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大阪関連のリンク先を最後に追加しました。大阪の街は東京よりも解り安い。もちろん規模が違うが・・。例えば都内中心を走る山手線の一周は距離34.5km。所要時間約64分。一方、大阪環状線の一周は距離21.7km。所要時間約40分。※ 大阪環状線の場合、山手線のように、全線がぐるぐる回っている訳ではない。同じラインに大和路快速や、関空行きなども合間に走っているので確認して乗らないと一周どころか、通過する駅もある。大阪の街は、割とまとまってできている。それは遡れば豊臣秀吉の町割りのおかげでもある。町人、商人、仕事場。遊び場などが江戸時代前後に完成されていて、明治になってもそれが引き継がれて残っている所が多いからだ。逆に良くない方角の場合、近年まで人があまり入らず、開発の遅れた所も残っていたが・・。そんなわけで、町に地域の特性が出ているから例えば「どこに行きたいか? 」「何をしたいか?」 と聞いて答えやすいのかもしれない。※ 東京の場合、産業別カラーが残った土地もあるが江戸城下の面影はほぼ無い。広さの事で加えて言うと東京の場合、山手線沿線に民家は少ない。何しろ都心は地価が高すぎて庶民には住めないからだ。もちろん東京でも都心部に住んでいる人はいる、下町も残っているし江戸っ子(3代以上続く)もいる。だが都心部に住んでいる人の絶対数は少なく大抵は東京郊外から1時間以上かけての通勤である。つまり都内で働いている大部分は近県からの通勤組で、案外地方出身者が多いのが現実だ。だからこそ大阪の方が街に人が感じられるのかもしれない。ところで、大阪には「キタ」と「ミナミ」と呼ばれる街が存在する。大阪の人なら当たり前に知っている事だが、部外者には解らない。地図には載っていないからだ。今回は、その「キタ」と「ミナミ」のルーツと共に「ミナミ」を紹介。なんとなく「大阪の成り立ち」に話が寄ってしまったかもしれませんが・・ 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 1 (ミナミと言う街)現在の「キタ」と「ミナミ」「ミナミ」の歴史は船場(せんば)から始まり道頓堀で発展道頓堀(どうとんぼり)と戎橋(えびすばし)心斎橋筋商店街と戎橋筋商店街大阪の街の紹介をする前に、どうしても踏まえて起きたい事がある。今の大阪の街はほとんど埋め立てでできた都市だと言う事を。下は大阪歴史博物館で撮影してきたものです。図に書いてあるよう、弥生時代中期頃とされる大阪湾の復元図です。変遷写真は幾つか段階があるのですが、詳しい事はいずれまた・・。今回押さえて欲しいのは、もともと湾を形成する半島のような所が、大阪市の背骨とも言える上町台地だと言う事だ。下は以前「大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)」の所で一度紹介したリンク 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)国土地理院が出している航空レーザー測量による上町台地のカラー陰影段彩図です。上町台地は濃い茶の部分。黄色は土地が低くなっている所で、緑と薄い青の部分は埋め立て地。上町台地右手の薄い青の部分は「河内湖(かわちこ)と名が付いていますが、太古には大阪湾であり、それが閉じて湖のようになった所です。つまり緑はかつての砂洲。薄い青は海だった所と言うわけです。上町台地左(西側)には自然に砂洲が形成され、街は少しずつ西に広がって行ったようです。上の写真では中程、赤い円をしてあるところが四天王寺の場所です。四天王寺ができた飛鳥の時代には目前に海が迫っていたようです。下は上の航空レーザー測量の写真を一部拡大したもの、残念ながら上が切れているのですが、赤で「KITA」と「MINAMI」と印しました。「MINAMI」の円の中、上の円が心斎橋筋商店街を中心にする区域で、下の黄色の円が戎橋筋商店街を中心にした区域。紫の円は難波(なんば)と呼ばれる区域です。「キタ」と「ミナミ」はもともと江戸時代に区画された大阪の自治組織「大阪三郷(おおさかさんごう)」天満組、北組、南組の名残である。現在の「キタ」と「ミナミ」地図から見れば確かに「北の街」と「南の街」と言う事なのですが・・。「キタ」と「ミナミ」には生活上の仕分けがあるのです。場合に寄っては、「キタ」に行くか「ミナミ」行くかで、その人が何をしに行くのか解る事も・・。細かい事は後にして、現在の「キタ」と「ミナミ」を簡単に説明するなら、やはり鉄道と言う事になるでしょう。「キタ」「キタ」が発展したのぱ1874年(明治7年)の国鉄 大阪駅の開業。つまり「キタ」とは、梅田(うめだ)の事。明治以降に田んぼが埋め立てられ(埋め田→梅田)となり、大阪駅が置かれた事により、大阪駅と呼ばれるようになった。現在は、JR(大阪駅)だけでなく、大阪市営地下鉄、阪急電鉄(梅田駅)、阪神電車(梅田駅)が乗り入れた梅田駅界隈が大阪のキタの中心的エリアです。つまり、「キタ」は、京都や神戸など東海道、山陰、山陽方面への玄関として発展している。デパートは阪急梅田、阪神梅田、大丸梅田※ 三越・伊勢丹は撤収。「ミナミ」「ミナミ」の開発は秀吉の時代に始まった。江戸時代には幕府の直轄地となり、埋め立てと町の整備が進められた事により発展した。場所は心斎橋以南、難波駅あたりまで。つまり、心斎橋筋(しんさいばしすじ)商店街と戎橋筋(えびすばしすじ)商店街を中心にする界隈である。鉄道は、JR(難波駅)、大阪市営地下鉄、南海電鉄(難波駅)、近鉄と阪神(大阪難波駅 共用)が乗り入れ。JR難波駅は奈良や和歌山、名古屋、亀山方面南海は和歌山・関西国際空港・高野山・泉北ニュータウン、方面近鉄は奈良、京都、伊勢、志摩、方面。阪神は尼崎、甲子園、三宮、方面。総じて、ミナミは奈良や和歌山方面への玄関。(紀伊半島経由の伊勢志摩、名古屋ルートでもある。)因みに阪堺鉄道(南海鉄道)の難波駅創業は1885年(明治18年)。難波~大和川間(7.6km)を小型SLJR難波(なんば)駅は当時は湊町(みなとまち)駅。1889年(明治22年)の創業。鉄道では「キタ」より遅れたがデパートは早かった。大丸心斎橋 店(当時 松屋)1726年 (享保11年)大阪高島屋 店 1919年(大正8年)※ 大丸、心斎橋店は、八代将軍 徳川吉宗の時代にはもう創業していた。なんばパークスからの南海難波駅とビル難波パークスは市内最大級のシネコン等が集まる複合商業施設。南海難波駅の南に位置する。ここは、かつて南海フォークスの球場があった場所。これで「ミナミ」の領域は確実に広がったかも・・。下は大阪高島屋と南海難波駅のビル大阪高島屋 店は1919年(大正8年)の創業。現在の場所には1932年(昭和7年)から。ちょうど「戎橋筋商店街」南の入口の向かいになる。「ミナミ」の歴史は船場(せんば)から始まり道頓堀で発展かつては「キタ」も「ミナミ」、どちらも海の中だった場所。「ミナミ」の発展と言うよりも、大阪自体が発展したのは豊臣秀吉が大阪に都を置いた事に始まる。遡れば飛鳥の時代から大阪は物流の拠点ではあったが、平安以降は地味に・・。秀吉のおかげで大阪に活気が戻り、大阪の街は商人の街として大発展する。特に秀吉による大阪城建設とそれに伴う大阪城下の区画整理(町割)は、大阪の経済発展に大いに寄与する所となった。1598(慶長3年)の図 大阪城に三の丸が建設される事になり城の惣構(そうがまえ)は拡張。下の図は大阪歴史博物館から1598(慶長3年)は秀吉が亡くなった年。亡くなる直前の指示だ。同じく1598(慶長3年)に東横堀川 以西に船場(せんば)が造られた。※ 寺は寺町通りに集められている。大阪城のベースは石山本願寺(大阪本願寺)である。寺なのに濠や土居で囲まれ防備だけでなく、立地にもすぐれた場所。秀吉はすでにあった堀の外に外堀を造り城の惣構(そうがまえ)を拡張。それが町の再編に繋がる。その三の丸の建設で堀の内となった者たちは強制退去。商人や職人らは船場(せんば)に移動。船場(せんば)はあらゆる職種の者があつまる商人の街として発展する事になった。下の図も同じく大阪歴史博物館から時代がさらに下がるが17世紀末の船場の職業分布図だ。上の図では、船場(せんば)の西にさらに西船場が拡張。道頓堀もできていて、心斎橋筋商店街も、そろそろ現れてくる頃。ついでに戎橋筋から難波駅までピンクで印つけました。※ かつては島之内、全体が「ミナミ」とされていたらしい。新町の遊郭は黄色の円あたり。 1627年、吉原遊郭 誕生の後に、大阪の遊郭として沼地を埋め立てて新町を造り、遊郭を一箇所にまとめ「新町遊郭」が完成。江戸幕府公認の遊郭だった。船場(せんば)は堀と河に巡らされた物流の拠点であり、大阪の産業の中心地となった。鍛冶屋、鋳物屋、針金屋、銅細工、皮細工、足袋屋、綿帽子屋etcそこそこ広い地域であるが、不思議と、同業者同士が寄り集まっていたらしい。江戸との物流が始まると、両替商も現れる。江戸は金。大阪は銀を通貨に使用したらしく、両替の必要があったらしい。大きな両替商は大名の年貢も取り扱っていたらしいし・・。北浜にある大阪証券取引所は船場の北の浜から付いた地名だ。道頓堀(どうとんぼり)と戎橋(えびすばし)そんな時に船場の商人であった安井道頓(やすいどうとん)(1533年~1615年)が城南の開発の為に私財をなげうって1612年(慶長17年)川を開削。堀の掘削を始めた。残念ながら安井道頓は豊臣方に付き、大阪夏の陣で巻きこまれて戦死。道頓堀(どうとんぼり)の完成は1615年。だから道頓堀(どうとんぼり)の名は安井道頓の名に由来する。グリコの看板と、阪神タイガース優勝の時の川ダイブでお馴染みの道頓堀。こんな写真しかありませんでしたが・・上は先月の写真です。下の写真は2011年7月の道頓堀 東方面。ほぼ店舗は代わっていません。ドンキホーテの観覧車、今もそのままあります。2017年中に観覧車が再会するとのウワサが・・。ところで、「ミナミ」には現在、南北に続く大きなショッピングアーケードが二つ存在している。それが心斎橋筋商店街と戎橋筋商店街である。それらは道頓堀の戎橋(えびすばし)をはさんで以北と以南で分けられている。下は戎橋筋商店街を出た所からの北方面の写真。(夜)つまりゴチヤゴチャ人がいる所が道頓堀の戎橋(えびすばし)の上。写真奧に心斎橋筋商店街のアーケードが見える。心斎橋筋商店街(戎橋)入口ウィキペディアによれば、戎橋は1日平均20万人が通行しているらしい。前と比べて明らかに人が増えた。今や意識して覗き込まない限り戎橋(えびすばし)の上から道頓堀は見え無い。外国人の観光客が増えて驚いたが、さらに驚いたのは、外国人(おじさん)の、おもらいさんが橋の上に座っていた事だ。心斎橋筋商店街と戎橋筋商店街先に紹介したように、心斎橋筋(しんさいばしすじ)商店街と戎橋筋(えびすばしすじ)商店街は、戎橋(えびすばし)を間に挟んで続いているアーケード商店街である。両者は、道頓堀川をはさんで「ミナミ」を南北に縦断する商店街であり、ある意味「ミナミ」の大動脈とも言える。(北側)心斎橋筋商店街・・南北に約580m。北は長堀通の南から、南は道頓堀川、戎橋手前、宗右衛門町通りまでの区間。(中)道頓堀 戎橋(南側)戎橋筋商店街・・南北に約370m。北は道頓堀川、戎橋から南は千日前通りで一度切れて難波駅(高島屋大阪店)の前までの区間。江戸時代の(北側)心斎橋筋は、ぬり物屋、書物屋、古道具屋、経師に琴三味線ひき、飾り職、etc。諸々の商売は少しハイソなラインナップ。船場の下に位置していた事で船場のダンナさん達が買い物や遊びに来る場所として栄えたらしいから・・。そして明治時代には、舶来品を扱う店や、時計屋、呉服屋なども増え、大正・昭和の時代には、呉服屋はデパートに変貌して行く。だから創業100年を越える老舗もザラにあったらしい。※ 飾り職or錺り職・・・金属製のかんざし・帯留め・指輪など金具の細工をする職業。また、その職人。飾り師。飾り屋一方、江戸時代の(南側)戎橋筋の方はちょっと違う。幕府の都市計画で道頓堀の南側に大坂中の芝居小屋が集められ、47軒の水茶屋が許可されて長らく日本の芝居の本場として栄えた。そして芝居に大勢の人が集まってくると、食べ物屋も自然に繁盛。現在、芝居小屋は戎橋近くの松竹座だけしか残っていないらしいが、飲食店は道頓堀通りの北側にさまざまなジャンルの店が、目立つ看板を上げて軒(のき)を連ねている。江戸で例えると昔の心斎橋筋は日本橋。戎橋筋は浅草のような町だったのかも。下は先ほど紹介した大阪高島屋の前からの撮影 戎橋筋商店街 南の入口大阪は屋根付きのアーケード商店街が多い。雨が降っても気にせず買い物できるのは嬉しい。入ってわりとすぐにアイスキャンディーでお馴染み「北極」なんば本店 1945年(昭和20年)創業。終戦直後の大阪なんば・戎橋の本店辺りは食べる物を販売できるお店がほとんど無かったそうだ。せめて女性や子供に冷たいアイスを・・。と言う事で創業したお店らしい。子供の頃に「北極」のアイスキャンディーを食べた人達がファンなのだから人気は凄いらしい。残念ながら東京出身の私は知らなかった。最近社長をテレビで見たから知識はあったが・・。551蓬莱(ほうらい)の本店も、この戎橋筋商店街。「北極」と同じ1945年(昭和20年)創業。「551蓬莱(ほうらい)」と言う変わったネーミングの由来は創業当時の店の電話番号からきているそうだ。ついでに551「ここがいちばん」とダジャレも付けて。551蓬莱(ほうらい)の「豚まん」人気度は、関東で言う崎陽軒(きようけん)のシュウマイに匹敵する。崎陽軒(きようけん)の「シュウマイ」を愛する人は、きっと大阪人の「豚まん」愛も解るだろう。基本は各店で手包みによる作りたてのものが販売されていて、空港や大阪駅などではチルドも販売。今や大阪名物のお土産として利用する人も増えている。実際、関東の私が食べても絶品である。中身に食べごたえがあるし、ジューシーなのだ。こちらは「蓬莱(ほうらい)」は実は「551蓬莱(ほうらい)」とは今は経営が異なる。創業当初は一緒にやっていた店らしい。てっきり隣合わせだから一緒の店と思っていたが・・。.ところで、関東では「豚まん」とは言わない。「肉まん」と呼ぶのが普通。初めて聞いた時は、「豚まん」と呼ぶのに抵抗を感じたものだ。.戎橋筋商店街のアーケードは千日前通りで一端切れている。写真の右手、1ブロック先が、元、「千日前デパート」があった場所。「千日前」とは、実は法善寺の事なのだ。詳しくは次回紹介するが、現在の法善寺は次のアーケードの右手の方になる。そんなわけで次回、法善寺横丁です。「大阪七墓と七墓めぐり」についても書いています。リンク 大阪ミナミ 戎橋界隈と法善寺横丁 2 (千日墓所と法善寺&大坂七墓)他リンク 世界の看板 2 大坂ミナミ(道頓堀通りの巨大看板)リンク 大坂の陣 古戦場 1 茶臼山と真田幸村リンク 大坂の陣 古戦場 2 安居神社(真田氏終焉の地)リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話リンク 大阪 天満宮の天神祭り 1 (天満宮の始まり)リンク 大阪 天満宮の天神祭り 2 (船渡御と鉾流神事のルーツ)リンク 2015大阪 天神祭 天四獅子傘踊り巡行リンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎リンク 2017年4月 大阪城公園 大手口と西の丸の桜
2017年10月23日
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秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の寧々(ねね)様が亡き夫、秀吉の為に京都東山に建立したのが次に紹介する高台寺(こうだいじ)です。そして寧々様が晩年を過ごした圓徳院(えんとくいん)を続けて紹介予定です。清水寺の隣近所といった位置関係(清水寺と八坂神社の間)にあり、前々回から紹介していた清水坂から産寧坂、二年坂と辿ると調度 高台寺の南の裏口? にアクセスできるのです。産寧坂はともかく、二年坂や一念坂は「どこからどこ?」 と言うのが案外うやむやです。(地図でもはっきりされていない事が多い。)そんなわけで寺に行く前にやはり軽く二年坂も紹介しておく事にしました。2016年京都 5 (二年坂)二年坂の由来重要伝統的建造物群保存地区オレンジ・・・産寧坂紫・・・・・・・・二年坂黄・・・・・・・・一念坂緑・・・・・・・・ねねの道産寧坂から二年坂の入り口は、山椒ちりめんの「いづみ屋」の横です。前から通っていたけど、改めてここからが「二年坂」なんだ・・と、知りましたまだこのあたりは山の中腹です。比較的なだらかですが、階段が多い箇所が所々。ベビーカーやキャリーはちょっと駄目です。時代劇のセットにもなりそうな古い家々がほぼ土産屋か飲食店に変わっていました。3~4年前の二年坂はそんなに店はなかった気が・・・。外国人の増加に比例してこの1~2年で増えたのかも・・。二年坂の由来そもそも二年坂も産寧坂も清水寺への参拝ルートとして造られた道だそうです。前回の産寧坂のところで、俗称、三年坂について安産祈願の産寧説以外に、大同3年(808年)に道ができたからと言う説がある。と紹介しましたが・・。二年坂についても、大同2年(807年)に道ができたからと言う説があるようです。しかし、同じ寺への参拝ルートだったら全部ひっくるめて同じ年になりそうなもの。敢えて分けて呼ぶ意味が解せない・・と言う観点から産寧坂の手前なので二寧坂と通り名がつき、二年坂になったのでは? と言う説のが正しそうな気がします。因みに、その二年坂の手前には一念坂が控えています。こちらは一年に引っかけた一念のようで、実は平成2年(1992年)に整備された新参の道だったようです。ところで、この界隈はの寧々(ねね)様が77歳で没すまでの19年間を過ごされた場所です。東山地区との因縁は定かではありませんが、もともと豊国神社など秀吉が生前力を入れて寺院など建立していた場所故の縁があったのかもしれません。一説には寧々様が子宝を求めて泰産寺(たいさんじ)の観音様(子安の塔)に参拝したなどとの説から産寧坂(さんねいざか)の寧(ねい)の文字が寧々(ねね)に由来するとも・・。私も最初に文字を見た時は寧々様由来かと・・。二年坂降り口方面を振り返った所。重要伝統的建造物群保存地区産寧坂や二年坂の石畳や風情ある街並は、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。市町村が選定した伝統的建造物群保存地区で特に価値が高いと国が判断した場合、国の文化財保護法の対象に指定。(文化財保護法第144条)産寧坂は由緒ある社寺建造物の他、江戸末期から大正時代にかけての伝統的京町屋郡を一体とした歴史的な集落、町並みの保存を図る事が目的で、京都市より1976年「産寧坂伝統的建造物群保存地区」に指定されている。それが国にも認められて1976年9月4日、「門前町」として文部科学大臣より重要伝統的建造物群保存地区指定されたと言うわけだ。因みに、京都市には国指定の重要伝統的建造物群保存地区が4箇所もある。二年坂の路地高台寺のカフェの前から二年坂方面を撮影↑ ・・二年坂(産寧坂方面) → ・・一念坂 入り口一念坂 入り口?石柱が一念坂の標識になっていたが、よく憶えていない。二年坂の終点は京都霊山護国神社の入り口手前鳥井の向こうは「維新の道」らしい。高台寺は写真左手から敷地。今回は触れませんが、京都霊山護国神社、(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)は明治天皇の勅令により維新を目前にして倒れた志士たちの御霊を奉祀する為に建立された神社です。※ 国家のために殉難した英霊を奉祀する招魂社(しょうこんしゃ)で、靖国神社より古いらしい。そんな訳でこのあたり別の意味で人気があるようです。幕末維新ミュージアムがあったり、もちろん霊山護国神社には坂本龍馬や高杉晋作らの墓もあるらしい。高台寺カフェ前からの八坂の塔いつも素通りしていた所ですが、もっとこの界隈ゆっくり散策してみたいものです。撮影場所はちょうど高台寺の敷地で、最近カフェができたようです。そのカフェは日本人よりもむしろ外国の方が多くちょっと穴場的な場所。京野菜のカレーや天ぷらうどんが外国の方に人気? 自分はパニーニがとても美味しかったです 次回高台寺です リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)back numberリンク 2016年京都 1 (五条通りから茶わん坂)リンク 2016年京都 2 (清水寺 1)リンク 2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)リンク 2016年京都 4 (産寧坂・さんねいざか)2016年京都 5 (二年坂)
2016年12月15日
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リンク先のせました。さて、清水寺は一応終了したのですが、産寧坂(さんねいざか)の紹介の為に清水寺 塔頭(たっちゅう)、泰産寺(たいさんじ)子安の塔(こやすのとう)の紹介が必要になりました。泰産寺の子安の塔は産寧坂(さんねいざか)(俗称 三年坂)の名前の由来になったと考えられているからです。※ 産寧坂(さんねいざか)は清水寺参詣で、行きか帰りに一度は辿るであろう実に京都らしい小道です。2016年京都 4 (産寧坂・さんねいざか)泰産寺(たいさんじ)、子安の塔(こやすのとう)泰産寺(たいさんじ)と産寧坂(さんねいざか)洛陽三十三所観音巡礼産寧坂(さんねいざか)とは言え、近年修復中で立ち入り禁止。写真がなかったので清水寺の冊子から写真を借りました。泰産寺(たいさんじ)、子安の塔(こやすのとう)高さ15m 江戸初期(1631~1633年)に再建。(明治末期に移築)清水寺塔頭(たっちゅう)、泰産寺(たいさんじ)は洛陽三十三所観音巡礼の第14番札所になっている。※ 子安の塔内部には元は十一面千手千眼観音菩薩(子安観音)が安置されていたらしいが現在の観音の保管場所は不明。寺の創建には、聖武天皇と光明皇后が御子の誕生を祈願し、かつ、安産できたから・・との伝説がある。(もしそうであるなら創建は清水寺創建より前 8世紀前半になるが・・。)それ故、子宝と安産祈願の寺となり、三重の塔である子安の塔は、現在は奧の院より先の山に移設されているが、元は清水寺、仁王門の向かって右手前に建立されていたらしい。(明治末期に山の中に移築)ところで、創建の天皇から見れば、清水寺より泰産寺の方が先に存在していた事になる。第45代天皇 聖武天皇(しょうむてんのう)(701年~756年) ・・・泰産寺建立?第50代天皇 桓武天皇(かんむてんのう)(737年~806年) ・・・部下が建立。清水寺を勅願寺に日本の観音信仰は、飛鳥時代に伝来したと言うので不思議な話ではないが、もしそうなら、泰産寺は400年以上どころか、1300年と言う歴史になる。もっとも最初から本当に安産の寺かは定かでないが・・ 参考写真は2011年7月のもの写真右のピンクの矢印あたりに立っていたのでは? と推定。なぜならそこの右脇の階段の名が泰産坂(たいさんざか)になっているから・・。泰産寺(たいさんじ)と産寧坂(さんねいざか) ※まとめ直ししましたところで、この泰産寺(たいさんじ)の子安の塔(こやすのとう)は産寧坂(さんねいざか)の名前のルーツと考えられている。産寧(さんねい)と言う言葉はその文字通り「安らかに産む」と言う意味で安産をあらわしている事。子宝祈願と安産を願う者たちの泰産寺(たいさんじ)の観音様への願掛けルートとして一目置かれた通りとして命名された? ・・と言うのが有力な説である。(観音様は子安の塔の内部に祀られていた)つまり、泰産寺の観音様に子宝と安産祈願に詣でる時、同時にこの産寧坂(さんねいざか)を通る事で、より安産祈願が重なる・・・と言う伝説の信仰だ。産寧坂(さんねいざか)の名前は1658年「京童」や1659年「洛陽名所集」にも登場している。つまり400年前に 民間信仰の一つとして産寧坂(さんねいざか)の参詣ルートがすでにあった事は解っている。が、ひょっとしたら?泰産寺の観音様に子宝と安産祈願に詣でると言う信仰は1300年前の聖武天皇以来からあった可能生もあるのかもしれない。(三年坂説)三年坂?単に「さんねい」を聞き間違えたのか? とも思えるが・・。俗称、三年坂については、大同3年に道ができたからと言う説がある。大同年間は806年~810年までの期間。桓武天皇(かんむてんのう)(737年~806年)以降の御代と言う事になるからだ。この産寧坂(さんねいざか)は趣があり八坂神社に向かう経路としても、観光コースとしても非常に人気の小道となっている。(写真は後半に)清水寺境内図 下の 星の14が昔の子安の塔の場所。洛陽三十三所観音巡礼清水寺の本堂が 十六番札所であると言う話は「清水寺1」で紹介したが、西国とは、近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場である。それとは別に京都の中で洛陽三十三所観音巡礼と言うのがあり、清水寺だけで5箇所(10~14番)の札所(ふだしょ)が存在する。※ 洛陽(らくよう)は京都の異称上の地図10~14番札所の場所10番札所・・・清水寺善光寺堂(旧地蔵院) 如意輪観音(鎌倉末期)11番札所・・・清水寺奥の院 三面千手観音座像12番札所・・・清水寺本堂 十一面千手千眼観音13番札所・・・清水寺朝倉堂 清水型十一面千手観音14番札所・・・清水寺泰産寺 千手観音(子安観音)※ 西国三十三観音霊場については、「京都 醍醐寺の桜 3 (弁天堂)」や「西国三十三所 観音霊場 八番札所 長谷寺」で触れています。仁王門からの清水坂方面(清水寺山門の前の風景)清水坂はいつもすごい賑わいです。昔と変わらない店もありますが、修学旅行生を意識した所は変わらず。さらに今は外国人を意識した和小物の店など増えてました。八つ橋の試食に外国の方がとびついていたのが印象的です。産寧坂(さんねいざか)赤い円・・清水寺 青い星塗りつぶし・・かつての子安の塔の位置薄いブルーの通り・・清水坂イエローの通り・・・産寧坂(さんねいざか)ピンクの通り・・・二年坂清水坂を下ると途中 五条坂と産寧坂(さんねいざか)とに別れる。石の標識には「ぎおんまる山方面」と書かれている。下は分岐点にある七味家本舗。目印になる。七味家本舗明暦年間(1655年~1659年)に、河内屋の屋号で清水寺参りの人向けのお茶屋としてスタートしたと言う。「からし湯」がルーツで七味唐がらしを商う店になったらしい。山椒がけっこうきいたブレンドになっていたような気がします。産寧坂(さんねいざか)入り口今回は帰りルートで紹介していますが、安産の参詣なら往復このルートを歩く方が良いのかも・・。イメージしてきた京都らしさを最も感じる・・と以前連れてきた姪と甥が言ってたのですが、実際外国の方も清水坂よりこちらの方が風情を感じる事でしょう。振り返った所こちらも振り返った写真なのであるが、クロネコトラックの左横が清水三年坂美術館である。清水三年坂美術館は幕末、明治の七宝、金工、蒔絵、彫刻、薩摩焼などを常設展示する工芸美術館です。ほとんどが国外に流出していた幕末、明治の美術品の名品を館長である村田理如 氏が海外より集めてコレクションしたものが目玉となっています。実は今回はこの美術館に行くのが一つの目的でもあったのですが、その素晴らしさに本当に驚きました。象牙の彫刻など本当に細密でリアルで、想像を超える技術です。平和だった江戸と言う時代がはぐくんだ職人技術は、明治に最高潮に達したようです。しかし、皮肉にも日本人は文明開化で西洋物に現(うつつ)を抜かし、国内の高い職人技術を見落としていたようです。結局市場に出たものは全て外国人に買われてしまった為に国内には逆にヒドイものしか残らず、幕末、明治自体の評価自体が下がると言う悲劇になったようです。美術館は広くはありませんが、もし産寧坂(さんねいざか)を通る事があったら一度寄ってその技巧を見ておくのもいいかもしれません。産寧坂(さんねいざか)は上の写真左方面に続くのですが、たいていの人達はここから二年坂に入り、八坂神社の方面に抜けて行きます。※ 二年坂は上の写真右の山椒ちりめん屋さんの手前脇の道を下る階段から始まっています。下の写真は二年坂の入り口です。左に山椒ちりめん屋さん。何気ない路地だが、人が多く往来するので解ると思う。小さいながら看板はあるし・・。本当は一気に紹介したかったのですが、盛りだくさんになり長くなったので二年坂は次回に。それから高台寺に入る予定です。高台寺、昨晩BSで放送されていました。テレビだと撮影できない所まで見せるからいいなーと思ってしまった リンク 2016年京都 5 (二年坂)
2016年11月30日
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今年は驚くべき事件が2つも起きた。2016年6月23日、英国のEU離脱の是非を問う国民投票の日。Brexit(ブレグジット)2016年11月8日、アメリカ大統領選挙の日。Amexit(アメグジット)共に大方の予想を裏切った驚くべき結果に終わった。同時にそれらは世界を驚愕させた事件となり共に株式も当事国の為替も結果直後には大暴落し世界経済に影響を与えた。今回はトランプ氏が就任する2017年1月20日までは様子見があるかも知れないが、その後何が起きるか解らないのでどこの国も戦々恐々となっている事だろう。Brexit(ブレグジット)とAmexit(アメグジット)は共にそれらを揶揄(やゆ)した造語である。Brexit(ブレグジット)は「Britain」と「Exit」を合わせた造語。英国のEU離脱を意味する。英国のEU離脱による欧州経済への影響が心配される事件であった。これについては英国民は結果に驚き 後悔(Regret)した事からBregret(ブレグレット)と言う造語も出た。Amexit(アメグジット)はBrexit(ブレグジット)にひっかけた語で「America」と「Exit」を合わせ造語である。「America」と「Exit」は完全なるこじつけであるが、民主党候補のヒラリー・クリントン女史に対して共和党候補のドナルド・ジョン・トランプ氏は今までのアメリカの政治を否定し、破壊する過激発言で世間を驚かせた。従来のアメリカからの離脱? と言うような意味あいに寄せているのかもしれない。それにしても今回のAmexit(アメグジット)が実現した事には本当に驚いた。人種差別を前面に打ち出すドナルド・ジョン・トランプ氏が人種のるつぼであるアメリカであんなに支持されるとはとうてい信じがたかったからだ。どんな人種をも受け入れる偉大なアメリカは嘘だった?たとえ彼らが「変革を望んでトランプ氏を選んだ」と言ったとしても、アメリカ人の本音に白人優位の差別主義がやっぱりあるのか・・と思わずにいられない。彼はKKK団を思い起こさせる。南北戦争終結後に結成された米白人至上主義団体「クー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan) (KKK)」の事である。黒人を憎む(今はユダヤ人、アジア人やヒスパニック系も含まれるのか?)過激な秘密結社である。今風に言えば人種差別の暴力を起こす危険なテロリストだ。しかも現在も存在し今回の選挙でトランプ氏を支持したらしい トランプ氏は勝利宣言で「アメリカは再び手を取り合おう」と言ったが彼が国民の闇を引き出し裂いたのだ。アメリカ分裂の修復が彼にできるのか疑問だ。さて、今回は京都を紹介。先週行ってきました 2016年京都 1 (五条通りから茶わん坂)Brexit(ブレグジット)とAmexit(アメグジット)五条通り茶わん坂清水焼きの発祥京阪電車の清水五条駅から五条通りを上り、茶わん坂を登って清水寺を参詣し、清水坂から途中産寧坂(さんねいざか)、二年坂を通り高台寺を参詣。そして寧々様の圓徳院(えんとくいん)までがルートです。イエローのラインが茶わん坂。右の濃いピンクの円が清水寺左の藤色が高台寺五条通り上の地図ブルーのラインが五条通りであり、国道一号腺です。陶板でできた路地案内の地図が五条通りに並ぶ。ヒビなのか? 貫入なのか? ところどころ割れていたりするがオシャレではある。こんな案内版の他にも、四ヶ国(日本語、英語、中国語、韓国語)対応の地図が目に付くようになった。ところで五条通りは陶器屋さんがけっこう多い。それもそのはず、実は五条坂から茶わん坂界隈は清水焼きの窯元が多かったからだ。上の陶板の案内もアピールの一つなのだろう。景観条例と言うのがあるが、京都は特に厳しいガイドラインがあるらしい。京都らしい家ですね。景観条例と言っても、隣のようなマンションなどあるので見た目はがだがたです。むしろこの中途半端が京都か?さすがに派手なネオンとか看板は条例で厳しく規定されているようです。屋根の上の祠の様な物は室外機を囲った物。商品の展示も昔方式? 奧の中庭が見える所が風情。屋根には焼きものの守り神? 土瓶を持っている。彼は迦具土神(かぐつちのかみ)か?火難除けの神のみならず、鍛冶や陶器(焼物)の神様として信仰されている。五条通りから東大路通り少し手前に若宮八幡宮がある。別名は陶器神社。写真左の柱には「清水焼発祥の地」と書かれている。創建は9世紀頃とされる鎌倉時代から武家尊崇の大社だったらしい。それが清水焼き発祥の地になったのは近年の事。1949年、相殿に陶祖神 椎根津彦命(しいねつひこのみこと)の合祀された事による。・・と看板に書かれていたが、なぜ椎根津彦命(しいねつひこのみこと)が陶祖神なのか? が、今一つ解らないもしかすると屋根の神様は迦具土神(かぐつちのかみ)でなくて椎根津彦命(しいねつひこのみこと)か?毎年8月7日~10日には清水焼き発祥の地として? 若宮八幡宮大祭、陶器神社大祭(陶器まつり)が催されるそうだ。茶わん坂五条通りの突き当たりに大谷本廟があり、その左の脇道が五条坂である。五条坂は清水坂に伸びているが、途中茶わん坂とに別れる。標識には清水寺への近道と記されていた。近い方がいいか・・と茶わん坂を登ったが、正解だった。清水坂は清水寺の正面にまっすぐ向かう道で、観光化されすぎている。一方茶わん坂の方は、かつての窯元があった場所だけに陶器の店が多く穏やかであった。途中から着物の女性が目立つようになった。なぜなら、この通りは陶器屋だけでなく、レンタル着物屋も案外多いのだ。今回は本当に着物を着ている人が多いのに驚いた。こうしたレンタル屋さんのおかげであるが、驚くのは着ているのが日本人ばかりではない・・と言う事だ。観光で来た外国人の方がペアで着ていたりする。男性の着物姿は、ほぼ外国の方であった。清水焼きの発祥五条坂から茶わん坂のどこか(五条坂建仁寺町)に清水焼きの祖とも言われる清水六兵衛(きよみずろくべえ)(1738年~1799年)の釜があったとされる。彼は江戸中期の陶工で、金、赤、青を彩した陶器を作り、これに清水焼きの名を冠したのが始まり・・と、茶わん坂の看板には書かれていた。が、説はもう一つある。陶工の焼き窯 自体はどうも室町時代中期からあったようだ。どこから清水焼き・・と呼ぶのかが問題だ。洗練された美しい清水焼きの発祥は、確かに江戸時代中期のようだが・・・。リーズナブルから高級路線の店まである。考えるに、地形から登り窯だったんだろうな・・と思う。買い物しているのは日本人より外国の方外国の方を当て込んだ商品が増えたと思う。昔はなぜかキティとかのキャラ物と八つ橋が多かったのに・・。外国人が増えて京都の土産も洗練されたのかも。扇子もそうだが、明らかに着物の柄もカジュアルになって受け入れやすくなったかもしれない。人力車が本当に増えたと思う。以前は嵐山くらいしか見なかった気がする。今回は寺の中で観光案内までしている人力車のお兄さんもいた。笑えるのは、女性3人連れを、僕ガンバッテてひきますから・・と口説いていた事だ。ガンバッテひくのはいいけど3人も乗れるのか? と思う。しかし、確かに着物きて歩いている女性を見ると、たいてい3人連れなのである。不思議3人乗れる人力車、確かに必要かもね。京都・・つづく
2016年11月12日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)ミュンヒナー・キンドル(Munchner Kindl)通過税の徴収と商業都市ミュンヘン誕生カールス門とノイハウザー(Neuhauser)通り改めてミュンヘンの起源から・・。2015年2月「ザルツブルグ(Salzburg) 1 (塩で繁栄した都)~4 (ザンクト・ペーター修道院)」の所で、ザルツブルグが修道院と塩により繁栄した街である事を紹介していますが、ミュンヘン(München)もまた修道院と塩により繁栄した街なのです。ミュンヘンはムニヘン(修道士達の家)から由来した地名であり、最初にきっかけとなったベネデイクト会派の修道院の門前町として栄えた街です。以前「ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)」では、古代ローマが滅びた民族大移動の事と、その後のカール大帝の欧州遠征の事を紹介しました。異民族(ゲルマン民族)の流入で荒れたフランク王国の再編の為に尽力したカール大帝(742年~814年)の活躍はかつてのフランク王国をかえり見る時に必須です。と、同時にカール大帝の政策によりそうようにカトリックの再布教の為にドイツ・アルプス山麓に拠点を置いて布教に励んだベネディクト会派の修道院の存在も重要なのです。フランク王国のみならず今の欧州の礎(いしずえ)になる歴史がそこに見えます。ミュンヒナー・キンドル(Munchner Kindl)ミュンヘン市の紋章が街の起源を明確に表しています。「Munchner Kindl」は直訳すると「僧院の小坊主」。(見習い修道僧の事と思われる。)739年、聖ボニファティウス(672年頃~754年)がフライジングに開いた司教区がゲルマニアの最初の司教区となった。(フランク王国にキリスト教を布教した人としてドイツの守護聖人として祀られている。)その司教区で746年ドイツ・アルプス山麓テーゲルンゼー(Tegernsee)にベネディクト会派の修道院が創設。さらにその分院としてイザール(Isal)川畔にできた僧院の村がミュンヘン(München)市の起源です。左手に聖書、右手の2本指は不明。黒衣の修道士・・とも呼ばれるベネディクト会のフード付きの黒装束を身に付けている。。実はこの紋章は13世紀より使用されていたようですが、16世紀になると持ち物は特産物のビールやラディッシュ(ミニ大根)になる時もあったようです。※ ビールとラディッシュはミュンヘンの特産物。他にプリッツェル(Brezel)もミュンヘンの特産物で、その特異な形は僧侶の腕組み姿を表しているとか・・プリッツェルはレストランで必ず出されます。しかし、無料ではなく、食べた分精算されるので注意です。通過税の徴収と商業都市ミュンヘン誕生フライジング司教区の収入はイザール川を通過する岩塩に対する税金で、莫大な収益があったそうだ。そこに割って入ったのがハインリッヒ獅子公(ザクセン公ハインリッヒ3世)(バイエルン大公ハインリッヒ12世) (1129年~1195年)。塩の交易路と課税を巡って対立となり、結果、1158年に収益の3分の1を司教に渡すと言う約束で、ハインリッヒ獅子公の独占的塩税の徴税が認められた。かくして通過税の徴収の為にイザール川畔に商業都市ミュンヘンが誕生する。※ザルツブルグで集められた塩もこのイザール川を通過して売られて行った。つまり塩はあらゆる所で通過税を取られていた事になる。ミュンヘン市街略図ミュンヘンも城壁に囲まれた都市でした。地図の黄色の道路がかつての城壁跡で中が旧市街。青色のラインは西のカールス門から始まるノイハウザー通りとカウフィンガー通り、街の中心、市庁舎のあるマリエン広場まで続く。ノイハウザー通りとカウフィンガー通りK・・カールス門(karistor)とカールス広場(Karlsplatz)M・・聖ミヒャエル教会(Michaelskirche)F・・フラウエン教会(Frauen Kirche)NR・・新市庁舎(Neues Rathaus)とマリエン広場(Marienplatz)AR・・旧市庁舎(Altes Rathaus)カールス門(karistor)とカールス広場(Karlsplatz)噴水の向こうに見えるのがカールス門カールス門の向こう側がかつての城壁の中内側からのカールス門カールス門内側前 サテュロスと少年の泉 1895年Matthias Gasteiger(1871年~1934年)昨 ドイツの彫刻家ノイハウザー(Neuhauser)通りミュンヘンオリンピック以前はカールス通りと呼ばれた。実は12世紀にはすでに存在していたらしい。ショッピング、ビアガーデン、グルメレストラン・カフェ、観光スポット、文化スポットが並ぶ。この日は天気が悪く人出も少ない。こちらではかなり雨が降っていても傘を差す人は少ない。そもそも持っている人が少ない?リヒャルト・シュトラウスの泉(Richard-Strauss-Brunnen ) 1962年Hans Wimmer(1907年~1992年) ドイツの彫刻家泉のレリーフはドイツ、ロマン派の代表する作曲家リヒャルト・シュトラウスのオペラ、サロメの情景から描かれている。バックの建物は16世紀の建物でルネッサンス様式。聖ミヒャエル教会(Michaelskirche)もこの通りにある。2015年7月「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所」を見てね リンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)この近くにあるフラウエン教会(Frauen Kirche)は別の回にやります。リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)ドイツでは、シカ、イノシシ、ノウサギや野鳥類の料理が多いと言う。狩猟が盛んだった・・と言う名残だろう。フラウエン教会の路地を過ぎると通りはカウフィンガー通りに変わるしばらく歩くとマリエン広場に到着マリエン広場と新市庁舎ラートハウス天気の時の写真は次回に・・。旧市庁舎(左)とマリエン広場ペーター教会の時計塔からのノイハウザー通りとマリエン広場ピンクの円あたりがカールス門M・・聖ミヒャエル教会F・・フラウエン教会ブルーの円がマリエン広場次回マリエン広場とラートハウスBack numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年10月06日
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昨年夏頃から始めたネット・ゲームのせいで恐ろしく忙しい毎日です。一日の生活サイクルがほぼ決まってしまうのですつまり、予定外の事が起きるとしわ寄せする訳ですから、毎日が超タイトなわけです。今はまっているゲームはチーム制になっているので、途中離脱は出来ません。終了まで共にがんばらなければならないのです。ゲームの世界もいろいろ人間関係があります。最も、迷惑かけないようにやるのはどこの世界でも常識ですねそれにしてもネット世界の人間関係は面白いと思います。年齢性別がわからない中でのやりとりです。私のメル友の中には高校1年生の男の子や小学4年生の兄弟もいたのです全然年齢が見えない所が実に面白いしかも日本全国の方と毎朝メールで会話をしているのです。つくづく世間は狭い? いえ、近いな・・と思うのですさて、前に紹介したとおり、ランブラス通りからカタルーニャ広場を通り、今回はグラシア(Gracia)通りに入ります。グラシア(Gracia)通りスペイン(Spain)、バルセロナ(Barcelona)この通りではガウディの作品であるカサ・ミラ、カサ・バトリョがありガウディのデザインした街灯を見ることができるのです。前に紹介した地図から位置を確認してね。再びカタルーニャ広場旧市街地と新市街地の境界、バルセロナのほぼ中央に位置しています。上の写真の黄色のトンガリ屋根のあるビル前がグラシア通りです。広場と言ってもコンサート・ホールにもなるだだっぴろさは、5ヘクタールの面積があるとか・・。バルセロナの都市再編1854年市を取り囲む城壁が取り除かれた後、バルセロナの都市再編の機運がたかまり、市は1859年技師イルデフォンス・セルダーの「バルセロナ近郊の再生と拡張の為の計画案」をもとに新しい拡張地区の計画が実施されます。それにより並木を含む幅20mの道が碁盤の目のように街区を形成。他都市へは幅50mの大通りが造られ、その拠点とされたのが前出のカタルーニャ広場なのです。前回紹介していたランブラス通りはバルセロナ港のウォーター・フロント地区を結び、今回紹介するグラシア通りは北西方面の山の手に伸びてディアゴナル通りにぶつかっています。残念ながらグラシア通りはそこでとぎれていますが、そこをさらに北上するとグエル公園のある丘陵に繋がるのです。因みにディアゴナル通りはマドリッドやバレンシアなどに向かう幹線道路です。1888年万国博覧会がセルダーの計画の上、シウタデラ要塞を取り壊した跡地で開催された時、バルセロナは地方都市から世界的コスモポリタンな街に生まれ変わったそうです。これら都市再生の計画の中心にガウディら、建築家達が必要とされ、需要を満たす為に建築家や建築工匠の育成にも力がそそがれたようです。グラシア通りブランド店が並ぶなど、ここはバルセロナのシャンゼリゼ(パリ)と呼ばれているそうです。日本で言うと、表参道と行った感じの通りです。バスからの写真なので、フロントガラスのブルーが気になりますが、写真三軒目がガウディの作品、カサ・バトリョです。カサ・バトリョについては、次回詳しく紹介しますが、この建物はもともとあった既存のビルを改築したものだそうです。ガウディの作品、カサ・ミラカサ・バトリョに続いて建築されたこの建物は、サグラダ・ファミリアの工房でプロジェクトが進められていたそうです。バルセロナの人々は「ペドレラ(石切場)と揶揄したようですが、建築史家ヘンリ・ラッセル・ヒッチコックが「20世紀における最も予言的な建築作品の一つ」と評したように他に類のないデザインは建築分野からみると住宅作品の傑作とされているそうです。別の回でまた紹介しますね。ガウディの作品、街灯・・元はガス灯だったようです。街灯の説明の載っている資料が見つからず制作年がわかりませんが、街灯のデザインはアールヌーボーです。(スペインではそれをモデルニスモと呼んでいます。)美しいアイアン・ワークの植物と実のような電灯部分のデザイン。そして下のベンチは自然に一体化していて、ガウディらしい作品になっています。下がベンチになっているこの街灯は、実用として今もこの通りに何カ所か設置されているのです。バルセロナにはガウディのデザインの街灯が二つあり、もう一つがレアル広場の直線的な街灯です。(写真は今回ありません。)次回はいよいよカサ・バトリョです。
2011年02月21日
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書き込み追加毎日訪問して下さる方、遅れがちでゴメンナサイ m(_ _;;m 写真選択、書き込み、など最近一日では完成できなくて・・。今回はコロンブスの塔あたりからの湾岸の景色を少し紹介します。(今回紹介するのは残りの200度くらいの範囲です。)ランブラス通り(Las Rambla)スペイン(Spain)、バルセロナ(Barcelona)コロンブスの塔からポルト・ベイ(Port Vell)他アラゴン・カタルーニャ連合王国コロンブスの塔はバルセロナのベイ・エリアです。観光客はあまり来ない場所ですが古くから貿易で成功していたバルセロナの玄関にあたり、税関もここにあるのです。下の写真右がバルセロナ港のハーバーです。海はもちろん地中海です湾岸を走るコロン通り。この通りの左側がゴシック地区。写真左の建物、GOBIERNO MILITAR と書いてあります。軍関係でしょうか? 地図にも明記されていません。このコロン通りのカーブしている先にフランスからの列車が到着するフランサ(Franca)駅があります。因みに市内最大のターミナル駅は現在はサンツ(Sants)駅。コロン通りに平行して道路は一部地下を走っています。湾岸の道路の混雑回避でしょうか?写真のハーバー前の建物も不明。ホテルかレストランかも・・。ポルト・ベイ(Port Vell)ヨットハーバーの向こうに広がる埋め立て?の島がベイ・エリアとして再開発された地区。桟橋を渡ると巨大ショッピング・センター(マレマグナム)、その隣が幾つかの映画館が寄り添ったシネマコンプレックス。そして水族館があるようです。ちょっと分かりにくいのですが、バルーンの向こう側に見えるビルのあたりがバルセロネタ地区。その海側は海水浴のできるビーチになっているようです。ランブラ・ダ・マール(Rambla de Mar)・・・遊歩道のような桟橋写真は海正面を飛ばして右に・・方位的には塔から南南東方面に。塔の後ろは、ワールド・トレード・センター。方位は南南西から西に・・。 (西日の上にガラス越しで綺麗に撮れていませんが・・)写真に見える小山が1992年のバルセロナオリンピックのメイン会場となったモンジュイックの丘。標高173m。コロン通りの先に見える円は地下を走る車の出入口になっています。コロン通りの左に見えるのがバルセロナ税関の建物。右に見えるのが海洋博物館。海洋博物館は1378年に建設された王立造船場だそうです。バルセロナからアテネに至る地中海を支配して広大な領土を支配していた在りし日の栄光のたまものです。バルセロナ税関・・桟橋、ランブラ・ダ・マールから税関の建物海側を撮影アラゴン・カタルーニャ連合王国カタルーニャの大きな発展は1137年のアラゴン王国との合併です。すでに手工業、商業、海運業で成功していたカタルーニャは小国でした。カタルーニャ王子ラモン・バランゲー4世は内陸にある大国、アラゴン王国の跡取り娘と婚姻が決定。そこにアラゴン・カタルーニャ連合王国が出来るのです。とりあえずラモン・バランゲー4世はアラゴン王に。しかし、両国は合併したわけではなくそれぞれの国はいずれ彼らの子孫が王位を継ぐ事になっていたようです。当時、交易は海軍力に比例します。アラゴン・カタルーニャ連合王国が地中海交易に成功して右肩上がりに勢力をのばして行くのです。カタルーニャの衰退・・・それは所謂大航海時代・・に起因します。15世紀末にポルトガルが東洋に航路を開き、オランダ、イギリス、フランスの商隊が大西洋やインド洋に進出するようになると世界は一変。交易は地中海から世界に・・。地中海交易で利益を上げていたカタルーニャは、世界に出る力がなかったそうです。よってカタルーニャの地中海の交易は衰退。カタルーニャの商工業も急速に衰退。国内では飢饉やペストが蔓延し国の衰退に拍車をかけたそうです。カタルーニャの消滅?こんな中、アラゴン・カタルーニャ連合王国のフェルデナンドはカステーリャのイサベルと結婚。今度の結婚はアラゴン・カタルーニャ対カステーリャです。アラゴン・カタルーニャ連合王国は一つの国家として統一に進み、結果カタルーニャはスペインと言う国の一部になって消えてしまう事になったのです。税関とモンジュイックの丘・・桟橋、ランブラ・ダ・マールから撮影ランブラス通りは・・終わりです
2011年02月19日
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夕刻から降り出した雨はいつのまにか雪に変わり、今回は溶ける事もなく街を白銀の世界に変えています。豪雪で困っている方にはもはや観賞などないでしょうが、東京で今年見る2度目の雪に、少しワクワクしています。雪は迷惑の方が多いのでしょうが、ほどほどであればとても美しいものです。汚れた物全てを塗りつぶしてしまうのですから・・・スペインの首都はマドリードですが、実は経済も芸術文化でもバルセロナの方が上なのだそうです。バルセロナは中世より栄えたカタルーニャの首都です。もしかしたらイベリア半島にはスペイン、ポルトガルの他にカタルーニャと言う国が存在していてもおかしくはなかった・・。イスラムの支配を受けていたイベリア半島にはいろいろな事情があったのです。言語も標準スペイン語がカスティーヤ語なのに対して、バルセロナではカタルーニャ語が使用されています。同じラテン語から変化した言葉とは言え、両者にはかなり違いがあり、ここバルセロナでは二つの表記がされているそうです。ランブラス通り(Las Rambla)スペイン(Spain)、バルセロナ(Barcelona)コロンブスの塔ランブラス通りを警戒するポリス最近はテロが増えたので観光地での警備をしっかりやっているようです。スペインはスリやひったくり、置き引きが多く、観光客の為? かと思ったらそうではなかったようです。でも、ポリスが増えて結果的にドロボーが減ったと言います。まずはコロンブスの塔の上から見たランブラス通り(Las Rambla)からです。カタルーニャ広場から伸びているランブラス通りは海に面したコロンブスの塔で終点です。上からの景色は後ほどのちほどまた紹介しますが、この道の右手に方向にサグラダファミリアがあり、実はほぼこの道沿いにガウディの建設した有名なグエル邸があるのです。赤丸で囲った所です。コロンブスの塔からはわずか5分程で到着できる? ロケーションだったのですが、ガイドさんも紹介してくれなかったので、非常に残念な事に行っていないし、当然写真もないのですグエル邸(Palacio Guell) 1886年~1890年ガウディのスポンサーであった繊維会社を経営する富豪エウセビオ・グエルの為に建設された邸宅の一つで、当初は本館に接続した別館として建設。完成後にはこちらが本館として利用されています。この館を相続した伯爵の令嬢がアメリカの富豪に売却するのを拒み、わずかな年金を条件にバルセロナ県に寄贈した為に1954年より県立演劇博物館になっているそうです。(写真がないのでさわりだけね。)コロンブスの塔1888年のバルセロナ万博のさいにアメリカとカタルーニャの交易を記念して建てられたコロンブスの塔は、高さ60m。スペインの英雄コロンブスです。スペイン中にコロンブス・・・の名前を冠する記念碑やらなにやらとたくさんあります。2010年3月 「 スペイン・セビーリャ 8 (コロンブスの墓所)」でコロンブスのお墓を紹介した時にコロンブスについても紹介していますからそちらを見てね。塔には展望台があり、エレベーターで登る事ができます。でも狭いのでエレベーターは4人程度、上も8人程度しか登れません。再び展望台からです写真左の並木がランブラス通りなので、並木の右側はゴシック地区と呼ばれる昔城壁の中にあった地区です。写真の矢印はサグラダファミリアです。つづく
2011年02月14日
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大阪に一週間程滞在して用事をすませてきました。パソコンは持って行っていたのですが、時間がとれなくてUPできず少し空けてしまいました勉強の時間もとれないので、今回は前回紹介したバルセロナの旧市街地に位置するランブラス(Rambla)通りを少し紹介しようかと思います。そして次にカタルーニャ広場の向こうグランシア通りにあるガウデイの建築した集合住宅を紹介予定です。ランブラス通り(Las Rambla)スペイン(Spain)、バルセロナ(Barcelona)写真右下がバルセロナ港。写真左がモンジュイックの丘一部イエロー・・・・・・・カタルーニャ広場オレンジ・・・・・・・ランブラス(Rambla)通りスカイ・ブルー・・グランシア(Gracia)通りカタルーニャ広場広場の完成は1927年と割と新しく、日本で言えばホコ天になった銀座の和光あたり・・と言うところ?まわりはデパート、ホテル、銀行、等の商業施設がならぴ゛、この広場ではコンサート、展示会などのイベント会場として利用されるそうです。ランブラス通り(Las Rambla)カタルーニャ広場から海側のコロンブスの塔まで続く全長1.2kmのプラタナスの並木のある通りがランブラス(Rambla)通りと呼ばれています。前回紹介したようにボケリアの市場が途中あるだけでなく、広めの歩道にはカフェテリア、花屋、鳥屋さんなどが立ち並ぶ賑やかな通りとなっています。カタルーニャ広場からランブラス通り入り口人の歩く歩道がメインにあり、その両サイドに車が通れるようになっているのが特徴です。カタルーニャ広場の近くにはなぜか鳥屋さんが多かったようですが、最近は減ったと言います。カタルーニャの全盛期は13世紀頃でその頃旧市街は城壁で囲われたそうです。上に紹介した地図の通りの右側の地区はゴシック地区と呼ばれかつて王宮があり、大聖堂のある古くからのバルセロナの中心地なのです。ランブラス通りはその城壁の西壁に沿うように存在したバイパスのような通り道として発展。つまり19世紀末に取り壊されるまで、この通りの東側には旧市街の城壁が築かれていたと言う事になります。前回紹介したボケリア門はその城壁の門の一つで、それは今のカタルーニャ広場よりにあったようです。ランブラの由来ウィキペディアによれば、「ランブラ」はカタルーニャ語で一時的な水路、 アラビア語でRamla(砂の川床)に由来する言葉だそうですが、実際この通りは大雨の時にだけ水がたまる涸れ河だったそうです。普段水のない川床は、人や馬の通りには適していたようで、また市内を抜ける道が混雑する為に抜け道的に使われる道として賑わったようです。ここは花屋さんの多い場所・・。店は職種でかたまるようです。現在はなぜかパフォーマーが多い。下はオブジエではありません。観光客が捕まっています。空中浮遊。近くで見てもわかりません。これは想像の範囲です。次回はコロンブスの塔から。
2011年02月12日
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