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現代人は「お金を稼ぐことが一番大切なこと」だと思い込んでいます。お金があれば夢や希望を叶えることが出来ます。お金があれば「自由」さえも手に入れることが出来ます。お金があれば人を支配することも出来ます。だからお金を稼ぐことに熱心です。本来、国民の幸せを願って政治をするべき政治家もお金儲けに熱心です。政治家個人もまた政党もです。そして、国民にも「もっと働け、もっと儲けろ」というような圧力をかけています。テレビもまたそれを後押ししています。学校の勉強も、子どもが将来お金を稼げるようになるためのものです。子どもの成長を支えるためではなく、生き残り競争に勝つために子どもを勉強に追い立てているのです。本来、「お金を稼げるようになる」というのは「学び」の副産物であって、子どもの成長を支えるべき教育の場でそれを目的にしてはいけないはずなのですが、現代人は学ぶことの本来の意味や目的が分からなくなってしまっているのです。その結果、お金を稼がない専業主婦や、子どもと一緒に生活しながら一生懸命に子どもの成長を支えようとしているお母さん達の社会的地位が非常に低くなってしまっています。お母さん自身もそんな自分の状態を否定的に捉え、子どもがまだ「お母さん」を必要としている時期なのに、「子どもの成長」よりも「お金」や「自己満足」のために仕事に出ている人や、出ようとしている人がいっぱいいます。また国もそれを後押ししています。現代社会では「人間を育てる行為」よりも、「お金を稼ぐ行為」の方が価値があるのです。その結果、「子どもの育ちを支えるための場」も、「子どもの育ちを支えようとする大人」もどんどん減ってきています。でも、そのことに問題を感じている人は多くありません。でも、社会が「お母さん」を大切にしなくなり、お母さん達が「お母さんであること」を止めたら、社会は崩壊してしまうのです。人類は未来を失ってしまうのです。実際、今どんどん人間関係や社会の状態がおかしくなって来ています。子ども達の状態もおかしくなって来ています。「善悪の判断が出来ない若者」や、「精神的に自立できない若者」や、「人の気持ちが理解出来ない若者」も増えて来ているような気がします。子どもに「生命」を与えたのも、「言葉」を伝えたのも、「人間らしさ」を伝えたのもみんな「お母さん」なんです。人類はそのつながりに支えられて何十万年も生き延びてきたのです。歩き方や、感じ方や、自分を表現する方法の基本を伝えたのも「お母さん」です。これのどこが大したことがないのですか。イクメンパパもいますが、それでもまだまだ「オレが稼いできて、養ってやっているんだ」と威張り、子育てを手伝おうとはしないお父さんもいっぱいいます。また、そんなイクメンパパにも出来ないことがあります。それは、子どもに「安心」や「精神的な支え」を与えることです。子どもは本能的に、お父さんではなくお母さんに「安心」や「精神的な支え」を求めるのです。特に、「人間らしさ」が育っている7才頃まではその傾向が強いです。これは「大人の都合」ではなく、大人や社会の価値観とは無関係な「子どもの都合」なんですからどうしようも出来ないのです。大人が子どもに合わせるしかないのです。以前、本のタイトルは忘れましたが、「女性は妊娠・出産・子育てを通して賢くなる」という内容の本を読んだとき、「女性は子育てをしているとバカになると考えている人がいっぱいいる」というようなことが書いてありました。著者は、それは全くの間違いで、むしろその逆に、女性は妊娠・出産・子育て賢くなっていると書いていました。実は、女性は妊娠・出産・子育てを通して、それ以前とは、「脳の使い方」が変わるらしいのです。簡単に言うと、右脳と左脳の結合が高まり、より総合的、複合的、相対的に物事を見ることが出来るようになるのです。そのため、それ以前には「当たり前」であったことが「当たり前」ではなくなります。「分かっていた」と思っていたことが、実は「分かったつもりになっていただけだ」ということに気付き始めます。想像と現実の違いが分かり始めます。自分の頭で考え、自分の感覚で感じ始めます。心や、感覚や、からだの使い方もそれまでとは全く変わってしまいます。そうでないと目の前の子どもに対応出来ないからです。それまでは、「見かけ」を繕って建前だけで生きていることが出来ましたが、子育てをしていると自分の本当の姿と向き合わさる終えなくなります。見栄や体裁を繕っている余裕などなくなります。流行を追い求めることも困難になります。また、「自分自身の育ち」と向き合ったり、それまで考えたこともなかったような、「生命のこと」、「食べ物のこと」、「平和のこと」、「自然のこと」、「未来のこと」などを考え始めます。だから苦しいのですが、人間や社会が「人間にとって本当に大切なこと」を忘れないためには、「子どもという人間の原点」に向き合う必要があるのです。その最前線で頑張っているのが「お母さん」です。
2024.06.15
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随分前から、「言葉を理解するのが困難な子」が増えてきました。一人でテレビを見て、一人でゲームをして、一人でおもちゃで遊んで、お母さんやお父さんからは「ああしなさい」「こうしなさい」という指示命令ばかり受け、学校でも自分の考えを言わせてもらえず、ただ静かに聞いて覚えるだけの生活しか送っていなければ、必然的に、「他者とコミュニケーションする能力」は育ちませんよね。それでも本をいっぱい読んでいるのなら、本を読むことで「コミュニケーションするための言葉」を学ぶことが出来るのですが、残念なことに最近の子は本も読みません。少し昔の子は「マンガ」は読みましたが、最近の子は「マンガ」ではなく「アニメ」ばかりを見ています。ちなみに、「マンガ」は能動的に読まないと理解出来ませんが、「アニメ」は受動的に見ているだけで楽しむことが出来ます。そのため、さらに言葉を学ぶ機会が減ってしまっています。そして、今ではそれが一般的な状態になってしまっています。(英語のアニメを見て英語を覚えるのは難しいですが、英語で書かれたマンガを読んで英語を覚えるのは比較的楽だと思います。)そういう生活をしているためか、最近の子ども達は「自分の言いたいこと」は(テレビのように)一方的に話すのですが、肝心の、その「言いたいこと」がよく分からないのです。相手に理解できる言葉で話すことが出来ないからです。でも、そのような状態の子は、「通じていない」ということも理解できまないようです。「通じていない」ということが理解できているのなら、「通じる言葉」を工夫しようとするのでしょうが、「通じていない」ことも理解できていないので、「相手が無視している」という受け取り方をしてしまうのです。昔、群れて遊んでいた子どもたちはその群れの中で「相手に通じる言葉」を学ぶことが出来ましたが、一人で遊んでいるだけの子にはその学びの場がありません。子ども同士の群れがなくても、親子や家族の対話がいっぱいあれば大丈夫なんですが、最近ではそれも難しい家族が普通になってきてしまっています。言葉が育っていない子どもたちは、気持ちが伝わらなかったり、思い通りにならないことがあるとイライラします。待つことも出来ません。自分の言いたいことは一方的に話しますが、人の言葉には耳を傾けません。「自分との対話」も出来ません。そのため、「それはどういう意味なの」「君は何を言いたいの」と聞いても答えることが出来ません。意味もない知識は山のように持っていますが、その知識の使い方を知りません。みんな、ゲームやテレビといった「現実世界とはつながっていない世界」からの受け売りだからです。教科書で学んだ知識も同じです。テレビやゲームや学校で学んだ「宇宙」という言葉と、満天の星空を見上げて学んだ「宇宙」という言葉は同じではないのです。最近の子は、そんな「空っぽの言葉」ばかりを学んでいるので、自分の心を支えるための「自分の言葉」が育たなくなってしまっているのです。でも、「子どもの心」は「言葉の成長」の成長と共に育つようになっているのです。「心育て」をするためには「言葉育て」をするしかないのです。昨日書いた「感覚育て」もまた「言葉育て」とセットにしないと進みません。「温かい」という感覚は「温かい」という言葉とセットにすることで、その感覚が自分の中に定着して行くからです。そして、その過程で心も育って行くのです。でも、最近の子は「知識としての言葉」はいっぱい持っているのですが、「自分の体験とつながった自分の言葉」を持っていないので、「自分が感じたことや考えたこと」を人に伝えることが出来ないのです。「なんでみんな自分の事を分かってくれないの!」と思っている子は多いと思いますが、だからといって、他の人に伝わるように話すことが出来ないのです。幼い子はそれで「かんしゃく」を起こすのですが、大人になってもそのままの状態の人が多いのです。そのような状態の人は、自分の感覚や、思考を支えてくれる「自分の言葉」を持っていないのです。そしてそれは、「自分の心」を持っていないということでもあるのです。「受動的に周囲に反応するだけの心」は持っているのですが、「能動的に感じ、考え、行動しようとする心」を持っていないのです。「自分の思考や心を支えてくれる自分の言葉」は、学校の授業などでは学ぶことが出来ません。「言葉」は「言葉を持っている人」から受け継ぐしかないのです。だから子ども達を「自分の言葉を持っている人」と出会わせてあげて欲しいのです。そうすれば、お母さんやお父さんが「自分の言葉」を持っていなくても、子どもは「自分の言葉」を育てることが出来るのです。
2024.06.14
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あと、人の心は「感覚の働き」と密接につながっています。美味しいものを食べると嬉しくなります。心がウキウキします。でも、まずいものを食べると、気分が下がります。イライラしている時でも海や野山に行って自然に触れると心が落ち着きます。子ども達も、狭い部屋の中にいる時はケンカばかりしているのに、家から出て外の風に吹かれたり、森や野原に行くとあまりケンカをしなくなります。美しいものを見ていると心が落ち着きます。かわいいものを見ているとハッピーになります。大好きな人に触れられれば心もからだも緩みますが、大嫌いな人に触れられれば、心もからだも固まります。こういうことは皆さん普通に体験していることだと思いますが、このようなことが起きるのも、「感覚」がちゃんと働いてくれているからなのです。人間だけでなく全ての生き物は「感覚の働き」を通して「自分が生きている世界」とつながっています。生物の内側と外側の境界にあって、中と外のやりとりを行っているのが「感覚の働き」なんです。また、自分の「心」と「からだ」をつないでいるのも感覚の働きです。からだが辛い時には心も辛くなります。心が軽い時にはからだも軽くなります。目を閉じていても動けるのは、「からだの動き」を感覚の働きが心や意識に届けてくれているからです。だから「からだ育て」をする場合にも、「心育て」をする場合にも「感覚の働き」に意識を向けるべきなんです。というか、「心」と「からだ」を別々に育てることは出来ないのです。怒鳴り声ばかり聞いて育った子の感性は鈍くなります。心を守るために感覚を閉ざす癖が付いてしまうからです。でも、感覚を閉ざすことで心が傷つくことを避けることは出来ますが、「心が育つために必要なもの」も入らなくなってしまうため、「心の育ち」も遅れることになります。優しい声を聴いて育った子は、色々なことに興味を示すようになります。心が開くからです。水や風や鳥などの「自然の音」に触れながら育てば豊かな感受性が育つでしょう。日本人の感受性の豊かさは、日本の自然の豊かさとつながっています。機械の音ばかり聞いて育っていれば、心もからだも固くなるでしょう。ビルのような直線ばかりを見て育てば、自然を感じる能力が鈍くなるでしょう。幼い時から「良いもの」をいっぱい見せていると、「良いもの」と「悪いもの」との区別が付くようになります。逆に「悪いもの」ばかり見て育てばその区別が付かなくなります。人間に対しても同じです。実は「感覚を育てること」は「心を育てること」と直結しているのです。ちなみに、モンテッソーリ教育もシュタイナー教育も「感覚育て」を非常に大切にしています。ただ、その感覚の対象が大きく異なります。そのため、「心の育ち」にも違いがあるような気がします。これはあくまでも私個人の印象なんですが、モンテッソーリ教育では「理性的な心」が育つような気がします。シュタイナー教育では「人間的な心」が育つような気がします。
2024.06.13
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現代人は、あまり「心」について語りません。「様々な能力を育てる」ことをウリにしている幼児教育はいっぱいありますが、「心を育てる」ことをウリにしている幼児教育はあまりありません。幼稚園でも「心育て」を全面に出している所は聞いたことがないし、あったとしても、そんなところは胡散臭くてみんな警戒してしまうでしょう。スポーツが好きな人は「スポーツで心を育てる」などというようなことを言いますが、実際にはそのスポーツで心を壊してしまう人もいっぱいます。「心ある人」が子どもにスポーツを教えれば、「子どもの心育て」に役に立つのかも知れませんが、「心ない人」が、スポーツの指導をしたら「子どもの心の育ち」が阻害されてしまのです。実際、運動部内でのイジメや、暴力行為や、麻薬などの話しは珍しくありません。平気で「根性を育てる(鍛える)」などという人は、「心」について考えた事なんてないのでしょう。つまり、スポーツ活動そのものが「子どもの心」を育てているのではなく、スポーツの指導を通して「指導者の心」が子どもに伝わっているだけのことなんです。そしてこれは「子どもの学び」全てにおいて言えることです。算数の学びを通して、「子どもの心」を育てることが出来る人もいます。歴史や科学の学びを通して「子どもの心」を育てることが出来る人もいます。「宗教」を持ち出さなくても、「道徳」を持ち出さなくても、「心」について語らなくても、「心育て」は出来るのです。ただし、それが可能になるためには、先生が「心」についてよく理解している必要があります。逆に「心」のことなんか考えたこともない人が「心育てを目的とした道徳教育」などをすれば、「子どもの心」を育てるどころか逆に「子どもの心の育ち」を阻害してしまうでしょう。シュタイナー教育ではこのような考え方を大切にしていますが、他ではあまり聞いたことがありません。下の子や弱い子に対して暴力的な行為をする子に対して「優しくしなさい」と怒鳴っているお母さんはいっぱいいますが、このようなお母さんは「優しくしなさいと怒鳴れば子どもは優しくなる」と思い込んでいるのでしょうか。人間はみんな「心」を持っていて、「心は大切なものだ」ということを知っているはずなのに、なぜか表だって「心」について語ったり、考えたりしようとしないのです。子育ての相談でも、「言うことを聞かない」、「勉強をしない」、「ゲームを止めない」などの子どもの行動のコントロールの仕方ばかり聞いてきます。そして、「子どもの行動」の背景にある「子どもの心」には目を向けません。でも、アメとムチを使って子どもの行動をコントロール出来るようになっても、子どもの心が育っていなければ、子どもが思春期を迎える頃に子どももお母さんも困ったことになってしまうのです。それは「自立できない」という形で表れます。また、「子どもの心」は「お母さんの心」との触れ合いで育ちます。「心育て」など意識しなくても、子どもはお母さんとの関わり合いを通して、自然と「お母さんの心」を吸収して「自分の心」を育てているのです。それは「言葉の学び」と同じです。実は、「言葉が育つ時期」と「心が育つ時期」は一緒なんです。というか、「言葉育て」は「心育て」でもあるのです。でも、そんな大切な時期に「シネ」「コロスゾ」といいった殺伐とした言葉ばかり学んでいる子ども達がいっぱいいます。そのような状態に「まだ意味が分かっていないのだからいいんじゃないですか」と言う人もいますが、子どもにだって「シネ」「コロスゾ」という言葉と「大好きだよ」「仲良くしようね」という言葉の違いぐらい分かります。そんな「心ある人」との関わり合いを通して「子どもの心」が育つはずの時期に、心を持たないスマホやテレビやゲーム機とばかり関わっていたら「心」が育つわけがないのです。現代人は「心」について考えません。心について語りません。その大きなきっかけになったのが「オーム真理教事件」です。あの事件で人々の「心」に対する扱い方が全く変わってしまいました。公民館などで講座を主催する時でも「子どもの心を育てる」などというようなタイトルは使えなくなりました。私も「タイトルを変えてくれ」と言われたことがあります。あの強烈な事件で、「心について考える=宗教の話」という先入観が定着してしまったのです。そして、みんな「心育て」ではなく「能力育て」の話ばかりするようになりました。でも、「オーム真理教事件で主導的だったのは勉強が出来る高学歴の人が多かった」という事には、目を向けません。
2024.06.11
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昨日、夕方6:00から「たけしの日本教育白書」という番組をやっていました。私も、ちょっと興味があったのでつけてみたのですが、“テーマは品格”などと始まったので、“こりゃ、見る必要ないな”と思ったのですが、せっかくだからと最初の子どもたちのイジメに関する本音トークだけ見てみました。子どもたちは、いじめたことがあるか、いじめられたことがあるか、イジメをどんな風に考えるか、などということを自由に話していました。でも、そこで出てきたのは私達が持っている“可愛い子どもたち”という印象とはまったく違う、ものすごくすさんだ子どもたちの現実でした。タケシも“あれは大人の言葉だよ”などというようなことを言っていました。そして、そのあまりに子どもらしくない言葉に大人たちはオロオロしているようでした。“イジメは楽しい”と語る子ども、それを別室でモニターで見て泣き出す親、私に言わせれば、“何を今さら”と思うのですがそこに子どもと大人の意識の大きなズレがあるのです。確かに昔もイジメはありました。でも、それは特定の強い悪ガキが弱い子どもをなぐったり、こき使ったりするものでした。いわゆる“ガキ大将”というやつです。私が中学の頃にも松田というやつがいて、放課後4,5人くらいの同級生を並ばせてなぐっていました。私は、“こんなの並ばなくってもいいんだよ、帰ろうよ”とみんなを誘うのですが、みんな松田が怖いみたいで、誰も帰りません。また、そういう気の弱いやつだけが並ばされるんです。すると松田は、“ほら、みんな自分の意志で残っているんだから邪魔するな”と言います。(彼は私には手を出さないのです。当時、私は腕力には自信がありましたから・・・)彼はいつも4,5人の不良グループで行動していました。そして、よその中学の不良グループともよくケンカしていたみたいです。昔の“イジメ”はこのようなものが多かったように思います。決まった悪ガキがいて、決まった子をターゲットに弱いものイジメをするという構図です。でも、今の子どもたちのイジメはこれとは全然違うようです。それは、昨日の番組をごらんになった方はお分かりになると思います。(私は、子どもたちの本音トークの後は見ていません。)私のイジメの感覚からすると、現代の子どもたちの“それ”はイジメではないのです。昨日の番組で、“いじめたことがある”と答えた子も別に“いじめっ子”ではありません。ごく、普通の子です。そして、“いじめたことがある子”は同時に、“いじめられたことがある子”でもありました。つまり、決まった“いじめっ子”も、“いじめられっ子”もいないのです。いじめっ子も、いじめられっ子もいないのにただ“イジメ”だけがあるのです。つまり、ギューギューの満員電車の中で誰が押して、誰が押されたのかというようなものです。隣の人がギューッと押してくるので、“押さないでください”というと、“しょうがねーだろ、俺だって押されたんだから”という感じです。満員電車の中では、誰も“自分が押した”という感覚を持っていません。押されたからそれを隣に伝えただけなんです。つまり、加害者の意識を持っている人がいなくて“みんな被害者”の集団なんです。それともう一つ、現代のイジメの大きな特徴は“うざい”、“むかつく”、“くさい”といった、非常に生理的な基準でそのターゲットが決まってしまうことが多いということです。そしてゴミを捨てるような感覚でその対象を排除しようとします。そこに、悪意などないのです。ただ、汚いもの、目障りなもの、臭いものを処分するだけのことなんです。子どもたちのホームレス狩りも同じ動機で実行されます。昨日発言していた子どもも、“だって臭いんだものしょうがないでしょ”というようなことを言っていました。“臭いんだから臭いといって何が悪いの?”ということです。その背景には“匂い”に敏感な子どもが増えていることもあると思います。非常に匂いに神経質なんです。うちの教室にもいます。他の子は気が付かないようなちょっとした匂いにも敏感で、すぐに“くさい くさい”と騒ぎ出すのです。うちの教室ではそれだけで済みますが、学校などでは一人が騒げば、匂いに気付かなかった他の連中までその“遊び”に加わってしまうかも知れません。洗濯物などで、“お父さんは臭いからお父さんのものとは一緒に洗わない”などと言うのは時々聞く話しですが、私が、子どもの頃には匂いでイジメを受けたなどという話しは聞いたことがありません。そもそも、私が子どもの頃には家風呂など持っている家庭は少なく、みんな銭湯に行っていたのです。ですから、せいぜい週に2回程度しかお風呂には入りませんでした。でも、今の子どもたちは毎日、下手をすると一日に二回もお風呂に入っています。それって異常に思えるのですが、私がただ不潔なだけなのでしょうか。でも、毎日お風呂に入っている国など世界中にそれほど多くはないと思うのですがどうなんでしょうか・・・。ちなみに、“どうしていじめるの?”と聞いたとき“臭いから”と答えられたらあなたはどう答えますか。“臭くても我慢しなさい”ですか。これは失礼な話しですよね。それに、これでは“臭い”と言った子が被害者になってしまいますね。“お風呂によく入るように伝えるね”ですか。でも、体臭は人それぞれなのでお風呂に入っていればにおわないというものでもありません。それに、一度“あいつは臭い”ということになってしまうと、実際には匂いがしなくなっても“臭いやつ”という印象は消えません。それに、“あなたは臭いから、ちゃんとお風呂に入ってね”と言われた子どもはどんな気持ちでしょうか。そこにはお風呂にはいることが出来ない色々な家庭の事情もあるかも知れません。それとも単純に、“イジメはよくないからやめなさい”ですか。でも、臭いものを排除するだけのことがなぜイジメなのか子どもには理解できないと思います。最近、おとなも子どもも清潔過敏症の人が増えてきました。素手で、電車のつり革にもさわれない人もいるそうです。そういう子どもが、臭い、汚い(と感じた)子に、“臭い”、“汚い”、“あっち行って”というのは生理的な反応であって、イジメではありません。でも、それは遊びとして伝播します。遊びとして受け取った子は、もちろん自分がその子をいじめているとは思いません。ただの遊びなんです。でも、言われた子はそれを“イジメ”と感じます。それを毎日言われ続けたら、自分の存在自体が否定されているように感じてしまいます。言われる側からするとそれは確かに“イジメ”なんです。どうですか、話しが複雑でしょ。こんな状況に対して、“イジメをやめなさい”といくら言っても全く意味がありません。また、いじめられた子が死んでも、自分のせいだとは思いません。“ああ、やっと臭い(うざい)やつが消えてくれた・・・”、それだけのことです。だから、何事もなかったのようにまた次のターゲットを探すのです。私達は、なにか大きなものを見落としているのではないですか・・・。ちなみに、男の子の“ガキ大将”によるイジメは姿を消しましたが、女の子の“女王様”によるイジメはまだ残っているようです。
2006.11.12
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「気質の違い」は「感覚の違い」と直結しています。そして「感覚の違い」は「思考の違い」や「行動の違い」と直結しています。そして人々はその人が「どういうことを考え」、「どういうことをするのか」ということでその人の性格を判断します。そして、その性格が困った状態の時は、「しつけ」や「教育」という名目で子どもの行動を管理したり、説得したり、叱ったり、時には叩いたりして治そうとします。でも、上流で起きている問題を下流で処理できるわけがないのです。確かに、上流から毒が流れてきていても浄水器を付けることで一時的には問題を回避することが出来るかも知れません。でも、本質的な原因は解決できません。それどころか、原因を放置してしまうことでさらに状態は悪化していきます。また、浄水器などで対応していても、その浄水器のフィルターを管理する人が側にいないとすぐに浄水器は使い物にならなくなります。子どもを厳しく管理することで子どもの問題行動を押さえ込んでも、子どもが成長して親から離れることが多くなれば、さらに悪化した状態で問題は再発してしまうのです。子どもが(大人にとって)困ったことを考え、困ったことをするような場合、大きく二つの原因が考えられます。一つは、まだ幼くて、そういうことが理解出来ない、そういうことをコントロール出来ない場合です。赤ちゃんや幼い子どもに「泣くな、騒ぐな」と言ってもムリです。「手づかみで食べるな」、「片付けろ」、「色々なものに触れるな」と言ってもムリです。それは、まだ幼木なのに「花が咲かない」とか「実がならない」と文句を言うのと同じことです。でも最近、この「無理なこと」を幼い子に要求するお母さんも増えて来ました。2才の子がジーッとしていられないのですがどこか悪いのでしょうか」とか「寝相が悪いのですがからだの具合が悪いのでしょうか」と相談されたこともあります。もう一つの原因は、子どもの気質に対する不理解から生まれてきます。その子の気質にとっては自然な状態なのに、親の気質が子どもと違うため違和感を感じたり、気質が違う他の子と比較したりして、「うちの子変?」と感じてしまうことが良くあります。兄弟でも「上の子は理解出来るけど下の子は理解出来ない」(当然逆もあります)ということも良くあります。それは、ミカンの木を育てているのに「うちの木はミカンばかりが実ってリンゴが実らない」と文句を言っているのと同じことです。それで、親の気質や、他の気質の子に合わせてムリに矯正しようとすることがあります。ミカンの木に無理矢理リンゴを実らせようとするのです。胆汁質や多血質の子は活動的に動き回るのが大好きです。でも、憂鬱質や粘液質のお母さんには、そういう子の気持ちも、状態も理解出来ません。だから追いかけ回して、大人しくさせようとします。でも、大人しくするわけがありません。それでも大人しくさせようとすると、子どももお母さんも苦しくなってしまいます。それに、動き回るのが好きな子ほど大人しいお母さんの言うことは聞きません。それで時に、怒ったり、怒鳴ったり、叩いたりして言うこと聞かせようとしてしまいます。でも子どもは、叱られた時は大人しくしますが、お母さんがなにを言っているのかがよく分からないため問題は解決しません。ただ、親子の信頼関係が崩れるだけです。憂鬱質や粘液質のお母さんは子どもが困ったことをしていると、「可愛そうだからやめなさい」とか「ケガをするから止めなさい」などと言葉で説得して言うことを聞かそうとします。でも、幼い子どもは気質に関わらず、いくら優しい言葉で説明しても理解出来ません。それでも憂鬱質や粘液質の子はお母さんの気持ちを感じ取って行動を変えることもありますが、胆汁質や多血質の子は、お母さんの気持ちを感じ取る能力がそれほど高くありません。胆汁質や多血質の子どもたちは、自分たちの遊びをリードしてくれる人の言葉には耳を傾けますが、行動を抑制しようとしてくる人の言葉は耳に入らないのです。行動を抑制しようとする気持ちも理解出来ません。これは全ての気質の子に言えることなんですが、日常的に一緒に遊んでくれているお母さんの言葉には耳を傾けますが、叱る時だけ話しかけてくるようなお母さんの言葉に耳を傾けるわけがないのです。*******************まだ先になりますが、3月27日(土)に茅ヶ崎の駅の近くの公共施設で「気質の1日講座」を行います。10:00~16:00 参加費6000円、定員20名です。会場は定員100名の広い部屋です。講義だけでなくワークもします。これとは別に、茅ヶ崎でも毎月気質の勉強会をしています。4月から新しい講座が始まります。土曜か日曜の休日の10:00~12:00で、参加費は2000円/回です。いずれも、ご興味ある方は「ここ」までお問い合わせ下さい。
2021.02.06
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私は物理学科の卒業ですが、どうして物理に興味を持つようになったのかというと中学生の頃にアインシュタインという人が発見した「相対性原理」という考え方と出会ったからです。相対性原理は私に世界がひっくり返るような意識の転換をもたらしてくれました。「本当の世界」が見えた気がしたのです。それが、面白くて面白くてのめり込みました。それで物理学を学んでみたいと思ったのです。この「相対性原理」とは、簡単に言うと「全ての出来事は関係性の中で生起する」という考え方です。「この宇宙には絶対という基準などどこにもない」ということです。人はみな「私」という存在は絶対のものだと思い込んでいますが、この宇宙から「私」以外のものを消していったら、「私」も消えてしまうのです。あなたがいるから私がいるのです。私がいるから宇宙が存在しているのです。(「そんなことはない、あなたが死んでも宇宙は存在している」と考える人は、「その人」ではなく「自分」を基準にして考えているからそういうことになるだけです。基準を変えてしまったら「事実」も変わってしまうのです。)天動説では、「地球が止まっていて、太陽が地球の周りを回っている」と考えています。それに対して、地動説は「太陽の方が止まっていて、地球が太陽の周りを回っている」と考えています。そして、学校では「地動説」の方が正しいと教えています。でも、実際にはどちらも正しいし、どちらも正しくないのです。地球を中心にして考えれば、間違いなく太陽は地球の周りを回っています。だから、朝・昼・晩という変化が繰り返されているのです。でも、太陽を中心にして考えると、地球の方が太陽の回りを回っていることになります。太陽に行くことが出来て、太陽から地球を眺めることが出来るなら、それを事実として確認することが出来るでしょう。ですから、「天動説」も「地動説」もどちらも正しいのです。でも、ニュートン物理学的には、地球も太陽も、両者の質量を合わせた重心の回りを回っているのです。「太陽」でも、「地球」でもなく、「重心」の周りを回っているのです。さらに、銀河系の中では銀河の中心の周りを回り、その銀河系もまた、更に大きな系の中心を回っています。そのような視点で考えると、「天動説」も「地動説」も、両方とも間違っているのです。この違いは、基準をどこに置くのかということで生まれる違いに過ぎません。それは人間の意識の問題であって、この世界の実相とは何にも関係がないのです。人間は何かを感じようとしたり、思考しようとするときには、必ず何らかの基準を必要とします。「熱い」とか「暑い」という感覚は自分の体温を基準にした感覚です。川魚は人間の体温でも火傷すると言います。善・悪は、個人や社会の価値観を基準にした感覚です。何かを考えるときには言葉や、論理を基準にして考えます。でも、この基準は曖昧です。同じ温度のお風呂でも、外気温や、自分のからだの状態によって、感じる熱さは異なります。からだの状態が異なれば味も匂いも異なります。同じ異性を見ても、素敵な匂いと素敵な音楽がセットになっているとより素敵な人に感じるものです。(その逆もあります。)子どもの時にはコーヒーもビールも苦いだけでしたが、大人になると美味しいと感じるようになります。でも、コーヒーやビールの味が変わったわけではありません。「自分」という基準が変わったので、世界の方が変わったように見えだけです。それなのに、人は「自分という基準を測る基準」を持っていないため、自分の感覚や視点や意識は普遍的で絶対的なものだと思い込んでいます。そして、他者の是非や、善悪や、美醜を絶対的なものとして決めつけています。でもそれは思い込みに過ぎないのです。自己肯定感が低いのも単なる思い込みに過ぎません。それは拒食症の人がもう十分に痩せすぎているのに「まだ太っている」と感じてしまうのと同じです。自己肯定感が低い人は精神的な拒食症に陥っているのです。**************人生の99%は思い込み 支配された人生から脱却するための心理学 [ 鈴木敏昭 ]
2017.10.21
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どんこさんから以下のようなコメントを頂きましたので、今日は子どもの育ちに必要な「からだの使い方」について書いてみます。1人目ということもあり何事も慎重で運動神経はあまり発達しなかった小3の息子。でも生き物捕りは大好きで、小さい時から近所でよく虫や魚を捕まえています。ここ1,2年はキャンプや自然体験イベントにもよく参加するようにもなりました。今日は岩の多い川で、水中の生き物を観察してきました。岩場を登ったり下りたり、草むらや坂を転ばずに走ったり、そういう体の動きは生き物捕りをする中で自然に培われてきていると感じました。でも、運動自体は得意な方ではなく、体育でする鉄棒や前転後転やジャンプなんかは苦手です。ロデオは家でたまにしますが、しがみつく力はあります。動物たちは、大きく分けて二つの場面でからだを使っています。一つは攻撃するときです。獲物を追いかけ、飛びかかり、組み伏せ、打ち殺すようなときには非常に派手にからだを動かします。このようなからだの使い方に求められるのは、「早さやパワーにおいていかに相手を上まわることが出来るのか」ということです。弱肉強食的な世界です。スポーツはこのようなからだの使い方を競技として発展させたものです。そして私たちはこのようなからだの使い方に優れた子を見て、「あの子は運動神経がいいね」などと言います。からだを使う必要があるもう一つの場面は、逃げるときや、身を守るときなどです。物音がしたときなどにパッと穴や物陰に隠れたり、木に登って逃げるような動きです。そしてこれは、獲物を追いかけ、飛びかかり、組み伏せ、打ち殺すようなからだの使い方とは全く違います。そもそも使っている筋肉が違うのです。簡単に言うと、攻撃するときに使っているのは「押す筋肉」です。それに対して逃げるときに使っているのは「引く筋肉」(筋)です。ちなみに、いわゆる「筋肉」として見ることが出来るのは「押す筋肉」の方です。ですから、「押す筋肉」が発達しているとマッチョでかっこいいです。ジムなどで鍛えることが出来るのは「押す筋肉」です。そして、欧米人はこの「押す筋肉」に優れています。だから攻撃的でもあるのです。胆汁質が強い人も、この「押す筋肉」に優れています。でも、日本人は「力を入れずに引く」というからだの使い方の方が得意です。日本人は、押してからだを動かすのではなく引いてからだを動かしていたのです。もっとも最近の人は、昔の日本人のからだの使い方が分からなくなってしまっているので、押してからだを動かそうとしています。でもだから、からだを壊してしまうのです。スポーツ選手なんか、みんなどこかしらからだを壊していますよね。このからだの使い方の象徴が「ノコギリの使い方」です。欧米のノコギリは押して切ります。でも、日本のノコギリは引いて切るのです。そのため、刃の向きが逆になっています。押して切るときには腕力や体重が必要です。でも、引いて切るときには腕力はあまり必要ではありません。腰と腹とからだ全体をうまく使うことが出来ると、力を入れなくても切ることが出来るからです。刀の使い方も同じです。西洋の剣は押して切り、日本刀は引いて切ります。西洋の格闘技は力業ばかりです。ですから、レスラーなどもマッチョばかりです。 ドアを開ける時のことを考えてみて下さい。ドアを押して開ける時にはからだを固めて、腕に力を入れて押しますよね。 でも、引いて開ける時にはからだを固めませんよね。それと、からだ全体を使いますよね。 同じ重さのものを、同じ量だけ移動しているのに、からだの使い方は全く違うのです。それと、「押す力」は若いときは強いですが、加齢と共に急激に衰えます。攻撃する力は年齢のピークが過ぎると急激に低下するのです。スポーツ選手の寿命が短いのはそのためです。それに対して、日本の武道などでは60、70代になっても、20代の若者をポンポン投げている人もいっぱいいます。太極拳などでも同じです。それにマッチョはいません。これは、日本の武道や太極拳などは筋肉によって押して動いているのではなく、重力や、腹や腰などを使ったり、からだ全体をうまく使って引いて動いているからなのです。柔道で相手を倒そうとすると力を入れて力むことになります。すると力と力の戦いになります。でも、からだの内側にらせん的な流れを作り、からだの力を抜いたままその流れに相手を引き込むように動くなら力と力がぶつからないのです。だから、昔は「柔よく剛を制す」と言われたのですが、最近の柔道はまるでレスリングのようです。また、動物たちの動きも基本的には同じです。動物たちも普段は力を入れずに動いているのです。だからなめらかに動くことが出来るのです。戦っているとき以外に力んでいる動物って見たことがないでしょ。そして、子ども達がまず学ぶのも、この引いてからだを動かす方法です。コマ回しでも、竹馬でも、木登りでもマッチョな筋肉は全く必要ありません。腕立て伏せが一回も出来なくても、かけっこが遅くても、コマ回しや竹馬や木登りが得意な子はいっぱいいるのです。だから、子ども達の姿勢や動きは美しいのです。このような「遊びを通して身につけた身体能力」が、子どもの身を守ってくれていたのです。スポーツでは競争や記録が目的ですから、どうしても「力むからだ」(攻撃するからだ)になってしまうのです。
2015.08.03
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私は30才の頃、リュック一つで1年間、ヨーロッパ、インドを中心に色々な所を歩いてきました。この1年間で、それまで働いて貯めてきた貯金を全部使ってしまったのですが、それでもかなりの貧乏旅行でした。スペインが一番長くてマドリッドに3ヶ月、アリカンテの近くのオジャ・デ・アルテアというところに3ヶ月いましたが、マドリッドにいた頃よく食べていた夕食は、チャイニーズレストランでスープとライスだけを頼んで、「スープにライスを入れて食べる」というものでした。とにかく、これが一番安かったのです。オジャ・デ・アルテアでは友人と家を借りていたので、自炊していました。次に長かったのはインドで2ヶ月ぐらいいました。あとは、フランス、モロッコ、ギリシャ、イタリア、タイなど色々な所をウロウロしていました。ちなみに全部、物価が安い所です。この一年は、お金はありませんでしたが自由は山のようにありました。毎日が、宿題がない夏休みのような状態でした。人は自由になると自分の感覚で感じ、自分の頭で考え出します。そして、自分の判断で行動します。そうしないと、何も起きないし、何も変わらないし、ただただ退屈なだけだからです。楽しい旅になるか、退屈な旅になるか、苦しい旅になるか、危険な旅になるのかは全て自分次第なんです。そしてそれが楽しいのです。パック旅行では楽しい旅になるか、退屈な旅になるか、苦しい旅になるか、危険な旅になるかは旅行会社の問題ですが、自由な一人旅では、自分次第でそれを変えることが出来るのです。またそれが楽しいから一人で旅に行くのですが、「一人では不安だから誰かに付いていく」とか「誰かに旅行を企画してもらわないと安心出来ないし楽しめない」という人は多いです。「自分で考えるのが面倒くさい」という人もいるでしょう。また、最初から「旅には興味が無い」とか「どこにも行きたくない」という人も多いです。まあ、それもそれで個人の自由ですからいいのですが、でも、「人は皆、自分の人生という旅を生きている」という事実は忘れない方がいいと思います。基本的に、人生は一人旅です。旅の時々で他の人と一緒に歩くことはありますが、一生、誰かと一緒に歩くことは出来ません。また、一緒に歩いていても、お互いに別のものを見て、別のことを感じて、別のことを考えています。どんなに仲がいい親子でも、恋人同士でも、夫婦でも、お互いに別のものを見て、別のことを感じて、別のことを考えています。その相手もまた「自分だけの人生」を生きているのですから。人生という旅に、「安全で安心で楽しいパック旅行」な存在しないのです。人生はバックパッカーの一人旅と同じなんです。しかも、たった一回きりの旅行です。今の自分の人生は、永遠という時間の中でたった一度しか与えられていないのです。だから、安全や安心ばかりを求めて、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断することを放棄してしまったら、せっかく自分に与えられた時間がもったいないのです。わざわざリュックを担いで旅に出なくても、私たちはみんな、もうすでに旅に出ているのです。皆さんも、例外なく旅の途中なんです。実際に、一人で自由な旅をしてみるとそのことがよく分かるのです。「ああ、これは人生と同じだ」と。旅の醍醐味は新しいことと出会い、新しい体験をし、新しいことを学ぶ事です。だとしたら、わざわざリュックを担いで旅に出なくても、日常生活の場でも旅と同じような状態は作れるはずです。「休みだ、さあディズニーランドに行こう」とか、「休みだ、さあゲームをやろう」ではなく、自分に「自由な時間」を与えてみて下さい。この場合の「自由な時間」とは、「自分の頭で考えないと何も始まらない時間」のことです。「与えられた自由」ではなく、「自分で創り出す自由」です。そして、今までやったことがないようなことに挑戦してみて下さい。簡単なことでいいのです。ただ、普段とは違うことをやってみるだけでいいのです。歩いたことがない道を歩いてみる、本棚にはあるけどあまりちゃんと読んでいない本を読んでみる、空を見る、足下を見る、しゃがんでみる、寝転んでみる、入ったことがないお店に入ってみる、食べたことがないお料理を食べてみる、話したことがない人と話してみる、もう、これだけで十分、旅と同じなんです。そして、このような「新しいこと」をすることで、旅が前に進み出し、新しい景色を見せてくれるようになるのです。何もしなくても、旅の終わりは来ます。旅を楽しんでいなくても、一カ所に留まっているだけでも、旅の終わりは確実に来るのです。その時、「自分は何のために生まれてきたんだろう」とか「自分の人生はいったい何だったんだろう」と気付いても手遅れなんです。ちなみに、幼い子どもたちは毎日このように生きていますからね。幼い子どもたちにとっては、毎日が新しいのです。そして、色々なことをやりながら、自分の人生を、自分らしく生きようとし始めているのです。でも大人達は、「みんなと一緒」を強制します。安心安全を考えて、子どもたちを無理矢理、パック旅行に参加させてしまうのです。でも、そのことで、子どもたちは「自分だけの人生」(旅)を失ってしまうのです。また、そんな幼い子どもに、ゲーム機やスマホを与えたら、旅の全てがホテルの中だけで完結してしまうような人生になってしまうかも知れません。それはそれで楽しいかも知れませんが、「自分が生まれてきた意味」は一生分からないままになってしまうでしょうね。
2022.08.12
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簡単、便利、効率性を求める現代人は「無駄」を嫌います。「無駄な時間」や「無駄な活動」を排除しないと効率的に結果を得ることが出来ないからです。簡単で便利な機械を使うのも、そういうものを使えば「無駄な時間」や「無駄な活動」を排除し、簡単に、すぐに、効率的に、そして楽に結果を得ることが出来るからです。現代の社会システムはそのような考え方を基にして作られています。また、そのような考え方を基にして現代人は生活しています。「マイナカード」のようなシステムはそのような考え方の表れです。その結果、町の中から「無駄な空き地」が消えました。でもそれと共に子ども達は遊び場を失い、人々が集ったり、「自然」と出会う場所が消えました。人々の生活の中から「無駄な時間」や「無駄な活動」が消えました。でも、それと共に人々から「心のゆとり」と「自分の人生を自分らしく楽しむ余裕」が消えました。そして、「常に追われる生活」をせざるおえなくなりました。買い物もネットで注文すれば、「わざわざお店まで買いに行く」という無駄な時間や活動を必要としません。調べ物もネットで調べれば、わざわざ本を読んだり、図書館などに行ったり、自分の頭で考えなくても簡単に調べることができます。そのうち「子育て」も自動化出来るかも知れません。じゃあ、「私たちは幸せになったのか」、「本当に楽になったのか」、「賢くなったのか」というと、どうもそうは思えません。デジタルの進化について行くことが出来ない人は生きにくくなりました。お店で注文することすら困難な人が増えています。ついて行くことが出来きている人も、結果だけを求めて「無駄な時間」や「無駄な活動」を排除することで、「自分の時間」や「自分のための活動」を失いました。「無駄な時間」や「無駄な活動」を排除することで、「自分の時間」が増えるはずだったのに、実際には余計に忙しくなっただけだったのです。また、簡単で便利な機械は、人々から自分の頭で考え、自分の心や感覚で感じ、自分のからだを使って活動する必要を消しました。チャットAIの登場は「自分の意志で判断する必要」すらも消してしまうでしょう。必要がなくなれば、当然、そのような能力は育たなくなります。子ども達も、「自分の頭で考え、自分の心や感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する能力」を育てることが出来なくなります。その結果、人々は、簡単で便利な機械の指示に従い、そういうものが与えてくれる刺激や豊かさを求めて生きるようになって来ました。その状態は、ご褒美を求めてご主人様に従い色々な芸をする犬と似ています。ゲームの言うことに従わないとゲームは楽しくなりません。だから、ゲームでばかり遊んでいる子はゲームの指示には従います。でも、そのような子は「ゲームが与えてくれる自由」の中では自由ですが、ゲームの外では不自由になります。「ゲームの外の世界で自由に生きるための能力」を育てることが出来なくなってしまうからです。その結果、「自分の人生を自分らしく生きる自由」を失ってしまいます。そして、人間は「便利な機械やインフラの主人」という立場を失い、逆に、そういうシステムの中に組み込まれ、そういうものを運用するための奴隷になりました。機械と人間の立場が入れ替わってしまったのです。人間は人間に取って一番大切なことを忘れていたのです。それは、科学や機械が作り出す効率や合理性という視点から見たら、「人間という生き物」、「人生という時間」「自分らしさという価値観」そのものが「無駄なもの」になってしまうということです。もし、神様が人間にその命と共に与えた課題があったとしたら、それは、「自分に与えられた無駄な時間をどう楽しみ、その無駄との関わり合いを通して何を学び成長するのか」ということなんだろうと思います。私は、「生まれてきてよかった」という学びをするために、人は生まれて来るのではないかと思っています。でもそのためには「無駄を楽しむ心」が必要になるのです。無駄なものなんてこの世界に一つもないのです。そこから学ぼうとしないから「無駄なもの」になってしまうだけなんです。「無駄なもの」が存在しているのではなく、人間の意識が「無駄なもの」を創り出しているのです。
2023.05.16
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人は「つながり」の中で成長する生き物です。なぜなら、人間の「人間らしさ」を支えている「心の使い方」も、「感覚の使い方」も、「からだの使い方」も、遺伝子に書き込まれたものではなく、周囲の人間との関わり合いによって学ぶものだからです。だからこそ遺伝子的には何万年前の古代人と同じなのに、現代に生まれた子は現代人らしさを育てる事が出来るのです。現代に生まれた人間でも、生まれた直後から他の人間とのつながりのない状態で、ロボットなどに保育させたら、その子は古代人にもなることが出来ず、野生動物と同じレベルか、もしくはさらに低いレベルの状態のまま大人になってしまうでしょう。もっとも、実際には「人と人のつながり」から切り離された子は、大人になる前に死んでしまうことが多いようですけど。これは子どもの成長に関してですが、実は大人の成長に関しても同じ事が言えるのです。大人でも、さらに成長するためには「他の人とのつながり」が必要になります。「他の人とのつながり」を失ってしまっている人が生きている世界は、他の世界とのつながりを失った閉鎖世界です。そのような世界に生きている人は、意識も、感覚も、心も、からだの使い方も、閉ざされています。そのため、そのままの状態では成長することが困難なのです。どんなにその状態が苦しくて、その状態から逃げ出したくても、閉鎖された世界に生きている限り、同じ所をグルグルと回り続けるしかないのです。もしその人が、その苦しみの繰り返しから逃げ出したいのなら、他の人とのつながりを創るように努力するしかありません。閉鎖された世界の中ではどんなに一人で頑張っても無駄だからです。自分一人で頑張っている人がやっていることは、自分で自分を否定し続けているだけですから、変われるはずがないのです。だから、本当に自分を変えたいのなら、他の人とつながる努力をすべきなのです。そこから逃げていたら、いつまで経っても変わることが出来ません。子どもの成長においても、子どもが成長するためには色々な仲間や大人とのつながりが必要になります。「仲間とのつながり」で「横の世界」が広がり、「大人とのつながり」で「縦の世界」が広がるのです。そして子どもは自分の世界が広がることで、意識も、心も、からだも成長していくのです。真偽のほどは分かりませんが、狭いところで育てられている金魚は大きくならないが、ゆったり泳げるように器を大きくしてあげるとさらに大きく成長するという話がありますが、それと同じです。子どもの成長を望むのなら子どもが生きている世界を広げてあげるようにするのです。自分の成長を望むのなら、自分が生きている世界を広げるのです。でも、現代人はその逆に、どんどん自分の世界を狭くしようとしています。そして、狭い世界の中に閉じ籠もろうとしています。簡単便利な道具がそれを可能にしました。昔の社会では、どんなにお金持ちでも一人では生きて行くことが出来ませんでしたが、現代社会ではお金さえあれば一人で生きて行くことが出来ます。また、自然を排除した人工的な世界の中では全てを管理しようとする意識が強くなってしまうため、管理不能な他者を排除し、閉鎖世界を創り出そうとします。そのような社会では、子どもは子どもだけで集め、老人は老人だけで集め、障害を持った人は障害を持った人だけで集めて管理しようとします。その方が合理的に管理しやすいからです。そのような社会に生きている現代人は、「子どもと共に暮らす」ことが苦手です。「共に」という生き方を学ぶ場がないからです。社会全体が、子どもと共に、老人と共に、障害を持っている人共にという形で作られているのなら、人々はもっと子育てを楽しむことが出来るようになるのです。子どもの遊びも、子どもの世界を広げるどころか、逆に子どもを小さな世界に閉じ込めようとするようなものばかりが流行っています。その方が子どもを管理しやすいからなのでしょう。ですから、子どもと話をしていても、小さな世界のことは異常に詳しいのに、生活に関する常識のようなものはほとんど知らない子や、知識ばかりで実際には何も出来ない子がいっぱいいます。子どもの成長を望むのなら、多くの仲間や大人との出会いの場を作ってあげて下さい。お母さんが一人で頑張ってもあまり効果はありません。自分の成長を望むのなら、多くの人と出会い、色々な話を聞き、一緒に活動してみて下さい。そうすることで「成長しよう」などと頑張らなくても、成長してしまうものです。
2014.03.11
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現代人は、昔の人に比べて色々なことに対する「こだわり」が強いような気がします。食にこだわる人、洋服にこだわる人、生き方にこだわる人、色にこだわる人、趣味にこだわる人、清潔にこだわる人、勉強にこだわる人、英語にこだわる人、スポーツにこだわる人など色々といます。ちなみに、自己肯定感が低い人はみんな「こだわり」が強いです。というかその「こだわり」が自己肯定感を下げているからです。そもそも「自己肯定感」などというものに対するこだわりを捨ててしまえば、そんなことどうでも良くなってしまうのです。自己肯定感を上げるためには、自己肯定感を上げようとすることを止めてしまえばいいのです。それだけのことです。インナーチャイルドにこだわっている人もいます。「自分らしさ」にこだわっている人もいます。でもそれは、「世の中がそれだけ自由で豊かになってきた」ということの表れなんだと思います。今日を生き延びることだけで精一杯の時代には、そんなこと言ってられませんでした。肉しか食べるものがないときには「菜食」にこだわることが出来なかったし、肉がないときには肉食にこだわることが出来ませんでした。そのような状況では、「こだわり」は「死」を意味していたからです。「今日の食べ物がない」という状態では、「何を食べるか」にこだわるどころではないですよね。「清潔」も、人工物に囲まれた人工的な生活をしているから、「清潔」にこだわることが出来るのです。森の中や自然に近いところで暮らしている人たちは、清潔にこだわろうと思っても出来ないのです。色々な洋服を選ぶことが出来る自由と豊かさがあるから洋服にこだわることが出来るのです。私は、「こだわり」は、そんなあふれるばかりの豊かな社会の中で、現代人が「自分らしさ」を自分で確認するための方法として機能しているのではないかと思っています。ただし、「こだわり」自体は古代からありました。でもそれは「個人のこだわり」ではなく、「部族や民族としてのこだわり」です。それは、「宗教へのこだわり」や、「血へのこだわり」や、「文化や言葉に対するこだわり」などです。その「こだわり」があったからこそ、自分たちの部族と他の部族の違いを明確にし、部族がまとまることが出来たわけです。今でも自然と共に暮らしている人たちは、部族ごとに民族衣装が決まっていますが、それは民族衣装が部族の象徴だからです。「こだわり」が「アイデンティティーを与えてくれるもの」として機能していたのです。ですから、「個人としてのこだわり」は限定されていました。江戸時代には「オレはキリスト教を信仰したいんだ」と言っても許されなかったのです。でも、現代社会では部族とか民族という概念は解体してしまいました。部族とか民族固有のこだわりも消えてしまいました。日本人だからといって、「着物を着なければいけない」ということもなくなりました。「結婚したら歯を黒く染めてお歯黒にしなければいけない」ということもなくなりました。代わりに現れたのが「個人」という概念です。その「個人」という概念では、何を食べても、何を着ても、どんな仕事をしても、どんな趣味を持ってもOKです。そして私たちはそれが可能な自由で豊かな社会に生きています。でも、そんな自由と引き替えに、みんな「根無し草」になってしまいました。アイデンティティーを失ってしまいました。私は、そのアイデンティティー作りのために現れたのが「個人としてのこだわり」なのではないかと思っています。「民族や部族を特徴付けるこだわり」は消えましたが、新しく「個人を特徴付けるこだわり」が生まれたのです。何かにこだわることで、「自分のアイデンティティー」を明確にしようとしているのだと思います。だから「同じこだわり」を持っている人同士で集まろうとします。でも、こだわりを持つことで自分のアイデンティティーは作れますが、それと引き替えに不自由になります。色々な食べ物がある中で、「肉」にこだわれば、他の食べ物が見えなくなり意識の不自由が生まれるのです。「しつけ」や「勉強」にこだわれば子どもの成長の全体が見えなくなり、不自由になります。「清潔」にこだわれば、「子どもの笑顔や、子どもの育ちに必要なもの」が見えなくなり不自由になります。子どもの色々な行動に対してお母さんがイライラするのも、子どもがお母さんのこだわりを無視するからです。お母さんは「子どものこだわり」にイライラしますが、それは「お母さんのこだわり」と「子どものこだわり」がぶつかっているからに過ぎません。「お母さんが頑張って作ったものなのになんで残すの!!」という怒りも「こだわり」から生まれています。こだわっている本人はそれを不自由だとは考えていないでしょうが、いっぱいある中で一つのものにしか意識を向けることが出来ない状態は、不自由そのものなんです。子育てや生き方の苦しみの多くもその「こだわり」から生まれています。でも、ちょっと意識を変えるだけで自由になることが出来るのです。意識を、「こだわる」から「大切にする」に変えればいいのです。こだわっているときにはこだわりの対象によって自分が束縛されてしまっています。でも、「大切にする」という意識の場合には、自分が主人公でいることが出来るのです。「成績へのこだわり」を捨てて「成績を大切にする」という考え方にするだけで大分自由になります。「こうでなければいけないというしつけ」にこだわることを止めて「しつけを大切にする」という考え方に変えると、「しつけ」から自由になることが出来ます。「こだわり」は「正解」を生み出します。だから束縛されてしまうのです。でも、「大切にする」という発想の場合には「正解」は自分の感性です。だから束縛されないのです。ただし、趣味としての「こだわり」はそれはそれでいいと思います。ただ「子育て」には合わないのでは・・・ということです。「子育て」で大切にしなければいけないのは「お母さんのこだわり」ではなく、太古の昔から変わらない「命の働きのこだわり」だからです。
2019.08.01
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時々「私子どもが嫌いなんです」とか「子どもの育て方が分からないんです」というようなことを言うお母さんがいます。でも、人間が「自分の子」を育てる場合には、「好き嫌い」や「育て方」はあんまり関係がないのです。「好き嫌い」や「育て方」が問題になるのは、ペットを飼う時だけです。ペットは飼い主である人間とは別の生き物ですから、人間と共存させるためには意識して仕付ける必要があります。そうやって、ネコやイヌをある程度人間社会に適応化させるのです。でも人間の子どもは、無理して仕付けなくても、同じく人間である親との「人間らしい関わり合い」を通して、自然と人間らしさを身につけていくのです。それは、イヌの中で育っているイヌは「イヌらしく」、ネコの中で育っているネコは「ネコらしく」育つのと同じです。そしてイヌもネコも「しつけ」なんか知りません。人間の中で育っている人間の子どもは、人間との関わり合いを阻害しなければ、自然と人間らしく育っていくのです。お母さんが日本語で話しかけていれば日本語を覚え、話し始めます。周囲の人がみんな二本足で立って歩いていれば、自分も二本足で立って歩くようになります。感覚の使い方や、からだの使い方や、頭の使い方も、周囲の人との関わり合いを通して自然と学んでいきます。それが人間の群れの中に生まれた人間の子どもの育ち方なんです。子どもは、お母さんや他の人との人間らしい関わり合いがあれば、お母さんが「子どもの育て方」を知らなくても、子どもが嫌いでもちゃんと育っていくのです。(問題は、今、そういう環境が保障されない子どもたちが多いことです。)またそれは自分の意思で能動的に学んだものだから、自分らしさとつながった自分のものになります。でも、親が一方的に仕付けたものは、親が怖いうちは子どもはそれを守りますが、9才を過ぎて子どもが「本当の自分」を求め始めると、「自分らしさ」とつながらないものは拒否し始めます。いわゆる「反抗期」が始まるのです。その時、押しつけられたものだけで育っていた子は、自分の本体が空っぽであることに気付きます。また、子育て本などから得た知識で仕付けをしようとすると、間違いなく失敗します。子育て本に書いてあるのは我が子のことではないからです。子どもが嫌いでも、子どもの育て方を知らなくても、子どもの人格を否定せず、人間らしい関わり合いをすることは可能なはずです。愛することは出来なくても、待ってあげることや、意思を尊重してあげることは出来るはずです。育て方は知らなくても、一緒に食べ、一緒に歩き、一緒に笑い、一緒に遊ぶことは出来るはずです。人間が人間の子どもを育てる時に必要なのはそれだけなんです。それだけでいいんです。完璧には出来なくても努力することは出来ますよね。子どもは「親が何を与えたか」ではなく、「親や周囲の人が何をしているのか」を見て学んでいるのです。だからこそ、お母さんが一人の人間として、自分の人生をちゃんと生きている必要があるのです。また、叱っても怒鳴ってもいいのですが、人格は否定しないで下さい。「それはダメだって言ったでしょ」とか「なんでちゃんとやらないんだ」と怒るのは人間として自然な反応です。時には手が出てしまうのも自然な反応です。でも、その後で「あんたのせいで」とか、「あんたなんか生まなければ良かった」とか、「全く頭が悪いんだから」とか、「お母さんを苦しめることばかりして」というような、相手の人格や存在を否定するようなことを言うと、子どもは生きる気力を失います。でもこの「余計な一言」を言ってしまう人が結構いるのです。あと、完璧なお母さんや、完璧な子育てを目指すと、子どももお母さんも苦しくなるばかりです。そして、「こんなはずでは・・・」という結果になります。親としての努力は必要ですが、努力しても出来ないことは「出来ない」でいいのです。「何でもかんでも完璧に出来る人」なんかこの世に存在していないのですから。問題はそこでどうするかです。このことは明日書きます。
2021.02.27
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お母さんが「自分らしさ」を大切にせず目立つことを恐れていたら、「子どものための子育て」なんか出来ませんよ。人目を気にしてばかりいたら、子どもを監視、管理することで精一杯になってしまい、子どもの感覚や、気持ちや、才能に気付かなくなってしまうからです。また、人目を気にした子育てをしている人は、気付かないうちに子どもの「子どもらしさ」や「自分らしさ」を否定してしまっています。なぜなら、幼い子ども達は「文明が発達する以前の古代人」と同じような感覚や感性や衝動に従って生きているからです。その古代人が生きていた世界は、自然や、仲間や、ファンタジーに満たされた世界です。そのどれが欠けても、人類は人間らしさを獲得することは出来なかったのです。そしてそれは現代社会に産まれて来た子どもでも同じなんです。でもそれが、人類が「人間らしさ」を、そして、子どもが「自分らしさ」や「人間らしさ」を育てていくためには必要な世界なんです。子どもは、お母さんのお腹の中で35億年の生命の歴史を繰り返すように成長して産まれてきます。そして、産まれてきた後も人類の歴史を繰り返すように「古代人」の状態から自分の人生を始めるのです。その段階をすっ飛ばしていきなり「一人前の現代人」の状態にまで成長することは出来ないのです。子どもは現代社会の価値観に合わせた状態では産まれてこないからです。むしろ、現代人が大切にしている価値観や現代人の簡単で便利な生活は、子どもの成長には無意味であったり有害であったりするようなものが多いのです。実際、大人達は子どもの成長を阻害するような事ばかりを子どもに教えたり求めたりしています。また、子どもの成長を阻害するような環境で子どもを育てています。でも、7才から9才頃までに、自然や、仲間や、ファンタジーに満たされた世界を充分に体験することなく成長してしまったら、「自分らしさを大切にする素敵な大人」には育たないのです。基礎作りを大切にしなければ「しっかりとした家」は建ちませんよね。基礎は家が建った後では見えませんが、基礎をすっ飛ばしても見かけだけ素敵な家を建てても、風雨や地震などに見舞われたらあっという間に困った状態になってしまうのです。それは、子どもの育ちで言うと「学校を終え社会に出た途端に途方に暮れてしまう」というような状態です。子育てが始まった途端に「みんなと同じ」が出来なくなって途方に暮れてしまう人も多いです。そして今、そういう状態の大人が増えています。そのような状態の大人たちは不安が強いので、「自分らしさ」や「自分の子どものこと」よりも人目の方を大切にしてしまうのです。マスクにはその「人目」を防ぐ効果があります。でも、マスクをすることで「自分らしさ」も失われてしまうのです。でも、お母さんが人目を気にして「自分らしさ」を隠していたら、「自分らしく感じ、考え、行動しようとしている子どものための子育て」なんか出来ないのです。
2024.05.07
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私たちの「心」は、「意識」と「無意識」という二つの世界に分かれています。そして、当たり前のことですが、人は「意識」の世界に写ったものしか意識できません。それは暗闇の世界で、懐中電灯の光が当たったところしか見えないのと同じです。問題は、光が当たっているのはこの世界のほんの一部に過ぎないのに、人の意識は意識外のことを意識できないので、その「一部」を「全体」として認識してしまうということです。それは科学が、「この世の中には科学で説明できないものはない」と思い込んでいるのと同じです。でも科学は、その方法も解釈も、人間の理解のためにあるものですから、人間の理解能力を超えたものは科学では扱いようがないのです。そして、人間の理解能力は絶対ではありません。なぜなら、人間の理解能力は、人間の身体特性と体験によって限定されてしまうからです。「メッセージ」(2016年のアメリカ合衆国のSFドラマ映画)という映画では、その人間の理解能力を超えた存在との出会いが描かれています。映画は宇宙人との出会いを描いていますが、人間同士の出会いでも同じようなことが日常的に起きています。アメリカ人は日本に来て、アメリカ人的な認識能力で日本のことを理解しようとします。ですから、日本人には見えるのにアメリカ人には見えないことがあります。その逆もあります。異なった気質の人が出会った場合も同じようなことが起きます。胆汁質の人には見えているのに憂鬱質の人には見えないことや、憂鬱質の人には見えているのに胆汁質の人には見えないことがあるのです。また、身体的特性が違う場合も「見える世界」や「理解出来る世界」が異なってきます。イヌやネコと人間は異なった身体的特性を持っています。ですから、それぞれに異なった世界を見て、異なった理解方法を持っています。イヌやネコに、人間の言葉で人間の理解をどんなに丁寧に説明しても永久に理解されることはないでしょう。それと同じように、もしこの宇宙に、人間を「イヌやネコレベルにしか進化していない生き物」と思うほど進化した宇宙人がいたとしたら、人間にはその宇宙人が語る真理は永久に理解出来ないでしょう。そしてその真理は人間の科学では扱いきれないでしょう。これは一人の人の中でも起きます。1+1=2が分からない状態の子どもには、1+1=2が当然と考える人の考え方は理解出来ません。逆に、1+1=2が当然と考える人は、1+1=2が理解出来ない状態の子どもの心を理解出来ません。そのため、同じ子であっても、1+1=2が分かるようになってしまうと、1+1=2が分からなかった頃のことが分からなくなってしまうのです。自転車が乗れるようになってしまうと、自分がなぜ乗れなかったのかが分からなくなってしまうのと同じです。だから人は、大人になると子どもの頃感じていた世界を感じることが出来なくなってしまうのです。また、からだが変わってくると、見える世界も、ものの理解の仕方も、当たり前も変わってきます。自分のからだの中を見ることが出来るようになってくると、他の人のからだを見るだけでその人の心の状態まで見えるようになったりします。また、人のからだは、オギャーと生まれてから死ぬまで常に変化しています。ですから、からだの成長に伴って、見える世界、聞こえる世界も変わってきます。理解能力も認識能力も変わってきます。それに伴い、「心」も「生きている世界」も変わっていきます。でも人は、その変化を感じることが出来ません。今と過去を比較できれば、変わったことが分かるのですが、時間の経過と共に比較する対象が無意識の世界の中に消えてしまうので、比較できないからです。子どもの時の「当たり前」と、大人になってからの「当たり前」は全く異なったものなのですが、本人も気付かないうちにその「当たり前」が変わってしまっているため、変わってしまったことを認識出来ないのです。でも、無意識の世界に入ったものは時間が経過しても消えません。意識の世界の事象は時間と共に無意識の世界へと消えて行くのですが、無意識の世界には、意識の世界で消えてしまったものの全てがちゃんとストックされているのです。だから人は、想い出すことが出来ない幼児期の体験によって、支配されてしまうのです。子どもが大人になるということは、「子ども」が消えて「大人」が生まれるわけではありません。「子ども」の周りに色々なものがくっついて、大人になっていくのです。「張り子の虎」と一緒です。ですから、見かけは「大人」でも、その中心には「子ども」がいるのです。でも人は、自分の表面しか意識できません。その下の層は無意識の世界に属しているからです。
2018.05.11
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昨日も書いたことですが、自然の中での遊びは子どもたちの感覚と能動性を育ててくれます。さらに、仲間と群れて遊ぶことで感情と意志が育ちます。ちなみに私は子どもたち自身がもうすでに「自然の一部」だと思っています。なぜなら子どもたちは人間としての常識ではなく、動物的な感覚や感情や能動性で行動しているからです。ですから「仲間遊び」も立派な「自然体験」です。そのような自然との遊びの場では、子どもたちは常に感覚や感情を働かせ、能動的に行動しています。その過程で「意志」も育っています。能動的に活動をする体験が「意志」を育てているのです。逆に言えば、子どもたちを能動的に動くことが出来ない状況に閉じこめてしまうと、意志が育たなくなってしまうと言うことです。現代の子どもたちの多くは、大人が管理している環境の中だけで生活しています。家の中はもちろん大人が管理している場所です。ですから、家の中にあるものを勝手にいじったり、壊したり、散らかしたり、汚したり、切ったり、壊したりすることはできません。時には大きな声を出したり、走り回ることさえ許されません。おもちゃで遊ぶことは許されていても、片づけないと叱られます。でも、子どもにはその「片づける」という感覚が分かりません。野山や森の中で遊んでも、その後片づける必要などないからです。花摘みをして遊んだ後、帰る時にはまた花を元に戻すなんて事できないのです。「片づける」という概念は人工的な環境の中でしか意味を持たないのです。自然の中での遊びは常に「不可逆的」なんです。虫を捕まえて殺したら、生き返らせることなど出来ないのです。それが出来るのはゲームの中だけです。そして、まだ生理的に「自然」に近い状態の子どもたちの感覚も不可逆的です。子どもたちは常に「次は何をするか」ということしか考えていません。ですから、「元の状態に戻す」という考え方を理解することが出来ません。子どもたちの感覚は常に未来に向かってしか働かないのです。だからドアも閉めないのです。大人達が片づけることにこだわるようになったのは人類が「家」というものや、人工的に管理された環境の中で暮らすようになってからでしょう。それは人類の歴史で言うとつい最近のことです。でも、子どもたちの感覚はまだそれ以前の状態です。大人でも片づけることが出来ない人がいますが、もしかしたらそれは「先祖返り」なのかも知れません。今、子どもたちが自由に行動することが出来ないのは、家の中だけではありません。お店や町の中はもちろん、公園でさえ行動を規制されています。水を出しっぱなしにしたり、穴を掘ったりすれば叱られます。木登りすら注意されることがあります。大きな声で騒いでいると「うるさい」と怒鳴られることもあります。野山や森の中で遊んでいる時には考えられないことです。今の子どもたちは、常に大人の監視と管理下で、大人が子どものために用意した遊具や、おもちゃや、環境の中で、しかも大人のルールに合わせてしか遊ぶことが許されていません。そして最後には必ず「大人の価値観に合わせて」片づけなければいけません。それはつまり、そこで遊んだ痕跡を残してはいけないと言うことです。全ての時間を「ひまつぶし」にしなければいけないということです。子どもが子どもらしく活動する「子どもの時間」には価値がないということです。私は「冒険クラブ」という外遊びの会を企画しています。その遊びの会ではここ3年ほど、ススキの原野の中に「家」(基地?)を作る遊びをやっています。外から見えないようなススキの林の奥に、大人も子どもも協力し合って家を作るのです。2008年の写真は「2008年12月22日のブログ」で見ることが出来ます。材料は現地にあるものだけを使います。だからそのままの状態で置いておきます。片づけたりはしません。でも、どうもその「家」が今でも残っているようなのです。ススキの林の中に探検に行った子どもたち数人が見つけてきたのです。でも、大人を連れに戻ってきて再度探してみると見つからないのです。すごく不思議でした。残しておいたからまだ「物語」が続いているのです。それを「終わったら元の状態に戻そうね」と言われたら「遊びの物語」はそこで終わってしまいます。子どもたちの秘密基地も同じです。遊び終わったら片づけなければいけない状況では、決して秘密基地を作ることは出来ないのです。地面に穴を掘って遊びます。翌日もその場所に行くとそのまま穴があります。だから遊びや物語が継続していくのです。先日、友人達がプレイパークを広める活動をしている人を呼んで講演会を企画しましたが、その方も「プレイパークでは片づけることを強制しない」と言っていました。でも、普通は大人が管理している場所ではそのようなことは許されません。管理されている公園で遊ぶ時には、大人が子どもを管理しないといけないようなシステムになっているのです。また、管理された公園が好きな人は、子どもを管理することにも熱心です。そのため公園が、「子どもたちの遊びの場」ではなく「大人達のしつけの場」に変化してしまっています。洋服は汚さない、水は出しっぱなしにしない、友達のものは取らない、友達におもちゃを貸してあげる、ケンカはしない、最後は片づけ、手を洗うなどなどです。そして、子どもたちが能動的に活動しようとすると、ストップをかけます。なぜなら、子どもたちが能動的に動き出すと大人の予想を超えたことを始めてしまうからです。でも、それを繰り返していると、確実に子どもたちの意志は萎えていきます。昔、「ノミ」に芸をさせる大道芸があったそうです。「ノミ」とは犬や猫の血を吸う虫です。まず、芸をさせるためにピョンピョン跳ねないように仕込むそうです。どうやってやるのかというと、天井が低い入れ物に入れておくのです。すると、高く飛び上がると天井にぶつかります。ずーっとそのような状況で飼っていると、「ノミたちは高く飛び上がっても無駄なんだ」ということを学習するようです。すると、広い場所に出しても、ピョンピョン跳ねなくなるのです。「しつけ」ばかり気にしている大人達は、子どもたちが能動的に動き出さないように一生懸命になって、「ノミの訓練」をやっているのです。でも、私も大人ですから、きれいに管理された公園などでは好き勝手に遊んではいけないことぐらい分かります。花壇の花を摘んではいけません。水を出しっぱなしにしてもまずいでしょう。穴を掘って水を入れ、ドロンコだらけにして、しかもそのままにしておくことも許されないでしょう。また、家の中も片づけたり、きれいにしたり、掃除することの大切さが分からないわけではありません。家の中が散らかったままでは困るということも分かります。汚れたままでは不衛生だということも分かります。でも、そういう環境だけでは、子どもたちは自分の感覚や、感情や、能動的な意志を育てることが出来なくなってしまうということです。だから、子どもたちを野山や森の中に連れ出して欲しいのです。子どもの育ちには子どもの自由になる自然と時間とそして仲間が必要なのです。でも、日常的に管理された環境の中で暮らしている子どもたちは「自然」に対して違和感を感じるようになってしまっています。自然の中に入っても退屈してしまいます。待っていても何も始まらないからです。そういう子どもたちは仲間と一緒に能動的に遊ぶ楽しさより、個人的に何かを所有したり、機械や大人などに「依存する遊び」を求めます。そのような子どもたちの「一緒」とはプリクラの中や、携帯やパソコンの掲示板やネットゲームの中にしかありません。生身のからだで関わり合うような「一緒」には興味がありません。そして感覚や感情や能動的意志を育てることが出来ないまま大人になっていきます。でも、それでは社会の中で自立することも、子育てをすることも出来ないのです。企業もまた、ネットや携帯でしかコミュニケーションを取ることが出来なかったり、実際にからだを動かして能動的に行動することが出来ない人には興味がありません。
2010.11.29
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多くの人が、毎日「目の前の出来事」に追われ、過去のことに苦しみ、未来のことに不安を感じながら生きています。でも、そうでない人達もいます。そのような人は「自分の人生の意味」を知り、「生きる目標」を持って生きています。「自分の人生の意味」を知り、「生きる目標」を持って生きている人にとっては、そうでない人にとっては「苦しみ」や「悩み」以外の何ものでもないものでさえも、「試練」や「自分を育てるもの」として受け取ることが出来ます。そして時には、「そのこと(人)のおかげで今の自分がいるんです」と感謝までする人もいます。中国杯で事故に遭いながらも奇跡的な復活をしたフィギャースケートの羽生結弦くんなども、「自分の人生の意味」を知り、「生きる目標」を持って生きている人です。だから、あんな事故に遭いながらも、「わたしはなんて不運なんだ」などと卑屈にならずに、更に強くなって生まれ変わることが出来たのです。でも、普通の人はそこでくじけてしまうでしょう。同じ出来事に出会っても、そこから「学べる人」と、「学べない人」がいるのです。そして「学べる人」は困難に出会っても泣き言を言わず、常に前向きです。一般的には、そのような人を「強い人」と言いますが、でも実際にはそのような人は「強い人」ではないのです。むしろ、「自分の弱さを知り、それを受け入れることが出来ている人」なのです。だからこそ、その「苦しみ」によって学ぼうとするのです。そんな時、いつも困難から逃げ回り、不平や不満ばかり言っている人には、その姿が「強さ」に見えてしまうだけです。「苦しみ」は、逃げても逃げても、どこまでも追いかけてきます。決して逃げ切れないのです。むしろ、雪原で雪の玉を転がすようにドンドン膨らむばかりです。私は弱虫ですからそんな怖いことは出来ないのです。強いから逃げないのではなく、逃げたらもっと苦しくなることを知っているから逃げないだけなのです。それに、逃げずにしっかりと向き合えばその「苦しみ」は多くの学びをもたらしてくれます。「喜び」はその「苦しみに耐える力」を育ててくれますが、人は「喜び」からよりも「苦しみ」からの方が多くを学ぶことが出来るのです。でも、その仕組みが分からず、逃げる癖がついてしまっている人は、「弱さ」を口実に、簡単に逃げます。そのうち、何から逃げているのかも分からなくなりますが、逃げていないと不安なので逃げ続けます。そして、やがて人生の最後を迎えます。そのような生き方をしてきた人は、人生の最後にどのような「自分の人生」が見えるのでしょうか。「本当の苦しみ」は、外側からやってくるのではありません。実は、「逃げ回ることばかり考えること」こそが「苦しみ」の根本的な原因なのです。人は、自分で「自分の苦しみ」を生み出しているのです。そのように逃げ回るだけの人は、「自分の人生の意味」を知らず、「生きる目標」を持つていない人です。だから、「目の前の苦しみを避ける」という生き方しか出来ないのです。「自分の人生の意味」と「生きる目標」を持っている人には、感覚的に「逃げたらもっと苦しくなる」ということが分かるのです。では、どうやったら「自分の人生の意味」と「生きる目標」を見つけ出すことが出来るのかということです。それが、昨日、茅ヶ崎でやった「自分史を語ろう」というワークの課題でした。(「表現ワーク」というテーマで、土曜か日曜の月1でやっています。参加費は当日払いです。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。会場は、JR茅ヶ崎駅近辺の公共施設です。)チラシはここです。
2014.12.15
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今日の午前中は、地元茅ヶ崎で主宰している「ポランの広場」という親子遊びの会でした。わらべうたをしたり、隠れんぼをしたり、簡単な造形をして遊びました。今日やった造形は、10/2のブログで「何でも美術館」という名前でご紹介したものです。今日のブログは、その作品展です。でも、全部はご紹介し切れません。一部です。ドングリで作ったペンダントです。ドングリにヒートンを付けてひもを通しただけですが、すごく素敵です。「額」のようにしたみたいです。「木」と「空」かな・・・。不思議な作品です。“ドングリサークル”森の中のカエルかな・・・。木の上のウルトラマン??????**********************どうですか。素敵でしょ。しかも、簡単です。近くの公園でも構いませんから、是非、お子さんと試してみてください。ちなみに私は子どもとの遊び方を知っていれば、子どもの育て方なんて知らなくても、子どもはちゃんと育つと思っています。というより、子どもの育て方は“子どもとの遊び”の中に全て入っているのです。多くのお母さん達とお話をしていると、ほとんどの場合、子育ての悩みは究極のところ“子どもとのコミニケーション”の問題に帰結するようです。子どもが出来ないことを子どもに要求する。子どもに理解できない言葉で子どもに指示を出したり、子どもと会話しようとする。子どもの考え方、感じ方を知らないで、思いこみで子どもと関わろうとする。知識だけで子どもを見てしまうので、目の前の子どもの現実、状態に気付かない。などなどです。でも、これらの問題のほとんど全てが、子どもと楽しく遊ぶ過程で、自然に解消されてしまうものばかりなんです。眉間にしわを寄せて、育児書を読むより、子どもと森の中でお散歩したり、遊んだりしてみませんか。難しい理屈などなくても、それで子どもは育ってしまうのです。私は、今お母さん達に必要なのは“子育ての知識”ではなく、“子どもとの遊び方”を知ることなのではないかと思っています。だって、子どもが一番理解できるコミニケーション方法が“遊び”なんですから。それは、子どもたちが遊んでいる様子を見ればすぐ分かることです。子どもたちは遊びに関係しない会話はしないものです。子どもとの遊び方を学ぶと、子どももお母さんも救われますよ。
2005.10.04
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昨日の「自己肯定感」と「自尊心」について少し補足を入れます。私は「自己肯定感」と「自尊心」は同じものではないと考えています。自己肯定感が存在するためには「自己」を肯定する「もう一人の自己」が必要です。つまり、「自分の中の他者」がどのように「自分」を評価するのかということです。その「自分の中の他者」が「現実の自分」に理想を押しつけて、「現実の自分」を否定してしまう時、「自己肯定感」は低くなります。「こんな事も出来ない自分」、「こんなにも太った自分」「こんなにも頭が悪い自分」を否定する「自分の中の他者」がいるから、「自己肯定感」は低くなるのです。そして、その「自分の中の他者」は、幼い頃から自分に向けられ続けてきた「他者からの評価」によって作られています。つまり、「自己肯定感」は「他者」によって作られた、社会的なものであると言うことができます。ですから、自分で自分を否定することを止め、ありのままの自分を肯定することが出来るようになれば、「自己肯定感」は高くなります。それに対して、「自尊心」は社会的なものではなく、もっと絶対的なものです。人間はどんなに落ちぶれ自己肯定感が低くなってしまっていても、自尊心だけは失いません。アル中になり、無職になり、誰からも相手にされなくなり、自分なんか何の価値もないんだ、と思っている人でもバカにされれば腹が立つのです。「私は全くダメな人間だ」「僕はバカだから」と、自分で言っている人でも、他人から「そうね、あなたはダメな人間ね」、「本当におまえはバカだな」と言われれば腹が立つのです。いつも自分が言っている言葉でも、他人から言われたら腹が立つのです。なぜ腹が立つのかというと、「自尊心」があるからです。そしてその「自尊心」は死ぬまで消えません。痴呆で昔のことをみんな忘れてしまったような人でも、意識が残っている限り自尊心だけは消えないのです。だから、赤ちゃんのようになってしまったお年寄りでも、赤ちゃん扱いされれば悲しくなるのです。障害を持っている子どもたちでも同じです。また、「自己肯定感」というものをまだ持っていない時期の子どもたちですら、ちゃんと「自尊心」は持っていて、否定されたら悲しくなるのです。だから、自分をバカにする人や、指示命令を押しつける人の言うことは聞かないのです。その「自尊心」を傷つけられることで「自己肯定感」が育たなくなるのです。だからこそ、自己肯定感が低いと苦しいのです。「自尊心の傷」が苦しみを生み出すのです。でも、「自尊心」そのものは増えもしないし、消えもしません。傷つきながらもあなたの「魂」を支えようと頑張るのです。「自尊心」とは、「自分の生命を肯定しようとする無意識の衝動」なのです。それは社会的なものではなく、「魂」の働きによって生まれています。ですから、「自尊心」を失う時、人は生きる気力を失い、死にます。ただし、その自尊心がどのようにその人の人格の中に現れているのかということは人それぞれです。自己肯定感が高い人は、自分の自尊心をあまり外に出しません。ですから、バカと言われても、デブと言われても、笑ってやり過ごすことが出来ます。でも、自己肯定感が低い人は自尊心が表に表れていて、ちょっとのことで傷ついてしまいます。単純な論理で考えてみたら、自分で自分のことをバカにしているのですから、他人から同じことを言われても傷つかないはずなのに、なぜか傷つくのです。このような人たちには二つのタイプがあるように思います。一つは、過剰に自分を大きく見せて、自分のことを認めさせようとするタイプです。それが昨日書いた「自尊心が高い」状態です。「クレーマー」と呼ばれる人たちもこのような人たちなのでしょう。このような人たちは「自尊心」が傷つくようなことに対しては過剰に反応します。もう一つのタイプの人は、これ以上「自尊心」が傷つかないように、心に鎧をまとって目立たないように生きています。そのような人は、人から何か言われそうになると、先回りして自分で「自分」を否定してしまいます。他人に否定されるより、自分で否定した方が「自尊心」が傷つかないからです。でも、この両者の間の境界は明確ではありません。状況によってあっちに行ったり、こっちに来たりします。この両者に共通する特徴は、常に人目を意識していることです。そして、常に緊張していて、からだがゆるみません。そして物事を「自分中心」に理解します。「自分(自尊心)」を守ろうとするからです。
2010.02.06
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先日の福岡の事件のあと、いじめていた子どもたちは反省したのかというとまた新しいターゲットを見つけていじめているそうです。同級生が死んでも、先生や親に叱られてもいじめをやめることはできないようです。それを、“反省していない”と怒る大人はいっぱいいますが、“どうしてやめられないのか”ということを子どもの立場から論じた文章をあまり見たことがありません。“どのようにやめさせたらいいのか”、“先生や親は何をしているのか”という大人側からの議論ばかりです。イジメをやめることが出来ないのは、それがその子達にとって楽しくて、気持ちがいいことだからです。(この“気持ちいい”ということは、誰かをいじめると、自分が楽になるということです)自我が未成熟な少年達にはそんな快楽への欲望を抑えることはできないのです。(つまり、イジメをしない子はイジメが楽しくない、気持ちがよくない子だということです。)だから、叱るだけでは何の意味もないのです。善悪の判断で自分の行動を制御出来るようになるためには自分の頭で考え、自分の意志で行動することができる強い自我が成長する必要があるのですが、日本の教育は従順な子どもを育てるばかりで、自我がしっかりとしている子どもはかえって“扱いにくい子”として嫌われます。そして、事件が起きても“イジメはやめよう”、“生命を大切にしよう”などと意味のないスローガンを繰り返すばかりです。(どのような思考回路を持っているのか、理解不能です。)また、ストレスをため込んだ子どもたちにとっては、イジメはストレス発散ですから気持ちもいいでしょう。それは、大人でも同じことです。お母さんが子どもを怒鳴ったり叩いたりするのもストレス発散です。(怒鳴らないお母さんは、ストレスが溜まっていないだけのことです。ですから、怒鳴らないように頑張っても無駄なことです。)怒鳴っても、叩いても無駄なことは知っていてもとにかく溜まったストレスを一度発散しないことには次の行動に移れないのです。過度のストレスは思考を停止させ、心とからだを縛り付けてしまうからです。だから、毎回怒鳴った後で後悔しているのに、怒鳴る前にはそのことを忘れてしまうのです。大きな声で怒鳴るより、子どもの近くによって子どもの目を見てしっかりとした声で、はっきりと伝える方がずっと子どもの心に届くのです。家庭でお母さん、お父さんに怒鳴られ、学校で先生に怒鳴られ、ゲームはするな、勉強をしろ、勉強しないと落ちこぼれるぞと脅されている子どもが、大人の目の届かないところで密かに楽しんでいるのが“イジメ”というゲームなんです。だとすると、子どもたちを叱っても無駄です。(叱ることは大切です。でも、それだけではイジメという行為をやめさせることは出来ないと言うことです。)お母さん達も“子どもを怒鳴らないで”と言われても、そう簡単にやめられませんでしょ。じゃあ、どうしたらいいか。お母さんが子どもを怒鳴らなくてもすむようにするのにはどうしたらいいのか。まずは、パートナーがしっかりと支えてあげることが必要でしょうね。真剣に話を聞いてもらえるだけでも楽になるものです。子どもの場合で言えば、先生や親がしっかりと子どもを支えてあげることが必要だということです。“何でそんなこともできないんだ”と追い立ててしまうのは逆効果です。自分の身に置き換えてみれば誰にでも分かることです。そうですよね、お母さん、お父さん、そして先生。大人たちが子どもたちをガケ際にまで追いつめておいて、“飛び降りるな”と言うのは矛盾しているのです。ただ、こういうことを言うと“子どもを甘やかすな”と言う人が必ずいるのです。“子どもを支える”ということと、“甘やかす”こととは全く次元の違う話なのに、それが理解できないのです。そのような人は寂しい人生を生きてきたのでしょうね。///////////////////////ネットの「福岡ニュース」というHPに以下のような記事を見つけました。筑前町の中2自殺:いじめ真相究明へ批判続出--県議会文教委 /福岡その最後に これらに対し、森山良一教育長は「いじめは必ず起きる問題という前提に立ち、早期発見に努めていきたい。(いじめを受けている生徒が)先生やカウンセラーに相談したことが分かれば『チクリ』と言われかねない状況があるかもしれない。そのため、生徒がいじめを訴えられるような取り組みを考えていきたい」と述べた。とまとめてあります。つまり、イジメの土壌はそのままにしておいて、苦しんでいる子だけを保護すれば“問題解決”ということのようです。とにかく死者を出さなければいいのでしょう。“生かさず殺さず”、まるで江戸時代のようですね。以下は「慣用語辞典」からの引用です。江戸時代の農民政策です。 ・生かさず殺さず(いかさずころさず) 積極的に生かそうともしないし殺しもしない、という意味で、中途半端な状態において苦しめる。やっと生きてゆける程度の苛酷な状態に置いておくこと。 類:●生(なま)殺し<追記><福岡いじめ自殺>「笑顔忘れない」生徒らの寄せ書き届くこれにはぞっとした。 誰が書かせたんだ。
2006.11.11
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子どもを大切にしない社会は必ず滅びます。これは当然の流れです。確かに、社会を動かしているのは大人です。でも、その大人は子どもが成長した結果です。誰一人として、子どもという過程を通らないで大人になることは出来ないのです。そして、社会を正常に動かし、人々が平和に幸せに生きることが出来るような社会を作り、それを維持するためには当然のことながら、それ相応の能力が必要になります。肉体的には大人であってもその能力を持たないものが社会を支配したら、社会が乱れ、人身も道徳も荒廃し、人間性も精神文化も失われ、社会というシステムを維持出来なくなります。家族というシステムすら維持出来なくなります。だからこそ、子育てや子どもの教育から手を抜いてはいけないのです。でも、現代の大人たちは、子どもたちの「平和で幸せな社会を作り出し、維持する能力」を育てるのではなく、「すでに出来上がっている社会に適合するような能力」ばかり育てようとしています。でも、「すでに出来上がっている社会に適合するような能力」だけでは、社会の流れがおかしな方向に向かい出してもそれを矯正することが出来ません。そのことに気付くことすら出来ません。むしろ、その流れを加速してしまいます。同じようなことが第二次世界大戦の時にも起きていました。国民がみんな軍部が作り出した社会に適合することばかりを目指すようになってしまったため、泥沼に入り込んでも抜け出せなくなってしまったのです。「人間にとって一番大切なものはなんなのか」、私たちはそれを見失ってはいけないのです。子育てや教育の場でもそのことを一番大切にすべきなんです。そのためには、子どもを大人や社会に合せようとするよりも先に、「人間にとって一番大切なことは何なのか」ということを「普遍の世界を生きている子ども」から学ぶ必要があるのです。子どもから笑顔が消えていたら、家庭や学校や社会は間違った方向に進んでいるのです。
2023.01.05
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森の中に行きます。この時期であれば、そこには多くの落ち葉やどんぐりや小枝が落ちています。その落ち葉をかき分けてまあるく地面を出します。そこだけ地面が現れるのです。するとそこが「異空間」になり、そこから新しい物語が始まります。全てが「一番エネルギー的に安定した状態」、つまり、葉っぱや枝が横たわっている状態の所に、枝を一本立てます。すると、その一本の枝にエネルギーが集中し、その場が不自然な状態になります。その不自然さが「異空間」を創り出し、新しい物語が始まります。木の枝などの「棒」は一種のアンテナです。そのアンテナを地面に立てることで天と地がつながります。子どもは棒を持つことでそのアンテナを通してエネルギーを得ることができます。だから子ども(特に男の子)は「棒」が大好きなんです。枝を二本立てればそこに「門」が出来て、世界が「この世」と「あの世」の二つに分かれます。枝を何かを囲うように立てれば、そこに結界が生まれます。それは他者が入ることが出来ない空間であり、時に檻にも家にもなります。乱雑に落ちている枝を直列的や並列的に並べても、異空間は生まれます。直列的にならべれば何かの境界になり、並列的に並べれば道のようになります。どんぐりを拾って、丁寧に並べるとそこから物語が生まれます。大きい順、小さい順に並べるとまた違う物語が生まれます。落ち葉を拾いその上にどんぐりや木の実を並べると、お茶碗やお皿が生まれ、人間の物語が始まります。落ち葉を集めて山を創ると、その山は世界の中心になります。落ち葉を集めてベッドのように盛り上げ、周囲に枝を四本立てると「家」になります。ここに書いたようなことは古代人の感性であり、また子どもたち本来の感性でもあります。このような感性があったから古代人も、また子どもたちも自然と対話することが出来たのです。そして実は、本来「創造する」とはこのようなことなのです。「物」を作ることではなく、「物語」を創り出すことなのです。自分の意志で「新しい世界」、「新しい物語」を創り出す行為こそが「創造的な行為」なのです。だからこそ、地面に一本、棒を立てるだけでも「創造」なんです。そこから物語が始まるのですから。ですから、あなたが今までやったことがないことに挑戦するのも「創造」です。疲れてイライラしている時に、ニコッと笑ってみるのも「創造」です。会社や買い物に行く時に、新しい道を開拓するのも創造です。朝7時に起きていたのを6時にするのも創造です。そして、疲れていても「おはよう」と笑顔で挨拶するのも創造です。今まで挨拶をしたことがなかった人に挨拶をするのも創造です。なぜなら、みんな「自分の意志で新しい世界、新しい物語の始まりを創り出す行為」だからです。そして、一人一人のそのような創造的な行為が社会を創り、社会にエネルギーを与えていたのです。芸術家は作品を創造しますが、でも、芸術家にとっては「作品」を作るのが目的ではありません。芸術家はその作品を通して「新しい世界」「新しい物語」を創り出そうとしているのです。その「新しい世界」「新しい物語」の依り代として「作品」という存在が必要なのです。それに対して職人は「作品」を作ることだけが目的です。ちなみに、自分で自分を成長させようとするのは最高レベルの「創造」です。でも、現代人はこのような「創造」をしなくなりました。そして、自分の意志と行為で新しい世界、新しい物語を創り出すことをせず「他人が作った物語」に依存してばかりいます。また、今流れている物語に流されるままに生きています。だから「自分なりの価値観」「自分なりの考え」「自分なりの判断」を持つことが出来ないのです。そのような人はすぐに「だってしょうがないじゃない」と言います。当然の事ながらそのように言う人が多い集団や、社会は崩壊します。ちなみに最初に書いたような古代人の感性は現代人にも残っています。「東京スカイツリー」にみんなの関心が集まるのも、あの塔が古代人的な感性を刺激するからです。新しい発明や発見に夢中になるのも、「新しい物語」や「新しい世界」とつながりたいからです。毎年変わるファッションに振り回されるのも、ファッションを変えることで「新しい物語」や「新しい世界」とつながることが出来るような気がするからです。ただ問題なのは、現代人はその「新しい物語」や「新しい世界」を他人に依存してしまっていることです。だから魂が満たされないのです。塔ができあがっていくのをただ見ているのではなく、(たとえ小さくても)自分で塔を立てた方がずーっと魂は喜ぶのです。
2011.11.06
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コメントに対するご返事は明日書かせていただきます。土、日と山北にある「ペガススの家」で思いっきり遊んできました。前日が雷雨で、川遊びができるかどうか心配したのですが、現地に向かう途中の川の下流は濁流になっていましたが、「ペガススの家」はかなり上流なので水もそれほど濁っていなくて、水量も少し多いくらいでなんとか遊ぶことができました。(大人達は適当な位置にいてちゃんと子どもの安全を見守っていました)この「冒険クラブ」のメンバーはとにかく大人が元気です。子どもより大人がはしゃいでします。だから、子どもたちも巻き込まれていっぱい遊んでしまいます。この時も子どもたちはしばらく遊んで“もういい”と上がってしまったのですが、大人達がいつまでもはしゃいで遊んでいるのでまた水着に着替えて遊び始めました。「冒険クラブ」の大人達は昔楽しく遊んだ記憶をいっぱいもっています。だから、すぐに子どもに戻って遊ぶことが出来ます。でも、今その記憶を作っている状態の子どもたちには遊びのリーダーが必要なんです。滝行です。ここは普段はちょろちょろしか流れていないところです。でも、これだけの水量がありました。例年滝ジャンプで使っている場所は初日は水が多すぎて無理でした。でも、二日目は快晴で水もかなり引いたので、小学生を中心に「滝ジャンプ」をしました。でも、私はパン焼き窯に火を入れるのが忙しくて写真はありません。これは夜の遊びです。グループに分かれてテーマを考えて簡単な劇遊びをしました。このグループは茅ヶ崎名物「烏帽子岩」の物語です。観客達です。総勢47名でした。次は富士山の生い立ち富士山です。これはオリンピックにちなんで「シンクロナイズドスイミング」です。この華麗な演技をご覧下さい。パン焼きの竈ですドラム缶風呂焼き上がったパンパン生地を竹に巻き付けてたき火で焼いて「まきまきパン」もやりました。そして、スイカ割り。今年のスイカ割りは豪勢でしたよ。なんたってスイカが8個もあったんですから。農業をなさっている参加者からの寄付です。他にも野菜をいっぱいいただきました。有り難うございました。
2008.09.01
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私たちの世界は「物語」で出来ています。「生きる」ということは「自分の物語を紡ぐ」ということです。「理解する」ということは、「様々な知識や出来事をテーマに沿って物語化する」ことです。「命を大切にする」ということは、「命が紡いでいる物語」を大切にするということです。「心」も物語で出来ています。だから、歌や踊りやお話や絵画といった「物語を含むもの」に触れると大きく反応し、影響を受けるのです。「思考」もまた物語です。因果を紡げば、結果としてそれは物語になるのです。お母さんやお父さんが、「自分の子どもの頃のこと」を語れば、それはそのまま物語になります。「命」がなぜ大切なのかというと、「命」を失ってしまったら「自分の物語」を紡ぐことが出来なくなってしまうからです。「殺す」ということは、その人が作ってきた物語を他者が勝手に断ち切ることです。だから、動物を檻の中に閉じ込め自分の意志で物語を紡げなくすることは、「命」を奪うことと同じ事になるのです。そして、「私の物語」と「あなたの物語」はつながり、絡み合って、さらに大きな物語の一部を形成しています。足下に咲いている草花も虫たちも、「命あるもの」は全て「自分の物語」を持っていて相互に絡み合っています。石や土や水のような「命を持たないもの」は、「命を持つもの達が紡ぐ物語」を支えています。そして、「命を持つもの達が紡ぐ物語」が、石や土や水のような「命を持たないもの」のあり方に影響を与えています。地球温暖化の問題は「人間の物語」が「地球の物語」と不可分であることの証です。そしてそれは「宇宙の物語」ともつながっています。また、「一人一人の物語」が集まって「社会の物語」が作られ、「社会の物語」が「一人一人の物語」に影響を与えています。その「全ての命の背景にある物語」を読み解ける人は、「他者の物語」も「自分の物語」も大切にしようとします。他の人がやっていることも大切にしようとします。幼い子どもがやっている「意味不明なこと」でも、大切にしようとします。問題は、現代社会には、欲望や不安に振り回されてばかりで、自分の物語を自分の意志で生きていない人が多いということです。それは、人間が「自然」や「命あるもの」から切り離されて生活するようになってしまったからなのでしょう。道具や機械は「人間が作り出した物語の小道具」に過ぎません。でも、小道具との関わり合いしかない状態で育ってしまった子は、「小道具としての生き方」しか分からなくなってしまうのです。その結果、便利な機械や、道具や、お金といった「小道具」に振り回される生き方しか出来なくなってしまうのです。そういう人は、自分の死が近づいたとき、自分の人生をどう総括するのでしょうか。人が死んだ後に残るのは「その人の物語」です。お金や物はすぐに「他の人のもの」になってしまいますが、「その人の物語」はその物語を語り継ぐ人がいる限りその人のものであり、その物語の中でその人は生き続けることが出来ます。本来は、一人一人みんなが「自分の人生」という物語の主人公なんです。そして、そこにはちゃんと「自分の物語のテーマ」があるのです。「自分の気質」を知ることはその「自分の物語のテーマ」を知るための役に立ちます。でも、自分の頭で考えずに人目ばかりを気にして、便利な機械や道具に依存する生活しかしていないと、「自分の物語の中での自分の役割」を見失い「人生という物語」の中で迷子になってしまうのです。そして、そういう人は簡単に「他の人の物語」も否定します。命も否定します。
2023.04.14
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現代人の多くが「競争に勝たないと幸せになることが出来ない」と考えています。だから、多くの人が子どもの幸せを願って子どもを追い立てています。まただから、子育てなんかでも助け合うことが出来ません。なんせみんな競争相手ですからね。みんなで助け合って子育てすれば、子育ては楽に、楽しく、そして大人にとっても子どもにとっても「学びの場」になるのに、みんな一人で「子育て」を抱え込んで苦しんでいるのです。これは社会全体の価値観が「つながり」よりも「個」を重視するようになってきたからなのでしょうか。問題は、社会の方は「個」を重視するようになってきたのに、「個」を育てるような子育てや教育の方は少しも進歩してこなかったことです。(教えられる人がいないのですから・・・)だから、精神的な自立が確立されず「個を生きる能力」が育っていない子がいっぱい育ってしまっているのです。実際、こんなにも「自由」が許されている社会に生きているのに、「自由」を謳歌して幸せに生きる事が出来ている人は少ないのではないでしょうか。多くの人が、私の教室の子ども達と同じように、何をしたらいいのか分からず戸惑っています。だから「人目」を気にして「人目」に振り回されてしまうのでしょう。またそのような人は、「つながりから切り離された個」という状態に不安を感じているので常に「何か」や「誰か」に依存しようとしています。「競争」に参加することでつながろうとしている人もいっぱいいます。他の人を否定することでつながろうとする人もいます。有名人を否定することで有名人とつながることが出来たような錯覚を感じる人もいます、でももし、本当に「個」を大切にしているのなら、他人の評価に基づく競争などには参加しないはずです。他の人を否定することで自分の存在感を演出しようなどとはしないはずです。実は、子育てで一番大切なことは「競争に勝つ能力」を育てることではなく「子どもの自立」を支えてあげることなんです。そしてこれは人間だけでなく、子育てをする全ての生き物に共通した原則です。そうでないと種が絶滅してしまうのですから。それが子どもを育てる意味でもあるのです。「競争に勝つ能力」も「自立する能力」として必要なものは親が子に伝えますが、単に「勝つことだけを目的としたような能力」を育てるようなことはしません。そんなことをしているのは人間だけです。また、「自立して生きていく能力を育てる」ということは、「一人ぼっちで生きていく能力」を育てることではありません。人間の社会は「人と人のつながり」によって支えられています。そのような社会で自立して自由に生きて行くためには「他の人とつながる能力」が必要になるのです。水の中にいるのに水を嫌っていたら泳げずに溺れてしまうのです。「仲間と助け合う能力」が育っていない子は自立できないのです。でも現代社会では、多くの人が自立よりも競争に勝つことの方を重視しています。確かに、自然界では競争に勝つことも自立には必要なことではあります。でも、それ以上に大切なのは仲間と助け合う能力を育てることの方なんです。実際、どんなに高い能力を持った人でも自分一人では生きていくことが出来ないのです。競争に勝ってもみんなから無視されたら生きていけないのです。逆に、それほど高い能力を持っていなくても、仲間と助け合うことで偉大な仕事が出来てしまうこともあるのです。
2024.06.05
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「魂」などいうものをテーマにするとなんか怪しいオカルトか宗教の話のように思われてしまうかもしれません。実際、普通の子育てや教育の場で「魂」につて語られることは滅多にありませんよね。シュタイナー教育は別ですけど。でも、「魂」という視点を持たないと「人間の教育」は出来ないのです。実際、「魂」という視点を持たない現代の教育が目指しているのは、「AIのような能力を持った子どもたちを育てること」ですよね。また我が子にそのような能力を望んでいるお母さんたちもいっぱいいます。だから早期教育に熱心だったり、子どもを勉強に追い立てているのでしょう。幼いうちから、子どもをテレビやスマホやタブレットなどに預けてしまっている人が「魂」について考えているとは思えません。そんな現代人が憧れる能力を持ったAIは「魂」というものを持っていません。ですから、自分の感性で「真・善・美」を判断することができません。AIによる判断は100%データに基ずくものであって、自分自身の感性によるものではありません。だから、どんなに高度な能力を持ったAIでも、「人を殺す方法を教えて?」と聞けば、なんの躊躇もなく教えてくれます。相手が子どもであってもです。AIを搭載した戦闘ロボットは、何の躊躇もなく人を殺すでしょう。こういう場合、普通の人間は躊躇しますよね。なぜ躊躇するのですか?それは「私の中のもう一人の自分」が自分の思考や行動を見ているからではありませんか。普通の人は「罰せられるから犯罪を起こさない」のではないですよね。「人を苦しめるようなこと」をすると、「もう一人の自分」が苦しくなるから「犯罪」を起こさないのですよね。その「もう一人の自分」を持っているのは人間だけです。だから監視する人がいなくても自制することが出来るのです。人間以外の動物たちはただ本能のままに行動するだけです。だから、自分と自分が戦うことで心が病むことがないのです。自分で自分を責めて苦しんでいる人がいっぱいいますが、それも「もう一人の自分」がいるから可能なんですよね。皆さんも「意識の主体としての自分」の他に、「自分を見つめるもう一人の自分」を持っていますよね。それを感じることが出来ますよね。中にはその「もう一人の自分」の働きが弱い人もいるかもしれませんが、そのような人はこのような面倒くさいブログは読まないと思います。私は、その「もう一人の自分」を「魂」だと考えています。だから「魂」は当たり前の存在であって、怪しい存在でも、特別な存在でもないのです。話しがオカルト的になったり面倒くさくなるのは、その「魂」が「輪廻」や「霊的な世界」という考え方と繋がるときです。でもそれは検証不能のことなのでここでは扱いません。私は原則として、皆さんが自分でも検証できるようなことしか書かないようにしています。でも今、その「もう一人の自分」の育ちが未熟なまま育っていく子どもたちが多いような気がするのです。そのような状態の人は「匿名」なら好き勝手なことを言ったりやったりしてしまいます。それを止める「もう一人の自分」が目覚めていないからです。子育てや教育を「魂の育ち」という視点から見直してみませんか。そうでないと、人間も社会もどんどん「人間らしさ」を失ってしまうような気がします。というか今もうすでに現在進行形ですけど・・・。
2024.06.10
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動物が危険や恐怖を感じた時には「戦う」、「逃げる」、「固まる」という中のいずれかの行動を取ります。人間もまた危険や恐怖を感じた時にはこの三つの中のいずれかの行動を取ろうとします。気質との絡みで言うと、胆汁質は戦い、多血や粘液は逃げ、憂鬱質は固まる傾向が強いような気がします。ピノコさんのお子さんの状態は、この、憂鬱質の「固まる」という反応だろうと思います。その時、自分の気持ちを説明するために「人が見ているから~するのがイヤだ」と言っているのだろうと思います。それはまた、幼稚園の中で自分が受け入れられていないように感じていることの表れでもあると思います。これは「自我意識」と似ていますが、「自我意識」ではありません。しいて言えば「自意識」です。「自意識」が強い人は人の目を気にします。その時、自分の意識は自分の中に閉じ籠もりっきりです。相手の立場に立って考えているわけではありません。自意識が強い子は、絵が上手に描けなくたって誰も文句も、非難もしないし、笑われもしない状況でも、勝手に自分の中に「文句を言う存在」「笑う存在」を作り上げて、怖がるのです。つまり、自分で作った物語に縛られてしまうのです。それに対して、「自我意識」とは「人目」を気にすることではありません。そうではなく、「自分自身のことを冷静に見る」意識のことです。ウィキペディアには「自己を対象とする認識作用のこと」と書いてあります。ですから、「自我意識」がしっかりとしている人は、「相手の立場に立って物事を考える」ということができます。そしてこれは人間にしかない能力です。この能力があるから人間は客観的に物事を見たり、考えたりすることが出来るわけです。そして、この能力は思春期が近くなると目覚め始めます。ですから幼稚園児にはありません。ちなみにこの自我意識の目覚めには個人差が大きく、大人になっても自分のことを客観的に見ることが出来ない人もいっぱいいます。また、何らかの精神的なトラブルでそのような状態になってしまう人もいます。そのような人は「思い込み」だけで自分のことや他の人のことを判断してしまいます。そして、「思い込み」と「現実」を区別することが出来ません。幼児は全くこの状態です。(大人にとっては困った状態ですが、幼児にとっては自然な状態です。)それがひどくなると「統合失調症」になります。これを「自我意識の障害」と呼ぶようです。ですから、このような人が一度悩みや苦しみにとらわれてしまうと、なかなか抜け出すことが出来なくなります。そして、他の人を非難、攻撃し始めます。自分を見つめることが出来ないので、苦しみの原因は全て他の人のせいだと思い込んでしまうのです。それに対して、「自意識」は人間以外の動物にもあります。動物達も他の個体の目や人目は気にしています。だから猿などでもボスの前では小さくなって、自分より下位の相手に対しては態度をでかくするのです。臆病な犬が知らない人に吠えるのも同じです。自我意識がしっかりとした人は人目がなくても、自分で自分をコントロールすることが出来ます。人目に振り回されません。それに対して、「自意識」だけで動いている人は、人目に合わせて行動するばかりなので、人目がない状態ではどうしていいのか分からなくなります。つまり、「自由にしていいですよ」と言われると困ってしまうのです。現代人は「自意識」ばかりが強くて「自我意識」があまり育っていません。だから「幼児化」してしまっているのです。そしてそれが学力の低下や、科学嫌いとつながっているのです。全ての学問は「自我意識」の産物だからです。また、自分のことを客観的に見ることが出来ないから子育てでも、子どもを虐待してしまうのです。では、この「自我意識」をどのように育てたらいいのかという問題です。実はここで必要になるのは「学ぶこと」(入力)と「表現する」(出力)ことなのです。学ぶだけでは自意識ばかりが強くなります。他者による正解ばかりが多くなるからです。表現するだけでは思い込みばかりが強くなります。自分だけの正解ばかりが多くなるからです。でも、この二つがつながる時「考える」という働きが目覚めます。科学について学びます。そして、それを実験(表現)で確かめようとします。でも、事実は知識通りにはなりません。それで考えます。そして、また学びます。そしてまた実験します。この繰り返しで、「事実とは何か」ということを見る目が育っていくのです。そして、その繰り返しが「自我の育ち」を支えてくれるのです。このように見ていくと、どうして今の日本の子どもたちの自我の育ちが遅れてしまっているのかがよく分かります。家庭の中にも教育の中にも「表現能力」を育てる場がないからです。
2010.09.04
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自然界にはライオンやクマやオオカミのようにからだが大きくて、力が強い動物もいれば、ウサギやネズミやリスのように、からだも小さく、力も弱い動物もいます。からだが小さく力も弱いウサギや、ネズミや、リスが、正々堂々とライオンやクマやオオカミと戦ったら100%負けます。時には殺されて餌になってしまいます。だから「力の強いもの」が増え、「力の弱いもの」が減るように感じますが、実際にはそうなっていません。数だけ比べたらからだが大きく力が強い生き物よりも、からだが小さく力も弱い生き物の方がいっぱいいます。それは、弱いものは弱いものなりの生存戦略と能力を持っているからです。まず、「憶病である」というのは非常に大切な能力です。強いものにとっては「憶病」は短所かも知れませんが、弱いものにとっては「憶病」は長所なんです。弱いものは逃げて、隠れて身を守るのです。それを卑怯だというのは強者の論理です。ウサギや、ネズミや、リスが「臆病者!」と言われて「僕は憶病なんかじゃない」と、正々堂々とライオンやクマやオオカミの前に出てきたら、簡単に食べられてしまいます。弱者が自分の身を守ろうとするなら、強者の論理に支配されてはいけないのです。「頑張れば何でも出来る」などというのも「強者の論理」です。世の中には頑張りたくても頑張れない人も、どんなに頑張っても結果が出せない人も、そもそも頑張り方が分からない人もいるのですから。また感覚が鋭敏である必要もあります。相手が自分の存在に気付く前に、こちらの方が先に相手の存在に気付く必要があるからです。中でも「音」に対する感受性は重要です。次に「匂い」です。視覚は最後の最後に相手を確認する時にしか役に立ちません。これは人間も同じで、視覚は「確認のための手段」なんです。そのため、「視覚」は「心」や「からだ」ではなく「頭」とのつながりが一番強いです。また、獲物を追いかける時にも視覚の働きが重要です。実際、鷹の視力はものすごく高いです。逆に、逃げる場合は「音」に注意する必要があります。追いかけてくる相手を目で見ながら逃げたら簡単に追いつかれてしまいます。他の動物が食べない竹を食べることで生き延びて来たパンダや、毒を持っているユーカリの葉を食べることで生き延びてきたコアラは、競争相手がいないため粘液的な特性を持っています。逃げるのではなく戦って生き延びてきた動物は吠えるなど相手を威嚇する能力を持っていますが、逃げることで生き延びてきた動物は吠えて相手を威嚇しようとはしません。また、群れることで身を守っている動物たちもいます。そのような動物たちは仲間とのつながりを大切にします。仲間の一頭が襲われたら、別の仲間が助けに入ることもあります。ただ、集団心理で行動しているので、集団で崖から落ちてしまうこともあります。自然界に生きている動物たちは自分たちの特性に合わせて生き延びるための様々な能力を身につけてきました。その能力の中にも四つの気質がちゃんと揃っているのです。人間は人間だけの群れの中で生きていますが、そこにも様々な生存競争があります。そのため、その生存競争を生き延びるための能力として、様々な気質を持った人達がいるのです。だからこそ、人は自分の気質を生かした生き方をする必要があるのです。弱いものが強いもののマネをしたら、絶対に強いものには勝てないのですから。また、年齢によっても能力は変化します。幼い子ども達は逃げる能力も戦う能力もないため、群れたり、他者に依存することで身を守ろうとします。そのため多血的です。自我が育ち、筋肉も、骨格も、体力も付いてくる思春期になると胆汁的になってきます。体力も気力も落ちてくる中年頃になると、憂鬱的になってきます。さらにからだが動かなくなって、自分で自分を守る能力が衰えてくると、子どもと同じように他者に依存せざる終えなくなります。仕事もなくなるのでボーッと粘液的に過ごすしかなくなります。いわゆる「ご隠居」です。ただし、今はそんな優雅なことを言っていられない社会になってしまったので、不安が強いご老人が増えて来ました。
2021.06.28
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現代社会は大量生産、大量消費によって支えられています。基本的にこれは「物」の話なんですが、でも、そのような社会を支える人材もまた大量生産・大量消費されています。それが教育や社会の現場で起きている現実です。建前的には「個」や「個性」を大切にすると言いますが、実際には「個を大切にした教育」も「個性を育てる教育」も全くなされていません。それは、現代社会では「教育」が「子どものためのもの」ではなく、「社会や国家のためのもの」になってしまっているからです。そのため、建前とは裏腹に、現代の教育システムは「個を大切にした教育」も「個性を育てる教育」も出来ないようなシステムになっているのです。これは現場の先生の努力だけではどうしようも出来ない問題です。何十人もの子どもを椅子に座らせ、同じ教科書を使って、ただ覚えさせ、競争させるだけの教育は正に「大量生産型」教育です。タブレットを使った教育が普及すれば、一人一人の進み具合や個性に合わせた教育も可能になるかも知れませんが、それでも「求められる結果」に個性はありません。最終的にはみんな「金太郎飴」になるように出来ているのです。「先生」が「タブレット」に置き換わってもそこは変わらないのです。また、タブレット学習には他にも様々な問題を抱えています。ちなみに、憂鬱質の子ども達はこのような教育システムに拒否反応を示します。なぜなら、憂鬱質の子どもは「自分のやり方」にこだわり、「相手」に合わせるのが苦手だからです。憂鬱質の子どもは「みんな一緒」が苦手なんです。でも、学校は「みんな一緒」を求めるばかりです。そのため、憂鬱質の子どもにとっては、「学校に行く」ということ自体が苦行のようになります。胆汁質の子も「みんな一緒」は苦手ですが、競争は好きなので、そこを刺激すれば、喜んで学校に行きます。多血質の子は、仲間がいて楽しければ喜んで学校に行きます。粘液質の子は「そういうもんだ」と思って、素直に学校に行きます。でも、憂鬱質の子にはそういう方法が通じないのです。それで学校に行くことが出来なくなり、シュタイナー学校に転校した子の話も聞いたことがあります。シュタイナー学校には喜んで行っているそうです。何人かから同じような話を聞きました。シュタイナー学校では子ども達を競争させません。「覚えること」よりも、「体験すること」や、「表現すること」や、「感じること」を大切にしています。それどころか、「忘れてもいいよ」などと言っています。だからといって「知識」を軽視しているのではありません。「まずはそこからでしょ」ということです。小さいときから「大人のような子ども」を求めるのではなく、「大人になるまでに一人前になればいい」という考え方です。子どもはまず「人間」として生まれてきます。その「人間」には一人一人個性があります。好きなことも、嫌いなことも、得意なことも、不得意なことも、心も、からだも、感覚も、考え方も一人一人違います。そのため、その「個性」に合わせないことには「子育て」が出来ません。同じように教えても、同じように叱っても、同じように愛情をかけても、同じように関わっても、その「個性」に合わせて、反応が一人一人ちがうのです。子ども一人一人の違いを否定するような「一斉教育」的な方法では、絶対に「子育て」は出来ないのです。そこが、社会人を育てるために作られた「教育」と、人間を育てるために生まれた「子育て」との決定的な違いです。このようなことはお母さん達が一番よく知っていますよね。「気質の学び」はその「一人一人の違い」を理解するのに役に立ちます。でも、子ども達を生き生きとさせるためには、それだけでは足らないのです。理解するだけでは育てる事が出来ないのです。そこで芸術的な関わり合いが必要になるのです。それは双方向的な関わり合いです。学校教育にはこれがないのです。でも、私たちには学校教育を変えることは出来ません。だからこそ、家庭の中では子ども達と双方向的に、芸術的に関わってあげて欲しいのです。
2015.04.30
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自分の「心とからだ」は自分にとっては「当たり前のもの」ですが、でも、他の人には「当たり前」ではありません。みんな持っているものなのに、自分以外の人の「心とからだ」は「当たり前のもの」ではないのです。また人は、決して、自分以外の人の「心やからだ」を、自分自身の「心やからだ」のように感じることも出来ません。そのため、他の人の「心やからだ」の状態を知ろうと思うのなら、その人の言葉や、表情や、仕草や、声や、姿勢や、行動や、目つきや、歩き方といった「目に見える現象」を通して推測するしかありません。でも、その場合でもその判断をしているのは「自分の心やからだ」なので、客観的にその相手の人のそのままの心やからだの状態が分かるわけではありません。「心やからだ」は誰でも持っているのに、他の人には決して開かれることのない最強のブラックボックスなんです。ちなみに、ひらがな表記の「からだ」は「心の状態とつながりながら生き生きと働いている状態の肉体」のことです。「主観的な身体」ということでもあります。「主観的な身体」ですから、医者が診察しても解剖しても見ることは出来ません。機械で観察することも出来ません。それでも、その人の言葉や、表情や、仕草や、声や、姿勢や、行動や、目つきや、歩き方といった「目に見える現象」を、その人の立場に立って理解することで、その人の「心」や「からだ」の状態を推測することは出来ます。ここで大切なことは「その人の立場に立って」ということです。逆に言えば、それは相手の立場に立って、相手の言葉や、表情や、仕草や、声や、姿勢や、行動や、目つきや、歩き方といった「目に見える現象」を理解しようとしない限り、永久に分からないということでもあります。でも実際には、その「相手の立場に立って」ということがなかなか出来ません。そのため、多くの人が「自分の心とからだ」は大切にしているのに、「他の人の心とからだ」は大切にすることが出来ないのです。クレーマーと呼ばれる人も、ヘイトを繰り返す人も、自分には関係がないことなのに匿名で人を非難する人も、他の人の立場に立つことが出来ない人です。そのような人達は、「子どもの立場に立った子育て」を受けてこなかったのでしょう。お母さん達は我が子の心やからだの状態に関心は持っていますが、「相手の立場に立つ」ということが出来ない人が多いので、多くのお母さん達が、「大人」とか「お母さん」という立場からの勝手な思い込みで、子どもの「心とからだ」を解釈してしまっています。だから、大人の価値観を押しつけ、それが「子どものため」だと思い込んでいるのです。そしてまた、喜々として泥だらけになって遊んでいる我が子を見て腹が立ってしまうのです。以前、うちでウサギを飼っていたとき、庭に生えている野の草をあげていたら、「そんな汚いものあげていたら病気になっちゃうよ」と言った女の子がいましたが、その子も同じです。そして、ここが重要なことなんですが、「相手の立場に立つ」ということが出来ない人は、「自分の心とからだの状態」もよく分かっていないのです。「自分以外の視点」を持つことが出来ない人は「自分自身の状態」も分かっていないのです。人は、自分がどんな状態の時にも、「自分」の中心にいます。そのため、「自分」の客観的な状態を知ることが出来ません。他の人の目には「変わっている人」でも、その本人は「自分は普通だ」と思い込んでいます。酔っ払っている人に「酔っ払っているからもうやめたら」と言っても、「俺はまだ酔っていない」と言い返してきます。またそれは、「あなたは今どこにいるのですか」と聞かれたときに「ここにいる」と答える人の状態と同じです。消防署への緊急電話でもこのような応答をする人がいるそうです。「火事です」と電話がかかってきたので、消防署の人が「どこが燃えているんですか」と聞き返すと「ここです、ここが燃えているんです」と答える人がいるらしいのです。その人はパニックになってしまっているので、消防署の人の立場に立って受け答えをすることが出来ないのでしょうが、普段からこのような考え方をしている人は多いです。肩がパンパンに凝っているのに「凝っていない」と言い張る人もいます。姿勢が曲がっているのに、曲がっていないと思い込んでいる人もいます。自分では笑っているつもりなのに、周囲の人には無表情に見えることもあります。自分では優しくしているつもりなのに、相手からは「怖い」と言われることもあります。充分に痩せているのに「自分は太っている」と言い張る人もいます。私がこのようなことを痛感するのは武術の練習をしているときです。自分では「出来ている」とか「分かっている」と思っていることが、実際に相手と練習していると全然出来ていないことを痛感することがよくあるからです。「本当の自分の姿」は他者との関わりの中で現れるのです。「思い込みの中の自分」は、あくまでも「自分にとっての自分」に過ぎないのです。
2018.05.10
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「あーやん」さんが学習支援ボランティア講座の講師の方(大学の先生)から聞く話では、先進国においては、障がい児と健常児を分ける「分離教育」から、個性に合わせて学ぶ「共生教育」にシフトしているそうです。また日本は一斉授業形式がほとんどですが、諸外国では様々な新しい授業形式を取り入れているようです。日本の場合は江戸時代の「寺子屋」のほうが、それに近かったような・・・?と書いて下さったので、今日と明日でこのことについて書いてみます。コメントを頂くと助かります。イジメや虐待のことを言うと、必ず「そういうことは昔からあった」と言う人がいます。確かに、そのようなものは時代、文化にに関わらず、昔から世界中であったと思います。でも、そのほとんどが「個人としての問題」でした。ですから、いじめる子もいたし、それを止める子もいました。また、いじめている子もそれを「悪いこと」として認識していました。だからといっていじめをしなかった訳ではないのですが、叱られたら「叱られた理由」ぐらいは分かったのです。昔の中高生もタバコを吸っていました。でも、隠れてです。「悪いことをしている」という認識があったからです。でも、今の中高生はその罪悪感が薄いようで、公民館のロビーなどで平気でタバコを吸っている子もいるそうです。それで職員の人が注意するのですが、「なにが悪いの?」とポカンとしてしまう子もいるそうです。我が家は家の前に自転車を置くスペースがあるのですが、今までそこから自転車を3台も盗まれました。鍵をかけていなかったのが悪いと言えば悪いのですが、「盗んだこと」より「鍵をかけていないこと」の方が責められるのはおかしいです。(今、困っています。それで鍵をかけるようにしました。通りに面しているとはいえ、家の敷地の中に置いてあるのに鍵をかけなければならないことに違和感を感じます。)公園で親子で遊んでいて、子どもが石に躓いたり、木登りしてケガをしたら、昔は「次は気をつけようね」で済んでいたのに、今では公園の管理責任の問題になってしまいます。万引きでも、昔は「悪いこと」という認識がありましたが、今では「欲しがるようなものを置いていることや、取りやすい状態で置いていることの方が悪い」と開き直る人も増えてきているようです。子どもたちも「ゲーム感覚」で万引きをしているようです。公園の花壇のお花をシャベルで抜いているおばちゃんを見かけたこともあります。それで「何してるんですか」と言ったら、コソコソとどっかへ行ってしまいました。散歩途中のような普通の身なりのおばちゃんです。そこにも罪悪感がありません。確かに、そういうことは昔からありました。また、罪悪感の薄い人もいました。でも今、日本人全体の感覚がどんどん麻痺してきているような気がするのです。簡単に言うと、みんな「自分のこと」ばかりしか考えなくなって来てしまっているのです。「個人として」ではなく、「社会全体が」ということです。「個人の問題」だったものが「社会の問題」へとレベルが変化してしまっているのです。自分のことしか考えない人には「罪悪感」は必要がありません。見つからなければいいのです。そのためネットでの悪口はひどいものです。匿名なら「見つからない」と思っているので、言いたい放題です。学校などでは、そのためネットなどを使う時のルールやエチケットなどを教えようとしているようですが、罪悪感が薄い子どもたちにルールやエチケットを教えても無意味です。今、家庭の中でも学校でも、子ども達は競争に追い立てられています。そして、「仲間とと共に」とか「お母さんやお父さんと共に」という体験をすることが出来ないまま成長しています。実は、「罪悪感」と呼ばれるものは、その「共に」を喜ぶ感覚の育ちと共に育つものなのです。自分のことしか考えない人、競争のことしか考えない人には「罪悪感」など必要がないのです。だから、小さい時から競争に追い立てられている子が「罪悪感」を育てることが出来ないのは当然なのです。でも実は、子どもは「競争」が嫌いなのです。それは競争をすると仲間を得ることが出来ないのと、競争の中では育つことが出来ないからです。それは本能的な嫌悪感だと思います。その逆に子ども達は「共に」が大好きです。その証拠に、「仲間と共に」、「お母さんやお父さんと共に」というつながりの中で生活している子ども達はニコニコ、生き生きしています。そして、心もからだも知性もバランスよく育っています。でも、大人達はそんな子どもの感性を無視して、子どもにも大人の社会と同じ「競争」を求めています。だから、子どもは自分を守ることに精一杯になってしまっているのです。そして、「自分を守ることだけ」に精一杯な子は「罪悪感」を否定します。「自分を守ること」と「罪悪感」が両立しないからです。(でも、自分に危害を加える人のことは非難します。自分も同じようなことをしていてもです。)ここいらで「新しい社会の形」「新しい教育の形」を模索していかないと、日本は非常に困ったことになってしまうと思います。自分を守ることしか考えていない人は、人の命のことも、自然のことも、地域のことも、日本のことも考えないからです。そこで重要になってくるのが「共に」というキーワードなのです。家庭の中に、地域の中に、学校の中に、どのようにしてこの「共に」を取り入れることが出来るのかが重要なのです。
2012.10.28
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人間は環境への適応能力に非常に優れています。ですから、暑いところ、寒いところ、山の上、海の上、森の中、砂漠などでも住むことが出来るわけです。道具を作る能力、道具を使う能力もその適応能力の一部です。また、様々なことが出来る身体能力も適応能力の一部です。そしてそれ故に、自分たちが住んでいる環境に適応するような形で、多様な文化や文明が生まれました。何も知らない、何も出来ない状態で生まれてくる赤ちゃんが、周囲の大人たちとの関わりを通して人間らしい知性と、様々な能力を身につけることが出来るのもこの適応能力の現れです。成長が必要な環境で育てられれば、子どもは成長することで環境に適応しようとするのです。でも逆に、成長が必要ない環境で育てられれば、子どもはその環境に適応し成長することをやめてしまいます。これは非常に簡単な原理です。そして今、多くの子どもたちが、その「成長が必要がない環境」の中で暮らしています。今、子どもたちに求められているのは「成長」ではなく「大人の要求に応えること」と「大人社会への適応」だけです。実際に私が見聞きしている範囲でも、日常的に子どもと接しているお母さんや、学校の先生が子どもに望んでいるのもそのようなことです。それがうまく出来ない子どもは「問題児」として扱われてしまいます。本来、成長という視点で見たら、幼稚園児に必要なものと、大人が必要なものは異なります。小一に必要なものと小三に必要なものも、小学生に必要なものと大人が必要なものも違います。お年寄りや身体に障害のある人たちにはエスカレーターは必要ですが、健康な子どもにはそのようなものは必要がないのです。むしろ害になります。忙しいビジネスマンには携帯もスマホも必要ですが、幼稚園児や小学生には必要がないのです。また、そういうものを必要としないような生活をする必要があるのです。携帯やスマホが必要な社会は大人の価値観に基づく社会です。昔の子どもたちは大人とは違う価値観、違う時間、違う情報、違う道具の中で生きていました。それは、子どもたちが「子どもたちの群れ」の中で成長していたからです。昔は、大人たちと同じように子どもにも「子どもの社会」や、「子どもの時間」や、「子どもの生活圏」があったのです。そして子どもたちはその中で成長していました。異年齢の群れの中では子どもたちは成長を競い合うからです。それが「成長が必要な環境」ということです。そのように、子どもが子どもの世界で生きていた時代には、子どもと大人の境目がはっきりとしていました。だから、子どもが大人になるときには特別な儀式が必要だったのです。その儀式を済ませて大人にならないとやってはいけないこと、入ってはいけない場所、持つことが許されないものがあったのです。これは何十万年も昔から変わらない成長の仕組みなのですから、たった数十年や100年程度の社会の変化に合わせて変化するわけがありません。でも今では、そのような「子どもの世界」は失われ、子どもたちは大人たちの価値観が支配する環境の中で、大人たちに合わせて生活しています。ですから、今時の子どもたちは「子どもらしいこと」には興味を示しません。水たまりに入って遊んでいる子を見ると、わざわざ注意してくれる子どもまでいます。私が裸足で遊んでいると「裸足はいけないんだよ」と子どもに叱られます。そして、多くの子ども達が大人の価値観を自分の価値観として取り込み、大人の真似をすることだけに一生懸命になっています。大人たちもまた子どもに対して、大人と同じものを与え、大人と同じように振る舞うことを求めています。そして、大人のまねをする子どもを見て「かわいい」と褒めます。でもそれは犬に洋服を着せ「かわいい」と言うのと同じです。それは大人の身勝手であり、人間の身勝手です。そのため、子どもたちが自分らしさを失い、大人の要求に応えるために過適応状態になってしまっているのです。その過適応状態に陥ってしまっている子どもは、大人に依存し、大人の顔色をうかがうことばかりに熱心です。そして、自分の頭で考えようとはしません。子どもが「自分の頭」で考えようとしても、子どもには大人が求めていることが理解できないので、大人の顔色をうかがうことによってしか自分の行動の是非を判断することが出来ないからです。また、大人は子どもが考えていることが分からないので、子どもが「自分の頭」でかんがえたことを、上から目線で簡単に否定してしまいます。そんな状態の今時の子どもたちが一番苦手なのが「自由」です。粘土の固まりを与えて、「自由に遊んでいいよ」と言っても、みんなどうしたらいいのか分からず、手が出ません。野原に連れ出して、「自由に遊んでいいよ」と言っても、ボールやゲーム機がないと遊べないと言います。大人が遊んでくれれば遊びますが、自分たちだけで遊びを発見し、みんなで遊ぶことはまれです。子どもの周囲に「自由に生きることのお手本となるような生き方」をしている人がいっぱいいれば、子どももそのような人をお手本にして「自由に生きる能力」を育てることが出来るのでしょうが、そういう人は滅多にいません。それでも、そのような子どもの状態に違和感を感じない大人もいっぱいいます。そのような人は「それが今時の子どもだから」、「それが今時の子どもの遊び方だから」、「そういう時代なんだからそれでいいんじゃないか」などと言います。でも、自分の頭で考えることが出来ず、他の人の顔色をうかがうことによってしか自分の行動の是非を判断できないようでは自分の人生を「自分の人生」として生きることが出来ないのです。会社に入っても指示命令に従って仕事をしているうちはいいですが、「自分の判断でやっていいよ」と仕事を任されたとたん、どうしていいのか分からずノイローゼになります。結婚して、二人で相談して色々なことを決めなければならない時にも、話し合いが出来ません。自分の頭で考えることが出来ない人は「話し合い」も出来ないのです。そして何より、そのような状態では「子育て」が出来ないのです。幼い子どもは自由に考え、自由に行動します。ですから、そのような子どもと関わり、つながり、信頼関係を築くためには大人もまた自由に考え、自由に行動する能力が必要なのです。ちなみに、この「自由に」というのは「自分勝手」とは違います。自分の感情や、価値観や、ブライドや、常識にこだわらず、その場の状況に応じて臨機応変に対応することです。「自分勝手」という状態はそれとは反対に、「自分」にこだわり、「自分」を押し通すやり方です。両方とも他の人の顔色を窺うことはしませんが、その中身は全く正反対です。
2024.04.06
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私たちは日常的に「感じる」とか「感覚」という言葉を使っていますが、その意味と役割と働きについて知っている人はほとんどいないと思います。だから、これほど早期教育や知育教育がもてはやされているのでしょう。そこに気づいたのが教育者としてはモンテッソーリとシュタイナーの二人でした。でも、二人はその感覚の捉え方においては全く異なっています。簡単に言うとモンテッソーリは感覚を「関わり合いによって育てるもの」と考え、シュタイナーは「環境の中で育つもの」と考えていたと言うことです。ただしこれは「極端に言うと」ということであって、その境界は曖昧です。環境を整えるのも間接的な「関わり合い」ですし、「関わり合い」もまた「環境」の一部ですから。そしてモンテッソーリは「関わり合いの方法」を創り出しました。それが「モンテッソーリメソッド」と呼ばれるものです。でも、シュタイナーはそのような具体的な方法を創ることはしませんでした。そのかわり、子どもの感覚が育つための環境をどのような視点に立って整えたらいいのかという思想を創りました。その「環境」の中には、大人の話し方や、立ち居振る舞いや、生き方や、住環境までも含まれます。だから「方法化」することが困難なんです。そのためモンテッソーリ教育では「大人が子どもを教育する」という立場を取りますが、シュタイナー教育では「大人は子どもの育ちの導き手」ではあっても、「教える」という立場の存在ではないようです。ですから、一般的にシュタイナー教育の先生は教えません。自分で気づくように環境や体験を整えるだけです。(ここに書いたことは学者でもない素人の私が、個人的な学びによって感じた感覚なので、もし専門に勉強なさっている方で、「ここは間違っている」という点がありましたらご指摘下さると嬉しいです。)そのためこの両者は同じように「感覚」に着目して、「子どもの感覚育て」を大きな柱にしているのですが、結果として子どもの中に育っていく感覚の質が異なっているような気がします。モンテッソーリ教育で育つ「感覚」は「外部を感じ取る感覚」がメインになると思います。そして一般的には「感覚」とはこのような認識で受け止められています。普通、「もっとちゃんと感じなさい」と言うときには、外部を感じる感覚を指しています。それは音であり、色であり、変化であり、動きであり、味やにおいや気配などです。ところが、(私が理解している)シュタイナー教育では、「(自分の)内部を感じる感覚」が育つような気がします。それは、快・不快の感覚であり、真・善・美の感覚です。「赤」と「青」を見分ける感覚ではなく、「赤」を味わい、「青」を味わう感覚です。「色」を見分けるのはそれほど難しくありませんが「音」を聞き分けるのはなかなか難しいものです。大人でも出来ません。違う「音」を並べてもらえば「違う」ということは分かりますが、時と場所を変えて聞かされると、比較できないために区別が困難になるのです。(本当は「色」も難しいのですが、色には「名前」があるので認識しやすいのです。)そんな時、自分の感覚やからだに響く感覚を味わうことが出来る人は、自分の感覚やからだが物差しになって、違う場所で聞いた音の違いを感じ分けることが可能になります。それはある意味で、「絶対感覚」というようなものだと思います。それに対してモンテッソーリ教育で育つのは「相対感覚」というようなものだと思います。ただし、この両者に好みの違いはありますが、優劣はありません。人間の生命や生活にとっては両方共が必要な感覚です。音楽の世界でも「相対音感」と「絶対音感」は両方共に必要なものです。ただ、芸術家などは「絶対感覚」がないと活動が出来ないと思います。でも、社会活動に必要なのは「絶対感覚」ではなく「相対感覚」のような気がします。心が病んでしまった人に対しては、シュタイナー的な「絶対感覚」を目覚めさせることが治癒につながります。「絶対感覚」が目覚めることで「自分」というものをはっきりと認識することが出来るようになるからです。心が病んでいる人でも「赤」と「青」を見分けることは出来ます。でも、赤い色を見て「赤」を味わい、「青い色」を見て「青」を味わい、その感じを言い表すのは困難なような気がします。そこには「自分との対話」が必要だからです。ですから、シュタイナー教育では「治療教育」というものに非常に力を入れています。この能力は社会生活には必要ありませんが、自分の生命を自分の意志で生きるためには必要な感覚だと思います。でも、現代社会ではこの感覚が完全に忘れられてしまっています。だから、心を病む人が増えているような気がするのです。ただし、しつこいようですが、私は「どちらが正しい」とか「どちらの方が良い」ということを言っているわけではありません。それよりも、物事を二つ以上の視点から複眼的に見ることの方が大切な気がします。どちらか一つだけに偏ると、「自由」を失い、長所も短所に変わってしまうものです。かといって、いわゆる「いいとこ取り」という考え方で、自分の立場をはっきりとさせないまま行うと、両方とも台無しになります。「自分の好み」に合わせただけの「いいとこ取り」は、「複眼」ではなく「単眼」だからです。
2012.03.15
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今日で、この面倒くさい話を終わりにします。私はこういうことを考えるのが好きなんですが、でも多分、そんな人間は少ない思うので・・・。*********生き物にとって「感覚」は、常に周囲の状況を感じ、その場、その時に最適な反応や、最適な行動をするためのものです。これは植物でも、昆虫でも、動物でも、人間でも同じです。そのため、常に自分の「外側の世界」に向けられています。「疲労感」や「空腹感」のように、「自分の内側」を感じる感覚もありますが、でもそれらは自分を「他者」として感じる感覚ではありません。そして、人間は「他者」として認識出来る対象しか意識化することができません。「他者」でないものは、見えても見えず、聞こえても聞こえず、感じても感じないのです。それは目の中の「盲点」と同じです。脳には見えているのですが、意識化出来ないのです。だから、「相手のこと」は分かるのに「自分のこと」は分からないのです。それは、月や太陽が動いていることは認識出来ても、自分が乗っている地球が動いていることは認識出来ないのと同じです。そして、「自分のこと」が分からないのですから、「自分」を変えることも出来ません。多くの人が「自分」を変えたいと思っていますが、でも、「知らないもの」を変えることなど出来ないのです。それにしても人間は不思議な生き物です。自然界には無数の種類の生き物がいますが、「自分で自分を変えたい」などと思っている生き物は人間だけです。それは、人間だけが「意識」という不思議な働きを持っているからです。この「意識」の働きがあるから、人は「自分」というものを認識することが出来るのです。そしてその働きによって、「自分の心」「自分のからだ」「自分の記憶」「自分の生命」「自分のプライド」といった「自分の・・・」というものを持つようになったのです。だから「自分を変えたい」などと思うのですが、でも実は、この「自分」という意識が人間の全ての「心の苦しみ」の原因でもあるのです。「自分」という意識が、「自分」と「他者」を分離し、対立や、戦いや、競争の原因にもなっています。「自分」を守るために他者をやっつけたり、競争に勝とうとするのですが、相手も同じことをしているわけですから、相手にしたことは自分に返ってくるのです。でも、本当は「自分」というものは実在していないのです。それは意識の働きが作り出した錯覚に過ぎません。それは、「意識」という「鏡」に写った像のようなものです。みんなが一人一個ずつ「鏡」を持っていて、それぞれが、そこに写っているものを「これが自分だ」と言い合っているのです。よく、「死ぬときには何も持って行けないんだよ」などと言いますが、「鏡」に写っているだけのものを持っていくことが出来ないのは当然のことです。それなのに、人は常に「自分」を基準にして、考えたり、感じたり、行動しています。そして、「自分」は常に変わることがない存在だ」と思い込んでいます。それは「地球」を基準にして星の動きを観察しているようなものです。確かに、地球上の人間が地球を見れば静止しています。それと同じように、「自分」という意識から観た「自分」もいつまでも変わりません。でも実は、客観的な視点では「自分」は常に変化しているのです。「昨日の自分」と「今日の自分」は同じではないのです。「心」の状態も、「からだ」の状態も異なります。「細胞」も日々入れ替わっています。絶対だと思い込んでいる「記憶」すら日々変わっています。実は、人間の記憶は簡単に変わってしまうのです。でも、どういうわけだか、本人にはその変わったことが認識出来ない仕組みになっているのです。「意識」すら消えたり現れたりしています。でも人間は、「意識」が表れているときしか自分を意識出来ませんから、「意識」が消えている時間がいっぱいあるのにもかかわらず、「意識」が消えている時間を意識することが出来ないのです。それはCMを勝手にスキップして再生するビデオのようなものです。私は子どもの頃3年間ぐらい柔道の道場に通っていたのですが、時々5段以上の人が来て指導してくれました。そうすると、不思議なことが起きるのです。立って歩いていたはずなのに、気付くと畳の上に倒れているのです。いつ倒されたのかが分からないのです。意識の隙間を狙われたのでしょう。でも、初段とか三段ぐらいの人ではそういうことは起きませんでした。倒される瞬間の記憶があるのです。ですから、頑張って練習して上達すれば抵抗することも、反撃することも出来るでしょう。でも、知らないうちに倒されてしまうのは、単に技術が上達するだけでは解決出来ない問題です。人間の「意識」は自分に取っては絶対ですが、でも、あまりそれに依存しすぎると足をすくわれます。地球が動いていることを知るためには星の観察をして、その動きの合理的な仕組みを考える必要があります。見たまま、感じたままを信じるのではなく、他者との関係性の中でそれを理解するのです。相手の状態を「自分の状態の鏡」として理解してみるのです。子どもがイライラしているのは、お母さんがイライラしているからかも知れないのです。その繰り返しの中で、「自分のこと」が分かってくるのです。すると、「自分」が変わっていくのです。
2015.07.03
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皆さんは、子育てや、子どもの教育に関して「生活の場での当たり前のことを体験させ、学ばせること」と「ピアノや英語のような特別なことを体験させ、学ばせること」とではどちらが価値があると思いますか。一般的には、日常生活でも学べる「当たり前」のことを体験し、学ばさせるために高いお金を払ったりしませんよね。日常生活では学ぶことが出来ない「特別なこと」を教えてくれるから高いお金を払ってまで我が子を通わせるのですよね。「群れ遊びの場」を作り、子ども達に自由に遊ぶ体験をさせても、ただ遊ばせるだけで、そこで何らかの特別な指導をしたり、特別な何かを教えたりしなければ、それだけで高額のお金をとることは難しいですよね。実際、そのような活動をしているプレイパークは無料ですから。自分たちが住んでいる地域で「子ども達が遊べる場を作る」といったような活動をしている人たちの多くもボランティアで活動しています。その逆に、子どもの生活には全く必要のないピアノや、英語や、お勉強といった「特別なこと」を教えている人は、ちゃんとした金額の謝礼をもらうことが出来ます。幼稚園でも、最近は子どもが減ってきているので英語教育や早期教育など“特別なこと”を看板にして生徒を集めているところもいっぱいあります。では、どっちが子どもの心とからだの育ちにとっては必要なことだと思いますか。どうも、現代では子どもの成長に必要な「当たり前のこと」より、子どもの成長には必要がない、時には子どもの成長を阻害するような「特別なこと」の方が価値が高いようです。でも、9才頃までの子どもの成長にとって必要なのは、身近な生活の場で体験し、学ぶことが出来るような「普通の事」ばかりなんです。本来、それ以上のことは必要がないのです。でも今、その「普通」を学ぶことが出来ずに「特別なこと」ばかりを学ばされている子が多いのです。もっとも、現代人は簡単便利だけを求めて日常生活を大切にしてはいませんけど。家族がみんな音楽が好きで楽器にも慣れ親しんでいるのなら、その家族の文化として、子どもにもピアノや楽器を習わせることは自然なことだと思います。でも、親は興味がないのに子どもにだけ楽器を学ばせるのは、子どもの成長にとって必要がないことです。英語も同じです。親が英語が好きだったり、英語を必要とするような生活をしているのなら、英語はその家族の文化の一部ですから、子どもにも英語を学ばせるのは自然なことです。でも、親自身は興味がないのに、子どもにだけ幼いうちから英語を学ばせるのは無駄なことです。もっと必要な学びがいっぱいあるはずです。子どもに何かを学ばせたいのなら、まずはお母さんが、子どもと一緒に楽しめることを「遊び」として教えてあげればいいのです。お母さんが歌が好きなら、子どもと一緒に歌えばいいのです。ダンスが好きなら一緒に踊ればいいのです。山が好きなら一緒に山に登ればいいのです。お料理が好きなら子どもと一緒に作ればいいのです。お金を払って専門家の所に通わせるのは、子ども自身が「もっと学びたい」と言い出してからでいいのです。大切なことは、日常生活の中で〝好き〟を育ててあげることなんです。自分は無趣味だから子どもにはいっぱい趣味を与えてあげたい・・という発想は止めた方がいいです。嫌いにさせてしまうだけかも知れませんから。「自分は勉強が出来なかったから」と、子どもを勉強に追い立てても勉強嫌いの子が育つだけです。もし、我が子を「勉強が出来る子」に育てたいのなら、お母さんも子どもと一緒に学びながら、発見する楽しさ、学ぶ楽しさ、考える楽しさを伝えてあげて下さい。
2024.05.21
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最近の子ども達は、テレビやネットで情報を得、ゲームやおもちゃや公園で遊び、運動は学校の体育や「○○クラブ」で行い、知識は学校や塾で学んでいます。それはつまり、「最近の子ども達は〝大人によって作られた世界〟の中だけで生きている」ということでもあります。そしてそれは、ゲームの中の仮想世界と基本的には同じです。私たちは毎日、魚や肉や野菜を食べて生きています。それらはお店で買ってきます。ですから、子ども達はお店に並んでいる「お魚」や「お肉」や「野菜」しか知りません。「そこから先の世界」を知らないのです。時々、「子どもの中には、魚が切り身の状態で泳いでいると思っている子もいる」ということを聞きますが、これは事実です。実際、保育園の先生からも聞きました。また、以前、幼稚園ぐらいの子に「牛さんのオッパイを飲んだことがある子」と聞いたとき、数人が「そんな汚いものは飲んだことがない」と答えました。それで、「じゃあ、牛乳を飲んだことがある子」と聞くと、その子達も「飲んだことがある」と答えました。多くの子が、「牛さんのオッパイ=牛乳」ということを知らないのです。「お金」も同じです。子どもにとって「お金」は、お母さん、お父さんから貰うものです。ですから、「ちょうだい」といえば無尽蔵に出てくると思っています。子どもは、お母さんやお父さんがどのような苦労をしてお金を稼いでいるのか知らないのです。私たちの世界が便利になればなるほど、社会や生活は「人工的な作りもの」になり、自然とのつながり、生命とのつながり、現実とのつながりを失っていきます。そして、私たちの命や心やからだを支えてくれている「本当のこと」が分からなくなっていきます。海が死ねば食卓に魚がのらなくなります。自然が死ねば野菜は育たなくなり、肉も食卓にのらなくなります。牛や豚や鶏は人工的に飼育されていても、彼らが食べているものは自然からの恵みだからです。自動販売機にジュースを補充する人がいなくなれば、お金を入れてもジュースは出てこなくなります。お父さんの仕事がなくなれば、いくら「お小遣いちょうだい」とせがんでも、お小遣いはもらえなくなります。でも、人工的に管理された狭い世界の中だけで育ち、生活している子ども達にはその「私たちの命や生活を支えてくれている外の世界」のことが分かりません。大人になっても分かりません。知識では知っていても、その知識が体験とつながっていないので感覚的に分からないのです。ですから、「働かないとお金をもらえない」ということを知っていても、楽な仕事ばかりを探したり、ちょっと現実とぶち当たると、すぐに逃げてしまいます。子どもがアリを殺したり、お花を摘むと「かわいそう」とか「残酷」といいますが、平気で牛や豚の肉を食べ、お花屋さんでお花を買ってきます。大きなつながりの中で物事を見ることが出来なくなり、「目先の理想論」だけを振りかざすようになります。山や野原や田んぼを切り崩し、埋め立て、公園を作り、「命を大切にしましょう」という看板を立てます。いつもは「命を大切にしましょう」といっている立場の人が、「これは外来種だから駆除しましょう」と言います。「人間による、人間に管理された、人間の価値観に基づく世界」ではそれは正しいことなのかも知れませんが、そのような世界は、「その人間の世界を支えている自然の世界」との整合性がありません。それは木の上で、木の恵みによって生活している生き物が、好き勝手に木を食い荒らしているような状態です。それではやがて木が枯れてしまいます。木が枯れたとき、その恵みによって生活していた生き物たちも死にます。また、学校では「勉強しろ勉強しろ」といいますが、「何のために勉強するのか」は教えてくれません。多分、先生も知らないのでしょう。学校を出て、社会体験がないまますぐに先生になった人が大部分だからです。現代人にとっての「勉強の価値」は、家庭と学校という閉鎖された世界の中にしか存在していないのです。子どもが、「子どもの時にしか学ぶことが出来ないことや出来ないこと」を犠牲にしてまで毎日やらされ、学ばされていることなのに、やがて子どもが出て行かなければならない「外の世界」とのつながりがないのです。このように、価値観的にも閉鎖された世界の中で暮らしている子ども達は、自分がその価値観に適合できないと感じたとき、自分の居場所を失います。その価値観に違和感を感じた子も居場所を失います。そして「自分はダメな子だ」と、自分を否定し始めます。それでも大人は、そのような子どもに「この世界にはこの価値観しかないのだ、この価値観を受け入れないと生きて行くことが出来ないのだ」とさらにその価値観を押し付けます。それで子どもはますます、身動きが取れなくなります。でも、本当の世界はもっと広く、豊かで、人間はもっと自由なのです。大人の人達は是非、知識ではなく体験を通して、そのことを子ども達に伝えて欲しいのです。「成績のための勉強」ではなく、「人生を豊かに生きるための勉強」と出会わせてあげて下さい。
2024.05.22
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「命」というものは動的なものです。時間の流れの中に存在しているものであって、時間の流れから切り離して観察しようとしたら消えてしまうものです。私たちが生きている世界は全て「時間の流れの中」の中に存在しています。でも、知識の世界には「時間」は存在していません。時間の順に並べることは出来ますが、動きそのものを扱うことは出来ません。人間の意識は、動いているものを「動いている状態のまま」扱うことが出来ないからです。「コップ半分の水」という有名な話がありますよね。「コップ半分の水」を見て「まだ半分ある」と発想する人は「ポジティブ思考の人」で、「もう半分しかないと見る」人は「ネガティブ思考の人」だと説明するあれです。そして「ポジティブ思考」をするためのハウツー本もいっぱい出ています。でも実は、私にはこの「ポジティブ思考」と「ネイティブ思考」というもの自体がよく分からないのです。両者とも目の前の状況を勝手な思い込みで見ているだけですから。「ポジティブ思考」も「ネイティブ思考」も、目の前の現実をちゃんと見ていない思い込みに過ぎません。「ポジティブ思考」と「ネイティブ思考」は写真のネガとポジの関係のように正反対ですが、実際には、正反対であるが故に本質的には同じものなんです。そんな思い込みに囚われているから自由になれないのです。「自己肯定感が低い」とか「高い」とい考え方も同じです。「自己肯定感」などというものは勝手な思い込みに過ぎません。それは、自分の脳が勝手に創り出した妄想に過ぎないのです。本当に「今起きていること」を知ろうとするのなら、「時間の流れ」と「流動的に変化している周囲との関係性」の中でコップの中の水の意味を考えるしかないのです。時間を止めても、つながりを無視しても「本当のこと」は見えなくなってしまうのです。周囲の世界から隔離し、時間を静止した状態でコップの水の量を云々しても意味がないのです。それは現実的な思考ではありません。ゼロから増えてきて半分になったのか、満杯が減って半分になったのか。その水は自分でくんだのか、誰かが入れたのか。水道の水なのか、雨が溜まった水なのか。そういうことも含めて「コップ半分の水」の意味を考えないことには意味がないのです。大事なことは「ポジティブに考えるか」でも「ネガティブに考えるか」でもなく「正しく考える」ことなんです。その結果「もう半分しかない」という判断が正しいこともあるでしょう。でも、ポジティブ思考信仰に染まっている人は、そのように考える人を「ネガティブだ」と否定します。そして対応を誤ります。自己肯定感の話でも、大事にすべきなのは「自分が自由であるか、ないか」だけであって、「自己肯定感が高いか、低いか」ではないのです。そんなことどうだっていいのです。自己肯定感などという、脳が勝手に創り出した幻想に囚われているから身動きが取れなくなってしまうのです。目の前の子どもの状態を見て、「まだ○○も出来ない」「もう○○も出来るようになった」と考えるのも同じです。子どもの成長は時間の中で展開しているので、「コップ半分の水」の例えのように、今、目の前の状態だけを見て云々しても意味がないのです。子どもの時「悪ガキ」でもそのまま「悪い大人」になるわけではないのです。子どもの時「よい子」でも、そのまま「よい大人」になるわけではないのです。だから、子どもの「今の状態」だけで、一人の人間としての子どもを勝手に評価してはいけないのです。ちなみに、子どもの時「悪ガキ」でも、色々な大人と関わり、様々な体験をすることで精神的に自立することが出来れば、「素敵な大人」になることが出来る可能性が高いです。逆に、子どもの頃「よい子」でも、大人の指示に従ってばかりいて精神的な自立が出来なくなってしまったら、「困った大人」になる可能性が高いです。私たちは「流れている時間」の中に生きているのです。(物理学的には流れていないようですけど・・・)ですから、常に全てが動いているのです。目の前の石も、大地も、木々も、宇宙も、動き変化しているのです。相互の関係性もその動きの中で生まれています。それを時間から切り離して考えてみても、脳内遊びとしては楽しくても、現実的には意味がないのです。また、時間から切り離してしまうから関係性も見えなくなってしまうのです。学校で学んでいる知識も時間の流れから切り離されたものです。私たちの意識は静止しているものしか捉えることが出来ないように出来ているので、「ありのままの現実」を扱えないのです。でも、命の働きとダイレクトにつながっている心やからだは、動いているものをそのままの状態で捉え、扱うことが出来るのです。だから頭だけで考えずに、心やからだも使って考える必要があるのです。頭だけで考えてしまうから現実が見えなくなってしまうのです。AIは頭だけの存在ですから、現実を解析することは出来ても、現実を観ることは出来ないのです。
2024.06.02
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現代人は疑り深いです。それは現代社会には人を騙そうとする人がいっぱいいるからなのでしょう。メールなどでも毎日怪しいメールが山のように届きます。そういうメールはフィルターが自動的にゴミ箱に振り分けてくれているので問題は起きていないのですが、ちょっとしたことでも疑り深くなってしまいます。買い物でもインチキサイトが山のようにあります。(特に中国系)現代社会ではすぐに人を信じるような人は、あっという間に身ぐるみをはがされてしまうのです。テレビの言うこと、国の言うこと、学校の言うこと、幼稚園の言うこと、医者の言うことも、まずは疑ってかかる必要があります。テレビや国が「あなたのために」何かを言うことは100%ありません。テレビはテレビのために、国は国のために存在しているのですから。学校や幼稚園や医者の先生の場合は先生次第です。あなたのために言ってくれる人もいますが、そうでない人もいます。そして実際にはそうでない人の方が多いです。でもこんな時代でも、疑うことを知らず他の人のことを100%信じようとする人たちもいます。それが幼い子ども達です。幼い子どもは100%お母さんを信じています。でも、子ども自身はそんなこと意識していません。幼い子どもは、“君はお母さんを信じているの?”と聞かれても答えられません。だって、それしか知らないのですから。それは、“死”というものを知らない人に、“死ぬのは怖くないですか”と聞くのと同じ事です。人が何かを“信じている”と言う時は、その反対の“信じていない”という可能性についても知っている時なのです。お母さん達が素直に子どもを信じることが難しいのはそれまでの人生で“信じることが出来ない”状況をいっぱい体験したからなのです。だから“証拠”が欲しいのです。信じて裏切られてしまうことが恐ろしいからです。「子どもに任せてみたら」と言われても、「任せてうまく行かなかったらどうするの!」と考えてしまう人は任せることが出来ないのです。でも、「信じる」と言うことは「任せる」ということでもあるのです。実際、幼い子どもは生命もからだも丸ごとお母さんに任せていますよね。神様を信じると言うことは“神様に任せる”ということです。それは観念的な理屈でも、信念や思想でもありません。そして、“子どもを信じる”ということもまた“子どもに任せる”ことなのです。ただし、“子どもに任せる”といっても、子どもの好き勝手にさせることではありません。子どもの内側で働いている命の働きや成長への欲求を信じるということです。お母さんは子どもの代わりに体験することは出来ません。子どもの代わりに学ぶことは出来ません。子どもの代わりに喜んだり、苦しんだりすることはできません。子どもの代わりに子どもの人生を生きることも出来ません。だから、そういうことは子どもに任せてしまうしかないのです。そして、子どもの選択した結果は素直に受け入れます。そして、子どもが喜んでいる時には一緒に喜び、子どもが苦しんでいる時には一緒に苦しむのです。“お母さんが言った通りにしないからケガをしたじゃない”などとは言わないのです。お母さんが注意することは大切です。でも、今ケガをして泣いているのなら子どもがその痛みや悲しみ耐えることが出来折るように共感して支えてあげて欲しいのです。その痛みや苦しみに耐えることは子どもにしかできないことだからです。だからお母さんに出来ることはその子どもを支えてあげることだけです。そのようにお母さんに支えてもらうことで、子どもはその痛みや苦しみを乗り越えることが出来るのです。その力を信じ、子どもに任せることが“子どもを信じる”ということなのです。
2024.06.04
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人間の子どもは「何も知らない」「何も出来ない状態」で産まれてきます。でも、非常に高度な「見て学び、やって学ぶ能力」を持っているので、最初は何も知らない、何も出来ない状態でも大丈夫なんです。まただから、人間は自分が置かれた環境に適応して、多様な言語や、多様な技術や、多様な身体能力を身につけることが出来るのです。そのため、子ども達は周囲にいる人たちから貪欲に学ぼうとしています。大人が教えたから学ぶのではなく、自分の中で必要性を感じたから学ぶのです。言葉の学習でも、日常生活の中で言葉が使われていなかったり、積極的に子どもに話しかけていなければ、「お勉強」として言葉を教えても、子どもは「自分の言葉として使える言葉」を学ぶことは出来ないのです。「お勉強」という形で学ぶことが出来るのは「知識としての言葉」だけです。そして、学校で教えているのもこの「知識としての言葉」です。でも、「知識としての言葉」は、自分自身の思考のための道具としては使えないのです。また、他者との対話でも使えません。そして、「知的な学習」はその子の「言葉の能力」と密接につながっています。そのため、「未熟な言葉」しか持っていない子は「未熟な学び」しか出来ないのです。これはもう確認された事実なんです。学びの基礎となるのは言語能力――「3歳までの子育て」が大切なわけだから、子どもの知的な能力の育ちを支えたいのなら、幼いうちから「お勉強」をさせるのではなく、色々なことについて、色々な体験をしながら、いっぱい色々なお話をした方が効果的なんです。知識を覚えさせるよりも前に「言葉を使う能力」を育てる必要があるのです。(発話が遅いからといって知的な育ちが遅れているということではありません。自分からは話さなくても、こちらが言っていることが理解出来ているのなら大丈夫です。)小さい時はテレビに任せ、ちょっと大きくなったらyoutubeやゲームに任せていては、いくら塾に通わせて勉強させても「知的な育ち」は期待できないのです。そんな「子どもの学び」は「必要に応じて」が原則です。そしてその「子どもにとって必要なこと」は、子どもの成長に伴って変化していきます。赤ちゃんのうちはお母さんからいっぱい学ぼうとします。それが、「生存のためにお母さんを必要とする赤ちゃんという時期」に必要なことだからです。そして「お母さんから学んだこと」が、子どもの「人間としての基礎」になります。3才頃までに「お母さんから学んだ言葉」や「お母さんと一緒に体験した」ことが、子どもの思考や感性の土台になっていくのです。「三つ子の魂百まで」は迷信ではないのです。その次の段階として、社会性が育ち始め、仲間と群れて遊ぶようになってくると、子どもは仲間や年上の子から学ぼうとします。親ではなく、仲間や先輩がお手本になってくるのです。9才頃からは、仲間だけでなく大人や社会の影響を強く受けるようになってきます。ただし、大人や社会とのつながりがある子の場合ですけど。「伝記や物語などの本の中の人物」からも影響を受けるようになってきます。ただし、本を読むのが好きな子の場合ですけど。子どもの成長と共に「必要なもの」が変わってくるので、それに応じて子どもが積極的に学ぼうとする対象も変わってくるのです。でも、いつも一人で遊んでいて、仲間との関わりがない状態で育っている子は、当然のことながら仲間から学ぶことが出来ません。大人や社会とのつながりがなく本も読まない子は、大人や社会から学ぶことが出来ません。そして「お母さんから受け継いだもの」だけで生きていかなければならなくなります。でも、今、それすらもない子が増えて来ています。
2024.06.07
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ネットを見ていたら、「1歳を過ぎたら卒乳しなきゃいけない?」というタイトルの記事(2013年8月8日 読売新聞)があったので読んでみました。その中には、掲示板「発言小町」に、1歳1か月の女の子を育てているお母さんから「断乳? 卒乳?」という投稿が寄せられました。 今はお昼寝のときも、夜泣きのときも「添え乳に頼っている状態」ですが、周りが断乳し始めたのをきっかけに「そろそろうちも?」と、少し焦り始めました。というお母さんからの投稿に対しての専門家の意見が書いてあります。長い文章なので一部だけ引用しますが、そこには「2歳かそれ以上まで」…WHO 日本赤十字看護大学教授の井村真澄さんは、「1歳をめどにおっぱいは卒業とよく聞きますが、今はもっとおおらかに受け止められています」と話します。<中略> 「子どもが母乳を欲しがる限り、とことん付き合ってみよう」「どんなふうに卒乳していくのか見届けたい」とお母さんが考えるなら、なりゆきに任せ、自然に飲ませ続けるのもすてきな選択かもしれません。そのうち飲まない日も出てきて、「この頃飲んでいないな」など、気付いたらおっぱいから離れていることもあります。などと書かれています。でも、実際にはお母さん達はこのような専門家の意見によってではなく、掲示板に投稿したお母さんのように、「周りのみんなが卒乳しだしたらから」とか、「しんどいから」「みっともないから」などというような理由で、赤ちゃんに無理に卒乳を強要しているお母さんがいっぱいいます。「オムツ」も同じです。まだ子どもの「心とからだの準備」が出来ていないのに、お母さんの都合だけでおっぱいを止めたり、オムツを止めようとしているのです。時にはそれもしょうがないこともあるのですが、でも、無理をすると余計に子育てが難しくなるばかりなのです。なぜならそれは「自然に逆らうこと」だからです。そういうことは専門家達は知っていて、ちゃんと本には書いてあったりするのですが、お母さん達はそのような専門家の意見ではなく、流行や、周囲のお母さん達と歩調を合わせる形で子育てをしているのです。また、最近の若いお母さん達の多くも「楽をしたい」「みんなから遅れたくない」という想いが強いので、犠牲を求められるような専門家の意見よりも、楽で楽しそうな流行の方を大切にしています。そしてその流行をマスコミがあおっています。「教育は小さいときから始めた方がいい」とか、「小さいときからiPadなどのコンピュータに触れさせていた方がいい」とか、「今時の子ども達はおしゃれだ」とかいう流行もマスコミが扇動しています。また、とても「子育て中のお母さん」には見えないようなファッションもマスコミは「素敵なこと」として取り上げています。どうも最近は「子どもや子育てに縛られないお母さん」が、おしゃれな流行のようです。また、最近の若いお母さん達は、昔のお母さんよりも「子育て」を「束縛」と感じてしまう傾向が強いようです。それは、小さいときから群れて遊んだ体験が少なく、弟や妹などの世話や家の手伝いをすることもなく、自分中心の遊びや生活をしてきた人が多いからなのでしょう。中には「お母さんが幸せじゃないと子どもも幸せじゃない」という論理で、好き勝手なことをしているお母さんもいるようです。ネットでそのような意見を見て呆れました。テレビなどで若いお母さん達の「子連れ飲み会」などが流行っているとも言っていました。子どもを保育園に預けるお母さんの増加もそれと関係しているのでしょう。どうも、多くの人が「専門家の意見をキチンと学んで、子どもの状態を見ながら、自分の考えで物事を決める」ということがなかなか出来ないようです。そして、「正しい情報」ではなく、「自分に都合のよい情報」ばかりを求めています。そのようなお母さん達は「自分の意見」は持っていません。そこにあるのはただ「みんなから遅れたくない」という焦りばかりです。私の周囲には自然育児系やシュタイナー教育系のお母さんがいっぱいいますが、そのようなお母さん達はあまり社会の流れに流されないように頑張っています。でも、社会や、ご主人や、ご実家などからの圧力は大きく、それで苦しんでいるお母さんもいっぱいいます。テレビを見せない子育てをしているお母さんが、お姑さんから「テレビを見せないのは虐待だ」と言われたそうです。「文字を教えないのは親のエゴだ」とか、「ゲームをやらせないと子どもの友達が出来ない」と非難されているお母さんもいっぱいいます。このような考え方の基準は「マスコミ」です。「みんなそうしているのに何であなただけ違うことをしているのか」という非難です。でも、「子どもの成長」という視点で研究している専門家の本などには、成長を急がせること、幼い頃からテレビやゲームなどのあまりに刺激の強い遊びは避けた方がよいこと、遅くまでテレビを見せないこと、早期教育の問題点などはちゃんと書かれているのです。ちゃんとそういう実験や調査や研究があるのです。でも、そういう専門家の知識は普通のお母さんの所にまでは届いていません。なぜなら、マスコミも扱わないし、お母さん達も求めていないからです。また、「子どもの成長と自然に即した子育てや生活」は、経済活動とは逆行するからでもあるのでしょう。そして、大人達は子ども達に「自然」よりも「人工」を与えたがっています。それが豊かさの象徴だからです。そして、「お母さんのニーズに合わせた子育ての方法」を積極的に教えてくれる「子育ての専門家」もいます。実は「子育ての専門家」には二種類いるのです。社会の変化には関係がない「人間としての普遍的・生物学的な成長」という視点から子育てについて論じている専門家と、「社会の変化や大人のニーズに合わせた子育て」を論じている専門家の二種類です。両者は、同じように「子育ての専門家」ですが、言っていることは全く異なります。そして、お母さん向けの雑誌によく登場しているのは後者の専門家のようです。それがお母さんからのニーズなのでしょう。前者は「三歳までの子育ては非常に大切だ」と言い、後者は「もう、そういう時代じゃない」と言います。仕付けに関しても、両者の考え方は全く異なります。前者は「子どもの成長に即してお母さんも一緒に楽しく、ノンビリとやっていけばいいんだよ」と教え、後者は、みんなに遅れないように、あの手この手を使って、効率的に仕付ける方法を教えています。実際の子育てはこの両方の視点と考え方を折衷した状態になるのでしょうが、でも、まだ子どもが幼く、「自然」に近い状態の時には、「子どもの視点」を大切にした子育ての方が大切なのです。そうしないと、子どもの育ちに歪みが生じてしまい、後で子育てが困難になってしまうからです。子どもの成長過程は、何万年も前から変わっていないため、無理に社会の変化や大人の都合に合わさせようとすると、成長に歪みが生じてしまうのです。************************9月から「ゆりかご」という講座名で、6回連続の0才~2才頃までの親子を対象にした、遊びや子育ての勉強会を始めます。子どもの心やからだのことや、子どもの成長についてや、子どもの仕付けなどについても色々とお話ししたり、話し合ったりします。親子で実際に遊んだり、お母さんのからだほぐしや、からだ育てもやります。原則として、第二月曜日を予定していますが、会場の都合などでその限りではありません。でも、基本的に月曜日に行います。今決まっているのは、9月9日、10月7日の月曜日です。主な会場は茅ヶ崎市勤労市民会館4Fの和室です。時間は 10:00~11:30で、参加費は1500円です。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。**************「夏休み造形ワーク」を8月23日(金) 10:00~12:00に行います。参加費は1800円(材料費込み)です。会場は、JR茅ヶ崎駅の隣にある市民ぎゃりーの5FのB創作室です。内容は「ゴムの力で動くおもちゃあれこれ」です。船、自動車、飛行機、その他色々な「動くおもちゃ」に挑戦したいと想います。ただし、対象は小学校3年生以上です。これもこちらにお問い合わせ下さい。
2013.08.09
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今日は思春期とはどのようなことなのか、ということを書かせて頂きます。思春期の一番大きな特徴は、子どもが反抗的になることです。それまでも子どもはなかなか親の言うことを聞きませんが、あくまでもそれは「無視」という形でであって「反抗」ではありません。親に向かって直接的に「うるせーな」などとは言わないのです。この頃になると子どもは親に隠し事を始めます。意識的に、「親に言うこと」と「言わないこと」を分けるようになるのです。そういうことは10才くらいから少しずつ始まります。ただし、この感覚の発生には個人差があります。一般的には女の子の方が早く始まります。それまでも「言えないこと」を隠すことはありますが、思春期が近づいてくると「言えないこと」ではなく、「言いたくないこと」を隠すようになるのです。この違いがお分かりになるでしょうか。「言えないこと」とは自分にとって恥ずかしいことであったり、お母さんに知られては困ることであったりします。だから「先生に叱られたこと」とか、「いじめられていること」とか、逆に「いじめていること」などは親に言いません。これを無理に聞き出そうとすると「作り話」を始めます。ちなみに子どもの「作り話」は大人が考える「嘘」とは異なるものです。それに対して「言いたくないこと」とは自分の「プライバシー」に関することです。思春期以前の子どもには「プライバシー」という感覚がありません。お風呂から出た後、平気で裸で歩き回るような状態の子どもにはプライバシーという感覚はないのです。そして思春期の子どもたちは、親がこの「プライバシー」に触れるようなことを言ったり、やったりすると怒り出します。「作り話」をしてやり過ごそうとするのではなく、怒り出すのです。実は、この「プライバシー」という意識の発生こそが一番「思春期」を特徴づけるものなのです。親としてはそれまでの延長で、普通に話しかけたり、色々とやっているだけなのに急に子どもの反応が反抗的になるのです。例えば、子ども部屋が散らかっていた時、お母さんは何気なく片づけてしまいます。思春期前の子どもはそれでも何にも言いません。でも、思春期が目覚めた子どもは自分のものに勝手に触られると怒り出します。そしてお母さんはその反応に驚き、とまどいます。それは、子どもが親の保護を受け付けなくなってきたということであり、また精神的な自立が始まったということでもあります。では、「子どもの心の中にプライバシーが発生する」ということはどういうことなのだと思いますか。それは、子どもが「私の中」と「私の外」という二つの世界を持つようになってきたということなのです。そして、この頃から子どもは二つの価値観を対立させて物事を見るようになります。ですから、善と悪、美と醜、生と死、光と闇、真実と嘘、などということの意味が本当に分かるようになるのは思春期が来てからになります。それはつまり、それ以前の子どもに対して「善」や「美」を説いても無意味だということです。それ以前の子どもには、ただ「善なること」や「美なること」をいっぱい体験させてあげていればいいのです。説明は不要です。そうすれば、思春期が来る頃になると自然に「善」や「美」と、「悪」や「醜」を区別することが出来るようになるのです。これは骨董屋の丁稚が、「一流品」だけを見ていると、「一流品」と「三流品」を見分けることが出来るようになるのと同じです。それは逆に言うと、思春期以前に「善なること」や「美なること」の体験が足らないと、思春期が来てもそのようなものが分かるようにはならないということです。また、思春期前の子どもは物事を対立させて見ることが出来ないので、「疑う」ということが出来ません。人間には「表の世界」と「裏の世界」があるということが分からないのですから、疑いようがないのです。そのため大人やテレビの言っている事をそのまま信じます。それは、幼い子どもたちに「知らない人を信じてはいけませんよ」と教えることは、「人間を信じてはいけませんよ」と教えることと同じになってしまうということです。子どもは「信じていい人」と「信じてはいけない人」を区別することが出来ないのですから。思春期になると、反抗的になると同時に疑い深くもなります。それは自分の内側に二つの世界が生まれることで、この世界にも「裏の世界」と「表の世界」があることに気付き始めるからです。すると、お母さんやお父さんにも「裏の世界がある」という事に気付き始めます。つまり、「夫婦関係」が見えてくるのです。どんなに子どもの前では円満な夫婦を装っていても、思春期の子どもはそれを見抜くのです。それ以前の子どもは何となく違和感を感じるだけで、その背景までは分かりません。また、この世界には「主観的な事実」と「客観的な事実」という「二つの事実」があるということを知るのも思春期が来てからです。ですから、思春期前の子どもは事実ではないことを言っても、それを「嘘」とは感じていません。
2010.12.25
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私は若い頃、ある先生から「従因向果 従果向因」という言葉を学びました。「従因向果」とは、「こうすればこうなる」というように、「原因」から「結果」をたどっていく考え方です。科学はこの考え方で応用されています。でも、最先端の科学の現場ではその逆の考え方が使われています。それは、「こうなってしまった原因は何だろう」というように、「結果」から「原因」をたどっていく考え方です。それが「従果向因」です。同じ「科学」でも、「応用の場」と「研究の場」では異なった考え方を使っているのです。そして、ものごとを正しく考えたり、正しく行動するためにはこの両方の考え方が必要になります。自分の手とアイデアで何かを創り出そうとしているときには、この両方の考え方が必要になります。例えばですが、「イス」を作りたいと思ったときには、まずそのデザインを考えます。つまり「結果」をイメージするわけです。そして、その「結果」を得るためにはどういう材料で、どういう手順で作ったらいいのか、ということを逆算していきます。頭の中で時間を逆に回していくのです。従果向因です。そして、必要な材料を集め、イメージで得た手順に従って作り始めます。従因向果です。でも、初めて作るデザインのイスならば、ほとんどの場合、途中で修正が必要になります。「こうやればこうなるはずだ」と考えてやっても、現実がその通りになるとは限らないからです。そこで、その問題の原因を考えます。それも従果向因です。ですから、子どもたちに自分の手とアイデアで何かを創り出すという体験を与えることは、子どもたちの「考える力」を育てることになります。これはどんなに多くの知識を覚えても得ることが出来ない能力です。また、学校の成績が良いからといって「考える力」があるとは限りません。そして、この能力があると、子育ても楽になります。でも、現代の子どもたちでそのような学びが出来ている子は全く少数です。ちなみに、一般的な学校の工作では、課題も、材料も、手順も、結果も決められているので、「従因向果」的な考え方は必要になりますが、「従果向因」の思考は必要ありません。考え方が一歩通行なのです。そして、「従因向果」的な考え方しか出来ない子は、「こうすればこうなるはずだ」というような「思い込み的な考え方」にはまりやすくなります。子育てでも、「子育て書」を読み、その手順に従って子育てをします。でも、子どもは「子育て書」の通りには育ちません。その時、その「結果」から「原因」を探り(従果向因)、原因を修正出来れば、結果もまた変わってくるのですが、多くの人が、それでもまた同じ事を繰り返そうとします。「結果から原因を考える」という考え方が出来ないからです。子どもに「早くしなさい」と言っても早くしません。「約束」をさせても「約束」は守られません。そんなことは毎日繰り返されてよく分かっているはずのことなのですが、それでも、多くのお母さんがその原因を考えず、毎日毎日同じ事ばかりを繰り返して、心とからだを疲弊させています。うちの教室でも、何かを作っていて思い通りにいかない結果になってしまった子に、「どうしてそうなってしまったか考えて見て」と言っても、ほとんどの子が、ただ「分かんない」というばかりです。今、「結果から原因を考える」という考え方が出来ない子が非常に多いのです。ただ、少数ですがそれが出来る子もいます。特に、3、4才頃から「自分の手とアイデアで何かを作る」という遊びをいっぱいしてきた子に、そのようなことが得意な子が多いような気がします。「ものの考え方」の基本は、7才前の時期に「心とからだの体験」を通して育って行くものだからです。7才前の子どもたちに必要なのは、「知識」ではなく「体験」なんです。それは「どういう体験をしたのか」ということが、そのまま、「どういう考え方を身につけるのか」ということにつながってしまうからです。また、「物語」(お話)が好きな子も考えることが得意なような気がします。「物語」の中では、時間は自由に流れています。 昔々ある所に、痩せてみすぼらしい乞食が一人で暮らしていました。 でもこの男は、元は召使いがいっぱいいる大きなお城の王子さまだったのです。 じゃあどうして、その王子様が貧しい乞食になってしまったのかをお話ししましょう。というように物語の世界では時間を自由自在に扱うことが出来るのです。(だから魔法が存在出来るのです。)そして「物語」を楽しむことがそのまま「考え方」の訓練になっているのです。ちなみに「昔話」や「神話」の世界は、「従果向因」的に、「結果を説明するための物語」になっていることが多いような気がします。逆に、創作物語は「原因」から始まり、「最後にならないと結果が見えない物語」になっていることが多いような気がします。「従因向果 従果向因」という考え方の他にも、「内側から見る、外側から見る」という考え方や、「別の視点や、別の方向や、別の次元から見てみる」というものがありますが、これらの考え方は「物語の世界」の中でしか学ぶことが出来ません。でも、現代の子育てや教育では、その「物語の体験」も大切にされていません。
2016.12.26
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子どもは精神的、経済的に自立した大人になるためには非常に多くのものを学び、育てなければ成りません。ちなみに「精神的、経済的に自立する能力を育てる」ということは、単に「一人で生きていくための能力を育てる」ということではありません。「みんなで生きていくための能力」を育てることもその中に含まれています。なぜなら、人間は、本来的に助け合って生きるようにデザインされている動物だからです。ですから、「助け合い、支え合う能力」が育たないことには、どんなに高い知能や、様々な能力を獲得しても「人間」としては不完全なんです。その能力がなくても、現代社会ではお金さえあれば生きていくことが出来ますが、でもそのような人が増えてしまったら、昨日も書いたネアンデルタール人のように人類もまた滅亡していくでしょう。また、こんなにも簡単便利になった社会でも、その社会を維持運営し、動かしている人達は、お互いに助け合って仕事をしています。それは政治の世界でも、会社でも同じです。自分のことだけしか考えていなくても生活や仕事が出来るのは消費の末端にいる人だけです。でもそのような人は、消耗品と同じような扱いを受けています。実は、こんなにも機械文明が進んでも、その文明を支えているコアの部分は人間の人間としての能力に支えられているのです。だから、科学や欲望の暴走が抑えられているのです。でも、現在の子育てや学校教育の現場では、その能力を育てる意識が完全に欠落してしまっています。昔は、「遊びの場」で子どもたちはそのような能力を育てていましたが、そのような「遊びの場」も消えてしまいました。昔は、家族も助け合って生活していましたが、それも崩壊寸前です。お父さんはお金を儲けるために会社に行き(時にはお母さんも)、家にいるお母さんは一人で家事をして、子どもは一人でテレビを見たり、ゲームをして遊んでいます。子育ても、お母さんが一人で頑張っています。家族が、「血」と「お金」と「家」だけでつながっているのです。家族の中にすら「人間としての人間らしいつながり」がなくなりつつあるのです。そういう状況で育っていたら、「助け合い、支え合う能力」は育ちようがありません。「心」も育ちにくくなります。「心」はみんな持っています。赤ちゃんも赤ちゃん特有の心を持っています。重度の障害を持っていて身動きが取れないような状態の子でも、他の子と同じような心を持っています。でも、その育ちの状態は人それぞれです。豊かに育っている子もいれば、そうでない子もいます。豊かに育っている子は「他の子の心」も肯定出来ます。そして助け合うことも出来ます。でも、そうでない子は、「自分の心」だけを大切にしようとします。そして、感情に振り回されています。これは大人でも同じです。実は私たちは「心」と簡単に一言で言ってしまいますが、実際には「心」は非常に複雑な構造になっているのです。それが分からないと「心が育つとはどういうことなのか」ということも分からないのです。そんなこと知らなくても、命の働きに即して、大人がそれを支えるように関わってあげていれば「子どもの心」は自然に育つのですが、現代社会ではそれが困難なので、「心についての学び」が必要になるのです。
2018.12.11
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人間はこの世界で生きて行くために必要なことを何も知らないまま、何も出来ないまま生まれてきます。だから、赤ちゃんや子どもたちは、大人に働きかけたり、大人との関わりや様々な体験を通して学ぶ高い能力を持っています。何も知らないし、何も出来ないけど、それらを学ぶための能力は持っているということです。逆に言うと、その高い学習能力があるからこそ、何も知らないまま生まれてくることが出来るようになったということです。つまり、人間という種は「生まれてからの学習」があって、初めて「人間らしさ」を維持することが出来る生き物だということです。そして、この人間らしさが形成されるまでには数十万年かかっています。ですから、赤ちゃんは生まれてからその数十万年の蓄積を学ばなければなりません。その蓄積が「言葉」です。動物の種としての「ヒト」は、「人間」として生まれてくるのではなく、「言葉」を得ることを通して「人間」へと成長する生き物なのです。「言葉」を失ってしまったら、人間は「人間」という位置から転落し、生きる知恵を持って生まれてくる動物以下の存在になってしまうのです。そして自分の生命すら維持できなくなってしまいます。ネグレクトなどで「言葉」を学ぶことが出来ない環境で育った子は、心だけでなくからだも育たなくなります。たった一世代だけでも、子どもたちに言葉を伝えることをやめてしまったら、人類の数十万年の歴史は全て失われてしまうのです。そして類人猿のような生活をする生き物に戻ってしまうでしょう。実は、人間は種としては非常に不安定な生き物なのです。人間にとって「言葉」は単なる道具ではなく生命の一部なのです。ですから、子どもたちは食べ物を食べるように、「栄養たっぷりの言葉」を学ぶ必要があるのです。その時、子どもたちがまず最初に学ぶべき言葉は「感覚や気持ちを伝え合うための言葉」です。この「感覚や気持ちを伝え合うための言葉」が、「人間としての言葉」の原点であり、この言葉を学ぶことが出来ないと、子どもは機械の操作はできても「人間らしさ」を学ぶことが出来なくなります。赤ちゃんがニコッとした時、お母さんは「そう、うれしいのね」などと話しかけます。ご飯を食べた時ニコニコしていたら、「おいしいね」と話しかけます。一緒にお風呂に入った時には「きもちいいね」と話しかけます。これが「感覚や気持ちを伝え合うための言葉」です。そして、子どもは直接自分に向けて話しかけられることで「言葉」を「言葉として」学んでいきます。周囲で大人が話している言葉や、テレビから流れてくる言葉は単なる「音」や「記号」であって、「人と人をつなぐ働きとしての言葉」ではありません。ですから、そのような音や記号をいっぱい覚えても、人間らしさは育ちません。子どもにとっては、「自分に向けて話しかけられた言葉」だけが「言葉」なのです。ですから、テレビを付けっぱなしで対話のない家庭で育った子どもは「言葉」を学ぶことが出来ません。それはつまり、人間性を学び損なってしまうということです。また、7才までに自分に向けて話しかけられることで言葉を学んだ子は、次第に自分に向けられていない言葉も言葉として理解することが出来るようになります。「言葉」というものが分かってくるからです。そして、そこで初めて、「授業」というものが成り立つようになるのです。授業では、先生は「みんな」に向けて語ります。太郎君、花子さんという特定の子に向けて語るわけではありません。その時、幼い時から自分に向けて語られてこなかった子は、その先生の言葉を聞き取ることが出来ないのです。「テレビの音」のように聞き流してしまうのです。そこで学級崩壊のような状態が起きます。そのような子の特徴は、1対1なら言葉が通じるのですが、一対多数になると急に言葉が通じなくなってしまうということです。「みんな」に向けて語ると、誰も聞いていないのです。これは呆れるほどです。
2012.09.01
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では、どのようにしたら、形も実体もない「心」というものを育てることが出来るのでしょうか。寝ているだけで、一見何も出来ないように見える赤ちゃんにも「心」はあります。だから驚いたり、怖がったり、喜んだりするのです。プリミティブな形ですが、数の認識や、善悪の認識も出来るそうです。また赤ちゃんは、「快・不快」に敏感です。自分の安心につながるようなことは喜びますが、それを阻害するようなことは嫌います。そんな赤ちゃんは、五感の働きをフル活動させて、自分が生まれてきた世界のことを知り、その世界に適応しようとしています。そして、「自分の心とからだの状態に肯定的に働きかけてくれるもの」を好み、「否定的に働きかけてくるもの」を嫌います。そして、周囲の状況に合わせて自分の心とからだの状態を調整していきます。何か不安や不快を感じた時、赤ちゃんは泣くことで周囲にいる大人にそのことを訴え、その不安や不快を取り除いてもらおうとします。そして、周囲にいる大人達がそのことに気づき、適正な対応をして安心と快を与えようとしていると、赤ちゃんは自分の周囲にいる大人を信じるようになります。周囲にいる大人とつながることに喜びを感じるようにもなります。でもそれを「正当な要求」ではなく「わがまま」と断定して、泣いても泣いても周囲の大人がそれを無視していると、赤ちゃんは次第に大人に助けを求めなくなります。諦めてしまうからです。「諦める」というのは、悲しみや苦しみで心が壊れることを防ぐための命の智恵なんです。問題は、そういう子育てを受けている赤ちゃんは、まだ人生が始まったばかりなのに「諦め」を学習してしまうということなんです。それは「無気力」という状態につながってしまう可能性があります。また、お母さんとの間に信頼関係を築くことも困難になります。学習にも影響してきます。そのことに気づかない人は、赤ちゃんが諦めて泣かなくなると喜びます。だから意図的にそのような子育てをしている人もいます。赤ちゃんがお母さんに助けを求めなくなったら楽だからです。若い頃、何らかの保育に参加したとき、一人の「泣いた子ども」を私が抱いたら、ベテランの保育者から「子どもを抱かないで下さい。他の子も抱いてもらえる思って泣き出しますから」と言われました。この人は「諦めることや我慢することを覚えさせる保育」をしているのでしょう。諦めることや我慢することを覚えさせる保育をしている保育園もあります。でも、そのような子育てや保育をしていると「無力感」や「否定的な感情」ばかりが育ってしまう可能性が高いのです。そんな「諦めることや我慢することを覚えさせる保育」を受けた子は、大人に対する信頼感も育ちません。それは学習にも影響するでしょう。成長してからの友人関係や、夫婦関係や、親子関係にも影響するでしょう。でも、諦めさせなくても、赤ちゃんは心とからだが満たされれば泣き止むのです。泣き止まない場合もありますが、その時でも、大人がちゃんと向き合っていれば少なくとも否定的な感情は育たないのです。赤ちゃんのからだはものすごい勢いで育っています。そして「からだの育ち」と同時に「心」もすごい勢いで育っています。でも「からだの育ち」を気にする人は多いですが、「心の育ち」を気にする人は多くありません。目には見えないからなのでしょうか。お母さん自身が自分の心で感じようとしない限り「子どもの心の状態」を知ることは出来ないのです。「心」は「心」でしか見えないのです。だから、子どもの心を育てたいのなら、お母さん自身が「自分の心」とちゃんと向き合う必要があるのです。「自分の心」を否定している人は「子どもの心」も否定してしまうのです。だから「心を否定するような子育て」を受けた人は、自分自身もまた「心を否定する子育て」をしてしまう可能性が高くなるのです。
2024.06.12
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不思議なことに、人間は「自分」という視点を超えて、「他者」の視点に立って見たり、考えたり、感じたりすることが出来ます。その時、時間も空間も超えることが出来ます。人間以外の動物にも、さらには石や木にもなって見たり、考えたり、感じたりすることが出来ます。確かにそれは、事実ではないかも知れません。そもそも、人間以外の生き物は人間のようになど考えないからです。石や木はなおさらです。でも、そのように考えることで、その相手を自分のことのように考えることが出来ます。相手を守ろうとする気持ちも生まれます。また、「人間」とか「自分」という視点で考え、感じ、行動している時には見えなかったこと、分からなかったことも分かるようになります。宮沢賢治の童話の多くはそのような視点から書かれたものです。戦争の時は、味方の視点にばかり立って考え、感じ、行動し、殺しますが、でも、意識さえすれば、敵の視点に立って考え、感じ、行動することも出来ます。そして、みんながそういうことをすれば、戦争など起きなくなります。なぜ人間にだけそのような能力が備わっているのかは不明ですが、でもその能力をちゃんと使うことが出来れば、人間は本能に振り回されず、自分勝手にならず、相手のこと、みんなのことを考え、平和な社会を作ることが出来るのです。人間の社会だけでなく、全ての生命まで含めた世界が平和になるでしょう。でも、その能力を使わず、自分の価値観や都合ばかりを優先させ、自分勝手に考え行動すれば、多くの人が苦しみ、多くの人が死ぬ社会になります。人間は、世界や地球を救うことも、破壊することも出来る生き物なんです。そして、どちらを選ぶのかは人間の判断に任されています。そのような、「他者の立場に立って考え、感じてみる」というのは、実は「視点の多重化(多元化))」というようなことなんです。そして物事は、多重化された視点で見た方がよりありのままの状態に近い姿を見ることが出来るのです。カメラは、対象をそっくりに写し取ります。でも、カメラは一点透視でしか世界を写し取りません。ですから、写真は一見リアルに見えますが、実際の存在が持っている厚みも、重さも、立体感も消えてしまっています。たとえ、そういうものを感じたとしても、それは写真自体に取り込まれたものではなく、写真を見たときに、反射的に私たちの脳が勝手に足らないものを補って復元しているのに過ぎません。それに対して、私たちの目は「二点透視」で世界を見ています。だから、よりリアルに立体的に世界を見ることが出来ます。さらに、匂いや音も感じながら見ています。過去の体験も入れながら見ています。ですから、いくつもの視点を同時に総動員しながら、一つのものを見ているのです。でも、「思考」という方法だけで何かを知ろうとするときには、どうしても「自分の価値観」だけに頼ってしまいやすいのです。すると、「一点透視的な思考」になりやすいのです。すると、勝手な思い込みで世界を見るようになってしまいます。子どもが言うことを聞かないと、「反抗している」とか、「ワガママだ」と判断してしまうのはそのためです。「言うことを聞かない」のではなく、そもそも「お母さんの言っていることが理解できない」のかも知れません。「お母さんの期待に応えたくても、生理的、能力的に出来ない」のかも知れません。二歳ぐらいの子どもに「ジーッとしていなさい」と要求するのは、オタマジャクシに「ジャンプしなさい」と要求しているのと同じ事です。でも、自分の価値観だけで一点透視的に考えてしまうと、そうとしか考えられなくなってしまうのです。そんな時は、「子どもの立場」に立ってみる、「子どもだった頃の自分」の視点で考えてみる、子どもの表情や言葉や行動を自分の好き嫌いで判断するのをやめて客観的に見てみるということが必要になります。さらには、学問的な知識も一つの「視点」になります。そのような「多重の視点」を動員することで、より「子どもの現実」に対する理解が深まるのです。象は太い柱のようなものだ。象はビヤ樽のようなものだ。象は太いホースのようなものだ。象はヒモのようなものだ。いやいや、象は大きなウチワのようなものだ。いずれも、現実の象の一部分の事実に過ぎません。そんな時は、「どれが正しい」という議論をするのではなく、お互いの意見をお互いに補い合うような意識でつなぎ合わせるのです。すると、現実の象の姿に近くなるのです。幼い子ども達の荒唐無稽な言葉も、一つの「事実」なんです。現実にはあり得ないように思える「ファンタジーの世界」も、この世界の一つの事実なんです。だから感動するのです。
2016.06.11
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心の状態としては、「楽しいことをする」ということと、「やっていることを楽しむ」ということは全く正反対です。「楽しいことをする」というのは、相手に楽しませてもらうということであり、対象に対する依存です。そして現代人はこれが大好きです。テレビや、ゲームや、ディズニーランドが人気なのも楽しませてくれるからです。そして楽しませてくれるお礼としてお金を払います。だから企業は、一生懸命楽しませる方法を考えます。そして中毒はどんどん進行していきます。ただし、そういうものが悪いということを言っているわけではありません。それだけに依存することを問題視しているだけです。それに対して、「やっていることを楽しむ」という行為にはお金はかかりません。なぜなら「楽しむ」という行為では、誰にも依存していないからです。対象は何でも構いません。歩くことでも、お料理を作ることでも、子育てでも、仕事でも、なんでも楽しむことが出来ます。3歳ごろまでの子どもたちは例外なく「楽しむ」ことの天才です。でも、それ以降、「楽しむことが出来る子」と、「楽しいことしかしない子」に分かれていきます。基本的に「楽しいこと」に依存した生活をしている子は、自分で「楽しいこと」を発見する能力が萎え、楽しむことが出来なくなります。するとゲームがないと遊べない、ボールがないと遊べない、遊んでくれる大人がいないと遊べない、という状態になります。「それが今時の子なんだからそれはそれでいじゃないか」という考えもありますが、そのような子、また、そのような大人は依存心が強いため、自分の力で困難を乗り越える力がありません。私が言っていることは「それでもいいのですか」ということです。単に「遊び」だけを問題にしているわけではありません。どんな場合でも、困難を乗り越えるためには「楽しむ心」が絶対的に必要なのです。頑張るだけでは次第に疲れてきてしまうのです。でも、「楽しいこと」ばかりが大好きで「楽しむこと」が出来なくなってしまっている人が「楽しむ心」を取り戻すのはなかなか困難です。「楽しいこと」が大好きな人は刺激が大好きです。「楽しいこと」がないと苦しくなってしまうような人は「刺激中毒」です。ネット中毒、携帯中毒、ゲーム中毒の人たちはそのような人たちです。でも、「楽しむ」という行為においては刺激は存在していないのです。そのため、楽しいことが大好きな人たちが何かを楽しもうとしても、すぐに「退屈」という禁断症状が起きてしまうのです。じゃあ、楽しむことが出来る人たちは、刺激もないのになんで楽しむことが出来るのかと言うと、その行為の中に、「発見」と、「気付き」と、「対話」があるからなのです。特に「対話」は重要です。対話があるとそれ自体が刺激になるのです。そして、「対話」があるから、発見と、気付きが生まれるのです。「楽しいこと」ばかりに依存した生活をしていると、その「対話する能力」が萎えてしまうのです。それは子育てにも影響してきます。「楽しいこと」ばかりが好きな人は、赤ちゃんや子どもとどう対話したらいいのか分からないのです。だからすぐに退屈してしまうのです。そしてそのような人が増えてきています。それはまた学習にも影響してきます。楽しむことが出来ない子は、勉強が退屈になってしまうのです。「どうして退屈してしまうのか」、「どうして対話できないのか」というと感覚を働かせていないからです。「どうして感覚を働かせることが出来ないのか」というと、心を働かせることが出来ないからです。「どうして心を働かせることが出来ないか」というと、自分のからだと対話する能力が萎えてしまっているからです。つまり、「自分のからだ」と対話できない人は「他者」とも対話できないということなのです。「自分のからだとの関わり方」と「他者との関わり方」はシンクロ(同調)しているのです。「自分のからだの声」に耳を傾けない人は「他の人の声」にも耳を傾けません。そのような人は、相手が何を言ったのかという「意味の理解」は出来ても、その言葉を通して相手が何を言いたいのかという「相手の気持ち」が分からないのです。なぜなら、「相手の気持ち」を知るためには、「相手の気持ち」を「自分のからだ」と共鳴させることで感じ取るしかないからです。悲しい状態の人のその「悲しみ」が分かるためには、相手の人の悲しみを自分のからだに共鳴させる必要があるのです。共鳴させることで「他者の悲しみ」を「自分の悲しみ」として感じることが出来るのです。だから、自分の中に怒りでも、恐怖でも、喜びでも、共鳴しやすい感情(からだの状態)があると相手のそのような感情に特に敏感になってしまうのです。
2012.04.05
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「ゆりかご」(0才~2才までの親子遊びと子育ての連続講座)のチラシを作りました。会場は茅ヶ崎駅周辺です。この講座が他の所でやられている似たような名前の講座と違うのは、「からだ」という視点で色々とお話ししたり、実際にワークをしてみたりすることです。お母さんのからだほぐしもやります。いくら考えても分からないことでも、からだを通して実感してみれば簡単に分かってしまうことも多いのです。仲間を募ったり公民館企画で呼んで頂ければ、どこでも出張します。**************************自己肯定感が低いのは「心の問題」ではなく、「からだの問題」だということを書いてきました。もちろん苦しいのは「心」ですから心の問題でもあるのですが、だからといって、「からだ」という視点を持たずに「心」ばかりを何とかしようとしてもどうしようもない、ということです。それは不健康な生活をしているから不健康なのに、その肝心の「生活」には目を向けず、結果としての健康ばかり気にして、薬で何とかしようとしているようなものです。それが現代人です。どんな場合でも、物事にはちゃんと原因があって、その原因に働きかければ必然的に結果に変化が起きるのです。逆に言えば、どんなに一生懸命に努力しても少しも結果に変化が起きなければ、ちゃんと原因に働きかけていないということです。この世の森羅万象は非常にクールに出来ているのです。「早くしなさい、早くしなさい」と言い続けても、子どもに変化が起きなければ、それは子どもが早くしない原因を理解出来ていないということです。そんな時、無理をすると子どももお母さんも苦しくなるばかりです。そしてさらに問題はこじれていきます。これは子育てだけでなく、色々なことにおいても同じ事が言えます。たとえば、一生懸命に勉強しているのに成績が上がらない場合、多くの子が「私は頭が悪いんだ」と考えてしまいますが、殆どの場合それは「頭が悪い」のではなく、「勉強の仕方」が悪いだけなんです。ただそれだけのことです。そのような子は「努力する=勉強時間を増やす」と考えますが、この考え自体が間違っているのです。そのような子が「私は頭が悪いんだ」と思い込むのは、「こんなに頑張っているのに」という「自分の努力」を肯定するためでもあります。自己肯定感の低い人も一生懸命に頑張っています。でも、本当の原因が見えていないので、結果が伴いません。それでも、「頑張っている自分」を肯定しようとすると、必然的に「自分は自己肯定感が低いから」という理由が必要になるのです。そもそも、原因がはっきりと分かっていない時に「頑張る」という方法を使うと、余計に状態は悪化するのです。「頑張る」が有効に働くのは、マラソンのように同じことを繰り返すような時だけです。じゃあどうしたらいいのかというと、失敗を恐れず、色々とやってみることです。殆どの場合、これが最高の解決方法です。でも、どうもよく見ていると、「自分は頭が悪い」とか「自己肯定感が低い」と言っているような人は、マラソンで頑張っている人のように、ただ同じことを繰り返しているだけで、その「色々とやってみる」ということをしていないようなのです。頭が固くなってしまっているのです。(それもからだと関係しています)その「固い頭」を柔らかくするためにも色々とやってみるのです。その時、失敗を恐れる必要はありません。最初からもう失敗しているのですから。またそんな時、「頑張っている」というパフォーマンスを見せようとしていると問題は悪化していきます。でも、評価されることに慣れてしまっている人は、「頑張っているね」と言ってもらうためにこの「パフォーマンス」をやってしまうのです。「勉強しなさい」と追い立てられている子はよくこのパフォーマンスを演じます。1時間だった勉強時間を2時間にすればお母さんが褒めてくれます。でも、大切なのは頑張ることではなく、問題を解決することの方なのです。そこを間違えてはいけません。そして、色々とやってみないことには問題を解決する方法は見つからないのです。私が若い頃色々と学んだ先生は「努力するということは量を増やすことではなく、質を変えることだ」と言っていました。それはつまり、1時間の勉強時間を2時間に増やすことではなく、1時間の勉強時間で2時間分の効率を上げるように工夫することです。お母さん達はみんな必死になって頑張っています。それは認めます。でも、あまり工夫をしていないのです。だからいつまで経っても同じ状態のままなのです。だから自己肯定感も高くならないのです。頭の中だけで色々と考えるのではなく、実際に色々とやってみて下さい。その時「頭」と「心」が働き出します。そして、「頭の中の世界」と「頭の外の世界」がつながり、「心の世界」と「からだの世界」がつながるのです。というと、「どうやって工夫するんですか」と聞きたくなるのでしょうが、叱ってダメなら褒めてみて下さい。叩いてダメなら抱いてあげて下さい。急かせてダメなら待ってあげて下さい。そんな時、自己肯定感が低い人が陥りやすいパターンが、「叱ってダメだったのに褒めてよくなるわけがないじゃない」「叩いてダメだったのに抱いてよくなるわけがないじゃない」「急がせてダメだったんだから待ってあげて良くなるわけがないじゃない」と勝手に決めつけてしまうことです。でも、その「思い込み」が成長を阻害しているのです。「思い込んだ通りにやっても事態が良くならない」という現実を前にしてまで、その思い込みに囚われるのはどうしてなんでしょうか。そんな時は、自分の価値観とは異なったやり方も試してみるべきなんです。確かに、それで結果が好転するかどうかは不明です。でも、そのようにあれこれ工夫することで、「自分へのこだわり」が消え、少なくともお母さんの頭と、心と、からだは自由になるのです。するとそれまで見えていなかったものが見えるようになります。それが重要なのです。
2013.08.22
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昨日のブログに対して、しのせんせーまさに、昨日から今朝にかけて、ときどき思いふける人が自然のさまざまなものを美しいとみりょうされるのはなぜなのかの思考をめぐらせておりました。蝶の翅、木ノ実の色と光、魚のヒレの均衡さをみながら、人はおなじようにみえているのだろうかとも。というコメントを頂きました。で私は、同じようには見えていません。「どのように見えるかは」気質も関係していますが、体験や文化や性別や年齢も関係しています。「かわいい」は比較的誰でも分かりやすいですが、「美しい」はその人の精神の状態が反映します。と返事したのですが、実際、「可愛い」と「美しい」は全く別物です。「可愛い」を感じるのは動物的な感覚です。一般的に人は、小さいもの、丸っこいものを「可愛い」と感じる感性を持っているのです。それは赤ちゃんを「可愛い」と感じる感性と同じです。ネコも可愛さを発散させています。一般的に、男の子よりも女の子の方が小さくて丸っこいです。(もちろん例外もいっぱいありますけど。平均すれば・・・という話です)それはヌードモデルをデッサンすればすぐ分かります。また、小さな子どもも女の子も、それを自分の魅力として自覚しています。だから、2,3才頃までは男の子も女の子も「かわいい」と言われると喜びます。でも、5才頃から男の子は「かわいい」よりも「かっこいい」という言葉の方を喜ぶようになります。また、「かわいい」は柔らかい感覚ともつながっています。モフモフして丸っこければそれだけで可愛いのです。でも、固くて四角張っていれば「かっこいい」になります。色も関係しています。ピンクや黄色は「かわいい」ですが、赤や黒は「かっこいい」になります。青や緑はどっちつかずです。気質的には、淡いピンクや黄色が似合う多血質の人は「かわいい」感じがします。強い赤や紫が似合う胆汁質の人は「かっこいい」感じがします。ちなみに黒は一匹狼的なかっこよさを感じます。このようなことは動物的な感覚なので、なんとなくではありますが世界共通です。実際、日本人が「かわいい」と感じるものの多くは、欧米の人も「かわいい」と感じるのです。だから、日本のアニメが世界を席巻し、「カワイイ」が世界語になっているのです。また、子ども用のアニメや施設は可愛く作られています。それに対して「美しい」の方は精神の状態を反映しています。ですから、何を美しいと感じるのかは、その人の精神性と強く関係しています。だから「東洋の美」と「西洋の美」は異なるのです。年齢も関係しています。若い頃は美しく感じなかったものが、年を取って来ると美しく見えて来ることもあります。年齢によって味の好みも変わりますでしょ。それと似ています。また、思春期前の子どもたちは動物的な感覚とつながっている「かわいい」は分かっても、精神の成長と関係している「美しい」の方はよく分かりません。では「美とは何か」と言うことですが、「美」は「調和や響き合いの中に感じる心地よさ」です。(色々な定義があるでしょうが、私の定義では・・ということです。)「かわいい」はそのもの単体の特性に関して感じるものですが、「美」は「調和」や「バランス」や「響き合い」といった、関係性や統合性の中に感じるものなのです。そのため、その人の「調和」や「バランス」や「響き合い」を感じる能力が「美を感じる能力」に非常に大きく影響しているのです。「美」は「見ている対象」と「見ている人」との響き合いの中に生まれるのです。実際、全体を観る能力に優れている人は美に対する感受性にも優れています。でも、部分しか見ることが出来ない人にはその「美」は見えません。その代わり、「かわいい」には敏感です。イラストはそのものの特徴を誇張して描いています。それに対して芸術的な絵画で扱っているのは「個の特徴」ではなく「全体の関係性」です。ですから、部分だけを見ていたら絵画の美しさは見えないのです。リアルさだけで絵の上手下手を判断している人も「美」が分からない人です。美を見るためには全体を見る必要があるのです。だから精神性が関係してくるのです。子どもの成長で言えば「美」が分かり始めるのは思春期が来る頃からです。そのころから物事を関係性の中で認識したり、感じたりする事が出来るようになるからです。多くの楽器によって演奏されるオーケストラの音楽に美を感じたり、山や木々や草木など様々な要素によって構成されている「風景」に美を感じるようになるもの思春期の頃からです。この頃から詩にも目覚め始めます。でも、関係性や全体性を観る能力が育っていない子は、思春期が来ても「美を観る能力」が目覚めません。そして、「かわいい」とか「かっこいい」ばかりを求めます。そういう人が増えれば、必然的に「美に支えられた文化」は衰退していきます。自分の生き方に美学を持っている人も消えて行きます。
2021.10.14
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現代人は知育教育が大好きです。そのため、幼いうちから知育おもちゃを与えたり、色々なことを教えたり、「○○教室」に通わせたりしています。「何十万円もする知育おもちゃを買って与えた」というお母さんもいます。(後悔していましたけど・・・)テレビも、NHKの教育的な番組なら良い効果があると信じて、ズーッと見せているお母さんもいます。コンピュータゲームも脳のトレーニングになると思い込んでいるお母さんもいます。自由に遊ばせることをせず、幼い時から文字や算数を教えている人もいます。昔よりも教育に熱心なお母さんが増えて来たような気もします。実際、今では小学校上がった時点で文字が書けるのが当たり前になっているようです。1年生になったばかりなのに「簡単な文字の読み書きなら出来る」という前提で授業を始める先生も多いみたいです。だからといって現代の子ども達の方が、泥だらけになって遊んでばかりいた昔の子ども達より賢くなったのかというと、決してそんなことはないような気がするのです。テストの成績に関しては分かりませんが、造形という場で30年近く子ども達と関わってきた私の体験から言えるのは、むしろどんどん子ども達の考える力や、能動性や、工夫力が失われてきているということです。好奇心も弱くなっています。知識はいっぱいあるのに「考えることや、学ぶことや、やってみることを楽しむことが出来ない子ども達」が増えているのです。文字を読むことは出来ても本を読むことを楽しめないのです。いろんな点において受け身的なんです。考えることを楽しむことが出来ない子は、造形活動を楽しむことが出来ません。そして、これは子ども達の科学離れとも関係しています。今、子ども達の科学離れを食い止めようとして、「楽しい実験」などを色々と体験させるような企画が色々なところで行われていますが、そんなことをしても「考える楽しさ」が伝わらなければ、科学離れは止まりません。もうすでに確立されている、「仮説実験授業」という「対話を使い、考えることを大切にした授業方法」もありますが、今、色々なところで行われているのはそれとは異なり、「考えること」を抜きにした、単なる「楽しいイベント」に過ぎません。また、考えることや、やってみることを楽しむことが出来ない子は、科学や造形を楽しむことが出来ないばかりか、大人になってからも「仕事を楽しむことが出来ない」「子育てを楽しむことが出来ない」ということになります。工夫したり、能動的に取り組むことを楽しむことが出来ないからです。そして、楽しむことが出来ない人の所には「喜び」も「自由」もやってきません。楽しむことが出来る子は、追い立てなくても、自分で色々なことに取り組みます。「学ぶ楽しさ」を知っている子は、「勉強しなさい」などと言わなくても勉強します。「作る楽しさ」を知っている子は、「作りなさい」などと言わなくても作ります。小学生頃までは、効率的に教え込まれた子の方が成績も、能力も高いかも知れませんが、「楽しさ」を知ることが出来なかった子は、「楽しさ」を知っている子に次第に抜かれていきます。実は、子育てや子どもの教育において、一番大切なことは、この「楽しむ能力」を育てることなのではないでしょうか。そしてその能力が子どもに、精神の自立と自由を与えてくれるのではないかと思います。
2024.04.27
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