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東金八鶴湖に南面してたたずむ安国山最福寺に参拝しました。最福寺、大同2年(807年)伝教大師最澄によって開かれたと伝えられる古刹です。上の方が切られていますが、この杉の大木を見ても、お寺の歴史の古さが伝わるようですね。石段を登って眼下の八鶴湖を撮影しました。境内にはお墓も沢山建立されています。これは「思親の像」です。日蓮聖人が 身延の山より 房総の 両親に思いを寄せている姿を現したものだとか。日蓮聖人ということは、最福寺は日蓮宗のお寺なのですね。天台宗の祖、最澄が開いたのにいつのまにか、日蓮宗に改宗とは、不思議ですね。さて大黒天の顔パネルがある大黒堂そして、こちらは客殿です。【つづく】人気ブログランキングへ千葉県東金へ(その3)最福寺
2016年04月27日
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湖畔に建つ「県立東金高校」。八鶴湖は、東金御殿といわれる徳川家康が鷹狩りの際宿泊した御殿があったところです。その御殿は東金高校の敷地にあったそうです。そして、湖畔に建つ渋い木造家屋。この建物は、料亭「八鶴亭」です。八鶴亭の建物は、明治18年創業の旅館八鶴館のもので、八鶴湖畔に面する本館は1階に60畳の大広間や玄関、2階に宿泊室があるそうです。平成21年5月に国の登録有形文化財に登録されています珍しい木造の3階建ですね。こういうお店で、会食してみたいものです。このような立派な建物がある東金は、江戸時代、徳川幕府の直轄領であり、鷹狩りに来遊する家康公のため東金と船橋を結ぶ御成街道がつくられ、また東金と海岸を結ぶ御成新道も同時期につくられました。この道を通って九十九里の海産物が東金に集まり、江戸へ運ばれるようになります。その結果、東金は問屋町として発展し、「上総の黄金町」とうたわれた豊かな町だったそうです。【つづく】人気ブログランキングへ千葉県東金へ(その2)八鶴亭で食事したい
2016年04月26日
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JR東日本の房総地域を走る209系2000番台・2100番台。この電車に乗ってやってきたのは、ここ千葉県東金市。駅前通りにあったパチンコ店、「百万弗」という景気のいい名前ですが、閉店しているようですね。こういう地方都市の中心街って、バイパス沿いにお店が集まっていて、駅前ってなんとなくさびれているんですね。ガンバレ、駅前と言いたいところです。で、目的はこの町でパチンコをするのではなく、東金駅から徒歩10分のところにある、この「八鶴湖」を見物にやってきたのです。パノラマ合成した写真です。湖というよりも池という感じですが、説明書きによると徳川家康公ゆかりの池なんですね。八鶴湖の周囲には約1000本の桜が植えられていて、毎年4月上旬になると「東金さくらまつり」が開催され、大勢の花見客でにぎわうそうです。桜の季節に来るべきでしたね。よく見ると、まだ名残の桜がちょっぴり残っていました。【つづく】人気ブログランキングへ千葉県東金へ(その1) 桜の季節に来るべきでした
2016年04月25日
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この間の金曜日、栃木県市貝町にある芝ざくら公園に行ってきました。なかなか見事な芝ざくら、見学させていただきました。人気ブログランキングへ芝ざくら
2016年04月24日
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偕楽園に来れば、その下に広がる千波湖の方へも行ってみましょう。千波湖の横を流れる桜川と千波湖です。千波湖はもともと、那珂川の氾濫などにより、偕楽園のある上市台地と千波湖の南側の千波緑岡台地の間の低湿地帯に生じた浅い沼であったそうです。その後、江戸時代初期における水戸藩の城下町建設のなかで、水戸城の堀として位置づけられ、囲い込まれることにより、千波湖が形成されたそうです。ちなみに、千波湖は,その平均水深が、約1.0m程度であるため、分類上は「沼」になりますが、昔から「千波湖」と呼ばれています。湖面を優雅に泳ぐ白鳥。中には陸に上がって道路を散歩している白鳥も。ユリカモメもいました。色々な野鳥がのんびりと過ごす千波湖です。そして、水戸と言えば、この人ですね。水戸黄門。立派な銅像が立っています。こちらは、千波湖へ渡る歩道橋の上からみた好文亭です。偕楽園、見事な公園でした。水戸市民の誇りといってもいいのではないでしょうか。また、四季折々訪ねてみたいものです。【了】人気ブログランキングへ皆で楽しむ「偕楽園」(その9)
2016年03月18日
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偕楽園には色々な石碑がありました。これは、「遺徳の碑」と呼ばれるもので「特に我が水戸人士に徳あり」とたたえる第6代茨城県知事関新平の遺徳をたたえる碑だそうです。 関新平は天保12年(1842)生まれの元肥前佐賀藩士で、明治維新の際には奥羽各州に出張して連戦、大いに英名を挙げたそうです。明治5年(1872)10月、茨城県権参事となり、翌年の明治6年(1873)9月から明治8年(1875)6月まで、茨城県参事を務めました。その間、困窮する水戸士族に土地を与えて救済につとめ、また、水戸城炎上の罪に問われて投獄された人々の無実を上申し、釈放に力を尽くしたということです。こちらは「二名称の碑」です。水戸が生んだ彫金術「水戸彫り」の名工、初代海野美盛(うんのびせい)(~1862)、萩谷勝平(はぎたにかつひら)(1804~1886)両氏の技をたたえ明治43年11月に建立したものです。また、水戸はオセロゲーム発祥の地でもあるんですね。→→→オセロ誕生秘話【つづく】人気ブログランキングへ皆で楽しむ「偕楽園」(その8)
2016年03月17日
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偕楽園、梅以外にも楽しめるようで、こちらは「二季咲桜」とよばれる桜の木です。一年に二度咲く、四季桜の一種、二季咲桜です。こちらは有名な「左近の桜」です。解説も丁寧に書いてありました。「この桜は、天保2年(1831年)斉昭夫人の登美宮(とみのみや)が降嫁の折、仁孝天皇から京都御所の左近の桜の鉢植えを賜ったことにさかのぼります。東京小石川の後楽園徳川邸に植えられたこの桜は、天保12年(1841年)弘道館の落成にあたり弘道館正庁玄関前に移植されました。その後、初代・二代目は枯れてしまい、現在の桜は昭和38年(1963年)弘道館改修工事の完了を記念して茨城県が宮内庁より京都御所の左近の桜の系統(樹齢7年)を受領し、弘道館と偕楽園に植えたものです。」こちらは「仙奕台(せんえきだい)」千波湖をはじめ周囲の景観が一望できるこの突き出た台地。碁や将棋を楽しんだ場所です。松の木の下にあるのが、碁盤のようです。偕楽園から千波湖を臨んでみました。偕楽園に来るのに乗り込んだ、常磐線の特急車両です。車体全体が薄い桜色で、また窓の下の赤いライン、偕楽園の紅梅と白梅を連想させる色使いですね。【つづく】人気ブログランキングへ皆で楽しむ「偕楽園」(その7)
2016年03月15日
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偕楽園に行くと、是非訪れたい施設が好文亭(こうぶんてい)です。現在、偕楽園を訪れる多くの人は、常盤神社側の東門から入りますが、本来の偕楽園の正面入り口は、好文亭表門です。この表門を入ると見事な竹林が広がる幽遠閑寂な世界が広がります。そして、この質素な門が一の戸でここを通って好文亭の方へ行けます。この黄色いジャンパーを着た人はボランティアのガイドさんです。無料で親切丁寧な案内をしてもらえます。これが好文亭です。徳川斉昭自らが設計したもので、木造2層3階建ての好文亭本体と木造平屋建ての奥御殿から成り、各所に創意工夫と洒脱さを感じさせる建物です。斉昭は、ここに文人墨客や家臣、領内の人々を集めて詩歌や慰安会を催したそうです。藩主の居所としてではなく庶民とともに利用することを目的とした広い濡縁の間、飲食の類を三階まで運搬するために木製滑車を利用した昇降機の設置などがあり、斉昭公の進取の気概が感じられますね。ただし、この建物、1945年(昭和20年)の水戸空襲で大部分が消失しましたが、創建時の状態を出来るだけ復元する方向で1955年(昭和30年)から再建が始まり、1958年(昭和33年)に完成したものだそうです。こちらは好文亭をバックに水戸黄門御一行と梅娘さんたちと記念撮影ができるサービスがありました(これも無料です)。ちなみに、三脚や自撮り棒がなくても、この青いジャンパーを着た中学生のボランティアスタッフが、観光客のみなさんが持っているデジカメやスマホで撮影してくれます。ところで、青いジャンパーは男子中学生、ピンクのジャンバーは女子中学生です。こんなところにもなんとなくジェンダーの問題を感じてしまいます。どうして男女で色を分ける必要があるのでしょうでしょうかね。【つづく】人気ブログランキングへ皆で楽しむ「偕楽園」(その6)
2016年03月14日
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ただひたすら梅の花を撮影してみました。いずれの梅もきれいですね。でも、それよりももっとキレイだったのは、やはり、水戸の梅娘のみなさんでした。【つづく】人気ブログランキングへ皆で楽しむ「偕楽園」(その5)
2016年03月13日
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こちらは余り使われていませんが、「御成門」です。明治23年、昭憲皇太后行啓の際に造営された門です。ということは高貴なお方のための門ですが、意外と質素です。夜はライトアップされているようですね。偕楽園には「水戸の六名木」と呼ばれる花の形、香り、色などが特に優れた品種があり、このような囲いの中で大切に育てられています。白難波(シロナニワ)やや早咲き 白色中輪。ほころびたときの、微かな淡紅色が開花した後も花の外側に残ります。開花時期は1月下旬から2月上旬です。こちらは、「虎の尾(トラノオ)」やや早咲き 八重中輪。ガクが淡紅色、つぼみの開き始めは薄紅色でやや尖っている。開花後は白色となります。めしべは短く2本以上あるものが多く見られます。若い梢は黄緑色。開花時期は2月上旬から3月上旬ですが、まだ咲いてはいませんでした。【つづく】人気ブログランキングへ皆で楽しむ「偕楽園」(その4)
2016年03月12日
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偕楽園の東門から入ります。ちなみに偕楽園、みんなで楽しむ公園という水戸斉昭公の思想からでしょうか。これだけ立派な庭園にもかかわらず、「入場料は無料」です。水戸の偕楽園といえば、やはり梅の花ですね。MoMo太郎が偕楽園に行ったのは二月の末だったので、まだ梅の花もそれほど咲いてはいませんでしたが、でも十分、梅の花を堪能できました。また、こんなふうに梅の品種の名前が書いてあるのも、いいですね。白い花だから白加賀なのですね。こちらは枝垂れ梅です。【つづく】人気ブログランキングへ皆で楽しむ「偕楽園」(その3)
2016年03月11日
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偕楽園に行く前に常盤(ときわ)神社に参拝しました。徳川光圀・徳川斉昭を祀る神社です。徳川光圀とは水戸黄門として有名な水戸藩二代目藩主です。徳川斉昭は水戸藩の第9代目藩主にて江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。藩政では藩校・弘道館を設立しこの偕楽園を作ったのも徳川斉昭です。神社にお参りする時は、鳥居の真ん中を通ってはいけませんよ。なぜなら真ん中は神様の通り道だからです。順番に、お参りする順番を待つ参詣の人たちです。なぜか、アウディが展示されています。水戸の人は外車が好きなんでしょうか?福梅茶が無料で配られていました。無料といっても、お志程度は置いて下さいね。福梅茶、梅干をお茶で煮たようなものでしょうか。まあ、美味しいといえば美味しいような、不思議な味でした。【つづく】人気ブログランキングへ皆で楽しむ「偕楽園」(その2)
2016年03月10日
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偕楽園(かいらくえん)は、日本の茨城県水戸市にある国の史跡及び名勝に指定されている日本庭園です。2月20日から3月31日まで、水戸の梅まつりが開催されているので、梅を見物に行ってきました。梅まつりの期間中、臨時で開設される「偕楽園」駅です。下り線のホームしかありませんから、お帰りの際は、ここから隣の水戸駅まで行って、上りの電車に乗って下さい。こちらは、常盤(ときわ)神社への参道です。偕楽園の上るスロープの途中にある「大日本史完成之地」の碑です。この「大日本史」は、水戸黄門で知られる徳川光圀公が始められた事業で、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成したそうです。【つづく】人気ブログランキングへ皆で楽しむ「偕楽園」(その1)
2016年03月09日
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いよいよ三学院の本堂へお詣りします。ここは仁王門です。金亀山極楽寺というだけあって、金色の亀が手水舎に飾ってあります。なかなか堂々とした鐘楼です。隣には三重塔もあります。最近、建立されたような感じですね。金色が空に映えていました。この三学院、天正19年(1591)には、徳川家康より、寺領20石を寄進する旨の朱印状が授与されており、以後徳川歴代将軍からも同様の朱印状が与えられているという、結構、お金持ちな寺院だそうで、そんなわけでしょうか、この本堂も大きい建物でした。これは本堂の扁額です。まあ、幼稚園も経営しているし、葬儀場もあるので、なかなか内情は、???でしょうか。そして、やはり真言宗のお寺なので弘法大師の像がありましたね。埼玉県蕨市、ざっと巡ってみましたが、なかなか、興味深いものも多く、いや、簡単に見過ごせない町だということがわんりました。また、時間があれば蕨市、じっくりと歩いてみたいものです。【了】人気ブログランキングへ埼玉県蕨(ワラビ)市散策(その11) 三学院の本堂は大きい
2016年03月06日
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蕨市北町地区にある「三学院」は、京都の新義真言宗智山派総本山智積院(ちしゃくいん)の末寺で、正式な山号は金亀山(こんきさん)、寺号は極楽寺三学院といいます。近隣のお寺にはない大きなお寺でした。犬の散歩はご遠慮下さいとありましたが、猫の散歩は自由なようでした。のびのびと振る舞うニャンコちゃんでした。ここには、蕨市指定文化財の「目疾地蔵(めやみじぞう)」、「六地蔵」、「子育て地蔵」が奉られています。これが子育て地蔵です。火伏(火災防止)・開運・子育ての霊仏として、いまなお人々の信仰を集めています。こちらが六地蔵です。手前にあるのは目疾地蔵です。六地蔵は地蔵菩薩が六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)に分身し、人々を救済する姿を表しているものだそうです。そして、これが目疾地蔵です。目に味噌を塗ると目の病気がなおる、あるいは目の病気にかからないといわれており、それでお地蔵様の目のあたりに味噌が塗られています。この三学院は、関東百八地蔵霊場5番、足立坂東三十三ヶ所霊場20番、北足立八十八ヵ所霊場30番の札所となっている。なかなか格式の高い寺院です。【つづく】人気ブログランキングへ埼玉県蕨(ワラビ)市散策(その10) 三学院
2016年03月05日
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「サッカー女子・リオデジャネイロ五輪アジア最終予選」で、なでしこジャパン、中国に負けましたね。まあ、MoMo太郎はサッカーよくわからないんですが、オリンピックは難しいみたいですね。まあ、これで、野球ファンのMoMo太郎としては、サッカーではなく野球中継とか増えることを期待しています。そして、世界選手権団体戦は、北朝鮮を下して日本女子チームは決勝進出、よかったですね。やっぱり、福原愛ちゃん、石川佳純ちゃん、そして伊藤美誠ちゃん、それから浜本由惟ちゃん、国民的スターてすよね。男子チームも調子がいいので、今回は男女で金メダル期待していますね。さて。蕨市の紹介です。中山道蕨宿の雰囲気を出すのに、交番も和風な作りで協力していました。交番の裏には「中山道ふれあい広場」として、ちょっとした公園も作られていました。塀には、往時の蕨宿をイメージした絵も描かれていましたよ。そして、ふと後ろを見たら、ファミリーレストランの「華屋与兵衛」がありました。くわしくはこちら→→→華屋与兵衛華屋与兵衛の店名の理由も書いてありました。ちなみに、両国には、「与兵衛鮨発祥の地」を示す看板が立っています。ファミレスも、やや江戸時代の雰囲気を出すのに協力しているのでしょうかね。【つづく】人気ブログランキングへ埼玉県蕨(ワラビ)市散策(その9) 華屋与兵衛について
2016年03月04日
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今日はひな祭りでしたね。古式ゆかしい日本の文化の香りを伝える「ひなまつり」。それと同様に、旧中山道沿いの宿場町だった蕨宿の面影を今に伝える建物を町の中に見つけることができます。この道標は最近できたものですが、板橋の次の宿場だったんですね。この建物は、昭和6年建築の『河内屋鈴木薬舗』。明治18年からここで薬局を始めているそうです。現在は建物の一部を改造して『ギャラリー河内や』を開設しているそうです。こちらは「手づくり煎餅 萬寿屋」さん、建物はこの古い街並みに沿うようなデザインです。看板も、古色蒼然として、雰囲気だけは醸し出そうとしていますね。古い建物にはこんな木札がかかっています。「中山道蕨宿景観建築物」こちらは、個人のお家ですが、土蔵が立派なので、相当な商家だったと思います。こちらも中山道蕨宿景観建築物です。感じとしては、旅籠のような感じですね。しかし、こんな歴史的な建築物に指定されると、雨漏りを直すのにも市の許可が必要かもしれませんね。こちらは、「はね橋」です。蕨宿は平坦な立地条件のためか周囲を堀が巡らされていて、今はコンリートの蓋がされている堀に渡している「跳ね橋」を引き上げて、夜間の盗賊などの侵入を防いでいたそうです。【つづく】人気ブログランキングへ埼玉県蕨(ワラビ)市散策(その8) 中山道蕨宿景観建築物
2016年03月03日
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江戸時代、蕨は中山道の宿場町として栄えていました。参勤交代の大名や公家など当時のVIPの方が宿泊されたり休まれたりする高級ホテル「本陣」もありました。これが「蕨本陣跡」と隣に併設されている蕨市立歴史民俗資料館です。こちらが本陣跡。蕨宿の本陣は、加兵衛家と五郎兵衛家の2軒が代々勤めていました。こちらは加兵衛本陣の敷地の一部につくられたモニュメントだそうです。中山道蕨宿と記された石柱です。まあ、これは江戸時代からあったというわけではないでしょうね。観光用みたいなものですね。江戸時代の高札を模した立派な掲示板があります。こちらは、蕨市立歴史民俗資料館です。入場は無料で、蕨宿の歴史がよくわかるところでした。【つづく】人気ブログランキングへ埼玉県蕨(ワラビ)市散策(その7) 蕨本陣跡
2016年03月02日
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今日から3月、弥生、Marchですね。蕨(ワラビ)市の散策の報告を続けます。市役所を過ぎて、国道17号線、むかしの中山道を渡り、西の方に行くと錦町というエリアに入ります。JA戸田市蕨支店がありました。JAというのは、農業協同組合。このあたり、農家や農地があるということなんでしょうか。錦町の中を歩いてみました。区画整理の工事中でこのように行き止まりになっているところもありましたが、将来この道を通すには、奥にあるきれいな新しい家を取り壊すことになるのでしょうか。農地はみつかりませんでしたが、こんな公園を見つけました。「わらびりんご公園」というそうです。実は「わらびりんご」という品種があり市内に70本ほど育っているそうです。このりんごは、蕨市錦町に住んでおられた故吉澤正一氏が約20年かけて研究開発した日本一早くなるりんごで、りんごは、秋から冬にかけて収穫という常識を打ち破った6月下旬から7月下旬に収穫できる極早生種で、さらに、蕨市はりんご栽培地では南限と言われているそうです。埼玉でりんごとは、ちょっと意外でした。 【つづく】人気ブログランキングへ埼玉県蕨(ワラビ)市散策(その6) わらびりんご公園
2016年03月01日
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蕨城址公園に隣接している「和楽備(わらび)神社」です。室町時代に足利将軍家一族の渋川氏が蕨城を築き、その守り神として八幡神を祭ったのが始まりとされるそうですが、意外と社殿は新しいです。1996年、社殿が不審火により焼失ししため、翌年の1997年に再建されたそうです。境内にあった日露戦争の英雄、乃木希典像。それほど大きなものではありませんでした。この乃木将軍の銅像は日露戦争従軍の蕨町老兵会の人々によって、昭和11年(1936年)蕨市立北小学校の校庭に建立されたそうです。終戦後、軍国主義の象徴であるから校庭に置くのは不適当と言うことになり、昭和32年(1957年)当社の境内に移設されたということです。こちらは、蕨市役所です。意外とこじんまりとした建物でした。【つづく】人気ブログランキングへ埼玉県蕨(ワラビ)市散策(その5) 和楽備神社
2016年02月28日
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蕨城址公園には、お城があったことを示す遺構のようなものは余りありませんが、これは水堀跡として残されているものです。コンクリートで囲まれた水堀は少しでも雰囲気を出そうと庭石が置かれていましたが、一見、何の変哲もない公園の池といった感じでした。こちらは蕨市の文化生活のあゆみの碑です。いつ電気、水道、そして都市ガスが利用できるようになったかが記されていました。これは木遣塚、消防団の建立した記念碑です。「成人式発祥の地記念像」というのもありました。なんと、蕨市は、全国で始めて成人式を行なった町だそうです。昭和21年(1946)11月22日、敗戦のため虚脱状態にあった若者たちを励まそうと、蕨町青年団が中心となり、「成年式(せいねんしき)」の名称で、現在の市立北小学校で行なわれたそうです。 昭和23年(1948)には、「成人の日」として国民の祝日になりましたが、現在でも蕨市では、「成年式」の名称で20歳の祝典を実施しているそうです。 【つづく】人気ブログランキングへ埼玉県蕨(ワラビ)市散策(その4) 成年式発祥の地記念像
2016年02月26日
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市民会館を過ぎると、善男善女の集団が、説明する男の人の話に熱心に耳を傾けていました。ここが蕨城址公園の入り口でした。中に入ってみると、一見すると市民会館の裏庭という感じですが、それなりに歴史のあるお城だったようです。→→「蕨城」ちゃんと、蕨市教育委員会が建てた案内板と「蕨城址碑」と揮毫された板碑もありました。ちなみに、この石碑は文学博士 諸橋轍次謹書だそうです。諸橋轍次博士と言えば、大修館の「大漢和辭典」の編纂に寄与された方です。くわしくはこちら→→→諸橋轍次【つづく】人気ブログランキングへ埼玉県蕨(ワラビ)市散策(その3) 蕨城址碑
2016年02月25日
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こちらが蕨市の地図です。色々と探せば見物できるような名所などもありそうですね。また、市内を巡る「コミュニティバス」も走っています。駅の西口はこんな商店街になっています。道幅が狭くて一方通行になっていました。駅から国道17号線の方へ向かっていくと、途中でこんな道がありました。「城址公園通り」、どうやら蕨市にはお城があったようですね。こちらへ向かってみました。この道を歩いて行く途中にあったのが、この立派な建物。蕨市市民会館だそうです。【つづく】人気ブログランキングへ埼玉県蕨(ワラビ)市散策(その2)城址公園通り
2016年02月23日
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全国の市の中で最も面積が狭い(5.11km2)にもかかわらず、北隣のさいたま市、西隣の戸田市、東隣の川口市とも、合併もせず、「長い物には巻かれない」という姿勢には清々しさも覚える埼玉県蕨(ワラビ)市へ行ってきました。こちらは蕨駅東口側です。やや賑やかな感じのするところですが、地図のように駅は蕨市の東端にあり、この先は川口市です。ということで蕨駅の西口側、こちらが駅の西口です。東口側に比べると、賑やかさが足りないようですが、こちらに向かって歩いて行きました。ちなみに、このように駅舎の西口は立派です。【つづく】人気ブログランキングへ埼玉県蕨(ワラビ)市散策(その1) 京浜東北線蕨駅
2016年02月22日
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石岡駅前からつづく道路です。奥が石岡駅です。幅の広い道です。その道沿いには、こんなちょっと昭和を感じさせる建物がありました。こちらは酒屋さん、店内が薄暗いのが酒屋さんっぽい雰囲気でした。こちらはちょっとオシャレ風に作った喫茶店。ウナギを料理しようとしているタヌキです。本当は登録文化財になっている建物もあるのですが、時間がなくて行けませんでした。また機会があれば訪れてみたいと思います。【了】人気ブログランキングへ茨城県石岡市(その2)
2016年02月14日
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随分ご無沙汰していた茨城県石岡市へ行ってきました。ここで半年ほど暮らしていたことがありました。まあ、茨城県外の人に余り知られていない石岡という町ですが、実はここは歴史ある名門の町なんです。石岡駅は、下の写真のとおり改装工事中でした。駅前の看板には、「茨城県名発祥のまち」と書いてあります。そうなんです。石岡市には「茨城」という地名があるのです。ここが茨城県の県名のおこりだと言われています。しかも、石岡市の市街地を通る国道ですが、地名の表示板には、「国府」という表示が。つまり、石岡は律令体制の常陸国の国府、つまり首都だったところです。だから、明治維新後、徳川幕府の拠点だった水戸が茨城県の県庁所在地になるのではなく、人心一新、石岡を県庁所在地にしてもよかったのではないかと思う次第です。【つづく】人気ブログランキングへ茨城県石岡市(その1)
2016年02月13日
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八千代町八町にある関東八十八ヵ所第三十八番霊場「八町観音」にお詣りしました。八町観音と呼ばれてますが、正式には「太光山 新長谷寺」という寺号です。安産、子育て、厄除けなどの御利益があるお寺で地元では有名だそうです。寺領が八町歩あったことから八町観音と呼ばれているそうです。下の写真の銅板葺の寄せ棟造りで四間四面の建物が観音堂です。下の写真は観音堂にある鰐口です。そして、こちらが平成10年に再建された大本堂です。入母屋造り瓦葺、大唐破風でなかなか重厚なお堂です。こちらは八千代町役場、平成18年に完成したものです。古河からのバスはここが終点となります。これが今回利用した茨城急行自動車のバスです。八千代町、田園地帯といえば、いいですが、田と畑に囲まれた田舎の農村です。しかし、この間の八街市とは違い、水にも恵まれて、農業にはいいところかもしれませんね。【了】人気ブログランキングへ冬の茨城県古河市とその周辺へ(その3)
2016年01月21日
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古河から国道125号線を西へ向かった八千代町に来てみました。先日の18日に降った雪が残っている畑と筑波山です。ちょっと茨城県とは思えない、どこか雪国へ来たかのような景色でした。こちらは八千代町で盛んに栽培されているハクサイ畑と筑波山。このハクサイ、よく見るとビニールの紐で縛られていますね。こうやって刈り取るまで畑に置いとくのでしょうか?これは田畑の間を流れる川、春になるとこの川で魚などを釣ったりできるのでしょうね。長閑な田園風景でした。【つづく】人気ブログランキングへ冬の茨城県古河市とその周辺へ(その2)
2016年01月20日
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昨日降った雪がまだ残る関東地方。茨城県古河市とその周辺に出かけてきました。JR東北線の古河駅です。古河市は関東地方のほぼ中央、茨城県の西端に位置する町ですが、茨城県の県庁所在地の水戸市へ行くよりも埼玉県大宮市や栃木県小山市、そして東京へ行きやすい町です。上の写真は駅の西口です。駅の西側が旧城下町・宿場町(古河宿)で、歴史的建造物も存在する方で、古河の元々の市街地のようです。西口前にあった万葉集の歌碑です。「逢はずして 行かは惜ししけむ 痲久良我の 許我こぐ舟に 君も逢はぬかも」と刻まれています。痲久良我(まくらが)とは許我(古河)にかかる枕詞だそうです。このように万葉集の時代から栄えた町だったのですね。 上の写真は駅の東口です。こちらは東へ伸びる「十間道路」というのがあります。これが「十間道路」です。メインストリートだとは思うのですが、あまり商店もありませんでしたが、なぜか、猿田彦大神の石碑がありました。それほど大きくないですが、猿田彦大神は天孫降臨の時に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内したことから、道の神、旅人の神とされるようになったので、道祖神かわりに建立したのですかね?【つづく】人気ブログランキングへ冬の茨城県古河市とその周辺へ(その1)
2016年01月19日
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今日はあの6434人が亡くなった阪神・淡路大震災から21年経ったのですね。拙もその頃は家族を神戸に住まわせたままインドネシアで働いていたので、慌てて帰国してきました。幸い家族に被害はなかったのですが、あの時のことを忘れることはないでしょう。おそらく、日本人の多くが、あんなに沢山の人が一度に亡くなることは、第二次世界大戦が終わって以来久しぶりに経験したことだったと思います。そして、未曽有の災害だった2011年の東日本大震災。そして、先日の軽井沢でのバスの事故、本当に毎日、毎日、人は死んでいるのですね。数の大小ではなく、人が死ねって、仕方ないことかもしれないけど、やっぱり、当事者から見ると悲しいことです。さて、引き続き、千葉県八街市の紹介です。ほとんど畑ばかりの八街ですが、台地の谷あいに水田がありました。あまり、観光の対象となる施設もみかけない町でしたが、ここは歴史のあるお寺のようでした。馬頭観世音というそうです。さすが馬で有名だった八街の町ですね。この急な石段を登ってくると、やや古びていますが、お堂があってこの中に馬頭観音さまが奉られているそうです。馬頭観世音は、馬が草を食べるように、人間の悩みや病気を食べてくれる 「神様」です。もう少し時間をかけて色々と知りたい八街市ですが、駆け足でみて回らないといけなかったのが残念です。しかし、八街市、名前は知られていないみたいですが、なかなか興味がつきない場所でした。【了】人気ブログランキングへ八街(やちまた)の研究(その6)
2016年01月17日
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駅前から離れてみると、広々とした畑が広がっています。畑の土は関東ローム層といわれる肥沃な土です。向こうに見えるコンクリートの塔をズームしてみました。水道用のタンクなのでしょうか、台地の上の町なので、水の便は悪そうですね。この建物は多分、地下水をくみ上げるポンプ場ではないでしょうか。しかし、どこへ行ってもこのような畑が広がっています。やはりこの町の基幹産業は農業なんでしょうね。千葉県の農業を支える八街市。ところで、落花生はTPPの影響をどの程度受けるのでしょうか、心配ですね。【つづく】人気ブログランキングへ八街(やちまた)の研究(その5)
2016年01月16日
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八街の町はこの地図のとおり、千葉市と東金市の間にあります。あまり世間には知られていないためか、八街市PR大作戦として毎月第二日曜日には、「やちまた駅北口市」というのが開催されて、この町の農産物などが販売されています。でも、なんとなく閑散としているのが、ちょっと残念です。地方創生、鈴木栄治様(森田健作千葉県知事の本名です)よろしくご支援願いますそれから八街市の市長さまもよろしくお願いします。駅の近くにある市役所庁舎です。市役所前にある銅像です。しかし、こういう銅像、どうしてみんな裸のものが多いのでしょうかね。【つづく】人気ブログランキングへ八街(やちまた)の研究(その4)
2016年01月14日
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もうひとつ、八街駅の北口にあるのが、馬のモニュメント。立派な馬ですね。こちらは親子連れです。江戸時代はこのあたりは、徳川将軍家の馬の放牧地だったわけですね。ということは、この駅前にも馬糞が沢山落ちていたかもしれませんね。そういえば、この近くの成田市は、あの名馬シンボリルドルフを生んだシンボリ牧場発祥の地だそうですし、今の成田空港も元は宮内庁下総御料牧場だったそうですから、馬の産地としては有名だったのでしょう。さて、こちらは南口にあった意味不明のモニュメントです。なにやら、おばさんが椅子に座っているに見えるのですが。【つづく】人気ブログランキングへ八街(やちまた)の研究(その3)
2016年01月12日
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八街駅の北口には、さすが「落花生の郷」というだけあって、落花生のモニュメントがありました。なるほど、土壌が適していて、今は日本一の収穫量なのですね。モニュメントには、こんな言葉が刻まれていました。この「いつ知らず 葉は繁り 花咲て 人知れず 土に稔りぬ」という短い詩の作者は白鳥 省吾(しろとり せいご、1890年2月27日 - 1973年8月27日)という人だそうです。多分、有名な詩人なのでしょうね。そして、落花生、その名のとおり、花が落ちて、その先が土に刺さって、土の中で実が稔るのです。落花生の実のつき方については、こちらを→→→http://www.city.yachimata.lg.jp/peanut/seityou.html【つづく】人気ブログランキングへ八街(やちまた)の研究(その2)
2016年01月11日
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千葉県に八街(ヤチマタ)という町があります。ヤチマタという名前が、なんとなく気になったので行ってみました。この町、千葉県に住む、千葉都民と呼ばれる人たちの間でも余り知られていないみたいでした。これが、JRの八街駅です。なかなか立派な駅でした。「八街の由来」 八街という名称は、明治新政府の政策により徳川幕府の放牧地であった小金・佐倉両牧の開墾に際し、開墾局が開墾に着手したおおよその順序によって命名された字名によるものです。 これらの字名は、初富(鎌ヶ谷市)、二和・三咲(船橋市)、豊四季(柏市)、五香・六実(松戸市)、七栄(富里市)、八街、九美上(香取市【旧:佐原市】)、十倉(富里市)、十余一(白井市)、十余二(柏市)、十余三(成田市)で、明治5年11月2日にそれぞれの村が誕生しました。この8番目に開墾された地が現在の八街市の始まりです。(引用元:八街市ホームページより)つまり、新しく開拓された、西部劇に出てくるような町ということですかね。そして、八街と言えば、なんといってもこれです。落花生、ピーナッツ、南京豆が名産の町、なんと「八街産落花生」として商標登録までされているそうですね。【つづく】人気ブログランキングへ八街(やちまた)の研究(その1)
2016年01月10日
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妻沼の町を歩いていると、こんなレトロな建物を見かけました。坂田医院旧診療所で平成16年7月に国登録有形文化になった建物だそうです。昭和6年に開業した産科・内科医院の診療棟で、昭和の終わり頃まで使用されていたそうです。昭和初期の洋館として貴重なんでしょうね。その坂田医院旧診療所の裏が無料の市営駐車場となっていて、その隅にある建物です。一見すると個人のお宅のようですが、「井田記念館」という施設だそうです。建物の前にある胸像です。この人は井田友平(いだともへい)(1889~1965)という人物です。この井田友平氏はメヌマポマードという整髪料を作り、売っていた人です。今はポマードしいうのは余り使われていませんが、メヌマポマードは純植物性の調髪油を使いさらっとしたつけ心地にし、若者のニーズに応えた商品として、一時75%のシェアをしめるほどヒットしました。その後政治の世界に転じ、参議院議員を勤められた方で、この居宅であった建物を当時の妻沼町に寄付したそうです。【了】人気ブログランキングへ国宝妻沼聖天山(その9)使ってみたいメヌマポマード
2015年11月16日
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妻沼聖天山の参拝を終えて、お昼を食べたのがこのお店。埼玉のこのあたりはうどんが美味しいそうです。で、注文したのがカツ丼とうどんのセット。まあ、カツ丼とうどん、こういうものなら味がどうこうと言わずとも食べられるものですね。そして、しばらく妻沼の町を散歩してみました。目についたのが、この貸自転車。平らなこのあたりだと自転車でクルクル回るのも悪くはないですね。ポタリング(pottering)というのは、ハリーポッターのことではなく、「のんびりする」とか「ぶらつく」意味の英語「potter」から来ている言葉です。それからなんとなくおざなりな落書き「荻野吟子は女医第一号、1851年俵瀬村出生」と書いてあります。荻野吟子、避妊方法として知られていますが、本当は不妊治療の方法のオギノ式とは関係ありません。でも政府公認の女医第一号として認められた産婦人科医で、妻沼の近くの俵瀬村に幕末に生まれ、女性が医師になることを認められていなかった時代に風穴を開けて、明治18年に女医となりました。(もっとも、それ以前に、医師免許はありませんでしたが、女性医師がいなかったわけではないようです)。ここが晩年、開業していた墨田区小梅町あたりです。向こうに見えるのは東武スカイツリー線の跨道橋です。こんな説明板も設置されています。東京スカイツリーの近くですので、近くに来たら一度立ち寄ってみてはどうでしょうか。特に医学部受験を目指す女子高生の皆さんにはお勧めかも。【つづく】人気ブログランキングへ国宝妻沼聖天山(その8)女医第1号は妻沼出身
2015年11月15日
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奥殿の中にある石碑です。この中で大きい板碑は「浴油講記念碑」と書いてありました。浴油というのは聖天さまの秘法の中でも最上の祈祷方法です。聖天さまは、もともと力の強い魔王のような存在で、そのため他の神々から憎まれ、毒物までも喰わされ、非常に苦しめられることになりました。 そこへ十一面観音さまが現れ「仏法に帰依し、善神になるなら助けてやろう」という約束で、その山中にある油の池に連れて行かれ、その油を加持し、お聖天さまの頭に潅がれると、毒物が除かれ、その結果、約束通り善神となったということです。そのため、聖天さまの御像に杓を用いて油を潅ぐお作法が最上の祈祷方法となったそうです。こちらは境内にある夫婦の木です。左にエノキ、右にケヤキの2種類の樹が寄り添い、絡み合い、助け合い、力強く育っていることから夫婦の木といわれていますが、縁結びの神として知られている妻沼聖天山らしいところですね。こちらは、鐘堂です。【つづく】人気ブログランキングへ国宝妻沼聖天山(その7)ご利益は縁結びです
2015年11月14日
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国宝に指定されたこの本殿「歓喜院聖天堂」は、約830年前に建てられたとされます。火事などの被害で何度か再建され、現在の建物は、宝暦10年(1760)に完成したそうです。この時の工事は、大工棟梁の林正清(はやしまさきよ)が統率しました。正清は、再建を企画し、優秀な職人を集め、お金を集めるため各地を回りました。工事の費用を負担したのは、幕府や大名、豪商ではなく、妻沼を中心とした庶民たちでした。しかし、道のりは平坦ではなく、大洪水などで中断を余儀なくされ、正清は亡くなります。正清の子、正信(まさのぶ)によって、色鮮やかな彫刻で埋めつくされた壮麗な建物が完成するのは、工事開始から25年後のことだったそうです。とはいえ、彫刻は江戸時代に彫られたものだとしても、長い年月の間にこの色彩は剥げ落ちていき、修復工事が始まる前は、木の表面が見えている状態だったそうです。そして、平成15年10月1日から平成22年9月30日に渡る修復工事が始まりました。 この聖天堂の装飾修復作業は、経験豊かな職人たちをもってしても困難を極めました。緻密な彫刻に施された漆塗彩色技法の数々。復元には気の遠くなるような多くの手間がかけられて完成したそうです。屋根や木部など、本体の修理工事も同様です。古文書から判明した、本来の瓦棒銅版葺き屋根を、宮大工たちによる匠の技で見事に復活させました。聖天堂が美しく蘇った舞台裏には、妥協を許さぬ職人たちの、意地と執念をかけた歳月があったのです。このような細かい模様までも復元されています。これは、布袋さまと恵比寿さまが囲碁を打っているところを大黒さまが眺めているところですが、碁盤の上の碁石の色まではわからない状態でした。それを復元するために江戸時代に実在した熊谷出身の囲碁の名人本碩という人が、師匠の本因坊道策と対局して一目勝で勝った時の棋譜を再現したものだそうです。見学料に700円ですが、それ以上価値のあるものですね。さすが埼玉日光というだけの価値はあります。【つづく】人気ブログランキングへ国宝妻沼聖天山(その6)親子二代で成し遂げた仕事です。
2015年11月13日
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これが見学料700円を払ってみる奥殿です。 めぬまガイドボランティア「阿うんの会」というのがありまして、妻沼聖天山をはじめとする歴史的建造物や伝統行事などの案内をしているそうです。そして、妻沼聖天山の奥殿でも、この黄色いウインドブレーカーを着たボランティアガイドの方が丁寧にしかも面白く解説してくれます。そのボランティアガイドの人に従って、奥殿の見学に行きました。そして、この見事な極色彩の彫刻を見て下さい。まだ、まだあります。【つづく】人気ブログランキングへ国宝妻沼聖天山(その5)阿うんの会
2015年11月11日
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妻沼聖天山の本殿、「奥殿」「相の間」「拝殿」よりなる日光東照宮に代表される廟型式権現造り。ところで、聖天さんは仏教なのに、神社と同じ本殿という呼び方、やや違和感ありますね。お寺ならやはり本堂でしょう。まあ、そんなことは脇において、この本殿、斎藤別当実盛公が聖天宮を開創されてから何度も修復・再建されて来ましたが、江戸時代初期、災火のため中門を残して焼失。現存する御本殿は、江戸時代中期に再建されたものです。そして、平成15年10月1日から平成22年9月30日にかけて、総工費約11億5900万円(周辺工事を含めると約13億円)で、屋根葺き替えと彩色修理を主体とする保存修理工事がなされたのが、現在の姿です。確かに、これだけの色彩の修復をしたのですから、大したものです。正面にある彫刻、左から「絵を見る子ども」、「碁を打つ人々」、「琴を弾く男」、「文字を読み書きする子ども」の順で配されており「琴」、「囲碁」、「書」、「絵」の四芸を身に着けろという意味のようです。この彫り物も鯉、龍、飛龍となっていて、出世してくく様子を示しているそうです。こういう彫り物にもひとつひとつストーリーがあるのは大したものですね。このように、本殿の天井珍しい動物の彫刻があり、この本殿が建てられた江戸時代の当時はちょっとしたペットブームだったのんでしょうね。さて、約11億5900万円もの費用をかけた修復のせいでしょうか、平成24年5月18日(金曜)に国の文化審議会から文部科学大臣に対して、妻沼聖天山の本殿である「歓喜院聖天堂」は国宝に指定するにふさわしいとの答申が出されました。同年7月9日(月曜)の官報にて告示があり、同日付で正式に国宝として指定されたそうです。そして、それまでは、「埼玉の小日光」と名乗っていたものが、国宝指定をうけて「埼玉日光」と名乗るようになったそうです。しかし、こんなもので、国宝かと思っていけません。入場料700円なりを払って、「奥殿」を見ると、国宝にふさわしてものがあります。ということで、700円払って、奥殿を見学させていただきました。【つづく】人気ブログランキングへ国宝妻沼聖天山(その4)埼玉日光です
2015年11月09日
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妻沼聖天山の仁王門は1658年(万治元年)の創立と伝えられていますが、明治24年台風によって倒壊したので、明治27年に再建されました。その仁王門に安置されている金剛力士像です。なかなか迫力のある金剛力士像です。下の写真は仁王門を本殿側から撮影したものです。鰐口が仁王門についているのが珍しいですね。聖天山の扁額も仁王門の上にあります。ちなみに「聖天山」はこのお寺の山号で、妻沼聖天山の正式名称は、「聖天山歓喜院長楽寺」というそうです。ところで聖天(歓喜天)はどのような仏様なのでしょう。歓喜天は、仏教の守護神である天界に住む神様の一つです。これは仏教界では、大日如来が方便のため、権現として歓喜天になったと解釈されているそうです。つまり、欲望を抑えきれない類の一般人に対して、まずは願望を成就させて心を静めさせて仏法へ心を向かわせる神様だそうです。そんなわけで、現生利益が聖天信仰のメリットなのですが、一般には、夫婦和合、子授けの神としても信仰されているそうです。特に妻沼古来より縁結びの神様として知られているそうです。そして、縁結びを願う善男善女はこのお百度石に願いをこめてお百度を踏むのでしょうか。本殿の前には石舞台があり、ここでなにか宗教行事を行う時に使うのでしょうか。ここは弘法大師を祀る大師堂です。妻沼聖天山は関東88カ所霊場第88番結願所・幡羅88カ所第13番の札所となっているそうです。そして、なぜか相撲の土俵もありました。そして、この建物が本殿です。【つづく】人気ブログランキングへ国宝妻沼聖天山(その3)聖天(歓喜天)とは
2015年11月08日
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熊谷市妻沼といっても埼玉県に住んでいない方だと、地球上のどこにあるのかわからない人も多いと思いますので、下の地図を参考にして下さい。埼玉県の北部、利根川沿いにある街で、以前は妻沼町でしたが、2005年10月1日に熊谷市と合併しました。江戸時代には肥沃な平野に恵まれ農業が盛んで、妻沼聖天の門前町として発達し、利根水運の中継点として栄えてきた町です。境内を木立の中を抜けると、護摩堂があります。ここは、不動尊を本尊とし、白衣観音、役行者神変大菩薩を祀っています。主に自動車の交通安全加持祈願を行うところです。地面にもくっきりと「車用」と書かれていますね。そして、この小ぶりな門が「中門」と呼ばれています。江戸時代初期の災火の際、唯一焼けずに残っていた聖天山最古の建造物だそうで、地元では甚五郎門と称しているそうです。中門の横にあった蔵を改装したような造りの風情の建物が「千代枡」という割烹料亭です。この料亭「千代枡」、文豪田山花袋(たやまかたい)という書いた小説「残雪」に登場するそうですね。残念ながら、田山花袋という人、名前ぐらいしか知らず、作品も読んだことがありません。しかし、作品にこの料亭の名前が出でいるのであれば、一種のタイアップで宣伝も兼ねた小説だったのでしょうか? 「ステルスマーケティング(stealth marketing)」って明治の昔からあった手法なんですね。そして、ここが本堂につながる仁王門です。【つづく】人気ブログランキングへ国宝妻沼聖天山(その2)田山花袋who?
2015年11月07日
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埼玉県熊谷市妻沼(めぬま)にある「妻沼聖天山」に参拝してきました。妻沼聖天山は別称で正式名称は「聖天山歓喜院長楽寺 」というそうです。MoMo太郎は「BMW」だと言い張っているのですが、家族からは国産のセダンだと思われてる愛車で、東京の我が家から向かったのですが、結構遠くて運転に疲れてしまい、目的地に着く前に手前の「道の駅めぬま」で休憩しました。この道の駅めぬまは施設が意外と充実していて、上の写真にある「めぬまアグリパーク」では、地元で生産された新鮮な野菜を使った加工品を販売しており、また、併設されている庭園ではおよそ400種2000株のバラが植えられています。さらに地元産の安心安全でおいしい野菜を販売している「めぬま物産センター」という施設もありました。もうここに来るだけで十分楽しめそうです。そして、道の駅から少し行ったところにある妻沼聖天山。ここが入り口です。この門が国指定の重要文化財「貴惣門」です。正面からみると普通だなと思うのですが、側面の妻側からみた破風の形が3つの山形が組み合わさっているところが奇抜な印象です。このあたりが重要文化財というわけでしょうね。貴惣門を抜けた境内は木立に囲まれて静かな寺院の雰囲気です。この途中にあるのが、妻沼聖天山を創建した武将、齋藤別当実盛の銅像です。斎藤実盛(さいとう さねもり)は、平安時代末期の武将です。越前国の出ですが、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠としていたそうです。当初は源氏方の武将として、保元の乱、平治の乱においては上洛し、源義朝の忠実な部将として奮戦したそうです。ちなみに義朝に仕える前は、義朝の異母弟の義賢について義朝と敵対してようですが、義賢が義朝の子・源義平に打たれた後は義朝に仕えるようになったそうです。しかし、義理固く、源義賢の遺児・駒王丸を木曽の中原 兼遠に預けたそうです。その駒王丸はのちの旭将軍・木曾義仲です。さて、義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣し、富士川の戦いにも平氏方として参戦していたそうですから、ひよっとしたら源氏に対して、特に義朝・頼朝親子に対して含むところがあったのでしょう。斎藤 実盛の最期は、寿永2年(1183年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣し、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られたそうです。そして、この斎藤 実盛の銅像、よく見ると、左手に鏡を持ち、右手に筆を持っています。これは、加賀国の篠原の戦いにおいて、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を墨で黒く染めていたという故事にならっているそうです。結構、ダンディなおしゃれ武将だったのでしょうね。ちなみに、命の恩人ともいえる斎藤実盛を討った木曽義仲は、斎藤実盛の詩を知ると人目もはばからず涙にむせんだというそうです。【つづく】人気ブログランキングへ国宝妻沼聖天山(その1)おしゃれな武将が創建しました
2015年11月06日
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二宮尊徳のお墓は旧栃木県今市市、現日光市今市にありますが、「二宮尊徳資料館」南側「蓮城院」に分骨されたお墓があります。これが連城院への入り口です。二宮尊徳だけではなく、そのお弟子さんであった吉良八郎というなど縁者の方も合わせて祀られているようですね。そして、お馴染みの二宮金次郎像。二宮金次郎墓域として真岡市指定史跡となっています。ここには二宮尊徳の娘文子のお墓もあるそうです。この文子と結婚したのが、陸奥相馬中村藩士で尊徳の高弟であった富田高慶です。この富田高慶は相馬仲村藩(現在の相馬市、南相馬市)に戻り、二宮仕法を相馬仕法として指導し、相馬中村藩の復興をなし得た人物です。東日本大震災で痛手を蒙った福島県相馬市・南相馬市も、現代流の二宮仕法により、早く復興を成し遂げてもらいたいと願うばかりです。【了】人気ブログランキングへ二宮尊徳(その5) 二宮尊徳の墓
2015年11月03日
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桜町陣屋と桜町二宮神社の間に真岡市が運営する二宮尊徳資料館があります。26年にわたり復興事業を行なった二宮尊徳の偉業を写真や映像などで紹介しており、尊徳が使用していた陣笠や脇差なども展示しています。薪を背負ってはいませんが、二宮尊徳の銅像です。まあ、ここにいた頃の二宮尊徳はもう大人だったし、士分にも取り立ててもらっていたので、こういう姿で農村の復興を指揮していたのでしょう。二宮尊徳の考え方を一般的に報徳思想といいます。すべてのものには、それぞれに良い所(価値・特性)があります。これを「徳」と呼びました。すべてのものの徳を認めて報いる気持ちを持つことが「報徳」です。これには以下の4つの考え方が中心となっています。 「至誠(しせい)」とは、"まごころ"のことです。役立つことを進んでやろうとする思いやりのある心は、尊徳の教えのすべての土台になりました。 「勤労(きんろう)」とは、熱心に働くことです。能力を発揮して結果を良くしようとすることで、人は成長していきます。 「分度(ぶんど)」とは、自分に相応しい生活を送ることです。現在の収入に応じた支出の範囲内で生活することが大切です。 「推譲(すいじょう)」とは、働いて得た余分を家族のために貯えたり(自譲)、社会のために譲ること(他譲)をいいます。さらに以下の2つの言葉も報徳思想の中では大切です。「積小為大(せきしょういだい)」積小為大とは、小を積んで大を為すことであり、小さな努力の積み重ねが大きな収穫や発展につながるという意味です。「一円融合(いちえんゆうごう)」一円融合とは、すべてのものは互いに働き合っており、一体となったときに初めて結果が出るという意味です。植物は、水、温度、土、養分などが融け合った中で育ちます。人間が育つのもこれと同じで、自然環境や社会環境が一つになって融け合い、働き合う中で育っています。しかし、農村の復興というのは、こんな精神論だけでかなうものではなく、全国各地で疲弊した村の立て直し事業を行う「二宮仕法」として実践されるマニュアルのようなものがあったそうです。その中には、道路や橋といった交通基盤の整備、田畑の開墾、灌漑治水めの測量方法や工事の方法、他の村からの移住、婚姻をすすめて人口を増やすことや、節約・貯蓄を中心とする農民の生活指導、またよく働く農民を村人に投票させて選び、表彰することなどが書かれているようです。そしてこの二宮仕法は、桜町領の復興という実績を認められ、各地で尊徳やその弟子たちの指導により実践されています。桜町領のほか谷田部藩、下館藩、小田原藩、烏山藩、相馬中村藩、そして幕府領であった日光領の復興も任せられるようになります。そして尊徳は日光今市で没することになりましたが、その後も日光仕法は続けられますが、明治維新によって打ち切られることとなります。また、相馬中村藩の仕法は、維新後も北海道へ移住した藩士たちによって続けられたそうです。【つづく】人気ブログランキングへ二宮尊徳(その4) 二宮尊徳資料館
2015年11月02日
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桜町陣屋の隣にある桜町二宮神社の鳥居です。木立の中の砂利道を進むと、社殿が現れてきました。ちょっとポーズが面白かった狛犬です。二宮尊徳が旅先の宇都宮で、ナスを食べたところ、夏前なのに秋茄子の味がしたことから冷夏となることを予測。村人に冷害に強いヒエを植えさせた。尊徳の予言どおり冷夏で凶作(天保の大飢饉)となったが、桜町では餓死者が出なかったそうです。そういう意味では神がかり的な人物ですね。でも実際には、数年前からヒエを準備させていたそうですが。そんな予知能力にたけた二宮尊徳は神としても奉られているということですね。社殿にある扁額です。報徳不忘の石碑と二宮尊徳先生道歌の石碑です。道歌(どうか)は、道徳的な、または教訓的な短歌をいうそうですが、二宮尊徳の教えを述べたいくつかの短歌が黒御影の石に彫られています。【つづく】人気ブログランキングへ二宮尊徳(その3) 桜町二宮神社
2015年11月01日
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MoMo太郎が小学生の頃は、背中にマキを背負い本を読みながら歩くこんな像が校庭の隅に置いてあったものですが、やはり子供がこんな歩きスマホの真似をしていけないということで、最近は小学校から撤去されているという噂を耳にします。しかし、そんなことをしていいのでしょうか。二宮尊徳、江戸時代末期の農政家。幼名・通称は金次郎。小田原藩の百姓の子に生まれ、没落した自家の再興後、武家の家政再建や下野国桜町領復興に尽力し、やがて小田原藩吏や幕吏に登用されたというすご腕の人物。独自の報徳思想・仕法を編み出し「村興し国興し」、「興国安民」に生涯を捧げた二宮尊徳、現在の石破茂地方創生担当大臣や加藤勝信一億総活躍相にも通じる人物であったことを思い出し、安倍総理も全国の小学校に二宮尊徳の像の設置を義務付け、報徳思想・仕法を中学の必修科目にしてもらいたいものです。ということで、小田原藩主・大久保忠真公から、分家であった旗本・宇津家の知行所であった下野国桜町領の復興を命じられ、二宮尊徳が小田原に持っていた田畑・家財の一切を売り払い、家族と共に文政6年(1823)に移り住み、以来26年、活動の拠点となったのが、この桜町陣屋です。建物は意外と質素な感じのむかしの農家風です。まだここを訪れた頃は稲刈りが終わったばかりの時期で、敷地の中でも稲が干してありました。【つづく】人気ブログランキングへ二宮尊徳(その2) 桜町陣屋
2015年10月31日
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「二宮金次郎」本名「二宮金治郎」後の「二宮尊徳」所縁の地、栃木県真岡市にある桜町陣屋、二宮尊徳資料館そして二宮神社などに行ってきました。県道45号線沿いにある標柱「下野櫻町二宮先生起業之地」です。これは二宮尊徳の業績が記された石碑です。そして、この建物が二宮尊徳が住んでいた、桜町陣屋跡です。桜町陣屋の案内図です。陣屋とは、いわばこの地方、小田原藩桜町領の町役場みたいなものですね。藩主からこの地域の農村振興を命じられて、ここに住んだということです。この地域で二宮尊徳が行った業績が書かれています。【つづく】人気ブログランキングへ二宮尊徳(その1) 所縁の地
2015年10月29日
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参拝を終えると、ちょっと小腹を満たすのに、山門脇にある久寿餅の「住吉」に入りました。くず餅を久寿餅と縁起の良さそうな漢字をあてているのがいいですね。川崎大師には、住吉、松月庵、はやま、恵の本、住吉屋総本店、福嶋屋の6軒の久寿餅屋さんがあります。いわゆる葛粉から作られた「葛餅」とは違うようで、「久寿餅」のほうは葛粉ではなく、小麦粉から精製したでんぷんを乳酸菌で発酵させたものを使っているそうです。この「久寿餅」の生みの親は、江戸時代の末期にこの近辺に住んでいた、久兵衛という人だそうです。ある大雨の夜、久兵衛が納屋へ行ってみると、保管していた小麦粉がすべて水にぬれてしまっていた。これを、ひとまず樽(たる)に移しておいたのだが、どうやら、そのまま忘れてしまったのだとか。 翌年、川崎周辺を飢饉が襲ったため、ふと樽のことを思い出した久兵衛さん。早速確認してみると、水にさらされた小麦粉は樽の底でデンプンに変化していたので、これをなんとか餅として利用できないかと考えついたそうだ。そして、できあがった餅を川崎大師へ寄進したところ、当時の上人から、「久の字に、縁起のよい寿の字を付け、『久寿餅』とするがよい」とのお言葉をいただき、ここに川崎大師名物が誕生したというそうです。で、川崎大師のすぐ隣に「味の素川崎工場」がうま味の元になるグルテンを、小麦粉を水にさらすことで生産していたそうで、グルテンをとった後にでる余ったデンプンが、このあたりの久寿餅の原料になったそうです。現在は味の素の製造法も変わったそうで、材料のデンプンは専門業者から買い入れているそうですが。最後は、川崎大師駅のホームから京浜急行大師線の写真を撮影しました。この大師線、なんとなくローカル支線というイメージもありますが、大師線は川崎大師への参詣路線として建設された京浜急行電鉄のルーツにあたる路線です。また、川崎の浮島地区にある工業地帯の通勤路線でもあるため、全線に渡り利用客が多い路線で、朝夕のラッシュ時には5分間隔、日中は10分間隔の運転になっていますが、川崎競馬場のレース開催日には増発されます。【了】人気ブログランキングへ大本山川崎大師平間寺(その7) 久兵衛→久寿餅→味の素
2015年10月12日
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