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最近の法曹人口問題の動きについて。私も弁護士の端くれとして、この話題には触れないと、と思っていましたので書きます。「司法改革」の一環として、司法試験の合格人数を年間3000人程度にするという政府の方針について、日弁連の宮崎会長が「法曹の質を確保するための見直しをすべきではないか」と言ったとか。それに対して、政府側の町村官房長官は、今さらそんなことを言い出すとは「見識を疑う」と言ったらしい。司法試験の制度改革についてはここでも何度か書いたと思いますが、少し前までは合格人数が毎年4~500人だったのが、私が合格した平成10年では800人、最近では2000人程度になっている。なぜ司法試験の合格人数を増やすかというと、裁判官の数を増やして裁判の迅速化を進めることや、弁護士の数を増やして競争させて依頼するときのコストをさげたいなどの、経済界の要望に基づくものであると(他にもいろんな要素はあるかも知れませんが)一般的に言われています。しかし、司法試験の合格人数を増やしてみたものの、裁判官や検察官はそれと比例して採用人数が増えているわけではなく、弁護士になる人だけが加速度的に増えている。それで、これから弁護士になろうという司法修習生には、都市部では採用してもらえる弁護士事務所がないという就職難の状況が増えているようだし、現在弁護士をやっている人でも、今後競争激化による収益の悪化を不安に感じている人もいると聞きます。さて、これらの現状を前提として、この問題について触れてみたいと思うのですが、論点としては、・法曹の質の確保のために適性な司法試験の合格人数はどれくらいなのか。・合格人数を増大させることによって弁護士に競争を行わせるのが果たしてよいのか。・日弁連会長が言ったように、合格人数増大という政府方針は見直すべきなのか。これらの点について、収拾がつくのかどうかわかりませんが、私の個人的な考えを次回以降に述べてみたいと思っています。(司法試験改革にからんで、法科大学院制度については過去の記事に何回かに分けて書きましたので、興味ある方は合わせてご参照ください。長いですけど)
2008/07/29
今週は慌しくて、あまり中身のある話が書けていません(いつもそうかも知れませんが)。裁判所は、8月になると「夏期休廷」とか言ってあまり法廷が開かれなくなります。そのしわ寄せで、その前後の期間(7月下旬と9月上旬)は毎年慌しいのです。さて、裁判員制度の話。法務省は、裁判員が参加する刑事裁判の被告人に対し、ネクタイや革靴(に見えるサンダル)の着用を認める方向になりつつあるらしい。ジャージ姿だといかにも悪そうに見えるので、裁判員の偏見を防ぐためにネクタイとジャケットを着せるわけです。この話はずいぶん以前に書いたことがありますので、詳細はそちら(過去の記事)をご参照ください。これと関係して(関係ないかも知れませんが)、私が思い出すコントがあります。古いですけど、「ドリフ大爆笑」で、いかりや長介がヤボったいコートを着た刑事役を演じ、ゲストの前川清がヤサ男の容疑者役を演じる内容です。前川は「婦女暴行」の容疑で逮捕され、いかりや刑事に手錠でつながれて列車で連行される。2人の手は手錠が見えないようにジャケットで隠されていて、2人は列車のボックス席(2人がけ)に座る。そこに、向かいの席へ中年女性が2人座ってくる。そして何かの拍子に、いかりやと前川の手にかけたジャケットが下に落ちて、手錠をしているのがバレてしまう。中年女性はハッとして前の2人の男を見る。そして、さえない風貌のいかりやが「容疑者」で、ハンサムで身なりの整った前川を「刑事」だと思ってしまう。女性は前川に、「この人、何やったんですか」と聞くと、前川は、「ええ、婦女暴行です」と抜けぬけと答えてしまう、そういう内容でした。人を見かけで判断するということは、特に刑事裁判の場面においてはあってはならないことです。それでも上記のコントでおかしさを感じるのは、やはり、どうしても人って見かけで判断してしまうよね、という共感があってのことだと思います。だからこそ、日弁連が被告人の服装の改善を申し入れたのですが、私個人としては今でも、そこまでする必要があるのかなという疑念を感じざるをえません(詳細は上記過去の記事に)。多忙と暑さでつまらないことを書いてしまいました。暑中お見舞い申し上げます。
2008/07/25
旧長銀(日本長期信用銀行)の経営責任が問われた裁判で、元頭取らに対し最高裁が逆転無罪判決。恥ずかしながらこの事件、裁判で何が問題になっているかを存じませんでした。報道によると、長銀の破綻は平成10年(1998年)10月。私が司法試験に受かった年で、10月といえば最後の関門・口述試験を受けていた時期ですから、新聞を関心もって読む余裕はなかったでしょう。当時は、何か銀行がエライことになってるなあ、くらいにしか思っていなかった。それはともかく、この元頭取たちが何の責任を問われていたかというと、証券取引法違反や商法違反。不良債権の査定が法律の求める基準によって行われていなかったという責任が問われていた。細かい話は省略しますが(私が理解していないため)、検察側が主張するところの「基準」というのは、当時、旧大蔵省が通達として示していたけど、一般的には普及してはいなかったもので、それに従わないことが直ちに刑事責任の根拠となるものではないということのようです。会社や銀行の破綻に限らず、行政の不始末なんかでもそうだと思いますが、大きな問題が起こると多くの人は「真実の解明を」「再発の防止策を」と唱えます(それ自体は当然のことです)。しかし、その真実の解明はいつの間にか「個人の刑事責任の追及」に話がすり替わって、何年か後に有罪の判決が下ると、「あの事件はあの人が悪者だったんだねえ」で終わってしまう。(そういった世論を受けた「国策」としての捜査に限界があったと、日経なども指摘していました(19日朝刊))。それにこの事件は、不良債権の処理に問題があったか否かが問われた刑事裁判だったわけですが、そもそも不良債権を作った人(いい加減な融資をした人)の責任はどうなるかというと、「時効」で責任を問われないらしい。会社内の問題を公にしないままにトップを退いた人は「名経営者」と讃えられ、次の人はトップになって始めてその蓄積された問題を知らされ愕然とする。どこかでその問題の処理を誤って会社が破綻したりすると、その人が破綻のすべての「元凶」であるかのようにそしられる。真山仁の小説「ハゲタカ」にも確か、そんなくだりがありました。最高裁の判断は、個人の刑事責任について冷静で厳密な判断を下したものです。これをきっかけとして、「じゃあ本当の問題はどこにあったのだ」ということが議論されていくほうが、再発防止のためにはよほど望ましいと思います。
2008/07/22
最近、公務員が勤務中に役所のパソコンからインターネットにアクセスしていることが問題とされているようです。もっとも、インターネット上のサイトは執務に関係するかしないか線引きが難しいことが多く(当ブログだって法律関係のサイトに見えて雑談が多い)、ネットへのアクセスを規制すると執務に支障が生じることもあるでしょう。少し前は、勤務時間中に勤務外の行動をしているというのが問題になり、たとえば消防署員が庁内で「筋トレ」していたことが新聞で取り上げられていました。これなど私は、構わないんじゃないかと思ったほうです。もちろん、手の空いている時間中であること、何かあったらすぐに行動できることが条件ですが。その時間、庁内でボーっとしているよりは、体を鍛えていたほうが消防署員としての活動にも役立つであろうと思うのです。私も大阪地裁での法廷に出た帰りに、「関西ウォーカー」でも立ち読みしようと地裁の地下の書店に寄り道すると、先ほどまで法廷で顔を合わせていた裁判官に出くわすこともあります(もちろん裁判官は関西ウォーカーではなく法律書を見にきている)。それを見て、裁判官が職場放棄していると思ったことはありません。地下の売店への散歩がてら、法律書の新刊をチェックするというのも仕事のうちでしょう。このように、仕事とそれ以外の線引きは難しいこともあり、公務員がネットをやっていようが筋トレをやっていようが、そう神経質になることもなかろうと思っていました。そうしているうちに、橋下府知事が執務時間中に公用車を使って、大阪市内のホテルのジムに行って筋トレしていたという報道がありました。何だか、揚げ足とりみたいに思いましたが、皆さんはどうお感じになられたでしょう。一般の公務員は言わば国家や府県の「機械」であって、決められた時間内は職場に張り付いていないといけないのに対し、トップである知事や大臣は必要な命令を下してその結果に責任を取るのが仕事であって、庁内にこもっている義務はない。知事の行動に法的な問題はないと思われます。しかし、やはり釈然としない点が残るのも率直な感想です。橋下府知事は(実際にそう言ったかどうかは知りませんが)、職員の勤務時間中の私語やタバコ休憩ですら問題としている。職員にはそれほど高度のモラルと労働生産性を求めつつ、自分自身は「最近太ってきたから」という理由で平然とジムに行っていては、職員の信頼も得られないし、何より「すべてを投げ打って大阪府のために命がけでやってくれている」という府民の信頼を損なうことになる。忙しいけど運動はしたいと言うのなら、やりようはいくらでもあるはずで、私自身がやっていたように、自宅で1時間早く起きて「ビリーズ・ブート・キャンプ」でもやればいい(最近少しサボっていますが)。橋下府知事のやったことについて、法的問題はないのでしょうが、職員の志気と府民の信頼を損ないかねない、トップとしてはつまらぬことをしたものだなと思っています。
2008/07/18
チワワを怖いと蹴り殺した男が器物損壊罪で捕まったというニュースがありました。これについて論じようとしているのではなく、そういえばチワワのブームも収まってきたなということを思い出したのです。ブームのきっかけは、消費者金融(サラ金)のCMだったと記憶しています。その後サラ金に対する風当たりが強くなり、私の同業者にも「多重債務者を生み出すきっかけとなるからCMを規制すべきだ」という人が出てきました。私は、サラ金を利用するかどうかは自己責任であって、CMを見ている分には面白いから構わないのに、と思っていました(過去にも当ブログで書いたかと思います)。最近のサラ金のCMは見ていて面白くなく、例えばお姉さんが深刻な顔で「本当にお金が必要ですか?」と問いかけてくる、貸す気があるのかないのか分からないようなものばかりです。そのうちタバコの広告みたいに、「借り入れによる精神的ストレスはあなたの寿命を縮める原因となります」とまで言い出しかねない自粛ぶりです。ともかく、サラ金のCMには寛容であってよいと考える私でも、最近「これはアカンやろ」と思うテレビCMがあります。どこの会社かきちんと見ていないのですが、女性が画面に出てきて「毎月の明細書みて、利子しか返せていなくって…エヘッ」とか言いながら、「おまとめローン」を利用するというものです。つまりこの女性は複数のサラ金から借入れがあって、利息がかさんで、月々返済しても利息分しか返せていない状態になっている。そこでさらに別の一社から借入れをして従来の借入れ先に返済を行い、債務を一本化するというわけです。このCMには何パターンかあり、別バージョンでは憤然とした表情の男性が出てきて、「妻が明細を見て、元本がぜんぜん減ってないじゃないかって言われまして」となぜか「逆ギレ」風に語っていたりします。しかし私たち弁護士から言わせれば、「利息しか返せていない」というのは典型的な多重債務のケースです。医者ふうに言えば、病状は相当進行しています。のん気にテレビに出て「エヘッ」とか言ってる場合か、と心の中で突っ込みつつ、あれは実際の多重債務者じゃなくて役者さんだから、と自分を抑えています。「おまとめローン」「債務の一本化」と言われると、借金返済のための素晴らしい手法と感じる方もいるのかも知れませんが、これはあくまで「新たな借入れ」であって、根本的な問題の解決にはなりません。そういうときは、すぐにでも弁護士に相談に行くべきなのです。解決策は必ずあります。……と結局今日は雑談の末にウチの宣伝をして終わります。
2008/07/16
昨日の夕刊から。「布川事件」の再審決定。私はこの事件を存じませんでしたが、昭和42年に起きた強盗殺人事件です。有罪で無期懲役とされた人が、無実を主張して再審を請求し、東京高裁がこれを認めた。すでに終わった裁判をもう一度やりなおせというわけだから、再審請求には「新規かつ明白」な証拠が必要とされる(刑事訴訟法)。本件での新証拠というのは、「殺害方法についての被告人の自白は、遺体から判明する客観的な殺害の手口と異なる」という医師の鑑定書だったようです。何十年も前の事件について今になって新たな遺留品が出てくるなどは考えられないので、再審事件での新証拠とはたいてい、こういうものです(刑事訴訟法を学んでいる方は、かの「白鳥事件」再審決定をご参照)。さて問題は、そもそもこの男性はどうしていったん有罪となってしまったかということですが、男性は、前の裁判のときから、「自白は強要されたものだ」と主張していたそうです。警察の取調べに対し、「私がやりました」と言ってしまったが、裁判の段階で否認に転じた。よくある話ですが、捜査段階で自白し、その趣旨の供述調書ができあがってしまうと、捜査段階でそれを覆すのはなかなか困難です。では、本当にやっていないのだとしたら、どうして警察官に対し「私がやりました」と言ってしまうかというと、それはやはり、「そう言ってしまわざるをえないような状況」に立たされるからでしょう。警察署に留置されて取調べをされるという経験は、さすがに私にはありませんが、捜査段階の弁護を引き受けると、逮捕当初は元気だった方でも、留置が続くに連れて精神的に参ってきているのがありありと分かることが多いです。「取調べの刑事に迎合することなく、知らないことは堂々知らないと言ってください」私は接見のときに被疑者にいつも言います。でも同時に、実際にそう言い切れる人はなかなかいないこともわかっている。この布川事件の無期懲役は昭和53年に最高裁で確定し、犯人とされた男性は服役して、平成8年に仮釈放された。無期懲役でも18年くらいで出てくるというのが相場なのかどうかは知りませんが、もし再審で無罪となると、この18年は取り返しのつかないものとなります。刑事裁判の難しさと、刑事弁護の重要さを改めて認識させる事件ではあります。と他人事のように言わずに私自身も気を引き締めたいと思います。
2008/07/15
明石市の海岸で起きた砂浜の陥没事故で4歳の子供が生埋めになって亡くなった事件で、大阪高裁は10日、市職員など4人を無罪とした1審の神戸地裁判決を破棄し、地裁へ差し戻しました。この事件で2年前に1審無罪判決が出たとき、ちょうど開設直後のころの当ブログで、無罪判決は妥当だろうということを書きました。その点については こちら高裁判決は、「有罪」ではなく、あくまで「破棄・差戻し」です。とはいえ、「無罪と断ずるのは審理が尽くされていないからやり直しなさい」という意味で、報道されているように実質上の「逆転有罪」といえるかも知れません。1審では、陥没事故は予測できなかった(予測不可能な事故は防ぎようがない)、だから無罪とした。2審は、いや予測はできたはずだ、これまで周辺で同種の事故が発生していたのだから、とし、「予見可能性」を認めた。ではそれで直ちに有罪となるかというと、まだ足りない。予見できた事故を、何らかの手立てを講ずることによって回避することが可能であったという「回避可能性」がないといけない。「あれほどの事故であれば、仮に万全の回避措置を講じていても同じ結果が出た」ということであれば、回避不可能な事故もまた防げないということで、処罰されない。1審は、「予見可能性がない」という時点で切ってしまっていたので、そこは「ある」という前提のもとで、改めて「回避可能性があるか否か」を審理しなさいということです。回避可能性があるということになったら、あとは起訴された4人の職員(国交省の課長から明石市の課長まで、役職は様々です)の責任の度合いはどうかといったことも判断されることになるでしょう。上記の過去のブログ記事では、明石市が地方公共団体として賠償責任を負うのは当然としても、直ちに個々の職員をも刑事罰(懲役や罰金)に処すべきだとするのは飛躍だと書きました。その点の考えは今も変わるところはありません。そして今般、大阪高裁は慎重な判断の末に無罪判決を差し戻した。ひとまずは今後の審理に注目したいと思います。
2008/07/11
道頓堀の「くいだおれ」がこの8日をもって閉店しました。関西版だけなのか、新聞各紙の社会面でも大きく取り扱われていましたが、私自身はここでも以前書いたとおり、このお店と「くいだおれ太郎」の人形にそう思い入れがあるわけでもないので、ああそうですかといったところです。ここ当分は、間違いなく道頓堀が混雑するだろうと思って立ち寄っていませんでした。うちの事務所のある堀江・心斎橋の界隈から千日前や法善寺横町へ行くには道頓堀を越えなければいけなかったのですが、混雑が収まればまた、仕事のあとで法善寺横町のバーに寄り道して1杯ひっかけて帰れるなと思っています。と、個人的なことはともかく、くいだおれ太郎は道頓堀に置かれ続けることになったみたいですが、あの建物と、キャラクターとしてのくいだおれ太郎を誰が買い取るかについては、まだ最終的に決まっていないようです。これとの対比で思い出すのが、「ワッハ上方」(大阪府立上方演芸資料館)です。橋下府知事が、府の財政を圧迫するとして規模縮小・移転を検討している。それに対しては、いとし・こいしさん(のご存命のほう…エート、いとしさんでしたか)や上方演芸の関係の方が反対の声明をあげている。これも従来書いたとおり、私は橋下府知事の「劇場型」と言われる府政は冷ややかに見ているほうで、あのパフォーマンス的な議論の場面よりは、いとしこいし師匠の漫才を見ているほうがよほど好きです。しかしワッハ上方に関しては、気持ちはわかるけど縮小・移転はやむをえないかと思っています。なんばグランド花月の真ん前、ミナミの一等地にある吉本興業所有のビルを大阪府が借りて、年間で億単位の賃料が支払われている。もちろん文化の育成や保存というものは純経済的に見ればもともと「ムダ」なものなのでしょうが、それにしても何億円を吉本興業という一私企業に支払ってまであの場所を借りる必要はあるのか。(余談ながら同じビルにはフィットネスクラブの「ティップネス難波」があり、私も会員だったのですが、今年の春に撤退しています。賃料が高いのが大きな原因だったと思います)そしてこの度のくいだおれの一件でも対比は鮮明になりましたが、くいだおれは閉店が発表されてから食事に来る客が殺到したし、お店の営業権やくいだおれ人形の利用権を買い取りたいというオファーが殺到した。一方ワッハ上方は、橋下府知事が縮小・移転を表明してから来訪客が増えたという話は聞かないし、うちの建物を提供するといった申し出も聞かない。建物所有者である当の吉本興業も、賃料は安くしていいとの姿勢を示したようですが、「無料で貸すから続けてくれ」とまでは言わない。そして私自身、ワッハ上方には行ったことがありません。企業としてのくいだおれと、公的施設であるワッハ上方を単純に比較できるものではないかも知れませんが、府民にとって本当に必要なものなら、自然と支持が集まるはずです。ワッハ上方はそういう点で縮小・移転も冷静に検討せざるをえないと思っています。
2008/07/09
先週書いた、ブログ読者からのリクエスト編、続き。以前も書きましたが、ご希望のテーマがありましたらお寄せください。ただし私の得手・不得手により、内容には程度の差が生じる(不得手なテーマは浅い話しか書けない)のでご了承ください。道交法改正により自動車の後部座席にもシートベルト着用が義務づけられるようになったが、これはいかなる影響をもたらすか。特に弁護士としては、「過失相殺」(かしつそうさい)の判断に与える影響に興味があります。誰しも常識的にご存じかと思いますが、交通事故に遭った被害者は加害者に対し、治療費などの損害賠償を請求できる。しかし被害者自身にも何らかの落ち度があれば、双方の落ち度(過失)の割合に応じて、賠償金額が割引される。これを過失相殺といいます。運転席や助手席の人なら、シートベルトをしていなかったせいで衝突により大ケガをしても、請求できる賠償額は大幅に割り引かれるでしょう。後部座席であっても、シートベルトをしないためケガが拡大することがあるのは以前から知られていると思います。そして実際、ベルトなしでケガが拡大したと言える事故であれば、過失相殺が働くでしょう。そう言えるかどうかは、被害者のケガの内容によって判別するのでしょう。(たとえば体が前に飛び出して頭や胸をどこかにぶつけてケガしたのなら、ベルトによって防げたと思われ、ムチ打ち程度であればベルトの有無であまり違いはないかも知れない)結局、過失相殺が働くか否かは、被害者が被害防止のためにどれだけ注意を払っていたか、そして注意を払っていないことがどれだけ被害拡大につながったか、という観点から判断される。その点は、道交法が改正される前でも後でも変わるところはない。では、今般の道交法改正はどういう意味を持つか。違反者から点数を引く以外に意味はないのかというと、たぶんそれだけではない。この改正により、従来よりいっそう、後部座席にもシートベルトが必要という意識が広まるようになると思いますし、そういう意識の広まる中で、ベルトをしないことによってケガが拡大した場合、過失相殺の割合(賠償金額が割り引かれる割合)が増えていくという傾向が判例上も見られるようになると思います。私自身は車を運転しないので、最近の道交法改正とガソリンの値上げはあまり身近でない話として聞いておりまして、このような浅い話しか書けません。個人的には、大阪でタクシーに乗ったとき運転手さんが「ベルト締めてや」とあまり言わないのが不思議に思っており、タクシー会社は今般の改正をどう考えているか知りたいのですが、その辺は機会があれば調べてみます。
2008/07/08
民法772条のことについては、従来から何回も書いてきました。もっとも私自身、真に書きたかったのは、この条文そのものというよりは、「ある制度の改廃を論じるにあたっては、特定の事例だけを取り上げて短絡的に結論すべきでない」ということであって、それを民法772条を題材に書かせてもらったということです。この条文のせいで出生届を提出されず、戸籍がない子供がいる。母親がその子を抱いて、「この子にも戸籍を与えてください」などと涙ながらに訴えている場面を見せられると、「そうだ、かわいそうじゃないか、こんな悪法は廃止してしまえ」と感じる人は少なくないでしょう。しかし、その部分だけを取り上げてこの条文を廃止するとどうなるか。ある女性から生まれてくる子供が「本当に」前夫Aの子供であった場合、Aがその女性を「追い出し」的に離婚してしまったとしても、Aは子供の養育費を払わなくてよくなる。その子は「前夫Aの子」と扱われなくなるからです。女性がAと死別した場合は、Aの財産の相続権は子供でなくAの両親、つまりその女性からみて舅と姑に行く。舅と姑はきっと、ニンマリほくそ笑むことでしょう。民法772条は本来、生まれてくる子供を保護するための規定です。これを制定した当時(昭和20年代)は、夫Aと離婚または死別した後ほどなく生まれてくるのは通常そのAの子であると考えられ、その期間に別のBの子供が生まれるなどということは、あまり想定していなかったのでしょう。「時代に合わない」などと言ってこの条文を廃止すれば、通常想定されているケース(子が実際にAの子であるケース)の保護がなくなり、上記のようなことになる。そうなればその母親がその子を抱いて、「この子に養育費を」「父の子としての相続権を」と涙ながらに訴え出すでしょう。そしてその数は間違いなく、現在「この子に戸籍を」と言って泣いている女性の数の比ではないくらいに膨大でしょう。ある制度によって不利な扱いを受けている人がいて、その人が声をあげて、制度を改正(または廃止)すべきだというベクトルが働く。しかしその一方では、その制度のおかげで保護されてきた人々はたくさんいるはずで、改正すべきでない、現状を維持すべきだというベクトルも働いている。その現状維持のベクトルはたいていの場合、「声なき声」であって目立ちにくい。民法772条の問題に限らず、特定のケースや一部の「声」だけで制度を廃止・改正すると、もっと不都合なことが起こる。だから「声なき声」を慎重に聞かないといけない。とはいえ民法772条と戸籍の問題は、「一部の特殊なケースだ」「そんな時期に別の男性の子供を生んだ母親の自己責任だ」と言って済ませられないほどの状況になりつつあるのは事実です。そういう事実を前にして、民法772条を変えるか否かは、最終的には国会が決めることです。ひいては国会議員を選ぶ私たち国民が決めます(私自身は変える必要はないと思います)。今回、最高裁がやろうとしたのは、存在する法律を尊重しつつ、かつ一部で不合理なケースが生じているのを救済するために運用を改善するということであって、妥当な結論であると考えます。
2008/07/05
民法772条に関する最近の動き、続き。最高裁は、この条文のために実父Bではなく前夫Aの戸籍に入ってしまうのを回避する方法として、家庭裁判所での「認知調停」が使えるとの見解にたっているようです。認知というのはご存じのとおり、父親が生まれてきた子供を「自分の子だ」と認めることです。本来の単純な「認知」は、父親が役所に届出を出すだけでできる。もし父親が認知しない場合は、子供(実際は母が代理)が父親を訴えて、裁判によって認知の効力を認めてもらう「強制認知」という手続もある。「認知調停」というのは、子供(と母親)が父親を相手として「話し合い」の上で認知してもらおうという手続です。調停の相手方となるのはこの場合、上記の実父Bです。前夫Aとはケンカ別れしていて疎遠になっていても、Bはきっと母親に協力的だろうから、当然話し合いにのってくれて、認知するという調停が成立することが容易に予想できる。いわば「出来レース」なのですが、これをやることの意味は何かというと、家庭裁判所という公の場で、裁判官や家裁調査官も介入して、母親や実父Bから事情を聴くことによって、Bが父親であると認めてよいかを判断するというプロセスが入るということにあります。実父Bが役所に届け出るだけの単純な認知であれば、民法772条によって前夫Aが父と「推定」される効力が勝ってしまう。そのため、法律を執行する立場にある役所としては、Aと離婚前または離婚後300日以内に生まれた子供は前夫Aの子供と扱わざるをえない。最高裁は、その「推定」が破られるのはどういう場合であるかの指針を示したわけです。家裁が介入して一応の調査をした上で行う認知調停が成立したのであれば、役所としてはBの子と扱ってよい、ということです。それでもまだ「どうして実父の戸籍に入るためにわざわざ認知調停まで起こさないといけないのだ」と感じる向きもあると思いますが、お役所の判断ひとつで推定が破られる(Bの戸籍に入る)かまたは破られない(Aの戸籍に入る)かが決まるより、よほど明確でよいように思えます。
2008/07/03
当ブログが以前から取り上げております、民法772条の問題について、最近の動きを補足します。過去の経緯も含めて書いたら長くなったので、最新の動きのみサラッと読みたい方は、( )の中を飛ばして読んでください。民法772条とは、前夫Aとの離婚前、または離婚後300日以内に、別の男性Bとの間に子を生むと、真の父親である男性Bの戸籍でなく、前夫Aの戸籍に入ってしまうという規定です。それを避けたいがために母親が出生届を出さずに、住民票や戸籍がない子がいることが問題とされてきました。(この条文の趣旨と、これまでの問題については過去の記事にて整理しておりますので、ご参照ください。こちら )先月、報道されたところによると、総務省がこれらの子供を一定の条件のもとに住民票に記載する扱いを進めており、各役所に通達を出すらしい。(その要件というのは、1 子供が日本国籍を有するが、2 民法772条により前夫の子と扱われてしまうために、3 実父Bが認知するか、前夫Aとの調停(親子関係がないことを確認する)を進めている、といったものであるようです)ただこの通達というのは、「住民票」(住民基本台帳)に記載するための要件であって、これを満たしたところで実父の「戸籍」に入れてもらえるわけではないようです。住民票があれば確かに、実生活上の不都合はかなり解消されます。私も司法試験を受けるときに住民票を提出した記憶があるので、もし私に住民票がなければ弁護士になれていなかったわけです。それでも、根本的なところの戸籍の問題、誰かこの子の父親になるのかという問題は残る。住民票の問題は上記の要件でクリアされたとしても、民法772条が存在する以上、離婚後300日以内に生まれてきた子は前の夫の戸籍に入るのです。(それを救済するため、昨年5月に法務省が通達を出しました(詳細は上記記事)。ただこの通達で救済されるのは、前夫との「離婚成立後」に懐妊したことが証明できる場合に限られるため、離婚成立しないままに新しい子を身ごもった場合は救済されない問題は残っていました)そこで、新しく生まれた子供が前夫の子であるという推定を破り、民法772条の効果を排除する必要がある。(従来は、母親が子供を代理して、前の夫Aに対して「親子関係不存在」の確認を求める調停を家庭裁判所に起こし、そこで前夫に自分の子でないことを認めてもらうという方法がありましたが、それだと前夫の協力を得る必要があった。前夫がイヤで逃げてきたとか、前夫と音信不通とかいう人は利用できないわけです)この点に関しては遂に、最高裁が動き出したようです。最高裁が、各地の家庭裁判所に対し、「認知調停」の手続を活用できると通達する動きをとるらしい(本日の産経朝刊より)。と、書いているうちに長くなったので、これがどういう手続であるかは次回に続く。
2008/07/02
ここでも何度か書いてきました、刑法39条の問題について。心神喪失状態で犯した行為は無罪になるという刑法39条が、最近の判決でいくつか適用されています。一つは、ここでも書いた、大阪府茨木市で車を暴走させて5人を死傷させた事件(大阪高裁)、もう一つは、茨城県土浦市で一家3人を殺害した事件(水戸地裁土浦支部)。いずれも犯行時に心神喪失状態だったことを理由に無罪判決。少しさかのぼると、渋谷で妹を殺害しバラバラにした兄に対しては、殺人は有罪としつつ死体損壊の時点では心神喪失で無罪とし、7年という比較的軽い量刑になった(東京地裁)。刑法39条の是非に対する私の考え方については、上記の茨木市の事件の第1審(大阪地裁)の際に書いたところに尽きています。過去の記事ただ、こういう判決が出ると、一見誰しも不合理性を感じると思いますので(私も感じる)、そのことについて少しだけ付言します。それは、刑法で言うところの、「無罪」という言葉の意味です。この言葉は、わりと広い意味を持っているのです。昨日、神戸地裁で、3年前の質店主強盗殺人事件に対する無罪判決が出ていましたが、このように、被告人が殺したとは認められないというときは無罪となる。(高裁、最高裁で逆転する可能性はありますが、)こういう意味での無罪判決が出たら、被告人とされた人は「俺は無実だった」と胸を張っていい。その他に、確かに殺したけど、やらなければこちらがやられるから殺したという場合、これも正当防衛が成立して無罪となる(刑法36条)。これは、やったのは事実だけど、仕方ない事情があった、だから罰するほどではないという意味での無罪です。幻覚や幻聴などの影響下で殺し、心神喪失で無罪となった場合というのは、やったのは事実だし、仕方ない事情もないけど、かと言って刑罰を科する意味があまりない、という意味での無罪です。決して、あなたは無実で無罪放免、胸を張っていい、という意味ではない。では、心神喪失で無罪となった人はどうなるのかというと、刑務所には行かないけど、然るべき医療機関に強制的に入ることになる。確かに、その先どうなるかがよくわからない(一生施設内にいるのか、どこかの時点で出てくるのか)というところが、我々にとってもどかしさを感じさせるとは思います(上記の過去の記事参照)。しかし、わけのわからない状態で殺人を犯した人を、即座に死刑台に送って終了、でよいかと考えると疑問です。猟奇的な殺人事件が起こるたびに、「犯人の心の闇の解明」を裁判所に求める識者の意見や世論を見かけますが、裁判所は人の心の闇を解明するような機関ではなく(迅速かつ適切に人を裁くための機関です)、そのような過大な要求は医療施設にこそ期待されるべきだと思うからです。
2008/07/01
今日の話題は、「自称ブログ愛読者」の方からのリクエストにお答えします。自動車に関わる仕事をしている関係で、近年の刑法や道交法の改正、特に「自動車運転致死傷罪」や「後部座席のシートベルト着用の義務化」が、自動車運転者の民事責任・刑事責任にどう影響を与えるか知りたいと。30代男性の方からです。この方からはリクエストのメールをいただいてから長らく放置していましたが、読者の皆さまもリクエストがあれば寄せてください。女性からのリクエストであれば迅速にお答えするかも知れません。さて、自動車運転致死傷罪について。これは比較的最近、平成19年の刑法改正で定められたものです(刑法211条2項)。通常の業務上過失致死傷(同条1項)は上限が懲役5年ですが、自動車運転に関して不注意で人をひいてしまうと、上限は7年になる。自動車で人を死傷させた場合の罪が軽すぎるのは昨今言われていることです。すでに平成13年には「危険運転致死傷罪」が規定され(刑法208条の2)、酩酊などの危険な状態で車を運転して人をはねると、死亡させると懲役20年まで、ケガだけでも懲役15年までに科することができる。しかし、この罪の成立には、「当時酩酊状態であった」(かなりのアルコールを摂取している必要がある)、そして「それを認識していた」という比較的厳密な要件が要求され、福岡で公務員が車を追突させて3人の子供を死なせた事件ではこの厳罰が適用されなかったのはここでも書いたとおりです。 過去の記事1 過去の記事2業務上過失致死傷罪(5年)では軽すぎ、危険運転致死傷罪(20年)では重過ぎる、または立証するのが困難である、というときのスキマを埋めるのが、自動車運転致死傷罪であり、今後、車で人をひいた場合は、基本的にこちらが適用されることになるでしょう。この自動車運転致死傷罪を定める刑法211条2項には、一応の安全弁がついていて、傷害が軽いときは情状により刑を免除できるとある。軽いケガで済んだ場合は、犯罪は犯罪だけど、刑は科せられないということもある。その場合でも、民事上の責任は免れるわけではなく、ケガをさせた被害者からは損害賠償の請求がきます。実際の刑法の運用としては、刑を免除してよいかどうかの判断材料として、きちんと民事上の賠償が行えているか、示談が成立しているかという要素が考慮されることになるでしょう。さて、もう一つ書こうと思っていた、「後部座席のシートベルト着用の義務化」の問題については、また改めて、書くことにします。リクエストいただいた方にはすみません。
2008/06/30
数日前の話になりますが、グリーンピースという団体の人が、調査捕鯨の船員が「お土産」として持ち帰った鯨肉を、搬送中の運送会社から盗んで、窃盗罪で逮捕されました。ここはいちおう弁護士のブログなので、捕鯨の是非とか、「お土産」として持ち帰ることの是非は触れません。グリーンピースの人たちは、「調査捕鯨員が鯨肉を持ち帰ったのは横領罪にあたり、それを警察に告発する証拠として鯨肉を持ち出したのだから、窃盗に当たらない」と言った。この点を法的に検討します。一見して無茶な暴論のように思えますが、グリーンピースの弁護士というのがいて、それなりに法律家らしいことを言っています。「告発を目的としたものなので、『不法領得の意思』はない」と。窃盗罪が成立するためには、「不法領得の意思」(ふほうりょうとくのいし)が必要です。つまり、単に他人のモノを奪うだけではダメで、その奪ってきたモノを、「自分のものとし、かつ、利用法にしたがって利用するつもり」である必要がある。(正確にいうと「不法領得の意思」とは、「権利者を排除して他人の物を自己の所有物として振る舞い、その経済的用法に従い利用又は処分する意思」と定義されます)ただこの「意思」を限定的に見ると、窃盗罪が成立する範囲は極めて狭くなります。たとえば女性の下着を盗んだ下着泥棒が開き直って、「俺はこの下着の利用法にしたがって自分で履くつもりだったんじゃない、見て楽しむつもりだったんだ」と言えば窃盗罪にならないかといえば、そんなことはない。観賞して楽しむという性的快楽を得るつもりであれば、それは不法領得の意思があると言っていい。このように、そのモノ自体から何らかの効用を得るつもりであれば、窃盗罪は成立する。グリーンピースの人は、奪った鯨肉をその利用法にしたがってハリハリ鍋にでもして食べるという意思はなかったでしょうけど、捕鯨反対運動の一環としての告発の物的証拠として利用するつもりだったでしょう。これは鯨肉を自分たちの求める効用のために利用する意思、つまり不法領得の意思があったとみていい。細かい話になりましたが、この事件で恐ろしいと感じたのは、警察でも検察でもない私的な団体が、犯罪だから告発するなどと言って他人の建物に入り込んでモノを取っていったということです。そんなことが許されるとなれば、極めて恐ろしい世の中になると思います。そんなグリーンピースとは果たしてどういう団体だろうと思って検索してみたら、グーグルの「関連検索」でトップに出てきたのは「グリーンピース ご飯」だったということをどうでもいいですが付け加えておきます。
2008/06/27
教師による体罰の話、続き。学校教育法によると、学校の先生は、生徒に体罰を加えてはならないとある。では、体罰を加えた教師はどうなるかというと、学校教育法は体罰を加えた教師に対する処罰を定めていないので、刑法上の暴行罪・傷害罪を適用することになる。では、教師は体罰が禁止されている以上、刑法35条(法令または正当な業務による行為は罰しない)が適用されず、生徒に手を出したら必ず有罪になるのか、というと、そうはならないと思われます。判例にも実際に「正当な懲戒権の行使にあたる」として教師を無罪としたケースがあるようです。一方、体罰で生徒を死なせた事案では有罪とされたものもある。つまり、学校教育法が禁ずる「体罰」というのは、「度を越した体罰」を言うのであり、適切な体罰は「正当な懲戒」であると解釈されているようです。結局、親も教師も、適切な範囲であれば体罰は正当ということになる。じゃあ学校教育法11条の「(教師は)体罰を加えることはできない」というのは全く意味のない但し書きなのかというと、おそらくそうではない。「正当」と解釈される範囲が、親に比べて教師の場合はずいぶん狭くなることを意味すると思われます(親は多少行き過ぎても処罰されないが、教師はちょっと行き過ぎると処罰される可能性がある)。東国原知事がいう「愛のムチ条例」などはなくとも、適切な体罰は法的にも許容される。では、あえてこれを条例化する意味はあるかというと、教師にとって許される体罰の基準を決めるという意味はあると思われます。しかし、実際にそれを定めるのは極めて困難でしょう。「愛のムチ」と言っても、「愛」とはその人の主観的なものですから、どういう場合に「愛」があるといえるかを法で定めるのは現実的に不可能です。加えて、本来これは「生徒の肉体に苦痛を与える体罰はいかなる範囲で正当化されるか」という峻厳な問題であり、それを「愛のムチ」とか「げんこつ」という微笑ましい名称にしてしまうことで、問題の本質が見えにくくなってしまい、不要な体罰が横行しそうな気がします。ちょうど不良少年たちが、「集団による強盗傷害」という重大犯罪を「オヤジ狩り」というユーモラスな名称で呼び始めたために、やっていることの悪さが理解できなくなり、軽い意識で犯罪を繰り返すようになったのと似たようなことになる懸念を感じます。かくて、「愛のムチ」条例はなくても適切な体罰は許されるし、あえてそれを作るのは困難であり、むしろ体罰が横行する危険を含む、ということで、そんな条例は要らないと考えます。
2008/06/25
宮崎県の東国原知事が、「愛のムチ条例」「げんこつ条例」を作ってはどうかと、どこまで本気かわかりませんが言ってました。曰く、昔は学校なんかでも悪いことをすると「げんこつ」で教えられたものだが、今はそれができなくなっているとのこと。「『愛のムチ』または『げんこつ』」と書くのが面倒なので、以下客観的に「体罰」と書きますが、同知事は、適切な範囲で体罰を復活させたいということでしょう。さて、この知事のいうように、昔は体罰が許されたのが今はできなくなったのか。その根拠はあるのか。そして、法律や条令で体罰ができると定める意味はあるのか。といったことについて、法的に検討したいと思います。戦前はどうだったかというと、きちんと調べていませんが、親や教師が子供に体罰を加えるのは法律以前の「当然」のことと考えられており、特に問題とされていなかった。戦後はどうか。親の場合は、戦後に改定された民法にいちおう規定がある。民法822条によると、親権者は必要な範囲で子を懲戒できる。明文に書かれていないけど、ここには体罰も含まれると解されます。親が子供に体罰を加えるのも、医師が患者の体をメスで切るのも、暴行や傷害にあたりうるけど、刑法35条は「法令または正当な業務による行為は罰しない」と定めているため、親や医師は処罰されない。もちろん、行き過ぎた体罰は単なる「虐待」であり、暴行罪・傷害罪で処罰されるし、親権が剥奪されることもある(民法833条、834条)。学校の先生はどうか。議論はあるところですが、憲法23条(学問の自由)や26条(教育を受ける権利)を根拠として、小中学校の教師には、生徒に対する「教育する権利」が認められるとされる。さらに直接的には、学校教育法11条に、「教育上必要があるときは懲戒を加えることができる」とありますが、この条文には親の場合と違って但し書きがあって、「ただし、体罰を加えることはできない」と明確に規定されている。ここからすれば、学校の教師は一切、生徒に体罰を与えることはできなくなりそうです。先生の体罰は一切禁止されるのか。だからこそ条例でそれを定める意味があるのか。長くなりましたのでその検討は次回に譲ります。
2008/06/24
これは触れておかないと、と思った興味ある事件です。司法修習生が、修習の一環として被疑者(容疑者)の取調べをしたときの様子などをブログに書いたことが、司法修習生としての守秘義務に反するとして問題になっているとか。この修習生がブログに書いた内容の一つとして新聞などに取り上げられていたのは、高齢の女性を取調べした際、「説教しまくり。おばあちゃん泣きまくり」というもので、司法試験の論文試験に受かったとは思えないほどの稚拙な文章ですが、それはともかく。司法修習生は公務員に準じた守秘義務を負っており、修習の際に知った内容を外部に漏らしてはならないことになっている。とはいえ、修習生がどんな修習を受けているかは、ある程度知られている。私も被疑者の取調べをしましたし、上記のブログにも書かれていたようですが死体解剖に立ち会ったりもしました。パトカーに乗せてもらうという、未だに何の役に立つのかよくわからない経験もしました。私のこのブログでも修習時代のことをたまに書いていますが、これまでお咎めはありませんでした(これからあるのかも知れませんが)。過去には、ある弁護士が、「修習時代に近鉄電車を運転させてもらった」と何かの本に書いて問題になったと記憶しています。(そのせいか、修習時代に私も近鉄電車の見学に行かせてもらいましたが、機械での運転シミュレーションしか経験しませんでした)ただこの時は、そんな記事を書いたのは誰だ、といった騒ぎにはならなかったようです。修習内容はどうしたってある程度もれてしまうから、すべてを秘密にするのは無理です。それに冒頭の修習生は、「おばあちゃん」とは書いたものの、個人が特定されるようなことは書いていない(と思う)。ではなぜこれが問題になったかというと、この先は私の個人的見解ですが、この修習生に、取調べを受ける人に対する配慮がなさすぎたのだと理解しています。人を裁く側の人間(裁判官)や、人を訴追する側の人間(検察官)は、その裁かれる人に対する「敬意」を決して忘れてはならないと思います。弁護士志望の司法修習生であっても、裁判所や検察庁に身を置いて勉強させてもらえるのは、人を裁くことの厳しさ、難しさを経験するためだと思う。それが、取調べが終われば自己のブログに「おばあちゃん泣きまくり」などと軽々しく書いているようでは、裁く側の意識はどうなっているんだ、と国民誰しも感じるのではないでしょうか。大げさに言えば司法制度そのものに対する不信を招きかねないわけです。この問題については、法曹関係者、司法修習生の方々、それぞれに思いがあることと存じますが、ひとまず私の感想を書かせていただきました。
2008/06/20
今日は新聞でなく週刊誌からネタを拾います。先日、週刊新潮で「人前で『泣く男』の研究」という記事がありました。橋本府知事その他、人前で泣く政治家のことについて触れてありまして、その内容をざっと要約すると、強い存在は叩かれるので、涙を見せて弱い存在であることをアピールして支持を買う手法が流行りつつある、といったことでした。そして最近また新たに、人前で泣く男が現れました。今度は政治家でなく、病院の院長です。三重県の整形外科病院が点滴の使いまわしをしていた事件。死者1名が出て、警察の捜索が入ったとか。報道陣の前に釈明に出た院長の映像を、朝のワイドショーで何となく見ていましたが、これを見た方はみな失笑されたことと思います。院長曰く、泣き顔で「私の家にはお風呂がないんです!」。点滴を使いまわすとどれくらいの儲けになるのかは知りませんが、儲け主義に走っているとの批判をかわすために、家が裕福でないことのアピールに出たわけです。この院長の家に本当に風呂があるかないかは知りませんが、風呂の有無で言えば、私の実家は昔、長屋の大家でして、それなりの資産はあったはずですが、昔の建物だから風呂はなかった。この院長は「シャワーしかないんです」とも言ってましたが、私の実家にはシャワーもありませんでした。ついでに週刊文春の最新号によると、この院長の家にはベンツが2台あるとか。私の実家には車もなかった。充分な資産家ではないでしょうか。と、この院長の資産を云々するのはここでの目的ではありません。それにしても、どうして政治家も医者も、何かあったらすぐ泣くのか。ついでに弁護士も泣きますね。光市母子殺害事件の弁護団の一人だった今枝氏。(先日、この人のことを「同業の先輩」と書いたのですが、実は私と「同期」だったと最近知りました。司法研修所のクラスが違うので全く面識はなかったのですが、研修所の卒業アルバムには確かに載ってました)こういう人たちを見ていると、人前で涙は見せず、憎まれキャラに徹している、あの船場吉兆の女将が何とも潔く見えてきて、いつか再評価される日がくるのではないかと、勝手に考えています。いつも以上に浅い話でしたがひとまずこれにて。
2008/06/19
NHKの従軍慰安婦報道について、取材に協力した人が番組内容の改変で「期待権を侵害された」として200万円の賠償義務を認めた高裁判決を、最高裁が破棄したという話をしました。この「期待権」について書きます。最近の判例でたまに見かける言葉ですが、この期待権はいかなる法的根拠に基づいて認められるか。私たち弁護士が「権利がある」というとき、その権利の内容や、その権利が認められるための要件は、法律に書いてあるのが通常です。しかし、世の中で一般的に「ナントカ権」と言われているものの中で、どの法律にも根拠が定められていないものもある。というより、「ナントカ権」と呼び習わされているものの多くがそうであるかも知れません。よく耳にするけど、法律に明確な根拠がないものの例としては…、「居住権」、「肖像権」、「プライバシー権」、「名誉権」「(親の子に対する)面会権」、「嫌煙権」、「日照権」、「環境権」等々、いろいろあります。「期待権」もそうです。六法全書のすみずみまで見ても、そういう権利はありません。私が実際に六法全書のすみずみまで見たわけではないですが、そのはずです。にもかかわらず、判例上は、期待権を侵害したということを理由とする損害賠償請求が認められているケースが存在する。条文にはなくても、保護するに値すると考えられるものは、法的な権利として認められることがあるということです。単純な「期待」というのは、それに背くと、「ひどいヤツだ」と道義的に非難されるだけで終わる。しかしそれが「期待権」に昇格すると、道義的問題だけでなく、損害賠償しないといけないという法的責任(おカネの問題)が生じる。NHKの従軍慰安婦番組については、取材された団体は自分たちの意にそった番組になっていることを当然期待するだろうけど、そのような期待は法的権利にまで昇格させることはできない、そんなことをすると却って報道の自由が損なわれる、というのが最高裁の結論であって、個人的には妥当なものと考えています。
2008/06/17
国籍法の話について、わき道にそれつつダラダラ書いているうちに、世間では秋葉原の殺傷事件が起きたり、東北での地震が起きたりしました。私には直接の関係はないですが、関係者の方にお見舞い申し上げる次第です。以下単なる雑談です。テレビでの報道はこの1週間、秋葉原の事件と、昨日からは地震のニュースばかりとなりました。おかげで今週放送予定だった映像の多くが、延期または「お蔵入り」になったのだろうなと想像しています。私もかつて、自分が取材に協力した映像がお蔵入りとなった経験をしました。詳しくは書きませんが、弁護士になる前に、司法書士の資格を取って司法書士事務所に勤務していたころです。とある不動産関係の問題についてのコメントを求められました。制作サイドに知人がいたことから、そのツテでオファーされたものです。しかしその取材映像はオンエアされませんでした。特に大きな事件が起こったわけでもありません。その制作サイドの知人の説明はよくわかりませんでしたが、「上からの指示」であり、「一つの番組中に利用できる取材映像の時間には上限があってカットされた」とかいうことでした。番組制作の仕事というのは、クリエイティブに見えていて、その実、きわめて窮屈で杓子定規なものだなと思ったのですが、それはともかく、テレビというのはそういうものだろうと、このことについてお互いにそれ以上問題とすることもなく終わりました。この1週間、ニュースの差し替えによって、多くの人が同じような思いをしたでしょう。それで思い出したのですが、最近こういう最高裁判決がありました。NHKが、従軍慰安婦問題を扱っている団体を取材したが、オンエアされた番組の内容はその団体の意向に沿うものではなかったため、団体がNHKを訴えた。東京高裁は「期待権」の侵害を理由にNHKに200万円の損害賠償を命じたが、最高裁はそれを破棄して、原告団体敗訴の逆転判決を言い渡した。この問題は、私が経験した「お蔵入り」の問題とは質が違うのかも知れません。しかし、取材を受けた側が、自分の意向に沿った番組内容になっていないと賠償請求できるということになってしまうと、報道は成り立たなくなるように思います。明日(月曜)以降、本業がヒマであればこの問題について論じたいと思っていますが、ひとまずこれにて。
2008/06/15
国籍法の話が長くなりましたが、私の結論としては、今回の違憲判決は妥当なところだろうと考えています。民法の「愛人の子の相続分は正妻の子の相続分の半分」という規定は、おかしくないかと言われれば疑問の余地もあるけど、それは国会が対処すべきであって、裁判所がいじるようなものでないと思います。国籍法の違憲判決では、最高裁の15名の裁判官の評決は12対3に分かれたそうです。違憲とする裁判官が12名、いや合憲だと言うのが3名。三権分立のもと、法律のことは国会に任せておくか、それとも裁判所が違憲判断に踏みこむか、それぞれの裁判官が悩んだり議論したりした末に、今回は果敢な判断を下すほうに傾いたのでしょう。以下雑談。この判決を下した15名の裁判官の裁判長は、最高裁長官・島田仁郎(しまだ・にろう)氏です。かつてここでもネタにしましたが、この人の前職は司法研修所の所長です。ちょうど私が司法修習生として研修期間であったころ、この人が所長でした。その後最高裁判事になって、ほどなく長官に上りつめました。本来は別の人が予定されていたところを、裁判員制度が始まるということで、刑事事件の裁判官としてのキャリアが長い島田氏が任命されることになったとか。裁判員制度導入に反対する論説の中には、島田氏を名指しで批判する意見も見かけます。島田長官としては、「俺が考えた制度じゃないんだけどなあ」と内心思っているかも知れません。ちょうど、小泉政権の下で成立した後期高齢者医療制度のせいで集中砲火を浴びている福田総理のような気持ちかも知れません。これもかつて書きましたが、島田長官が司法研修所におられたころ、司法修習生の温泉旅行の際に島田氏にビールを注ぎに行って、コップ置き用のコースターの裏にサインを書いてもらいました。温泉旅館の安っぽいコースターの裏に書かれた最高裁長官のサインを持っているのは、全国で私だけではないかと思いまして、今も事務所に飾ってあります(写真)。最後のほうは何の話かわからなくなりましたが国籍法違憲判決の話を終わります。
2008/06/11
この度の最高裁判決により、日本人夫と結婚していない外国人妻との間に生まれた子に国籍を与えないとする国籍法(3条1項)は違憲とされた。一方、相続権に関しては民法(900条4号)上、非嫡出子は嫡出子の半分しか相続分がない。国籍については、外国人妻の子供が日本国籍を取得できるか否かについて、両親が結婚しているかどうかで区別されないことになったが、相続権については(配偶者が外国籍でも、日本人同士でも同じ)、両親が結婚しているか否かで大きな違いがある。婚外子の保護ということを理由に国籍法3条1項を違憲とするのなら、この民法900条4号も違憲になるのではないか。しかし私の考えでは、民法900条4号は違憲になりません。といいますか、違憲になると困ります。私に腹違いの弟がいるとか、そういう個人的な事情ではありません。弁護士として、職務上困るのです。仕事がら、依頼者の相続問題もよく扱います。もし仮に、とある資産家が亡くなってその相続問題を扱っているとして、その資産家には愛人の子(非嫡出子)がいたとする。「その子の相続分は正妻の子の半分だな」と思って遺産を計算し、書類(遺産分割協議書)を作成した途端、最高裁で「民法900条4号は違憲」という判決が出たら、ウチの依頼者にもその判決は適用されるのかどうか(相続分を計算しなおすことになるのか)。私も依頼者も、どうしていいのかわからなくなります。さらに、実際に遺産分割を済ませてしまった直後になってそんな判決が出たらどうなるか。非嫡出子の人はきっと、「私の取り分は2倍になるはずだったのに、どうしてくれるんですか」と文句を言いにくるでしょう。国会が、きちんと手続を踏んで法律を改正する場合は、こうした混乱は生じません。国会が民法900条4号を改正する場合は、改正法は何年何月以降に死亡した人に適用されます、と施行時期を予め示してくれるでしょう。こうすれば混乱は生じない。相続のように国民が誰でもいつでも直面しうる事がらについて、その法律を最高裁が違憲としてしまうと混乱が大きい。だから国会に任せるべきだという思考が働く。一方、国籍のほうはどうか。出生届を受け取るのは市役所、日本国籍を与えるのは法務省といった行政機関です。最高裁で国籍法の違憲判決が出れば、法務大臣あたりから速やかに通達が出て、外国人妻の子供の国籍の扱いは今後こうするように、という形で見解は統一されるでしょう。そうすれば混乱は生じない。こういった観点から、国籍に関しては一歩踏み込んだ判断をしたのが今回の判決なのだろうと理解しています。(完結編と銘打ちましたが、シリーズものの香港映画なみに引き続き少し書くかも)
2008/06/09
国籍法の違憲判決について、続き。日本人の父Aと、フィリピン人(に限らず外国籍の人なら誰でも同じ)の母Bの間に生まれた子Cちゃんについて、AとBが婚姻して法律上の夫婦となればCちゃんは日本国籍を取れるが、婚姻していない(いわゆる内縁または愛人関係)場合は、国籍を取れない。この点が違憲とされたのは前回書いたとおりです。男女の関係にはいろんな形があって、法的に婚姻している場合もあれば、いろんな事情で入籍していないこともある。(これは外国籍の相手に限らず、日本人同士でもそうでしょう)。そういう時代や価値観の変化を取り入れたのが今回の判決ということができる。親が結婚していなくても、そこから生まれてくる子は同様に保護されるべきだということです。もっとも、いかに時代が移り変わったとしても、法律上の婚姻(法律婚)と、内縁など事実上の婚姻(事実婚)は全く同じに扱われるわけではない。たとえば内縁の妻は、内縁の夫が死亡しても一切の相続権がない。それから、婚姻中または離婚直後(300日以内)に別の男性との間に子を生んでも、それは前の夫の戸籍に入る。当ブログでも取り上げた民法772条の問題です。これは、法律上の婚姻と、そこから生まれてくる子供との間の父子関係を保護するための規定です。詳しくは過去の記事。それから、婚姻外に生まれた「非嫡出子」は、嫡出子に比べて相続権が半分しかないという規定も厳然と存在する(民法900条4号但書)。すなわち、ある法律上の夫婦に子供がいて(嫡出子=ちゃくしゅつし)、夫には愛人女性がいて、その愛人が子供を生んだとする。愛人とは法律上の夫婦の関係になく、こういう子供を非嫡出子という。この2人の子を生んだ父親が死んだ場合、非嫡出子の相続分は嫡出子の半分しかない。(少しだけ過去に触れました。過去の記事)これも、法律婚とそこから生まれる子供を保護する趣旨ですが、一部の法律家(弁護士や学者)は昔から、非嫡出子を差別する不平等な規定だと主張しています。でも最高裁は合憲であるという見解を貫いており、今のところ法律が変わる気配はない。今回の国籍法違憲判決の趣旨として、「婚外子の保護」ということがあるのだとすれば、この民法の規定も違憲となるのかも知れないが、果たしてどうか。少し話が広がってきましたが、何とか収拾をつけるべく次回へ続く。
2008/06/08
国籍法に違憲判決の話、続き。フィリピン人妻の子供に日本国籍が与えられた、と言ってもピンと来ない人が多いでしょう。でもこれまでは、日本の国籍法ではそれが認められておらず、そしてそれを最高裁が憲法違反だと言ったわけで、やはりこれは大ごとなわけです。国籍法の何が問題とされたかは、大ざっぱに書くと以下のとおりです。日本人Aとフィリピン人B(フィリピン人に限らず外国籍の人なら同じですが、この事件に合わせておきます)の間に子Cちゃんが生まれた。このとき、AとBが結婚している間に生まれれば、日本人Aの子であると推定され、Cちゃんには日本国籍が与えられる。AとBが結婚していなければ、Cちゃんは当然にはAの子と扱われるわけではない。Aの子となるには、Aの「認知」が必要となる。ではAが認知すれば日本国籍が与えられるのかというと、まだダメで、さらにAとBが正式に結婚しないといけない。AとBがCちゃんの出生後、籍を入れればCちゃんは日本国籍を取得できる。でも、Aが「子(C)の面倒は見るが、キミ(B)とは籍を入れられない」と言い出せば、Cちゃんは日本国籍を取得できない。AとBが法律上の婚姻関係に入るかどうかという偶然の事情(そしてその多くは日本人Aの身勝手からくるように思うのですが)によって、生まれてきたCちゃんが日本人になれるかどうかの結論が正反対になってしまう。これは憲法第14条の定める「法の下の平等」に反する、というのが最高裁の結論です。この事件の新聞報道を見るまで知りませんでしたが、近年は欧州諸国などでは、外国籍の妻との婚姻外の子供(婚外子)が自国の国籍を取得するための要件として、両親の婚姻を要件とする規定は撤廃されているとか。そういう点では、時代にそった判決だというのが、各紙社説の論調であるようです。では私の見解はどうだと言われると、それを考えながら書くこととします、と司馬遼太郎さんみたいなことを言いつつこの稿、続く。
2008/06/06
最高裁大法廷が国籍法に対する違憲判決を出しました。国籍法によると、日本人の父と外国籍の母との間に生まれた子供について、子供が日本国籍を取得するには、父親が認知するだけではダメで、「父と母が結婚していないといけない」とあり、そのカッコ内の部分が違憲とされた。かように、法律の条文そのものが憲法違反とされることを「法令違憲」といいます。裁判所が、国会の作った法律について、「こんなモノは憲法に反するから無効だ」というわけですから、相当な重みがあります。戦後、今の最高裁ができてから、このような法令違憲の判決は8件あります。平成に入ってからは3回目で、前の2回は平成14年と17年ですから、ここしばらく、3年に1回のペースで法令違憲判決が出ています。平成14年の判決は、郵便法が違憲とされた。詳細は省きますが、郵便屋さんがミスしても国に損害賠償請求はできないとしていた規定が、国家賠償請求権を認める憲法17条に違反するとされた。このときの原告側弁護団長は、今の大阪弁護士会の会長であり、私の出身事務所の兄弟子でもあります。平成17年は公職選挙法で、在外邦人の選挙権を制限していた規定が、憲法15条(選挙権)などに反するとされた。さて、今回の国籍法違憲判決はいかなる意味を持つのか。その点は自分なりに考えて整理してから、次回以降に書きます。以下、3年前に旧事務所のホームページに書いた、公職選挙法違憲判決の際の記事を引用して、お茶を濁しておきます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・平成17年9月15日最高裁が、海外に住む日本人の選挙権を制限(比例代表のみ)している公職選挙法の規定を、憲法に違反し無効であると判断。法律を作るか作らないか、どういう法律を作るかということは基本的には国会が決めることで、裁判所が法律は無効とするのは三権分立に反することです。例外的に、憲法の趣旨に反するような法律に限り、違憲無効と判断できるということに憲法で決まってます。しかし、最高裁が国会の作った法律を無効だということはめったになく、戦後、最高裁ができてから、今回がようやく7件目です。前回の違憲判決は3年前のことで、何だか違憲判決のペースが速まっている、最高裁が積極的な司法審査の態度を打ち出してきたのかな、という印象を受けます。今回の判決は、在外邦人に選挙権を与えないのは、憲法が国民に選挙権を保障していることに反する、ということです。そして、次回選挙では、彼らに選挙権があることが判決をもって「確認」された。それだけじゃなくて、選挙権を与えられなかった原告に対して、損害賠償(国家賠償)が認められたのは画期的です。賠償金額は5000円と、私の一晩の飲み代にもなりませんが、そういうことは問題じゃなくて、国会が立法をさぼっていると、賠償問題にもなることを認めたわけです。理論上はこのことは以前から認められていましたが、実際に最高裁がそれを認めたことが画期的なのです。違憲判決が出たところで、国会に対する拘束力はないのですが(三権分立で法律を作るのはあくまで国会だから)、最高裁にこう言われては法改正せざるをえないはずで、次期国会でその作業が行なわれるのでしょう。弁護士業の傍ら講師として憲法や行政法を講義している私としては、かなり興奮して今朝の新聞を読んでおります。
2008/06/05
唐突ですが今日は「ゲゲゲの鬼太郎」の話からです。誰しも知っているこの作品、何度かアニメ化されていますが、私の年齢くらいの人(昭和40年代生まれ)にとって、子供のころに見た鬼太郎のアニメって、心底かなり怖い内容ではなかったでしょうか。鬼太郎以外にも、「妖怪人間ベム」もかなり怖かったです。いつから、子供の観るアニメが怖くなくなったのでしょうか。私が小学校高学年のころだったか、確か「週刊テレビガイド」の投書欄に、「夕食時にやっているホラー映画の予告CMが怖いと言ってテレビを見ている息子が泣き出す。ゴールデンタイムにああいうのはやめてほしい」といった意見が載っていました。私は、子供心に、「ヘンなこと言う親やなあ。そんならテレビを消しといたらええのに」と感じた記憶があります。(ちなみにそのホラー映画というのは、「ポルターガイスト2」か「フライトナイト」だったと記憶しています)いつ頃からか、「怖い」、「残酷」、「暴力的」、「下品」、「過激」というものが一緒くたにされて(これらのことは大人だけでなく子供も結構好きなはずなのですけど)、一部の良識ある大人から批判され、何か問題が起こったらテレビのせいにされだして、内容が画一化された。テレビアニメの中では怖い話や妖怪は存在してはならないことになり、鬼太郎もメルヘン調の、怪獣や妖怪をやっつけるだけのお話になってしまった。昔のアニメの鬼太郎では、断片的に心に残っているシーンはたくさんあります。たとえば、すごく親から甘やかされている青年がいて、その甘ったれた心につけこまれて妖怪の絡むトラブルに巻き込まれる(詳細は忘れました)。鬼太郎のおかげでそれが解決し、鬼太郎とネズミ男がその青年と親の住む家(高層マンションの一室)で礼を言われる。ここで青年が趣味のギターを弾きはじめたとき、ネズミ男が「ひっでえ音色だなー」という。青年は突然泣き出して、マンションから飛び降りて死んでしまう。甘やかされて育ったので、初めて自分が否定される経験をしたためショックで死んでしまった、というオチです。かように昔の鬼太郎のアニメは、妖怪なんかよりも、人間の欲望や「心の弱さ」のほうが怖い、という話が多かったです。私の子供時代には考えられなかったインターネットというものが普及しだしても、ことは同じで、ネットの世界では妖怪や悪人はいてはならないことになっている。(そのせいで私などが強かん犯罪のことを書こうとしても、この楽天ブログで「強かん」と漢字で書くとNGワードとされて記事が書けない。ネット上の世の中に強かんは存在しないことになっているわけです)今日は法律と全然関係ない話をしてしまいました。ただ、最近、ブログに「死ね」と書かれたのがきっかけで自殺してしまった生徒がいるという報道を見て、何となくこういったことを考えていました。そして上記の鬼太郎のエピソードが、今の時代を予言していたのかなと、ふと思いました。
2008/06/03
裁判員制度のことについて書きます。日曜だからとてもくだらない話です。制度の施行に向けて準備は進みつつあるようで、私がよく行く大阪地裁では、最近しきりに建物内部の工事が行われています。大阪地裁の中を歩いていて最近気付くのは、「段差」がなくなったことです。段差をなくす、いわゆるバリアフリーは昨今の傾向ですが、最近になって急ピッチで工事が進んでいるのは、裁判員制度の施行と無縁のことではないと思います。今後いっそう、一般の方が出入りするようになって、中には高齢の方とか、脚が不自由な方もいるかも知れないことを配慮したのでしょう。段差のあった部分は、それが取り払われるか、スロープになっています。もう一つ大きな違いは、トイレです。ずいぶんキレイになりました。これまでは、汚いと言わないまでも、キレイとも言えなかった。私も、かつては司法修習生として大阪地裁にいました(平成11年ころ)。朝9時から午後5時まで(場合によってはさらに遅くまで)、裁判所の中にいるわけですから、日に何度かトイレに行きます。時には「大」のときもあります。私は大となれば洋式のほうがいいのですが、大阪地裁のトイレは基本的に和式で、洋式になっているのはごく一部だった。それで私は、裁判所の何階のどこのトイレに洋式があるということを頭にインプットしておき、大を催したときにはそこへ行きました。しかし他の裁判所職員も同じことを考えるのか、その洋式は使用中であることも多かったのです。今では、すべて確認したわけではないのですが、各トイレには和式と洋式がそれぞれ設置され、しかも洋式にはウォッシュレットまでついている。私が司法修習生だった頃からこうであれば、私は洋式を求めて裁判所の階段を上がったり下がったりしなくても良かったのに、と思っています。すべての裁判所で段差がなくなったりトイレがキレイになったりしているわけではないと思いますが、全国の裁判所で似たような工事は行われているはずで、相当の予算がかかっているのでしょう。とはいえトイレがキレイになったことは良いことで、私が唯一実感している裁判員制度のメリットです。
2008/06/01
続き。少し話は変わりますが、近年、犯罪の凶悪化と国民の処罰感情の高まりを受けてか、犯罪の法定刑は重くなりつつあります。例えば殺人罪は、少し前までは最低で懲役3年だったのが、法律が改正されて懲役5年になった。強かん罪は、最低懲役2年だったのが最低3年になった懲役刑の上限も、15年だったのが20年になった。ところが、こういった厳罰化傾向にあって、唯一、法定刑が軽くなった犯罪があります。それが強盗致傷です。少し前までは最低で懲役7年だったのが、6年に下げられた。なぜ強盗致傷に限って軽くなったかというと、それはこの犯罪がかなり容易に成立しがちだからです。ゴマキの弟もたぶん、最初から強盗致傷を働こうと思っていたのではない。こっそりと盗みをしようとしていたのであって、人を傷つけるつもりはなかった。それが警備員に見つかってしまい、頭に血がのぼって、逃げようとして手が出た。警備員のケガの程度は知りませんが、ちょっと血が出たとか、血がでなくてもアザになったとかすれば傷害にあたります。同じ強盗致傷でも、たとえば包丁片手に誰かの家に押し込んで、住人に切りつけて抵抗できなくした上でモノを取ったようなケースであれば、重く処罰されて当然といえる。強盗致傷罪の罪が重いのは、典型的にはこういう場合を想定しているからだと思われます。一方、ちょっとした出来心で万引きやコソ泥をしたら見つかったので手が出てしまって相手にケガをさせた、これも同じ強盗致傷です。もちろんこれも犯罪行為であって処罰されるべきは当然なのですが、上記のような押し入り強盗と全く同じに考えてよいかというと、ちょっとためらいが残る。そこで、法定刑の最低ラインを下げて、柔軟に刑罰を決められるようにした。7年が6年になっただけの違いですが、ここは極めて大きい意味を持ちます。前回書いた酌量減軽が適用されると、6年の半分の3年になる。懲役3年だと執行猶予をつけることができるのです。刑法上、3年を超えると執行猶予をつけることができない。これまでは酌量減軽を適用しても3年半となってしまい、犯人に同情の余地があっても3年半は刑務所に行かないといけなかった。(実際には、ちょっとしたケガであれば目をつむって、強盗致傷でなく単純な強盗として、それだと最低懲役5年、酌量減軽で半分の2年半にして執行猶予をつける、といった少しムリな処理をすることもあったようです)そういう次第で、強盗致傷でも情状によっては執行猶予をつけてもらえることになったのですが、ゴマキの弟は複数の犯罪を行っていたので実刑となった次第です。刑法を勉強した人であれば誰でも知っていることだと思いますが、ゴマキの弟の事件をきっかけに解説してみました。以上です。
2008/05/30
前回の続き。罪を犯しても、特に酌むべき事情があれば、「酌量減軽」で罪が軽くなると書きました。それでゴマキの弟は、強盗致傷で懲役6年以上になるはずなのに、5年半になった。今回はやや細かい話になりますが、単なる情状酌量と、「酌量減軽」は大きく異なるということについて書きます。世の中のたいていの犯罪には、酌むべき事情がある。「いや、新聞やテレビを見てると情状酌量の余地のないひどい犯罪ばかりじゃないか」、と思う方もいるでしょうけど、それはああいう事件がセンセーショナルに取り上げられるから印象が強く残るだけであって、犯罪の99%には何らかの酌むべき事情がある。そこで行われるのは単純な情状酌量です。強盗致傷を例にとると、最低で懲役6年、最高で無期懲役。この法定刑(法律で定められた刑罰)の範囲の中で、なるべく最低ラインに近いところをとってあげようということです。「酌量減軽」は違います。法定刑を破って、さらに軽い刑にすることができる。懲役6年より軽い罪を採用できるわけです。どれだけ軽くなるかというと、一気に半分になる(刑法71条、68条)。(なおゴマキの弟の場合、犯罪が一件だけなら懲役6年の半分で3年で済むこともありえたのですが、他に何件かの窃盗事件を犯しているため(併合罪、刑法45条)、罪が加算されて最終的に5年半になったと思われます)かように、酌量減軽というのは刑の重さが半分になるわけですから、単なる情状酌量とは異なる、特別に酌むべき事情であることを要します。有名な例としては、若い女性が長年に渡り父親から虐待(性的虐待を含む)を受け、思い余って殺した、といったケースがありますが、こういう余程の事情に限られます。ゴマキの弟の場合はどんな事情だったかというと、「まだ若く、身重の妻がいるから」といったことのようです。果たしてこれが酌量減軽に足る事情かというと、少し疑問な気もしますが、裁判官も強盗致傷という重罪を科するにあたって悩んだ末の選択であったものと思われます。たぶんこの話がもう少し続きますので、飽きてなければお付き合いください。
2008/05/29
前回チラと書きましたが、タレントの後藤真希の弟が懲役5年半の判決を受けたという事件について触れます。新聞でその結論だけは知っていましたが、私はある疑問を持っていました。後藤真希の弟(以下「ゴマキの弟」と記します)の罪名は「強盗致傷罪」です。電線を盗んでいる過程で警備員に見つかって、その人を殴ってケガをさせたようです。刑法をちょっとかじった方は、誰でも以下のことを知っていると思います。・他人を殴る・脅すなどしてモノを奪うと強盗になる(刑法236条、5年以上の懲役)。・モノを奪ったあと他人に見つかり、追ってくる人を殴ったりするのも、殴るのとモノを取るのが前後逆になるだけで、強盗になります(刑法238条。事後強盗といいます。刑罰の重さは同じ)。・上記いずれも、強盗の結果、人をケガさせると強盗致傷となり、刑法240条で無期懲役または6年以上の懲役です(ちなみに死なせてしまうと強盗致死となり、死刑または無期懲役)。繰り返しますがゴマキの弟は強盗致傷罪ですから、「6年以上」の懲役が科せられるはずなのです。それがどうして「5年半」と短くなっているのか。判決直後の新聞はすぐ読み捨ててしまったので、今回インターネット上で新聞記事を調べましたが、結論は「情状酌量で刑が減軽された」とのことのようです(とあるスポーツ紙の記事から)。減軽される理由には刑法上でいろいろな規定があり、有名なところでは「心神耗弱」がありますが、その他にも、自首したとか、未遂に終わったといったことが規定されている。そして、それらの規定にあてはまらなくても、特に酌むべき事情があれば、減軽できることになっている(刑法66条)。冒頭の私の疑問に対する回答はこれだけの話です。ただこの事件に関しては、酌量減軽のあり方とか、量刑の決まり方といったことについて他にも書きたいことがありますので、たぶんあと2回ほどこのネタで引っ張る予定です。
2008/05/28
長崎市長を射殺した暴力団員(60歳)に死刑判決(26日、長崎地裁)。従来の「相場」から言えば、一人殺して死刑になることは少なかったのですが、犯行の悪質性から死刑が選択された。4選に向け選挙運動中の市長を射殺することは、選挙の自由を害し民主主義社会を脅かすものだと、判決が言っています。私自身は、この判決で妥当だと思っています。犯罪に対して刑罰を科す理由の一つは、犯罪から得られる利益や快楽よりも大きな苦痛を与えることによって、「犯罪は割りに合わない」ということを思い知らしめる点にあります。たとえばタレントの後藤真希の弟は、お金に困って電線を盗んで売りさばいて、懲役5年半という重い刑罰を受けました。それなら誰しも5年半まともに働いたほうがマシだと思うわけです。では暴力団が他人を射殺して何か得るものがあるのか。この事件では、報道によると、この暴力団員は市政に不満があったとか、自分の力を誇示したかったとか書かれています。また、いわゆる「鉄砲玉」として誰かを殺して刑務所に行くと、出所後は幹部として優遇されるといったこともあるとか。(この点について詳細は 過去の記事 へ)(もっとも、本件の組織的背景はよくわかりませんが、報道ではこの犯人は暴力団の「幹部」だそうで、単純な鉄砲玉とはまた違うのかも知れません)怨恨を晴らすとか、ヤクザ社会で名をあげるとか、殺しの理由は人それぞれと思いますが、「殺しが割りにあわない」と思わせる一番簡単な方法は、死刑にしてしまうことです。せっかく名をあげて出所したら幹部待遇だと思っていたのが、死刑にされては割りにあわないということで。もっとも、ひとを一人でも殺したら死刑、と単純に決めるべきでないということは当ブログでも書いてきたとおりです。当然、慎重で厳密な審理は必要です。その点この事件でも、なかなか難しい判断を抱えていると思います。長崎地裁は「選挙の自由と民主主義を脅かす」ということを重い刑罰の理由として挙げました。では、市長や知事を殺すのは罪が重いけど、町の善良なおじいさんやおばあさんを殺すのは軽くてよいのかとか、市職員は選挙と関係ない(選挙ではなく公務員試験で採用される)から軽くてよいのかとかいう疑問も出てくる。さらに斜めに見れば、民主政治や選挙との結びつきの深さで罪の重さが決まるとなると、政府・与党の人を殺すと罪が重く、野党の人を殺すと罪が軽いということになりかねないか、それでよいのか、という問題も残している判決ではあると思います。
2008/05/27
前回の続きを書こうとしているうちに、慌しさにかまけて時期を逸した感もありますが、続けます。長野の聖火リレーでチベットの人が威力業務妨害罪で罰金刑になった話について。前回も書きましたが、産経新聞などの報道によりますとこの人は、チベット人の2世で、チベットの状況を訴えたくて、とっさに行動したと。計画的なものでなく、卓球の愛ちゃんが走っているところを狙ったわけではなおさらないと。しかし私は、テレビを見ていて正直なところ、「わけのわからない輩が、欽ちゃんにモノを投げつけるだけでは満足せずに、愛ちゃんにまで何かしでかそうとしている」と思いました。中国によるチベット抑圧の問題とか、北京オリンピックの是非とか、それらはここでは関係はない。その点を個人としてどう考えるかは人それぞれの価値観です。しかし、長野市や長野県警としては、日本政府の意向として聖火リレーに協力しようと決定しているから、それを無事にやり遂げないといけないという公務を負った立場にある。聖火ランナーをやる人たちは、大変な時期だけど、せっかくの機会だから無事にやり遂げたい、できれば楽しくやりたいと思っているでしょう。チベット問題で訴えたいことがあるのかも知れないけど、そういった個人の主張や価値観だけを理由に、いろんな人の立場や思いの詰まった聖火リレーに侵入し妨害することは許されることではないと考えます。それにそもそも、チベット問題で訴えたいことがあるというのであれば、それは日本の長野市ではなく、中国の北京でやればよい。長野であれをやって一体何になるというのか。中国での聖火リレーで同じことをやったとしたら、その覚悟だけは讃えられるべきだと思うのですが、あのチベット2世の人はそうしなかったわけです。そこはやはり、日本でこういうことをやっても身に危険は及ばないという、計算があってのことだったと勝手に想像しています。たとえば、ずいぶんレベルは下がりますが暴走族(というのも今どき流行りませんが)の連中も、「大人社会への反抗」とかお題目を立てていたりしますが、その実やっていることは変な形のバイクでトロトロ走っているだけのことで、しかも彼らは警察が自分たちに決して危害を加えないと分かっている。長野リレーの妨害を見て、それと同様のものを感じたのです。何かを訴えたいというのなら、然るべきやり方がある。周りの人のことも考えず、好き勝手な方法で自分の主義主張や価値観を述べたてるのは、はた迷惑であり、時には犯罪ですらあるということです。
2008/05/23
少し前のことですが、自宅前の線路にコンクリートを敷きつめて、勝手に踏切りを通路を作ったとして、ある男性が威力業務妨害罪で捕まってました。報道によると、その男性は「俺は何も人の業務を妨害したりしていない」と言ったとか。威力業務妨害罪は刑法第234条。威力を用いて人の業務を妨害した者は、3年以下の懲役または50万円以下の罰金。業務というのは他人の仕事のことを言います。威力というのは、物理的な力に限らず、人の意思を制圧すること、さらに平たくいうと「げんなりさせること」を言います。典型的には、吉本新喜劇なんかで、ヤクザがうどん屋で大声を張りあげて店の営業を妨害するような行為がこれにあたる。冒頭の人は、「俺はこっそり通路を作って利用していただけだ」と言いたいのでしょう。しかし、鉄道の線路のある部分に、唐突にコンクリートが敷きつめられているのを見れば、その線路を所有する鉄道会社、または線路の管理業者の作業員としては、「あっちゃ~何じゃこれ~」という気持ちになってげんなりする。安全管理上はそれをどけるために本来の管理業務に遅滞をきたすでしょう。だから威力業務妨害に当たる。ちなみにこの人は、警察でしぼられた末、コンクリートを自ら撤去することに応じたので、不起訴になったと記憶しています。さて、威力業務妨害罪といえば、長野での聖火リレーで、コースに侵入して大声をあげたりした人が何人か、この罪で逮捕されました。最も記憶に残ったのが、卓球の福原愛さんが走っているコースに突然飛び出した人です。あれも、大声をあげてコースに乱入することで、聖火リレー関係者である長野市、長野県警、それから福原愛さんの業務を妨害したということになる。この人は略式裁判で罰金50万円を払って釈放されたとか。報道(産経新聞など)によると、この人はチベットの人で、あの行為はチベットの惨状を訴えたいがためにやった行為だったとか。その気持ちは酌むべきなのかも知れません。同情を感じる人もいるでしょう。しかし、あの時の状況からして、私を含めて現場やテレビであれを見ていた人の大半は、おかしな人が愛ちゃんの聖火リレーを妨害しにきた、としか思わないわけで、あれは逮捕・処罰されて仕方ない行為と言わざるをえないでしょう。その人の気持ちではなく、周囲の人にどう見えるか、業務妨害だけでなく、およそ犯罪の成否はかように判断されます。
2008/05/20
前回の続き。「終身刑」導入に向けて、国会議員が動き出しているそうです。「量刑制度を考える超党派の会」というのがあるらしい。多くの方はご存じと思いますが、日本の刑法の「無期懲役」というのは、「いつ期限が終わるかが決められていない」というだけで、一生を刑務所で過ごすわけではない。ちなみに、有期懲役の上限は20年(刑法12条、少し前までは15年だった)。ただし、再犯や併合罪(複数の罪を犯した)などの事情があれば、特別に30年まで延ばすことができる(刑法14条。少し前までは20年)。無期懲役というのは、懲役の過程で更生が見られなければ30年を超えて懲役にすることもできるというだけで、いつかは出てくることが想定されている。最近の法改正で有期懲役の上限が長くなったとは言え、死刑と無期懲役の間には大きな差がある。そこで、社会復帰を前提とする無期懲役では軽いが、死刑とするにもためらいが残るという場合に、両者の間をとって、社会復帰のありえない「終身刑」を創設しようということです。その趣旨はわかりやすいですが、さて、どんなものでしょう。容易に想像できるのは、終身刑の囚人というのは、時代小説やB級の香港映画(「炎の大捜査線」とか)に出てくる「牢名主」になってしまわないかということです。牢獄のボスになって、囚人を支配し始めると、刑務官が刑務所秩序を保つのが困難になるかも知れない。この点、現在の法律(刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律)によりますと、囚人は、性別や、死刑か懲役かに応じて分離して収容することになっている(4条)。だから終身刑が創設されることになれば、終身刑の囚人専門の施設が作られるのでしょう。そこには当然、国家予算の問題が出てきます。予算の問題をクリアして終身刑だけの施設ができたとして、そこの秩序を平穏に保つのは、これまた困難でしょう。なんせ、そこにいるのは、何があっても一生をそこで過ごすしかない人ばかりです。懲役刑の囚人は「いつか出られる」「問題を起こせば刑期が延びる」と思うからこそ、真面目に暮らしている。死刑囚の生活というのは今ひとつ分かりませんが、「問題を起こせば法務大臣が死刑執行のハンコを早く押す」と思っておとなしくしている部分もあると思う。しかし終身刑の人は、何をしようが、「一生そこにいる」というだけで、その状況が良くなったり悪くなったりすることはない。どうせそれならばと投げやりになって、刑務官に暴行を働くとか、施設を損壊するとか、脱走を図るといったことも起こりやすいでしょう。そんな問題を起こすヤツは、縛り付けるなり、ムチで百タタキにするなりすればいい、と考える人もいるでしょうけど、そのような「体刑」は現行の刑法では採用しておらず、それを行うには新たな法的根拠が必要になる。そして、囚人に百タタキなどという前時代的な罰を残している我が国は、果たして国際的にみて恥じない国家と言えるかどうか。終身刑を制度として採用している国がどの程度あるのか、そこでの囚人への処遇はどうなっているのか、調べたわけではありませんが、すぐに思いつくだけでも上記のような問題があり、これを本当に導入するのであれば、慎重を極めた論議をすべきでしょう。
2008/05/17
まず雑談から書きます。かなり以前のことですが、ある刑事事件の関係で被告人に接見(面会)するため、タクシーで大阪拘置所(都島区)に向かっていました。拘置所というのは、裁判が終わるまでの間、被告人が身柄をそこに確保されている施設です。たとえばライブドアの堀江氏は、証券取引法違反の刑事裁判の途中に保釈が認められて、少しやせた顔になって東京拘置所から出てきました。さて拘置所に向かうタクシーの中で、運転手は、行き先からして私が弁護士とわかったのか、いろいろと刑事裁判に関する話題を振ってきました。ちょうど、誰かは忘れましたが大阪でとある死刑囚に対する死刑が執行された直後のことで、運転手は、「こないだも死刑が執行されましたねえ」と言ってきました。私は、「ええ、死刑が執行されたのも、あの拘置所なんですよ」と答えました。誰しもご存じだと思いますが、懲役刑の判決を受けた者は、「刑務所」という施設に送られる。しかし、死刑判決を受けた死刑囚は、刑務所でなく拘置所に送られます。いわゆる「死刑台」というのは、刑務所ではなく、全国何か所かの拘置所内に設置されている。タクシーの運転手は、後者のほうは知らなかったみたいで、「へえ、そうなんですか。どうして死刑囚だけは、刑務所じゃなく拘置所なんでしょうねえ」と言いました。実は私も、長らく疑問に思っていました。拘置所というのは裁判の判決が出るのを待っている人が入るところ、刑務所は裁判が終わって有罪判決を受けた人が入るところ、と大別すると、死刑囚が拘置所に入るというのには違和感を感じていたのです。答えられずにいると、その運転手は先ほどの発言に続けて、こう言いました。「やっぱり、死刑判決を受けた人なんていうのは、働いて更生させなくてもいい、ってことですかねえ」私は、なるほど、と思いました。刑務所は、懲役刑を受けた人が入る。刑務所内の作業場でいろんな仕事をさせられ、懲役が終わって社会復帰する際には手に職がついた状態になっていて、マジメに働いて生きる助けになる。一方、死刑囚は、社会復帰ということがない。死刑になるのを毎日「待っているだけ」の状態です。だから、刑務所に入れなくてよい。どちらかといえば、判決が出るのを「待っている」被告人が入る拘置所に入れておくのがよい。刑務所は更生するための施設、拘置所は何かを待つための施設、ということです。どうしてこの話を最近思い出したかというと、最近、「終身刑」の創設を目指す動きがあるという話をよく聞くからです。一生、外に出ることのない終身刑の囚人は、刑務所に入るのか拘置所に入るのか。そんなことを考えました。終身刑に関する問題については、引き続き次回に触れたいと思います。
2008/05/16
裁判員制度について以前少し書いた、「心のケア」の問題ですが、少しずつ制度ができつつあるらしい。前の記事はこちら先日も書いたとおりですが、昨日の産経の記事によると、死体写真をみたり遺族の話を聞いたりすることによって、精神的ショックを受けてPTSDになる人が出る可能性が指摘されているとか。PTSD。心的外傷後ストレス障害。体を大ケガすると後遺症が残ることがあるように、心に強いショックを受けた人はずっとそのショックを抱え続けるということです。きちんと調べてませんが、たしかベトナム戦争に出ていたアメリカ兵が戦場の恐怖で廃人のようになってしまう(映画の「ディア・ハンター」がそういう話でしたか)、そういうケースが多数出て、そこから注目されるようになった病気だとか。それに対してどのようなケアが準備されているかというと、電話による24時間相談と、そして希望者には面談での相談・診療が予定されているとか。報道によると、オーストラリアやアメリカの一部の州には同様の制度があるらしいのですが、日本ではどうなるのか、詳細はまだ決まっていないようです。それにしても、電話での相談ひとつとっても、どの範囲の人が、どの範囲の相談をすることができるのか。実際に裁判員として事件に触れてショックを受けた、という人は相談の対象となる。では、事件と関係なく、法廷で隣に座っている裁判員のオジサンに交際を迫られた、といった女性裁判員の相談はどうか。さらに、裁判員に選任されていないけど、いつ裁判員に選ばれるかと思うと不安だ、という人は。広報用の上戸彩のポスターが欲しいという人(私)は。相談の範囲はよく分かりませんが、それにしても24時間電話を受け付けるなんて、国の制度としては警察と消防くらいしか思いつかないわけで、これはかなりの大ごとです。予算もそれだけかかるでしょう。それに話が戻って、PTSDにも程度は色々あるのでしょうけど、心に後遺症を残すなどというのは、これも相当に大ごとです。裁判所は、「裁判員制度にぜひ参加してくださいね」といかにも簡単そうに言いつつ、心の中では(PTSDになるかも知れないけどね)と言っているわけで、この一事をもってしても、やはり相当に大変なことになりそうだなあと思うのです。
2008/05/13
前回の記事は、橋下府知事の論理に飛躍があり、反対陣営の主張に対して「府民を冒涜している」と言うだけでは回答たりえていないのであって、そういう「何となくカッコいいことを言っている」だけの政治家的な論理には注意しなければいけない、という話をしました。ただ、論理性が要求される裁判所での弁論とは異なり、政治の場では最終的に「多数派を制したほうが勝ち」です。そのためには、イメージと勢いだけで反対派を押し切ってしまうことも、ひとつの戦略としては必要であるのかも知れません。たとえばガソリン暫定税率の問題のときに民主党がやった「道路利権よりも国民生活」という論陣も、小学生レベルの主張だと思いますが、政治の場での論争というのはそういうものなのでしょう。そこで前回の続きですが、橋下府知事と公務員労組との論争に関して、最も批判されるべきなのは、橋下府知事よりも「マスコミ」特に「テレビ」というメディアであると考えます。昨日の朝のニュース報道で、この論争の場が映し出されていたのですが、このとき、画面には「見出し」として「橋下府知事『府民を冒涜している』」というテロップ文字が大きく書かれていました。しかし、前回繰り返し述べたとおり、ここでの議論の最重要課題は「公共部門の赤字を削減すべきか、その根拠は何か」ということであって、「府民を冒涜している」という言葉は、議論の筋とは全く関係なく、橋下府知事が苦し紛れに言った発言に過ぎないのであって、クローズアップされるべきような部分ではない。しかし、このニュースを編集する側としては、議論の内容を紹介するよりも、矯激な発言だけ切り取って見出しにするほうが一見してインパクトある映像になると考えたのでしょう。また、橋下府知事が改革の旗手として既得権益にすがる守旧派の対立陣営と戦っているかのように伝えたほうが視聴者の受けがいいと考えた。さらに言えば、「視聴者はどうせ議論の筋など追っていないから、何となくカッコいい発言だけ取り上げておけば喜ぶだろう」と考えたのでしょう。このように、マスコミ、特にテレビによるイメージ操作によって、そこで何が論じられているのかとは全く関係なく、善玉と悪玉が作られていくということが、政治家の論理の飛躍よりもおそろしいことだと思いました。私自身、ここで約2年前に書きましたが、あやうくテレビニュースによって悪者にされかねなかった経験があるので(興味のある方は過去の記事へ)、それを強く感じるところです。
2008/05/09
今朝のワイドショーだったか民放のニュースだったかで、大阪府の財政改革に関して、橋下府知事が論争している映像が流れていました。府政に対しては、口は出さないけどカネは出す、というのが私のスタンスではありますが(過去の記事 参照)、府知事と行政各部署の論争自体は興味深く傍観しています。このときの論争相手は、公務員関係の労働組合の偉いさんで、教育や警察などの公共部門の経費を削減すべきか否かといったことが論じられていました。橋下府知事が「民間なら赤字の部門は経費削減をして当然だ」といういつもの論陣を張ったのに対し、公務員労組の偉いさんは反論しました。「民間企業と公務員は違う、儲けを考えずに大阪府を良くしようと思って活動する教育や警察の部門は赤字が生じて当然だ」と。たしかに、資本主義の論理が支配する民間企業ではペイしない業務を行うのが公共部門の役割です。その主張に対して、橋下府知事はどう切り返したかというと、「それは府民に対する冒涜です」と言ったのです。何だか話が飛んでいませんか?この人の言うことは、テレビ出演時のトークのクセがついているのか、論理としてはかなりムチャクチャで、言っていること自体に大した意味はなく、ただ何となく抽象的に自分がカッコよく見え、かつ敵対陣営に悪印象を植え付ける、そのような議論を意図的に行っている気がしてなりません。労組の偉いさんが言ったとおり、公共部門というのは、民間に任せれば赤字になって誰もやらなくなる仕事を担うのがもともとの役割で、たいていの経済学の教科書なんかにもそう書いてある。それなのに民間同様に赤字を削減しなければならない理論的根拠は何なのか、確かに私も興味ある指摘です。それに対する回答が「それは府民に対する冒涜だ」ですから、答えになっていないといわざるを得ません。橋下府知事は見るからにいい人そうであり(実際、司法修習生時代にあった橋下氏はいい人でした。その辺は過去の記事)、この人が「あなた方は府民を冒涜している」といえば、テレビをボーっと見ている府民は、「そうだ、頑迷固陋な労組のジジイが、また府民を冒涜して橋下府知事をいじめている」といった印象を持つでしょう。しかし、論じられていることに対する回答になっていないのは上記のとおりであり、これでは橋下府知事が好きなはずの「議論」を放棄したに等しい。この一件に限らず、政治家はよくこの手の「論理」を使いますが、これには気をつけないといけないと思います。ただ、私がこの一件で最も批判されるべきだと思ったのは、橋下府知事ではなく、別に存在するのですが、それは誰かといいますと、次回以降に書きます。
2008/05/08
連休なので引き続き雑談です。大阪・道頓堀の「くいだおれ」が7月に閉店するとのことで、トレードマークであり道頓堀のシンボルでもあった人形(くいだおれ太郎)の処遇が一つの話題になっています。その行く先は、道頓堀のまま落ち着くのか、「新世界」など大阪の別の名所か、さらには県外という案も出ているみたいです。くいだおれ人形に著作権が成立するのかとか、意匠登録しているのかとか、その辺の法的な問題は調べていないので、以下法律と関係ない話です。私は、5歳のころだったか、一家4人(両親と兄と)で1、2度ほど「くいだおれ」に行った記憶があり、お子様ランチ的なものを食べた記憶があります。大きくなってからは行きませんでしたが、大学(筑波大)に入学することになった平成2年(1990年)、そのまま東京で就職して大阪に戻ってこないかも知れないというので、大阪の名所を使い捨てカメラで撮影してまわりました(弁護士になるとはこのとき全く思っていなかった)。このとき「くいだおれ太郎」も撮影したのですが、当時はわざわざこれを撮影する人などおらず、何となく恥ずかしかった記憶があります。それがいつの間にか、大阪のシンボル的なものとなり、今や、道頓堀の「くいだおれ」前は、写真を撮る人が群がっていますついでに道頓堀の戎橋も、大学に行く前に当時のガールフレンドとネオンを眺めながら話しこんだ記憶がありますが、今や1メートルおきにグリコの看板を「写メ」で撮影する人が群がっています。なぜああなったかはわかりません。ひとつには、第何次かの「吉本ブーム」みたいなのがあって、大阪の奇抜な看板などが名所として取り沙汰されるようになり、観光地化していったこともあるのかも知れません。しかし、私には、従来から普通にそこに存在していたものが観光名所化することは、少し嬉しい反面、はた迷惑なところもあります。道頓堀を通行しようとすると、くいだおれの前で渋滞します。写真撮影をする人たちで、道幅が半分になっているからです。戎橋だって、最近ようやく改修工事が終わって少し広くなりましたが、今や、橋の上で風にあたりながら誰かとゆっくりお話ししようという風情ではなくなっている。と、私の思い出をここで述べても意味ありませんが、私としては、上記の次第で、くいだおれ太郎の処遇は正直なところどうでもよく、道頓堀からいなくなったとしても、道が広くなっていいかも知れない、という程度にしか思っていません。地元の人間としての屈折した思いなのかも知れませんが、私は「くいだおれ太郎」にもグリコの看板にも、商業広告としての意味しか感じておらず、それらが役割を終えて退場するのであればそれでよいと思っています。「大阪のシンボル」だからずっと置いておくべきだ、などと言って精神的な意味づけをしている人というのは、観光地として大阪を見ている大阪以外の人と、それらの人が群がることによってビジネスとして潤う人々なのではないか。(もし仮に、誰かが試算したように「くいだおれ太郎」による大阪への集客などの経済効果が本当にあるとすれば、府か市が保護すればいい。それに税金を注ぎ込むといえば大阪の人間は理解するでしょう)。しかし、私を含め、職住の場所としてこの界隈を普通に利用している人は、割とドライな思いで今回の一件を見ているのではないかと感じているのですが、多くの地元の方はどう思っているのでしょうか。
2008/05/06
連休の谷間、いかがお過ごしでしょうか。連休の合間のこの3日間は、裁判官も仕事をやりたくないのか、法廷での裁判の仕事がほとんど入っておりません。もちろん、裁判官は遊んでいるのでなくて、たまった判決書きの仕事を一気に片付けているのだと思います。そういうことで、連休の合間は大きな裁判の動きもないであろうということを言い訳に、雑談を書きます。少し前に、新婚旅行に行きました。入籍から半年経っているので新婚といえるかどうかはともかく、入籍後初の旅行です。旅行と言っても、仕事がら長期の休みを取りにくいので、2泊3日の旅です。それでも、3日間も旅に出ると、土日だけでは済まずに平日にかかってしまうので、1、2日ほど事務所のほうはスタッフに「店番」してもらいました。白状しますが、その間、事務所に電話をかけてくる依頼者の方には、「出張中でして」と言ってもらうわけです(中には急いで連絡を取りたいという方もおられるので、そういう場合は携帯で連絡します)。依頼者でこのブログをご覧になっている方はほとんどおられないと思うのですが、もしおられたら、一生に一度の新婚旅行だったということでご容赦ください(中には年に何度も出張名目でゴルフに行く同業者もいます。でも私はゴルフはやりません)。さて、2泊3日でどこに行くかといえば、国内です。大分県の温泉宿に行ってきました。新婚旅行に大分の温泉宿に行って何をするかというと、「何もしない」のです。温泉につかってあとは宿でボーっとしているというのは、普段は味わえない幸福で、大変よかったと思いました。まあ、妻がどう思ったかは知りませんが。ちなみに、現在このブログのプロフィールの部分に貼ってあるのが旅館での写真です。期間限定で(って勿体つけるようなものではないですが)貼っておきます。結婚といえば当たり前のように派手な披露宴をして海外旅行に行って、という風潮も見られます。それが悪いことだとは全く思いませんが、私自身は披露宴も海外旅行もしませんでした。しかし、慌しく式を挙げて海外に行くよりは、よほど深まった「何か」があると思っています。まあ、妻がどう思ったかは知りませんが。
2008/05/02
東京都渋谷区の外資系金融社員の夫殺害事件、またの名を「セレブ妻バラバラ殺害事件」、妻の三橋歌織被告人に懲役15年の実刑判決が下りました(28日、東京地裁)。この事件は検察側・弁護側双方の鑑定人が「心神喪失状態で責任能力がなかった」と結論しており、裁判官がこの鑑定結果をそのまま受け入れるのであれば、この被告人は無罪となるところでした。心神喪失とは、「物事の善悪が分からない、または、善悪の判断に従って自分の行動を制御できない」状態のことを言います。そういう状態で罪を犯しても、法律上は「無罪」となる(刑法39条)。(刑法39条の当否についてはここでも度々論じてきましたが、興味のある方は過去の記事を)心神喪失であるかどうかは、裁判所が判断します。この事件では、鑑定人2名の鑑定結果にもかかわらず、裁判官は「責任能力あり」という結果を出した。責任能力があるかないかは法的な判断であって、医師の判断は尊重されるが、それに拘束されるものではない。これは従来からの判例であり、学生の教科書のレベルでも書かれていることですから、ちょっと刑法を勉強した人であれば、今回の判断に驚くことはなかったでしょう。精神医学的なことは全く不勉強でよく知りませんが、おそらく医師は、目の前の「患者」に治療を施すべきか否かで判断する。そこにはたぶん、医師としてのヒューマニズムも働くのでしょう。一方、裁判官は、その人がやったことに対して刑罰を科すべきかどうかで判断する。刑罰を科したほうがその人自身の更生のためになるのかという観点だけでなく、刑罰を科したほうが社会の秩序維持のためになるのかという観点も入ってくる。夫をワインボトルで撲殺して切り刻み、稚拙ではあるが隠蔽工作をした、そういう被告人を見て、医師は「精神的に疾患のある人で、治療が必要だ」と判断したが、裁判官は「こんな人を処罰しないことには社会秩序が保てない」と判断した、ものすごく簡単に言うとそういうことだと思います。量刑は、殺人プラス死体遺棄で懲役15年は少し軽いかな、とも思いますが、夫の暴力で精神的に参っていた点が考慮されたということのようで、その点では医師の鑑定結果も少し考慮されたということでしょう。
2008/04/29
母子殺害事件に関して、さらに雑談を書きます。事件の判決後、朝のワイドショーに、弁護士の今枝先生が出ておられました。この方、母子殺害事件の弁護団の一員として活動され、いつだったかの公判後の記者会見で涙を流しながらの会見をし、「これまでの弁護活動は辛かった」などと言ってた方です(その後、弁護団との見解の相違だとかで弁護団から外れた)。それにしても、被告人の弁護側の人がワイドショーに登場するというのはこれまで考えられなかったことで、前回書いた「放送倫理・番組向上機構」の意見がテキメンに効いているのだろうと思わせるところでした。話は変わります。人前での涙といえば、ここでも少し前に書いたように、福田総理は小沢氏との党首会談で半ベソ状態になって泣かんばかりの恨みごとを言い、また橋下府知事は市町村長との意見交換会で実際に涙を流した。福田総理の半ベソについては、せいぜいあの直後にそれを揶揄するような報道が見られただけですが、橋下府知事の涙については、批判もある一方で、それ以上に同情も多く集まっているようです。しかし、両者がやったことは全く同じことであるはずです。福田総理も橋下府知事も、自分の政策について「反対陣営」の理解が得られないものだから、つい感極まってしまったということです。それなのに福田総理は冷笑されて終わり、橋下府知事は同情を集めた。その違いはどこからくるのか。一つには、大阪府知事より内閣総理大臣のほうが圧倒的に強い権力を持っているから同情に値しない、ということもありましょうが、もっと根本的な理由は、福田総理と橋下府知事の「ルックス」の違いなのだろうと思います。福田総理が半ベソになったところで、多くの人は「このオッサン何言うとんねん」くらいの感想しか持ちませんが、橋下府知事が涙ながらに話していれば、「かわいそうだ、この人を支持しよう」という気になるでしょう。馬鹿げた話に聞こえるかも知れませんが、似たようなことはザラにあります。たとえば、同じ社会主義革命の指導者として、毛沢東を信奉する人は今どきいないけど、チェ・ゲバラは今でも崇拝され、その肖像画が描かれたTシャツを好んで着る人も多い、それは要するに二人のルックスの違いだ、といったことを哲学者か何かが大真面目で論じておられるのを、何かの本で読んだ記憶があります。冒頭の今枝弁護士の話に戻りますが、涙ながらの会見の後にも同情は集まらなかったようです。その理由は、母子殺害事件の悪質さということも当然あるでしょうけど、より根本的なことを言うと、やはりこの人のルックスが…とは同業の先輩に向かってとても言えませんのでこの辺りで。
2008/04/25
前回の続きです。山口の母子殺害事件で、この事件に全国から21名の弁護士が集まったのはきっと「何かある」のだということを書きました。では、この事件に何があったのか。それは…「わからない」というのが答えです。思わせぶりに引っ張っておきながらすみません。しかし、こんな儲からない、むしろ自分の評判を悪くしかねない事件に、お金ももらわずに参加する気持ちは少なくとも私にはないので、そうさせる何かがあったのかも知れないと想像しているのです。前回書いたとおり、場合によってはああするのが弁護士としての職責ということになる(そのこと自体が納得いかない人は、弁護団を批判するのでなく憲法を改正してください)。そうではなくて不合理な「言い訳」を入れ知恵しただけであれば、まさに責められて然るべきということになる。弁護士としてああせざるをえないような何らかの事情があったのか否か。それは「わからない」のです。実際に事件に触れているわけではなく、マスコミの報道でしか事件を見知っていない私たちには知りようがない。そして私は、どちらかわからないことに対して、その一方であると決めつけて批判する気にはなれないのです。ところで少し前に、放送倫理・番組向上機構(BPO)という機関が、各放送局のこの事件についての報道が、「刑事訴訟を理解せず、被害感情のみに引きずられたもので公平性を欠く」といった意見を出しました。それに対して、ネット上の世論では、「こんな被告人に公平性など要らない」と言った発言も見受けられました。(世の中に存在するブログは、このブログを典型としてその大半が取るに足りないものですが、主権者である国民の感想や意見をダイレクトに聴けるツールとして私もたまに参照しています)しかし、これら世論の言う「こんな被告人」「こんな弁護団」の姿が、すでにマスコミの報道するところを当然の前提としてしまっているところがおそろしいと思いました。「松本サリン事件」を持ち出すまでもなく、報道と実際の事件像が異なることはザラにあるからです。山口県の母子殺害事件は(まだ判決が確定していないので弁護士としては断定できないのですが)、結論としては今回の広島高裁判決の言うとおりでよいと思います。被告人のやったことはおそろしい、おぞましい犯行であることは間違いない。ただ、それに対する判決を下すまでには充分な審理が必要であり、一部世論でそれを忘れたかのような感情論が飛び交っていたこともまた、おそろしいことだ思いました。
2008/04/24
山口県・光市の母子殺害事件で、広島高裁は死刑判決を出しました。最高裁が破棄差戻し判決を出したところから、ある程度予想できた結論ではあります。(2年前の破棄差戻し判決を出した時期の記事を下に引用しておきますが、今回の記事は今回だけで完結しておりますので、過去の記事は興味ある方だけお読みください)。広島高裁がそれなりに長期間の審理を行い、証拠を慎重に検討した上で、「少年には殺意もあり、姦淫目的での犯罪だった」と認定しているわけですから、実際そうだったのでしょう。この被告人に対する弁護団の活動に批判が集まっていますが、私自身はこの人たちを批判する気にはなりません。たしかに、個別的なところでは、弁護手法やマスコミ・遺族への対応について疑問を感じる点はなくもない(それはすでにいろんなところで言われていることだから省略します)。それでも、弁護士であれば「ああしなければいけない」状況であったようにも思います。刑事事件においては、被告人が無罪を主張しているのであれば弁護人も無罪を主張します。常識外れの言い訳をする被告人がいたら、「そんな言い訳はまず通らないし、君の情状をより悪くするおそれが高い。しかし、君が本気でそう思っており、その結果としての判決を受け入れる覚悟があるのなら、私は君に代わって、法廷でそれを主張する」と言うことになります。私自身もそうします。この山口の事件でも、殺すつもりはなかったとか、ドラえもんが何とかしてくれると思ったとかいうことを被告人が「本当に」主張しているのであれば、弁護人としては、ああせざるをえない。弁護団の人たちも、その主張は荒唐無稽であり、常識外れであることはおそらく誰もが理解していたと思う。ただ、日本国憲法に、「被告人は弁護人を依頼できるし、自分の言いたいことを充分に主張して聞いてもらう権利がある」と書いてあるから、誰かがそれをやらないといけないのです。(おそらくないとは思いますが、仮に弁護団が、少年にそのような言い訳や筋書きを「吹き込んだ」としたら、弁護士としてはまさに懲戒ものでしょう。高裁判決ではその「言い訳」によって情状が悪化したとされたわけですから)加えて、その荒唐無稽な主張をするために、全国からわざわざ21人だったかの弁護士が、お金ももらわずに集まってきたわけで、そこには何かあるんじゃないか、と私は思ってしまうのです。では、被告人や弁護士たちのそこに「何があった」のか、それについては次回触れてみたいと思います。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以下は平成18年6月23日に書いた記事です。(当ブログ開設前なので旧事務所のHPに掲載したものです。本文そのまま転載します。「母子殺害事件で『破棄差戻』の最高裁判決」この欄で少し前に書いた、山口県の母子殺害事件、高等裁判所の無期懲役判決に対し、最高裁の判決は「破棄差戻」(はき・さしもどし)でした。ごく簡単に説明すると、最高裁の言っていることは・・、高裁判決は間違っているから「破棄」する。どこが間違っているかというと、死刑にすべきか無期懲役にすべきかの点について、情状をもっと吟味して結論すべきであったのに、安易に無期懲役としたことが間違っている。それをもう一度吟味するために、その点について審理をやりなおしなさい、そのために判決をもとの高裁に「差戻」する。・・ということです。最高裁は、「事実関係」については一から取り上げて判断することをしません。事実の評価とか、法律解釈について誤りがあったかなかったかという点のみを判断します(そうじゃないと全国1か所しかない最高裁がパンクしてしまう)。情状酌量すべき事実としてどんなものがあったかという点まで最高裁は立ち入らないから高裁でもう一度調べなさいという趣旨です。「破棄差戻」に対し、「破棄自判」という判決もあります。もとの判決を「破棄」した上で、事情はよくわかったから最高裁自ら判決します、というもの。今回のケースも、本件の犯人のようなヤツは間違いなく死刑にすべきヤツなのだから、「破棄自判」で自ら死刑判決を出すべきだった、という声も聞かれます。「破棄差戻」を受けた高裁が、吟味の上で死刑判決を出すにせよ無期懲役判決を出すにせよ、最高裁まで争われて、最終の判決が出るのはまだ何年か先になる。その点にも批判がある。最高裁が「自判」すべきであったのか否かについて、私はどちらがいいかわかりません。私は事件の当事者でもないし、事件の捜査に当たった者でもない。私たちが見ている情報は、あくまでマスコミを通じて作られた「犯人像」でしかありません。もちろん、実際の被告人も、その「犯人像」に近い人なのであろうと思います。しかし、「死刑」の最終宣告を出す前に、慎重に検討しなおしなさい、と最高裁が命じたことは、決して不合理ではないと思っています。人殺しをした者は自分も死ぬべきだ、というのは、感情論としては極めてわかりやすい(私自身も、個人的感情のレベルではそう思う)。でも、一国の司法の態度として、1人以上の人を殺した者は死刑、という処理をするのは極めて危険です。人殺しにも様々な事情があると思うからです。ならば、どんな事情があれば死刑にしてよいか、最高裁は基準をもっと具体的に明らかにすべきだ、とおっしゃる方もおられるでしょう。今回の最高裁の「差戻」判決は、まさにそれをやろうとしているのです。こういうケースの検討を通じて、国民に納得のいく形で具体的基準が形成されるのだと思います。それにはまだまだ歳月がかかるでしょうが、国家権力が人を殺すための基準を作るに際しては、それでも慎重すぎることはないと信じます。
2008/04/23
前回、後期高齢者医療制度のことについての私ごとを書かせていただきました。「孫のお菓子が買えなくなる」だの、「現代の姥捨て山」だの、報道ではそんなセンセーショナルな取り上げ方ばかりされていますが、この制度の仕組み自体については、あまり触れられていません。制度開始にあたって色々ごたごたしているのは事実のようですが、この法律自体はずいぶん前に成立していたはずで、新聞やテレビはどうしてその時この制度についてもっときちんと報じてくれなかったのだろうと思いますが、それはさて措くとして。昔、3%の消費税が導入されたときにも、似たようなことがありました。ある野党の国会議員はこう言ったとか。「スーパーで子供が100円玉を持ってお菓子を買いに行ったら、103円になったからと言われて買うことができず、子供は泣いていた。だから消費税はやめさせないといけない」と。しかしあのとき消費税を導入していなければ、国の財政は今ごろ破綻していたでしょう。目の前の子供が泣いていたから消費税をやめさせるなど、そんな「町内の優しいオジサン」のレベルで国家の財政を論じてほしくないと思います。もちろん、そういう暖かい心は必要です。「暖かいハートとクールな精神」、どこかの国の経済学者が言った言葉だと思いますが、それは経済だけでなく、法律や政治など、およそ社会科学を扱う人には誰だって必要です。泣いている人を救ってあげたいという「暖かいハート」が全ての出発点であるべきだとは思いますが、それ一辺倒ではダメなのです。ここで以前にも引用したことがある、私の座右の書「ジャン・クリストフ」(ロマン・ロラン著)で、主人公クリストフが「いつも目に涙を浮かべてる人気取りの人道主義」の連中を嗤いとばすくだりがあります。そんなことよりは「血をたらして」生きる道を選べと。涙を流しながら「人に優しい政治を!」とか叫んでいる連中には、私はどうしても鼻白む思いがしてしまうのです。本当に必要な政策なら、涙を捨てて、血を流す覚悟で断固遂行していけばいい。それができる人であってこそ、政治を司る資格があると思う。と、そんなことを思っていたら、福田総理が先日、民主党の小沢さんとの党首討論で半ベソ状態になっていました。オイオイと思っていたら今度は地元大阪で、橋下府知事が市長との意見交換会で本当に泣いてしまいました。このあたりの感想は人それぞれでしょうけど、私自身は「嫌な感じ」を受けました。せめてあの人たちの流したものが、「涙」ではなくて「血」であったことを望みます。
2008/04/20
後期高齢者医療制度が施行されました。細かい話は省略しますが、社会の高齢化に伴い今後増大する医療費に対応するために必要な制度だと思っています。ご存じのとおり、病院にかかったときの医療費は、私たちが窓口で支払う分以外は、国が医者に払っています。国民が支払う保険料は確実に国が徴収できるようにしないと、国庫がパンクしてしまうのです。すべての高齢者にとっての負担増となるわけでもなさそうなのですが、年金から保険料を天引きするインパクトが強いのか、報道ではそこばかり強調されています。「これでは孫にお菓子も買ってやれない」という高齢者の発言がどこかの新聞で紹介されていましたが、コトは日本の医療制度が持ちこたえられるかどうかの話であって、孫の菓子などこの際どうでもいいじゃないか、と思ってしまいます。また私ごとの話になりますが、ここでも過去に書いたように、ウチの父親は一昨年、62歳で亡くなりました。元気だったのがある日突然、大動脈乖離(加藤茶が死にかけたやつ)で倒れて、そのまま亡くなりました。「手の施しようがなかった」ということで(だから治療行為を受けていない)、父は国庫の医療費に何らの負担をかけることなく逝きました。どうもウチの父方の家計には、そういう死に方(突然倒れてすぐ亡くなる)をする人が多いみたいで、父方の祖父も祖母も、似たような経路で亡くなりました。ついでに母方の祖父母もあまり長く生きませんでしたが、母方の祖母はたまに病気をしたときにも、「病院は元気な人がいっぱい来ていて待ち時間が長いから行きたくない」と言っていました。父も祖父母も見事な死に際であったと思います。日本人が皆そういう死に方をするようになれば、この国の医療費の問題は一気に解消するように思います。しかし、言ってる私自身はそんな死に方はイヤだと思っており、病院で適切な治療を受けつつ、末期には妻や子供(子供はまだいませんけど)に看取られつつ死にたいです。そしてそのためには、私自身の医療費負担もさることながら、国庫にかける負担もかなり多かろうと思います。多くの人が幸せに看取られながら死ぬ道をたどるのだとすれば、高齢化社会において国庫の医療費負担は膨大になるでしょう。そんな社会の中で、人はどう生きどう死ぬか、自分が死ぬときには「望みの死に方」ができる社会になっているのか、これは我々一人ひとりが直面していく問題です。だから孫のお菓子など大した問題じゃないでしょ、と思ってしまうのです。
2008/04/19
裁判員制度に関して今しばらく書きます。少し前の日経新聞で、「裁判員に心のケア」(13日朝刊)と。裁判員として刑事裁判に関った人たちが、事件に触れることでショックを受けて心身に変調をきたしたときに備えて、電話相談やカウンセラーを置いて手当てする仕組みを作ろうと、最高裁は考えているらしい。たしかに私も、ハードな刑事事件で弁護を担当すると、その法廷が終わるたびにグッタリします。おそらく、訴追する側の検察官も、壇上にいる裁判官も同じでしょう。重大犯罪に対して、有罪か無罪か、死刑にすべきか無期懲役にすべきか、プロの裁判官でもグッタリするであろう判断を、「素人」の裁判員がさせられるわけです。精神的負担は大きいでしょう。事件の内容に触れること自体も、一般の人にはツライことが多いと思う。殺人事件であれば、「証拠写真」として死体の写真なども見ることになるわけですから、相当の精神的ショックを受ける人もいるであろうことは容易に想像できる。ちなみに弁護士や検察官や裁判官は、司法修習のときに、死体解剖に立ち会ったりとか、刑事事件の記録を通じて一通りのジャンルの死体写真を見たりとかしていますので、その手のことには一応慣れています。(もちろん中には慣れない人もいて、そういう人は民事事件専門の弁護士の道を選ぶことになります)そのような刑事裁判の過程で、不幸にして心に傷を負った人をケアしようというわけですが…。たしかに国民に「義務」として刑事裁判への協力を求めるわけですから、ケアはしておくに越したことはないのかも知れません。しかしこのことが却って、一般国民に対して「やっぱり裁判員って大変なんだ」というイメージを与えてしまわないか。そうだとすると、最高裁がこれまで必死で「裁判員は大変じゃないですよ」と、イメージキャラクターに上戸彩まで借りだして(あのポスターは欲しいけど)アピールしてきたことからすれば逆効果じゃないかと。そしてもっと根本的なことを考えてみると、そこまでやるんなら、いっそ裁判員制度なんてやめたら?やっぱり人を裁くのはプロじゃないと無理では?というところに行き着いてしまうわけです。それでも裁判員制度施行の閣議決定が成立したみたいで、実施に向け準備は着々と進んでいるようです。
2008/04/16
一見、どう評価してよいか迷うけど、当事者の立場を考えてみればそれも仕方ないか、という話がよくありまして、そんな話を2題。マンションに、イラク派兵反対のビラを投函した人が建造物侵入罪に問われたケースで、最高裁が有罪の判断。有罪判決を受けた被告人たちは、表現の自由の侵害だという声明を出しています。高裁判決が出たときにも触れましたが(過去の記事)、たしかに、マンションの集合ポストに投函される商業的チラシは今のところおとがめナシで、政治的アピールをすれば逮捕されるということになりますと、時の政権に反対するような人が逮捕されるということになりかねない。ただ、この事件の事実関係に照らすと、本件に限っては有罪でも仕方ないかな、というのが今の私の感想です。このマンションは自衛隊の官舎だったとか。すると素朴に考えて、ビラを配られる側の立場からするとどうか。自衛隊やイラク派遣の是非はここではさておくとして、公務員として国の命令で国の防衛やイラク派遣に携わっている人々やその家族が、度々、自宅のマンションに「お前らのやってることは違憲だからやめろ」というビラを投函されるわけで、これは不気味であり不快でしょうから。さて、千葉の県立高校で、入学金未納の生徒2名が入学式に出席できなかったと新聞にありました。その学生にとってはかわいそうとしか言いようがないですが、皆さま方はどうお感じになったでしょう。一部新聞によると、そこを、学校側は、事前の説明会で「納付困難な方は相談するよう」言ってあったにもかかわらず、その学生の親は納付しなかった。入学式の日に、その学生から納付するよう言われて、ようやく親が持ってきたと。つまり払えるのに払っていなかったわけで、もっとも責められるべきは親でしょう。県の条例では、入学費を収めないと入学できないとなっているそうで、いま流行りの「法令遵守」の精神からすれば、学校側は、入学式に出さないどころか、入学自体を拒否しなければならない。教育の現場のことは知りませんが、学費を納付しない親も増えているとか。そんな家の学生をそのままにしておくと、他の親は不公平だと言うだろうし、一般の県民からも、「条例に違反して生徒を在学させている、不当な税金の使い方だ」と文句が出るかも知れない。学校側の立場としては、苦渋の判断だったと思われます。表現の自由だからいいじゃないかとか、高校生がかわいそうじゃないかとか言うのはたやすいですが、様々な人の立場を考えて論じていきたいものだと思います。
2008/04/15
大阪府の財政の話です。橋下知事と、その直轄化にあるプロジェクトチームが、大阪府の財政再建案を提示。詳しくは見ていませんが、教育費の援助を削減するとか、警察の人員を減らすとか、かなり評判の悪い内容となっているみたいです。家計が苦しくなる、と「ため息まじり」で「途方に暮れる」府民の声が紹介されていました(日経朝刊、社会面)。私自身は、自分で言うのも何ですが、府には相当税金を払ってると思いますし、払ってる以上の公的サービスを受けているとも思わない。幸い、途方に暮れるほど窮乏しているわけでもないし、府で決まったことなら従います。ただあまりに府民税が高くて、かつバカな府政ばかりを行うようであれば、京都か神戸か、別のところに引っ越そうと、ある程度本気で考えています。大阪の土地や人は好きですけど、地方公共団体としての大阪府が私にこれまで何かしてくれたかというと、払った税金以上のことをしてもらった覚えはない。であるにもかかわらず、一部の知事が(橋下さんですけど)言うように「私らの世代が泥をかぶってでも財政改革をしないと」と頭から言われると、「大阪府に対しそこまでの義理はない」と言いたい。ところで橋下知事は、冒頭の財政再建案の提示にあたって、府職員にこう言ったとか(産経朝刊からの引用です)。「これから議論が始まる。府民に議論を巻き起こしてほしい。真剣な議論の先に真実が見える」と。しかし、私としては、別に知事や府職員の方々と財政についての議論をしたいとは思ってはいません。たぶん、府民の方の多くもそう思っていて、日々働いて税金を納めてそれで精一杯だから、財政はそっちがよろしくやってくれ、という気持ちの方が多いのではないのでしょうか。それ以上に私たちに何をせよというのか。「真剣な議論」とか「真実」と抽象的に言われると、そのこと自体は良いこと、否定できないことなので、異を唱えにくいのです。前回書いたように、「裁判に国民の常識を反映させる」ということ自体は良さそうなので、誰も反対しないまま裁判員制度ができてしまったのと同じです。そういうことで私は、府の財政に関する議論には一切加わりません。そこは知事と府職員の方で責任もってやってください。そのかわり、税金は言われただけ払います。ただし、あまりに府がダメになった場合は、府から出ていかせていただきます。と、たぶん府職員は誰もみていないだろうから、ここでこっそりと言っておきます。
2008/04/12
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