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今日は、7/22(土)にあったオンラインの学習会の感想を書きます。インクルーシブ教育に関するオンラインの学習会として、今、ノリにノッていると思われる学習会です。↓これです▼豊中市教育長、『国連に日本の状況を伝えに行き、特別支援教育廃止勧告出して貰って、信じてやれば叶って出来ると思った豊中育ちなウエダの話』も聞いて、豊中市のインクルーシブ教育のこれからを語る (公式サイト、申込受付終了)なんて長いタイトル!(笑)タイトルでお名前が出てくるウエダさんは障害当事者で、僕とほぼ同年代の方です。今回は少年時代や青春の日々の思い出を含めて、これまでのことをたくさん語っていただきました。僕とかなり共通することが多く、「そう、そう!」と思って聞いていました。いわゆる「障害当事者ならではの苦労話」といったものではなく、豊中で同年代の友達に囲まれて育って、いろいろありながらも楽しく過ごしてきたぜ!といったお話でした。これこそが、フルインクルーシブが生み出すものだなあ、と思います。つまり、なんら特別なことではない、フツーの日々なのです。ウエダさんは、最初の学校が養護学校だったので、特にそのギャップを感じてこられたんだと思います。ウエダさんの後で、教育長が話をされる、というのが、この会ならでは。市長も教育長も、市をあげてインクルーシブ教育を大事にされていることが伝わってきます。(市長は今回ではなく前回の学習会でお話しされました。)後半の座談会では、前半に触れられたことだけではなく、もっと周辺的なことも巻き込みながら、本質的なことに切り込んでいったように感じました。少しだけ、紹介させてください。ウエダさんが「世の中で障害のある人の話を聞くってことが、感動ポルノと思われている。 かかわったことがないから、一緒に育っていないから、 障害って苦しいもんやなと思われている」と発言されると、会の主催者である小国先生が、「チャットであったように、だれが障害児をつくっているのかという議論にもつながってくる。」と応えられました。「だれが障害児をつくっているのか」この視点は、そんじょそこらの学習会では、なかなか出てきません。登壇者だけでなく、チャットからも、そういった指摘が出る。日ごろから日本のインクルーシブ教育についての問題意識を抱き続けている方々だからこその視点だと思います。もしかすると僕がこれをブログで書くにあたって、この表現に関して解説をしたほうがいいのかもしれませんが、中途半端な解説では解説にならないと思うので、やめておきます。あとは、「障害のある子と共に学ぶ教室では、センセイが今よりもっと大変になる」という懸念に対しても、非常に興味深い議論が行われました。そのなかで、「子どもたち同士がお互いを分かり合ってやっていくから、センセイが手出ししなくてもいい」といった話が出てきました。ただ、これについても、あまりかいつまみすぎると議論の的を外してしまう気がするので、これ以上書くのはやめておきます。小国先生は「日本はパターナリスティックになりすぎ。保護の観点が強すぎる。 そういう問題も提起してくださった」と言われていました。最後の最後、思いがけず「通級」を含めた議論がなされました。小国先生が、「多様な教育の場というのが分離を生んでいるという指摘がチャットである。 通級の問題も今後大きな問題になっていく。通級をどう使いこなすのか?」「通級が新しい分離別学制度につながってしまうのではないか?」と、皆さんに投げかけられていました。僕は通級担当ですので、「通級が新しい分離につながってしまったら、絶対にアカン!」と思っています。そのことはかなり意識しながら取り組んでいるつもりです。なので、つい、チャットに2度も書き込んでしまいました。我慢していたのですが。(笑)今回も、非常に学びの多い学習会となりました。豊中のフルインクルーシブ教育に関するオンライン学習会は、これで3回目。インクルーシブ教育の魅力がいろんな立場の方から伝わってきました。と同時に、今の日本の国全体の、インクルーシブ教育にかかわる課題も、少しずつ明らかになってきた気がします。僕の知り合いの先生方もたくさん視聴されていたようで、チャット欄に次から次へと書き込みがある中に、見知った方のお名前も何度もお見かけしました。僕も刺激を受けて、なんと2度もチャットに書き込んでしまいました。こういう参加者多数の学習会は、チャットに書き込みすぎると他の方の発言がちゃんと読まれなくなるような気がしてなるべく自重しているのですが、今回は、あまりにも書きたくなったので、書いちゃいました。まあ、いいよね。1度目は、次のようなことを書きました。「通級担当者はもっと通常学級の教室に入っていって、 通常学級の授業を変えるために、 チームの一員としてかかわっていくことが必要だと思って、 私もやっています。」私が今度話をすることを頼まれている高校通級の研究会のなかで、詳細はお話しする予定でいます。ただ、誰でもできるようなカンタンなことだと思っています。「通級」に関しては、その後のチャットでも、「通級はずっといる場所じゃないと考えて作っても ある以上はずっといる場所になってしまうのです」という書き込みがありました。僕は、このことをとても重大な指摘だと思いました。そのチャットへの返信のつもりで、次のようなことも、最後に書きこませていただきました。「通級や支援級の担当者が子どもを囲い込んでしまうのが問題。 通常学級の場の中につなげていくように動くことが大事」と。日本全国で、支援学級や通級の担当になった人で、クラス集団の他の友達とつなげようと日々工夫をされている方が、ごまんといると思っています。支援学校の先生の中にも、居住地の同年代の友達とのつながりをつくろうと努力されている方は、いらっしゃるでしょう。そういう方々の取組を、もっと公に出していかないといけないのではないか、と思っています。インクルーシブ教育を真に進めていくためには、そういった運動が、不可欠だと思っています。このブログも、その一端としてお役に立つものになれば、幸いです。なお、このブログ記事は7/22の学習会の詳細に部分的に言及しているところがありますが、主催者団体の許可を得て書いたものではありません。公開後にご連絡は差し上げようと思っていますが、場合によっては一部修正したり削除したりする可能性がございます。ご了承ください。それでは、また!▼3/26(日) オンライン無料「東京大学・インクルーシブ教育定例研究会」豊中のフルインクルーシブ小学校! (2023/03/13の日記)▼インクルーシブ教育:推進へ法的整備を -豊中シンポ(毎日新聞) (2010/03/01の日記)
2023.07.25
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これまでいくつかのネット上で無料ですぐに読める「共生共学」「インクルーシブ教育」関係の論文を紹介してきました。ほかにも、この研究を長年されている佐藤貴宣先生より情報提供をいただいております。僕だけが知っているのはもったいないので、ここでシェアさせていただきます。ぜひ、ともに学びましょう!以下、敬称略です。久保田裕斗「小学校における「共に学ぶ」実践とその論理」https://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slogos/archive/42/42_kubota.pdf久保田裕斗「小学校における「合理的配慮」の構成過程」https://scholar.google.co.jp/scholar_url?url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/eds/105/0/105_71/_pdf&hl=ja&sa=X&ei=xeuaZOWlJJGM6rQPypipuAc&scisig=AGlGAw_Sunz6yC4Ey5bSaMyurNt8&oi=scholarr武井哲郎「障害の有無による分離に抗する教育委員会の役割」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeas/46/0/46_55/_article/-char/ja/末次有加「保育現場における「特別な配慮」の実践と可能性」https://scholar.google.co.jp/scholar_url?url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/eds/90/0/90_213/_pdf&hl=ja&sa=X&ei=Q_CaZNPtL5GM6rQPypipuAc&scisig=AGlGAw-V-JG6K_7hPNzgp8zOGyCU&oi=scholarr松原崇・佐藤貴宣,2011,「障害疑似体験の再構成―疑似体験から協働体験へ」『ボランティア学研究』11: 85-98.https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F11077873&contentNo=1佐藤貴宣,2013,「盲学校における日常性の産出と進路配分の画一性―教師たちのリアリティ・ワークにおける述部付与/帰属活動を中心に」『教育社会学研究』93: 27-46.https://www.jstage.jst.go.jp/article/eds/93/0/93_27/_article/-char/ja/(「PDFをダウンロード」とかいてあるところをクリックしてください。)佐藤貴宣,2018,「インクルーシヴ教育体制に関する社会学的探究―全盲児の学級参画とメンバーシップの配分実践」『フォーラム現代社会学』第17号 188-201.https://www.jstage.jst.go.jp/article/ksr/17/0/17_188/_pdf/-char/ja原田琢也・中村好孝・高橋眞琴・佐藤貴宣・堀家由妃代,201803,「インクルーシブ教育の到達点―関西圏の実践から」『金城学院大学論集 社会科学編』第14巻第2号 48-72頁.https://kinjo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=985&file_id=22&file_no=1佐藤貴宣,2019,「インクルージョン実践における[排除]の可能性―全盲児の学級参加をめぐる教師の経験とその論理」『教育学研究』86(2): 287-299.https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoiku/86/2/86_287/_article/-char/ja/(「PDFをダウンロード」とかいてあるところをクリックしてください。)佐藤貴宣,2020,「小学校における指導実践と相互行為フレームからの排除過程―全盲児をめぐるトラブルに見るカテゴリー執行活動を中心に」『龍谷教職ジャーナル』7: 17-33.https://mylibrary.ryukoku.ac.jp/iwjs0005opc/TD32126775(「?本文・要約」と書いてあるところをクリックしてください。)佐藤貴宣,2015,「障害児教育をめぐる[分離/統合]論の超克と社会科学的探求プログラム」https://researchmap.jp/sato-takanori/published_papers/12127809/attachment_file.pdf末岡尚文「普通学校就学運動から見る障害児の意志」https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/49819/files/4410.pdf濱元伸彦「同和教育の集団づくりにおける「共生・共学」実践のライフストーリー ― 一九八〇年代・松原三中の取り組みに着目して」https://kyoto-art.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=311&item_no=1&attribute_id=45&file_no=1二羽泰子「マイノリティに非排除的な学校への変容」https://scholar.google.co.jp/scholar_url?url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/eds/97/0/97_25/_pdf&hl=ja&sa=X&ei=TvOaZLXhDsuLywScvoqIBA&scisig=AGlGAw8cyiEMGtPeBZOlH-k-Xyah&oi=scholarr伊藤駿「インクルーシブ教育研究の論点整理」https://scholar.google.co.jp/scholar_url?url=https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/72908/kbn_14_022.pdf&hl=ja&sa=X&ei=TvOaZLXhDsuLywScvoqIBA&scisig=AGlGAw_UaoJER1yE5mveiKnv_AA-&oi=scholarr鶴田真紀「〈障害児であること〉の相互行為形式」https://www.jstage.jst.go.jp/article/eds/80/0/80_269/_article/-char/ja/(「PDFをダウンロード」と書いてあるところをクリックすると読めます。)↓こちらの本の第2章も、「インクルーシブ教育研究として、とてもお薦め」だそうです!『障害理解のリフレクション 行為と言葉が描く〈他者〉と共にある世界』(編:佐藤 貴宣・ 栗田 季佳、ちとせプレス、2023/3)詳しい内容は、出版社公式サイトを参照ください。「はじめに」の全文を読むことができます。ここを読むだけでも、大変興味をそそられる内容です。▼【紹介】「日本型インクルーシブ教育への挑戦 ― 大阪の「原学級保障」と特別支援教育の間で生じる葛藤とその超克 ―」(ネットで無料で読める論文) (2023/07/04の日記) ▼「インクルーシブ教育」がなぜ必要なのか~『「共に生きる教育」宣言』などから考える その2 (2023/07/08の日記)
2023.07.09
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「インクルーシブ」関係の投稿を続けています。今日は、そのキーワードのひとつである「合理的配慮」がよく分かるテレビ番組をご紹介NHKの「フクチッチ」で放送されたものです。前・後編に分かれていて、前編の放送はすでに終わっています。後編の放送は、10日の月曜日。前編の放送はすでに、NHKのサイトからいつでも視聴できるようになっています。僕は放送を録画したつもりが、確認してみると「録画予約に失敗しました」になっていて、あせりました。ネットで見られたので、ほっとしています。出演者の尾上さんからリンクをご紹介いただいたこともあり、昨日、無事視聴することができました。「合理的配慮」を理解するうえでのポイントが30分の中に見事に詰まっていました。それでいて楽しく見れる!おすすめです。▼ハートネットTV フクチッチ(27)合理的配慮 前編 https://plus.nhk.jp/watch/st/e1_2023070316060上のリンク先のNHKプラスでの視聴は、7/10(月) 午後8:29 までです。NHK for schoolでも視聴できるので、そちらはたぶんその後も見られると思います。▼「合理的配慮」前編① ~合理的配慮ってなに?当事者のモヤッと体験座談会~ | ハートネットTV「フクチッチ」 | NHK for School▼「合理的配慮」前編② ~合理的配慮の法律ができるまで~ | ハートネットTV「フクチッチ」 | NHK for School学校関係の研修とは違って、社会全体のなかでの「合理的配慮」を扱っています。そのため、「学校での合理的配慮については研修で習った」という人も、この番組を見れば、さらに新しい発見があるのでは、と思います。僕は、7分半が経過したところのBGMで「BAD COMMUNICATION」が流れたところから、一気に心をわしづかみにされました。#B'z世代NHKの方、見事な選曲です。(笑)前編の後半では、「合理的配慮ができるまで」の歴史的経緯にもふれられていました。仙台での「生活圏拡張運動」を、当時の貴重な映像から知ることができました。50年前と今とを比べると、隔世の感があります。「社会に訴え続けていくことで、社会は変わっていくんだな」ということを実感しました。当事者運動について、風間さんが「特別扱いを求めているんじゃなくて、当たり前のことを言っている」と言われていました。これは、ほんとうに大事な視点だと思います。当事者の立場に立ったからこそ、出てくる言葉ですね。ただ、当事者から実際に相談があった時にどう対応するか、というのは、具体的になればなるほど、かなり悩むものです。その難しさも、番組ではクイズを通して、実感することができました。後編のクイズで風間さんは「僕だったら、全部試します」と言っていて、「おお!すごい発想だ」と思いました。そういうのも、アリなんですね。風間さんのことばっかり言ってますが、最後に言われていたことも書いておくと、「考えれば考えるほど豊かになりそう。 たくさん話し合っていきたい」ということも言われていました。「対話」の重要性を凝縮した、見事なコメントです。風間さん、最近、障害福祉関係の番組でよく見ます。「金八先生」に出演されていた時から気になっている方です。いいこと言いますねっ!当事者として出演されていた尾上さんも、いいことを言われていました。まずは、「合理的配慮は、「思いやり」ではない。 同じレストランで、思いやりのある人だったらしてくれて、 そうでなかったらしてくれないということでは、いけない。」という言葉。学校の中でもそうだな、と改めて思いました。学校の中での「合理的配慮」を、担任の「思いやり」にとどめてはいけない、と強く思いました。尾上さんは、「ケースバイケースが、ポイント。 その人の希望がどこにあるか」ということも、言われていました。「合理的配慮」は、その人ひとりひとりに応じておこなうものなので、マニュアル的に対応するのではなく、その人の希望をしっかりと確かめて、個別におこなうことが原則ですね。上に紹介させていただいたように、この番組で出演者がコメントされる、その短い言葉に、大事なことがぎゅっと凝縮されていると感じました。この番組は、長い説明を極力排して、短い言葉でやりとりするなかから視聴者の理解や気づきを促す構成になっているので、学校の授業や研修で視聴するのにも、とてもよさそうです。10(月)に第2回が放送されます。そちらも、楽しみです!
2023.07.09
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前回(▼今の「教育」の根本的な問題とは!? ~『「共に生きる教育」宣言』その1)の続きです。「インクルーシブ教育」がなぜ必要なのかという、根本的な部分に関わる話です。以下の本には、次のようなことが、冒頭に書かれています。『「共に生きる教育」宣言』(堀 正嗣、解放出版社、2022/7、税別1800円)・分けられる子どもの悲しみとか、苦しみとか、恐怖といったものについて多くの人はあまりにも知らなすぎる。鈍感すぎる(上掲書p14より)本書の著述は、著者自身の体験を通して書かれていることだけに、説得力があります。日本は国連から「分離教育であり、やめるべきである」と勧告されたように、「障害がある子のための学校」を別に用意してきました。場合によっては兄弟姉妹で同じ学校に通えなかったり、障害を理由に居住地から遠く離れた学校に通わねばならないといった実態がありました。これは、あきらかに差別であり、当事者の声に耳を傾けて是正していかなければならないことです。地域の学校が地域の子どものためのものであるならば、どこまでも、地域の子どもたちにとってベストなものを、追求していかなければなりません。どのような子どもであっても、受け入れ、いっしょにやっていく覚悟が、「学校」には必要です。そして、そのうえで、前回僕が問題にした「能力」を「評価」するという、今の学校教育の大前提についても、考えていかなければなりません。上掲書の続きのページには、以下のようなことが書かれています。・なぜこのような「関係からの排除」が生じるのでしょうか。 「能力」で子どもを価値づける教育がおこなわれていることが根本的な原因だと私は思います。(p15より)学校教育は「能力」の呪縛に縛られており、なかなか自由にはなり得ません。ただ、「別の観点で子どもを見る教育」が昔からすでにあったことは、知っておかなければならないと思います。僕が今読んでいる次の本などは、「能力」と「学校」についてかなり興味深い考察をしており、オススメです。『学びの本質を解きほぐす』(池田 賢市、新泉社、2021、2200円)上の本はとにかくおもしろくて勉強になったので、また機会を改めて詳しく紹介しますね。今回、このブログを書くにあたって、関連する情報を調べていたら、以下の論文に行き当たりました。僕が以前からよくお名前をお聞きしている方が、どんな実践を学校でされてきたのかが書いてあり、驚きました。▼分離教育システムに抗する実践と社会モデル ――普通学級就学運動における「同一空間・同一教材」「共育」に注目して (藤原良太(立命館大学 生存学研究所客員研究員))昔も今も、目の前の子どもたちのために、「能力」にこだわらずどんな子も受け入れて一緒にやっていこうとしてきた取組があるのですね。大切なことは、ずっと変わらない。新時代の教育を考えるにあたっては、そういった、変わらないものをきちんと受け継いだうえで、さらにその続きを考えていきたいと思います。また、次の資料も、「共生の教育」を考えるうえで、大変参考になりました。▼「共生共育」の思想──1970 年代における子供問題研究会の歴史から── (名寄市立大学 堀智久)以前のブログで大阪の「共生の教育」を報告した論文をご紹介しましたが、今回、東京での「共生の教育」が約50年前にどうであったかを示した別の論文も発見しました。▼1970年代初期の関東の障害児統合教育の始まり (久米祐子、九州大学学術情報リポジトリ「教育基礎学研究」第14号,2016)前も書きましたが、ネット上でこういった貴重な情報が論文としてまとめられていることに、心から感謝を表したいと思います。▼「共に学ぶ教育」とは( 「普通学級での障害児教育」本の内容まとめ2) (2006/07/28の日記)
2023.07.08
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「インクルーシブ教育」関係の投稿を、もうちょっと続けます。今読み返した本と、昨日読んだ別の本の内容が自分の中でバチッとつながったので、そのことを書きます。僕が初任の頃には、「障害児教育は教育の原点である」といったことを教わりました。そして、「障害のある子もない子も、同じ場所で共に生き、共に学ぶ」という方向性を教わりました。では、さらにその「教育」の原点をつきつめていくと、何になるのか?「共に生きる教育」についてかなり詳しく書かれている以下の本には、冒頭で次のように書かれています。『「共に生きる教育」宣言』(堀 正嗣、解放出版社、2022/7、税別1800円)・徹底的に子どもの側に立って、愛情をもってありのままの姿を肯定するのか、 能力主義や優生思想の影響を受けて、子どものありのままの姿を認めることができないのか、 このことが根本の問題だと考えています。(上掲書p13より)「上のことと同じことかな」と思った、最近出た本の中の別の表現が、以下のものです。『冒険の書 AI時代のアンラーニング』(孫 泰蔵、日経BP、2023/2、税別1600円)・評価は人から自信を奪ってしまう。 (p182)・「誠実に、心をこめて、相手の良さを認める。」 (p186、デール・カーネギー『人を動かす』の中の言葉)上の本は全くインクルーシブ教育について書かれた本ではないのですが、それだけに、今までの学校教育における「評価」の問題点にふれ、代替案を示されていたことに、大変感銘を受けました。『冒険の書』のp186において、筆者は「評価」に代わるものとして、デール・カーネギーの「アプリシエーション(appreciation)」というキーワードを示されています。「アプリシエーション(appreciation)」には「尊敬」「愛情」「感謝」(p188)という意味があり、他者を評価する代わりにそのようなまなざしで見ることが提案されています。学校教育における「評価」や「能力主義的価値観」は、見直されるべき時に来ています。次回も、『「共に生きる教育」宣言』の別のページを引用させていただきながら、「能力」ということをどう見るのかを考えていきたいと思います。つづきます!
2023.07.05
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「インクルーシブ教育」について考えを深めたいところ、こんな論文をネットで見つけました。「日本型インクルーシブ教育への挑戦 ― 大阪の「原学級保障」と特別支援教育の間で生じる葛藤とその超克 ―」(原 田 琢 也・濱 元 伸 彦・堀 家 由妃代・竹 内 慶 至・新 谷 龍太朗、2020-03-31)タイトルからして、非常に興味深いと思いました。単なる「インクルーシブ教育」ではなく、「日本型インクルーシブ教育」となっています。「インクルーシブ教育」は世界の潮流であり、世界ではスタンダードになりつつあります。しかし、日本でそのまま外国のまねをしようとしてもなかなかうまくいかない・・・。だからこそ、「日本型インクルーシブ教育」が求められているのです。この論文では、すでにあるその代表的なものとして、大阪の「原学級保障」が具体的に取り上げられています。「原学級保障」とは、支援学級在籍の児童生徒が、通常学級にこそもともとの学籍がある(=原学級)ことを何よりも重視し、通常学級の教室で他の子どもたちと共に過ごし共に学ぶことを保障してきた、大阪近辺で行なわれている取組のことです。この論文では、5人の研究者が5つの学校を継続的に訪問された結果、それぞれの学校での様子を、客観的な視点で報告されています。こういった論文をネットで読める形にしていてくださるのは、とてもありがたい!誰でも下のリンク先にアクセスすれば、無料ですぐに読めますので、ぜひ、ご覧になってください。https://kinjo.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=17&item_id=1123&item_no=1 (金城学院大学リポジトリ内 該当論文のページ)ダウンロードすれば後からでも読めます。PDFファイルなので、Edgeで開けば、本文に部分的に色を付けることもできます。僕は、デジタルでもアナログでも、線を引きまくりました!全部拝読しましたが、自分がやっていることとつながることが、かなりありました。自分がやっている「自分流インクルーシブ教育」と言えるものについて、「こういうのもありなんだよなあ」と知れて、勇気をもらえる内容でした。その一方で、今の日本の学校制度がもつ課題も、かなり明らかになっていると思えました。それはたとえば「硬直性」(p32)などの言葉で随所に語られていました。「日本型インクルーシブ教育」の道は決して平坦ではありませんが、あきらめずに少しずつでも前に進めていきたいと思います。「インクルーシブな学校は、つねに進行している学校である」(p46、ブースとエインスコウの言葉より)▼「共に学ぶ教育」とは( 「普通学級での障害児教育」本の内容まとめ2) (2006/07/28の日記)▼インクルーシブ教育:推進へ法的整備を -豊中シンポ(毎日新聞) (2010/03/01の日記)
2023.07.04
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今日は、インクルーシブ教育の学習会で話をしてきます。大きくざっくり言うと、「学校での支援のあり方」みたいな話になる予定です。その冒頭で示そうと思っているスライドが、こちら。勤務校の職員研修用に作ったものです。上のスライドで唯一線を引いているところが、「しなくていい支援はしない。」学校には、いわゆる「支援員さん」がおられて、いろいろなサポートをしていただいていて、ほんとうに助かっています。でも、ときに、「べったり付きすぎ」て、依存を生んでしまったり、友達同士でサポートし合うことを阻害してしまったりすることもあります。僕自身も今までに、親切心から「支援を要する子」につきすぎてしまった反省があります。支援をしすぎないことは、ほんとうに大事だと思っています。昨日紹介した本の、昨日の引用ページをめくった続きのところに、こんなことが書いてありました。『生きづらいでしたか? 私の苦労と付き合う当事者研究入門』[ 細川 貂々 ]・どんな問題やトラブルでも その一つ一つは大事な経験の一部なので 簡単に取り去ろうとしないように 心がけています (p54)・べてる的な文化の中で仕事をする専門職は 「何をしないか」を見極めることが大事 (p55)失敗体験を積み重ねすぎてしまって自信をなくしてしまっている子には、成功体験に導いてやることも、必要かもしれません。でも、基本は、子どもには失敗する権利もあるのです。2日前の記事で、クラスに入り込みをして、支援をするという話を書きましたが、その場合に僕が心がけているのは、「離れて見ておく」の比率をなるべく多くすることです。「何もしていない」ように見えるのが、一番いいと思っています。P.S.僕は子どもの頃から大のマンガ好き。子どもの頃に読んだ「奇面組」の中に、次のような言葉が出てきたのを思い出しました。「親切心の逆効果」親切にしたいという気持ちは大切だけど、それが裏目に出ることもあるので、気をつけたいところです。自戒を込めて・・・▼特別支援教育にかかわる標語をつくってみた!▼「インクルーシブ教育」を考えるテキスト『「みんなの学校」をつくるために』
2023.07.01
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明日は、「インクルーシブ教育」の話をするため、神戸に行ってきます。たぶん、「あんたはどこの馬の骨やねん」と思われます。そのため、「私の経歴」というスライドをひとつ入れようとしていました。学校勤務なので、その関係の経歴だけ入れようと思っていたのですが・・・昨日ちょっと思うところがあって、学校とは関係ない活動も、入れておこうと思いなおしました。大事だと思うんですよね、学校とは、ちがう活動。僕の場合、仕事に大きく影響を与えたと思える「学校外での活動」が、2つあります。2006年の「北海道のべてるの家の訪問」。2015年以降、ほぼ毎年関わらせていただいている、丹波篠山の「とっておきの音楽祭」。2つとも、このブログの過去記事で、取り上げています。よろしければお読みいただければと思います。実は、「べてるの家」を訪問した時の日記は、埋もれてしまっていて、書いた僕でさえ見つけるのが大変でした。その記事のことを参照しているはずの別の記事も、リンクが機能していなくて、元記事にたどり着けない状態でした。そんなわけで、下の2006年の記事にも、今更ながらリンクを加えて、記事をちゃんとたどれるようにしています。▼自己のアイデンティティを言い切るということ(例「明治ですから!」)「べてるの家」のことは、数か月前に読んだ、次の本にも出てきました。『生きづらいでしたか? 私の苦労と付き合う当事者研究入門』[ 細川 貂々 ]貂々さんの、コミックエッセイ。書かれていることは、みんな、本当のことです。この本は、とにかく読みやすくて、とってもおススメ。自分には、思い当たることがありすぎて、涙なしでは読めない本でした。そして、だからこそ、勇気をもらいました。「べてる」のことは、書きだすときりがないのですが、ひとつだけ紹介すると、上の本の中に、次のような記述が出てきます。・「べてる」には 人の視線や評価を気にする文化がないんですよ あれをやったらどう思われるか?っていう文化がないから すぐに自分の言いたいことを言えるんです(p53 向谷地さんの言葉より)明日は、自分をさらけ出してこようと思います。
2023.06.30
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昨日の投稿に続き、インクルーシブ教育関連の僕の過去の発表原稿から、「これは、今も皆さんに伝えたい」と思った内容をご紹介します。今回のテーマは、「通常学級内の子ども同士での教え合い」です。インクルーシブ教育を考えるうえで、とても重要なテーマであると思います。通常学級内の子ども同士での教え合い 教師が通常学級での授業に入り込んで支援することが有効であっても,「その子だけにつく」という方法は,担任や周囲の子どもたちにとって,「あの先生に任せておけばいい」と関わらなくなってしまうというデメリットがある。 通常の授業時間においては,担任や周囲の子どもたちと対象児童とのつながりこそが大事である。 漢字を書くことが苦手な児童が,周りの児童と一緒に漢字テストに取り組む中で,成果を出していった事例がいくつかある。 あるクラスでは,漢字テストで基準点をとらなければ再テストを受けることが繰り返されていたが,該当児童は漢字を書くこと以前に読むことがなかなかできていなかった。そこで,漢字テストの問題の漢字をすべて読むためのシートを作成し,通常学級用に担任に手渡した。担任はそのシートをめくりながら読めたものには印をつけていき,その印が増えていくことを励ましていた。そうするうちに周りの子どもたちがその子どもを応援するようになり,ついには全部の漢字が読めるようになって,周りの子どもたちと一緒に大いに喜び合ったと聞いている。 ほかにも単学級でクラスの結びつきが大変強い状態で高学年に上がってきたあるクラスにおいて,漢字の問題を隣の子ども同士でお互いに出し合う,という取組があった。相手のことを十分理解している状態で子ども同士が関わると,相手のためを思って漢字を出題したり,相手に分かりやすいように間違いを指摘したり,心から相手を応援するように声かけをしたりということが自然になされた。 間違いを指摘されてもその友だちとの関係が良好であれば受け入れられる。むしろ,教師から間違いを指摘された時よりも,次はがんばろうという意欲につながる。その結果,めきめきと漢字が覚えられるようになっていったことがある。 そこに通級担当は全く関わっていないが,それこそが目指すべき状態であると感じている。(2018 N市人権教育大会レポート「読み書きに困難のある子の学習保障」より抜粋)子どもが主役の教室になっているでしょうか?ともすれば、子どもの代わりに自分が主役になってしまっていないでしょうか?教室は、子どもたちのためのものです。子どもたちに、ゆだねましょう。この原稿は通級担当の立場から書いたものですが、子どもたちの学びを支えようとクラスの中に入っている大人に心がけてほしいことを書いたつもりです。出すぎて、ませんか?同じように「支援」を仕事にしている方々に、もしも参考になるところがあれば、幸いです。
2023.06.29
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以前読んだコミックエッセイがおもしろかったので、続きを買って読みました。↓以前買った本のブログ記事は、こちら。▼日本育ちのアフリカ少年のコミックエッセイ! 星野ルネ『アフリカ少年が日本で育った結果』上のリンク先記事を読んでいただければ分かるように、アフリカ少年が日本で育ち、暮らしてきた実話が、読みやすいマンガになっています。↓そして、こちらが、その続編です!『まんが アフリカ少年が日本で育った結果 ファミリー編』 (星野ルネ、毎日新聞出版、2019、1100円)この本の中に、「インクルーシブ教育」にとっても関連が深いと思えるエピソードが出てきます。少し長くなりますが、引用させていただきます。p.42「天使が生まれる時」より・小学校に上がった時 全校生徒が頻繁に僕を見物にやって来た。 心ない言葉も漏れてきた。 そんな居心地の悪い状態から守ってくれたのも 同じ学校の生徒達だった。 (略) 僕をかばってくれた守護天使たちの正体は 保育園で親友になった生徒達だった。 彼らと保育園で出会った当初は 彼らも僕を不思議な様子で見ていた。 よく知らない相手のことを思いやったり優しくするのは難しい。 直接会って話したり遊んだりして 初めて同じ人間だと実感できる。「インクルーシブ教育」は、障害の有無など、いろいろな違いを包摂して、いろいろな子どもたちが同じ場で共に学ぶ教室をめざしています。その対義語は、「エクスクルーシブ」=「排除」になります。日本は、同質性社会と言われ、1人だけ違っていることが、排除の対象になりやすいと言われています。ただ、人間と人間の相互理解は、幼い頃からずっと一緒にいることで育まれます。実は、「インクルーシブ教育」以前に「インクルーシブ保育」というものがあるのです。小学校以前の保育園の頃に、どんな子も受け入れて一緒にやっていくという実践のことです。こちらのほうが日本では古くから一般的であったかもしれません。もうひとつ、本書から特徴的なエピソードを紹介しましょう。本書の主人公ルネくんのお母さんについてのエピソードです。(本書p68「家族の副音声」)アフリカから来たお母さんは、日本語をカタコトでしゃべります。ルネくんと、ルネくんの友だちは、そのお母さんの話を一緒に聞いていました。しかし、友だちは、後で「半分くらいしかわからんかった」と言います。息子であるルネくんは、このことに衝撃を受けます。そして、自分が母親の日本語を理解するエキスパートになっていることに気づくのです。ルネくんは「話の理解度は その人と話した時間 共有した時間に比例する!」とまとめています。「その人と話した時間 共有した時間」の大切さがわかるエピソードです。だからこそ、「インクルーシブ教育」では、「普段は別の場所にいる者が部分的に交流する」のではなく、「同じ場で共に過ごすことを基本とする」ことをめざすのです。僕が今書いているブログ記事の記事カテゴリは「共に生き、共に育つ」ですが、意外にも楽しく笑いながら読めるコミックエッセイのなかのエピソードから、「共に生き、共に育つ」を考えることができました。考えるきっかけは、どこに落ちているかわかりませんね。最後に、これは「インクルーシブ教育」とは何の関係もないのですが、本書でおまけのように最後に紹介されていた、あるテクニックのことも、書いておきましょう。本書はネット上に公開されたマンガがもとになっているのですが、それが人気を呼び、書籍化されたものです。人気になった理由はいろいろあると思いますが、著者はネット上で楽しく応援してもらえるように、ある工夫をしていました。それが、「ジンクス」をくっつける、というものです。例えば、「いいねがつくとたんぽぽの声が聞こえてきます」(p121)というような言葉がネット上のマンガに添えられていたそうです。こういう一工夫、いいですね。僕は「インクルーシブ教育」を全国に広めたいと思っていますが、そのためにあまりまじめになりすぎるのではなく、こういったユーモアを交えながら、楽しくやっていくことも大切だなあと思いました。では。このブログ記事に「いいね」をつけると、ひまわりが咲きます。ツイートすると、ツルが飛び立ちます。▼『耳の聞こえない人、オモロイやん!と思わず言っちゃう本』▼日本育ちのアフリカ少年のコミックエッセイ! 星野ルネ『アフリカ少年が日本で育った結果』▼5/12(金) オンライン無料「『一緒じゃないとあかんねん』――フルインクルーシブ教育の町大阪府豊中市で生きる」
2023.06.25
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とっても素晴らしい本を読み終えました!自分の中でホットなうちに、ご紹介します。『耳の聞こえない人、オモロイやん!と思わず言っちゃう本』(手話エンターテイメント発信団oioi、編著:大谷邦郎、 星湖舎、2019、税別1500円)内容紹介(「BOOK」データベースより)耳の聞こえない人はみんな「電話できない」「音楽を聴かない」「カラオケで歌うなんて無理」「全員手話を使う」…。それって実は思い込み!とっても奥深い「聞こえない人の世界」を一緒にめぐってみましょう!(商品リンクのリンク先ページより転載)聴覚障害者の本音をインタビューした本。この本は、本当に、すべての方にオススメしたい本です。知らなかったことを知り、考えさせられることで、本書に出合う前と、出合った後で、きっと何かが変わることでしょう。クラウドファンディングで多数の応援を得てできた本です。この本を出版してくださったことに、感謝です。これは、本当に、全ての人に読んでほしい。いろんな本音が、赤裸々に、書かれています。「まずは、知ることから」楽しく、面白く読める本ですが、それだけではありません。大切なことが、本当に大切なことが、書いてあります。 この本には、いっぱい線を引き、いっぱい、ページの端を折りました。詳しい本の中身はまた改めてご紹介したいと思います。oioiさんの手話パフォーマンスは「とっておきの音楽祭」で体験させていただきました。とっても楽しかった!楽しいことを入り口に、知ってもらう。このコンセプト、僕は好きです!▼楽しくバリアクラッシュ! 手話エンターテイメント発信団oioiさん (2023/04/26の日記)
2023.06.24
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ちがう話題をどんどん差し挟んでいるので、「週1連載」みたいになっていますが、以下の本の読書メモを書いています。『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』(堀 裕嗣・石川 晋、学事出版、2013、絶版なので、リンク先は古本です。)今回が第3回。最終回です。第1回→「教室で学ぶことの本質」とは ~『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』その1第2回→教育の本質のベースにあるもの ~『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』その2歯に衣着せぬ教育の本質論を戦わせる対談本。大変おもしろいです。この本の中に、いろんな先生がいていいんだ、といったことが書いてあり、大変共感しました。僕自身、多数派ではなくたくさんの「先生」方のなかでは少数派だという自覚があります。「ふつう」の先生は、まず、こんなにブログを書いたりしません。「何やってるんだ」と思われていないかと、いつもビクビクしながら書いています。(笑)でも、いろんな先生がいていいし、いろんな表現手段があっていい。そこのところを肯定してもらえると、僕としては大変、勇気づけられます。以下は、堀裕嗣先生の言葉です。・うちの学校だけで、50人の教師がいるけどね。 きっと何々先生が一番好きっていう生徒を1人も持たない先生はいないよね、きっと。・だからやっぱり、職員室も学級もそうだけど、集団っていうのは、多様性がなきゃだめっていうのがあるわけ。(p173 堀裕嗣先生の言葉より)これは、学級崩壊を起こしてしまうような教師であっても、その先生が好きだという子どもはいる、といった文脈で語られるのですが、これは、ほんとに重要なことだと思うのです。学級担任ですべてが決まるというような制度については、僕はどんどんゆるめていって、いろんな先生がいろんな子に関わる方がいいと思っているのですが、その理由の1つとして、いろんな先生がいていい、というのが、まず前提としてあります。じゃあないと、僕みたいな「先生」は、救われない。(笑)結局、学校というのは、人と人が集まって学ぶ場所だから、どれだけ多様性を包括できるか、いろんな人がいることを容認できるかが、一人ひとりの安心感に直結する。安心できる場所だったら、みんな積極的に学んでいけるし、チャレンジもできる。ああ、そうすると、それは「学校」だけにとどまりませんね。「社会」そのものだ。「社会」がどれだけ多様性を含められるかが、いきいきとした環境に直結する。本書の最後の方、お二人の著者によって、職員室の中の多様性について、激論が交わされています。一人の著者による本とはちがう、対談本ならではの面白さに満ちています。これもまた、お二人が違う考えを持っているからこそ生まれる面白さだなあと思います。石川晋先生は本書の「あとがき」のなかで、こう書かれています。・徹底的に経験主義的だったぼくの教育観や授業観は、あのままでは始末に負えないものだったろう。 堀くん(と系統主義思想)は、ぼくに自分の仕事の座標軸のようなものを確実に与えてくれることになって、ありがたかった。主義思想や考え方は個人によって違うのだけれど、だからこそ、対話によって互いに気づきを与えられる。「ちがう」ということから、豊かさが始まるのだということを再認識した次第です。
2023.06.05
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めちゃくちゃ忙しかった今週も、ようやく週末です。実は、急に決まったのですが、水曜日に4年生のあるクラスで公開授業をしました。通級の子や支援学級の子も含めたクラス全体の社会科の授業です。僕は通級担当ですので、ふだんは大人数の授業を進める立場にはありません。たまに学級担任が不在の時の授業を頼まれることはありますが、そういう場合は基本的に教科書を進めるのではなく、担任が用意したプリントをさせる授業になります。僕がICT好きなのを知っている担任だと、「タブレットを使った授業をなんでもいいのでやっといてくださ~い」と丸投げされる場合はありますが、それにしたって「教科書を進める授業」ではありません。(▼タブレットを使ったインクルーシブな授業の実践報告はこちら)ところが今回は、僕の方から「教科書を進める授業をさせてほしい」と担任にお願いしました。単元の第1時なので、第1時の様子をあとで担任に報告すれば、担任も第2時以降の授業でそんなに困ることはないだろう、と思ったからです。また、支援を要する児童がいるクラスでしたので、「僕がやるなら、こうする」というのを実際にやってみて、そのうえで担任がよいと思ったことは、今後にも取り入れてもらえたら、という思いからです。ついでに、ほかの先生も自由に見に来てもいい授業として授業当日の朝(!)に全職員に案内しました。↓その案内文が、こちら。僕は、ごくたまにこういったインクルーシブな授業実践を自分が主になって行う取組をしています。とはいえ、普段は「別室のほうがきちんと学べる」と見なされている児童が、該当学年の学習を全体一斉授業の中で一緒にやっていくのは、35人学級で教師1人という状況下では、非常に難しいのです。「一緒にはいるけれど、学びに参加しているかというと、部分的」という状況が生まれていました。僕がやったらうまくいく、なんてことは全然なく、これまでも作戦をすごく立てて臨んでいたものの、毎回撃沈していました。😓これまでの反省を踏まえ、今回は、教科書の自力読みが非常に難しい児童を含めて一斉授業でやっていくため、以下の方針で臨みました。・ゼスチャー多め(文字や言葉だけに依存しない。)・班活動多め(近くの子との交流を通じて学べるようにする。)・ICTを活用(指導書付属のルビ付き分かち書き紙面を電子黒板で拡大提示する等)学習内容は、社会科「水はどこから」の第1時。さて、結果はどうだったか? ・ ・ ・カンタンに報告すると、「ゼスチャー多め」 と 「班活動多め」は、有効でした。この2つを組み合わせた「ゼスチャークイズ」の出し合いっこを導入でさせました。「水はどこから」の学習の第1時なので、ゼスチャーのテーマはもちろん「水を使っている場面」です。最初に僕が「蛇口をひねって手を洗うゼスチャー」をして子どもたちに当てさせ、さらに「シャワーを出して頭を洗うゼスチャー」をして子どもたちに当てさせた後、班の中で「ほかに水を使う場面には、どんなものがあるかな?」と考えさせて、それを単に言葉で発表させるのではなく、ゼスチャークイズで互いに当て合いをさせました。どの子もとても楽しそうに、活発に活動していました。ただ、3つ目の方針であった「ICTを活用」については、写真やイラストは効果的であったものの、教科書本文をいくら拡大したところで教科書を読むことに対しては全員がのってくるというわけにはいきませんでした。文の読みが苦手な子は、いくら本文を拡大し、フレーズを区切って読みやすくし、読みの見本を僕が示してリピートアフターミーでまねすれば読めるようにハードルを低くしたとしても・・・そもそも4年生の社会の教科書で使われている言葉自体が難しく思えるようで、教科書の文自体に興味が持てないようでした。事後の感想としては、一斉授業においては「教科書で教える」という発想自体を捨てないと、ICTを活用しても限界がある、と感じました。「教科書でまなびにくい子のインクルーシブ教育を、どうするか」という、僕の問題意識がはっきりしました。貴重な一歩だったと思います。😅こういった報告を、SNSでつながっている皆さんには、すでにしていました。すると、思いのほか、たくさんの反響をいただきました。本当にたくさんの応援メッセージをいただき、うれしく思っています。いろいろなコメントをいただいたのですが、その中には他の地域での「社会科を、支援の必要な子も、みんなの中ですでに受けている学校の事例」も教えていただきました。その事例では、社会科の授業を班活動を主体にして進められていて、教科書を読むのも一斉授業の中で読むのではなく、班の中で読むのだそうです。ICTの利用も、班のメンバーの自主的な活用に任されているのだそうです。「なるほど!」と、思いました。僕の場合は一斉授業の中で教師がICTを使うやり方でしたが、子どもたちに委ねるのは、とてもよさそうです。そうすると、たとえ自力で教科書が読めない児童がいたとしても、班の子たちが読んでくれたりするでしょうし、もしかすると班によっては教科書は参考程度にとどめて、その班のメンバーにとって分かりやすいやり方で学習を進めたりすることもあるでしょう。僕も班活動は多めに取り入れるという方針でしたが、もっとそれを推し進めると、そういう学習形態になるのだな、と気づきました。「インクルーシブな授業」のひとつの学習形態が見えてきて、今後の見通しをかなりはっきりともつことができました。今後も、「インクルーシブな授業」について、探究を続けていきたいと思います。応援いただいている方々、今後とも、よろしくお願いします。▼「教室で学ぶことの本質」とは ~『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』その1 (2023/05/18の日記) ▼「ミュージカルのような授業」 ~マンガ家矢口高雄さんの体験より (2014/03/29の日記) ▼藤川大祐『授業づくりエンタテインメント!』その3~人間関係を可視化してフィードバックする (2021/12/14の日記) ▼小学1年生国語「くじらぐも」で、子ども同士が伝え合う姿に感動♪ (2021/11/18の日記) ▼特別支援教育にかかわる標語をつくってみた! (2020/07/26の日記)
2023.06.03
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このところ、どうも「教育の本質」から離れていた気がします。いちおう、教育系ブログなので、「教育の本質」に向かって、思いっきり舵を切り直したいと思います。じつは、5/18の記事で『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』その1 というタイトルをつけて、「その2も書くぞ!」と匂わせていたのですが、お気づきでしたでしょうか?匂わせていただけで終わっていました。(^^;)じつは、「その2」の下書きは、あの翌日に投稿しようと、ずいぶん早くに書いていたのです。それが、自然学校の引率があったり、趣味の世界に没頭していたりして、10日も日にちが経ってしまいました。そういうわけで、5/18の記事の続きです。『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』(堀 裕嗣・石川 晋、学事出版、2013、絶版なので、リンク先は古本です。)またまたこの本の中身から部分的に引用させていただきながら、持論も混ぜて、書いていきたいと思います。今回も石川晋先生が本書の中の対談の中で「本質」という言葉をポロっと語られたところから引用させていただきます。対談自体は生き物のようにうねりながら続いていって、歯に衣着せぬ応酬もあり、読んでいて大変面白いものになっています。その中でときに「本質」論が飛び出します。その「本質」に、僕はいたく感動しています。以下が、僕が感動した石川晋先生の言葉です。・教育の本質自体は、一人ひとりの子どもを見るってことがベースでしょ。 そのこと自体、ゆるぎないでしょ。(p114 石川晋先生の言葉より)この言葉がわざわざ出てくるということは、現実には一人ひとりの子どもを見ていないと思えるようなことが往々にしてあるということで・・・。ここからは、僕の持論です。たとえば、昔からある「板書型授業」。チョークと黒板が悪いとは言いませんが、たくさん板書がある授業の実際を見てみると・・・先生が板書しているときに、黒板を見て書いているので、その間子どもたちのほうを全然見れていないことに気づきます。たくさん板書している先生=子どもたちのことをあまり見れていない先生、になっていないでしょうか?僕自身も、担任をしていた頃は、なかなか子ども一人ひとりを見ることができませんでした。だからこそ、意識して、授業中に一人の子の顔を3秒以上目にとめてから、次の子の顔を見るようにしていました。なんとなく子どもたちを集団として見ているうちは、子ども一人ひとりは見れていないと思います。子ども一人ひとりを授業中に見るのは実はかなり高度なワザなので、授業経験が浅いうちは授業を進めるだけで精一杯で、なかなか実際は難しい、というのが実情です。そこで僕がおすすめなのは、朝のあいさつです。朝のあいさつは、登校してきた子どもたち一人ひとりに、顔を見て順番にあいさつします。これは、「一人ひとりを見る」ことができやすい。教師業はマルチタスクなので、「一人ひとりの子どもを見る」っていうベースが徹底されないまま、いろんなことをやってしまっている実情があるように思います。教育の本質に立ち返り、本当に大切なことを、大切にしたいものです。▼「教室で学ぶことの本質」とは ~『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』その1 (2023/05/18の日記)
2023.05.28
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石川晋先生の合唱コンクール指導の本を読んだ後、同じ系統の堀裕嗣先生の行事指導の本を読んでいます。そちらもまたブログで紹介したいと思っていますが、今日は、同じ著者のほかの本を取り上げます。このお二方の対談本があるのです。そちらの方を先に読みました。これが、非常に興味深かった!『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』(堀 裕嗣・石川 晋、学事出版、2013、絶版なので、リンク先は古本です。)多くの先生方に、今、改めて読んでもらいたい本です。広い視野から見た教育論は、わざわざ本を買って読む価値があるものだと思いました。10年前の本ですが、お二方の実践や思想は時代を先取りしていたところもあり、全く古びません。いや、時代によって変わらない、不易なものを見据えているのだとも、思えます。本書の中で、「教室で学ぶことの本質」という言葉が出てきます。最近インクルーシブ教育に関する先進的な取組から刺激を受けたり、昨年の勧告を受けて本腰を挙げてフルインクルーシブ教育に向かおうとする自治体が増えているのを肌で感じたりしていて、そういったところからも、「教室で学ぶことの本質」を自分なりに考えていたところでした。お二方は、必ずしもインクルーシブ教育を志向されたり標榜されたりしている実践家ではないのですが、見ているイメージは、同じものではないかと思いました。本書で書かれている「教室で学ぶことの本質」は、こうです。・日本の学校教育が、そして個々の教師が、子どもたちに影響を与え続けてこれたのは、不確実なハプニングが教室でたくさん起こることが教室で学ぶことの本質だというようなことを前提として、教室の物語づくりっていう基本ラインで十分に暗黙に一致していたからだと思う。(p66 石川晋先生の言葉より)僕は「インクルーシブ教育」を標榜している人間なので、その文脈で晋先生の言葉を受け継いで少し書いてみるとすると、「インクルーシブな教室」というのは、ほんとうに、いろいろなことが起こる教室なんですよね。それはもう、いろいろなことが起こる。でも、今まで僕が見てきたそういった教室の担任の先生方は、起きすぎるぐらい起きる日々のハプニングを、当たり前として受けとめておられた。それも含めて、教室なんだと、受けとめておられた。そして、できることを、小さくても、積み重ねてこられていた。そして、そういう教室のことを一言で言うと「大変だあ」と言うことはもちろんあるんだけれども(笑)、だからといって誰も排除したり、悪者にしたりするのではなく、そのメンバーでやっていけることを、考えて、日々を過ごしておられた。そういうドラマが、日本各地の教室にあり、語りつくせないくらいたくさんのエピソードが、日本各地の教室で生まれていると、僕は思います。だから、インクルーシブ教育というのは、なんら特別なことをすることではなく、すでにあることであり、昔から、ありつづけてきたことなのだ、と思います。ハプニングを楽しむタフさを身に着けた子どもたちは、それからの人生も、きっとタフに生きていけるようになっていることでしょう。学校は、単に教科書を教えるところではなく、そういった「生き方」を教えるところでありたい、と思います。
2023.05.18
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なかなかおもしろいコミックエッセイを読みました。『まんが アフリカ少年が日本で育った結果』(星野ルネ、毎日新聞出版、2018、1100円)この本の中に、なんと、僕の大好きな「スイミー」の授業エピソードが出てきました。星野ルネさんはアフリカ生まれの日本育ち。日本の学校教育を受けて育ちました。(それも、僕と同じ兵庫県!)小学校2年生の国語教材「スイミー」も勉強しています。ルネさんは「スイミー」の話に大変勇気づけられたそうです。そうです。仲間のほかの魚たちはみんな赤いのに、スイミーだけは真っ黒ですものね。だからこそ、ルネさんはスイミーに自分のことを重ねて、すごく感情移入したのだとか。そういうことが、あるんですね。「スイミー」は大好きでしたが、今までそんなふうにこの話を読んだことがありませんでした。「そうか。そういう読み方もあるのか!」と、新しい視点を獲得した思いです。ルネさんは本書のマンガの中で、「スイミー」のことを、「幼少期の僕の黒い小さなヒーロー」と語っています。(p28)ほかにも本書には日本の学校教育に関する著者の思いやエピソードが、ところどころに散りばめられています。メインはマンガなのですが、マンガで語られるエピソードに添えられていた、次の言葉には、ドキッとしました。「人間は一人ひとり違うのに、 全員が同じでなければならないって教育は正しいのかな?」(p40)ルネさんは基本的には日本のことを好意的に描いてくださっています。でも、中には、日本の中で見た目が違うことで差別的な見方をされたり、息苦しさを感じさせられたりする場面もあります。本書はマンガなので、とても親しみやすく、楽しみながら読んでいけます。でも、それだけでなく、読んでいく中で、「日本」を少し離れた他者の視点から捉え直し、考え直すことのできる、好著になっています。興味を持った方は、ぜひ、本書を読んでみてください。この本、とってもよかったのですが、なんと、続編が出ていました。こちらも、気になります! ↓『まんが アフリカ少年が日本で育った結果 ファミリー編』 (星野ルネ、毎日新聞出版、2019、1100円)▼大人の浅はかさを子どもがカンタンに見破る時代になった (2023/02/06の日記)
2023.05.14
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このところ、インクルーシブ関係の投稿を続けていました。「障害があってもなくても、いっしょに」という大切な理念です。ちょうど先ほど、そのテーマのオンライン研究会の案内が来ましたので、このブログでもシェアさせていただきます。3/26にあったオンライン研究会の続きです。そのときも、ブログで告知をシェアさせていただきました。▼3/26(日) オンライン無料「東京大学・インクルーシブ教育定例研究会」豊中のフルインクルーシブ小学校!(※リンク先の研修会は実施済みの過去の研修会です。)↑このときの研修会、なんと2000人も申し込みがあったそうです。それだけ、インクルーシブ教育に対する世間の関心が高まってきたということですね!5月の研修会の案内は、以下のようなものでした。「一緒じゃないとあかんねん」――フルインクルーシブ教育の町 大阪府豊中市で生きる(東京大学・インクルーシブ教育定例研究会)日 時 :5月12日(金) 午後8時から10時講演者 :長内繁樹豊中市長、上田哲郎、豊中市の皆様申し込み先:https://select-type.com/ev/?ev=C_4d40Qm2_A&tl=&tl=&eventPageID=申し込みはとても手軽ですぐにできます。お金はかかりませんし、クレジットカードの登録等の面倒な作業もいらないので、気軽に申し込まれるといいと思います♪(^o^)前回同様、申し込まれた方には、事後に録画動画の視聴リンクが配布されるようです。金曜の夜に都合が合わない人も、安心ですね。今回の研修会のコンセプトがまた素晴らしいなあ、と思いましたので、そちらに関するところも、主催者団体様のメッセージから転載させていただきます。50年フルインクルーシブ教育の追求を続けていくと、地域はどんな可能性を持つことになるのでしょうか。今回は、豊中市長長内繁樹さんにご登壇いただき、フルインクルージョンの街、豊中市で「共に生きる」ことの魅力を、具体的に紹介して頂きます。研究会では、豊中市民の方々にご登壇いただき、面としての拡がりについて教えていただく予定です。(申し込みサイトの説明より転載。文字を大きくした箇所は僕の個人的判断です。)インクルーシブは、学校だけでやるものではなく、地域全体でやるものですからね。50年の歴史がある豊中市の市民のナマの意見を聞けるなんて、これは、またも願ってもない企画だと思い、感動しました。今回も、楽しみに待ちたいと思います。ところで一言で「50年の歴史」と言っても、ピンと来ない方が多数おられると思いますので、前回の研修会で教えていただいたことから、少しだけ補足をさせていただきます。僕の手元の、前回の研修会のメモには、以下の記述が残っていました。・1971年、親の会と一緒に家庭訪問をして、「改めて地域の学校に行きませんか?」というような呼びかけをしていった。・1975年には、障害児が、普通学級と障害児学級を行き来するような部分的な交流ではなく、障害のある児童が健常児集団の中で同じ人間仲間として生活をともにするという形態をとるようになった(3/26研修会講演資料による)・障害のある子どもが教育を受けるという権利を完全に保障し、校区の学校への就学を認めた(豊中市教育委員会、1978)50年前というとちょうど「養護学校義務化」(1979)の前にあたります。豊中は世の中よりもかなり先駆けて、障害のある子どもたちを受け入れるということに積極的に地域で取り組んでこられたことが、わかります。前回の研修会は、ご登壇された先生が事前に用意してくださったスライドに沿ったお話ももちろんよかったのですが、参加者からの多様な質問に真摯にお答えいただいた、事後の質疑応答の内容がまた、非常に興味深かったです。「知的障害の子の学習について」「考えの違う教職員がいた場合」「テストの受け方について」「大人の人員資源について」などの質問が出ていました。あまりにも質問が相次ぐので、かなり予定時間をオーバーしていたような記憶があります。今回も、おそらく参加者の質問は積極的に取り上げてくださるのではないかと思います。「フルインクルーシブ教育」については、おそらく素朴な疑問がいっぱいあると思いますので、ぜひ気になることは質問をしてみられると、いいのではと思います。
2023.04.28
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22日(土)の「とっておきの音楽祭」のガイドブックには、出演者プロフィールが載っていました。その中に、とっても気になるワードがありました。それは、「インクルーシブオーケストラ」。なんてすてきな響きなんだ!それは、愛知県にあるんだそうです。公式サイトでは、以下のように説明されています。・障がいのある子ども達と健常の子ども達が互いを知り、一緒に学び合い成長していく場、それがインクルーシブオーケストラ「シンフォニー」です。(NPO法人響愛学園のサイトより)きらきら星のファンタジー【演奏:響愛学園インクルーシブオーケストラ「シンフォニー」】僕もこんなオーケストラが作れたら、と思います。既存の集団や団体が、こんなふうになっていくのも、いいですね♪オーケストラって、「みんなちがって、みんないい」そのものだと思うんです。いろんな楽器があって、いろんな音色があってこその、オーケストラ。「ちがう」ことの必要性が、すごくあるんですよね。オーケストラの練習には、楽譜があって、同じ曲を何度も練習します。それが、いいんです。同じ曲を何度もやる中で、だんだん合わさっていくんです。僕も、同じような活動ができないかなあ、と思っています。とりあえず、「インクルーシブきょういく」をテーマにしたオリジナルソングを、次の音楽祭までに作ろうとしています。余裕があれば、そのオーケストラ版も、つくろうかな。▼異質なものの組み合わせが面白い ~ピンポンとオーケストラの「ピンポン協奏曲」~ (2019/12/05の日記)
2023.04.27
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22日(土)の「とっておきの音楽祭」が終わってから、風邪でぶっ倒れていました。でも、とっても楽しい音楽祭だったので、ぜひ新しい収穫を皆さんにご報告したいと思います。僕が毎回関わらせてもらっているのが、丹波篠山の「とっておきの音楽祭」。前回はコロナ禍における縮小開催だったので、参加アーティストは兵庫県内限定でした。ところが、今回は待望の、制限解除!県外のアーティストさんにも多数来ていただくことができました。その中でも、フィナーレでとても元気なパフォーマンスを見せていただいたのが、手話エンターテイメント発信団oioi(オイオイ)さん。大阪からお越しいただいた、元気な青年隊。手話で「いえ」を表した後、それを大きく高く上げて、「いえ~~~!!」と盛り上がったのが最高でした。たぶん、ずっと、忘れません。いえ~~~!!!ほかにも、「手話」という手話や、「楽しい」という手話、「あいらぶゆー」という手話を、リズムに乗りながら、楽しく教えてもらいました。いえ~~~!!!実は、「手話」と「楽しい」を教えてくれるoioiさんの動画があるんです。会場に来れなかった方も、ぜひこちらで、楽しく手話を習得してください。 ↓「手話エンターテイメント発信団oioi」さんのホームページに行くと、「バリアを壊す」という意味の「バリアクラッシュ」という言葉が、英語でズガーンと、書かれています。かっこいいです。とても素晴らしいホームページですので、ぜひ見てみてください。特に、団体紹介のところにある、「私たちの目指す未来」が最高です!▼私たちの目指す未来 (手話エンターテイメント発信団oioi公式サイト)僕は、ホームページで紹介されていた次の本が興味深かったので、注文しました。『耳の聞こえない人、オモロイやん!と思わず言っちゃう本』(大谷邦郎・手話エンターテイメント発信団oioi、星湖舎、2019、税別1500円)音楽祭を通じて、国内のいろんなところで工夫しながら活動されているたくさんのアーティストさん達とつながることができ、うれしく思っています。▼緊急事態宣言下の音楽授業は、手話歌! (2021/09/23の日記)
2023.04.26
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「THE教師力シリーズ」を知っていますか?テーマごとに何冊も出ています。それぞれ、その分野に詳しい先生方が寄稿されています。大変読みやすいオススメの教師用参考書です。今日は、その中から、『THE教室環境』の中に書いてあったことを紹介します。『THE教室環境』 (THE教師力シリーズ)(石川晋 編、明治図書、2014、税別960円)この本のテーマは、タイトルどおり、「教室環境」。1人あたり4ページの分担執筆で、18人の先生方が寄稿されています。「教室環境」の実際が見える3枚の写真とキャプションはその中に必ず含まれています。「論より証拠」「百聞は一見にしかず」で、実際の様子が見られるのがありがたいです。どの先生が書かれていることも大変興味深かったのですが、その中でも「サークルベンチ」をテーマに書かれていた伊垣尚人先生の寄稿内容を、今回は特にご紹介させていただきます。あなたは、サークルベンチって知ってますか?ネットで検索すると、こんなのが出てきました。(写真AC フリー素材より)複数のベンチを並べて、円形にして、中央を囲むように子どもたちが座る、というものです。おお!こういうのを置くだけで、教室の雰囲気がやわらかくなりそうですね。「そんなベンチ、ない」という方も、既存の子ども達のイスを使って似たようなこともできますので、読んでみてはいかがでしょうか?モノそれ自体よりも、それを使ってどんなことを実現されようとしていたか、そして、実現されているのかを知ることが重要だと思います。伊垣先生の教室では、こういったベンチを子どもたちが自由に使って、学び方を自分たちで決めているそうです。すてきです!・子どもたちは、学習する環境を自分で決めています。 自分にとって一番集中できる場所、困ったときにいつでも相談できる場所などを自分で選びます。・ベンチを自由に移動し、数人で学べる机を作り、まるで寺子屋のように学び始める子がでてきます。(p52 伊垣尚人先生の寄稿より)ベンチって、移動させてくっつけて机にすることもできるんですね!子どもたちが用途を考えて使えるって、理想的です。こんなふうに、ベンチに限らず、「ひとつのもの」が1つの用途だけでなく多用途に工夫して使えるというのは、教室環境を考える上で大事な視点だなあと思います。サークルベンチに関しては、伊垣先生によると、「授業のあり方」自体を変えるものであったようです。・サークルベンチを置くことで、一斉授業へ重きをおいていた授業スタイルが、ワークショップを主体とする授業へとバランスをとれるようになり、子どもたちがオーナーシップをもった学級経営をできるようになりました。(p53 伊垣尚人先生の寄稿より)一斉授業の弊害がいろいろと言われるようになってきました。新しい教育を考えるとき、まずは教室環境から変えてみる、というのは、有効な一手になるかもしれませんね。『THE教室環境』の各章タイトルと書かれている先生方の一覧を最後に載せておきます。(敬称略。所属名は当時のもの)教室環境1 教室環境を構成するもの/石川 晋 北海道上士幌町立上士幌中学校教室環境2 子どもたち同士が仲良くなっていく教室環境/中島 主税 北海道浦河町立堺町小学校教室環境3 「布地」の実践を「パッチワーク」にする教室環境づくり/太田 充紀 北海道美瑛町立美瑛小学校教室環境4 特別教室ならではの環境づくり/鎌北 淳子 埼玉県狭山市立富士見小学校教室環境5 『さんま』と『さんみ』で,自ら動き出す子どもたち!/鈴木 優太 宮城県仙台市立鹿野小学校教室環境6 対象・所属感・タレントを意識する教室デザイン/高橋 正一 北海道稚内市立富磯小学校教室環境7 教室環境は教師からのメッセージである/大野 睦仁 北海道札幌市立厚別通小学校教室環境8 子どものよりよいかかわりが生まれる教室環境の工夫/田中 聖吾 福岡県北九州市立大原小学校教室環境9 教室に子どもたちの居場所をつくる/田中 博司 東京都杉並区立桃井第五小学校教室環境10 係活動で「主役は子ども」の教室づくり ~いい感じに散らかっているのに,すっきり!~/広木 敬子 神奈川県横浜市立永田台小学校教室環境11 自分を表現できる教室/冨田 明広 神奈川県横浜市立宮谷小学校教室環境12 サークルベンチで自分たちの教室づくりへ/伊垣 尚人 埼玉県狭山市立富士見小学校教室環境13 「さんそ」の供給で,子供を伸ばす!/塚田 直樹 群馬県太田市立城東中学校教室環境14 学級集団がつながっていながらも,選択の幅が広い/平山 雅一 北海道砂川市立砂川中学校教室環境15 趣味こそモノの上手なれ/山崎 由紀子 北海道札幌市立北白石中学校教室環境16 教室を安心で安全な空間へ~“巣”としての教室環境~/小川 拓海 愛知県名古屋市立山田東中学校教室環境17 うまくいかなくても前向きに!あなたにもできる「小さな工夫」/野呂 篤志 北海道鷹栖養護学校教室環境18 「アセスメント」からはじまる「自ら動く」教室環境づくり/郡司 竜平 北海道札幌養護学校(出版社公式サイトの該当書籍のページを参考にしました。 そちらで試し読み(立ち読み)もできます!)僕自身も分担執筆という形でなら、本や雑誌に書かせていただいたことがあるのですが、その際にすごくお世話になった先生のお名前がおふたりもあり、びっくりしました。「THE教師力シリーズ」は、ほかの本も、おすすめです。ほかの本の詳細な紹介も、このブログでやりたいなあと思っています。興味のあるテーマの本があれば、この春休み中に買って読んでみられてはいかがでしょう?THE校内研修 (THE教師力シリーズ) [ 石川晋 編 ]【中古】 THE学級開きネタ集 THE教師力シリーズ/「THE教師力」編集委員会(著者),堀裕嗣(編者) 【中古】 THE 学級崩壊立て直し THE教師力シリーズ/「THE 教師力」編集委員会(著者),山田洋一(編者) 【中古】 THE学級経営 シリーズ「THE教師力」/堀裕嗣【編】,「THE教師力」編集委員会【著】THE教師力アップ (THE教師力シリーズ) [ 堀裕嗣 編 ]THE学級通信 (THE教師力シリーズ) [ 堀裕嗣 編 ]THEチームビルディング (THE教師力シリーズ) [ 赤坂真二 編 ]【中古】 THE新採用教員 小学校教師編 シリーズ「THE教師力」/山田洋一【編】,「THE教師力」編集委員会【著】【中古】 THE ほめ方・叱り方 THE教師力シリーズ/堀裕嗣(著者),「THE教師力」編集委員会(編者)
2023.03.30
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インクルーシブ教育についての貴重な勉強会の案内をいただきました。本当にまたとない機会だと思ったので、さっそく申し込みをしました。「フル・インクルーシブ教育とは何かを模索しながら ――大阪府豊中市立南桜塚小学校の日常に着目して―― (東京大学・インクルーシブ教育定例研究会)」日時: 2023年3月26日 午前9時から11時講師:橋本直樹さん(校長)、中田祟彦さん(支援コーディネーター)申し込み先:https://select-type.com/ev/?ev=fE7Bt8EFFsw大阪府豊中市がフルインクルーシブでやっている(障害のある子もない子も一緒に通常学級の教室ですべて学んでいる)ということは、最近まではそんなにメジャーではなかった気がします。今回、オンラインで豊中の小学校の先生の話を直に聞けるということで、今までにない、大変ありがたい機会だと思いました。オンライン無料で、リアルタイムで視聴できない場合でも、後日録画を期間限定で視聴できるとのことです。インクルーシブ教育に関心のある方、「障害」と「教育」に関心のある方は申し込まれてみてはいかがでしょうか?上のリンク先から参考リンクとしてはられている、該当の小学校を取り上げたテレビ番組の動画を、こちらにも掲載しておきます。僕は、教師になってすぐに「子どもは子どもの中で学ぶ」ということを教わりました。上のテレビ番組からも、子どもが子どもの中で学んでいる様子が伝わってきます。「学校」というところはどうあるべきか、しっかりと考えていきたいと思います。今回の小学校が雑誌にも載っているということで、そちらの雑誌も注文しました。↓『コトノネ(VOL.43) 社会をたのしくする障害者メディア 特集:子どものことは、子どもにゆだねよ』 [ コトノネ生活 ]以前僕が感動した「夢みる小学校」の舞台になった別の小学校も載っているようです。▼2月12日「イタリアのフルインクルーシブ教育」無料オンラインセミナー (20230129の日記)▼インクルーシブ教育について考えさせられる新聞連載「眠りの森のじきしん」 (20200517の日記)▼「共に学ぶ教育」とは( 「普通学級での障害児教育」本の内容まとめ2) (20060728の日記)
2023.03.13
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福島正伸さんの集大成本の読書メモ、第2回です。(第1回はこちら。)『真経営学読本』(福島正伸、きんざい、2016、税別2500円)たぶん、今だからこそ、自分にとって大事なことが、書いてあると思います。福島正伸『真経営学読本』2(p145からp265まで)(・太字部分は、本の引用。 顔マークのあとの緑文字は僕の個人的コメントです。)・他人や環境というものは、決して思いどおりにならないため、他人や環境に期待すればするほど、不満となって自分に蓄積されていきます。(p150より)」・他人や環境は気にせず、自分がどうしたいのかだけを考えるようにするのです。 そうすれば、「こうしてほしい」「ああしてほしい」という意識は、「こうしたい」「ああしたい」「こんなこともしてみよう」という意識に変わります。(p151より)←こんなカオで、最近、怒っていることが多いです。 すべて、他人や環境のせいにしていることの結果です。 福島さんは「自立型人材」ということを言われています。 「自立型人材」には5つのキーワードがあります。 その1番目が、「自己依存」です。 徹底した他者依存の否定です。 「自分自身に期待する姿勢」です。 他人は変えられませんが、自分は変えられます。 自分が、何をするかです。 他人に不満を持ち、他人に変わってほしいと思っていた自分を反省します。 他人は、変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。 それは、コントロールできないことです。 コントロールできないことに視点が向いていると、不満が出ます。 自分のできることに、視点を移すことですね。 ・「自分が、ほかの人たちのために何ができるのかをいつも考える」(p173より)ページは飛びますが、関連するページです。 具体例は、割愛します。本書をお読みください。 視点が他者に向いているかが、試されていると思います。 試しているのは、自分自身です。 自分が、自分を試しています。 アドラーは、「幸せとは、貢献感である」と説きました。 自分のことより、他人のことばかり考えている人のほうが、幸せなのです。 どうせなら、幸せな方が、いいですね。 ・社長は、今日の売り上げだけを見ていたのではなく、明日をイメージして、そのための仕事を今日していた(p200より) いきなり「社長」と言われても「だれやねん」と思うと思いますが、例によって詳細は割愛します。それは本書を読んでいただくとして・・・ 上のページで紹介されている社長さんの例のように、「貢献」というのは、今できていなくても、それができる未来を想像するだけで、ワクワクしてきて、幸せになるという効果があります。 貢献できている未来を想像することで、先取りして幸せになれちゃいます。 自分がする仕事も、どうせなら、しあわせな他者を想像しながら、ワクワクしながらやりたいと思います。 ここまで読んでも、「私の周りの状況はとても厳しいので、とても幸せになれない」と思っている方のために、福島さんが、疲れて暗くなっている人に助言した、とっておきのアドバイスもご紹介します。 ・「『みんな大好き!』って言ってみたらどうだろう。 社員の人たちに会うたびに『大好き』って言うんだ。 きっとあなたも周りも明るくなれると思うよ。」(p240より) 「大好き」は、魔法の呪文です。 あなたにも、大好きなものが、きっとたくさんあると思います。 大好きな人も、たくさんいて、いいのです。 そして、好きになるのは、きっと、とてもカンタンなのです。 呪文を唱えるだけで、いいのです。 大好きなものに囲まれていると、思うか、思わないか。 それで、天と地ほど、違いがでます。 仏教では、まわりのもの自体に色はなく、色は自分がつけている、とされています。 自分がつけている色なら、自分の好きな色をつけることも、できるはずです。 周りが明るい色に染まるか、暗い色に染まるかは、見ている自分が決めることなのです。 本書には、このアドバイスを実際に実行した後の話が載っています。 「大好き」作戦は、いったんは周りが引いてしまうことになりますが、その後、別のワークも続けることで、明るい毎日がやって来ます。 実際には、「大好き!」と臆面もなく言えるのは、子どもの特権かもしれません。 まあ、僕もこんな記事を書いているからと言って、実際に「大好き」と言いまわることは、できそうにありません。 でも、子どもたちに「大好き!」と言ってもらえると、とても元気をもらえることは、経験的に、実感しています。 「大好き!」はやはり、魔法の呪文なのです。 わが子が習っていたヤマハのピアノ教室には、「大好き!」というテーマソングがありました。 とてもすてきな曲です。 最後に、これを読んでくださったあなたへの「大好き!」の気持ちをこめて、この歌を贈ります。 童心に帰って、聴いてみてください。(^^)長くなりました。続きはまた次回!次回は第45章「人を育てる」からを参照します。福島さんには『メンタリング・マネジメント』という著作がありますが、まさにその話が本書の中でもふれられています。人に影響力を与えるすべての人に読んでほしい話です。よかったらまた次回も、見に来てください。『メンタリング・マネジメント 共感と信頼の人材育成術』【▼電子書籍】(福島正伸、ダイヤモンド社、2012、税別1200円)▼通常書籍(福島正伸、ダイヤモンド社、2005、税別1500円)▼「ついてる」と先に決めてしまえば、ついていることばかり思い出す (2022/12/22の日記)
2023.02.04
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昨日・今日と、オンラインでのインクルーシブ教育の勉強会に参加していました。非常に濃密な時間を過ごすことができました。インクルーシブ教育を志向する熱い熱気にふれることができ、「自分もがんばろう」と思ったり、「知らないことがまだまだ多いので、もっと勉強しよう」と思ったりしました。ちょうどFacebookでイタリアのインクルーシブ教育に関するセミナーの告知がありましたので、先ほど申し込みを済ませました。2週間後の日曜日には、またまたインクルーシブ教育の勉強がオンラインでできそうです。今回申し込んだのは、以下のセミナーです。↓オンライン・セミナー「イタリアのフルインクルーシブ教育ー残された特別な学校をめぐってー」2月12日(日)18時~20時 無料申込先 Peatix https://italyeducation0212.peatix.com/(Peatixはオンラインセミナーのチケットを発券するサービスです。 僕はよく利用しています。今回は無料ですのでお金はかかりません。)完全に障害のある子もない子も同じ場で共に学ぶことをフルインクルージョンと言います。通常学級の教室の中にどんなに「重度の障害」と言われるお子さんであっても受け入れて一緒にやっていくことを指します。もちろん、ただ単に場を同じくするだけではありません。そこには当然、一緒に学んでいくための様々な工夫があり、背景となる文化があるのです。イタリアは、世界でも有数の、フルインクルージョンができている国のひとつだと言われています。ただ、そうはいってもごくわずかに障害のある子どものための特別な学校が残っているそうです。今回はその「イタリアにおける特別な学校」がテーマのセミナーです。申し込みサイトの説明には、以下のように書かれています。・1970年代の末になり、イタリアは健常児と障害児の分離教育を廃止して、障害の有無に関わらず、誰もが地域の学校に通う教育へと大きく方向を転換させました。 それ以来、イタリアは、フルインクルージョン体制を大原則として、教育制度や教育現場の改善に努めてきました。 その結果、現在では障害のある子どもたちの99%以上が、地域の学校で一緒に学んでいます。 ここで、あえて「99%以上」と記したのは、障害のある子どもたちの通う特別な学校が、割合としてはごくわずかですが、イタリアには残されているからです。(申し込み先のPeatixのサイトより)以前あったオンラインセミナーもそうだったのですが、イタリアのインクルーシブ教育についての生のお話が聞ける大変貴重な機会であると思います。セミナー講師の大内進先生は、昨年出版された、次の本を監修された方です。『イタリアのフルインクルーシブ教育 障害児の学校を無くした教育の歴史・課題・理念』(アントネッロ・ムーラ、大内進監修、大内紀彦訳、明石書店、税込2970円)イタリアのインクルーシブ教育を概説したイタリアの本の翻訳出版です。日本語訳の出版をクラウドファンディングで応援させていただいた縁で、僕は2冊も送ってもらいました。(ほんとうは1冊送っていただくというのがクラファンのリターンだったのですが、初版にミスがあったとのことで、訂正版もいただいたのでした。)なかなか読み進めることができていないのですが、イタリアのインクルーシブ教育には興味がありますので、この機会にこちらの本も、少しずつ読み進めていきたいと思います。▼イタリアのフルインクルーシブ教育について、お話を聞きました! (2022/08/23の日記)※本当にめっちゃ関連する過去記事です。 ぜひ合わせてお読みください。
2023.01.29
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今年度は授業づくりネットワーク理事長の石川晋先生に大変お世話になっています。授業づくりネットワークはすでに25年以上活動されている教育研究団体です。僕が若い頃にはかなり勉強させていただいた団体です。とてもたくさんのことをとても楽しく学ばせていただきました。近年の本(雑誌)は全然読んでいなかったのですが、昨年、気になるところをチョイスして購入し、久しブリに読み始めました。これが、すごく、おもしろい!毎回特集されるテーマが違うのですが、教育界のみならず多分野の実績ある方が寄稿されていて、大変勉強になります。昨日、長らく時間を掛けて読んできた次の本を、ようやく読み終わりました。授業づくりネットワーク(No.26) 『ゲーミフィケーションでつくる!「主体的・対話的で深い学び」』(藤川大祐 編著、学事出版、2017、税別1400円)すごく、よかったですどの記事もすごく勉強になったのですが、これの最後から2つめに掲載されていた福山憲市先生の「インクルーシブな学級づくりを支えるゲーム手法」は、特に新鮮な学びに溢れていました。(同書p100~105に掲載)僕はいつも4色ボールペンを片手に持ちながら本を読みます。そして、自分が覚えておきたいところは、即座に線を引きます。線を引いたところは、後で読み返したいところです。4色のうち、黒色は目立たないので使いません。赤・青・緑の3色を使い分けながら、線を引きます。福山憲市先生の「インクルーシブな学級づくりを支えるゲーム手法」は、3色使いまくりの線引きまくりになりました。のっけからグイグイ引き込まれる文章でした。自分もぜひやってみたくなる実践でした。教育の世界には、「これひとつで、いろいろと応用が利く」ということが、けっこうあります。勉強熱心な先生方は世の中にたくさんいますが、そういった応用範囲が広い学び、1つ学べばいろんなことに通じる学びを知ることが大切だと思います。勉強しないといけないことは山ほどあり、バラバラに勉強しているときりがないですからね。僕は昔から「これだけでいろんなことに通じる」ということを知るのが大好きなのです。福山憲市先生が書かれていたのはまさに、それでした。多忙な教師がもし10分だけ、ひとつだけ読んで勉強するなら、何を読むのがいいかと問われたとき、僕はこの先生のこの内容をぜひオススメしたいと思いました。だからこそ、こうやって今、このブログに書いています端的に紹介させていただくと、「プラスワンの心」という声かけが、子どもたちに浸透していくと、いろんな場面でいろんな子のよさを認めることができる、という実践報告です。最初の書き出しは漢字の指導場面から始まるのですが、それがいろいろな場面に広がっていって、つながっていって、ついには「インクルーシブな学級づくり」につながっていくところが、とても感動的でした。わずか6ページですが、躍動感のある文体で、福山憲市先生の教室の雰囲気がかなり伝わってきます。先生が普段子どもたちに言われている言葉の数々が、そのまま登場します。これが、とても気持ちいいです。ムダのなく、洗練された言葉です。それでいて、ユーモアもあります。実は僕も似たような系統の実践はしているのですが、僕の言葉はまだまだムダが多いなあと反省しました。福山憲市先生の実践にふれて、気持ちがシャキッとしました。またがんばろうと思いました。(蛇足)まったくどうでもいい情報ですが、福山憲市先生、なんと、僕が卒業したH大学の大先輩でした。ちょうど昨年の8月にオンライン同窓会を僕が企画して実施したところだったので、大学時代のことも、またちょっと思い出しました。
2023.01.07
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同じ本の読書メモを続けています。今日で、5回目です。いちおう、少しは楽しみにしていただいている方がいるようです。その人のために、書きます!『はしゃぎながら夢をかなえる世界一簡単な法』(本田 晃一、SBクリエイティブ、2017、1540円)(これまでの記事)▼第1回: 「人は長所で尊敬され、短所で愛される」▼第2回:「そもそも・・・」▼第3回:ステキなビジョンを描いてみせよう!▼第4回:「この人は素晴らしい」と思って、相手に共感する第2章「運も幸せもみんな『人』がつれてくる」の続きからです。前回最後の次回予告で書いていた、「相手の『悲しかったフォルダー』がパカッと開いたとき」「女は共感してほしい生き物、男は認めてほしい生き物」の話に入っていきます。本田 晃一『はしゃぎながら夢をかなえる世界一簡単な法』その5 ~第2章の途中のp148から最後まで~(・太字部分は、本の引用。 顔マークのあとの緑文字は僕の個人的コメントです。)・相手の『悲しかったフォルダー』がパカッと開いたときは、深くうなずいて聞いてあげればいい・「そっか、それは悲しかったよね」・くれぐれも、ジャッジやアドバイスをしてはいけません。(p150より) 相手の悲しみを自分のことのように悲しんでくれたら、それだけで癒えていきそうですね。 ただ、自分のことを振り返ってみると、やはり感情的な共感というのが苦手で、ついつい余計なことを言ってしまっているなあ、と思います。 ジャッジやアドバイス・・・してしまってますねー。 男性と女性で比べてみたとき、特に男性はジャッジやアドバイスをしてしまう傾向にあるようです。 ・女は共感してほしい生き物、男は認めてほしい生き物(p150より)・女性はただ話を聞いてほしかっただけなんです。(p151より) これがなかなか、わからない。 同じようなことは、他の本でも読んだり、人から聞いたり、妻から意見されたり(笑)もするんですけどね。 同じことを繰り返しているような気がします。ここまでが第2章の内容。このまま一気に第3章に入ります!・「自己重要感」を「与える」・それができるようになるには、「自己重要感」がなくてもいい、と思えるかどうか・満たされていないと「自己重要感」に執着します。・セルフイメージが高くて、自分が満たされていれば、「僕、バカなんです」さえ堂々と言える(p197より) ここの話、すごく深いと思いました! 自分自身が自己重要感にこだわっていないからこそ、他人に自己重要感をあげられるんですね! 自分を下げて、人を上げることができる。 だから、物事の順序として、まずは自分が満たされること。 「もう十分満たされた」と思えること。 社会全体がこういった好循環に入っていけるといいのにな、と切に思います。 この逆は、結構あるような気がするのです。 自分のセルフイメージが低くて、他人の自己重要感を奪っちゃうことが。このまま、最終章の4章に書かれている内容にも、つなげていきます。・うまくいっている人は、周囲と楽しくつながれる人・人の力を借りて苦手なところをやってもらうとうまくいく(p229より)・重要なのは「自分はバカでいい」ということにOKが出せるかどうかです。・「自分への評価なんて、どうでもいい」と思っている点です・(p235より) 僕は、なかなかここまで思えないでいます。 アクセス数も、すごく気にしてるし、人の目も、すごく気にしています。 結局、ここなんだなあ。 まだまだ、自分が満たされたりていないのかな・・・。 人間、得手不得手があって、当然。 完璧な人間なんて、いないんです。 それなのに完璧であろうとすると、苦しくなる。 自分の苦手をあからさまにさらして、 苦手なことは、人に助けてもらえばいい。 それが、協力ということなんでしょうね。 自分の場合、まだまだ「自分が」「自分が」になってしまっているなあ、と思いました。 「自分はバカでいい」って、何度も唱えるといいのかな。 バカなことはいっぱいやっているのに、自分はバカでいいとはなかなか思えない、バカな自分です。さあ、長らく同じ本の読書メモを続けてきましたが、これで終わりです。いかがだったでしょうか?僕はいろいろと反省させられました。この本の著者の本田晃一さんは、ホームページでセミナー動画を公開されています。本書の内容に興味を持った方は、みてみるといいかもしれません。▼本田晃一オフィシャルサイト https://hondakochan.com/それでは、次回からは全く別の内容で!(今回を踏まえた内容になる可能性は、大です。)
2022.12.28
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ブログのアクセス数をけっこう気にしています。このところ毎日更新していましたが、昨日は下がっていたので、ショックでした。ここ1ヶ月のピーク時の半分くらいでした。クリスマスイブだったので、世の中の人は、ブログなんか見ないんだと思います。改めて昨日引用した内容を読み返して、「ああ、そうか」と気づきました。「ショックを受ける」ということは、「よくありたい」という気持ちの裏返しだ。やる気があるから、ショックを受ける。結果よりも過程に目を向けよう。自分の、やろうとする気持ちを、大切にしよう。そんなわけで、今日もクリスマスなので読まれない気がしますが、自分のために、書きます。昨日の本の読書メモの、続きです。『はしゃぎながら夢をかなえる世界一簡単な法』(本田 晃一、SBクリエイティブ、2017、1540円)昨日は第1章を参照しました。今日から第2章に入ります!第2章のタイトルは、 「運も幸せもみんな『人』がつれてくる」『はしゃぎながら夢をかなえる世界一簡単な法』その2 ~第2章の初めからp107まで~(・太字部分は、本の引用。 顔マークのあとの緑文字は僕の個人的コメントです。)・僕から見て嫌だな、と思う人が出てきたときは、だいたいが自分が受け入れていない過去のダメだったころの自分像だから、そこを受け入れて、寝る前に「よしよし、あのときはうまくやったよ」とダメな自分にOKを出してやります。(p97より) 「僕から見て嫌だな、と思う人」と出会うことは、人生の中で、繰り返しています。 最近は、なんと、わが子なんですよね・・・反抗期なのかしら~ もちろんわが子のことは大好きですが、えらそうに、いやなことを言ってくることがあります。 家族でお出かけするときに、「そんなとこ行きたくないのに、勝手に決めるなー」とかね。 勝手に決めたんじゃなくて、計画するときに一度話はしているんだけど、忘れてるんですよね。 どうも家でゲームばかりしておきたいみたいで・・・。 ただ、たしかに引用箇所の文をこうやってブログに書き写して、改めて考えてみると、子どもの頃の自分にも、そういうときがあったなーと思います。 ゲームばかりしておきたいときが!(笑) また、年頃になると、「勝手に決めるな」的なことは、よく思ってましたね。 僕の場合、あまり口には出さなかったけれど。 ずいぶん前ですが、カウンセラーさんと面談したとき、 「あなたの場合、反抗期がなかったんじゃないですか」 と言われたことがあります。 自分には反抗期がなかったから、自分の代わりにわが子が自分の分まで反抗期をやってくれていて、それを乗り越えるプロセスを一緒に経験させてくれているのかもしれない。 そう思うと、必要なことかもしれないですね。 急に来たなー、反抗期。(^^;) ・「そもそも僕はこういう両親に育てられて、こういうものが本当に大事だと思っていて、こんな夢を持っています。」(p106より、事例の中に出てくる 婚活を成功させた人の言葉) 次のページでは「そもそも掘り」として紹介されています。 最近読んだ別の本でも「過去の自分を思い出して自伝を書きなさい」ということが書いてありました。 「そもそも自分は・・・」を改めて考えるって、大切なんですね。 それができると、仕事も成功するし、婚活も成功するらしいです。(笑) 僕の場合は、そもそも、親のことを全然考えてこなかったなあ・・・。 いつも、自分のことばかりで。 ああ、だから、今わが子がそうなっているんだ。(>。<) 自分の場合、子ども時代からそもそも何を大事にしてきたかっていうと、それは空想の世界。 物語とか、マンガとか、ゲームとかの世界観にはまって、空想の世界を楽しむ子どもでした。 それは、もしかすると現実逃避かもしれないけれど、空想の世界=ファンタジーのもたらす癒やしの力や、勇気づけの力、夢を叶えさせる力というのも、あると思っています。 そういう夢を、今度は自分が創り出すもので実現したい、という夢があります。 このブログもそうですね。 自分のために書いているけれど、やっぱり、人の力にもなれるといいな、と思って書いています。 ブログの中身は空想物語ではないけれど、頭の中にある目に見えないものを見える化するという点では、同じだと思っています。 あ、また、だからアクセス数が気になるというところに戻ってきた。(笑)第2章はまだまだ続くのですが、長くなったので、今日はここまでにします。次回は、スティーブ・ジョブズのiPhoneが売れた理由から、書いていきます。あなたにもお役に立つところがあれば、幸いです。
2022.12.25
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昨日の続きで、教育における演劇について、さらに深く考えていきたいと思います。主体的に演じる演劇という遊びを、どのようにして教育の中に取り入れていくのか。その具体的な実践事例として、とてもおすすめのDVD付き書籍があります。それが、この本です!↓『ユーモア的即興から生まれる表現の創発 発達障害・新喜劇・ノリツッコミ』(赤木和重 編著、クリエイツかもがわ、2019、税別2400円、DVD付き)いきいきと即興でお笑いを演じる子どもたち、そのクオリティの高さ、そこにある意味について、ズガンと衝撃を受ける本です。赤木先生の編著になっていますが、主として「キミヤーズ」の村上公也先生の実践を報告した本です。村上公也先生はユニークな実践をされている特別支援教育のスペシャリスト。村上先生のことは以前のブログ記事でも何回か書いていますので、よければそちらもご参照ください。▼キミヤーズ塾オンラインでの村上先生のお話(「1しか言えない」ではなく、「1が言える」など) (2021/02/27の日記)村上先生の教え子たちは、卒業してからも村上先生のもとに集まっているそうです。その名も、イチゴママ塾。いちおう学習会なのだそうですが、そこでの学びの深さ、レベルの高さに、非常に驚かされます。村上先生は、次のように書かれています。・成長だとか発達だとかを目指し、成果だけを追い求めて、軋み合っている教育現場から離れて、知的好奇心を遊ばせる空間に自由人たちが憩いを求めて集まってくる。(p90)「学び」の理想型がここにはある気がします。「成長だとか発達だとかを目指し、成果だけを追い求めて、軋み合っている教育現場」の住人である僕は、とてもドキリとしました。成果主義に陥らないようにしようと心がけてはいるのですが、学校というところは、どうしてもそういう傾向から抜け出せなくなってしまいがちです。だからこそ、本書のような、違った価値観を真正面からぶつけてくる実践本に、出会っておく必要があるな、と思います。本書では村上実践だけでなく、砂川実践も紹介されています。砂川一茂さんは放送作家。誰でも簡単に参加できる「体験新喜劇」の普及に取り組まれている方です。札幌市教育文化会館のホームページでは、砂川さんがつくられた、「誰でも漫才ができる台本」が公開されていますので、よければアクセスしてみてください。▼<教文たまてばこ> 砂川先生からのメッセージ砂川実践について、筑波大学の茂呂雄二先生は、次のように書かれています。・虚と実を超えるパフォーマンス・どこが演技でどこが演技でないのか、どこが台本通りでどこが台本と違うのか、そんな区別ができない、区別がアホらしくなるパフォーマンス・台本から外れた大失敗ともいえるものが、じつは大きな笑いにつながっていました。 そうなると、これは失敗ではなく大成功なわけです。 砂川一座のパフォーマンス空間には失敗や間違いという文字はないようです。 失敗がないということは、リスクをとってチャレンジができる発達の空間だといえます。(p146)ここで紹介されているパフォーマンスを演じられたのは、エコールKOBEのみなさん。障害のある青年たちです。通常の学校であれば、障害があることによってできないことが多く、失敗経験を重ねてしまうということが多く見られますが、砂川実践ではむしろそれが逆になるということが痛快であり、気持ちが明るくなるところです。通常の学校の教育改革にも、こういった要素が、少しでも入っていけたら、と思っています。赤木先生は本書の中で、今の日本の特別支援教育について「能力・スキル向上至上主義教育」「『できる』ことにこだわっています」「計画通りに、子どもを教えようとする傾向が強い」と書かれています。(p161)僕たち教員は、そのことに自覚的になり、その一方で、教育の中身の幅を広げるべく、努力する必要があります。それは、多様性を受け入れて、寛容な教育をすることにつながります。それこそ、全ての子が輝く、インクルーシブな教育です。赤木先生は、村上実践と砂川実践を受けて、次のように、書かれています。・予定通りにいかないことこそが面白い・「ユーモア」と「即興」です。(p164)・ユーモアの奥底にあるのは、「できる」ことではなく、「できなさ」を含み込んだ子どもの「ありのまま」に注目しているところです。そして、その「あなたのありのままが面白いよね!」というメッセージを子どもに伝えているところです。 「能力の向上」ではなく「存在の肯定」を大事にしています。(p165)今の日本の学校教育とは異なる価値観が、ここにはあります。どの子もみんなの中で輝く、インクルーシブな学校を作ろうとするなら、ユーモアをとりいれることは、必須のことかもしれません。最後に、本書にはコラムとして、東京学芸大学の渡辺貴裕先生も、寄稿されています。そのテーマは、ズバリ、「演劇と学校教育」。その中で、「先生が実況中継風にナレーションを入れる」という例も、書かれていました。(p78)子どもが間違ったセリフを言っても、子どもが何をしても、実況中継のナレーションで「今日はなんだか、ちいさいヤギが中くらいのやぎっぽい!」(p79)などと、フォロー(?)をすることができるそうです。今はYouTubeでも実況中継の動画が、はやっているようです。先生が実況中継風のナレーションをつけることで、何が起きるか分からない状況を楽しんだり、予測がつかないことをする子どもたちに舞台上での活躍の機会をあげたりすることができそうですね。「即興演劇」には、演劇の醍醐味がつまっています。日常を即興演劇として楽しむことができれば、どんな状況でも楽しめるようになりそうです。渡辺貴裕先生は、『なってみる学び』という本を書かれています。買ってからしばらく本棚に置いたままにしていましたが、そろそろ読み始めていこうと思います。『なってみる学び 演劇的手法で変わる授業と学校』(渡辺貴裕)
2022.12.05
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11月23日の祝日。兵庫県小野市で、とてもすてきな学習会がありました。テーマは「インクルーシブ教育を考えよう ~子ども本人の視点に立って~」障害当事者や親御さんの生の声を聞き、「インクルーシブ教育」について考える会でした。僕は、オンラインで視聴しました。その会の中で、「インクルネット西宮」の元代表の方が、話をされました。冒頭で、YouTubeに公開されている「報道特集」を見ました。この内容がとてもよかったので、共有します。TBS報道特集「インクルーシブ教育が変えるもの」2022.4.23(22分27秒)4分20秒あたりから、カズキくんのお母さんやご本人、友だちが登場します。8分30秒あたりで、お母さんが言われる「なんであっちに行かないの?という同調圧力が強力だった」という言葉が、心に突き刺さりました。日本は同調圧力が強い国だと言われます。それは、マイノリティが生きにくいことに直結しています。障害のある人は社会の中では少数派です。少数派が生きにくい社会は、ほかのひとにとっても、生きにくい社会です。人は、生きていく中で、変わっていくからです。「インクルーシブ教育」は最近流行りの「SDGs」にも書かれているそうです。多様な人が生きやすい社会・学校こそ、目指していかなければなりません。カズキくんが在籍していた中学校のクラスでは、お互いに教え合う雰囲気が全体に広がり、クラスの成績も上がったそうです。学力が上がることは、副次的な効果でしかありませんが、結局は、いろんな子がクラスの中で学びあった方が、豊かな学びが保障できるということだと思います。「インクルネット西宮」では、今年、「障害のある子の入学ガイド」を作成されています。そこでは、障害のある子が別の場所ではなく、いっしょに学んでいくことについてのとても参考になる情報が詰め込まれています。具体的な実例が、写真付きで掲載されていて、ともに学ぶ子どもたちのやさしさと力強さを感じることができます。「インクルーシブ教育」に関心のある方にも、ぜひ見ていただきたいです。学習会の中で言われていた内容も、写真付きで出てきて、「友だちとのかかわり」を、とてもほほえましく感じました。同ガイドの8ページにある連絡帳に友だちが書いてくれたメッセージや、35ページにある友だちが代わりに書いてくれた詩などは、ぜひ見ていただきたいと思います。▼インクルネット西宮 https://minnaissyo.wixsite.com/inclunet-nishinomiya
2022.11.27
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宝塚歌劇を観に行った帰りに宝塚駅近くの書店で買って帰った本を、読み終わりました。(宝塚歌劇観劇の日の日記は、こちら。)『東海高校・中学校 カヅラカタ歌劇団の奇跡』(鈴木 隆祐(りゅうすけ)、駒草出版、2022/7、税別1600円)かなり刺激的な本でした!なにしろ、宝塚歌劇の、まんま、男の子版!すべての役を、男子中学生や男子高校生が演じているのです。しかも、それが本家の宝塚歌劇を彷彿とさせる再現度らしいのです。「これは、おもしろい!」と思って、数ページ立ち読みして、迷わず買って帰りました。そして、その甲斐あって、やっぱりすごく、面白かったです。劇の解説などは、劇自体を知らないとよく分からないところはありましたが、こういった「部活」が成立していて、その中で生徒さんが成長していることが、本書を通して、かなり伝わってきました。それを成り立たせているこの学校自体も、素晴らしいと思いました。↓カヅラカタ歌劇団の本気の舞台は、こんなのです!!!(※注:ブログ内再生は禁止されています。リンクを開いてご覧ください。)本を読んでいたのではんぱないステージを作っているのは知っていましたが、まさに圧巻。東海高校・中学校の生徒さんだけでなく、保護者や地域の他の学校の方の協力もあって、非常に質の高いステージを実現できているそうです。生徒さんがイキイキと演じられるのも、そういった周りの応援があってこそなのでしょうね。印象的な記述がいくつかあったので、本書の読書メモ、残しておきたいと思います。鈴木隆祐『東海高校・中学校 カヅラカタ歌劇団の奇跡』(・太字部分は、本の引用。 顔マークのあとの緑文字は僕の個人的コメントです。)・(山本五十六の)「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」が、東海の教育方針と重なる・まずは自分を生かす。 そして、自身につながるすべてを生かす生き方をする。(p67)山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」は知っていましたが、その続きがあるとは、知りませんでした。続きがまた、名言ですね。なぜこちらはあまり広まっていないんだろう。僕が知らなかっただけかな?カヅラカタの生徒さんがカッコイイのは、こういったカッコイイ教育方針があるからこそなのでしょうね。カヅラカタ歌劇団の方針もカッコイイですが、学校全体の教育方針や学校全体の雰囲気も、またカッコイイです。↓↓・「同調圧力がいい意味で全くない。」・「各々が個性を当然として受け入れている。」・仏の教えが底辺に流れるからこそ、とても寛容な学び舎なのだ。 (p238より。「」内は、卒業生の言葉。)私立の仏教系の学校なので、そこのところがベースにあるようです。 仏教には、僕もたしかに寛容な精神を感じています。 公教育では特定の宗教に肩入れするようなことは御法度ですが、こういった雰囲気はぜひ真似したいと思いました。最後に、カヅラカタ歌劇団の顧問を長らくされていた久田教諭の言葉を引用させていただきます。↓↓・中高生時代に育むべきは、”良質な自己肯定感”だ (p242)・社会的に作られる自己否定感は社会的活動を通してしか回復し得ない・社会的な活動を通じて、他者と共同してなにかを作りあげることが自己肯定感を育む・それによって他者と共生する良質な自己肯定感は育まれる (p243)久田教諭が、ご自身の体験から体得された原理。 演劇活動と大舞台を作りあげるために周囲と協力しながら本気で活動することが、生徒たちの「良質な自己肯定感」を育んでいることは間違いないと思います。 宝塚っぽいユニークな歌劇団の本を買って読んだと思ったら、教育書として思いがけず刺激を受ける1冊ともなりました。東海高校や中学校は「共生」と書いて「ともいき」が学校のポリシーで、子どもたちはいろんな活動を通して自己実現をはかっているそうです。本で読んだだけですが、個性を伸ばす素晴らしい教育をされているように感じました。読書メモに書いたことは、忘れずに覚えておきたいです。そして、自分の教育実践にも、ぜひ生かしていきたいです!
2022.09.21
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今週の月曜には、念願だった石川晋先生による研修会を行いました。任意参加の自主研修会で、勤務市内の多くの方に参加を呼びかけました。他の自主研修会とかぶってしまったこともあり、オンラインとオフラインを合わせて10人という少人数でしたが、少人数だったからこそ参加者が意見を出しやすかったこともあり、とてもいい研修会になりました。石川晋先生は、授業づくりネットワークの理事長を務められています。僕は、授業づくりネットワーク主催のセミナーには過去に何度か参加させていただきましたが、「授業づくりネットワーク」誌は、購読していませんでした。今回、ご縁があったことをきっかけに、興味があるテーマを扱っている「授業づくりネットワーク」誌を購入し、読みました。その中の1冊が、今回のタイトルである、この本です。『授業づくりネットワーク(No.25) インクルーシブ教育を実践する!』(藤川大祐 編著、通巻333号、学事出版、2017、1400円)▼出版社公式サイトによる書籍紹介「授業づくりネットワーク」誌は、10年以上前に何度か手に取ったことはあったはずですが、新しい装丁になった今のバージョンには初めて触れました。雑誌というより、思いっきり、「本」になっていました。A5サイズで、おしゃれで、読みやすく、保存に適した装丁です。本棚に並べるのが、楽しくなります。「授業づくりネットワーク」についての詳細は、以下の公式サイトをお読みください。▼授業づくりネットワーク https://www.jugyo.jp/さて、「インクルーシブ教育」です。昨今はこれをテーマにした本がかなりたくさん出るようになりました。本書も、「インクルーシブ教育」を概観し、再考し、実践を問い直すうえで、またとない本になっていると思いました。「特別支援教育」の分野で何度もお名前をお見かけする方が、軒並み寄稿されておられます。まずは、力強いタイトルから、勇気をもらいました。『インクルーシブ教育を実践する!』インクルーシブ教育は実践が一番難しいのです。「理念としては共感するが、目の前の子どもたちと今の教室でどう実践していけばいいのか」と悩まれている方が多数いらっしゃると思います。今の世の中の大多数の悩み・問題意識に合致する、見事なタイトルだと思います。僕は速攻でポチりました。(笑)では、本書の中から、いくつか、覚えておきたいと思ったところを、引用・紹介させていただきます。【巻頭対談】川上康則×野口晃菜「インクルーシブ教育を実現するために必要なこと」より・目指す方向性としては、「排除のない社会のための教育」(p2)・私はいつも子どもから学び、教師として成長させてもらっていると思っていますから、子どもを自分から選ぶというような発想は持っていない(p4 川上先生の言葉から)・いわゆる気になる子よりも周りの子のほうが優先順位としては先なんだ・「”気になる子”を気にする子」を先に考えていかないといけない(p7 川上先生の言葉から)方向性を見据える、というのを、再確認しました。社会をインクルーシブなものにするためにも、決定的に重要だと思うのが、やはり「(教育する)子どもを自分から選ぶ」というような、選民思想のようなものがあることに気づき、それを改めていくことだと思います。月曜夜のイタリアのインクルーシブ教育についての学習会でも、「イタリアではすべての子が通常の学校に入学してくるので、どんな子が入ってくるにしても、入学してくる子に合わせて用意をしている」という話がありました。日本でも、それは当たり前のようにされている学校が、ほとんどだと思います。どんな子どもでも受け入れる、というのが、前提として、素地として、まずある。このことがやはり基本だな、ベースだな、というふうに思います。そのうえで、「実践」の話があります。本書が特徴的なのは、幼児教育から高等教育までの具体的な実践の話が、それぞれの立場から載っていることです。■インクルーシブ教育を推進するための各学校段階におけるキーポイント・幼児期におけるインクルーシブな教育・保育/久保山茂樹・小学校におけるインクルーシブ教育/田中博司・中学校におけるインクルーシブ教育 ~「個別化・協同化・プロジェクト化」をものさしに一歩ずつ進めていきたい~/石川 晋・高等学校におけるインクルーシブ教育 ~インクルーシブな高校づくりの試み「対話のフロントライン」を基点として~/中田正敏・大学におけるインクルーシブ教育 ~ナラティブ・アプローチの視点から~/齋藤清二(公式サイトによる「目次」より)特別支援教育が始まったときに、ライフステージをまたいだ支援、貫く支援といったことが盛んに言われていました。自分の所属校種だけでなく、子どもが来た道、これからたどっていく道を、イメージできていることは、大きいと思います。特に、就学前教育では、「統合保育」という言葉があるように、インクルーシブ教育が、自然とできていたり、それが当たり前だったりするものです。この特集の中で「幼児期におけるインクルーシブな教育・保育」を書かれている久保山茂樹先生が、「特別支援教育は幼児教育そのものである」(p68)と言い切られているのが、印象に残りました。つながりを意識しながら、子どもが途中で排除されてしまうようなことがないようにしたいと思います。あったはずのつながりを、無自覚な大人が切ってしまう、ということは、絶対に避けたいです。
2022.08.25
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昨日の夜に、オンラインで、イタリアのフルインクルーシブ教育についてお話をうかがうことができました。インクルーシブ教育とは、簡単に言うと、障害のある子もない子も、同じ場所でともに学ぶ教育のことです。イタリアは日本のように特別支援学校や特別支援学級がなく、障害があってもなくても、通常学級の中で、すべての子どもたちが一緒に学んでいるそうです。今回のオンラインの勉強会は、「イタリアのフルインクルーシブ教育に関する本を翻訳出版する」というプロジェクトがクラウドファンディングであり、その応援をしたことをきっかけに、ご案内いただいたものです。▼イタリアのフルインクルーシブ教育の全体像を紹介する書籍を出版したい!! (CAMPFIREクラウドファンディングサイト)イタリアの教育をよく知る方々から貴重なお話が直接聞けて、とても有意義でした。イタリアの状況を具体的に知るにつけ、「それは、いいなあ」と思うことが、たくさんありました。たとえば、通常学級の定員です。(イタリアには通常学級しかないのですが。)通常学級の定員は27名と決まっており、これだけでも日本よりもずいぶん少ないのですが、さらに、障害のある子がその中にいた場合、定員はさらに少なくなり、大きすぎる集団でともに学ぶことはないようになっているそうです。僕が今まで見てきた教室のことを考えても、35人学級や40人学級の定員ギリギリいっぱいのクラスは余裕がなくて、少人数学級のほうが担任にも子どもたちにも余裕があるように見えたので、こういった仕組みは、「なるほど」と思いました。また、小学校教育においてはカリキュラムや学習内容などにおいてもイタリアのほうが余裕があり、障害があってもなくても、一緒に楽しく過ごせる場面が多くあるようです。「日本でも見習いたい」と思ったことが、たくさんありました。このクラウドファンディングでは、支援していただける方をまだ募集しているようです。興味・関心がある方は、ぜひ!今回の本の出版以前にも、イタリアのインクルーシブ教育について書かれた本を出されていたことも、昨日の会で知りました。『イタリアで見つけた共生社会のヒント フル・インクルーシブ教育に基づく人々の暮らし』[ 2 0 1 9 年度地域コアリーダープログラム・イタリア派遣団 ]僕は、もともと教職員組合の勉強会でインクルーシブ教育について知り、その後も組合のインクルーシブ教育にかかわっておられる方や、つながっておられる方から、学んできました。今回、組合とは関係ない方でもインクルーシブ教育について推進されようとしている方がたくさんいらっしゃることを知って、勇気をもらいました。日本でのインクルーシブ教育実現に向けて、自分もまだまだやれることがある、と思いました。実は8月23日の今日は、日本のインクルーシブ教育について、国連で話し合われる日でした。どうなったかな・・・?
2022.08.23
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GWなので自分の子どもと一緒に過ごす時間が増えました。それはいいのですが、そうなると、イライラして怒ってしまう時間も増えました。たとえば、「ご飯だよ」と言っても、来ない。2度3度同じことを言わせる。そうすると、腹が立つ。だいたい一事が万事、こんな調子です。そういうことが続くと、気持ちが落ち着かなくなって、ちょっとしたことで怒るようになりました。さすがに、これはヤバいと思い、落ち着いて考えるようにしました。昨日、寝るときに、布団の中で、考えました。そもそも、自分は怒るつもりはないのに、「怒ってしまう」のは、なぜなのか?アドラー心理学の本には、「怒り」とは出し入れ自由な感情であり、自動的に怒ってしまうのではなく、怒ることを自分で選んでいるのだと、書かれていました。しかし、今の自分の状況は、同じことが何度も続くなどの状況から、どうやら自動的に怒ってしまうのです。そして、自分も、疲弊しているのです。考えに、考えて、ある一つの結論に達しました。自分が、怒ってしまう理由。それは、「自分をえらいと思っているから」。大人が子どもを怒るのは、大人が子どもよりもえらいと思っているから。自分が正しいと思っているのに、相手が言うことをきかないと、怒ってしまいます。それは、自分が相手よりもえらいから、相手は自分の言うことをきくべきだと、暗に思っているのです。「そうか」とストンと落ちました。怒ってしまう状況も、自分をえらいと思っていることが原因なら、自分で直すことができます。自分をえらいと思ってしまうことは、そもそも本意ではありません。それに気付いた後は、同じことを何度も言い続けることができるようになりました。怒っても、怒らなくても、同じことを何度も言わなければいけないのは、同じです。結果は、変わりませんでした。ただ、自分が疲れないように、なりました。「怒る」ことは、ときには必要かもしれません。しかし、「怒ってばっかりで自分が疲れる」と思った時、「自分のことをえらいと思っているからだ」という視点で自分を見ると、事態は少し、変わってきました。
2022.05.06
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現場視点のインクルーシブ教育の本が増えてきています。僕がインクルーシブ教育について知った20年前にはまだ言葉自体もさほど知られていなかったことを思うと、隔世の感があります。20年前に僕は、組合の学習会で「世界の潮流はインクルーシブ教育です」と熱く語られ、「そうなんだ!」と目を輝かせました。「障害を理由に分離しておいて統合しようとするのはインクルーシブ教育ではない。そもそも分けないことだ」と教わりました。いろんな子が通常学級の中にいる、それが当たり前。そのことをふまえると、インクルーシブ教育とはまず第一に、通常学級の場の中で行われるべきものです。最近拝読したこちらの本は、通常学級の中でどんなふうにして「気になるあの子」が一緒にやっていくかを、「自立活動」の観点から書かれたものでした。『通常学級『自立活動』の発想による指導 (つなぐ・つなげるインクルーシブ教育)』(土居 裕士、学事出版、2021/10、税別1600円)通級指導などで行われている「自立活動」は通常学級の場の中で十分できるものだと提案されている本書は、今までにありそうでなかった本であり、非常に画期的な提案を含んでいます。現場視点に貫かれた本です。大変参考になるエピソードが、具体的に収録されています。今現場で困っている方に最適な参考書になることを、受けあいます。特に印象的だったのは、シャツが出たままで無頓着な子どもに対して「おっ!シャツ王子!」と声をかけるシーン。土居先生は、「”子どもも、教師も、困難さと上手に付き合っていこう”という発想」「困難なことを面白がるということ」と表現されています。(同書p63)こういう発想が、本当に大切だなあ、と思いました。特別支援教育で著名な先生方には、こういった発想をお持ちの方が多いです。単に「障害」に向き合うときの考え方というより、もっと広範囲に、さまざまな起こりうるトラブルや困難に対して、目を吊り上げて正面突破するのではなく、笑いながらさわやかに対応するという軽やかさが大事なのだと思います。問題をあまりにも問題としてとらえすぎてしまうと、問題が問題として固定化されてしまう、ということがよくあります。ユーモアをもって、明るく楽しく、問題を「無問題」に変えていきたいですね。さて、学校生活の大部分が授業ですので、授業におけるインクルーシブ教育をどう進めるかにも、少しだけふれておきたいと思います。授業におけるインクルーシブ教育こそ、もっとも子どもたちが直面している「問題」です。これを明るく軽やかに解決できれば、日本中のインクルーシブ教育は、成ったも同然です。これについては、僕は「1人ではできないことでも、みんなの中でならできる。子どもの力を借りることだ」ということを強く思っています。そういう意味で言うと、いわゆる「協同学習」という形態が、特にインクルーシブ教育を進めていく上では望ましいと思います。(上越教育大学の西川純先生は、似たような概念で『学び合い』ということを提唱されています。)本書の中でも協同学習のことはふれられていますが、協同学習を実施する上で先んじて行うべきことが、本書では強く訴えられています。それは、「協同の精神」です。・共同の精神とは「自分の学びが仲間の役に立ち、仲間の学びが自分の役に立つ」というものです。 これを折に触れ、何度も何度も共有していきます。これは絶対条件です。 (p93)「この精神あってこその、協同学習である」という主張に、強く共感しました。アドラー心理学では、「幸福とは、貢献感である」ということが言われています。相互に幸せを分かち合うクラス集団は、お互いがお互いに貢献し合い、協同して貢献を行っていけるクラス集団であると思います。「何のために学ぶのか」が、自分のためであっては、協同学習は成り立たないのです。本書で書かれているような通常学級におけるインクルーシブ教育を考えることで、社会全体の望ましい姿も、その先に見えてくると思います。日本中のインクルーシブ教育実践が今後ますます進んでいくことを、心より願っています。 ▼気持ちの切り替えが苦手な子には、パペット (2021/10/18の日記) ▼二見妙子『インクルーシブ教育の源流 1970年代の豊中市における原学級保障運動』 (2018/08/12の日記) ▼「インクルーシブ教育」を考えるテキスト『「みんなの学校」をつくるために』 (2020/07/25の日記) ▼インクルーシブ教育について考えさせられる新聞連載「眠りの森のじきしん」 (2020/05/17の日記)
2022.02.23
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昨日参観した1年生の授業が素晴らしかった!教科は、「こくご」。「くじらぐも」です。「くものくじら」が空から子どもたちに「おーい」と呼びかけると、子どもたちが「くものくじら」のところに行こうと、空に向かってジャンプをする場面です。「書かせてから発表させると、書いたことしか言わないし、書けない子が言わない」ということを発見された1年生の先生が、「思ったことを書かずに伝え合う」という授業を計画されました。その結果、ある子の発言をほかの子どもたちが聞いて、「それで、それで?」「わかったー!」などと反応し、発言が相次ぐ授業になっていました。特別支援学級在籍のお子さんも何度も発言し、「〇〇さんが言っていたのは、~~ということ」など、友達の発言を受けた発言を繰り返していました。そんなふうに、子どもが子どもの言葉を聞いてつながっていく姿が見られた授業でした。子どもたちの発言はとてもつたなくて、明快でも正確でもないのですが、子どもらしい言い方が随所に見られ、むしろそのほうが、教師の説明よりもよっぽど子どもたちに伝わりやすいようでした。最後には「僕が思っているのはねえ、」と前に出て発表しようとした子が、教材文の中の「子どもたちが円になる」という場面を実際にどうだったか説明しようとしてほかの子どもたちを呼び集め、教室前方で手をつないで実演を始めました。それまでの発言でも、黒板を子どもたちに開放したために、子どもたちが黒板に書いて説明したり、動作化をして説明したりと、多様な表現方法が見られました。「こういう授業が、まさに理想だな」と思った授業でした!▼新美南吉「ごんぎつね」の子どもの疑問:火をつけるいたずら「どうやってしたの?」▼国語教科書「たずねびと」の原爆について教える~井上ひさし『父と暮らせば』▼コロナウイルスの情報への接し方~「『想像力のスイッチを入れよう』応用編」▼宮澤賢治『やまなし』の「クラムボン」に意味があった!?▼「さかなやのおっちゃん」で楽しく買い物学習へつなげる
2021.11.18
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コロナ禍ですが、秋の運動会の練習時期なので、過去の投稿を再度シェアさせていただきます。聴覚過敏の子の対応について。運動会ダンスの曲のうち、1曲目は大丈夫だけれど2曲目はとてもいやがる、という聴覚過敏の子がいます。耳栓などの使用も考えられるのですが、こういった、ある音楽はだめだけれど別の音楽はOKという子の場合、どういう音楽がだめなのかがわかれば、「だめな音楽」自身に音響処理を施して、駄目じゃなくすることが可能かもしれない、と思いました。具体的には、ある周波数以上とか以下とかをカットするなどの処理です。そういった処理で、流す音楽自体を処理してしまうことで、曲そのものを変更しなくても、大丈夫な音楽にならないか、と思いつきました。もし仮に、本来人には聞こえないはずの高周波を聞き取れてしまうが故にその音楽を嫌がっている子がいたとすれば、聴こえない高周波をカットするフィルタリングで、その子もほかの子と同じようにその音楽を普通に聴こえることになります。もしそういうことが分かれば、それはすごい大発見だと思うのです。 あくまで、可能性の話ですが・・・。ちなみに、4年前に試した時は、聴覚過敏の子に「ちょっと加工したCD」を作ってやり、渡しました。それを先に聞き慣れたせいなのか、もともとの曲も大丈夫になって、加工なしの原曲そのもので普通に踊れるようになりました。そういうことを全くやらなかったとしても結局聞き慣れて平気になった可能性もあるのですが…。もし参考になるのであれば幸いです。↓詳しくはこちらの過去記事をお読みください。 (過去記事では音楽波形編集ソフトを使っていますが、音楽プレイヤーの各種エフェクトボタンを押すだけでも、簡易的な効果は得られると思いますよ♪)▼聴覚過敏対策に、音楽の超高音と超低音をカット! (運動会ダンス曲で耳をふさぐ子のために) (2017/10/01の日記)
2021.09.08
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今日は勤務市の教職員研修がありました。講師の先生は名城大学の曽山和彦先生でした。ただ、コロナ拡大につき直接お越しいただくことができず、ビデオ録画での講義でした。曽山先生がかなり強調されていたのが、「かかわる力」。子どもたち同士の関わり合いをルーチンワークとして定期的に取り入れることを提唱されていました。具体的には「アドジャン」というものを紹介していただきました。その場でお題の答えを一言で言っていく遊びです。これを前半に行い、前半に出た各自の答えをきっかけにして後半のフリートークへ。「なるほど」と思いました。ビデオ講義でしたが非常にうなずける内容でした。「かかわる力」と言えば、「かかわらなければ・・・」と連呼する次の歌を思い出します。偶然にも今日の帰りのクルマの中で、上の曲がかかりました。(AppleMusicでお気に入りの曲をランダム再生してよくかけています。)沢知恵(さわ・ともえ)さんの曲は名曲揃い!この機会にぜひ他の曲も聴いてみてください。ちなみに、トークのお題をICT機器を使ってランダムに決定するというのは、Web上で動作するものが、わりとあります。これからの時代は、こういうのをバンバン使って時短を図っていくのもいいですね。▼【 お題出題スロット 】トークテーマ ルーレット【talk thema roulette】 (「イーゲームズ」様)教室で使うなら、「お題」は先生が自由にあらかじめ設定できる方がいいかな?せっかくプログラミングの勉強をしていることだし、僕が作ってみてもいいですよ?(リクエストがあれば・・・)(関連する過去記事)▼沢知恵(さわともえ)ピアノ弾き語り「ありのままの私を愛して」 (2012/11/13の日記)▼インクルーシブ教育について考えさせられる新聞連載「眠りの森のじきしん」 (2020/05/17の日記)
2021.08.06
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「こどもの日」なので、「こども」に関するおすすめの本を紹介します。木村泰子先生の『「ふつうの子」なんて、どこにもいない』です。木村泰子先生は、映画「みんなの学校」に出てきた、大阪市立大空小学校の、映画撮影当時の校長先生。今は退職されて全国各地で講演をされています。いろいろなタイプの「困った」子への対応の際に、何を大事に考え、行動していくのか。その常識にとらわれない考え方に、目からウロコが落ちますよ。『「ふつうの子」なんて、どこにもいない 』(木村泰子、家の光協会、2019、1540円)この本には、世間一般の常識、大多数の学校の常識にとらわれない、木村先生のアドバイスがたくさん詰まっています。本自体はQ&A形式ではないのですが、「困った」ときの全然違う角度からのアドバイスを知るために、あえてQ&A形式で引用させてもらいます。体操服に着替えない子がいます。体操服に着替えていない場合は体育に参加させないというルールでいいですか?<木村先生の考え方>=======================・自分の服であろうと、なんであろうと、やれることをやればいいだけです。・私が親なら、 「この子は体操服に着替えることができないので、この服装のまま体育をさせてください。(略)」 と言います。・体操服に着替えないなら体育の授業を受けさせないというのは人権侵害です。(p27より)=======================体操服に着替えていないと体育に参加できずに見学になってしまう、 そういう学校はまだまだ多いと思います。 ところが木村先生は体操服に着替えていないだけで参加させないのは「人権侵害」と言い切っておられます。 もちろん、学校としてルールがちゃんと定まっている場合には、どうしてそうなっているのかを確認することも大事です。 一方で、木村先生のように、本質的に何が一番大事かを考えることも大事。 体育の時間に体育をさせないということは、国語の時間に国語を学習させないということと同じで、こどもの権利を奪っているということになるかもしれません。 ついこの間の5月3日は、憲法記念日でした。 もっとも一般的な憲法解釈では、子どもには「教育を受ける権利」があるけれど、子どもの側に「教育を受ける義務」はない、しかし大人には、「教育を受けさせる義務」があるとされています。 もしかすると、体操服に着替えていない子に体育をさせないのは、憲法違反かもしれませんよ?学校嫌いの子がいます。そういう子に、どう関わればいいですか?<木村先生の考え方>=======================・そういうことを言える子どもこそ、「ふつう」の感性を持っている・(その理由の)1つめは、教室から勝手に出られないこと。 =檻から勝手に出られない刑務所と同じ ・大空小学校の子は、しんどくなったら自由に教室を出ます。・(その理由の)2つめは、教室の中で勝手に動くことを禁じられて、椅子にじっと座れと叱られる。 =刑務所の中で、動くなと言われるのと同じ・(その理由の)3つめは、勝手に話せないこと。(p30-31より)=======================不登校になった子どもが、学校のことを「刑務所」だと言うんだそうです。ところが理由を聞いてみると、なるほどその通りだと思える、という話。すべての学校のすべての教室がそうではないと思いますが、子どもたちを「権利」ではなく「義務」でしばっていると、子どもたちが「これでは刑務所と同じだ」と思うのも、無理はありません。変わるべきは、子どものほうではなく、学校のほうかもしれません。教室で周りに迷惑をかける子がいます。周りの子の学習する権利を奪っていますよね?迷惑をかけるなら、教室から放り出してもいいですよね?<木村先生の考え方>=======================・(中学校でそういう場面に出会ったとき、)大空小学校の卒業生には、なぜ彼が邪魔で、彼のせいで勉強に集中できないなんて言うのか理解できなかったんです。 なぜなら、大空小学校ではどんな状況でも集中する力を自分で身につけるのが当たり前だったから。(p64より)=======================すべての子どもたちが、教室で学ぶ権利を持っています。 多数派の権利を理由に1人を排除する思想は、一見「権利擁護」のように見えますが、「多数のためには1人が犠牲になってもいい」という思想を子どもたちに植え付けてしまうかもしれません。 逆に、「1人のせいにせずに、それぞれが自分でできることを考えて行動しよう」という考え方で教育に臨むことで、子どもたちは大人になってからも、「〇〇のせいで」と言うことなく、自分で主体的に行動できるようになるのではないでしょうか。 子どもたちは、学習の時間において、単にその学習の内容だけを学んでいるのではなく、「どのようにして多様な他者と一緒に学ぶのか」というその方法もまた学んでいるのです。 1つ前の引用で、勝手に動けないのはおかしいという主張が出てきましたが、大空小学校では前の子が邪魔で前が見えなかったり学習ができなかったりしたときは、子どもが自分の判断で動いて学習ができるようにすることが当たり前のようです。 学校に遅刻して来る子がいます。どうしたらいいでしょうか?<木村先生の考え方>=======================・学校に来るのが面白くなってきたら、きっと遅刻しなくなる・(大空小学校で遅刻ばかりする子が遅れなくなった理由は) 彼に、毎朝早く学校に来る「目的」ができただけ。(p72-73より)=======================事例の具体的なところを引用するのはやめておきますが、大空小学校で遅刻ばかりする子が毎朝8時前に来るようになったエピソードは、その子の家庭の事情をしっかり分かっていて、その子の気持ちになって考えてあげられる学校だったからだと思えました。 遅刻をする子どもには、その子なりの理由が、必ずあります。 まずはそれを分かっているかどうか、ですね。 そして、学校が、その子にとって、来るに値するところに、なれるかどうか。 ここでもやはり、その子をどうするかというより、学校をどうするかが問われています。いじめをしている子がいます。いじめられている子を守ることが何よりも大事ですよね?<木村先生の考え方>=======================・もし、自分の子どもをいじめている子がいたら、そのいじめている子が不幸なわけだから、「その子に自分は何ができるかな」と、1人の大人として考える。・「困っている子になにができるのか」という部分でブレないことがとても大切です。(p100より)=======================いじめられている子のために何ができるのか、ということはとても大事です。 しかし、往々にしてそればかりになり、「いじめている子」もまた困っているということに意識が行かなくなります。 木村先生は「そのいじめている子が不幸」と言い切られています。 いじめは、いじめられている子も、いじめている子も、両方が、不幸なのです。 だからこそ、いじめている子のこともしっかりと考えてあげることが大事なのでしょう。しょっちゅう忘れ物をする子がいます。忘れないようにするには、どうしたらいいでしょうか?<木村先生の考え方>=======================・(落ち込んでいる本人に対して) 「直らなくてもこうやって世の中を生きてきた。 ということは、忘れ物はあなたの人生にとって、たいした問題ではないということです。 短所ではありません。 忘れ物をしたって十分生きていけるという長所なんです。」(p104より)=======================逆転の発想で、子どもが思い込んでいた「短所」を「長所」として意味づけをし直しています。 このときの木村先生の考え方の中心は、次のようなものでした。=======================・「否定しない自分に変わることができる」と知るほうが、その子にとって本当に必要で大事なこと(p105より)=======================忘れ物をしないようになることも、大事なことかもしれません。 ただ、ずっとそれを短所だと思って自分を否定してきた子が目の前にいるとしたら、一番大事なことは忘れ物をなくすことではなく、その子が自分を否定しなくなることかもしれません。 「指導しなければならないこと」はありとあらゆるところに転がっていて、あれもこれも何とかしたいと思ってしまいがちですが、優先順位として一番大切にしたいことのためには、あえて捨てていっていいこともあるのかもしれませんよ。大人に対して「死ね」と言ってくる子がいます。絶対に許せませんよね?<木村先生の考え方>=======================(実際に子どもからそう言われたときのこと)・私が(略)上からの力で彼に圧をかけた。明らかに私の失敗なんです。・彼はその場で私に対して、それに対抗するのに「死ね」という言葉しか持っていませんでした。(p104より)=======================これも、ケースバイケースですが、木村先生の考え方は、たとえ「死ね」と言ってくる子どもに対しても、愛情に満ちています。 簡単に「死ね」という言葉を使ってしまう子が増えています。 それに対して、どうかかわっていくか。 ここでも、大人の側のスタンスが問われています。 なお、これについては僕は「絶対に許せない」という気持ちで本気で関わるのも、ありだと思っています。ただ、その子がその言葉を使った意味を、その子を理解する中で翻訳し、解釈する姿勢は、大事だと思います。最後に、p138から引用をして、終わります。あなたは、どう考えますか?<木村先生の考え方>=======================・親の言うことをよくきく子どもをつくる。どうですか? もう1つ、校長の言うことをきく教員をつくる。どう思いますか? みんな一緒のことですよね。・私はね、「先生の言うことをきく」ことがあまりにも美化されているのではないかと感じるんです。 同時に、これはとても恐ろしいことだと強く感じています。(p138より)=======================僕たちは、誰一人として、他人の言うことをきくために生きているのではないし、一人一人が自分の意志を持っています。ロボットではありません。「先生の言うことをきく」というのも、ある状況下において、子どもたちが納得しているのであれば、僕は別に構わないと思います。たとえば地震などの突発的な災害で集団が命を守るためには、少数のリーダーの指示通りに迅速に動くことが必要かもしれません。ただ、それがずっと続いている集団というのは、子どもをロボット化してしまって、生きる力を逆に奪っているのかもしれないのです。僕自身は、子どもと大人の関係性を、上下関係のような一方向的なものではなく、フラットな中での双方向のものにしていきたいと思っています。それでこそ、子どもたちにとって本当に学ぶということができ、生きるということができるのだと思っています。(関連する過去記事)▼「インクルーシブ教育」を考えるテキスト『「みんなの学校」をつくるために』 (2020/07/25の日記)▼「みんなの学校」上映会&木村泰子先生講演会 in兵庫県西脇市 (2017/06/08の日記)
2021.05.05
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新年度になりました。学校現場では新しい先生方を迎え、新体制を整えられていることと思います。中には、民間会社から来られた方も、いらっしゃるかもしれませんね。「学校」というのは狭い社会ですので、民間会社ともう少し行き来があってもいいかもしれません。一般的な会社組織のことを学んでおくことは、ソンにはなりません。「会社」について学べるうってつけの小説があります。女子高生が突然社長をすることになって、会社のことを知っていくというお話です。『女子高生ちえの社長日記 これが、カイシャ!?』 [ 甲斐莊正晃 ]「会社」そのものについて学ぶには、非常にいいテキストではないでしょうか。シリーズになっていて、これまでに4冊出ています。また、コミック版も出ています。よかったら、読んでみてください。『コミック版 女子高生ちえの社長日記』【電子書籍】[ 甲斐莊 正晃 ]『女子高生ちえの社長日記(part-2) M&Aが、やって来た!?』 [ 甲斐莊正晃 ]↑第2弾のこちらでは、実際に成果が出るまでに相当の時間がかかるものも少なくないことを取り上げ、「成果主義には不満続出」というエピソードが出てきました。(p141~)教員の人事評価にも似たところがあるよなー、と思いました。子どもたちに対する評価も、同じような面があるかもしれません。長い目で見ることの重要性は、学校現場のみならず、社会の至るところで感じられるものですね。具体的な理由を1つ挙げると、本書では「成果主義を導入して以降、職場で先輩たちが後輩への指導をあまりやらなくなった」(p144)という記述が出てきます。こういうのを、ぜひとも、他山の石にしないといけない。学校でも、成績を上げることをあまりに目標にしすぎると、子どもたちが自分の成績を上げることに汲々としてしまい、子どもたちのつながりがなくなり、それぞれ自分のことだけしか考えなくなってしまう、ということがあります。競争主義や成果主義は一面的なメリットだけを見て導入されることが多いのですが、実際にやってみるとこういったデメリットが生じた、というような話は、もっと積極的に知っておくべきかな、と思います。こんなふうに、会社のエピソードを学校に置き換えてみると、見えてくるものは多いものです。新年度の新組織体制、例年通りを打破したければ、「会社」のエピソードに学んでみるのもいいのでは。(関連する過去記事)▼働き方改革の究極形? 「好きな日に働き、嫌いな仕事はやらなくていい」という会社 (2021/02/08の日記)▼福島正伸『キミが働く理由(わけ)』~子どもの成長は、子どもよりも喜び、くやしがることから (2010/01/20の日記)▼福島正伸『キミが働く理由(わけ)』3~環境に期待するより、自分に期待しよう (2010/01/23の日記)
2021.04.04
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障害者週間は昨日まででしたが、人権週間は今日までです。人権週間に合わせて本を紹介しておりましたが、本日が最後です。(前回の日記はこちら。)前回までの「インクルーシブ教育」に関する本の流れの最後として、日本全国から様々な学校種の「インクルーシブ教育」の具体的実践報告をまとめた本をご紹介します。タイトルはズバリ、『地域の学校で共に学ぶ』。『地域の学校で共に学ぶ 小・中・高校、養護学校教師の実践』(北村小夜、現代書館、1997、税別2500円)1997年の発行なので、23年前です。それにもかかわらず絶版にならず、未だに書店で買えるようです。それだけニーズがあるということでしょうか。23年前ですので、当然今とは学校の状況も違っています。しかし、この本の中で報告されている「インクルーシブ」な取組の具体は全く色あせません。小学校の先生方、中学校の先生方、高校の先生方、当時の「養護学校」の先生方、保護者の方々、それぞれの立場から非常に具体的な報告が出されています。平成19年に「特別支援教育」が制度化されたときに、「ライフステージをまたいだ支援の連続性」といったことが謳われていたかと思うのですが、この本を読むことで、まさに、「障害」のある1人の子どもが、小学校を出て、中学校を出て、高校はどうするのか、「地域の学校で共に学ぶ場合」を念頭に、イメージを持つことができます。こういう報告は、具体的であればあるほど、面白いし、勉強になります。その理由の大きなところは、子どもたちの生の声を取り入れて報告されるところにあります。「障害のある子もない子も、共に学ぶ」ということは、きれいごとだけでは済まされません。そこには子どもたちのストレートな反応があり、議論があり、葛藤があり、いざこざやもめごと、すんなりとはいかないあれこれがあります。そこのところこそが、「共に学ぶ」ことを考える上で、一番大事なところではないでしょうか。理想論ではなく、子どもたちの中で実際にやってみようとして、どうだったか。実際の話だからこそ、そこから学ぶことは、山ほどあります。本書収録のある報告の中で、ある小学生は「話し合いは勉強より勉強になる」(p56)と言ったそうです。僕は、この気持ちが痛いほどよく分かる気がします。本当の勉強というものは、教科書には書いていない。子どもたちが子どもたちの中から見つけていくものだ、と思います。新学習指導要領への移行と共に、「対話」が重要視されてきています。今こそ、こういった本を読み、子どもたちの言葉の1つ1つに学びたいと思います。先ほど引用した子どもの台詞の前には、====================もっともめさせようと、「でものり子と一緒に生活したらいろいろ困ることあるやろ」と返してみる(p55)====================という先生の姿が書かれています。子どもたちの本音を引き出すために、きれいな言葉ばかり言う子どもたちに、あえて返された言葉です。今、こういう先生がどれだけいるでしょうか。僕は、これを読んで、 もめたらあかんのやない。 ひょっとしたら、もめへんほうが、あかんのやないか?と思い、今までの考え方を反省させられました。(本書の中の子どもたちの素直な言葉に影響されて、関西弁になってしまいました。ご容赦ください。)また別の報告の中で、ある小学校の先生は、入学式の時、保護者の方々を前に、次のような話をされています。====================「これからの社会は共に生きる社会、やさしい言葉で言えば『ごちゃまぜの社会』が必要となってきます」(p68)====================ご自身の言葉で入学式の保護者の方々を前に、「共に生きる社会」「ごちゃまぜの社会」の大切さを訴えられる先生、ステキだと思います。「インクルーシブな社会」と言われても、言葉の意味を正しく知っている人はほんのわずかかもしれません。「ごちゃまぜの社会」という言葉のほうが、「インクルーシブ」なんていうカタカナ語を使っちゃうより、分かりやすくていいかもしれない!と思いました。この本には、本当に、いろいろな子どもたちが登場してきます。その行動も細かく報告していただけるので、「そういうことがあるんだ」と初めて分かることがいっぱいです。全盲のお子さんは、自分の机に貼ってある点字シールだけでなく、他の子の机に貼ってある点字シールも手がかりにして移動していました。(p74)こういったところからも、障害のある子だけに何かを用意するのでは、その子が社会で生きていくためには全く不十分ではないか、社会全体に何かを用意するという視点が必要なのでは、ということを考えさせられました。さて、「インクルーシブ教育」の取組は地域ごとの差が大きいと思われますが、23年前の時点で大阪府豊中市の状況は特に驚くべきものでした。本書の中の報告で「私の勤務している蛍池小学校のやっていること」として紹介されていることは、今の最新の「新しい時代の特別支援教育の在り方に関する有識者会議報告(素案)」をさらに先取りしているところもあると思いました。箇条書きで7つ紹介されていましたが、1つめが、「・籍は普通学級(原学級)と障害児学級の両方に置く(二重在籍)が、すべての時間を原学級で生活する。」から始まるのです。これは、1文で短く書いてありますが、実現するのは並大抵のことではありません。というか、ほとんど不可能なことのように僕などには思えます。その後も、子どもたちが可能な限り共に過ごすために実施されていることが書かれており、圧倒されました。こういう学校も日本の中にはずいぶん前から存在していたのですね。翻って、現在文部科学省のサイト内で閲覧できる「新しい時代の特別支援教育の在り方に関する有識者会議報告(素案)」の中には、「障害のある子供と障害のない子供が可能な限り共に教育を受けられる条件整備」「通常の学級に特別支援学級の児童生徒の副次的な籍を導入し、ホームルーム等の学級活動や給食等については原則共に行うこととすることが必要である。」といった文言が含まれています。これでもかなり先を行った提案だと思うのですが、豊中はかなり先を行きすぎているような印象です。さてさて、この調子で書いていたら全然終わらないので、ちょっと間をすっとばして、高校についても少し書いておきます。「障害」のある生徒が高校で勉強する場合を考えたとき、大変気になるのが「評価」のことです。そこにも一言では言えないすったもんだがあるのですが、いろいろなすったもんだの末に高校の先生はこう書かれています。====================・彼らの存在が学校を変えていったことがある。 最も大きいことは、単位認定・評価のあり方である。 彼らに対して「1年間の生活を通して(学校生活に限らず)どんな小さなことでも発達(進歩)を見過ごさないようにして、良いところを見つけ出し、そのことを評価する」ことが全教職員のものとなった。そのことは、他の一人ひとりの生徒に対しても広がりをみせ、点数で単位不認定が機械的にされることをなくしていった。(p284)====================「点数で単位不認定が機械的にされる」というのは、ともすればこれまでは当たり前のように感じていました。しかし、1人の生徒を人として誠実に評価しようとしたとき、そういった機械的な判定はされなくなっていったことを知り、「障害」があっても評価され学び続けられるという希望を抱くことができました。それこそ、ここに至るまでの粘り強い取組の過程は、想像もできないものがあったと思います。しかし、結果としてこのようなカタチに結びついていったことを知らせてもらえるだけでも、「障害」のある子の高校教育について、希望が持てました。最後に、「養護学校」の先生方からはどんな報告が出されているかというと、これもまた、貴重なのです。「地域の学校」では当たり前であることが当たり前ではない状況を知り、僕は非常に衝撃を受けました。しかし、それを変えていこうとされている先生方がいることに、勇気をもらいました。例えば、「地域の小学校で使っている検定教科書で、みんな一緒に授業をしようと思いました。」(p337)という先生。積極的に地域の中で生きることを念頭に置いた活動を続けられる中で、「障害者手帳で切符を買うのに30分もかかっていた駅も、出かけるたびに駅員の対応が変わり、徐々にですがエレベーターやエスカレーターがついていきました。」(p342)というような社会の側の変化も見られていったことに、深い感動を覚えました。
2020.12.10
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昨日のブログでは、インクルーシブ教育に関する保護者の手記『ビバ!インクルージョン』を紹介しました。その中で、「「障害」の意味が変わった ~「医療モデル」から「社会モデル」へ」という章タイトルにも、ふれました。今日はその「社会モデル」について掘り下げたいと思います。簡単に言うと、変わるべきは「障害」のある人自身ではなく、周りのほう、社会のほうなのではないか、「障害」は環境や周りとの関係性によって作られるのではないか、という考え方です。(この表現の仕方は僕自身の理解の表れであって、何かの本の中での定義ではありません。ツッコミがあったら、ぜひコメント欄でお知らせください。)日本における「社会モデル」について、具体的なエピソードと共に理解を深めていける本として、オススメの本があります。『物語としての発達/文化を介した教育』という、神戸大学准教授の津田先生が書かれた本です。この本の副題が、「発達障がいの社会モデルのための教育学序説」なのです。ちょっと学術書っぽくて堅苦しい感じがするかもしれませんが、こういった分野を「研究」されている方の本として、非常に読み甲斐のあるものになっています。「研究」としてしっかりと追究していきたいという方には、ぜひ読んでいただきたいと思います。『物語としての発達/文化を介した教育 発達障がいの社会モデルのための教育学序説』(津田英二、生活書院、2012、2530円)タイトルだけからだとあまりインクルーシブな感じはしないのですが、本のオビを読むと、思いっきりインクルーシブ教育を扱った本だということが分かります。本のオビと同じことが、上の商品リンクの中の「BOOK」データベースにも記載されているので、転載します。====================「問題のある人」「迷惑な人」を特定する社会のあり方、特定の人たちにとって過剰に生きにくい社会のあり方にこそ問題は潜んでいる。他者との葛藤をノイズとしか考えられない生き方、寛容を忘れかけている社会のあり方にメスを入れ、発達障がい者を生きにくくさせているものとは何かを考えるために、発達を関係の物語として捉え、人間と文化との相互作用こそが教育だという観点を導入する教育学の新たな模索。 (「BOOK」データベースより)====================本書の冒頭部分では、障害のある子どもさんとの実際の関わりのエピソードや、著者の考え方と社会の考え方とのギャップが克明に描かれていて、とても衝撃を受けました。「私たちがいかに子どもに働きかけることに価値を置きすぎているか」(p7)という言葉には、ドキッとしました。ちなみに、目次の中で一番僕が好きなのは、第5章の中の次のところ。====================「彼のことがわかっていく」ということの大切さ(p248)====================目次に並んでいる言葉って、著者の思いが並んでいると思うんですよね。僕は目次の中のここの部分に、線を引きました。この本の中で初めて知った言葉に、「コンヴィヴァリティ」があります。社会学者のイリイチが提唱した概念らしいです。「人と人がつながりあって、共に生き生きと生きること」(p153)という意味だそうです。これもまた、いい言葉だな、と思いました。ちなみに、前回のブログの中で「特別支援教育」への批判、ということに少し触れましたが、本書にも同じような記述があります。====================・日本の特別支援教育が、個人の発達や学習への個別的な支援を基礎にしている限り、困っている人を支援するのは教師や外部の専門家の役割に限定されてしまう。(p203)====================「特別支援教育」においては、もちろん周りの理解やさりげない支援の重要性も指摘されているところではありますが、教育現場の「文化」としては、たしかに「個」に基礎を置きすぎているかもしれません。こういった議論は非常に面白いと思いますので、まずは議論をおこないたい。いろいろな人と意見交流をしつつ、現場の渦中にいる自分自身の実践につなげていきたいと思っています。(関連する過去記事)▼「インクルーシブ教育」を考えるテキスト『「みんなの学校」をつくるために』 (2020/7/25の日記)▼インクルーシブ教育について考えさせられる新聞連載「眠りの森のじきしん」 (2020/5/17の日記)
2020.12.09
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前回、「排除から共生へ」というお話をしました。「排除せずに一緒にやっていく」ということは、「インクルージョン」(包摂、包含)と言われます。人権教育の中でもかなり重要な考え方です。今日紹介する本は、「インクルージョン」についての本。こちらも、ジャンルとしては当事者の手記にあたります。障害のある姉弟の親である柴田靖子さんによる『ビバ!インクルージョン』です。『ビバ!インクルージョン 私が療育・特別支援教育の伝道師にならなかったワケ』(柴田靖子、現代書館、2016、税別1800円)本書には、「重度障害」と呼ばれる障害児・者を取り巻く現状について様々な問題提起がされています。(現状と言っても少し前ですが・・・)前回の本と同様、「知っておく」意義は非常にあると思っています。知らなければ、全く想像もしていなかったことが、きっとあるはずです。たとえば、本書での重要な指摘として、次のようなものがあります。====================・「意思表示(表現)がないこと」と「意志がないこと」という全く別のことが混同されている (p28)====================僕が言葉がなかなか話せない子どもを担任していたときにも、「この子は話せないんだから」とそもそも話しかけもしないという周りの関わり方が見られました。言葉で表現できること以外にも、表情や目線、体の緊張具合など、本人はいろいろな手段を使ってメッセージを発しており、それを受け止めようとする気持ちさえあれば、心を通わせることもできるかもしれないにもかかわらずです。ほかにも、事故の後で意思表示ができなくなったけれど、意志としては持っている、という人のことを聞いたこともあります。「意思表示(表現)がないこと」と「意志がないこと」は全く別のことです。「意思表示(表現)がない」からと言って、本人の気持ちを確かめようともせずに周りがあれこれ決めてしまうというのは、本人が本人らしく生きようとする権利を奪っていると言えます。さて、前回の本同様、法整備に伴い、障害のある方の権利保障も近年拡充してきました。大きなものとしては、2003年(平成15年)4月 「支援費制度」の施行がされています。本書の中では次のように説明されています。====================・それまで行政が「判定」して「このサービスを使いなさい」と「措置」していた18歳以上の障害のある人の施設入所が「自由契約」になり 選択の自由ができたこと、 それとともに「入所しない」という選択を想定して居宅での自立した生活のための介護(介助)=ホームヘルプサービスも自ら「契約」し「選択」できるようになった(p42より)====================本人が決められずに周りが決めていたことを、本人の意志で決められるようにしたことは、非常に画期的です。ただ、この制度、わずか3年で廃止され、「障害者自立支援法」に移行することになります。この法律については当時かなり多い批判意見を聞いていました。Wikipediaのこの法律の解説によると「応益負担の実施により、障害が重い障害者ほどサービスを受けると、結果として受けたサービス分(1割負担)を支払わなければならない」として訴訟が行なわれた、とあります。(詳しくはリンク先を参照)すったもんだの末、2012年(平成24年)に障害者自立支援法は障害者総合支援法に改正することになりました。最近では障害のある方のための法律を決める際に当事者も含めて話し合いをして決めるように変わってきており、こういったこれまでの経緯をふまえた立法がされるようになってきたのは喜ばしい限りです。一方では、本書では「学校」というところはなかなか変われていない、ということも書かれています。本書p97で====================■「障害」の意味が変わった ~「医療モデル」から「社会モデル」へ・障害というものは個人が努力して治すものではない。・変化という点において努力すべきは社会のほうである。(p97より)====================として新しい「障害」観が示されていますが、学校を取り巻く環境はまだまだ「医療モデル」に依拠していると感じられます。本書で「特別支援教育」が批判されているのも、そういった点が大きいでしょう。====================・「排除の原因となってきた条件を解消する方法は、環境のほうを整えることに尽きる」 「万人のための学校に変化することこそが求められる」 (p41より:ミットラー氏の講演の中での言葉)====================学校におけるインクルージョンは、いわゆる「インクルーシブ教育」として、近年特に声高に叫ばれてきました。一昔前と比べると隔世の感があります。ただ、それでもまだまだ体制整備が追いついていないと思います。さて、この本、電子書籍版もあります。 もともと本書巻末には「活字で利用できない方のためのテキストデータ請求券」がついており、電子書籍化もしやすかったのかもしれません。 楽天アプリをインストールすれば本書の冒頭を無料で見ることができますよ。『ビバ! インクルージョン 私が療育・特別支援教育の伝道師にならなかったワケ』【電子書籍】[ 柴田靖子 ]関連する過去記事▼「インクルーシブ教育」を考えるテキスト『「みんなの学校」をつくるために』 (2020/7/25の日記)▼インクルージョンをめざす取組~『連携と協働の学童保育論』1 (2013/12/20の日記)▼ソーシャル・インクルージョンやインクルーシブ教育をめざす実践 ~『連携と協働の学童保育論』6 (2013/12/30の日記)
2020.12.08
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人権週間です。以前も「全校生への人権講話「ウイルスによる不安からくる差別に気をつけよう」」という日記を書きましたが、今日も人権について考えたいと思います。僕が巡回で毎週訪問している小学校に、次の本がありました。『パパは女子高生だった 女の子だったパパが最高裁で逆転勝訴してつかんだ家族のカタチ』(前田 良、明石書店、2019、税別1500円)著者の前田良さんはその学校で参観日に講演をされる予定でしたが、コロナが流行ってきたので非常に残念なことに中止になってしまいました。====================「性別変更した夫を父親として認める」という画期的な決定を最高裁で手にした家族の物語。(本のオビより)====================男性・女性という観念は世の中に強固にはびこっていて、性別で分けることを当たり前とする考え方の前に、非常に生きづらさを感じている方がいらっしゃいます。社会全体がマジョリティ(大多数の構成者)中心になっていて、たとえ人権感覚のある人だったとしても、マイノリティ(少数派)の気持ちや苦労は、こういった当事者の本や講演等を通じて知っていかなければ、なかなか分かるものではありません。この本は、前田良さんのお子さんの視点で文章が書かれているところもかなりあり、かなり読みやすいです。「ボクのパパは、女子高生だった。」(p12)という一文から始まります。明石書店の本書公式サイトに詳細が掲載されています。そこから、第1章の目次を転載します。====================第1章 パパは女子高生だった ○パパは「男の子になりたかった」 ○パパは武装した! バレたくなかった! ○パパ、女子校に行く ○あっ、ここ女子校じゃん! 恋多き「男」、パラダイスを生きる! ○男子トイレに入ってやったぞ! ○僕はコレだ! やっと自分が「何か」がわかる ○パパ、言っちゃった。勇気を出した ○パパは生き方を考えた ○やっとコイツともおさらばだ! ○あっ! この人と結婚したい! ○何で「親不孝者」? ○結婚するには、まだ問題があったんだ ○初めての海外! 初めてのタイで手術! ○ついに結婚したぞぉ! ○パパのウキウキ新婚生活 ○パパは子どもがほしい ○ボク、来たよ!====================どうですか?めっちゃ、読んでみたくなりません?全く堅苦しくない本なので、いろんな人がいるということを知るためにも、ぜひ読んでほしいと思います。ただ、章タイトルこそ興味を引くものですが、読んでいくと、当事者のつらさや悲しさを強く感じる場面もあり、心を締め付けられるような気持ちになります。例えば、著者の高校生生活を描いた場面では、次のような記述があります。====================・あんまり嘘ばかりつき続けていたから、どれが本当の気持ちなのか、自分でもわからなくなる時もあった。・「このまま生きているなら死んだ方が楽。自分が自分じゃない」と考えるようになってしまった。・誰にも言えないって、本当に苦しいこと。(p24より)====================こういった記述を読むと、やはり、知っていくこと、知られていくことの重要性を感じます。この本には、前田良さんの妻からの寄稿もまるまる1章掲載されています。前田良さんと一緒に、当たり前の権利を求めて運動をされてきました。しかし、その胸中は決して落ち着いたものではありませんでした。====================・「普通の家族に」 「当たり前の幸せを」 そう訴えるたびに、自分たちは「普通じゃない」「当たり前じゃない」のだと思い知らされる。(p141より)====================他の当事者運動の方々も、同じ気持ちでいらっしゃるのではないか、と思います。ただ、他のみんなと同じように、当たり前の生活をしたいだけなのに・・・。前田さんのご家族の場合は、前田さんが法律改正により男性になることは認められたにもかかわらず、法整備が追いついていなくて、父親になることは認められていませんでした。同じようなことが、他の方の場合でもあるのだろうと思います。ちなみに前田良さんがご自身が「性同一性障害」だとはっきり自覚されたのは、TBSドラマ「3年B組金八先生」の中で取り上げられていたから。この番組は僕も大好きでよく見ていましたが、マイノリティのことを世間に知らせ、考えさせるきっかけを作った素晴らしい番組だったと思います。番組の初期シリーズでの超有名なフレーズが「腐ったミカン」というものでした。腐ったミカンがあると他のミカンまで腐ってしまうから排除するという論理を中学校の生徒にも適用するという「排除の論理」です。ドラマの原作者であり脚本も担当された小山内美江子さんは、ドラマの中で、そういった「排除の論理」を真っ向から批難されました。日本は「共生社会」を目指しています。排除とは全く逆の方向性です。多様な性、多様な生き方が認められる社会でありたいです。この本を読んで、学校の中で男女で分けられているいろいろな場面について、「それは本当に必要なことか?」「性別に違和感を感じている子どもたちを追い詰めていることになっていないか?」と考えさせられました。実際、前田良さんが職員研修でお話をされた学校では、卒業式で「男子○名、女子○名、計○名」と言っていた慣例を見直し、言わなくしたということなどがあったようです。(p181)学校は、変えていける。社会も、変えていける。そのために、多様な人の声に、耳を傾けよう!
2020.12.07
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昨日、教職員組合の教育研究集会があり、隣の地域組合だったのですがオンラインで視聴することができました。世田谷区立桜丘中学校の前校長、西郷孝彦先生が来られてお話をされました。西郷先生のお話、すごくよかったです!「“みんなが主役”の学校づくり」という演題での講演でした。不登校の子が学校に来るようになった学校の取組が具体的に分かりました。変わった子を排除しない学校。全ての学校で目指していけるといいなぁと感激しました。O市まで行かなくてもネット中継で視聴できたのもありがたかったです。YouTube Liveなら、視聴開始が遅れても巻き戻して最初から見れますし、講演後も公開期間内ならいつでも再視聴できるのが、いいですね。ケータイで視聴していましたが、翌日の今日、パソコンでも再視聴しました。さっそく西郷先生の書かれた本をネットで注文しました。『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール 定期テストも制服も、いじめも不登校もない!笑顔あふれる学び舎はこうしてつくられた』(西郷 孝彦、1540円)※リンク先で試し読みができます。講演の中で紹介されていた本も、注文!読んでみるつもりです。↓『私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む』 [ ポール・タフ ]『授業のユニバーサルデザイン入門』 (授業のUD Books) [ 小貫悟・桂聖 ]上の本のほか、シュタイナーの本やルソーの『エミール』も紹介されていました。西郷先生のお話をお聞きして、校則・学校のきまりについて改めて考えました。そんなところにちょうどタイムリーに校則に関するニュースが飛び込んできました。▼中学校則「下着は白」、教員が目視で確認…弁護士会「明らかな人権侵害」 (11/13 Yahoo!ニュース記事)上の記事で書いてある中でも特に、「策定・改定の際に子どもが関与できる仕組み作り」に激しく同意します。学校は民主主義を学ぶ場でありたい。学校のきまりの再検討を子供たちと一緒に行えるといいなぁ、と思います。
2020.11.14
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これは、4年前の2016年度に、自分の勤務校の個人研究で私案として出したものです。そのころ僕の勤務校は「道徳」の研究をしていたので、個人個人が研究課題をもって研究を進める、という取組をしていたのでした。皆さんのお役に立つかもしれないと思い、今までヒミツにしてましたが、公開します。いや、そんな大それたものじゃ、ないですが。(^^;)僕のそのときの個人研究テーマは、 国語的能力にかかわらず、 誰もが実感を伴って学べる道徳教育でした。その時に書いた研究レポートから、少し引用します。<概要とその理由> 「国語」と「道徳」はちがうにもかかわらず、国語的能力(読み取りの力、話す力、聞く力など)が前提となって、道徳的活動が計画されていることがあるように思う。 支援学級在籍の子も道徳はみんなと一緒に学ぶので、それをふまえて、国語の力によらない道徳の学習を確立していく必要がある。 それがどのようなものかを研究する。勤務市では、ずっと以前から、支援学級在籍の子どもも、道徳の時間を支援学級ではなく集団の場の中で一緒に学習することが主流でした。ただ、4年前の時点では、それによる課題も、散見される状況でした。ついでに、<問題意識>というところも、引用しておきます。<問題意識>・特別支援学級の担任や通級の担当をすることが長かった。 それゆえ、通常学級での全体授業の中で、「その子も含めたクラス」「その子も含めた授業」がどれだけ工夫されているかに敏感になっている。 支援学級児童も「道徳」はみんなと一緒に授業を受けることが基本であると思うが、「国語」の授業のようになってしまっては、授業への参加自体が厳しい。・道徳の時間は非常に重要である。 教師の思いや児童相互の思い・考えを交流し、どんなクラスをつくりたいか、どんな人間になりたいかの方向性をつくるものになる。 ダメな道徳の授業は「お題目」「きれいごと」で終わってしまうもの、心を伴わないものである。 よい道徳の授業は、心が動く授業、授業後の感動がその後の実践意欲につながる授業である。「特別支援学級の子どもが交流学級で道徳を受けるのは難しい」と、言われることがあります。特に、高学年になると道徳の授業で扱う読み物資料が、長くなり、要点を把握することが難しくなるために、「支援学級で道徳をしたほうがいい」と言われることが増えます。支援学級在籍であるか否かにかかわらず、その場で初めて目にする道徳資料の読解ができないせいで、授業の核心的話題についていけなくなっている子どもが、少なからずいるようにも、感じています。実際に、全国的には「道徳」は支援学級で行っているケースのほうが多いと思います。おそらくその中で優れた道徳実践もたくさんあるのだと思いますが、今回は、インクルーシブ教育の流れの中で、「道徳授業をみんなの中で一緒にやる」ということを前提に、考えます。一応、分かりやすくするために、支援学級在籍のAさんが、5年生の「道徳」の授業を、通常学級の場の中で受けることについて、考えてみたいと思います。(現在は、「道徳」は「道徳科」になっています。 また、Aさんは架空の例であり、僕がこれまで経験した情報から想定したモデルケースです。)Aさんは「国語」の授業はすべて支援学級で学習しており、物語文や説明文の読解には、かなりの支援を必要とします。ただ、たとえば下学年の内容を特別に用意しておいたとしても、「みんなと同じ勉強がいい」と主張します。本人にもプライドがあります。5年生なのに、3年生の内容をしているなんて、自尊心が許さないのです。そこで、5年生の国語の教科書教材を使いつつ、支援学級で手立てを工夫することにより、国語は日常的に学習を進めています。「道徳」の読みもの教材についても、「国語」と同様に、高学年の資料になると、内容理解ができないということがよくあります。それでも、本人は、「みんなの中で勉強する」と言います。そのため、「交流」学級で「道徳」の授業を一緒に受けていますが、実際には資料の内容が分からないので、ほとんど授業に参加できていません。ただ「いるだけ」になっているように見えます。さて、こういうケースでは、みんなと一緒にできないのでしょうか?僕の場合は、「みんなと同じ」教材や資料をその子も使うことを前提に、いかにその子に分かりやすく支援するか、を考えて、補う教材や作戦を準備していました。例えば、「道徳」をみんなと同じ場でする場合、以下のような3つの視点で、配慮や支援を考え、事前に用意したり、「交流」の際にその子について下さる支援の先生にお願いしたりしていました。(実際は、事前の準備が間に合わなかったりもするので、支援学級担任であった僕が「道徳」の時間にその教室に入り込んで支援することも、多かったです。) (1)状況理解のための合理的配慮 (ふりがな・絵・実物・実例・見本を示す ・一時的にそばにつく 等) + (2)思いに気づかせるための支援 (表情カード等から選ぶ・具体例に引きつける 等) + (3)思いを場に出すことへの支援 (選択肢、代筆、代弁 等)(1)の「状況理解のための合理的配慮」は、国語の読み取りの授業で行っていることを、道徳の授業の際にも適用します。教科書そのままでは内容理解が難しい場合などに、本人に合わせてリライトした(書き直した)教材を「リライト教材」と呼んだりしますが、そういったものを作ったり、理解を促すための絵を絵本からとってきたり、4コマ漫画的なものを即興で僕が描いたりするなど、抽象的なものを具体的なものに落とし込む工夫をします。(2)の「思いに気づかせるための支援」は、道徳ですので、登場人物の心情に気づかせることを重要視して、そのための支援をすることを指しています。 僕は物語文の読解などで、中心人物の心情を表情カードから選ばせる手法をとることがありましたので、たとえばそういう手法で、「このときの主人公は、泣き顔だった」「こっちの場面では、笑顔」などを選択して、気持ちに気づかせることができれば、と考えたものです。(3)の「思いを場に出すことへの支援」は、せっかくクラスメイトと一緒に学んでいるので、本人の考えをみんなの中で表現できるように、そのための支援をする、ということです。といっても、例に挙げているのはわりと安直な支援で、本人が言えないようなら、そばで聞いていた者が、全体の場に代わりに言ってあげる、などです。僕は声を出すことがなかなか難しいお子さんも担任していたことがあるので、全体の場に本人の意思を伝えることを当たり前にやっていた時期があり、そういうことには抵抗がありません。本人が自分で言えたらいいですが、「代わりに言ってやってもかまわないんじゃないの」と思います。本人は、代弁した後、周りの子が反応してくれるのを、けっこううれしそうにしていることが多いです。やはり、自分の考えに反応がもらえると、うれしいものですね。(画像提供:写真AC)まとめ!「国語」と違って「道徳」では、物語文の内容をきっちりと読み取る必要はありません。「○○にどんな思いがこめられているか」に気づくことこそが、大事です。そこで僕が考えた、道徳で「心が動く」ための手立てが、以上のようなものでした。もしも皆様のご参考になるところがあれば、幸いです。P.S. 今回の内容を読むと、僕は「道徳はみんなと一緒にして、国語は支援学級で学習する」という考え方だと思われるかもしれません。 実は、違うんです。 実際は、僕は「国語」も、支援学級ではなく、みんなの中で学習するのが理想だと思っています。 それについては、また別の機会に・・・。
2020.07.29
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『「魔法の掃除」13ヶ月』を読み終わりました。『「魔法の掃除」13ヵ月』 / 平田治(リンク先は、中古本。現在価格240円)『子どもが輝く「魔法の掃除」』の続編です。『子どもが輝く「魔法の掃除」—「自問清掃」のヒミツ 』(平田 治)【中古】「自問清掃」に取り組んでいる学校の様子、子どもたちの様子を、月ごとに分けて詳しく紹介している本。この本の中の子どもたちは、本当にスゴイ。「自問清掃」では、「みつけ玉」「がまん玉」などを磨くことが目指されます。子どもたちは、具体的な持ち場や役割を指示されなくても、自分から仕事を見つけ、黙々と取り組みます。そしてその中で日々反省し、他の子どもたちのいいところを見つけ、もっとよくなろうと成長意欲を燃やしているのです。その中で特に印象に残ったのが、次の箇所です。====================・「自問清掃」においては、進度や効率が度外視されていますから、その子らしさが発揮されやすい。 教室で寡黙な子が「がまん玉」をよく磨けていると憧れの的になったり、落ち着きのない子がじつは次々に仕事を見つけたり、勉強のできる子ができない子を評価して掃除の目標にしてしまったりと、とにかくみんな違ってみんないいことになる。(p191 「三月 理念と実践と」より)====================金子みすゞさんの詩で有名になった「みんな違って みんないい」を、思いがけず掃除の本で拝見しました。たしかに、掃除は毎日ありますから、そこで「みんな違って みんないい」が実感できるといいなあ、と思いました。授業ではないので、いわゆる「学校の勉強ができるかどうか」というモノサシとは別のモノサシで活躍できる子が増えるのは、納得です。僕は、「この世界には数え切れない たくさんのものさしがある」という歌詞の歌が好きなのです。(中山真理 作詞・作曲「Great Power」 ▼東京書籍の教材ショップで試聴可能)最後に『「魔法の掃除」13ヶ月』の最後の方から一言だけ、引用します。====================・掃除のように毎日継続して行なわれ、短時間で無理がかからず、体験を通して学べるような場は、他にはない(p194より)====================毎日の掃除の時間の意味を改めて考え直すことができました。
2020.06.26
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最近、「神戸新聞」紙上にて、兵庫県明石市立中崎小学校の「じきしん」くんについてのノンフィクション記事が新聞小説のような形で連載されています。とても興味深く、愛読しています。 実はこれ、3月~4月に連載されたものの再掲載。新聞社としても世の中に知ってほしいという意図があって再掲載されているのかな? すでにネット上で最終回までの全ての回を読むことができます。 タイトルは「眠りの森のじきしん」。 兵庫県明石市立中崎小学校の「じきしん」くんについてのノンフィクションです。 ▼神戸新聞NEXT|連載・特集|眠りの森のじきしん https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/jikishin/ ====================・話せない動けない、だけど輝いていた。(第1回より) ・「最初、私たちはじきしんを『助けてあげなくてはならない存在』と受け止めていました。でも、長い時間を一緒に過ごすうち、『してあげなくては』が消えて、私たちに元気をくれる存在になっていきました」(第9回より) ・学校復帰 同級生全員が待ち構えていた(第10回タイトル) ・驚くことがある。「重い障害の子を助ける」というような感覚で接している子が見当たらないことだ。 親友の一人、りょう君(12)が言った。 「おれ、じきしんと話せるで。『心の声』でいつも話してる。みんなそうだと思う」(第13回より) ・「この親子を支えるとか、教育の機会を提供するとか、そんな形式的な関わりではないんです。全力で生きている2人といると、私たちは学ぶことばっかり」(第14回より) ====================この連載を読んでいると、僕が特別支援学級で担任していて「みんなの中」で笑顔で過ごしていた何人かの子どもたちの顔を思い出します。 僕が言葉を話せない全介助のお子さんを担任させていただいたとき。最初はとても構えていて、何ができるのだろうととても不安でした。しかし、今では、「そんなことはたいした問題ではない」と思えるくらい、多くのことが「できる」ことを学ばせていただきました。 「学校」とは何か、「みんなの中で学ぶ」ということとは何か、ということについて改めて考えさせられています。 本日の5月17日付けの神戸新聞は、第14回「自然学校」でした。(^^) (全21回) 連載終了まで、毎日読むのがとても楽しみです。▼神戸新聞NEXT https://www.kobe-np.co.jp/
2020.05.17
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最近、またアドラー心理学の本をよく読んでいます。アドラーは、自己啓発の源流と言われているそうで、、、自己啓発の有名どころと言えば、『人を動かす』や『7つの習慣』でしょうか。僕が大事にしているのは、「成長」なので、自己啓発は大好きで、よく読んでいます。アドラーを学んでから自己啓発書をもう一度読むと、同じことが書いてあったりして、「やっぱり重なってるなあ」と思います。アドラー心理学は「すべては、対人関係」と言っている、かどうかは本によって少し差がありますが、対人関係を重視していることは間違いありません。悩みの多くは対人関係によるもの、というのは疑いないところでしょうか。多くの自己啓発書が、「人は変えられない。変えられるのは、自分だけ」と言っています。まあ、そうなんですが、そうすると、「教育」とは、「人を変えようとする」ものじゃないのか、と矛盾にぶち当たります。上司が部下を育成することも、人を変えようとすることではないのか。アドラーは、学校教育や、職場での教育を否定するのか?この答えは、アドラー心理学の本よりも、むしろ僕は、斎藤一人さんの本に見いだしました。一人さんはこんな風に言っています。========================・人はこうなってほしい、じゃないの。 こういう人だと思って対してると、そういう人になるの。 (斎藤一人『変な人の書いた世の中のしくみ』p162より)========================これは、アドラー心理学で言うところの、相手に対する「尊敬」、「7つの習慣」で言うところの、「信頼」を表しているのではないか、と思います。全ての人の中に、その人の理想を見る。教育とは、その営みなのかもしれませんね。変な人の書いた世の中のしくみ (サンマーク文庫) [ 斎藤一人 ]
2019.10.27
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豊中の「原学級保障」には以前から興味を持っていました。その取組の経緯をまとめたものが本になっています。著者は大学の研究者です。非常に多くの文献・資料に目を通され、多くの関係者に取材されています。『インクルーシブ教育の源流 一九七〇年代の豊中市における原学級保障運動』(二見妙子、現代書館、2017、2000円)「原学級保障」とは、今風に言えば、特別支援学級の子どもたちが通常学級の場で共に学ぶことを保障する取組です。非常に興味深く読ませていただきました。読後は、巻末の参考書籍の中から、いくつかをネット注文。さらにこれについて学んでいこうと思っています。内容の一部を紹介します。たとえば、保護者の思いが、具体的に書かれています。「障害児が将来地域で生きられるか否かは、普通学級を担当される先生方が健常児をどう教育されるかにかかっているのだということに気付いてほしい」(p123:Kの母親の思い:引用元原典は北丘小学校の実践をまとめた『みんないっしょやで』)著者は同じp123に、「わが子への思いにとどまらない共生社会実現を願う真摯な態度」と書かれています。この態度が、今日の「インクルーシブ教育」の流れの基礎となる当事者運動の大きな核であったことを、感じざるを得ません。そして、豊中では、今に先立つことなんと40年前。その時点で、当事者運動などの成果により、行政の公的な方針に、あまりにも先駆的な内容が反映されています。豊中市障害児教育基本方針(昭和53年:1978年)・分離教育制度に抗し、校区就学を保障・就学指導体制に抗し、就学先決定における保護者の希望を優先(p168)「原則統合のインクルーシブ教育を保障した上で、それでも保護者や本人の希望がある場合には、分離を認めるという仕組み」(p169)というのは、なんと先進的なことでしょう。これが40年前に、国の方針にさからって成立していたとは、信じられません。すごい。「障害児と健常児が共に学ぶための教育目標の設定を、各学校の責任として位置づけている」(p170)というのも、全国的には、現在まだそれぞれの学校がやりきれていないところです。僕も自分自身の責任においてやりきれていないところを痛感しています。「やはり、やっていかなくてはならない」という思いを強くしました。「本方針策定から40年たった現在、『後期中等教育』の項に示された、障害児の高校・大学への進学も徐々に進展している」(p171)と、さらっと、今の状況についても書かれています。これもまた、興味深いです。障害があろうとなかろうと、高校や大学に行けるということ、これはなかなか壁が大きいのですが、その壁をうがつ取組が真摯になされていることも、尊敬に値します。僕は、教師として採用されたA市においてすでに「豊中は進んでいる」ということを聞いていました。しかし、ここまで具体的にその内容を知ることができたのは、本書のおかげです。なお、巻末の参考文献の中には僕がすでに読んで感銘を受けていたものもありました。『普通学級での障害児教育』という本です。その読書メモは、すでにこのブログで公開しています。興味のある方は、続けてご一読いただきたいと思います。▼「普通学級での障害児教育」本の内容まとめ1(2006/7/28)▼「共に学ぶ教育」とは( 「普通学級での障害児教育」本の内容まとめ2)(2006/7/28)
2018.08.12
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少し前に読んだ本に感銘を受け、ブクログやアマゾンのレビューに投稿しました。 特別支援学級の子どものためのキャリア教育入門 基礎基本編 義務教育でつける「生涯幸せに生きる力」 (THE教師力ハンドブックシリーズ) [ 西川純 ] 特別支援教育の対象になる子どもたちの進路に関する本です。将来の進路を見据えてどんな教育が必要かが書いてあります。 タイトルには「特別支援学級」とありますが、特別支援学級担任だけでなく、すべての教職員や保護者にとって知っておいた方がよい情報がまとめてあると思います。 特に小学校教員は子どもの将来の就職や進学に関する具体的なデータにあまり通じていないところがあります。子どもの将来につながる教育について重視しようとするなら、目を通しておいた方がよいと思います。 この本には、長い目で見て子どもたちに必要なことをするために、非常に勉強になることがたくさん書いてあります。「木を見て森を見ず」にならないように気に留めておきたいことばかりです。 一例を挙げると、筆者は、九九の習得が難しい子どもに九九を教えることよりももっと大事なことがあるのではないか、と主張します。大変うなずけるものです。九九が大事ではないということではなく、障害のある子どもたちが実際にどのような暮らしを大人になってからしているのかと考えたとき、人と関わる力の方が圧倒的に有益であることがわかります。苦手なことはあってもいいのです。周囲の人に助けてもらっていいのです。むしろ、苦手なことがはっきりわかること、それを周囲の人に伝えられることが、重要です。 この本を読んで改めて、個別指導などで子ども集団と切り離して障害のある子どもに指導をするよりも、仲間と関わり合いながら学習を進めるという基本的なスタンスをやはり大事にしたい、と思いました。(状況により一時的に個別指導が必要なケースもたくさんありますが。) 本書の貴重なところは、障害のある方たちの進路先としての事業所等に丹念に取材をされて、その情報を整理されているところです。これだけでも喉から手が出るほど欲しい情報です。 僕自身は小学校教員ですが、例えば障害者手帳を持っている場合の福祉就労等についてしっかりと知り、大人になったときにどのような暮らしが待っていて、大人になった時から逆算して今どのような取り組みをすべきかを猛烈に知りたかったです。僕の場合は、自分で調べたり、聞きに行ったりして情報収集をしてきました。しかし、本書はそれが1冊にまとめられている!僕の知る限り今までこのような本は出ていなかったと思います。そういう意味で非常に画期的で意義深い本だと思います。 特別支援学級担任や障害のある子どもたちに関わる人だけでなく、多くの人にぜひ読んでもらいたい本です。
2017.12.16
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「障害理解教育」の第4回です。「理解教育」に使えそうな絵本をもう少し紹介しておきます。 『十人十色なカエルの子 特別なやり方が必要な子どもたちの理解のために』(落合みどり)この本は僕は授業で使ったことはありませんが、同僚の先生が使われていました。おそらく、世間一般ではよく使われている本のような気がします。 『どんなかんじかなあ』 (中山千夏/ぶん 和田誠/え)今年の5月、支援学級の公開授業をしたとき、校内の先生方が見学されることを意識して「読み聞かせ」の本として選んだのが、この本でした。目が見えないことや、耳が聞こえないことなどの「障害」を、肯定的にとらえ直す、画期的な本です。初めて読んだとき、「こういう本が存在することが、うれしい!」と思いました。 広く、多くの方に、知ってほしい本だったので、公開授業のときに授業で使いました。 絵本以外で、有名なところとしては・・・ 『五体不満足』(乙武洋匡)うちの支援学級の学級文庫においてあります。表紙の写真が、そうじに来てくれる通常学級の子どもたちにとってショッキングなようで、いろいろと質問されます。よく知らないと「こわい」とか「ヘン」ということを言う子どもたちもいますが、丁寧に話をすると、「そうなんだ」と、わかってくれます。『五体不満足』にはいろいろな装丁の本がありますが、表紙だけで子どもたちと話ができるのは、初期の本の装丁かもしれません。抜粋版が、『齋藤孝のゼッタイこれだけ!名作教室(小学4年 上巻)』に収録されています。電動車いすの使用を禁止した「高木先生」のエピソードが載っています。この部分だけ読んでも、非常に考えさせられます。子どもたちの前に、先生方に読んでもらいたい、エピソードです。こういった作品を読みあっての意見交流とか、ぜひやりたい、と思っています。「高木先生に賛成」派と「反対」派で議論したりとかも、おもしろい。▼『読解力がグングンのびる!齋藤孝のゼッタイこれだけ!名作教室』(小学4年 上巻) (齋藤孝、朝日新聞出版) ほかに、宮沢賢治の『虔十公園林(けんじゅうこうえんりん)』という話では、知的障害と思われる方が主人公になっています。Wikipediaには、「知的障害をどう見つめていたかが書き綴られ、時代に先がけてノーマライゼーションの可能性に言及した点で貴重な作品である」と紹介されています。「ああまったく だれがかしこく だれがかしこくないかは わかりません。」という言葉が、非常に印象的です。前の勤務校では6年生が宮沢賢治作品をたくさん読む中の一つとして読んでいて、僕もそれで初めて知りました。これも、子ども向けに振り仮名と読み方のガイドがついたバージョンが、『斎藤孝のゼッタイこれだけ!名作教室 小学2年 下』に収録されています。斎藤孝さんは2年生用の本に収録されていますが、きちんと作品と向き合うなら小学校高学年ぐらいからでないと、と思います。▼『読解力がグングンのびる!齋藤孝のゼッタイこれだけ!名作教室』(小学2年 下巻) (齋藤孝、朝日新聞出版)「理解教育」について、いろいろと書いてきましたが、いかがだったでしょうか。最後に、「理解教育」という呼び名について。第1回のときに、「『障害理解教育』という呼び名がふさわしいものなのか、というのは、けっこう微妙なところです。」と書きました。伊勢での勉強会でお出会いした奈良の先生は、「うちの学校は、『多様性教育』と呼んでいます」と言われていました。僕も、「そっちのほうが、いいかなあ」という気がします。「障害」の有無にこだわらず、それも包括して、いろいろな子どもがいること、いろいろな人がいることを理解することをねらいとした教育。「障害」という言葉を出すと、「障害とは何か」といった理解が必要になるので、それはそれで必要な場合はあるかと思いますが、まずその大前提として、「人間いろいろだねえ」という学習ができたら、と思っています。だって、せまい世界に生きていたら、「こんな人がいるんだ」とか、「こんな考え方があるんだ」ってことを、知らずに大きくなることって、ありますからね。僕は、前年度の6年生に向けて「理解教育」の授業をしたときには、大きく「多様性」というテーマで授業をしました。そのときは、法隆寺の宮大工の言葉を例にだし、「法隆寺が千年持っている丈夫な建築であるために、使われている材木は『不揃いなほうがいいんだ』ということを言っている方がいる。『みんな同じ』はもろい、『不揃い』だからいいんだ、と言っている」という言葉を提示し、多様性ということについて、その意味や意義を、みんなでいっしょに考えました。このときの参考資料は『不揃いの木を組む』でした。 『不揃いの木を組む』(小川三夫 )この世の中、「多様性」について考えるきっかけは、いっぱいころがっています。僕がやってきた取組も、そういったきっかけのひとつとして、役立つようであればうれしいです。 また他の方の「理解教育」、「多様性教育」の実践や使用教材についてもお聞きしたいです。コメント等でお知らせいただければ、幸いです。 それでは、また!
2015.08.21
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