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NHK「メロディーは時をこえて〜歌いつぐ筒美京平の世界〜」を見ました。今年の3月にBSで放送された番組だったようです。この中で、武部聡志が、「卒業」は「木綿のハンカチーフ」の前日譚(=エピソード0)として作られた。…という趣旨のことを言ってました。とはいえ、もともと武部の発言には記憶ちがいも多いので、あまり額面どおりには受け取れないって気もするし、この「木綿」と「卒業」の関係については、すでに音楽惑星さんのサイトで私見を話したのですが、その考えはいまでも変わりません。◇まあ、こればっかりは松本隆に聞いてみなきゃ分かりませんが、かりに「木綿」の前日譚を作るのが当初のコンセプトだったとしても、70年代の歌謡曲の前日譚が、同じ主人公のまま80年代に作られるなんてことは、ありえないと思う。なぜなら、時代が違うからです。とりわけ70年代の女性像と80年代の女性像とでは、大きな変化がありました。その違いを反映させないまま歌詞を作るなんてあり得ない。◇70年代の太田裕美、すなわち「木綿のハンカチーフ」の主人公は、純朴で、慎ましくて、 男性にも、そして自分自身に強いられた運命にも、なかなか逆らうことができないような弱い女性です。失恋しても、せいぜいハンカチを送ってもらって、人知れず健気に泣くしかない。おそらく彼女にとっては、地元の誰かとお見合いして結婚するのが残された道だったと思う。◇しかし、80年代の斉藤由貴、すなわち「卒業」の主人公は、もっと我が強くて、物事をクールに悟っています。実際、80年代ともなれば、たとえ地方に残った女子であっても、短大に進んでから就職することも出来たし、みずからの人生を選択して切り開く可能性はずっと増えていた。たしかに男性は男性で、東京の都会で楽しく暮らしたかもしれないけど、女性だって負けず劣らず、よくもわるくも都会化してしまった地方の町で、それなりの享楽的な生活を楽しむことも出来たのです。ただハンカチをもらって泣いているだけではないし、涙こらえて着てももらえぬセーターを編んでるだけではない。それが80年代という世相であり、その時代を生きようとする女性のあり方だったと思います。◇ちなみに、今回の番組に参加したのは、武部聡志、松尾潔、亀田誠治、本間昭光のアレンジャー4人。まあ、関ジャムに出てくるような面子なので、「筒美先生は仕事が早かった」「仕事量も多かった」「イントロが素晴らしかった」「歌手に合わせた曲作りをしていた」…といった職人的な視点からの議論が中心になっていて、それほどの目新しい話はありませんでした。唯一、亀田誠治だけが、筒美の「プロデューサー」としての側面に言及しようとしましたが、そのテーマをこの4人で深めるには、ちょっと限界がありました。◇今後、筒美京平を語る場合には、たんに作・編曲家としての面だけではなく、タレントを育成した「プロデューサー」の面から捉えなければならないし、もっといえば、南沙織と郷ひろみ以降の、すなわち70年代以降の「アイドル文化」そのものを仕掛けた、酒井政利、ジャニー喜多川にならぶ黒幕としての側面から、つまりは広く文化史的な側面から捉えていかなければなりません。奇しくも、現在のような昭和歌謡リバイバルのさなか、ジャニー喜多川は2019年に、筒美京平は2020年に、酒井政利は2021年に、相次いで亡くなっています。彼らはたんに音楽を変えただけでなく、日本のメディア文化と大衆文化それ自体を大きく変えたのであり、日本社会に生きる男性像や女性像までをも確信犯的に変えたのです。日本人の生き方を変えてしまったとさえ言える。◇また、筒美京平を作・編曲家として語る場合にも、たんにロックやソウルとの関係を語るだけでなく、まずはジャズとの関係から掘り起こさなければなりません。その意味では、服部良一や、中村八大や、宮川泰の後継に位置しているはずです。そのうえで、リズムやメロディやサウンドを筒美がどう刷新したのか、ようやく冷静に議論できるようになるはずですが、残念ながら、それについて語れる人材は、いまの音楽業界にはほとんどいないと言っていい。なぜなら、ジャズの素養が本質的に欠けているからです。しかし、そのことを冷静に捉えないと、またしても無根拠な「神話」ばかりが量産されてしまいます。昭和歌謡は、けっして筒美からはじまったわけではありません。司会:柘植恵水アナウンサー出演:武部聡志/松尾潔/亀田誠治/本間昭光亀田:この京平先生と松本隆先生のコンビが生み出す名曲の数々って、何かね、どこかでこうお互い曲と曲がバトンを渡し合ってるような感じがあって、これ「卒業」とかも繋がってませんか?武部:「卒業」は「木綿のハンカチーフ」の続編というか、「木綿のハンカチーフ」の主人公たちが卒業するシーンを描いてるんです。柘植:えっ?そうなんですか?武部:その学生時代どうだったかっていう。松尾:だから「エピソードゼロ」みたいな。武部:そう。…が「卒業」なんです。柘植:つながって…武部:それを作ろうって隆さんが思って作った曲なんで。柘植:へえ~。ちょっと「卒業」も強気な女の子じゃないですけども、「卒業式で泣かないわ」みたいなこう。「さみしい」を前面に出す感じではない。武部:その後「木綿のハンカチーフ」のストーリーになるんですね。
2021.08.22
J-WAVEでサラーム海上が、ダニ・エヴァ・ハダニというイスラエルの女性歌手を紹介してたので、そのアルバムを聴いてみたら、とてもいい曲がありました。ミニアルバムの4曲目に入ってる「Eyze Mazal」です。7/1には公式のYouTubeチャンネルにもUpされてるんだけど、7/10の時点で、なんと再生回数がたったの6回!(そのうちの1~2回はたぶんわたし…)それからさらに4日たってますが、いっこうに再生回数が増えません。どうやら世界中でわたししか聴いていないっぽい(笑)。そんなことあります?イスラエル人は聴いてないんかいっ!!つか、サラーム海上も聴いてないんかいっ!小島麻由美も聴いてないんかいっ!アーティスト自身も、スタッフも、だれも聴いてないんかいっ!…てなわけで、もしかしたら世界でわたししか聴いてないかもしれませんが、とてもカッコいい曲なので貼っておきます。ちなみに、彼女がキーボーディストとして在籍しているBoom Pamの音楽は、もっとダサめの中東サーフ歌謡です。たぶん、こっちのほうが人気があるんだろうなあ。
2021.07.14
なぜか、この新旧4曲をひたすらパワープレイしてるわたし。4曲とも、歌詞はともかく、メロディがすごく面白い。
2021.07.08
前作『adieu1』が素晴らしかっただけに、それを超えるのはちょっと難しいかと危惧してたけど、蓋を開けてみれば全勝でした。とくに、カネコアヤノの一撃が効いている。わずか3分に満たない曲ですが、すごく鮮烈な印象を与えてます。中央アジアの遊牧民が都心の遊園地に住みついてるような、ちょっと不思議な「天使」のMVもかなり印象的。なにやらドギツイ色彩感覚を打ち出していて、あれは今後のビジュアル作品にも影響力をもつだろうと思う。◇もともと萌歌の曲には、すこしだけダークな要素があって、つねに、なにがしかの闇を抱えています。かつて銀色夏生や谷山浩子が、斉藤由貴のために不穏な曲を書いていたのに似てる。ただし、闇といっても、それは女の子なら誰しもがふつうに持ってるような、ある意味では、とても素直な闇であって、それをすんなり表現できるところが、現在のadieuのスタンスなのかな、と思います。◇カネコアヤノが書いた「天使」は、じつは純真無垢な愛のキューピッドではなく、どこかしら邪悪な要素も持ちあわせていて、この曲の主人公は、そんな天使の悪戯と、つかず離れずの関係にあります。◇塩入冬湖が書いた「シンクロナイズ」にも、前作の「よるのあと」と同様にシニカルな面があって、萌歌自身も「2つの曲の主人公は同じ」と言ってるけれど、前作では《青い体温/震えぬ胸》と冷え切った感情を歌い、今作では《退屈》《交差しない》《永遠は作れない》と、ほとんど悟りきった冷めた諦観のなかで、それでも若さにまかせて愛の可能性を探ろうとしています。◇ちなみに、前作の「よるのあと」について、塩入冬湖は「祈りの気持ちを込めて作った」と述べていて、実際のところ、多くのリスナーは、あれを《祈り》の曲として受け止めているはずだけれど、よくよく歌詞を見ると、じつは、うっすら憎悪をはらんだシニカルな内容にも読めるところが、あの曲の面白さになっています。それと同じことが「シンクロナイズ」にも言えます。◇さらに、それと同じことは、君島大空による「春の羅針」にも言えるかもしれない。君島大空が書いた「春の羅針」のタイトルの意味は、おそらく「恋の行先」みたいなことでしょうけど、ちょうど「よるのあと」が、《震える胸》ではなく《震えぬ胸》と冷たい感情を吐露しているように、この「春の羅針」でも、《夢なら覚めないで》ではなく《夢なら覚めて》と悲しみを吐露してる。つまり、主人公は、行先の見えない恋の不安に直面しています。◇そんななかで、古舘佑太郎が SALOVERS 時代にソロ曲として作ったという、「愛って」の、やや青くさい真っ直ぐさが、Yaffle の前向きで拡がりのあるアレンジも相まって、このアルバムに、ある種の清涼感と救いをもたらしています。もともと「愛って」には、YouTube の FirstTake バージョンがありましたが、先日の TOKYO FM の番組では、古舘佑太郎のギター1本で歌ったバージョンも披露されました。やはり、作曲者自身の演奏には格別の味わいがあって、このギターだけの素朴なアレンジが思いのほか良かったです。あれを聴いていたら、萌歌と井之脇海が二人でたたずんでいる映像が目に浮かんだので、あのバージョンを、できれば午後ティーのCMで使ってほしい(笑)。◇小袋成彬のつくった「ダリア」は、少女の初恋の終わりを描いた曲なので、恋の始まりを歌った前作の「天気」と対をなしてる気もしますが、なんとなく謎めいた世界観もあって、それについては、こちらに書きました。ちなみに、ここに出てくるダリアの花は黄色ですが、ひたすら青色にこだわった前作の「天気」のMVと、ヴィヴィッドな黄色や金色が印象的な「天使」のMVを比べても分かるように、全体として、今回のアルバムは明るい黄色の印象が強いです。◇◇なお、萌歌は、昨夜の南波志帆のFM番組で、「今後は作詞もしてみたい」と言ってましたが、姉妹とも、そういう流れになるのは必然だと思います。作家の提供曲だけではなかなか表現しきれない部分が、おのずとだんだん増えてくるはずだから。
2021.07.02
銀色夏生の「かなしいことり」は、斉藤由貴の歌った名曲として知る人ぞ知る存在だったし、銀色夏生のファンからも、大沢誉志幸の「そして僕は途方に暮れる」に並ぶ、彼女のつくった名作と認知されてはいましたが、あくまでもアルバムのなかの1曲であって、いわゆるシングルヒットではなかったので、当時の歌番組でさかんに披露されたわけでもなく、世間的な知名度はおのずから限られていました。◇しかし、今回、萌音がカバーしたことで、この曲は、まさに名実ともにスタンダードになっていく。リアルタイムの世代よりも、むしろ若い世代に知られる曲として羽ばたくことになる。萌音が《小鳥》にかんする曲を歌うのは、大橋トリオの作った「Little Birds」に続いて二度目ですが、彼女が選曲コメント動画で見せたパタパタ羽ばたくしぐさは、この楽曲の新たな巣立ちを予言していたのかもしれません。◇数十年ものあいだ偏愛していた曲が、こんなふうに飛び立っていく瞬間を目の当たりにするのは、個人の人生の音楽体験のなかでも稀だろうし、すくなくとも、わたし自身にとっては初めてのこと。由貴ちゃんや、銀色夏生や、武部聡志は、そして、この曲の制作にかかわった人たち(長岡・市村)は、未来にこんな幸福な運命が来るのを想像できていただろうか。たとえプロの音楽家でも、これほどまで劇的に「曲が育つ」ということを、そうそう経験できるものではないだろうと思います。◇萌音の歌声についても、清塚信也のピアノについても、ちょっとまだ形容すべき言葉が見当たりません。今回のカバーアルバムは、2枚組の全21曲なのだけど、最初に聴いてしまった「かなしいことり」があまりにも素晴らしすぎて、なかなか先へ進めません。先行公開された楽曲も、軒並みクオリティが高かったので、それが全部で21曲もあるのかと思うと、容易に聴き流せなくて、ほとんど途方に暮れますね。普通なら、カバーアルバムなんて、さらっと聴いて「はい、なるほどね!」で終わるものだけど、これほどの曲数でありながら、こんな密度の濃いカバーアルバムになるとは想像もせず、むしろオリジナル作品以上の重みさえ感じて驚いている。ぜんぶ聴き終わるまでに、だいぶ時間がかかりそうです。萌音の字は、なぜか由貴ちゃんの書く字によく似てる。パタパタの予言。7/2追記。この曲の主人公が、なぜ自分たちのことを「ことり」と呼ぶのか、じつは、よく分かりません。しかし、武部聡志のオリジナルアレンジでも、89年の『balance』の長谷川智樹のアレンジでも、「朝の海辺」と「小鳥」の両方をサウンドで表現しています。基本的には「朝の海辺」の映像を軸にしながら、そこに、どこか小鳥っぽい要素を加えている感じです。(由貴ちゃんの『poetic live』の冒頭には、小鳥たちの朝のさえずりが聞こえます)2010年のコトリンゴのバージョンでは、波がさざめく様子をピアノで描いていて、今年の由貴ちゃんの『水響曲』のリアレンジでも、ハープを使って海岸の印象を出しているので、どちらかといえば《海》の印象のほうが強いかもしれません。今回の萌音バージョンも、やはり《すずしい夜明けの青い海辺》は見えてくるのですが、同時に、清塚信也の右手のアドリブの遊びは、実際の《小鳥のさえずり》を表現しているようです。きらきら光る静かな海に立っているようでもあり、じつは、すでに家に戻った主人公が、明るい日差しの部屋で小鳥に話しかけながら、朝の別れのシーンを寂しく回想してるようにも見える。歌曲風に演奏してることもあって、ちょっと室内っぽい印象が出てるのかもしれません。そこらへんの聴き比べをすると面白い。なお、この曲の歌詞については、「二股の恋人の片方と別れた」と考える解釈Aと、「親友に告コクられたけどフった」と考える解釈Bがありえますが、由貴ちゃんは、おそらくAの解釈で歌っていました。(だからこそ罪深い内容の歌詞として注目されてきました)そのことは萌音自身も理解しているはずだけど、なんとなく今回の萌音の歌声を聴くと、Bの解釈で歌ってるようにも聞こえます。▷ 斉藤由貴×銀色夏生「かなしいことり」について
2021.06.23
adieuの「ダリア」が公開されました。小袋成彬のつくった曲は、『adieu1』のときもそうだったけど、アルバムのなかでは脇役的な位置づけかもしれません。でも、個人的にはとても面白くて、気になってしまいます。今回の「ダリア」も、ちょっと埋もれてしまうかもしれませんが、ファーストインプレッションのあるうちに、わたしの印象を書いておこうと思います。最初に聴いたときは、とてもオーガニックで、透明感のある曲なので、ちょっと北欧の音楽みたいだなと思いました。具体的に北欧の何の曲といわれると、あんまり詳しくないので分からないけど、とりあえずシガー・ロスあたり?ただし、そもそもダリアはメキシコの国花だし、それを考えると、萌歌がメキシコ育ちということを念頭において、この曲は書かれているんだろうという気もする。つまり、曲の舞台は、北欧とかよりも南米と考えるほうが妥当なのでしょう。ダリアは高地に咲く花なので、透明で涼しげなサウンドになること自体に不思議はありません。◇メキシコの音楽のことはよく分かりませんが、たとえば、ブラジルには、70年代のトロピカリアのような音楽があるし、また、アルゼンチンには、日本で「音響派」と呼ばれたような、パンパ周辺の現代フォルクローレがあります。つまり、南米にも、オーガニックで透明な音楽はある。とくに、わたしは、ガル・コスタの「Baby」あたりが、今回の「ダリア」の雰囲気に近いのかなとも思う。そして、こういったオーガニックな音楽の源流として、ひとつには、南米の現地のフォルクローレがあるのだけど、もうひとつの源流としては、まちがいなく60年代のアメリカ西海岸の音楽があります。いわゆる「flower」の価値観から生まれた音楽です。じつはブラジルのトロピカリアも、アルゼンチンの現代フォルクローレも、そこから派生している。たまたま萌歌が最近、ママス&パパスに興味をもってるらしいのだけど、まさにそうしたサイケな時代のなかから、文字どおり "お花畑" っぽい音楽が生まれたわけです。そういう音楽は、現在の西海岸にも生き続けているし、(YouTubeにはないけど、ギャビー・ヘルナンデスの「When Love」みたいな音楽)たとえばスティーヴィー・ワンダーは、79年に映画『Secret Life of Plants』の音楽を書きましたが、あそこにも60年代の「flower」の残響があります。今回の歌詞のなかには「愛の花ダリア」とあります。でも、ダリアの花言葉は「愛」ではないし、やはり、わたしは、スティーヴィーの曲と同じように、ここに60年代的な「flower」の価値観があるんじゃないかと思う。◇こうした "お花畑" な感じの音楽は、一面では、60年代後半の米国ベトナム反戦運動に結びつき、他方では、70年代のブラジルで「トロピカリズモ」と名を変えて、軍事政権からの自由を求める運動に結びつきました。さらに、80年代になると、ジョビンが環境保護の運動にまで結びつけています。(バンダ・ノヴァというのは彼なりのトロピカリズモの試みでした)そう考えたときに、今回の萌歌の「ダリア」は、じつは姉の萌音が大橋トリオと一緒に歌った、「Little Birds」に近い曲じゃないかなあと思えてくる。ジョビンの「Passarim」は "小鳥" という意味なので、大橋トリオの作った「Little Birds」とは、いわば同名曲です。◇萌音の「Little Birds」も、萌歌の「ダリア」も、彼女たちの音楽にとっては中心的な位置づけの作品じゃなく、どちらかといえば脇役的な楽曲になると思うけど、ひそかに共通の価値観で通じ合ってるように聴こえるのです。
2021.06.16
驚くほどアレンジのセンスがいいし、映像のセンスも良い。Words & Music: カネコアヤノArrangement: YaffleArrangement: 鳥山雄司Arrangement: 大橋トリオアレンジャーの面子が凄まじい…。
2021.06.13
NHKはこれまでにも、北海道の一族のルーツとか、安彦良和についての番組を作ってますが、今回は、ひたすら作業場を撮影する番組でした。おかげで美しい絵をたっぷり堪能できた。できれば、彩色するところも見てみたい。◇安彦良和の絵は、ほかの誰とも似ていません。学生運動の闘士だった人の、硬派な内容のストーリーとは裏腹に、その絵の柔らかさと美しさには、ほとんど女性的な繊細ささえ感じます。◇今回の番組でくりかえし語られたのは、彼の根っこが「アニメーター」だということ。このことが、漫画の作風にも大きく影響しているのですね。ペンで書くのではなく、筆で塗る。これはアニメーターならではの手法ですが、だからこそ、絵が柔らかくなるし、より絵画的になるのだと思う。あえて水分の滲みやすい用紙を使ってるところにも、やはり「塗る」という発想に近いものを感じます。普通の漫画家のように、線とセリフで物語を筋を語っていくのではなく、また、メカの形状を精密に描写するのでもなく、すべての事物と、場面と、出来事を、ひたすら淡い「光と影」によって浮かび上がらせています。これは、ある意味で印象派に近いかもしれない。どんな硬質なメカニックであっても、それを遠くから見れば、やはり光と影の視覚現象にちがいはないのだから。しかも、アニメーターというのは、止まった絵ではなく、動く絵を作る人たちです。1枚1枚の絵には、かならずその前と後に流れる時間があって、すべての絵は、一連の動きのなかの一瞬でしかない。逆にいえば、どの一瞬のなかにも躍動が宿っているし、しかも、そのすべての瞬間を分析的に取り出さなければなりません。そこがまた漫画の発想とは違うところでしょう。◇考えてみれば、このような安彦良和の特徴は、彼のライバルの宮崎駿に共通してるかもしれません。(ちなみに2人とも所沢在住)宮崎駿の光と影の柔らかさ、人物の柔らかさ、メカの柔らかさ、そして動きのダイナミズム。一般的には、アニメよりも漫画のほうが「絵画的」と思われがちだけど、ほんとうは逆なのかもしれません。NHKプラスの配信は16日まで。click!
2021.06.10
凄かった~!!思わず我を忘れて見入ってしまいました。ドラマ『まめ夫』で絶賛注目されているKID FRESINOと、萌歌が好きだと言っていたカネコアヤノ。NHKの音楽番組がこんなに面白いと思ったことないよ!生放送でこんなハイクオリティな演出ができることも驚き!渋谷のセンター街を歩いてると思ったら、いつの間にかスタジオの中?!どうなってんの~!!そのほかにもカッコよくて驚くような演出がたくさん。これはNHKの音楽番組史に残るような、伝説的な回になったと思います。もちろん映像だけでなく、音楽的にも素晴らしかった。ヒップホップにこんなに聴き入ったのは初めてかも。センスが良いだけでなく、スティールパンが入ったり、ストリングスが入ったり、サウンドも豊かで多彩だし、表現にユーモアもある。◇毎回、フジの『まめ夫』の内容とセンスの良さにも驚かされるけど、今回のNHKの番組にも心底驚かされました。ドラマといい、映像といい、音楽といい、いままでにない表現が出てきてる感じだなー。↓来週の土曜日までNHKプラスで見れるようです。click!
2021.06.06
まずは、THE FIRST TAKE ver.YouTubeで萌歌の新曲が公開。作詞・作曲は古舘佑太郎(息子ですね)。◇いままでは別れの曲が多かったけど、今回は初々しい恋の歌。ちょっと青くさいけど、いい曲です。キャッチーな要素もあるし、萌歌のパブリックイメージにも近いし、彼女の魅力をうまく引き出せる楽曲だといえる。Yaffleのアレンジは、あいかわらず洗練されているものの、悪くいえば"今までどおり"なので、全部がこのパターンだと、だんだん新鮮味に欠けてくるというか、正直、飽きが来る可能性もある。今回は、あくまで FIRST TAKE バージョンなので、オリジナルの編曲がどうなるかはまだ分からない。シングルカットされる可能性もあるけど、すくなくともアルバム発表までは2ヶ月近くある。いままでに比べて明るい内容の歌だから、安定した力強さのあるパフォーマンスと、サウンド的にも明るい印象の編曲になればいいよね。いい意味での裏切りに期待します。◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 6/5追記!オリジナルver.が公開!格段にアレンジが良くなった!!感動!!
2021.05.12
萌歌の2枚目のミニアルバムが出ます。サポートメンバーは前作と変わらないので、基本的な路線は同じだと思います。ある意味では、フルアルバムを半分ずつに分けた形ともいえる。これは、サブスク時代のソニーの音楽制作にとって、ひとつのモデルケースなのかもしれません。◇一方で、わたしが興味を感じてるのは、彼女が大瀧詠一をよく聴いているということ。これは意外でした。現在のadieuの音楽は、どちらかといえば細野=ティンパンアレーに近いような、研ぎ澄まされた《引き算》の音楽です。これに対して、萌歌が愛聴してるらしいのは、まさにソニーのコンパクトディスク時代を象徴する、80年代のナイアガラサウンドなのですね。これは非常にファンタスティックな《足し算》の音楽。そして、それは、現在のadieuの音楽よりも、むしろ「はなかっぱ」や「パプリカ」の方向性に近いと思う。萌歌が、彼女の望みどおりに、「夢で逢えたら」をカバーするとしたら、それがどんなサウンドになるのか楽しみです。◇ちなみに、今夜は4本目のFirstTakeも公開されます。
2021.05.12
NHKアニメ「龍の歯医者」前後編を見ました。舞城王太郎の原作。庵野秀明の制作統括、鶴巻和哉の演出。スタジオカラーの作品。日本アニメの想像力を結集したような世界でした。◇竜に遭遇して船が沈むのは、まるで「ゲド戦記」みたいなオープニング。人間と竜の契約とか、生きることと死ぬことの意味を問う内容も、どことなく「ゲド戦記」に似ています。天狗虫になって空を飛ぶ柴名姐さんは、「山賊のむすめローニャ」に出てくる鳥女みたい。丸っこくて巨大な竜のイメージは、ほとんど空飛ぶ猫バス?(笑)あるいは宮崎アニメに出てくる飛行マシンのような、あるいは空飛ぶ要塞というか天空の城みたいな雰囲気もある。住み込みで働く少女は「千と千尋」っぽいし、異形の虫歯菌たちも、なんだか油屋の化け物っぽく見えます。竜の巨大な歯はモノリスみたいですよね。ちなみに、下の歯しか治療してないように見えたけど、上の歯はどうやって治療してるんでしょうか?(笑)◇後編は、完全に庵野秀明の世界。前編に比べて、かなりエヴァっぽくて既視感強めなのが欠点かな。アスカを想うシンジくんの一人語りみたいに物語が進みます。虫歯菌との戦いは、使途との戦いに見えてくるし、竜も、ATフィールドみたいな結界で防御されてる。破滅をもたらす巨大な竜は、完全にシンゴジラそのもの。オザケンの歌に、まったく違う意味合いが付与されていくところも、いかにも庵野らしい手法だなあと思います。一方、方言が飛び交うの戦場の描写はなにやら「この世界の片隅に」っぽくもあるし、失われたものへの執着と悔恨に生きる柴名姐さんの姿は、どこか「ハウルの動く城」を思わせる部分もある。死者の魂が竜の体内に戻るという世界観や、竜の歯と一緒に空から落ちていくシーンは、もしかしたら「天気の子」に引用されたのかなと思えるし、ピストルの意味合いにも「天気の子」との共通性を感じる。竜の親知らずを祭ってる出雲っぽい神殿を見ていたら、「天気の子」に出てくる屋上の祠と鳥居とか、口噛み酒の伝統を受け継ぐ「君の名は」のシーンも思い出しました。◇最後のベルのモノローグによれば、竜の虫歯は、人々の思いの残りカス。運命(=死)を受け入れられない人々の、断ち切れない恨みや未練や後悔が虫歯菌になる。誰かが心を動かすたびに、それはいつしか竜の虫歯菌に姿を変えてしまう。ベルは、最後にこんな回想をします。12才のとき、池の真ん中で馬に振り落とされた。尻尾で虫を払うように自分を殺しかけた馬は、眩しい午後の光粒のなかで美しく体をふるわせていて、死にかけの僕は、その気高い姿に胸打たれていた。僕の心から何かの虫が生まれたとしても、あの歯医者たちに任せておけばいい。君とあの馬の姿が重なるよ。君を想うと、血液とは違う何かが僕の胸を満たしていく。竜の歯医者になれるのは、みずからの運命を受け入れられる者だけ。歯医者たちは、馬のような気高さと真っ直ぐに生きる力強さで、竜の歯に蓄積される負の感情に立ち向かう。ベルは、竜の歯のなかから蘇り、ふたたび竜の歯に戻っていく生命の循環のなかで、馬のように気高く生きる歯医者たちに出会い、その力強さで胸を満たしたのです。◇一方、天狗虫と化した柴名姐さんの負の思念は、人々の殺意を養分としながら巨大化し、ついには殺意ある者たちを全滅させます。これはシンゴジラに通じる世界観かもしれない。運命にしたがう者は気高い。けれど、運命にさからう者は勇敢である。そして、どちらも美しい。これが、この物語の矛盾をはらんだ価値観です。◇引用に次ぐ引用、寄せ集め的といえば寄せ集め的だけれど、日本アニメの伝統が蓄積されてこそ出来上がった想像力の粋であり、スペクタクルとしても素晴らしいし、ちょっとテレビアニメにしておくのはもったいない作品でした。いまのところ続編の気配はありませんが、もし続編があるとすれば、ベルではなく、柴名姐さんの物語だろうと思います。
2021.05.08
元祖 FIRST TAKE の萌歌による、3度目のパフォーマンスは「よるのあと」でした。印象的だったのは、小島裕規、大月文太、山本連、福岡高次の4人による、そぎ落とされた透明なサウンド。ジャズ的というか、細野=ティンパンアレー的というか、必要最小限の繊細さ。Piano & Drum machine:YaffleGuitar:Bunta OtsukiBass: Ren YamamotoPercussion : Takashi Fukuokaついでに小袋成彬の作った「天気」も聴きなおして、あらためていい曲だなあ、と再認識しました。
2021.05.01
BS11の「アニソンデイズ」を配信で視聴。由貴ちゃんと武部聡志が出演して、めぞん一刻の「悲しみよこんにちは」と、コクリコ坂の「さよならの夏」を披露しました。◇手嶌葵が歌った「さよならの夏」は、谷山浩子×武部聡志の書下ろしではなく、万里村ゆき子×坂田晃一が作った古い曲なのだけど、これが斉藤由貴にぴったり!!こりゃあ、レコーディングの可能性大だなあ。もともとは、1976年の森山良子の曲です。古い!!横浜を舞台とした日テレの同名ドラマの主題歌。岩下志麻と細川俊之の不倫メロドラマで、原作は、原田康子の小説「廃園」だそうです。「森 雪之丞」が「森雪 之丞」になってる(笑)。もりゆき これじょう?萌音も高橋留美子つながり!5月14日まで配信中です。↓わたしのTwitterからリンクで跳べます。Anison Days 第198回斉藤由貴/武部聡志/高橋留美子/宮崎吾朗https://t.co/fgoboLVZNM— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) May 1, 2021
2021.05.01
日テレ「おしゃれイズム」に広瀬すずが出てました!話によると、映画『海街diary』の4姉妹(綾瀬・長澤・夏帆・すず)は、今でもときどき会ってるらしい。招集するのは長澤まさみだそうです。(是枝はいっさい呼ばれてない模様)◇是枝裕和の『海街diary』は、作品としての出来不出来はよく分かりませんが、事務所も異なる女優たちが一堂に会したという意味で、映画史的(芸能史的?)に重要な作品です。とくに、東宝の長澤まさみとホリプロの綾瀬はるか、「セカチュー」映画版とドラマ版のアキがW主演するのは、他の作品ではちょっと考えられないことでした。独立系の映画作家だからこそ実現できたのかもしれません。じつは是枝には別の下心があって、彼はもともと斉藤由貴の大ファンだったので、長澤まさみを介して由貴ちゃんに会いたかったようです。事実、撮影直後の長澤まさみと由貴ちゃんが、三谷幸喜の舞台「紫式部ダイアリー」で共演したとき、彼は「長澤まさみに会う」という名目で楽屋に入って、ちゃっかり由貴ちゃんとの初対面を果たしたのでした。(わたしはこれを「ダイアリー作戦」と呼んでいます)その後、是枝は、松本隆の「風街であひませう」というCDの仕事を経て、ついに映画『三度目の殺人』で由貴ちゃんを起用。由貴ちゃんがスキャンダルに見舞われたときは、ガダルカナルタカに頭をスッパたかれながらも、由貴ちゃんの代理で東スポ映画賞を受け取ったりしていました。そうした功徳を積んだおかげで、彼は2018年にパルムドールを獲得。すっかり世界的な映画監督になったのでした。ちなみに『海街diary』は、その後のさまざまな作品にも波及していきました。長澤まさみが、沢口靖子の後を継いで、キンチョー「虫コナーズ」のCMに出たときは、是枝が演出することになりましたし、広瀬すずが「ファイブミニ」のCMに出たときも、是枝が演出を担当しました。さらに、「AU森家」のCMでは、由貴ちゃんと夏帆が共演。「ちはやふる」では、すずと萌音が共演、「ぎぼむす」では、綾瀬はるかと萌歌が共演するなど、海街女優と東宝女優との組み合わせから、さまざまな作品が生まれることになったのでした。◇ちなみに、わたしは『海街diary』を観ましたが、途中で眠くなってしまったので、いまだに後半部分を観てません…。▼もっと詳しい話はこちらをご覧ください。http://manzara77.blog.fc2.com/blog-entry-361.html
2021.04.12
萌音と美波を追うのも、だいぶ忙しかったけれど、ここ数日は、萌歌を追うのに忙しい。テレビの出演が続いて、ラジオの放送も始まって、そうかと思うと新曲も出ました。にわかに活動しはじめたのは、大学生活を終えたから?とも思ったけど、ラジオの話では、まだ大学には通ってるみたい。新曲が出てきたってことは、次のアルバムの制作もはじまってるのかしら。なんでも「夢で逢えたら」を歌いたいんだとか。へえええ。ちょっと意外。誰のバージョンで聴いたんだろう?シリアポール?◇J-WAVEのラジオも楽しい。富田望生ちゃんは、文章も上手だけど、お喋りも上手だねえ。来週は、井之脇海との午後ティートークも楽しみ!彼はまっすぐな感じの好青年。付き合っちゃえばいいのに(笑)。◇…てなことを思ってたら、姉の萌音のカバーアルバムの告知も出てました。朝ドラも、帝劇もあるのに、ライブツアーまでやるんですか!!そんな萌音・萌歌のこともふくめ、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して、いろいろ喋ってきました。↓http://manzara77.blog.fc2.com/blog-entry-361.htmlお皿洗いながらチェット・ベイカー、素敵ねえ
2021.04.11
土岐麻子の『HOME TOWN』というカバー集。ずっと聴いてます。HOME TOWN 〜Cover Songs〜01. ソラニン 編曲:川口大輔02. Jubilee 編曲:関口シンゴ03. アイ 編曲:佐伯youthK04. 夏夜のマジック 編曲:Shin Sakiura05. 楓 編曲:mabanua06. Rendez-vous in '58 (sings with バカリズム) 編曲:川口大輔07. 白い恋人達 編曲:川口大輔08. I Miss You 日本語訳詞:土岐麻子 編曲:関口シンゴ09. CHINESE SOUP 編曲:トオミヨウ10. VITAMIN E・P・O 編曲:トオミヨウ11. HOME 編曲:トオミヨウ彼女のアルバムにしては珍しく、わたしともすごく波長が合う(笑)。いつもの土岐麻子は、昔のEPOみたいに、80年代風のシティポップを軽快に歌ってる人です。でも、わたしにはそれがちょっと軽快すぎる。あまりにも陰翳がなさすぎて明るすぎるので、日本人的なわたしの情緒には、かえって疲れてしまうのです。その点、今回のアルバムは、ほどよい湿度と陰翳があります。しっとりしたバラードが多いけれど、持ち前の明るくて軽やかな歌声のおかげで、重くなりすぎず、湿っぽくなりすぎず、ほどよく優しく、ちょうどよく沁み入ってくる。わたしの情緒にもしっくりきて優しい。どうやら周囲の意見を取り入れて選曲したらしく、本人としては妥協の産物だったのかもしれません。いわば最大公約数的なポピュラリティ。でも、それがうまくいったんだろうなと思います。アレンジも洗練されていながら、尖りすぎず、まったく邪魔にならないサウンド。とくに秦基博の「アイ」は、なんとなくBill Withersの「Lean On Me」を思わせる感じ。本人の好みかどうかは分からないけど、彼女にこういうバラードは合っている気がします。
2021.04.06
TVで「ハウルの動く城」を見て、物語の構造が「千と千尋の神隠し」に近いと思いました。15年ぐらい前に、https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/4001/という文章を書いたのですが、いっそうクリアに理解できるようになった気がします。文明の繁栄人生の幸福湯婆(無限成長世界) → ハク → 銭婆(持続可能世界)サリマン先生文明との契約戦争と経済と国家(理性への欲望) → ハウル → 荒れ地の魔女悪魔との契約恋と若さと美しさ(ふしだらな欲望)巨大な文明の繁栄を選ぶのか。小さな人生の幸福を選ぶのか。その究極の選択の物語です。そこには、二つの異なる価値体系があり、二つの異なる欲望があります。文明による支配を実現したいという欲望は、一見すると、理性的に思えるけれど、絶え間ない戦争をもたらすような神への冒涜でもある。恋と若さと美しさを謳歌したいという欲望は、ふしだらで堕落した悪魔の欲望ではあるけれど、それこそが人間的なのだということもできます。魔法によって名前を奪われた千尋や、魔法によって若さを奪われたソフィは、二つの世界が対立する渦中へと迷い込みます。湯婆を裏切ったハクや、サリマン先生を裏切ったハウルは、文明の勝利する世界ではなく、人間が人間らしく生きられる世界のほうを選ぶのです。ナウシカも、映画版では文明の過ちを否定しています。◇…しかし、ナウシカの漫画版を見ると、「文明の過ちですらも人間的なのだ」と考えを変えています。さながら堀越二郎が、最後まで飛行機という「文明」への夢を捨てなかったように。シネマレビューにも書いたのですが、https://www.jtnews.jpどちらにせよ、これらは悔恨の映画なのだろうなと思います。◇4/15追記。TVで「ゲド戦記」を見ましたが、これまた同じ図式でした…。チャートも次のように書き換えました。成長する世界反復する世界湯婆(無限成長世界) → ハク → 銭婆(持続可能世界)サリマン先生文明との契約(知性と理性と経験) → ハウル → 荒れ地の魔女悪魔との契約(恋と若さと美しさ)クモ不死(永遠性)への欲望 → アレン → ハイタカ生と死(有限性)の反復↓具体的なことはこちらに書いています。https://www.jtnews.jp
2021.04.05
もかぁ~~~。あでゅ~~~。真打ちの登場ですよ~~!東宝シンデレラですよ~~!萌音も美波も前座ですよ~~(笑)。って、これが初の歌番組だったとは!萌音はガンガン歌ってるのに!しかも、2年も前の曲なのに!もしかして、これがソニーの戦略?温存してた?満を持してって感じ?それにしても、めちゃめちゃいい曲だよね。
2021.03.30
アニメ「約束のネバーランド」。第1期から第2期までの全話が終了しました。最終話の内容は、ずいぶんと駆け足で、これまでにくらべて、だいぶ絵のクオリティが低いのも驚きでした。ラトリー家の歴史についても、ハッピーエンドまでの流れも、かなり話を端折ったような印象を受けました。あとで調べてみたら、原作のほうは5つの章に分かれていて、今回のアニメの内容は、そのうちの第1章と第2章に当たるらしい。アニメの最終話のラスト数分間は、いわば残りの3章分のダイジェストのような、あるいは予告のような映像だったのかもしれません。◇アニメ終盤の出来が悪いのは、原作者が脚本の執筆から離脱したためという噂もあります。いずれにせよ、制作体制になんらかの混乱があったのかなあと思う。今回の最終話については、もういちどしっかり作り直してほしいと感じますし、残りの3章分についても、きちんとアニメ化してほしいという声は出るでしょうね。…ただ、個人的な考えをいえば、かりに残りの3章分をアニメ化しても、よくある騎士物語みたいなものにしかならない気はする。ここまでの内容を見ただけで、おおよその物語の構造は理解できたのですが、やはり、この作品でもっとも重要なのは、第1章にあたる農園の物語なのだろうと思います。◇◇「鬼滅の刃」にしても、「進撃の巨人」や「東京喰種」にしても、最近は、人間が喰われる内容の漫画が多い。「BEASTARS」も擬人化された肉食獣の話です。「約ネバ」には邪血の少女が出てきますが、彼女は、人間を食わなくても耐えられる鬼であり、その意味では「鬼滅」の禰豆子と似ています。いずれにしても、《喰う者と喰われる者の関係》を考えることが、これらの作品に共通したテーマなのだと思います。◇ちなみに「約ネバ」の物語の設定は、カズオイシグロの「わたしを離さないで」に似ています。「わたしを離さないで」は、《臓器提供》の話であり、かなり時事的なテーマに触れている。一方の「約ネバ」のほうは、鬼に供するための食用児の養殖の話ですが、これはあきらかに"人間と家畜"の関係の比喩になっていて、《食》という万人共通の問題を扱っていますから、臓器移植よりも、さらに根源的な内容であり、誰ひとり避けられないテーマに触れていると言えます。◇動物として生きている以上、喰われることの苦痛や、喰うことの罪責感から逃れられません。その意味で、動物は不幸になるように運命づけられているし、あらかじめ不幸な存在として設計されています。多くの人は、これを回避するために「気にしない」という手段をとっていて、気にせずに済むような高度な社会システムも整備されています。そして人間は、事実上、家畜などの動物を「脳のない肉」と見なして食べています。じつは家畜にも、脳があり、意識があり、苦痛や幸福感があるということを便宜的に無視しています。一方で「約ネバ」の鬼たちは、人間の肉よりも、むしろ脳を食べる生き物として描かれます。彼らは、人間のような精神を獲得するために脳を摂取します。実際、脳を食う生き物が現れたとしたら、真っ先に狙われるのは、大きな脳をもっている人間です。鬼たちは、人間の脳を安定的に食べるために、その養殖をおこなう。良質な脳を獲得するために、その家畜を愛情をもって飼育します。◇わたし自身は、普段から気にせずに肉を食べていますが、現代社会では、このことを気にする人も増えています。動物に強いられた本源的な不幸であるにもかかわらず、そのことを気にせずにいられなくなっているのは、逆にいうと、この不幸を回避する手段が増えているためかもしれません。たとえば、動物の生命を奪わずに、たんぱく質だけを摂取する技術も生まれはじめている。あるいは、食による栄養補給とは別の手段で、人間としての身体を維持する可能性も見えてきている。将来的に、それらの技術は完成するだろうと思います。そして、この本源的な不幸から逃れたところにこそ、人間のほんとうの自由はあるはずだ、というのが、この作品の最終的な思想なのだと思います。◇◇ところで、「約ネバ」の物語には、人間と鬼との葛藤だけでなく、鬼同士、あるいは人間同士の階級闘争の問題も絡んでいて、かなり重層的な構造になっています。食を支配する者は、あえて飢えを作り出そうとするし、医療を支配する者は、あえて病を作り出そうとするし、暴力を支配する者は、あえて騒乱を作り出そうとします。それによって階級の安定を図ろうとするからです。いつまでたっても問題が解決しないのは、階級を支配する者たちによる、そのような邪悪さのためです。さらに「約ネバ」の物語には、混血性の問題も折り込まれています。邪血というのは、おそらく人間と鬼との混血であり、いわゆる異類婚姻から生まれた子供だと思いますが、この「邪血」という言葉のなかには、異質なものと交わることへの忌避感が読み取れます。つまり、それは、人の側から見ても「汚れた血統」であり、鬼の側から見ても「汚れた血統」だということ。しかし、混血は、"ハーフ"であると同時に"ダブル"でもあって、双方の長所をあわせもった存在でもあります。「約ネバ」の物語では、混血性によって双方の断絶が乗り超えられていくようです。◇この物語は、TBSの平川雄一朗によって実写化されましたが、さほど話題にはなっていない感じです。ちなみに平川は「わたしを離さないで」のドラマ版も担当しています。わたしはまだ見ていないのですが、こういう作品を映画化するときは、たんなるアニメの実写化という安易な認識ではなく、世界に通用するコンテンツだという強い自覚をもって、はじめから海外にむけて発信すべきだと思います。そのためには、物語の思想・背景をとことん深めなければならない。そうしないと、せっかくの国産のコンテンツが無駄になってしまいます。
2021.03.27
昨夜、関ジャムの J-POP 20年史ランキングが発表されました。わたしの予想は、「パプリカ」「ポリリズム」「PPAP」の、いわゆる"3P"フィニッシュだったのだけど(変な意味じゃありません!)第1位に選ばれたのは、P は P でも「Pretender」でした。惜しい!◇上位30曲のうち、わたしの予想が当たったのは16曲。思ったよりも、正答率が低い…。上位50曲でも18曲しか当たっていません。ちなみに、元ちとせ「ワダツミの木」夏川りみ「涙そうそう」森山直太朗「さくら(独唱)」Superfly「愛をこめて花束を」サカナクション「新宝島」…あたりは、迷ったうえで外した曲なので、それほどの不満はありませんけど。◇しかし!それでもなお、今回のランキングには、かなり不満があります。それは、以下の6つの点で。1.一青窈の「ハナミズキ」を無視している。2.MONGOL800の「小さな恋のうた」を無視している。3.いきものがかりを全面的に無視している。4.中島みゆきを全面的に無視している。5.RADWIMPSとLiSAの評価が低い。6.90年代の価値観を引きずりすぎている。これらの点について、番組関係者には納得のいく説明をしてもらいたい。このままでは断固として受け入れられません!(笑)◇1.一青窈「ハナミズキ」を無視している。「ハナミズキ」は2000年代をもっとも代表する曲で、カラオケでもつねに上位にランキングしつづけています。たとえば夏川りみの「涙そうそう」などは、ほとんど歌謡曲として受容されたというべきですが、「ハナミズキ」は、あきらかなJPOPであるにもかかわらず、まるで歌謡曲のように世代を超えた受容を実現しました。そのことの意義をもっと深く認識してください。この曲を結婚ソングとして見るべきかは議論があるけど、Superflyの「愛をこめて」とか、木村カエラの「Butterfly」がランクインしてるのに、「ハナミズキ」だけランク外というのはかなり違和感があります。番組関係者は、土下座したうえで説明してください。2.MONGOL800「小さな恋のうた」を無視している。2000年代には、ORANGE RANGE、HY、GReeeeN、ケツメイシ、湘南乃風、WANIMAなど、ガレージパンク系のバンドが活躍するようになったのですが、その発端が、このモンパチのインディーズヒットでした。このヒットは2000年代の音楽シーンの先駆的な出来事。しかも、彼らの音楽は日本を超えて世界的に認知されました。これを見逃したのは、かなりの過失です。土下座案件。3.いきものがかりを無視している。まさか1曲もランクインしてないとは…!しかも水野良樹が座ってるのに…!(笑)どういうこと?忖度がないにもほどがある。番組終了後に、出演者やスタッフは、いったいどんな顔で水野に接したのでしょうか?まあ、いきものがかりと西野カナはヒット曲が多かったので、票が分散してしまった可能性はあるし、それと似た理由かもしれないけど、EXILE関連を完全無視ってのもスゴイですよね。逆にいうと、ヒゲダンが「Pretender」だけに集中して、「宿命」や「I LOVE…」にまったく分散しなかったのが謎です。そんなことありえるでしょうか?ちょっと集計方法にも疑念をもってしまいます…。4.中島みゆきを無視している。小田和正と中島みゆきと桑田佳祐は、2000年代にもヒット曲を出したのですが、わたしは、この3人を見比べたうえで、あえて中島みゆきだけを選びました。彼女は、まず現役のミュージシャンとして、いきなり「地上の星/テールライト」「銀の龍」を2000年代初頭にヒットさせ、さらにTOKIOに「宙船」を提供し、きわめつけに「糸」もリバイバルヒットさせました。とりわけ「糸」は、「ハナミズキ」と同様に、世代を超えた国民的なヒットになっています。(発表は90年代だから除外したけど)総合的に見て、彼女が2000年代に示した存在感は、小田や桑田よりも頭ひとつ抜けています。桑田の曲が2つもランクインしてるのに、中島みゆきを完全無視って違和感ありあり。これについても、責任者には土下座のうえで説明してもらいたいです。5.RADWIMPSとLiSAの評価が低い。もしかしたら、RADWIMPSとLiSAは「アニソン」扱いってことで、音楽的に低く見られているのかもしれません。しかし、アニソンがアーティスティックな意味で評価され、なおかつ巨大なセールスを挙げるというのが、2000年代の特徴的かつ画期的な現象だったわけだし、LiSAのレコ大受賞はそれを象徴する出来事でした。まずは、この時代性を重視しなければなりません。さらに、こう言っちゃなんだけど、たとえばヒゲダンとか星野源とかって、音楽的には素晴らしいけど、作詞がヘタクソなのです。その点、野田洋次郎とLiSAは歌詞が素晴らしい。とくに野田洋次郎は、(たまに「HINOMARU」みたいなこともやらかすけど)作詞家としての能力が同世代のなかでは傑出しています。そのあたりの認識が十分に共有されていないようです。番組関係者は、この点についても再考してください。6.90年代を引きずりすぎている。ゴールデンタイムの放送ってことで、オジサンやオバサンの視聴者にも忖度したのか、あるいは選者自身がオジサンとオバサンだったのか、だいぶ90年代の価値観を引きずった結果になっています。2000年代の上位50曲のなかに、桑田もミスチルも2曲、林檎も宇多田も2曲って、いくらなんでも多すぎるでしょ。わたし自身は、今回の30曲を選ぶ際に、あらかじめ90年代のミュージシャンを除外しました。まずミスチル、スピッツ、林檎、宇多田を除外して、もちろん浜あゆも、B’zも、除外。基本的にはスマップも除外しました。ただ「世界に一つだけの花」にかんしては、あれはもう楽曲うんぬんの問題じゃなく、ひとつの現象として評価したうえで選びましたけど。林檎の「ギブス」や、宇多田の「traveling」は、たしかに素晴らしい曲だし、それを選ぶこと自体に不満はないのですけど、選んだ人たちは、その曲が2000年代に発表された時代的な意義を、しっかりと説明できなきゃいけません。(わたしなら説明できる自信があります)いずれにせよ、スマップを2曲選ぶくらいなら、キンプリの「シンデレラガール」を選ぶほうが正しかったと思います。アイドルがらみでいうと、欅坂がランク外だったのもやや不満です。
2021.03.04
明日の3/3に、「J-POP 20年史ベスト30」が発表されるってことで、一昨日の関ジャムでは、4人の選者が事前にランク外作品を紹介してました。ちょっと興味深かったのは、鬼滅の「紅蓮華」を作曲した草野華余子が、2000年代は、日本語の母音をカットして子音だけで歌うのが主流だったけど、2020年代になって、また母音が復活している。と話してたこと。これは、かなり的確な指摘だと思う。桐谷健太や菅田将暉や上白石姉妹など、俳優による歌唱が注目されてるのも、やはり日本語表現の回復に関係してると思います。◇さて、肝心の予想ランキングですが、個人的な好みでいえば…キリンジ「エイリアンズ」Perfume「ワンルーム・ディスコ」いきものがかり「YELL」MISIA×GReeeeN「アイノカタチ」King Gnu「白日」RADWIMPS「愛にできることはまだあるかい」折坂悠太「さびしさ」ヒゲダン「I LOVE...」あいみょん「裸の心」LiSA「炎」…あたりがベスト10なのですけど(笑)まあ、予想としては、以下に大きな文字で書いた30曲が、たぶん有力なんじゃないかなあと思います。すでに「ハナミズキ」がランク外確定だったのはかなり驚きですが。ちなみにベスト3は、ぜんぶPならびで、「パプリカ」「ポリリズム」「PPAP」もありうると思う。◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 2000キリンジ「エイリアンズ」MISIA「Everything」中島みゆき「地上の星」平井堅「楽園」(ランク外確定)鬼束ちひろ「月光」小柳ゆき「あなたのキスを数えましょう~You were mine~」夏祭り「Whiteberry」大泉逸郎「孫」福山雅治「桜坂」浜崎あゆみ「M」B’z「今夜月の見える丘に」花*花「さよなら大好きな人」サザンオールスターズ「TSUNAMI」2001MONGOL800「小さな恋のうた」BUMP OF CHICKEN「天体観測」CHEMISTRY「PIECES OF A DREAM」(ランク外確定)中島美嘉「STARS」木村弓「いつも何度でも」氷川きよし「箱根八里の半次郎」ゴスペラーズ「ひとり」Kiroro「Best Friend」宇多田ヒカル「Can You Keep A Secret?」椎名林檎「ギブス」モーニング娘。「恋愛レボリューション21」2002RIP SLYME「楽園ベイベー」(ランク外確定)平井堅「大きな古時計」元ちとせ「ワダツミの木」2003SMAP「世界に一つだけの花」大塚愛「さくらんぼ」(ランク外確定)夏川りみ「涙そうそう」森山直太朗「さくら(独唱)」はなわ「佐賀県」中島美嘉「雪の華」TOKIO「AMBITIOUS JAPAN!」宇多田ヒカル「COLORS」2004平原綾香「Jupiter」スキマスイッチ「奏」一青窈「ハナミズキ」(ランク外確定)ORANGE RANGE「花」ゆず「栄光の架橋」平井堅「瞳をとじて」2005修二と彰「青春アミーゴ」(ランク外確定)小田和正「たしかなこと」(ランク外確定)伊藤由奈「ENDLESS STORY」コブクロ「ここにしか咲かない花」EXILE「ただ…逢いたくて」スキマスイッチ「全力少年」Crystal Kay「恋におちたら」YUI「feel my soul」木村カエラ「リルラリルハ」大塚愛「プラネタリウム」2006レミオロメン「粉雪」YUI「TOKYO」手嶌葵「テルーの唄」絢香「三日月」「I believe」AKB48「会いたかった」いきものがかり「SAKURA」伊藤由奈「Precious」湘南乃風「純恋歌」TOKIO「宙船(そらふね)」BONNIE PINK「A Perfect Sky」2007Perfume「ポリリズム」YUI「CHE.R.RY」(ランク外確定)秋川雅史「千の風になって」(ランク外確定)フジファブリック「若者のすべて」(ランク外確定)EXILE「道」Mr.Children「しるし」2008GReeeeN「キセキ」HY「366日」青山テルマ feat.SoulJa「そばにいるね」(ランク外確定)Superfly「愛をこめて花束を」アンジェラアキ「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」秋元順子「愛のままで…」EXILE「Ti Amo」ジェロ「海雪」2009いきものがかり「YELL」ゴールデンボンバー「女々しくて」(ランク外確定)木村カエラ「Butterfly」Perfume「ワンルーム・ディスコ」MISIA「逢いたくていま」2010西野カナ「会いたくて会いたくて」Superfly「タマシイレボリューション」植村花菜「トイレの神様」斉藤和義「ずっと好きだった」AKB48「ヘビーローテーション」いきものがかり「ありがとう」(ランク外確定)秦基博「アイ」(ランク外確定)2011SEKAI NO OWARI「スターライトパレード」斉藤和義「やさしくなりたい」福山雅治「家族になろうよ」椎名林檎「カーネーション」2012きゃりーぱみゅぱみゅ「つけまつける」(ランク外確定)いきものがかり「風が吹いている」花は咲くプロジェクト「花は咲く」2013AKB48「恋するフォーチュンクッキー」2014松たか子「レット・イット・ゴー~ありのままで~」(ランク外確定)三代目 J SOUL BROTHERS「R.Y.U.S.E.I.」(ランク外確定)秦基博「ひまわりの約束」(ランク外確定)キング・クリームソーダ「ゲラゲラポーのうた」SEKAI NO OWARI「スノーマジックファンタジー」2015ゲスの極み乙女「私以外私じゃないの」桐谷健太「海の声」西野カナ「トリセツ」(ランク外確定)back number「クリスマスソング」サカナクション「新宝島」2016RADWIMPS「前前前世」ピコ太郎「PPAP」星野源「恋」欅坂46「サイレントマジョリティー」Suchmos「STAY TUNE」2017SHISHAMO「明日も」乃木坂46「インフルエンサー」椎名林檎「人生は夢だらけ」2018米津玄師×Foorin「パプリカ」米津玄師「Lemon」あいみょん「マリーゴールド」King & Prince「シンデレラガール」星野源「アイデア」(ランク外確定)Little Glee Monster「世界はあなたに笑いかけている」(ランク外確定)MISIA×GReeeeN「アイノカタチ」2019King Gnu「白日」ヒゲダン「Pretender」瑛人「香水」(ランク外確定)LiSA「紅蓮華」折坂悠太「朝顔」RADWIMPS「愛にできることはまだあるかい」サカナクション「忘れられないの」2020LiSA「炎」ヒゲダン「I LOVE...」あいみょん「裸の心」藤井風「何なんw」
2021.03.02
新海誠の映画「君の名は。」には、隕石によってできた糸守湖が描かれます。一般に、「糸守湖のモデルは諏訪湖だ」と言われてきたのですが、新海誠自身は、「最初期のイメージは(長野県小海町にある)松原湖や大月湖」だったと述べていました。昨夜NHKで放送された、「ネーミングバラエティー・日本人のおなまえっ!」を見て、ようやくその謎が解けた気がします。なんと「長野に幻の湖が存在した!」というのです…。◇ときは平安時代。西暦887年、五畿七道の地震によって、北八ヶ岳が山体崩壊を起こし、千曲川がせきとめられた結果、現在の小海町や南牧村あたり一帯が、水深130mもの巨大なダム湖になったというのです。その1年後には一部が決壊して、水深は50mほどに減ったそうですが、それでも、そこには100年以上ものあいだ、幻の湖が存在しつづけたそうです。現在の研究者たちは、この湖のことを「古千曲湖Ⅰ/古相木湖」(または南牧湖/小海湖)と呼んでいるようです。まさに、新海誠のいう「松原湖」は、この巨大湖の名残りなのです!そして、松原湖の周囲には、消えた湖の堆積土砂による広大な平野が残され、人々の暮らしと、水運のもたらす経済が育ったのです。◇話はそれだけではありません!長野は内陸県であるにもかかわらず、「本海野」「海瀬」「小海」「海の口」「海尻」など、海にまつわる地名が多いのですが、それらは、ここに幻の巨大湖が存在した痕跡なのであり、のみならず、「海野」「海瀬」「新海」「新津」などの苗字が多いのも、同じ理由からなのだそうです。…新海?!そうです!森岡浩によれば、もともとは「新開(新しい開墾地)」を意味する苗字に、あとから「海」の字を当てたものだそうですが、これもまた、その幻の湖に関係する苗字だったのです!!◇映画「君の名は。」に出てくる糸守湖は、隕石によって生まれたという設定ですが、実際には、地震による山体崩壊が生んだものがモデルだったのです。そして「新海」という苗字のルーツをたどれば、新海誠が、湖や、雨や、竜など、水にまつわる物語を作りつづけるのは何故なのか、その理由もはっきりと見えてくる気がします。おそらく新海家の一族は、地震で突如生まれた巨大湖のそばで生きた人々なのです。◇(追記)新海誠の娘はFoorinの新津ちせちゃんですが、新海誠も、本名は「新津」なのだそうです。新海家ではなく、新津家だったのですね。むろん「津」とは "港" の意味ですから、これもやはり海(=巨大湖)に関係した苗字です。なお、長野県佐久サク市には「新海神社」があるので、新海という芸名はここに由来するのかもしれません。また、長野県と海とのかかわりでいうと、海人族(ワダツミ)に連なる阿曇氏が穂高神社に祀られている…というのも気になるところです。▶映画「天気の子」を民俗学で読み解く◇ついでに余談ですが、松原湖には、畠山重忠にまつわる竜の伝説があります。重忠の母(三浦義明の娘)は、源頼朝に仕えた息子を守るため、松原湖に入水して竜へ身を捧げたとのことです。(もともと彼女自身が竜蛇だったとの説もあり)彼女の墓は、いまは松原湖に水没しており、湖面が下がったときにのみ少し姿を現すそうです。…もともと長野には、諏訪のミシャグジ神 ≒ 建御名方タケミナカタ神を中心に、多くの竜蛇伝承がありますが、一説によれば、口噛み酒(ミサク)もミシャグジ神に関係しているそうです。上述の新海神社が祀っているのも、「興波岐オキハギ」という神様で、これは建御名方の子、もしくは甲賀三郎の子にあたり、いずれにしても蛇神/竜神です。別名を「新開ニイサク」「御佐久地ミサグチ」とも言うらしいので、これまたミシャグジ神に関係しているかもしれません。(追記はここまで)https://t.co/zFI5tXugXo pic.twitter.com/Tn6dlM6ZrT— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) May 11, 2022 話は変わりますが、番組では、「鬼滅」がらみで、鬼のルーツにも迫っていました。ざっくりいえば、鬼というのは修験者(山伏)なのですね。奈良の都の人々は、紀州沿岸の山地に潜伏する修験者たちを、「鬼」と呼んで恐れたようです。この地域には、「鬼」のつく地名や苗字が多いのです。役小角の弟子だった前鬼・後鬼の子孫も実在します。実際、修験の人々は、日に焼けた異形の赤ら顔で、目は爛々と輝いて野性味にあふれ、超人的な身体能力を持ってましたから、しばしば「鬼」「天狗」などと思われたのでしょうね。しかも、金属や水についての高度な知識をもっていたし、朝廷の権力さえ脅かす対抗勢力だったかもしれません。中央政権に統合しきれない鬼たちは、討伐(鬼退治)の対象になっていったのでしょうし、平安朝の嵯峨天皇は、紀伊の修験者たちを統合するためにこそ、空海の密教を利用したのかもしれませんよね。
2021.02.26
こちらは1986年。アイドル当時の由貴ちゃん。20歳。こちらが現在の由貴ちゃん。54歳。「たけしのニッポンのミカタ」より。え?何??タイムワープ??時間軸おかしくない?!ちなみに下は、由貴ちゃんの代わりに東スポ映画賞を受け取りに行って、スッパタかれる是枝裕和の図。
2021.02.22
NHKクラシック音楽館。藤田真央くんが、シューマンのピアノ協奏曲を弾いてました。◇前に「題名のない音楽会」で言ってたけど、もともと彼は、悲しい曲を弾くのが苦手で、昔、先生から、「悲しい曲をなんて嬉しそうに弾くの!」と言われたことがあるそうです。そんな真央くんが、よりによってシューマンのピアノ協奏曲?キャラ的に、真逆なのでは?◇わたし自身、この曲はちょっと苦手です。素晴らしい曲だとは思うけど、なんだか聴いてるだけで鬱病になりそう。(T_T)ロマンティシズムが精神を侵食していくのが分かる。暗すぎて、聴くのがちょっと怖い。わたしのなかでは、真央くんのピアノとは、まったく結びつかない。◇どんなふうに弾くのかと興味津々だったけど、弾く前からニコニコしてるよ!(笑)なんか、ともだちの家に遊びに来て、お菓子を出してもらうのを待ってる子供みたいに。そして、オケが鳴って、おもむろに弾きはじめたら、やっぱり明るいwwwえー?!こんな曲だっけ?シューマンて、こういう人だったっけ?全然べつの曲みたいだよっ!ニッコニコしながら弾いてるしwたとえばクリスマスとかに、何も知らずにこれを聴いたら、「あら!チャイ子のくるみ割り人形かしら?」と勘違いしそうなくらい、軽やかで楽しい演奏。おとぎ話っぽい華やかさ。これがN響との初共演だったようですが、けっこうセンセーショナルだったのでは?天地が逆転しそうなくらいのカルチャーショックでしたが、案外、クララもこんなふうに弾いたのかも。一方、アンコールでは、シマノフスキの甘やかで夢見心地な曲を、なにか苦悶しながら重々しく弾いていて、これがまた不思議なのでした。
2021.02.08
宮崎吾朗/ジブリ/NHK「アーヤと魔女」を見ました。あまりにも唐突な終わり方だったので、なんだか放り投げられた感じです…世間の子どもたちは、あの終わり方をどう思ったのか分からないけど、大人としては、あまりにも未回収なことが多すぎて、思わず謎解きをせずにはいられません!◇冒頭のシーンで、バイクにまたがったアーヤの母親は、黄色い車(シトロエン2CV)に追われており、後ろにミミズをぶちまけて逃げおおせました。あの黄色い車は、かつて彼女がマンドレークやベラ・ヤーガとともに、「Earwig」(ハサミムシ)というロックバンドで活動していたころに、3人で乗りまわしていたのと同じ車です。車のナンバーは「MYA-13W」。(Mandrake/Yaga/A●●●-13Witchの意味かもしれません)現在、その車は、マンドレークの屋敷のガレージに置かれています。アーヤは、その車のなかから、Earwigの「Don't disturb me」というレコードを、もち出したのです。ラストシーンでは、アーヤがベラ・ヤーガに、「黄色い車でピクニックに連れてって」と頼んでいます。ちなみに原作での主人公の名前は「Earwig」ですから、彼女の母親は、バンドの名前をそのまま娘につけたのです。◇アーヤの母は、孤児院に次のような置手紙を残しました。仲間の12人の魔女に追われています。逃げ切ったら、この子を返してもらいに来ます。彼女は、黄色い車に追われていたわけですが、あれを運転していたのは、おそらくベラ・ヤーガです。マンドレークは男性ですから、アーヤの母をふくめて13人の「魔女」がいるわけですね。かりにマンドレークが、カリスマ的なロックスターだったのだとすれば、(どう見てもジョン・レノンにそっくり!)13人の魔女仲間とは、取り巻きのグルーピーだったのかもしれません。そのうちの一人(アーヤの母)が抜け駆けをして、マンドレークの子供を身ごもってしまい、ほかの魔女仲間から追われる身になったのではないかしら?だとすると、マンドレークは、アーヤの父親である可能性が高いし、マンドレークとベラ・ヤーガは、「アーヤが誰の娘なのか」を承知のうえで引き取った可能性がある。ベラ・ヤーガがアーヤに厳しいのは、かつてミミズをぶちまけてきた宿敵の娘だからであり、マンドレークがアーヤに甘いのは、ほかならぬ自分の娘だからなのかもしれません。ラストシーンで、アーヤの母が娘を引き取りに来たのは、彼女が「12人の魔女仲間」から逃げ切ったからだと思うけれど、しかし、そこには宿敵ベラ・ヤーガがいるのです…。屋敷の周囲には、クリスマスツリーがあり、屋上には「Don't disturb me」のイルミネーションが飾られています。◇ちなみに、Earwigの「Don't disturb me(邪魔するな)」の歌詞はこうです。あぁ悪魔は冷えた竃の中で灰をかぶりアカギレ裸足の娘が泣いているいつまで待てば夢の王子様が白馬で迎えに来るのさ…これは「シンデレラ」のことでしょうか?お城の塔では玩具に囲まれて青ざめた顔で王子は引きこもり百個の鍵を部屋の扉にかけて女はママしか知らないあぁ愚かな王子、あぁ醜い娘よあぁ扉は開けるためについてるのさ…これは「ラプンツェル」のことでしょうか?◇宮崎吾朗の「山賊の娘ローニャ」もそうだったのですが、「シンデレラ」も、「ラプンツェル」も主人公の少女が、悪い大人(親)の呪縛を乗り越える物語になっています。山賊の娘ローニャは「わたしは山賊にはならない!」と宣言します。少女たちは、親世代の「悪」をけっして引き継がないのです。シンデレラやラプンツェルに登場する大人たちは、少女にとっての「模範」ではなく、むしろ悪しき「反面教師」です。それらは少女の成長物語なのですが、少女が大人になる、ということは、けっして「親世代と同じ」になることではない。むしろ、親世代とは違う道を選ぶことなのです。そこには、悪い大人(親)と同じような生き方をしない、という強いメッセージがあります。たとえばラプンツェルにとって、塔の内側は、けっして安息の空間ではなく、生きる屍にされてしまうような恐ろしい場所です。塔の上には、鐘ではなく、死人の生首が吊るされているのかもしれません。だから、外に出るためには、みずから扉を開けなければならないのです。アーヤはそれを、軽々とやってのけます。
2020.12.31
ミュージックステーション ウルトラSUPER LIVE 2020。LiSAの舞台セットが、今年見たなかでいちばんカッコよかったので、思わず画像保存(笑)
2020.12.27
NHK-FMのベートーベン250。第四夜は室内楽の特集でした。「ラズモフスキー」や「クロイツェル」の話かと思いきや、ゲストがチェリストの長谷川陽子だったこともあり、おもにチェロの作品を取り上げていました。◇あくまで個人的な印象ですが、ベートーベンの室内楽作品は、シューベルトやブラームスあたりの室内楽とは、だいぶ違うんだなあ、と思う。楽器どうしの秘めやかな対話、といった感じの音楽じゃない。つまり「ダイアローグ」の要素が少ないように感じます。これはベートーベンの性格の問題でもあるだろうし、あるいは聴力を失ったことにも関係するのかもしれませんが、弦が響き合う滋味深さみたいなものは、あまり感じない。◇主役が弦楽器に置き換わってはいるけれど、前半生の室内楽作品は、ピアノ協奏曲に近いし、後半生の室内楽作品は、ピアノソナタに近い。いわば、ピアノで歌う代わりに、バイオリンやチェロで朗々と歌っている感じです。外に向かっているか、内に向かっているかの違いはあっても、基本的にベートーベンの室内楽は「モノローグ」なのだと思いました。徹頭徹尾、ひとりで語り、ひとりで歌っている。◇共演という意味では、むしろ「三重協奏曲」なんかが、すごくベートーベンらしい。スター演奏家どうしが、火花を散らしながら、全力でぶつかっていく感じ。このあいだ、Eテレで、ヨーヨーマと、アンネゾフィームターと、バレンボイムの競演を見たけど、華やかで、見てるだけでワクワクするし、理屈抜きで楽しかったです。
2020.12.22
NHK-FM「ベートーベン250」。第五夜は、望月哲也と奥田佳道が声楽曲を解説。歌曲のほかに、「フィデリオ」「エグモント」「ミサソレムニス」をとりあげました。歌劇「フィデリオ」についての話は、途中、地震情報で話が中断されたけど、要は、オペラにあってもなお、やっぱり「愛や平和や正義」を描くのがベートーベンだった!ってことでしょうか。クソ真面目な名作ではあるけど、悪くいえば、エンタテインメント性に欠ける。◇ベートーベンが、オペラで成功できなかったのは何故か。たしかに「観客の理解を得られなかった」という説明は、間違ってはいないけれど、逆にいえば、ベートーベン本人も、本気で観客の期待に応えようとはしなかった、ってことですよね。たとえばロッシーニ流のオペラなら、あるいはモーツァルト流のオペラだったら、もっともっと歓迎をもって受け入れられていたはずです。でも、ベートーベンは、その種の迎合をしなかった。第一夜の加藤昌則の話では、「ベートーベンもロッシーニを好んでいた」とのことでしたが、すくなくとも「フィデリオ」を聞くかぎり、彼は、ロッシーニのことも、モーツァルトのことすらも、オペラを書くための模範にはしていません。◇歌劇「フィデリオ」の特徴として、女性による救済が描かれる、ということがあります。さらに、合唱の見せ場が多いこと、ラストで歓喜と祝祭の大合唱になることがあります。わたしが思うに、そこでベートーベンが意識していたのは、ロッシーニでも、モーツァルトでもなく、おそらくゲーテとヘンデルなのだろうな、ってことですね。女性による救済というのは、ゲーテの題材でもあります。「エグモント」でも「ファウスト」でも、主人公の男性は、女性によって魂を救われます。「フィデリオ」はゲーテの作ではないけれど、やはり女性による救済という点で一致しているし、これは、ワーグナーの歌劇にも通じる特徴ですよね。◇一方、ベートーベンは、ゲーテの文学だけでなく、ヘンデルの音楽のことも、かなり意識していたと思います。これはベートーベンに限ったことじゃなく、当時としては一般的な価値観だったと思うけど、バッハよりも、はるかにヘンデルのほうが格上だった。ベートーベン自身、バッハ以上にヘンデルを尊敬していた。バッハが本格的に評価されるのは、ベートーベンの時代より後です。現在でこそ、ヘンデルは、バッハや、ドイツの他の作曲家と比べて、「ドイツ人らしからぬ作曲家」だとか、「ドイツ人のわりには軽めの作曲家」だと思われてますけど、当時の認識は、まったくそうではない。オペラからオラトリオに転向して、傑作「メサイア」を作りあげたヘンデルは、イタリアやフランス出身のオペラ屋とは違って、むしろ真面目な作曲家だと思われていたはずだし、とくに「メサイア」の偉大さと崇高さは際立っていました。英国で(しかも英語で)書かれていたとはいえ、ドイツ人によるゲルマン語の作品が、世界に轟くような金字塔を打ち立てたことは、ドイツの音楽家にとっても誇りであり模範だったと思う。メンデルスゾーンの復興上演によって、バッハの「マタイ受難曲」が評価されるようになったのも、その前提として、ヘンデルのオラトリオへの評価が、一般的に確立していたからだと思います。つまり、ヘンデルは、いま思われているよりも、はるかに「重みのある作曲家」だったのですよね。◇ハイドンやメンデルスゾーンが、なぜオラトリオに取り組んだのか。ベートーベンやマーラーが、なぜ合唱付きの交響曲に取り組んだのか。ヘンデルのオラトリオを抜きにしては考えられません。さらにいえば、ベートーベンとワーグナーのクソ真面目なオペラも、わたしは、ヘンデルを意識した結果なのだろうと思う。歓喜と祝祭の大合唱というのは、ほかならぬヘンデルの「ハレルヤ」を模範にしているはずです。◇ベートーベン以降の作曲家たちは、みなベートーベンの呪縛に苦しんだわけですが、ベートーベン自身は、おそらくヘンデルの呪縛に苦しんだだろうと思います。結局、ベートーベンは、オペラやオラトリオで成功を収めることができず、むしろ交響曲(第9)によって、ヘンデルのオラトリオを乗り越えることができました。逆にワーグナーは、オペラによって、ベートーベンの交響曲を乗り越えたのだと思います。
2020.12.21
NHK-FMのベートーベン250。仲道郁代はピアノソナタを解説。前半の話は「らららクラシック」でも聞いた内容だったけど、むしろ面白かったのは後半の話。ベートーベンの音楽は、ショパンやシューマンとは違った意味で泣ける。という話が印象に残りました。ロマン派ではなく、古典派で泣ける。感情や物語ではなく、形式や論理で泣ける。それは、「悲愴」2楽章の"ため息"と"天使"のモチーフの組み合わせが、結果的にラブソングのような叙情性を生む、ということでもあるし、とりわけ後期の五大ソナタのなかで、現代音楽みたいな「29番」や、ジャズみたいな「32番」が、人生や世界に対する切実な問いになる、ということでもあるし、ブレンターノ家の女性に向けられた「30番」や「31番」が、無二の愛情の証しになったりする、ということでもある。つまり、使われているモチーフが、たんに楽曲構成の道具盾ではなくなる瞬間があるのですね。論理的、あるいは数学的な音楽が、なんらかの叙情になるというのは、バッハに近いかもしれない。◇ベートーベンと仲道郁代との組み合わせは、どうにもミスマッチな気がしていたけど、(どう考えても「ベートーベン弾き」には見えないから)今回の話を聞いて、ベートーベンそのものの認識が、ちょっと変わりました。
2020.12.20
NHK-FM、五夜連続の「ベートーベン250」。宮川彬良の「運命/さがるぞー!」も面白かったけど、毎晩、交響曲以外のジャンルを徹底解説してくれたのが嬉しい。◇14日の第一夜は、加藤昌則によるピアノ協奏曲の全曲解説でした。基本的に、古典派以降のコンチェルトが、「モテるための音楽」「外に開かれた音楽」だというのは、きっと正しいのだと思う。とりわけ作曲家自身が初演することの多いピアノ協奏曲は、自分の名を売る「興行」としての意味合いが強かったでしょうね。パガニーニやリストがリサイタルを始める前夜の時代だけど、ベートーベンもかなりの名手だったらしいし、きっと女性ファンが華麗な演奏に痺れたんじゃないでしょうか。◇ブラームスあたりになってくると、演奏家どうしのダイアローグみたいな要素が強くなって、ちょっと玄人向けのモダンジャズっぽくなるというか、あるいは室内楽っぽくなってしまうけど、本来のコンチェルトというのは、あくまで観客にむけてスター演奏家の魅力をアピールするための、かなりエンタテインメント性の強いジャンルだったのだと思う。いわば、ソリストを主役にした「伴奏付き一人芝居」みたいなものですよね。わりと物語性も強いし、ケレン味があって分かりやすい。ところどころで主役が見得を切るための、絶妙なタメとか見せ場とかも用意されている。ある種の自己陶酔的な世界を、オーケストラが背後から盛り立てる。これを、3楽章構成で変化をつけながら面白く聴かせる。第1コンチェルトが、ロッシーニのオペラみたいなのも、きっとその物語性のゆえなのだろうし、第3コンチェルトが、暗い短調の曲になってるのは、あえてミステリアスな面を見せる演出なんだと思う。ちょっと影のあるベト様も素敵だわ!的な(笑)。◇ベートーベンの場合、交響曲やピアノソナタでは作曲が後半生にまで及んで、おのずと内省的な傾向も強まったけど、ピアノ協奏曲のほうは、まだ耳が聞こえていた前半生の5曲のみ。それだけに、若さがあって、創意にあふれてて、1曲ごとに分かりやすい個性の違いもあるし、出世欲もあっただろうから、サービス精神も感じられる。9曲の交響曲のほうは、正直いって「偶数番が弱い」という印象は否めないけど、むしろ5曲しかないピアコンのほうが捨て曲がないと思いました。
2020.12.19
NHKの『らららクラシック』。「あなたが選ぶベートーベンBEST10」では、1位が「第9」、2位は「第7交響曲」でした。そして「運命」は5位、「田園」は6位にとどまりました。さらにFMの『かけるクラシック』では、1位が「7番」、3位がまさかの「8番」という結果に!(笑)なんと「第9」は5位にとどまり、もはや「運命」や「田園」は10位内にも入っていません。ベートーベンの交響曲といえば3・5・6・9だよね!…などと言ってたのは、すでに過去の話。まさに隔世の感があります。◇よく「のだめ効果」とは言われるけれど、すでにドラマの放送から14年も経っているし、上野樹里も、「のだめ」のイメージを完全に払拭して、いまはむしろ「朝顔」の女優さんになっています。つまり、現在の「ベト7」の人気というのは、たんなる一時的なブームを超えて、完全にクラシックの市場に定着したのだと思う。そして、このことによって、ベートーベンに対する認識も、根本から変わってしまった気がします。従来のように、「苛酷な運命に翻弄された苦悩と努力の人」だとか、「眉間にしわを寄せたイカつい権威主義者」だとか、そういうイメージは過去のものになった。むしろ、ベートーベンは、「革命期の市民社会に颯爽と現れた若々しい革新者」というイメージに変わってきたし、それは歴史的にも正しいのだと思う。ハイリゲンシュタットで書かれたのは「遺書」ではなく、「覚悟」と「決意」の手紙だったという解釈に変わってきた。フルトヴェングラー流の、ドイツ音楽の権威を誇るような荘重なベートーベンではなく、カラヤン流の、若々しくてカッコいいベートーベンが定着したともいえます。最近では、古楽志向もあいまって、さらに軽やかに演奏されるベートーベンも少なくありません。◇14年前の「のだめ」によるベト7のブームを、冷めた目で見ていた人たちもいるだろうけど、そもそも、クラシックの名曲というのは、なんらかの「ブーム」をきっかけにして生まれる場合が多い。たとえば、バッハの「ゴルトベルク」が有名になったのは、グールドのピアノ演奏がきっかけだし、ヴィヴァルディの「春」が有名になったのは、イムジチ楽団のレコードがきっかけだし、ショパンの「ノクターン」が有名になったのは、映画『愛情物語』がきっかけだし、Rシュトラウスのの「ツァラトゥストラ」が有名になったのは、映画『2001年宇宙の旅』がきっかけだった。クラシックとはいっても、名曲としての評価が確立するのは、案外、一時的な「俗受け」がきっかけだったりするわけで、かならずしも「のだめ」のベト7ブームだけが例外ではない。◇従来のベートーベン像は、「運命」だとか「田園」だとか、表題/標題のイメージに引きずられてる面が多分にあって、もちろん「月光」「悲愴」「熱情」もそうですね。そうしたイメージばかりが先行した結果、音楽そのものを虚心に聴く姿勢が欠けていたとも思います。昔、FMの番組で、はかま満緒が、「第9は合唱がはじまるまで退屈だ」と言ってたのを聞いて、すごくゲンナリしてしまった覚えがあるんだけど、昔の日本人のベートーベン受容なんて、その程度だった。つまり、運命といえばダダダダーン。第9といえば天婦羅そばの合唱。そして、学校の音楽室に飾られたベートーベンの厳つい肖像画。そういう先入観だけで受容されていたにすぎない。それが、最近は、ようやく変わってきた。若い世代は、もっと虚心にベートーベンを聴くようになりました。◇第7番には表題がありません。だから、なおさら先入観なしに曲と向き合うことができる。そこでは、リズムが炸裂しています。舞踊ではなく、むしろ舞踏。ロックというより、むしろファンクに近い。そのくらいグイグイいくような推進力です。この7番を中心にして、ベートーベンの他の作品を聴きなおすと、たとえば5番や9番の聴こえ方まで変わってくる。一般に7番は「リズムの権化」といわれてるけど、じつは5番の終楽章だって、十分に「リズムの権化」なのです。さらに第9のスケルツォだって、かなり「リズムの権化」なのです。ちなみに、わたしの推し曲は第9のスケルツォです! めちゃカッコいい!そこにあるのは、けっして重々しい権威主義ではなく、むしろ若々しい革新性です。5番を勝手に「運命」などと名づけたのが、アントン・シンドラーだったのか、日本のレコード会社だったのかは分からないけど、あの交響曲を終楽章まで聴けば、むしろ運命の呪縛を突き抜けていく姿が見えてくるはずです。あれは重々しい「運命」に支配される曲ではなく、むしろ「運命の突破」の曲なのです。◇それはそうと、わたし自身、ベートーベンといえば、やはり交響曲やピアノ曲という思い込みがあったのですが、それを変えるためにも、このメモリアルイヤーをきっかけに、今後は、晩年の弦楽四重奏曲も聴いてみようかなと思ってます。
2020.12.14
テレ朝『関ジャム』のゲストは松任谷正隆。今回の話を聞いて思ったのは、ユーミンにとって、松任谷正隆は、ほんとうに「最良の編曲家なのだろうか?」ってこと。そのことに疑義が生じてしまいました。何をもって「最良」と考えるかは、個々人の価値観や好みの問題だと思うけれど、すくなからず、松任谷正隆時代 < キャラメルママ時代と思ってる人はいるのではないでしょうか?◇◇94年の「春よ、来い」のアレンジに対して、ユーミン本人は「ちがう」と言ったらしいけど、正直な話、あの曲をはじめて聴いたとき、わたしも「ちがう」と思いましたよ。テキトーな古語を用いた日本語が嘘くさい、というだけでなく、曲の世界観そのものが強烈に嘘くさい、と思いました。朝ドラのためにでっちあげた愚曲だと思ってたけど、犯人が松任谷正隆だったとは意外です(笑)。あの頃から、ユーミンの音楽は、どんどん嘘くさくなった。しかも、歌詞にあわせて編曲しているのではなく、編曲にあわせて歌詞を書いている、という衝撃の事実…。このことをどう受け止めるべきなのでしょうか。90年代以降のユーミンの才能が枯渇したのは、音楽業界全体の構造変化の結果でもあるだろうけど、同時に、アレンジャーである松任谷正隆の才能が枯渇した結果でもあった。そうも思えてくる話です。ちなみに、事情は色々あるだろうけど、曲によって夫婦の意見が食い違うのなら、そのつど別のアレンジャーを立ててもよいのでは?とも思う。◇◇もうひとつの重大なエピソード。わたしは、84年の「ノーサイド」の神がかったイントロは、松任谷時代のものとしては、もっとも"キャラメルママ的"なものだと思ってたのに、じつは、あれを作ったのは松任谷ではなかった!という話。かといって、ユーミン自身でもない。高水健司が吉川忠英の曲のために作ったものだそうです。たぶん「TWO IN LOVE」という曲じゃないでしょうか。ちなみに、この当時、吉川忠英はユーミンの曲も歌っていました。当時のクリストファー・クロス風AORではあるけど、本来、あのようなフレーズやサウンドは、「フォークの歌心」とか、「ジャズ・フュージョンの感性」といった要素がないと、生まれて来ないものだろうと思います。キャラメルママには、それがあったのでしょう。そうでなければ「海を見ていた午後」のようなアレンジは不可能です。アルバム『NO SIDE』のころには、まだ林立夫などキャラメルママ時代のメンバーも加わってました。しかし、松任谷の単独のアレンジとなると、そうした要素は失われてしまうのかもしれないし、それはユーミン自身にも乏しいものなのかもしれません。はからずも、松任谷夫妻の音楽性がもつ限界を知った気がしました。
2020.11.30
松原みきの「真夜中のドア」が世界的にヒットしているそうです。1979年の曲だから、じつに40年も前!インドネシアのRainych(レイニッチ)という女の子が、これをカバーしたのがきっかけのようで、竹内まりやの「PLASTIC LOVE」に続いて、またも日本のシティポップが海外で再発見された形です。わたし自身は、とくに原曲に思い入れがあったわけじゃないけれど、たまたま最近、中島愛の歌ったバージョンを聴いて、この曲がちょっとしたマイブームになっていたので、今回の世界的なヒットにもシンクロしてしまいました。あらためて原曲を聴くと、やっぱりいいですね。都会的だけれど、ちょっと切ない。林哲司が初期に作った曲です。竹内まりやの「SEPTEMBER」あたりと同じ頃の作品。林哲司のサウンドは、まさに当時の最先端だったAORそのものですけど、そこに、歌謡曲のウェットな要素も、絶妙に織り込まれている。とくに、「♪帰らないでと泣いた…」のところは、ちょっと《演歌的》だとさえ言ってもいい。洋楽的な感覚と、歌謡曲の叙情性が、なんともいえず見事な塩梅になっていて、かつては宮川泰も、彼の作品を誉めていました。ちなみに宮川が絶賛していたのは原田知世の「愛情物語」。こういうテイストが欧米でも理解されるようになったら、いよいよ歌謡曲が世界化していくのかなと思います。PLASTIC LOVEStay With Me
2020.11.22
すっかり情弱なもので、なにも事前情報を知らないまま、由貴ちゃんのリモートライブを見てたら、とつぜん萌歌が登場したのでびっくり!二人のトークを見るのは初めてでした。なんともいえない幸福感。◇映画の共演がきっかけだとは思うけど、でも、それだけの理由で、由貴ちゃんがライブゲストにまで呼ばない気がする。わたしもそうだけど、きっと由貴ちゃんも、萌歌の才能に惚れているんだろうな。たんに、若くて、可愛くて、勢いがあるとか、お芝居も出来て、歌も歌えるとか、それだけの理由じゃなく、端的にいうと、萌歌は、自分でプロデュースする能力があるタレントだと思うのです。頭もよくて、人望もあって、自分なりの文化を作っていけるセンスがある。そういう部分でこそ、斉藤由貴をさらに超えてほしいのですよね。東宝は、音楽でも、映画でも、舞台でも、イベントでも、彼女自身にいろんな企画をさせてみてほしいと思います。◇それはそうと、萌歌が「歌いたかった」という由貴ちゃんの曲って、もしかしたら「月野原」なのでは?!あるいは「雪灯りの町」なのでは?!…と思いましたが、答えは「かなしいことり」でした。いやあ、中島愛といい、田村芽実といい、みんな「かなしいことり」が好きですよね…。(^^;萌歌が、悪気もなく、「この曲は斉藤さんが歌うからいい」と、なかなかダークな突っ込みを入れてしまったので、すかさず由貴ちゃんが、「あまり私を受け継がないでね」と自虐ボケ。二十歳の娘に何言ってるの?(笑)そして、ふたりで歌った「少女時代」は、上白石姉妹ばりにきれいにハモっていたのでした。ちなみに萌歌は、由貴ちゃんのことを「斉藤さん」と呼んでいたけれど、長澤まさみみたいに「由貴さん」と呼んでもいいのでは?と勝手に思ったのでした。※ライブの模様は今日以降も配信されてます。
2020.11.15
以前は、NHK-FMで「古楽の楽しみ」を聴いてたので、わりとフランスのバロックオペラは好んで耳にしてました。 しかし、テレビで取り上げられることは少ないので、今回、映像で見ることができたのは嬉しい。ドビュッシーやラベルのような近代音楽もいいけれど、フランス本国では、30年ほど前から、バロック音楽が若者たちに人気なのだし、それはポピュラー音楽のなかの古楽趣味にも影響しているし、今後はEテレでも、リュリやらカンプラやらシャルパンティエやら、どんどん映像で取り上げてほしいなと思います。むしろ遅すぎるくらいですけど。◇フランスのバロック音楽の人気が高まったのは、たぶん米国人のウィリアム・クリスティが、79年にレザール・フロリサンを結成して以降ですよね。91年には、マラン・マレを題材にした映画「めぐり会う朝」が公開され、00年には、リュリを題材にした映画「王は踊る」も公開されています。宮川彬良が今ごろになって「ラモー歴半年」というのは、音楽家としてちょっとどうかと思うし、フランスのバレに対する認識もズレてる気がしたけど、(彼が言ってたのは、たぶんロシアバレエのことですね)ラモーの音楽のなかに、シャッフルするビートを聞き取っていたのは、さすがに親譲りというか、なかなか面白かったです。ただし、「バッハの教会音楽がラモーにくらべて堅い」という話は、たしかに間違いではないと思うのだけど、いちはやくジャズに翻訳されたのは、むしろバッハのほうがはるかに先だったんだから、おそらくバッハのなかにも、シャッフルするビートは十分に聞き取れるはずですよね。◇当時のフランス人が、イタリアオペラを受け入れなかったというのは、ちょっと興味深い話でした。そのころからフランス音楽は独立した存在だったのですね。といっても、その基礎を築いたのはイタリア出身のリュリですけど(笑)。フランス人はカストラートを受け付けなかった、という話もありますが、わたしが思うに、イタリア人の暑苦しい歌なんぞよりも、踊りと合唱が穏やかに調和する優雅な世界のほうが、フランス人の好みに合ったのだろうな、という気がします。「バロック音楽はオペラから始まった」「オペラはイタリアではじまった」という歴史認識にとらわれてしまうと、フランス音楽の独自性を見落としてしまうし、のみならず、バッハやヘンデルが、かなり「フランス風」の影響を受けていることを考えると、むしろバロック音楽そのものを、フランス中心に捉え直すべきなのかもしれませんよね。◇ラモーが和声学の基礎を築いた、というのも知らなかったです。ベルリオーズは管弦楽の基礎を築いていますけど、そういう意味ではドイツ人よりフランス人のほうが偉いですね(笑)。意外にフランス人のほうが理論的なのでしょうか?それとも、実践的だというべきなのでしょうか?
2020.10.28
筒美京平の最後の作品は何だったのかしら?…と思って調べてみたら、田所あずさの「あなたの淋しさは、愛」という曲でした。売野雅勇が、アニメ声優たちをボーカリストに迎えて、昭和歌謡の作曲家たちと共作した企画作品の収録曲です。アルバムのタイトルは、『ネヴァーランド -Voice Actor×売野雅勇-』。2019年の5月22日に発売されていました。これが筒美京平の遺作だったようです。1. ワンダフォー!仲村宗悟(作曲:コモリタミノル/編曲:白戸佑輔)2. 東京PARADISE山寺宏一(作曲:芹澤廣明/編曲:やしきん)3. すべての愛しきRunaways野島健児(作曲:井上大輔/編曲:黒須克彦)4. あなたの淋しさは、愛田所あずさ(作曲:筒美京平/編曲:小林俊太郎)5. ヨコハマ粋森川智之(作曲:井上大輔/編曲:小林俊太郎)6. 男と女は十時半山寺宏一&内田彩(作曲:馬飼野康二/編曲:奈良悠樹)7. それは、私じゃない内田彩(作曲:後藤次利/編曲:eba)8. Clowntime Berlin木村昴(作曲:馬飼野康二/編曲:黒須克彦)9. メランコリーのダイアモンドさゆりカノン(作曲:コモリタミノル/編曲:鈴木Daichi秀行)全作詞:売野雅勇 ◇ちなみに、筒美京平の名曲ということでいえば、もちろん、これまでに、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」と、斉藤由貴の「卒業」との関係などについては、繰り返し考えてきたのですが、(⇒こちらで詳しく話しています)もしも、筒美京平の全作品のなかで代表曲をひとつ選ぶとすれば、とりあえず堺正章の「さらば恋人」を挙げます。イントロのサウンドや、アレンジにいたるすべてにおいて、いちばん"筒美らしい"と思える曲だからです。まるでStevie Wonderの「My Cherie Amour」みたいな曲。◇これが発表された1971年は、おそらく筒美京平がもっとも注目された年ですね。「また逢う日まで」と「さらば恋人」が、この年のレコード大賞を争っただけでなく、「真夏の出来事」も「17才」も「さいはて慕情」も、すべて1971年の彼の曲だったのです!さらに挙げれば、「雨のエアポート」も「お世話になりました」も、「青いリンゴ」なども、みんな彼の曲でした。この1971年を境にして、日本が筒美京平の曲であふれるようになって、歌謡曲の世界は、急にオシャレになったのです。そして、その翌年からは、「男の子女の子」だの、「わたしの彼は左きき」だの、「赤い風船」だの「ロマンス」だのといった、新しいアイドルポップも次々に生まれていきます。◇80年代以降になると、筒美京平の作風は大きく変わるのですが、わたしがいちばん驚いたのは、今井美樹の「野性の風」でした。「え?!これって筒美京平の曲なの?」と思うほど、ガラリと曲調が違っていました。それまでに聴いたことのない雰囲気の曲だった。NOKKOの「人魚」もけっこうな驚きでした。◇筒美京平が、「サザエさん」などのアニメソングを書いていたのは、まったく知りませんでした。ある記事を読んだら、「サザエさん」のサウンドにも、やはりソウルミュージックの影響があるとのこと。…そういわれてみると、あれは、Otis Redding! Booker T & M.G.'sです!!◇このほか、思いつくままに好きな曲を列挙しておきます。郷ひろみ「よろしく哀愁」太田裕美「雨だれ」大橋純子「たそがれマイ・ラブ」薬師丸ひろ子「あなたを・もっと・知りたくて」河合奈保子「暁のスカイパイロット」(albumより)斉藤由貴「海の絵葉書」「夕暮れ日記」(albumより)荻野目洋子「さよならの果実たち」小沢健二「強い気持ち・強い愛」…ほかにも思い出したら、あとで書き足します。筒美京平自選作品集 50th Anniversaryアーカイヴス アイドル・クラシックスDISC-11 悲しみのアリア/石田ゆり2 17才/南 沙織3 芽ばえ/麻丘めぐみ4 初恋のメロディー/小林麻美5 私は忘れない/岡崎友紀6 赤い風船/浅田美代子7 娘ごころ/水沢アキ8 わたしの彼は左きき/麻丘めぐみ9 恋のインディアン人形/リンリン・ランラン10 ほほにかかる涙/エバ11 ロマンス/岩崎宏美12 センチメンタル/岩崎宏美13 木綿のハンカチーフ/太田裕美14 セクシー・バスストップ/浅野ゆう子15 恋のハッスル・ジェット/シェリー16 6年たったら/五十嵐夕紀17 リップスティック/桜田淳子18 シンデレラ/高見知佳19 日曜日はストレンジャー/石野真子20 ROBOT(ロボット)/榊原郁恵DISC-21 センチメンタル・ジャーニー/松本伊代2 夏色のナンシー/早見 優3 エスカレーション/河合奈保子4 ト・レ・モ・ロ/柏原芳恵5 卒業/斉藤由貴6 あなたを・もっと・知りたくて/薬師丸ひろ子7 なんてったってアイドル/小泉今日子8 1986年のマリリン/本田美奈子9 地上に降りた天使/水谷麻里10 夜明けのMEW(ミュー)/小泉今日子11 WAKU WAKUさせて/中山美穂12 teardrop/後藤久美子13 さよならの果実たち/荻野目洋子14 ホンキをだして/酒井法子15 17才/森高千里16 肩幅の未来/長山洋子17 ときめいて/西田ひかる18 元気!元気!元気!/高橋由美子19 TENCAを取ろう! -内田の野望-/内田有紀20 理由/安倍麻美AOR歌謡DISC-11 渚のうわさ/弘田三枝子2 さよならのあとで/ジャッキー吉川とブルー・コメッツ3 ブルー・ライト・ヨコハマ/いしだあゆみ4 京都・神戸・銀座/橋幸夫5 捧げる愛は/島倉千代子6 くれないホテル/西田佐知子7 粋なうわさ/ヒデとロザンナ8 フランス人のように/佐川満男9 真夜中のボサ・ノバ/ヒデとロザンナ10 ヘッド・ライト/黒沢明とロス・プリモス11 あなたならどうする/いしだあゆみ12 雨がやんだら/朝丘雪路13 絵本の中で/クロディーヌ・ロンジェ14 さらば恋人/堺正章15 真夏の出来事/平山三紀16 誰も知らない/伊東ゆかり17 夜が明けて/坂本スミ子18 自由の鐘/西郷輝彦19 貴方の暗い情熱/高田恭子20 かもめ町 みなと町/五木ひろしDISC-21 恋の十字路/欧陽菲菲2 二時から四時の昼下り/朱里エイコ3 よろしく哀愁/郷ひろみ4 飛んでイスタンブール/庄野真代5 銀河特急/松崎しげる6 ぬくもり/細川たかし7 魅せられて/ジュディ・オング8 来夢来人/小柳ルミ子9 スニーカーぶる~す/近藤真彦10 愛しつづけるボレロ/五木ひろし11 普通のラブ・ソング/水谷豊12 モロッコ/森進一13 こころ美人/布施明14 君だけに/少年隊15 JOY/石井明美16 抱きしめてTONIGHT/田原俊彦17 とまどい小夜曲(セレナーデ)/髙橋真梨子18 タイムマシーン/藤井フミヤ19 ありがとう おかげさん/都はるみ20 ビヨンド/平山みきシティ・ポップスDISC-11 黄色いレモン/藤 浩一2 バラ色の雲/ヴィレッジ・シンガーズ3 ダーティー・ドッグ/尾藤イサオ4 スワンの涙/オックス5 白いハイウェイ/ブレッド&バター6 サザエさん/宇野ゆう子7 ひとりの悲しみ/ズー・ニー・ヴー8 悪っぽい人だけど/森山良子9 また逢う日まで/尾崎紀世彦10 お世話になりました/井上順之11 雪が降るのに/黛ジュン12 愛の挽歌/つなき&みどり13 青春挽歌/かまやつひろし14 或る日/ザリバ15 夏しぐれ/アルフィー16 忘れ雪/オフ・コース17 セクシー・バスストップ/Dr ドラゴン&オリエンタル・エクスプレス18 ヒットマシーン/K・T-585 BAND19 たそがれマイ・ラブ/大橋純子20 グッド・ラック/野口五郎21 センチメンタル・ブルー/BUZZ22 ワールド・ファンタジー/レターメンDISC-21 ロキシーの夜/近田春夫2 ブルー・バタフライ/さとうあき子3 ラスト・トレイン/宮本典子4 とりあえずニューヨーク/山下久美子5 ドラマティック・レイン/稲垣潤一6 夏のクラクション/稲垣潤一7 Romanticが止まらない/C-C-B8 その後で殺したい/SHOW-YA9 野性の風/今井美樹10 HI! HI! HI!/森川由加里11 夏の二週間/谷村新司12 兆しのシーズン/中島みゆき13 カナディアンアコーデオン/井上陽水14 強い気持ち・強い愛/小沢健二15 MUSTBEHEAVEN/中西圭三16 恋のルール・新しいルール/ピチカート・ファイヴ17 Desire/DOUBLE18 AMBITIOUS JAPAN!/TOKIO
2020.10.13
萌音めあてで、めずらしく「うちのガヤ」を見たのですが、こがけんの歌った「プレイバックPart2」の、アメリカンロック ver.に軽い衝撃。これは、もはや、お笑いというより、あたらしい音楽ジャンルのようにも思えます。ある意味、レイチャールズの「Ellie My Love」よりも、こがけんの「Don't you comin' feeling Go Go!!」のほうが、音楽的翻訳として独創的で優れているのでは?英文的には意味不明だけど(笑)。ロック風があるのなら、バラード風とか、AOR風とかもできそうな気がするし、それだけでアルバム1枚つくれるんじゃないかと思います。もちろん、そのときは萌音もゲスト参加で。#ウチガヤ#上白石萌音 https://t.co/RqUb5Si101 pic.twitter.com/hsdQ2mKBgS— こ が け ん (@kogakogaken) October 6, 2020 古賀憲太郎/ウチのガヤがすみません!/山口百恵/宇崎竜童/阿木燿子/馬鹿にしないでよ/GO!GO!って感じになるだろう?
2020.10.07
歴史秘話ヒストリア。朝ドラ主人公のモデル、古関裕而をとりあげました。副題は「エールよ時代に響け」。戦前・戦中・戦後にかけて、「日本人にエールを送り続けた」といえば、聞こえはいいけれど、裏を返せば、それは、いかにも音楽家らしい日和見であり、非常に恐ろしいことでもある。容易には肯定できません。そのような音楽家の日和見は、現在にさえ、ありうる話だからです。◇番組では、「人々にエールを送った」「人々の背中を押した」といった表現が使われていました。戦前にも人々の背中を押し、戦中にも人々の背中を押し、戦後にも人々の背中を押した。いつの時代も、同じように背中を押すべきでしょうか?場合によっては、立ち止まらせることが必要なのでは?◇アニメ『風立ちぬ』の堀越二郎は、技術者として、朝ドラ『エール』の古関裕而は、音楽家として、戦時中に活躍し、日本を後押ししました。技術者は技術によって、音楽家は音楽によって、人々の背中を押すのが仕事だと考えれば、それほど単純で分かりやすいことはありませんが、しかし、そんな単純な話でいいのか?葛藤を強いられるのは苦痛かもしれないけれど、ときには葛藤しなければならない場合もある。葛藤を避けようとする人間が、いちばん危険です。◇技術者も、音楽家も、ついつい人々の背中を押してしまう。たとえ崖から落とす結果になるとしても。しかし、いつでも人々の背中を押せばいいわけではない。ほんとうの意味で、堀越二郎や古関裕而から学ぶべきは、そのことです。けっして「人々にエールを送ればいい」という単純な話ではない。
2020.09.24
もともとアーリー聖子が好きだったし、財津和夫のつくった曲はとくに好きでした。おなじ福岡出身ということもあるけど、彼女のいちばんピュアな面を引き出してるのが、財津和夫の曲だったんじゃないかな。かりに、すべての聖子の曲のなかで、たった1曲だけを選べといわれたら、わたしの場合は「白いパラソル」なのです。何も飾らない少女のような曲ですから。◇ちなみに、財津がインタビューで、「自分が歌うような曲を作っていた」という話には驚きました。むしろ、聖子に宛ててこそ生まれた曲だと思えたし、それをチューリップや財津和夫が演奏してる姿は、想像もできなかったですね。◇今回の「風に向かう一輪の花」も、初期のアルバムに入ってても不思議じゃない、アイドル時代を彷彿とさせる清純なワルツ。と同時に、「大丈夫」と歌う高音の部分には、いまの聖子の母性も感じられて、なかなか、いいバランスです。NHK松田聖子スペシャル 風に向かって歌い続けた40年財津和夫/篠山紀信/松任谷由実/松本隆/青井実アナ/制服デモテープクインシー・ジョーンズ/ボブ・ジェームス松田聖子40周年記念アルバム『SEIKO MATSUDA 2020』
2020.09.23
フジテレビ「MUSIC FAIR」に田村芽実が出演。ミュージカル『WiCKED』の「ポピュラー」を歌いました。いやあ、歌上手いのは知ってましたけど、あらためて衝撃。第一声を発した瞬間の説得力がスゴイ。現役シンガーのなかでは、ちょっと図抜けています。いまのミュージカル歌手で、中川晃教と木下晴香と田村芽実の3人は、個人的に見逃がせないです。でも、あまりミュージカルの枠だけに収まりすぎず、ちゃんとポップスも歌ってほしいですけどね。ちなみに、他の歌手との共演だと相手が気の毒だから、なるべく単独で歌ったほうがいいんじゃないかなあ。
2020.09.13
歴史秘話ヒストリア。小津安二郎を取り上げていましたが、ほとんど知らない話ばかり。わたしは、いままで、小津安二郎のことを、東京や鎌倉で育った粋人だと思ってたのですが、じつは三重県育ちなのですね。調べてみたら、先祖は伊勢商人だそうで、意外に関西人の血が流れている。◇もともと気性が荒かったというのも意外。中国戦線を生き抜いた事実も知らなかったし、シンガポールで、厚田雄春とともに、国策映画に関わったことも知りませんでした。小津のカメラのローアングルというのは、わたしは「子供の視線」だと思っていたのですが、もしかすると、地面に這って銃を構えるときの視線だったかもしれない。そんなことさえ考えてしまいました。戦地から帰還した監督といえば、わたしは真っ先に本多猪四郎を思い浮かべますが、小津の場合も、本多の場合も、戦争の描き方は、けっして一筋縄ではありません。小津は、戦争映画そのものは作りませんでしたが、作中には戦争未亡人も出てくるし、かつての戦友たちが酒を飲んで一緒に歌ったりします。きわめて複雑な形で戦争の影響が映り込んでいる。◇山中貞雄との関わり。山中が戦病死したのは知っていますが、その直前に戦地で小津と会っていたとは驚きです。調べてみたら、戦前からかなりの交流があったのですね。今回の番組を見ると、山中貞雄が与えた影響は、かなり大きいと思えてくる。山中は、小津の6才年下ですが、すくなくとも戦前の作品で比較する限り、山中のほうが映画作家として成熟していたと思います。ちなみに『河内山宗俊』には原節子が出てますけど、戦後の小津が彼女を重用したのも、案外、山中との交流が影響してるかもしれません。◇野田高梧との関わり。小津の映画において、野田の脚本が重要だというのは、なんとなく感じてたことだけど、今回の番組を見ると、世界的に高く評価されている戦後の小津作品は、すべて野田との共同脚本以降のものだし、その意味では、むしろ「野田作品」と言うべきものだと思えてくる。小津と寝食を共にした野田の妻と娘は、そのまま小津映画に登場するキャラクターのようです。オヤジ2人が、野田の娘に翻弄される姿を想像すると、そのまま映画のワンシーンのようで笑えてきます。
2020.09.11
このあいだのFNS歌謡祭で、鈴木雅之と前田亘輝のデュエットを聴いて、これが、予想以上に良かったのです。わたしは、もともと、鈴木雅之も好きじゃないし、前田亘輝も好きじゃない。なぜって、鈴木雅之のエセ東京(=大森)感が嫌いで、前田亘輝のエセ湘南(=厚木)感が嫌いだったから(笑)。とりわけ、鈴木雅之における「エセ 山下達郎」感や、前田亘輝における「エセ 桑田佳祐」感は、その俗物感をかえって際立たせていたのです(笑)。でも、この偽物と偽物を掛け合わせてみたら、意外なほど「本物」でした。ラッツ&スターとチューブ。このクサすぎる禁断の組み合わせ!!いわば「ー10点」と「ー10点」を掛け合わせたら、あら不思議「+100点」になっちゃった感じ!たしかに歌が上手い。歌のうまさは申し分ない。演歌歌手を凌ぐほど上手い。そして、大森×厚木。この泥臭さと鬱陶しさが丁度いいのです。東京湾一円をカバーするに十分な汎用性がある。CDが出たら買うかも。
2020.09.02
斉藤由貴の名曲「卒業」について、以下のような観点から考えています。(リンク先は音楽惑星さんのサイトになります)1.筒美京平のメロディ2.松本隆の歌詞3.型破りな卒業ソング4.武部聡志のアレンジ5.斉藤由貴の「才能」▼それ以外の曲についても取り上げています。・AXIA~かなしいことり~・MAY▼以下についても話題にしています。・セーラー服少女とポニーテールの文化史▼後輩の上白石姉妹や浜辺美波のことも話題にしています。・東宝シンデレラの新時代
2020.08.11
戦争は、けっして「非日常」ではなく、むしろ「日常」の地続きにある。そのことをアニメの映像によって表現した作品です。◇この映画の冒頭に流れてくる音楽は、クリスマスソングの「神の御子は今宵しも」です。広島は、呉が東洋随一の軍港だったので、米国の標的にされたのですが、その一方には、人々の豊かな生活がありました。夏には、涼しげな素麺やナスの漬物やスイカを食べ、冬には、町がクリスマスで賑わい、モボやモガがお洒落をして闊歩し、店先ではチョコレートやキャラメルを売っていた。じつは、現代の生活とほとんど変わりありません。そんな町をアメリカの原爆が焼き尽くしたのです。◇この物語の主人公は、とてつもなく無力です。いつのまにか、見知らぬ土地の、見知らぬ男性のもとへ嫁いできて、その運命のすべてを受け入れながら生きています。彼女が、自分の意志で何も決められないのは、かならずしも彼女の性格だけの理由ではありません。そういう時代であり、そういう国家であり、そういう社会であり、そして当時の女性が、そういう立場だったからです。結果として、彼女は、なすすべもなく時代と国家の運命に翻弄されるしかありません。◇しかしながら、こうした生き方は、現代のわたしたちにも通じ合っています。現代社会が、たとえどんなに自由に見えるとしても、わたしたちは、あらゆる物事を自己決定しているわけではないし、むしろいまだに理由の分からないことに翻弄されることのほうが多い。そのことは何も変わっていません。ーー悲しくてやりきれない。この言葉が、普遍的な真実を物語っています。わたしたちが悲しくてやりきれないのは、みずからに降りかかる運命に理由がないからです。すずさんのような女性は、今もなお身近に存在しているし、もっといえば、それは、わたしたち自身だといえます。はるか昔に起こった戦争や原爆という出来事も、じつは、とても身近にあるのだと言っていい。同じことが起こったとしても、すこしも不思議ではない。◇社会の暮らしと営みは、力のない人々どうしが支え合いながら、小さなことの積み重ねによって成り立っています。映画のなかでは、そうした細部がひたすら淡々と描かれていきます。長い年月をかけた小さな積み重ねによって、日々の暮らしが支えられ、人が成長し、世代や文化が受け継がれていくのですが、巨大な力は、それらを一瞬にして破壊してしまう。破壊されたものは、また一から作り直さなければならない。◇フォークルの「悲しくてやりきれない」ってのは、つくづく不思議な歌だなあ、と思います。よく知られているように、この曲は、期せずして発禁処分になった「イムジン河」の代用品として、パシフィック音楽出版に強制され、軟禁状態におかれた加藤和彦が無理やり作らされたものです。「イムジン河」の音符を逆にたどっていたら、ひょろっと思いついたメロディだともいわれています。しかも、そこに、これまたフォークルとは、縁もゆかりもない、ジャンルも世代も違う、サトウハチローという御大が、なんの打ち合わせもないところで歌詞をつけてしまった。◇この曲は、誰の表現の意思ともいえぬところに出来てしまった、いわば偶然の産物であり、ある意味では、さかさまの歌です。パシフィック出版でもなければ、加藤和彦でもなければ、サトウハチローでもなければ、イムジン河の作者でもない。日本人でもなければ、朝鮮人でもない。だれの意思でもない、何らの「表現の意思」とも無縁なところから、ぽわん、と生まれてきてしまった歌。そんな歌が、これほどの普遍性をもってしまっている。山田太一や、周防正之や、井筒和幸や、片渕須直といった人たちに、繰り返し、繰り返し使用され、いまや時代と空間を超えて、世界中で聴かれています。◇それをコトリンゴが、ぽわん、と歌っている。映画のなかでは、ボーっと生きてきた一人の無力な女性が、気づいたら、知らない土地に嫁いでいて、まったく無力なままに、選べなかった家族や、選べなかった時代や、選べなかった国家の運命に翻弄されていきます。そんな悲しくてやりきれない人生に、この誰の意思でもなく生まれた、さかさまの歌が、ぽわんと乗っかって、ぴったり寄り添っていく。そして、特定の誰かのものではない、普遍的な悲しみを歌っています。
2020.08.10
NHKで放送された「この世界の片隅に」をじっくりと鑑賞。つくづくフォークルの「悲しくてやりきれない」ってのは、不思議な歌だなあ、と思いました。…よく知られているように、この曲は、期せずして発禁処分になった「イムジン河」の代用品として、パシフィック音楽出版に強制され、軟禁状態におかれた加藤和彦が無理やり作らされたものです。「イムジン河」の音符を逆にたどっていたら、ひょろっと思いついたメロディだともいわれています。しかも、そこに、これまたフォークルとは、縁もゆかりもない、ジャンルも世代も違う、サトウハチローという御大が、なんの打ち合わせもないところで歌詞をつけてしまった。◇この曲は、だれの表現の意思ともいえぬところに出来てしまった、いわば偶然の産物であり、ある意味では、さかさまの歌です。パシフィック出版でもなければ、加藤和彦でもなければ、サトウハチローでもなければ、イムジン河の作者でもない。日本人でもなければ、朝鮮人でもない。だれの意思でもない、何らの「表現の意思」とも無縁なところから、ぽわん、と生まれてきてしまった歌。そんな歌が、これほどの普遍性をもってしまっている。山田太一や、周防正之や、井筒和幸や、片渕須直といった人たちに、繰り返し、繰り返し使用され、いまや時代と空間を超えて、世界中で聴かれています。◇それをコトリンゴが、ぽわん、と歌っている。映画のなかでは、ボーっと生きてきた一人の無力な女性が、気づいたら、知らない土地に嫁いでいて、まったく無力なままに、選べなかった家族や、選べなかった時代や、選べなかった国家の運命に翻弄されていきます。そんな悲しくてやりきれない人生に、この誰の意思でもなく生まれた、さかさまの歌が、ぽわんと乗っかって、ぴったり寄り添っていく。そして、特定の誰かのものではない、普遍的な悲しみを歌っています。
2019.08.09
テレビで『君の名は。』を観て印象的だったのは、引き戸の開閉や、炊飯器の蓋の開閉を描く際に、「人間の視点」がとられていないことです。すべては「モノの視点」から描かれています。まるでミクロの科学カメラで撮影されているようです。人間の視点からモノを見るのではなく、むしろモノの視点から人間の営みが見られている。◇おそらく新海誠監督は、そこにある種の「神秘」を見出しているのでしょう。敷居すべりのうえを引き戸が動き、蝶番を支点にして炊飯器の蓋が開く。レールに沿って電車が走り、たがいに交差していく。そんな単純な「モノの仕組み」の中にこそ神秘があります。◇惑星が軌道のうえを公転し、互いに交差することで、モノとモノとが巡りあい、運命的な作用を引き起こす。地上に光が射し、風が吹き、雲が生まれ、雨が降り雪が降る。ときには彗星が砕けて、隕石が重力に引き寄せられる。それらの物理はみな人智を超えた神秘であり、「入れ替わり」や「タイムスリップ」といった超常的な現象すら、その延長にある出来事に過ぎません。人間の営みも、歴史も文化も、そうした物理的な神秘のなかにこそあり、村の記憶や神社の縁起は、それを伝えています。◇おそらく新海誠の物語は、ヒューマニズムの視点からではなく、それを超える天体や気象といった物理の視点から、さまざまな運命の奇跡を描いているのですね。繭が紡がれ、糸が撚られ、紐を組むことで、モノとモノが結ばれていくように。あるいは、米と唾液が混じり、発酵することで、やがて酒になるように。人々もまた、神秘に満ちたモノの仕組みのなかで、たがいに結ばれては、すこしずつ変化していきます。
2019.07.02
アニメはほとんど見ないのですが、NHKの「ガンダム ORIGIN」をなぜか毎回見ています。今回は、いわゆるコロニー落とし…人間が居住しているアイランド・イフィッシュを、住民もろとも地球に落下させるという衝撃的な「ブリティッシュ作戦」が描かれました。あまりのことに呆然としてしまいます。◇ここには、いくつかの現実の事例が複合的に反映されています。1.毒ガスによるジェノサイドブリティッシュ作戦では、抵抗する武装集団だけでなく、シェルターに避難した無抵抗の人までを事前に毒殺したのでしょうか? いずれにしても、これは、レジスタンスやユダヤ人をガス室で毒殺したナチスを思わせるものです。2.民間施設の兵器化もともとスペースコロニーというのは、地球外で人間が生活するための施設です。それを兵器代わりに使ってしまう。これは、旅客機をミサイル代わりに使用した9・11のテロを思わせます。基本的な発想は同じです。実際に、人間はそういうことをやりかねない。3.基地を守るための迎撃スペースコロニーが地球に落下する前に、地球連邦軍は、これを同胞の住民もろとも迎撃しました(すでに中の人たちは毒殺されていましたが)。さらに上空で破壊されたコロニーが地球各地に落下した結果、地球人口の約半数が犠牲になりました。おそらく、人類史上最大の悲劇です。もしかして、連邦軍の指導部は、中枢基地ジャブローを守るために、それを承知で迎撃したのでしょうか? それとも、地球への大損害を予測できぬまま、やみくもに同胞たちの住む施設を破壊したのでしょうか? かつての日本の戦争では、本土防衛のために沖縄やサイパンなどが「捨て駒」にされたことがありました。現在の日本のミサイル迎撃システムも、米軍主要施設の防衛を優先させるのではないかと思われ、その場合は基地の周辺住民が犠牲を払う可能性があります。もはや何を守ろうとしているのか意味不明です。4.指導者が訴追を逃れるための戦争継続地球人口のじつに半数が死滅するという悲劇にもかかわらず、指導者たちは厭戦的になるどころか、「負ければ戦争犯罪人として訴追される」と恐れるあまり、まったく絶望的な戦争へと邁進していきます。まさに原爆が落とされて天皇が決断するまで戦争をやめようとしなかった旧日本軍の《判断》に酷似しています。.............................
2019.06.25
いままで見た映画のなかで、好きな作品を教えてといわれても、ついつい昔見た映画ばかりを挙げてしまって、あらたに見た映画がフェイバリットに加わることなど、最近はほとんどないのだけれど、『ラ・ラ・ランド』は、あらたなフェイバリットに加わりそうな作品です。◇とくにミュージカル好きというわけではないけど、この映画は、観る前から少しの予感があって、なぜかオープニングの高速道路の長回しのシーンから、胸がいっぱいになってしまって涙があふれました。夜景の見える丘で歌い踊るシーンでも、天文台のプラネタリウムにふわりと舞い上がるシーンでも、なぜか不思議と涙があふれてしまうのでした。夢のように美しいのに、どこか悲しくて切ない。◇愛し合い、ともに夢を追った二人。でも、たがいの夢を追うなかで、いつしか距離が離れ、夢を実現したときには、もう離れ離れになっている。なぜ一緒になれないのだろう?そりゃ、長い月日のなかで色んなことがあるからですよね。いろんな出会いもあれば、別れもあるから。ただ、それだけの話です。よくある話なのです。…でも、よくある話だけれど、けっして「よくある映画」ではない。ありえないファンタジーを描く映画はありふれてるけれど、よくある人生の断面を、これほど味わい深く描ける映画は少ない。>>そのあたりのことはこちらに書きました。◇最後の場面、夫婦がふらりと立ち寄った地下のジャズバーで、ミアが「SEB'S」の看板を目にした瞬間からは、もう、つらくて、悲しくて、涙が止まりませんでした。セブが最後にピアノで弾いたメロディは、彼がおそらく5年のあいだに繰り返し思い巡らせただろう、想い出と、淡い夢を、走馬灯のように描き出していく。ミアにも、同じものが見えたのでしょうか?◇夢追い人に祝福を。それが、この映画の主題です。そして、二人の夢は叶いました。ミアの夢は、セブが自分の店を開くこと。セブの夢は、ミアが女優として羽ばたくこと。ミアは「店の名前は《チキンスティック》よりも《SEB'S》がいい」と言い、セブは「君がパリにいったら、女優の仕事に専念するほうがいい」と言った。はたして、すべてが思ったとおりになりました。だからこそ、最後に遠くからお互いを見つめた二人は、しずかに頷いて、そのことを確認しあったのですよね。でも、いちどしかない人生、ひとつの選択しか許されない人生は、つねに胸を締めつけられるような後悔にも満ちている。ミアは、セブの音楽を理解して、ジャズのことが好きになっていたのに。セブは、ミアの故郷の話も、女優だった叔母の話も、すべて覚えていたのに。二人こそが、お互いの夢のことを、誰よりも理解していたのに。それでも、5年の月日のなかで、それぞれの歩む道は分かれてしまう。◇再会した二人はひとことも言葉を交わしません。ただ、見つめ合って頷いただけです。それだけで、言葉にするよりはるかに多くの記憶が二人のあいだによみがえり、そして「なぜ一緒になれなかったのだろう?」という想いが、一瞬のうちによぎるのだと思う。でも、答えは分かり切っています。…それが人生だからです。◇この映画を見て、なぜかわたしが思い出したのは、山中貞夫の「人情紙風船」。あるいは、ベルイマンの「野いちご」でした。ベルイマンは39才。デミアン・チャゼルは32才。山中貞夫は28才。みんな若いときに撮っているのですよね。それなのに、彼らの作品には、すでに人生の悲哀や後悔があふれている。でも、若いエネルギーがあるからこそ、これほどまでに胸の締め付けられるような作品が撮れるのかもしれません。◇とくにミュージカル好きではない私にとって、歌や踊りが素晴らしいことだけが作品を評価する基準ではないし、逆に、歌や踊りが駄目だからといって、作品を評価しない理由にもならない。わたしが素晴らしいと思ったのは、この映画が、おそらく今まで観た中ではじめて、「ミュージカルならではのドラマ話法」というものを、たしかな実感をもって理解させてくれたこと。ミュージカルといえば、とつぜん歌いだしたり踊りだしたりすることに、違和感をもつことも多いのだけれど、この映画には、一般的なドラマのリアリティとは違う、ミュージカルならではの話法がありました。夜景の見える丘で、口で話すのとは裏腹に、歌い踊りながら心を近づけていくシーンにも、グリフィス天文台で、プラネタリウムのなかへ舞い上がっていく幻想的なシーンにも、《そこでこそ歌い踊る必然性》を、たしかに実感させてくれたのですね。◇デミアン・チャゼルは、とくにミュージカル専門というわけではないようですが、今後も注目していきたい監督です。ちなみに最近は、英語の発音に忠実であろうとする流行があるらしく、わざわざ「デイミアン」と英語なまりにも表記されるようだけど、彼がフランス系であることを考えれば、むしろ「デミアン」もしくは「ダミアン」と表記するほうが、よっぽど正しいんじゃないかという気がします。過度な英語至上主義は、かえって鬱陶しいですね。
2019.02.10
紅白は、今回から3年間、新しい路線なんだそうですが、去年までとは明らかにちがうのが分かりました。よかったです。基本的にこの路線で続けてほしい。いつものダラダラした余興とかがなくて、歌に魅入ってるうち、4時間があっという間に終わってしまった。すぐに歌で始まって、最後も歌で終わったのもよかった。今回は、ア-ティストのパフォーマンスも、今までとずいぶん印象が違いました。例年だと、ろくに歌えていないアーティストが、すごく多いから。とくにポップス系のアーティストに多いんだけど、普段のライブや民放の番組では良いパフォーマンスをしてるのに、紅白になると全然ダメ、という歌手が、よく見かけられた。つねにちゃんと歌えるのは、ベテランの演歌歌手ぐらいだった。だから、紅白というのは、よほどアーティストにとって歌いにくい環境なんだろうなあ、と思ってました。でも、今回は、何か今までと演出上の変化があったのか分かりませんが、不思議なくらい、みんな良く歌えているのが分かりました。演歌歌手の人たちも、例年以上に腰を据えて歌えてるのが分かった。そもそも、プロなんだから、(アイドル系の子たちはともかく)みんな歌がちゃんと歌えて当たり前なんだし、アーティストがまともに歌すら歌えないというのは異常なんだけど、今までの紅白では、その最低条件すら満たせてなかった。中島美嘉とか、平井堅とかは、場合によっては悲惨なくらいダメな時もあるけど、今回はとてもよく歌えていたと思います。それから、氷川くんは非常に素晴らしかったです。全体的に、演奏のアレンジも良かったと思います。アレンジというのは、各アーティストに任されているのか、それとも、全体を統括する音楽監督がいるのか分からないけど、全体的に、歌そのものを引き出すような、シンプルなアレンジが良かったです。とくに、天童よしみと秋川雅史のアレンジ。歌の迫力が直に伝わるようなアレンジになっていました。あと、ドリカムと寺尾聰の演奏もよかったです。ほかに印象に残ったパフォーマンスは、絢香、TOKIO(歌が上手くなった)、長山洋子(三味線の弾き歌いカッコよかった)、槇原敬之、ガクト(ここまで来ると、ビジュアル系も一年がかりだな)、大塚愛(というより、流石組の振り付けが良かった)、小椋佳、一青窈(の手話&コーラス)、早乙女太一くん(番外)あと、薬師丸ひろ子の語りもステキでした。長山洋子とか、坂本冬美とか、石川さゆりとかがそうだけど、演歌のほうも、情念とか耽美主義とか、ビジュアル系なんですね。長山洋子のパフォーマンスは、ちょっと椎名林檎っぽいと思った。司会の鶴瓶は、知識と、親しみと実感がこもってて、これぞ噺家の実力だなあ、と思わせられるところが大きい。それと、それぞれの歌にひとつひとつストーリーがあったことも、歌に引き込む上で、たしかに功を奏してました。ただし、これは、あんまり無理矢理なストーリーをでっち上げると逆効果だから、その点は、今後も、注意してほしいです。
2008.01.01
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