後藤太輔
2017年4月11日04時24分
「天才」という呼称で済ませてはいけない。
そう思わせるほど、 浅田真央
は練習量の多い選手だった。
佐藤信夫コーチは、浅田の指導で最も苦労したことを「 練習をやめさせることだった
」と話す。
本拠の 中京大
のリンクでは、長いと午前9時に練習を始め、終わるのは午後6時半。
その間、2、3回に分けて計4~5時間滑る。
さらに氷上練習の合間、他の選手が一息入れるようなときも、
筋力トレーニング、柔軟体操、縄跳び、ランニングを詰め込んでいた。
佐藤コーチは、2014年 ソチ五輪
の数分間に最大限の力を出すため、
練習量を少なくするよう助言した。
浅田は「どうして、練習してはいけないんですか」と答えたという。
なぜ、それほど努力できるのか、と聞いたことがある。
浅田は、「『自分が口にした目標はやらなきゃだめ。
スケートをやるからには、それを窮めないとだめ』と母が言っていました」と語り、
「練習から逃げ出したいと思ったことはない」と付け加えた。
ソチ五輪
シーズンのショートプログラム(SP)は、その母と共に滑るプログラムだった。
浅田の振り付けを長年担ったローリー・ニコル氏は、
「真央が母を見上げ、一度それを振り払い、また見上げて母に届こうとする場面がある。
真央のお母さんは、私たちといつも一緒なのです」と説明した。
完全な演技を見せたフリー「 ラフマニノフ
」の陰に隠れてしまったが、
ショパンのノクターン
で演じたSPには、いつも浅田に寄り添い励まし続け、
2011年12月に48歳で亡くなった母・匡子(きょうこ)さんへの思いが込められていた。
浅田は、明るさと純粋さも併せ持つ。
思ったことは、そのまま口にした。
自ら寄贈した衣装を、改めて博物館で見て、「本物そっくり」と驚いたことがある。
ちょっとだけとぼけたところがあり、周りを笑顔に変える力があった。
年配者と食事を共にした際は、「これ、私の分です」と紙幣を差し出した。
世界的なスポーツマーケティング会社のレピュコム社の調査では、
浅田の国内での認知度は 99・4%
。
女優など、他の分野の女性と比べても最も高い。
「流行の発信」部門や「好感度」部門でも共に浅田が1位だ。
同社日本法人の秦英之社長は「信念を貫き通す純粋さがある。
勝ちもあれば負けや挫折もあり、また再挑戦するという人生に、
見る人が共感するのでは」と話す。
浅田をCMに起用する企業の社長は、「健康的な美しさというイメージを持ち、
特定の層だけでなく、老若男女万人にうける、珍しいキャラクター」と起用の理由を語った。
悲しみを抱え努力を重ねる姿が人の胸を打ち、リンクを下りたときの素直さと優しいほほ笑みは、
誰からも愛された。
国民的ヒロインが、勝負の銀盤を去る。(後藤太輔)
以前ブログアップした(2014-7-25)の 浅田真央展
です。
きっとまた、開催されると思います。
この2年間は振るいませんでしたが、あとにつづく若いスケーターにその姿を
リンクで見せたことは、意義があったと思います。
ひざ痛などの体の不調も報道されていて心配ですが、
しっかり体を休めて新たな人生を歩んでほしいと思います。
突然ですが、私、浅田真央は、フィギュアスケート選手として終える決断を致しました。
今まで、長くスケートが出来たのも、たくさんの事を乗り越えてこれたのも、
多くの方からの支えや応援があったからだと思います。
ソチオリンピックシーズンの世界選手権は最高の演技と結果で終える事ができました。
その時に選手生活を終えていたら、今も選手として復帰することを望んでいたかもしれません。実際に選手としてやってみなければ分からない事もたくさんありました。
復帰してからは、自分が望む演技や結果を出す事が出来ず、悩む事が多くなりました。
そして、去年の全日本選手権を終えた後、それまでの自分を支えてきた目標が消え、
選手として続ける自分の気力もなくなりました。このような決断になりましたが、私のフィギュアスケート人生に悔いはありません。
これは、自分にとって大きな決断でしたが、人生の中の1つの通過点だと思っています。この先も新たな夢や目標を見つけて、笑顔を忘れずに、前進していきたいと思っています。
皆様、今までたくさんの応援、本当にありがとうございました。
浅田真央
投稿者 浅田 真央 日時 2017年4月10日(月) 22:51 | お知らせ
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