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【粗筋】 芸者の花代を線香の立ち切る(燃え尽きる)時間で計った頃の話。芸者美代吉が質屋の若旦那・新三郎と恋仲だが、油屋の番頭・九兵衛も美代吉に岡惚れしている。美代吉と新三郎の噂を聞いた九兵衛が責めつけたので、美代吉は苦し紛れに年季が開けたら一緒になるという約束をしてしまう。 美代吉がそのことで新三郎に相談しようと手紙を書くが、同時にアリバイ工作のために九兵衛にも手紙をやる。この中身が入れ替わったのが運の尽き、手紙を読んで怒った九兵衛が美代吉を殺してしまった。新三郎が仏壇に線香をあげると、美代吉の幽霊が現れる。あの世でも芸者として売れっ子になっているという。新三郎の三味線で幽霊が歌っていると、次の間から、「へい、お迎え火」と声が掛かる。芸者を迎えに来たと聞いて、「そりゃァあんまり早い、今来たばかりじゃないか」「仏様をご覧なさい。ちょうど線香がたち切りました」【成立】 前に紹介した上方版を明治期に東京に移植したもの。二人が互いに「○○命」と彫った入れ黒子(刺青)をしていたので「入れ黒子」という題もみえる。東京では「たちきり」というが、これでは線香を切るという意味になるからおかしいという人もいる。 芸妓の店では料金が時間制になると、線香を立て、それがたち切れると「お直し」という声がかかり、新たな線香を立てて時間延長をし、その場で追加料金を取られる場合も多かった。時計の発達とともにすたれたが、新橋などではかなり後までこの風習が残っていた。(「お直し」を参照)【一言】 桂文治(6)が、上方の情緒あふれる人情噺を、東京風に芝居噺仕立てで改作したもの。(立川志の輔)【蘊蓄】 江戸時代までは、「芸者」と呼ぶのは吉原のみ。他の花街では「酌人」と呼んだ。
2024.06.30
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【粗筋】 芸者小糸に夢中の若旦那が勘当になりかけるが、番頭のとりなしで百日の間蔵に閉じ込められる。小糸からは毎日のように手紙が届くが、八十日目でぷつりと途絶える。百日目がたって蔵から出た若旦那が置屋を訪ねると、小糸は若旦那が来なくなってから病気になり、手紙に返事も来ないので捨てられたと思い込んで焦がれ死にをしたという。若旦那が仏壇に手を合わせると、三味線で地唄の「ゆき」が聞こえてくる。若旦那が蔵に入れられる前に、小糸のために注文した三味線である。小糸の霊が弾いているのだと涙にくれていると、ふと三味線の音がとぎれた。「若旦那……なんぼ言うても、もう小糸、三味線弾けしまへん。お仏壇の線香が、ちょうどたちきりました」【成立】 1806(文化3)年刊行の『江戸嬉笑』の「反魂香」。幽霊が現れて応対し、しみじみとした話はないまま「閻魔の迎えが来たようだから、はい、さようなら」と帰って行く。「おい、ちょっと待て」と言うと、幽魂ちょっと振り返り「線香がもう立ちやした」 京都の松富久亭松竹の作ともいわれる。「たちぎれ」「たちぎれ線香」「線香の立切れ」とも。 東京へは柳家小さん(3)が移植したが、三笑亭可楽の演じたものが人気を得たという。線香1本いくらという計算を聞いて芸者屋の女中が線香を持ち逃げするという、「千両蜜柑」を改作したような小噺を仕込みとしていた。 可楽は三味線に「黒髪」を用い、とぎれる場面をぷつっと糸が切れるように弾き終えるよう演奏させていた。菊之丞もこれを用いている。小三治も「黒髪」を用いているが、消え入るように弾き終わるように改定している。この途切れ方をやったのは上方の桂米朝の方が早い。尚、上方の落語の本では東京では端唄「流しの枝」を使うと書かれているが、聞いたことはない。上方では「雪」を使うそうだ。ゴメン、全部聞いたことがあるのに、こういう曲名が分からない。 東京でも先に紹介した「東京版」よりも、この原作の方が多く演じられている。ただし、鳴り物なしで演じる場合も多い。この噺に限っては、三味線をぜひ入れてもらいたいところ。【一言】 この噺の前半の主役は番頭である。親族会議のまっただ仲へ飛び込んで来た若旦那を、言葉はていねいに、それでいて厳しく叱りつけるところなど、演者の貫祿がものを言う場面である。(中略)米朝も、このネタの難しさのポイントは敬語の使い方にあると言っている。「(番頭が)あくまで礼を失せずに理詰めに(若旦那を)圧倒するのでなくてはなりません」(「米朝落語全集」第4巻) この噺、ストーリーがよくできているので、ついつい筋のはこびだけに気をとられがちなのだが、演者がわとしてはこういうところにも気を配っていなくてはならないのだ。また、そこまで気がいきとどいてこそ「大ネタ」と呼ぶ値打ちがあるのだ。(中略) 若旦那が蔵へ入った翌日から小糸からの手紙が届きはじめる。初日は一通、二日目は二通、三日目が四通と倍増しに手紙の数が増えて行くのであるが、その手紙も八十日目にぴたりと途絶えてしまう。その時に番頭は肩をゆすって「三文がん」……つまり「三文ぶん」ほど笑うのである。そして「色町の恋は八十日か」 という番頭の心の台詞をつぶやいた後、なんの説明もなくポーンと二十日の時間をとばしてしまって「若旦那、おはようございます」 と百日目の朝にしてしまう演出は溜飲の下がる思いがする。多くの演者によって洗練に洗練を重ねられていく段階で完成したみごとな演出である。(また中略) そして、その後に仏壇から流れてくる地唄の『雪』。浮世を捨てて尼になった南地の芸妓が、昔の恋人を忘れかねる心情を述べた唄である。みごとな道具だてで聞き手を涙の世界へ案内していくのだ。 この『雪』であるが、おしまいとピンとはじくように弾いて止めるのが一般の型だが、八五年ごろから米朝はスッと消えるように「雪」を止めている。「線香が消えるように三味線も消える」 という理屈だ。 米朝の『たちきれ線香』というと、以前から十八物としての定評があった。そのネタでも、常に動いているのを知り、またしても勘当した。(小佐田貞夫)● うちの師匠の『たちきれ』をはじめて聞かせてもろた時も感激しましてね。この噺は大阪落語の大物中の大物で、若旦那と芸妓の純愛をテーマにした噺なんですけど、私はこの『たちきれ』一席が、他のすべての落語を合わせたものとつりあうとまで思いましたからな。師匠に「もし私が『噺をやめる』言いだしたら、『落語には“たちきれ”があんねんぞ』と言うてください。きっと帰って来ますから」とマジで言うたこともあります。(桂枝雀(2))【蘊蓄】 明治村に、芸者の線香台が陳列され、「Time REcorder for Geisha」と英文の説明がある。
2024.06.29
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【粗筋】 畳の毛羽をむしる癖の人が来た。「どうも申し訳ありません、あがらなくちゃならないと、思ってはい……たん……ですがッ、あのことにつきましては私も色々と心を傷め……ておりますんで……」「おいおい、畳をむしっちゃいけないよ」「どうぞ、おかまいなく」「私がかまうよ。一昨日畳替えしたばかりだ」「ああ、新しい畳ですか……道理でむしりにくい」【成立】 癖を扱った噺の枕に用いる。畳をむしるために力を入れるところが演じどころ。
2024.06.28
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【粗筋】 武家で畳替えをするが、倹約のため汚れた物だけでいいとの仰せ。「それも、汚れた物だけを裏返せばよいではないか」「それでは色が違って目出ちます」「それなら全部を裏返せばよい」「武家でございますので、裏返るは裏切るに通じてよろしくないかと存じます」「屋敷に畳はどれだけある」「八百畳ほどと存じます」「千畳(戦場)に及ばねば、裏返るとも苦しゅうない」【成立】 安永2(1773)年『坐笑産』の「畳替え」。なかなか粋な殿様で、好きな小噺。誰か演らないかなあ。
2024.06.27
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【粗筋】 女房が店番していると、白だわしはないかという客が訪れた。ございませんと断ったのを聞いた亭主が、「ございませんと済ましている奴があるかい。白だわしといえば流し場を洗うんだから、筅(ささら)じゃ間に合いませんかと言ったらよさそうなもんだ。似た物を売るのが商人てもんだ」 と小言を言った。次の客は髪を洗うのに麩海苔(ふのり)を買いに来た。女房、「麩海苔はきらしておりますが、畳鰯じゃ間に合いませんか」【成立】 三遊亭円左(1)の『一口ばなし』にある。筅も麩海苔も分からない今では演じられないが、商品を変えたものは耳にする。平成の頃は「ポマードはございませんが、ゴム糊ではいかがでしょう」というのをよく聞いた。それならタイトルも変わらないと……また新しいものが産まれて来るのだろう。
2024.06.26
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【粗筋】 人口減少で自衛隊員が不足というので、おばさん自衛官大募集。50歳以上で時給千円、訓練でダイエットになるってんで入隊希望者が殺到。1人でもうるさいのに300人が集まったので大騒ぎ。隊長の話も聞かないので飴を配って話を止める。制服を配布するが、関取の体系なのにSサイズだと言ってきかない。ぶよぶよの体だから無理に押し込むことが出来るからすごい。驚いて見ていると、無理に止めたボタンがはじけて隊長に命中。「お肉の反動で死んでしまったわ」「それもそのはず。脂肪(死亡)ですから」【成立】 三遊亭白鳥の創作落語。
2024.06.25
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【粗筋】 お助けグッズは色々あるが、空気を送って蛙を動かす玩具のようなものばかり。彼女の中で動いて悦ばせるという道具があり、その名も「なまけもの」 今日ご紹介するのは「助け船」という品で、男の人の物を支えてくれる道具。 五十代でアレが役に<立たなくなった>。マムシにニンニク、松のみ、銀杏、生卵と接種しても効果なし。この助け船を手に入れて狙っていた会社の若い子を温泉に誘う。夜になってさあ、起きようと思っても、アレは寝てしまっている。がんばれ頑張れと声援を送り、ようやく明け方に起き出して、寝かけた相手を起こして、航海に出たのであります。しかし、それはわずか2分48秒でおしまい。何だか分からない品が彼女の大海の奥に残されたんで、彼女が怒ったこと……「という訳で二泊三日の予定が一泊だけで逃げられた」「そもそもあの品物の名前が良くなかったんだろうな。助け船なんてね」「ああ、だから俺のがチン没したんだ」【成立】 昔々亭桃太郎(1)の創作落語。昭和32年の作。楽屋での体験話を元にしたそうで、実際にある商品らしい。何のための……うぶな私には何が何だか意味が分からない。通の噺家に聞いたら、最近は空気を送るのではなく電動になっているとのこと。蛙の玩具が電気でうごくのかしら……
2024.06.24
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【粗筋】 小学校の教室、先生には席を外してもらい、生徒だけで話し合いを行う。「クラスで2羽飼っていたウサギの1羽が死にました。もう1羽を飼育するかどうか。飼育する方がいいと思う人……はい、全員一致で飼育することに決めます」「委員長、飼育ってウサギに失礼だと思います。お友達ですから」「じゃあ、何と言えばいいんですか」「共に生きるがいいと思います」「賛成の人……はい、では飼育とは言わず共に生きるを使います」 議題はこれから夏休み、だれが学校に来てウサギの世話をするか。自分がするという生徒は1人もいない。何回かやってもいい人、1日くらいなら……誰もいない。1日もやりたくないが全員一致。「はい、委員長。飼育係じゃない、共に生きる係のまさる君がやればいいと思います」 動物が好きで立候補したからと押し付けられそうになるが、結局当番制になる。しかし、夏休みに1人ずつ当てると1人だけ足りない。「先生にやってもらったら」「絶対に嫌だと言ってました」「じゃあまさる君がやればいい」 とまたまさる君が標的に。家が八百屋でいつも売れ残っているから、餌も持って来れる。「ママが言ってました。あの八百屋の野菜はまずい」「それはようこちゃんのママの料理が下手なんだ」 ウサギはストレスがあると毛が抜けて死んでしまう。ようこちゃんのパパの頭を見ると、ストレスがたまっている。喧嘩になりかけるのをたもつ君が止めた。「仲良くしないと嫌だよ。夏休みのウサギの世話、僕が全部やるよ」「そうやっていい子ぶるのが嫌なの。たもつ君は本当は嫌な子だと思う人」「ウサギと関係ないだろう」「ウサギなんかどうでもいいの」 ……「どうなりました」「あ、先生……話し合いは終わりました」「どうすることになったの」「先生は明日から毎日、誰が握ったか分からないおにぎりを食べることになりました」【成立】 瀧川鯉八の創作落語。多数決は民主的だが、回りに流されたり、いつの間にか話題がずれていく。そういうことを噺にした。マクラが面白かった。落語の若手で落語会のチラシを用意するが、1人だけ遅刻。お昼は店屋物にしようと決まるが、忙しいので全員同じにしてくれと言う。鯉八が提案すると全員が拒否。そこへ遅刻してきた小痴楽が同じものを提案したら、全員が同意したという。小痴楽に逆らえないということらしい。
2024.06.23
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【粗筋】 不忍池の端にある料理屋に、僧侶4名が現れた。高野山で長年の修行を積んだ者達で、精進物だけを出すようにと注文して食事をしたところ、吸い物がうまい。主人に尋ねると、「うちは土佐でなく薩摩を使っております」という返事。薩摩というのは鰹節である。僧侶は顔色を変え、「精進物をと頼んだのに魚を出すとは、これまでの大変な修行が全て水の泡、こうなったからには今更山へも戻れず、この宿で雇ってくれるように、山での修行で薪割り程度はできるが、それ以上の力仕事は駄目」 と申し出る。最初からこの店をゆするのが目的だったのであるが、僧侶は寺社奉行の管轄で訴え出ることはできない。主人が途方にくれていると、隣室で酒や魚を食していた老僧、自分が掛け合ってみようと申し出た。老僧は修行の道を説いて離すが、もとより若い僧達が言うことを聞くはずもない。仕方なく自分の顔を知っているだろうと問い詰めるが、4人には心当たりもない。「高野山で修行をした僧で拙僧の顔を知らぬとはとんでもない、いつわり坊主、なまぐさ坊主、蛸坊主だ」 と言ったので4人はとうとう怒り出し、老僧に掴みかかるが、見事に投げられて4人とも頭から池に真っ逆様に突っ込んだから、足が8本、池から出ている。「それ、蛸坊主」【成立】 上方噺。林家彦六が東京に移植した。「蛸入道」「八本足」とも。 店の名ははっきりしないが、彦六は、「記憶がおぼろであるが、この噺を習った桂三木助(2)は大阪茶臼山の雲水という料亭であった」と述べている。桂米朝は、舞台を生玉神社近くの池のほとり、僧の名を「修学院」としている。【一言】 不忍池にすると、上野(寛永寺)の宗旨は天台ですから、そこへ真言の僧が来るのはおかしいということになりますが、これはまァ、見物にでも来たとすれば、そう無理はないと思います。(林家彦六)【蘊蓄】 放浪の僧侶を広く雲水というが、本来は高野聖と呼ばれる諸国修行の信言僧。 鰹節は土佐型が普及した現在、薩摩型は幻の部類に仲間入りしている。京都の卸店でも、もはや改良型に吸収され、薩摩型は見当たらないと、説明する。 錦にないものはないとはよくいったものだ。島本海苔乾物店の進物品ショーケースに、話に聞いた形の薩摩型が箱に収まっていた。 土佐型はカツオの頚肉部分にあたる部分を残して切るため、鼻のところがちょうど凸状になっている。全体にふっくらした印象を与える。薩摩型はやや細いが、そのかわり無駄がない。
2024.06.22
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【粗筋】 旦那から番頭、手代、丁稚、女子衆にいたるまで、全てが歌舞伎好きという船場の商家では、朝、旦那が奉公人を起こすのも芝居掛かり、袋をかぶって風呂敷をまとい、「三番叟」を踏む。奉公人たちは布団の中から「いよっ、三番はじまりーッ」と声を上げる。定吉と亀吉が表の掃除にかかるが、武家屋敷の堀外の水まき奴の芝居を始めるので、定には仏壇掃除、亀には裏庭の掃除が言いつけられる。 定はこりもせず仏壇の前で仇討ち狂言を始めて旦那に叱られ、今度は赤ん坊の子守りを命じられる。今度はお家騒動で、忠義の侍が若君を懐に抱いて落ちのびるという芝居が始まる。現れた常吉が、頼まれもしないのに追手の役を引き受け、立ち回りになって赤ん坊を投げ出す。あわてて頭を下に抱き上げてしまい、常吉が「坊んがさかさまやがな」と教えると、「さかさまいのォ(嬶様、いのう)」 旦那が今度芝居をしたら追い出すと脅すが、それなら店に来た者に芝居をさせればいいと考える。魚屋が来ると、定吉が「魚屋、魚屋」と声を上げる。魚屋の方も、「♪鯛や鯛々、大阪町中売り歩く……」 と花道を通る心持ちで店に入って来た。旦那があきれ顔でどんな魚があるかを聞くと、「尾上鯛蔵、中村蛸助、市川海老十郎……」 と答える。鯛と海老を買うことにして、魚屋が鯛をさばきに掛かったが、このはらわたで『忠臣蔵』勘平切腹の場面を始めた。その間に猫がブリをくわえて行き、これを知った魚屋が、「えっ、すりゃ、ブリ子の一巻を。遠くへ行くまい。後追っかけて、オゝそうじゃ」 店では蛸の方を酢だこにしようと、定が酒屋へ酢を買いに出掛ける。 この様子を聞いておりましたのがすり鉢の中の蛸で……すり鉢に手をかけて持ち上げると、深編笠の浪人が正体を表すようにキッと見栄を切る(ボーンと鐘が入る)。旦那が気付いて捕らえようとするが、墨を掛けられ目が見えなくなる。(「草笛入り合方」に乗って手振りでのさぐりあい、「だんまり」となる) 当て身をくわされて旦那が倒れると、「口ほどにもないもろい奴。この間に、ちっとも早く明石の浦へ……」 と、(「引取三重」または「飛び去り」に乗って)蛸は逃げてしまう。戻った定吉が旦那を助け起こすと、「定吉か……おそかった、おそかった……毒消し持て来てくれ。蛸に当てられた」【成立】 とにかく芝居の場面を並べたので、演者も大変だが、客も知っていなければ何が面白いか分からないという、大変な噺。それも、蛸が演じるのである。人間の所作が蛸によってどうなるのか、それを描く仕草も大変。 「鯛や鯛々……」は『夏祭浪花鑑』の魚屋団七の場面。近松の『女殺油地獄』の豊島屋の場で、主人公の河内屋与兵衛が油の荷をかついで帰ってくる場面で歌詞を変えて用いている。 古くは「毒消し」ではなく、「黒豆三粒持て来てくれ」という落ちだった。桂染丸は、「蛸に当たったら黒豆三粒食べたらよい」という説明を魚屋にいわせておいて、この落ちを用いている。もちろん、当て身と食中毒の「当たる」を掛けた地口である。【一言】 現在の『三番叟』は『操三番叟』や『二人三番叟』、『舌出三番叟』というように一幕のだしものとなっているが、明治時代まではお客を入れる前に下級の大部屋の役者が『三番叟』の一部を踊るのがひとつの儀式となっていたらしい。これを「番立(ばんだて)」という。 開場前の芝居小屋で「二番太鼓」を打ち上げると同時に「三番はじまりーッ」という呼び声が表からかけられ、それから「番立」が始まるという順だったらしい。歌舞伎のほうでは滅んでいるが、今でも国立文楽劇場では昼の部の開演前に人形が『三番叟』を演じている。この時は人形と三味線だけで太夫は参加せず、三番叟の文句は人形遣いが言うことになっている。この時、幕の内で「三番はじまりーッ」と声をかけている。 つまり、こんな演出が残っているくらい古風な古風な噺なのである。(小佐田貞夫)【蘊蓄】 「だんまり」は演者が口をきかずに仕種のみで見せるもの。「掛取万歳」の魚屋の登場など、芝居噺によく用いられている。
2024.06.21
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【粗筋】 ハイレベルな予備校で入塾試験をやるが。試験場所が足りなくなって、商店街の空店舗を探しに来た。駅に近く利便性があれば、教室としても利用したいというのだ。商店街の会長が案内するが、近所にショッピングセンターが出来てシャッター街になったが、格安で貸し出すことで活性化している。しかし、安いというので外国人が集まり、どこの国だか分からない。寿司屋に入ると、これも外人。握りを頼むと、音楽に乗って踊りながら握るが、しっかりと固まっている。「これじゃあおにぎりや」「ノープロブレム」「問題ないって、こっちが問題なんや」 そこへ本部から電話。「はい……ええ、そうですか……分かりました」「どないしはりました」「実は本部の方で入塾試験の問題を盗まれたらしいんです。申しおまへんが、今回こちらの店を借りるという話も延期に……」「はあ、そうですか」「What……What happpun……」「いやあ、その問題がのうなったんで……日本語分からんのかい……問題がのうなった……問題ない……No problem」【成立】 桂春団治(4)が演った創作落語。年末の買い出しでお馴染みの上のアメ横が、7割が中国のお店になっているとニュースで報じられた(2024年6月)。因みにここも多国籍で、中国以外のお店も増えている。既に海鮮系のお店は減少している。お店の人と顔見知りになってねだると、荒巻鮭を1万円くらいで売ってくれる。普通に店にあるのと全く違う……それも無くなるかも。
2024.06.20
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客が来ると、筍をふるまうという。亭主、「うちにもあるが、取り立てがうまいから、取って参りましょう」と席を離れたまま戻ってこない。探すと、隣の竹やぶに縛られていた。【成立】 安永2(1773)年『再成餅』の「笋ぶるまい」。筍に限らず、野菜などの泥棒はその場で縛られる風習があった。いまだに野菜泥棒はなくならない。
2024.06.19
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酒井米水という画家、大変な飲んべえだが金には目もくれず、依頼があっても気が向かないと描こうとしない。毎晩大トラになって帰ってくるので、女房のおみつも困り果て、子供を連れて出て行けば少しは了見が分かるだろうと、襖に墨で竹を描き、 頼みつるたよりの糸の切れはてておらせはせまじ今日の細布 という安倍貞任の歌を書いて実家へ帰ってしまった。翌朝目を覚ました米水は、「これが書き置きか……しかし、何だって竹を描いて行ったのだ……ははあ、俺がトラだからか」【成立】 『百花園』に桂文治(6)の速記が載っている。
2024.06.18
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【粗筋】 貧乏所帯に嫌気がさし、絵描きに頼んで壁に箪笥や長持ち、長押の上に槍まで描いてもらって悦に入っている。これをまたそそっかしい上に目のよくない泥棒が盗みに入ったが、探ってみてやっと絵だと気が付いた。くやしいので盗んだつもりになろうと、「着物を風呂敷に包んだつもり……重くて持ち上がらないつもり……」と、演技を始める。目を覚ました主人も面白く思って、「槍を取ったつもり……鞘を取って2、3度しごいたつもり……えいッと一突きにしたつもり」「ううっ、無念……血がだくだくッと出たつもり」【成立】 安永2(1773)年『芳野山』の「盗人」が、浪人が裏店を借りて、壁に紙を貼り、家財道具を極色彩で描く。盗人が忍び込んで暗がりで手探りするが何も無し。灯りを付けて絵だと分かると、どっかと座って、「さても太い奴だ」『きのふはけふの物語』では、盗人が入ろうとするのを本物の槍でつこうとして、つい口で「ぐっさり」と言ってしまう。 安永4(1775)年『聞童子』の「仕掛」は、長屋に越し来て壁に絵を描く。盗人が入って箪笥や押し入れを開けようとするが開かない。これを見ていた亭主が、「野暮な奴だ。芝居も見たことがねえようだ」と言う。 上方の「書割盗人」を東京に移植したものとされ、上方では芝居で使う大道具で、家の様子を描いた書割を本物と考えて泥棒に入るので、ストーリーに無理はない。「盗んだ体(てい)」「槍で付いた体」という台詞がなんとなくのんびりしている。 原作と同じやり方があり、泥棒が入ったのを布団の中で笑うと、泥棒の方も「笑い事やあらへん」と盗みに掛かる。あらかた盗んだというので、これはいかんと「泥棒」と叫ぶ……このやり方は何だかおかしくって好きだ。 上方の評論家は、宇井無愁をひいて、上方の「書割盗人」に対して東京の「だくだく」、「延陽伯」に対して「たらちね」など、東京はずぼらな名前の付け方で工夫が無いと言うが、東西の落語の違いを理解しなければならない。大道芸であった上方だから芝居掛かった大げさなタイトルも付くのに対して、お座敷芸であった江戸、落ちやポイントの部分がそのまま題名となり、楽屋のネタ帳がタイトルになるのだ。分かりやすい状況、人物、落ちがそのままタイトルとなるのが当然なのである。 もう一つ、上方の評論家は真面目で、原作は浪人だから問題はないが、東京落語で町人が長押に槍を描かせるのがおかしいと言う。そもそも家財道具を絵に描く洒落者なのだから、槍を描かせても何の問題もない。こういう解説を読むと、上方では描かれていない品物をあるつもりで盗み、描かれていない槍を取ったつもりになるのだ……ああ、ややこしい。 絵を描いた先生がそれぎりになってしまうのが可哀相と、最後に登場させて落ちを言わせたのは立川談志。【一言】 はなし終えて楽屋へ帰ろうとしたら「面白かったつもり」と客にいわれました。すぐに、「いやな客のつもり、横っつらを張り倒したつもり」とやったらうけました。(柳亭痴楽:柳家三語楼(1)がこの噺を演じて下りようとした時、客が「ああ、おもしろかったつもり」と声を掛けると、三語楼が「客に受けたつもり」とやって平然と引っ込んだという話も伝わっている)
2024.06.17
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【粗筋】 夜のタクシー、顔色の悪い怪しい客を乗せた。「運転手さん、ここらに交番はあるかい」「ありません」「それじゃあ、その先の草むらのある所で止めろ」「と、止めました」「ちょっと我慢が出来ないんだ。紙をおくれ」 すっきりして現れると、「ありがとう、もうここからは歩いて帰れるから、いくら」「まだメーター倒したばかりですから、最低料金ですよ」「安いねえ。少しまからない」 入れ替わりに乗ったのはアベック。「晴子さん、こんな汚い車ですみません」 いちゃいちゃしてプロポーズまで始める。やっと降りると今度の客は昔の友人。何だかんだと料金を払わずに行ってしまう。次の客はかみさんが怖いという。喧嘩をしてから、遅くなって帰ると、玄関を上げた途端にはさんでおいた棒が落ちて瘤をこしらえるし、中では女房が庖丁を研いで待っている……というのだ。「着きましたよ」「運転手君、ちょっと玄関を開けてくれないか」「いやですよ。棒が落ちて来るんでしょう」「人の内緒話を聞いていたのか。とにかくノックしてくれ」「トントントン、すみません、私はご主人じゃないで……運転手ですがなあ」「誰でも主人の味方は敵、私の味方は味方です……運転手さんですか。そうぞ開けてお入り下さい。まず運転手さんから片付けます」「冗談じゃない」【成立】 桂米丸の創作落語。1969年の本にある。色々な客が出るだけでまとまりはない。
2024.06.15
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【粗筋】 タクシーで客待ち。酔っ払いに声をかける。甲子園でタイガースを応援して勝ったので祝杯を挙げて帰るところ。「ちょっとラジオスイッチ入れて……甲子園では勝ったけど、ニュースでは負けてるかも知れへん」……やがて奥さんが車で迎えに来た。 場所を変えてお婆さんを乗せると、「吉田正夫のところまで」「どこの人」「大坂の吉田正夫」「分かりませんが」「自転車屋さんの」「分かりませんよ……おや……あのお店、吉田サイクルって書いてありますが」「え……あ、前に立ってるのが正夫です」と去っていく。 入れ違いに慌てて飛び込んで来た男、道筋を早口で話すが一度では覚えきれない。走り出すと、「待て、止まって止まって」「どうしました」「財布忘れた、今日行くのやめとくわ。幾ら」「まだメーター倒してないし、財布忘れたんでっしゃろう。ただでいいです」「ほんまか……じゃあ、明日昼にここにきてくれるか」「予約ですか、結構ですが」「ただで和歌山まで行ってほしいねん」「冗談じゃない」 前夜この辺りで乗せたいい女を思い出して、一人二役で話を始める。「その女の部屋に入って……たまらんなあ」 そこでお巡りさんがノックする。車に変な人がいると通報があったのだ。人だかりして、後ろに3キロの渋滞が出来ている。 続いて乗せた客が怪しい。仕事は楽しいか、命は惜しいか、と変なことを聞く。「おい、そこの暗い所でちょっと止めろ」「命ばかりはお助けを」「命が惜しいか。じゃあ、これにサインしろ」「サイン……あんた強盗やないので」「わしは保険の外交員や」【成立】 林家染語楼(5)が演った。次の「タクシー時代」の最初の客につながるかも知れないが、こちらは強盗でなくても完全に犯罪。
2024.06.14
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【粗筋】 与太郎が茶漬けをかっこんで舌を火傷した。「お香こを2切れほど入れたらいい加減になるんですよ」 と言われて、食後に風呂に入ろうとする。「おお、あちち……おい、香こ2、3本持ってきてくれ」【成立】 『醒睡笑』巻2の「うつけ」。古くから民話に伝えられている。
2024.06.13
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【粗筋】 平清盛が開いた花見の宴で、清盛の息子・重盛に仕える斎藤時頼は、重盛の妹・徳子に仕える横笛の舞を見て心奪われる。歌が詠めずに恥をかくところを、横笛が代わりに詠んでくれたのですっかり惚れ込んでてしまう。それからラブレターを書きまくるが、美しい横笛は引く手あまた、乳母を抱き込んで他の男を入れないようにと手を回す者もあって、恋文は全部乳母が隠してしまう。時頼は恋患いでやせ細る。父がこれを知って身分が違うと異見するので、嵯峨の往生院に入って出家してしまう。これが週刊誌に書き立てられ、これを読んだ横笛、乳母を責めてこれまでのラブレターを全部読む。無骨だが情愛溢れる内容に感動し、そのままクシーを拾って往生院に行くと、時頼は会わない。横笛ショックを受けて出家する。恋が元で二人の坊主が出来た。こいこいには坊主が付き物という一席。【成立】 高山樗牛の作品「滝口入道」(1894)を落語にしたもの。この小説は、『平家物語』にあるエピソードを作品にしたもの。春風亭柳昇(5)の飄々とした語り口が全て。 時頼は横笛に手紙を書き、無骨ではあるが愛情あふれる内容に心動かされた横笛が愛を受け入れる。しかし、時頼の父が二人の間を許さぬため、時頼は出家を決意し、嵯峨の往生院(現:滝口寺)に入る。横笛はこれを聞いて探し回り、ついに時頼が念仏している声を探し当てる。その姿をのぞき見た時頼は横笛と会おうと思うが、修行のためと人違いだと応える。更に修行の妨げにならぬよう、女人禁制の高野山に入る。 これを知った横笛も出家したが、悲しみのあまりか、すぐに亡くなってしまう。時頼はこれを知って更に修行に励み、高野聖となるが、俗に「滝口入道」と呼ばれる。 平家物語では、平維盛が死を決意し、この入道を訪ねて気持ちを告白する。この時に以上の経緯が説明される。入道は、維盛を導いて高野から紀州海岸の各社を詣で、熊野に入る。出家を遂げた維盛は、浜の宮王子の前から舟を漕ぎ出し、妻子を思うと心も乱れる。入道は極楽往生の後は妻子も同じ世界に導くようにと説き、入道の鳴らす鉦の音に励まされつつ、海に身を投げる。(絵は松岡正剛作)
2024.06.12
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【粗筋】 和歌の浦の与市という男、財産家だったが火事にあったり父親が亡くなったりしてすっかり貧乏になっている。目の不自由な母親に大変孝行をしていたが、ある年の大晦日、餅を買う金もなくなり、大晦日から元旦に掛けては沖へ出ることが禁じられているのに、こっそり漕ぎ出した。網を下ろしたが雑魚一匹掛からず、引き上げたのが土左衛門。これを届け出ると自分が沖に出たことが分かるが、人情に厚い男で旦那寺の光明寺まで運んで行き、なけなしの4文の銭を出して弔ってくれるよう頼む。和尚もその心を知り、今は金はいらないから、出世をしたら寺を建て直してくれと言う。 与市が再び沖へ出ると、今度は打って変わって大漁になり、夢中になっているうちに夜が明けてしまった。村に戻ればつかまるのでどこから上がろうかと困っているところへ、親船が来て呼び止められる。船の連中が魚を全部買ってくれ、酒を飲ませた後、ちょっと小船を貸してくれと言って乗り移り、出ていったまま日が暮れても戻らない。 翌日になると漁師達が船を出して来たため、与市はこのことを役人に届け出た。役人も与市の人柄を知っていたので、「相手は海賊か何かで戻って来れないのだろう。船を取り替えて行ったのだから、この船は与市の物である」という言渡し。与市はこの船のお陰で再び分限となり、失った田地田畑・屋敷を買い戻した。約束通り建て直された光明寺の方では、与市にあやかろうと、その船を形取った「宝船」をこしらえて4文で売った。この与市、後に出世して角倉了以となります。宝船由来の一席。【成立】 「宝船の由来」とも。金原亭馬生(5)から三遊亭圓生(6)に伝わる。馬生のものは宝船を作って4文で売ったというところで終わりになっていたが、圓生がこれでは締まりがないので角倉了以になるという付け足しをしてまとめたものか。【蘊蓄】 初夢で良い夢を見るために、枕の下に宝船を敷いた。絵と共に、 長き夜の唐の眠りのみな目覚め波乗り船の音の良きかな (なかきよのとをのねふりのみなめさめなみのりふねのをとのよきかな) という、回文の歌が書かれていた。「かつぎや」などにあるように、江戸では元日の朝早く売りに来たが、京・大坂では大晦日に売っていたそうだ。「宝船売は乗初の猪牙(ちょき=船)にて、いちはやく走り、双六(すごろく)売は街をめぐりて、八からの鉦(かね)をうつよりせわし」(山東京伝『四時交加』) 大晦日は寝ないもので、除夜の鐘を聞いて初詣に行き、初日の出を拝んでお祝いの膳でも食してから寝るのが風習。寝正月の時に見る夢が初夢だったという。それがだんだん遅くなり、1日の夜敷いて寝、2日の朝に見る夢が初夢とされるようになったらしい。これが2日の夢だと思って、2日に売りに来る者があるかと思えば、買うのもいておかしい、と『神代余波(かみよのなごり)』にある。『浪花の風』にも「節分の夜の夢を初夢となすこと、事理に叶へりと云ふべし。江戸にて正月二日夜を初夢とするは、誤りなるべし」とある。値段についてはどこにも記載がないので不明。
2024.06.11
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【粗筋】 「玉屋」「鍵屋」の声の華やかな墨田の花火の当日、両国橋の上でたがやが侍とぶつかり、たがが外れて侍の笠をはね上げてしまった。どんなに誤っても許してもらえず、何としても手打ちにしようとする侍に開き直ったたがやは、斬り掛かってくる家来から刀を奪うと家来二人を斬ってしまった。侍が槍を手に勝負を挑むが、家来二人を殺され、回りの観衆がたがやに味方をしているもので、すっかり動揺している。逆にたがやはすかり落ちついて、刀を一振り、侍の首が中天高く跳ね上がると、「上がった、上がった……たがやァー」【成立】 宝暦8(1768)年『江戸百化物』の「敵討の化物」が原話。両国の川開きで花火が年中行事化した1717年(享保2)以降の作であることは間違いない。 明治から大正初期は円蔵の独占……というより、誰も演らなかった。詰まらない噺だったからだ。円蔵は、たがやの啖呵に力を入れたが、「首提灯」を参考にしていたらしい。「円蔵の快弁に依って命脈を保って居るもので、他の者が話したら、欠伸の百も出る事だろう」(海賀変哲)とあるように、全く面白くないものだった。それが次第に工夫され、磨かれていったのだろう。 たがやが剣術を知らないはずなのに、見事な立ち回りを演じるのに無理がある。あまり見事に相手を斬り捨てるのは疑問……という訳で、春風亭小朝は、これに、「技でも何でもないですな。日頃桶を叩く馬鹿力で殴ったんで……可哀相に撲殺というやつで……」という説明をする。 更に、いよいよ殿様との一騎討ちになると、バラバラに声援していた回りの観客が一つになって、野球の応援よろしく「たがや」コールを始めるなど、現代的演出が随所に見られる。 三遊亭司は、これを「あと一人」コールでやっていた。 要するにこうした工夫によって生き残って来た噺ということ。 昭和の研究家はみな、武士に対するレジスタンスだと解説しているが、落語にそんな思想を持ち込む神経が分からない。そもそも原作はたがやの首が切られて飛んでいくのだし……それを逆にしたことで、反骨心の表現だとするのは考え過ぎ。落語って、そこまで深くする必要はないと思う。【一言】 ――桶に気品とはヘンな表現だが、たしかに一種の気品があって、いつまでも見飽きがしない。なにがなんでも、この桶が欲しくなって、宿の女中に聞いたら「たる源さんの桶どすえ」と教えられた。なんでも当時のお金で、手桶一つが三千円とか四千円とかたいそうな値段だったが、それでも欲しくてたまらなくて、ぜひたのんでほしいと重ねていう私に、女中がきのどくそうに答えた。「そらかめしまへんが、できあがるまでに半年かかるか一年かかるか、もっとかかるかわかりまへんが、それでもよろしか」 名人気質とはいえ、おそろしく強気な商法である。たる源のこの強気と「いらねえやい、丸太ン棒ッ!」と叫んだたが屋の爽快な強気を思いあわせて、私はおかしくなった。(江國滋)● 立川ぜん馬(6)さんに教わったのは、昔どおりの演出で馬上の侍がたが屋の首をはねて、衆院素見物が野次馬根性で、「たがやァ」とはやすんです。ぜん馬さんには断った上で、大方どおりのやり方にしています。たしかに侍の首をとばすのは嘘でしょうが、町人の深層心理がつくり出した真実でもあると思います。(三笑亭夢楽:もともとはたが屋の首がとばされて落ちとなっていたが、安政大地震(1855年)の復興のために職人の手間賃が跳ね上がると、景気の良くなった職人が寄席の客として来るようになり、彼らを喜ばせるために逆の演出になったという。立川談志は現在でも元の演出で演じている)● 落語の「たがや」で江戸っ子が侍相手に切るタンカに「大小が怖くて、柱暦の下を通れるか」というのがある。「大小」は侍の2本の刀のこと、それと家の柱にはる暦の「大の月」「小の月」とをかけてのギャグだが、ちょっと今の人には分からない(毎日新聞・2005年12月2日の「余録」:今時このくすぐりは使わない。よほど古い速記か何かを参考にしたものと思われるが、質問に返事が来なかった)【蘊蓄】 安永年間(1772~80)、5月28日は両国の川開き。両国橋の上は見物人でごったがえした。両国橋は東の本所が下総国、西の吉川町が武蔵国なのでその名がある。 花火の掛け声である「玉屋」「鍵屋」であるが、横山町の「鍵屋」の番頭がのれん分けして両国に店を出したのが「玉屋」。「柳」「流星」などの華麗な花火を考案して大変な人気となったが、1843(天保14)年出火したため廃業処分となった。 橋の上玉屋玉屋の人の声なぜか鍵屋といわぬ情なし 『守貞漫稿』によれば、輪替(わがえ)は店を持って子供などが近所を回って壊れた桶などを集めて直す者が多かったが、中には道具を携えて遠くまで回る者もあったという。行商の場合は「たがや」と呼ばれるのが一般的であった。
2024.06.10
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【粗筋】 伊勢参りに出た喜六・清八の二人連れ、帰りにお多賀さんに詣でたのはいいが、調子に乗っておお酒倉らって芸者を揚げて一文無し。大きいことを言って宿に泊まろうと、住友と鴻池だと言って泊まり、夜中に千両箱が届くから戸締りをしないようにと言って、宿賃を払わずに暗いうちに宿屋から逃げ出す。道を間違えたか、川のそばに大きな木の生えている所に出ると、松明を持って人が集まるので木の上に登って様子を見ている。集まったのは盗賊の一味、今夜宿に住友と鴻池が泊っていて、千両箱が届くという。木の上の喜六が俺のことやとつぶやいて、我慢が出来ずに小便をしてしまう。盗賊の一人が、ここには天狗がいて、悪さをする者に罰を与えると聞いている。誰かの声が聞こえたのも、小便が空か降って来たのも天狗の仕業ではないか……怯えているので、喜六・清八の二人、読経を決めて盗賊どもの上に飛び降りる。泡を食って逃げてしまった後に30両の金包みがあった。「これなら宿へ戻って寝直ができるな」「そらそうや、金があるから鼻高々や」「それもそのはず。わしら天狗や」【成立】 上方の「東の旅」全24席のうち第18席目。伊勢をめぐる「宮巡り」から鈴鹿峠の「軽石屁」の後で、賭博ですってんてんになり、無線移植をする「これこれ博打」の後、この後は近江の船で名刀・小烏丸を探す侍と遭遇する「八橋船」、大津の「関宿町」から「瘤弁慶」へとつながる。
2024.06.09
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【粗筋】 養育院を追われて葬儀屋に奉公した高橋清吉少年、同僚のいじめでロンドンに逃げ出す。腹が減って倒れると、チビ吉に救われ、掏摸の親分・藤五郎に紹介される。掏摸の現場から逃げ出したのを、犯人と間違えられて捕まる。誤解と分かって、ご隠居の福田勇吉が世話をするようになった。使いに出たところを、盗賊・関田文六の妻・おみねに見付かり、藤五郎のもとに連れ戻される。 手伝わないと殺すと脅されて、資産家・福田善吉の家に忍び込むが、悪事を嫌う清吉はそこから逃げ出そうとして文六に撃たれる。藤五郎の所に戻った文六は、おみねが清吉をそそのかしたと聞いて、おみねを撲殺、ここに警察が踏み込ん藤五郎一味が全員捕まる。清吉は傷も浅く、福田善吉の甥であることが分かる。福田勇吉はその父、世紀には祖父に当たる人物であった。清吉を引き取って、立派に育てることを約束する。【成立】 1900年の快楽亭ブラックの速記がある。全3席だが、1回が50ページもある。ディケンズの『オリバー・ツイスト』を翻案したもの。原作の遺産争いなど細かいところはカットして、急いで終わらせた感じ。同じ物が「孤児(みなしご)」という題で1896年に出版されているが、中身は全く同じ。
2024.06.08
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【粗筋】 道具屋で、殿様が刀の鍔に目をつけ、近習の侍が買い取り交渉にやって来た。「値はいくらじゃ」「六十四文でございます」「御前がお求めになるのじゃ。もっと高く言え」 主人、大声で、「六十四文でございます」【成立】 安永2(1773)年『聞上手』の「鍔の値段」。【一言】 「もっと値を高く言え」といったのに、商人は、音を高くした。(興津要:これこそ蛇足だと思うが、分からない人がいそうだね。尚、武藤禎夫の本には、「火炎太鼓のクスグリに用いられている」とあるが、「手一杯に申せ」と言う台詞は聞いたが、声を大きくしたのは聞いたことが無い)
2024.06.07
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【粗筋】 浅草観音境内で、姉が鎖鎌、弟は居合抜きで「がまの油」を売っている。そこへ現れた侍、20数年前の古傷に効くかと尋ねながら懺悔話を始めた。 同僚の妻に横恋慕し、夫の留守を幸い手込めにしようとしたところ、夫が戻って来たため仕方なくこれを斬り捨てた。妻が「夫の仇」と掛かってくるのを、これも返り討ちにしたが、女の投げた懐剣が背中に刺さり、この傷になったというのである。 この話に顔色を変えた姉弟が、「さてこそ、なんじは岩淵伝内。かく言う我は、なんじのために討たれし木村惣右衛門が一子惣之助。姉上、御油断めさるな」 と叫んだので、回りはたちまち人の山。「なるほど、20年前のことと油断して口外したは、拙者の天命逃れざるところ。いさぎよく討たれようが、今は主を持つ身で、本日は使いに出た帰り。仕事を終え、お暇を頂戴してお相手いたそうが、この観音境内では迷惑が掛かる。明日正巳の刻、牛込の高田馬場で……」 と言うのを姉弟が承知して、仇討ちは日延べになった。さあ、噂が広まって翌日の高田馬場は黒山の人だかり。仇討ちの始まる気配がないので野次馬が騒ぎ出した頃、一人が茶店でのんびりしている伝内を見つける。実はがまの油売りの姉妹は自分の子供だという。「ええっ、なんだってあんな嘘をついたんです」「あれで本日ここに人が集まるであろう。わしらは茶店のあがりの二割をもらって、楽に暮らしておるのだ」【成立】 (宝暦8(1768)年『江戸百化物』の「敵討の化物」が原話。「仇討屋」「敵討ち屋」とも。冒頭の蟇の油口上では「がまの油」と同じものを演じる 三遊亭金馬(3)の十八番。他の演者も取り上げてはいるが、三遊亭圓生(5)の速記がある他は、速記、録音とも金馬以外に残っていない。今の演者も、みな蟇の油から同じ演出。「蟇の油」という落語があって重複するから、この噺に口上を入れてしまうのは識者から非難されることとなった。【一言】 それにしても、舞台を浅草から高田馬場に移すところが、仇討屋の演出の妙。ここは将軍の命によりつくられた「堅は東西へ六町、横幅は南北30余間」(江戸名所図会)の弓馬調練の場所としてよりも、ご存知、堀部安兵衛仇討の地として夙に有名なのだから。(江國滋)● 落語「高田馬場」は、多視点の物語だ。これといった主人公は存在しない。存在感を放っているのは、岩淵伝内役の老人だが、やはり、主人公と言い切るには抵抗がある。主人公はいない……いや、逆だ。全員が主人公なんだ。答えが見えた。仇討ちに翻弄される町の人々……群衆こそが主人公なんだ。(大倉崇裕)【蘊蓄】 高田馬場の古称は「たかたのばんば」。JR山手線と西武新宿線の交差する辺りで、越後高田藩主松平忠輝の母・茶阿局が賜り、彼女が高田様と呼ばれたことに由来する。 堀部安兵衛の名高い高田馬場の仇討は1694年2月11日。たすきを掛けようとした紐が切れ、居合わせた娘が帯の紐を貸してくれて間に合わせる。これが縁で娘と結ばれ、堀部弥兵衛の養子となる……というのは芝居の演出。武家の女は見世物さえ見物をすることはなく、このような仇討ちを取り巻くはず訳がない。
2024.06.06
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【粗筋】 伊勢屋の婚礼に仲人役を仰せつかった八っあん、隠居に羽織袴を借りに来て、仲人なら御祝儀に「高砂や」くらいはやるようにと言われる。謡など知らぬ八っあんだが、頭だけ謡えば御親戚の方が付けて下さるだろうという言葉に安心して、練習を始めた。豆腐屋の真似をすることで、何とか出だしだけは謡えるようになった。 さて、婚礼で「豆腐ィッ」と調子を試した後、「♪高砂や、この浦船に帆を上げて」だけをやって、「後は御親類方で」と言うが、困ったことに親類一同不調法。「どうぞ、先を」と勧められて、同じ部分だけを繰り返すうちにとうとう泣きっ面になってしまう。「♪この浦船に帆を下げて」「下げちゃ駄目ですよ」「♪高砂や、この浦船にィ、助け舟ェ」【成立】 1705(宝永2)年、露の五郎兵衛作『軽口あられ酒』の「正月うたひぞめの事」。正月の謡の会に「高砂やこの浦船に帆を上げて」だけを覚えて、誰か後を付けてくれるだろうと参加して、「助け船」 1807(文化4)年、喜久亭壽暁のネタ帳『滑稽集』の「是より巳新作」の項に「うたい こんれい」とある。「高砂」「仲人役」とも。豆腐屋の調子は、普通の豆腐屋でやると、どうしてこれが「高砂や」になるのか分からない。逆に「高砂や」の調子で「豆腐」をやるということだろう。どうも豆腐屋と謡がつながらない演者が多いように感じる。 たまに聞くことがあるが、落ちまで行ったことはほんの数回。明治には、謡がいつの間にか御詠歌になってしまい、親類一同が「婚礼にご容赦(「巡礼にご報謝」の洒落)というので落ちになっているものがある。御詠歌も分からないし、「助け船」の方がよさそうだ。明治の頃の柳家小さん(3)が改訂し、柳家つばめ(2)の速記が残る。【一言】 婚礼の噺に、「助け舟」とは、まことに奇抜で優れたサゲであるが、演者はこの噺に限らず、「なにかもっとよいサゲはないか」と、鵜の目鷹の目で、絶えず探し求めている。そこへ登場したのが、だれが考えたか知らないが、♪高砂や……を巡礼歌の曲で唄い、割科白的に落とす演り方である。この落とし方も、大正時代までは、東京でも巡礼の門付けを見かけたので、客も了解できたが、都会で巡礼が跡を絶った現在では、枕で巡礼について、くどくどしく説明しないと意味がわからないため、昭和、特に戦後は昔にかえって「助け舟」と演出するようになった。(飯島友治・巡礼の歌になり、一同そろって、「婚礼にご容赦(巡礼にご報謝)」と落とす演じ方が明治期には行われた。昭和40年頃の本には、今もこちらが普通だと書かれてるものがある)● ヤマは仲人さん後をといわれて、親類の人が続けてくれると思ったら、結局だれもやってくれなくて、さあ大変だとあわてる、その辺の気持の変わるところでしょうね。(柳家小さん(5))● 『高砂や』は謡ができないから演らない。昔、誰やらの婚礼に行ったとき、挨拶に観世栄夫(かんぜひでお)が、♪高砂やァ……て歌(や)った。皆食われたっけ……。“婚礼にご容赦”(つまり「巡礼に御報謝」に掛けてるわけだ)で噺は落(さ)げるが、ほとんどはそこまで演らずに終わる。口上が謡調子になり来客一同が謡う。これが落語家、できないのだ(手前えも含めて)。また、演るほどの落げではないということか。でも、雷門助六(八代目)はきちんと演った。結構であった。(立川談志(7:自称5))【蘊蓄】 『高砂』は、世阿弥作の代表的な一番物。『古今集』仮名序と「たれをかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに」「われ見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松いくよ経ぬらむ」の歌が素材。
2024.06.05
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【粗筋】 与太郎が馬鹿なことばかりしているので、信心を勧めた人がいる。お天道様を毎日おがめといわれて、朝になると太陽を拝み始めたのはいいが、だんだん昇って行くので、どこまで行くか追ってみようと思いつき、弁当持参で西へ向かった。途中で日が暮れてしまったが、とにかく西へ行けば追いつくだろうと、寝る間も惜しんで走り続けると、やがて東に太陽が昇ってきた。「しまった、追い越した」【成立】 寛政10(1788)年『善謔随訳続編』の「愚人追日」。落ちは「あっ、行き過ぎてしまった」というものも。上方では「お日いさんの宿」という。桂春団治(2)は「八問答」にそのまま入れて用いていた。
2024.06.04
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【粗筋】 嫁がお婆さんのダイヤモンドが欲しいと言うので、息子が10万円で譲ってくれと頼むと、これは亡くなったお爺さんが40年前に贈ってくれたものだと言う。出入りの宝石商から千円で買った物だと言っていると、その宝石商の斎藤さんが挨拶に来たので、奥で婆さんと話をする。 嫁が当時千円なら、百万近くするかも知れないというので、隠居所の話を立ち聞きする。斎藤さん、当時千円のダイヤなら、安くても5、60万円になるだろうと言っていたが、お婆さんが「あなたから買った物だそうですよ」と言われた途端にしどろもどろ……実は当時お爺さんの事業がうまくいかず、ガラス玉を贈って、いずれ本物と交換するというお爺さんの作戦に加担していたのだ。それをそのまま忘れて亡くなったらしい。「あらまあ、そうですか。お爺さん、本当ですか……お爺さんの声が聞こえました。わしを小突き回していいが、もう死んでいるから、代わりに斎藤さんを小突いてくれ……そう仰っています」「そんな無茶な」「冗談ですよ。本当は、斎藤は酒が好きだからご馳走しろといってました」 とお酒を用意する。そもそもお婆さんに欲はなく、お金になってもあの世に持って行けないからどうでもいいと言うのだ。二人で宴会を始め、お酒が足りないと息子を呼ぶと、立ち聞きしていた夫婦がそろって入って来る。「そういえば、お前、ダイヤモンドを10万円で売ってくれと言ってましたが、親子のことでもあり、半分の5万円でいいですよ」「ああ、いや、その……実は夫婦で話して、お父さんに買っていただいたものだから、お母さんが大事に持っている方がいいと思いましてね……はい」「そうかい……お爺さんに伺ってみましょう……はい、あらそうですか……お爺さんはお前の言う通り、私が持っているのがいいと仰っています」「そうでしょう」「その代わり、お前に小言を言ってくれと仰ってます」「え、私の御小言ですか」「人の話を無暗に立ち聞きするもんじゃない、ってね」【成立】 鈴木みちをの作品を、古今亭今輔が演じた。これもお婆さん落語の一つ。
2024.06.03
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【粗筋】 女郎が大きな字を書いているのを、幇間が見つけて、「何だい、その大字は……屏風へでも張るのかい」「いいえ、客への文でありんす」「おい、そんな大きな字で書くことはねえ。よほど大層な無心じゃねえのか」「いいえ、客がつんぼだから」【成立】 1772(明和9)年『楽牽頭』の「大文字」。「おおもじ」というのが本当だろうが、上方の本に「だいもんじ」と紹介されていたので。京都の行事と関係があるのだろうか。そうとも思えないが。
2024.06.02
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【粗筋】 先生の家の裏山で自殺をしようとしたのが、金が手に入らない、女にもてないという男。先生はタイム・マシンを作ったから、好きな時代に行けると言う。他の時代に行って金持ちかもてるようになろうと、実験台になった。 まずは太古の昔。神様が生み出した最初の人間がその男。神様にかみさんを作ってくれと言うが、まだその時期ではないという。何度も頼むと、神様がかみさんを持っていないのにお前にかみさんを与えてたまるかと開き直った。 少し時代を戻すと、戦国大名。家老から、跡継ぎがないから子作りをするよう言われるが、その気になったところへ四方から夜討ち。こりゃいかんと逃げてしまう。 大正時代に着いて、芸者がお金なんかいらないと寄って来る。いいから取っておけと押し付けると、お金よりあなたの側にいたいと言う。そこへ番頭が来て、店がつぶれました。芸者に、じゃあ今の金を貸してくれと言うと、もらった物は私の物。女の不実さに未来を目指す。 未来に着いたら女に囲まれた。男は暴力をふるい、戦争を起こしたり、ろくなことはしないというので、全て動物園のオリに閉じ込めて女が仕事をする時代になっていた。こんな所にもいられない。「元の時代が一番いいや。戻ろう……あれ、ダイヤルが壊れちゃった。どこへ行くのか、分からねえや」【成立】 三遊亭金馬(4)が、小金馬時代、昭和40年頃に演じた。作者がいるのだろうが未詳。
2024.06.01
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