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2014/09/09
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カテゴリ: 歴史
京都の話題が続きますが、もう少し我慢下さい。
最近、自分の身の回りに興味が湧いてちょいと調べ始めてます。

私は母方は京都系ですが父は滋賀県出身で、戦後に京都に住む
ようになりました。今の実家の建物は明治末期に建てられた質
素な町屋で、京都御所のすぐ近くです。

ではもっと昔、この地には何があったのか知りたくて、平安京
の地図を眺めてみました。ところが東西の通りはありましたが、
南北の通りがありません。通りの名称も違います。


平安期の地図-w500
<平安京の地図>


古地図を頼むと数冊の地図本と、幅60センチ程のでかい絵図集
をワゴンで運んで来てくれました。室町から明治までの京都の
絵図です。市内の各通り名や屋敷などが詳細に描かれています。

まずは平安京の概要から読む。
なんと平安京は完成してなかったそうです。どうも財政難で
桓武天皇は途中で造営を止めたとのこと。なので道も建物も
完成しない区域があったとか。だから現在我々が見る平安京の
図は完成予想図。

区域設定にも誤算があり、南西部は湿地のために人は住まず、
洪水を嫌って避けた鴨川周辺は物流が盛んになって発展し、
都は東へとずれて行きます。


少し人々が戻り始めたとはいえ、上京と下京の一部だけ残り、
それをつなぐ室町通り沿いに人家が残るのみという状態。

だから秀吉は京都を改造するというよりは復興に近いかたち
だったようです。

したがって秀吉の改造は大々的な荒療治となります。御所の

分け、そして「天正の地割」。

町中の主要な建造物や東西の道は残すにしても、「条坊制」
で正方形だった町を縦に二分し、長方形にしてます。これは
町の中央部は使いにくく畑などにしていたので、無駄な空間
を解消し、より多くの住宅を誘致出来ました。同時に大きな
地区を所有する勢力を排除する意味もあったようです。

新しく作られた通りは両替町とか車屋町など親しみある名称
となり、東西の通りの名称も、春日小路が丸太町通り、大炊
御門大路が竹屋町通りと変わっています。

なので実家周辺の環境は1590年(天正18年)に、御所が現在
の位置で整備され、町割は縦長nになり、親しみやすい通り名
や町名が使われるようになったようです。

もちろんその後の戦乱や地震などで町は幾度も消失しましたが、
区割りは今もそのまま残っています。


江戸期の京都-w500
<江戸期の地図>

京都地図(平安、江戸期)-w500

*上記図の原典/平安京と現在の比較はこちらのサイトで...(拡大出来ます)
平安京の条坊図をGoogle Mapに重ねて遊んでみなはれ。


しかしこの町内も年寄りとマンションの若い住人ばかりに
なってしまい、昔の町を語れる人はもういません。

昔の面影を残すものといえば、数軒に減った改築されてない
町屋と、地蔵盆のご本尊や回覧箱くらいのものです。木箱の裏
には明治十三年という年代が書かれてました。

こうして、町の歴史は忘れられていくのですね。

回覧箱-w400
<町内回覧箱>



ご参考:秀吉の京都改造の詳細文献
京都改造 - 奈良大学リポジトリ(Adobe PDF)





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最終更新日  2014/09/11 09:55:12 AM
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