私は、妻と3人の子供、5人の親族を日本人に殺された者として、彼らを赦すことになるとは思いも寄らなかった。
私は、自分の子供や国民に、我々の友となり、我が国に末永く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために、これを行うのである。
やはり、我々は隣国となる運命なのだ。
私は、キリスト教国の長として、自らこのような決断をなし得たことを幸せに思う。
私を突き動かした善意の心が人類に対する信頼の証として、他者の心の琴線に触れることになれば本望である。
人間同士の愛は、人間や国家の間において常に至高の定めであり、世界平和の礎となるものである。
I hope that the goodwill that moved me will touch the hearts of others as proof of my faith in humanity.
Love between human beings is always the supreme law between humans and nations, and is the foundation of world peace.
家族を殺されても日本兵105 人に恩赦を下したフィリピン大統領 71 年目の顕彰碑 (buzzfeed.com)
フィリピンでの戦犯については、現地の日本語新聞が取り上げていました。
(48 年8月に絞首刑判決を受けた) 宮本さんはBC級裁判の容疑者キャンプに入っていたとき、 米軍マニラ裁判 で裁かれた戦犯死刑囚たちが隣の既決囚キャンプから処刑場に送られるのを見送った。「皆さん立派な態度でした。でも、残される者としては銃殺刑が嫌でした。銃声がどうしても耳に入るんです」
1947年8月、米軍から引き継いだ フィリピン政府のBC級戦犯裁判
が始まる。裁判は 49
年末まで続き、151人の被告に対し審理が行われ、死刑 79
人を含む 有罪判決137人
という厳しい結果だった。
冷戦下という国際情勢や対日関係正常化、戦犯拘置費用の財政圧迫、日本の助命運動などを受け、キリノ大統領は苦渋の決断を迫られた。世論の動向を探るように、刑の軽い戦犯を徐々に釈放し、 53
年6月 27
日、死刑囚 56
人を終身刑に、終身、有期刑の 49
人を特赦・釈放する 恩赦令
を決定する。
その後、100名余りの日本人戦犯は7月 15
日、処刑された仲間 17
人の遺骨とともに、日本政府が用意した白山丸に乗りマニラを後にする。
同サイトでは、4回にわたって記事を掲載していますが、
ニュービリビッド(モンテンルパ)刑務所
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