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2026.07.06
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カテゴリ: 旅行紀行
 鱗晃の店でウニ丼を食べ、島武意海岸を観望して、僕らの乗ったバスは次の目的地神威岬に向かう。この頃、空を覆っていた雲はだいぶ取れ、薄日が射してきた。この分では神威岬では積丹ブルーが観られるかもしれない。

◎「女人禁制」の伝説の道
 バスは15分ほど進むと、神威岬の駐車場に着いた。ここから神威岬の入り口まで7分ほど緩やかな坂道を歩く( 写真 )。



 するとちょっとした広さの展望所と先の道の前に鳥居を象った門が見えた。「女人禁制の地・神威岬」と墨で書かれている( 写真 )。



 この先、先端の神威岩までの尾根上に付けられているのが「チャレンカの道」(長さ約770メートル)だ。一見して険しそうだ。体力の無い人はこの展望所で神威岬海岸を遠望することに留まる( 写真 )。西側の海岸で、幾本もの岩が海面から突き出ているのが見える。海岸にわずかに民家が見える。



 入り口の傍らの立て札があり、それには遙か昔の伝説によってチャレンカの道は「女人禁制」とされたが、今はとっくに禁制は解かれているいう趣旨の注記が書かれている。

◎義経は平泉で死なず北に落ち延びたという義経北行伝説
 遙か昔の伝説とは、「義経北行伝説」の1つだ。
 言うまでもなく源義経は1189年(文治5年)、兄・頼朝の圧力で庇護されていた奥州・平泉の藤原氏の攻撃を受け、そこで自死したことは歴史的事実だ。
 しかし民衆は、平家追討で源氏の世を打ちたてるのに大きな功績のあった義経が、梶原景時の讒言で頼朝の不興を買い、一転、追われる身になり、最後は義経が奥州・平泉で非業の死を遂げたことを惜しみ、いや義経は死にはせず、平泉から落ち延び、蝦夷地に渡り、さらにそこから北蝦夷(樺太)を経て大陸に逃れ、やがてモンゴルでジンギスカンとなったという「義経北行伝説」を信じ、広めた。

◎沖を通る舟に女性が乗っていれば沈めるというチャレンカの呪い
 チャレンカは義経の後を追い、険しいチャレンカの道を駆け抜け、神威岬先端まで達したが、義経の舟はもう見えなかった。悲嘆にくれたチャレンカは海に入り、彼女を哀れんだカムイが彼女を岩に変えた。それが神威岩だという。
 チャレンカの怨霊は、神威岩から沖を通る船を監視し、女性が乗っていればすべて舟を沈めた。その言い伝えで、チャレンカの道は女人禁制となったのだという。
地図 で見ると、神威岬は積丹半島の北西に小指を突き出した地形をしている。冬の大陸からの強い西風で神威岬の先の海は大時化となるはずだ。古来、多くの舟が難破したに違いない。チャレンカの呪いを持ち出すまでもない、



◎突端までの細い道の両側は激しく切り落ちる断崖
 その伝説はさておき、チャレンカが必死でたどったと思われる道は、整備されているが幅は狭く、またアップダウンが激しく、ガードのある両側は切り落ちる断崖となっている。道の果てに小さく灯台が見える( 写真 )。先まで1キロ弱の道は、片道30分と言われた。



 僕は、登山用のスティックを持って来なかったことをちょっと悔いた。
(この項、続く)

昨年の今日の日記





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Last updated  2026.07.06 04:13:34


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