【ブギウギ】描かれなかったスズ子のその後 笠置シヅ子「家族そろって歌合戦」と女優人生 (msn.com)
からです。スズ子のモデルとなった「ブギの女王」笠置シヅ子は1957年に歌手を引退したとされ、「ブギウギ」の設定もそれに合わせている。当時42歳ごろ。85年に卵巣がんのため死去するまで 28年間の「その後」 は放送されなかった。
X(旧ツイッター)の視聴者投稿では「もう少し先まで描いてほしかったって感じかな」との反応も。「日曜昼の『 家族そろって歌合戦 』の審査員をされていたのが私の知る笠置シヅ子さん」という認識が少なくない。歌手時代を直接知る人はおおむね70代後半以上のため、それより若い世代は、愛嬌ある〝歌合戦の審査員おばさん〟といった方がピンとくるに違いない。
笠置が67年から出演したTBS系の同番組は80年まで続いた。素人参加で「ウサギさん」など動物名をつけられたチームによる勝ち抜き戦。動物イラストのパネルがトーナメントのあみだを上がったり、落ちたりするビジュアルが印象的だった。審査員には何かと一句詠む高木東六氏ら作曲家がズラリ。昭和40~50年代、日曜昼の国民的娯楽番組と言えた。
歌手引退後の笠置は、それ以前にも経験のあった演技の世界に専念。80年刊行のキネマ旬報増刊「日本映画俳優全集・女優編」によると、「河内ぞろ・どけち虫」「川日ぞろ・あばれ凧」「河内ぞろ・喧嘩軍鶏」の日活シリーズ作で「得意の大阪弁を生かして伊藤雄之助の女房で悪名高いどけち虫三兄弟・宍戸錠、川地民夫、山内賢の母親を巧演」とある。
引退当時の57年にはラジオ東京テレビ(現TBS)の連続ドラマ「雨だれ母さん」で、逆境にめげずに明るく2児を育てる下町の母親を好演。60年代前半のフジテレビ系「台風家族」で下町のおかみさん役のほか、ヤクザ映画や喜劇でも活躍した。「ブギウギ」がそこまでカバーしていたら、別のスズ子が見られたかもしれない。
補足:ウィキペディアから
(1957年)シズ子は「笠置 シヅ子
」と改名して女優活動に専念する。かつてのヒット曲の一部には「ステレオバージョン」が存在するが、引退直前に リメイク版
として録音した モノラル
盤を後年に加工したもの [
注 4]
であり、ヱイ子によれば、引退後は公私問わず、鼻歌に至るまで一切歌を歌わなかった [305]
。
しかし、義理堅い性格は変わらず、 1960
年(昭和 35
年)「服部良一銀婚式記念、シルバーコンサート」に、恩師へのお祝いのために特別出演して歌を披露したが、これが人前で歌った最後となった。
その後は「懐メロブーム」の折に何度も カムバック
の要請があっているが、その都度「私なんかがのこのこ出て行ったら、今の歌手はダメだということになるじゃないの」「わての歌はみんなの心の中に残ってくれたらそれでええ …
」と頑なに拒否し続けた [306]
。
「笠置 シヅ子」として再スタートを切るにあたり、女優活動への専念については各テレビ局や映画会社、 興行
会社を自ら訪れて「私はこれから一人で娘を育てていかなければならないのです。これまでの「スター・笠置シヅ子」の ギャラ
では皆さんに使ってもらえないから、どうぞ、ギャラを下げて下さい」と出演料ランクの降格を申し出ている。
その上、過去に貧困で苦しんだことを思い返し、自分が死んでヱイ子ひとりになっても生活していけるように、広大な自宅敷地内に賃貸 アパート
を建てている [307]
。
シヅ子はその後、得意の大阪弁を活かした軽妙な演技で多くの作品に出演したほか、 1967
年
(昭和 42
年)からは TBS
テレビ
の人気番組「 家族そろって歌合戦
」の審査員、 1971
年
(昭和 46
年)からは、 カネヨ石鹸
の台所用 クレンザー
「カネヨン」 CM
のおばさんとして親しまれた [308]
。
[ ブギウギ] 『東京ブギウギ バラードver. 』最終回 フルバージョン オンステージ | 朝ドラ | 連続テレビ小説 | NHK (youtube.com)
草なぎ(漢字は環境依存文字でNG)がピアノ演奏で、バンドの指揮者は服部良一の孫 服部隆之
でした。