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GyaOの無料動画がサービスを終了するそうです。わたしはネットのサービスに疎くて、GyaOを利用したのはわずか1年ほどだったけど、最後に安田公義の映画をたてつづけに観れたのは収穫でした。◇それまで、森一生や三隅研次や田中徳三は観たことがありましたが、なぜか安田公義の映画をまったく観たことがなく、その名前を意識したことすらなかったのですが、GyaOの無料動画で、「大魔神」の第一作を観て、その美しさに驚嘆し、さらに「眠狂四郎」や「座頭市」のシリーズ作品を観て、わたしの評価は揺るぎないものになりました。どのシリーズにおいても、安田作品のクオリティは、他の大映の職業監督を上回っていると思う。◇とはいえ、安田公義については、ネットにも詳しいページが見当たらないし、Wikipediaの記述もなんだか物足りないのですよねえ…。ひとたび、海外の映画祭で上映されたり、映画評論の権威が取り上げたりすれば、それに追随して国内のシネフィル気取りも、さぞかし口を揃えて褒めるようになるのだろうけど、今のところ、本格的に評価しようという動きはどこにもないし、ネット上にも、熱心なファンと呼べるような人は見当たらないし、まして全集が発売されたりする気配もありません。◇実際、一般的には、三隅研次のほうがはるかに評価が高い。三隅研次は、たしか90年代ぐらいに海外で紹介されて、そのときに蓮實重彦の言及などもあったので、急速に評価が高まったのだと思う。まあ、たしかに、三隅研次は個性的な作家ですけども、わたしが観た範囲内でいえば、三隅の作品にはけっこう当たりはずれがあるし、むしろ演出家のとしての力量は、安田公義のほうが安定して上回ってると思う。それどころか、安田公義の演出力は、溝口健二さえ上回るんじゃないかと思うのです。◇ただ、残念なことに、安田公義が撮ったのは、チャンバラとか怪獣とかオバケなどの通俗劇ばかりで、いわゆる《芸術映画》と呼べるものが見当たらないのですね。三隅研次でさえ「釈迦」のような大作に取り組んだのに。三隅研次の評価が高いのは、そのシャープな個性もさることながら、ただチャンバラのような通俗劇を撮っただけでなく、「剣三部作」のような文芸作品や、「釈迦」のような大作を手がけたことが大きいのだと思う。ちなみに、三隅の「釈迦」は商業的には成功したようですが、お世辞にも出来がいいとは思えません。むしろ駄作です。それに対して、安田公義が評価されにくいのは、通俗的な題材にしか取り組まなかったからでしょう。もしかしたら、彼自身が、あまり芸術的な大作などを好まなかったのかもしれませんが、もし「雨月物語」や「羅生門」のような題材に取り組んでたら、さぞかし世界的な傑作として評価されただろうと思う。◇もちろん、芸術的な映画を作るためには、何よりもすぐれた脚本が必要ですが、わたしの観たかぎり、安田公義の作品は、どの脚本家と組んでいても一定の水準を維持しており、物語に安定的な深みがある。たとえ通俗的な時代劇でも、脚本が無駄なく引き締まっているし、エログロ的な題材においてさえ、ある種の文学性を湛えています。それは、彼がたんなる職業的な演出家であるのみならず、脚本家との連携にも長けていた、ということでしょう。あるいは彼自身が脚本制作にも関与していたのかもしれない。安田公義の作品は、怪物・妖怪・チャンバラのような題材ばかりなので、なかなか傑作と呼びにくいのも事実ですが、すべてが名作・佳作と呼ぶに値するものだし、わたしに言わせれば傑作も含まれると思います。◇ところで、安田公義の作風には、師匠にあたる山中貞雄からの影響があるはずです。ただし、山中貞雄や小津安二郎のような軽みには欠ける。なので、コメディには不向きで、ある程度の重みがある題材のほうに向いている。実際、多くの作品が、きわめて制御された手法で、抑制された表現に徹しています。その意味では、むしろ溝口健二の個性に近いと思う。溝口健二の場合は、世界的な巨匠としての評価が確立しているけれど、実際には、けっこう当たり外れがあるし、そもそも宮川一夫のカメラがなければ、その世界的な評価があったかどうかも疑わしい。これと似たことは、じつは小津安二郎にもいえる。そもそも野田高梧の脚本がなければ、現在のような小津の評価はなかったかもしれません。ただ、溝口健二が女優の演出に長けていたのに対して、安田公義の女性描写はやや紋切り型で、むしろ田中徳三のほうが、女性は魅力的に見えます。その点で溝口健二に比肩し得るのは、川島雄三でしょうか。
2023.02.11
先日、ブラタモリの《静岡編》を見たのですが、タモリは、その町の成り立ちを詳しく知るまで、ずっと静岡市を「面白みがない」と感じていたようです。◇タモリはもともと「名古屋嫌い」で有名でしたが、以下の記事を読むと、じつは嫌いなのは名古屋だけではなかったらしい。そこで「なぜ、名古屋を槍玉にあげるのか?」と問われたタモリは、じつは大阪も東京もどちらかといえば好きではないと明かしたうえで、次のように語った。《なんとなく一歩離れて、内地として日本を見るようなことありますね。父も祖父も満州の生活が長くて、しかも道楽者。ひょっとしたら、その影響もあるかなあ。名古屋は日本で一番日本的なものが集約されてるような面もあります》https://gendai.media/articles/-/51960?page=2◇あくまでわたしの想像だけど、家康や秀吉の作った城下町って、本質的につまらないのだと思う。とくに江戸・名古屋・静岡がつまらないのは、家康の実利主義や合理主義がきわめて近代的だからであり、あまりにも近代都市と相性が良すぎるからじゃないかしら?たとえば、京都や鎌倉を近代の首都にするのは困難だったろうけれど、家康や秀吉のつくった城下町の礎のうえになら、いくらでも近代的な都市が作れただろうと思うのです。しかし、かえってそのことが、歴史好きからすると「つまらない」と思えてしまう。つまり、近代的に改造するのが容易なぶんだけ、歴史の情趣みたいなものが残りにくいのでしょう。◇今回の大河『どうする家康』第1話のエンディングで、≫ 静岡がプラモデルの町になったのは、≫ 家康が全国から呼び寄せた金型職人のおかげとのエピソードが紹介されました。きっと、トヨタやヤマハみたいな近代産業が発展したのも、家康の町づくりの遺産と無関係ではないのだろうと思います。≫ 愛知と静岡の音楽文化について。
2023.01.17
米林宏昌の「思い出のマーニー」を見ました。とても綺麗な作品でした。◇原作を読んでないので、どこが同じでどこが違うのか知らないけど、たぶん「七夕祭」が出てくるのは宮沢賢治の引用ですよね。つまり、ジョバンニとカンパネルラの関係を女子に置き換えて、カンパネルラの存在をイマジナリーフレンドに見立て、まるで同性の恋人との出会いの物語のようにしている。◇マーニーのボートに乗ることは、「銀河鉄道の夜」みたいな死を意味しているようでもあり、《月夜にボートを漕いで入江の奥へ行く》という場面もあるので、松田聖子の「秘密の花園」みたいなセックスの隠喩っぽくもある。主人公は、自分の悲しみと憎しみと恐怖を、マーニーの悲しみと憎しみと恐怖に置き換えながら、さらには男女の性の役割さえも入れ替えながら、ともに乗り越えて成長していくのですね。◇青い目の主人公は、じつはクォーターだったというオチですが、基本的には、東洋人のヒロインと、西洋人のイマジナリーフレンドの交流のお話なので、この映画を、東洋人の観客が見るのと、西洋人の観客が見るのとでは、すこし見え方が違うかもしれませんが、そのことにさえ何らかの意義がある気はする。◇大林宣彦の「さびしんぼう」の場合は、《イマジナリーフレンドが少女時代の母だった》というお話ですが、本作ではおばあちゃんだったのですね。ジブリ的にいうと、「おもひでぽろぽろ」みたいに田舎へ行って、「千と千尋」みたいに此岸と彼岸の境界を越えて、クララみたいなお金持ちの美少女や、無口なおじいさんに出会うって「ハイジ」っぽさもある。それぞれの要素は、過去に反復されてきたモチーフの組み合わせではあるけれど、ひとつの物語として綺麗にまとまっています。最後は種明かしをしすぎてる感もありますが、あえて欠点というほどでもありません。作画も美しかったし、村松崇継の音楽も美しかったです。まだ本格的にブレイクする前の、有村架純や杉咲花やTEAM NACSが参加してるのもすごい。
2023.01.14
NHKスペシャル「超進化論」を見ました!去年の再放送みたいです。第1集は「植物からのメッセージ」。どれも知らない話ばかり!!…おどろきモモノキの連続でした。◇余談ですけど…Stevie Wonderの79年の「シークレットライフ」という作品は、なぜかサントラだけが作られて、映画がお蔵入りになっていた。その原作は「The Secret Life of Plants」で、植物の神秘を題材にした科学ドキュメンタリー映画。つまり「植物にも知性がある」みたいな話です。何故お蔵入りになったのか知らないけど、ちょっと "トンデモ科学" 的な話だったから、きっと信憑性に疑問符がついたのだろうと思ってました。◇ところが、今回のNHKの番組を見たら、まさに「植物にも知性がある」みたいな話じゃないですか!!びっくりしたー。植物は、ホルモンみたいな情報伝達物質を生成し、その組み合わせによる "言語的なメッセージ" を、ほかの器官や、仲間の植物に対して送ってる。さらに、それを空気中に放出して、虫たちや鳥たちにもメッセージを送ってる。たとえば、葉を食べる害虫を攻撃するため、周囲に情報を発信して、植物自身で有毒物質を生成したり、天敵の虫や鳥をボディガードとして呼ぶのだそうです。ほとんどおとぎ話の世界。もしかしたら、人間も無意識に植物のメッセージを感知してて、いわゆる "第六感" を働かせてるのかもしれません。◇それだけじゃあない。植物は、動物の神経細胞と同じく、電気信号を使った情報伝達もしてるらしい。動物の神経も、シナプスでグルタミン酸を受容して、ナトリウムイオンなどで電気を伝えてるはずだけど、植物も、やはり葉の細胞などでグルタミン酸を受容し、維管束などでカルシウムイオンを発生させるようです。ほとんど神経系と同じ仕組み…?◇植物は、音、温度、重力、化学物質などの情報を、20以上の受容体で感知できるそうです。…虫が葉を食べると、その咀嚼音や唾液成分を感知して、虫の種類を判別したうえで有毒物質を"調合"する。…雨が降ると、雨粒の圧力を感知して抗菌物質を生成する。…人間などに触られると、その危険を感知してわざと成長を遅らせる。…土のなかの種子に号令を発して、最適なタイミングでいっせいに発芽させたりする。ちょっとサンゴの産卵みたいですね。…ネナシカズラなどは、寄生相手のヨモギを匂いで判別しているそうです。つまりは、嗅覚も聴覚も触覚もあるってこと!ここまでくると、もはや《森の妖精が実在する》というのと同じじゃないの?ヤバいくらい神秘的な世界だと思いました。いとうせいこうは、一貫してこのテーマを追いかけてるっぽい。お蔵入りになった映画がネット上に流出したときも、いち早く取り上げていました。植物の神秘生活~緑の賢者たちの新しい博物誌/ピーター・トムプキンズ植物は〈知性〉をもっている~20の感覚で思考する生命システム/ステファノ・マンクーゾ植物は〈未来〉を知っている~9つの能力から芽生えるテクノロジー革命/ステファノ・マンクーゾつづけて、第2集は「愛しき昆虫たち」でした。テーマのひとつは、どうやって昆虫は空を飛ぶようになったのか?詳細はまだ分かっていないらしいけど、わたしは女王蟻にヒントがあるような気がする。女王蟻だけが羽をもっているのは、遠くに移動しなければならないからです。かりに高度な羽を持っていなくても、胸の節の部分がパラシュートのように広がっていれば、落下したときにも空気抵抗があって安全だろうし、うまく風に飛ばされれば、遠くへ行ける可能性も高まる。それが徐々に動く羽へと進化したんじゃないかしら?◇それにしても、蟻の世界は、あまりにも社会的にすぎて怖い。同じ女王の子かどうかを厳しく判別して、あくまで家族間だけで食物を分け合うのだそうです。そして、やがて若い女王がひとり旅立って、別の場所で新たな家族を作る、みたいな物語がある。その物語性が、かえって不気味です。なお、蟻の家族に居候するコオロギがいるそうです。キリギリスだったらよかったのに!!◇もうひとつのテーマ。チョウチョのような昆虫は、なぜ幼虫から成虫に変態するのか?答えは、多様な生態を実現するためだそうです。でも、CTでサナギの内部を撮影する実験を見ていたら、あれはきっと系統発生を高速で反復してるんじゃないか、と思えました。◇今夜は第3集「すべては微生物から始まった」です。大河のあと、絶対見ます。La Voz de Tres「Secret Life of Plants」
2023.01.08
NHK-FM「蓄音機ミュージアム~セロニアス・モンク」を聴きました。◇セロニアス・モンクといえば、濁った音色、奇妙なメロディ、よたったリズム、…みたいなイメージ。要するにヘタウマ。◇あくまで音だけを聴いたイメージでいうと、前歯の欠けたグラサンのおじさんが、節々の曲がった太い指で、ラリって弾いたような音楽。あるいは酔っ払って足のもつれたダンス。…みたいな映像が目に浮かびます。◇しかし、今回の番組のなかで、挾間美帆はこう話していました。ただたんにピアニストとしてとらえることは出来ない。作曲家が自分の個性を存分に引き出すためにピアノを弾いている。頭の中に色々な音色とか音程がうごめいていて、それを演奏するとああなる。…ピアノを超えた演奏なんじゃないか。つまり、モンクの特殊な音楽は、演奏の癖とかスタイルによるものじゃなく、あくまでも「作曲されたもの」だということ。本人の頭のなかでは、ピアノ以上の作・編曲がなされていたかもしれない。それを譜面に起こすことが出来るのか分からないけど、すくなくとも本人の頭のなかには何らかの楽曲像があって、それを鍵盤のうえに再現してたってことですね。番組では、作曲過程を録音した音源も流していましたが、"ヘタウマ風"の楽曲を意識して作っているのが分かりました。◇挾間美帆は、モンクの楽曲をビッグバンドのために編曲してますが、じつは自由度が少ないとも話しています。自由度の高い曲のはずなのに、すごく首を絞められるんですよ。有余があるようで全然ない。4小節しかメロディがなくてすごく単調なはずなのに、和音1つ変えちゃうとその曲じゃなくなってしまうような感じがあるんです。どの曲もテーマは和音1つ変えられずリズム1つ変えられず、そのまま提示するだけ…そうしないと彼の曲らしさがなくなっちゃう。≫ 挾間美帆が語るセロニアス・モンク◇コードや旋律だけでなく、音色の濁りとか、リズムの揺らぎまでが、あらかじめ「作曲されたもの」なのだとしたら、一般的なジャズの楽曲のように、シンプルな構造だけを提示するものとは違って、演奏や編曲の自由度がとても少ないってことですね。◇もし、それが、「演奏様式」でなく「作曲様式」だったとするなら、かつてホンキートンクピアノとも呼ばれた黒人独特の感覚が、モンクの頭のなかでは抽象化され形式化されていたってこと。つまり「ニュアンスの言語化」みたいなことが、彼の頭のなかでは実現していたってことだと思います。ちなみにモンクのような音楽性は、たしかに西洋音楽の対極に位置するものだと思うけど、それをただちに「アフリカ的」と呼べるのかどうかは分からない。フランス的な諧謔モダニズムのようにも聞こえるし、ユダヤ的な変態エキゾチズムのようにも聞こえます。
2023.01.06
NHK「玉木宏の音楽サスペンス紀行」。《引き裂かれたベートーヴェンその真実》を見ました。もともとはBSの番組ですが、12/30に総合でも放送されていた。ベートーヴェンの《神話解体》がテーマ。本人が自覚してるかは知らないけど、玉木宏も「ベト7人気」の立役者の一人だから、こういうところのNHKの人選は抜かりない。…去年は、映画「CODA」やドラマ「silent」で、ろう者や中途失聴者のことが取り上げられましたが、ベートーベンも、まさに中途失聴者です。番組では、彼がコミュニケーションに用いた「会話帳」に焦点が当てられました。そして、この「会話帳」が神話形成の土台になっている。◇わたしが思うに、ベートーベンの神話形成には3つの側面があります。1.ドイツナショナリズム番組ではこの点にはほとんど触れなかったけど、実際には、この要因がいちばん大きいはずです。ドイツは長いあいだ、ヨーロッパの後進国として劣等感にさいなまれた。シューマンからワーグナー、やがてフルトヴェングラーやヒトラーに至るまで、その文化的な後進性を乗り越えるうえで、ベートーヴェンはずっと象徴的な存在だったと思う。2.個人的な崇拝これはアントン・シンドラーのことです。すなわち、会話帳の改竄と、それにもとづいて捏造された伝記の出版。いつの時代にも神話を作りたがる人はいる。「はっぴいえんど史観」も然り(笑)。過度に心酔するあまり、事実を捏造してでも神話を広めようとする。とくにシンドラーの場合は、シューマンなどのロマン派による再評価に触発されて、その機運に乗っかった面も多分にあったはず。逆にいえば、当時のドイツの文化的ナショナリズムのほうが、捏造された神話を積極的に欲してしまったのです。シンドラーは、「ベートーヴェンが『ファウスト』を題材に作品を構想してる」みたいな嘘も吐いたらしいけど、そういう発想こそがドイツロマン派の理念に呼応しています。さらにシンドラーは、「運命」だの「テンペスト」だの、もっともらしい表題まで考案したらしいのだけど、実際のところ、これらの表題がなければ、楽曲がいまほど有名になることはなかったでしょう。シンドラーが、ベト7の2楽章のアレグレットを、アダージョに改竄した気持ちもなんとなく分かる。わたし自身、あれは荘重な葬送行進曲だと思ってたし、現在でも遅いテンポで演奏する指揮者はいるはず。3.東西のイデオロギー対立戦後のドイツが東西に分断されたことで、ベートーヴェンの虚像と神話も、それぞれのイデオロギー的な解釈によって、まったくちがう様相を見せていった。番組では、その点を大きく取り上げていました。スパイが暗躍して、会話帳の奪い合いまで起こっていたのですね。◇しかし、いまや、ベートーヴェンの神話は解体されつつあります。もともとシンドラーによる伝記は、アレグザンダー・ウィーロック・セイヤーなどによって、当初から内容が疑問視されていたけれど、冷戦期に西側の《情報化》が進展すると、東側も神話を助長するだけでは対抗できなくなり、むしろ積極的な《神話解体》で研究をリードしようとした。そして、ついに1977年、東側の研究者が、シンドラーによる会話帳の改竄を完全に暴き、楽譜の校訂においても、東側の研究がリードしていった、とのこと。ただし、冷戦終結によって頓挫してしまいます。◇ベートーヴェンの神話は需要が減じています。かつては後進国だったドイツですが、いまやすっかりヨーロッパの盟主になったわけで、神話によってナショナリズムを喚起する必要がなくなった…って事情もあると思います。これは、日本についても言える。同じ後進国として、ドイツのナショナリズムに同調する必要がなくなった。そもそも、戦後のドイツも日本も、ナショナリズムの称揚を国際的に許されていなかったかもしれませんが。かくして日本では、「のだめ」の影響でベト7が人気を獲得し、ドイツ本国でも、「笑うベートーヴェン像」が作られるなど、従来的ないかつい虚像のイメージがだいぶ変わってきた。◇ところで、今回の《神話解体》の極めつきは、じつは第9の「歓喜の歌」って「酒宴の歌」だったかも…という仮説です(笑)。そういえば、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」も、もともとは酒を酌み交わして歌う合唱曲だったのよね。…あらためて「歓喜の歌」の内容は、こうです。歓喜よ、美しい神々の火花よ 楽園からの乙女よ、我々は感激して、あなたの天上の楽園に足を踏み入れる。あなたの魔力は 世界が厳しく分け隔てるものを 再び結びつけ、すべての人々は あなたの優しい翼のもとで兄弟になる!(N響「第9」演奏会2022の字幕より)これがもし「酒宴の歌」だとするのなら、≫ 楽園酒場に足を踏み入れたら、≫ アルコールの魔力でいちゃりばちょーでー!みたいに意訳できるかも。◇さらに、番組でも紹介されていましたが、ベートーヴェンには「ポンス(パンチ酒)の歌」ってのがあって、その歌詞も、ちょっと「歓喜の歌」に似ているのです。いったい誰だ?パンチ酒が熱き手から手へと仲間を回っているというのに、喜びと楽しさを感じない奴は誰だ?そんな奴はさっさと這って消え去れ!(「ポンス(パンチ酒)の歌」Punschlied, WoO. 111)「歓喜の歌」にも似たような部分がありますよね。一人の友を真の友とするという幸運に恵まれた者、優しい妻を持つことができた者は、ともに喜びの声を上げよ。ただ一人でもこの世で友と呼べる人のいる者も。しかし、それができなかった者は、涙とともにこの集いから去るのだ!つまり、≫ 恋愛も結婚もできず、≫ 友達もいないようなヤツはすっこんでろ!みたいな内容です。◇世間では、この「歓喜」こそが第9の結論のように誤解されてますが、実際は、そうじゃありません。いったん「歓喜」が高らかに歌われたあと、急にガラッと雰囲気が変わって、荘重かつ不穏な感じで「抱擁」が歌われます。そして最後に「歓喜」と「抱擁」が融合して結論に至る。その弁証法的な構造の意味合いが、あまり理解されていないんじゃないか、って気がする。わたしが思うに、じつは「歓喜」には排他的なところがあって、それを弁証法的に乗り越える必要があったんじゃないかしら?ちなみに、「歓喜」の部分は同胞の視点で歌われますが、「抱擁」の部分は神の視点で歌われます。百万の人々よ、わが抱擁を受けよ全世界に、この口づけを兄弟たちよ、星空の彼方に愛する父は必ずや住みたもう百万の人々よ、ひざまずいているか世界よ、創造主の存在を感ずるのか彼を天上に求めよ、星空の彼方に創造主は必ずや住みたもう実際、友達のいない人を排除したまま、社交的な人間だけで歓喜の結論に至るってどうなの?たしかに「隣人愛」も大事だけれど、孤独であるがゆえの「神の愛」だって必要でしょ。だからこそ、「歓喜」と「抱擁」を止揚したところに、最終的な結論が置かれているのだと思います。
2023.01.05
上白石姉妹と美術にかんする話。わたしは、以前、「萌歌の美術の好みはよく分からない」と書いたけど、今回のAERAの記事によると、≫印象派が好み。≫画家であればフォーヴィスムの創始者でもあるアンリ・マティスが大好き。とのこと。まあ「マティスが好き」というのは前にも言ってました。でも、萌歌の嗜好からは、さほど印象派の要素を感じなかったのですよね。姉の萌音が、≫印象派が好き。とくにモネが好き。というのは、とても分かりやすいけど、マティスは印象派に比べてかなり現代的だし、やはり萌歌の好みは、ピカソ&マティスが軸になってると考えるほうが、わたしにとっては分かりやすい。◇もともと、美術史におけるマティスの位置づけは分かりにくい。あまりにも現代的だから、近代の《象徴派》にも《印象派》にも、そして《野獣派》にさえも収まりきらない面がある。そのポップなモダニズムは、現代のグラフィックデザインや、むしろイラストレーションに近いもので、いわゆる「西洋美術史」の中には位置づけにくい。アカデミックな伝統との断絶とか、従来的な美術史カテゴリーからの逸脱という点では、コクトーにもルソーにもゴーギャンにも同じことは言えますが、強いて分類するなら「ポスト印象派」ってことでしょうか。◇これは、ちょうどエリック・サティの音楽が、ドビュッシーやラベルなどの印象派とはだいぶ違って、いわゆる「西洋音楽史」の中に位置づけにくいのと似ている。さしずめフランス近代が生んだ鬼子なのですね。実際、エリック・サティ(1866年生)と、アンリ・マティス(1869年生)は3才しか違わないし、出身も同じフランス北部だったりする。そして、なにより、サティの「家具のような音楽」と、マティスの「肘掛け椅子のような絵」は、ほとんどコンセプトが同じなのですよね。今でいうなら「アンビエント」ってこと。◇大久保恭子は、コクトー&ピカソ&サティの『パラード』(1917)と、マティスの『ジャズ』(1947)とを関連づけています。前者は、見世物小屋のパレードを描いたディアギレフのバレエリュス作品。後者も、モチーフが似ていて、サーカスや演劇を切り絵と言葉のコラージュで描いたアートブック。両作品には、2つの大戦をまたいで30年の間隔があるけれど、どちらにも「ジャズエイジのモダニズム」というべき通俗性がある。ちなみに、アポリネールが「シュルレアリスム」の語を初めて用いたのは、コクトー&ピカソ&サティの『パラード』に対してです。こちらは山村浩二のアニメ。サティとマティスの近似性については、もっと多くのことが考えられねばならないし、そうでなければ、彼らはいつまでたっても、「近代の鬼子」みたいな位置づけに据え置かれる。とくにフランスの近代文化は、ジャンル横断的にとらえなければ見えてこないものが多い。戦後の日本人は、そういうことをすっかり忘れてしまったのだけど、戦前(とくに大正期)の日本人は、比較的そのことがよく分かっていた気がします。◇ちなみに、わたしも、昔から「マティス的」なものが好きでした!それは、より正確に言えば「ミック板谷的」なものですがw「マティス」と書くより「マチス」と書くほうがしっくりくる。わたしが「ミック板谷的」なものを意識するようになったのは、同世代の例に違わず、ゴンチチのアルバムジャケットの刷り込みがあるから。わたしが愛聴してたのは『マダムQの遺産』です。そもそもゴンチチのCDを雑誌で紹介してたのは、たぶん由貴ちゃんだったと思う。ちなみに『マダムQの遺産』に太田裕美が参加してるのは、もともとプロデューサーが福岡智彦だからです。まさにゴンチチの音楽なども、サティやマティスを基礎にしていたところがある。(とくに初期のころは)◇ミック板谷みたいな画風は、もとはといえばマチスやコクトーに始まるわけですが、その後のさまざまな画家にも見られます。個人的には、パウル・クレーやサミー・ブリスにもそれを感じるし、ポーラ・マッカードルとか、ロジーナ・ワハトマイスターとかにも感じてしまう。岡本太郎にもそういう面がなくはないwそういう作品を見るとき、わたしの頭の中には、どこかでゴンチチの『マダムQの遺産』の音楽が鳴ります(笑)。とりわけ「バスで見た女ひと」という曲。
2023.01.04
ノラ・ジョーンズの『I Dream Of Christmas』。去年のアルバムですが、今年は2枚組のデラックス・エディションが出てます。◇去年のオリジナル版は、正直、のめりこんで聴くほどでもなかったけど、今回のデラックス版に追加された[Disc2]は、全体にレイジーな雰囲気が増していて、こっちのほうがずっと彼女らしい。ちなみに去年は、「Christmas Calling」などを看板曲にしてましたが、わたし的には「You're Not Alone」のほうが好みだった。「Christmas Calling」は、スタジオver.よりも、むしろライブver.のほうが、ビターな味わいがあって良かったし。今回の[Disc2]には、そのライブver.が収められてます。そして今年は、ノラ自身も「You're Not Alone」を推してるのか、その弾き語りをInstagramにアップしたりしてます。「I'll Be Home For Christmas」や「The Christmas Waltz」も、ブルージーなアレンジが素敵。…ってなわけで、もっぱら[Disc2]ばかり聴いてます。◇ノラ・ジョーンズ「I Dream Of Christmas」2022 Deluxe Edition[Disc2]Last Month Of the YearI'll Be Home For ChristmasThe Christmas WaltzO Holy NightI Dream Of ChristmasHave Yourself a Merry Little ChristmasChristmas in My Soul / Christmastime (Live From The Empire State Building)Run Rudolph Run (〃)Blue Christmas (〃)You're Not Alone (〃)Christmas Calling (〃)You’re not alone. ❤️ pic.twitter.com/IKMzeznt4y— Norah Jones (@NorahJones) December 16, 2022
2022.12.23
昨夜は、配信で由貴ちゃんのビルボードライブ。in 横浜。なんだか、とてつもなく理想的な内容で、とくに前半5曲は「わたしのための選曲?」って感じ。いきなり「つけなかった嘘」で始まるし(笑)。由貴ちゃん自身も「大好きな曲」だって!もしかして、わたしの影響を受けちゃった?…なんちゃって。この「つけなかった嘘」は嘘をつかない曲なのだけど、そのあとは嘘をつく曲を4つ。彼がいることを今まで黙っていた曲。あなたからのメッセージを彼女に伝えなかった曲。本当と嘘のストライプの曲。冬に船で不実に耽る曲。ちなみに「金色の夜」も偽善者の歌なんだけどね。あまりに嘘が重すぎて今回は選ばなかったのでしょう(笑)。編成もアレンジもわたし好みだった。Andy Bevanのフルートも素敵で、本格的なジャズバンドのライブって感じでした。KAZCOが歌った「What Child Is This?」も由貴ちゃんの「SWEET MEMORIES」もジャズの雰囲気が濃厚。冒頭に歌われた「Deck The Halls」と「What Child Is This?」は英国のキャロルですよねえ。ポピュラーなクリスマスソングじゃなく、伝統的なキャロルを選ぶところも由貴ちゃんらしくてよかった。「What Child Is This?」ってのは、もとは卑俗な内容の「グリーンスリーブス」をキャロルに仕立てた不思議な雰囲気の曲。すこしダークな感じが個人的にも好き。今回は「ひまわり」と「DOLL HOUSE」を歌ったこともあり、「MAY」や「土曜タマ」などの谷山作品を珍しく歌わなかった。大森一樹が亡くなったので「MAY」や「さよなら」を歌うとしたら意味合いがいつもとは違うと思ってたけど、むしろあえて触れなかったかもしれません。カバーコーナーは、前述の松田聖子の「SWEET MEMORIES」とNOKKOの「人魚」。それぞれ松本の曲、筒美の曲ってことでもある。「SWEET MEMORIES」はデビュー時にテスト歌唱したもののひとつ。当時の歌声もハマっていたけど、今の歌声でもやはりハマっている。正直、本家よりも由貴ちゃんのほうがいい(笑)。4ビートの曲だからジャズの編成にもぴったり。NOKKOとは、去年のラジオ出演あたりから交流が続いてるようです。NOKKOは熱海に住んでるはずだけど、湘南のモールで食事したって。DJ HASEBEの「Bayside Lover」の話も出ていました。わたしにとって今回のMVは、かつて藤竜也と共演した「湘南物語」以来の大ヒットです!なんならミニドラマに仕立ててほしいくらい(しょうもない脚本でもいい。雰囲気さえあれば)。やっぱり由貴ちゃんには、横浜とか湾岸を舞台にした映像作品に出て欲しいという気持ちが強いのです。≫Bar「StarDust」&「POLESTAR」なお、車の運転には注意しましょうね(笑)。由貴ちゃんも横山剣も走り屋だから。ちなみににDJ HASEBEは、昨夜の1stステージに来ていたそうです。萌歌も、去年あたりから江ノ島や鎌倉周辺を巡ってましたが、目下「AERA」の特集記事 では昭和の横浜を巡ってます。昭和といっても、わたしらの知ってる昭和じゃなく、戦前の昭和にまで遡って。はじめは昭和2年開業のホテルニューグランドから。「プリンアラモードやナポリタンスパゲティの発祥」「占領時代にマッカーサーの執務室があった」「チャップリンが泊まったことがある」とかはなんとなく知ってたけど、ジャン・コクトーが来てたことを今回の萌歌の記事で初めて知りました。コクトーと横浜に縁があったのね。由貴ちゃんの「双頭の月」は、おそらく「双頭の鷲」からの引用なのだけど、これはハプスブルグ家の紋章であると同時に、ジャン・コクトーの戯曲&映画のタイトルでもある。ルートヴィヒ2世やエリザベートをモデルにした物語ともいえますが、要するにハプスブルク家の退廃的な王家の人々の物語なのです。なぜ由貴ちゃんが「双頭の鷲」を「双頭の月」に置き代えたのかについては、そのうち音楽惑星さんのサイトで話すつもり。萌歌は、最新の記事でジャック&ベティを訪ねています。プライベートでも、関内ホールや日ノ出町視聴室あたりに出入りしてるっぽい。一昔前なら"ディープな界隈"とか言われてた地域ですよね。カネコアヤノとかも日ノ出町あたりを地元の庭にしてるのでは?(笑) 萌歌は、関内ホールに「あんなに優しかったゴーレム」を観に行ったようです。「続・時をかける少女」の上田誠の舞台ですね。そして萌歌は「恋する惑星」以上に「花様年華」が好きになったと!わたしに影響されちゃった?…なんちゃって。なお、アレック・ソスの写真展に行った話も気になったので、こちらも音楽惑星さんに協力してもらって「ON THE ROAD」と「BY THE MISSISSIPPI」の関係をまとめておきました。≫ジャック・ケルアックとアレック・ソス昨夜のライブの話に戻りますが、由貴ちゃんが凜のデビューに言及したのは今回が初めてだったはず。わたしらの予言どおり「シンデレラストーリー」が再演されたこともあるけれど、音楽惑星さんは5年前に「長女をメディアに出したらいいのでは?」と東宝にメールしていたらしい。もしかしたら自分の責任かも…とすこし気にしてるようです。今回のラスト曲「永遠のひと」は、やはり凜を意識した選曲だったように感じる。ところで、東宝シンデレラたちは1年前の年末年始も大忙しだったけど、今年もやはり日テレを中心に出まくっていて、すでに「初耳学」には白山乃愛ちゃんが出演してたし、一昨日は「しゃべくり」に萌音が山本耕史と一緒に出演、そのあとの「おもちゃ屋MISIA」には美波が出てました。NHK朝ドラには紘菜が出演中。昨夜はテレ朝で「科捜研の女」が最終回、次の月曜はフジで「エルピス」が最終回。12月28日には、萌音が司会を務める日テレの「今年イチバン聴いた歌」に由貴ちゃんが出演するらしい。そして1月10日からはNHK版の「大奥」がはじまる。日テレの「ファーストペンギン」が素晴らしかった森下桂子の脚本で、由貴ちゃんは春日局の役。堀田真由も、山本耕史も、貫地谷しほりも出てくるので楽しみです。ライブ配信は12月27日まで。https://news.tv.rakuten.co.jp/2022/12/saitoyuki-archive.html4ヶ月連続企画 斉藤由貴セレクション…なんてのもあるらしい。https://www.homedrama-ch.com/news/408何もかも変わるとしても [SHM-CD]+YUKI SAITO 2021~2022 SPECIAL LIVE CD
2022.12.21
萌歌が昨夜の「adieu LOCKS!」で、ウディ・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』の話をしていました。わたしは、この映画を観てませんが、調べてみると、現代の米国人が、ベルエポック期のパリへタイムスリップする内容らしい。そこで、フィッツジェラルドとか、ヘミングウェイとか、コクトーとかダリとかピカソに遭遇する…みたいな話なのですね。番組で紹介した、パリの地下鉄が思い浮かぶという映画音楽は、もともと萌歌が好きな『アメリ』のテーマと同じ三拍子のワルツ。じつは最近、萌音がヘミングウェイの「老人と海」の話をしていたし、もともと萌歌はピカソの「ゲルニカ」と関係が深いので、(これはスペイン語圏のメキシコで暮らしたことの影響もある)もしかしたら、萌歌は姉と一緒に映画を観たのかもしれません。— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) September 12, 2022— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) November 2, 2022 ◇萌音も、萌歌も、しばしば美術への関心を口にしますが、萌音の場合は、さすがに名前が「モネ」だけあって、たぶん印象派が好きなんだろうなあという感じがあり、事実、最近も《モネと萌音》のコラボレーションが話題になっています。モネと萌音 また、萌音萌歌はともに「赤毛のアン」を演じてきましたが、赤毛のアンの時代も、じつはジャズエイジやベルエポックの時代に重なっている。わたしは、ドラマ「アンという名の少女」に登場した同性愛者の大叔母が、ガートルード・スタインをモデルにしてるんじゃないかしら?と思っていましたが、ウディ・アレンの映画にも、そのガートルード・スタインが出てくるようです。このブログ的にいえば、押井守が担当した「ルパン三世PART6」の、シェイクスピア&カンパニー書店がらみの内容も、当然ながらこの時代に関係する。◇かたや、萌歌のほうは、大学でひととおり美術史を学んだはずだけど、具体的にどういうものが好きなのかは、正直よく分からない。なんとなく現代美術が好きそうではあるものの、意外にアンドレ・ブルトンの本を手にしてる写真があったりして、シュルレアリスムへの関心も気になるところです。ウディ・アレンの映画にも、コクトーや、ダリや、ブニュエルなど、当時のシュルレアリストたちが登場するらしいのです。(ちなみに、わたしはブニュエル推し!)アンドレ・ブルトンと萌歌 ◇しかし!なんといってもシュルレアリスムが好きだったのは、彼女たちの先輩にあたる斉藤由貴なのですよねえ。由貴ちゃんは、昔からジャン・コクトーやルネ・マグリットが好きでした。1989年に、由貴ちゃんが長岡和弘と一緒にベルギーを訪ねたのは、おそらくマグリットが目当てだったからだろうし、2000年代になってプラハを訪れたのも、やはりシュルレアリスムへの関心と無関係ではないはず。英国の「不思議の国のアリス」も、プラハの絵本や人形劇の文化も、この時代のシュルレアリスムの潮流と無関係ではないからです。かつて由貴ちゃんが作詞をした「迷宮」という曲も、ルソーやダリの絵画の世界をモチーフにしていたし、現在、彼女が出演しているドラマ「ノンレムの窓」にさえ、ダリやらマグリットやらの要素が盛り込まれています。— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) October 9, 2022萌音が、かねてから原田マハを愛読してるのは有名だけど、原田マハの出世作である「楽園のカンヴァス」も、まさにアンリ・ルソーの絵が表紙になっています。つまり、斉藤由貴の「迷宮」と、原田マハの「楽園のカンヴァス」は、同じルソーの作品を題材にしていると言っていい。原田マハは、その物語を岡山の大原美術館のシーンから書き始めましたが、ちょうど岡山で朝ドラ「カムカム」が撮影されていたころ、由貴ちゃんも、萌音も、大原美術館を訪れていました。(そこにはもモネの「睡蓮」も展示してあります)— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) January 3, 2022斉藤由貴と原田マハの直接の接点は思い当たりませんが、かつて由貴ちゃんが『月カド』で連載をしていたころ、同じ雑誌でコラムを書いていたのが原田マハの兄の原田宗典でした。そして、近ごろ公開された萌音の書棚を見たら、ちゃっかり原田宗典の本がド真ん中に置いてありました(笑)。萌音も萌歌もあまり漫画は読まないはずですが、なぜか高野文子の「おともだち」がありますね。かつて由貴ちゃんは「絶対安全剃刀」を絶賛していました。◇前にもこのブログに書きましたが、萌歌が、J-WAVEで「LOVEFAV」をやっていたとき、「銀色夏生の詩集と一緒にクリムトの葉書を送ってくれた人がいる」という話をしていて、わたしは、このエピソードがずっと気になっているのですが、それは、クリムトが世紀末ウィーンのファムファタルの画家だからであり、結局のところ斉藤由貴の関心領域が、ウィーンやプラハを舞台にした末期のハプスブルク王宮文化だからであり、コクトーやヴィスコンティへの関心もそこから生まれていたからです。(もともとこれは萩尾望都をはじめとする少女漫画からの影響ですが)シュルレアリスムというのは、いわばプラハに生まれてパリで広まったのだけど、由貴ちゃんの場合も、フランス文化への関心がそれなりにあって、それがルソーの引用やドビュッシーの愛聴に繋がったり、自分のことを「コメディエンヌ」と規定したりすることに繋がっています。そして、斉藤由貴のファンならみんな知っていることですが、水嶋凜の本名も「モネ」です。これがたんなる偶然なのかといえば、案外そうではないかもしれません。ちなみに水嶋凜は、多摩美術大学を卒業しています。追記:「プラハとシュルレアリスムの関係」について、誤解を招くといけないので、補足しておきます。わたしは「ギヨーム・アポリネールがプラハのユダヤ人街でシュルレアリスムの可能性を直感した」と思っていて、その考えから「シュルレアリスムはプラハで生まれた」と書いてますが、実際には「シュルレアリスムはパリで生まれた」という説明のほうが一般的だと思います。それから「プラハの人形劇文化」(←由貴ちゃんのプラハへの関心はこれがきっかけ)は神聖ローマ時代のドイツ支配下で生まれたものであり、かたや「プラハの絵本文化」のほうは共産主義時代のソ連の影響下で発展したわけなので、1910年代のシュルレアリスムの発生とは時代的にも無関係です。ただ、プラハの文化が異民族間の葛藤のなかで地下化したり歪んだりする特性は一貫していて、アポリネールがプラハのユダヤ人街でシュルレアリスムの可能性を直感したのも、そういう「都市の特性」と無関係ではないとわたしは感じているわけです。もちろん、これもわたし個人の考えなので、まったく一般的な解釈ではありません。— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) October 8, 2021
2022.10.18
上白石萌歌の新作『adieu3』。先行して発表されていた1曲1曲は、あいかわらず通好みで敷居が高いかなあと思ってたけど、アルバムを通して聴いてみると、意外にキャッチーで、なにより曲順がとても良い。アーティスティックな度合いは増してるはずなのに、不思議なくらい、すんなり耳に馴染んできます。結果的には、今までの中で、いちばんポピュラリティを感じる仕上がりになっている。ラストの曲は、小袋成彬が作・編曲をした「ワイン」。タイトルどおり大人っぽいというだけでなく、やはりYaffleの編曲とは毛色がだいぶ違います。ネオソウルというか?英国系のクラブソウルというか?ソウルジャズ風のクールで官能的なサウンド。これまでは前面に出ていなかったけど、こういう感じが、小袋成彬の本来の音楽性にいちばん近いのかな。そして萌歌にとっては、けっこうな挑戦。◇じつは、上白石姉妹は、ソウルミュージックに対して、ちょっと苦手意識があるだろうと思う。これは、現在の20代の若者の全般的な傾向でもあります。まあ、日本人はもともとソウルミュージックが苦手なのです(笑)。とくに女性で「ソウル好き」なんて人は珍しかったし。昔だったら、ちょっと異質だと思われても仕方なかった。せいぜいのところ、マイケルやスティーヴィーやホイットニーを聴くのが精一杯で、いまでも一般の日本人は、ジェームス・ブラウンやアレサ・フランクリンまでは、なかなか受け入れられないのが実情ですよね。例外的に、1990年代に青春時代を過ごした世代のみが、比較的よくR&Bに親しんだのです。そして、宇多田ヒカルやMISIAや平井堅などが、日本の音楽シーンのなかにもR&Bを導入しました。けれども、2000年代以降になると、ふたたび日本人はソウルミュージックから疎遠になって、(というより洋楽全般から疎遠になってる)上白石姉妹の場合も、その例外とは言えません。◇萌歌は、J-WAVEの番組「LOVEFAV」で、洋邦のいろんな曲を流したけど、わたしが記憶している限り、ソウルミュージックはひとつも選曲していないはずです。(サッチモの「ラ・クカラーチャ」はかけたけど)萌歌のレコードライブラリーのなかにも、ソウルミュージックの作品は一枚もないんじゃないかと思う。唯一、黒人の音楽があるとすれば、ボブ・マーリーのレゲエのレコードだけですよね。もともと、日本人の洋楽に対する嗜好は、米国経由ではなくて、あくまでも英国経由なのです。これは、萌歌の場合にも完全に当てはまる。ジミヘンも、レゲエも、英国経由の黒人音楽だから。近年のクラブ系のR&Bやヒップホップも、ことごとく英国経由で日本に入ってきてるっぽいし、小袋成彬のサウンドにも英国的な解釈は入ってるんだと思いますが。◇一方、姉の萌音が3年前までDJをやっていた、ニッポン放送の「good-night letter」では、スティーヴィーの「心の愛」をかけたことがあります。日本人にもっとも愛されたソウルナンバーだとはいえ、この選曲でさえ、わたしにはちょっと意外でした。いまだに、このときの選曲は謎に感じている。萌音は、由貴ちゃんのチャリティミュージックソンに参加したとき、「I Saw Mommy Kissing Santa Claus」を歌い、Mステに出演したときには、リトグリのかれんの声が、「変声期前のマイケル・ジャクソンにそっくり」と言って、彼女に「I Want You Back」を歌わせてたこともある。なので、ジャクソン5の音源を姉妹で共有してる可能性はありますね。とはいえ、萌音の場合も、とくに「ソウル好き」とまでは言えないと思います。◇そんななかで、今回、萌歌が小袋成彬のジャズソウルみたいな作品に取り組んだのは、面白い領域への新しい飛躍だと言っていい。楽曲自体、日本語の歌としてはかなりユニークで、出来上がりもとても上手くいってます。姉の萌音が、新作の『name』で、カントリーみたいな土臭い音楽に挑んだのも驚きだけど、今回の萌歌のチャレンジも、なかなかに新鮮で、また次の展開が楽しみになりました。萌音が、より男らしく健康的になってるのに対して、萌歌のほうは、ちょっとアンニュイで官能的になってるかも。もし萌歌がソウルミュージックを聴いてたとすれば、(聴いてないと思うけど…)ダニー・ハサウェイとか、ロバータ・フラックとか、そこらへんかなあ??マーヴィン・ゲイとか??
2022.09.11
adieuの新曲「夏の限り」の考察2回目です。>>前回はこちら◇この歌詞には《わたし》と《あなた》が出てきますが、そのほかにも、《あなたの傷つくことを言う人》や《男の子》、《誘われる方》や《友達》や《あの子》などの登場人物が出てくる。重複があるとしたら、すくなくとも3人。多ければ7人?なぜこんなにたくさんの人が出てくるのか?ここにひとつの可能性が浮上します。すなわち、《わたし》と《あなた》はどちらも女性じゃないか、ってこと。そして、その2人の女性の周辺を、いろんな人たちが通り過ぎていくのです。すでに桐山もげるさんがその線での考察をしています。大好き柴田SideRoad〜かきかけのFANZINE日記〜(4)『夏の限り』の歌詞考察実際、柴田聡子がRYUTistに提供した「ナイスポーズ」という曲も、《私》と《君》という2人の女性のことを描いているそうです。◇その「ナイスポーズ」の歌詞は、おおよそこんな内容。私は、君の写真を撮りたい。でも、君は「思い出は目に焼きつけるべきだ」と言って、なかなか写真を撮らせてくれない。だけど、最後は、私のためにポーズをとってくれたよね!これもいろいろと謎の多い歌詞で、目に見えるものしか信じない《私》と、目に見えないものまで信じる《君》との関係を描いてるようでもある。— きりやま (@kiriyamaragain) September 1, 2022女性どうしの関係を描いていたのは、adieu×柴田聡子の前作「灯台より」も同じかもしれません。…というのも、以前、adieu creative staff が、次のようなツイートをしていたからです。この曲の登場人物は二人です。二人は年若いと思われます。一人は何らかの理由でどこかの灯台で暮らしています。そこにもう一人がたびたび遊びにくる、長居したりもする、そういう背景です。二人の関係性としては、家族・友情・恋愛、などどんな関係性にでもあてはまります。そうした要素が渾然一体になっています。わたしは当初、家族や友人どうしが、《鼻と鼻で話し合う》とか、《やわらかく歯の跡を残す》とか、そんなエロティックなことするわけないじゃん!…と思っていました。そもそも、このツイートは、柴田聡子自身のコメントなのか、adieuスタッフの独自の解釈なのかも分からず、あまり気にする必要はない、と思って無視していたのです。しかし、かりに柴田聡子の歌詞が、同性どうしの関係を描くこともありうるのだとすれば、俄然、見方は変わってくる。https://t.co/6hspo8P5jz— adieu creative staff (@adieu_staff) March 6, 2022 https://t.co/6hspo8P5jz— adieu creative staff (@adieu_staff) March 6, 2022それと同じことが「夏の限り」についても言えるのです。歌詞の冒頭には、こうあります。いつものように誘う男の子誘われる方「今日はやめとこう」はたして、この《誘われる方》とは何でしょうか?もし《男の子》が《わたし》を誘うのならば、ふつうに《わたし》と書けばいいはずなのに、なぜ、わざわざ《誘われる方》なんて書くのでしょうか?もしかしたら、ここには3人の人物がいるのかもしれない。つまり、男の子に《誘われる方の女の子》と、男の子に《誘われない方の女の子》です。そして、そこには一種の三角関係がある。しかも、それは、一人の男子を二人の女子で取り合うような三角関係ではなく、一人の女子を、男性と女性とで取り合うような三角関係です。◇さらに、こんな描写があります。今はずっともっと遠くに行けるあなたの背中くっついてたらどこかに着くこの1秒の長さに酔うあちこちあまりにも揺れる手を離したり離さなかったりこの部分について、桐山もげるさんは、《あなた》が運転するバイクの後ろに《わたし》が乗っている、という光景を見てとっています。つまり、ちょっと大人になった女子どうしの二人乗りなのです。そうして見ると、《あちこちあまりにも揺れる》という描写が、ちょっとエロティックにも見えてくる。◇ほんとうはずっと二人だけの世界に浸っていたいのに、周囲の社会は、それを容易には許してくれない。登場人物が多くなるのは、そのためかもしれません。…以前、長澤まさみは、『ラスト・フレンズ』というドラマで、同性(上野樹里)から愛される役を演じたことがあります。その後輩にあたる萌歌にも、案外、そんな役が合うかもしれないな、と思ったりする。女性を愛したり、あるいは女性から愛されたり。最近は、ゲイのドラマがとても多いけど、意外に、レズビアンのドラマはまだ少ないのですよね。女性どうしが激しく愛し合ったり、傷つけあったりするドラマも、けっこう面白いと思うのだけれど。
2022.09.08
Mステ。萌音の由貴語り。斉藤由貴の娘役を演じたことも!松本隆と筒美京平の!「卒業」聴いて「木綿のハンカチーフ」聴くと!心が震えるwwよくできました!>>「卒業」について>>「卒業」は「木綿のハンカチーフ」のエピソードゼロではない>>「AXIA~かなしいことり」
2022.09.03
今日で8月も終わりってことで、adieuの新曲「夏の限り」についての考察です。作詞・作曲は「灯台より」と同じ柴田聡子。歌詞には「あなた」や「わたし」や「海」が出てくるので、やはり前作との関連をうかがわせますね。ただし、ミュージックビデオのほうは、岩田紗羅のイラストによるアニメーションではなく、鳥畑恵美莉による実写映像になっている。アレンジはいつものとおりYaffleですが、イントロから歌い出しの部分を聴いた瞬間に思い出したのは、ジョン・レノンの「Oh My Love」や「Love」でした。◇歌詞の内容は、夏の終わりを描いているように思えます。夏の終わりといえば…adieuは、直近に出演したNHKの『The Covers』で、ユーミンの「Hello, my friend」を歌っていたので、おのずとその印象にも重なります。しかしっ!こちらのツイートを見たら、むしろ「やさしさに包まれたなら」との関連が指摘されている。桐山もげるさんのツイート。この前後のやりとりもあります。— きりやま (@kiriyamaragain) August 17, 2022つまり、子供のころには見えていたはずの神様が、いまはもう見えなくなった、…ということですよね。ミュージックビデオでは、額ぶちに飾られた真っ白な絵画を見つめています。子供のころは、そこに描かれていた何かが見えていたのでしょうか?…そういう夏ははなしかけても わたしのそばにはもういない…聞いてみたいけどあの日のように こたえる夏はもういない…呼び止める声にあの日のように ひびく夏はもういないこの歌詞において、見えなくなったのは「男の子」「あの子」のようでもあり、あるいは「夏」そのもののようでもある。「あなた」というのが何を意味するのかも分かりません。◇上掲の桐山もげるさんのツイートによれば、「夏」が子供時代の暗喩であり、「あたらしい季節(=秋)」が恋の時代の暗喩かもしれない、とのことですよね。だとすれば、これはちょっと独特の観念です。なぜなら、通常は恋の季節をようやく「春」と捉えるのだから。しかし、実際、柴田聡子は「若さとはとても大人びた状態」だと述べています。つまり、子供時代こそがすでに人生の「夏」であり、それ以降は、もう「秋」なのかもしれません。◇ちなみに、ユーミンの最初期の作品である「ひこうき雲」は、まるで亡くなった友人と交信しているような曲です。同じくユーミンの初期の曲には、ポカリスエットのCMでも使われている「瞳を閉じて」があります。♪遠いところへ行った友達 …と歌われているのは、ふるさとの離島から旅立った友人のことですが、これも亡くなった友人のことだと解釈できないことはありません。最初に挙げたジョン・レノンの「Oh My Love」も、亡くなった子供のことを歌った曲です。(作詞はオノ・ヨーコです)◇なお、Google で「adieu 夏の限り」を検索すると、YouTube のページが「The Edge of Summer」と表記されます。柴田聡子のオフィシャルサイト(英語版)にも同じ表記があります。注目すべきは、「限り」の英訳が《end》ではなく《edge》だということ。というよりも、《edge》を日本語に訳したのが「限り」なのかもしれません。おそらく《end》と《edge》とでは少しニュアンスが違う。たとえば「宇宙には限りがあるかないか」というときの「限り」。最果ての限界点。「夏の終わり」ではなく「夏の限り」。わたしは英語が苦手なので自信ありませんが、「The Edge of Summer」をグーグル翻訳にかけてみると、意外なことに「夏のはじまり」と訳されます。つまり、「Edge of ~」というのは、~の端はしであり、~の縁ふち/へりであり、~の際きわのことだから、場合によって、「はじまり」「入口」と訳す場合もあれば、「おわり」「出口」と訳す場合もあるのかもしれません。いずれにしても《季節の変わり目》ということなのでしょう。 夏の《end》ではなく《edge》。つまり、ギリギリの所に立っていて、なかなか先に進めない、という状態でしょうか?あるいは、ずっと夏にとどまっていたい、…という気持ち。◇柴田聡子が作詞・作曲した「ナイスポーズ」という曲にも、同じように「やさしさに包まれたなら」との類比が指摘されているそうです。— きりやま (@kiriyamaragain) August 18, 2022 ♪ぎりぎりで青だった横断歩道を渡らなかった私…という歌詞も気になりますが、こちらの考察は桐山もげるさんにお任せします。◇さて、今回の歌詞にも「海」が出てきます。前作の「灯台より」においては、この「海」もまた暗喩だったと思います。そもそも、札幌出身の柴田聡子にとって、海は、かなずしも美しくて楽しい場所ではなく、むしろ《畏れるべき場所》であるように見える。たとえば、こんな歌詞があります。いつも曇りで断崖絶壁(佐野岬)銃、向けられた もうここで終わりか(海へ行こうか)柴田聡子にとって、海とは命がけの場所なのです。灯台もまた、陸と海との「edge」にあって、ギリギリの所に立っていますよね。そこには、海への《畏れ》があるように思う。同じように、夏と秋との「edge」にも、なんらかの《畏れ》があるかもしれません。夏休みが終わると、命を絶ってしまう子供も少なくない。そういう繊細で傷つきやすい感覚に寄り添った歌かもしれません。前作「灯台より」の考察はこちらです。adieu×柴田聡子「灯台より」歌詞を分析・考察。その1adieu×柴田聡子「灯台より」歌詞を分析・考察。その2adieu×柴田聡子「灯台より」歌詞を分析・考察。その3同じく桐山もげるさんの考察はこちら。大好きな柴田聡子さんについて語りたい(9)『灯台より』の歌詞考察
2022.08.31
ポカリスエットのCMで、鈴木梨央が吉田羊と一緒に「瞳を閉じて」を歌っています。なかなか良い選曲センス。原田知世の「時をかける少女」もそうだけど、こんなふうに無垢な少女性にぴったりハマるときがあるのよね。逆にいうと、なぜ宮崎駿は、「魔女宅」とか「風立ちぬ」とか「コクリコ坂」のときに、これをテーマ曲に選ばなかったのかしら?と思ってしまう。ここに描かれている無垢な少女性&海への郷愁こそ、宮崎アニメの世界にピッタリでしょ!わたしなら「やさしさに包まれたなら」とか「ひこうき雲」は選ばない。つーか、「カントリーロード」のときもそうだったけど、このポカリのCM自体、完全にジブリの世界ですよねw◇…まあ、こういう通好みのセンスを避けるあたりが、「ナウシカ」のときに細野晴臣ではなく久石譲を選んだのと同じで、子供向け作家としての宮崎駿の通俗性なのかな、とも思うけど。とはいえ、次回作の宮崎アニメのテーマ曲を、鈴木梨央の歌う「瞳を閉じて」にしてもいいんじゃないかな、と本気で思ってしまいます。
2022.08.01
萌音のニューアルバム『name』は、予想とはだいぶ違っていました。とにかく明るい!まあ、彼女のことだから、「こういう時代にこそ明るいメッセージを…」という思いもあるのかもしれないけど、それ以上に、萌音自身がだいぶネアカになったんじゃないかしら?これは、ミュージカル女優ならではの明るさ、つねに舞台の世界でハイテンションを維持している人ならではの明るさ、…だと感じる。ここにあるのは、だれもが上白石萌音に抱いてきたような、「優しさ」やら「女性らしさ」やら「気づかい」やらではなく、どちらかというと、「細かいことは気にせず生きていこうよ!」みたいな男らしい明るさですよね。◇なにより、作家陣を一新したところも潔いのだけど、とりあえず、先行シングルにかんしては、それほど従来のイメージを裏切ってはいませんでした。むしろ、それ以外の曲のほうが聴きどころ。…まずは2曲目の「Jellyfish」。このルパン三世っぽい曲!てっきりスカパラの作品かと思いきや、意外にもカムカムの金子隆博の曲でした。(ちなみに萌歌はクラゲ好きです)そして3曲目の「チョイス」。まるで高田渡みたいなアシッドフォークは、てっきりハンバートハンバートの作品かと思いきや、意外にもモンパチのキヨサクの曲!◇かたや、スカパラの曲はというと、ちょっとオリエンタル風味を加えた和製スカですね。そして、ハンバートハンバートの曲はというと、けっこうガテン系の爽快なカントリーロックでした!…事前にどんなオーダーをしたのか分かりませんが、結果的には、書き下ろし8曲のうち、アーバンジャズとカントリーフォークが2曲ずつ入ってるという構成。なんとまあ、男らしいっ!聴いてるほうまでネアカになりそうです(笑)。◇なぜ、このアルバムについてのレビュー記事が、ネットにも、雑誌にも、ほとんど書かれていないのかと言うと、もはや従来のような言葉では、このような萌音の表現を形容できなくなっているからですね。でも、誰かがいちど口火を切れば、おのずとみんな新しい言葉で彼女を形容するようになる。それは、わたしにいわせれば「男らしさ」です!あるいは「勇敢さ」や「前進力」と言ってもいい。数々の舞台で座長を務めるミュージカル女優ならではの思い切りのよさ!それが、今回のアルバムを特徴づけている。いまや、「癒し」とか「柔らかさ」とか「透明感」といった言葉では、うまく形容しきれない彼女の新しい面が現れている…ということ。◇さて、そして、由貴ちゃんもカバーした「Tea for Two」(二人でお茶を)!有楽町を散歩する東宝の女優にお似合いの曲ですけど、とりわけバースの部分が素敵でしたね。(*^^*)
2022.07.27
Youtubeで4月に配信された、ノラ・ジョーンズのスタジオライヴ演奏。Come Away With Me 20th Anniversary LivestreamLive At Allaire Studios, Shokan, NY, USA 2022Norah Jones, Bill Frisell, Tony Scherr, Brian Blade, Jesse Harris ノラ・ジョーンズというと、一般には「Don't Know Why」の印象が強いので、ニューヨークの洗練されたジャズシンガーのように思われてるけど、もともと彼女はテキサスの出身で、根っこにあるのはジャズというよりも、カントリーやゴスペルのような南部の土臭い音楽です。わたし自身、ジャズ歌手としてのノラよりも、南部の音楽を演奏する(あるいは南部風のアレンジで演奏する)ノラのほうが、圧倒的に好き。さらにいうなら、スタジオで録音された音源よりも、リラックスしたライブでの自由な演奏を聞くほうがいい。2002年のニューオーリンズでのライヴが、わたしのいちばんのフェイバリットでした。ニューヨークのお洒落なジャズではなく、南部の力強くて逞しい雰囲気があったから。ところが、コロナ禍になって、わたしをさらに魅了したのはYoutubeでの自宅ライブでした。▶ Norah Jones Live at Home素朴なピアノしかない狭い部屋で、リラックスした普段着で、ぽつぽつお喋りしながら弾き語る彼女の演奏を聴いていると、まるでお母さんがそばで歌ってくれてるかのような、この上なく贅沢で落ち着いた気分になる。…わたしよりだいぶ年下だけどね!(>_
2022.07.26
NHK-FMのクラシックの迷宮。「恐るべしルイ14世~フランス・バロック音楽と絶対王政~」を聴きました。テーマは《政治と芸術》。あるいは《政治と宗教》でしょうか?◇例によって、王の「踊る音楽」が紹介され、さらには「食事の音楽」から「就寝の音楽」までが紹介されました。王の踊りは、けっして遊びではなく、日本の王朝時代の皇族や貴族が雅楽を演奏して踊ったように、あるいは太閤秀吉がみずから能を演じたように、それも政治のうちだった。…とのこと。つまり、権力者の神聖性を顕示するための政治的なパフォーマンスだったのですね。◇以前、わたしは、「バロック音楽をフランス中心に捉え直すべき」と書きましたが、番組の後半は、それに近い話で、ルイ14世の時代に、フランス各地の野外の舞踊音楽が軍楽のなかに取り入れられ、やがてそれが宮廷内音楽として中央集権的にカタログ化されていった。たとえばバッハの組曲にも、その時代に確立されたフランスの舞踊組曲の様式が及んでいる。…とのこと。ちょうど19世紀のウィーンで、ワルツやポルカなどの周辺地域の舞踊音楽が流行したのに似ています。うすうす感じていたことだけれど、フランスのバロック音楽って、もともとは農民たちの素朴で可愛らしい舞踊音楽だったのですよね。ちなみに、ルイ13世時代の「アメリカ人」という曲も紹介されましたが、なにやらマカロニウェスタン風のアパラチア民謡みたいな謎の舞曲でした。当時のヌーベルフランスの文化に影響されたものだろうけど、北米先住民の音楽ってどんなものだったんだろう?◇やがてフランス革命によってルイ16世が殺され、絶対王政時代の「王権神授説」は、革命後の「人間理性万能説」へと転換していく。それは「王権神授」ならぬ「民権神授」ともいえるけど、いずれにせよ、ゲーテにならって言えば、神ではなく悪魔から授かった権力というべきかもしれません。そして片山杜秀は、アンドレ・カンプラの『新世紀の運命』という作品のなかに、啓蒙主義の側面を見て取っていました。わたしは、フランスバロックのなかでカンプラがいちばん好きなのですが、彼は、宗教音楽と世俗音楽を股にかけていた人で、その響きのなかには、神聖さと親しみやすさが共存しています。ルイ14世の政治が、かりに「世俗権力の宗教化」だったとすれば、アンドレ・カンプラの音楽は、逆に「宗教信念の世俗化」だった、という気がします。
2022.07.24
水嶋凜が由貴ちゃんの「予感」をカバーするそうです。編曲はオリジナルと同じ武部聡志。レーベルも当時と同じポニーキャニオン。(現在の由貴ちゃんはビクターの所属ですが)◇いい選曲だと思います。わたし自身、「斉藤由貴の曲は色褪せない」というときに、真っ先に思い浮かべるのは、この曲です。斉藤由貴の屈指の名作。アルバム曲ではあるけれど、これをベストソングに挙げるファンは多い。これまでセルフカバーはありましたが、他のアーティストがカバーした例はたぶんないと思います。そして、水嶋凜がこれをカバーするのはふさわしい!もしかしたら、これ以降、いろんなアーティストにカバーされるかもしれませんね。ちなみに由貴ちゃん本人の作詞なので、もれなく印税も由貴ちゃんに入ります…(笑)◇この歌に出てくる「銀色電車」というのは、当時の東横線の車両ですが、現在はもう走っていません。おそらく80年代前半ぐらいに、由貴ちゃんが横浜と渋谷の往復時に乗っていた電車です。具体的に言うと、2008年の1月まで運行していた東急の8000系。1988年からは赤いライン模様が入ったものの、それ以前はステンレスむきだしの銀色の車両でした。かたや「幾千の人が行き交う」というのは、渋谷のスクランブル交差点のようにも思えますが、実際には、横浜へ帰ってきたときの街の風景を描いたらしい。◇しかし、(わたしは関東の人間じゃないので詳しくありませんが)現在の横浜駅や渋谷駅は、すっかり当時とは様変わりしていますよね。いまは両駅とも地下にありますが、2004年までの横浜駅は地上にあり、2013年までの渋谷駅は地上2階にありました。なので、この歌に描かれている光景はもう存在しないのでしょう。◇当時はホットカルピスのCMに使われていましたが、「風にふるえて動けなくなる」という一節があるので、わたしも、なんとなく初冬の都会の情景を思い浮かべます。いずれにせよ、亀井登志夫の美しいメロディの抑揚に、品のよい言葉が綺麗に無理なくおさまっていて、描き出される映像がメロディによく調和している。何げない日常の風景が、不思議なほど高貴な光をまとって見えてくる。ワイプは福本莉子。ほんとの娘&Eテレの娘。◇参考までに、東横線にかんする情報を抜粋で引用しておきます。(リンク先には昔の写真なども掲載されています)・東急8000系についてコンサートのトークの中で斉藤由貴さんが、”「予感」という曲に出てくる「銀色電車」は、横浜と渋谷を結ぶ東横線で使用されていた車両を指したものだが、最近は赤い電車しか来ない!”と怒っていました。種明かしをすれば、当時活躍していたのは「8000系」。皆が皆、ステンレスにしてしまうと、個性も見分けもつきにくいので、カラーアクセントが入ったわけです。この車両も先日東横線から引退し、現在は「新5000系」が主力になっています。https://info-railway.at.webry.info/200803/article_3.html7000系電車以来の流れを汲むアメリカ・バッド社のライセンスによるオールステンレス車で、機能最優先な直線基調の形態である。製造当初からしばらくの間、車体はステンレスの地色のままであったが、1988年(昭和63年)の春から夏にかけて先頭車の前面に赤帯が配された。2001年(平成13年)より廃車が開始され、東横線では2006年(平成18年)9月25日のダイヤ改正からは平日ラッシュ時のみの運行となっていた。2008年1月13日に、臨時特急としてさよなら運転が実施された(8000系さよなら運転)。そして、同月23日に東横線・みなとみらい線での8000系の旅客営業運転を終了した。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A58000%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A東急8000系に特徴的な意匠がない理由は低コストにするためだったという。8000系は面白みのない姿だけれども、完璧な道具であった。もっとも、それも今となっては、という話で、当時はオールステンレス車体、未塗装で銀色の大型電車というだけで、非凡であり存在感があった。東横線では2008年1月13日にさよなら運転が行われ、記念ヘッドマークの取り付け、車内への記念ポスター展示、特急運用によって花道を飾った。その後、8000系のうち45両は伊豆急行に譲渡された。外観は8000系のまま、伊豆急行のシンボルともいえる青と水色の帯が入った。8両編成2本はインドネシアに送られ、首都ジャカルタ近郊の通勤電車として余生を送る。https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1906/07/news029.html・地上時代の横浜駅についてかつての東横線横浜駅は高架駅で、駅ビル「CIAL」に隣接していました。2004年1月30日限りで横浜~桜木町間が廃止になると同時に、高架駅も役目を終え、翌日よりみなとみらい線との相互直通開始に備えた地下駅に移転しました。https://japanese-autobus.at.webry.info/201308/article_4.html横浜~桜木町間の廃止、反町・横浜駅の地下化など、横浜界隈では様々な変化がありました。https://jyuden.com/zakki_tra/200401touyoko-01/・地上時代の渋谷駅について2013年(平成25年)3月16日に東横線渋谷駅 - 代官山駅間(約1.3km)が地下化され、渋谷駅で東京メトロ副都心線との相互直通運転が開始された。東急側ではアプローチとなる渋谷駅 - 代官山駅間の地下化工事完了に伴い、東横線の渋谷駅は地上2階から地下5階にある副都心線渋谷駅ホームに移設し、高架式ホームは廃止となった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A5%E6%9D%B1%E6%A8%AA%E7%B7%9A◇なお、水嶋凜は9月から舞台「シンデレラストーリー」に出演します。たぶん、彼女は、かなりの「おばあちゃん子」なのだと思うけど、大塚千弘が主演した当時の舞台も、子供のころからお祖母ちゃんの家のビデオでよく見ていたそうです。(おそらく母方の祖母=由貴ちゃんのお母さんのことだと思う)由貴ちゃんのお母さんも宝塚に憧れていた人なので、娘の作品にかぎらず、きっと芸能全般が好きなのでしょう。この「シンデレラストーリー」以外にも、アニメ版の「コゼット」やら、映画版の「レミゼ」やら、いろんなビデオが家に揃えてあったようです。ただ、水嶋凜は、由貴ちゃん自身がコゼットを演じた「レミゼ」は観てないっぽい。これは上白石萌音や生田絵梨花にも言えることですが、この年代の人たちが最初に見た「レミゼ」は、ジョン・ケアード版のミュージカルではなく、2012年の映画なのですよね。(萌音は、かろうじて最後のケアード版をロンドンで見たそうですが)ちなみに、わたしが最初に見たのは、まんが世界昔ばなしの「ああ無情」です。宮城まり子がアフレコしてたアニメ。古い!(笑)訂正:生田絵梨花は小中学生のときに帝劇でケアード版を観てたっぽいです。くわしくはこちら↓https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202311120000/◇余談ですが…芹澤優は、凜の芸能界デビューをネットニュースで知ったそうです。ほんとに?!てことは、セリコママも知らなかったってこと?そんなことあります??#水嶋凜 #芹澤優 #斉藤由貴 pic.twitter.com/zFzwdtBAAI— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) June 21, 2022
2022.07.20
NHK「土曜スタジオパーク」の杉咲花の回に、萌歌がビデオメッセージを寄せていました。なんでも自宅に遊びに行くほどの仲良しなのだと。ちなみに杉咲花は萌歌の3つ年上(萌音と同い年)です。もともと杉咲花は好きな女優でしたが、二人の関係についてはまったく知りませんでした!思いつくのは、クドカンの「いだてん」ぐらいだけど、あのときは直接の共演シーンがなかったはず。あと思いつくとすれば、杉咲花が「せかくら」に出演したときに、萌音とツーショット写真を撮ったことぐらい。しかし、ネットの情報によると、今年の2月ごろに撮影の目撃情報があったようなので、もしかしたら今後二人の共演作品が出てくるのかもしれません。NHKのドラマでしょうか?◇そして、二人の音楽の趣味がかなり近いのも興味深い。杉咲花は、Andymoriやカネコアヤノが好きらしくて、雑誌ではきのこ帝国の佐藤千亜妃とも対談。このあたりの趣味は、完全に萌歌と一致します。けっこう渋くてハードな嗜好ですよね。TOKYO FMの「杉咲花 Flower TOKYO」という番組では、まったく聴いたことありませんでした!(^^;上のような最近の日本のロック以外にも、金延幸子(!)みたいな古い音楽をかけてたり、洋楽ならビートルズやオアシスをかけたりしてて、そこらへんも萌歌とは話が合いそうな感じ。萌歌のほうが、彼女のラジオを愛聴してた可能性もあるけれど、わたしが確認したかぎり、杉咲花のほうも2度はadieuの曲を番組で流しています。2020.05.10には「天気」。2021.07.04には「ダリア」。この選曲も渋い!どちらも小袋成彬の曲。◇ためしに、自分でこのブログを自己検索してみたら、わたしはやはり「いだてん」と「おちょやん」のときに、杉咲花の演技を絶賛していたのだけど、もっぱら女優としての彼女に関心があっただけなので、音楽の趣味のことまでは何ひとつ知りませんでした。(^^;しかし、彼女の父親はミュージシャンだし、それも今回はじめて知った!じつは意外に音楽家の血が流れているのですね。てっきり、素朴なサラリーマン家庭で育った娘かと思い込んでいましたが(笑)、じつは大都会に生まれた芸能人の子供だったらしい!杉咲花のイメージがだいぶ変わりました。(*^^*)…ちなみに、萌歌にも増して、▶ 黒島結菜や川栄李奈もフィルムカメラ愛好家でしたが…杉咲花もフィルムカメラが好きなんだそうです。萌歌の愛機はおもにオリンパス(デジタルはやっぱりソニー?)。杉咲花の愛機はフジフィルムとキヤノンのコンパクトカメラだそうです。そういえば幾多りらもキヤノンのオートボーイでしたね。杉咲花が着てるのは、映画「ロッキー」のプリントのKithのスウェット。pic.twitter.com/nuFY1yR8mp— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) July 11, 2022
2022.07.12
福本莉子の「オールナイトニッポン0(ZERO)」を聴きました。てっきり「セカコイ」の宣伝と思ってたのだけど、どちらかといえばシンデレラオーディションの宣伝でした。萌音・萌歌・美波が総出演していた。◇意外にも、莉子がニッポン放送に来るのは初めてだそうで。由貴ちゃんなんかは、キャニオンに所属したせいもあり、デビュー直後からニッポン放送やフジテレビで仕事してたし、そもそもニッポン放送って東宝芸能のすぐ近くだし、てっきり、東宝シンデレラになったら、すぐニッポン放送でプロモーションやら何やらするものと思ってたけど、そうでもないんですね。そういえば、萌歌もニッポン放送との関わりが薄いし、最近の東宝シンデレラは、どちらかというと日テレに出演するほうが多い。◇莉子は、思っていた以上の関西人キャラ。これは沢口靖子の比ではない。本人も「バッサリコ」と言ってたけど、沢口靖子のような「しっとり・おっとり」ではない。いままでの東宝シンデレラにはいなかったタイプかも。なにわ男子との共演が多いのも、さしずめ沢口靖子&内藤剛志の共演が多いのと同じで、やはり関西人どうし「ノリが合う」ってのがあるっぽい。なんなら、みっちー&リコで漫才コンビが組めそうな気もします。個人的には、「賭ケグルイ」のときのように、美波&リコの主演で、トチ狂ったギャンブル依存のドラマを、民放のゴールデン枠で見てみたいけどね!奇しくも、由貴ちゃんが、フジテレビでギャンブル依存の毒母を演じたばかりですが、コンプライアンス的に問題があるかしら?◇莉子が音楽の話をしてるのは初めて聞いた。学生時代はセカオワが好きだったらしいけど、今回の番組で最初に流したのは雨のパレードでした。大原優乃が、萌歌のLOVEFAVに出演したときに紹介していた、鹿児島のバンドです。莉子もこのバンドが好きで、ちゃっかりMVにも出演していたんですね。意外なところで繋がっている。◇もともと莉子は、デビューしてまもなく、Eテレの物理基礎で由貴ちゃんと共演し、そのあとはもっぱら美波と共演することが多かったので、上白石姉妹とはいちども共演してないはずですが、そうはいっても、萌歌は先代のシンデレラだし、舞台の「魔女宅」や「お勢断行」は莉子が引き継いでるし、さらには道枝駿佑の相手役ってこともあるし、いろいろと共通点はあります。ついでにいうと、莉子は今年の初めごろから、「サウナ好き」を公言していたけれど、萌歌のLOVEFAVでも、やっぱり富田美憂がサウナ好きだとかで、たびたび「サ道」のことが話題になっていた。萌歌自身は苦手みたいでしたが。山崎紘菜も、鈴木伸之から「サウナ愛」を刷り込まれたようです。◇番組の最後に流したのは、フレンチ・キウイ・ジュース(FKJ)という仏のピアニストでした。やや唐突な選曲だったけど、寝るにはちょうどいい音楽だった。
2022.07.08
2004年にNHKが制作した「火の鳥・黎明編」を観ました。GYAOの無料動画ですが。主人公は、火の国に住む少年ナギ。(原作では熊襲の国のイザ・ナギ)火の山には火の鳥が棲んでいます。姉の婚礼の夜に、海の彼方の不知火のように見えたものは、じつは猿田彦が率いる邪馬台国の軍勢だった!…てなところから話がはじまります。たぶん火の国は「肥国」(熊本)なのですね。火の山とは「阿蘇山」のことであり、不知火の海は「八代海」のことでしょう。かたや、邪馬台国を治めているのは女王の卑弥呼。彼女は、政権運営を巡って弟のスサノオと対立。スサノオは目をつぶされて流刑にされる。彼が辿り着いたのは出雲海岸(稲佐の浜)のように見えました。…やがて、火の国も、邪馬台国も、ニニギが率いる騎馬の民(原作では高天原族)に滅ぼされます。しかし、火の国ではナギの甥のタケルが生き残る。◇面白いのは、卑弥呼の弟がスサノオだってこと。…ってことは、卑弥呼=アマテラスなのですね。わたしは、箸墓の百襲姫こそ卑弥呼と思ってるわけですが、そうなると吉備津彦(桃太郎)がスサノオ?卑弥呼の御所も、纏向の宮殿のように見えたけど、遺跡が発掘されたのは2013年ですから、アニメの制作時点ではまだ知られていませんよね…。なので、邪馬台国=九州説に基づいてるのかもしれません。しかも、ニニギに滅ぼされるのだとすれば、この邪馬台国は、天孫族の国でもないしヤマト国家の前身でもない?さらに、神話ではイザナギの娘がアマテラスですが、この物語ではナギよりも卑弥呼のほうがずっと年上で、ナギにとっては姉の仇になります。うーん、…どゆこと?Wikipediaによると、原作(COM版)は江上波夫の騎馬民族征服王朝説に則ってるらしい。中島美嘉のテーマ曲も素敵◇話は変わりますが、先日、NHKの「知恵泉」を見ていたら、最初の遣隋使を送ったアメタリシヒコの話が出てきました。7世紀の人物ですけれど、名前から察するに、この人がアマテラスなのでは?…などと勘繰ってしまいます。中国の『隋書』によると、この人は、妻のいる男性の王らしいので、聖徳太子とも同一視されたりするそうですが…(聖徳太子=天皇説)一方では、女性の推古天皇と同一視する考えもあるそうです。
2022.07.06
ここ3ヶ月あまり、GYAOの無料動画で映画ばかり観ている。レビューはほぼ全部こちらに書いてるけど、https://www.jtnews.jpこれまで観たのは約30本。若いころは、劇場通いをして年間200本くらい観てたこともあったけど、(週末の名画座で2本立てなどを観つづけるとそのぐらいの本数になる)それに次ぐようなハイペースになっています。わたしはDVDをレンタルする習慣もないし、テレビのロードショー番組もほとんど観なかったから、一時期は、年に数本しか映画を観ていなかった。いつか観ようと思いつつ、なかなか観れずにいた映画も多いけれど、ここにきて思いがけず観る機会に恵まれています。◇フェリーニ、パゾリーニ、ベルトルッチなど、イタリア映画を観れたのは思いがけない収穫だったし、相米慎二の映画を良好な画質で観れたのも良かった。往年の松田優作の映画や角川映画などは、こんな機会でもなければ観ることもなかったと思う。あまりに観たい作品が多いので、いちおう優先順位はつけているものの、無料配信期間内に消化しきれず、小津安二郎の無声映画や市川雷蔵の時代劇などは、取りこぼしてしまいましたが。◇テレビドラマなどを長時間見ていると、目が疲れてしまうことも多いけど、なぜか古い映画はあまり目が疲れない。昔は、画面が暗くてよく分からない映画も多かったけど、最近はどの作品もリマスターが施されていて、古い映画でも画質上のストレスがほとんどありません。…ただ、GYAOの難点は、変なタイミングでCMが入ること。そして、作品の検索がしにくいこと。レンタルビデオ屋並みに分類がいい加減だし、作品情報もまともに登録されてないから、監督名や俳優名で検索しても出てこないことが多い。いちおう、関連作品やおすすめ作品などは表示されるのだけど、正直、自分の好みとはかなりズレています。結局のところ、公開されている作品を隅なくチェックするしかありません。
2022.06.30
シンウルトラマン。Youtubeで冒頭映像10分33秒を観ました。一度目は、何が起こってるのかよく分からなかったけど、単純にスペクタクルとして面白かったです。二度目は、0.75倍速で見てみました。字幕もちゃんと読めたし、セリフも聞き取れた!ネロンガは透明禍威獣だったんですね(笑)日本が核兵器の何に批准したのかは聞き取れませんでした。ネロンガがミサイルを迎撃!美しい…ゴメス!マンモスフラワー!ぺギラ!ラルゲユウス!パゴス!禍威獣けっこうカワユス…
2022.06.25
今年の7月に上白石萌音がニューアルバム『name』を発表します。そのなかでハンバートハンバートの佐藤良成の曲を歌うそうです。富田望生からの勧めもあって、萌音・萌歌がハンバートハンバートを愛聴していて、それが楽曲提供にまで繋がったのは興味深いし面白いけど、ちょっと、この件に関連して、音楽惑星さんと面白い意見交換が出来たので、わたしのブログで掲載させてもらうことにしました。pic.twitter.com/HO9SB9EQuF— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) May 20, 2022 赤字がわたし。青字が音楽惑星さんです。以前、萌音がJ-WAVEでVetiverを紹介していたことがあって、「こんなオッサンみたいな渋い音楽を聴くの?!」と驚いたんです。そういうフォーク的な嗜好が、藤原さくらとか、ハンバートハンバートみたいな音楽にも結びつくんだとは思う。ただ、Vetiverのような本場のフォークやカントリーの土臭さに比べて、最近の日本のフォーク系音楽は、どうしてもオシャレで小綺麗で、ゆる~い「癒し系」みたいになっちゃうのよね。そっちのほうが日本ではウケるから。つじあやのみたいな。そうそう(笑)。脱力系みたいになっちゃうわけよ。それがちょっとね、物足りないというか。まあ、バンジョーとかウクレレみたいなサウンドが、女の子が聞いても可愛いという感覚は分かるんだけど。米国のフォークやカントリーにも、やっぱり両面があるかもしれません。ブルーグラスに象徴されるアパラチア系の音楽は、やはり昔懐かしい「癒し系音楽」として消費されてると思いますよ。それに対して、それこそ50年代にハリー・スミスが紹介したようなフォークソングというのは、かなり「いかがわしい音楽」だったわけですね。酔っ払いの歌とか、人殺しの歌とか。それが、その後のアシッドフォークやサイケロックに直結していく。ボブ・ディランの音楽もそれを基礎にしていたし、たとえばハンク・ウィリアムスの孫とかデヴェンドラ・バンハートとかは、そういう系統を現在に引いている。うん。ちなみにハンバートハンバートって、なんかデヴェンドラ・バンハートの影響みたいに勘違いしてたので、もうちょっとハードな音楽かと思ったら、ぜんぜん違いましたね。字面がちょっと似てるだけでした(笑)。この名前はナボコフの「ロリータ」が由来だそうです。もともとはフランス風のロリータポップをやろうとしてたらしい。だから癒し系になっちゃうんですね。でも、佐藤良成という人は、もともとボブ・ディランとかザ・バンドとかをやってたらしい。だから、きっと土臭い部分もあるんだとは思う。ただ、日本でやるとなると、やっぱり小綺麗な「癒し系音楽」のほうがいいんでしょうね。日本にだって60年代にはアングラフォークがあったんですけどねえ。フォークルにしろ、高田渡にしろ、ほとんど酔っ払いみたいなアシッドフォークだったわけです。たしかにね。それが悪しきニューミュージックに追いやられたのね(笑)。日本でアシッドフォークやサイケロックをずっとやり続けてきたのは、あがた森魚とかムーンライダーズですね。一般にはニューウェイヴと呼ばれますが、実質的にいえば60年代のアングラの流れです。アングラフォークが退潮した後も、けっしてメジャーではないけど、そういう流れはありました。80年代でいえば、巻上公一とか、じゃがたらとか。細野さんもそういうアングラ系の音楽に一枚噛んでいた。たま(さよなら人類)もそうかもしれませんし、椎名林檎にもそういう面はあるでしょう。そういうアングラ系の流れって、やっぱり寺山修司あたりが起点なんじゃないかな。フォークルも寺山の曲をやってたし。そうですね。天井桟敷は、ウォーホルとヴェルヴェットアンダーグラウンドの関係を意識してたはずだし、その後のパンク・ニューウェイヴの流れが、JAシーザーとかの舞台音楽にはじまっているところはあって、だから細野さん以降の「日本語派」だけでなく、内田裕也以降の「英語派」のほうにもそういう流れがありますよね。ケラとかもアングラですよね。演劇系パンクみたいな。クドカンも。そうですね。あとは、板倉文とか谷山さんとか、由貴さんの周辺にいたプログレ・ニューウェイヴ系の人たちもアングラからの流れといえるでしょうね。ニューウェイヴといえば、上田知華が亡くなっていたそうです。去年のクリスマスに由貴ちゃんは「金色の夜」を歌ったみたいだけど、そのときにはすでに亡くなってたのよね。それと、さっきの60年代のアングラフォークで思い出したけど、カネコアヤノが高田渡をカバーしたりしてますね。それから工藤祐次郎という、まるで高田渡みたいなことをやってる人もいる。このへんも、ぜんぶ萌歌経由で知ったのだけど(笑)。そっちのほうが過激で面白そうですね。わたしも、そっちのほうがフォークとしては面白いなあ、と思うわけ。べつに萌音萌歌にまで「そういうことやれ」とは思わないけど。
2022.05.22
GYAOの無料動画で、相米慎二の「風花」を見ていたら、わたしのなかで、相米の「雪の断章」と黒沢清の「岸辺の旅」が繋がりました。ネットで検索する限り、この3つの作品を関連づけるテキストは見当たらなかったので、とりあえず私的なメモとして書いておこうと思います。もしかしたら、それは「雪の断章」の不可解な特異性とか、そのラストシーンの忠臣蔵の謎を解く手懸かりになるかもしれない。◇一般に、相米慎二は、ロングショットの長回しに象徴される「文体の作家」だと思われていて、その物語の内容に関心が寄せられることは、ほとんどありません。なんなら、相米自身が、物語にまったく無関心な作家だとさえ思われてるし、わたし自身も、おおむね今まではそう考えてきました。事実、「雪の断章」などを見ると、サスペンスの真相を明かす台詞がカットされてたりして、物語に対するあからさまな関心のなさが現れてるようにも見える。そんなわけで、相米慎二が「物語の作家」として言及されることは、ほぼ無いに等しいのですね。◇けれど、今回、彼の遺作になった「風花」を見ていたら、相米慎二にも何かしら描かずにはいられない内容があったんだな…と思ってしまったのです。といっても、それは明確に《物語》というほどのものではなく、むしろ、ぼんやりとした、風景とか、記憶とか、感情みたいなもの。端的にいうと、「雪の断章」と「風花」に共通して描かれているのは、北海道の《記憶》と、そこに付随する《底知れぬ寂しさ》のようなもの。より具体的にいうと、「風花」で小泉今日子が死のうとするまでの流れと、「雪の断章」で世良公則が海で死のうとするまでの流れが、とてもよく似ているのです。酒を呑んで、性の売り買いがあって、雪が降っていて、水のそばで死のうとする。この一連の流れが、とてつもなく悲しくて寂しい。死の淵から引き寄せられているような怖さもある。ちなみに、相米慎二は岩手の生まれですが、6才から18才までの少年期を北海道で過ごしています。◇黒沢清の「岸辺の旅」で、深津絵里が滝壺や海岸から戻ってくる物語も、この小泉今日子や世良公則が死の淵から引き返してくる物語に近い。もっとも「雪の断章」の世良公則の場合は、結局、ラストで原作どおりに死んでしまいますが、小泉今日子と深津絵里は、最後に生きる力を取り戻すのですね。…濱口竜介は、「あ、春」を肯定的に捉えることで「雪の断章」を相対化し、その不可解さにひとつの答えを出していたけれど、彼が言及していたのも、結局は「文体」の問題だったといえる。でも、案外、黒沢清などは、相米が「風花」で描いた物語に注目したうえで、あえて「岸辺の旅」のような作品に挑んだのかもしれません。浅野忠信の役柄だけでなく、文体の面でも「風花」と「岸辺の旅」は似ていると思う。◇わたしは、いままで、相米の「雪の断章」も「あ、春」も、そして黒沢清の「岸辺の旅」についてさえも、もっぱら文体という点からしか観てこなかったので、過去に書いたレビューでも、ほとんど内容面には触れてこなかったけれど、▶「雪の断章」▶「岸辺の旅」▶「あ、春」このたび「風花」を見たことで、これらの映画も文体だけで論じるべきではないと感じています。 …ってことで、とりあえず「風花」についての基本的な感想もこちらに書きました。▶「風花」ちなみに、相米慎二の映画は、しばしば原作を冒涜してるともいわれるけど、彼があえて佐々木丸美や鳴海章なんぞの小説をとりあげたのも、この2人が北海道の作家だからこそだろうと思います。 なお、4月18日に映画プロデューサーの佐々木史朗が亡くなりました。彼が最後に制作したのが、黒沢清の「岸辺の旅」だったようです。追記:U-NEXTで「魚影の群れ」を観ました。くわしいことは↓こちらに書きましたが、https://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?SELECT=24063&TITLE_NO=6934#HITやはり死の匂いのする北海道の海岸で、セックスをして酒を呑むという構造は「雪の断章」と同じ。緒形拳は生きて帰ってきますが、代わりに佐藤浩市が死んでしまう。製作の順序から考えれば、「雪の断章」や「あ、春」や「風花」の原型は、この「魚影の群れ」なのかもしれません。
2022.05.14
日テレの「金田一少年の事件簿」は、ジャニーズの出世頭から抜擢されることになってますが、今回は、なにわ男子の道枝駿佑が選ばれました。相手役は萌歌が務めてますが、「キミスイ」で美波と共演した大友花恋や※彼女は「幽かな彼女」にも出てたらしい。「こどわか」で萌歌と共演した細田佳央太など、東宝シンデレラに縁のある共演者も顔を揃えています。このドラマの制作の背景として、ジャニーズと東宝の一致した《先祖返り戦略》が見て取れます。1.ジャニーズの伝統回帰なにわ男子は、これまでのジャニーズのなかで、ある意味で伝統的、ある意味で革新的なグループです。ジャニーズは伝統的に、「可愛い・王子様」系の男性タレントを育ててきましたが、近年では、EXILE や BTS などの影響もあり、「ワイルド・やんちゃ」系のタレントや、本格派ダンスユニットのほうへ軸足を移してきています。しかし、なにわ男子は、あくまで「可愛い・王子様」系の伝統を守っていて、まるで女の子のようなルックスの美少年ばかり集まっている。そして、このグループが革新的なのは、そうしたキャラクターを関西圏から集めていることです。2.上方エレガンスと阪神間モダニズムKinKi Kids、関ジャニ∞、ジャニーズWEST など、以前からジャニーズには関西のグループが存在しましたが、彼らの多くは、大阪弁を話すなどして、いわば「コテコテの関西色」を打ち出していました。これに対して、なにわ男子の場合は、「京都・神戸風のエレガンス」を打ち出してるように見える。とくに道枝駿佑は、ほとんど関西弁を話しません。こうした路線には、平安京以来の「雅な上方文化」への回帰という面があって、これがじつは東宝の伝統路線とも重なり合っています。もともと東宝は、阪神間モダニズムを象徴する宝塚を母体にしていて、コテコテの大阪色というよりも、むしろ「上方のエレガンス」を体現してきました。沢口靖子や福本莉子も関西出身です。◇昨年から今年にかけて、東宝シンデレラ出身の上白石萌音が、NHKの「大河」「朝ドラ」「紅白」に出演、そして帝劇の「千と千尋」でようやく山場を越えたのですが、これからまた、9度目になる東宝シンデレラオーディションがあり、そして福本莉子が主演する映画「セカコイ」の公開が控えます。2004年に行定巌×長澤まさみの「セカチュー」が公開、2017年に月川翔×浜辺美波の「キミスイ」が公開されましたが、このたびの「セカコイ」は、いわば第3弾に位置づけられます。3.青春映画の決定版1980年代には、「時をかける少女」や「ねらわれた学園」など、SFジュブナイル系の青春映画が人気だったのですが、なぜか2000年代になると、「セカチュー」「いまあい」「1 リットルの涙」など、病弱なヒロインを主人公にした純愛ものが人気を博し、さかんにドラマ化・映画化されるようになりました。その系譜にあるのが、いうまでもなく浜辺美波の「キミスイ」です。これらはすべて、内容的にみればベタな通俗小説の映像化なのですが、おおざっぱにいえば、伊藤左千夫の「野菊の墓」や、堀辰雄の「風立ちぬ」のような純愛路線への回帰となってます。◇三木孝浩×福本莉子の「セカコイ」は、こうした一連の流れを受けて制作されていますが、そこで道枝駿佑がクローズアップされることになります。今回の映画では、「キミスイ」の月川翔が脚本、「空色物語」の三木孝浩が演出、松本穂香、古川琴音、野間口徹、水野真紀らが共演。ここで福本莉子のプロモーションがおおむね完了し、第9回オーディションで次の東宝シンデレラが誕生します。道枝駿佑は、「セカチュー」の森山未來、「キミスイ」の北村匠海につづく抜擢になります。彼の色白のルックスは、「可愛い王子様キャラ」と「やんちゃな不良っぽさ」の両面を、全盛期の田原俊彦のように表現できる特長がありますが、今回の「セカコイ」では、彼の「あやうさ・儚さ・脆さ」がいっそう注目されることになるでしょう。 世界の中心で、愛をさけぶ君の膵臓をたべたい今夜、世界からこの恋が消えても
2022.04.26
昨夜のNHK「うたコン」で、五木ひろしと、清塚信也、村治佳織とのコラボがお洒落だったので、さっそく新作『DREAM』を聴いてみようと思ったのだけれど、なぜか配信していない!かろうじて試聴が出来るだけ。こういうアルバムこそ、海外市場を視野に入れて配信すべきでしょ。そして、フルで聴ける音源を、数曲程度は YouTube にアップしなければいけません。そうじゃないと、海外の反応を把握することすらできないでしょ!それとも、レーベル側は、はなから国内向けの「企画もの」という程度の意識しか、もちあわせていないのでしょうか?◇わたしは、じつは、21世紀のJ-POPのベストテイクのひとつが、森進一の「愛のままで…」だと思っているのだけど、なぜか、演歌歌手によるJ-POPは、いまだにキワモノ的な企画扱いで終わってしまう。今回の五木ひろしのアルバムを聴いても、けっして演歌とJ-POPを接ぎ合わせたような無理矢理感はないし、そもそも、この2つのジャンルには、世間で思われているほどの音楽的な差異など存在しないのです。それは、あくまで国内リスナーのくだらない先入観にすぎないし、そういう先入観は、いずれ「外圧」によって取り払われるのだろうと思っている。だからこそ、世界市場にむけて積極的に発信すべきなのです。◇ちなみに、以前、小西康陽が八代亜紀をプロデュースしたり、Pink Martiniが由紀さおりをプロデュースしたりしてたけど、作品そのものも、さほど上手くいっていなかったし、しょせんは旧渋谷系界隈の一時的なトピックに終わっていた。そもそも、こうしたミュージシャンによる編曲は、まったく「歌」というものを主軸にしていないので、せっかくの歌を彼らの好みのサウンドに押し込めてるにすぎない。結果的に、本来の歌唱力を殺してしまっている。とくに、J-POPの場合は、下手な歌を前提にサウンドを作ることしか考えてないから、歌唱力を最大限に活かす方法論をもちあわせてないし、そういう組み立てがまったく出来ないのですね。かたや演歌の場合は、歌唱力にばかり依存しすぎて、楽曲やサウンドの発展をまったく追求してきませんでした。◇その点、清塚信也は、音数を減らして、歌を活かすアレンジを実現しています。もともとクラシックの中には、歌を軸にして組み立てる手法がきちんとあるからです。そういう点で、やっぱりJ-POP系のアレンジャーよりも、クラシックの基礎をもったミュージシャンのほうが、全体の構造を高い次元からとらえることが出来るし、視野が広くて、選択肢も多いとは思う。結局、そういう視点からでなければ、《演歌の歌唱力》と《J-POPの楽曲》を統合することは、なかなか難しいのかもしれません。まあ、近年は、アカデミックな音楽教育を受けてる編曲家も多いし、こういう試みは、以前よりも容易になるだろうとは思います。追記:あらためて確認したら、ちゃんと配信されていました!スミマセン…(^^;なぜ勘違いしたかというと、(これは spotify のサイトに問題があって!)以下の2つのページが統合されていなかったのです。https://open.spotify.com/artist/19UvGbujplb8Ra8xV5yedshttps://open.spotify.com/artist/4nhQij93FmyNK73ewqgoDZ「ハナミズキ」「桜坂」がおすすめ。森進一の『Love Music』もちゃんと配信されています。https://open.spotify.com/album/4iJcFsy8P35gCUrLisqLoZ
2022.04.20
原田知世の新作「fruitful days」。…これは名盤。最近は、アルバムを通して聴くことも少なくなったけど、めずらしく一気に聴き通してしまった。今年のわたしのベストアルバムかも。全9曲で捨て曲もありません。Wikipediaの記事は1曲ぬけてる…(^^;◇原田知世のアルバムは、つねにチェックはしていたものの、たいていはチェックだけで終わってた(笑)。アイドル時代のものや、鈴木慶一時代のものには、長く聴き続けている作品もあるのだけど、伊藤ゴロー時代になってからは、おおむねチェックするだけで終わっていた(笑)。しかし、今回は違う。これなら長く聴き続けられそう。というより、もう長いこと聴いてきたような錯覚に陥るほど、すんなり耳に馴染んでいる。伊藤ゴローのサウンドには懐の深さがあるし、知世の歌声にもまったく無理なところがない。自信がみなぎってて安定感があります。これが、おそらく、伊藤ゴロー時代の代表作になるでしょう。じつをいうと、これは「スナックキズツキ」を見て感じてたのだけど、今の原田知世は、とても良い状態にあるんだろうな、と思う。◇あのドラマで彼女が演じたのは、漫画家の夢を諦めて、スナックのママになって、客に対して「あんた」とタメ口で話しつつも、何故か酒類はいっさい提供せず、新鮮なフルーツジュースや、暖かいホットココアや、優しいオニオングラタンスープや、手作りの料理を振る舞ってる風変わりな女性でした。あのドラマを見て、原田知世は変わった、と思いました。デビュー40年目にして、ようやく彼女なりに「少女性」を乗り越えたって感じ。◇原田知世は、デビューして以来40年近く、ずっと「少女」のままだったのですよね…。大林宣彦と一緒のときはもちろん、角川春樹や渡瀬恒彦と一緒にいるときも、鈴木慶一と一緒にいるときも、細野晴臣や高橋幸宏と一緒にいるときも、いつも彼女の表現は「おじさんと少女」の組み合わせで成立していた。結婚しても、子供を産むことはなかったし、およそ家庭というものを感じさせなかったし、けっして「少女性」が失われることはなかったのです。それが知世の長所でもあり、短所でもあった。◇伊藤ゴローとの組み合わせにおいては、その意味で、彼女の短所のほうが目立っていたと思う。伊藤ゴローは、彼女にとって「おじさん」じゃなかったし、その組み合わせはいまひとつ安定感に乏しく、どこか背伸びするような無理を感じさせていました。知世の歌にも、伊藤ゴローの音楽にも、なかなか目指すものに到達しきれてない感じがあった。…しかし、離婚をして、大林宣彦も死んで、ようやく、ここにきて、原田知世の「少女性」が抜け落ちた感じがします。それは逆にいえば「おじさんを必要としなくなった」ということ。そのことが、いまの彼女の自信と安定感に繋がっているように見える。本人の話によると、コロナ禍になって周囲に振り回されずに済んでいることも、精神的に良い影響を及ぼしているらしい。このアルバムを聴いていたら、また「スナックキズツキ」を見たくなりました。どちらかというと「おばさんと青年」みたいな図式。
2022.04.19
鈴木茂×小原礼×林立夫×松任谷正隆「SKYE」。このなかで、いちばん好きなのが、松任谷のつくった「川辺にて」という曲なのだけど、これを聴いて、…この曲、どっかで聴いたことあるのよ!…たしか、どっかのオジサンが歌ってたのよ!…しかも、それはわたしのすごく好きな曲だったはず!…誰だっけなあぁ。と頭をグルグルさせてたら、やっと思い出した(笑)。↓これです。Ringo Starr「Gave It All Up」 わたしは、リンゴ・スターがとても好きなんだけど、なかでも、この曲がいちばん好きかも!泣いちゃうよ!◇ちなみに、この曲が入ってる『Ringo The 4th』というアルバムは、リンゴが絶不調のときの作品といわれていて一般的にとても評価が低く、商業的にも大失敗でいまだに配信もされていない …という不遇な扱い!アトランティックレコードで、アリフ・マーディンが作ったせいもあって、かなり米国色が強いからなのか、とくに英国ではまったく受け入れられなかったらしい。でも、わたしはこのアルバムがとても好きなのよ!はたして松任谷がリンゴを意識して作ったかどうか知らないけど、ここからも、「妻(ユーミン)は英国好き、夫(正隆)は米国好き」というのが分かる。あと、最後の「BLUE ANGELS」もいいですね。
2022.04.19
…だそうです。↓こちらが公式サイト。じつは各地で上演されていたらしい。おもにストレートプレイとして。
2022.04.18
ミュージカル「シンデレラストーリー」が再演されるとのこと。初演は2003年。井上芳雄 × 大塚ちひろ × デーモン小暮閣下 による人気作。大塚ちひろのルームメイトだった長澤まさみは、この舞台にたいそう憧れたらしい。鴻上尚史による「シンデレラ」の翻案です。山田和也が演出、武部聡志と斉藤由貴が楽曲を制作しました。2005年にも再演されたので、今回は再々演です。親子連れでも安心して楽しめる内容!2003年7月-8月初演:旧パルコ劇場2005年5月-6月再演:ルテアトル銀座2022年秋再々演予定◇今回はダブルキャストとのことで、斉藤由貴の長女である水嶋凜の主演が一足先に発表されました。もうひとりの主演が誰かは分かりませんが…もしかして萌歌?あるいは「斉藤由貴の長女&大塚千弘の妹」のWキャストだったりして。スポーツ紙の記事よれば、斉藤の初代マネジャーで舞台制作を手がける市村朝一氏が初演から引き続いて音楽監督を務める武部聡志氏とともにオーディションを行ったとのこと。このタイミングから察するに、東宝シンデレラオーディションにぶつけてる気もするけど、https://t.co/nMq4DLFqGB— 大塚千弘 (@chihirootsuka03) April 7, 2022山下リオも第6回オーディションでファイナルまで行ったらしい!もうひとつには、一昨年に、土屋太鳳と朝夏まなとのダブルキャストで、「ローマの休日」が再演された流れもあります。こちらも山田和也の演出、斉藤由貴の楽曲制作。じつは、ちょうど1年前のわたしらの話が、いろんな意味で当たりまくってるというか、manzara77.blog.fc2.com/blog-entry-361.html manzara77.blog.fc2.com/blog-entry-363.html むしろ関係者がわたしらの話を読んでるとしか思えないんだけどwべつに、それならそれでいいのです。そもそも、わたしらの話は、長澤まさみの下のコメントが発端になっている。#シンデレラストーリー #大塚千弘 #井上芳雄 #水嶋凜 pic.twitter.com/JYoi3iwK2V— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) April 13, 2022 ◇ ◇ それはそうと!いろいろ水嶋凜についての続報も出てきたので、ここで整理しておきましょうまずは、朝ドラ「ちむどんどん」に5月4日から出演!ヒロイン(黒島結菜)と料理大会で競い合う高校生役だそうで、萌歌との共演シーンがあるかどうかは不明。今回のインタビューによると、美大では映像を専攻していたそうで、実写映画を撮ったりしていた。同級生と一緒になって、ストーリーを考えて、絵コンテを描いて、せりふを考えたり、カメラワークを決めたり、自由に作っていた。趣味は映画観賞、歌うこと、和風建築を見ること。…だそうです。ここらへんにも、萌歌との共通性を感じる。やっぱり「女優を志したことはなかった」とのこと。経緯はいろいろあるでしょうが、大学で実写映画を制作する中で「出るのも面白そう」と感じた。19年の映画「記憶にございません!」の舞台あいさつを見て、「こんなふうになりたい」と思った。母にも「やりたいようにやったら」と背中を押されて、20年12月に母と同じ東宝芸能に所属した。…だそうです。それから芸名にかんして。苗字の「水嶋」は、やはり祖母(由貴ちゃんの母方)の旧姓から取ったようですが、名前の「凜」のほうは、「はね駒」のおりんちゃんじゃなく、「千と千尋」のリンが好きだったから(笑)。この「凜」の字も好きだというのだけど、じつは、この字には、禾の「凜」と、示の「凛」の2通りあって、ツイッターではすでに2種類のタグが混在。わたしも、前回の記事でこれらを混用しているw市村も混用しているw(わざと?)https://t.co/ydpvuxpuDL— 市村朝一 (@tom_ichimura) April 12, 2022まあ「凜」も「凛」も意味は同じなのだけど、禾の「凜」のほうが正字で、示の「凛」のほうは俗字だそうです。東京出身ってのがいまだに謎ですが、東京生まれの横浜育ちってこと?
2022.04.13
今ごろになって「ランジャタイ」の漫才にハマってます。本来なら、去年のうちに、奥森皐月をとおして知っておくべきだったのだけど…もともと、そんなにお笑い好きってわけでもないし、M-1などもまったく見ない人間なので、すっかり乗りおくれて、萌歌のラジオで紹介されるまで知らずにいました…。◇若手芸人というと、ちょっと尻込みしてしまうところもありますが、ランジャタイの笑いの世界は、わたしたち世代にもハマれる部分がある。それは端的にいうと、「江戸落語」や「不条理漫画」の世界に近い。ボケの国崎は富山県出身、ツッコミの伊藤は鳥取県出身ですが、関西風というよりは関東風、そのシュールな芸風はかなり「都市型」の笑いだといえる。◇代表作として知られる「風猫」は、体内に侵入した猫が人間を操作し、操られた人間がロボットになるという不条理ネタ。ボケの国崎は、ひとりで何役もこなしながら、道具も使わず、身ぶり手ぶりだけで異常な状況を描写していくけど、これはかなり江戸落語の手法に近い。実際、ランジャタイには落語ネタもあって、正座をしてお茶を呑む仕草などもよく出てきます。ただし、スケールを変えながら巨大なものと小さなものを演じ分けたり、現実にはありえない状況を描写していくシュールな世界は、落語をかなり現代的にアップロードしています。体内に侵入して人間を操縦する猫操られてロボットになる人間かたや伊藤のツッコミは、かなり独特です。ほとんどツッコみません。途中までは、国崎の描き出すシュールな世界を、なんとか理解しようと言語化して確認するのだけど、状況がエスカレートするにつれ、後半は、ただ呆れて、生暖かく見つめるだけ。もしくは、あまりにもクレイジーな事態に、絶句したまま立ち尽くします。この「シュールな状況に絶句する」さまは、昔のガロなどの不条理漫画に似ていて、伊藤の変な髪型も、そういう雰囲気を醸し出してます。(最近、角刈りにしたらしいけど)吉田戦車の不条理漫画「伝染るんです。」よりなお、猫に操作された人間は、「将棋ロボ」と「カニ挟みロボ」と「お茶呑みロボ」を延々とループ。伊藤は絶句したまま、その様子を凝視するだけ。伊藤が言葉を失ってからこそがランジャタイの真骨頂になります。将棋ロボになった人間。カニ挟みロボになった人間。お茶呑みロボになった人間。◇その他のおすすめネタです…「お鍋の美味しい季節になってきました」キレのある描写で鍋をつくる仕草は、かなり江戸落語風。鍋が大惨事になると、何故かピカソの「ゲルニカ」が登場するw「くそったれ人生にさよならぽんぽん」怪しいヨガ体操を自宅でもやるように勧められて、はじめは生返事で誤魔化してるけど、あまりのしつこさに途中から絶句。「弓矢」"弓矢で牛丼を射ってブン回したい!"とか、"最後は笑顔でサヨナラしよっ!そのほうがいい!"とか、謎の主張をしつづけるだけのネタ。◇ちなみに、ボケの国崎は天才肌だといわれてますが…彼の出身地の富山県は、ノーベル賞受賞者をたくさん輩出してる日本屈指の頭脳県だし、たとえば「宇宙の真理」みたいなネタを見ると、シュールな世界を極限化していく彼の発想は、いわば「富山風」のスタイルなのかもしれない。コンビ名を「蘭奢待」からとってるところも、ちょっと知性的です。◇一方で、ランジャタイのネタは「当たりはずれが多い」ともいわれる。実際、いくら奇想天外な世界観といっても、国崎の描写力に頼るところが大きいし、伊藤がそれを分かりやすく言語化してくれないと、観客は何をやってるのか理解できなくて、ついていけないこともある。それから、ライブでは、いつもフェードアウトして苦笑いしながら終わるけど、わたしとしては、疲れ果てて悲愴感のうちに去っていくほうが面白いのにな、と思う。さもなくば、「最後は笑顔で…」をやって、ニッコニコで帰るとか。
2022.04.12
斉藤由貴の長女が女優になっていた、との報道がありました。事実上、東宝芸能からのアナウンスだと言っていい。すでに知っていたファンもいたんだろうか?わたしは、由貴ちゃんの長女は「百音ちゃん」だと思っていたので、いまになって「凜」といわれても、かえって違和感はある。というより、そもそも彼女が芸能界に入るとはまったく予想外だったので、そのこと自体への戸惑いがかなり大きい。由貴ちゃんも、弟の隆治も、姪の芹澤優も、みんな本名で活動してるのに、なぜ彼女だけ芸名をつけたのかよく分からないけど、ひとつに、東宝芸能に「もうひとりのモネ」がいることは大きいのでしょう。これまで由貴ちゃん自身、画家のモネはもちろん、上白石萌音も、服部百音も、みんな名前が同じもんだから、そのたびに否応なく長女のことを思い出してただろうし、そういう重複を避けるための芸名ってこともあるのでしょう。 「こんなところにモネの作品が!」in 倉敷美観地区#上白石萌音 #斉藤由貴 #大原美術館 pic.twitter.com/3ahw24S30h— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) January 3, 2022 ちなみに由貴ちゃんの母方の実家は「水島」なので、「水嶋」という芸名はそこから引き継いだ可能性が高いし、「凛」という名前が何に由来してるか分からないけれど、もしかしたら「はね駒」の橘りんに関係してる可能性もあります。公式プロフィールの情報はまだ少ないですが、出身地が横浜でなく東京になってる理由はいまいち分からない。また、ドラマ出演時のインタビューの中で、 「家が厳しくて、漫画も読ませてもらえないし買えなかった」と話してるのも、やや不可解に感じるところではある。母親が無類の漫画好きなのに!◇由貴ちゃんは昔から長女のことをたびたび話題にしていたので、ファンの多くは長女にかんする情報をけっこう知っている。そもそも由貴ちゃんは、最初の出産の後に子育て本を出版しています。長女が小学生ぐらいの頃には、「はなまるマーケット」なんかに出るたび家族のことを話していて、とくに話題にすることが多かったのは長女についてでした。話の中身はだいたいいつも同じで、・長女はとても美人で父親に溺愛されている・長女は家のなかで女王様のように振る舞っている・母親とはしょっちゅう喧嘩ばかりしているみたいなのが、お決まりのネタだった。その長女がまだ10才くらいの頃、母親のライブ会場に来ていたこともありました。わたしも、ライブ前のロビーに小さな女の子がいることに気がついてて、残念ながら顔まではちゃんと見れてなかったけど、後になって「あれが由貴ちゃんの娘ちゃんだったなあ」と思ったものです。それと同じ時期には、谷山浩子が作った「おうちでかくれんぼ」という曲を、家族みんなでレコーディングしたりもしています。その後、長女は、2016年のチャリティ・ミュージックソンのとき、母親へのねぎらいの公開レターを本名で送っていましたし、2018年には「一周回って知らない話」にモザイクをかけて出演し、当時の"スリリングな母親"について語ってもいました。そのころは美大に通っていることもうっすら知られていた。もともと由貴ちゃんも絵を描くのが得意だったけれど、長女も次女も絵が上手で、その絵がテレビで披露されたこともある。しかし、長女が芸能界に関心をもってるという話はいっさいなかったし、むしろ芸能界に入るとすれば次女のほうかな、と勝手に思っていました。◇一昨年の由貴ちゃんのライブに萌歌がゲスト出演したとき、萌歌が「私は由貴さんの娘さんと同い年」と話してたんだけど、わたしは、その口ぶりから、萌歌が由貴ちゃんの長女を直接知ってるように感じていました。今から思えば、ちょうどそのころ「直ちゃんは小学三年生」が撮影されていたのでしょう。このドラマの共演者は、「au森家」の岡山天音、「3年A組」の堀田茜、「L♡DK」の杉野遥亮、「恋つづ」の渡邊圭祐…みたいな感じです。そして、テーマ曲を歌ってたのは、萌歌が大好きな小山田壮平。じつは、去年の8月、萌歌がJ-WAVEの番組「LOVEFAV」で、「去年の冬にクリムトの葉書と一緒に送ってもらった」と言って、銀色夏生の詩集を紹介したことがある。その直後に「AXIA~かなしいことり」を流して、由貴ちゃんのライブに出演したときのことも話していた。しかも、その日のゲストは小山田壮平で、彼は「直ちゃんは小学三年生」のテーマ曲だと言って、ちゃっかり「恋はマーブルの海へ」を流していました。萌歌と由貴ちゃんの長女はどういう関係なんだろう?番組の中では「ファンからのプレゼント」だと話してたけど、もしかしてクリムトの葉書と銀色夏生の詩集をくれたのは、由貴ちゃんの長女だったのではないの?萌歌の「LOVEFAV」は放送が終わってしまったけど、できれば二人の対談を聞いてみたかった気もします。
2022.03.24
東出昌大の独立にあたって、所属事務所のユマニテが文書を発表しました。おりしも、濱口竜介の映画「ドライブ・マイ・カー」が、米アカデミー賞の4部門ノミネートで注目されているさなか!2020年3月の『Flash』の記事には、「東出昌大は村上春樹原作の映画を降板」と書かれていました。(おそらく彼の代役は岡田将生です)◇今回の文書のなかで、ユマニテ社長の畠中鈴子は、東出に対して、怒りを超えた「徒労感と虚しさ」を表明しています。昔から、芸能プロダクションが、独立したタレントの活動に対して、隠然と圧力をかけて妨害する話はありましたが、これほどのネガティブキャンペーンを、あからさまに世間に対して発信するのも珍しい。おそらく、ユマニテの畠中鈴子は、>非があるのはもっぱらタレントのほうであり、>事務所の側はあくまで被害者なのだ…と主張することで、今回の契約解消を社会的に正当化したかったのでしょう。そうでもなければ、こんな文書をわざわざ世間に公表する必要はないのだから。そうした企業戦略もなく感情にまかせて書いた文章だとすれば、あまりに幼稚な一人語りだと言わざるをえません。かつてとは違って、現在の芸能事務所には、タレントに圧力をかけるほどの力がないのかもしれません。だからこそ、これはメディアを巻き込んだ一種の情報戦であり、世論を味方につけるための演出なのだろうと思う。あるいは、違約金などの問題で、今後、争っていくことを念頭に置いているのかもしれません。◇ちなみに、濱口竜介の映画は、こうした一連の経緯に対して、不思議なほどに"予言的"です。2018年の「寝ても覚めても」は、消えた恋人と同じ顔の男に溺れていく女性の物語。ここで、東出昌大は、唐田えりかの恋人役を一人二役で演じていました。キネマ旬報ベスト・テン第4位。ヨコハマ映画祭作品賞。そして、東出昌大は、2020年1月の『週刊文春』で唐田えりかとの不倫を報じられます。◇同じく2020年、濱口竜介が脚本を担当した「スパイの妻」は、関東軍による細菌戦の実態を告発しようとした男の物語。ここで、東出昌大は、主人公の妻をひそかに慕いつつも、やがて無慈悲な軍人へと変貌する若い男を演じています。キネマ旬報ベスト・テン第1位。ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞。そして現在公開中の「ドライブ・マイ・カー」は、脚本家の妻に先立たれた演出家の男の物語。ここで岡田将生は、かつて主人公の妻と浮気していた若い俳優を演じています。かたや、東出昌大のほうは、離婚後の恋愛を『週刊文春』に報じられています。カンヌ国際映画祭 脚本賞・FIPRESCI賞・エキュメニカル審査員賞。ゴールデングローブ賞 非英語映画賞。全米映画批評家協会賞 作品賞・監督賞・脚本賞。ロサンゼルス映画批評家協会 作品賞・脚本賞。ニューヨーク映画批評家協会 作品賞。ボストン映画批評家協会 作品賞・脚本賞。トロント映画批評家協会賞 作品賞・脚本賞。アジア太平洋映画賞 脚本賞・作品賞。はたして、濱口竜介の映画のほうが予言的なのでしょうか?それとも、現実の人々こそが、作品の登場人物のように「物語」を演じているのでしょうか?…端的にいうならば、柴崎友香や村上春樹の小説にせよ、濱口竜介の映画にせよ、それらの「物語」は現実社会と同じ構造で作られているのだと思います。同じ構造のなかを生きるかぎり、小説や映画の登場人物であろうと、現実の社会を生きている人間であろうと、あらかじめ仕組まれた人生を運命的に生きるしかありません。すぐれた作家の物語がしばしば予言的なのは、そのためだと思います。>>濱口竜介による"斉藤由貴論"
2022.02.16
鬼滅の刃。遊郭編の第10話。神がかった異次元のクオリティでした。あまりのスピードに目がついていかず、テレビの「0.8倍速機能」を使って見直しましたが(笑)。←これはオススメ!壮絶なシーンの連続だけど、あらゆるカットが美しいのが分かります。作画のレベルが他の回とはあきらかに違いました。絵コンテを作ったのは白井俊行。立志編の第19話も担当したアニメーターです。◇TVシリーズ「立志編」の第19話は、特別編集版「那田蜘蛛山編」でいうところのクライマックス部分。"竈門炭治郎のうた" が流れて、炭治郎が累の首を切る伝説的な回です。やはり絵のきわだった美しさが印象に残っている。◇ちなみに、わたしは、映画「無限列車編」に対して、かなり不満がありました。内容もさることながら、とくに作画にかんしてです。…今回の「遊郭編」は、前半部分の作画は申し分なく美しくて、女装させられた炭治郎たちも可愛かったけれど、やはり後半になるにつれて、作画の質は落ちていた。内容についても、いろいろ不満がないわけではない。◇作画の出来不出来というのは、アニメが分業制であるかぎり避けられない問題ですよね。とくに納入期限を迫られると、そうなるんだと思う。でも、今回の第10話のように、神がかるほどの素晴らしい回を見てしまうと、余計に他の回との差が目についてしまいます。まあ、それだけ見る側の目が肥えてしまったともいえる。そして、そういうことを意識するにつけ、このアニメ作品の価値が、なんだかんだで「作画の美しさ」に多くを負っていると痛感する。結局のところ、そこが生命線なのです。◇今後のシリーズは、栖原隆史や白井俊行らを軸にした体制に組み直すべきじゃないでしょうか?とくに映画版は、やはり美しい絵で見たいです。脚本についても、いろいろ思うところはありますが、それは原作そのものにかかわる問題でもあるので、最終話を見てから、あらためて書くことにします。追記:最終回を見ました。絵コンテは、栖原隆史/白井俊行とクレジットされていましたが…正直、あまり作画の出来がいいとは思えませんでした。とくに、無限列車編の後半部分と同様、目から流れる涙が粘液質だったのは不快でした。こうした作画の不出来が絵コンテによるものなのか、それ以外の要因によるものなのか、素人にはよく分かりません。物語の中身については、後日、別稿で考察します。
2022.02.09
性懲りもなく、みたびの読解!(笑)ますます迷宮入りしてます…。今回は、「灯台より」というタイトル を起点に考えてみます。◇一般に、小説やエッセーなどで、「○○より」というタイトルに地名が入ってる場合、その地名は、手紙や便りの《送り元》を指します。映画や音楽でも、「ロシアより、愛を込めて」「前略、道の上より」とか。ドボルザークの「新世界より」も、《新世界からの音楽的メッセージ》ってことですね。そこから考えると、この曲のタイトルも、《灯台からあなたへ届けるメッセージ》と解釈できるし、その場合、主人公は、ひとりで灯台へやってきたのだろうな… と思えてくる。ひとりで灯台へやってきた萌歌…?◇なんど歌詞を読んでみても、時間・場所・主語の関係がよく分からないのですが、もしかしたら、「2人が一緒だったとき」と、「1人で灯台へ来たとき」では、そもそも時制が違ってるのかもしれません。そして、そのつど「ここ」の指し示す場所が違うかもしれないし、そのつど「息を止める」主体が違うかもしれません。◇◇ひとりで灯台へ来た。たくさんの記憶と経験を抱えて。2人の時間には飽きてしまった。Please hold your breath.息を止めて集中してほしい。そして、わたしの不在に気づいて、わたしを探してここまで来れば、悲しい海が見えるはず。…今、あなたは隣で眠っている。Please hold your breath.息を止めて、生きるように仕向けてほしい。たとえ生きる理由がなくても。でも、この部屋にいたままじゃ、物語の終わりの予感に気づくことはできない。I hold my breath.私がどんなに息を止めても、あなたは眠ったまま、それに気づくことはない。◇◇ちなみに、いちばん「死」に寄せてみた前回の解釈に対し、柴田聡子のSTAFFさんからツイッターの「いいね」がついた。ってことは、あれがいちばん正解に近い?でも、あの解釈って、ちょっと怖いのです。「灯台より身を投げた」という意味にも取れてしまう。MVまで、それを暗示してるように見えてくる。…案外、この歌詞には、映画や小説のような"元ネタ"があるのかもしれません。灯台の謎といえば、3年前の「ライトハウス」って映画もありますね。日本では、去年から東宝系で公開されている。わたしは観てませんが、サイコホラーに興味をもってる萌歌なら観たかもしれません。THE LIGHT HOUSE
2022.01.26
adieu「灯台より」の歌詞について。ふたたび読解を試みます!読めば読むほど分からないので…(笑)前回とはちょっと逆の解釈をしてみました。◇去年の『adieu2』が発売されたとき、公式のインフォメーションには、「前作で表現した死生観はそのままに…」なんて書いてあったのですが、あの触れ込みを読んで、わたしは、「はあ?死生観?…いくらなんでも大袈裟でしょw」ぐらいに思っていたのです。でも、今回の曲について言うと、かなり「官能」と「死」の距離が近いですよね。もっとも、官能って、死の衝動にも近いところがあるから、エロス&タナトスってやつ。とくに不思議なことではないけれど、どれだけ死のほうに寄せるかで、官能の解釈がだいぶ変わってくるかもしれません。◇解釈が揺れるもうひとつの理由は、日本語の歌詞の場合、しばしば主語が省略されるから。たとえば「息を止めて…」の主語が、もし《私》だったら、I hold my breath, and…逆に《あなた》だったら、Please hold your breath.の意味になるし、たとえば「世界を忘れて…」の主語が、もし《私》だったら、I forget the world, and…逆に《あなた》だったら、Please forget the world.の意味になるし、それによって解釈が変わってしまう。かりに主語が同じでも、「あなたは悔やんだりする」という断定形と「あなたは悔やんだりする?」という疑問形では、解釈がぜんぜん変わってくるし、「どれだけばからしいのか知ってる」という断定形と「どれだけばからしいのか知ってる?」という疑問形でも、解釈が変わってきますよね…。メロディや歌い方だけじゃ判断がつかないこともある。日本語って難しい!◇◇物語はもうすぐ終わる。ページをめくる音に気づくこともなく、あなたは眠っている。わたしがここで息をしていることのばからしさ。ふたりで息を交わし合うよりも、もっといい方法。神さまの許しを得たら、ひとおもいに…すべての世界を忘れて、わたしは息を止める。わたしがいないことに気づいたら、ここから外を眺めればいい。悲しい海が見えるはずだから。あなたは悔やんだりする?でも、さわがしい予感は、ここには聴こえてこない。わたしが息を止めても、あなたは気づかずに眠っている。◇◇ついでながら、この曲と同日には、中村佳穂の「さよならクレール」も発表されたのですが、この曲にもビックリした!映像のなかに灯台も出てくるのだけど、「光ってるのに、息が…!」という歌詞には不思議な符合さえ感じる。柴田聡子と中村佳穂。今年の音楽シーンは、この2人の女子の"攻めの音楽"ではじまった気がしてます。
2022.01.24
上白石萌歌/adieuの新曲。なんど読んでも、歌詞の意味はよく分からないけれど、そこはかとなく甘い幻想に包まれている。けっこう官能的な世界ですよね。ベッドに横たわって、肩越しの隣にいる誰かが、本のページをめくっている。その音に意識が戻されたり、また眠りに落ちたりしながら、ゆらゆらと揺れている。灯台って何でしょうね。2人で高い所に昇る。ここからなら、過去も世界も見渡せる。世界では色んなことが起こっている。嵐が来る。雷が鳴る。夜には流れ星。春にはつばめが飛ぶ。それなのに、ボタンに唇を押しあてたり、お互いの気持ちを鼻と鼻で確認しあったり、柔らかく歯跡をつけたり。ばからしくて、何の意味も理由もないけれど、夢中になっては、またそれを悔やむ。朝が来たら、その痕跡を照らし合う。萌歌が撮影した江の島の湘南港灯台。ふつう「柏手かしわで」ってのは、人間が神様へ打つものであって、神様が人間に打つものではありません。でも、ここでは、それさえ逆転してしまう。お互いのことに夢中で、もはや世界のことも、神様のことも目に入らない。せいぜい見えるのは、悲しい記憶の海だけ。灯台の外で何が起こっても、ここからじゃ耳にも聞こえない。息を止めるのは、死ぬためじゃなく、生きるため?生きていることを確かめるための抜群のアイディア?ミディアムテンポの官能世界。↓インストバージョンも素晴らしい!
2022.01.20
日本の漫画やアニメには、一貫して「悪=文明」を描く系譜があります。手塚治虫や石ノ森章太郎が基礎にしていたのは、ゲーテの「ファウスト」に登場するメフィストフェレスですが、天馬博士やギルモア博士の科学技術も、そのような悪魔に魂を売ることで手にしたものだといえます。そこから生まれる文明は破滅につながってしまう。かたや永井豪や庵野秀明が基礎にしたのは、ヘブライ神話の堕天使、とりわけ旧約聖書に登場するルシファーです。その元ネタは石ノ森の「009~天使編」かもしれません。そこには「人間と堕天使は同じ悪だ」という発想がある。押井守版ルパン三世「ルシファーの化石」旧約聖書の失楽園の悲劇は、アダムとイブが「知恵の林檎」を食べた結果ですが、そうやって天界を追放された人間は、地に落とされた堕天使と同じような立場にあります。デビルマンやエヴァンゲリオンは、いわば人間と同じ「悪の系譜」にある堕天使であり、同じ悪でありながら、人間以上に強大な力をもっています。◇西洋では、神と文明がたえず対立してきました。中世までは、文明こそが「悪」でしたが、ルネサンス以降は、文明のほうが「善」と見なされ、しばしば宗教的蒙昧のほうが「悪」と見なされました。もともと古代ギリシャには科学文明があったのですが、中世ローマ教会は、その成果をすべて打ち消しました。なぜなら、科学文明はたえず神の存在を否定するからです。それゆえ、ローマ教会は、焚書をしたり、ガリレオを裁判にかけたり、魔女狩りをしたり、ユダヤ人を迫害したりして、徹底的に科学文明を破壊し、神の世界を守り抜こうとしました。ようやくルネサンスになって人間本来の「文明」が回復し、さらにルターの宗教改革がそれを推し進めて、西欧社会は、中世までの宗教的蒙昧から脱することが出来ました。しかし、いまなお北米などには、ダーウィンの進化論を否定して、旧約聖書の創世神話を守り抜こうとする人々がいます。◇ちなみに、ユダヤ人も、プロテスタントも、旧来のカトリックにくらべれば、はるかに「文明的」でした。なぜなら、彼らは自分で聖書を読むからです。中世までのキリスト教徒たちは、一部の聖職者を除いて、自分で聖書を読みませんでした。そもそも字が読めませんでした。これに対して、ユダヤ教徒は早くから自分で聖書を読んでいたし、ルター以降のプロテスタントも自分で聖書を読みました。これこそが西洋における近代文明の基礎になりました。自分で聖書を読むことによって、そこから文献学的な分析と批判が生まれ、従来のような盲目的な信仰が乗り越えられていったのです。ちなみに、日本人が近代化を成し遂げたのも、やはり江戸末期に「四書五経」を読んだ人たちがいたからです。それを読ませる寺子屋や私塾があったお陰ですね。自分自身で読まなければ、自分で考えることは出来ない。たんに権威者の話を盲目的に信じるだけの人間は、既存のヒエラルキーにしたがって判断することしか出来ません。◇手塚治虫以来、日本の漫画やアニメは「神と文明の対立」を描きましたが、そこでは、もっぱら文明のほうが批判されてきました。そこには、ゲーテの「ファウスト」や、メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」など、おもにプロテスタント系文学の影響があります。けっして神を肯定するわけではないけれど、かといって文明をすっかり容認するわけでもない。いわば神と文明との両義的な関係が描かれています。手塚治虫や石ノ森章太郎の物語でも、宮崎駿や押井守や庵野秀明の物語でも、人間の陰謀と神の陰謀とが対立しているように見えます。かりに文明の側に立つのならば、「神の陰謀」が描かれるはずはありません。そもそも科学文明は、神の存在それ自体を否定するはずだからです。たとえば、ダン・ブラウンの「ダヴィンチコード」で描かれているのは、あくまでも「ローマ教会の陰謀」であって「神の陰謀」ではありません。すべては人間界の話なので、そこに神の存在する余地はありません。しかし、日本の漫画やアニメには、何がしかの神が存在しています。神の存在は認めながら、その欲望や野心を疑っている。これは、日本人独特の、かなり多神教的な発想だといえます。いわば、人間のことを疑うように、神のことを疑っているのですね。
2022.01.09
大晦日放送の、NHK「クラシック名演・名舞台2021」を見ました。藤田真央くんの「トルコ行進曲」でまたも驚いた。てっきり彼はモーツァルト向きと思っていたけれど、実際の演奏はむしろ「モーツァルトらしさ」が抑制されていて、緻密に究めるような、ストイックな印象。遊び心たっぷりに楽しく弾くのでもないし、純真無垢に可愛らしく弾くのでもない。ある意味、マットな演奏と言ってもいい。それが意外で面白かったです。◇もともと「トルコ行進曲」ってのは、当時のトルコブームにあやかって、大衆受けを狙ったノベルティ的な楽曲であって、まあ芸術的な価値は低いんだろうと思いがちだけど…最近は、いろいろ意欲的な演奏があって面白いですね。ファジル・サイのトンデモ編曲のときも驚いたけど、今回の演奏で、またこの曲の印象が変わったし、真央くんの演奏に対する印象も変わりました。https://medicitv.jp/VerbierFestival/xohfF◇このほか、カヴァコスのブラームス、オピッツの「展覧会の絵」なども素敵だったので、もっと聴いてみようと思います。レオニダス・カヴァコス×萩原麻未:ブラームス「バイオリンソナタ第1番ト長調作品78」ゲルハルト・オピッツ:ムソルグスキー「展覧会の絵」あ、ファビオ・ルイージのベト7も良かったです。それにしても、プロムスとかバイロイトとか、欧州の音楽祭は楽しそうで羨ましい。ウィーンのニューイヤーばかり有り難がってる日本人にくらべて、やっぱり音楽を楽しむ能力が高いんだなあと感じます。
2022.01.02
ルパン三世 PART6。第8、9、10話は、樋口明雄、湊かなえ、押井守の脚本でした。押井守は今回2本担当したのですね。◇まずは、押井守の「ダーウィンの鳥」。ここでルパンが相手にするのは、なんと 神 God です!(笑)神さまの使いであるミカエルさんが、不二子やルパン一味に依頼して、堕天使ルシファーの化石を回収し、ダーウィンの進化論を「なかったこと」にしよう、…ってなお話。つまり、神さまは、それが美しいからでも、お金になるからでもなく、人間の信心を取り戻したいからこそ化石が欲しいのですね。たぶん19世紀まで時間を巻き戻して、世界の歴史をやり直すつもりだったのだと思います。旧約聖書の創世神話を覆したダーウィンの『種の起源』は、始祖鳥の化石発見によって証明されてしまったのだけれど、ミカエルさんの話によると、この始祖鳥の化石ってのは、じつはドイツの贋作職人たちが、堕天使ルシファーの化石を真似て偽造したものなのだ、と!なので、ルパンと不二子が博物館から盗み出すのは、偽造された「始祖鳥の化石」ではなく、その元ネタである「堕天使ルシファーの化石」です(笑)。実際、旧約聖書には、「ルシファーは墓穴の底に落ちた」という記述があります。一説によると、ルシファーは、双子であった大天使ミカエルとの戦いに敗れ、地の底に封じ込められたのだそうです。そこから、ルシファーにかんして、「地底に封じられて悪魔になった」「東の地平線近くで明けの明星になる」「地中深くから化石になって出てくる」みたいな話が出てくるわけですね。明けの明星(金星)はローマ神話では「美の女神=ヴィーナス」だったけど、旧約聖書では「堕天使=サタン」なのです。結局、最後に時間がふりだしに戻り、この計画そのものが断念されて終わるのですが、はたして時間を過去に戻したのが、「ルパンに乗り移ったミカエル」だったのか、「ミカエルに変装したルパン」だったのかは謎でした。そこにこそ"真贋のあわい"があったようです。※追記「ルシファーが時間を戻した」という説もありえます。小刻みに時間を戻したのがミカエルなら、いちばん最初まで時間を戻したのはルシファーだとする解釈です。その場合、化石になったルシファーはいまだに意志や力をもっていて、なおもミカエルとの闘争を続けている、ということになります。 ⇒くわしくはこちら。なかなか面白いコンセプトのお話でしたが、ちょっと作りが説明くさかった気もする。作画は、第1シリーズに忠実な感じでしたけど、そのぶん自由な躍動感にやや欠ける気もしました。◇湊かなえの「漆黒のダイヤモンド」は、ちょっと設定がシッチャカメッチャカな感じ。いろんな時代のイメージを混然と重ねてみたってこと?ブラジルのミナスジェライス州でゴールドラッシュがあり、カリブで海賊が暴れまわったのは、だいたい17~18世紀の話。それに対して、日本からのブラジル移民は20世紀以降の話なので、その時代設定が、まず混乱している。それから、戦後になって、日系ブラジル人の生産する胡椒が一大産業になり、それが比喩的に「黒いダイヤ」と称されたことはあったけど、いくらなんでも古代ローマ時代じゃあるまいし、同じ重さの胡椒と宝石が等価だったわけじゃありません。しかも、不二子が掘り出した宝石箱の胡椒は、すでにミルされたパウダー状のものだから、当時としてもかなり価値が低かったと思います(笑)。また、日系人が沖縄出身と思わせる描写もあったけど、こけしは、おもに東北の民芸品ですよね…。そこにも、ややちぐはぐ感が。ちなみに、「カシューナッツの花が75年にいちど月下で咲く」という話は、ネタ元がいまいち分からないけれど、月下美人やドラゴンフルーツのイメージに重ねたのでしょうか?アニメの出来もいまひとつだった気がします。◇いちばん面白かったのは、樋口明雄の「ラスト・ブレット」かな。押井守の第4話も、「ダイナー」というからには北米の話だったはずだけど、この樋口明雄の第8話も、「ガンマン」というからには、やっぱり北米・中南米あたりの話かと思いきや…どうやら本編のホームズの話に合わせて、無理やり舞台をスコットランドにしたっぽい(笑)。雰囲気的には、どう見ても北米なんですけど。マカロニ・ウェスタンならぬ、スコティッシュ・ウェスタンってこと?でも、お話は面白かったし、アニメもカッコよかったです。
2021.12.20
↓このフィガロのインタビューを、今まで見逃していた。madamefigaro.jp/series/music-sketch/post-559.htmlこのインタビューを読むと、コトリンゴが小学1年生のとき(1986年ごろ)に、はじめて買ってもらったCDは、↓これっぽい。↓収録曲はこちら。1.「悲しみよこんにちは」斉藤由貴2.「情熱」斉藤由貴3.「初戀」斉藤由貴4.「白い炎」斉藤由貴5.「卒業」斉藤由貴6.「AXIA~かなしいことり~」斉藤由貴7.「愛がひとりぼっち」岩崎良美8.「タッチ」岩崎良美9.「ジャックナイフの夏」堀ちえみ10.「リ・ボ・ン」堀ちえみ11.「おっとCHIKAN!」おニャン子クラブ12.「セーラー服を脱がさないで」おニャン子クラブコトリンゴは、5才からピアノを習って、7才で作曲を始めたというのだから、音楽体験の順序が常人とはだいぶ違うだろうし、最初に好きになった音楽は、1983年の「リンゴの森の子猫たち」だったらしいので、(歌:飯島真理 / 作詞:松本隆 / 作曲:筒美京平)はじめてのコンパクトディスクを買ってもらう前に、すでにアナログレコードは持ってたのかもしれないけど、いずれにせよ、最初期に好きになった曲のひとつが、由貴ちゃんの「かなしいことり」だったのは間違いない。それにしても、幼少期に好きになった曲が、”リンゴの曲”と”ことりの曲”って、話が出来すぎてるでしょ(笑)…ちなみに、ジャケットが邪悪なCDって、↓これかなあ?でも、発売が1988年だから、ちょっと時期がちがう。↓コトリンゴの演奏した「AXIA~かなしいことり」の感想は、こちら。https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202106230000/◇以下、フィガロのインタビューの抜粋です。― 斉藤由貴さんの曲「AXIA~かなしいことり」は知らなかったです。すごく良かったです、銀色夏生さんの作詞作曲も。コトリンゴ「初めて買ってもらったCDに入っていた曲。小学校1年の時にCDが普及しはじめて、"CDコンポを買うから好きなCDを買ってあげるよ"と、親に言われて。ちょうど『スケバン刑事』がTVで流行っていたので友達が見ていて、私は見ていなかったけど、そのCD買えば一緒に友達と聴けると思って、"これがいい"って、お父さんに持っていったら、ジャケットが邪悪な感じだったから"えっ、スケ番になりたいの?"って驚かれて(笑)」― それは驚くわ(笑)。コトリンゴ「子ども心にお父さんを心配させちゃうと思って、それでいろんな人が入っているコンピレーションにして、それにはおニャン子クラブや、堀ちえみさんの歌が入っていたんですけど、そのなかでこの曲の雰囲気がいちばん好きだった。でも大人になってからちゃんと見たら、何だこの歌詞は!?っていう。結構ドキッとする。こういう歌詞ってあんまりないな、と思ってすごく新鮮だったのと、切ないとは違って、強気なのに弱気なのに、ずるいのかなんなのかっていう。別に辛いことを歌いたいわけじゃないですけど、絶妙な歌ですよね。シンプルな構成だったので、ピアノに変化を付けていかないと行けないのかな、と」― "ことり"が入っているのは偶然?コトリンゴ「偶然、偶然(笑)」
2021.12.18
深夜アニメの「ルパン三世 PART6」を見ています。面白いことに、複数の脚本家によるオムニバスなのですね。毎回、まったくちがう物語が展開しています。◇いちばん面白かったのは、押井守が脚本を書いた「ダイナーの殺し屋たち」。ヘミングウェイの短編小説をベースにした内容でしたが、アニメ自体が一篇の短編小説のようで、独特の味わいがあって、絵のクオリティも高かった。…あらすじをネタバレすると、英国のシェイクスピア&カンパニー書店に所蔵されていた、ヘミングウェイ短編集の稀覯本(幻の初稿本)を、米国の中央情報局CIAが、政財界スキャンダルを伝えるための暗号書籍に用いていた、という設定。スウェーデン人のアンダーソン(ヘミングウェイの登場人物)が、それを流出させようとしていて、CIAが雇った8人の殺し屋はそれを阻止しようとしている。ルパンと不二子は、それを横取りしようとしてる。そんな内容です。◇一方、大倉崇裕の脚本による「レイブンのお宝」は、今回のテレビシリーズの主軸になってる物語です。ちょっとダヴィンチコードみたいなお話。つまり「暗号書籍」ならぬ「暗号絵画」ってことですね。そこにレイブンという秘密結社の財宝の謎が隠されている。しかも、この絵画は上下2つに切断されてしまっていて、なにやらバンクシーの「風船と少女」みたいです。この絵画が飾られていたのは、「The Black Drawing Room」という場所なのですが、これはおそらく英バッキンガム宮殿の、「The White Drawing Room」と対をなす場所ですね。レイブンという秘密結社は、いわば英王室の裏組織のような側面をもつのでしょう。シャーロックホームズは、ロンドン警視庁=スコットランドヤードとともに、この犯罪組織の解明に挑んでいて、かたや、ルパンと不二子は秘密の財宝を狙っている。そんななかで、ルパンとホームズが共闘関係になっていきます。ちなみにホームズの相棒ワトソンは、このレイブンという組織に殺されてしまったのですが、ホームズは、ワトソンの一人娘だったリリーを、父親がわりになって育てています。この14才の少女が物語の主人公。やがてルパンとホームズは、レイブンの秘密を探る中で、さらに凶悪な犯罪組織と対決することになる。その首魁こそが、おそらくモリアーティ教授ですね。◇もうひとつ、芦辺拓の脚本による「帝都は泥棒の夢を見る」は、モンゴルの大帝国再興を夢見た日本の財閥令嬢のお話でした。元帝国の再建を目指すチンギスハーンの末裔と、その王族の秘宝を狙うルパン&不二子(黄金仮面&黒蜥蜴)と、モンゴルに傀儡国家を打ち建てようとする日本帝国陸軍。その三つ巴の戦いです。ルパンは昭和初期の東京へタイムスリップしているのですが、じつは人工知能が生み出した仮想世界=メタバースだったというオチ。さながら、安彦良和の「虹色のトロツキー」を、細田守の「竜とそばかすの姫」の世界へ組み込んだような感じ。チンギスハーンの末裔は見た目が少女なのですが、じつは少年王子だったというオチで、そこは、男装の麗人だった川島芳子(愛新覺羅顯㺭)の逆。モデルになってるのは、たぶん徳王(デムチュクドンロブ)だと思います。大陸で見つかった王の秘宝ってのは、旧帝国陸軍が発見した好太王碑などを思わせますし、財閥の令嬢が大陸を探検するという話は、日露戦争のときの大谷探検隊のことなどを思わせます。なお、ベースになっているのは、江戸川乱歩と山中峯太郎の小説だそうです。山中峯太郎は、日本におけるシャーロックホームズの翻訳家であり、また、本郷義昭を主人公とする軍事探偵小説の作家。今回のアニメにも本郷義昭(次元)が登場していました。そして乱歩の小説からは、明智小五郎のほかに、黄金仮面(ルパン)黒蜥蜴(不二子)浪越警部(銭形)が登場していました。なかなか壮大なコンセプトで面白かったのだけど、とても前後編で収まるような内容ではなく、アニメそのものの出来はあまりよくありませんでした。◇次回の第9話は、湊かなえが脚本を担当するようです。いずれにしても、完全に大人向けの物語だし、子供が見たら、まったく理解できないだろうなあと思います…(^^;
2021.12.08
Little Glee Monster。「透明な世界」「REUNION」「君といれば」。いまの季節に沁みる。勝手に3部作に認定して、ひたすらパワープレイしてるよ。
2021.12.02
先週のNHKクラシック音楽館。前に見た藤田真央くんのシューマンが面白かったので、今回のラフマニノフ3番も聴いてみようと思いました。普通なら聴くだけでも体力を要する曲だけど、真央くんなら、まったく違うラフマニノフになりそうだし。しかし、その前に、17才の奥井紫麻おくいしおが弾くモーツァルトの23番!まず、これに心惹かれてしまった。聴いた瞬間、「うわー、この人はモーツァルト弾きだぁ」と思う。天使の戯れのように清らかで軽やかな音。わたしとしては理想的なモーツァルトでした。かたや、2楽章になると一転して、しっとり色気を感じるような、慈しみのある演奏だったり。同時に、モーツァルトの音楽が、驚くほどモダンだということにも気づく。わたしは今まで、もっぱらピアノソナタとかしか聴かなくて(笑)、(たいていピリスの演奏)あまりモーツァルトのコンチェルトに関心が向かなかったけど、今回の演奏を聴いて、はじめて魅力に目覚めたかも。おかげで23番が好きになった。あとで奥井紫麻のことを調べてみましたが、べつにモーツァルトにばかり傾倒しているわけでもないようです。というか、Wikipediaのページもまだなくて、もしかしたら、今回が初めてぐらいの本格メディア出演だったのかもしれません。◇そして、真央くんのラフマニノフ。やはり面白かった。わたしは知らなかったけど、彼はチャイコのコンクールでもこれを弾いたらしい。ラフマニノフの協奏曲といえば、甘いメロディーの2番に対して、ずっしりした重さの3番だし、わたしはどうしてもアルゲリッチの印象に直結してしまう。けれど、真央くんの演奏は、そういう重さや暗さとは無縁で、ひたすら絢爛豪華な世界を楽しむって感覚のほうが強い。しかも、抒情的で甘い。忘我の状態で華やかさの中へ耽溺するような演奏。ロマン派はロマン派でも、貴族文化に憧れる大正ロマン幻想って感じ?(笑)意匠を凝らした瀟洒な調度品を見せられてるみたいです。良くも悪くもクールな演奏で、ほとんど感情表現というものを伴わないから、感情にまかせてドバっと曲想が押し寄せたりしないし、そのぶん、細部の造りがクリアに耳に入ってきて、隅々までその美しさを堪能できます。本人も、汗だくだけど、ニコニコして楽しそうに弾いてる。一般的には「難曲」といわれる3番だけど、けっして肉体的に振りしぼって力まかせに弾くのでもなく、技術的には余裕をもって弾いてるようでした。シューマンを聴いたときも、「まるでチャイコのくるみ割り人形みたい」と思ったけど、今回も、そういう華やかさと楽しさを感じました。奥井紫麻/井上道義&アンサンブル金沢:モーツァルトのピアノ協奏曲第23番藤田真央/高関健&仙台フィルハーモニー管弦楽団:ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番
2021.11.11
10/4放送のNHK「うたコン」は神回でした。いつもの「うたコン」は、《演歌パート》の後に《J-POPパート》を取ってつけるような構成で、なかなか両者が融合せず、番組の方向性も、ターゲットとする視聴者層も、いまいち絞り切れてない感があるけど、今回の放送では、市川昭介の演歌と、AIのソウルミュージックと、井上芳雄のミュージカルが違和感なく共存していて、最後は、香西かおりの洒脱な歌謡曲が締めるという、とても理想的な構成になっていました。往年の「ザ・ヒットパレード」とか「夜ヒット」を思わせるような内容。そんな番組構成の中心にいたのは、上白石萌音でした。◇萌音が、今年の紅白で「夜明け」を歌うのは確実です。人気の高いミュージカルのパートでも、何かしらのパフォーマンスをする可能性があります。そして、日に日に高まっているのは、「彼女が紅組の司会をやるんじゃないの?」という噂。民放ドラマやミュージカルでの活躍もさることながら、「大河」から「朝ドラ」に立て続けに出演する流れもあり、バラエティ番組での司会経験も、その判断材料になっています。それにくわえて、NHK出版から発売された先日のエッセー集が、すでに売上の上位にランキングしているのも注目される。おそるべき全方位的な活躍です。◇けれど、いちばん重要なのは、彼女が、歌手として、各局の歌番組でもパフォーマンスをし、シングルやアルバムがかなりの売り上げを記録していること。わたしは、彼女が今年発表した『あのうた』というカバーアルバムが、年末のTBSレコード大賞で、おそらく「企画賞」か「アルバム賞」を獲るだろうと思っている。というのも、ミュージックマガジン誌をはじめジャーナリズムの支持もあったけど、いまの日本の音楽シーンのなかで、あの作品が成功したことの意義はとても大きいからです。萌音は、あのアルバムにおいて、70年代の布施明から、90年代のブルーハーツまでを、「昭和・平成歌謡」という大きなカテゴリーで括りました。これは、70年代の後半以降に繰り返されてきた、「ニューミュージック」vs「演歌・フォーク」だとか、「J-POP」vs「歌謡曲」だとかいう不毛な分断を、あたらしい世代の価値観から乗り越えようとするものであり、日本の商業音楽を統合的に継承するための、ひとつのパースペクティブを提示するものになっていました。この価値観は、NHKの紅白歌合戦にとっても前向きな方向性を与えるもので、今回の「うたコン」の内容は、まさにその予兆になっていたのです。…と思ったら、こっちが先だった! 逆に紅白の可能性はちょっと弱まったかも(^^;◇萌音が歌った「夜明けをくちずさめたら」は、これまでのなかでもベストパフォーマンスでした。そして、その直前に披露された「アルデバラン」は、NHK朝ドラ史上、もっともソウルっぽい楽曲。後半は、ほぼゴスペルですね。作ったのは、なんと森山直太朗。AIの代表曲になるのは確実です。ちなみに、萌音自身が歌う今回の高校サッカー選手権の曲も、森山直太朗がゴスペル調で作っています。
2021.10.07
CHAIは、2018年の1stアルバムで、いきなり世界デビューしている。わたしぐらいの世代から見ると、初代ミカバンドや少年ナイフのような、日本生まれの女子パンクバンドって感じです。あまりよく知らなかったけど、最近、萌歌の影響で聴くようになりました。◇CHAIは、かつてのザ・ピーナッツと同様に、双子のデュオを中心にした4人組ユニットですが、興味深いのは、どちらも名古屋出身だってこと。八神純子や緑黄色社会もそうだけど、名古屋には歌の上手い女性が多くて、しかも、世界に進出している人が多い。◇名古屋といえば、派手めの格好をした人たちが、「みゃー」とか「にゃー」とか言いながら、町の喫茶店でモーニングセットを食べるという、そんな八丁味噌と味噌カツのイメージですが、もともと名古屋のある愛知県は、駿府のある静岡県にならぶ徳川のお膝元でもあり、世界のトヨタの拠点でもあり、イチローや藤井聡太のような天才が出現したり、武井咲のような絶世の美女が出現するだけでなく、朝ドラの「純情きらり」や「エール」を見ても分かるように、早くからクラシックやジャズの文化が育った場所でもあるので、きっとそこには独自の音楽も発展しているのだと思います。ちなみに、愛知のトヨタと、静岡のヤマハは、飛行機から自動車、バイク、楽器に至るまで、木製機械製作を発端にした世界産業を作りあげましたが、そこにもやはり徳川文化を土台にしたバックボーンがある。ヤマハのある静岡からは上原ひろみという天才も出現しています。◇しばしば日本のロック文化は、首都圏や関西圏のみならず、博多、広島、札幌などにも独自の土壌があるといわれます。それと同じように、おそらく名古屋を中心とする東海地域にも、きっと独自の音楽文化の土壌があるのだろうと思う。CHAIの音楽からは、そんなことを感じます。ちなみにCHAIのイメージカラーは、いかにも "名古屋っぽい!" と思わせるような "どピンク" です。《新旧の天才双子デュオ》
2021.09.26
細田守の「竜とそばかすの姫」に登場するアバターは、従来のイメージとはかなり違っています。その最大の特徴は、ユーザーの生体情報をスキャンし、それを仮想空間にアップロードする …ということ。しかし、細田守は、そのことの意味を極限まで突き詰めていないように見える。◇従来のボディシェアリングはたんに仮想空間の身体(アバター)を所有するということです。しかし、「竜とそばかすの姫」におけるボディシェアの技術では、まず自分の現実の身体(生体情報)を、仮想空間にアップロードする、ということになっている。ヴァーチャルに再構成されたアバターとしての身体は、生身の体と連動した状態にも出来るでしょうが、理論的には、本体から切り離して一人歩きさせることも出来るし、不特定多数の人々に共有させることも出来るはずです。ちなみに、スキャンされる「生体情報」とは、たんに身体の姿形だけでなく、運動能力や知能、そして動作や思考や感情のパターンも含むはずです。◇おそらく、そうした生体情報は「商品」になって、需要に応じて無限に複製されるでしょうし、必要に応じて無限に整形されることになるでしょう。人々は、他人の身体や、恋人の身体や、アイドルの身体や、死者の身体や、自分の過去の身体や、さらには未来の身体までも、自由に所有し、書き換え、体験し尽くすことが出来る。身体的な経験の比重が仮想空間のほうに傾き、自分自身のバリエーションが無限に拡散し、それが不特定多数の人々に共有されていくなかで、もはや本物と偽物の区別など意味をなさなくなり、本物の意味がなくなれば、そのプライバシーや匿名性を守ることの意味も消失するはずです。それが、生体情報を共有しあうボディシェアの究極の世界だと思います。
2021.09.04
NHK「メロディーは時をこえて〜歌いつぐ筒美京平の世界〜」を見ました。今年の3月にBSで放送された番組だったようです。この中で、武部聡志が、「卒業」は「木綿のハンカチーフ」の前日譚(=エピソード0)として作られた。…という趣旨のことを言ってました。とはいえ、もともと武部の発言には記憶ちがいも多いので、あまり額面どおりには受け取れないって気もするし、この「木綿」と「卒業」の関係については、すでに音楽惑星さんのサイトで私見を話したのですが、その考えはいまでも変わりません。◇まあ、こればっかりは松本隆に聞いてみなきゃ分かりませんが、かりに「木綿」の前日譚を作るのが当初のコンセプトだったとしても、70年代の歌謡曲の前日譚が、同じ主人公のまま80年代に作られるなんてことは、ありえないと思う。なぜなら、時代が違うからです。とりわけ70年代の女性像と80年代の女性像とでは、大きな変化がありました。その違いを反映させないまま歌詞を作るなんてあり得ない。◇70年代の太田裕美、すなわち「木綿のハンカチーフ」の主人公は、純朴で、慎ましくて、 男性にも、そして自分自身に強いられた運命にも、なかなか逆らうことができないような弱い女性です。失恋しても、せいぜいハンカチを送ってもらって、人知れず健気に泣くしかない。おそらく彼女にとっては、地元の誰かとお見合いして結婚するのが残された道だったと思う。◇しかし、80年代の斉藤由貴、すなわち「卒業」の主人公は、もっと我が強くて、物事をクールに悟っています。実際、80年代ともなれば、たとえ地方に残った女子であっても、短大に進んでから就職することも出来たし、みずからの人生を選択して切り開く可能性はずっと増えていた。たしかに男性は男性で、東京の都会で楽しく暮らしたかもしれないけど、女性だって負けず劣らず、よくもわるくも都会化してしまった地方の町で、それなりの享楽的な生活を楽しむことも出来たのです。ただハンカチをもらって泣いているだけではないし、涙こらえて着てももらえぬセーターを編んでるだけではない。それが80年代という世相であり、その時代を生きようとする女性のあり方だったと思います。◇ちなみに、今回の番組に参加したのは、武部聡志、松尾潔、亀田誠治、本間昭光のアレンジャー4人。まあ、関ジャムに出てくるような面子なので、「筒美先生は仕事が早かった」「仕事量も多かった」「イントロが素晴らしかった」「歌手に合わせた曲作りをしていた」…といった職人的な視点からの議論が中心になっていて、それほどの目新しい話はありませんでした。唯一、亀田誠治だけが、筒美の「プロデューサー」としての側面に言及しようとしましたが、そのテーマをこの4人で深めるには、ちょっと限界がありました。◇今後、筒美京平を語る場合には、たんに作・編曲家としての面だけではなく、タレントを育成した「プロデューサー」の面から捉えなければならないし、もっといえば、南沙織と郷ひろみ以降の、すなわち70年代以降の「アイドル文化」そのものを仕掛けた、酒井政利、ジャニー喜多川にならぶ黒幕としての側面から、つまりは広く文化史的な側面から捉えていかなければなりません。奇しくも、現在のような昭和歌謡リバイバルのさなか、ジャニー喜多川は2019年に、筒美京平は2020年に、酒井政利は2021年に、相次いで亡くなっています。彼らはたんに音楽を変えただけでなく、日本のメディア文化と大衆文化それ自体を大きく変えたのであり、日本社会に生きる男性像や女性像までをも確信犯的に変えたのです。日本人の生き方を変えてしまったとさえ言える。◇また、筒美京平を作・編曲家として語る場合にも、たんにロックやソウルとの関係を語るだけでなく、まずはジャズとの関係から掘り起こさなければなりません。その意味では、服部良一や、中村八大や、宮川泰の後継に位置しているはずです。そのうえで、リズムやメロディやサウンドを筒美がどう刷新したのか、ようやく冷静に議論できるようになるはずですが、残念ながら、それについて語れる人材は、いまの音楽業界にはほとんどいないと言っていい。なぜなら、ジャズの素養が本質的に欠けているからです。しかし、そのことを冷静に捉えないと、またしても無根拠な「神話」ばかりが量産されてしまいます。昭和歌謡は、けっして筒美からはじまったわけではありません。司会:柘植恵水アナウンサー出演:武部聡志/松尾潔/亀田誠治/本間昭光亀田:この京平先生と松本隆先生のコンビが生み出す名曲の数々って、何かね、どこかでこうお互い曲と曲がバトンを渡し合ってるような感じがあって、これ「卒業」とかも繋がってませんか?武部:「卒業」は「木綿のハンカチーフ」の続編というか、「木綿のハンカチーフ」の主人公たちが卒業するシーンを描いてるんです。柘植:えっ?そうなんですか?武部:その学生時代どうだったかっていう。松尾:だから「エピソードゼロ」みたいな。武部:そう。…が「卒業」なんです。柘植:つながって…武部:それを作ろうって隆さんが思って作った曲なんで。柘植:へえ~。ちょっと「卒業」も強気な女の子じゃないですけども、「卒業式で泣かないわ」みたいなこう。「さみしい」を前面に出す感じではない。武部:その後「木綿のハンカチーフ」のストーリーになるんですね。
2021.08.22
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