全3件 (3件中 1-3件目)
1

鉄道関連のリンク先をラストに追加しました。大阪駅を後に東京に戻ってきました。温度差で体がついていけません断然大阪のが暖かいです。ところで、滞在中は外食がとても多くなります。何しろ天神橋筋商店街の近くなので食べ物屋の数はハンパなく多いし、とにかく安い店が多い。連日食めあてのお客さんや、近年は外国人も団体でやってくる食のスポットの一つなのです。その天神橋筋はかつての天満(てんま)青物市場に由来する場所。それは石山本願寺があった戦国の時代に始まるらしい。※ 堂島米市場の米。雑喉場魚市場の魚。天満の青物市場の野菜。それらは秀吉の時代には天下の台所と呼ばれる大阪の三大市場の一つであった。天満青物市場の時代、遠方から来て荷下ろしをした船員達が、その足で買い物に出かけた場所が十丁目筋。それが現在の天神橋筋商店街のルーツらしい。※ 大阪では南北縦の道が筋(すじ)。東西横の道を通り(とおり)と名付けられていた。天神橋筋商店街の全長は2.6km。日本一長いアーケード商店街としても知られています。現在アーケードがあるのは天1から天6まで。その中でも天5界隈はとにかく飲食の店が増え続けている場所。※ 天5に集中する理由は天満市場がすぐ横にあったからであろう。激細の狭い路地にさえ、店が所せましと道にはみ出ていて、ただでさえ狭い通路なのに夜になると路上に椅子やテーブルを出す店も多数。今時分はビニールシートで周りを被い、外だけど寒さがしのげるような造りに。かつての天満市場のバラックの下も、今やほとんどが店を閉め、その後はそれぞれ簡易式飲食店になっている。飲食の方がきっと儲かるのだろう。ほとんどが一杯飲み屋風なのにオシャレな店もあるから面白い。また、商店街に面した細長いビルなどは、もともと八百屋、魚屋、豆腐屋など小売店の集まったマーケット。それも今は正面の昆布屋を残したくらいで、ほぼ飲み屋街へと変身した。とにかく行く度に既存の洋服屋とか、靴屋とか、雑貨屋はどんどん消え、新たな飲食店が誕生している。今やその数は1000程あるのではないかと思うほど。(一坪店舗などもあり繁盛もしているようなので驚く。)それでもまだお店が増え続けているこの現状は、みんなの食の意識が高いからなのか? はたまたは店を出して一旗揚げたいと言う起業家精神が高いからなのか? 挑戦者が後を絶たない場所のようだ。さて、今回は前回に続き、2代目駅舎から現在の大阪駅ノースゲートを紹介します。さっさと終わらせる予定が結構詳しくなってしまいました 分けた方が良かったか?前回のリンク先 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)大阪駅 歴代の駅舎 逓信建築 2代目大阪駅舎 悲劇の3代目大阪駅舎 JRの副業 複合型4代目駅舎開発中の北ヤードノースゲート大阪駅 歴代の駅舎初代駅舎 1874年(明治7年)~1899年(明治32年)前回紹介 2代目駅舎 1901年(明治34年)~1935年(昭和10年)※ 写真は、ルクアイーレ(Lucua1100)オフィス入口の展示コーナーより。初代駅舎が手狭になり旅客も交通量も増えたので、3カ年継続事業で34年7月に新駅が竣工。初代駅舎より約2丁(約220m)東に移動しほぼ現在の位置に。移転の最大の理由は、2年後の1903年(明治36年)に天王寺今宮で開催される内国勧業博覧会に備え、より多くの来訪者を受け入れる駅舎の誕生であった。当事の工費は12万円。駅前には、待合茶屋や、旅人宿、運送店がだんだんに増え、人力車が客待ちで群れをなすなど繁華街となっていったらしい。建物はみかげ石造り。しかしモニュメント内部はレンガ。木材はヒノキとケヤキが使用された豪華なもの。ホーム幅17m。待合室は270坪、2階には乗客の為の食堂も完備。写真を見る限り、ドイツ系のNeoclassicism(新古典様式)かな?と思ったが、設計したのは逓信技師の吉井義則 氏(生没不明)。日本人と知って驚き、逓信技師と知ってさらに驚き。逓信建築 2代目大阪駅舎日本の近代建築の始まりの中に逓信(ていしん)建築と言うのがある。かつての逓信省では、郵便・電信・電話・電気など事業の局舎、施設の設計を自前の技師集団でおこなっていたらしい。それは逓信建築(ていしんけんちく)なる言葉を生み出す程に合理的で堅実で質の高い建築設計を数多く生み出したそうだ。結果的に個性的な建築家を多く輩出したらしい。※ 逓信省(ていしんしょう)は、当事の電気通信事業の政府機関。今の日本郵政(JP)、及び日本電信電話(NTT)の前身にあたります。設計したのは逓信技師の吉井義則 氏と解っているのに、逓信建築の中に2代目大阪駅が含まれていなかったのは、今はその建物自体が無いからなのか?復元できればそれなりのものであったと思われるが、残念ながら2代目駅舎は3代目ができた後に東京の技芸学校に2500円で売却されて解体された。完全なる解体ならまだしも、外壁の御影石の化粧板だけを持ち去ったらしい。中之島の日本銀行大阪支店、大阪造幣局の泉布観(せんぶかん)と共に大阪の3名所とうたわれた駅舎だったのに・・ この2代目大阪駅舎の時に日露戦争(にちろせんそう)1904年(明治37年)~1905年(明治38年)が勃発。時の政府は鉄道の国有化を進めた。3代目駅舎 1940年(昭和15年)~1979年(昭和54年)この写真を見た時に、昔の東西統合前のベルリンの駅を思いだしました。写真で見て解るよう、駅前がすっきり整理されている。3代目駅舎は駅だけでなく、駅の前の整理と整備、近辺の区画整理、そして地下鉄建設や私鉄(阪急、阪神)のターミナル改造が含まれての改築だった。なぜなら、1940年(昭和15年)に東京で開催予定のオリンピックをめざし、宿泊も完備したステーションビルとして構想。しかも、旅客専用の高架停車場として計画されていた。当初は3階までが駅舎。4~5階がホテル。231個室。収容300人。宴会場、サロン、浴場まで完備する近代建築技術の 粋(すい)を結集した近代建築で計画され、国際ステーションとして華々しくデビューするはずであった。(全館完成ならず、未完の竣工。)悲劇の3代目大阪駅舎1937年(昭和12年)、日華事変が勃発。国家総動員方が公布され戦局は深刻化。その中で1940年(昭和15年)、3階までの駅舎は一応の完成を見たものの時局はオリンピックどころではなくなっていた。1941年(昭和16年)、太平洋戦争に突入。「金属類回収令」が公布。1943年(昭和18年)、4階以上の駅舎以外の鉄骨の供出命令が出され、切り取った鉄の重量は650トン。それらは戦列の大砲の弾となったそうだ。(軍からは鉄の質が良いとほめられたらしい。)因みに、悲劇は社寺にも及んでいた。1942年(昭和17年)、仏具特別回収なるものが行われ、四天王寺では、大梵鐘がターゲット。同じく1943年(昭和18年)、梵鐘は供出され、銃弾など兵器となり人を襲ったのだ。また、駅の悲劇はそれだけではない。駅は連日連夜、臨時電車が走り、出征兵士の送り出しや軍需品輸送に利用され構内は兵士見送りの人波で大混雑。1945年(昭和20年)にはついに空襲で大阪駅倉庫一帯と商店街が焼夷弾により焼失。梅田から心斎橋の方まで見渡せるほどだったらしい。そして終戦、今度は進駐軍部隊の輸送で利用され、駅舎は米軍鉄道輸送司令部として連合国軍に接収。結局、3代目大阪駅舎は戦争のあおりを受け、当初予定の駅舎にはなれず、ホテルもできず、それでも戦後の動乱も乗り切り、大阪万国博覧会をへて、高度経済成長を通過し、1979年(昭和54年)まで頑張ったのである。※ 1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会の為、1967年(昭和42年)~1970年(昭和45年)駅舎の改良が行われている。4代目駅舎 1979年(昭和54年)~2011年(平成23年)大阪万国博覧の時でさえ、駅舎は建て替えられる事はなかった。大阪市は万国博覧会にそなえ、「大阪駅前市街地開発事業」をスタート。駅前の再開発と共に大阪市の顔となる駅舎の建て替えも希望していたようだが、JRは改良程度に留めた。結局の所、赤字のJRに建て替えのお金がなかったのだろう。民間の資本での改築申請もあったらしいが・・。JRの副業 複合型4代目駅舎JRが重い腰を上げたのは1971年(昭和46年)に国鉄法改正が行われ、国鉄業務以外の副業が認められる事になった事だ。JRでは「駅周辺用地の高度利用」をうたい、業務施設機能と商業施設を併せ持つ複合型の駅舎の開発を決めた。(駅舎の中にデパート、ホテル、旅行サービスなどを誘致。)つまり、建て替え費用の負担ばかりか、今後の家賃収入、その他諸々の収入が得られると言う事だ。前回「JR西日本では、自社の駅と施設をまとめて大阪ステイションシティー(Osaka Station City)と銘打って宣伝している。鉄道以外の商売にも熱心なようである。」と書いたが、まさにそれである。1976年(昭和51年)、「大阪駅ターミナル問題懇談会」発足。新駅は地下4階。地上27階。延べ床面積は13.6万平米の総合ターミナルビルと駅業務用施設(別棟の北ビル)の建設が決まる。1979年(昭和54年)、駅本社となる業務用施設、「北ビル」が開業。1983年(昭和58年)、もともと駅本社のあった場所に各種商業施設の入った大阪ターミナルビル「アクティ大阪」が開業。その中核となる施設はホテル(グランビア)。確か時代はバブルの頃。※ 現在ホテルグランビア大阪の大株主はJR西日本ホテル開発である。ここに3代目駅舎で構想していながら実現できなかったターミナルホテルがやっと4代目駅舎で実現。利便か? 儲けか? 駅舎とホテル一体と言う発想と着眼はどこよりも早かったかも・・。5代目駅舎 2011年(平成23年)~前回ジオラマや図解で位置など紹介。5代目駅舎の誕生は、北地区に残る梅田貨物駅用地など24haの活用を検討する中で生じたものだ。2003年(平成15年)。「大阪駅北地区全体構想」が発表。国際都市をめざした上での街造りが検討され、広場、通路の整備や駅の改良などが行われる事になった。2011年(平成23年)3月、大阪ターミナルビル、サウスゲートビルディング(旧アクティ大阪)開業同年4月、橋上駅舎 前回紹介した3階改札(連絡橋口)開業同年5月、ノースゲートビルディング 開業新しくなった大阪駅は、大阪の玄関にふさわしい空間と荘厳さと格調を持って誕生。さらには駅前広場と一体となるデザインが重視。新しい街。そして新たなランドマークとなるようスタイリッシュにデザインされている。(ごちやごちや感がなく、イベントにもすぐ活用できるようなゆったりめの造り。)下は前回も紹介したルクアイーレにある「大阪ステイションシティー(Osaka Station City)」のジオラマノースゲート側の面※ 映り込みで見えにくいので背景を消しjました。ノースゲート側の写真はグランフロントが存在するので全景の実写は難しい。屋上は庭園とさらに上が菜園として公開されている。長らく北に残っていた曰わくのあった操車場(北ヤード)は(墓地→駅→車両基地→貨物駅)土地を売却して国鉄長期債務の返済に充てられることになったらしい。そして梅田の貨物駅はグランフロント大阪のオープンと入れ替わるよう2013年4月1日に正式に廃止。開発中の北ヤードノースゲートビル屋上庭園からの北ヤードを撮影(2017年11月現在)右のビルがグランフロント大阪。(グランフロント北館Cにはインターコンチネンタルホテルが入っている。)北ヤードをはさんで向こう側が新梅田シティ。左中、ガラス張りのが梅田スカイビル。左がウエスティンホテル大阪。共に新梅田シティを構成。かなりの敷地が開いていたのですね。今は見渡せますが、グランフロント前に何やらビルの工事が始まっているようです。この景色はいつまで見られるのでしょう。そして今度は何ができるの?2013年9月 梅田スカイビルからの大阪駅北側と北ヤード を撮影古い写真だし、映り込みもあるので綺麗とはいえませんが、在りし日の北ヤードの写真です。すでに梅田貨物駅が閉鎖され、解体が進められ始めた頃ですね。ノースゲートさて、現在のノースゲートビルの方を紹介。ノースゲート地上階 グランフロント前から地上階では、グランフロントと大阪駅の間には公共の道路が存在した。以前は歩道があり、渡ることが可能であったが、現在は仕切りができて渡れないようになっている。大阪駅ルクア側の地上階側がJRハイウェイバスの配車場になったからだ。向こう側に渡りたい人は、一度2階に上り、改めて駅側のコンコースにまわるか、ヨドバシカメラの方まで行ってから信号を渡るしか無い。因みに、現在はヨドバシカメラまで歩道橋が付いたのでノースゲートからそのまま行けるようになった。(地下からも行けるが・・。)ノースゲート2階エントランスフロア 入口このフロアから、先ほどの駅側の地上階中央コンコースに降りる事が可能。また、登れば3階連絡橋の改札コンコースに出る。※ 時計のついている階が3階連絡橋の改札コンコース。上降と下降のエスカレーターが両サイドについている。←緑、エレベーターも設置されているので車イス、ベビーカーの方はそちらへ。地上階行きのエスカレーターに乗れば旧大阪駅中央コンコースへ因みに正面ガラスの向こうに見えるのは11番ホーム。東海道本線北陸方面行き 特急列車。※ ホーム階は2階と言う設定のようだ。だから改札は1階口と3階口となる。ノースゲート3階 連絡橋と連絡橋改札のあるフロア左、グランフロント方面右 連絡橋と連絡橋口改札。そしてサウスゲートと大丸デパートにも接続。見えるエスカレターの裏(写真では右)にインフォメーションがある。ノースゲート3階中央のエスカレーターと階段。連絡橋の上に付いている展望デッキ「時空の広場」へ。この階段の真後ろがインフォメーション。そしてさらに向こうが連絡橋と改札。連絡橋の上の展望デッキ「時空(とき)の広場」連絡橋の上を利用したテラス広場。各種イベントが催される。ルクアとルクアイーレのの5階に接続されている。展望デッキ「時空の広場」からはホームも見下ろせる。但しガラス越しに・・。展望デッキ(時空の広場)からさらに上階に上る。ルクアとルクアイーレの連絡橋(ルクアの7階)に出る。ルクアとルクアイーレの連絡橋(ルクアの7階)からノースゲートのエントランスフロア(2階)と向こうに見えるのがグランフロント大阪。さらに上がると映画館や屋上庭園へ屋上庭園から先に紹介した北ヤードが見える。さらに屋上菜園までは階段を上る。ノースゲートビルのオフィスタワーと右が北ヤード。景色はそこそこであるが、屋上菜園は何もなく、苦労して登るほどでもなかったかも・・。大阪駅(Osaka Station)おわります。大阪については以下も書いています。リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)リンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村リンh 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜けリンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎リンク 四天王寺庚申堂鉄道関連のBack numberリンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎) 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク ドクターイエロー(Doctor Yellow)リンク 東海道新幹線開業50周年の日リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車)リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 2 (列車レストランのメニュー)リンク ユーロスター(Eurostar)リンク ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)リンク ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)リンク ブリュッセル中央駅(Brussels Central)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 1 (メトロとプレメトロ)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 2 (プレメトロのトラム)リンク 西武鉄道のレストラン列車「52席の至福」
2017年11月25日
コメント(0)

ラストに鉄道関連のリンク先を追加しました。久しぶりに美術ネタでも・・と思ってセレクトしていたのですが、構想を練るうちに写真が足り無い、資料が無い。結局東京に戻ってからでないと完成できない事に気がつき断念 それはいずれ・・。そんな訳でまたまた迷走して、写真集めと資料集めに中之島の図書館と大阪駅を行ったり来たりと3日歩きました。年中使っている大阪駅ですが、知らなかった事がいっぱい。新しい発見も・・。で、今回は初めての方に解るように写真をたくさん載せて大阪駅の紹介をしてみようかと思います全2回の予定。大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)大阪ステイションシティー(Osaka Station City)現在の5代目大阪駅舎初代の大阪駅(梅田ステンショ)と初代駅舎大阪ステイションシティー(Osaka Station City)東京駅ほどではないが、JR大阪駅はかなり広い駅である。※ JR大阪駅に新幹線の乗入れは無い。新幹線は新大阪の駅に発着する。(大阪駅から東海道線で一駅)南側にはサウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル)がそびえ、大阪駅の顔となっている。※ 旧アクティ大阪そこにはデパートやホテル(グランビア大阪)も付随しているし、最近では、北側の操車場が無くなり、その広大な跡地の開発を進めている。すでに北側にはJR西日本がショッピングモールやレストラン、オフィスにフィットネスなど誘致した複合施設、ルクア(Lucua)とルクアイーレ(Lucua1100)が建つ。それがノースゲートビルディングである。その新ビルにスムーズに入る為に造られたノースゲートからの3階コンコースと3階改札(連絡橋口)はとても使い勝手が良いさらにノースゲートの北側に建つグランフロント大阪も連絡橋で接続されているのでJR大阪駅に直結。JR西日本では、自社の駅と施設をまとめて大阪ステイションシティー(Osaka Station City)と銘打って宣伝している。鉄道以外の商売にも熱心なようである。ホームからの北(ルクア1100)方面 右上に見えるのが新たにできた3階の改札(連絡橋口)プラットホーム全体を被う屋根が付き、台風などでも濡れずにすむようになった。この駅舎の鉄骨架設工事は送り出し工法で2004年4月から始まり2011年4月までの7年がかりで完成。3階改札(連絡橋口)に向かう途中の通路から3階の改札(連絡橋口)通路 奧が北エリアのルクア方面。南側のサウスゲートビルデイングから北側のノースゲートビルディング(Lucua とLucua1100)に繋がるコンコース(鉄橋)。さらにはノースゲートビルディングからグランフロント大阪には別の連絡橋でつながる。3階の改札(連絡橋口)中こちらは内部のが広いからすっきり。乗り場も解りやすい。大阪駅の問題点全体に良くなっているが、中央ゲートなど(地上階の昔からの改札)はとにかく動線が悪く、問題点はまだいろいろある。一日の乗降車数850000人。列車運行本数1500本。と利用客が増えているだけに年々手狭になっているのは事実。現在も乗降客はぶつかるように交差しながら狭い通路を進み、改札を出なければならない状態だ。人が多すぎて止まるとぶつかるし、先もよく見えない。しかも、下からだとホームの位置や番号も見つけにくい。(初めての人には解りにくい。)なぜだろう? 理由は東京駅の造りと比べると良くわかる。大阪駅は、駅の南北への一般の通り抜けが優先されて、通路が広く確保されている一方、駅利用者の改札内部のスペースがあまりに狭すぎるのだ。(現在の利用客数に見合っていない狭さ。)東京駅を参考にするなら、現在一般客が通り抜けしている通路全体を改札内部にすれば、すっきり解決できるだろうに。因みに東京駅にも通り抜け通路は存在している。でも圧倒的に駅利用者を優先した造りになっている。それ故、東京駅の構内は恐ろしく広い。完全駅中のマルシェが多数存在しているのも納得なのだ。ついでに問題点をもう一つあげると、大阪駅はバリアフリーにはほど遠い構造だと言う事。今でこそ、多少エレベーターなども設置されてきたが、車イスの方やベビーカーを押す人、あるいは大きなスーツケースを持って歩く人にはかなり不便な環境なのである。それは、駅自体が継ぎ足し拡張である事が上げられる。また、サウスゲートの大丸とグランビアの入る正面ビルと中央ゲートからのコンコースは、土地の高さにかなりのズレがある事だ。中央改札からサウスゲート側に出るのに、階段を10段ばかり上らなければ外に出られない。しかも、そこにスロープもエスカレーターも無い。かなり迂回するか、持ち上げて階段を登るしかない。そう言う意味も含めて、初めての方や、体の不自由な方、また荷物のある方などは3階のコンコースから改札を入る事をお勧めする。3階からだと全てのホームが一目。ホームも見つけやすい。(うろたえないですみます)※ 地下鉄乗り換えの場合は話が別。3階までの昇降時間を考えると、地上階にある中央ゲートや、御堂筋口ゲート、桜橋口ゲートを使用する方が早い。因みに、大阪駅では改札により、目的地がはっきり別れている。しかも、駅構内は解りにくいほど入り組んでいる。間違えると後が厄介です。だから誰かに聞くなら、まずはホームの上で「どの改札」を出たら目的地に近いか聞く事をお勧めします。ルクアイーレ(Lucua1100)にある「大阪ステイションシティー(Osaka Station City)」のジオラマ※ 映り込みが激しいので背景を消しました。右の建物が南ゲートのサウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル)現在の5代目大阪駅と周辺をざっと紹介。地図はJR西日本が発行している冊子からのものです。6ヶ国語くらいに対応してました。ピンクの囲い・・JR西日本の「大阪ステイションシティー(Osaka Station City)」のエリア北側ブルーのビル・・ルクア(Lucua)とルクアイーレ(Lucua1100)中・・・JR大阪駅(Osaka Station)南側オレンジ・・サウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル)(上階・・ホテル・グランビア大阪)(下の階・・大丸デパート梅田店)参考にグリーンで囲った所・・阪急デパート梅田店と阪急電車梅田駅。薄いブルーで囲った所・・阪神デパート梅田店と阪神電車梅田駅。現在の5代目大阪駅舎大阪駅西側 桜橋口各ホテルの送迎バスの発着所がガード下にあり、右手前の桜橋口前はタクシー乗り場になっている。下の写真は、桜橋口を上から見た所。四つ橋筋からの撮影。大阪駅サウスゲートとなるサウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル)サウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル) 正面旧 アクティ大阪の時は、駅舎としの存在意義に欠けていた。ノースゲートとの連絡通路の接続の為に改修工事が行われ現在は大阪ターミナルビルとして一役かっている。実際サウスゲートビルデイング(大阪ターミナルビル)が大阪駅の顔だしね 現在、新たな駅前地下道の工事中。完成されれば、歩道も広がり、利用のアクセスももっと良くなるはず。真っ直ぐ進めば大丸デパートの間を通り段差を経て、中央コンコースに。エスカレーターで2フロア上がると、先ほど紹介した3階の連橋口に出る。左が大阪駅グランビア大阪。中には大丸デパート梅田店が・・。正面のビルが阪急デパート梅田店。写真右の建物が阪神デパート梅田店。ここはデパートのトライアングル地点ですね因みにこの道路の地下には阪神電車の梅田駅がある。今度は反対に御堂筋の歩道橋の上から南側駅前通りを撮影。御堂筋の歩道橋の上から大阪駅東側。バス停車場とピンクの↓下が御堂筋口。参考までに、飛行場までのリムジンバス乗り場の地図を乗せました。地下道だけではどれも行けず(雨の時は困る)、いずれも不便です。初代の大阪駅(梅田ステンショ)と初代駅舎不思議に思っていた事がある。都会の一等地なのに、貨物車の駅があったり、操車場があったり近年まで大きな開発がされないできた事に・・。理由はそればかりではないかもしれないが、前々回「大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)」の中で書いたよう、かつて梅田墓所や火葬場があった場所に大阪駅はできたからのようだ。リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)古い記録には、「摂津国西成郡第三区七番組曾根崎村、通称梅田千日の墓所を取り払い停車場を建つ」と記されているそうだ。当初、大阪駅は堂島に建設する予定だったらしい。しかし土地の買収を終えた後も「火の粉で人家が火事になる。」と、反対運動が再燃。そんな事から人家を遠く離れた梅田三昧(さんまい)墓地(通称 梅田千日墓所)に決まったらしい。※ 場所の移動にともない、路線も堂島から本庄・中津経由の吹田であったのが、本庄から吹田に変更。かくして初代の大阪駅は西成郡曾根崎村字旧天童(旧大阪中央郵便局の西裏)に変更された。当時の梅田は泥田の中に葦が生える荒れ地。そしてそにあるのは墓地と火葬場くらい。土地も安い。とは言え、鉄道用地として一反(いったん)(300坪、990平米)45円と高額に買いあげたらしい。※ 坪15銭。だから駅を建設した後も卒塔婆(そとば)が残っていたと言う。※ 資料はルクアのジオラマの所にあった駅史と、中之島図書館で見つけた「旅客輸送の100年(大阪府寄贈)」と、「大阪春秋13号、大阪駅舎物語」から。※ 近年の再開発でもお骨や墓石が出てきているようです。初代駅舎 1874年(明治7年)~1899年(明治32年)※ 写真は、ルクアイーレ(Lucua1100)オフィス入口の展示コーナーより。1874年(明治7年)5月11日。大阪~神戸 間に関西で初めての鉄道が開通。我が国2番目に施設された鉄道だったらしいが、駅舎の建設が間に合わず、ホーム以外は仮の状態でのスタート。※ 日本初は1872年(明治5年)10月、新橋駅~ 横浜駅 間。駅舎は木造に赤煉瓦貼り。二階建て瓦葺きの西洋風。前面に池と植木が植えられ、当事としてはハイカラな駅舎。皆がお弁当を持って見学にきたと言う。「梅田ステンショ」の愛称で親しまれたそうだ。 ステンショ ? Station ?大阪発の神戸間20里(約74.54km)余り、所用時間は1時間10分。※ 1里=約3.927km。1日8往復。車両もレールもイギリス製。高給の外国人技師によって運転されていたらしい。運賃は大阪から神戸までで片道 上等1円。中等70銭。下等40銭。当事米一升が5銭。 ※ 米1升=10合=約1.5kg。1円=100銭。 (Xg:100銭=1.5kg:5銭)上等1円の運賃で米が30kg買えた事になる。つまり高額すぎて乗車できたのは、華族か、金持ち。あるいは居留地の外国人か貿易業者くらい。それでも一生の思い出? 冥途の土産? に乗った年寄りも多かったらしい 1889年(明治22年)7月、東海道本線、新橋~神戸 間が開通。 急行列車で所要17時間。1900年(明治33年)寝台車が連結。2代目駅舎に変わるのは1901年(明治34年)。その話は次回につづく。リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)大阪については以下も書いています。リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)リンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村リンh 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜けリンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎リンク 四天王寺庚申堂鉄道関連のBack number 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク ドクターイエロー(Doctor Yellow)リンク 東海道新幹線開業50周年の日リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車)リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 2 (列車レストランのメニュー)リンク ユーロスター(Eurostar)リンク ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)リンク ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)リンク ブリュッセル中央駅(Brussels Central)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 1 (メトロとプレメトロ)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 2 (プレメトロのトラム)リンク 西武鉄道のレストラン列車「52席の至福」
2017年11月15日
コメント(0)

2015年08月「世界の看板 1 (ミュンヘン・München)」のタイトルで載せた事がありました。それは変わった看板紹介の第一弾だったのですが、以来すっかりご無沙汰してました前回紹介した「大阪ミナミ」の紹介で載せる予定で落ちてしまった分ですが、せっかくなのでカテゴリーを「世界の看板」でくくる事にしました こんな巨大看板が並ぶ街なんて、世界広しと言えど、他に無い光景だと思います。世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)道頓堀通りの巨大看板フグ、カニ、タコ、ギョウザ、おじさんetc中座 と くいだおれ太郎 「くいだおれ」の由来 芝居小屋「中の芝居」(現 中座)市川家の十八番(おはこ)歌舞伎の不動(ふどう)について道頓堀通りの名物「めだってなんぼの巨大看板」が軒を連ねる不思議な世界巨大トラフグ提灯が下がる「つぼらや」はフグ料理専門店1920年(大正9年)創業の老舗。フグはトラフグ。最近は軽量化。元祖のトラフグ提灯は100kg近くあったらしい。戎橋(えびすばし)と道頓堀(どうとんぼり)通りの角にある「かに道楽」本店道頓堀には本店、中店、東店と3軒あるようだ。巨大で、しかも可動式のカニは白地に赤い、日の丸をイメージしたものだそうだ。(現)道頓堀本店がこの道頓堀通りに開店した1962年からあると言う。巨大看板としてはグリコの看板に負けるけれど、立体式の巨大看板としては元祖かも。ところでこのカニの種類は?どうもズワイガニらしい。 種類については明記されていないが「かに道楽」の社史に「1965年かにの安定供給のため、北海道漁場を開拓し、ズワイがにの仕入れに取り組む。 」とあるので、間違いない。巨大海鮮系、近年お目見えした巨大たこ看板。「たこ家道頓堀くくる」は白ハト食品(守口市)経営。会社の創業は1947年(昭和22年)。1970年代からたこ焼きが始まり、1992年(平成4年)に「蛸づくしくくる」から「たこ家道頓堀くくる」に名称変更。たこ焼きの「くくる」の看板であると同時に、ここではコナモンフードテーマパーク「道頓堀コナモンミュージアム」の名物看板でもある。この巨大看板は、中国上海にまで渡って親善大使をしていると言うから驚く。上海万国博覧会の日本産業館の壁面に展示される為にリメークされ、4本脚が可動、目にLEDが入れられ発光。墨に見立てたミストを口から出すなどの仕掛けが施され、船で中国まで渡ったらしい。大阪王将の巨大ギョウザ。これは看板と言うより、巨大食品サンプルですね。道頓堀に出店するのに巨大看板ははずせないアイテムなのでしょうか? 元祖串カツだるまの社長さん曰く「道頓堀は日本のエンターテインメント」らしいですよ。入り口の看板も見逃せない。なんか可愛い最近はこんな怒ったおじさんもいる。こちらは名物店主そのものを看板にした珍しいもの。6mあり、1000万円したらしい。怒ったおじさんが看板になっているのは「元祖串かつだるま」創業は1929年(昭和4年)と割と古い。お店の発祥は「新世界」(通天閣の近く)だそうで、串カツ発祥? とも言われる串カツ激戦地からの出店。モデルは串かつだるまの4代目会長兼社長上山勝也氏。どうも「ソースを二度づけしてはダメだ」と怒っている姿らしい。大阪では串カツ屋のソースはボトルでなく、ステンレスの容器に入れられて提供される事が多い。でもそれは、一人一ケースではなく、みんなで共有。だから食べかけをソースに入れる事が禁止なのである。(衛生上の問題)人の食べかけをつけられたら嫌だからね。たぶんこのシステムは物資が無かった時代のなごり。ボトルのような容器ができた昨今でも、続けられているのは、もはや伝統と化したから? なのか、この方が美味しいから? それともコストパフォーマンス? いずれもそうかも・・。特に串カツのソースはウスターソースと決まっているので、水のように流れるソースはボトルでかけても美味しくないのかも。何はともあれ、この看板は大阪での串カツの食べ方ルール「ソースの二度づけ禁止」をしっかりアピールする物らしい。つまり深読みすれば、メッセージ型の広告看板と言えるのでしょう。因みに、3代目で閉店の危機を赤井英和が救ったらしい。4代目となったのは高校のボクシング部の後輩(現会長兼社長)。この立体看板(フイギュア)のおじさんですね。そもそもおじさんフィギュアのルーツは「難波本店」のオープン時に赤井英和 氏からプレゼントされたものだったらしい。同じおじさんでもこちらは優しいほのぼの系 明治製菓の「カールおじさん」「カール」の発売40周年記念で設置されたものらしい。カールおじさんの横にあるモニター画面には、リアルタイムで向かいを通行する人達が映し出されている。〇時00分。毎時ジャストアワーに帽子が上がってカエルのケロ太くんが登場するそうだ。今度は古くから道頓堀に居着いている年齢不詳のおじさん。くいだおれ太郎 フィギュア看板。中座と くいだおれ太郎チンドン屋らしき姿で太鼓をたたくちょっとやかましい「くいだおれ太郎」の誕生は1949(昭和24)年。道頓堀の飲食店「大阪名物くいだおれ」の看板人形として登場したらしい。どんな店だったかの資料が無いが、コンセプトは家族で来れる飲食店だったらしい。実際、子供の気をひくのが目的の太郎人形だったようだ。しかし、店は2008年(平成20)年に閉店。惜しまれながらの太郎引退であったが、現在の「中座くいだおれビル」のオープン(2009年7月)に合わせ、再び道頓堀に復活している。(元の店ではない。)姿はいわゆるチンドン屋である。若者は聞いた事も見た事も無いだろうが、まれに今でも商店街のイベントなどの時に見かけたりする。(天神橋筋商店街で今年見た気がします。)チンドン屋とは、チンドン太鼓と呼ばれる楽器を鳴らし派手な出(い)で立ちで街を練り歩き人目をひいてお知らせや宣伝をすると言うパフォーマンス広告である。その存在は、明治初期にはすでにあったらしい。因みにくいだおれ太郎の個性的な頭部は、どうも文楽(ぶんらく)人形を意識したものらしい。なぜなら、太郎誕生前に宣伝に使われていたのは文楽人形その物だったらしいから。「くいだおれ」の由来江戸時代から「京は着て果て、大坂は喰て果て、堺は家で果てる」と、言いまわしがあったそうだが、古事ことわざとして「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」がある。要するに京の人は着る物に財産を使い、大阪の人は食べ物に財産を使い道楽すると言う気質を現した言葉。「くいだおれ太郎」の生みの親は大阪人の気質をそのまま太郎人形に与えたのだろう。尚、「三倒れ」と言ってそれらに、「江戸の飲み倒れ」が加わる場合も・・。※ 「江戸の飲み倒れ」は酒代で身上(しんしょう)潰す事ですね。正面からだと見えないが、後ろにはチンドン太鼓らしきものが・・。因みにこの衣装は昭和天皇崩御の時に白黒になり、平成天皇即位の時にバンザイ人形(弟分 くいだおれ次郎)になったらしい。さて、下は道頓堀通りの現在の地図ですが。ピンクで囲ったのが現「くいだおれビル」。現在「中座くいだおれ」のビルのある場所が、江戸時代に芝居小屋「中の芝居」があった場所。※前回「大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)」の中、「道頓堀周辺図(幕末頃)」 に昔の位置がありましたね。芝居小屋「中の芝居」(現 中座)1661年(寛文元年)「中の芝居」落成。名代は塩屋久郎右衛門。それは角の芝居 (現角座) とともに大坂の代表的な歌舞伎小屋であったそうだ。当時5棟あり現在残るのは松竹となった中の芝居(中座)のみ1920年から松竹の経営。1945年には「戦災で焼失。再建後は松竹新喜劇の本拠地となったそうだ。市川家の十八番(おはこ)歌舞伎の不動(ふどう)についてふと思った事が・・。1697年(元禄10年 )、初代團十郎が創出し 、1742年(寛保2年正月)、大坂 佐渡嶋座において二代目市川海老蔵(二代目市川團十郎)が完成させた歌舞伎の「不動」がある。大詰めに役者が不動明王に扮してにらみを効かすと言うもの。二代目市川團十郎が演じた「不動」の舞台 二代目が舞台で演じるお不動さまは、「不動の見得」という表現が有名となり、あまりの人気に「不動の見得」でにらまれると、あらゆる病が治るとまで噂されたと言う。それが故、江戸中に不動尊信仰を広めて行ったらしい。 前回紹介した法善寺の水掛不動であるが、その水掛の不動明王ブームは、もしかしたら市川家の歌舞伎「不動」に由来するのではないか? 芝居小屋「中の芝居」(現 中座)のすぐ南側に法善寺があるのだ。ところで市川家の菩提寺は成田山新勝寺である。もちろんその御本尊は不動明王である。さて、ラストにグリコの看板を載せておきます。下は戎橋(えびすばし)からの撮影。もちろん道頓堀のグリコ看板(道頓堀グリコサイン)です。江崎グリコが設置。2014年10月LEDを採用された6代目グリコ看板に。約14万個のLEDを使用し、映像が流れるのが特徴。因みに初代は(1922年~1927年)。戦前である。顔が怖いと言う事から2代目(1928年~1944年)に変わる。下は道頓堀通りにある撮影スポットです。実際のオリンピック選手のゴールの姿が参考になっているらしい。ランナーのゴルインマークは元気の象徴らしいですが、どう見てもおじさん。今更だけれど、もう少し若くできなかったのかな?もっとも子供の頃はおまけしか見ていない。箱なんか見てなかった気がする。道頓堀の看板とりあえず終わります。まだ他にも巨大なのあるんですけどね。
2017年11月07日
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1