全4件 (4件中 1-4件目)
1

最後に他のリンク、先追加しました。前回、秀吉による大阪城建設とそれに伴う大阪城下の区画整理(町割)が大阪の発展の始まりだと書きましたが・・。リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)もともと堺の商人の貿易力は戦国の時代から信長も認めていた事。秀吉の時代を経て江戸の城下がはるか遠くなっても、大阪は戦略的にも、経済的にも重要な拠点。徳川家康がそれをほっておくわけはなかった。大阪夏の陣後、家康の特命により摂津大阪藩10万石の藩主となったのは、家康の外孫であり養子でもある松平忠明(まつだいらただあきら)(1583年~1644年)(在職 1615年~1619年)である。そもそも彼は秀吉との休戦協定中、大阪城外堀と内堀の埋め立てを担当した奉行でもあった。※ 徳川方 勝利の一因は、この埋め立ての早さにもあった。つまり、家康の肝いりで藩主となり大阪城下の戦災復興担当に任命されたのも彼なのである。在職期間に大阪の町の区画整理をし、人を大阪に移住させたり、市街地の拡大を積極的に行い、堀の開削を進め物流を確保したり、町の強化も図っている。(少なくとも藩主時代の5年で街の骨子は造られた。)在職は5年であるから、城下中心部が主であるが、それはどれもこれも素晴らしく計算されたものである。頭の切れる人だったに違いない。松平忠明(まつだいらただあきら)は「大阪都市計画史上特筆すべき業績を残した人物」と、讃えられている。因みに、1619年、摂津大阪藩は幕府の直轄地となり大阪町奉行が置かれる事になった。つまりこの時、摂津大阪藩10万石は無くなったのである。そして1620年、松平忠明 転封(てんぽう)後に大阪城の再建が始まる。1624年には大阪城下の町組、大阪三郷(おおさかさんごう)(北組、南組、天満組)ができている。大阪城の再建は、都は江戸に行ってしまったが、大阪と言う街の活気を取り戻す事に寄与したのだそうだ。さて、今回は前回に引き続きミナミの繁華街にある法善寺の紹介ですが、その前に面白い事を発見したので先に紹介です 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大阪七墓)摂津大阪藩主 松平 忠明大阪七墓と七墓めぐり千日墓地と法善寺法善寺と法善寺横丁水掛不動(みずかけふどう)大阪七墓と七墓めぐり摂津大阪藩10万石の藩主となった松平忠明が行った仕事の中に、寺および墓地の移転がある。街の拡張を行うにあたり寺は小橋村と高津村、天満村に集められた。そして、じゃまになった墓地をまとめ、また火葬場や刑場を市外に移転させたのである。(もともとそこにあった墓地もあるが・・)それでできたのが江戸(時代)の「大阪七墓」である。梅田村、濱村(南浜)、葭原(よしわら)、蒲生(がもう)、小橋(おばせ)、飛田(とびた)、千日(せんにち)※ 江戸から明治にかけて大阪市内には七つの墓所と二つの処刑場(No6.No7)があった。下の地図は現在の環状線の駅に乗せてみました。便宜的(べんぎてき)に数字を当てました。(大阪環状線を右回りに梅田を1番にしました。)1.梅田墓所・・・・・・・・JR梅田貨物駅のあった北ヤード。火葬場もあった。 1684年大阪三郷の墓地を集めた曾根崎の墓所が梅田に移動したもの。さらに長柄墓地に移転。 近年の再開発の為、平成22年8月に地蔵尊は四天王寺の地蔵堂、供養塔と後から出た墓石は川西市の稱名寺、遺骨は天王寺の一心寺に改葬。2.濱村(南浜)墓所・・・・・北区豊崎。 開所747年。 行基(668年~749年)によって開所されたと言われ、日本最古の墓所とか・・。現存。3.葭原(よしわら)墓所・・北区天神橋6丁目。沖向地蔵尊の堂宇のみ現存。堂はポケストップになっている。 墓所は北市民館建設の為、長柄墓地に移転。天六地下鉄工事爆発事故の現場界隈だった。現在は無い。4.蒲生(がもう)墓所・・・・都島区東野田町。京橋駅の外側近く。現存。5.小橋(おばせ)墓所・・・天王寺区東高津公園。真田丸の南方に位置する。現在は無い。 冬の陣、真田丸攻防の時の戦士の墓だったとも・・。1914年、北の十萬寺に移転。無縁仏は大圓寺へ。6.飛田(とびた)墓所・・・・西成区JR新今宮駅の南側。処刑場があった。 1874年新設された阿倍野墓地に移転。近年まで墓地跡に太子地蔵尊があったらしいがそれも現在は無い。7.千日(せんにち)墓所・・中央区千日前。火葬場と処刑場があった。(大塩平八郎ら20名の処刑) もともと江戸初期に集められた場所のようだが、千日寺と呼ばれた法善寺、竹林寺(天王寺区に移転)の南に刑場と聖六坊、斎場、焼場、灰山、墓地などがあった。大坂三郷、最大の墓所だったらしい。 刑場は明治3年(1870年)に廃止。千日墓地の焼き場と墓地は阿倍野墓地へ移転(1872年の地図には既に記録が無い)大阪冬の陣に続き夏の陣の戦没者は相当数いたようで、墓地は共同墓地的な要素が強かったのかも。もちろん普通の寺にも檀家の墓所はあった。まだ墓所に入れてもらえた人はともかく、堀に落ちて、そのまま埋められてしまった方々もかなりいたようだ。建設工事の時に未だに人骨もよく出るらしい。400年もたっているのにね 七墓めぐり江戸時代中頃から、明治の初期まで、大阪には「七墓めぐり」と言う風習(流行?)があったそうだ。盂蘭盆会(うらぼんえ)(7月13日~16日)の間に、諸霊供養の為、木魚、持鈴、摺すり鉦などを持って徹夜で大坂七墓を巡り無縁の卒塔婆を回向すると言うもの。※ 祖先の供養と同時に、自身が極楽浄土へ行けるようにと言う願をかけたと言う話もある。千日墓地と法善寺「千日前」とか、「千日前通り」と言う地名は今も残っているが、これは先に紹介したように千日(せんにち)墓所に由来している。明治の初期に移転をよぎなくされたが、かつて、そこには千日(せんにち)墓所があり、刑場があり、火葬場(火屋)があり、幾多の寺が寄り、地蔵が置かれた土地であった。もちろんそれができたのは江戸の初期。冒頭紹介した松平忠明(まつだいらただあきら)の町造りの中で置かれたものだ。順序としては、墓所が決められ、寺が寄ってきた。法善寺が移転してきたのは1637年。竹林寺(前身は浄業院)が移転してきたのは1649年。いずれも墓所より後。また江戸後期地図にある蓮登山自安寺(日蓮宗の門跡)が来たのは1742年。※墓所は、松平忠明の着任中(1615年~1619年)には決まっていたはず。夏の陣の戦没者などがいたはずだから・・。千日寺(せんにちでら)とはそのネーミング、一般的に周知されているのは、法善寺と竹林寺が千日回向(せんにちえこう)を行う寺だった事。通称「千日寺」とよばれ、その門前は千日寺前と呼ばれたと言うもの。千日回向とは?回向(えこう)とは、1)死者の成仏を願って(主家)供養をする。とか、2)僧が念仏で自分の修めた功徳 (くどく) を他の人に分け与える。とか、その念仏により、3)阿弥陀如来が人々を救済し、浄土に迎えくれると言う(他力回向)。など。※ 千日回向とは、詳しくわからなかったが、千日毎に行われる特別な回向があったものと思われる。そもそもは、1)の意味で「大坂の陣での戦死者を含めた死者の供養の為、千日回向が始められた」と考えられる。が、江戸も中頃以降? 目的は2)や3)に変わって行ったようだ。 一度の参詣が千日分の御利益が得られると騒がれ浄土宗の法善寺や竹林寺は千日回向に来る人でかなり賑わったらしい。確かに千日ごとでは3年弱になるからね。寺が年中賑わっていたのなら、回向は年中行われて、いつでも御利益がもらえたと考えた方が正しいのかも。下は道頓堀近くの看板の一部「道頓堀周辺図(幕末頃)」 ※ 見づらかったので手を加えました。図の難波新地は1765年に開発され、茶屋が集まりやがて大阪有数の歓楽地となる。千日(法善寺)の人気が出て、知名度が上がった理由千日の周辺は、娯楽所が寄り合っていた場所。後に難波新地もできる。本当は千日寺近辺に遊びに来るのが目的だが、体裁的に、千日参詣を口実に利用した可能性が・・。何しろ墓地のすぐ北には幕府に公認(1653年)された芝居名代5棟が立ち並んでいた。※ 芝居小屋の方が法善寺より早く1626年(寛永3年)に移動してきたらしい。(看板に書いてあった。)下は大坂歴史博物館のジオラマからこうした芝居小屋は道頓堀の前に建ち並んでいたらしい。現在、かに道楽やくいだおれ太郎の店が並ぶ道頓堀通りだ。また、芝居小屋だけでなく、法善寺の開帳時には見世物小屋が開かれ、軽業や見世物興業、勧進相などが行われたようだ。※ 実話の心中(しんじゅう)話を舞台や浄瑠璃(じょうるり)にして演じて客を呼ぶ(興業)など話題も造った。日本橋(道頓堀東)の方面には宿屋があり、新町に女郎屋が存在していたかは定かでないが、夜鷹(よたか)(辻の売春婦)は確実にいただろう。1627年、新町に吉原遊郭 誕生していた。まあ、何にしても、千日寺と共に界隈は有名になり、旅人(観光客)も立ち寄り大いに繁昌したようだ。大坂歴史博物館のパネルより現在の地図にだいたいの場所を載せてみました。黄色が現在の戎橋筋商店街、ピンク1~5は芝居小屋の位置(今の道頓堀通り)紫は現在の法善寺の場所。緑の四角内に千日墓所(東墓地と西墓地、中に刑場、火屋(火葬場)、灰山が築かれていた。※ 今回、はっきり特定するのを避けましたが、詳しく調べて載せている方はいます。※ 千日前デパートの火災事故による大きな被害は、その場所がらの因縁がもたれる由縁です。先に書いたように、刑場は明治3年(1870年)に廃止。千日墓地の焼き場と墓地は阿倍野墓地へ移転している。この元墓地の場所は繁華街となり、地価が高騰。近年の開発で千日前通りに面していた竹林寺も2008年になって天王寺区勝山へ移転している。一方、現在も残り、且つ水掛不動尊で繁盛している法善寺は。昭和の時代も平成になってからもずっと人気で、ミナミの顔となっている。法善寺と法善寺横丁どちらかと言えば、現在の法善寺は道頓堀からのが近い。ここが寺か? と思える路地を入った一角にある。正直、どこからどこまでが寺なのかもよくわからない。普通の寺なら本殿があり、そこで拝むのが当たり前。しかし、ここにはそう言うかんじではない。写真左に金比羅堂(こんぴらどう)。写真正面の唐破風の向こうに水掛不動尊(みずかけふどうそん)上は水掛の順番待ちの列。水掛不動の正体は不動明王(ふどうみょうおう)様です。乾く時間もなく、常に水を掛けられているので水苔でフワフワ、モサモサのお不動様。見て、正直ちょっと驚いた こんなになっちゃって・・・水掛不動(みずかけふどう)実際、水を掛ける根拠は何もないそうだ。そもそも不動明王(ふどうみょうおう)は大日如来の使者とされ、憤怒の相で自ら火生(かしょう)。身から火炎を放出してその火で悪魔や煩悩(ぼんのう)を焼き尽くすと言う明王である。だから本来の御利益は、厄払いです。逆境(ぎゃっきょう)を乗り越えたい人にお勧めですが、物は考えよう。学業、仕事、勝負事などなんでも行き詰まった事に厄払い。ある意味オールマイティーなのかも。因みにここでは水を掛ける事から水商売系にも良いらしい。戦前には、普通にお水を供えしていただけだったそうだ。ところがどこかの女性が願を掛けながら水を掛けたらしい。それを見た次の人が真似をした?今に至るまで、みんなが水をかけ続けていて、こんな姿になってしまったらしい。正直、石仏に水をかけ続けていつかヒビが入り壊れるのではないか? と心配である。上手い具合に火炎の所にコケは無い。それは意外に位置が高いから水がそこまで届かないのである。柄杓(ひしゃく)でかけても私には顔さえ届かない。中にはバケツでかける人もいるようだが、見ていて、さすがにお不動様に失礼な気がした。中央に不動明王(ふどうみょうおう)、脇侍は矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ) どっちがどっちか解りません。水掛不動の堂を横から見た所。水掛不動様は割と薄い?金比良堂江戸時代には金比良信仰でも賑わったと言う。でもこちらは神道なんですね。神仏習合の見本みたいなものです。金比良さんは漁師、船員など海事関係者の守り神として崇敬され、信仰されているそうだ。この堂の右の路地にたくさんの地蔵が・・。慈悲地蔵尊。奉納料、一体2万円なり。法善寺横丁道の両脇には和洋の飲み屋さんが並ぶ。そもそも法善寺の境内の露店から発展したのがこの横丁のルーツらしい。明治から昭和の初期にかけては寄席の紅梅亭と金沢亭が全盛で、落語を楽しむ人々で賑ったそうだ。これら夜のお店の繁盛のおかげで、逆に水掛不動尊は夜も水を掛けられているのだろう。看板の文字は西が藤山寛美さん、東は3代目桂春団治さんらしい。多分、法善寺正面の看板が西で、こちらが東。さて、道頓堀通りの看板の写真が今回載せられませんでした。大阪七墓が長くなって・・面白ハデ看板の写真だけ番外で近日アップします。今週日曜から再び大阪入りです。天気だったら良いのにな (* ̄- ̄)人Back numberリンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)他 一部リンク先リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)
2017年10月31日
コメント(0)

大阪関連のリンク先を最後に追加しました。大阪の街は東京よりも解り安い。もちろん規模が違うが・・。例えば都内中心を走る山手線の一周は距離34.5km。所要時間約64分。一方、大阪環状線の一周は距離21.7km。所要時間約40分。※ 大阪環状線の場合、山手線のように、全線がぐるぐる回っている訳ではない。同じラインに大和路快速や、関空行きなども合間に走っているので確認して乗らないと一周どころか、通過する駅もある。大阪の街は、割とまとまってできている。それは遡れば豊臣秀吉の町割りのおかげでもある。町人、商人、仕事場。遊び場などが江戸時代前後に完成されていて、明治になってもそれが引き継がれて残っている所が多いからだ。逆に良くない方角の場合、近年まで人があまり入らず、開発の遅れた所も残っていたが・・。そんなわけで、町に地域の特性が出ているから例えば「どこに行きたいか? 」「何をしたいか?」 と聞いて答えやすいのかもしれない。※ 東京の場合、産業別カラーが残った土地もあるが江戸城下の面影はほぼ無い。広さの事で加えて言うと東京の場合、山手線沿線に民家は少ない。何しろ都心は地価が高すぎて庶民には住めないからだ。もちろん東京でも都心部に住んでいる人はいる、下町も残っているし江戸っ子(3代以上続く)もいる。だが都心部に住んでいる人の絶対数は少なく大抵は東京郊外から1時間以上かけての通勤である。つまり都内で働いている大部分は近県からの通勤組で、案外地方出身者が多いのが現実だ。だからこそ大阪の方が街に人が感じられるのかもしれない。ところで、大阪には「キタ」と「ミナミ」と呼ばれる街が存在する。大阪の人なら当たり前に知っている事だが、部外者には解らない。地図には載っていないからだ。今回は、その「キタ」と「ミナミ」のルーツと共に「ミナミ」を紹介。なんとなく「大阪の成り立ち」に話が寄ってしまったかもしれませんが・・ 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)現在の「キタ」と「ミナミ」「ミナミ」の歴史は船場(せんば)から始まり道頓堀で発展道頓堀(どうとんぼり)と戎橋(えびすばし)心斎橋筋商店街と戎橋筋商店街大阪の街の紹介をする前に、どうしても踏まえて起きたい事がある。今の大阪の街はほとんど埋め立てでできた都市だと言う事を。下は大阪歴史博物館で撮影してきたものです。図に書いてあるよう、弥生時代中期頃とされる大阪湾の復元図です。変遷写真は幾つか段階があるのですが、詳しい事はいずれまた・・。今回押さえて欲しいのは、もともと湾を形成する半島のような所が、大阪市の背骨とも言える上町台地だと言う事だ。下は以前「大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)」の所で一度紹介したリンク 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)国土地理院が出している航空レーザー測量による上町台地のカラー陰影段彩図です。上町台地は濃い茶の部分。黄色は土地が低くなっている所で、緑と薄い青の部分は埋め立て地。上町台地右手の薄い青の部分は「河内湖(かわちこ)と名が付いていますが、太古には大阪湾であり、それが閉じて湖のようになった所です。つまり緑はかつての砂洲。薄い青は海だった所と言うわけです。上町台地左(西側)には自然に砂洲が形成され、街は少しずつ西に広がって行ったようです。上の写真では中程、赤い円をしてあるところが四天王寺の場所です。四天王寺ができた飛鳥の時代には目前に海が迫っていたようです。下は上の航空レーザー測量の写真を一部拡大したもの、残念ながら上が切れているのですが、赤で「KITA」と「MINAMI」と印しました。「MINAMI」の円の中、上の円が心斎橋筋商店街を中心にする区域で、下の黄色の円が戎橋筋商店街を中心にした区域。紫の円は難波(なんば)と呼ばれる区域です。「キタ」と「ミナミ」はもともと江戸時代に区画された大阪の自治組織「大阪三郷(おおさかさんごう)」天満組、北組、南組の名残である。現在の「キタ」と「ミナミ」地図から見れば確かに「北の街」と「南の街」と言う事なのですが・・。「キタ」と「ミナミ」には生活上の仕分けがあるのです。場合に寄っては、「キタ」に行くか「ミナミ」行くかで、その人が何をしに行くのか解る事も・・。細かい事は後にして、現在の「キタ」と「ミナミ」を簡単に説明するなら、やはり鉄道と言う事になるでしょう。「キタ」「キタ」が発展したのぱ1874年(明治7年)の国鉄 大阪駅の開業。つまり「キタ」とは、梅田(うめだ)の事。明治以降に田んぼが埋め立てられ(埋め田→梅田)となり、大阪駅が置かれた事により、大阪駅と呼ばれるようになった。現在は、JR(大阪駅)だけでなく、大阪市営地下鉄、阪急電鉄(梅田駅)、阪神電車(梅田駅)が乗り入れた梅田駅界隈が大阪のキタの中心的エリアです。つまり、「キタ」は、京都や神戸など東海道、山陰、山陽方面への玄関として発展している。デパートは阪急梅田、阪神梅田、大丸梅田※ 三越・伊勢丹は撤収。「ミナミ」「ミナミ」の開発は秀吉の時代に始まった。江戸時代には幕府の直轄地となり、埋め立てと町の整備が進められた事により発展した。場所は心斎橋以南、難波駅あたりまで。つまり、心斎橋筋(しんさいばしすじ)商店街と戎橋筋(えびすばしすじ)商店街を中心にする界隈である。鉄道は、JR(難波駅)、大阪市営地下鉄、南海電鉄(難波駅)、近鉄と阪神(大阪難波駅 共用)が乗り入れ。JR難波駅は奈良や和歌山、名古屋、亀山方面南海は和歌山・関西国際空港・高野山・泉北ニュータウン、方面近鉄は奈良、京都、伊勢、志摩、方面。阪神は尼崎、甲子園、三宮、方面。総じて、ミナミは奈良や和歌山方面への玄関。(紀伊半島経由の伊勢志摩、名古屋ルートでもある。)因みに阪堺鉄道(南海鉄道)の難波駅創業は1885年(明治18年)。難波~大和川間(7.6km)を小型SLJR難波(なんば)駅は当時は湊町(みなとまち)駅。1889年(明治22年)の創業。鉄道では「キタ」より遅れたがデパートは早かった。大丸心斎橋 店(当時 松屋)1726年 (享保11年)大阪高島屋 店 1919年(大正8年)※ 大丸、心斎橋店は、八代将軍 徳川吉宗の時代にはもう創業していた。なんばパークスからの南海難波駅とビル難波パークスは市内最大級のシネコン等が集まる複合商業施設。南海難波駅の南に位置する。ここは、かつて南海フォークスの球場があった場所。これで「ミナミ」の領域は確実に広がったかも・・。下は大阪高島屋と南海難波駅のビル大阪高島屋 店は1919年(大正8年)の創業。現在の場所には1932年(昭和7年)から。ちょうど「戎橋筋商店街」南の入口の向かいになる。「ミナミ」の歴史は船場(せんば)から始まり道頓堀で発展かつては「キタ」も「ミナミ」、どちらも海の中だった場所。「ミナミ」の発展と言うよりも、大阪自体が発展したのは豊臣秀吉が大阪に都を置いた事に始まる。遡れば飛鳥の時代から大阪は物流の拠点ではあったが、平安以降は地味に・・。秀吉のおかげで大阪に活気が戻り、大阪の街は商人の街として大発展する。特に秀吉による大阪城建設とそれに伴う大阪城下の区画整理(町割)は、大阪の経済発展に大いに寄与する所となった。1598(慶長3年)の図 大阪城に三の丸が建設される事になり城の惣構(そうがまえ)は拡張。下の図は大阪歴史博物館から1598(慶長3年)は秀吉が亡くなった年。亡くなる直前の指示だ。同じく1598(慶長3年)に東横堀川 以西に船場(せんば)が造られた。※ 寺は寺町通りに集められている。大阪城のベースは石山本願寺(大阪本願寺)である。寺なのに濠や土居で囲まれ防備だけでなく、立地にもすぐれた場所。秀吉はすでにあった堀の外に外堀を造り城の惣構(そうがまえ)を拡張。それが町の再編に繋がる。その三の丸の建設で堀の内となった者たちは強制退去。商人や職人らは船場(せんば)に移動。船場(せんば)はあらゆる職種の者があつまる商人の街として発展する事になった。下の図も同じく大阪歴史博物館から時代がさらに下がるが17世紀末の船場の職業分布図だ。上の図では、船場(せんば)の西にさらに西船場が拡張。道頓堀もできていて、心斎橋筋商店街も、そろそろ現れてくる頃。ついでに戎橋筋から難波駅までピンクで印つけました。※ かつては島之内、全体が「ミナミ」とされていたらしい。新町の遊郭は黄色の円あたり。 1627年、吉原遊郭 誕生の後に、大阪の遊郭として沼地を埋め立てて新町を造り、遊郭を一箇所にまとめ「新町遊郭」が完成。江戸幕府公認の遊郭だった。船場(せんば)は堀と河に巡らされた物流の拠点であり、大阪の産業の中心地となった。鍛冶屋、鋳物屋、針金屋、銅細工、皮細工、足袋屋、綿帽子屋etcそこそこ広い地域であるが、不思議と、同業者同士が寄り集まっていたらしい。江戸との物流が始まると、両替商も現れる。江戸は金。大阪は銀を通貨に使用したらしく、両替の必要があったらしい。大きな両替商は大名の年貢も取り扱っていたらしいし・・。北浜にある大阪証券取引所は船場の北の浜から付いた地名だ。道頓堀(どうとんぼり)と戎橋(えびすばし)そんな時に船場の商人であった安井道頓(やすいどうとん)(1533年~1615年)が城南の開発の為に私財をなげうって1612年(慶長17年)川を開削。堀の掘削を始めた。残念ながら安井道頓は豊臣方に付き、大阪夏の陣で巻きこまれて戦死。道頓堀(どうとんぼり)の完成は1615年。だから道頓堀(どうとんぼり)の名は安井道頓の名に由来する。グリコの看板と、阪神タイガース優勝の時の川ダイブでお馴染みの道頓堀。こんな写真しかありませんでしたが・・上は先月の写真です。下の写真は2011年7月の道頓堀 東方面。ほぼ店舗は代わっていません。ドンキホーテの観覧車、今もそのままあります。2017年中に観覧車が再会するとのウワサが・・。ところで、「ミナミ」には現在、南北に続く大きなショッピングアーケードが二つ存在している。それが心斎橋筋商店街と戎橋筋商店街である。それらは道頓堀の戎橋(えびすばし)をはさんで以北と以南で分けられている。下は戎橋筋商店街を出た所からの北方面の写真。(夜)つまりゴチヤゴチャ人がいる所が道頓堀の戎橋(えびすばし)の上。写真奧に心斎橋筋商店街のアーケードが見える。心斎橋筋商店街(戎橋)入口ウィキペディアによれば、戎橋は1日平均20万人が通行しているらしい。前と比べて明らかに人が増えた。今や意識して覗き込まない限り戎橋(えびすばし)の上から道頓堀は見え無い。外国人の観光客が増えて驚いたが、さらに驚いたのは、外国人(おじさん)の、おもらいさんが橋の上に座っていた事だ。心斎橋筋商店街と戎橋筋商店街先に紹介したように、心斎橋筋(しんさいばしすじ)商店街と戎橋筋(えびすばしすじ)商店街は、戎橋(えびすばし)を間に挟んで続いているアーケード商店街である。両者は、道頓堀川をはさんで「ミナミ」を南北に縦断する商店街であり、ある意味「ミナミ」の大動脈とも言える。(北側)心斎橋筋商店街・・南北に約580m。北は長堀通の南から、南は道頓堀川、戎橋手前、宗右衛門町通りまでの区間。(中)道頓堀 戎橋(南側)戎橋筋商店街・・南北に約370m。北は道頓堀川、戎橋から南は千日前通りで一度切れて難波駅(高島屋大阪店)の前までの区間。江戸時代の(北側)心斎橋筋は、ぬり物屋、書物屋、古道具屋、経師に琴三味線ひき、飾り職、etc。諸々の商売は少しハイソなラインナップ。船場の下に位置していた事で船場のダンナさん達が買い物や遊びに来る場所として栄えたらしいから・・。そして明治時代には、舶来品を扱う店や、時計屋、呉服屋なども増え、大正・昭和の時代には、呉服屋はデパートに変貌して行く。だから創業100年を越える老舗もザラにあったらしい。※ 飾り職or錺り職・・・金属製のかんざし・帯留め・指輪など金具の細工をする職業。また、その職人。飾り師。飾り屋一方、江戸時代の(南側)戎橋筋の方はちょっと違う。幕府の都市計画で道頓堀の南側に大坂中の芝居小屋が集められ、47軒の水茶屋が許可されて長らく日本の芝居の本場として栄えた。そして芝居に大勢の人が集まってくると、食べ物屋も自然に繁盛。現在、芝居小屋は戎橋近くの松竹座だけしか残っていないらしいが、飲食店は道頓堀通りの北側にさまざまなジャンルの店が、目立つ看板を上げて軒(のき)を連ねている。江戸で例えると昔の心斎橋筋は日本橋。戎橋筋は浅草のような町だったのかも。下は先ほど紹介した大阪高島屋の前からの撮影 戎橋筋商店街 南の入口大阪は屋根付きのアーケード商店街が多い。雨が降っても気にせず買い物できるのは嬉しい。入ってわりとすぐにアイスキャンディーでお馴染み「北極」なんば本店 1945年(昭和20年)創業。終戦直後の大阪なんば・戎橋の本店辺りは食べる物を販売できるお店がほとんど無かったそうだ。せめて女性や子供に冷たいアイスを・・。と言う事で創業したお店らしい。子供の頃に「北極」のアイスキャンディーを食べた人達がファンなのだから人気は凄いらしい。残念ながら東京出身の私は知らなかった。最近社長をテレビで見たから知識はあったが・・。551蓬莱(ほうらい)の本店も、この戎橋筋商店街。「北極」と同じ1945年(昭和20年)創業。「551蓬莱(ほうらい)」と言う変わったネーミングの由来は創業当時の店の電話番号からきているそうだ。ついでに551「ここがいちばん」とダジャレも付けて。551蓬莱(ほうらい)の「豚まん」人気度は、関東で言う崎陽軒(きようけん)のシュウマイに匹敵する。崎陽軒(きようけん)の「シュウマイ」を愛する人は、きっと大阪人の「豚まん」愛も解るだろう。基本は各店で手包みによる作りたてのものが販売されていて、空港や大阪駅などではチルドも販売。今や大阪名物のお土産として利用する人も増えている。実際、関東の私が食べても絶品である。中身に食べごたえがあるし、ジューシーなのだ。こちらは「蓬莱(ほうらい)」は実は「551蓬莱(ほうらい)」とは今は経営が異なる。創業当初は一緒にやっていた店らしい。てっきり隣合わせだから一緒の店と思っていたが・・。.ところで、関東では「豚まん」とは言わない。「肉まん」と呼ぶのが普通。初めて聞いた時は、「豚まん」と呼ぶのに抵抗を感じたものだ。.戎橋筋商店街のアーケードは千日前通りで一端切れている。写真の右手、1ブロック先が、元、「千日前デパート」があった場所。「千日前」とは、実は法善寺の事なのだ。詳しくは次回紹介するが、現在の法善寺は次のアーケードの右手の方になる。そんなわけで次回、法善寺横丁です。「大阪七墓と七墓めぐり」についても書いています。リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)他リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村リンク 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話リンク 大阪 天満宮の天神祭り 1 (天満宮の始まり)リンク 大阪 天満宮の天神祭り 2 (船渡御と鉾流神事のルーツ)リンク 2015大阪 天神祭 天四獅子傘踊り巡行リンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎リンク 2017年4月 大阪城公園 大手口と西の丸の桜
2017年10月23日
コメント(0)

以前は当の寺や神社の案内が一番正しい・・と思っていましたが・・。社寺の来歴では、都合の悪い所など敢えて書かない。実は正しく解っていない。特に口伝により伝えられた来歴の信憑性は微妙です。それなのに? 希望的観測? ならまだしも、社寺にマイナスになりそうな内容を敢えて消すなど(来歴詐称?)史実をねじまげている所も見られ、本家の掲げる由来は逆に信用できない・・と思うこの頃です。やはり、ある程度は客観視して照らし合わせないとね比叡山(延暦寺)焼き討ちの理由比叡山(延暦寺)と僧兵比叡山(延暦寺)と戦ったのは信長だけではない本当の焼き討ちの場所は坂本?僧兵が生まれた理由今月初め比叡山に行ってきましたが、寺では、信長に焼き討ちされて尊大な被害を被った話が連呼されていました。比叡山の説明に寄れば、最盛期3000に及んだと言われる堂や伽藍は信長の全山焼き討ちにあって消滅したとの事。実際、信長は確かに焼き討ちをしましまたが、当時の比叡山側に問題があったのは明らか。それに焼き討ちしたのも歴史的に見れば、実は信長だけではなかったのです。加えて言うと、近年の発掘調査で、考古学的に信長の時代に合致し、火災焼失と思われるのは根本中堂と大講堂のみで、寺側が言う程の被害は発見できなかったとの事。最盛期に本当に堂が3000もあったのか疑問だし、それらは信長以前に無くなっていた可能性のが高い。そして、何より、今回行って思ったのは、本当にこの深山の中まで攻め上り、焼き討ちできたのか? と言う疑問である。ひょっとすると今の比叡山の山中ではなく、信長が攻めたのは琵琶湖畔の坂本にある日吉大社の山、八王子山だけではなかったのか? と調べているうちに確信してきました。さて、今回写りがあまりよろしくないのですが、10月2日に出かけた雨の比叡山の写真です。比叡山がいかに深山であり、今だからこそルートができているけれど、人が易々入山できるようなお山では無い事を紹介します。京都側から入ったので、叡山本線で八瀬比叡山口からケーブル、ロープウェイを使って比叡山頂に向かいました。叡山ケーブル 八瀬駅八瀬から先は急勾配を上るケーブルカー(鋼索鉄道) が設置されている。その高低差561mは日本一らしい。(9分で登る。)そして勾配も平均勾配が40分の1。ケーブル比叡駅の標高は686.5m。逆算すると、ケーブル八瀬駅の標高は125.5m。天気が良ければ、京都の街が見えたに違いない。残念。でもまた行きますそれにしても、こんな山登れませんよ。比叡山(延暦寺)と僧兵最澄や、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍の功績にあぐらをかき、権力を得た比叡山。平安時代より寺の勢力を拡大してきた比叡山は朝廷でさえも手を焼く目の上のたんこぶとなっていた。武力を持って他を制するなど、仏の道の者が? と言う非道な振る舞いがあたりまえに。朝廷への嘆願も多く、非常に達の悪い存在に・・。つまり、比叡山は立派な教えを持つ寺であるにもかかわらず、平安後期にはすでに多くの敵を造る存在になっていたようだ。もともと僧兵は、寺領荘園を自衛する目的で始まったが、保守の度が過ぎて他者の者まで奪う行為に発展? 比叡山の私設、僧兵の進軍で寺社を奪われ武力により傘下にされた寺は数知れず。叡山ロープ比叡 駅濃霧でも止まらないらしい。カミナリの時は停電すると困るので運休する可能性はあるらしいが・・。3分で到着。比叡山駅の標高は813m。比叡山山頂の標高は848m。実はロープウェイを降りてから、シャトルバス乗り場まで1km程歩く。バスは比叡山内のシャトルバスである。東塔エリア、西塔エリア、横川エリア、ロテルド比叡 間を巡回している。つまり、普通の寺の山と違い、比叡山は連山でできている。お山は一つではないのである。エリア移動をシャトルバスでし、後エリア内は自力で山坂、階段の上り下りが基本。ぶっちゃけ、足腰の悪い人には無理である。比叡山(延暦寺)と戦ったのは信長だけではない比叡山の脱線はおよそ400年。平安時代末期、寺社の統制に力を入れていた後白河法皇(1127年~1192年)により、平清盛(1118年~1181年)に延暦寺と僧兵、駆除の攻撃を命じている。特に南都興福寺と比叡山延暦寺の対立は激しく手を焼いていたそうだ。実際、京都の祇園社(八坂神社)争奪で興福寺と争い、勝った延暦寺は、周辺の利権を獲得。より勢力を拡大。特に鴨川西域の利権を独占すると物資の流通も独占して財力も得る事になる。信長の焼き討ちより酷かったのは、室町時代、1435年(永享7年)、第6代将軍 足利義教(あしかがよしのり)(1394年~1441年)による制圧です。将軍が強行した理由の一つには、天台宗内部、延暦寺と園城寺(三井寺)の対立で、比叡山の宗徒によって園城寺(三井寺)が焼き討ちされた事。(焼き討ちは度々あったらしい。)※ 園城寺(三井寺)は比叡山の琵琶湖側の麓にある。将軍、足利義教は自ら兵を率いて園城寺の僧兵とともに比叡山を包囲。トップの僧侶の首を斬首して、沈静化。(この時、抗議のため根本中堂に火をかけたのは僧侶側。)ひょっとすると、信長よりも強烈な仕打ちをしたのは足利義教かもしれない。その炎は京都からも見え世間は騒然となったらしいが、それに触れる者を「罰する」とした為に世間には広まらなかったのかもしれない。しかし結局、足利義教が亡くなると、比叡山は再び力を増したと言う。軍兵とも言うべき、数千人の僧兵をまとった比叡山は軍事独裁国家に成長していく。つまり、寺の看板をしょってはいるが、そこら辺の武将よりも強大で、やっかいな存在であったのは間違いない。1499年(明応8年)には、管領 細川政元も延暦寺を攻め、根本中堂を灰にしている。それにしても根本中堂は何回焼けたのか?※ 比叡山東塔の根本中堂は比叡山第一の総本堂。比叡山の勢力は相変わらず。それは戦国時代に入ってからも酷かったらしい。1570年(元亀元年)浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火。西塔エリア 入口2017年10月1日より、千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)の始祖 相応(そうおう)和尚(831年~918年)の1100年御縁忌を記念して、西塔エリア、釈迦堂の本尊、釈迦如来立像がご開帳され、同時に内陣特別拝観が行われる事になった。それがお目当ての比叡山でした。酷い雨でしたが・・。西塔の中堂が釈迦堂。正式には転法輪堂。釈迦堂側からの階段 あの階段を下り、帰りは登るのである。釈迦堂(転法輪堂)は、信長の比叡山焼き討ちで焼かれた事になっている。※ 1570年(元亀元年)浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火。それは信長が焼き討ちする前の年。現在の建物は、秀吉の代になって比叡山再興が許可された為に、秀吉により、坂本の圓城寺(三井寺)弥勒堂を移築し、手を加えたもの。建物自体は、鎌倉時代建立のもので、山上で、現存する最も古い建物だそうだ。今回の内陣公開は、比叡山の僧侶でさえ、拝んだ事が無いものまで含まれているらしい。宝物館の方よりも、良かったです。そして1571年(元亀2年)9月12日、織田信長による比叡山の攻撃が始まる。そもそもは、浅井、朝倉攻めに伴い、比叡山に協力のお願いをした事に始まる。せめて協力しないまでも、邪魔だてしないで欲しい。もし、邪魔をするならば、一山焼き払うと言明したそうだ。太田牛一「信長公記」(現代語訳)より「比叡山、山下の僧衆は延暦寺が皇都の鎮守であるにも関わらず、仏道の修行でも出家の道を外れ、天下の笑い者になっているのも恥じず、天の道に背く事の恐ろしさにも気付かず、色欲にふけり、生臭ものを食い、金銀の欲に溺れて浅井、朝倉に荷担し、かって気ままな振る舞いをしていた。けれども信長は、時の流れに従って、ひとまずは遠慮をし、事を荒立てぬよう、残念ながら兵を収めたのであった。ついにその時が来たのであろうか。その鬱憤を今日こそ晴らす為、9月12日、比叡山を攻撃し、根本中堂・日吉大社をはじめ、仏堂、神社、僧坊、経蔵、一棟も残さず、一挙に焼き払った。煙は雲霞(うんか)の湧き上がるごとく灰燼(かいじん)の地と化した。山下の老若男女は右往左往して逃げ惑い、取るものもとりあえず、皆裸足のままで八王子山へ逃げ上がり、日吉大社の奧宮へ逃げ込んだ。諸隊の兵は四方から鬨(とき)の声を上げて攻め上った。」僧、俗、学僧、上人、すべての首を切り信長が検分。中には寺にいるはずのない美女、小童、なども居て数千の死体が転がったと言う。戦国武将らも比叡山には手を焼いていた。結果、信長が焼き討ち討伐に成功し、比叡山は一時おとりつぶし状態に。もしかしたら信長以外の武将が同じような事をしていた可能性もあったろう。・・と思う。因みに、この比叡山焼き討ちの後、明智光秀は近江国滋賀郡が与えられ坂本城を築城。城主となる。信長の目的は比叡山の監視と琵琶湖の制海権? だったらしい。その城は琵琶湖に面した平城であったが山崎の戦いで明智光秀が落命すると、安土城から引きあげできた明智 秀満(あけちひでみつ)が居たが、秀吉の軍勢に囲まれると、自ら城に火を放ち自害したそうだ。信長が倒れ、光秀も山崎の戦いで果て、坂本城も無くなると、生き残った僧侶達は続々と帰山し始めたと言う。比叡山の再興の許可は秀吉が出している。東塔エリア 大講堂。経典の講義や、5年に1会の法華大会の場になるそだ。坂の下左(修復中)が東塔エリアの中核。根本中堂である。内陣の撮影はできないが、この中に「不滅の法灯」が置かれている。ところで、延暦寺に脈々伝わる「比叡山・不滅の法灯」であるが、やはり、焼き討ちのあった1571年(元亀2年)9月12日にその炎は途絶えている。が、不滅の法灯は当時、各地の天台の寺に分燈されていた事から、ラッキーにも、山形の立石寺(りっしゃくじ)から分燈されて本家に戻れたのである。天皇もしのぐ権力を振りかざし、俗人のような振る舞いをしていた当時の比叡山の堕落ぶりは皆が周知していた、それ故、「山門を亡ぼす者は山門なり」と皮肉まで言われ、同情するよりも肯定的に評価されて来たと言うのも皮肉である。比叡山と周辺のマップ左下が京都。右が琵琶湖。左のピンク→が、叡山ケーブル&叡山ロープウェイ右のピンク→が、坂本ケーブル黄色の円が日吉大社と八王子山坂本ケーブルは、全長2.025km。日本一の長さを誇るケーブルカーである。比叡山の境内がいかに広いか解るだろう。坂本ケーブル、延暦寺駅からの景色(本来は琵琶湖が見渡せる絶景のはず。)本当の焼き討ちの場所は麓の坂本?それにしても比叡山は行って見てわかるが、非常に険しく広大な山である。簡単に登って比叡山全てを焦土にする事など不可能である。襲撃の前日(9月11日)、信長は坂本、三井寺周辺に進軍し、、三井寺山内の山岡景猶の屋敷に本陣を置いたらしい。そして攻めたのは、現在の坂本ケーブルの乗り場近くの日吉大社と八王子山である。実際、八王子山は比叡山の一部となる山(標高381m)であるし、当時はそこも延暦寺境内だったのだろうが、そこから現在の延暦寺の東塔までは恐ろしく深山を登らなければならない。一日では無理である。誰か配下の者を別に登らせて、火を付けさせた可能性はあるが・・。先に紹介した「信長公記」の中「皆裸足のままで八王子山へ逃げ上がり、日吉大社の奧宮へ逃げ込んだ。諸隊の兵は四方から鬨(とき)の声を上げて攻め上った」とある。現在、八王子山には日吉大社の三宮宮と牛尾宮があり、おそらく攻められて逃げた衆徒らはそこで囲まれ斬首された。当時、比叡山の僧徒のほとんどは坂本に居住していたのかもしれない。東塔や西塔がある深く険しい深山には、千日修行する行者しかいなかったのかも。坂本ケーブル 延暦寺駅 654m見るからに急で険しい山の中。比叡山に入るなら、恐らく、坂本ルートであろう。坂本ケーブル、坂本駅の標高は170mところで琵琶湖の海抜は84mである。ここまでの標高差は86m。琵琶湖湖畔の坂本と言っても結構登っているようです。坂本駅の右手の山の方に日吉大社はある。(ここより徒歩5分)僧兵が生まれた理由当時は僧兵とは呼ばなかったようだが、大寺院で雑務をしていた者達が武装化して寺社の境内や荘園を守ったのが始まりだったようだ。最初は警備程度のものだったのだろうが、後々他勢力への対抗のために完全な兵隊に進化。「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」を憶えているだろうか? 歴史の教科書で習いましたね。「墾田永年私財法」は、聖武天皇の治世、743年(天平15年)に発布された勅令で、墾田(開墾して得た耕地)の永年私財化を認める法令です。農地を増やし税をたくさん取る為に天皇の勅令によりこの法律はでき、人々は必死に田畑を開墾するかと思いきや、実際、得したのは資本のある金持ちと大寺院である。金持ちは人を雇い土地を拡大。寺社も同じく僧徒らを使い土地を拡大。しかし、領地が増えれば盗賊もやってくる。「自分達の土地は自分達で守ろう」と武装化したのが武士の始まりとされています。同じように寺領荘園を有する寺院の武装集団は、僧兵と言う分類になります。実際は僧侶が武装化したわけではなく、当初は使役されていた寺男達がそれを勤めたのでしょうが・・、ところで、僧兵と言う言葉から、十字軍の兵隊達がよく重ねられるようですが、彼らとは全く違います。彼らは、聖なる戦いの為に、兵士となりましたが、実際は僧侶ではありません。テンプル騎士団に限って言うなら、彼らは、テンプル騎士として働く間に限り、「修道誓願」の誓いをたてる事が約束されていたのです。だから騎士としてある時は、彼らは真面目な修道騎士だったのです。※ テンプル騎士団についてはかなり詳しく書いています。リンク先一つだけのせます。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)日本の僧兵はそう言う意味では、僧侶の姿をしているけれども、こちらも決して僧侶ではなく、ただの荒くれ者? だから女は買うし、博打もするし・・と駄目駄目だったのでしょうか?最も、そう言う者らを雇い、管理していた僧侶側に問題があったわけですが・・。もちろん今の比叡山の立派な僧侶の方々とは何の関係もありません。ただ、自分達だけ黒歴史に蓋をして、信長を悪く言える立場ではないよ・・と思ったわけです。比叡山開山1300年近くの中、黒歴史が400年。凄いな
2017年10月13日
コメント(0)

Break Time (一休み)やっと東京に戻ってきました。何だかんだと3週間を越え・・。帰京前に比叡山まで足を伸ばしてきましたが、あいにくの雨。本来なら絶景が臨める坂本ケーブルからの琵琶湖どころか、寺さえもガスって撮影はできない状態でした また行かねば・・。でも、相応和尚1100年御遠忌記念と言う事で10月1日から33年ぶりに西塔の釈迦堂内陣が一般公開され、延暦寺の僧侶でさえ、拝む事ができないような扉も開かれ、秘仏が公開されているので今が行き時です。※ 2017年10月1日~12月10日まで公開。さて、今回は久しぶりの鉄道ネタです ドクターイエロー(Doctor Yellow)ドクターイエロー(Doctor Yellow)新幹線のグリーン車(おまけ)走行スケジュールは非公開。見ると幸せになれる? という都市伝説まで生まれた幻の黄色い新幹線。ドクターイエローをついに見る事ができました 10月5日14時11分~13分の間に新大阪の駅構内で撮影。14時30分の新幹線に乗る為にホームに上がったら なんと黄色の車体がいるではないか・・。思わず走ってとにかく頭を撮影に。(実際は尻尾であった。)ドクターイエロー(Doctor Yellow)「ドクターイエロー」は通称で、「新幹線電気軌道総合試験車」が本来の名称らしい。目的は、走行しながら線路のゆがみや架線のたるみ、信号や電気系統の電流の状態を検測すると言う新幹線の走行にかかわるチェッカー(checker)車両である。しかも、営業速度(270km/h)で検査、走行できる車両としてはドクターイエローが世界初だそうだ。いわゆる新幹線(Bullet train)のお医者様と言う事で、敬意を表して? ドクターイエロー(Doctor Yellow)と呼ばれるようになったのか?なぜ黄色いか? 夜目に目立つように、もともと保守作業車の色は黄色かった事から由来しているらしい。そして、お客様が営業車と間違えないように・・との配慮もあるらしい。7両で1編成のドクターイエローは東海道新幹線と山陽新幹線の区間(東京~博多)を2日間かけて往復。およそ10日に1回のペースで可動。途中駅をノンストップで東京~博多の間を往復する通称「のぞみダイヤ」は1カ月に3回の運行。各、新幹線の駅を全停車して往復する通称「こだまダイヤ」は2カ月に1回の運行。乗員は運転士と車掌。線路点検の技術者が3人、電気設備点検の技術者が4人乗車しているそうだ。※ 7号車には50人分の座席があり、特別視察団などに対応。ボードには「回送988」あるいは、「Out of Service」の文字が・・。非稼働中?ドクターイエローの車体は現在で3代目1964年の東海道新幹線開業の1964年~1974年まで活躍した初代は0系新幹線の試験車を改造して造られたものらしい。1974年からは車内の検査設備が新しくなり、電気設備と線路の点検が一緒にできるようになった車両が登場。(車両自体は前と同じ0系)※ 山陽新幹線の博多開業に合わせて登場。1974年~2001年。2001年、700系をベースに最新の検査設備を持ち、かつ車両のフロント部に監視カメラが設置された車両が登場。車体のイエローはより、鮮やかな黄色が採用。初めてまじまじと見たけど700系のイエローはとても美しい。個人的にはN700系より700系のが形が好き写真下、車両フロント部のカメラ車体はアルミニウム合金ブルーのラインは東海道だから。東北・上越新幹線ではグリーンのラインが入った「ドクターイエロー」が2002年まで走っていた。※ JR東日本の東北・上越新幹線の検査車両はイーストアイ(East i)に変わったらしい。ドクターイエローが消える?実はJR東海は2015年10月、東海道新幹線をすべてN700系(N700A)車両に入れ替えて、2019年度末までに700系の廃止を発表。そうなると700系のドクターイエローも引退か? とささやかれている。もしかしてJR東日本の東北・上越新幹線のようにドクターイエローは消えるのか?ファンとしては、気が気で無いだろう。それについて、JR東海は言及を避けているらしが、今や国民的な人気を博したドクターイエローを廃する事はできないだろう。・・と思う。とは言え、最高速度の問題もあるので、700系に代わるN700系でもない、超新型のドクターイエローが登場してくる可能性はあるかもしれない。とにかく見られて写真撮影できて、ラッキーでした。新幹線のグリーン車(おまけ)諸条件はあるが、事前予約で、土日に2人以上でグリーン車に乗るとお安くなるらしい。新幹線の普通車の座席は横5列(2列+3列)グリーン車は横4列(2列+2列)でかなりゆったり。でも、車両により、機能の差は大きい。(お値段は一緒なのに・・。)新型の車両は飛行機のような装備。N700系のシートは「シンクロナイズド・コンフォートシート」というリクライニングすると座面後部が沈む構造が採用されているそうだ。たぶん写真の車両はそれだったと思う。飛行機ほどにリクライニングはしないが・・。グリーンにはフットレストが付いている。しかし、これは微妙。飛行機は自分の椅子の下から出るので調整もできるが、前の座席に着いたフットレストでは、多少の上下げができても、距離感や高さがどうもしっくり来ない。フットレストのおかげで、前にキャリーケースも置けないから私にはジャマかも。基本上の棚に載せるようになっているが、力の無い女性に上まで上げる力は無いからね。それにしても新幹線はグリーン車両にも荷物置き場が無い。(成田エクスプレスにはあるが。)外国の旅行者のスーツケースは上の棚に置けない程大きい人がたくさんいる。座席の所に置く人もいるし、後部の僅かの空間を争って荷物を置いたりしている。外国の車両を見習って、荷物置き場を少し考えるべきだ。飛行機と同じように手元にいろいろ付いている。肘掛けには椅子のプライベート・ライトやコンセントも。最近は普通車両も足下の壁にコンセントが付いていて、携帯など充電できるタイプも多くなったが、初期車両なのか? グリーン車でもコンセントがない車両もある。下の矢印は、プライベート・ライトその位置で役に立つのか試しませんでした丸いのは荷物掛けなのか? 車両内を歩く時に揺れて捕まる為の取ってなのか?旧型車両には取ってがついていた。下が旧型のグリーン車先ほど触れた、コンセント一つ無いグリーン車。JR東海の「のぞみ」グリーン車ではパーサーが乗務おしぼりのサービスと希望すればブランケットの貸し出しがある。(端の荷物棚の上に置いてあるので、乗車時に自分で取って行く方が良い。)全体に乗客は少ないので静寂で、のんびり旅が楽しめるかも知れない。でも、東京~大阪なら、普通車で十分かも。新型に乗車した時には後ろの席に元ジャイアンツの桑田氏が座っていた。まれに芸能人を見かける楽しみはあるかもね。見て見ぬふりするのが東京流(マナー)ですが・・。旧型の車内は明かりも違う。全体に昭和のレトロ感があるかもね。いずれにせよ、同じ値段なのだから、新型車両に当たりたい。旧型だと損した気分。でも車両は何が来るか解らないようです。(飛行機は機材が事前に解る)グリーン車には、もう少し何かサービスが欲しい所です。例えば、車両の中でも外でも使用できるコーヒー・チケットを配るとか・・。ところで、最近在来線に少しお金を出して指定席にできると言うプレミアム・カーが流行っているようで、あちこちお試ししています。そこそこ写真があれば、京阪電車のプレミアムカーを近日紹介します。
2017年10月07日
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1


![]()