾の塾生たちは、冷たい水で顔や手をあらうことを強制されている。ここに、男らしさ・たくましさ virilitéが見受けられる。夜になると、ヴィオロヌがマルソーに見せるような愛情と好対照である。・にんじんが閉じ込められるのは、謹慎室 séquestreだが、窓はある。これよりも環境が厳しいのが、窓のない独房 cachot。(*1)アラン・コルバン Alain Corbinの『においの歴史 Le miasme et la jonquille』新評論 1988年(現在は藤原書店から刊行)に、衛生意識の高まりについて論じられた部分が多くある。(*2)R.先生が講義に持参したもの。志村けんの「バカ殿様」に似ているように思う… この日の講義も約30分の延長。 次回は、11月18日(土)。
2006.11.11
南木佳士『ふいに吹く風』 文春文庫 1996年。 昨晩、突然南木佳士さんの本が読みたくなった。 本棚の奥にある『ふいに吹く風』を取り出した。長くてもせいぜい10ページほどのエッセイが集められた文庫本である。寝転がって読むのには、最適な内容とサイズである。 この中に、かの『楢山節考』の作者・深沢七郎について書かれたものがある。 南木さんが医師として勤務している佐久総合病院に、深沢七郎が入院していたときのことが記されているのだ。 着ているものはシワだらけの寝巻きで、この病院 でよく目にする農家の老人風だったが、とにかく そのよく光る目にただ者ではない気配があった。 (南木佳士『ふいに吹く風』「人間・深沢七郎」 p.54) 私は、この部分が非常に好きである。実際に深沢七郎に会ったことなどもちろんないのだが、その実体を見事に描写しているように思えてしまう。 南木さんの本を読むのは久し振りだ、と思い、過去このブログに書いた記事を探してみた。 ざっと調べたところ、2005年5月20日、2005年4月3日、2005年1月25日に記録が残っていた。叔父が他界したことが発端となって、物事を重々しく感じていた時期だった。 今も、そんな時期なのだろうか。
2006.11.09
IFJTにて、R.先生の講義、第5回。 「水浴び Le Bain」と「アガト Agathe」の解説。 『にんじん』の講義で、R.先生が作品全体に共通する事柄として言及していることを、いくつかメモしておきたい。この作品に接する上で、役に立つかと思う。○主人公のにんじんは、少年時代のルナール自身がモデルとなっているが、話者は「私」という言い方をせず、客観的でもある。とはいえ視点としては、話者≒にんじんであり、自由間接話法 discours indirect libreとなっている。○ルピック家(にんじんの家庭)は、田舎のブルジョアと言える。ただし、女中さん(オノリーヌ→アガト)は一人だけであり、ブルジョアとしては高いレベルではない。○『にんじん』の登場人物は、それぞれに弱点や欠点がある。特定の人物だけが悪者として集中砲火を浴びるのではなく、均等さがあることによって、作品の良い雰囲気が醸し出されていると言える。○にんじんは、大人のふりをして家族の中でヒーローになりたがっている。いつも背伸びをしている。 さて、その他のメモも…・アガトは、ルピック家の食事の場で戸惑う。これは、ブルジョア的なルピック家の食事の仕方に慣れていないからである。・ルピック家の食事の場は、広い台所 grande cuisineである。もっと裕福な家では、これが食堂 salle à mangerになる。このあたりにも、田舎のレベルの高くないブルジョアの生活が表出している。・食事の場面は、ブルジョア的な生活様式を目指しならがも、どこかしっくりこない状況が見え隠れする。不適応、不適当 inadaptation, inadéquation なところが滑稽である。・「水浴び Le Bain」の中に、Veine !という表現がある。veineは、静脈(動脈はartère)や血管という意味で使われることが多いが、ここでは「やったぁ!」という意味。veineには鉱脈という意味もある。掘削しているうちに鉱脈にぶつかり、思わず喜びの声が出る…という感じ。 この日の講義も約30分の延長。 次回の講義は、11月11日(土)
2006.11.04
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