全11件 (11件中 1-11件目)
1
最近のテレビニュースで、ショッピングモールを女性が携帯電話で夢中にテキストを打ちながら歩いていて、気づかずに柵にぶち当たり浅いプールにはまってしまうシーンがあり、大笑いしました。車の運転のときだけでなく、こんな事故があるので、歩いている時もテキストしないようにと言うニュースだったのです。なんと驚いた事にこの女性、数日後にショッピングモールを相手取って訴訟をしたとのニュース。もう一つ、前回大統領候補でもあった議員が3年前に議員食堂で昼食の時に食べたオリーブに種が入っていてそれを噛んだため、歯が折れ、あごに怪我をしたと、3年後の今頃になって、$150、000の損害賠償を要求しています。 事故の数日後、彼は国会で大演説していて、その時のテレビ写真が写しだされたが、彼の訴えている痛みが全く見当たらない。この種の非常に信じられないほど馬鹿げた訴訟問題が毎日起こっています。以前アメリカはもっと自己責任を強調した国だったのですがね。
2011.01.29
コメント(8)

満月から2週間、今夜は半月です。夜明けと朝早くに見たお月さんです。
2011.01.26
コメント(2)

今朝、ファーマーズ マーケットで買った大根、$1.75.$1=80円換算で、わずか140円です。メチャクチャ大きくて、重くて、安い。 大きさが良く分かるように玉子を横に置いて写真撮影。チェラモヤ、カリフラワーも今がシーズンのようでたくさん並んでいた。
2011.01.22
コメント(6)

カレンダーによれば、19日が満月。18日に見た月も、19日の月も、そして20日の朝見た月もまんまる。満月を3日間も見て、なんだか得したような気持ちになった。
2011.01.20
コメント(4)

太平洋戦争直後の日系アメリカ人の苦労されたほんの一部をブロッグに書きましたが、彼等の並大抵でない苦労は簡単に文章で表すことはできません。私の周りにはいろいろな人種の人がいますが、自分が日本人であるという特に強い意識を持って日常生活を送ってはいません。もちろん、日本人である誇りはあります。過去に日系人が培ってくれた、「日本人は勤勉だ、清潔だ、礼儀正しい、信用できる」などの評判のお陰で私自身も何度か恩恵を受けた事があり、感謝しています。 世界は今や、経済的、政治的、文化的、そして社会的にも各国々が密接に関連し合っているので、日本だとかアジアだとかの範囲だけの考え方だけでは生きていけません。各国の持つ文化、伝統は大切で尊重すべきですが、全体的な調和も必要です。世界中の人々がもっともっと理解を深め、お互いに助け合っていくことが大切です。世界中から貧困と無知が無くならなければ平和な世界は望めません。たとえ少しでも良いから私達も世界平和のために貢献しようではありませんか。まず、身近な所から、親切、優しい気持ちの輪を広げて行きたいと思っています。
2011.01.17
コメント(2)

今でも映画や本で語り継がれている442部隊 "go for broke" (当たって砕けろ)はアメリカ陸軍史上でもっとも多くの勲章を受けた日系人志願兵部隊である。トルーマン大統領がこの部隊に感謝状を渡す時言った言葉は、"You fought not only the enemy, but you fought prejudice and won"今の我々では想像できないような人種差別と戦いながら、日本人だが、アメリカ国民であると、その忠誠心を示すために自らが犠牲になって志願したわけですが、たいへん、複雑な気持ちだったにちがいありません。この勇敢な部隊の逸話の一つ、ドイツ軍に包囲されて食料も弾薬も底をつかい果たし、孤立していたテキサス部隊(lost battalion )を5日間の壮烈な戦いで、442部隊は882名の死傷者をだしながらも、211名のテキサス部隊を無事救出しました。この話はいまでも陸軍学校の歴史で教えられているそうです。亡くなった親戚の人が、442部隊の一員でイタリア、フランスで戦闘経験をしました。銃弾で傷を負いパープルハート勲章をもらったのを見せてくれました。彼は戦場でのとても寒く、霧が深かいぬかるみを行進した話はしてくれましたが、戦闘そのものの話はほとんどしませんでした。きっと、たくさんの亡くなった戦友のことを思い出したくなかったのでしょう。去年の軍隊記念日のパレードに442部隊も参加、彼等が近づいてきた時、観衆から大きな歓声が湧きおこり、思わず胸があつくなりました。
2011.01.15
コメント(2)

マンザナーはロスアンジェルスから北へ370kmシェラネヴァダ山脈のふもとにあり、カリフォーニアの強制収容所の一つがここにあった。夏は暑く、冬は寒く、常に強い風が吹く沙漠状態のこの土地に粗末に作られたバラックで11,000人の日系人が過酷な生活を強いられた。今はNational Historic Landmarkとして博物館になっている。5年前、ヨセミテ公園に行く途中に訪れた時、全収容者の名前の記録の中にワイフの今は亡き叔母さんの名前を見つけ、胸をつまらせたことを今でも覚えている。冬には雪に覆われる美しいシェラネヴァダの山、周りには人家も無く、シーンとした静寂さ、風が吹くたびに砂ぼこりが舞い上がり、その時々うなるように聞こえる風の音がとても不気味に感じる。生きている時、叔母さんは収容所生活の事をあまり語らなかったが、たいへん厳しい環境で苦労したに違いない。続く
2011.01.13
コメント(4)
太平洋戦争中のアメリカに住んでいた日系人が様々な苦労をした体験記は本や映画で専門家の方々が詳しく紹介されているので、私のような知識の無い物がこの件に関して書くのは気が引けるが、簡単に概要だけお伝えします。今から約70年前、正確には1942年、太平洋戦争が始まった直後当時アメリカ本土に住んでいた日系人約120,000人がアメリカ政府の命令でカリフォーニア、アリゾナ、コロラド、ワイオミング、アイダホ、ユタ、アーカンサス州の10ヶ所の容所に戦争が終わる1945年までの4年間強制的に収容させられた。政府の急な立ち退き命令で、わずかの見回り品だけ所持する事を許されために、ほとんどの人は、ほぼ全財産を無くす結果になった。ハワイには当時、約150,000人の日系人が住んでいたが、ハワイ全人口の1/3を占める日系人を全員強制疎開するのは到底無理、その上ハワイの経済は日系人で支えられていたので、一部の人(約1,200人-1,800人)を除いてハワイでは強制収容は行われなかった。収容所は粗末に作られていて、狭くてプライバシーもほとんど無く、機関銃を持った兵隊の監視塔があり、鉄条網に囲まれていた。ダウンタウンロスアンジェルのリトル東京にJapanese American National Museumがあり、そこを訪れると強制収容所のバラックの復元した物、写真や資料の展示があり、時の収容所生活がいかに悲惨であったかが想像できる。続く
2011.01.12
コメント(6)

ここしばらくの間、天気が良くなかったのですが、ようやく今日は、南カリフォーニィアらしい太陽が出てきてくれました。
2011.01.11
コメント(4)
コンピューターが故障していました。 今日、やっと直ってきたのですが、ちょっとだけ前に比べて使い勝手が違います。 しばらくの間、慣れるまでちょっとたいへんだ。
2011.01.10
コメント(6)

毎年、お正月はワイフの実家で家族、友人が集まってディナーを食べます。初詣なんかは無く(当たり前だが)、テレビは, (東海岸と西海岸は3時間の時差があるため)一日中各地でのパレード、フットボールをやっていて、多くの人々は、チップスを食べながら、ビールを飲んで、アメリカで一番の人気スポーツのフットボールの観戦で一日を過ごします。 ディナーはおせち料理プラス通常のパーティー料理です。実の所、私は正式なおせち料理が何であるかも知らないのですが。くろまめ、たつくり、鯛、かまぼこ、数の子等はほとんど手がつかずにのまま、スペアリブ、チキンのから揚げ、スプリングロール、スパムおむすび、サラダ類に人気があります。今年はたまたま2日は日曜日で休みですが、そうでない時はほとんどのビジネスは2日から通常通りの営業開始です。
2011.01.02
コメント(4)
全11件 (11件中 1-11件目)
1

![]()
