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最後にBack numberいれました。前回、「倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)」では、はっきりしなかったのですが、葛野大堰(かどのおおい)を手がけた秦氏は弓月君(ゆづきのきみ)の孫、秦酒公(はたのさけのきみ)らしいです。471年、第21代雄略天皇(418年~479年)の御代に各地に分散していた秦氏族を統括して長になったのが秦酒公(はたのさけのきみ)。※ 秦酒公(はたのさけのきみ)は一族の造った絹織物などをうずたかく積み、朝廷に献上。それが地名の太秦(うずまさ)になった。と言う説もある。かつて広隆寺内にあり、明治の神仏分離政策で寺から出された大酒神社(おおさけじんじゃ)には秦の始皇帝、弓月王(ゆづきのきみ)、秦酒公(はたのさけのきみ)が祀られています。中世、大酒神社に改名されたようですが、元の名前は「大辟(おおさけ)」神社。実は603年に広隆寺ができる以前からあった社(やしろ)だそうです。※ 広隆寺を創建した秦河勝(はたのかわかつ)は秦酒公(はたのさけのきみ)から6代下がった子孫らしい。ところで、大酒神社で相殿神として祀られているのが秦氏と渡来した4人の織女のうちの二人だそうです。呉織神・・兄媛命(えひめのみこと) 呉服女と、漢織神・・弟媛命(おとひめのみこ) 。秦氏が養蚕(ようさん)に力を入れ、できた絹で、かつて中国の宮廷人しか着る事のできなかった上質の絹の織物を日本で生産。絹を織るのは誰でもできると書いている人がいたが、それは違う。やわらかな肌触りの絹織りや、豪華な西陣の帯のような織物は秘技でもある。秦氏は自分達に冨をもたらしてくれた織物の神様として彼女らも祀ったのであろう。余談だが、中国宮廷は絹製品を輸出しても生糸の生産流出を防いでいた。桑種子と蚕種が流出し、欧州には5、6世紀頃、イスラムへは8世紀頃伝播したとされる。日本へは、弥生時代に早くも持ち込まれてはいたが本格的な生糸の生産と上質な絹織の技術は秦氏のおかげで欧州よりずっと早くにもたらされたのである。そんな経緯もあり秦氏は蚕(かいこ)を祀っている。また稲も祀っている。蚕(かいこ)と養蚕(ようさん)の神を祀ったのが今回紹介する木嶋神社(このしまじんじゃ)の摂社にある蚕ノ社(かいこのやしろ)なのである。因みに「稲が生(な)る。」から生まれた? 稲荷(いなり)信仰では、秦伊呂具(はたのいろぐ)が全国の稲荷の祖となる伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)を創建(713年)している。※ 伏見稲荷大社については以前紹介しています。2014年5月「京都 伏見稲荷大社 1 (本殿のある境内)」リンク 京都 伏見稲荷大社 1 (本殿のある境内)2014年5月「京都 伏見稲荷大社 2 (千本鳥居)」リンク 京都 伏見稲荷大社 2 (千本鳥居)倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎養蚕の話木嶋神社(このしまじんじゃ)と蚕ノ社木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)糺(ただす)の森と元糺(もとただす)の森フタバアオイ紋三柱鳥居(みはしらとりい)木嶋神社(このしまじんじゃ)は前に紹介した太秦(うずまさ)の広隆寺(こうりゅうじ)から歩いても10分くらいのところ。両者は太子道と言う通り1本で繋がっています。先に紹介した大酒神社(おおさけじんじゃ)と同じ頃の創建。太子道はもとは広隆寺への参道とも言われているので、もしかしたら大昔は木嶋神社や蚕ノ社もまた、広隆寺の敷地内に入っていたのではないかと思います。もとは一帯全てが秦氏の土地であったし・・。外の鳥居には養蚕(ようさん)神社の文字があったから明治以前は、養蚕(ようさん)の祭神がメインであったのだろう。最寄り駅は嵐電(らんでん)の「蚕ノ社(かいこのやしろ)」だし・・。三柱鳥居(みはしらとりい)は木嶋神社(このしまじんじゃ)の目玉 鳥居が三組合わさった世にも珍しい鳥居。三柱鳥居(みはしらとりい)は元糺(もとただす)の森の中、元糺(もとただす)の池の中にある。木嶋神社(このしまじんじゃ)正式名称は木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)です。神社の創建年ははっきりしていない。が、神社では、603年の広隆寺創建と共に勧請(かんじょう)されたと伝えられているそうだ。神社の名前が初めて記録に載るのは701年らしいが、平城遷都(710年)より前に存在していたのは間違いない。つまり、都がまだ奈良にあった時に秦氏はこちらに住みついていた事が解る。渡来した秦氏の一族は山城、近江、摂津に散って、それぞれ地方豪族になって成功して行ったようだ。山城でも、深草(ふかくさ)と葛野(かどの)に秦氏は関係が深い。(深草から葛野に移ったとも・・。)※ 山城(やましろ)、近江(おうみ)、摂津(せっつ)。ザックリ言うと現在の京都、滋賀、大阪。※ 深草(ふかくさ)は今の伏見あたり。葛野(かどの)は前回紹介した太秦や嵐山、嵯峨野あたり。※ 深草(ふかくさ)には秦氏(秦伊呂具)が祀った伏見稲荷大社がある。現在の祭神は、主神 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) 大国魂神(おおくにたまのかみ) 穂々出見命(ほほでみのみこと) 鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)境内摂社(東本殿)に養蚕神社(こかいじんじゃ)がある。またの名を蚕の社(かいこのやしろ)話はそれるが・・。祀られている神様は当時と違うのではないか? と言う疑問がある。明治政府の出した神仏統廃合令により、日本各地の神社では、天皇家の祖神、アマテラス(天照大神)を祀る伊勢神宮の下に統一管理される事になったそうだ。つまり独自の神様は主神から外されてアマテラスの系譜に沿う神様がメインに明治時代に置き換えられた神社も多々あるのではないか? と言う事だ。因みに、主神 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は高天原(たかまがはら)の頂点にいる神様であり、当然アマテラス(天照大神)の祖でもある。※ 実際、今祀られている五注の祭神は1883年(明治16年)の記録による所らしい。木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)先ほど、広隆寺創建と共に勧請(かんじょう)されたと書いたのは、神社の入口立て看板に記載されていた事だ。が、おそらく神を祀る・・と言う行為は、秦氏が葛野(かどの)に来てすぐにあったと思われる。そしてそれは今の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ではなかったであろう。最初に秦氏が葛野(かどの)に来て祀ったとされる神霊は、糺(ただす)の森と言われるこの神域そのものであったと推察する。※ 現在は糺(ただす)ではなく、元糺(もとただす)の森である。それは古来の神道を考慮すると、土地その物を神の座所とするカンナビ(神奈備)から始まったと考えられるからだ。つまり、その土地に根付いた神様(神霊)が宿る依り代(よりしろ)としての鎮守(ちんじゅ)の森。そして森に湧く泉はまさに神聖な場所そのものだったのだろう。社(やしろ)ができるのはずっと後、古来、神の依り代となったのは深い森や、巨木、巨大な古い石、あるいは湧き出る泉だ。今風に言えばそれらはパワースポットと言えるかもしれない。古人(いにしえびと)達は本能的に畏怖(いふ)する場所を見つけ、畏怖と同時に見えない何かに畏敬(いけい)の念を抱きつつ、土地から与えられる稲や野菜などの恵みに感謝して、氏神様として祀ったに違いない。人により神の体系が作られるのはずっと後の話だからね。現在の木嶋神社(このしまじんじゃ)見取り図黄色→が境内摂社(東本殿)の蚕の社(かいこのやしろ)赤色→が元糺(もとただす)の池下の赤い円は、稲荷神の神使の御狐様の社がある所。木嶋神社(このしまじんじゃ)を取り巻く鎮守の森こそ、元祖「糺すの森」だ。※ 木嶋神社を取り巻く鎮守の森は本来もっと広大であったと思われる。舞殿赤い→が元糺(もとただす)の池と三柱鳥居(みはしらとりい)へのゲート。糺(ただす)の森と元糺(もとただす)の森当初、この森は「糺(ただす)の森」と呼ばれていたようだ。現在は糺(ただす)ではなく、「元糺(もとただす)の森」となっている。同じように「糺(ただす)の池」は「元糺(もとただす)の池」となっている。※ 実は現在、糺(ただす)の森は下鴨神社境内にある。「糺(ただす)の森」は清水の湧く所。かつて湧き出る泉からの縁か? 木嶋神社(このしまじんじゃ)では祈雨(きう)の奉幣(ほうへい)が行われていたと言う。祈雨(きう)とは雨乞いの事である。奉幣(ほうへい)とは天皇の命により幣帛(へいはく)を奉献(ほうけん)する事。つまり、平安遷都後は、干ばつの時に天皇の命を受けて雨乞いの祈祷がされ、奉幣(ほうへい)が献(ささ)げられていた神社だったと言う事だ。ところが、潔斎(けっさい)or物忌み(ものいみ)となる事態が発生したらしい。何かしら汚れとなる事態が起きた? 嵯峨天皇の御代に「糺(ただす)の森」と「糺(ただす)の池」と共に、神霊が太秦より下鴨の地に移動したと考えられる。祈雨(きう)の奉幣(ほうへい)の場も移動したかも・・。第52代嵯峨天皇(さがてんのう)(786年~842年)(在位:809年~823年)の御代、817年より7年連続で京都は干害の被害を受けたとされている。この時の祈雨(きう)の奉幣(ほうへい)はどちらでおこなわれたのか?あるいは災いに関係無く、784年従二位、807年正一位と神階叙位(社格)を上げてきた賀茂神社の勢力による所もあるのかもしれない。地元神を押さえて賀茂神社の社格が高位にあがったのがこの頃だ。また、賀茂神社に斎宮の制度が始まった810年がまさに嵯峨天皇の御代。初代斎宮は嵯峨天皇の皇女 有智子(うちこ)内親王だった。諸々の情報を踏まえて検討すると、810年には移動していた事になりそうだ。ならば、潔斎(けっさい)or物忌み(ものいみ)となる事態は、嵯峨天皇の兄、第51代平城天皇(へいぜいてんのう)(774年~824年)(在位:806年~809年)の病気かもしれない。809年、病気のため在位僅か3年で嵯峨天皇に譲位しているのだ。※ 表向きは病気。実は嵯峨帝との争いに敗れた?代が変わればかつては宮殿も遷都していた。懇意にする神社も変わったのかもしれない。1994年に世界遺産に登録された下鴨神社。その全域を被う「糺の森(ただすのもり)」のルーツですね。※ 下賀茂の神社の案内にはいっさい無いが・・。拝所拝所から先は入れないのでここから撮影。実は肝心の東本殿(向かって右)にある養蚕神社(こかいじんじゃ)が撮影できなかった。下の写真右奧に見える社がたぶんそう。秦氏は、土着の、「元糺(もとただす)の森」の氏神様の他に、秦氏の糧(かて)である蚕(かいこ)と養蚕(ようさん)の神を祀ったのが、その社である。それは感謝以外の何ものもでもなかったろう。フタバアオイ紋不思議な事に木嶋神社(このしまじんじゃ)の紋章、神紋(しんもん)はフタバアオイである。これは、賀茂神社(かもじんじゃ)の神紋(しんもん)と同じなのである。※ 下賀茂神社、上賀茂神社、共にフタバアオイ。それがなぜか? は、解らないが、フタバアオイは神事に必要なものだったらしい。下は下鴨神社内のフタバアオイ。葵祭で用いられることから今はカモアオイ(賀茂葵)とも呼ばれる。森林に生育し、暗い林床に生えると言う性質から木嶋神社(このしまじんじゃ)の糺すの森にもあったのだと思われる。神紋(しんもん)は、どちらが先かと言えば、たぶん木嶋神社(このしまじんじゃ)のが先だろう。秦氏と賀茂家の関係がそこにも見える・・。静かな境内はまさに鎮守の森奧が神殿で、向かって左の方に「元糺(もとただす)の池」がある。鳥居の奧に見える柵の向こうに三柱鳥居がある。「元糺(もとただす)の池」、泉水からはかつては豊富な泉が湧き出ていたらしい。おそらく池に下がる石段があるので、そこは浄めの御手洗(みたらい)をする場所でもあったと思われる。※ 伊勢神宮の五十鈴川のような役割。近年の宅地開発で水源が切れてしまったのか?今は枯れて行った時は全く水がなかった。が、夏の土用の丑の日にこの泉に手足を浸すと諸病に効くと言う信仰があるらしい。そして、この神事も同じく下鴨神社で行われる御手洗祭(みたらしまつり)と同じなのである。「元糺(もとただす)の池」の中にある三柱鳥居(みはしらとりい)三柱鳥居(みはしらとりい)の下はおそらく泉の水源であった場所だ。つまりそここそが、木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)様が宿った依り代? なのかもしれない。三柱鳥居(みはしらとりい)不思議なのは囲むように建てられた三つの鳥居の輪である。京都三珍鳥居の一つだとか・・。現在のは1831年に再建されたものらしく、かつては木像であったそうだ。※ 葛飾北斎の北斎漫画「三才鳥居」の絵はここの鳥居の絵らしい。三井家が守護神とする向島にある三囲神社(みめぐりじんじゃ)にも同じ石の鳥居がある。それは三井家から来たものらしいが、もとはここのをコピーしたものらしい。神社の鳥居は本来、神域への結界である。鳥居を三つ合わせて閉じれば中は完全なる神域。まさに神の御座か?が、立派な鳥居に惑わされて忘れていたが、このマジック3は他にもあった。2014年5月「伊勢神宮 2 (外宮)」の中で紹介している「パワーストーンの三ツ石(川原祓所)」である。リンク 伊勢神宮 2 (外宮)日本最大のパワースポット伊勢神宮の中でも、特にパワーの強い場所が3ツ石の置かれている川原祓所」(かわらはらいしょ)である。そこは神宮祭主や奉仕員を祓い清める修祓祭祀(しゅばつさいし)が行われる神聖な場所。そして、そのパワースポットの三ツ石(川原祓所)」の場所はかつて川の中にあったと言う。※ 伊勢神宮では明応7年(1498年)の地震とその津波による影響で川の流れが変わってしまった。禊ぎや祓い清めの儀式の場なのだから確かに水の中でこそ・・。ひょっとするとここも鳥居ができる前は三ツ石がポイントであった可能性が・・。実際、賀茂神社では三柱鳥居(みはしらとりい)は真似していない。糺すの池は造ったが・・。つまり、平安の頃はなかったと言う事だ。うずたかく積まれている石の下に「三つ石」があったりして・・結論を言えばそこは聖なる禊ぎ(みそぎ)の場所。身にたまる穢れをそぎ落とす場所と言う事だ。そう言えば秦氏は神宮の伊勢への遷宮にも資金を出していたらしい。三柱鳥居(みはしらとりい)、自分の中では結論が出た感じです。追記・・・神社の説明の中に三柱鳥居は景教(キリスト教の一派ネストル教)の影響か? と言う風な事が書かれていましたが、論外です。神社の中にはお稲荷様も祀られている。9月に行ければ松尾大社に行ってきます。そこも秦氏のルーツにかかわる所です。そしてまだやってませんでしたが、下鴨神社。写真は撮ってきています。いつかやります。「倭人と渡来人」とりあえず終わります。次回は軽い物を予定しています。間を開けて松尾大社予定しています。Back numberリンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツリンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)他リンク 陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)リンク 四天王寺庚申堂
2017年08月27日
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Break Time(一休み)最近夢の中でも仏像など調べ物をしていて、現実の事とゴッチャになって来てました かなり頭が疲れているんだな・・と、今回趣向を変えて・・。6月の初め、ちょっと風の強い日にマンション5階のベランダに美しい白っぽい蝶が飛ばされて来ました。最初はアルビノ(albino)のアゲハ蝶かと思ってカメラを取り出し撮影。植木で接写ができずちょっとボケ気味ですが・・。実はその蝶? 名前が気になり、グーグルの画像検索に入れてみました。世の中進んだものである。すぐにヒット。アメリカでは俗にルナ・モス(luna moth) 学名は(Actias luna)日本では俗にオオミズアオと呼ばれる種の蛾(ガ・moth)であった。オオミズアオとマダガスカル・ムーン・モスオオミズアオ(Actias luna)世界最大の蛾 マダガスカル・ムーン・モスオオミズアオ(Actias luna)何て美しい色だろう。まるで薄羽蜻蛉(うすばかげろう)のような色の羽。それはアメリカでも最も美しい蛾(ガ・moth)として讃えられ、1987年にはアメリカのファーストクラスの郵便切手にもなっている。日本では和名のオオミズアオの呼び名のが一般的のようだが、ルナ・モス(luna moth)の名も入れておきます。※ ルナ・モス(luna moth)のlunaは月の女神である。美しさの形容であろう。 mothはそのまま蛾(ガ)である。だが、美しくとも、ルナ・モスこと、オオミズアオは蝶ではなく、蛾(ガ・moth)に分類されている。チョウ目(鱗翅目)、ヤママユガ科、Actias属 、オオミズアオ(A. aliena)種最も蝶と蛾の明確な区分けのポイントはないらしいが、なぜか蛾の方が蝶より20~30倍も種類が多いらしい。※ チョウ目(鱗翅目)は、卵(たまご) → 幼虫(ようちゅう)→ 蛹(さなぎ)→ 成虫(せいちゅう)という 完全変態を行う昆虫である。翼幅は8~11.5cm(3.1~4.5インチ)。地域で多少大きくなる事もあり、アメリカでは蛾としては最大だとか。生息域アメリカでの生息域はメイン州南部からフロリダ州、西部からテキサス州東部、ノースダコタ州東部まで、すべての東部州で発見。カナダでは、サスカチュワンからケベック州の中心部を通ってカナダのノバスコシアに至るまで発見。平地から高原まで生息域は広く朝鮮半島,中国,ロシア南東部にも分布しているし、日本でも北海道から九州。そして低地から高地まで幅広く生息していると言う。私は初の対面であったが東京都心でも多数発見されているので珍しい種でもないらしい。風が本当に強かったので、肢体はボロボロ。壁に必死に張り付いていたので時々お腹を見せてくれた。お腹が真っ白でフワフワしていたのが可愛かった。うちに来たのは昼頃。もしかしたらふ化して、羽が固まる前に飛ばされたのかもしれない。ふ化は午前中で羽が固まるまで2時間かかるらしいから・・。食幼虫の時にモミジ、ウメ,サクラ,リンゴなどバラ科、ブナ科、カバノキ科ほか多くの樹木の葉を食べるらしい。アメリカでは北のものは白樺を、南部ではクルミやヒッコリーを主に宿主とするらしい。しかし、ふ化して成虫になると、口が退化して食事ができなくなるのが特徴らしい。だから寿命は1週間程度?美しいい物は儚い(はかない)物なのですね。さて、実はこれだけではありません。ふと気になって以前チラッと写真一枚紹介したマダガスカル・ムーン・モス(Madagascan moon moth)の写真を引っ張り出してきました。そして発見。ルナ・モスこと、オオミズアオとマダガスカル・ムーン・モスにはやはり共通する特徴が・・。名前も月の女神(luna)と月(Moon)だけど前翅、後翅(こうし)のウイングに目のような柄。後翅(こうし)の尾状突起がこちらは異常に長いけどそれもオオミズアオに似ているんですよね。世界最大の蛾 マダガスカル・ムーン・モスオスの翼幅は20cm、尾の長さは15cm。 世界最大のシルク蛾(silk moths)。2010年1月「ここはどこ? シリーズ3作目 8 (擬態するもの) 」の中で「おまけ」として最後に「マダガスカルオナガヤマユ」として紹介していますが、それは和名?実はこちらはマダガスカルの熱帯雨林に生息する世界最大のアフリカの蛾(African moth)である。コメット・モス(The comet moth) (Argema mittrei) あるいはマダガスカル・ムーン・モス(Madagascan moon moth) と呼ぶようです。※ 日本人はマダガスカルオナガヤマユと呼んでいるらしい。ふ化して間もないのか? 繭(まゆ)にしがみついているマダガスカル・ムーン・モスメスは120~170個の卵を産む。繭(まゆ)に開いた穴は繭(まゆ)に雨水などで水がたまるのを防ぐ為の機能だそうです。水がたまると溺れるので・・。ちょっとわからないけど糸も太いのかな?こちらもオオミズアオと一緒で口が退化し、成虫になってから食事はとれない。従って寿命は4~5日らしい。成虫になると、彼らは仲間を探し、すみやかに交尾。大きく、美しく、目立つ肢体は仲間捜しやペアの相手探しの為なのだろう。しかし、それ故、外敵からも狙われやすい。彼らの天敵はカメレオン、ヤモリ、鳥類。限られた時間の中で、次の世代を残す為の活動をする。卵が170個という数はそれだけ命の確率が低いからに他ならない。それを遺伝子は察知していると言う事だ。仮に交尾まで達して無事に卵を産んだとしても、それが次の世代にたどりつける保障はほとんどない。今、生存を確認できている事自体が自然の神秘かもしれない。当然、、彼らは絶滅の危惧される生物である。マダガスカルのナショナルパーク Andasibe Mantadia National Park では早くに捕獲され、繁殖に成功したようです。ルナ・モスこと、オオミズアオとは体長で2.5倍近くサイズが異なりますが、実はとても近種だったようです。以下比べてみました。違いは属からですルナ・モスとマダガスカル・ムーン・モスの双方、ヤママユガ科。糸を吐いて繭(まゆ)を形成する所など一緒。蚕(カイコ)はカイコガ科であるが、成虫では口が退化して食べられなくなる特性も一緒。カイコも遠い親戚?それにしても何で口が退化したのか謎ですね。偶然見つけたけど面白い
2017年08月19日
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Back numberは最後にまとめました。前3作は半跏思惟像でまとめたので番外にしようかと思ったのですが、蘇我氏の渡来人説も中途。秦氏の功績や神社も紹介したくて4作でも終わらなくなりました (;^_^A今回は秦氏の嵐山の功績を紹介して次回番外で秦氏が祀った不思議な神社の紹介をする事にしました。倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)秦氏の功績嵐山渡月橋 葛野大堰(かどのおおい)蘇我氏と渡来人秦氏の功績魏志倭人伝によれば、日本には牛や馬どころか鶏もいなかったらしい。※ 其地無牛馬虎豹羊鵲 (牛、馬、虎、豹、羊、鵲(セキ)はいない)※ 鵲(セキ)はニワトリをさしていたのでは? 渡来時期が弥生頃とされているし・・。それらは全て渡来人より大陸からもたらされたのである。秦氏は渡来して大陸の進んだ文化をたくさんもたらしてくれた。米をたくさん収穫する為に治水や潅漑技術をもたらした。そして米により酒も造られた。墳墓を造る為に山から巨大な岩を切り出して運ぶ技術もあったと思われるし、白村江(はくすきのえ)の戦いにおいては、造船の責任者として秦氏の者(朴市秦造田来津)が共に半島に渡っている。大型の船を造る技術も持っていた? と推測できる。また秦氏は蚕(かいこ)を養蚕して絹織物を造る技術も伝えている。(かつて上質の絹織は中国宮廷の秘技)調べて見ると秦氏の功績はまだいろんな所に見られる。特に金銭的には白村江の後の百済皇族の亡命者を支援したのも秦氏のようだし、長岡京、平安京、共に造営には秦氏の資金が提供されていたようだ。※ 平安京の大内裏にいたっては、秦河勝(はたのかわかつ)の邸宅が利用されたと伝えられている。内裏の庭(紫宸殿正面)にある「右近の橘(たちばな)」はもともと秦氏の邸宅の庭にあったもの。常緑の橘は長寿瑞祥の樹なのだそうだ。それなのに歴史の表に出てくる人物は極めて少ない。まして階位もそんなに高くは無い。それはなぜだろう。階位が上がれば人から妬まれる。だからそんな物もいらなかったのかもしれない。望めばいくらでも高位に上がれたはずなのに・・。出過すぎず、決して目立つ事はなく、静かに朝廷に寄り添い、必要とされれば、己の役目を果たしてきた。そんな気がする。(そんな一族の掟でもあったのか?)かつて祖先が秦(しん)の国を追われた。渡来した秦氏一族は争いを好まない人達だったのかもしれない。朝鮮半島は地続きだ。いつ隣国が手の平返して襲撃してくるかしれない。静かに、安らかに暮らしたくて海の向こう、日本への集団移住をヤマト王権に申し入れたのかもしれない。岩田山モンキーパーク山頂からの京都盆地中心赤い矢印。遠くの山系は比叡山。その下黄色の矢印が双ケ丘(ならびがおか)でその手前が太秦(うずまさ)。その右下、双ケ丘(ならびがおか)より奧であるが、ピンクが京都御所のあたり。その奧の右、赤い矢印は大文字山。左手前、この山の足下が渡月橋。この写真では見切れているが、右手には京都タワーも見える。まさに京都盆地が一望できる山。岩田山モンキーパークはなぜか外国人に人気。客の8割は外国人であった。それにしても岩田山の麓から桂川(かつらがわ)は開けた盆地に向かって流れている。大雨が降れば洪水になり、弥生時代、このあたり一帯は水浸しとなった事だろう。桂川の向こう、嵯峨野がありその向こうが太秦(うずまさ)。前回紹介した広隆寺は双ケ丘(ならびがおか)の右手前の森。次回紹介する蚕の社(かいこのやしろ)は広隆寺のさらに後方の小さな森。5世紀以降は、ここから見える景色のほとんどが森か水田になったのであろう。平安京時代の京都盆地学研の鳥瞰イラストの本、「風水から見た平安京の図」に少し手を加えてしまいました。平安京の位置を中心に黒い円内くらいを当時の京都の範囲と見ました。オリジナルはかなり広域になっていたので・・。山陰道(白虎)のイラストのあるところがちょうど太秦(うずまさ)で、薄いピンクで円をしたあたりが秦氏が治水して水田を造っていたと想像できる範囲です。秦氏は京都盆地に根付き、左の桂川の治水工事をすると共に潅漑用水路を造り、京都盆地左に大規模な水田開発をしていたと推測。渡月橋 葛野大堰(かどのおおい)嵐山の渡月橋(とげつきょう)は、嵐山を代表する景色の一つであるが、夏に大雨で時々増水しているニュースを見かける。実は桂川(かつらがわ)は葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれる堰(せき)ができる前はもっと酷い洪水を起こしては嵐山から下流域をメチャクチャにしていたらしい。下流からの渡月橋と嵐山渡月橋(とげつきょう)古くは葛野川(かどのがわ)と呼ばれていた川は「桂川」、「保津川(ほづがわ)」、渡月橋付近で「大堰川(おおいがわ)」、橋から再び「桂川」と何度も名前を変える。※ 大堰川(おおいがわ)の名は、大きな堰(せき)から来ているのは明白だ。因みにこの桂川は伏見区で鴨川と合流。大阪府との境で木津川、宇治川と合流し淀川となり大阪湾に繋がる河川だ。上流側からの渡月橋改めて見るとここからも比叡山が見えるし、太秦(うずまさ)もこの先に見えているところで、下流に向かって左岸が右京区嵯峨。手前の右岸が西京区で嵐山。つまり渡月橋の向こうが西京区の嵯峨であり、JR嵯峨野線や嵐電の駅がある。一方、右岸の西京区の方には阪急嵐山の駅がある。いずれも駅名は「嵐山」である。それ故、観光案内では渡月橋をひっくるめてこのあたり一帯を嵐山としたり、嵯峨嵐山としているようです。渡月橋からの上流、大堰川(おおいがわ)と小倉山(おぐらやま)写真、中心、椀をひっくり返したような小さな小山が百人一首の歌枕でお馴染み小倉山(おぐらやま)である。因みに山の手前、川の右(左岸)に小倉百人一首文化財団の時雨殿(しぐれでん)がある。橋から上流はちょうど西に当たるので逆光になってしまった。※ 今回の嵐山の写真は複数日に撮影したものです。季節も様々中には大雨の日もありました。一ノ井堰(いちのいぜき)と小倉山今は洛西用水(らくさいようすい)「一ノ井堰(いちのいぜき)」となっているが、ここがかつての葛野大堰(かどのおおい)である。※ 当時の堰(せき)は今は無いが、川底に当時の一部が残っているらしい。現在の堰(せき)はサイドに魚道がもうけられている。手前の白い器具はタービンのよう。ちょっとした発電をしているようだ。さらに手前の水路は洛西左岸幹線用水路らしい。弥生時代より川の周辺では稲作が行われていた。川が定期的に氾濫しているのだから土地が肥沃なのは確かだ。しかし年中氾濫していたのではたまらない。5世紀中頃、秦氏が葛野地方に住み着くと葛野川(かどのがわ)に堰(せき)を造ったそうだ。それが葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれる堰(せき)である。また秦氏がおこなったのは堰(せき)造りだけではない。当時の堰(せき)はダムのようなもの。同時に堰(せき)から放水路が造られ、遠方の田畑に水をひく用水路となる潅漑(かんがい)工事もしている。1419年(応永26年)に描かれた桂川用水路図には法輪寺橋下流の右岸に「一ノ井」と云う名称で用水取入口が記されているそうだ。今とほぼ同一の場所に堰(せき)があり、室町時代には松尾、桂、革島等の農業灌漑用水として利用されていたのが解っているそうだ。京都市の看板より 多少色を付けました。もともと洪水対策用であり、さらにその水を川から遠い農地の潅漑に利用しようと言う一隻二丁の策である。堰(せき)はダムであり取水口になった。これにより嵐山界隈は大いに実りある稲作の土地に変わった。何より1500年以上も前にそんな大規模治水工事が行われていたと言う事が驚きである。今も農業用水として稲作や京野菜の為に利用されている洛西の幹線用水路の図。秦氏がもし葛野大堰(かどのおおい)を造らなければ、平安京への遷都もなかったかもしれない。少し前に琵琶湖疏水の事を特集したが、技術的な意味も含めて、桂川に堰(せき)が造られるのは、秀吉以降の時代までなかったかもしれない。それだけ秦氏が当時用いた葛野大堰(かどのおおい)構築の技術はすごかったらしいのだ。現在の一ノ井堰(いちのいせき)からの導水路右が嵐山公園。その向こうが桂川この導水路は再び桂川につながるのだが、途中から洛西右岸東幹線用水路と洛西右岸西幹線用水路に取水され、それは南下して桂川以西の西京区の方に流れている。保津川渓谷を下った船も堰(せき)があるのでここまでしか来れない。先ほども川の名称の所でふれたが、亀岡から嵯峨嵐山までを保津川(ほづがわ)と呼ぶ。ここが有名な保津川下りの終点なのである。JR嵯峨嵐山線や嵯峨野トロッコ列車で亀岡駅まで向かい、そこから船着き場に移動して川下りのスリルを楽しむと言うのが保津川の川下りである。嵯峨嵐山の楽しみの一つとなっている。(16km 2時間弱)因みに嵐山に下った後の舟は乗船場の亀岡市保津までトラックで運ばれて戻るらしい。蘇我氏と渡来人法隆寺にある聖徳太子をモデルとした長身の救世観世音菩薩像から発した疑問。もしや聖徳太子には渡来人のDNAが混じっていたのではないか?あるいは蘇我氏自体が渡来人だった可能性は?※ 実際蘇我氏の渡来人説と言うのは存在する。(多くの学者が否定しているが・・)蘇我氏が歴史の表に出てくるのは蘇我稲目(そがいなめ)(506年頃~570年)からだが、出身は大和の葛城(かつらぎ)とされている。そこは飛鳥地方の西の外れであるが交通の要所でもある。葛城川は大和川にそそぎ、それは大阪湾に繋がっている。そこは前回紹介した奈良県桜井市の纒向遺跡(まきむくいせき)にほど近い。ひょっとすると纒向(まきむく)の都市国家時代(3世紀?)にはすでに豪族だったのかもしれない。一族の者を朝廷の后に組み込み、蘇我蝦夷(そがのえみし)や蘇我 入鹿(そがのいるか)の時代(6~7世紀)に蘇我氏は全盛を迎える。だが蘇我氏が台頭したのは渡来人を配下においていち早く大陸の技術を導入し、地方支配に成功したからのようだ。明日香村南西部、古代、檜隈(ひのくま)と呼ばれた土地は朝鮮半島からの渡来者が多く集まって居住していた地だそうだ。※ 彼ら渡来系集団は後に東漢(やまとのあや)氏と呼ばれる。檜隈(ひのくま)もまた葛城(かつらぎ)に近い。蘇我氏は彼らから文字を習い、鉄器や須恵器(すえき)など大陸のあらゆる技術や文化を学んで取り入れ、生産して中央に近づいて行ったと思われる。もしかしたら彼らの技術を学びそれらを国内生産して普及させると言う使命のもと、渡来系氏族の担当になっていた可能性もある。※ 須恵器・・古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器。蘇我氏と渡来系氏族の関係は支配と従属関係か? あるいは相互関係にあったのか?自分たちより文化の高い彼らを支配下に置くのは疑問である。蘇我氏と彼らの関係はほどよい友好関係と見るのが妥当だろう。当然蘇我氏と彼らの間に姻戚関係ができても不思議ではなかったと思われる。つまり、蘇我氏自体が渡来系でなかったとしても、蘇我氏の血脈に渡来系の遺伝子が取り入れられた可能性は限りなく大きいと思うのだ。※ 可能性として考えられるのは欽明天皇の妃となった聖徳太子の祖母、蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)や蘇我堅塩媛 (そがのきたしひめ)がそれぞれ渡来人の母をもっていたかもしれない事だ。双方の祖父母からのダブル遺伝子で長身になったのかな?なんて・・考えてみた ☆⌒(*^-°)v次回「倭人と渡来人」番外編で秦氏の祀った「蚕の社」を紹介。リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎少し間が開いて醸造祖神松尾大社を紹介しています。リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)Back numberリンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)
2017年08月15日
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想定していなかったが、太秦(うずまさ)の写真が日の目を見る事になった そして奇しくも全3部で3体の有名な半跏思惟像を紹介できてしまった。いつも書いているうちに方向性が変わり、当初予定の所に着地できないのが問題だけど・・ 今回の写真は秦一族が住み着いた京都太秦(うずまさ)から秦氏の創建した広隆寺、秦氏のお墓の一つ、蛇塚古墳から。蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)については次回番外で。今回もものすごく長くなってしまいました 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像気になる邪馬台国(やまたいこく)ヤマト王権以前の渡来人(帰化系氏族集団)秦氏の氏寺 広隆寺(こうりゅうじ)秘仏と黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)秦氏(はたうじ)はいつ頃渡来したか? 辰韓(しんかん) 秦(しん)と始皇帝太秦 蛇塚古墳(へびづかこふん)古墳はどうして消えたか?弥勒菩薩半跏思惟像、広隆寺バージョン 高さ124cm。国宝撮影が禁止されていたので広隆寺の冊子からの撮影です。日本の有名な半跏思惟像の一つである中宮寺バージョン(「倭人と渡来人 1」で紹介)よりもむしろ前回紹介した韓国の国立博物館に所蔵されている三国時代の半跏思惟像に近い形態です。素材は赤松。(韓国の像は金堂製) 日本の方に表記はありませんが、韓国の方の説明に新羅からの仏師が寺の創建にかかわっていると書かれていました。金属の型抜きされた仏像よりも、やはり細工が細かくできるので木彫の方が複雑な表情の表現ができるのだと思います。半跏思惟像は菩薩の、あるいは釈迦の瞑想する姿を示した像。それ故に仏像を彫った仏師も「仏師としての悟り?」 瞑想の中で一心に彫ったのでしょう。心打たれる格別な感慨を与えてくれる逸品で、いつまでもじっと見ていたい仏像です。広隆寺の仏像はほとんど製作年代がアバウトでこれも「飛鳥時代」とだけ・・。せめて西暦を入れてくれれば良いのですが・・。英語案内もないです。聖徳太子が秦氏に贈った像と言われ、広隆寺本尊となり、寺は創建されました。しかし、現在の本尊は弥勒様ではないようです。※ 寺は後から・・。秦氏に入る前に・・。気になる邪馬台国(やまたいこく)邪馬台国(やまたいこく)がどこにあったか? 論争は続いている。前回触れたが、三国志(儀、呉、蜀)時代の史書に書かれた魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)には末廬国、伊都国、邪馬台国から覇権された代官が筑紫に駐屯していた事は記されているが、肝心な邪馬台国の場所の記述については、なぜか特定できていない。記述のミスとも考えられ、九州説が有力であったようだが・・。まだ全容は見えていないが、奈良で近年発見され発掘が続いている纒向遺跡(まきむくいせき)がちょうどその時代にあてはまり、ひょっとしたら邪馬台国? との可能性が高いとされている。纒向遺跡(まきむくいせき)は奈良県桜井市の三輪山西麓にある。その地帯はもともと初期の古墳(前方後円墳)がたくさん発掘されている所。※ 古墳は3世紀中頃から登場。※ 纏向遺跡からは運河のような遺跡が発見されている。それは最終的には大和川につながる支流に繋がっていたのだろう。大和川は大阪湾に繋がっているので瀬戸内海から船でたどり着ける地と言う事。そこに見つかった集落の遺跡は、発掘するにつれ想像以上の規模の都市型集落跡だと解り、3世紀と言う推定年代から、邪馬台国の可能性が限りなく強くなったらしい。・・と、同時に奈良に3世紀には大きな都市があった事が証明されたのだ。倭(わ)の女王、卑弥呼(ひみこ)が存在したのは3世紀。弥生時代の終わりである。魏(ぎ)は今後の交易の印となるべく金印を贈った。そしてシャーマンである彼女の為に刀2口と貴重な銅鏡を100枚を贈っている。ところが、歴史資料はその邪馬台国からほぼ一世紀抜けている。中国で動乱があり、史書が無いのだ。次に日本の歴史が語られるのが5世紀。宋書による倭の五王の話。つまり前回冒頭で触れた「謎の4世紀」と言われる弥生時代から古墳時代に入るあたりの日本史の空白が問題なのである。邪馬台国からどうヤマト王権に進んだのか?卑弥呼は倭国動乱を治める為に女王となった。そして卑弥呼はそこそこ長命であったようだが、卑弥呼が亡くなるとまた動乱が起きたと言う。この動乱後にまた巫女が立って収まるが、動乱を起こした国の中にヤマト王権が入っていたのだろうか?あるいは邪馬台国と時を同じにして(大陸には知られていない)別の王朝があったと言う事か?ヤマト王権以前の渡来人(帰化系氏族集団)百済(くだら)滅亡と共に渡来人もまた増えたが、飛鳥時代以前にすでに帰化している渡来人もかなりいたようだ。その中には百済と同じように大陸での政変から国を逃れて日本に渡ってきたと思われる者もいた。亡命組の中でも秦氏(はたうじ)と東漢(やまとのあやし)は多くの民衆を従えて団体で渡来してきたとされている。双方とも日本書紀によれば第15代応神天皇(おうじんてんのう)の治世あたりに渡来?※ 東漢(やまとのあやし)は小氏族で構成されたor 渡来人集団の総称とも考えられる。いずれにせよ、彼らは進んだ大陸の文化を日本にもたらしヤマト王権の礎を造ったと想像される。秦氏の氏寺 広隆寺(こうりゅうじ)太秦(うずまさ) 広隆寺(こうりゅうじ) 仁王門撮影所でお馴染み京都の太秦(うずまさ)は、実は秦氏が渡来して土地を賜った場所なのだ。太秦古墳群と言うほど古墳が点在し、その墓の副葬品から渡来氏族のものと思われる遺物が出土していると言う。秦公寺(はたのきみでら)と別称もある広隆寺は秦氏と蘇我氏や聖徳太子との深い関係を示す寺でもある。寺の説明書(日本書紀による)では創建は推古天皇11年(603年)で山城最古の寺だそうだ。上宮王院太子殿(本堂) 1730年に再建推古天皇の治世に秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子より仏像を賜ったのが建立のきっかけだったそうだ。その仏像こそが、先に紹介した弥勒菩薩半跏思惟像、広隆寺バージョンである。秦氏は、すでに渡来してから事業に成功。一族はそれぞれ豪商になっていたらしいし、その財力により寺社建立だけてなく、朝廷の財源や平安京への遷都にも関わっていたらしい。秦河勝(はたのかわかつ)は、渡来して何代目かは定かでないが、当時聖徳太子の側近までしていたようだ。聖徳太子の仏教普及の為に彼は広隆寺を建設して協力したのである。広隆寺は、聖徳太子の建立した日本七大寺の一つだ。なぜ本堂を上宮王院と呼ぶのか不思議であったが・・。実はここの本尊は聖徳太子なのである。とは言え秘仏として公開されるのは一年に1度、11月22日の火焚き祭りの時だけ。秘仏と黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)秘仏の本尊(聖徳太子像) 冊子から撮影しました。聖徳太子の像が造られたのが1120年、平安時代後期。聖徳太子立像により、広隆寺は聖徳太子信仰の寺に変わったらしい。実は聖徳太子像が身に付けている黄色の装束に意味がある。古来より、歴代天皇が即位する時に身につけられた黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)が贈進されて着用。一天皇の御代に一着のみの装束と言う事になるらしい。※ 広隆寺で買った冊子にまさか写真が載っているとは思いませんでした。広隆寺は何度か火災に遭っている。その度に再興されているのだが、火災の度に、そこそこ巨大な仏像が運び出されたのか? 霊宝館(宝物館)には国宝や重用文化財に指定された仏像が多数展示されている。なかなか見応えのある仏像がそろっていた。霊宝館は有料。写真撮影は禁止ですが、行ったなら絶対入らないと損です。秦河勝(はたのかわかつ)夫妻の像 重用文化財 こちらも冊子から檜造り。藤原時代のものらしい。藤原時代? 広隆寺の書き方は万事こんな感じ。解りにくい。894 年の遣唐使廃止以後の3世紀(平安中期・後期)を藤原時代と呼ぶらしい。秦氏(はたうじ)はいつ頃渡来したか?秦氏の先祖とされる渡来人「弓月君(ゆづきのきみ)」は秦(しん)の帝室の後裔と伝えられている。※ 生没年不詳。実在かも不明。日本書紀には応神天皇14年に弓月君が百済? から来朝して窮状を天皇に上奏。弓月君は百二十県の民と共に日本へ帰化を希望していたとあるそうだ。応神天皇14年は西暦で283年。新羅の妨害があり半島を出られず、渡来したのは応神天皇16年(285年)とされる。疑問応神天皇の生誕を調べて見たら14代 仲哀天皇9年(200年)に生まれて応神天皇41年(310年)に亡くなった事になる。110年も生きたのか? 仮に神功皇后9年(209年)だとしても101歳になってしまう。(古事記の誕生年に誤りか?)また、次の16代仁徳天皇の年齢も問題だ。仁徳天皇の治世は87年に及んでいる。それが生まれたのが神功皇后摂政57年(257年)で亡くなったのが仁徳天皇87年(399年)だから142歳になってしまう。古事記の記述そのものが怪しくなるのであてにできない資料かもしれない。さらに、応神天皇の時代に百済はまだ無い。百済(くだら)(346年頃~660年)もしこの時代に半島から来たとするなら間違いなく辰韓(しんかん)(BC2世紀~356年)からだろうし、新羅になってからの渡来の可能性もある。辰韓(しんかん)朝鮮半島南部には秦からの亡命者が古くから移り住んでいたと言われている。特に1世紀~4世紀にかけての朝鮮半島南部は言語や風俗がそれぞれ異なる辰韓(しんかん)・馬韓(ばかん)・弁韓(べんかん)の3つに分かれていた。その辰韓(しんかん)(BC2世紀~356年)は中国の王室から来た娘が祖? 秦から前漢時代に渡来した者達が集まった国だったらしい。(それが後に12に分離。)辰韓人(しんかんじん)は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。これはまさに秦氏が日本にもたらした技術なのである。※ 新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」には秦始皇帝三世孫(孝武王)の後裔と記されているらしいが、「新撰姓氏録」自体が平安時代初期(815年)に編纂されたもの。秦(しん)と始皇帝最初に中国を統一した王朝として知られるが、それは長い秦時代(BC778年~BC206年)の最後である。BC221年、初めて統一に成功すると自ら始皇帝(しこうてい)(BC259年~BC210年)と名乗る。我々も良く知る万里の長城の建設や、等身の兵馬俑(へいばよう)を造った皇帝だ。が、始皇帝が亡くなり彼の息子が二人? 即位するも彼の死から3年ほどしてBC206年に秦は滅亡した。その秦の始皇帝には当然たくさんの子女がいたはずである。前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された「史記」の李斯列伝(りしれつでん)には始皇帝の公子は20人以上いたが、二世皇帝が公子12人と公主10人を殺したことが記されているそうで、代が変われば命が危ぶまれて逃げた子弟も多かったのかもしれない。あくまで私の推論であるが、秦氏が半島から来た年代は、辰韓(しんかん)が滅する356年あたりの可能性が高いと思う。少なくとも統一新羅(668年~900年)が始まるずっと前。振り幅が広いが、秦氏の渡来は新羅の勢力に関係していると思われるからだ。もし辰韓(しんかん)滅亡の時であるなら、日本は16代 仁徳天皇(にんとくてんのう)の治世(仁徳天皇44年が356年)にあたる。そう言えば日本は3世紀中頃から古墳が作られ始めるが、大阪にある仁徳天皇陵は最大規模の前方後円墳である。秦一族は治水などの工事もしているし、古墳ももたらしている可能性もある。今回紹介する太秦(うずまさ)にある蛇塚古墳がその一つで、今は見る影も無いが秦氏の墓も前方後円墳なのだ。ひょっとすると仁徳天皇陵の造作には秦氏の技術があったかもしれない。帰化のお礼に極めて大きな立派な墓を造ったのかな? 太秦 蛇塚古墳(へびづかこふん)太秦の面影町にある古墳の残骸が蛇塚古墳である。蛇が住み着いていた事から蛇塚と名前が付いたらしい。今後被葬者が解れば、名前は変わるかも・・。実は密集した住宅街のど真ん中にある。しかも今は破壊されて玄室部分の一部しか残っていない。もとは立派な前方後円墳であったそうだ。しかも時代は古墳時代最後の7世紀始め頃と推定。1920年(大正9年)頃はまだ畑に埋もれながらも前方後円の墳形は残されていたらしい。ところが地主が土地を切り売りしてしまったようだ。1936年(昭和11年)、さらに地主により封土が取り払われ、玄室までもが除去されようとしていた。突き当たりが蛇塚古墳。古墳手前の道までが前方後円墳の前方部分の山があった所のようだ。今は蛇塚古墳では前方のしかも玄室部分しか残っていない。が、上空からの写真を見れば、連なった家をひっくるめて確かに前方後円墳型になっているのである。誰かドローンで最新の映像を撮影してほしいものだ。道も狭くて入り切らない。撮影も大変なのだ。ところで、学者達は現れた石室を見て驚いたようだ。明日香村にある蘇我馬子? の石舞台古墳に匹敵する規模だった事が判明したからだ。玄室のサイズは全長17.8m、長さ6.8m、幅3.9m、床面積25.8平方m。蛇塚古墳の全長は約75m、前方部幅約30m、後円部径約45mと推定。これだけの石室の墳墓を作れる同時代の者は、よほどの財力を持っていた。蘇我馬子に匹敵する大物は? 太秦に本拠を持っている秦河勝(はたのかわかつ)しか考えられない。と。言う訳だ。墳墓のところには京都市の看板が立っているが、それにしてもこの墳墓の扱いはヒドイ。確かに巨大な石が今にも転げそうな危険な状態ではあるが、もう少し手を入れて金網ももう少し中が見えるような配慮とかできないものだろうか?金網に掛けられていた町会の看板もいかがなものか・・。周りの住宅も京都府が買い上げてもう少し元の形を復元すれば良いのに・・と思ったりして・・。もしここが本当に秦河勝(はたのかわかつ)の墳墓であったなら、それはものすごい発見である。古墳はどうして消えたか?646年(大化2年)に出された詔による。従来の墓の規模を縮小し、簡素化すると言う薄葬令が出されたからのようだ。これにより巨大な古墳は消える。故に古墳時代は3世紀半ばから646年までと言う事になる。今回も長くなったので切りました。次回番外編として出すか考え中。秦氏の創建したやはり太秦にある蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)を紹介します。「倭人と渡来人」シリーズは間があきながら1~7までとなります。リンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)
2017年08月07日
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