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最近の反省から・・・・つきっきり、すぐそばにいる状態はあまりよくない。 →「離れて」支援、「離れて」指導△すぐそばにいると・・・ ・意図しない甘えを誘発 ・叱るときに、指導が入らない○「待ち」の姿勢 =手を出さなければ、自分で何とかしようとする。・親や教師がすぐそばにいると、周囲の友だちが大人に対応を任せてしまう。 離れて見ていると、子どものことは子ども同士で何とかしようとする。 距離が近すぎて反省することがあったので、ここにメモとして残しておきます。(^^;)もちろん、指導の時期や子どもの状態によって変わります。ただ、教師や親は「自分がいるからその子がちゃんとする」状態を望んでいるのでなく、「自分で何とかしようとしたり、子どもたち同士で何とかしようとする」状態をより望んでいるはずです。上位として目指すものをはっきりさせておかないと、教師や親の自己満足で、子どもの成長には結びついていないということが起こりえます。と、そういうことを反省したので書いてみたのでした~。(^^;)
2007.02.27
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土曜日は、「進路交流会」がありました。障害のある子の進路のことを中心に、いろいろご存知の方からたくさんのことをお聞きできました。講師は神戸の垂水養護学校に勤務されていた佐藤こうじゅん先生です。現在の「障害児教育」は日本全体で言うとまだまだインクルーシブ(直訳すると「包み込む」。エクスクルーシブ(排除する、のけ者にする)の反対)には程遠いですが、講師の方の・通常学級から取り出して、先生がマンツーマンで教えると、確かに力はつく。 しかし、「マンツーマンでないとできなくなる」 という習慣がついてしまう危険がある。 将来の保証を考えたとき、それでいいのか。という言葉に、「インクルーシブ教育」(通常学級で他の子と同じように障害のある子も一緒に学ぶことを基本とする教育)の必要性を改めて確認しました。障害のある子の受け入れに関しては、公立高校での受け入れが依然としてきびしいという話です。講師の方は・「障害のある子がいなくて当たり前」の環境でやっているから、 高校の教師の抵抗は非常に大きい。 受け入れてはじめてわかるんや。 まずは受け入れてみい、と言いたい。と言われていました。いろいろと壁はありますが、徐々に突き崩していきたいと私も思っております。なお、知らなかったのですが障害のある子の家庭のための「支援費制度」というものが近年はじまったそうで、登録すれば補助金が下りたり行政サービスが受けられたりメリットがあるそうです。デメリットはそんなにないそうなので、ご存じなかった方で当てはまりそうな方は、一度調べてみてはいかがでしょうか。
2006.12.10
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先週NHKで放送されたETVワイド・ともに生きるhttp://www.nhk.or.jp/heart-net/wide/の録画を見ました。3時間番組の前半を見終わったところですが、「障害者自立支援法」のことが具体的に日常生活にどうかかわってくるかがわかり、勉強になりました。この法律は2006年10月、つまり今年の10月には本格実施されているらしいのですが、障害当事者からの反対運動が大きく、施行すぐですでに見直しが検討されています。 「自立支援法」というといかにもいいことのような気がするネーミングですが、問題視されているのは「障害者が生活補助を受けるなどのサービスを受けるときにそのサービスに応じて相応のお金を払うべきである」という部分です。重度障害で多くの補助を受けなければ、起きたり、歯を磨いたり、食べたりといった最低限の生活がおこなえない人に対して、それはサービスだからと、一般人であれば全然払う必要がないお金をサービス料ということで払わなければならない。今までならば働いてもらっているお給料に応じて、たくさん稼いでいる人は多く払うが、働けない、お給料がもらえないといった人はわずかでよかったのに、「収入に応じて払う」システムから「受けるサービスに応じて払う」システムに変わったということです。ほかにもいろいろと周辺的な問題は出てきているようです。「国にお金がないから」という理由で経費削減のために実施されたとすれば許せない話です。今後の改正を強く望みます。
2006.12.08
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どうやらこの1週間は全国的に「障害者週間」のようです。こういう機会も生かして、「みんなですすめていく特別支援」をやっていきたいなと思います。勤務校の職員向けに、内閣府ホームページ「障害者施策の意識啓発」からの抜粋を、参考資料をつくりました。内閣府ホームページでは、なかなか参考になる情報がまとめられています。(ちょっとかしこまっていて字が多いのであまり読む気がしないのが難点ですが(^^;))その参考になる情報からさらに抜粋して、ご紹介します。===============================(基本情報) 障害者基本法 (平成16年6月改正)第7条 国民の間に広く障害者の福祉についての関心と理解を深めるとともに、 障害者が社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に積極的に参加する意欲を高めるため、障害者週間を設ける。 2 障害者週間は、12月3日から12月9日までの1週間とする。 3 国及び地方公共団体は、障害者週間の趣旨にふさわしい事業を実施するよう努めなければならない。 ===============================「障害者週間」については、学校への告知はあまりされてないような気がしますが、地方公共団体の広報紙などではふれられていました。(^^) ===============================以下出典: 内閣府ホームページ「障害者施策の意識啓発」よりhttp://www8.cao.go.jp/shougai/kou-kei/index-kk.html#sokusin○「障害について知ってほしいこと」の主な内容1) 障害は誰にも生じ得る身近なもの障害は本人や家族の責任で生じるものではない。2) 障害は多種多様で同じ障害でも一律ではない中途の聴覚障害や視覚障害では手話や点字ができない者も多い。3) 外見では分からない障害もある聴覚障害、内部障害、精神障害、発達障害では、外見上障害があることが分からないため、誤解されやすい。4) 不自由はあるが周囲の理解や配慮があればできることが多い障害のあることは「不自由」だが「不幸」ではない。(以下 略)=================================私としては、特に上の4番の「周囲の理解や配慮」について、この機会に教師間や子どもたちのあいだでいろいろ話し合ってもらえればと思っています。内閣府が昨年おこなった「障害当事者」からのアンケート結果より、当事者が願っている「必要な配慮の例」を挙げておきます。===============================『「障害のある当事者からのメッセージ」の意見募集結果』で当事者から多かった意見 (子どもにもわかりやすそうな部分を抜粋)視覚障害(205人)からのアンケート結果・障害について 2位 「エレベーターが止まった時に何階なのか分からない」(86.3%)・必要な配慮 3位 「点字ブロック上に自転車を駐輪するなど歩行を妨げないで」(90.2%)===============================エレベーターで「3階です」とかわざわざ音声で知らせてくれるのにはちゃんと意味があって、あれを言ってもらえないと、いったい何階なのか全然わかりようがない、知るすべがない人たちがいるということです。そういうことは自分が困る立場に立っていなければなかなか気づかないことなので、そういったことを知ることはたいへん大切かと思います。=================================知的障害(49人)からのアンケート結果・共通事項(特徴)「障害は本人や家族の責任で生じるものではない」(73.5%)、「目が悪くなれば眼鏡をかけるように、 不自由さを補う道具や援助があればできることは多い」(65.3%)・障害の内容 1位 「抽象的な概念が理解しにくい」(81.6%) 2位 「自分の意思を表現したり、質問したりすることが苦手」(79.6%) 3位 「理解したり判断することが苦手」(77.6%) 4位 「知的障害者は何もできない人ではなく、 的確なサポートがないためにできないでいるだけ」(73.5%)・必要な配慮 1位 「分かりやすい言葉でゆっくり話して」(79.6%) 3位 「抽象的な概念ではなく、絵や図を使って具体的に分かりやすく説明して」(71.4%)発達障害(255人)からのアンケート結果・障害の内容 1位 「全国に6.3%いると言われながら十分な理解と支援をなかなか受けられていないLD(学習障害)、ADHD(注意欠陥/多動性障害)、アスペルガー、高機能自閉症などの軽度発達障害者の存在」(85.9%) 2位 「外見では分かりにくいため「態度が悪い」「親の躾が悪い」などと批判されやすい」(83.9%) 3位 「人の表情態度や裏表が読み取れず、的確な状況判断ができない」(73.7%) 4位 「普通の人のようにやらなくてはと思いつつも、そうできないことに苦しんでいる」(70.6%)・必要な配慮 1位 「教え方や学習の仕方をきめ細かくすることで克服できる部分が多い」(81.6%) 2位 「視覚的なサポートがあると理解しやすい」(65.9%)===============================こうやって、どんなことで困っているのか、何をすればいいのかがわかれば、周囲にできることはたくさんあるし、また「できること」を探すこともできると思います。まずは知ることから。このブログを読んで知っていただいて、ありがとうございました。
2006.12.06
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今日は敬老の日です。というわけで、今日こそふれねばなるまい、講談社イブニングKCコミックス『ヘルプマン!』(くさか里樹)の話です。これは、老人介護をリアルに描いた福祉マンガです。といっても堅苦しかったりまじめなものではなく、老人介護をラクに考えられるようになったり、「介護」ってこうなんだーという視野がひらけます。(決して「介護」自体がラクなわけではありません。 それはこのマンガの事例を見ればよくわかります。 ただ、その中でも、ラクな接し方・考え方というのが見えてきます。 「何でこんなことするのか理解できない」というのが、 「そうだったのね」と気楽に分かることもある、というか、 一生懸命やりゃあええっちゅうもんやない、というか。)また、「介護」者の苦労、「介護」される側の心情もよくわかります。今まで自由に動いた自分の体が動かない、排泄を見ず知らずのヘルパーのお世話になる、そんな人の気持ちが判りますか?このような立場には、いずれだれもが立たされる可能性があるものです。そういったことを普段考えないからこそ、マンガで知ることには意味があると思います。おすすめです。ぜひ手にとって読んでみてください。このマンガ第1巻の巻末に、「介護の”介”は媒介の介」と題したコラムが載っています。引用============================・介護の"介"は媒介の介だ。 老人が主人公になるために自分を媒介、つまり、きっかけにする技術なのだ。・医療や看護がどうしても人間を一方的な治療の対象に見てしまうのに対して、 介護は自分自身を「杖」や「手すり」にするのだ。・介護の介は介入の介ではない。 もちろん、お節介の介でもないのだ。~文:三好春樹(生活とリハビリ研究所代表・理学療法士)===========================マンガの中で描かれる具体的なエピソードに触れると特に思いますが、「これって、教育も同じだよな」と思います。自立するのはあくまで本人であって、大人がムリヤリ自立させるのではない。自分を媒介として、本人がやる気を出し、がんばってやっていこうとするのを助ける役割でしかないのだ!そういうわけで、「介」護の精神と、教育の精神、けっこう似ているんだ、というのがこの本を読んでの発見でした。決して「できないことを代わりにする」のだけが「介護」ではないのですよ。主人公がさけぶ「いい思いできねェんなら生きてる甲斐がない!!」という言葉は、本人の「生きている甲斐」なんて思いも及ばない周辺介助者の心に突き刺さります。つまるところ、○○ができなかったって、××ができなかったって、人間だもの、生きているんだもの、生きていることを喜びたいよねえ。「ヘルプマン!」アマゾンの評価でも5つ星の連続です。検索して読んでみてね。
2006.09.18
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これは前の姫路であった兵庫県の障害児教育の大会での資料のまとめです。明日、職員に「特別支援」の話をするにあたり、参考になるかと思い補足資料として今まとめました。わかりやすい資料になっているでしょうか?特別支援教育 補足資料(2006/8)(県の施策)•・ 学校生活支援教員配置事業 県に10名(南阪神地区に1名)の加配•・ 就学サポート連携推進事業: 福祉関係機関や、私立の幼・保との連携を図る•・ スクールアシスタント配置事業•・ LD・ADHD等に関する相談・支援事業 (電話・面接相談/LD等巡回教育相談)(子どもの特性理解について)•・ 認知の偏り (視覚認知/聴覚認知)◇ 教師自身が「よく見てもわかりにくい」という体験をすることで、子どもの「障害」の理解につながる。(例)読めますか?「よく見なさい」という指示では、見えるようにならない。具体的支援が必要たとえば 必要な情報だけをワクで囲う具体的支援の方向性⇒ 図と地の弁別をサポートする※いくら知的に高くても、認識できていない場合がある。(認知がゆがむ/かたよる、必要なところだけ選択できない /向きのちがいがわからない 等)•・ 特別支援の考え方で行けば・・・△ クラス全員同じマス目のノートを使う○ その子に応じたマス目のノートを使う
2006.08.29
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『普通学級での障害児教育』藤田 修 編著(1998、明石書店)には、「共生教育」、「原学級保障」についての情報が詳しく載っていました。他の方にも知ってもらいたいと思い、要点のレポートをまとめています。今回は2章の前半の内容を。この中でふれられている大変うらやましい制度は「二重在籍制度」です。現状、障害児教育に割ける人員は多くありません。普通に考えてそばでつきっきりで人がつかないと周囲や本人の安全確保も図れない、という場合であっても、申請すれば職員が一人つくわけではないのです。養護学校であれば手厚いようですが、地域の普通校では障害児学級担任が、学級内の複数の子どもを1人で見ています。「担任」は「障担」1人であり、交流に行っている○年○組の先生は制度上は「担任」ではありません。校内に在籍する障害児籍の子が多くなればなるほど「障担」1人では見切れなくなりますが、制度上は「それでも担任が見なさいよ」と言っています。しかし実情としては1人では見切れないので他の職員の「助けを借りて」なんとかやっています。「二重在籍制度」は、「障害児学級」1つに障害児学級担任がつくという制度と、普通学級は40人まででそのなかには「障害児」は別籍として含まないという制度のなかで、「原学級保障」を実態と進めていく以上、両方に籍を含め、両方でケアできるというメリットがあります。(特に職員の責任意識において)また、形だけ普通学級に入れていても結局「籍」つまり所属は別、というのは「障害児」を分ける差別である、という指摘は、学校に携わるものは(賛成できなくても)心に留めておくべき考え方であると思います。制度が分けることになってるからしかたない、ではなく、制度は変えていけるものである、という前提に立ちたいですね。(そういう面で、大阪は制度をはっきりと変えてきた経緯があるので、 そのことを知ることは大変勇気付けられます。)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~2章 「共に学ぶ教育」とは (藤田 修) 要点(にかとま選)•・ 全国的には点の運動にすぎない原学級保障の取り組みが、大阪では面ないし線の広がりでおこなわれている。•・ 最も早くから取り組まれ、最も広範におこなわれているのが大阪 1 統合教育への転換•・ 世界の障害児教育政策は、1970年代に入って分離から統合へと大きな変換をみた。•・ (日本)1969 研究調査協力者会議報告「可能な限り普通児と共に教育を受ける機会を多くし、普通児の教育からことさらに遊離しないようにすることが必要である」•・ (イタリア)1977 「第517法」障害児のための特別な学校は法律上廃止。統合教育導入に向けてきわめて具体的な制度保障へ。•・ 1981 国際障害者年 スローガンは「完全参加と平等」•・ (ユネスコ)1994 「サラマンカ宣言」「特別ニーズ教育に関する世界会議」で採択されたもの•※ インクルーシブな方向性を持つ学校こそが、差別的な態度と戦い、喜んで受け入れられる地域を創り、インクルーシブな社会を建設し、万人のための教育を達成するための最も効果的な手段である。 (大阪での経緯)•1955 二重在籍制度 はじまる•※ 「障害」児は普通学級の定員でもカウントし、障害児学級の定員数でもカウントする。 普通学級の出席簿にほかの子と同じように名前があるだけで、普通学級担任=原学級担任に最初から担任としての責任が明確化される。1967全国障害者問題研究会(全障研)結成1973頃~ 15教組障害児教育部会スローガン「地域校区で『障害』児の教育を保障しよう」○「障害」児がいればその子を含めたなかでの教育を学校全体で考えていくべきだ!○ 学校の条件が整っていないという理由で養護学校に振り分けない! (日本全体で)70年代半ば頃から、分離教育反対運動が高まる。•1976 全国障害者解放運動連絡会議(全障連) 結成(脳性マヒ障害児の地域の小学校への転校を求める運動を展開)•1979 養護学校義務化 → 分けることに対する問題提起ともなる1990 日教組から全教が離脱(大阪、兵庫、神奈川など「共に学ぶ教育」を先進的に取り組んでいた府県や東京の活動家が日教組執行部を突き上げる形で、方針転換を実現) 2 原学級でめざすもの•・ 1日2~3時間では見えてこない。1日の半分もいっしょにいない関係では「障害」児はお客さんになってしまう。•・ 1日中いるとなると、いろいろな問題が表面化してくる。まず隣の席の児童生徒の態度が変わる。当然、その子の親もである。•・ 原学級保障は決してバラ色ではない。「障害」者問題がダイレクトに出てくる。だから良い。•・ 普通学級に「障害」児が加わることで変わらざるを得ないところが少なからず出てくる。「障害」児が普通学級にどの程度時間的にいるか、本籍はどこかというような点が重要なのである。•・ 原学級の都合に合わせて参加するのであれば、「分ける」という差別を前提にした教育を認めることになる。 <原学級保障のねらい>=共に助け合い生きていく術を学ばせること•・ 教育が一方的に与えられるものでなく、子どもの実態に応じた中からつくりだされるものにしなければならない。→ 制度として助け合う社会を構築すること•・ 原学級でめざすものは、共生社会での生き方を学ぶこと•・ 共生の教育は、人間に合わせて学校がつくられる教育 3 生きる力とは何か•・ Kさんの例:「怒ってる?」「おなかすいた」「おうち帰る」の3つの言葉でしたたかに生きていく能力を持っている。•・ 生きていく術=「健常」者と付き合う方法•・ 普通、人は他人との付き合い方を教えてもらって学んではいない。仲良くしたり、けんかをしたりしながら自分で習得していくもの。•・ 「ままごと」のような疑似体験では、「生きる力」は身につかない。学校生活の間だけで経験できることもしれている。焦らず、大胆かつ繊細に人間同士の付き合い方を考えてみたい。 4 「障害」児にとって学力とは•・ 「サラマンカ宣言」(1994)のなかの教育課程についての記述(↑ここの中身は大変大切なところで、山ほど線を引いたので とても書ききれません! そんなわけで、またまたつづきます。)普通学級での障害児教育 著者:藤田修 出版社:明石書店 サイズ:単行本/216p発行年月:1998年06月【目次】序 教育思想が問われる/第1章 論争「普通学級での障害児教育」/第2章 「共に学ぶ教育」とは-大阪の「共に学ぶ教育」その現状と課題/第3章 仲間と共に/第4章 みんながいきいきできる授業を-枚方市立枚方第二小学校の試み
2006.07.28
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今日は勤務先A市の進路交流会がありました。主として障害児学級籍の子の親や、関係する教師が集まり、いろいろなことを勉強したり交流したりする場です。学校の悪口とかも平気で言える会なので、そういう会が持てること自体、すごくいいことだなーと思います。(親も教師も本音で語り合ってなんぼなので。)さて、このあいだから読み続けていた『普通学級での障害児教育』をようやく今日読み終えました。知らないことや知りたかったことが書いてあり、大変勉強になりました。この中に書いてあることはひろくみなさんに知っていただきたいことなので、今レポートにまとめる作業をしています。とりあえず1章までの内容を自分なりにまとめてみました。(自分の判断で記述を拾っているので、誤解も生みやすいかと思います。 内容で気になるところがある場合は必ず原典をお読みください。) 『普通学級での障害児教育』藤田 修 編著(1998、明石書店) 読書メモ 本書のポイントは、最後のあとがきの部分に端的に示されています。本屋でみつけられた際は、まずあとがきのp209をごらんください。 (序:堀 智晴)•・ これまでの教育を前提として教育実践を推進することのおかしさ(これまでの教育に関する常識) ↑ ↓•・ 個人学習とグループ学習と集団学習とを柔軟に組み合わせるような学習形態•・ 障害児を含む普通学級での実践の持つ面白さ「ノウハウといったものは、一度剥がしてしまわないと重いといわれる子ほど対応できない」 教育しようとすればするほど子どもが学びたくなくなるという教育の根本問題教員の知らない世界が子どもたちの間に豊かに隠されているという事実(一言で説明のしようもない子ども同士の面白い関係) (論争「普通学級での障害児教育」宮崎隆太郎 VS 山口正和) (宮崎)いきいきする状況を作ってほしい・養護学校はあたりはずれがない。 (←後に山口「それは知らないだけ」と反論あり)校区の学校の普通学級に行くと当たりはずれがひどい。・問われているのは「障害」児の問題ではなくて普通教育そのものであり、「健常」児の問題ではないのか。すべての「健常」児がいきいきとできる授業を目指すことで、はじめて「障害」児もいきいきするのだ。・「障害」児のそばに身をおいている教師が授業づくりにどんどん発言していくことが大切。・クラスの子どもたちに対してもはっきりと話をするべき。 (山口)分けないことが第一歩・いろいろなことが起こるのです。僕はだからいいと思うのです。・みんなといっしょだと結構いろいろなことができます。「最重度」やといわれているような子が来ても、僕の経験ではできると思います。•・ 自分のクラスが運動会でよう走る子ばかり集まって、一等賞になるよりもずっといいもんです。 •・ できるようにすることばかり考えて結局は追い詰められているのは子どもだ。•・ 何かを教えたり、何かを分からせようとするために教師がそこを抜き出すということは、子どもたちにどのような理屈をつけてみたところでごまかしではないでしょうか。•・ 「どこどこの教室でしっかり勉強してくるからね」と言って、実際はいい加減なやり方をしている人がいっぱいいるわけでして、そのような偽善的なことは違うなと思います。 (宮崎)「抜き出し指導はやむをえぬか」•・ 現実の問題とてやむをえないことであったとしても、それは教師側の都合でしかない。それは明らかに教師の都合でやるのだということを認めよう。教師たちの中で論議して、なぜそうしなければならないかをかなりきびしく突き合わせなあかん。•・ 「共に学ぶ教育」というなかで教師自身が本当に手を汚すということをしていないのではないか。子ども達は「本当に自分たちの大事な部分ではあの人達とかかわらなくてもいいんだ」みたいに、「手を汚さない付き合い方」というのをむしろ大人の生き方から、教師の生き方から学んでいっているような気がする。「共に」が「生活」の問題につながっていかない。問われているのは私達の日常だ。•・ 毎日毎日、毎時間毎時間の授業の中でちょっとしたさりげないところで障害のある人たちをも必ず巻き込んでいく取り組み、そういう人たちの思いを大事にした取り組み、そういうことが今問われている。 (山口)•・ 養護学校はシャバの風が吹いていない。閉ざされたところ。何してるか分からない恐ろしさを感じてしまう。「原学級保障のあいまいさ」•・ 「障害」のある子がそこにいないとわからない。どこかに抜き出している限りそれは見えない。やっぱり分けないことが大前提で、そこで起こってくるいろいろなことをみんなで解決していきたいなあと思っているんです。•・ 「共にする」というのは、それが当たり前だからするのであって、何か効果があるからするのではないのです。•・ こっちがその子の言おうとしていることを「言葉じゃない言語」でわかるっていうのは、いっしょに生活していればあることですよね。•・ 障害のある子がいることを前提とした学級とか学校とか都市といったものになっていくのが筋だと思います。 (宮崎)「受験」•・ 公立高校に入ったというのはほとんど定員割れがあったから入れるわけです。•・ 親子の関係で勉強を教えようとすると、教師という他人、馴れ合いがない人間が子どもに教えるのと全然違う。親が勉強を教えるというのは、これは非常に難しい。•・ 「この子はこんな程度のものや」という中学校の教師の決めつけがある。いろいろやってみないことにはわからない。•・ 私たちは何だかんだと言いながら、障害を持った人をオモテ面だけで決めつけてしまう。いろいろ試してみようということもなく、その人たちの内面すら見ることもないままに、一方的に教師の判断で終わってしまっている。•・ たかが文字や数をちょっと教える程度のことで、なんでそんなに大仰な話になるのか。障害を持った子にもちょっと勉強を教えたってくれ、というそんな親の思いを受け止めるなんてことは当たり前であって、なんで、「障害」児のことに関してだけそんなにたいそうに身構えて、考え込んでしまうのか。親は、そんなたいそうなことは思ってないと思うのです。 (藤田)まとめ•・ 絶対正しいというようなものがないということ•・ ある人が考えた教育のやり方というものが絶対と思ってやっても、ある子どもにとってはつまらなかったり、別の子どもにとってはすばらしかったりする。教育には絶対というものがない。私達の考えがこうあるべきだと凝り固まってしまった時には、道を外れてしまう可能性がある。•・ 相反する部分があるということ•・ 大胆でかつ繊細でなければならない。•・ 楽天的であって、センシティブでなければならない。•・ その子の持っている思いは非常にセンシティブに受け止めなあかん部分がある。 (宮崎)補筆•・ クラスの子どもたちみんなにとって、楽しくて、いきいきできる授業をつくりだしてこそ、「障害」児もいきいきできる--この方向性を持って、普通学級の授業を考えていく。 (山口)補筆•・ 分けないことが前提でさえあれば、無視したり、特別扱いしない限り、それぞれのやり方でやっていけば良いというのが私の考え方である。「たかが文字や漢字を教えるその程度のこと」をどうこう言うつもりは毛頭ない。だが「たかがその程度のことで」子ども達を分ける(抽出する)というのなら見過ごしにはできない。•・ 「あるべき障害児像」を最も忌み嫌ったはずの宮崎さんが、なぜ教師たちには「あるべき教師像」を求め、苛立つのか。•・ 私が問題にしているのは「わかること、できること」を大切にすることではない。それを理由に「分ける」ことなのだ。 以上、第1章までより抜き出し転記以下つづく普通学級での障害児教育 著者:藤田修 出版社:明石書店 サイズ:単行本/216p発行年月:1998年06月【目次】序 教育思想が問われる/第1章 論争「普通学級での障害児教育」/第2章 「共に学ぶ教育」とは-大阪の「共に学ぶ教育」その現状と課題/第3章 仲間と共に/第4章 みんながいきいきできる授業を-枚方市立枚方第二小学校の試み
2006.07.22
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「ノーマライゼーション」とか「インクルージョン」とか「特別支援教育」とか、新しい言葉がいろいろ聞かれるようになりました。「障害」児教育に関しては、世界の潮流は「インクルーシブ」をめざし、「健常」児と「障害」児を分けることなく一緒の教育の場を保障する、というものになってきています。日本も、ようやくそれに乗ろうとして乗り切れないような・・・なかなかどっちつかずの状況であるようです。(今度本格実施される「特別支援教育」、 これの全国的な取り組みが、 ひとつ大きなポイントになるかなーと思っています。)現実に「普通学級」で「障害」のある子が常にすごす、これを「原学級保障」というような言い方をしますが、もちろんそのことによっていろいろなことがあるわけです。私の勤務校は「原学級保障」ですが、悩み、迷い、暗中模索の日々です。ほかはどうやってるのかなーと大変気になっていました。そういった情報が整理されている本に最近運良くめぐりあうことができ、時間を見つけては少しずつ読んでいます。大変勉強になります。「原学級保障」を同じく推進されているが少し立場のちがう方の討論が載っていたり、何年に何があって、何年に何があってというこれまでの経緯がまとめてあったり、世界と日本の比較が少し紹介されていたりと、今まで探していたけど得られなかった情報についにめぐりあった!という感じです。まだ半分しか読んでいませんが、同じように「原学級保障」について知りたいと思われている方に広くオススメします。特に「障害」児教育にかかわっておられる方は、ぜひ読んでみてください。普通学級での障害児教育著者:藤田修 出版社:明石書店 サイズ:単行本/216p発行年月:1998年06月【目次】序 教育思想が問われる/第1章 論争「普通学級での障害児教育」/第2章 「共に学ぶ教育」とは-大阪の「共に学ぶ教育」その現状と課題/第3章 仲間と共に/第4章 みんながいきいきできる授業を-枚方市立枚方第二小学校の試み
2006.07.17
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ちょっと思いついたので書きます。人と話す時、相手を喜ばせる基本は「にんじん」だと思うんですよ。「にんじん」は、人参ではなく、「人を認める」と書いて「認人」と読みます。だれもが、人から認められたいと思っています。よくやっているところを、「よくやってるね」と言ってもらう、できたところを、「できたね」と言ってもらう、そういうのが、人付き合いの活力になるのでないでしょうか。逆に、自分でもできてないとわかってるのに「できてないね」と念を押される、やれてないとわかってるのに「やれてないやろ」と言われる、こうすると、人と話したくなくなったり避けたくなったりします。あなたは「にんじん」派ですか?今、逆の例を出しましたけれど、人によってというより、同じ人でも、調子や気持ちの余裕のありなしで、どちらの言い方もしていると思います。余裕がなくて「自分はたいへんだ~」と思っている時は、人のことを認める余裕がなくなります。まあそういうときは、余計に悪い循環におちいるまえに、「にんじん」だ 「にんじん」だと心の中で唱えてみてはいかがでしょうか。「にんじん」は、きらいな人が多いですが、人生をトータルで見たときに、やっぱり食べておいたほうがいいんじゃないかなという 栄養のあるヤサイです。「にく」より 「にんじん」をたべましょう。(「にく」はどんな漢字が当てはまるか、思い描いてみてネ)
2006.05.27
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教育のまぐまぐ! 2006/05/18 号から、臨床心理士 平木典子さんの言葉を紹介します。==============================私の気持ちを察して認めてほしいな、背中をたたいてほしいな、という信号が甘えです。そういうときに「本当はあなたは大丈夫なんだけど、ちょっと今、その気にならないんだよね」ということを認めてあげるとか、「だいたい片づけができるようになっていたんだから、本当はあなたはできるんだよね、ちょっと一緒にやってみようか」とか言うことで、子どもは支えられている気がするんですね。それは「あなたは大丈夫よ」ということを伝えていることになるんですね。「大丈夫よ」っていうことは「だんだん成長しているよ」「そのままで大丈夫なのよ」と伝えていることになるので、とても大切です。「本当は大丈夫なんだけど今日はやる気がしないんだよね」と言ってあげることがよくって「何であなたはできるようになったのに戻ったの?」なんて言わないことが大切です。臨床心理士 平木典子==================================続きは、Benesse教育情報サイトで見られるそうです。会員登録が必要ですが。子どもが、できる力があるとわかっているのにもかかわらず、でも「やらない」と言い張ること、ありますよね。そういうときに、あまりに自分の思い通りに動かそうとしていないか、面倒がってこちらの要求だけを言いっぱなしになっていないか、相手を責めるだけになっていないか、自問自答します。自分も相手も気持ちよく行動できるよう、こういった臨床心理的なアプローチも考慮に入れられるといいですね。人間同士の付き合いですから、「甘やかす」のではなく、「甘え」たいという気持ちを受容するのはとても大事なことではないでしょうか。
2006.05.19
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障害児学級の初任担当者研修で、なかなかいい話を聞いてきました。講師の先生の家族・地域にねざした話で、小手先の技術や知識ではなく生き方や人生観のようなものを具体的エピソードを用いて話してくださったのでとてもよかったです。講師は、奈良県立教育研究所元障害児教育部長、奈良県で初の養護学校の女性校長となられた向野(こうの) 幾世(いくよ) さんでした。もはや今は「家電」ではなく「個電」の時代、「家もあり 土地もあるのに 居場所失う」という川柳が悲しく響く時代、先生には子どもたちにとって安心できる居場所になってほしい、という講師の先生の願いを感じました。いのちの根をはぐくめば意欲はわいてくる心根をそだてよういのちの根をそだてよう「知」というのは、できばえや結果だ。「知」ばかり求める親は、子どもの意欲をつんでしまうこういったことを、ご自身のお母様の、自分たち兄妹に対する愛情を語りながら伝えていただきました。キーパーソン(愛する人)をもつこと自分の時間、自分のスペースをもつこと (マイタイム、マイスペース)心のトリートメントをしてください 自分にごほうびをやること 小さなよろこびがあることで 生きていける 「自分の感受性くらいは」茨城のり子子どもとかかわる時、「スイッチを入れよう!」ひたいに手のひらを当て、まゆげと目を上げる深呼吸して~ほら、身長が2cmくらい伸びて、スイッチが入りました!スイッチがどこにあるかは人によって違う。体のどこかを意識することでスイッチを入れましょう。こういう生き方、考え方ができたらなあ、というお話でした。教えたことは 忘れる教えずに 伝える伝えたことは 血肉となり わすれないその子がどこを見ていたか(その視線)=同じポーズをとって同じところを見てみるとわかる「子どもの脳は 肌にある」肌で教えるしかる時も ほめる時も大きい声を出したからといって子どもがよくなるものではない 向野先生の著書です。24年前の本が2002年に再販されました。
2006.05.18
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障害児学級の交流学級となった昨年、最後のほうになってようやく、わかりかけてきたことがある。最初はとにかく「できない」が目についた。子どもも、そして自分もである。「なんとかしなければならない」と思った。その、「なんとかしなければ」というのが、ちがうんだな~というのが、今の感情である。いいとか、わるいとかではない。できるとか、できないとかではない。小さなことが、今までのその子を見ていて、「こうなんだな~」と受け入れられていたことが、少し、ほんのすこし成長した瞬間、同じようにその子を知っている人に話したくなった。「今日、○○くん、こんなことができたんですよ(^0^)」これは、ふりかえってみると、「できるできない」を超えた 新しい評価の観点を 持っていたからこそ 出てきた言葉かな~ と思う。(わかりにくいと思うので、別の表現を探してみると・・・「上からの評価」でなく、「横からの目線、横からの評価」ということかな~ちょっと微妙に この言おうとしていることは全く同じ経験を持った人でないとよくわからないような気がするのだけれども。)「できない」ことで、「なんとかしなければ!」とあせってむりをしてしまう・・・そういったことをたくさん重ねてきた中で、「できない」ことをふくめ、だんだんと ありのままを受け入れる、受容することが できてきたような気がする。そうすることで、なにより 私自身が一番救われた。「なんとかしよう」と無理を重ねることは、その子にとっても、私にとっても、つらいことだった。「今はこうだもんね。 それでいいよね。」と笑って受け入れられるようになった時、そのうえで、少しずつ 必ず成長していくから、その姿をじっと見守っていくからね とおだやかなきもちで 共に笑い 共に泣き いっしょに成長していけたときああそれはすばらしいもうひとつの きょういくのカタチがあった ということを 発見した!!(※今日は思いついたままを書いてみました。(^^;))
2006.04.18
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今日はちょっと毛色をかえて・・・パソコン画面をテレビに出力できれば、いろいろなことに応用ができそうですね。それを可能にする方法はいろいろありますが、一番かんたんなのは、多分S端子ケーブルによる接続です。パソコンによっては、S端子出力がついているものがあります。そして、テレビにも、S端子入力がついているものがあります。この2つが組み合わさると、なんと、S端子ケーブルでかんたんにつなぐことができます。びっくりですね。ちなみに、つないだあとで、PCのキーボード操作をしないと、画面をTVに切り替えることが出来ませんのでご注意ください。(Altキー と F4キー だったかな?)今日は明日のクラス発表会に備えて、S端子ケーブルを買いに行ったのですが、思ったより安く買えたのでうれしくなりました。(1mのを別の店では800円くらいで買ったのに、 今日はなんと3mのを630円でした。)そんなわけで、今日はS端子についての日記なのでした(^^)
2006.03.16
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親野智可等さんのメールマガジンのつづきがとどきました。今回も「ふむふむ」と言いながら読みました。そんなわけで、前回のつづきで、前回のつけたしです。============================あなたの子どもは、あなたが子どもだったころのことを、どれだけ知っているでしょうか?あなたが小学生だったころ、どんな子どもだったかどれだけ知っているでしょうか?あなたが職場で何をし何を考えているのか、どれだけ知っているでしょうか?あなたの生き方について、または、あなたの夢や生き甲斐についてどれだけ知っているでしょうか?子どもは、ほとんど何も知らないのではないでしょうか。ですから、私は、このようなことを話してやることが大切だと思うのです。話してやらなければ分かりようがありません。ぜひ、あなた自身の人間としての経験を伝えてやってください。ぜひ、あなた自身の人間としての姿や内面を話してやってください。それが物語なのです。物語によって、初めて親が立体的に見えてくるのです。つまり、一人の人間として見えてくるのです。一人の人間としてのあなたから、子どもは多くのことを学ぶはずです。それは、生きている文学なのです。出典:2006/2/27発行 MM「親力で決まる子供の将来 」・・No639 親野智可等==========================「立体的に」というところがポイントなのかもしれませんね。普段の姿というのはもちろん大切ですが、「普段見せていない面をあえて見せる」ことも必要かも。生き方だけでなく、なにかを分からせるときにも、「立体的に見せる」こと、普段見れないウラ側まで含めて見せることで、本当にわかったり、感じたりするのかもしれません。
2006.02.28
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「親力で決まる」シリーズでおなじみの(?)親野智可等先生のメールマガジンで、最近書いてあったことです。う~ん、そうだなあ、と思いました。(例によって部分的に抜粋、編集しています。)=====================私が一人の人間として体験したことや考えたことを話すことで、子どもたちは、先生も一人の人間だということに気が付きます。それは、いつも、「ああしなさい、こうしなさい」というようなことばかり言っている私の、別の一面です。子どもたちは、いつもは私の先生という面しか見ていませんが、ここで別の一面を見ることになります。別の一面を見ることで、その人を立体的に見られるようになります。立体的に見られるようになって初めて、その人に人間らしさを感じることができるのです。それによって、先ほども言ったように、今までになかったような親しみを感じるようになります。でも、それだけではないのです。それは、一言で言えば、人間のモデルを見ることができるということです。言い換えれば、生き方のモデルです。生き方のモデルは、子どもたちにとってとても大切な栄養なのです。出典:2006/2/20発行MM「親力で決まる子供の将来 」No638 親野智可等=================================たま~に、自分の体験を語ることがありますが、自分の体験を語る頻度はもっと多くてもいいのかなと思います。また、体験談を語る以外の面でも、教師や親は、子どもにとって「生き方のモデル」になっているので、「まず身をもって示す。子どもに恥じない生き方をする」ことが大事だなあ、と思います。人間、完璧には出来ませんが・・・(^^;)
2006.02.27
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『本当の自分』(高木善之 著、『地球村』出版)を読みました。道徳の授業実践が紹介されていたのを機に、注文して手に取りました。著者の感じ方に触れながら、少しずつ読み進め、今日、読み終えました。「生き方」とか「考え方」について、大変感じさせられる本です。出会えてよかったなーと思える、すてきな本です。授業実践というのは、MM小学1634号(2005/9/13発行)に掲載された、内山義朗先生の「素敵な家族」という道徳授業です。 前掲書の10ページに載っている作文を、一部穴あきにして考えさせる授業です。(穴あき部分を( )で表示します。)======================== うちの家はみんなが悪い きょう私が学校から帰ると、 お母さんが「お兄ちゃんの机を拭いていて 金魚鉢を落として割ってしまった。 (もっと気をつければよかったのに、お母さんが悪かった) 」と言いました。 するとお兄ちゃんは「(僕がはしっこに置いておいたから、僕が悪かった) 」って言いました。 でも私は思い出しました。 きのうお兄ちゃんがはしっこに置いたとき私は(「あぶないな」って思ったのに、 それを言わなかったから、 私が悪かった) と言いました。 夜、帰ってきてそれを聞いていたお父さんは「 (いや、お父さんが金魚鉢を買うとき、 丸いほうでなく四角いほうにすればよかったなあ。 お父さんが悪かった) 」と言いました。そしてみんなが (わらいました)。 うちはいつもこうなんです。 うちはいつもみんなが悪いのです。 (ある作文から) ===========================この作文の題名をはじめて読んだとき、「みんなが悪い」というのは、おたがいに責め合っているのだと思いました。内山さんの授業でも、子どもたちは最初はそのような言葉を穴埋めしていたようです。ところが、教師が「みんな幸せですか?」と問い、検討させることで、「自分が悪かった」と言い合う言葉をうめる子が表れます。子どもというのはすばらしいですね。そして、私も、「お前が悪い」から「自分が悪い」への考え方の転換をできるように、自分も気をつけよう、と思ったのでした。この本の他の内容もとてもいいので、また紹介したいなーと思います。
2006.02.26
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今日は時間がないので、自分のホームページにかなり前に書いた記事を転載。元原稿では、「私がやりたいこと」として2つ挙げていますが、その2つ目が、この「きょういくブログ」とかなりかかわりがあると思います。一部現在の視点で見直して書き直しました。=====================したいこと第2は、教育ネットワークの推進です。教師1個人でできることには限りがあります。例えば「学級崩壊」は、担任教師1人だけで解決できるようなものではありません。生徒間、教師間、保護者間、学校間ネットワーク構想は、よいアイデアをスピーディーに世間に広め、問題があればみんなで話し合おう、というものです。インターネット利用者は急増しています。ネット利用者だけの教育ネットワークにしても、非常に効果が期待できる段階に至っています。ここで重要なのは、「言いたい人だけが発言する」というのも重要なのですが、決して「ネットに詳しい人、教育問題に詳しい人にまかせておけばいい」というふうになってはいけないということです。みんなが習慣的に発言をチェックし、思ったことがあればなんでも発言するという姿勢をもっていただかなくてはいけません。これは、言い換えれば「学級だより」の大規模化と言っていいかもしれません。このブログを基地に、少しずつ輪を広げていきたいと思っていますのでよろしくお願いします。原文:「21世紀の教育を考える」2001(自分が書いたものです)http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/6204/text/21Edu.html===========================
2006.02.21
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今日、本校研究紀要の「人権研究授業の実践報告」を書きました。授業実施前に指導案は書いていたので、今日はそれに反省を追加しました。あらためて最初から読み直してみると、指導案で最初から「無理強いしない」と書いてあったのに、反省では「無理強いしてしまった」となっていました。頭でわかっていても、「これをする」という教師の思いが強すぎると思わず教師の思い優先で子どもの現状を待てず、無理強いしてしまうものです。あらためて、無理強いしないこれができれば、子どもと教師が、共に育つことができそうです。教師は子どもがよく見れるようになり、よく待てるようになる。子どもは教師が心を受け止めてくれることで、自分から安心して学ぶようになる。
2006.02.03
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将棋の米長 邦夫さんの言葉らしいです。==============================ここで言う「正論」とは,「正しい」とは言っても,「あまりにも正し過ぎる,あたりまえの意見」というような意味です。本当に賢い人は,あまりにも当たり前の正論は言わない。弱い人ほど,ちょっとでも自分が有利な立場にあると,いろいろ言いたいことを言うものです。また厳しくなるものです。レベルの高い人は,人の失敗を責めないということだと思います。参照元「ささやかな教育技術」http://www1.ocn.ne.jp/~kkkk/sub70-3.htm==============================子どもをしかるとき、あまりにも当たり前の正論でしかしかれないことをふりかえることがよくあります。そういった「あたりまえのことをいうだけのしかりかた」から早く脱却できるようになりたいです。「あたりまえのことができなかった本人」もつらいのだから・・・
2006.01.26
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やる気にさせる時に最も大切なことは何でしょうか?いろいろ思いつきますが、一番基本となるのは「はげますこと」です。=================================(『授業の腕をあげる法則』明治図書には、こうあります。(厳密な引用ではありません。))「あなたは駄目です」とは、医師は決して言ってはならないのと同様、教師は「あなたは駄目です」と言ってはならない。 悪いことを克服するべき方法を示し、はげまし続けるべきなのだ。それが教師の仕事。 「はげまし」とは、教師が子どもと共に、一緒に欠点を克服していこうとする連帯の証なのである。 もちろん、欠点を克服する技術を身に付けなくてはならない。 それと共に「克服していくはげまし」を絶えず続けるべきなのである。=================================なかなか子どもをやる気にさせられないと、ついモノでつろうとしたり、取引みたいなことをしたり(コレをしたら、コレしてあげる など)おだてたり、なだめたり、と 本道を外れてしまいがちになります。「はげます」とはどういうことか、というのをつきつめて考えるのも、「はげまし」の効果を上げることにつながるかもしれません。本の中の「一緒に」という部分、最近読んだほかの本とも重なる部分があります。(それはまたあらためてこのブログに書きます。)気持ちのこもっていない励ましではダメで、やはり励ます側に、それなりのエネルギーなり、覚悟なり、信念がいりますね。・・・ううむ。
2006.01.13
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レンタルで『さとうきび畑の唄』を借りてきて観ました。沖縄戦の最中の家族を扱った作品ですが、観てよかったと思います。主演として、明石家さんまが家族のお父さんを演じています。悲惨な戦争中の現実に対して、「笑顔」を忘れず、人を笑わせようとするシーンは、戦争中としてはリアリティがないかもしれませんが、「それでも笑顔で生きるんや」という強いメッセージを感じることができ、よかったです。沖縄は一度訪れ、大変いいところだという感想を持ちました。しかし、歴史を振り返ってみれば、そう遠くない過去に、非常に激しい地上戦がおこなわれたという事実があります。きれいな海やまばゆく生命力にあふれるサトウキビ畑、とても人柄のいい沖縄の人たちのかげに、その戦争の事実があることを、「さとうきび畑」の唄とともに、忘れずにいたいと思います。この唄を知ったのは比較的最近ですが、自分でいろいろと調べてからあらためてこの唄を聴くと、「ざわわ ざわわ」のリフレインの中に、沖縄戦当時の人々の状況を想像し、胸が痛くなります。
2006.01.09
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今日のお昼に、教育テレビで「ETVワイド 障害のある人・ない人 ”働く”ことを徹底的に語り合う ▽養護学校就職活動最前線に密着 ▽経営者必見・障害者チームの大活躍」というのをやってました。ちゃんと見てなかったので、くわしい感想は書けないんですが、ひとつ勉強になったのは、会社で実際に活躍されている障害者の方々の姿を見られたことです。番組中で、「障害がある人も、適性に合った仕事を与えてやれば、他の人に負けない活躍ができる」というようなことがふれられていたのですが、私も昨年の研究授業などを通して「障害も一つの個性として見る」といったことがだんだんわかりかけてきたところなので、かなりうなづきながら見ていました。もちろん、今お仕事で活躍されている方も、最初に仕事を覚えることとか、環境になれることとかは、時間もかかるしサポートが必要な面が多かったようです。ただ、まわりの理解があり、長い目で捉えていただいていたことが、当初は思いもよらなかったスムーズな仕事はこびにつながったようです。自閉的傾向でこだわりが強い方が、かえってその特徴を生かして同じものを何個も間違えずに作る作業をてきぱきとこなしたり、負けず嫌いな方が、「競争しよう」と持ちかけられることによって、大変意欲的に仕事をおこなうことができたりと、その人を職場で生かすということが、こういうことなんだな、というのがわかった気がします。学校でも同じですね。いろんな子どもがいるけれど、それぞれの持ち味を生かす。口で言うのは簡単ですが、実際にできるように、どう働きかけていくか。考えていきたいと思います。(^^)
2006.01.07
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10月の人権教育研究授業では、私と、5年の先生の2連続で研究授業をしました。そのときに来られた堀智晴先生の著書の中から、「共に生きる教育」について、いろいろ考えさせられましたので、今日はそのご紹介!※『ちがうからこそ豊かに学びあえる~特別支援教育からインクリーシヴ教育へ』堀智晴 編著p136 「共に生きる」とは、「だめなことはだめ」と言って、それでも切れずにやっていけることであろう。都合のいいところだけ、付き合いやすいところだけで仲良くしていても、そんな関係は脆弱なものでしかない。授業研究会でも言われていましたが、授業のシステム自体を 教師の教授中心 → 児童の学習中心に変えていかないといけない、ということをこの先生は強くおっしゃいます。私も、その必要性は非常に痛感しているところです。まず1人の子ども Child First1人の子を大切にすることが、全員を「ひとりひとり」大切にすることにつながります。「まず1人」を飛ばして、いきなり「全員」を対象にすると、結局1人も対象にしていないのと同じことになります。ほかのことにも言えそうです。たくさんのことに向き合うとき、まずその1つとしっかりと向き合えるかということ。「まず1人の子ども」に対してどうするか。 ・その子の尊厳を傷つけないような言葉がけや態度・「自己決定」を尊重する。・学校の外にもネットワークを広げていくその子の思いをくみとること、その思いに沿うようにすること。本人がどのように感じているか・その子にあった試験を作成・叱ることも含めたあたたかな関係教育活動全般のベースとして、こういった考え方は忘れずにいたいと思います。
2005.12.30
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