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「大 変 更」 (ちょっと跳んでしまいました。初めての方は前回、2月20日の記事を読んでから、こちらを読まれることをお勧めします) < 不完全な選択 > 「でしょ!おかげで私達の平均寿命は200歳なの」「そいつはすごい!」「驚くのは、まだ早いわよ。脳と脊髄以外の臓器、骨格、筋肉、皮膚を全て人工化して、全身を義体化すれば500年は生きてゆける。ただし、費用は相当なものになるわ。定期的なメンテナンスも必要だから、そうね・・・フェラーリを買えるほどの収入がないと無理ね」「フェラーリか・・・僕にはとても無理だね・・・!まてよ、さっき君は『全身を義体化』って言ったよね、それってサイボーグのことかい?」「そう、地球では、そう呼んでるわね・・・まだ実現してないけれど」「それにしても、すごいねえ、500年も生き続けれるって・・・君の星の住人たちは、なんて幸せなんだ・・・」アンは、軽く頭を振って・・・それからやや声のトーンを落として言った。「それが、そうでもないのよ・・・事故や未知のウィルスに侵されて、脳に致命的なダメージを受けた場合、その人を蘇生させることは、さすがに無理なのよ・・・だから、長生きをすればするほど、大切な人を失う可能性も増える・・・それが理由で、結局メンテナンスを止めてしまう人も少なくないの・・・淋しさに耐えられなくなるのでしょうね・・・」「なるほど・・・分かるような気がするよ」
2009.03.08
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「大 変 更」 <スーパーカプセル> タカシはその先を口にすることができなくなった。アンは、10年前までのタカシの東京での自由気ままな暮らしぶりを知っている。若き日の活き活きとした自分を知っている女性、それも単なる友達ではなく、大人の男と女として深い関係を結んだ女性に、年を重ね外見も暮らしぶりも随分と地味になってしまった。そんな今の自分を見られてしまった。それは辛いことである。そんなタカシの心情を見抜けないアンではなかった。「あれから、いろいろあったのね・タカシ。久しぶりに会ったとき、ちょっぴり老けたなって・・・正直言ってそう感じたわ」「もう若くはないよ・・・」 視線をアンの顔から足元に落として、つぶやくようにタカシはそう言った。「時々、このカプセルベッドで休めばいいわ」アンは、さきほど二人だけの世界を支えてくれた舞台を指差しながらそう言った。何のことだか分からないといった表情のタカシにアンが説明を加えた。「どう?私を見て・・・10年前と比べて・・・もちろん、身長とかは変化しているけど、肌を見てみて・・・あ!さっき見られていたんだった・・・」アンはその白い肌を赤く染めて俯いた。「ああ、本当に綺麗だったよ・・・」「ありがとう・・・でも、この話をはじめたのは私のことを自慢したかったからじゃなくて、このカプセルベッドで休むとね、身体中の細胞が活性化されてね、お化粧しなくてもとても若々しくいられるのよ。タカシも1日に1時間でもいいからここで休むようにすれば、また昔のような体形を取り戻せるわよ」「そいつはいいね!」タカシは目を輝かせてそう言った。
2009.02.20
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☆ペットは最後まで付き合って!! 「大 変 更」 <アン> つづき 2008.9.28 とは言ったものの、タカシはまだ胸の内で動揺を隠せないでいる。無理もない。彼の知っているアンはまだ11歳を過ぎたばかりで、当然、今よりも脊が低く顔も幼さを残していた。それに、胸のふくらみも目立っては無かった。 タカシはいつの間にか自分の目線がまたアンの胸に向いていることに気付くと、慌てて彼女の目に笑顔を送った。 「で、マークは?君のお父さんはどこにいるんだい?」 「寒いわ、中にいれてくれないの?」 「あ!ごめん、さあ入って、そこに腰かけて」タカシはアンを警備室の中に招き入れながら、一番奥の壁際に置いてある、ソファ-ベッドを指さした。 アンはタカシがコーヒーを淹れてる間、休むことなく彼の近況を聞きだそうと話かけ続けた。 タカシが自ら淹れたコーヒーを運んで来た。一つをアンに渡し、彼自身は折りたたみイスを開いてアンの前に置いて腰を下ろす 「ところでアン、一体なにがあったんだい?1人でアメリカから俺に会いにやって来るなんて・・・」 タカシの言葉はアンに遮られた。 「わたし、今日はアメリカから来たんじゃないのよ。詳しい話は『シップ』の中でするから一緒に来て」 タカシが目を白黒させたのは今日で二回目のこと。 「シップって何?君は何を言ってるんだ?」
2008.09.28
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☆ペットは最後まで付き合って!! 「大 変 更」 < アン > 2008.9.26 窓の外にいたのは、若く綺麗な女性、白人?おまけに男性なら誰でも目を奪われてしまうに違いない。 薄くて躰にフィットする布地に包まれた肢体。タカシは不覚にも、彼女の顔より、その素晴らしい肢体に視線を走らせたが、慌てて顔に目を転じた。 目の前で若い白人女性が、嬉しくてたまらないといった風に微笑んでいる。 この娘は!彼は思い出した。若き頃の東京での日々を!「 アン!」 間違いない。窓の外の女性はアンだった。タカシは躊躇することなく警備室のドアを開けた。 「タカシ!」彼女もまた、懐かしさを堪えきれなくなったのか、名前を呼びながら、小走りにドアへ急いだ。二人は、しっかりとハグ、そしてタカシは目を白黒させてアンのキスを受けた。 長いキスが終わり、二人はお互いの顔を見合った。彼女はタカシのとまどいを理解した。 「ごめんなさい!でも久しぶりにタカシの顔を見たら何だか私・・・」 久しぶりに聞く流暢な日本語。少しハスキーな声も昔とほとんど同じ。ほとんどとは、彼女の声が大人っぽくなったことを意味する。 「いいんだよ、本当に久し振りだものね」
2008.09.26
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☆ペットは最後まで付き合って!! 「 大 変 更 」 < 訪問者 > つづき 2008.9.25 謎の美女は下界を見渡して、人の有無を確かめてから下降を始めた。 周囲に目を配りながら・・・やがて彼女は殆んど音をたてることなく、着地に成功した。彼女は一階の明かりの灯った窓にむかって歩き始めた。その窓の横にはドアがあり、その表には「警備室」と書かれてある。 ということは、その扉の向こうには当然警備員がいるはずである。そんなところへ若い女性が、しかもこんな夜に一体なんの用があって訪れようとしているのか? このデパートは規模が小さいからか、警備員はたった一人きりだった。何か非常事態が起きた時、1人では間に合わないことも考えられるが、解っていても人件費を考えると、仕方ないことなのか・・・ その一人きりの警備員は今、狭い警備室のデスクに向かって、たった今終えたばかりの店内・店外巡回点検の異常の有無を日誌に書き込んでいるところである。 彼の名前は秋山高志(以後、タカシとする)36歳、三つ年下の妻、明子と二人の子供を持つ平凡な男である。その彼の身の上に今、極めて非日常的な事件が起きようとしている。 窓ガラスを叩く音がした。大きな音ではなかったが突然のことなので彼は驚いて顔を上げた。カーテンを閉めていたので外は見えなかったが来訪者がいるのは確実だった。 少しの不安に打ち勝って、彼は目の前のカーテンを引き開けた。
2008.09.25
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「大 変 更」 < 訪問者 > つづき 2008.9.24 不意にその黒い塊の下から切り絵のように見える何かが降りて来た。それは屋上の床面にふわりと降り立つと、ふいに動き始めた。頭部が上を向き、黒い塊にむかって何かを伝えているように見える。 黒い塊は唐突に上昇を始めた。切り絵はまだ上を向いたままである。だが、今まで黒い物体の影に隠れていて、ぼんやりとしか見えていなかった頭部がはっきりと見えた。 短めだが夜目にも鮮やかな金髪、前方に視線を向けたその瞳は青く澄み切っている。もはや切り絵とは云えない。絶世の美女が現れた。 彼女が辺りを見回し終えたとき、例の黒い物体は急上昇し、雨雲の中に消えてしまった。動き始めた9頭身、スレンダーだが柔らかそうなボディ、そして豊かな胸。 十中八九白い肌をしているようだ。 首から上と手首から先以外は黒く薄い、身体にフィットした生地に包まれている。 謎の美女は、屋上のフェンス際まで歩いて行き、そこで立ち止まると覗きこむようにして階下を見た。 彼女は一階の従業員通用口付近に窓灯りを見つけると、嬉しそうに白い歯を見せた。 まるでそこに誰がいるのか知っている・・・そんな様子である。 次に彼女は地球人類の理解を超えた動きを見せた。 彼女の細く長い指先が、細く、くびれて格好の良いウエストに締めたベルトのバックル状の部分に触れた。するとそれは小さな金属音を立てた。と同時に彼女の身体がフワリと浮いたのだ。 そして足のつま先が屋上のフェンスより少しだけ高い位置で停止し、そのままの姿勢で今度は前方に移動を始めた。 約3秒後、ついに彼女の身体は屋上の外に出た。つまり、コンクリートの地面から約20メートルの上空に浮いたまま停止したのである。 つづく
2008.09.24
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「柚子、柚子、・・柚子!」 柚子はぼくの手にしがみついて、目をとろんとさせている。 「ずるいよ浩二・・・三度も続けて私の名前を呼ぶなんて・・・こんな所で私をどうしようっていうの?」 「やっぱりな!・・・」 「何?何がやっぱりなの?」 「きみは、ぼくと反対の願い事をした!・・・そうだろ?」「えへへ」柚子がこんなふうに笑うのは白状したのと同じことだ。 「だって・・・あんな気持ちいいこと、止めるのもったいないもん!」 「・・・・・・・・・」 「・・・ねえ、・・・もういちど、名前を呼んで・・・」 「もう一度って言いながら、何度も呼ばせるんだろ?」ぼくは苦笑いしながら、そう言った。柚子はちょっとだけ考えてから、 「じゃあ、お母さんの前では許してあげるから・・・ね」 彼女はぼくの前に回りこみ、両手と両脚を広げた。 「通せんぼかい?今度は」柚子は笑って大きく頷いた。 こりゃあだめだ・・・あ、雪も降って来た。 柚子の味方をする気か? 「ほらほら、雪が降って来たわよ!私に風邪を引かせる気?」 「困った子だねェ、君は・・・」うん、うん。柚子はただ頷くだけ・・・ こりゃあ強力な通せんぼだ、降参するしかないな・・・一息大きく吸って、心をこめて・・・君の名を呼ぼう! 「大好きだよ、柚子」おまけ付きだ、どうだい?柚子、参ったか? おっと、ちょっと効き過ぎたみたいだ。ヨタヨタしながらぼくに差し出した柚子の手をしっかりつかみ、抱きよせた。 「ごめん、ごめん。効き過ぎたようだね」 「ねェ、浩二、嬉しいとこんなに身体が震えるものなの?」 「ぼくの声は、君にとって特別なのかな?」 「そうに決まってる・・・」もう一度だけ柚子を抱きしめてから、ぼくらは雪の中を歩き始めた。柚子を産んでくれた、大切な母親の待つ家に向かって・・・・・ ☆ お・わ・り ☆ また、いつか、どこかで会えますように・・・・・・ ☆アクセスカウント20000を踏んでくれた方にオリジナルの散文詩を贈らせていただきます。ただし、いつもの通り守っていただく条件があります。1、お友達、もしくはこれからお気に入りの登録をしてくださる方2、携帯ではなく、PCから来られる方3、お贈りした散文詩を近日中にご自分のブログ上で公開してくださる方上記3項目を必ず守ってくださる方に限定させていただきます。どうぞ、狙ってみてくださいね(^-^)
2008.09.02
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成田空港、12月20日。久しぶりに再会した浩二に柚子は走り寄り、首に手を廻して彼を抱き締めた。そして、そのまま周囲の人目もはばからず、泣きながら訴えた。 「会いたかった!浩二!会いたかったよー!」 浩二は照れながらも、柚子の耳元で囁いた。 「分かったよ、分かったからもう泣かないで」 「いいえ!分かってないわ!・・・今から分からせてあげる・・一緒に来て!」 浩二は正直言って?だったが、こうなったら柚子は絶対聞き入れないことだけは分かっていた。 その足で柚子と墓地へ行き、彼女の父親の墓前に約束をした。 「かならず、柚子さんを幸せにします・・・」 そして、柚子に手を引かれあの墓碑の前へ・・・「木野家・・・まさか、これって・・・」浩二はすぐそばに寄り添って立っている柚子の顔を覗き込むようにしながら「これは・・・これは僕らが見たあの夢に出てくる名前・・・」柚子は何も言わず大きく頷く。実はこの二人、中3の冬に例の公園で初めてのキスの後、お互いが見た不思議な夢について告白していた。もっとも、当時は「不思議な夢を見たものだ」と笑いながら「偶然だね」で済ませていたのだが・・・呆然として立ちつくす浩二、柚子は彼にぴたりと身を寄せながら「浩二、あれを見て」そう言って墓碑の下に設けられた墓誌を指差した。浩二はそれを声に出して読みはじめた。「木野浩二・・・木野柚子・・・」浩二もまた、あの時の柚子と同じように、目の前の墓誌に刻まれた名前を見て、衝撃のあまり目を大きく見開いたまま、しばらくは瞬きすら出来ないでいた。 長い時間ではなかったが、浩二の身体が小刻みに震えた。それは柚子にもはっきりと伝わった。それから・・・二人はどちらからとも無く身体の向きを変え、見つめ合った。 浩二から先に、柚子がそれに続き、輪唱するように言った。 「思い出せなかった、だけなんだ」 次は同時に 「ごめんね・・」 歓喜に涙しながらも、満面に笑みを浮かべた二人はお互いをしっかりと抱きしめた。 「ありがとう・・」 と浩二が先に言い 「私はその何倍もありがとう・・」 喜びに震える声で、柚子はそう言った。 エピローグへ・・・
2008.07.30
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目覚めた後、柚子はどうにかして木野浩二の遺族を探そうとして秋子と真紀子を困らせた。 「夢の中で見たと言ったって、誰が信じてくれるの?たとえ遺族がいらして見つけられたとしても・・・頭がおかしいと思われるのがおちよ!」と母、秋子が言い。 「そうよ、柚子・・・・あなたの想いは想像できるわ・・・でも、いい?柚子?よく聞いて・・・会えるのよ。今を生きてる浩二君に!・・・」 この時、柚子はやっと親友の顔を振り返り直視した。 「会える・・・今を生きてる・・・浩二に・・・会えるのね?・・・・・」 「そうよ!会えるのよ、もう直ぐにね!そしたらあの場所へ二人で行って、また会えた喜びを噛み締めればいいじゃない!・・・・・それだけでも贅沢なことなのに・・・それ以上なにを望むの?」 柚子は視線を落とした。 「我がままよね・・・母が居て、あなたという親友が居て、・・・時を越えて会いに来てくれる人が居る・・・・・分かったわ・・・・・いいえ、悪かったわ困らせちゃって」 柚子は親友を見上げ、母を振り返った。 「お母さん、私・・・お母さんは一人だけでいい・・・」 「柚子、分かってくれたのね!」 これで何度めだろう?お父さんが亡くなってから・・・お母さんと抱き合うって・・・
2008.07.29
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「木野家之碑」と刻んである。今度は墓誌に目を移す。柚子は大きく目を見開いて瞬きすら出来なくなった。 名前を見つけたのだ。 「木野浩二」そして直ぐ隣に「木野柚子」・・・・・・ (夢で・・・夢の中で見た名前・・・何度も見た、あの名前)享年を探す・・・同じ歳だった。(間違いないわ!この二人・・・私と浩二の・・・昔の名前!) 柚子は視界がぼやけてゆくのを感じた・・・・・「柚子!どうしたの?しっかりして!!」突然の出来事に驚いて柚子の名前を呼び続ける母の、声を聞いたような気がした・・・ (やはり、時代が違ってた・・・浩二、わたしの唯ひとりの人・・・思い出せなかった・・・ごめんなさぃ・・・) 柚子は薄れゆく意識の中で、浩二を想い、そして詫びた。そんな必要など無いのに・・・しかしながら、人とは嬉しすぎても衝撃を受けるものなのか・・・
2008.07.28
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翌日、朝から柚子は上機嫌で、こまめに家事を手伝った。いつもなら母親にまかせっきりの朝食のベーコン・エッグも自分で焼き、手伝おうとする秋子に「いいから、今日は私がやるからお母さんはテレビでも見てて」「まあ、どうした風の吹き回し?・・・今日はお父さんのお墓参りに行くっていうのに、雨でも降らなければいいけど・・・」秋子はそう言ってから、ソファに腰を沈めリモコンでテレビの電源を入れた。『今日は、一日中良いお天気に恵まれ・・・・』と、天気予報が報せている。あはは、と柚子の笑い声。秋子はなんだかちょっと拗ねてみたくなり「テレビまで柚子の味方してる・・・浩二君効果は絶大ね」えへへ、とキッチンから柚子の笑い声。秋子は、敵わないわ、と言いたげに頭を振った。 朝食の後、親子そろって周一の墓参に出かけた。今日はいつもと違う墓参だ。「あなた、柚子がね・・・あの浩二君と結婚することになったのよ・・・昨日、浩二君から手紙でプロポーズされたんだって・・・あなた・・・二人を見守ってあげてね」秋子の後ろで手を合わせていた柚子だったが、母の言葉を嬉しそうに聞き終えてから、彼女の直ぐ横に腰を下ろして口を開いた。 「お父さん、安心して、きっと幸せになるから・・・浩二君がね・・・お母さんと一緒に住もうって言ってくれたの。彼、20日に帰ってくるって。そしたら二人でまた会いにきます・・・」父の墓碑に向かって、柚子はいつものように、それは元気だった父に「バイ・バイ」してるように笑顔で手を振った。 それは、その直後に起きた。 いつものように、いつもの通路を通って墓碑の間を歩いていたのに・・・ふと柚子は、ある一つの墓碑に目を止めた。彼女は吸い寄せられるようにその墓碑に近づいて行く。秋子の「どうしたの?」と言う声も耳に届かなかったようだ。柚子は胸が苦しくなるのを感じた。墓碑を見直す。
2008.07.26
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浩二からの手紙 (2) 12月4日。明日は柚子の父、沢田周一の命日にあたる。たまたま仕事がオフで家にいた柚子に一通の手紙が届いた。エア・メイルだった。見覚えのある・・・懐かしい字だった・・・中学生のころ、柚子の苦手な英語を教えてくれたあの人の頼もしい筆跡だった。 「浩二!」郵便配達員を乗せたバイクのエンジン音が遠ざかってゆく。柚子は外部に面したドアを閉めると、浩二からの手紙を両手で大事そうに胸の前に抱えたまま一気に階段を駆け上がった。 玄関のドアを開けると、目の前に母親の秋子が立っていた。 「どうしたの?柚子!階段を走って上がったりして・・・下のクリニックまで響いたわよ、きっと」柚子は首をすくめて、舌を出した。 「ごめんなさい!つい我を忘れちゃって・・・」と、彼女は母、秋子に見えるように手紙を持った手を差し出した。 「もしかして!それは・・・・・」母親の心の内を察した柚子は、ローマ字で書かれた差出人の名前を指でなぞった。秋子の目が大きく見開かれた。 「浩二君?」 「当たり!!」 満面の笑みを秋子に見せたあと、柚子は手紙にキスをして自分の部屋に駆け込んだ。ドン!勢い良くドアの閉まる音がした。娘の後姿を見送って、嬉し涙を浮かべる秋子。母親にはうしろからでも、我が子の心情を読み取る力がある。 「まったく、・・・さっき言ったばかりなのに、走らないでって・・・・・でも、今日は特別に許してあげる・・・良かったね柚子。あなたのだんなさまになる人でしょ、浩二君は・・・・・?あ!って言うことは、私に新しく息子が出来るってことじゃない!?・・・・・いいわ、いいわ!院長先生には後で私が代わりに謝っといてあげる!気の済むまでゆっくり読んでらっしゃい」 すでに、柚子は部屋の中にいて姿は見えないのだが、母は壁越しに娘の喜ぶ姿を想い描き、聞こえないのを承知で、祝福の言葉を送っている。
2008.07.24
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柚子は半ば呆然として聞き入った。無理もない・・・一方、真紀子は今まで密かに抱いていた生命の不思議について、同じ医師仲間で何度も激論を交わしてきたもののいまひとつ納得できなかった、空にかかる雲のような疑問が我流ではあるが腑に落ちた感じがして、悦に入ったように上気した顔をして、空間の一点を見つめていた。 そしてゆっくりと柚子へ向き直って言った。「柚子、あなたと浩二君は・・・きっとそんな自由な旅の中で、再会の約束をしたんじゃないかしら?私にはそう思えて仕方がないの」それで分かった!柚子にも今の真紀子のたった一言ですべてが見えた気がしたのである。「真紀子・・・・・」そこまで言うのが精一杯だった。柚子は泣いた。うれしくて嬉しくて・・・・・真紀子の膝に顔をうずめて泣きながら「ありがとう!」となんども何度もそう言って感謝しながら、また泣いた。真紀子は何も言わず、そっと柚子の小刻みに震える背中を優しくなでてやった。「よかったね、柚子。謎が解けたね、少なくとも私たちの中では正解だと思うわ」やっと顔を上げた柚子は涙を拭いながら言った。「誰がなんと言おうとも、私は真紀子の言う事、正しいと思う。ほんとよ。ありがとう真紀子・・・」柚子は真紀子の両手を握り、彼女の瞳に心からの謝意をこめた想いを送った。そして、顔だけ例の公園の木の先端が見えるあの窓に向けて・・・今はアメリカにいる浩二の面影を心の中に納まりきれなくなるほど、大きく、鮮明に想い描き、胸の中で抱きしめた。☆浩二と柚子、二人にぴったりの曲だと思います。 http://jp.youtube.com/watch?v=8e53od0oK04
2008.07.21
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アインシュタインの「相対性理論」は時間、空間、エネルギーの本質と関係を示したものであるが、真紀子がその理論の中に見出だしたのは、浩二と柚子の不思議な再会の謎(想像の域を出ないが)を解く鍵となるもので、「この宇宙のエネルギーの総量は一定である」また「質量というのもエネルギーの一種だ」という事。さらにそれを裏付け、量子力学とを統一する「量子宇宙論」の試みとして評価されているホーキング博士の「無境界境界条件」(宇宙は実時間の時空と虚時間の時空を交互にたどり、実時間時空での消滅は、虚時間時空での誕生というように、誕生と消滅をくり返すというイメージ)←ここが大切なところ。 もう一つの鍵は人体の体重が死の直後、瞬時にして軽くなる、ということ。これは日本では未だほとんど知られて無いが、アメリカなどでは相当数の臨床例が報告されているという。質量もエネルギーの一種である。宇宙全体のエネルギーが一定であるとすれば、遺体から減った質量分のエネルギーが何処かに生まれていなくてはおかしいことになる。そして真紀子が得た答えは・・・・・ 「記憶は死なない」・・・・・遺体から減った質量分のエネルギーに、もし知性があったら、もし、生前の記憶があったとしたら・・・・・まさしく、・・・「記憶は死なない」何しろ、エネルギーなのだから、決まった形は必要ない。だから壊れない。 「無境界境界条件」の中で、生死を果てしなく繰返す宇宙と共に居られる。時々、入れ物が替わるだけだ。ほとんどの人が過去を忘れるけれど・・・想いは残る。これだけは形がないだけに壊れない。これ以上安心できる事はない。 「だからこそ、尊いのだ!」
2008.07.20
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国立天文台天体ギャラリーより , 宇宙神秘の美 「渦巻き銀河M63」深遠なる大宇宙のほんの一部ですが、何千億個もの星たちが集まって形成されています。どんな宝石より美しい!夏の暑さも束の間忘れて見とれてしまいました。 小説「もういちど名前を呼んで」 真紀子は、A4のコピー用紙にプリントされた文章を目で追っていて、柚子がアンダーラインを引き終えると頷きながら言った。「そう、それでいいわ・・・このコピーは柚子が持ってて。裏返しにして、その辺に置いとけばいいわ。後で説明する時、いまのが一番上になるように・・・」柚子は言われたとおり、コピーを裏返して膝の横に置いた。 「じゃあ、次はホーキング博士の量子宇宙論ね」 柚子は面食らっていた。アインシュタイン博士の次がホーキング博士である。この二人はどちらも20世紀を代表する偉大な物理学者である。いかに柚子が理数系に弱いと言っても、この二人の名前は聞いた事がある。 そして親友の真紀子がこれから、この二人の偉大な物理学者の難解(絶対そうに違いない)な理論を使って柚子と浩二の謎を解き明かすと言った。(本当に私に理解できるの?)なんだか柚子は咽の渇きを覚えた。 「真紀子、悪い!何か飲んできていい?咽がカラカラなの・・・」「緊張してるのね・・・いいわ、私にも何か頂戴」「野菜ジュースか牛乳だけど・・・あ、あと天然水があったと思うけど」「じゃあ、私は天然水をもらうわ・・・無かったら牛乳ね」「分かった、すぐだから・・・」 だいたい2分が過ぎた頃、柚子が戻って来た。右手に天然水のプラスチックボトルを下げ、左手にはグラスが2個、指が長いとこんな時、便利だ。 「あら、今日は野菜ジュースじゃないのね?」真紀子の問いに笑顔を返しながら、柚子は言う。「グラス、取って」柚子は返事を表情で返すのが得意で、真紀子はもうすっかり慣れてしまっている。真紀子のグラスに天然水を注いでやると、柚子は自分のグラスを満たし、2度、飲み干した。 「さあ、再開よ!ここからは一気にいくわよ、柚子。いい!?」「O・K!どんどん・・・・・お手柔らかにね・・・」「何、それ!・・・ま、いいわ。あなたの発言にいちいち疑問符をつけてたら、終わらないから、気にせず進めちゃう」「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」「ホーキングは・・・・・ここと、それから・・・・・ここね、あ、ここも引いといて」 柚子がアンダーラインを引き終わると、即、真紀子の講義が始まった。彼女の講義にタイトルを付けるとしたら、それは 「記憶は死なない・・・・・いのちは一種のエネルギー」・・・であった。
2008.07.19
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「先ず、初めはアインシュタインね。彼は『この宇宙のエネルギーの総量は一定だ』と言ってる。それに質量というのも『エネルギーの一種だ』そういうふうに言ってるわね・・・まず、そこにアンダーラインを引いて・・・」「えっと・・ここ?」「そう、それから・・・ここも」 二人は今や、親友でありながら厳しくも優しい教師(真紀子)と苦手な教科に必死に取り組む生徒(柚子)でもある。柚子の部屋は次第に熱を帯びてきたが・・・ 外は風も穏やかで、ひんやりと静かだった。もうすぐ12月だ・・・一歩外に出ると、東へ伸びる道の向こうには新宿の高層ビル群が見える。あの下には眠らない街がある。昼間ほどではないだろうが、喧騒はまだ渦巻いているはず。それにしては静かだ・・・やはり、都庁や立ち並ぶ高層ビル、それに加えて中央公園の木々や十二社通り沿いに建つビルがあの街の喧騒をはね返してくれているのだろうか? では、南側はどうだろう・・・甲州街道があり、その上には首都高が走っている。そこに生じる車の騒音もまた、街道沿いに建ち並ぶビルたちがはね返してくれているように、思える。何かに集中していれば 、気にならない音だ。 そういう訳だから、今の柚子の耳に外の音はまったく届いていないと言える。ただ、時折り吹く風が、浩二と柚子を繋ぐあの思い出の木立の先端を僅かに揺らして通るだけだ。もっとも、それさえも今の柚子には見えていないのだが・・・
2008.07.17
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真紀子は深呼吸をした。「いいこと、柚子?物理学の基礎の細かい事,あなたに言っても混乱を招くだけだろうから、省略するわよ」 「・・・そうね、そのほうがいいと思う。私も・・・」「ごめんね、柚子。今日は言い辛いことも敢えて言わせてもらうわね。あなたも待てないだろうし、私だってちょっと興奮してる・・ううん!ちょっとどころじゃないわ!すごく興奮してる。早く、柚子に知ってもらいたい、私が解いた浩二君と柚子の謎を・・・!」 「私だって早く知りたい!!・・・それとさっき真紀子が言ってたこと、基礎を飛ばすってことは、真紀子の言葉をそのまま受け入れればいいってことよね!」「そうよ、偉いわ柚子。赤の他人なら、洗脳されてるみたいで嫌でしょうけど、私と柚子の間で、そんな心配は要らないわよね?」「当たり前じゃない!さあ、始めて!」 真紀子は大きく頷くと、手にしてあったA4のコピーの中から、柚子に理解してもらうために最低限必要だと思われる資料を選び始めた。 「これは・・・要らない。・・・これも要らない。あとは・・・これは必要ね・・・それと・・・これも要る」 真紀子はパソコン用デスクの前で立ち上がると、向きを変えて進み、カーペットの真ん中あたりに膝を下ろした。そして、手にしていたコピーを彼女の思考に基づいてカーペットの上に並べた。それはつまり、柚子に分かり易いようにとの配慮だった。 二人は資料となるA4のコピーの前に座った。いよいよ、真紀子によって柚子と浩二の不思議な、そして贅沢な再会の種明かしが始まる・・・・・。
2008.07.16
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真紀子が振り返ったとき、柚子は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。口はへの字にゆがみ、大きな目からは玉のような涙が零れ落ち、への字にゆがんだ口の端を通って顎まで濡らして・・・どんなに綺麗な顔でも、こうなると浩二以外の人には見せられない。 真紀子はとっさに己の思いが誤まりであったことを悟った。そして猛反省した。 「ごめん!柚子!つい、ついよ!ほんとについ、なのよだから許して!泣かないで、ごめん、私ったら最低よね、ごめん!悪かったわ何でもするから、許して!」それでも気が済まない真紀子は柚子の肩を抱きしめた。 「ねえ、柚子!お願いだから許して!」今度は真紀子の方が泣きだした。それを確かめたかのように柚子は顔を上げ、ピタリ、と泣きやんだ。 「はい、もうそれくらいにして、顔を上げて」え!真紀子は顔を上げてみて、なんだかきつねに化かされたような気分になった。それほど柚子は、いつもの顔に戻っていた。 「柚子、あなたさっきのまさか・・・お芝居?」「まさか、・・・いいから早く浩二と私の謎を解いてみせて」真紀子はまだ、納得出来てない頭をほっといて 「あ、うん、・・・わかった」と言った。首を傾げながら。
2008.07.16
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柚子は、窓際に立って外を眺めていた。クリニックの裏手の家と、その隣の家の間。わずかなその空間に公園の木立の先端部分が見える。 柚子は、浩二と会えなくなってから毎晩欠かす事無く、この窓からあの空間を見ている。立ち疲れると椅子を運び、そこに座って眠くなるまで眺めている。そう、あの空間は柚子にとって決して忘れることの出来ない特別な出来事と繋がっている。 あの木の根元に立ち、浩二と柚子はファーストキスを交わした。(実は、前世に経験してるので正確には、二度目のファーストキスとなる)14歳の冬、寒いクリスマス・イブの夜だった。 「浩二・・・」柚子はいつものように浩二の名前を口にした。そうすると、浩二の顔をより鮮明に思い浮かべることが出来るのだそうである。 「彼の顔が近づいて来た時、私もやっぱり目を閉じてしまった。女の子は皆、こうなっちゃうんだろうな」そんなことを考えてしまったその時、浩二の息を感じて柚子は思わず目を開いてしまった! 「こんなに間近で浩二の顔・・・男の子にしては長い睫毛・・・」あ!柚子は浩二の唇を感じ、慌てて再び目を閉じた。 「口から心臓が飛び出してしまいませんように!!神様にそうお願いしたわ、あの時・・・」柚子の胸は、あの時を想い出し、高鳴る。 ・・・・・・・・・・・・「柚子!・・・柚子ってば!!」真紀子の大きな呼び声で柚子は我に返った。 ハッ!柚子は親友を振り返って言った。 「え!何?」まだ、両手で胸を押さえたまま大きな目をぱちぱちさせている。 「何、赤い顔してんの?・・・シャンパンのせいじゃ無いみたいね・・・いいから、こっちこっち」 いたずらを見つけられて呼びつけられた子供のように柚子は真紀子の言葉に従った。わざと真紀子の顔をみないようにして近づきながら柚子は言った。 「真紀子、あなた私の心の中を覗けるの?」 真紀子は近づいて来た柚子を顔だけ振り返り、あきれたように言った。 「あなたがその顔を赤らめるのって浩二君の事以外に何があるの?」「わあ、ひどい!それじゃあ、まるで私がよほど図太い神経の持ち主みたいじゃない!」「そうね、あんなに大好きだった浩二君と8年もの間会えないままなのよ、8年もよ!なのにあなたときたら涙ひとつこぼさずにいられるなんて!私だったらとても耐えられない・・・あ!・・・柚子?」
2008.07.15
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ほんの少しの滞在予定が大幅に伸びてしまいそうなので、浩二は一度帰国することにした。それを繰り返しているうちに、依頼品の量が増えすぎ、浩二も彼自身の専用電話が必要となったので、トーマスの家から自転車で10分のところにあるビルの中にオフィスを構えることになった。 「トーマス&コージー・コーポレーション」の誕生である。浩二は、柚子に内緒で何度か日本に帰国していた。会えば必ず別れられなくなる。浩二にはそうなる確信があった。だから、彼自身の収入で沢田親子を養える自信がつくまで、それまでは柚子には会わない。そう決めていたのだ。 そして気がついたら渡米から8年ほどの歳月が過ぎていた。今や、浩二のオフィスは若い女性秘書を雇っても充分余りある収入がある。一番の上客は伊藤氏のホームパーティで知り合った、ミュージシャンのジョン・ハンセンだ。日本では知られて無いが海外での彼に対する評価は極めて高い。ジョンがアメリカに移住したのは、彼の国の税金が極めて高いこともあった。アメリカの1流レーベルに移籍した彼の収入は鰻上りに上昇した。 その彼が6年前、唐突に浩二のオフィスを訪ねて来た、桐箱に入った一振りの刀を手に持っていて、それを鑑定して欲しい、手入れの必要があればそれも頼むと依頼してくれた。 約6ヶ月後、浩二からの報せを受けて嬉しそうにやって来たジョンはリペアされたお気に入りの刀が、高い評価を受ける価値ある物であることを英語で記した証明書を声に出して読み、刀身を眺めて溜め息をもらした。素晴らしい光沢を放っている。ジョンは感激の報酬として、何と5万ドルの小切手を浩二に手渡した。ニューヨークのサラリーマン、34歳の平均年収は約4万ドルだから、かなり気前のいい額と言える。(ちなみに、研磨師への報酬は大体20~30万円である。その報酬を日本に送金する時、浩二は忘れずにスモーク・サーモンを送る。あて先は研磨師を紹介してくれた例の美術館の館長さんである。) 「5万ドルは多すぎる」と言って返したって無駄だと、かねてから承知の浩二は、ジョンに対し素直に感謝の言葉を述べた。するとジョンは昔と変らない人懐こいあの笑顔を浮べて言った。 「俺とお前はMr.伊藤の所で知り合って、その時からいろんなことがあった。俺が失恋した時、お前は何も聞かず、朝まで陽気に飲み明かしてくれた・・・嬉しかったよ。俺はお前のこと、照れくさいけどベストフレンドだと・・・もういいだろ。とにかくそれは当然の報酬だ。それとオフィスをオープンした祝いだと思ってくれ」 浩二の目に光る物を見つけたジョンは、急に立ち上がると言った。「他にも刀に興味を持ってるやつが居る。いい出物があったら手に入れてやってくれないか?」「お安い御用だ。で予算は?」「俺がプレゼントしてやるんだ。そのつもりで居てくれ」「O・K!それじゃあ値段じゃなくて、ぼくの感覚で選ばせてもらうよ」 ジョンは返事の代わりに浩二の胸板を軽く叩き、笑顔で出て行った。ジョンがオフィスを出て行った後、浩二は急に人恋しくなるのを感じた。 それは、奇しくも柚子の部屋で真紀子がパソコンのキーボードをせわしなく叩いていた時だった。
2008.07.09
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翌日から、早速トーマスと浩二はリサーチを開始した。浩二は知らなかったが、トーマスは浩二が「明日、ロサンゼルス行きの便に乗る」と電話でしらせたその翌日から行動を開始していた。彼が歴史を教えている大学の学生たちの中には、トーマスの講義の中でも彼が一番熱を入れている日本史に関心を持つ者が少なくない。 そこでトーマスは、日本史の講義の中で浩二の事について触れておいた。「急な話だが、明日、日本から私の友人が訪ねて来る。彼は日本の刀や古民具についてかなり詳しい。どうだろう?明後日にでも彼を私の助手としてここへ連れてきていいかな?」半分以上の学生たちが同意した。「ありがとう。きっと面白い話が聞けると思うよ。楽しみにしていてくれ」 こうやって始まった浩二のアメリカでのリサーチはトーマスの全面的な協力のおかげで順調に進んだだけでなく、2週間のうちに2件の依頼をもらった。どちらも日本刀なので、未成年の浩二にはそれらを日本へ持ち帰るどころか所持することさえ出来ない。そこで美術品として空輸で一旦例の美術館へ送り、そこから刀匠や砥ぎ師の元へ届ける。鑑定の結果、研ぎ直せば鑑賞に耐え得る見込みがあれば、美術館館長を通じて。リペアに必要な時間と費用が浩二の元へ知らされる。 浩二はそれらの情報を依頼主に報せて、彼らのO・Kが取れたなら、すぐさま国際電話で美術館館長に報せて正式な依頼が成立する。 トーマスと浩二は大忙しとなった。それはトーマスにとっても、浩二にとっても予想外な好反応だった。半年後、リペアを終え、桐の箱に収められた刀がトーマスの家に届けられた。箱の中の刀は信じられないほどの光沢を取り戻し、新しく付けられ、砥ぎあげられた刃は恐ろしいほどの切れ味を予想させてくれる。おまけに、添えられた保存法の注意書きがあり、さらには美術館館長直筆の鑑定書がその刀の価値を飛躍的に高めた。遠い昔、日本で手に入れた時に比べると見違えるほど素晴らしい出来栄えに依頼主は大感激である。約束の費用とは別に「感謝の気持ちだ」と100ドル余分にくれたばかりか「わしの戦友にも日本刀を持ってる者がいる。こんなに立派に蘇るのなら、彼もきっと喜んでくれるはずだ」そう言って、浩二の目の前で、戦友と思しき方へ電話をかけて、アポイントを取ってくれた。
2008.07.08
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トーマスから何度も浩二の話を聞いていたからか・・・「さあ、早く入って!」トーマスとキスを交わしながら浩二を招き入れる。居間に入る。目に入ったのは大きな暖炉。(やっぱり、アメリカだ!)「まあ、大きなケースねえ。疲れたでしょ、2階の部屋へ運んでらっしゃいな」言われて浩二は思い出した。「ちょっと待って」キャリーケースを開け始めながら「お二人にお土産があるんです」「あら、なにかしら?」アンはトーマスと嬉しそうに顔を見合わせる。 浩二が取り出したのはTシャツが2枚、歌舞伎役者の絵をプリントしたもので、ミセス・アンのお気に入り。トーマスには「火消し半纏」である。東京にいた時、欲しがっていたのを浩二の父、祐司が憶えていた。Tシャツの絵柄は、これもトーマスがまだ東京に居たころ、良く話してくれていた。「私の妻は歌舞伎役者のメイクが好きでねえ」と言っていたのを浩二が憶えていたのである。 二人は浩二まで嬉しくなるほど喜んでくれた。浩二は照れて何となく暖炉のほうを見た。一つのフォト・スタンドに目が止まった。「ああ、それね。夫が日本から帰ってからそこに置いたのよ」そう言ってミセス・アンは暖炉の上のフォト・スタンドに顔を近づけてから、浩二を振り返った。「写真より、実物の方がハンサムね」歌舞伎のTシャツの効果とは思いたくない浩二だった。
2008.07.07
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空港にはトーマスが迎えに来ていた。久しぶりの再会だった。彼は浩二を見つけると、両手を広げて歩みよる。浩二もキャリー・ケースを引く手に力をこめて歩みを速める。やがてがっちり男同士のハグ!それからお互いの顔が見えるだけ離れて改めて握手しながらトーマスが口を開いた。体中で喜びを表しながら。「久しぶりだね浩二!元気そうでうれしいよ!」「ありがとう!トム、ほんとに久しぶり!相変わらず脊高いねェ」浩二は176cmと低からず、高からずだがトーマスは190cm近い長身である。知り合った頃と同様、浩二は彼の顔を見上げながら話さなければならない。「身長はともかく、若々しいって言ってくれないのかい?」「今、それを言うつもりだったんだよ」「そうかそうか、君はぐっと大人になったな。とにかく良く来た!妻のアンも楽しみにしているから」そう言うとトーマスは浩二の背中を軽く押しながら頭を軽く振った。あっちだ、という事だ。この場合、あっちとはトーマスの車を停めてある駐車場のことである。 約1時間後、トーマスの家に着いた。綺麗に刈られた芝の色が鮮やかな、いかにもアメリカの家。浩二はつい、「映画で良く見るアメリカの家だね」と言ってしまった。トーマスは、さも愉快そうに笑って言った。「そりゃあそうさ、ここはアメリカだからね!」浩二は照れ笑いを浮べて言った。「そう、だよね、ここはアメリカなんだよね!」車は、いかにも楽しそうな笑い声といっしょにトーマスのガレージの前まで入って停まった。 ドアはすでに開いていて、その前に女性が一人笑顔をうかべて立っている。「お帰りなさい、トム。まあ、あなたがコウジね!」「浩二、妻のアンだよ」「初めまして、浩二です・・・」浩二はよろしくと言おうとしたが彼女の歓迎にさえぎられた。彼女は浩二の頬にキスをしてくれた。はじめて会う人にしてはずいぶん親密な挨拶である。
2008.07.06
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伊藤氏が浩二に引き合わせたのは、トーマスといってアメリカからやって来た、母国の大学で歴史の講師をしている伊藤氏の友達だった。トーマスは個人的には日本の古民具、そして、なによりも日本刀に興味を持っていた。伊藤氏が浩二の世界を拡げる最初の相手としてトーマスを選んだ第一の理由は共通の趣味を持っていること。第二は、彼が日本語を話せること。ぺらぺらとまではいかないが日常会話なら何とかこなせる。第三に、誠実であること。実はこれこそ最も大切なことであるが。トーマスは浩二が知らない英単語を辞書を引いて調べている間、嫌な顔もせず、待っていてくれる。時間が掛かりそうな時は、簡単な単語を使って英・英訳してくれる。おかげで浩二のような英会話の初心者でも慌てずに何とか会話をつなげることが、少しずつではあるが出来るようになった。 トーマスの話によると、終戦直後から交代でアメリカ本国へ帰って行った米軍人たちの中には、日本刀や古民具を持ち帰った者がいて、刀の保存方法を知らず、錆び付かせてしまったままだったり。仏壇の用い方を知らず、本棚にしてしまっていたり。そういった例が少なくないとのことだった。 そのことを憶えていた浩二はトーマスに打診した。「日本刀や古民具を修理したり、本来の使用法や保存方法。日本刀については飾り方も教えてあげる。これってビジネスにならない?」すぐにトーマスからの返事があった。「実はすでにそういった依頼がぼくの元に寄せられていて、ぼくに分かる範囲で使い方を教えたりはしてきたけれど、刀の研ぎ方までは分からないから困っていたところなんだ。浩二が刀のマイスターに取り次いでくれるならこっちから依頼品を送るよ。それを修理して、保存法や飾り方の説明書などを付けてやれば、きっと喜ぶ。充分ビジネスになると思うよ」 この手紙が浩二の元へ届いたのは、柚子の父、周一が急逝する半年ほど前のことだった。手紙を受け取った次の日から浩二は早速、行動を開始した。中学生の頃から通いつめた美術館の館長に会い、館長と交流のある一人の刀の砥ぎ師の住所を教えてもらった。「必ず、事前に連絡を入れてから行くんだよ」と念を押したものの、館長は快く浩二の依頼に応えて紹介状まで書いてくれた。 そして半年後のあの日、すがるように浩二を見つめる柚子に「おやすみ、またな」明日と言わずに柚子の家をあとにした浩二は、自分の部屋へ戻ると、帰ってきた父親に思いを打ち明けた。 翌朝、浩二は一人アメリカへ旅立った。今後のビジネスを展開するにあたって先ず、トーマスに直接会いきちんと段取りをつける為である。既に砥ぎ師の承諾も得ているが、アメリカの実情を自分の目で出来る限り、リサーチしておく必要があるとの浩二の意見をトーマスは、「当然だね」 と認めてくれ、おまけに「ぼくの家に泊まってくれよ、うちを拠点にしてくれればいい。久しぶりに君の顔を見るのを楽しみにしているから、ぜひそうしてくれ」嬉しそうにそう言ってくれた。浩二の父、祐司も「トーマスにはぼくからも頼んでおくから、甘えさせてもらいなさい。そのほうが彼にしても安心できるってもんさ」と言ってくれた。準備は万全。浩二は意気揚々とアメリカへと旅立って行った。 注)現在、すでに浩二のようなビジネスは行われていて、正式名称も登録されています。
2008.07.05
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リビングにはおおむね2つか3つの人の輪が出来る。誰かが一つの話題を提供する。その話に興味のある者はそこに残って話に加わる。感心の無い者がいても直ぐにはその場を立ち去ることはしない。少しだけ聞いていて、「悪いけど、ぼくはその話に興味を持てないようなんだ。君たちで続けて」といった顔をして立ちあがる。決して笑みを忘れる事無く。 そうすると残った者も嫌な顔をしない。やがてはぐれ鳥は別のサークルに接近、ここなら大丈夫と見極めを付けると、その場に腰をおろし、雰囲気を乱さないように発言の時を伺う。 「なんてスマートな人たちなんだ!」 浩二は心底感心し、すべての人の輪を、会話の邪魔にならないように気を付けながら観察して歩いた。唐突に視線を感じた。ホームカウンターにいて旧交を温めていた伊藤氏と浩二の父、祐二が浩二を注視しながら何やらにこやかに話をしている。 「彼は君の息子さんかい?」「そうだよ、一人っ子なんだ」それには答えず、伊藤氏は言った。「なかなかいい面構えをしてるね、あの歳では珍しい。好奇心も旺盛なようだ」 彼は祐二の顔を見て言った。「君の息子と話がしてみたいんだが、いいかい?」「ああ、たのむよ。世界を広くしてやってもいい歳だ」「そうだね。ところで彼の趣味は何だい?」「天体観測、日本の刀剣、古民具、音楽、映画。それと小説かな」「何を読む?」「そうだね・・・ ジュール・ヴェルヌ、 アーサー・C・クラーク、ヘミング・ウエイ、コナン・ドイル、・・・夏目漱石、池波正太郎、隆 慶一郎、・・・小学生の頃はリルケやハイネも読んでいたよ」「言うこと無し!・・・トーマスを紹介しよう」そう言うと伊藤はグラスをカウンターに置き、浩二にむかって真っ直ぐ近づいて行った。
2008.07.04
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中学生の頃、浩二は父、祐二の友人伊藤氏が開くホームパーティに父親と共に通うようになっていた。伊藤氏は浩二が初めて出会った魅力的な自由人だった。 彼は東京でも名の知れた大手の建設会社の一人息子だったが、大学を休学して単身ヨーロッパへ渡り、アルバイトをしながら1年かけて帰国した。 多少危ないこともあった(ドイツのあのアウトバーンでヒッチハイク。ホモセクシャルと間違えられた事など)1年間の人生留学で得たものは、日常会話に不自由しない英語力と広い視野、行動力。そして多くの友人たち。イギリスの法律家。スウェーデンの女医さん(女優のように綺麗だった) 俳優の卵。少しマニアックだがジャズやフュージョンの世界では名の知れたミュージシャン。 シェイクスピア一筋の舞台俳優。イタリアのべェネツィアンガラスのマエストロ。彼は「薩摩切子」につよい関心を持っていた。そして彼らの友人たち。「みんなぼくの心の宝物だ」伊藤氏はまだ中学生だった浩二にそう教えてくれた。誇らしげな顔をして。 ホームパーティでは、毎回10人から15人の海外の友人たちが伊藤氏宅の広いリビングに集まる。2・3人ずつ玄関のドアを開けて、慣れた手つきで靴を脱ぎ、出迎えた伊藤夫妻と親しく挨拶を交わしながら奥のリビングへと入ってゆく。一組のうち誰かが手に飲み物を持っている。ワイン、ジン。ウオッカ。カンパリ、ソーダ水などなど。皆何不自由なく暮らせる身なのに、実に質素である。ホストである伊藤氏の性格がそうなので集まる人もまたそれを好む人たちとなるのだろうか。 彼らは来日する際には必ず事前に手紙で知らせる。リビングの壁側にある、作りつけのローボードには彼らから送られた品々が置かれてあり、その上の壁には大きなコルクボードが備え付けてある。 それには何枚ものカードや名刺が押しピンで留めてある。よく見るとそれはここに集う友人たちが新年を祝うために送った、伊藤夫妻あてのNEW YEAR CARDだった。それぞれが来日の予定を書き込んであるが東京在住の友人たちのものはない。彼らは直接伊藤家を訪れてNEW YEAR PARTYを盛り上げるからだ。 来訪者たちは適当にテーブルを選ぶと、(床には厚手のカーペットが敷き詰めてある。ソファもあったがとても10人以上は座れない)やや中央に寄せてソファを背もたれとする。ソファが足りない時に備えて大きめのクッションも用意してある。 おかげで気の合った者同士、くつろいで会話を楽しむことができる。伊藤夫妻の細やかな気配りに友人たちは一様に感謝している。 カウンターバーに用意してあるグラスを人数分取り分け、さっそく飲み始める。あとから到着した人たちも同様である。伊藤夫妻が友人達を伴なってリビングに入って来た。これで今夜のゲストが全員そろったということである。 浩二がまず驚いたのは、ホストによる開会の挨拶が一言もないこと。それでもパーティは盛り上がっている。何故だろう?浩二は初めて父に連れられて来た時、不思議に思って観察してみた。
2008.07.01
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柚子は浩二の手紙を胸のポケットにしまい込んだまま、話し始めた。先ず、浩二が昨日沢田家に来なかったのは、柚子の顔を見るとアメリカ行きの決意が鈍るから。 何故アメリカなのか、その理由。浩二は中学の頃から日本の刀剣や古民具に興味を示していた。中学生だった彼にとって刀剣などは年齢の制約だけでなく、金銭的にも入手不可能なものであった。 しかし、幸いなことに、父祐二は新聞社に勤めている。刀剣の展示会の情報などは簡単に手に入る。小中学生は無料もしくは極めて安価なので、父から展示会の情報が入ると、よほど遠方で無い限り足を運んだ。 柚子は、いつだったか、浩二が話してくれたことを思い出した。彼は遠くを見るような目をして・・・「日本刀の美しい事と言ったら、あれはもう美術品。特に正宗や兼永などはもう神秘的と言うしかないんだ。何時間見ていても飽きたりしない・・・」「コツ、コツ、コツ、・・・コツ」柚子が机の上を指先で叩く音、もう一方の手のひらに顔を斜めに載せていて、下から上目遣いで浩二の顔をにらみ付けるように見ている。柚子の視線に気付いて、浩二は慌てて言った。「もちろん、柚子の魅力には敵わないけれどね!」 古民具の方は主に釘を使わない家具や小物。浩二の一番のお気に入りは寄せ木作りの「箱根細工」だった。博物館の館員を困らせるほど質問をあびせたものだ。浩二は、この刀剣と古民具に関する知識と眼力(自称セミプロ)はビジネスに使える。そう考えていた。ただし、多くの鑑定士のいる日本国内で実行に移すつもりはなかった。彼はそれほど身の程知らずではない。 では何故浩二はビジネスのターゲットをアメリカに決めたのか?彼にそれを気付かせてくれた人物との出会いがあったのだ。
2008.06.30
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ふたりが目を輝かせてカレーを食べはじめた時、柚子が部屋から出て来た。「あ、いい匂い。私も食べたい!」「あなたの好きな帝国ホテルのビーフカレーよ」そう言うと、秋子は立ち上がろうとした。柚子は母を制して言った。 「いいの、いいの。自分でやるから」と、笑顔でキッチンへ向かった。秋子と真紀子は顔を見合わせた「最悪の事態じゃないでしょうね」と、秋子。「目が赤かったですよね」と、真紀子も心配そうである。急にカレーの味がしなくなった。 ふたりが食べ終わる頃、柚子がワゴンを押して来た。テーブルの上に大盛りのカレーと1リットルの牛乳が置かれた。秋子が目をみはる。それを見て柚子が 「やけ食いよ」と、言った。秋子と真紀子は再び顔を向かい合わせた。秋子の眉間には皺がよっているし。真紀子は最後の一口をのみ込めないでいる。 柚子はそんなふたりに構わず、大盛りのカレーを食べ始めた。スプーンがせわしなく動き、彼女の口の中へカレーを運ぶ。時折、牛乳がそれらを流し込む。秋子は顔をしかめて我が子の食べっぷりを見ている。ただ見ているだけで何も言わない。柚子のその食べ方に何やら鬼気迫るものを感じたからだ。 やがて柚子の最後の一口は、ごくっと咽を鳴らして落ちていった。それを確かめるように真紀子の咽も、ごくっと音をたてた。「フーッ!」 グラスに半分ほど残っていた牛乳を飲み干して、柚子は母と親友の方へ顔を向けた。「おいしかった!久しぶり。ねえ、お母さんどこで買ってきたの?このカレー」「そんなことどうでもいい。それより手紙のことよ。見せるのが嫌だったら、せめて浩二君が今、どこでなにをしているか、それくらい私たちに教えてくれてもいいんじゃない?」 真紀子も頷いている。 「うん、そうよね・・・やっぱり見せるのは嫌だけれど、大体のところは聞いてもらうつもりだったんだよ」 そうね、そうでなくっちゃ。と秋子は柚子のほうへイスを寄せた。真紀子も当然それに倣う。「あのね、浩二は今、アメリカにいるの」「え!」秋子と真紀子は同時に大きく目を見開いて、驚きの声を上げた。
2008.06.28
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「そうだ!ここで長話をしてる場合じゃなかった。さっき柚子ちゃんのお母さんから電話をいただいてね。君達を送って行きますって約束してたんだ」 ちょっと待ってて、そう言うと祐二は飛ぶように走り、開いたままにしていた玄関のドアの中に飛び込み、ジャンパーらしきものを掴んでドアをロックすると柚子たちの所へ戻ってきた。 「柚子ちゃんごめんね、気が付かなくって。寒かっただろ?」やはりあれはジャンパーだった。真紀子はちゃんとコートを着ていたが、柚子はそんな余裕もなく家を飛び出して来たのだった。「さっきまでは忘れてましたけど」 柚子はそう言うと素直にジャンパーを受け取った。春とは言っても、まだ夜になると薄手のジャンパーくらいは欲しくなる。 祐二は柚子の母、秋子が用意してくれていた温かいレモネード(秋子は、それが祐二の好物だと柚子から聞いて憶えていた)をうまそうに飲んだ後、直ぐに神田川沿いにある社宅へ帰って行った。 「もう待てない!」そう言うと柚子は自分の部屋へ駆け込んだ。 秋子と真紀子は顔を見合わせて、しばらくそっとしといてあげましょう、と言うように頷いた。「真紀子ちゃん、何か食べる?」こんな時に、と真紀子は言うつもりはない。 人が何も考えずにいられるのは、本能を開放している時だろう。そして彼女たちが今、開放できる、若しくは開放したい本能は食欲。「異議なしです。おばさま」秋子は嬉しそうに目を細めると真紀子の手をとって言った。「こっちへいらっしゃい」ふたりはキッチンに入る。秋子は冷蔵庫のドアを開けて「好きなものあるかしら?」と言った。真紀子は冷蔵庫の中に彼女の好物を見つけた。 「おばさま、私、帝国ホテルのカレーが食べたい」ああ、これね。と言って秋子はレトルトパックのビーフカレーを取り出した。 「真紀子ちゃんも食べたことあるのね。私も柚子も大好きで、でもめったに手に入らないでしょ。それが今日、方南町のコンビニで偶然見つけたから、ぜんぶ買い占めちゃった。と言っても少ししか無いけど。」「じゃあ、柚子に怒られちゃいますね」大丈夫、「あの子の分はとっといてあるから、二人でいただきましょう」「嬉しい、久しぶりです。帝国ホテルのビーフカレー」「ほんとにおいしいものね、あそこのカレーは」
2008.06.27
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「初めまして、山本真紀子と申します」真紀子はそう名乗ると、行儀よくお辞儀をした。「やあ、よろしく。浩二の父親です。藤野祐二といいます。いや、真紀子さんが一緒で良かったよ。近頃は何かと物騒だからね。柚子ちゃん、暗くなってからの一人歩きは良くないよ。いくら都会だからって暗い道はあるんだからね。君に何かあったらぼくは浩二に顔向けできないじゃないか」 本気で心配してくれているのが伝わってくる。真紀子は自分のことのように嬉しくなった。柚子は・・・嬉しいのに違いはないが、それより彼女の最大の感心事は祐二の手の中にあった。 「はい、これから気をつけます。・・・」柚子は、祐二の顔と手を交互に見ながらそう言った。もちろん視点の落ち着き先は「手」。最早釘付け状態である。祐二はその強い眼差しを手に浴びて、この場の主人公の存在を思い出した。「そうそう、これだったねェ。君の最大の関心事は」そう言って浩二の父は、息子から預かっていた柚子あての手紙を直接受け取り主に手渡した。 彼女は、複雑な気持ちで浩二の手紙を受け取った。(もしかしたら、この手紙は「パンドラの箱」かも)そう思っていたからだ。柚子は手紙の表を、ドキドキしながら見た。そこには確かに浩二の字でこう書いてあった。・・・柚子は息をすることさえ忘れている。 「柚子へ」 ふーっ!柚子は大きく息を吐くと、手紙を両手で胸に押し付けた。大きな目から涙がこぼれ落ちた。真紀子が自分のハンカチで柚子の瞼と頬を拭ってやりながら言った。「ほら、そんなに泣いてると涙で文字が滲んじゃうから」柚子は、ハッとなった顔で「あ!」と、言って手紙を持ったまま両手を高く上げた。本人が真剣そのものだったせいか、滑稽に見えた。 真紀子が我慢できずに吹き出した。柚子は上半身だけをひねって真紀子を見た。「ごめん!柚子」真紀子は笑いを押し殺して謝った。彼女は柚子が絶対に怒ると思ったのだ。しかし、「えへへ」柚子の反応は違った。 彼女は浩二の父に向き直った。上げていた手は下ろしたが、浩二の手紙は変わらず柚子の手の中にあり、宝物のように大切に彼女の胸元に抱かれていた。 「安心しました。私」「ん?安心したって、中身を読んでもいないのにかい?」「はい、だってもし最悪の内容なら、宛名はフルネーム。『沢田柚子様』そう、様まで書くはず。彼ならきっとそうするはず。でもこの手紙の宛名は『柚子へ』と、なっています。・・・だからちょっと安心しました」「そうか、・・・なるほど。柚子ちゃんは本当に浩二の事を好きでいてくれてたんだね。でなきゃ、思いもよらないことだよ・・・ありがとう柚子ちゃん」祐二は目を潤ませてそう言った。「お父さん・・・」柚子の目にも光るものが見えたが、顔は笑っている。嬉しいからに決まっている。 柚子の直ぐ後ろで真紀子もハンカチを目に当てている。「浩二くんは幸せ者ですよね、おじさま」祐二は、無言で頷いていたが、はっとして顔を上げた。
2008.06.26
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「そ、そうなんですか・・あの、それで彼は、浩二さんはどこに・・・」「それがね、・・・君に渡してくれって、浩二から手紙を預かってるんだ」「え!手紙ですか?」「そう、ぼくが預かってる。浩二は『柚子の家が少し落ち着いてからにして』と言ってたが・・・どうかな?」「はい?」「柚子ちゃんは・・・早く見たいんじゃないのかな?手紙の中身」「はい!直ぐに行きます」「すぐって、柚子ちゃん!もう暗くなる・・・もしもし?・・・・・切っちゃったみたいだ ね」 「お母さん!私行ってくる!」柚子の電話でのやりとりが気になって、キッチンの仕事を中断し、リビングに入って来た秋子に柚子はそう言うと、玄関へ走った。 「ちょっと柚子、行って来るって浩二君のとこ?」 「そう!すぐ帰るから」 「もう暗いから、気をつけるのよ!」柚子の返事はなく、ドアの閉まる音と彼女の走り去る足音が聞こえた。 柚子は走りながら腹が立ってきた。我慢できない。「浩二のばか!」(なにが手紙よ、なにが少し落ち着いてからよ!人の気も知らないで。あなたが傍にいてくれないでどうして落ち着けるの?もう!これだから男の子って嫌いよ!・・・?・・・今、私は冷静になれないほど浩二を必要としているの・・・?) 柚子は急ブレーキをかけて立ち止まった。彼女は腰に手を当てて荒い息を吐きながら言った。「私って、馬鹿みたい!」向こうから誰かがやって来る。見覚えがある。人の記憶というものには驚かされることがある。目鼻立ちさえ分からない黒い影なのに、分かってしまうことがある。特に親しい者(犬もそうだから、あえて人に限定しない)の姿はかなり高い確率で的中する。何かしら信号のようなものを送ったり、受け取ったりしている、そんな気がする。 とにかく、柚子には向こうからやって来る誰かさんが、どこの誰だか直ぐに分かった。こんな非常時なのに。
2008.06.23
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浩二は、柚子の手を握って彼女の体を引き揚げるように、片手を添えて立ち上がった。柚子は浩二に支えられながら母の元へ歩み寄った。夫の顔を覗き込んでいた秋子は柚子に呼びかけられて振り返った。 「お母さん、さっきは御免なさい。私も頑張ってお父さんのこと最後まで見送る」親子は抱き合った。それは、共にこの悲しみを乗り越える第一歩だったのだと、後になってふたりは、そう思い返した。 次の日、浩二は姿を見せなかった。 葬儀に参列するために遠くからやって来た親戚の叔父、叔母それに従兄妹たちを見送った後、柚子と秋子親子ふたりだけになった沢田家は、なんとも形容しがたい空気に包まれていた。時間さえ止まったままのよう・・・ 疲れているのだけれど、何かしていないと、とにかく何かをしていなければ居たたまれないという感覚が二人をキッチンに向かわせた。 何かが欠けている。それが何かは二人共分かっている。特に柚子はじりじりする想いで耐えていた。秋子にはそれが伝わっていた。しかし、柚子が黙って耐えている姿は見ているほうが切なくなる。とうとう堪らなくなってしまった。 「柚子、ここはいいから早く電話してみなさいよ」 「え!電話って誰に?」 「ばかね、私はこれでもあなたの母親よ。柚子が今、何を我慢しているか、分からないとでも・・・」秋子の科白は柚子の抱擁によって中断された。 「お母さん、ごめんねこんな時に」柚子は母親をだきしめたままで、そう言った。秋子は柚子の背中を軽くポン、ポンと、二回たたくと 「私も知りたいのよ。なぜ彼が来てくれないのか」と、言った。柚子は、母の身体を巻き締めていた腕を放すと、僅かに震える唇を無理して開き、笑みを見せるとエプロンをはずし、リビングへ急いだ。テーブルの上に彼女の携帯が置いてあった。 浩二は留守だった。電話口に出たのは彼の父親だった。「浩二はいないんだよ、柚子ちゃん」 柚子は13の時、浩二に連れられて初めて藤野家を訪れた。 浩司の父は娘が欲しかったせいもあり、初対面のその日から「柚子ちゃん」と親しみをこめて呼び、柚子も浩二の父親の気さくな呼びかけにつられて「お父さん」と呼んでしまい(まだ早すぎる!)と照れたものだが、浩二の父、祐二は「お父さん」と呼ばれたことが嬉しくて仕方が無い、といった様子で、ありったけの菓子や飲み物を出して歓待した。柚子もそんな浩司の父親に好感を抱いた。
2008.06.22
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葬儀が終わり、棺は火葬場に向かう。そのとき柚子と母親の間でトラブルが起きた。 「火葬場には行きたくない」柚子がそう言うのが聞こえた。 「何を言ってるの!最後まで傍についててあげなきゃ、お父さんが可哀相じゃない!」 「最後って!何!?お父さんはいつでも、いつまでも、きっと私の傍にいてくれるわ!変わってゆく姿なんか見たくない!」 そこまで一気に言ってしまった後、柚子は全身の力が抜けてしまったようにその場にしゃがみ込んだ。すすり泣くばかりで動こうとしない。 浩二は堪らなくなった。真紀子の方を見る。彼女は強く頷き、直ぐ傍まで来ると言った。「柚子には可哀相だけど、おばさまだって気力の限界があるわ。あなたが柚子を支えてあげれば、おばさまも少しは楽になれる筈」 それだけで充分だった。浩二は軽く頷くと、まだしゃがみ込んだままの柚子に近づいていった。 「柚子」 先に振り返ったのは秋子のほうだった。 中一の夏だったか、初めて柚子が男の子を家に連れて来たのが浩二だった。「彼、英語の成績、すごくいいの。で、教えてもらおうと思って。いいでしょ?お母さん」 秋子は柚子にボーイフレンドができたことを喜んだ。浩二の印象も悪くない。「初めまして。藤野浩二といいます」 初対面の挨拶も、そして彼の多少控え目なところも秋子の気に入った。 (最近の男の子にしては折り目正しそうだし、背も高いし、それに・・・ハンサムだわ)何を基準にしているのだか、疑問は残るが・・・父親も「柚子の気に入った子なのだろう、家に連れて来るんだから。柚子は君に似て男子を視る目はあるだろう。僕に異論はないよ」 と妻、秋子に一任した。 それから浩二は頻繁に沢田家を訪れるようになっていて、柚子の英語の成績も良くなった。おまけに柚子は以前にも増して父や母に対して素直になった。 それが浩二のことを認めてくれた両親に対する感謝の表れであることは、柚子の親友、真紀子の目には明らかだった。 浩二が頻繁に沢田家を訪れるようになったことを柚子の両親は大歓迎するようになった。高校に進学する頃になると秋子は、浩二に全幅の信頼を寄せるとまではいかなくても、いずれは来るべき時が来るかも知れない。そう感じていた。 だから、浩二の姿を見たとたん歩み寄った。 「浩二くん!あなたから柚子に言ってやって。父親の最後・・・」秋子が言い終わる前に浩二はできるだけ優しく言った。 「おばさん。僕に任せてください。お願いします」 秋子に異論は無かった。夫でさえ信用していた浩二が「僕に任せてください」そう言ったのだ。柚子を彼に任せておいて、秋子は最愛の夫、周一の傍へ戻った。 秋子と浩二の短いやりとりを、半分他人事のように聞いていた柚子だったが、「柚子」さすがに浩二の二度目の呼び声に大きく反応した。彼女にとって浩二の声ほど心地いいものはなかった。その浩二の顔が柚子の目の高さまで降りて来た。 「俺がずっと君の隣にいる。だからお父さんを送ってあげよう、な」柚子は浩二の目を見つめたまま、彼の膝の上に手を置いてから言った。 「もういちど、名前を呼んで」 「がんばれ、柚子」 浩二は、柚子の手に彼の手を重ねて言った。柚子は少しだけ唇を震わせながら答えた。「うん、頑張る」二人を見ていた真紀子は、ハンカチを目に当てている。
2008.06.21
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浩二は、いざ、という時ほど冷静になれる。彼は先ず、柚子の母、秋子に頭を下げてから、横たわる柚子の父親の遺体に向き直り、線香を上げ、合掌して頭を下げた。 柚子はもう待ちきれなかった。秋子に頭を下げて立ち上がろうとした浩二の腕を両手で掴み、信じられないほどの強い力で引き寄せ、自分の隣に座らせた。さすがの浩二もあせった。柚子の隣にいる母、秋子を見た。秋子は「しょうがない子ね」という顔をしたが、すぐに小さな声で「お願い」と言った。(つまりそれは、柚子の隣に居てくれ、ということ?)浩二はそう判断し、きちんと座り直した。 柚子は安心したように手の力を抜き、浩二の顔を見上げた。そして言った。 「ハンカチ」浩二の目の前に手を出している。「え?」「もう・・・浩二の顔が良く見えないの!」「ああ・・・」ハンカチを貸せってことか・・・浩二はポケットから、洗ってはあるが少し皺のよったハンカチを取り出して柚子に渡した。彼女はそのハンカチで涙を拭ってから改めて浩二の顔を見た。浩二は「辛いだろ」と言う代わりに頷いて見せた。その想いが通じたのか、柚子は顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。浩二の肩に額を預けて、子供のように泣いた。 あとで真紀子に聞いた話では、弔問客たちは一様に浩二の事を、柚子の従兄か何かだろうと噂していたらしい。 浩二は、自分を頼って泣きじゃくる柚子を見て、何だか胸を掻きむしられる思いがした。「俺が助けてやらなけりゃ。今すぐには無理でも、少しでも早く柚子とおばさんを楽にさせてやらなきゃ!」浩二はそう思った。強く、そう思った。いや、思ったというより決意したと言った方が正確だろう。(なぜだ?)彼は柚子を愛していたが、ただそれだけじゃない。そう感じた。どうしてだか分からないが、そうしなければならない。そういう風に決意してしまったのである。
2008.06.20
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その頃、浩二はビジネスでアメリカにいた。彼がこのビジネスを思いついたのは、中学を卒業する頃だったが、はっきりと決意したのは柚子の父親が急逝したとの知らせが飛び込んで来たその瞬間だった。 元々、浩二には普通のサラリーマンになれる自信が無かった。彼は何というか・・・競争心をあまり持ちあわせていなかった。自分にはそこそこ厳しくなれたが、他人にそれを要求する気にはなれなかった。お世辞を言うのも言われるのも嫌だった。 そうは言っても、特別な資格や技術を持っている訳でも無いので、父親の理解と、その友人の協力がなかったならば、たとえ収入は少なくても、なるべく人と直接的な関わりを持たずに済む、そういう仕事を見つけてでも生きてゆくしかなかった。この頃の浩二は「俺には、地味な暮らしが合ってるのかも知れない。父親と二人暮し。休みの日には一日中寝転がって好きな本を読み耽る。職場とコンビニと家、それと古本屋。そんな限られた世界の中で生涯を終わる。それも悪くないか」 17歳の少年にしては随分消極的な将来設計を組み立てつつあった。もちろん、たったひとり、愛しい柚子の笑顔を想い浮べない日は無かった。けれど彼女は開業医の一人娘だ。浩二は、そのことを思い出すたびに彼女の面影を振り払うように頭を振った。 高校の卒業式のあった次の日、突然真紀子から電話があった。柚子の父親が急逝したというのだ。 当然、浩二は柚子の家へ駆けつけた。悲嘆のあまり泣く事さえ出来ず、ただ呆然として父親の枕元に座っているだけの柚子だったが、浩二の声を聞きつけると。まるでたった今、スイッチを入れられたロボットのように振り返った。 浩二の姿を見つけるとたちまち柚子の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。柚子は立ち上がろうとしたが、すでに直ぐ傍まで来ていた浩二に優しく押し止められて座り直した。「もう、限界なのに!」と言いたそうに彼女はスカートの膝のあたりを強く掴みしめていた。
2008.06.18
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大きめなビーチパラソルの下で朝からビールを飲んで上機嫌な周一が 「秋子さん、ブツブツ言ってないで早く撮ってやらないと、君の自慢の娘が日焼けし過ぎて真っ黒になっちゃうよ」と言った。秋子は本気で心配になったらしく、「そ、それはいけないわ!いくら若くたって日焼けはお肌の天敵よ!」「そう、そう」秋子はちらっと夫の周一を振り返って見た。「なによ!自分だけのんびりビールなんか飲んじゃって・・・早く済ませて私も飲もうっと!」 真紀子は、とうとうたまらなくなって周一のいる、ビーチパラソルの下へ逃げ込んだ。周一は、口を押さえて避難して来た真紀子を同意だと言わんばかりの特殊な笑顔で迎えた。「分かったわ!1、2、の3、ね!いくわよ!」「ハーイッ!お願いね!」と柚子。浩二は心の中で叫ぶ、(早く撮ってください!!)「じゃあ撮るわよ!1,2、の、3!」秋子がシャッターを押す直前、つまり「2、」のところで柚子が企みを実行した!ほとんど瞬間移動だった。浩二の左腕は柚子の両手にからみ取られ、彼女の胸の谷間に挟まれた。「3!」そう言ってシャッターを押した秋子はポカンと口を開けたあと「あの子ったら・・・」と言い。さすがに周一も飲みかけたビールを吹き出してしまい「柚子め!」でも顔は笑っていた。してやられた、というところか・・・ その写真が今、柚子の目の前にある。柚子は弾けるような笑顔。その横で柚子を見下ろし、左足を浮かせかけた浩二が大きく口を開ける直前の表情のまま柚子に捕まえられている。 デスクチェアに腰をかけて、せわしなくキーを叩き続けている真紀子の横に立ち、フォトスタンドを見ながら、嬉しそうにあの頃を思い出していた柚子は、いつの間に淹れたのか左手に持っていたコーヒーカップを右手に持ち替えて一口すすった。 真紀子の指が止まる。柚子を見上げる。「何、ニヤついてんの?」「え!いや、別にニヤついてなんか・・・」「いいから、私にも頂戴、コーヒー」「あ!そうだね、ゴメン!気が利かなくって」慌てて柚子はキッチンに向かった。今夜はいつもと違って、真紀子が主導権を握っているようだ。
2008.06.16
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柚子のパソコン専用デスクはきれいに片付いている。まぁ、置いてあるものが少ないから当然ではあるが。プリンター、その用紙がA4とB5の2種類。あとはインターネットの接続ユニットが一つ、これは床に置いてあるし、元は柚子の父、周一が使っていたデスクトップ用に買ったデスクなので古いが大きくて頑丈に出来ている。 今、柚子が使っているのはノートパソコンだから、このデスクだと広々としていて使い易い。 中段には、父が読んでいた医学の専門書が並んでいたのだが、柚子はそれらを父の使っていた書棚に移した。 そうやって空いた中段にはフォトスタンドが置いてある。2枚を左右に分けて入れられるタイプだ。右側には浩二の写真。その隣には、高1の夏、沖縄で撮った浩二と柚子のツーショット。 柚子の父、周一が「高2の夏になったら、大学受験の勉強で遊んでる暇はないかも知れないから、今年の夏は想い出を作っておきなさい」と、家族旅行に浩二と真紀子を招待してくれたのだった。 浩二は学校指定の地味な水泳用水着、男子用・・・だったが、真紀子はオレンジ色のビキニ、柚子はブルーのビキニ、浩二は目のやり場に困ってしまい、二人きりで写るのも最初は嫌がっていたが、例によって柚子の手招きと、彼女の父、周一からの一言があった。 「浩二君、柚子の想い出作りに協力してやってくれないか?」周一は笑顔でそう言った。 それを聞いて浩二は腹を決めた。柚子は嬉しそうに父を見て、「お父さん大好き!」そう言った後、浩二を見上げて例の顔をした。眉を大きく上げ、口を横に開いて瞼をパチパチさせている。 (何だよー柚子!その顔は何か他人を驚かせる企てを思いついた時の顔じゃない・・一体何を企んでいるんだ!・・・) この時のカメラマンは柚子の母、秋子だった。「もう、早くして!撮るわよ、いい?」浩二は頷くだけ・・・柚子は 「ハーイ!お母さん、1、2の3、でお願いね!」「え!?ハイ・チーズじゃないの?」「いいから、言うとおりにして!1、2、の3よ!」 柚子に軽く睨まれた秋子は思わずムッとして「まったく、あんなちっちゃな水着だなんて、それだけでもハラハラしてるっていうのに・・・お父さんが何も言わないものだから調子に乗っちゃって!・・・」そのすぐ傍で真紀子は、つい笑い出しそうになったので口を手で押さえながら横を向いた。
2008.06.14
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あ!と、言って真紀子は身震いした。(あと、考えられるとしたら、それは・・・時代・・・時代が違うって事?)再び身震いした真紀子はやっとの思いで顔を上げた。柚子が半べそを掻いている。 「真紀子ーっ!何か分かった?私やっぱり頭の病気なの?」 「馬鹿ね、そんなことある訳ないでしょ」 「だって、真紀子ずっと黙ったままで、ちょっと怖かったんだもん」真紀子は、なんだか姉の気分になって(姉はいないのだが)柚子の髪を優しく撫でてやりながら言った。 「ごめん、ごめん。でもこの謎は簡単に解けるような代物じゃなかったもの」 「え!ということは、真紀子にはあの夢の謎が解けたって、そういう事なの?」 「と、思うよ。たぶん」 柚子は身を乗り出して答えを求めた。 「いい?落ち着いて聞いてよ柚子」 柚子はただ頷くだけ。 「柚子と浩二は・・・二度出会っているのよ。きっと。それなら説明が付く。ファースト・キスを二度も経験するなんて贅沢は、・・・時代が違ってた。それしか考えられないわ。名前が違ってたことだって時代が違えば説明できる」 「時代が違う!・・・そうか、それなら名前が違っててもおかしく無い・・・私はそう思いたいけれど、でもそれって何だか怪奇現象みたいじゃない?私はそういうのって・・・つまり科学的に説明の付かない事ってあると思う人だけど、真紀子は医師でしょ、信じてるの?そういうS・Fっぽいこと・・・」 「ええ、信じてるわよ。ただし、怪奇現象でもS・Fでもないわ」 「どういうこと?」 「柚子は苦手だったよね?物理学」 「すっごくね」 「でも、浩二君とあなたの、不思議だけどとっても大切な繋がりを把握する為だとしたら?」 「頑張る、物理でも化学でも参考書買って勉強する」真紀子は目を細めて笑った。 「柚子は浩二君のこととなると、どんな高い壁でも乗り越えそうね」 「たとえ火の中、水の中、よ」柚子はためらう事無く言い切った。 「いいわ、でも参考書は要らない。私が今から言う事を信じてくれれば、それであなた達の出会いがこの世だけの事じゃない。そう思えるはず。・・・最終的にはあるリサーチが必要になるけど」 「何だかまだ良く分からないけど、必死になって聞くから早く教えて!」 「O・K!先ず、物理学とホーキングの『量子宇宙論』。そしてある臨床例。・・・分かり易いように資料をそろえましょ。柚子、パソコン貸して」 他ならぬ浩二とのことである、柚子は?で一杯の頭をほっといてノートパソコンの液晶蓋を開けた。
2008.06.13
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謝罪の言葉を予期していた真紀子は面食らった。 「え!?何?なにがどう違うの?」 現実の世界に戻った柚子は、真紀子へ無防備な表情を見せて言った。 「違うの。公園じゃなかったの」 「だから何が!?」 「私と浩二のファースト・キスは、私の部屋だったの」 あぁ、「それじゃあ公園でのキスは2度目ってことね。それはそれはごちそうさま」 真紀子はそろそろバカバカしくなってきていた。(要するに単なる変な夢を見ていたのだ柚子は)そう考えるしかなかった。しかし、彼女は柚子の目にいつものしっかりとした意志の力が蘇って来たのを見逃さなかった。 「柚子、あなた・・今の話」 「本当よ。大丈夫!私は狂ってなんかいないいわ。ただちょっとだけ面食らったって言うか・・・」 「面食らったのは、私の方よ!本気で心配したわよ、さっきは」柚子は、片方の眉と口角を同時に上げて、さらに肩をすくめてみせた。 「ごめんね。・・・でも何か気付いたこと無かった?私の話の中身で」うーん、と言ってから真紀子は右手の人差し指で自分の顎を軽くつつく様にした。彼女が何かを真剣に考えている時の癖である。 「私の名前。おかしく無かった?」 はっとして真紀子が顔を上げた。柚子は、でしょ?と言う代わりに笑みを浮べて頷いて見せた。 「確か・・・おかだ、ゆずってそう言ってたわよ柚子。あなた浩二君にそう呼ばれて『はい』って返事してた」 「そうなの、私も三度目にあの夢を見た時、変だって思ったの。だってストーリーは全く同じなのに名前だけが違ってるなんて。ね、おかしいでしょ?」 真紀子は、うん、うん、と頷いてみせたが心の中では(普通は二度目で気付くと思うけど・・・ま、いいか。そういう事にでもしないことには、先に進めそうに無い)真紀子は再び、顎を軽くつつき始めた。 「真紀子、それでね・・・」真紀子は柚子にそれ以上言わせなかった。左の手の平を突き出すように柚子に向けた。「黙って!」という代わりなのは、いつもの仕草なので柚子にも分かっていた。彼女はおとなしく真紀子に従った。(柚子の言ったことが本当だとすると、この子は二度もファースト・キスを経験したことになる。私はまだ一度も無いっていうのに・・・そ、それはこの際どうでもいいの!何考えてるのよ真紀子! うーんと・・・最初のファースト・キスは柚子の部屋で・・・次が公園であの寒い中・・・どっちもファースト・キスだと、柚子は言い切った。あの目は絶対に譲れない!そういう目だった。・・・・・!名前!名前が違う。最初が岡田柚子で、二度目は沢田柚子。それは今の名前。名前が違うって事はどっちもほんとにファースト・キスだって。そう言えばそうか?・・・でも、どうして名前が違ったの?養子になった訳でもないのに・・・・・。)
2008.06.11
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柚子の見た夢は、今はじめて彼女の口から言葉となって溢れ出した。春を待ち焦がれて流れ出した雪解け水のように、柚子の声には歓びを感じさせるものがある。 始めのうちは余裕で耳を傾けて聞いていた真紀子だったが、いつの間にか彼女の背中はベッドから離れ、身を乗り出すようにして柚子の夢の話に聞き入っていた。理由は2つある。 ひとつは、柚子の話す言葉が精緻を極めている事。まるで何度も繰り返して観た映画のストーリーを解説しているような、そんな感じなのである。真紀子は思った。(私の頭の中で映像が次々に再生されてゆく。そんな感覚だわ) 二つ目は、柚子から送られてくる映像が(私の記憶の中にもある!)そういうことなのである。 柚子の夢物語が終わるまでには、何度か真紀子による「カット!」が入り、物語は中断された。 一度目の「カット!」は、柚子と浩二のあの衝撃的な出来事を、柚子が頬をほんのり桜色に染めて告白した時だった。 「ちょ、ちょっと待った!」真紀子は思わず声を上ずらせてそう言ってから続けて言った。 「柚子!あなたそんなことされて、それで彼のこと引っぱたきもせずに許しちゃったの!?」今度こそ、柚子は頬を真っ赤に染めて頷いた。 「信じられない。・・・気の弱い女の子ならともかく、あの柚子がそんなことされて仕返しもせずに許しちゃっただなんて・・・」真紀子は何度も首を振りながら2本目のタバコに火をつけた。 柚子はやっと顔をあげ、下から見上げるようにして真紀子に言った。 「話、続けていい?」 柚子のその仕草を見て、真紀子は悟った。だが声には出さなかった。それが優しさなのかどうかは真紀子自身にも判らなかったが・・・(柚子は、浩二君のこと理屈抜きに好きだった。そのことに気付いた瞬間だったのね) 「いいわよ、続けて」 柚子は物語の先を続けた。あの衝撃的な出来事の後、浩二が柚子のいる教室までやって来て、男らしく謝罪してくれたこと。柚子の家のすぐ傍にあるあの公園で、浩二とファースト・キスをした事。ここで2度目の「カット!」が入る。 「柚子、今、中3の冬って言ったわよね!それってもしかしてクリスマスの、あの夜の事じゃないの?」 「当たり!」 「当たりじゃないわよ!当たりじゃ!・・・変だと思ったのよあの時。はじめは私の家に集まることになってたのに。急にあなたから電話があって『ちょっと訳ありで、私は家から出れなくなっちゃった。悪いけど皆を連れて来て、私の家でやんない?』って言うから、あの寒い中、皆で頑張って・・・雪が降ってて風もあったから歩き辛くて・・・それなのに柚子ったら浩二君とファースト・キスしてたってわけ?」 「そうなの、だって彼から急に電話があって、二人きりで話したいことがあるっていうのよ。だから時間差を狙ったの」 「時間差?」興奮を抑えようと、真紀子は3本目のタバコに火をつけながら言った。 「そう、あのまま真紀子の家に行ってたら、彼と話してる時間は無かった。彼はあの時、例のあの公園に居たの。だから私、とっさに適当な用事を作って家を飛び出して・・・それで公園の電話ボックスから真紀子に電話をかけたの」 「なるほど。そして彼と会う時間を作った。そういうことなのね」 「当たり!」 「だから、当たりはやめなさいって、当たりは!」 真紀子は明らかに気を悪くしている。さすがに柚子もばつが悪くなって、謝ろうと真紀子に向き直った、が、彼女は一瞬夢の中へ引き戻された。 「違う、違うわ。公園じゃない!」
2008.06.10
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けれど、今日は柚子の悩み?を真紀子が聞いてやる番だ。「で、何なの。私に聞いて欲しいって話」二人はベッドに背中を預けて、床の上に・・・柚子はあぐらを掻いて、真紀子は脚を伸ばし交差させて座っていた。柚子は、もう一口だけシャンパンを啜り、ナイト・テーブルの上にグラスを置いた。 「あのね、・・笑わないでよ。いい?真紀子」(あなたがそう言った時に笑うのは、怖いもの知らずだけよ)「分かってる。だから、言ってみて」「真紀子は覚えてるかな?藤野浩二君の事」(怒るわよ、怖いけど・・・)「忘れるはず無いでしょ」「そうよね、私に付き合ってくれて。三年間も」「約、4年間だったと思うけど」「そ、そう・・・そうよね。ははっ・・・ごめん」「続けて」真紀子は飲み干したグラスにシャンパンを注ぎながら、促す。「そうね、じゃ、私ももう一杯」と、柚子は注ぎ終わった真紀子からボトルを受け取った。「あのね。この間っていうか、私の誕生日の夜のことなんだけど・・・」 「あ、あの時はごめんね、急にもうひとりの医師が体調を崩しちゃって・・・」 ううん、と柚子は首を振った。「違う、違う。その事じゃないよ。そんな事でわざわざ真紀子に相談するわけないじゃない」「そうよね。私ったら慌てちゃって、馬鹿みたい。さあ、何でも言ってみて」「うん、あの夜ね。一度は眠ったんだけど、途中からえらく長い、夢が始まっちゃって」「うん、うん、柚子が夢を見るなんて、それだけで珍しいよね?」「う・・・まあそうね。・・・でねその夢っていうのが可笑しな夢なんだけれど・・・」 こうして柚子の、あの連続小説のような夢物語は、心療内科医の診断を受けることになった。 柚子は空気清浄機のスイッチをONにした。1週間前に家電店で買っておいたものだ。いつ真紀子が訪ねて来てくれてもいいように。そう考えての事だったが、役に立った。 「さあ、真紀子。好きなだけ吸っていいわよ、タバコ」真紀子は親友の配慮に泣きたくなった。 「私の為に用意してくれたんだ・・・ありがと柚子。相変わらず優しいのね」 「いいから、いいから。気にしないの。真紀子が来てくれるんだったら、これくらいお安い御用よ!」柚子は、そう言いながら空気清浄機を真紀子の傍に寄せた。 「でも、吸いすぎには気を付けてよね。念のため」 「うん、そうする」と、真紀子はさっそくバッグの中からタバコを取り出した。その間に柚子は、あ、そうそう、とベッドの下から、これも真紀子の為に用意しておいた灰皿を取り出した。タバコを指に挟んだまま、真紀子は関心したように首を横に軽く振ってから言った。 「柚子、あなたいい奥さんになれるわきっと」「あら?どうして」「何かをしてあげてるっていう・・そういう気持ちが顔に出てないってこと。自然体なのよね、あなたの行為そのものが。・・・それは多分あなたのお母さんのDNAじゃないかしら」 真紀子はうまそうにタバコを吸った。「もし、そうなら嬉しい。だって私がお母さん似なら、お父さんのような男性に気に入られるかもしれないでしょ?」 真紀子は無防備な目で柚子の顔を見つめ、うん、うん、というふうに頷いた。そして言った。「あなたのご両親は、ご自分たちの長所のすべてをあなたにプレゼントして下さったのね」柚子は少しだけ目を潤ませると、膝を折るように曲げて、両手で抱え、その上に顎を乗せてから言った。「そんなふうに言ってもらうと、すごく嬉しい。私、自分じゃ気付けなかった。私ってお父さんとお母さんからのプレゼントだったのよね」 柚子は真紀子に顔を向けて「教えてくれて、ありがとう。真紀子」そう言った。こらえ切れずにあふれ出した涙で頬が濡れていた。 真紀子は堪らず、柚子を引き寄せ抱きしめた。「私こそありがとう、ごめんね、泣かすつもりじゃなかったのよ」 「さあ、話して。準備はO・Kよ」と、真紀子は指で涙を拭い、柚子の目に自分のハンカチをそっと押し当てた。
2008.06.09
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真紀子は柚子の部屋にいた。賑やかなディナーの後、つい、ビールを飲み過ぎて酔っ払った秋子を寝かしつけてから、後片付けを済ませた。 二人は良く冷えたシャンパンで乾杯をした。 真紀子はタバコを吸う。それは心療内科医になってからである。仕事とは言え、患者の悩みを聞き続けていると、ストレスが異常に蓄積されてしまって。まるで自分の悩みであるかのように錯覚してしまうこともあるらしい。真紀子のストレス発散法はタバコが主となってしまった。 柚子に会えて、今日のようにワインを飲みながら愚痴を聞いてもらったり、大して意味のないおしゃべりに夢中になれた後は身も心も軽くなったように爽快な気分になれるのだが。 真紀子と柚子のオフがうまく合うことは少ない。ま、それは誰でも同じ事だろうけれど・・・ 柚子は真紀子に 「一人でも出来る、趣味を持ったら?できたら仕事とはまったく正反対なこと」と、アドバイスしていた。 柚子のアドバイスは単なる思い付きではなかった。彼女の古い友人のスタジオミュージシャン(CDなどのレコーディングに欠かせない、初見の譜面でもその通りに弾ける優秀なプロのミュージシャン)からこんなことを聞いたことがあった。 「いくら良い音でも、10時間以上続けて缶詰状態で聞いていると、いいかげん嫌にもなる。外に飛び出したくなる。何が欲しいかって?そりゃあ雑音さ。人込みの中。できたら大きな交差点を歩く。調和の取れてない声や音が頭の上を通り抜ける。車の行き交う音・・・ほっとするんだよね、あれって」 そのミュージシャンは中学時代のクラスメートで、藤野浩二とも馬が合っていた。真紀子も柚子と一緒にいて、何度か話したことのある音楽好きの男子生徒の話に「なるほど」と頷いた。 で、試行錯誤の結果。古いジャズを聞かせてくれる店を見つけた。昼間からやってる、しゃれた?渋い?どっちとも正しい。そんな感じ。 ドアは2重になってて、(レコーディング・スタジオみたい)最初のドアには「おしゃべり原則として禁止」・・「禁煙席なし」・・「ネクタイ・制服お断わり」・・「ペットお断わり」と、手書きのコピーが押しピンで貼ってある。二つ目のドアは木製でライト・グリーンの格子の枠で板ガラスをはめ込んである。ドアの上部には控え目な看板が打ち付けてあった。「CHARLEY」と、書いてある。 表のドアに看板は無い。ということは、表のドアに貼ってあるコピーを読んで、それでも入って来る者を客として、音の好きな仲間として歓迎する。「そういう意味だよ」と、オーナーが教えてくれたのは2回目に柚子と二人で行った時である。 窓側のテーブルに着いた柚子は「SWING TO BOP」が聞こえてきたとたん、大きく目を見開き、固まったようになった。けれど直ぐにその固さは融け、今度は上半身を小刻みに揺らし始めた。柚子の様子に驚いて何も言えずにいた真紀子が始めて口を開いた。小さな声で。 「柚子、オーナーが来るわよ」 真紀子は前回初めてこの店に来た時の事を思い出したのである。耳障りな大きさでしゃべり続ける男性客二人がオーナーの一度目の注意を忘れて、携帯を使ってオーナーの怒りに触れ、店外に追い出され。「入店禁止」を宣告された、あのことを。 オーナーが彼女たちの前に立った。真紀子の危惧したイエローカードはなかった。小さな声でオーナーは言った。 「お若いのにこの曲をご存知ですか?」80%の男性を魅了する例の笑みを浮べて柚子が答えた。勿論、小さな声で。 「はい、亡くなった父が良く聞いていたんです。『CHARLEY CHRISTIAN』ですよね?」オーナーは2つの表情を見せた。一つ目は、同じアーティストを好む父親の死を悼む顔。二つ目はその娘が父親と同じ音を好きでいてくれることを嬉しく思う笑顔。 「ご注文は?」仕事を思い出したようだ。 「私は・・・オレンジジュース」と、柚子。 「私は、アイス・ティーで」と、真紀子。 頷くだけで背を向けたオーナー。 「おじ様が好きだったんだ、この曲?」と、真紀子が言い。 「このお店気にいっちゃった。また来ようね」と、柚子の返事は一方通行。(聞いてなかったんだ私の言ったこと。・・良くあることだけど)真紀子は、何もなかったようにストローの封を切った。 結局、柚子のいない時はひとりで「CHARLEY」の窓際の席でドリンクを飲み、タバコを吸う。いい音の漂う中で、誰にも邪魔をされず、何も考えず、それが真紀子の癒しとなった。
2008.06.09
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新宿のデパ地下で買物を済ませた柚子たちは、タクシーで帰ることになった。 真紀子の、「どうしても、そうさせて下さい」との秋子のことを気遣った想いに感じて、柚子は遠慮する母を制して甘えることにした。 柚子は父を亡くしたが、真紀子はその翌年、母親を亡くしている。それ以来、真紀子は大の親友柚子の母、秋子を母親と思って接して来たのだった。実の母を亡くした。 ただそれだけの理由だけではない。 小2の頃、脚を骨折したあの時・・・わずか8歳にして親元を離れての入院生活。毎日午前中に来てくれる母も夜の7時には帰って行く。あの別れの切なさ。真紀子は今でも忘れられない。そして消灯となり、眠りに就くまでのあの心細さ。それを癒してくれたのは柚子の母親、秋子だった。 彼女は真紀子が眠ってしまうまで側を離れず、優しく子守唄を歌ってくれた。退院する時、真紀子は母に手を引かれながらも、何度も、何度も秋子を振り返り手を振って別れを惜しんだと言う。 実の母を亡くした後、真紀子は柚子にこう言っている。「ねえ、柚子。私、あなたのお母さんのこと2番目のお母さんだって、そう思っていい?」 柚子の答えは彼女らしく、簡単明瞭であった。「良いも、悪いもないよ。真紀子は私の母のこと大切に思ってくれてるって、ずっと前から分かってた。だから、これからも母をよろしく」そう言って柚子は、真紀子が見て来た中で一番優しい目になった。真紀子は飛びつくように柚子に抱きついて涙を流した。「ありがとう、柚子。ほんとにありがとう」何度も繰り返してそう言いながら。 三人揃った、楽しい夕食が賑やかに始まった。秋子は柚子に付き合ってヘルシーな料理を心がけてきた。だが今日は柚子の、たまにはいいかも。の一言でジューシィな肉料理が並んでいる。 勿論、野菜も用意してある。あるのだが、やはり柚子の前には「野菜ジュース」が置いてある。それは彼女にとって最早必須なドリンクである。 秋子は、久しぶりに食べる、たっぷりと脂の乗ったステーキに舌鼓をうってご満悦だ。「やっぱり、たまには高カロリーの脂肪も必要よね、若くなくても」 なんと言われたって、たまには食べるわ。と、宣言するように秋子が言った。真紀子は、秋子の科白の終わりの部分を否定するように、「そんなことない」と、軽く首を振ったあと、続けて言った。「おば様は、まだ充分若々しいですから」 秋子はナイフとフォークを持った手を止めて、真紀子へ嬉しそうに微笑みながら言った。「ありがとう!あなただけよ、そんなふうに言ってくれるのは」 柚子は母の喜ぶ顔を見た後、真紀子に顔を近づけるようにして言った。「あんまり乗せないで。また派手な色のルージュを買って来るから」秋子の表情が明らかに変わった。面白くない、という風に。 真紀子は慌てた。このまま本気の喧嘩に発展するとは思っていないが、久しぶりの三人揃ったディナーを台無しにしたくない。その想いが真紀子の表情に表れた。必死に懇願しているように見えた。秋子と柚子の顔を2度ほど往復してから柚子に視線を止め、「柚子、お願い・・・」 と、そう言った。何をお願いなのか、それは言葉にしなくても通じる。柚子と真紀子は、無二の親友である証を示した。 「分かった」と、柚子は真紀子の目を見て、そう言い。手にしていたナイフとフォークを置いてから母を見て、神妙な顔をしてこう言った。 「お母さん、さっきは口が過ぎたわ。ごめんなさい」「あら、いいのよ、小さな事だもの。私があなたに、『あかんべ』をすれば済んだ事なんだから」 竹を割ったように、さっぱりとした性格と言える。 「そこがいいんだ、お母さんのそこが好きなんだよ」中学生だった柚子の前で、父親が良くそう言っていたものだ。母親のそんな気性を歓迎して柚子が笑い声を立てた。それにつられて真紀子も笑う。一瞬「?」になった秋子も直ぐに笑いの中に加わった。笑顔の輪が出来て、三人の楽しいディナーが再開された。 三人とも、良く食べた。そして良く飲んだのは秋子。柚子はこの後、真紀子に聞いてもらいたい事があるのでワインを2杯だけ。真紀子も昨日、携帯で話した時に柚子が言った「聞いてもらいたい事がある」そのことを忘れてはいない。彼女は秋子に付き合ってビールを1本だけ飲んだ。それだけ。秋子は少々不満だったが、せっかく再開した楽しいディナーを台無しにするほど無分別では無かった。 今日の彼女たちにとって、アルコールは楽しいおしゃべりの潤滑油に過ぎなくなっていた。
2008.06.08
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「ちょっと待ってよ柚子。あなた散々人を待たせた挙句にさっさと先を歩いてくなんて、ひどい子ね」大股で颯爽と歩く柚子に追い着けず、母、秋子が息を切らしながら呼び止める。母の声に気付いた柚子は直ぐに立ち止まり、振り向いて言った。 「ごめんなさい、つい何時もの調子で歩いちゃった」まさか完全に立ち止まってしまうとは、思ってもいなかった母は我が子にぶつかりそうになった。 彼女は慌てて止まろうとしたが勢いがついていたので、柚子の両腕につかまることで辛うじて止まれた。 秋子の顔は柚子の胸のあたり。柚子は何も言わない。 「どうしたの?」 秋子は気になって柚子の顔を見上げた。柚子は秋子を見ていない。秋子から見て左側にある公園を見つめている。秋子は柚子の視線の先を追った。 そこにはブランコがある。秋子は頷いた。 「柚子はお父さんに背中を押してもらって、良くあのブランコで遊んでいたわよねェ」柚子は、はっとして母の顔を見た。照れ隠しに笑った。 柚子が今思い出していたのは藤野浩二との出来事だった。なのに母は娘が父親を思い出していると勘違いをし、なんだか嬉しそう。柚子は、 「何だか母に悪い」そう、感じた。 「お母さん。手を繋ごうか?・・それならペースを合わせられるし・・・」柚子はちょっとした償いのような気持ちでそうしようと考えたのだが、母は実に嬉しそうに答えた。 「うん!」二人はそのまま駅に向かって歩き始めた。 久しぶりに娘と手を繋いで歩ける嬉しさに秋子はずっと笑みを浮べたままで、時々柚子を見上げる。その視線を感じて柚子が母を見下ろす。目が合うと秋子はさらに嬉しそうに白い歯を見せる。その度に柚子の心は、ちくりと痛む。(お願いだからお母さん、そんなに嬉しそうにしないで)でも柚子も顔では笑っている。 やがて駅に着いた。電車も直ぐにやって来て二人は新宿へ向かった。真紀子と待ち合わせたのは新宿駅東口アルタの前。「どこか他所にして」と、柚子は頼んだが秋子はどうしても譲らない。「だって、ここにいたら誰か有名人に会えるかもしれないじゃない?」(それが嫌なんじゃない。もし会えたらお母さんサインをねだるでしょ?) 「せめて紀伊国屋にして欲しかったわ」(大差ないと思う)柚子はそう言いながらバッグからサングラスを取り出した。アルタには出ていないが柚子だってそこそこ顔の売れたモデルなのだ。柚子たちがこれから行こうとしているデパートにだって柚子のポスターが貼られているのである。 そこへ真紀子が走って現れた。「ごめんなさい!バスが遅れちゃって」柚子にとって1分や2分の遅刻などどうでも良かった。それより一秒でも早くこの場を去り、目的のデパ地下へ行きたかった。だから真紀子の姿を見つけた時、まるで天女が舞い降りて来たように思えた。 「ううん、私たちも今来たところなのよ。ねえお母さん」 「え、そう?そうね、そうなの!まあ真紀ちゃん久しぶりねえ、元気にしてた?」 「はい!おばさまもお元気そうでなによりです」 「はい、はい、積もる話は買物が済んでからにしましょうね。さあ」と、柚子は二人を促した。 彼女は母親の長話をいやというほど経験している。道で誰か知ってる人に会うと、10分や20分は平気で立ち話をする。真紀子も柚子からその話を聞かされていたので、くすっと、笑い、柚子に従った。秋子はやや不満そうであったが真紀子が気を利かせて、秋子を振り向き、 「おばさま」と言い、手を差し伸べた。秋子は嬉しそうに真紀子と手を繋ぎ、歩き始めた。彼女の頭の中にはすでに有名人のことなどかけらも無かった。
2008.06.07
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「楽しかったなあ、・・・あれから中学卒業するまで続いたのよね、図書室通うの」 柚子は何時ものように天井を見上げていながら頭の中ではさっきまで見ていた夢をリロードしていた。「懐かしい・・・」ところで・・・(今、私は夢の中?それともおきてるの?)柚子は脚を上げてみた。Tシャツが捲れて白いショーツが見えた。 「起きてるわ。これは現実」最近は例の夢のせいで眠っているのか、それとも目覚めているのか分からない時がある。 そんなときには自分の夜着をみればいい。パジャマなら夢の中、Tシャツだけなら目覚めている証拠。彼女は上げていた脚を下ろし、自分の横たわっている位置を確認する。それから起き上がり、ベッドの端が近い方へ足を向け、両手をついてお尻を浮かせて滑るようにベッドから下りた。 「長かったなぁ、今日の夢。オフだからいいけど仕事のある日だったらこんなに長く寝てられないよ・・・そうすると・・あの夢も途中で終わる・・・どっちも嫌・・・いっそ一日が48時間あればいいのに」 柚子はそう独り言を言いながら、豊かな髪を後ろで束ねた。そのまま部屋を出る。パウダールームへ行きかけたが、思い直してリビングへ向かう。母親に朝の挨拶それが先だ、良い子である。 母秋子はリビングに居た。ソファに座って新聞を読んでいた。彼女も柚子に気が付いた。 「おはよう、お母さん」秋子は、新聞をたたみながら笑みを浮べて挨拶を返す。 「おはよう、柚子。良く眠れた?」 「うん、久しぶりに思いっきり眠れた。じゃ、顔洗ってくるね」パウダールームへ行きかけた柚子に秋子が聞く、いつものように。 「今朝はどうするの?」柚子は足を止め、ちょっと考えてから言った。 「今朝のオーダーはミルクにベーコンエッグ。・・・それとトーストも・・いい?」 「勿論、いいわよ。今朝は食欲あるのね。歓迎だけど」へへっ、と笑って柚子はパウダールームに消えた。親子揃って遅い朝食を済ませると、約束の時間が迫っているのに秋子が気付いた。 「あら、もうこんな時間!柚子ちゃん急がないと」
2008.06.06
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何時の時代か、それは不明だが、間違いなく過去の話である。浩二が藤野ではなく、木野浩二だった頃。柚子が沢田ではなく、岡田柚子だった、その頃。 浩二はその時代でも、現代と同じく8歳で母親を亡くしていた。彼の母親に対する思慕の念は、年月を重ねても薄らぐ事は無かった。母を思い出す条件はいくらでもあった。 友達の食べる母親の手作り弁当・・・ちゃんとアイロンのかかったシャツや制服・・・ 学校から帰り、「ただいま!」と言って玄関の戸を開けた時、いつも優しく微笑んで「お帰り」と言って浩二を迎えてくれた・・・あの母の面影を・・・薄暗くなった玄関の前に佇み思い出す。 浩二の父親が帰ってくるのは、たいてい浩二が夕食のため、米を研ぎ終わった頃だった。彼の父は町の役所に勤めている。貧しくはないが・・・母親はやはり太陽のような存在であった。 その母親が亡くなって以来・・・浩二の家から明るく弾むような談笑の声は聞こえてこなくなっていた。けれどそんな浩二の心を温かくしてくれる存在があった。同級生の岡田柚子という女の子である。 彼女はどことなく浩二の母親に似ていた。それは顔ではなく、雰囲気、女性独特のかぐわしい匂い。浩二を見る時の優しい眼差し。肌の色も母に似て抜けるように白い。そして・・・母に負けないくらい豊かな胸。彼女のなにもかもが浩二を癒してくれた。だから、浩二は学校に居る時が一番楽しいのである。
2008.05.13
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給食を食べ終わったあと、すぐに浩二は行動を起こした。柚子にちゃんと謝ることにしたのだ。 廊下に出る。突き当たりに図書室が見える。そのすぐ手前が柚子の居る教室だ。彼は左足から第一歩を踏み出した。 上履きがキュッ!と、音を立てた。さっきまで何でもなく思えた廊下が、今はやけに長く感じる。どうにか柚子の教室に辿り着いた浩二は愕然となった。西日を避けて窓もドアも少しだけ隙間を残して閉めてある。 (なんだよ、休み時間だっていうのに!)浩二は苦々しく感じたが、策もないまま、柚子のいる教室のドアの前まで来ていた。 その時だった。ドアが教室の中から開き、会いたかった柚子本人が姿を現したのである。 柚子も驚いていた。さっきまで(今度あったら、引っぱたいてやるんだから!)と自分の中で息巻いていたのだから。 しかし、当の本人、浩二の登場に出鼻を挫かれたというか、予想外の行動を取った。柚子は廊下に出ると、すぐにドアを閉めた。そして引っぱたくどころか、まるで浩二の言葉を待っているように顔を赤らめ、俯いてしまったのである。そこは浩二も男である。目の前のいじらしく可愛い柚子の様子をみて、(中途半端じゃ駄目だ。きちんと謝らなきゃ)そう思った。その気持ちを込めて、柚子の目を見ながら言った。 「さっきは、本当にごめん!」科白は少なく、ごく平凡な謝辞ではあったが、それだけに返って潔く聞こえた。 柚子の表情がそれを認めている。彼女は顔を上げた。もういつもの白い、艶やかな肌色が輝いていた。彼女は、「もう怒ってなんか無い」そう言っているように首を振り、笑みさえ浮べて 「あれは事故よね?だからもう怒ってなんか無い」そう言った。(どうしたの?私)自分の口から出た言葉なのに、柚子は少なからず驚いていた。浩二の謝罪は受け入れられた。彼にとってそれは本来嬉しいはずだけれど、(たしかにぼくはわざとあんな真似をしたわけじゃない。・・・でも彼女の言うように、「あれは事故だから」とはとても割り切れない) この学校に転校して来た日、一階の下駄箱のところで、二人の目が合った。その瞬間・・・それは時が彼らに許した、『奇跡の再会』だった。ふたりを隔てる僅かな空間に、池の中に小石を投げた時に見られるのと同じような波紋が拡がった。そしてそれは一瞬のうちに収まった。ふたりは、デジャブを体験していたのである。もちろん、この時「既視感」を感じたからには原体験がある。
2008.05.08
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この校舎の4階部分は周りに同じ、もしくはそれ以上高い建物が無く、西日が強烈に当たる。その日差しを和らげるためのすりガラスだった。西日をもろに受けて浩二の目は眩んだ。勿論、彼の反射神経は正常に働き、一瞬にして瞼は閉じられた。だがダメージはあった。瞼の裏側が赤い。目を開けていられない。 西日は、やっと落ち着き始めたクラスにまたもや喧騒を引き起こした。「わぁー!眩しい!誰よ開けたの!?」 「藤野!なにやってんだよ早く閉めろよ!」そして教師も。「藤野くん!早く閉めてくれる!?」だが、浩二には誰の声も届いていない。彼の中で異変が起きていたからだ。 「えっ?」彼は頭の中で、ビデオが再生されているように、ある映像をみていた。つい、さきほど柚子と浩二の間に起きた出来事の映像。 (犯人はぼくだ)浩二は心の中で恥じた。映像がスキップする。どこかの家の誰かの部屋。・・・!(岡田の部屋だ!)確かにその部屋の勉強机に腰掛けているのは柚子だった。しかもその隣には浩二が立っている。 (なんだこれ?・・・ふたりとも大きくて!ぼくは学生服だし、柚子はセーラー服!それにしても何か古めかしいような気がするけれど・・・え!)浩二は我が目を疑った。イスに座ったまま、柚子はすぐ後ろに立っている浩二を見上げて動かないのだ。そして浩二は!浩二はゆっくり腰を曲げ、柚子の顔に自分の顔を近づける。やがて彼は柚子の唇に彼の唇を重ねた。 浩二は頭の中で必死になって停止ボタンを探した!見つけた!と感じたのでそれを押す!・・・止まった・・・・「藤野君!・・・藤野君。大丈夫?」 浩二が顔を上げると、先生の顔が彼のすぐ目の前にあった。心配そうに浩二の顔を覗きこんでいる。「藤野君、大丈夫?顔赤いわよ。それに汗一杯かいて・・・」「はい、だいじょうぶです。すみません」(先生の声が停止ボタンだったのか?・・でもやっぱり先生はどこか地方の出身だな。言葉に訛りがある)浩二の思っていた通り、担任の教師は九州の出身だった。 浩二自身、生まれは九州だったのでピンときたわけだ。彼は父親の転勤に伴なって何度か引越しをした。その度にその地の言葉に馴染むのに苦労した。 初めての転校は北海道で体験した。次が沖縄(極端だと思った)その次が再び九州で、今度が東京である。浩二はこの時、まだ気付いていなかったがここ東京は彼にとって決められた場所であった。 父親は「たぶん、ここで最後だと思うよ」と、嬉しそうに言った。転勤の繰り返しで変なアクセントが身についてしまったけれど(あちこちの訛りが、ごちゃまぜになってしまった)浩二の父は東京生まれである。
2008.05.04
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アルファポリスのランキングバナー、これからもヨロシクです。 トンボと白い雲 柚子とのことがあった直後の授業中浩二は悩んでいた。教師の声は頭の上を通り過ぎてゆくだけ。机の上に教科書は開いてあるが、ページは変わらない。みんなとは違うページだ。ノートも開いているが、真っ白。鉛筆は浩二の手の中にあって動かず、本来の役目を果たしてはいない。(なんであんな事をしてしまったんだろう・・・どうして?)彼の視線は前の席のクラスメートの背中のあたりを泳いでいる。 ほとんど音もなく、それは現れた。校庭側の開け放たれた窓から教室の中へ入って来た。 「赤とんぼだ!」「すげえ!」「おお!」とか、クラス中に奇声が上がった。 教師まで驚いた顔になった。でもすぐに笑顔になった。浩二は(先生も同じだな)と、そう思った。(先生もきっと地方の出身じゃないかな?)彼の思いは確信に近かった。何故か?東京生まれのクラスメートたちはただ驚き、おもしろがっているだけだが、先生とぼくは「懐かしい」そんな風に感じている。「表情を見ていればすぐに分かる」のだそうである。 『トンボを目で追って、ずっと追って・・・ぼくは白い雲を見つけた。母に似た白い雲』 ・・・トンボは教室の中でUターンをして窓から出て行った。東京にしては綺麗な青空へ吸い込まれるように飛んでいった。もっと見ていたかったけれど、代わりにもっと嬉しいことに母に似た雲が見れた。「お母さん」浩二は誰にも聞き取れないほど小さな声で呼んでみた。小3の冬、もともと身体の弱かった浩二の母親は夫と息子に手を握られたまま帰らぬ人となった。浩二は今でも母の写真を肌身離さず持ち歩いているが、母の面影は彼の瞼に焼き付けられていて忘れる事など無かった。その母の優しい面影そっくりの白い雲、きっとあのトンボは母の分身に違いない。浩二はそう確信していた。 「ほらほら!静かに!トンボくらいでいつまでもワイワイやってないよ!ほら!授業にもどるよ!」 教師の声でようやくざわめきも収まってきた。浩二は慌てた。彼は、彼の目に光る水滴をシャツの袖に吸わせた。人は慌てると、考えてもみなかった行動を取る事がある。浩二は廊下側のすりガラスの窓を開けてしまったのだ。 つづく
2008.04.26
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カウプレ続行中! ☆お詫び☆ クイズの問題について幾人かの方からお問い合わせがありました。不安になって、こちらでも調べ直しましたところ、私の用意した問題は「江戸城は徳川家康が入城する以前、何という名前だったでしょうか?」でしたが、訂正します。「江戸城の別名は何といったでしょうか?」です。そうするとクイズの答えと問題とが一致します。大変、悩ませてしまいました事、深くお詫びします。ごめんなさいm(__)m尚、今までに正解されたお二人のお答えは当然、合っていますので、そのまま正解とさせていただきます。 ☆ 独り言 ☆ 夢から覚めた後、柚子は天井を見ていた。夢の中と同じように両手で自分の胸を押さえていた。胸はドキドキしたまま。まるで、つい今しがたまで小学校の教室にいて、唐突な体験をしたばかりのような、そんな感じ。 ふっ、と息を吐いて胸を押さえていた両手を脇に下ろし、ベッドの上に起き上がると、柚子は自分の全身が汗に濡れているのに気付いた。彼女は首を横に振った。 たしかにあのこと(藤野浩二とのこと)は未だに忘れてはいない。そんなことは有り得ない。 あのことは、思春期の入り口に入ったばかりの女の子にとって、天と地がひっくり返るほどの一大事だったのだから。 忘れられない理由は、ただ恥ずかしいだけでも,驚いたからだけでも無かった。 「どうして私は、あの時怒れなかったの?どうしてあいつを引っぱたいてやれなかったの?」そのことなのである。 柚子は優しい性格だったが、理不尽な事に泣き寝入りする女の子ではなかった。小5の時、クラスのやんちゃな男子にスカートを捲くられたが、その場で相手の顔を思いっきり引っぱたいてやった。 それから彼女はクラス中の女の子たちのヒロインになった。それなのに6年生のあの時は、引っぱたくどころか言葉で抗議することさえ出来なかった。 「どうしてだか、腹が立たなかったっていうか・・・ちょっとだけ嬉しかったような」柚子はそんな独り言を言っている自分にあきれたように、再び頭を横に振ってベッドを下りた。「汗を流さなきゃ」そう言うと柚子は母親を起こさないように、足音を立てないようにバスルームへ向かった。柚子は、なるべく音のしないように、バスマットの上に膝をついたまま、シャワーを浴びている。モデルの仕事で知り合った、パリから来た女性に教わったのだが、彼女いわく。 「日本の人、夜遅く帰っても静かに歩かない。シャワーも普通に使うのね。パリのアパートメントでは考えられない。みんな夜帰るとき、エレベータ使わず、階段で部屋もどる。これ当たり前。日本人マナー悪い」 パリの住人の全てがそうだとは思えないが、柚子は「成る程、そうだ」と感心し、以後忘れずに実践している。 「ヤマトナデシコたる女、柚子。パリジェンヌに笑われてなるものか!よ」と、へたな見得を切った時、そばにいた真紀子は涙を流し、腹を抱えて笑った。「苦しい!」と、何度も訴えながら。 柚子は、鏡に映る自分の肢体を見て、今朝母親が言っていたことを思い出した。「ほんとに魅力あるの、この身体?」と言いつつ自分で角度を変えては眺めているが満更でも無さそうである。手のひらで乳房を下から持ち上げてみた。 「まだ全然大丈夫よね、うん大丈夫、大丈夫」と自身満々の笑みを浮べたが、直ぐにその笑みは消え、遠くを見ているような眼差しとなり。 「今なら、あの人も夢中になってくれるかしら?」柚子はそう言ってしまった自分に気付き、両腕を裸の上半身に回して抱きしめた。誰かに見られている訳でもないのに、柚子はバスルームの中で顔を赤らめ、俯いた。 つづく
2008.04.24
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