貧しい家庭に生まれながらも中学時代から陸上選手として類いまれな才能を発揮していたジェシー・オーエンス (
ステファン・ジェイムス )
は、家族の期待を一身に背負ってオハイオ州立大学に進学。そこでコーチのラリー・スナイダー (
ジェイソン・サダイキス )
と出会い、オリンピックを目指し、日々練習に励んでいた。
だが、当時のアメリカ国内ではナチスに反対してオリンピックのボイコットを訴える世論が高まり、さらに、ナチスの人種差別政策は黒人であるオーエンスにとって容認しがたいものであった……。
(KINENOTE)
映画「民族の祭典」 "Olympia" 開会式 - YouTube
*8分の映像です。
全編を観てみたいです。
家族で初めて大学に進学する息子に、自分で仕立てたジャケットを贈る母のエピソードは泣けます。
親はありがたい存在ですが、若いジェームスはまだわかりません。
自分で稼いで進学するです。
幅跳び3位入賞の 田島直人
選手を中国人間違えるエピソードが気になりました。
山口高校 ( 山口大学 の前身)を経て 京都帝国大学経済学部 (現 京都大学 )を卒業する。
1932
年
、 ロサンゼルスオリンピック
に出場し、 走幅跳
で 6
位入賞。 1936
年
、 ベルリンオリンピック
で 2
度目の オリンピック
出場。 三段跳
で 16m00
の世界新記録で金メダルを獲得。 織田幹雄
・ 南部忠平
に続く日本人選手による 3
大会連続での金メダル獲得であり、 リーフェンシュタール
の「 民族の祭典
」にも収録されている。
走幅跳でも銅メダルを獲得した。本人は「走幅跳が専門で三段跳は余技」と発言していたとされ、三段跳の金メダルよりも走幅跳の銅メダルの方が嬉しかったと口にしたこともあったという [2]
。同大会で田島に次ぐ 2
位となった 原田正夫
は同じ京都帝大出身で、田島は後年原田と顔を合わせた際に「幅(走幅跳)はともかく、三段で(原田に)勝とうとは考えもしなかったよ」と述べたという証言が残されている [2]
。
ベルリンオリンピック後の 1936
年、 土倉麻
( 1932
年ロサンゼルスオリンピック
女子 100m
・ 4×100m
リレー代表の陸上選手)と結婚。日本初のオリンピック代表選手同士の結婚として話題になった [3]
。
(ウィキ)
田島は、前のLA大会にも出た有力選手です。
たとえ知らなくとも、表示やユニフォームを見れば日本人とわかるはずです。
中国選手と間違えるなんて、・・・。
このエピソードを取り上げた意図は何でしょう。
一般常識や知識がない陸上バカ?それともロング以外は眼中にないという傲慢さの例、・・・。
まさか、黒人選手なんてこの程度と言いたかった?
ちょっと気になるシーンでした。