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カテゴリ: 本作り
つづきの原稿をアップします。


《迷い》

電話を切って、窓辺へと向かった。カーテンの隙間から見える青い空には、雲がゆったり動いていた。カーテンを引きなおして、もとの仕事を続行しようとした。眩しさはなくなったものの、私は落ち着きを取り戻すことができずにいた。さっき飲み込んだ言葉を何度も繰り返していた。「なぜ私に。堂領さんはなぜ私に電話してきたのだろうか」ボランティア登録した人は他にもいたはずだ。他の人に電話していれば、もうその人が引き受けたかもしれないのに。音楽の先生でもないのに、一体誰にこの話を持っていけばいいのだろう。彼女は私にどこまでを期待しているのだろう。

「好きな音楽で役に立てば」と確かに思っている。いくら社会的に意義のあることでも、「好きでもないことを無理してやっても長続きするはずがない」とも。実にわがままな願望だ。好きなことをやったうえに、ありがとうと言ってもらえることを望んでいる。しかし、だからといって私にどんなことができるのだろう、好きな音楽で役に立つなんて。具体的なイメージは湧いてこない。

歌は好きだ、確かに。子どもの頃から人前で歌うのが好きだった。私の生まれは静岡市。実家は袋物の製造業を営んでいた。居住スペースの他に、ハンドバッグや財布を作る作業場があった。そこは、牛革だけでなく豚やワニや蜥蜴や蛇や亀の皮でいつもごった返し、独特の匂いが充満していた。父や職人さんたちの仕事を見たり会話を聞いたりするのが好きだったから、幼少の私は作業場にいることが多かった。朝から晩までラジオが流れ、音楽やドラマや落語はそのラジオから私に入ってきた。夜になると、父から作業台の上に乗せられ、よく歌わされた。80センチ程の高さでも子どもにとっては十分高く感じた。作業台の上で歌うといつもの世界ががらりと変わった。注目されることの快感があった。

物真似も大好き。美空ひばりや島倉千代子、犬、猫、はたまた楽器の音にいたるまで、声で真似してテープレコーダーに吹き込んで遊んでいた小学生時代。中学・高校・大学と混声合唱を楽しんだ。大学時代はフォーク全盛期。友だちから手ほどきを受けたギターで、弾き語りなんかを暇さえあればしていた。浅川マキ・加川良・五つの赤い風船・井上陽水。当時これが愛唱歌だった。自分で楽しむだけという程度の音楽のレベル。ギターの弾き語りなんて聞こえはいいが、数個のコードを知っているだけだ。とても一人でコンサートを開くような力量は持ち合わせていない。この程度でできることなんてたかが知れている。とても音楽を教える立場の人間ではないのだ。

それに教えることができるような人と親しく付き合っているわけでもない。わが子が小中学校時代にお世話になった音楽の先生の顔が浮かぶ。今どこで何をしていらっしゃるのだろう。連絡が取れたとしても、私の話に果たして耳を傾けてくださるだろうか。では他にだれが。音楽関係の知り合いの顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えた。頭の中で、その人たちに相談に行くシミュレーションをする。すると、一人がこう言う。「私にはできない」もう一人が言う。「いいよ。でも、あなたが手伝ってくれたらね」。想像の中でさえ、誰一人、「私に任せなさい」とは言ってくれない。その人たちも私と同様に、たくさんの仕事を抱えているからだ。軽率にボランティア登録をしてしまったことを、私は後悔し始めていた。

では、引き受ければいいではないか。いや、だめだ。私の指導がでたらめだったら、その子が楽しんでくれなかったら、伸びなかったら、私のせいになる。指導の違いで雲泥の差がつくと言われる芸術教育の世界だ。ちょっと関わってダメだったら、「ごめんなさい、できません」では、却って迷惑がかかる。次に引き受けてくれる人が簡単に見つかるだろうか。もし見つかったとしても、その人はやりにくくなるかもしれない。後任は難しいのものと聞く。悪い指導によって付着してしまった癖を取り除くところから始めないといけないから。

それにもし自分が引き受けたとしたら、自分の時間のどこかを削らなくてはならない。先ずは私の仕事。月曜日と木曜日の週二日は仕事の日だ。教室日以外にも教室経営のための雑多な仕事がある。水曜日には公文の研修も入る。最低限、仕事の時間は確保しなければならない。それに私の趣味。自慢する必要は無いのだが、多趣味の私。数年前から始めた油絵、これが月に2回、水曜日の夜。その他、市の美術展に出品する大きな作品を年に一枚仕上げることを自分に課している。それから音楽だ。カラオケでは、他人が歌えるのに自分が歌えないのが口惜しい、かなりの負けず嫌い。若ぶっているとどんなに非難されても、女子高生が歌うような歌を歌いたい。こだわりがエスカレートした結果、カラオケでは満足できなくなり、オリジナル曲作りをしている。そのための作詞、CD作り。どれも削りたくないものだ。パソコンもやりだすと夢中になってしまうから、気がつくと朝だったなんてこともざらにある。一日が二十四時間しかないことに不満を抱えて生きている。こんな生活のどこをどう調整したらいいのだろうか。



私のマイナス思考は果てしなく続くように思えた。引き受けた時の失敗だけしか想像できなかった。想像の世界の私は暗く、もうこれ以上のダメージはないというほど疲れきっていた。ああ、もう考えまい。仕事に集中するのだ。運よく子どもたちの声が玄関に響いた。私は急に背負わされた重荷を忘れるために、仕事の中へと没頭していった。







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最終更新日  2006年01月22日 17時03分19秒
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