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2025.06.26
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カテゴリ: 文学
 史実作家の吉村昭( ​写真​ )の長編『戦艦武蔵』は、『零式戦闘機』、『陸奥爆沈』と並ぶ戦中日本軍の戦艦と戦闘機の開発と運命を描いた傑作である。軍艦も飛行機も全く知識の無かった吉村が、生存する関係者を訪ね歩き、おびただしい文献を渉猟してゼロから書き上げた。



​◎常識の倍の巨艦建造を計画した海軍​
 中国侵略が泥沼化し、対米関係が悪化の一途をたどりつつあった時、日本海軍は、「大和」と共に米英連合国が想像も付かない超々々弩級戦艦「武蔵」の建造を計画した。
 当時の常識は巨大戦艦と言っても3万5000トンであったのに、それをはるかにしのぐ7万トンの巨大戦艦の建造を計画したのだ。主砲と射程距離の限界がそれぞれ口径40センチ、3万数千メートルとされていた昭和13(1938)年のに、海軍計画の2艦の主砲は46センチの大口径、射程距離は4万数千メートルと企画された。
 完成すれば、両艦は敵艦隊の10キロ先から砲を撃つことができ、海戦では敵艦隊を撃滅し、圧倒的勝利を収められるはずだった。

​◎極秘の「軍機」扱いで「武蔵」建造​
​ その想定のもと、戦艦「武蔵」は昭和13年、三菱重工長崎造船所で起工され、日夜の突貫製作で4年余の歳月をかけて建造された( 写真 =ブルネイに出港する武蔵、昭和19年10月22日、この直後に撃沈される)。皮肉にも起工された時は、海戦は航空機が活躍する航空母艦主体の艦隊に変わりつつあった頃だった。


​ この建造が当時の仮想敵のアメリカ海軍に察知されては困る。最高の機密度を持つ「軍機」扱いにして建造を開始した。「大和」は海軍の呉工廠で建造されるから機密保持に問題はなかったが、「武蔵」は民間の三菱重工長崎造船所で造られる。しかもドックは三方を小高い住宅地に囲まれた湾奥にあった( 写真 )。​



​◎重要極秘設計図が1枚紛失​
 建造の様子を諜報員や長崎市民にも知られないように、強度の高いシュロ縄で作った巨大スダレを垂らして建造ドックの様子を隠した。建造に当たる数千人の技師・工員は、特高によって徹底的な身元調査が行われ、また秘密保持の誓約書を提出させられる一方、互いに自分の作業分野以外を知らることがないように努めさせられた。
 三菱重工関係者の、ついで海軍も入った徹底的な捜索でも、1枚の図面は見つからなかった。

​◎設計場にいた技師・図工に激しい拷問​
 そこで働いていた6人の設計技師と2人の図工は逮捕され、特高の拷過酷な取り調べが行われた。竹刀で乱打され、皮製のスリッパで殴られ、水を満たしたバケツを両手に持たされて何時間も立たされるという拷問が1カ月も行われた。血まみれになった技師・図工の中には、精神に異常を来した者もいた。
 そうした軍と三菱重工の約1カ月の必死の調査の結果、ついに「犯人」が判明した。
 結果は、意外だった。その年の春に旧制中学を卒業して三菱重工に入所したばかりの少年図工の仕業だった。
 彼は、日本でも有数の大企業に就職し、思うままに活躍できると胸を膨らませていたのに、やることは来る日も来る日も牢獄のような密室の設計場兼図庫室での雑役という単純な作業だった。だから旧中卒直後の少年は、何か過失を犯せば他の職場に移されるだろう、と単純に考え、設計図の1枚を隠し、紙くずに紛れ込ませて焼却場に運び、焼き捨てた。

​◎犯人の少年は起訴され、刑確定後は秘かに満州に送られる​
 しかしそのちょっとした軽はずみな行為が、三菱重工を揺るがすほどの大騒ぎとなり、ついに「すみません、僕でした」と言い出せなくなった。
 少年は起訴され、裁判で懲役2年執行猶予3年の刑を宣告された。しかし彼は家に帰れなかった。特高の手で秘かに三池港から満州に送られた。その後の消息は、誰にも分からなかった。
 小説『戦艦武蔵』を書き終えた吉村昭氏は、出版後しばらくたち、テレビ局の要請で、ディレクターと共にその少年の消息を探ることになった。テレビ局の狙いは、その少年を探し出し、インタビューに引っ張り出せれば、多大な労力・資源・資金を投じて建造した戦艦武蔵が、就役後は航空母艦の時代になり、大艦巨砲は時代遅れになっていた虚しさを伝えられるだろう、少年はそのキーパースンになるという狙いだった。

​◎戸籍を渉猟し少年を探す​
 当初、吉村氏は数奇な運命をたどったはずで、戦後も生きていればひっそりと暮らしているはずの少年を探し出すことに消極的だった。むろん、そっとしておいてやりたいという気持ちからだった。
 むろん吉村氏は、少年の実名を知っていた。ただ姓だけで名前は知らなかった。
 手がかりはなかった。手当たり次第に生存している関係者に当たり、今では個人情報保護が徹底してとうてい不可能だが、市役所の住民登録簿を閲覧し、その姓を持つ人たちをリストアップし、戸籍係に回って少年らしい人物を探した。それでも身元は判明しなかった。
 最後に、氏はふと少年が旧制中卒の卒業生だったことに思いつき、長崎市内の旧制中学を起源に持つ高校を片っ端から訪ね歩いた。そして一校いっこうで名刺を出し、卒業生名簿の閲覧を要請するのだ(これも今ではとうてい許可されない)。しかし、それも徒労に終わった。

​◎ついに名門旧中学で昭和13年卒業生を見つけ出す​
 最後に訪ねたのが、古い伝統を持つ名門高だった。思うに、日本きっての大企業、三菱重工に就職できたのだから、少年は市内の名門高出だったのだ。
 そして吉村氏はついに、その少年を昭和13年卒業生の中から見つけ出す。名前がそれで判明した。
 吉村氏は、再び市役所に舞い戻り、戸籍簿に当たった。
 探していた元少年は、亡くなっていた。戦後、故郷に戻り、昭和21年12月にある女性と結婚し、翌年22年6月に女児に恵まれた。

​◎幸せな家庭生活もたった2年弱​
 だが元少年は、幸せだったろう家庭生活に長くは浸れなかった。翌年23年9月に死亡届が出されていたのだ。テレビ局の狙いはかなえられなかったが、吉村氏はどこかホッした思いを感じるのだった。
 ちょっとした気の迷いが、名門高を出て将来を嘱望されたはずの少年の運命を暗転させ、戦前・戦中は暗い人生を送ることを余儀なくされた。戦後の幸せな家庭生活も、2年ともたなかった。
​ 前述のように時代遅れになった戦艦「武蔵」は、ほとんど活躍することもなく昭和19(1944)年10月24日、レイテ沖海戦に向かう途中にシブヤン海でアメリカ軍に撃沈された( 写真 )。​



お断り  所用でしばらく休載します。​

昨年の今日の日記 :休載​





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Last updated  2025.06.26 04:05:28


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