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Break Time(一休み)息抜きに、久しぶりの植物ネタ。今、自宅にある「幸福の木」の花が見事に満開。幸せのお裾分けです (@^_^@)幸福の木の花 ドラセナ・フレグランス・マッサンゲアナドラセナ・フレグランス・マッサンゲアナ(Dracaena fragrans CV Massangeana)幸福の木の名の由来?近年の植物分類学被子植物系統群(Angiosperm Phylogeny Group)(APG)一般に「幸福の木(fortune plants)」と呼ばれるのはドラセナの中でも、ドラセナ・フレグランス・マッサンゲアナ(Dracaena fragrans CV Massangeana) を指すそうです。18年くらい前に300円で購入し、当初トイレに飾っていた観葉植物はろくに日も当ててもらえないのに立派に生長。1年もしないうちに倍のサイズになり、トイレからリビングの一番良い場所に移転。そして5年ほどしてから想定外に見事な花を咲かせるようになりました。今年は2ヶ月ほど遅いかもしれません。花はおよそ1年に1度開花するが、成長が早く天井にぶつかるので2年に1度、幹を1m程切り詰めています。※ 切り詰めた翌年は咲かない時もある。また切り詰めて根付かせた木にも花が咲いてます。花開いて行く度に芳香を放ち1週間以上続く。家中香水を噴きかけ回ったような香りで満たされ、ぶっちゃけちょっと香りに酔ってます その芳香故に、ドラセナ・フレグランス・マッサンゲアナ(Dracaena fragrans CV Massangeana)と種名が付いています。「幸福の木」の名の由来?はっきり解明できていませんが、フィリピンのミリオンバンブー(ドラセナ)が風水的に福をもたらす事から・・と言う説とハワイ由来の説がありますが、ハワイ由来の木はそもそもドラセナではありません。勘違いから来ているのか? 最初から間違って認識されたのか解りませんが、ハワイ由来の植物はフラのダンスで腰に巻く蓑(みの)となる植物で、俗に広い葉「ティー・リーフ(ti leaf)」と呼ばれる種です。邪悪な霊を払うと言うその植物は聖なる植物としてハワイアンに大切にされています。(邪気払いから好んで敷地内に植える人が多いとか。)同じ Asparagaceae (アスパラガス科)ではありますが、こちらはパプアニューギニア、ポリネシアなどの南洋諸島の原産で、見た目も違います。一方、ドラセナ・フレグランスマッサンゲアナ(Dracaena fragrans CV Massangeana)は熱帯アフリカの高地が原産です。(日本では室内管理が基本ですが・・。)およその生息地を囲いました。最も今は全世界に出回って生息している事でしょう。5月5日 最初に気がついた時にはすでに穂が・・。何より花が咲くには条件があるようです。直前に増えて密集した葉を20枚くらいカットしています。葉に行く栄養が減ったせいもあるのかな?いつも香りで気がつくので、もっと成長してからでしたが今回は花芽の段階で気付いたので撮影ができました。5月5日cornstalk dracaena(トウモロコシの茎 ドラセナ)と言うだけあって、確かにトウモロコシっぽいです。5月6日滴ってきているのは蜜(みつ)です。すでに甘い香りが漂ってきています。経験上、鉢のまわりには紙のシートをはりめぐらしています。蜜がポタポタ落ちてくるからです。5月7日ちょっとブロッコリーの花蕾(からい)のようにも見えますが、花が咲くと全然違います。5月16日咲く時は1度に咲かない。時間差で開花。だから最初の花は5月16だけど本日25日まだ若干残こった花がまだ咲いています。ジャスミンの花にも似た白い小さな花弁。花1つだけでものすごい香りを放っています。ものすごく甘い香りです。森にあったなら虫がたかってくる事でしょう。5月18日咲き始めたら早い。近年の植物分類学実は近年DNA解析が進み、植物の系統分類が大きく変格しています。80年代以降コンピューターが導入され、しかも近年高速化が実現。葉緑体DNAや核DNAのシーケンスを利用した系統解析が今の主流。(理論的な裏付けができる。)それに対して今までの植物分類は形態的特徴によるもの。目や科の入れ替わりや消滅は激しく、各分類群の再評価が始まっているのですが、逆にDNAによる遺伝分類よりも形態情報が追いついていないのだそうです。たいていの植物図鑑もそうですが、ウィキペディアでも未だ古い分類のままで記されている所が多く、何が最新で正しい情報なのか解りにくい状況です。正直、以前の形態分類では、納得のいかなかった分類が多々有りました。それがDNAによる遺伝分類により、有無を言わさず確実な縁戚関係が証明されるのですから、これにまさるものはありません。そう言う意味では、全てリセットして造り治した方が早いし解り安くなるのではないか? とも思います。なぜなら、古い形態による分類をどうしても残したいが為に今現実にややこしい事態になっているからです。新たな遺伝子分類による系統樹ができたなら、植物分類は、劇的に変わってくるかもしれませんね。ドラセナ・フレグランス・マッサンゲアナ(Dracaena fragrans CV Massangeana) 植物分類Angiosperm Phylogeny Group (APG)(被子植物系統群)1998年に公表された被子植物の新しい分類体系APG III(APG体系、2009年第3版)Angiosperms(被子植物) Monocots(単子葉植物) Asparagales(アスパラガス目) Asparagaceae (アスパラガス科) Nolinoideae(スズラン亜科 和名?) Dracaenoid(ドラセナ) Dracaena fragrans (ドラセナ・フレグランス)※ Asparagales(アスパラガス目)はラテン語の直訳で日本ではなぜかキジカクシ目と和名が使われています。それが余計にややこしいので省きました。グローバルに研究する時代なのでもはや学術分類に和名はいらない気がします。※ 園芸の本ではドラセナは未だリュウゼツラン科とされていますが、このあたりがAPG IIIの分類で大きく変更。今までリュウゼツラン科に含められていたドラセナ、サンセベリア他、今までユリ科に含められていたスズラン、オモト、ナギイカダ等がNolinoideae(スズラン亜科)に移動されている。これから続々植物のDNAが解析されてくれば、まだ変動はたくさん出てくる事でしょう。今回調べて見て、植物学は発展途上? かなり遅れた分野だと感じました。5月21日 昼そろそろ枯れかけてきた? と思うかもしれませんが・・。写真は昼間のものです。幸福の木の花は夜開花します。5月22日 夜復活。まだいけそうな感じですね。5月25日深夜さすがに終わりですね。昼にカットしましょう。子房の部分は理論的には実になるはずですが、ボロボロ音を立てて落ちてきています。木の方の栄養もかなり取られているので素早くカットして、肥料をあげて、来年また咲かせてもらえるようケアをしなければ・・。花の穂が出てから20日目。今回は花も10日近く楽しめました。例年1週間が目安。その間家中がにフローラルの香水をまき散らかしたような芳香に包まれ感謝です。これこそが、「幸福の木」の由来なのかもしれません。よく、滅多に無い事が起きると枯れてしまうのではないか? などと言われますが、その後のケアをちゃんとすれば大丈夫です。うちでは鉢植えの、月桂樹にも花が咲いた事があります。1度だけ。その後10年花は咲いていませんが・・。ハッピーついでに宝クジでも当たらないかな 次回、琵琶湖疏水、蹴上インクライン(けあげインクライン)予定
2017年05月24日
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次をどこにするか? 「六道の辻」でも紹介しようかな・・と考えながら寝たら、とても恐ろしい夢を見た 寝て居る自分の胸に何かがこぼれ、そこにこぼれたエサ? をねらって胸の上でエサをついばむような騒動が起きていた。その後、静まってから胸を触ろうとしたら無い???背中から触っても腕はあるのに背中も胸も消えている。 ε = ε = ヒイィィィ!!!!(((・・。ノ)ノ首から下がガランドウなのだ。何かに食われてしまった???私の特技は金縛りからの覚醒である。(声を出す技術があるのだ。)助けの声をあげて体を触ってもらうと現実に帰還。(夢から覚める。)体はちゃんとついていた。(#´ο`#) はぁ~でも、さらにゾッとしたのはこの後だ。 「六道の辻」は鳥辺野(とりべの)の入口にあたる。以前、京の三大葬送地について書いた事があるが、鳥辺野(とりべの)はその1つ。平安時代には庶民の葬送地。当時は風葬が一般的で、特に鳥葬(ちょうそう)と言って鳥に死肉を食らわせる野辺送りがされていた。それが故に鳥の名が残った場なのだ。「六道の辻」は生者と死者の住む堺であり、冥界への入口と言われる由縁だ。が、今の今まで鳥辺野(とりべの)の事は忘れていた。それなのにあんな夢見るなんて・・悪夢は自分が鳥葬にあっていた記憶だとしたら恐ろしい事だ ..・ヾ(。>д<)シ こえぇぇぇ※ 2015年6月「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」 古の京の三大葬送地 でふれています。リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)そんな訳で今回の場所はその六道の辻(ろくどうのつじ)の話と冥界への入口とされた六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)に決まったのです 冥界の入口「六道の辻」と六道珍皇寺常見(じょうけん)と断見(だんけん)六道輪廻(ろくどうりんね)六道の辻(ろくどうのつじ)京の三大葬送地 鳥辺野(とりべの)六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)閻魔王宮の役人小野篁(おのの たかむら)冥途(めいど)通いの井戸仮説六道まいりまず最初に、「六道の辻」とは、仏教から来ているもので、現実の辻道の事ではない。かつて六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)と六波羅密事(ろくはらみつじ)のあたりは、仏教の因縁により、「六道の辻(ろくどうのつじ)」と呼称された場所なのである。しかし、それは平安時代に遡る話。※ 今はそれぞれに寺領が小さくなっているので少し離れているが、かつて六波羅密事(ろくはらみつじ)と六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は門前が向かい合っていたと言う。なぜここが「六道の辻」なのか? 六道の辻の因縁はこの六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)を中心に発展した話だからだ。常見(じょうけん)と断見(だんけん)人が死んだらどこに行くのか?実は仏教以前から、霊魂不滅(魂は転生)の立場をとる常見(じょうけん)と、霊魂消滅(人の魂、一代限り)の立場をとる断見(だんけん)と言う相反する2つの考え方があった。簡単に言えば、人間死んだら全てがリセットされる・・と言うのが断見(だんけん)の立場。これは釈迦が最も嫌った考えである。では釈迦は常見(じょうけん)派か? と言うと単純にそうだとは言えない。釈迦の説法にはここに釈迦流の「業と因果」と言う注釈が加えられるのだ。業(ごう)とは善因善果、悪因悪果の思想(因果応報)。よく自業自得(じごうじとく)と言う言葉を使うが、自分のした事(因縁)には必ず報いが来る・・と言う考え方。つまり業は因縁によって引き起こされる事象でもあるのだが、人はその業により苦しみに囚われる。六道輪廻(ろくどうりんね)輪廻(りんね)は、人の生前の業により、次のしかるべき世界へと転生。そしてそれは流れのように巡ると言う考え方。六道輪廻(ろくどうりんね)の、六道とは地獄、餓鬼、畜生、(阿)修羅、人間、天の6つを指す。生前の業により、これらいずれかの世界に生まれ変わると言う考え方。しかし、実はこれもまた仏教以前からの常見(じょうけん)派の考え方で釈迦の本意ではない。魂ひっくるめて、あらゆる物は無常であり絶えず変化しているので今の延長に想定する未来があるわけでもない。つまり釈迦の教えでは人の霊魂がそのまま次の人に転生すると言う考え方はしていないし、六道のいずれかに行けるとも言ってはいないのだ。※ 仏教用語となっているが、輪廻転生(りんねてんしょう)は本来インド古来の死生観であり釈迦の教えではないと言う事を書いておきたいと思ったのです。六道の辻(ろくどうのつじ)「六道の辻」の説明では、亡くなった人が現世を離れて向かう(輪廻する)、六道の6つの辻として紹介されている。輪廻転生を旨(むね)として六道を示唆する事より、むしろ人の生前の行いを諭す(さとす)意味で六道輪廻(ろくどうりんね)の考え方は利用されたのかもしれない。通常は誰しも生まれ変われるものなら、天か人を望むからね。因みに六道の衆生から救済してくれるのが地蔵菩薩で、末法思想が盛んになった平安期から地蔵信仰も同時に増えたようだ。(平安初期は街も人もかなりすさんだ状況だったらしいから・・。)実はこのあたり、六波羅密事(ろくはらみつじ)他、地蔵信仰が盛んだったあとが多々見受けられた。この寺始め、六波羅密事にも古い地蔵様がたくさん集められている。六道の辻地蔵尊と言うのもある。おそらく、この界隈を宅地造成した時に集められたものなのだろう。鳥辺野(とりべの)水色の円が古来の鳥辺野のおよその場所。黄色の円が六道の辻紫の円が豊臣秀吉の墓所のある阿弥陀が峰。京の三大葬送地 鳥辺野(とりべの)平安時代、鴨川を越えた洛外、東は、人の住む場所ではなく、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)より先は遺体捨て場と言っても過言ではない一般庶民の風葬地であった。※ 冒頭に書いたが、鳥辺野の名前は鳥葬(ちょうそう)と言って鳥に死肉を食らわせる野辺送りから来ているらしい。※ 一般庶民も火葬するようになるのは鎌倉時代から。六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は平安前期の延暦年間(782年〜805年)の開創と伝えられるよう古い寺である。この寺で最後のお別れの野辺の送りの法要を行った後、遺骸は鳥辺山の麓へと運ばれたそうだ。それ故に生者と死者の境目の場所であり、他界(冥界)への入り口とされ、そこが六道(地獄、餓鬼、畜生、(阿)修羅、人間、天)の辻と呼ばれるようになったらしい。そして寺は親しみを込めていつしか「六道さん」の名で呼ばれるようになった。本殿前の三界萬霊供養塔(さんがいばんれいとう)三界萬霊(さんがいばんれい)とは、3つの階層世界(欲界、色界、無色界)等しく供養する事。つまり上は六欲天から、下は八大地獄まで、どの世界に行った者にも等しく供養をすると言う事らしい。実は三界萬霊供養塔(さんがいばんれいとう)あたりが「六道の辻」伝説の中心地とされている。そしてそれは鳥辺野の入口だかからだけではない理由がある。閻魔王宮の役人小野篁(おのの たかむら)この寺には冥界につながる井戸があると言うのだ。その井戸を入口に冥界の閻魔大王(えんまだいおう)の元に夜ごと通い、そこで閻魔庁の冥官をしていた人間がいる。(伝説)それが平安時代、嵯峨天皇(786年~842年)に仕え、文徳天皇(827年~858年)に仕えていた平安の官僚である小野篁(おのの たかむら)(802年~853年)である。※ 百人一首の歌人、参議篁(さんぎたかむら)と同一。小野篁(おのの たかむら)像 江戸時代の作左から冥官(めいかん)、小野篁、獄卒(ごくそつ)。おそらく小野篁自身が裁定を下す閻魔となっている像。小野篁(おのの たかむら)(802年~853年)父も参議であった為に必然的に宮中で仕える役人となっている。父と同様に漢詩や和歌などにも優れていた事から嵯峨天皇に気に入られたようだ。古今和歌集や小倉百人一首にもその歌は伝えられた歌人でもあり、文人として遣唐副使にも選ばれている。(行かなかったが・・。)身長188cmの巨漢で自由奔放、怖い物知らずのところがあったようだ。遣唐使の一件で朝廷を非難する歌を詠んで1度は官位剥奪され島流しに会うも再び呼び戻されて大成している。最後の役職と冠位は 参議、左大弁 従三位。江戸期1689年の仏師の作 閻魔・篁(たかむら)堂の格子の隙間から撮影。伝承では、彼は昼に人間界で働き、夜は冥界で働いていたとされた。そもそも冥界で裁きを行う閻魔(えんま)大王の話は明や唐 由来の話で我々も知るところの話ではあるが、あまり知られていないのが人間でも優秀な官吏は冥界に召喚され、冥界の管理官になると言う役が与えられたと言う話だ。小野篁(おのの たかむら)作とされる閻魔大王座像何よりこの閻魔大王は唐代末に道教思想が混ざりあった偽経(ぎきょう)の産物である。※ 偽経(ぎきょう)・・インド本来の仏典ではなく、後世、土着の信仰と融合されて造られた偽の経。小野篁(おのの たかむら)は846年以降、宮廷の最高機関である弁官(べんかん)として活躍、判事なども行っている。特にその時に判じた「善がい(ぜんがい)訴訟事件」などから「冥界の管理官」などの話が生まれたのではないか? と考えられる。彼の話は平安末期より「江談抄(ごうだんしょう)」や「今昔物語(こんじゃくものがたり)」、「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」などのより語られ、室町時代には定着していたらしい。それにしても六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)との関係は不明。冥途(めいど)通いの井戸小野篁(おのの たかむら)が、閻魔庁のある冥府に通う為に利用していた入口が井戸で、この寺の本堂裏庭に伝わる「冥途(めいど)通いの井戸」がそれである。写真下。右が井戸。左が小野篁(おのの たかむら)が念持仏としていた竹林大明神を祀る祠(ほこら)。基本予約しないと見られないそうで、こちらものぞき格子の隙間から撮影。小野篁(おのの たかむら)は行きにこの冥途(めいど)通いの井戸を利用。帰りは嵯峨野の福生寺の井戸から帰還していたとされる。(寺の看板より)※ 右京区の嵯峨野にも六道の辻があり、明治期までは福生寺もあったと言う。ところで、これはあくまで私の仮説であるが、先ほどの小野篁(おのの たかむら)の念持仏、竹林大明神であるが、実はこれが何なのか不明。もしかして? それは竹林の七賢(ちくりんのしちけん)から由来しているのではないか? 「竹林の七賢」は、中国の魏国時代の賢者達が、酒を交わしながら国や政治や諸々の事を談議する集まりの話。(宗の時代に逸話集として編纂された中の1つ)現在と違い、うかつな事を言えばすぐに首が飛ぶ時代のエピソードを時代を置き換えて説話にしたもの?そう考えると、ひょっとすると・・。六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は人の寄らない場所。特に夜は誰も来ないだろう。(誰か宮中の者に存在を見られる心配もない。)そこで、小野篁(おのの たかむら)は気心の知れた仲間と時々そこに集まって、酒を飲みながら憂さ晴らし兼ねた談議の会を催していたのではないか? と推測する。以前、遣唐副使の件で失敗して官位剥奪を受けた事があるだけに本当は朝廷に対する不満は大きかったのでは? 左遷されてその地で亡くなり怨霊となった菅原道真公に比べれば、割り切りのいい漢(おとこ)だったようにも思うが・・。六道まいり寺では毎年盂蘭盆(うらぼん)(8月13日~16日)前の8月7日~10日4日間、「六道参り」が行われている。先祖の霊を祀る報恩供養であるが、槇(まき)の葉に乗って冥土より帰ってくる先祖の霊を「お迎え鐘」で迎えると言うものらしい。「お迎え鐘」の音は十萬億土の冥途まで響き渡ると言う。残念ながら「迎え鐘」は修理中であった。チャンスがあれば盂蘭盆(うらぼん)に行って見たいが・・。境内のおみくじ閻魔様鎌倉時代までは東寺の末寺としてあったようですが、南北朝時代以降、建仁寺の塔頭の1つになっています。六道珍皇寺おわります。※ 「京都五山禅寺」にて建仁寺の紹介をしています。リンク 京都五山禅寺 1 大乗仏教の一派 禅宗と栄西禅師
2017年05月18日
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昨年暮れに高台寺を紹介した後に、同じく寧々様ゆかりの圓徳院(えんとくいん)を紹介する予定でしたが、今一つ写真が足り無い。次に関西に行った時に不足の写真を撮ってこよう・・・とずっと保留になっていた所です。2016年京都の秋と2017年春の写真合作になってしまいましたが、やっとこの春に実現。高台寺とその塔頭にあたる圓徳院やその界隈「ねねの道」や「石塀小路」をサクッと紹介します 2017年京都 1 (圓徳院と石塀小路)ねね(高台院) 終焉の地 圓徳院(えんとくいん)北政所(きたのまんどころ)の称号ねねの道とねねの小径三面大黒天尊天圓徳院(えんとくいん)と庭高台院時代の寧々(ねね)様石塀小路(いしべいこうじ)2016年12月。2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様が、夫亡き後、出家して高台院湖月尼(こうだいいんこげつに)となった。そして1606年、夫の菩提と実母の菩提を弔う為にに建立した寺が前に紹介した高台寺の創建でした。出家した寧々(ねね)様は高台院を建立するにあたり、1605年、伏見城(桃山城)の化粧御殿と桃山時代の代表作とも言える伏見城の前庭を山内に移築した。それが現在の圓徳院(えんとくいん)の場所でそれ故、圓徳院の北庭は伏見城からの石組でできている。以前も紹介したが、高台寺の建設には徳川家康の尽力と資金援助があり、高台院創建に関しては伏見城からの移築物が非常に多くその労力も幕府が担って建設されている。徳川が排斥した豊臣の奥方なのに、関ヶ原以降も北政所には大名並の領地や養老料など1万6千石近く与えられていたそうだ。秀吉の残したものはことごとく打ち壊されたにもかかわらず、別格の扱いがあり、伏見城は解体されても案外残された物はあるようだ。高台寺の秀吉と寧々の霊屋(おたまや)の所ですでに紹介した寧々(ねね)様の像。※ 実物の写真撮影が禁じられているので、上の写真はBS朝日で放送されたテレビから引っ張ってきました。北政所(きたのまんどころ)の称号寧々(ねね)→北政所→高台院湖月尼(1548年~1624年)1585年、夫秀吉が関白になった事により彼女自身も従三位に叙せられ、北政所(きたのまんどころ)の称号を許された。1588年(天正16年)には従一位を授かっている。彼女が序せられる以前は北政所と呼ばれる女性は多々いたようだが、以降北政所と言えば寧々オンリーなったようだ。因みに秀吉の母は大政所(おおまんどころ)と呼ばれたそうだ。圓徳院地図(以前紹介した高台院塔頭全景図の看板より一部切り取り書き加えました。)ねねの道より右側の山の上に高台寺の方丈などがある。(台所坂より登る)写真左に見切れているが石塀小路は下河原通まで続いている。実はもとはその一体全て圓徳院の敷地だったそうだ。(明治期に税務対策で売却された。)赤い→ 圓徳院 入口ピンクの→ 楽市ねねとねねの小径 入口ねねの道とねねの小径ねねの道 (北)八坂神社側から、(南)八坂の塔方面へ 左が高台寺※ 基本的にはここら一帯が高台寺内である。ねねの道より 高台寺に登る 台所坂その真向かいあたりに圓徳院敷地内「楽市ねね」、「美術館」、「三面大黒天」、「ねねの小径」入口圓徳院敷地内の詩仙堂と三面大黒天の堂があるが、お土産やカフェスペースにされている(美術館もこの上)ので常に観光客でゴチャゴチャねねの楽市とは・・・おみやげショップの集まりの事です昔は高台寺の門前町として祗園方面まで賑わいがあったらしいですが・・。ねねの小径とは・・・軒の連なったお土産ショップを通り抜ける路地の事でここより裏の石塀小路への抜け道となっています。石塀小路界隈が昔はすべて圓徳院の土地だったようです。三面大黒天尊天の堂堂は京都御苑よりの移築物らしいが、本尊の三面大黒天は福徳信仰の象徴として、豊臣秀吉が念持仏としたと伝承される珍しい尊像だそうだ。つまり秀吉の出世守の本尊?ねねの道より八坂の塔圓徳院(えんとくいん)と庭圓徳院入口圓徳院(えんとくいん)圓徳院とは、寧々(ねね)様の実兄、木下利房 公の法名である。木下利房 公は江戸幕府の元で賀陽郡と上房郡の2郡で2万5,000石を与えられ足守藩主と言う役を持っていたらしい。妹寧々(ねね)を後見していた木下利房 公は、寧々(ねね)亡き後、1627年に法名、圓徳院(えんとくいん)を得ている。そして1632年、ここを木下家の菩提寺として高台寺の三江紹益 和尚に開基を願い高台寺の塔頭の1つになったようだ。※ 農民出身と言われる秀吉ですが、妻である寧々(ねね)様は戦国武将杉原家の出自。良家のお嬢様であった。先ほど紹介したよう当初の住まいとなる建物は伏見城の化粧御殿を移築したものだったらしい。 同時に木下家の客殿も建立? (それが現在の方丈らしい。)木下利房 公は高台院である妹寧々(ねね)が1624年亡くなるとここを相続したようだ。高台院時代の寧々(ねね)様高台院となった寧々(ねね)様は1605年にここを建立して1624年亡くなるまでここで余生を送っていた事になる。が、のんびり余生を送っていたわけではなさそうだ。先ほど書いたとおり1588年に従一位を授かった寧々(ねね)様は秀吉存命の頃より朝廷との交渉役をしていたようで、公家の一員として高台院となってからも度々御所に献上品を送っていた事が記録から解っている。また、秀吉の菩提を弔う為に高台寺に日参する傍ら、北政所を慕う大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家、など多くの文化人がここを訪れて賑わっていたようだ。また高台寺の所で書いたとおり、徳川2代将軍となった徳川秀忠(とくがわひでただ)(1579年~1632年)自身が、高台院が創建されてから度々寧々(ねね)様に会いにきていた事が知られている。豪傑で面倒見が良く、人望のある女性だった事はいろんな逸話から知られる所です。南庭 の書院書院造りの和室 松竹梅図襖 木下育慶 作南庭徳村宗悦 作 日本庭園の研究者、造園史家の森蘊(もりおさむ)博士(1905年~1988年) 指導国名勝指定の北庭 北書院から伏見城の化粧御殿と共に同時に移築した化粧御殿前庭は桃山時代の代表的な庭園で今に残されている。賢庭 作 小堀遠州が手を加えた。池泉回遊式庭園。※ 小堀遠州については2016年12月2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)」の中「史跡・名勝に指定された桃山時代の庭園と小堀遠州」で書いています。もとは池の中に巨石の橋が渡されていたものだが、今は本当に枯山水になってしまっている。当時を残そうと少し荒れてしまっているのが残念な気がしました。夕刻で日陰になり見えにくくなってしまいましたしかも幅広で全景が撮れませんでした。石塀小路(いしべいこうじ)ねねの道からの石塀小路入口もとは圓徳院の敷地だった所だそうです。石畳が続くモダンな通りは大正時代初期のもの。明治時代に圓徳院が明治政府への税金を納める為に土地を切り崩して手放し、宅地になった場所だそうです。薄い黄色が高台寺濃い黄色の通が石塀小路レンガの塀は圓徳院の外壁。レンガは当時の輸入物。非常に珍しいものだったそうだ。お金もかってますね 下は「ねねの小径」入口で先ほどの「楽市ねね」に繋がっている。下の石畳は、昭和に入ってかららしい。なぜならその敷石は当時市電の敷石に使われていたものらしいのだ。当時から雰囲気はバツグンで文化人に人気の場所らしい。ノスタルジックな雰囲気に今は観光客。特に外国人が多い気がした。今はレストランや料亭などの看板が目立つが一般民家もある? 何れにせよ高級住宅地の感じ?あちこちに「静かにしてください。」の看板が目立った。下河原通りに抜ける細い路地は民家の屋根の下をくぐる。下河原通り入口は2箇所あるが、ちょっと解りにくい。高台寺と圓徳院 界隈 終わります。Back numberリンク 2016年京都 1 (五条通りから茶わん坂)リンク 2016年京都 2 (清水寺 1)リンク 2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)リンク 2016年京都 4 (産寧坂・さんねいざか)リンク 2016年京都 5 (二年坂)リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)他秀吉関連リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転
2017年05月11日
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Break Time(一休み)当世流行り物? デパートの仕掛けるお菓子cororo(コロロ)UHA味覚糖 cororo(コロロ)江崎グリコ バトンドール(Bâton D'or)ネスレ・ジャパン(Nestle Japan) キットカット ショコラトリー(Kit Kat Chocolatory)大阪より変わったいただき物が届いたなんのことはない、一見箱に入ったグミである。しかし、値段はこれで税込み3240円。4月26日から大阪梅田の阪急デパートで販売開始されたUHA味覚糖の新商品。販売開始都と共に大行列。しかもお一人様1点限りで姉はこれを購入する為に1時間半行列に並らんだと言う UHA味覚糖 cororo(コロロ)新感覚グミ「cororo(コロロ) 6種×4袋(2粒) 内容量360g (一袋食べました)この箱の場合、一袋125円。48粒になるので一粒あたり62.5円。 高い何これ?その正体は菓子メーカーの高級路線商品として開発された通常の市場には出ない限定品らしい。そう言うの最近流行っているな今回のは阪急デパートとUHA味覚糖とのコラボ商品?今まで売られているグミキャンデーcororo(コロロ)の高級バージョンらしい。下は従来のコンビニなどで売られている商品大阪ではこの商品の宣伝が各ワイドショーなどで紹介されているらしく、それを見て姉はハワイにいるお菓子好きの友人へのお土産にこれを購入したいと並んだらしい。一粒直径2cm弱。味は全6種。左からマスカット、巨峰、白桃、レモン、クランベリー、梅新食感を売りにしているだけあって変わっているのはその中身開きにしてみました。クランベリー、梅、白桃は果肉入り。レモンはレモンピール入り。巨峰とマスカットは種に見立てた小粒グミが中に入っている。(完成度は物により差があり)でも既存のグミキャンデーcororo(コロロ)の方は果汁100%とうたっているのに、こちらには果汁のパーセンテージ記載がない。何となくこういうのは果汁の比率が気になるからね。ところで味だが、レモンと梅は確かに美味しかった。果肉入りだし・・。後のはなんとなく香料の味が出て安っぽかった気がする。本来コンビニやスーパーで手軽に変えるお菓子なので安ければまあまあ・・だが、一粒あたり62.5円と考えると、他にもっと良いお菓子買えるのではないか・・と思う。例えば同じような本格的フルーツジェリーの「彩果の宝石」なら1個あたり37円。悪くはないけどやっぱり値段設定が高すぎると思う。商品を販売する「味覚糖株式会社」は大阪に本社を置く1949年設立のお菓子会社。キャンディー系中心らしいが、「UHA味覚糖」の商標は東京でも知られている。商標の「UHA味覚糖」のUHAとは「unique」、「human」、「adventure」の略と言うだけあって、ちょっと変わった面白い? お菓子の開発が好きなのかもしれない。※ 因みに東京での販売予定は今の所無いらしい。大阪ではテレビの宣伝もあって行列らしいが、東京ではどうだろう?今回はおそらく阪急デパート側から仕掛けた物?梅田の阪急デパートは行列のできるデパートで有名だ。いつもどこかに行列がある。かつて江崎グリコの高級ポッキー、バトンドール(Bâton D'or)が出た時も恐ろしい行列だった。最近こそ陰りを見せて行列が短くなっているがバトンドール(Bâton D'or)は高級路線の元祖かもしれない。以前撮影していた写真があったので合わせて載せました。江崎グリコ バトンドール(Bâton D'or)写真はリッチストロベリー(Rich Strawberry)、当時は5月頃までの季節の限定品だったような・・。フリーズドライのイチゴが練り込まれていて本当に美味しい。現在の値段は601円(税抜556円) 内容量:20本(4本x5袋)江崎グリコの高級ポッキーはバトンドール(Bâton D'or)の商標で、百貨店向けの高級路線として2012年10月より大阪高島屋と阪急デパートで販売が始まった。バトンドール(Bâton D'or)とはフランス語で「黄金のスティック」を意味するそうだ。バターをふんだんに練り込んだ生地をじっくりと焼き上げ、かつ澄ましバターをしみ込ませたと言うだけあってリッチなバタープレッツェルはとても美味しい。これはもはや通常のプリッツをはるかに超えた別物である。シンプルなシュガーバター(Sugar Butter)は定番で必ず買いたい味。1度食べた人がリピートしているから行列が続くのだろう。そう、江崎グリコも1929年創業の大阪の会社である。もう1つ紹介。ネスレ日本 株式会社(Nestle Japan Limited)のキットカットの超高級バージョンだ。しかしこちらは上の2つと違い通販でも買えるようだからデパート・バージョンとは言えないが、写真の品は池袋西武デパートにキットカット ショコラトリー(Kit Kat Chocolatory)がオープンした頃に買った時の写真。ネスレ・ジャパン(Nestle Japan) キットカット ショコラトリー(Kit Kat Chocolatory)写真の商品は「サクラ・グリーン・ティー(Sakura Green Tea)」「キットカット ショコラトリー(Kit Kat Chocolatory)」は「ル パティシエ タカギ」のオーナーシェフ高木康政氏が全面監修した「キットカット」の専門店。※ 「ショコラトリー」とは「ショコラティエ」と「チョコレートファクトリー」を組み合わせた造語。ネスレは高級路線用にキットカット ショコラトリー(Kit Kat Chocolatory)」のブランドを立ち上げたと言う事だ。その世界初のキットカット専門店の1号店として池袋西武にオープンしたのが2014年1月。写真のサクラ・グリーンティーは6月の撮影になっていたのでその時の限定品だったはず。味は・・。値段は通常より高いのにチョコレートにそんなに高級感を感じなかった気がする。そして香料が気になった。一般のキットカットも香料がキツイが、これもサクラ味のせいで微妙だったような・・。キットカットとして買うのはともかくチョコレート菓子として見るならヴィッタメールのチョコでも買った方が良いだろうし、通常のご当地物で十分である。会社のコンセプトには2003年以来の開発になっていたが、高級路線の販売は2014年。デパート出店は他の菓子メーカーより後発である。※ 何よりネットで売っているのだからデパートに行列は無い。高級路線ではないが、今やキットカットはご当地物までたくさん種類がありすぎて幾つあるかわからない状態である。しかし、これは日本だけの現象なのだ。海外には定番のチョコレート味のみだったので、来日する外国人がこぞって土産にしたものだ。私も海外旅行に持参して、抹茶味をザルツブルグのホテルスタッフにあげた所フロント・スタッフがざわついた 「ネットで見た事はあるが実物を見るのも食べるのも初めてだ。」と、とても喜ばれたのだ お礼にモーツァルト・クーゲルをもらった話はそれたが、デパートも今は売れ行きがた落ち。各デパートはいかに売り上げを上げるか策めぐらしている。やはり食品が一番売れるのだろう。うちの近所のデパートも食料品コーナーを拡張してカルビーのライブが入ったし・・。企業とコラボして自分の所にしか無い商品を作って集客する。素晴らしいアイデアです。リピートしてくれる商品でないと意味は無いけどね。私は並ぶの大嫌い。1時間半も並んで買ってきた姉に感謝して有り難くいただきます (^人^)感謝♪
2017年05月03日
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大阪関連のBack numberも加えました。前回紹介しましたように、真田氏は本名、真田 信繁(さなだ のぶしげ)と、呼称、真田幸村(さなだ ゆきむら)と二つの名前が知られています。以下、真田 信繁(幸村)と表記させてもらいます。徳川に敵対した武将ながら、武将としての彼の活躍は素晴らしく、家康は彼を高く評価していたそうです。「大阪冬の陣」で大阪城を守備する出城の真田丸にさんざん負け越した後に真田 信繁(幸村)の腕を買って買収しようとして断られています。かつて関ヶ原の合戦後に「恩義を忘れ、私欲をむさぼり人と言えるか」と言ったように、彼は豊臣に対する恩義と忠誠を武士のプライドにかけて貫いたのです。大阪夏の陣では捨て身で命かけて大将、家康の首を取りに果敢に攻めてきた真田 信繁(幸村)。戦闘虚しく安居神社で討たれましたが、彼の首級を確認した家康は、「真田 信繁(幸村)の武勇にあやかれよ。」と居並ぶ武将に言うと、皆、彼の遺髪を取り合ったと言われています。(茶臼山山頂の看板より)大阪冬の陣、夏の陣ともに真田 信繁(幸村)の活躍は目覚ましく、特に赤いのぼり旗に赤い甲冑で統一された真田隊は、とにかく目立ったのでしょう。敵方まで「あっぱれ」と、感服。武士がリスペクトする武士だったと言えるのでしょう。※ 今回、随分盛りだくさんな内容になってしまいました。ちょうど今の季節なのです 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)安居神社(やすいじんじゃ)天王寺七坂と天王寺七名水天王寺名水と創建年の考察真田 信繁(幸村)の終焉の地武田家家臣から豊臣家家臣に大阪冬の陣と夏の陣配置図そして上町台地真田家六連銭(さなだけろくれんせん)安居神社境内に建立された真田 信繁(幸村)の像天王寺界隈(「七坂」、一部と★安居神社近辺)オレンジ・・天王寺七坂 下から 逢坂、天神坂、清水坂、愛染坂、、(口縄坂、源聖寺坂、真言坂)※ カッコ内は 地図に乗せていません。赤い星★・・安居神社安居神社は、谷町筋と松屋町筋の間。逢坂と天神坂に挟まれた場所に所在しています。松屋町筋には表参道の鳥居が建っている。表参道(西坂石段)拝殿実は安居神社には他にも2つ参拝ルートがある。逢坂側からの入口安居神社は上町台地(うえまちだいち)の西のきわに建っているので坂の途中にあたる。一番楽なアクセスは、逢坂は国道で道幅が広い坂。「天王寺」の駅から来て逢坂から入るのが一番楽。下るだけなので・・。(逢坂をはさんで手前が一心寺)「四天王寺前夕陽丘」の駅から天神坂ルートで来ると北坂石段を登ら無ければならない。天神坂(北坂石段の前から)安居天神から天神坂と名が付いたらしい。天王寺七坂と天王寺七名水安井の名水(天王寺七名水の1つ)このあたり名水の産地。上町台地からの綺麗な水が潤沢に湧き出る事からここで水を汲んで売りに行く・・と言う水売りの商売(水屋)もあったそうだ。天王寺七坂には天王寺七名水が存在していた。金龍の水、有栖の清水、増井の清水、安井の清水、玉手の水、亀井の水、逢坂の清水と7つの井戸があったらしく、それらは綺麗故に眼病などにも利用されたらしい。北坂石段北坂石段登った所から、奧が拝殿奧が北階段。左が西階段。つまりここは一際高台でとても眺めが良い場所。真田氏がここで討たれたと言う事は、攻められたのは神社裏の東側か逢坂からと言う事になる。安居神社の創建は不明。御祭神は少彦明神と菅原の道真公少彦明神とは少名彦命(すくなひこなのみこと)以前神田明神で紹介した事があるが、(えびす様)として商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様として祀られる神様である。天王寺名水と創建年の考察以前2015年8月「大阪 天満宮の天神祭り 1 (天満宮の始まり)」の所で「天神信仰の発端(御霊信仰)」について紹介しているのですが、御霊として菅原道真公が祀られると言う天神信仰は村上天皇(926年~967年)の治世942年に始まっています。彼はここの名水で病気を治癒したとして祀られるようになったとか・・。それ以前は少名彦命のみ一柱、が祀られているわけで、その信仰はいつからか?古事記に由来する少名彦命(すくなひこなのみこと)を祭る神社が近くにありました。愛染坂の所にある大江神社(おおえじんじゃ)も少名彦命を祭っていて、そこも創建は定かでないものの、聖徳太子が四天王寺の鎮守社として建立した伝承されている事から四天王寺の起源に近いと思われます。※ 四天王寺はいつからか? 四天王寺は、593年(推古天皇元年)に聖徳太子により創建されたとされている。ところで少名彦命(すくなひこなのみこと)は酒蔵の神様でもあるそうだ。酒は「百薬の長」と言うからね。それにこれら名水は眼病にも効いたらしいから医薬健康の神として祀られたのは納得。おそらく神社の創建は名水がらみで由来しているだろう。昔はこの名水を合酒の水としても利用されていたらしいし・・。推定は四天王寺創建以降、大江神社よりも後、7~8世紀以降かな?真田 信繁(幸村)の終焉の地場所は境内向かって右手。逢坂よりに石碑が建てられ、近年像が建立(2009年)されたらしい。真田松と真田氏の像と戦士跡の碑後ろには真田 信繁(幸村)が休息していたと言われる真田の松が生えている。当時の松は既に枯れ、現在のは昭和26年に社殿の復興と共に植樹されたもの。真田 信繁(幸村)は5月6日伊達正宗の兵と戦い、翌5月7日松平忠直と奮戦。退却してここで休息している時に松平忠直の家臣、鉄砲隊の西尾 宗次(にしお むねつぐ)に発見され討ち取られたそうだ。(享年49歳)越前松平家の記録には「相手が信繁と知らずに槍で戦って信繁を討ち取った。」と書き記されているそうだ。真田 信繁(さなだ のぶしげ)幸村(ゆきむら)(1567年~1615年)戦国時代に武田信玄の配下であった真田家は信州上田の出身。武田家家臣から豊臣家家臣に織田と徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、その後織田方に付くが、その信長も亡くなり、武田領をめぐる争いが勃発。秀吉が台頭すると父真田昌幸は豊臣方に付き大名扱いとなるものの、秀吉が亡くなり、関ヶ原の合戦(1600年10月)で徳川家康に惨敗。徳川方に付いていた長男 真田信之の取りなしで命は救われるが真田昌幸と真田 信繁(幸村)は和歌北の九度山に流される?1611年父は亡くなり、1612年に真田 信繁(幸村)は出家。一方、豊臣家と徳川家の関係がギクシャク。方広寺(ほうこうじ)の梵鐘の件で家康は豊臣家討伐を決める。それが「大阪の陣」につながる。※ 「豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)」の所で方広寺(ほうこうじ)の梵鐘の事書いています。豊臣家からの招集1614年豊臣家VS徳川幕府今や豊臣方は65万石の弱小。兵は30000前後しかいない。見方する大名もなく豊臣家はかつての家臣達に声をかけた。真田 信繁(幸村)は支度金、黄金200枚と銀30貫。徳川に勝った暁には50万石を約束され大阪城に向かい再び豊臣方に付いたと言うわけだ。大阪冬の陣と夏の陣配置図そして上町台地大阪冬の陣では籠城。防御の戦いであった。大阪冬の陣 配置図(1614年11月~12月)地図の中ほど、大阪城を囲む外堀の右下に真田丸は建てられ、そこで真田 信繁(幸村)は一手に兵を食い止めたと言う。真田 信繁(幸村)はこの戦いにおいて戦績を挙げた。(それまでは有名ではなかった。)家康は後に信濃10万石で真田 信繁(幸村)を買収してきたと言う。大阪夏の陣 配置図(1615年4月~5月)冬夏比べてもらえば一目。大阪城周りのお堀が減っている。もともと埋め立てOKしたものの、時間が稼げると思った豊臣方だが、徳川方はものすごい人数を動員して急いで埋めてしまったらしい。今度は籠城はできない。大将の首(徳川家康)を直接取るしか勝つ方法はないと真田 信繁(幸村)は果敢に攻めの戦いをした。だが兵の数に差がありすぎた。豊臣方55000人。徳川方は15万5000人。10万人も違う ちょっとここで上町台地の高低差が解る画像を紹介。どうしてこんな配置図になったかよく解ります。左三角が茶臼山。夏の陣では真田 信繁(幸村)陣どった。右三角が御勝山。(生野区勝山)徳川秀忠が陣取り戦勝の宴を催した元古墳は御勝山と呼ばれるようになった。☆星が冬の陣の時の真田丸の位置。大阪城を攻めるなら南側の台地からしか無いのである。さて、真田 信繁(幸村)と言えば赤である。冬の陣では赤い登り幡(幡指物)を立てた。それは敵味方の区別を付ける為の幡指物であるが、非常に目立ったと言う。夏の陣では真田隊は甲冑も赤で統一されたらしい。そして登り幡(幡指物)には真田家の家紋の1つ六文銭の図柄が入れられた。2015年「大坂の陣400年 丸の内夏の陣 真田幸村と戦国武将たち」のポスターから甲冑部だけ借りてきました。そもそも本物は現存していないので甲冑レプリカだそうです。真田家 六連銭(ろくれんせん)図柄の元は六文銭であるが、家紋としては六連銭(ろくれんせん)が正しいらしい。夏の陣ではこの家紋が使われたと言う。実は真田家には戦時の旗印として、「結び雁金」と「州浜」もあった。夏の陣での戦いで六連銭(ろくれんせん)が印象強くなってしまったようだ。※ 真田家の六連銭(ろくれんせん)と有名になったが、本家は信濃の海野氏(うんのうじ)らしい。そもそもこの六連銭(ろくれんせん)には意味がある。三途の河の渡し賃、六道銭(ろくどうせん)が由来となっている。つまり冥途(めいど)に入る時に使用する最後のお金である。※ お棺にお金を入れる風習はこの冥途のお金が由来である。真田 信繁(幸村)隊のほとんどは傭兵だったようだが、彼らの決死の覚悟の出陣がうかがえる。死して400年、尚も武勇が伝えられる真田 信繁(幸村)公のご冥福をお祈りします(( -.-人毎年5月安居神社では幸村祭が行われている。今年2017年の日時を見忘れたようですが、5月2日あたりだったような・・。尚、神社は開門時間があります。午前7時~午後4時。古戦場おわります。Back numberリンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)大阪については以下も書いています。リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜けリンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎リンク 四天王寺庚申堂
2017年05月01日
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