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雑司が谷七福神めぐり、次は雑司ヶ谷霊園にやってきました。明治5年(1872)神葬墓地として開設され、明治七年に共葬墓地となった都営霊園だそうです。 面積約10万㎡の霊園内には夏目漱石をはじめ、小泉八雲、永井荷風などの日本文学史にその名を刻む作家たちや、ジョン万次郎、開明派の幕臣小栗上野介忠順、詩人サトウハチロー、言語学者金田一京助等錚々たる面々が眠っています。でこちらは有名俳優の方のお墓です。時代劇の大スター、若さま侍捕物帖の、新吾十番勝負の、そして銭形平次の大川橋蔵さんのお墓です。こちらのお墓は、小物ながら日本の戦争指導者になってしまった、東條英機さんのお墓です。こちらお墓が三基並んでいますが、永井荷風さんのお墓です。真ん中は永井荷風と名前が刻まれています。隣のお墓は、なぜか表面が削り取られていました。♪私のお墓の前で泣かないで下さい そこに私はいません、眠ってなんかいません 千の風になって、千の風になって あの大きな空を吹きわたっています 豊島区役所です。大きな墓石ではありません。(雑司ヶ谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神めぐり(その8) 雑司ヶ谷霊園
2021年07月14日
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雑司が谷七福神めぐり、次の七福神は、清土鬼子母神(せいどきしもじん)です。清土鬼子母神は雑司ヶ谷鬼子母神尊像が出土した地で、永禄4年(1561)、柳下若狭守の家臣山村丹右衛門が、清土の田から鬼子母神像を掘り出したと伝えられています。こちらが本堂です。こちらにある石像が七福神の吉祥天です。吉祥天の母は鬼子母神であり、夫を毘沙門天とするそうです。(雑司ヶ谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神めぐり(その7) 清土鬼子母神
2021年07月13日
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住宅街の中にある「弦巻通り」を歩いて行きます。はじめて歩いた町ですが、ちょっとした商店街(→→→こちら)になっているのですね。この道には、むかし池袋西口にあった丸池を水源とする「弦巻川」という川が流れていたそうです。この川は昭和15年(1940)には暗渠化されて、川に蓋をして道路になりました。その弦巻川に沿った道を弦巻通りと呼ぶようになったそうです。ちなみに弦巻川の暗渠は、パリの下水道を手本に作られたそうで、今でも人が立って歩けるぐらいの大きなトンネルになっているのだとか。そして、その暗渠は現在では下水道に使われています。銭湯もありました。銭湯の隣には製造直売のせんべい屋さんが。さらに行くと、緑の豊かな庭。ちょっと、オジサンはドキドキしてまう名前の大学でした。長い距離、商店街を歩いていたので、不安はあったのですが、雑司が谷七福神のルートであることは間違いないようですね。この立派なマンション。小説家の菊池寛の旧宅跡だったとは。豊島区雑司が谷の弦巻通り、改めて、じっくり歩いてみたいです。(雑司ヶ谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神めぐり(その6) 雑司が谷の弦巻通りを歩く
2021年07月12日
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雑司が谷七福神めぐり、まだまだ続きます。都電荒川線沿いを歩いて、この神社にやって来ました。大鳥神社です。御由緒がありました。初めは鬼子母神境内に建立されたそうですが、明治初年の神仏分離令により、大鳥神社と改称し、遷座して現在地に鎮座しているそうで、日本武命を祭神として祀っています。 こちらが拝殿です。境内には、なぜかホットサンドの移動販売車が。こちらが手水舎ですが、手水で洗う前にアルコール消毒。ウイルス対策としてどうなんでしょう。こちらの七福神は恵比寿神です。お約束の鯛は持っていますが、まさか手にした扇で鯛を釣った?都電の線路を越えて、雑司が谷の住宅街の中へ。こちらのお寺「清立院」が次の目的地です。日蓮宗御嶽山清立院は、約770年前、真言宗・清龍寺として創立されたそうです。後に村を疫病から救った雲水が日蓮聖人像を寺に残したことから、日蓮宗・清立院と改められそうです。この木彫毘沙門天像は区の文化財に登録されています。こちらは日蓮聖人の銅像です。清立院は雨乞いの祈願で有名だったらしく、「雨乞いの松」が植えられていました。(雑司ヶ谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神めぐり(その5) 大鳥神社と清立院
2021年07月10日
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鬼子母神を後にして、鬱蒼とした木立の間の石畳の道を歩いていきます。この道の途中にあるこの建物は、「雑司が谷案内処」(→→→こちら)という施設です。地元の観光情報を提供したり、「角兵衛獅子」、「元禄かざぐるま」 や 「すすきみみずく」 などの雑司が谷の郷土玩具の展示・販売を行っているそうです。こちらが都電の「鬼子母神前」電停から来る時の入口になります。鬼子母神に関連する文化財が列記されています。でも、ちょっと見にくいかも。こちらが都電荒川線、いや「東京さくらトラム」の鬼子母神前電停です。この下に東京メトロ副都心線の雑司が谷駅があるってちょっと不思議でした。(雑司ヶ谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神めぐり(その4) 鬼子母神参道
2021年07月09日
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法明寺から歩いてくるとこの緑の濃い場所にやってきます。雑司ヶ谷にくるとまず有名なのは「鬼子母神(きしもじん)」(→→→こちら)、その入り口がこちらです。ちなみに「きしぼじん」と読んでも間違いではないようです。また、雑司ヶ谷鬼子母神では角(つの)のつかないを使うそうです。こちらが鬼子母神堂、国指定の重要文化財になります。大切な文化財を撮影したのにおざなりな写真ですみません。鬼子母神堂の扁額です。角のつかない鬼の字を使っていますね。そして、雑司が谷七福神の大黒天様が祀られています。大黒天さまのお姿もブレブレなおざなり写真で失礼しました<m(__)m>。朝早かったので、閉まっているのか、それとも昔テレビなんかで観た時はおばあさん一人で営業していたので、もうおばあさんの体調が悪くなって休止しているのかよくわかりませんが、鬼子母神の境内にある駄菓子屋さんです。創業1781年。もともとは、加賀藩主・前田利常公の息女・自昌院殿が鬼子母神に寄進したことから、加賀藩御用達となった飴屋がその前身という、由緒正しい歴史を持つ駄菓子屋だそうで、よくテレビや雑誌に紹介されていましたね。古いといえばこちらのイチョウの木。東京都指定の天然記念物の「鬼子母神公孫樹」(→→→こちら)樹齢約600年以上とは、天正6年(1578年)に創建されたという鬼子母神よりも古いのですね。(雑司ヶ谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神めぐり(その3) 雑司ヶ谷といえば鬼子母神でしょ
2021年07月08日
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次の目的地へは、このちょっと見落としそうな路地を歩いて行きます。この路地の途中にある「威光稲荷堂」の社号碑があります。小さな神社ですが、赤い鳥居が連なって、いかにも稲荷神社感がありました。百度石がありました。お百度を踏む時は人に見られないようしなさいと祖母に言われたことを思い出しました。参詣する人も少ないようで、人に見られないようにするにはいい神社かもしれませんね。人には見られないかもしれませんが、ネコちゃんには見られるのはいいのでしょうね。この階段を上ると、拝殿がありました。威光稲荷堂はこの威光山法明寺の境内にある地主神という位置づけだそうです。ちなみに雑司ヶ谷鬼子母神もこのお寺の関連施設だそうです。こちらは法明寺の塔頭(たっちゅう)になる観静院です。ここにに雑司が谷七福神の「弁財天」が祀られています。勧静院の山号は「平等山」というそうです。慶長年間(1596~1615)に創建されたそうです。(雑司ヶ谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神めぐり(その2) 威光稲荷堂と観静院の弁財天
2021年07月07日
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2021年5月20日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して池袋、雑司ヶ谷あたりを歩いた報告です。池袋駅東口の風景です。あまり天気は良くなかったです。さて、ここから出発です。駅から明治通りを南にむかって、「東通り」にやってきました。自治会の掲示板に貼ってあった、豊島区の新型コロナウイルス感染防止の呼びかけポスターです。「鬼五則」というは、雑司ヶ谷鬼子母神に因んだネーミング?雑司が谷七福神の「布袋尊」がビルの中にありました。「雑司ヶ谷」と「雑司が谷」の使い分け面倒臭さそうです。間違えてもお許しを。七福神、普通はお寺や神社にあるものですが、布袋尊は普通のビルの前にあって、またいつも担いでいる大きな袋も忘れているような。(雑司ヶ谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング雑司が谷七福神めぐり(その1) 布袋尊はビルの前
2021年07月06日
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全然知らない街の上中里を歩いていますが、よくドラマなんかでみる場所にやって来ました。ここはテレビドラマの浅見光彦シリーズにたびたび登場する和菓子屋さん「平塚亭つるおか」です。この店は平塚神社(→→→こちら)の敷地内に建っていました。入口には大きな社号碑が建立されています。郷社(→→→こちら)に列格されているので、この地域では崇敬を集めていた神社だったようですね。境内にも社号碑がありました。こちらは明治維新後に定められた社格制度ができる以前に建立された古い物なんでしょう。平塚神社は、源義家が奥州征伐の凱旋途中に当地を訪れた際に当地の領主豊島太郎近義に鎧一領を下賜、その鎧を埋めて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神と称して、元永年中(1118-1119)に創建したと伝わっています。北区教育委員会が設置した「平塚常伝承地」の説明板が設置されていました。これによると、この平塚神社のある場所に、平安時代末期に秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくったそうです。そして、鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となっていたようですが、文明10年(1478)1月、豊島泰経の時代に太田道灌によって落城してしまったそうです。その後、江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久が平塚城にあった平塚明神の再興したそうです。平塚神社に参拝するために境内を進みます。社叢が濃いので神社らしい風格があります。石の神明鳥居がありますが、土地を駐車場に使っているのか、沢山の車が止めてありました。この参道の奥に見えるのが拝殿です。小さな木の鳥居を抜けて、拝殿です。拝殿の前の狛犬ですが、「獅子の子落とし」の諺に倣った、狛犬の子落としを表しています。獅子は実物のライオンとは違う想像上の生き物で、狛犬も獅子狛犬と呼ばれる獅子に似た想像上の獣なので、このデザインの狛犬があっても不思議ではないのかもしれません。こちらの拝殿にお参りしました。ご祭神は、八幡太郎源義家命、賀茂次郎源義命、新羅三郎源義光命ということなので、勝ち運、騎馬上達(あるいは交通安全)、立身出世にご利益があるそうですね。 JR東日本の「駅からハイキング」のウォーキングイベントで、あまり行くこともなく全然知らなかった町を上中里駅を起点に巡り、全然知らなかった町の魅力を発見できました。(上中里のコースです)【了】人気ブログランキング上中里から歩く(その8) 平塚神社
2021年06月28日
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全然知らない街上中里を歩いた報告を書いていますが、この内容は以前書いた青天を衝け(その1)(→→→こちら)および(その2)(→→→こちら)と重複する内容もあり、ご容赦願います。飛鳥山公園には、渋沢栄一の自宅建物が国指定重要文化財となって残っています。この建物は「青淵文庫(せいえんぶんこ)」。渋沢栄一の傘寿(80 歳)と子爵に昇格したお祝いとして大正14年(1925)に竜門社(現在の公益財団法人渋沢栄ー記念財団)が贈呈した建物です。主に国内外の賓客を迎える接待・接客の場として使用されていた「晩香廬(ばんこうろう)」。渋沢栄一が喜寿(77歳)を迎えた時に、清水組(現在の清水建設株式会社)から贈呈された洋風茶室だそうです。飛鳥山公園と記された石碑が本郷通り側の出入り口にありました。本郷通りに沿って、南東の方向に向かっていくと、道路の中に大きな木と石柱がありました。石柱には「史蹟 西ヶ原一里塚」と刻まれていました。道路沿いにこの西ヶ原一里塚の説明板(→→→こちら)がありました。西ヶ原一里塚は、江戸の日本橋から日光まで続く「日光御成道」(徳川家康を祀った日光東照宮に、将軍が参詣するための街道)の二里目の一里塚で、徳川時代に設置されたままの旧位置を留めており、都内では大変貴重なものとして、大正11年3月8日には、国史跡に指定されたそうです。その隣にあった「二本榎保存之碑」(→→→こちら)です。幕府は一里塚には主に榎(エノキ)の木を植えさせましたが、大正初期に西ケ原の一里塚と榎が東京市電の軌道敷設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長、滝野川町長、地元住民の努力により保存されたことを記念して建立された石碑があるそうですが、説明板は見つけましたが、石碑は見つけられませんでした。さらに進んで行くと、「ワクチン接種センター」という横断幕がつけられた建物がありました。ワクチンといえば、この時期、やっぱり新型コロナワクチンのことでしょうね。ワクチン接種センターがあるのは「花と森の東京病院」(→→→こちら)です。昭和11年に大蔵省印刷局病院として開設された独立行政法人国立印刷局東京病院が、平成25年4月1日に社会医療法人社団正志会「花と森の東京病院」に売り払われてできた病院です。また、この病院の敷地は東京高等蚕糸学校(今の東京農工大学)があった地でもあるようです。(上中里のコースです)【つづく】人気ブログランキング上中里から歩く(その7) 渋沢家飛鳥山邸から東京高等蚕糸学校発祥の地まで
2021年06月27日
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昨日6月25日から都議会議員選挙が始まりましたね。家にいたら、電話が架かってきた。MoMo太郎は、最近は詐欺電話も多いので、知らない人から自宅に架かってきた電話には「〇〇です」と応えないようにしているのですが、向こうから「〇〇さんのお宅ですが」と言われた。それで「どちら様ですか」と尋ねると、「都議会議員に立候補している〇〇です」と言われた。投票依頼の電話なんだろうと思うが、常識的に考えて、最初に相手側が名乗って、〇〇さんですかと言うのがマナーではないのか、なんか常識のない奴だと思って、「最初におなたの方から名乗るのが常識でしょう」と言って電話を切った。そういう電話のマナーも運動員に指導していない人物が政治家に立候補しているのかと思うと、ひどくムカついた。さて、全然知らない街上中里を今まで歩いていましたが、気がつくと隣駅の王子まで来ていました。飛鳥山公園モノレール(あすかパークレール)の車両、アスカルゴに乗って飛鳥山公園に登りました。料金は無料です。本郷通り飛鳥大坂を登る都電が見えました。荒川線のこの区間は道路上に鉄道レールが敷設される併用軌道になっています。車内では、倍賞千恵子さんの飛鳥山ガイドのアナウンスが流れきました。倍賞千恵子さんって北区滝野川育ちだったんだそうですね。下町の太陽というキャッチフレーズの女優さんなので、てっきり墨田区とか台東区の人かと思ってました。NHKの大河ドラマの影響で、渋沢栄一関連施設が紹介されています。あすかパークレールの山頂駅近くには、このようなケルンがありました。飛鳥山、標高25.4メートルだそうです。飛鳥山公園は桜の名所として知られていますが、約300年前、八代将軍徳川吉宗が享保の改革の施策のひとつとして、江戸っ子たちの行楽の地とするため、飛鳥山を桜の名所にしたそうです。子供たちが遊べるような公園として整備されていて、お城をイメージしたすべり台の遊具があったり、都電が展示されています。この車両は都電荒川線を走っていた車両だそうです。前照灯が一つといのはなんか昔風な感じがします。また、蒸気機関車が展示されています。このD51 853という蒸気機関車は、昭和18年8月31日に国鉄鷹取工機部で生産されたそうで、廃車される昭和47年6月14日までに1942万4713kmの距離を走っていたそうです。飛鳥山公園には、北区の自然・歴史・文化を紹介する北区飛鳥山博物館、渋沢栄一の全生涯にわたる資料を収蔵、展示している渋沢栄一資料館、などがありますが、こちらは「紙」専門の「紙の博物館」です。北区王子は明治初期に近代的な製紙工場のさきがけとなった抄紙会社(後の王子製紙王子工場)が設立された地で、”洋紙発祥の地”として知られていることから、この博物館があるのでしょうね。(上中里のコースです)【つづく】人気ブログランキング上中里から歩く(その6) 飛鳥山公園
2021年06月26日
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全然知らない町、上中里周辺を歩いています。 石神井川です。この川は東京都小平市花小金井南町に源を発し、東京都北部を東へ流れて北区堀船三丁目で隅田川に合流します。この辺りは今は垂直のコンクリート護岸になっていますが、かつては「石神井渓谷」「滝野川渓谷」「音無渓谷」などとよばれていた渓谷となっていたそうです。「滝野川」という名称は北区滝野川の地名として残っています。かつて、この地域の石神井川が「滝の様に勢いよく川の流れが激しかった」ことに由来するそうです。 MoMo太郎は石神井公園の三宝寺池がこの川の水源だと思ってましたが、地図で調べてみると、三宝寺池やその下流の石神井池と石神井川が接続する水路を見つけることができませんでした。さて石神井川沿いの遊歩道を歩いて行きます。 途中に見えた菊池武男の靴(→→→こちら)、結構有名らしいですね。 ここは音無橋の下です。音無渓谷と呼ばれたことに因み音無親水公園として整備されていました。 北区の区役所第二庁舎です。第一庁舎は隣にあります。 王子神社(→→→こちら)です。「王子権現」の名称で江戸名所の1つだったそうです。 王子神社の由来が記されていました。 中世に熊野信仰の拠点となった神社だったそうです。このあたりは古くは岸村といいましたが、紀州熊野三所若一王子が勧請されたことから、王子村と改められたそうです。 こちらが拝殿となります。 (上中里のコースです) 【つづく】 人気ブログランキング 上中里から歩く(その5) 石神井川紅葉橋から王子神社へ
2021年06月25日
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全然知らない町、上中里周辺を歩いています。この道を歩道橋で渡りました。この道は北本通りと呼ばれていますが、国道122号線で栃木県日光市までつながっているそうです。防音シェルターに囲まれているのは、首都高速中央環状線です。向こう側がJRの王子駅方面、首都高速はこの先の飛鳥山公園と王子駅をトンネルで潜り、隅田川を越えて東北道に出ることができます。この道路ができて便利になったものです。北本通りを渡ると、また商店街が現れてきました。このアーチの上に銀河鉄道999に登場する女性と少年のキャラクターがありました。ばんば商店街です。漢字で書くと馬場商店街になります。この商店街の中を歩いて行きます。ちょっと慎ましい感じの商店街ですね。飛鳥山温泉という公衆浴場がありました。サウナも付いているのですね。商店街を進むと目について石碑です。「たきふどう」ときざまれているのでしょうか。この近くに正受院というお寺があり、近くに不動の滝跡というのがあるそうなので、そのつながりがある石碑でしょうか。馬場商店街の案内図、漫画家の松本零士さんの描くキャラクター(年のせいと漫画を良く知らないので名前がよくわかりません)が使われていますが、どういう経緯でこれが使われているのでしょうか。商店街を抜けて、紅葉橋通りという道にでると、その名も紅葉寺というお寺がありました。このお寺、源頼朝の布陣伝承地(→→→こちら)の説明板がありました。寺号標には紅葉寺とありましたが、正式には金剛寺というみたいですね。山門の前には色々な石碑が建立されていました。お寺の境内です。さすがに4月下旬の時期、紅葉(こうよう)はしていませんが、「楓(かえで)」の木がありましたね。ところでカエデとモミジは使い分けはどうなっているんでしょうか。こちらが本堂。寺号額には金剛寺(→→→こちら)と記されていました。(上中里のコースです)【つづく】人気ブログランキング上中里から歩く(その4) 馬場(ばんば)商店街と紅葉寺
2021年06月24日
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全然知らない町、上中里周辺を歩いています。商店街を抜けるとやや広い道に出ました。この道を北に向かって歩きます。この道の名前は「ゲーテの小径」(→→→こちら)と呼ばれる道です。平成元年(1989)に北区役所道路課が、「小径」プロジェクト(特徴ある通りの環境を整備し、名称を付けする)の一環として、この道をゲーテの小径としてポケットパークなども併せて整備したそうです。道は本郷通り向かって、緩い坂道になっています。ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、1749-1832)といえば、「若きウエルテルの悩み」などの作品で知られる、ドイツを代表する文豪ですが、北区がどうしてこのような名称の道を作ったかというと、この東京ゲーテ記念館(→→→こちら)という施設があるからです。この施設は、茨城県出身の実業家・粉川忠(1907-1989)が醸造機械の販売をする会社の経営するかたわら生涯をかけて集めたゲーテ関連の書籍、資料を提供する非営利の資料館だそうです。現在は、抗菌・防災の点で問題があることから資料の展示等はせず休館しているそうです。ゲーテを愛する人たちのために、なんらかの方法で再開されるといいですね。この東京ゲーテ記念館の向かいにあるのが、「ゲーテパーク」というポケットパークです。ここには、ゲーテパークの由来を説明するレリーフやゲーテの代表作のファウスト(→→→こちら)の一節を紹介する説明板などがあります。東京ゲーテ記念館から北西に向かって歩くと、都電荒川線があります。都電荒川線、最近は「東京さくらトラム」と呼ばれていますが、なんとなく馴染めない名前だと感じるのはMoMo太郎がおじさんだからでしょうか。都電を越えると桜丘中学校・高等学校がありました。MoMo太郎はおじさんなので、ここは女子校だと思っていましたが、かなり以前に男女共学になっていたのですね。(上中里のコースです)【つづく】人気ブログランキング上中里から歩く(その3) ゲーテの小径と都電
2021年06月23日
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全然知らない町、上中里周辺を歩いています。坂道を登ると今度は本郷通り沿いを歩いて行くと、この大きな門がありました。旧古河庭園(→→→こちら)です。東京のバラの名所として親しまれている旧古河庭園は、大正8年(1919)に古河財閥の古河虎之助男爵の邸宅として整備されたものです。洋館、西洋庭園と日本庭園が調和した庭園は国の名勝に指定されています。現在は国有財産であり、東京都が借り受けて一般公開していますが、訪れた時はコロナ禍で休園中でした。でも、庭園のバラは手入れが続けられていたんでしょうね。旧古川庭園を過ぎると、本郷通りは右に曲がり、JR山手線の駒込駅の方に歩いて行くと、霜降銀座商店街がありました。狭い路地の両脇に商店が並ぶ、昭和感のある商店街です。駒込は高級住宅街と下町の雰囲気のある住宅街がありますが、どちらの人もこちらでお買い物するのでしょうね。ここで霜降銀座は終わりでしょうか。このアーチから商店街の名前が変わります。提灯なんか吊り下げて華やかな雰囲気が。染井銀座商店街です。サクラの品種「ソメイヨシノ」発祥の地にある商店街です。しかし、商店街というとなぜ「銀座」という名前を付けるのでしょうかね。やっぱり、往年の小林旭のような銀座旋風児(ギンザマイトガイ)(→→→こちら)がどこの商店街にもいるんでいるでしょうか?さらに、北区西ケ原の住宅街の中を歩いて行きました。(上中里のコースです)【つづく】【追伸:いよいよオリンピックですね】東京五輪、観客上限1万人で開催 5者協議決定、政府制限に準拠(→→→こちら)東京五輪・パラリンピックに向けた大会組織委員会、東京都、政府、国際オリンピック委員会(IOC)、国際パラリンピック委員会(IPC)の各代表による5者協議が21日、東京都内で開かれ、地方を含めた五輪会場の観客数上限を原則的に定員の50%以内で最大1万人とすることを正式決定した。依然、中止や無観客開催を求める声がある中、一定の制限の下で国内の観客を入れた開催が固まった。「新型コロナウイルス緊急事態宣言の中で、東京五輪・パラリンピック開催して、みんな大変だったし、池江璃花子選手も白血病から回復して出場したけど、新型コロナに感染して亡くなったりした悲劇もあったし、出場選手のうち何人かはコンドーム配られなかったせいで、性病に感染したらしいけど、まあ、心配していたコロナのパンデミックも起こらなかったし、なんとかやり遂げて、やっぱり日本人ってスゴイよね。次は札幌で冬季オリンピックやりたいよね」というような世論が結局は形成されるのでしょうね。そういう日本人のユルイところなんとも言えないですね。人気ブログランキング上中里から歩く(その2) 活気ある商店街を歩く
2021年06月22日
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2021年4月20日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して上中里から西ヶ原、王子を巡った報告です。 新型コロナウイルスの感染流行にもかかわらず、「駅からハイキング」は催行されていましたので、MoMo太郎も体力づくりの一環として参加しました。 今回は京浜東北線の上中里駅からのスタートです。 上中里駅は、2019年(令和元年)度の1日平均乗車人員は8,041人で、東京23区のJR駅の中では越中島駅に次いで2番目に利用客数が少ないそうです。(→→→こちら) 拙は一度、この駅を利用したことがありますが、しかし、どのような街であるかは。全然知りません。ということで、全然知らない街での駅からハイキングです。 中高年の皆さんが参加登録をしているところです。以前はカードに書かれた二次元バーコードを使って参加登録する方式でしたが、今年度からはスマホのアプリを使っての登録に変わったので、係の人が丁寧に説明してくれました。やはり、参加される方はMoMo太郎のような暇あっても金がなくネットに不慣れな中高年が多いのでしょうか。 駅の西側にあるこの坂道を登っていきます。 この坂道は「蝉坂」という名前です。参加しているお姉さんたちは「蝉坂60'S」というグループなのでしょうか。 最初のポイントは、坂の途中にあるこのお寺です。 お寺の名前は「平塚山城官寺」(→→→こちら)です。 山門に掲げられた山号の揮毫は内閣総理大臣だった「田中角栄」です。揮毫をお願いしたら「よっしゃ、よっしゃ」と言って書いてくれたんでしょうね。田中角栄さん本人が書いたかどうかはわかりませんが、ガースー総理なら、内閣府の官僚で字の上手い人が下書きしたものを、上からなぞって判子だけ押すかもしれませんね。河野大臣なら判子さえも押さないのでしょうか。 こちらが本堂になります。 くまモンとピカチュウが本堂の前に置かれていていました。彼らも現在の仏様ということでしょうか。お賽銭を置いていく参拝者もいるようですね。 本堂には、「城官寺」の寺額が、こちらは格式の高いお坊さんが揮毫されているようでした。 (上中里のコースです)【つづく】 人気ブログランキング 上中里から歩く(その1) 平塚山城官寺
2021年06月21日
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「BМWで楽しむゴールデンウィーク」です。「B」は「bus: バス」「М」は「metro: 地下鉄」「W」は「walk: 歩き」のBМWでゴールデンウィークを楽しみましょう。太田道灌のゆかりの地をBМWで巡る旅もいよいよ最後になります。上野公園行の都バスを春日駅前で降りました。そして、BMWのM、つまり地下鉄(メトロ:metro)に乗り換えます。もちろん使うのは、都営三田線です。三田線の大手町駅で降り、目の前にあるのは、皇居、つまり太田道灌が築城した江戸城(→→→こちら)この和田倉橋、木橋となっています、を渡って、和田倉噴水公園(→→→こちら)にやってきました。噴水の向こうに見えるのは桜田巽櫓です。巽櫓というのは、本丸から見て東南(辰巳)の濠の角にあることから名づけられたそうです。富士見櫓、伏見櫓と並んで江戸城に残る江戸時代の櫓のひとつになります。BМWを利用した、太田道灌を巡る都内の旅、ほぼ一日掛かりでしたが、都内の各所を回ることができて楽しかったです。新型コロナウイルス感染拡大にともなう緊急事態宣言の下、こういう楽しみ方もいいのではないかと思います。【了】追伸:寄席は社会生活に必要なもの。東京都内の4寄席が5月1日からついに休業「お金が欲しいから休むんじゃない」協力金は拒否当初、寄席は「社会生活に必要なもの」と判断して、感染防止対策を徹底して“有観客”興行を行っていたそうですが、結局、休業することになったそうです。演芸や演劇とか、そういう娯楽は、「社会生活にあってもなくてもいい」という部類に近いので、社会生活に必要なものと思われるよう芸を磨く努力を続けることで、世間からは認められてきたのでしょうね。しかし、社会生活に不可欠かどうかとは関係なく、寄席や劇場の休業は必要な処置だと思います。今まで劇場や寄席でコロナのクラスターが発生していないから大丈夫だというのは、自動車を長年運転してきて事故を起こさなかったので、これからも事故を起こさないというのと同じですね。寄席に来たお客さんがたまたまコロナに感染していたらどうなんでしょう。また、お客さん同士が帰り道に、食事しながら今日聞いた落語について感想を話し合っていたら。このように、コロナの感染拡大に寄与する可能性があることはできるだけ避けるために必要な取り組みだと思います。また、今回の休業措置で芸人が全員廃業し、役者がいなくなっても、また居酒屋が全部潰れても、コロナが収まれば、また寄席芸人や居酒屋は出てくるでしょう。「浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」みたいなもんです。人気ブログランキングBМWで楽しむゴールデンウィーク(その7) 最後は江戸城です
2021年04月30日
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「BМWで楽しむゴールデンウィーク」です。「B」は「bus: バス」「М」は「metro: 地下鉄」「W」は「walk: 歩き」のBМWでゴールデンウィークを楽しみましょう。都電荒川線に乗って、降りたところは、町屋駅前の電停。ここは、都電、京成電鉄、そして東京メトロ千代田線に乗り換えることができる便利な場所です。その駅の近くにあるこのお寺。大雄山泊船軒(はくせんけん)(→→→こちら)というお寺です。名称に「寺」ではなく「軒」がつくことから、山号はあるものの塔頭(たっちゅう)寺院だそうで、浅草にある臨済宗の大雄山海禅寺(→→→こちら)の塔頭寺院だそうです。この泊船軒の庭の片隅に塚があります。立札の文字が擦れてわかりませんが、「山吹の里」の塚です。太田道灌が鷹狩りの際ににわか雨に遭い、農家の娘に蓑を借りようとしたが、娘は古歌に託して山吹の花を差し出したという有名な伝説の地である山吹の里、こんなところにひっそりとあったのですね。さらに都電荒川線を乗り継いで、面影(おもかげ)橋の停留場までやってきました。ロマンチックな名前の「面影橋」(→→→こちら)ですが、橋そのものは単純なコンクリートの橋でした。面影橋、別名は姿見橋ともいうそうです。この橋にまつわる伝説としては、戦国時代に、この地に来たという和田靱負(ゆきえ)という武士の娘於戸姫の伝説があります。於戸姫(おとひめ)は結婚を断った武士にさらわれ、気を失ったところを置き去りにされましたが、杉山三郎左衛門夫婦に助けられ、やがて近所の小川左衛門に嫁いだそうです。しかし、夫の友人が美しい於戸姫に横恋慕し、我が物にしようと夫の小川左衛門を殺したそうです。姫は仇はとったものの、自分の身に相次いで起こる不幸から、家を出て神田川の川辺でわが身を水に写し、亡き夫を想いながら川に身を投げて夫の許に行ったということです。里人は於戸姫の心情を思いやり、面影橋・姿見橋と名付けたたそうです。それ以外にも、在原業平が鏡のような水面に、姿を写した説。将軍家光が逃げてしまった鷹狩の鷹をこの辺りで見つけたため面影橋と名付けた説などがあるそうです。橋の下を流れる神田川です。こちらが、目的の山吹の里伝説の石碑です。豊島区が設置した説明板がありました。これによると「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではないようですね。ちなみに、「太田道灌の「山吹の里」伝説の地は都内のどこなのか。」について、詳しい解説が江戸東京博物館のホームページに解説されています(→→→こちら)。結論としては、「伝説自体の真偽について議論があるため断定できません。」ということでした。こちらがその石碑です。「山吹之里」とは刻まれていますが、説明板にあるとおり、「文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享3年(1636年)に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。」か?さて都電の走る、新目白通りを終点の早稲田の停留場に向かって歩いて行って、甘泉園(かんせんえん)公園前(→→→こちら)のバス停から、上野公園行の都バスに乗ります。このバスに乗って、次の目的地、太田道灌の名前を後世に残すことになったあそこへ向かいます。【つづく】人気ブログランキングBМWで楽しむゴールデンウィーク(その6) 山吹の里は町屋と面影橋にありました
2021年04月29日
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4月27日の満月、ピンクムーンです。そして、「BМWで楽しむゴールデンウィーク」の続きです。「B」は「bus: バス」「М」は「metro: 地下鉄」「W」は「walk: 歩き」のBМWでゴールデンウィークを楽しみましょう。さて西日暮里駅前のバス停から、浅草寿町行のバスに乗ります。明治通りにある大関横丁でバスを降りて、常磐線の高架下を抜けて行くと、アーケドのある商店街があります。かなり大きな商店街です。大正時代から続く古い商店街ですが、ジョイフル三の輪(→→→こちら)という名前は今風にしても、紙のポイントカードを使っているのは昭和ですね。昔の呼び名の「三の輪銀座商店街」という方が、しっくりきますね。そして商店街のすぐ傍には、都電荒川線の三ノ輪停留場があります。都電荒川線は東京に残る唯一の都電なので、都営まるごときっぷで乗車できます。2017年から「東京さくらトラム」という愛称がつけられていますが、やはり昭和感漂う三の輪商店街から乗るのであれば、「チンチン電車」の方が似合いそうです。これは装飾でしょうが、懐かしいホーロー(琺瑯)看板もありました。懐かしいですね「亀の子束子」。今も使っています。大村昆さんのオロナミンC、そしてボンカレー。モデルは正統派の美人女優の松山容子さん。琴姫七変化ですね。今はどうされているのでしょうか。チャンバラの上手い女優さんでしたね。地下足袋といえばアサヒ靴、今はアサヒシューズという会社名ですが、昔は日本ゴムという会社だったんですね。ちなみに靴のゴム底だけはなく、ここからブリヂストンタイヤ(「チ」に点々に注意です)が分社して自動車の靴も作るようになったそうです。金鳥といえば、蚊取り線香。BWMの中には入っていませんが、チンチン電車で次の目的地へ移動します。出発の時の合図はやっぱり「チンチン」という音でした。荒川線は、線路専用の区間が多く、路面電車といいながら道路上はほとんど走っていません。【つづく】人気ブログランキングBМWで楽しむゴールデンウィーク(その5) メトロではありませんが
2021年04月28日
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「BМWで楽しむゴールデンウィーク」。「B」は「bus: バス」「М」は「metro: 地下鉄」「W」は「walk: 歩き」のBМWでゴールデンウィークを楽しみましょう。今回のBМWのテーマは、太田道灌に関する都内巡りです。そろそろ太田道灌関連の場所へ。第一日暮里小学校を過ぎると公園がありました。「西日暮里公園」という公園でした。公園にあった説明板です。「道灌山」(→→→こちら)について解説されていました。道灌山は、上野から王子へ延びる「上野台地」の中間点付近で、台地の幅が狭くなった少し高い所にある場所で、日暮里崖線と呼ばれる海水浸食の海食崖の高台になってます。道灌山と名付けられた理由は、太田道灌の江戸城の出城の城址跡という説鎌倉時代の豪族・関道閑(せき・どうかん)の屋敷跡という説キツネが住んでいた(または稲荷が祀られていた)ので稲荷山(とうかやま)と呼ばれたのが訛ったという説などの諸説があるそうです。現在では混同されていますが、正確に言うと、この道灌山通りを挟んで北側(日暮里4丁目)の建物がある場所が道灌山だったそうで、南側(日暮里3丁目)、つまり西日暮里公園側は日暮里山、新堀山、日暮山等というようです。道灌山の台地上には縄文時代から江戸時代に至る複合遺跡の道灌山遺跡かあります。縄文時代および弥生時代の竪穴式住居跡、平安時代の住居跡、江戸時代の溝などが発掘され、縄文土器や弥生土器が出土しているたのだとか。しかし、この建物がある学校の敷地となっていて、実際に見ることはできませんでした。で、この学校の校章です。MoMo太郎の同業者にもこの学校の卒業生が多いです。【つづく】人気ブログランキングBМWで楽しむゴールデンウィーク(その4) 道灌山と太田道灌の関係は?
2021年04月27日
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「BМWで楽しむゴールデンウィーク」です。「B」は「bus: バス」「М」は「metro: 地下鉄」「W」は「walk: 歩き」のBМWでゴールデンウィークを楽しみましょう。さて、日暮里から西日暮里にある道灌山に、今度はWalk、歩いて向かいます。その前に日暮里駅といえば、そばを通る下御隠殿橋にトレインミュージアムと呼ばれるバルコニーが設置されて、下を通るJRの新幹線や特急車両などに加えて京成線の車両も眺められるようになっています。鉄道好きの子供には楽しい場所のようです。日暮里といえば、この商店街「谷中銀座商店」(→→→こちら)も有名ですね。ちなみにこちらは台東区になります。またこの商店街へ降りて行く階段は「夕やけだんだん」(→→→こちら)と命名されていて、階段からは美しい夕焼けを眺めることができるそうです。「谷中ぎんざ」の方はまた別の機会にBMWで訪れることとして、西日暮里に向かって、この諏訪台通りを歩きます。「安全横丁」という看板がありますが、これは、痴漢が出なくて安全とか泥棒が出なくて安全ということではなく、狭い道なので自動車は安全運転して下さい。という意味の「安全横丁」ということのようでした。この途中にあったのが富士見坂(→→→こちら)です。荒川区が設置した説明板がありました。都心にいくつかある富士見坂のうち、地上から富士山の形がよく見える坂だったそうです。多分、この方向から富士山が見えたのでしょうが、建物が邪魔で富士山は見えなくなったみたいですね。さらに行くと、「太平洋美術会研究所」(→→→こちら)という建物があります。ここにも荒川区が説明板を設置していました。明治35年(1902)に太平洋画会として発足し、以来大正、昭和、平成と4つの時代にわたって多くの優れた芸術家を世に輩出してきた、日本最古の歴史を誇る美術団体になるそうです。かの高村光太郎氏の妻・智恵子夫人もこの研究所で油絵を学んだひとりでだったそうです。ここで今でも絵を学ぶことができるのでしょうか。なんとなく敷居が高そうで、プロを目指す人たち専用みたいで、子供の習い事程度では入所できなさそうですね。さらに西日暮里を目指すと、荒川区立第一日暮里小学校がというのがあります。MoMo太郎が、生まれ変わったら、父親になりたいと願う子供である芦田愛菜さんの出身小学校だそうです(→→→こちら)。学校の「マルモのおきて」つまり校訓は「いつでも、にっぽり笑って、笑顔を大切に」ではなく「正直親切」のようですね。その校門の横に正体不明のオブジェが。この小学校の卒業生である彫刻家で詩人の高村光太郎の署による「正直親切」という石碑があるのですね。あの旗の文字が高村光太郎によるものなんでしょうか。こちらのフクロウの石像は、石を専門に扱う彫刻家・飯田雅光氏の作品だそうです。きっと、芦田愛菜さんも「マルモのおきて」として「正直親切」は大事にしているかも。【つづく】人気ブログランキングBМWで楽しむゴールデンウィーク(その3) 富士見坂から富士山は見えなかった
2021年04月26日
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「BМWで楽しむゴールデンウィーク」です。 「B」は「bus: バス」 「М」は「metro: 地下鉄」 「W」は「walk: 歩き」 のBМWでゴールデンウィークを楽しみましょう。 JR錦糸町駅に到着しました。 次の目的地である日暮里駅行のバスが駅前の停留所に止まっていました。バス旅名人、ルイルイ太川陽介と並ぶ、MoMo太郎のバス旅ぶりです。 そしてバスは、浅草を抜けて日暮里駅に到着しました。 駅前にあったのは、太田道灌騎馬像です。合戦ではなく鷹狩りに来ているという雰囲気の像ですね。 この騎馬像の傍らには石碑があります。 石碑には「回天一枝」と刻まれています。揮毫は鈴木俊一東京都知事でした。 回天一枝とは、道灌の「山吹の花一枝」の故事に思いをいたし、それを契機に文の道に目覚めた道灌が、まさに「回天」の勢いで文の道を究めていったことを表現しようと「回天一枝」という作品名を、作者の橋本氏と鈴木俊一元都知事がこの騎馬像に命名いたしました。 この騎馬像の後ろには、女性の銅像もありました。 平成30年5月東京荒川ライオンズクラブより寄贈された、平野千里氏の「山吹の花一枝像」です。 「太田道灌 山吹の里伝説」で登場し、「山吹の一枝」を差し出す農家の娘をモチーフに制作された作品だそうです。 太田道灌の「山吹の里伝説」についても説明板がありました。 つまり、太田道灌の山吹の里伝説の場所が、荒川区にあるということで、太田道灌騎馬像やら山吹の花一枝像が建立されたというわけですね。 【つづく】 人気ブログランキング BМWで楽しむゴールデンウィーク(その2) 太田道灌、回天一枝
2021年04月25日
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いよいよ待望のゴールデンウィーク。でも新型コロナウイルスの感染拡大で緊急事態宣言の中、そうそう遠出はなきないし、人が集まるところは避けて、春の太陽の下でノンビリしたぃ方にお薦めの、「BМWで楽しむゴールデンウィーク」です。「B」は「bus: バス」「М」は「metro: 地下鉄」「W」は「walk: 歩き」のBМWでゴールデンウィークを楽しみましょう。そのためには、まず一日乗り放題の「都営まるごときっぷ」(大人700円)を都営地下鉄各駅の自動券売機や都バス車内などでご購入下さい。PASMOをお持ちなら、PASMOでも利用できるそうです(SuicaやICOCA、はやかけん、などのICカードは使えないそうです。くわしくは→→→都営まるごときっぷ(1日乗車券)(磁気券・PASMO))をご覧下さい。まず、こちら錦糸町近くにある日蓮宗のお寺、平河山法恩寺(→→→こちら)からスタートです。太田道灌が長禄2年(1458)に江戸城を築くにあたり、城内鎮護の祈願所として武蔵国平河村(江戸城平川口)に開基したのが始まりです。当初は本住院と称ていましたが、道灌の孫の太田資高が寺号を法恩寺と改めました。その後、寺は神田柳原、谷中清水町と移転した後に元禄8年(1695)に現在地の墨田区太平の地に移ったとのこと。なお、 現在地の「太平(町)」の地名は、太田道灌の「太」の字と、山号平河山の「平」の二文字をとり命名されたものと言われているそうです。そのようなことがこの看板に記されていました。住宅街の中にあるにしては、長い参道です。参道の途中には、小さなお寺がありました。おそらく、これらのお寺は、塔頭(たっちゅう)と呼ばれる、大寺・名刹に寄り添って建てられた小院なのでしょうね。山号もなく「〇〇院」という名前があるので、塔頭ではないかと思われます。この法恩寺、鬼平犯科帳にも何度か登場している有名なお寺だったんでしょうね。こちらが本寺の山門です。開基の年号がちょっと違いますね。ここでは長禄元年となっていますが、お寺のホームページでは長禄2年となっていました。豊臣秀吉公や徳川家康公が参詣に来られたというと、有難味があります。こちらが本堂です。新しいですが重厚な感じですね。この三重塔は、下部に梵鐘を提げています。除夜の鐘がここで打たれるのでしょうね。太田道灌の山吹の里の物語を浮き彫りした石碑の「道灌公記念碑」です。「山吹の里」の物語とは、鷹狩に出た太田道灌がにわか雨にあい、立ち寄った農家の娘に蓑を乞うたところ、娘は和歌「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ悲しき」とともに山吹の一枝を渡したのみで蓑を貸さなかった。道灌はその意図が分からなかったが、のちこの歌が「後拾遺和歌集」の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という兼明親王の歌であり、山間の茅葺きの家であり貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだということを知り、それ以後は歌道に励み、歌人としても名高くなったという伝承です。ということで、都内には何カ所か、その「山吹の里」だという場所があるので、その場所も巡ってみることにして、お寺の前にある太平一丁目のバス停から錦糸町駅に向かって出発です。【つづく】人気ブログランキングBМWで楽しむゴールデンウィーク(その1) 太田道灌ゆかりのお寺
2021年04月24日
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千住本氷川神社を参拝して、賑やかな旧日光街道にあたる宿場町通りにやって来ました。こちらで立ち寄ったのは、千住街の駅のという観光案内施設です。かつて魚屋だった建物を利用しているそうですが、なんか幟が邪魔して入りにくい雰囲気でした。ここで大千住マップという観光案内図をいただきましたが、七福神めぐりをする前に、ここに来てこの地図をもらっておいた方がよかったですね。駅前通りに戻りまして、北千住駅に戻って来ましたが、駅の構内を突き抜けて東口方面へ東口の駅前も賑やかですね。そして、この路地に入って行くと、路地裏寺子屋rojivaya(→→→こちら)という日本茶が味わえるカフェですが、ランチもありますし、週末はバーもやっています。その他に日本文化について学べるイベントや教室もあるみたいでした。七福神めぐりもしましたし、今年はこれで幸せに巡り会えるかな・・・?(七福神めぐりのコースです)【了】人気ブログランキングへ北千住七福神めぐり(その18) 宿場町千住
2021年04月22日
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千住本氷川神社に建立されていた「ラジオ体操発祥之地」の石碑です。多分、足立区内で最初にラジオ体操の会を始めたということなんでしょうね。ちなみに大きなビルの建設現場や大きな工場では、作業の開始前にラジオ体操するそうです。MoMo太郎がいた職場もそうでした。こちらが千住本氷川神社旧社殿です。この旧社殿の前に千寿七福神の碑というのがありました。この千住本氷川神社の大黒天で、七福神めぐりコンプリートとなります。ちなみに巡った順で確認してみると仲町氷川神社(弁財天)河原町稲荷神社(福禄寿)白幡八幡神社(毘沙門天)千住神社(恵比寿天)元宿神社(寿老人)大川町氷川神社(布袋尊)そして、千住本氷川神社(大黒天)となります。ところで大黒天はどこにあるのかと思ってみたら、どうやらこの旧社殿の中におられるようでした。説明板によるとこの旧社殿は、千住本氷川神社は、徳治2年(1307)に千葉氏によって、牛田に千葉山西光院と共に、氷川神社として創建されたという。千住が宿場町として栄え始めた江戸時代の初期、現在地に地主の土地奉納によって分社が建てられた。その後、明治43年(1910)荒川放水路建設のため、牛田氷川神社を合祀し、さらに昭和45年に社殿を新築したため、旧社殿は末社として保存されている。旧社殿向拝は、千鳥破風、その前面が唐破風となり、二重の破風を形成し、頭貫や虹梁の部分には、龍や鳥類の彫刻が目立っている。本殿は方一間余りの木造で、切妻造りの平入り形式をなし、屋根は箱棟こけらぶきで、勾配が美しい曲線を呈している。軒回りは二重橑となり、組物も巧緻で処々に彫刻が施され、趣きのある社殿である。(足立区教育委員会掲示より)だそうで、確かに軒先の龍の彫り物なんかなかなかのものですね。(七福神めぐりのコースです)【つづく】昨日の記事に、さるお金持ちの方からのコメントがありました。一人暮らしなら、銭湯に行った方が経済的 いやいやいやいやいやいやいや! 定休日営業時間気にせずいつでも入れる、往復でいちいち寒い(暑い)思いをしなくてすむ、マナーの悪い客にイラつくことがない。風呂付きが断然良いに決まっている!!! と、自分は思います。それこそ実際に試しに銭湯生活してみれば良いかとww東京あたりだと、風呂のあるなしで、2~3万円くらい家賃が違うそうなので、後は自分が気楽に生活するために、余分にお金を払えるかどうかですね。ちなみに、MoMo太郎は、家族4人で風呂なしのアパートに小学校3年くらいまで住んでいて、銭湯に通っていましたが、特に不便は感じませんでした。というか、だいたい他の家の人もみんなそんな生活でしたから。大学の時は6年間、お金もないので風呂なしのアパートで生活していました。確かに、実習やなんやかんやで深夜に帰って来ると、銭湯には行けない時もありましたが、学校にシャワー室があって助かりました。今でも、家族という同居人がいなくて、規則正しく定時で帰れる仕事をしていたら、風呂なしの部屋で生活していたかもしれませんね。人気ブログランキングへ北千住七福神めぐり(その17) 大黒天は旧社殿にお住まいのようでした
2021年04月21日
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途中で見かけたこの建物は銭湯です。 銭湯の料金って大人(12才以上)は470円、一ヶ月30日とすると月14,100円ですね。これって高いのか安いのか、風呂付の部屋の家賃を考えると、ガス代水道代、それから風呂の掃除の手間を考えると、一人暮らしなら、銭湯に行った方が経済的かもしれませんね。 しかしこの建物の軒先の飾り、凝っていますね。 よく見ると、ここにも七福神の大黒天がありました。これも七福神めぐりの一環でしょうか。 ここで国道4号線、日光街道を渡ります。 そして、町の中の千住本氷川神社(→→→こちら)に到着しました。 こちらが千住本氷川神社社殿です。 氷川神社社殿の扁額には「素戔嗚尊」でした。 考えてみれば、今回の北千住七福神めぐりでは、千住本氷川神社、、大川町氷川神社、仲町氷川神社、また千住神社は、「稲荷神社」と「氷川神社」が並んでいたものが、大正時代にふたつがひとつになり「千住神社」と名前を変えたのものです。それから今回は参拝していない千住氷川神社もあります。 どうして、北千住には氷川神社が多いのでしょうか。氷川神社の総本社は埼玉県さいたま市大宮にある武蔵一宮として信仰されている氷川神社(→→→こちら)です。 江戸時代以前は、東京も埼玉も(神奈川県の一部も)合わせて武蔵国でしたから、武蔵国一宮である氷川神社が埼玉や東京には多いのは当然なのですが、それでも北千住と隅田川一本隔てた荒川区南千住には氷川神社はなかったような。 Wikipediaによると足立の地名は、大化の改新(645年)後に制定された地名「武蔵国足立郡」に由来するもので。現在の足立区から埼玉県北部にまたがる広大な地域で、さいたま市大宮付近に中央政庁があったという。ことで、足立区北千住はもともと埼玉県の勢力範囲にあったということなんですね。 それ故、氷川神社も多いということでしょうか? (七福神めぐりのコースです) 【つづく】 人気ブログランキングへ 北千住七福神めぐり(その16) 千住本氷川神社へ
2021年04月20日
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大川町氷川神社の社殿です。例のごとく、初穂料がもったいないのでご朱印はいただきませんが、というか地元の小さな神社なので毎日ご朱印をいただけるかどうかわかりません。でもお参りだけは欠かしませんよ。荒川放水路開削工事に伴い、大正4年(1915)11月10日現在地に遷座されたそうです。さらに、旧社殿が老朽化したため、昭和42年(1967)9月に現社殿が造営された戦後生まれの社殿です。社殿の手前にあった二つの石碑。黒い大きな石碑は明治百年にあたる昭和43年(1968)に新しい社殿が完成したことを記念する石碑のようですね。自然石のようなこの石碑は、「紙すき碑」で。この一帯は江戸時代から紙すき業が盛んで天保14年(1843)、幕府に紙を献上したときの記念碑だそうです。かってこのあたりは紙すき業が盛んだったことを示す史料ですね。足立区は、江戸時代から、紙すき業が盛んであり、新編武蔵風土記稿にも、各村の項でそのことが述べられている。この歌碑は、天保14年(1843)6月晦日、幕府の命により、地すき紙を献上した時の喜びの記念碑である。碑文の上部に、永(永続連、同業組合の印)の題字があり、「水無月のつこもりの日公より岳のすき立仰付られる時」という前書きが続く。歌は「すきかえしせさするわさは田をつくるひなの賎らにあにしかめやも」「天保十あまり四とせ癸卯四角斉丸勇」と刻まれている。紙すきが、稲作にも劣らない仕事であるという自讃の歌である。台座石に二十一軒の問屋石が記されている。荒川放水路開削のため、この碑は、大正6年に移転し、再建された。足立の紙すきを物語る貴重な資料である。(足立区教育委員会掲示より)社殿南側には、千住川田浅間神社富士塚です。千住川田浅間神社富士塚富士塚は文政7年(1824)築造。最近木花開耶姫命。現在地に移築される以前は、町の西北(元宿)川田耕地に、氷川社、稲荷社、浅間社が同じ境内に鎮座していた。 明治44年荒川放水路開削工事開始に伴い、大正5年5月、現在地よりやや西側に移築された。その後、東京都の水道幹線工事のため、昭和43年6月現在地に移築復元され、今日に至っている。塚は、富士山の溶岩を積み上げ、固めて築造され、高さ3mである。山頂に、天保2年(1831)銘の石祠が安置されている。塔碑が多く、最古の碑は、文政7年(1824)のもので丸藤惣同行富士33度大願成就とある。この講社は、高田(早稲田)の身禄同行の枝講で、講名を、丸藤千住13夜同行と呼ぶ。講中は、千住5丁目と、千住大川町全域に及び、かつては、対岸の埼玉県を含む広範囲な地域の農民中心の講社であった。毎年7月1日祭礼が行われる。(足立区教育委員会掲示より)こちらが最古の碑で「富士山三三度大願成就」と刻まれています。江戸時代に本物の富士山に33回登るって、大したものですね。こちらの方々は、富士塚の33回登頂を目指しておられるのでしょうか。(七福神めぐりのコースです)【つづく】人気ブログランキングへ北千住七福神めぐり(その15) 大川町氷川神社の紙すき碑と富士塚
2021年04月19日
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北千住七福神めぐり、次に訪れたのは大川町氷川神社です。立派な社号碑です。しかし、足立区に氷川神社多いですね。氷川神社の素戔嗚尊をお祀りしている千住神社も含めると、ここで3社目になりました。参道の途中にあった石の柱。昭和51年(1976)に架け替えられた国道4号線の荒川に架かる千住大橋の親柱だそうです。ここは七福神めぐりの布袋尊が祀られています。布袋(ほてい、生年不詳 - 917年(?)は、唐代末から五代時代にかけて明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧だそうですが、日本に伝わって、福の神となったのはちょっと不思議ですね。(七福神めぐりのコースです)【つづく】人気ブログランキングへ北千住七福神めぐり(その14) 大川町氷川神社の布袋尊
2021年04月18日
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元宿神社の前にあった説明板と石碑。 説明板にある桜土手と言うのは、 今は墨堤通りと呼ばれている道が、元和二年(1616年)石出掃部介吉胤(いしでかもんのすけ よしたね)によって千住宿を水害から守るために築堤された掃部堤の跡地であり、その堤防の上に桜が植えられていたことから「桜土手」と呼ばれて親しまれていたそうです。そして、その桜並木を復活させるために桜が植えていることが書いてありました。 「里帰り桜」というのは、 明治45年、当時の東京市長、尾崎行雄が日米友好の証として「荒川の五色桜」の苗木12品種3,000本を、アメリカの首都ワシントンに贈り、今では、ワシントンのポトマック公園は、世界的な桜の名所となっています。 残念なことに、本家の「荒川の五色桜」は堤防の工事や公害の影響で、衰退していたことから、足立区では、昭和56年2月、区制50周年記念事業として、ポトマック公園の桜から枝を採取し、30品種以上3,000本の「桜の里帰り」させて区内の公園や学校に植えているものです。 その桜の木がこの道にも植えられているということですね ここを訪れたのは3月の初めだったので、桜はまだでしたが、花見の時期には見事な桜並木で目を楽しませてくれるのでしょうね。 ここで荒川の方に出てみました。 荒川の堤防、結構高さがありますね。でもこれがあるので住民の皆さんが洪水から守られているのですね。 荒川の堤防の上を歩いてみました。空が広くて気持ちがいいですね。 この川が「荒川」(→→→こちら)と呼ばれるようになったのは、昭和40年(1965)からで、それまでは「荒川放水路」という名前でした。また、同時に岩淵水門より分かれる旧荒川全体が「隅田川」となりました。 ちなみに、昭和40年(1965)までは現在の隅田川の千住大橋付近までが荒川、それより下流域が隅田川と区別されていました。 なぜ、こんな経緯があるのかというと、大正2年(1913)から昭和5年(1930年)の17年がかりで、首都東京を水害から守るために荒川の迂回路として荒川放水路が建設されたことにあります。 向こう岸には、首都高速の中央環状線が走っています。 手前に見える荒川を渡る橋は西新井橋です。 堤防の上からはスカイツリーも見えます。 モーターボートで荒川の上を走るなんて、気持ち良さそうですが、お金持ちな人だからできるんですね。 そして河川敷といえば、やっぱり野球ですよね。でも、これもMoMo太郎が子供の頃と違って、ユニフォームを揃えたり、監督やコーチへのお弁当や子供たちへのスポーツドリンクの用意とかお金とヒマが必要となる上級国民の子弟のための趣味ですな。 こうやって、堤防の上を歩くと、かって人気のあった「3年B組金八先生」(→→→こちら) を思い出しました。そういえば、ドラマの舞台も足立区の設定でこのあたりてしたよね。 ちなみに、MoMo太郎、武田鉄矢の長髪がなんとなく不潔だったので大嫌いで、このドラマは観ていませんでした。 (七福神めぐりのコースです) 【つづく】 人気ブログランキングへ 北千住七福神めぐり(その13) 荒川の土手を歩くと気分は金八先生
2021年04月17日
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このビルも帝京科学大学の校舎です。帝京科学大学の横にある路地と思ったら、元宿神社への参道でした。社号碑も立派です。ちなみにこのあたりの住所は足立区千住元町ですが、神社の名前は元宿。参道脇にあった足立区教育委員会の説明板。これによると、この地は鎌倉時代既に集落ができていた古い土地で、奥州路もここを通っていたといわれ、江戸時代初期の日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対し「元宿」と称していた。天正の頃、甲州から移ってきた人々によって、北部の川田耕地などが開墾され、その人々の守護神八幡神が鎮守としてここに祭られたという。明治末年、一時千住四丁目氷川神社に合祀されたが、昭和五年稲荷神を合祀して村社となり、再び元宿の鎮守となった。荒川放水路の開削により、祖先が苦心して開拓した耕地は河川敷となり、多くの人々は悲しくも故地を離れねばならなかった。それらを記した境内の「感旧碑」は足立区内の開拓の歴史の貴重な資料である。とあるので、元々の地名が元宿だったのですね。社殿にお参りしました。ご祭神は誉田別命(八幡神)、宇迦之御魂命(稲荷神)です。扁額です。いつも思うのですが、高い位置にある千社札、どうやって貼ったんでしょうか。ここの千寿七福神は寿老人です。境内には秩父にある三峯神社が石碑にて祀られていました。左側の石碑は庚申塚のようですね。こちらが足立区登録有形民俗文化財の「感旧碑」という石碑です。石碑に刻まれた文言が、現代語訳にて記されていました。(七福神めぐりのコースです)【つづく】人気ブログランキングへ北千住七福神めぐり(その12) 元宿(もとしゅく)神社
2021年04月16日
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千住神社から北西方向に向かってこの道を歩きます。この道、墨田区から続く「墨堤通り」なんですね。このあたりまで墨堤通りとは知りませんでした。帝京科学大学(→→→こちら)の校舎が見えてきました。理系の頭の良い人が集まる大学なんでしょうね。千寿七福神が祀られてはいませんが、小さな神社がありました。立派な社号碑がある「元宿堰稲荷神社」(→→→こちら)てす。隅田川に近いこのあたりには「元宿堰」という取水堰や水路があったのでしょう。水とは関わりのありそうな神社ですね。瓦葺の小さな社殿でした。昭和29年(1954)創建だそうです。戦後のまだ物がない時代に建てられたのですね。稲荷神社なので神狐でした。この神社、土地の鎮守さまでもあるのですが、1926(大正15)年から1963(昭和38)年まで稼働し、当時火力発電所としては国内最大の出力を誇った千住火力発電所とも関係が深いそうで、「お化け煙突」と呼ばれていた4本の煙突に因んで、「旧千住四本煙突守護社」でもあり、発電所に関係する神事にも関わりがあったようです。そんなわけで、この神社の周辺の昔と今を比べてみました。確かにこの近くには千住火力発電所がありました。「今昔マップ on the web」(→→→こちら)より作成。この近くには、浮世絵師・葛飾北斎の風景画「富嶽三十六景」のひとつ、「武州千住」(→→→こちら)が描かれた場所として顕彰碑が建てられています。この絵をじっくり見てみると、水門の柱越しに見える富士が描かれおり、この地に水門が荒川(隅田川)の水を取り入れる施設があったことがわかります。(七福神めぐりのコースです)【つづく】人気ブログランキングへ北千住七福神めぐり(その11) お化け煙突、富嶽三十六景そして元宿堰稲荷神社
2021年04月15日
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境内の広い千住神社、社殿は参道のまだ先に。この神社は稲荷様と氷川様が合祀された神社であるため、稲荷信仰の神使である狐が参道を守っていました。参道の左手にある二本の銀杏の木、古くから夫婦銀杏として、縁結び・夫婦円満の御利益で親しまれてきたそうです。また木の間にある石橋は、神橋渡りができるようになっていました。こちらが七福神の「願かけ恵比寿」です。こちらが恵比寿様です。台座が回転するようになっています。男性は左へ、女性は右の方向に恵比寿像を3回まわして、祈願の内容によって定められた像の部位を白いハンカチで撫でて祈願するそうです。例えば、商売繁盛なら鯛、家内安全、合格祈願は頭、MoMo太郎が願かけしたのは、ボケ防止で恵比寿様の後頭部です。ということで、千住神社にお参りする時は、白いハンカチを忘れずに、でも、忘れた場合は社務所で買えますよ。ようやく社殿に着きました。東京大空襲によって旧社殿は焼失し戦後の昭和三十三年(1958)に再建されたそうです。扁額が横書きになっているのは、生活の欧米化が進んできた戦後だからなのでしょうか(七福神めぐりのコースです)【つづく】人気ブログランキングへ北千住七福神めぐり(その10) 「千住神社」の願かけ恵比寿
2021年04月13日
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いよいよ東京も「まん延防止等重点措置」が始まりますね。辛抱で「まん防」を乗り切るしかないのでしょうか。 さて、足立区唯一の郷社である千住神社(→→→こちら)が次の目的地です。 郷社とは明治時代に定められ昭和21年(1946)に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により廃止された「近代社格制度」(→→→こちら)による、神社の社格の一です。 ちなみに社格を上から言うと、最上位が伊勢の神宮で、その下に、官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社と続き、さらに府社=県社=藩社>郷社>村社さらにその下に無格社となるそうです。 そんなわけで、この界隈では一番大きな神社ということになるようです。たがら石碑もでかい。 「史跡八幡太郎源義家陣営の地」の石碑もありました。 永承六年(1051)、源義家は前九年の役で奥州征伐の際、荒川(現・千住大橋付近)を渡り当地に陣営して、神前に戦勝祈願したと伝えられているそうです。 これは先に参拝した白幡八幡神社と共通していますが、から、こちらの千住神社のご祭神は宇迦之御魂命(つまり稲荷神)と須佐之男命のニ柱。そして、白幡八幡神社のご祭神は誉田別命(応神天皇)です。 石碑に記されたこの神社の由緒です。 こちらは教育委員会が設置した千住神社の説明です。 ここから社殿までは結構距離があり、三基の鳥居がありました。 一の鳥居を抜けた右手にあったのは、防空壕。 第二次世界大戦中、アメリカ軍の空襲を避けて、この中に入って生き残った人もおられたのでしょうか。 しかし、東日本大震災は東北の太平洋沿岸を中心に多くの人々の命や財産を奪った自然災害ですが、戦争は日本に住む全国民を巻き込んで命や財産を奪った人災です。やっぱり二度とあってはいけないと強く心に思う次第です。 こちらは大正十二年(1923)に建立された富士塚と浅間神社です。 富士塚は昭和11年に再度建立されたのですね。しかし、東京の神社には富士塚って多いですね。 そして、富士塚の隣には、富士塚に負けない高さの「登山記念碑」がありました。 広い境内、あっちこっち見ていたら、まだ社殿へはお参りできませんね。 (七福神めぐりのコースです) 【つづく】 人気ブログランキングへ 北千住七福神めぐり(その9) 足立区唯一の郷社「千住神社」
2021年04月12日
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次の目的地は白幡八幡神社にある毘沙門天ですが、その前に国道4号線と墨堤通りの交差点にあったのが、千葉灸治院跡地の看板が目に入りました。 その横には、「坂本龍馬室 千葉サナ 千葉灸治院跡」という立派な看板とその説明板が、2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」を見ていた人ならご存知だと思いますが、千葉さな(佐奈)と言う人は、最初の坂本龍馬室(つまり奥さん)だった人だとか。 佐奈は、龍馬が剣術を学んだ北辰一刀流桶町道場の道場主千葉定吉の次女で、許嫁ということになっているようですが、ドラマでは結婚していましたね。 その千葉佐奈さんは、龍馬の死後、佐那は学習院女子部の舎監となり、その後、明治19(1886)年より、ここ千住の町で千葉灸治院を開業し、生計を支えながら暮らし、明治29(1896)年10月15日59歳で亡くなったそうです。 ちなみに、千葉灸治院はご子孫が継ぎ、昭和50年代まで続いていたそうです。 こちらが白幡八幡神社です。 源義家(→→→こちら)が奥州征伐に赴く際、渡裸川の渡し場に白幡を立て戦勝祈願をし、その白幡が名称の起源とされ、祀られることになっという由緒が伝わっているそうです。 ちなみに渡裸川(とらがわ)の渡し場とは、現在の千住大橋のやや上流にある渡し場で、現在の隅田川なのですが、古くは裸になって徒歩で渡った事から渡裸川と呼ばれる事があったそうです。 こちらが毘沙門天、毘沙門天は中国においては四天王のうち、武運・守護神とされているので、武門の棟梁、源義家に関連するここに祀られるのピッタリですね。 こちらが神社の扁額です。 (七福神めぐりのコースです) 【つづく】 人気ブログランキングへ 北千住七福神めぐり(その8) 坂本龍馬の許嫁が住んでいました。そして毘沙門天
2021年04月11日
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国道4号線を北の方へ向かって戻って歩くと河原稲荷神社に到着しました。こちらが社殿です。意外と新しい建物でした。国道4号線を拡幅した時に併せて造営したのかも。社殿の脇には目的の七福神のひとつ福禄寿様が鎮座されていました。どうやら、国道から入って来るのは裏のようで、こちらに大きな狛犬が。足立区で最大の狛犬だそうです。神社の説明書きでは、作者は不明ですが、浅草神社のそれと類似する特徴が見られることから、神社側では同じ石工の作と推測しているそうです。こういう石像にも作者の特徴があるのですね。ということで、こちらが正面の入口の一の鳥居ということですね。(七福神めぐりのコースです)【つづく】人気ブログランキングへ(追伸: 天皇制について思うこと)こういう神社というか神道の大元締めって、天皇陛下なんですね。そんな中で気になるニュースが。有識者会議、女性天皇賛否割れる 女系拡大には反対、慎重多数政府は8日、安定的な皇位継承策を議論する有識者会議(座長・清家篤前慶応義塾長)の第2回会合を首相官邸で開いた。皇室制度や歴史の専門家5人を呼んで初めての意見聴取を実施。男系男子に限定している皇位継承資格を女系に拡大する是非について反対か慎重な意見が目立つ一方、女性天皇については賛否が割れた。どうやら男系天皇というのと女系天皇っていうのは違うみたいですね。男系天皇を続けるなら、今の悠仁さまが早く結婚されて皇位継承資格を有する男性皇族の誕生が必要ですが、男子のお子様に恵まれない可能性もあるのでその対策も必要ですね。例えば、男系につながる男子の婚外子もOKとか(あくまでアイデアですから、すいません<m(__)m>)。男子皇族の方々の精子を冷凍保存しておいて体外受精もありとか(牛の人工授精か!)、そんな不謹慎な意見を言うMoMo太郎がこの有識者会議に呼ばれることはないですね(^^;)。それに合わせるように、このニュース。小室圭さん“金銭トラブル”説明の文書公表なんていうか、この人、どういうお立場の方と結婚するつもりなのか、理解されていないのかなと思いました。いずれにせよ、今の天皇は国民統合の「象徴」という存在なのですから、陛下はもとより皇族につながる人には国民の模範となるような振る舞いが求められるってことですね。北千住七福神めぐり(その7) 河原稲荷神社の福禄寿
2021年04月10日
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新型コロナの非常事態宣言発令で中止になった駅からハイキングの「北千住七福神めぐり」のコースを歩いているのですが、クリアした七福神は「弁財天」だけです。足立市場のすぐ脇を走る国道4号線(日光街道)です。すぐ近くには京成千住大橋駅があります。そして、南側の隅田川に向かって4号線を歩いて行くと、千住大橋です。銘板には「大橋」とだけありますが、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月に隅田川に架かる一番最初の橋として架けられたのが、この千住大橋。その時は大橋でよかったのですが、しかし、そののち大橋(今の両国橋)や新大橋が架けられたので、「千住の大橋」と呼ばれるようになったそうです。橋の横には「富嶽三十六景従千住花街眺望ノ不二」(→→→こちら)の説明板がありました。千住の花街より(従)眺望される富士を描いた葛飾北斎の浮世絵として有名なようです。ここに描かれているような大名行列も、きっとこの辺りを歩いたのでしょうね。そんな日光街道沿いの最初の宿場の千住で、奥州へ向かう松尾芭蕉も見送りに来た人々と別れた場所もここ大橋公園なんでしょうか。「奥の細道矢立初めの地」という石柱が建立されています。こちらにあるのは、「奥の細道矢立初めの碑」(→→→こちら)です。矢立とは、喫煙パイプのような形をした、筆と墨壷が一体となった昔の携帯用筆記用具。矢立初めとは、奥の細道の書き始めということですね。「おくのほそ道」の全行程を示した地図もありました。なお、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「おくのほそ道」と表記されているそうです。ちなみに「おくのほそ道(奥の細道)」というのは、「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という書き出しで始まる松尾芭蕉の紀行作品で次のような内容です。おくのほそ道(奥の細道)は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った旅行記である。全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って、元禄4年(1691年)に江戸に帰った。「おくのほそ道」では、このうち武蔵から、下野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、近江を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている。隅田川の河岸まで降りてみました。こちらは上流側て 東京電力隅田川送電橋が見えています。堤防のコンクリート壁には、バンクシーではなく与謝蕪村による芭蕉とその門人の曽良の姿が描かれています。この壁画に書かれているのは、「おくのほそ道」の一節で千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途三千里の思い胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。 行く春や 鳥啼魚の 目は泪これを矢立の初として、行く道なを進まず。という文章になります。ところで、この「行く春や 鳥啼魚の 目は泪」という句は何か不自然ですね。ここで鳥とか魚は、芭蕉を見送りに来ていた人の比喩であるとしても、五・七・五で区切ってある、俳句として「鳥啼魚の」で区切られると変なので、次の句とつないで「魚の目は泪」と解釈するのでしょう。それでも、不自然なのは、「魚の目は泪」であって、なぜ「魚の目に泪」でないのかということになります。「に」と「は」を書き間違えたということでないとすると、句の前の説明書き「離別の泪をそそぐ」から、芭蕉本人もまた見送りに来た人と同様に泪したのでしょう。ということで、MoMo太郎の解釈としては、「目は泪」なのは、芭蕉本人の目にも泪があったので、そのことを書くのに、芭蕉は主格の私を表現するために「に」ではなく「は」という助詞を使いたかったのではないでしょうか。ということで、多分、俳句の味わい方として、「別れを惜しんで、鳥は啼く、魚の、そして、私の目にも泪が浮かびました」ということになると思います。「千住大橋御上り場」とは、将軍家や日光門主など高貴な人々が利用していた舟の上がり場です。こちらは千住橋戸河岸の説明板です。千住宿は宿場であるとともに流通の町として賑わっていて、橋戸河岸には荒川や綾瀬川を利用する船が発着し、米穀や野菜、陶器などさまざまな物資が流通していたそうです。こちらは隅田川の下流側です。下流側のワーレントラスの橋は常磐線の隅田川橋梁です。(七福神めぐりのコースです)【つづく】人気ブログランキングへ北千住七福神めぐり(その6) 奥の細道矢立初めの碑
2021年04月09日
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旧日光街道を隅田川に向かって歩いてゆくと、かって「やっちゃ場」とよばれた青物市場のある通りに出ました。ここにあるのが、「千住宿歴史プチテラス」(→→→こちら)です。中の建物は、千住四丁目の元地漉紙問屋・横山家の内蔵(土蔵)を移設したものだそうです。立派な石碑も建立されていました。多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聞こえてくる場所(市場)から「やっちゃ場」と呼ばれるようになったのだとか。真ん中は千住宿歴史プチテラスで展示されている内容ですが、右側にあるのは屋号の看板。左側にあるのは、やっちゃ場で活躍していた投師についての説明です。こちらにも投師の説明がありました。投師とは 通称「投師」正式には出仲買商と言う。千住のやっちゃ場だけにあった商人形態である。店を持たず仲買人の店先を借り、セリに参加していち早く大八車に品物を積み東京市内の全市場へ駆けつけ売り捌くのである。やっちゃ場のセリはその為に夏は早朝三時から始まっていた。何が利幅があるかは情報が勝負である。昭和初期の投師は約百五拾人くらいである。市内の市場はこの投師の持込む青果物でかなりの部分が賄われていたと思われる。それだけ千住のやっちゃ場が巨大な市場であったと言う事であろう。大正・昭和初期のやっちゃ場のようすが描写された案内板もありました。市場開設は天正4(1576)年とも伝わっていますが、足立区立郷土博物館のホームページでは史料によれば、公的に市場の形をなしたのは享保20(1735)年でした。青物市場は神田・駒込と並び江戸の三大市場に数えられ、幕府の御用市場でもあったのです。こちらにあるのは、昭和5年当時の千住市場問屋配置図です。道路沿いには、屋号の看板とその屋号の由来を記した説明板も多く展示されていました。そして今は普通の住宅のようですね。京成電鉄の高架下を抜けると「千住宿 奥の細道」と題したポケットパークがありました。松尾芭蕉の奥の細道の出発地となった千住宿。松尾芭蕉の石像がありました。日光街道の道標も、そうか、千住の次の宿場は草加だったんですね。ポケットパークのすぐそばになるのが、「やっちゃ場」430年の歴史を引き継ぐ「東京都中央卸売市場足立市場」(→→→こちら)です。扱い量が増えて手狭になったそうなので、今では水産物専門の卸売市場です。青果物部門は昭和54年(1979)に舎人公園近くの足立区入谷に移り、北足立市場として新たに発足しています。(七福神めぐりのコースです)【つづく】人気ブログランキングへ北千住七福神めぐり(その5) やっちゃ場通り
2021年04月08日
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北千住七福神めぐりといいなが、なかなか七福神が登場しないと思いながら、仲町の家の向かいにある氷川神社(→→→こちら)にお参りすると「弁財天」の文字が。それほど広くはない境内に立派な社殿がありました。扁額も立派ですね。こちらに弁財天さまが祀られていました。岩窟の中に祀られているのが弁財天ですね。(七福神めぐりのコースです)【つづく】人気ブログランキングへ北千住七福神めぐり(その4) 仲町氷川神社の弁財天
2021年04月07日
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千住といえば、松尾芭蕉の矢立初めの地ですから、 「行く春や鳥啼魚の目は泪 是を矢立の初として」 街角にも松尾芭蕉の木像が置かれていました。 北千住にも東京藝術大学の校舎がありました。 細い路地の中にある「仲町(なかちょう)の家」の入口、多分、うっかり見落としてしまいそうです。「仲町の家」(→→→こちら)とは、足立区制80周年記念事業をきっかけとして平成24(2012)年度から始められた「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」(通称「音まち」)という市民参加型のアートプロジェクトでの活動の足場となる施設だそうで、音まちの活動の足場としているそうです。 戦前に建てられたこの日本家屋が「仲町の家」です。足立区にアートを通じた新たなコミュニケーション(縁)を生み出すことをめざす「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」という横文字には似合わない建物を利用している所が、足立区のセンスのいいところなんでしょうか? ちなみに、「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」には、先ほどあった東京藝術大学音楽学部・大学院国際芸術創造研究科も参加しているそうです。 (七福神めぐりのコースです) 【つづく】 人気ブログランキングへ 北千住七福神めぐり(その3) 仲町の家
2021年04月06日
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JR東日本の「駅からハイキング」(→→→こちら)で予定されていたのですが、新型コロナウイルスに対する緊急事態宣言のため中止となった「新春の北千住界隈で福めぐりと和文化にふれる」のコースを歩いてみました。北千住駅前通りの商店街を進んで行きます。数字の「1,010」で千住と読むのですね。北千住駅前通りの北側が宿場町通りと呼ぶそうです。この道が旧日光街道になりますが、駅前通りを境に、南側から千住ほんちょう商店街という名前に変わっていました。こちらを進んで行きます。千住ほんちょう通りから西側を見ると、立派な赤い門が見えます。この赤い門のお寺が三宮神山大鷲院勝専寺(→→→こちら)です。赤い門が目立つので、「赤門寺」という通称があるそうです。ちなみにこの赤門、普段は閉じられており閻魔さまのご縁日がある1月と7月にだけ開門するのだそうです。鐘楼は当初安永4年(1775)に建設され千住地区の時の鐘として、役立っていましたが明治に入って破損し明治24年(1981)再建されたそうです。またさらに鐘は昭和20年(1945)戦時中の金属供出で失われたため長く鐘楼だけになっていましたが昭和34年(1959)檀家及び地元有志の募金で再鋳されたそうです。こちらにお寺の由緒が記されていました。また、開基した新井政勝の父・新井政次が荒川(現・隅田川)に網を投じたところ、千手観音像が網にかかったのが寺の由緒だとも伝わっており、この千手観音は今でも勝専寺の寺宝となって残っていて、さらにそれが地名「千住」の由来といわれているそうです。本堂は明治39年(1906)の建立でコンクリート造で化粧レンガで覆われ近代的な建物です。この紋所、徳川家忠・家光・家綱の利用があった徳川家の御殿が造営されたことと関係あるのでしょうか。【つづく】(七福神めぐりのコースです)人気ブログランキングへ【追記:夫婦別姓について】一昨日のMoMo太郎の「夫婦別姓について」の記事に関して、アメリカ在住の方から、時差の関係でしょうか、遡って一日遅れで、コメントをいただいきました。どうでもいいようなMoMo太郎の意見に対して、わざわざ遡ってまで、コメントをいただいたので、この方は「夫婦別姓」について、真剣な意見をお持ちのようなので紹介させていただきます。(全体のコメント)夫婦別姓、考えるときだと思います。まあ、それは、戸籍と言う考えに立った男性の視点ですね。同じ姓の下でも、頃はバラバラで家庭崩壊もありますし・・・。性が違っても、家族とは何かをしかり考えて変える勇気を持ってほしいです。(MoMo太郎の感想)まあ、それは、戸籍と言う考えに立った男性の視点ですね。"戸籍と言う考えに立った男性の視点ですね。"という意味が理解できません。この方はアメリカにお住まいの方ようで、すでに国籍もアメリカなのかもしれませんが、戸籍という制度で国民を管理しているのは、おそらく日本だけかもしれませんが、戸籍とは、国民一人一人を(日本国内外の居住に関係なく)出生関係により登録する制度で、かっては徴兵や徴税と言う目的もありましたが、今では、日本国籍を有する者のほとんどについて、氏名生年月日などの基本情報と、婚姻などの事跡が記録されており、パスポートの発行や相続人の確定などのために使われている、行政目的の制度であり「戸籍と言う考えに立った男性の視点」という意味が理解できません。それとも戸籍をやめてアメリカのような住民登録制度にすべきということなのでしょうか?同じ姓の下でも、頃はバラバラで家庭崩壊もありますし・・・。姓が同じだから、家庭崩壊しないといったことではなく、日本では家族という単位で、国民を記録しているので、家族のそれぞれの人間は同じ姓でないと不便ではないかということです。また、組織として強固にするためには、山口組系〇〇組ではないですが、同じ名前にするということで同じグループの団結心は高まりやすいと思っています。性が違っても、家族とは何かをしかり考えて変える勇気を持ってほしいです。「性が違っても」というのは同性婚という意味なんでしょうか、それとも「姓が違っても」という誤字なんでしょうか。「変える勇気を持ってほしいです」というのはどういう根拠で勇気を持てばいいのでしょうか。例えば、今までの制度に不備があって困っているとか、制度をこうしたらもっと女性の国会議員が増えるとか、今の制度ならSDGs(持続可能な開発目標)のジェンダー平等を達成できないというのに対して、効果があるんだという説明がないと、「変える勇気」というか「変える論理的な根拠」がわかりません。ということで、もう少し、わかりやすく論理的に説明いただけると、ありがたいですね。北千住七福神めぐり(その2) 勝専寺の赤門
2021年04月05日
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JR東日本の「駅からハイキング」(→→→こちら)で予定されていたのですが、新型コロナウイルスに対する緊急事態宣言のため中止となった「新春の北千住界隈で福めぐりと和文化にふれる」のコースを歩いてみました。やってきました北千住駅。北千住駅には、JR常磐線のほか、東武伊勢崎線、東京メトロ日比谷線、千代田線、つくばエクスプレスの乗換駅となっているので、ホームも沢山ありますね。北千住駅の駅ビル、大きいです。こちらは駅のそばの「マルイ」、〇I〇Iのロゴ、ひっくり返して、シアター1010(センジュ)(→→→こちら)、となりますね。駅前のこの通りを歩いて行きます。しかし、荒川が氾濫するとこのあたりみんな水浸しですね。(七福神めぐりのコースです)【つづく】人気ブログランキングへ北千住七福神めぐり(その1) 北千住駅から
2021年04月04日
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2020年11月28日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して神田から千駄ヶ谷までを歩いた報告です。千駄ヶ谷一帯の総鎮守、鳩森八幡神社です。この神社の由緒は古く、神亀年間(724年 - 729年)に創建された社されたそうで、貞観2年(860年)、慈覚大師(円仁)が村民の懇請によって神功皇后・応神天皇・春日明神の像を作り添え、八幡宮として奉ったことが当社の縁起だそうです。また鳩森のいわれは、「江戸名所図会」によると、「往古、此地深林の中に時として瑞雲現じける。又或時、碧空より白雲降りて雲上に散ず。村民怪しむで彼の林の下に至るに、忽然として、白鳩数多、西をさして飛び去れり。依って此の霊瑞を称し、小祠を営み名づけて『はとのもり』と云ふ。」と伝わっています。こちらが拝殿です。こちらは能楽堂。薪能が毎年開催されているそうです。そして、有名なのは、都指定有形民俗文化財「千駄ヶ谷の富士塚」です。寛政元年(1789)の築造と言われ、円墳形に土を盛り上げ、富士山の溶岩は頂上近くのみ配されています。「六根清浄お山は晴天」と歌いながら富士登山を始めます。山裾には里宮(浅間神社)があり、まずはここに参拝します。七合目の洞窟には身禄像があります。眼下には先ほどお参りした里宮が見えました。そして、山頂にある奥宮です。神社の拝殿と本堂が見えました。登頂の喜びを感じます。神社の近くにある日本将棋連盟から奉納された大駒を納めた将棋堂。将棋に強くなりたい人の守護神です。こちらの鳥居から出て、千駄ヶ谷駅に向かいます。ゴールのJR千駄ヶ谷駅です。オリンピックに向けて駅舎も改築されて新しくなっています。かつて2番線ホーム中央の水飲み場にあった将棋の王将の駒を模したモニュメントは、改築にあわせて駅構内の通路沿いに移設されていました。【了】人気ブログランキングへ東京横断(その12) 千駄ヶ谷の富士塚
2021年02月10日
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2020年11月28日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して神田から千駄ヶ谷までを歩いた報告です。そして、見えてきました国立競技場。周辺(明治神宮外苑)との調和を目指した『杜のスタジアム』のコンセプトを掲げ、建築家の隈研吾氏がデザインしたこの建物。「自然に開かれた日本らしいスタジアム」だということですが、美的感覚が低いMoMo太郎にはよくわかりません。2F幹事長やガースー総理、そしてアスリートの皆さんの願うオリンピックが開催できて、この建物が使えるといいですね。そして、国立競技場の前にあるホープ軒(→→→こちら)のラーメン、久々に食べてきました。やっぱり美味しかったですね。【つづく】人気ブログランキングへ東京横断(その11) 国立競技場、使えるといいね
2021年02月09日
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2020年11月28日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して神田から千駄ヶ谷までを歩いた報告です。明治天皇とその皇后、昭憲皇太后の.遺徳を永く後世に伝えるために造成された明治神宮外苑。洋風庭園らしく噴水があります。噴水の後ろにあるのは芝生の広場、軟式野球場が6面あって草野球でも使われていますが、ヤクルトスワローズの選手が試合前の練習をしている時もあります。そして奥に見える建物が聖徳記念絵画館。明治天皇にまつわる幕末・明治期の政局を描いた絵画を中心に展示されている神宮外苑のシンボル的な建物ですが、中に入ったことはありません。そしてこちらには、東京ヤクルトスワローズの本拠地であり、また全日本大学野球選手権大会の舞台となるなど大学野球の「聖地」である神宮球場。甲子園には出られなかったけど、神宮で野球をしたいと思っていたのですが、早稲田とか法政といった私立大学では選手層も厚く、とてもレギュラーになれないと思い、一浪して東京大学へ入学して神宮出場を果たしたMoMo太郎の職場の先輩がいました。【つづく】人気ブログランキングへ東京横断(その10) 明治神宮外苑
2021年02月08日
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2020年11月28日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して神田から千駄ヶ谷までを歩いた報告です。明治神宮外苑の入り口でもある青山通りから奥の建物(聖徳記念絵画館)を見ると、絵画館が中心になるように銀杏(いちょう)の並木が道路に沿って植えられていて、よく映画やドラマのロケにも使われていますね。紅葉の時期にはやっぱり多くの観光客が集まって、この時、みんな新型コロナウイルスを交換していのでしょうかね。やっぱり、みなさん写真を撮られているますね。確かに、ちょっと写真に残したい風景です。インスタ用の撮影でしょうか。行列のできるちょっと高級なハンバーガー店。銀杏並木に関する説明板も設置されていました。この銀杏並木のある明治神宮外苑は、新宿区と港区にまたがる洋風庭園で、明治天皇とその皇后、昭憲皇太后の.遺徳を永く後世に伝えるために、全国国民からの寄付金と献木、青年団による勤労奉仕により、造成されたもので、大正15年(1926)10月に明治神宮に奉献されたものです。聖徳記念絵画館や神宮球場があり、この銀杏並木の一部を東京都が、国立競技場は日本スポーツ振興センターが管理していますが、残りは宗教法人明治神宮が管理しています。【つづく】人気ブログランキングへ東京横断(その9) 銀杏(いちょう)並木
2021年02月06日
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2020年11月28日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して神田から千駄ヶ谷までを歩いた報告です。青山通り沿いに歩いていきます。青山通りを歩くのは・・・、えっ、30年ぶりだったかも。とらや赤坂店がありました。虎屋の建物って高いビルだと思っていましたが(→→→こちら)、2018年にリニューアルしたんですね。でも、のれんは昔のままのような。青山一丁目交差点にある青山ツイン、2棟の高層ビルが印象的で、このあたりで唯一の高層建築だと思っていましたが、後ろ側にもっと高いビルが建っていましたね。青山二丁目の交差点から延びるいちょう並木は余り変わっていないですね。というわけで、いちょう並木から明治神宮外苑の中を通って千駄ヶ谷に向かって行きます。【つづく】人気ブログランキングへ東京横断(その8) 青山通り
2021年02月05日
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2020年11月28日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して神田から千駄ヶ谷までを歩いた報告です。赤坂見附から青山通りを渋谷の方へ向かって歩いて、豊川稲荷東京別院にやって来ました。豊川稲荷は正式名を「宗教法人 豊川閣妙厳寺」と称し山号を圓福山とする曹洞宗の寺院で、狐を祀った神社ではありません。お祀りしているのは吒枳尼天(だきにてん)という仏教の神様で、白狐にまたがった天女の姿をしているそうです。というわけで、入り口の門は山門と呼びます。豊川稲荷といえば愛知県豊川市が本社のようなものですが、この東京別院は、その豊川稲荷 妙厳寺の唯一の直轄別院(飛び地境内)という位置付けになるそうです。稲荷ということで、狐が信仰のシンボルになっています。狐は神様の眷属(けんぞく)なのです。つまり神様の使者という意味だそうです。神社に置かれている狛犬と違って、口になにか加えていますね。お寺ですが、本堂と呼ばずに本殿と呼ぶそうです。お寺ですが鳥居。狐さんが加えているのは、宝玉になるのでしょうか。こちらは、竹輪?いえ巻物ですね。これはお経ということでしょうか。こちらは奥の院になります。【つづく】人気ブログランキングへ東京横断(その7) 妙厳寺(豊川稲荷)東京別院
2021年02月04日
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2020年11月28日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して神田から千駄ヶ谷までを歩いた報告です。山王坂を下ると、日枝神社です。この柱が垂直で笠木も貫も円柱。そして、笠木(かさぎ)の中央に棟柱を建てて合掌形の破風を架した鳥居は山王鳥居と呼ぶそうです。この急な石段は男坂と呼ばれています。そして、この男坂を登ります。神門です。日枝神社(ひえじんじゃ)、江戸城の鎮守として徳川将軍家の崇敬を受け、現在は皇居の鎮めとして敬われています。日枝神社とは山王信仰に基づき比叡山麓の日吉大社より勧請を受けた神社の社号だそうです。また、日吉神社あるいは山王神社などという社名の神社も同じ山王信仰に基づいて比叡山麓の日吉大社の系列になります。また山王信仰というのは、比叡山に鎮まる神を指したものだそうです。日枝神社では、江戸三大祭りのひとつ山王祭が隔年の6月に行われています。ちなみになぜ隔年かというと、日枝神社の氏子町の中には神田明神の氏子を兼ね神田祭にも参加していた町があり、神田祭と同時開催だと祭礼への費用が大変だからと聞いています。まあ、警察も両方のお祭りがあると交通規制や警備が大変だから、案外、警視庁のお偉いさんのお達しだったのかも。ちなみに江戸三大祭りとは山王祭のほかに、神田明神の神田祭、そして富岡八幡の深川祭ですが、深川祭って毎年やっていますね。七五三の時期だったので、子供と一緒にお参りしている家族連れが多かったのですが、このように碁盤の上から飛び降りる遊びが流行っているようでした。本当は「碁盤の目のように筋目正しく育つ」「ひとり立ちする」「運を自分で開く」という願いが込めて行われる皇室の儀式「碁盤の儀」(→→→こちら)に倣ったものですね。皇室の真子さま、佳子さま、愛子さま、そして悠仁さまもこういう儀式をなされたのでしょうが、中には願い通りに筋目正しくとはならない方もいるみたいですね。仮に拙の愚娘が、パラリーガルの身分でニューヨーク州の弁護士資格を取得するためにアメリカに留学している輩と結婚したいと言ったら、結婚をあきらめるように日枝神社に願をかけに来るか、ニューヨークのコンビニでアルバイトしながら、生活費を稼ぐように言い渡すと思います。参拝を終えて外堀通りを赤坂に向います。【つづく】人気ブログランキングへ東京横断(その6) 日枝神社
2021年02月03日
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2020年11月28日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して神田から千駄ヶ谷までを歩いた報告です。皇居を出ると目の前は霞が関。レンガ造りの法務省の建物が見えました。こちらは皇居の桜田門。そして、国会議事堂。コロナ禍の中でも国会はズームでリモート会議はしないのでしょうね。まさに国のために命をかける皆さんなんですね。まあ、カーズー以下、皆さんの本業は「会食」なんでしょうけど。そういうみなさんのオフィスの衆議院議員会館です。そして、そういう皆さんの親玉のオフィス、総理官邸です。いずれ、この国の将来もこの山王坂の坂道を転げ落ちていくのかも。という感じで、霞が関から永田町まで一気に歩き抜けました。【つづく】人気ブログランキングへ東京横断(その5) 霞が関と永田町
2021年02月02日
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2020年11月28日に開催された、JR東日本が開催する「駅からハイキング」(→→→こちら)に参加して神田から千駄ヶ谷までを歩いた報告です。内堀通りぞいを霞ヶ関方面に歩いていくと、ランナーの集団が。皇居ランニング、略して「皇居ラン」(→→→こちら)の人達です。ちなみに反時計回りに皇居を一周するお約束(?)になっているようてす。ここが二重橋だよ、オッカサン。二重橋という名称の橋があるわけではなく、奥に見える鉄橋と手前の石橋の総称だそうで、奥の鉄橋は正面鉄橋、手前の石橋は正面石橋というそうです(→→→こちら)。ここは凱旋濠に、明治時代に日露戦争の先勝を記念して、日比谷濠が埋められ凱旋道路(現内堀通り)が造られ、分断された濠の桜田門側が凱旋濠と呼ばれているそうです。環境省皇居外苑管理事務所による特別史跡江戸城跡の案内板がありました。環境省の本省に近いのに管理している事務所は別にあるのですね。【つづく】【追伸】2020年11月1日~2021年1月31日までのアクセス数11月は一日当りのアクセス数を6,000近くまである日もありました。12月は2,000アクセス以上の日が続き、12月末から1月中旬は2,000アクセスを割り込む日が続きましたが、1月後半は2,000アクセスを越えるようになってきました。これからも多くの人に閲覧してもらえるように頑張りたいと思います。人気ブログランキングへ東京横断(その4) 皇居ラン
2021年02月01日
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