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お盆休みが明けて今日からお仕事再開!!という方が多いことでしょう。皆さんはリフレッシュできましたか?さて、この夏は一度もモクモクとした夏特有の入道雲を見ることがありませんでした。夏大好きな私としてはちょっと残念で物足りない夏でした。がっ! 自転車で走るには気持ちいい日和で昨日は中学生になった甥っ子とサイクリングしてきました小学生の頃から地元の陸上クラブで良く走りこんでいた為か、殆ど初めての長距離ランでしたが4時間走っても全くの疲れ知らずでその後家に帰ってから何事も無かったかのように友達と遊びに出かけていったそうです。まあ、今回は僕がロードバイクで彼がマウンテンバイクってことでかなり手加減した4時間だったので今度は自転車のキツサでも味あわせてあげるとしましょうか…僕が中学生で初めてサイクリングに出かけたときは場所が奥多摩湖だったので、それはそれは地獄を味わいました。初サイクリングで奥多摩有料道路を標高1300m近くまで登って往復180km。下りで転んで怪我人は出るは途中で腹が痛くなって野○ソする奴は出るわ山を下る頃には周りも暗くなってきて誰もクチをきかなくなってきて泣き出す奴が出てきたり…で、そんな「ちょっとヤバイかも」っていう状態からやっとの思いで地元に帰り着いた時の安堵感と満足感。思えばそんなことから自転車の世界にのめり込んでいったんだなぁ…と、懐かしく思い出します。でも、そんなチョッとした冒険は一生忘れない思い出になりますから僕のように甘えさせてくれる大人ではなく対等な立場の友達と一緒に経験してもらいたいものですね。冒険は楽しいよ!!そうそう、僕の人生もまだまだ冒険でいいかな?ってこれを書いていて思いました。というわけで、ヤス君どうもありがとう♪そして、マウンテンバイクを貸していただいたみさかサイクルさん!!おかげ様で楽しいサイクリングが出来ました。ありがとうございま~~~す(^0^)/
2009.08.17
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今日は長崎に原爆が投下された日ですね!人は生まれた瞬間から死に向かってカウントダウンが始まるわけですが限りある人生を感謝の気持ちで生きる為に「歴史を知る」と言う事は極めて重要だと思っています。かく言う私も不勉強で歴史に詳しいわけではないですが戦争が無い時代に生まれたことには感謝ですよね!自転車に乗れる事も、毎日ご飯が食べられる事も当たり前すぎて感謝の気持ちが薄れがちですが世界を見渡せばそんな人々はごく一部の恵まれた国の人々に限られます。傍観者にならぬよう、当事者意識を持ってその日の歴史を振り返ると何か見えてくるものがあるかもしれません。以下、「致知随想」より。-----------------------------------------------■原爆投下その日 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄被爆直後の長崎で、ご自分の身も顧みず被爆者の救護にあたられた医学博士・永井隆先生。43年の短いご生涯は、「己の如く人を愛せよ」と説く新約聖書の教えそのままの生き方でありました。私が被爆をしましたのは、長崎医科大学附属医院物理的療法科で婦長を務めていた22歳の時です。地下で書類の整理をしていたところ、突然ピカーッと目を射るような閃光が差し、爆風で吹き飛ばされたかと思うと、激しく床に叩きつけられていました。瓦礫の山をやっとの思いで這い出すと、水道の蛇口が爆風で開き、豪快な音を立てて噴き出しています。あまりの息苦しさにゴロゴロとうがいをしました。高い薬局の塀を攀じ登ると、顔じゅう血まみれになった永井先生が「まごまごしていると焼け死ぬぞ」と懸命に救出の指揮をとられています。火の手はすぐそこまで来ていました。「早く逃げましょう!」そう言った私に、先生は「一大事とは今日唯今のことなりーっ」と掠れた声でおっしゃるではありませんか。私たちが日頃積んできた厳しい訓練の成果はいまここで発揮されるのだ、私にはそうおっしゃっているように思えました。■地獄絵図 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄その後、見た光景は地獄絵図さながらです。茎だけになった芋づるを全身にぐるぐる巻きつけている人、皮膚が地面まで垂れ下がり、真っ黒な体の上から血を流している人……。先生のこめかみはガラス片で奥深く切られ、押さえていた指を離すと、ピューッピューッと血の飛び出る始末です。その上、被爆の2か月前に白血病を患われ「余命3年」の宣告を受けられていたお体でもありました。それにもかかわらず、先生はあの極限状況下でまったくご自分の身は顧みることなく、呼吸が苦しくなれば地面に仰向けになって心臓を押さえ落ち着きを取り戻されるなど、ふらふらの足で何回も立ち上がっては救護にあたられるのです。また先生は戦地へも2度行かれていたため、組織のあり方とは何かを実によく心得ていらっしゃいました。病院からちぎれて飛んできたシーツを木片に括りつけ、そこにご自分の血を擦りつけて“日の丸”を染め上げ、角尾学長のそばに立たせると「大学の職員ー、事務局、看護婦、医局の学生、みんな集まれー!」と本部の位置を示されました。そして「さぁみんな元気を出せ。 男子は負傷者を収容する小屋を。女子は炊事係!」と震える声で叫ばれました。そうして集まった医局の連中で、急遽、組織的な救護活動が始まったのでした。一方、私が気になっていたのは先生のご家族の安否です。被爆直後、私は何度となく「奥様は大丈夫でしょうか。 お帰りになってみてはいかがでしょうか」と申し上げました。しかし先生は決して首を縦には振られません。3日後、自宅の台所のそばで真っ黒く焼け爛れて亡くなられていた奥様の姿を、どんな思いで見つめられたことでしょう。■病床にて執筆活動 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄終戦後、先生はカトリック信徒から贈られた畳二枚の小さな庵を「如己堂(にょこどう)」と名づけてそこで寝起きをし、病床から『長崎の鐘』や『この子を残して』などの本を10数冊書いていかれました。また、医師でありながら文化面に大変造詣が深く、焼け跡の庭で子どもたちにお茶やお花の指導をされたり、俳句や和歌をお詠みになったり、豚や牛のユーモラスな絵を交えて平和の大切さを訴え続けておられました。やがて執筆した本が世に出るにつれ、全国からひっきりなしに面会者が訪れるようになりました。しかし病はますますひどくなっていきます。呼吸をするのも苦しそうでした。それでも先生は弱音は一言もおっしゃらず、どんな方とも分け隔てなくお会いになるのです。枕元にうつ伏せになりながら原稿に向かわれるのは、夜中の2時、3時、教会の鐘の音が響く朝5時30分までということもたびたびありました。それによって得た本の印税で、浦上の丘に千本の桜を植え、近所の子どもたちのためには私財を投じて図書室をつくられるなど、「人のためにお金を使いなさい。 自分がしてもらいたいように人にしてあげなさい」と言われるお言葉通りの生き方をされていました。■平和を語り継ぐ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄永井先生は生前、お書きになった本の中で「核は持ってはいけない。戦争は絶対にしてはいけない」と繰り返し述べられています。ご自分のお子様二人にも「最後の一人になっても、戦争の話が出たら反対するのだよ」といつも言い聞かせておられました。それなのに、いまの世の中はどうでしょう。先生は「喧嘩はしてもいいけれど、意見が合わなければ とことんまで話し合いなさい。 お互いの人格を認め合えるよう、 愛の気持ちを大切にするのだよ」とおっしゃっていました。お互いに助け合い、悲しみ合える優しい心を育て、仲良く共存できる社会をつくるよう力を合わせていくべきではないか、と私も考えます。現在もそんな私のする話を聴きに、修学旅行生たちが訪ねてこられます。そんな時、私はほとんどお断りをせずお引き受けし、突然の依頼であってもできる限りお話をさせていただくようにしています。永井先生が病臥にありながら、訴え続けてこられた平和の尊さ、命の大切さ。82歳のこの年まで生かせてもらえた命に感謝しながら、子どもたちが幸せな生活を送れるよう、今後も精いっぱい平和の尊さを語り継いでいきたいと考えています。 『致知』2006年11月号「致知随想」より
2009.08.09
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小才は縁に出逢って縁に気づかず中才は縁に気づいて縁を生かさず大才は袖擦り合うた縁をも生かすいったいどんだけの縁を切ってきてしまったかなぁ…「面倒くさがり屋」の致命傷はせっかくのご縁を切ってしまう(維持できない)ところにあるのだと思う。←自分を振り返り人との縁仕事との縁手に取った本偶然耳に入った言葉たまたま目にした新聞記事・・・「縁」・「選択」・「意志」、そして「気づく力」いろいろなところにチャンスはあるんだろうね!さだまさし チャンス
2009.08.08
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