歴史と概要 幕末明治維新と新発田城|新潟県新発田市公式ホームページ
慶応 3 年( 1867 年) 10 月、 将軍徳川慶喜 は 大政奉還 を行いました。その後の 12 月 2 日、藩主は朝廷と幕府から上京を命じられ、名代として江戸詰め家老 窪田平兵衛 が、一行十余名で 京都 に赴きました。
以後窪田は、激動する政情を新政府側に立って、江戸と国元の新発田への情報を伝える重要な役割を果たしました。
明治元年( 1868 年) 1 月の 鳥羽・伏見の戦い で幕府連合軍は大敗し、やがて戊辰戦争の戦火は、越後へと波及しました。同 5 月、 東北 25 藩によって奥羽列藩同盟 が成立しました。そして、新発田をはじめ越後諸藩にも加盟の勧誘が続きました。
新発田藩は、尊王の志を貫くために時間をかせぎますが、同盟側の執拗な要求により、 やむなく加盟
することになりました。しかし、新発田藩の消極的な態度に疑念を持った同盟側は 6
月、
藩主溝口直正
を人質に取り、同盟側に引きつける工作を企てました。
しかし、 藩主を慕う領民は、これを阻止したのでした。
その後、城下が同盟側に包囲されたため、やむを得ず藩兵を出兵させましたが、同 7
月、新政府軍が新発田藩領大夫浜、松ヶ崎浜に上陸したのを期に新政府軍に合流し、 先鋒
となって軍を進め、庄内、米沢、会津などの軍と戦いました。
明治 4
年( 1871
年)に廃藩置県、明治 6
年( 1873
年)に
城郭破却令
がなされました。
これにより、新発田城は、現在現存する本丸の一部を残して破却され、その跡地(本丸及び二の丸の一部)に、明治政府の近代的兵制整備の一環として、
歩兵第十六連隊
が創設されました。
現在は、陸上自衛隊第三十普通科連隊が駐屯しています。
新発田藩は、いち早く京都で情報収集を行っていて国もとに書状を送っていて、歴史図書館に古文書が残っています。
次のウィキの記述は、興味深いです。
勅書に対し請書提出
2
月 15
日、北陸道先鋒総督兼鎮撫使の 高倉永祜
、同副総督兼鎮撫使の 四条隆平
から 勅書
が届く。
この勅書は藩から藩へとリレーされてきたもので、新発田は 村松藩
から受け取り、 三日市藩
へ渡すものであった。各々の藩の考えを伺いたいという趣旨で、副書に、積雪で遅れるので先に書面で通知した、承知したなら請書(うけしょ)を出すように、とあった。
翌 16
日、勅書を三日市に送り、溝口半兵衛は御用人宮北郷左衛門とともに 北陸道
を南下した。
請書の文言は「恐れながらなお以て忠誠に励み、王事に勤労奉るの外、他念ござなく候」というものであった。
四条隆平
の『北征記事』によると、 3
月 9
日に高岡で請書を渡したようである。越後各藩では一番早く、次いで糸魚川 12
日、高田 14
日、長岡、三根山 16
日だった。
新発田は京都にいる 窪田平兵衛
を通じて鎮撫使の状況を知らされていたので素早い対応ができた。
対照的に 長岡藩
は、 河井継之助
が不在であり、京都筋の情報も持っていなかったことから、寝耳に水で薩長勢が来ると思い込んで大騒ぎしたという。
普代、親藩大名が多い越後の中で、外様大名。
となりの大藩会津からは、長きにわたって無理難題。
幕末は勤王思想が有力。
外様なのに石高は5万から10万石にアップグレード。
実力は、歴代藩主を先頭に新田開発に努め、 40万石
とも。
歴代藩主(初代~六代)|新潟県新発田市公式ホームページ
歴代藩主(七代~十二代)|新潟県新発田市公式ホームペ
ソレでも
長岡落城後の展開だったので映画にはなかったですが、百姓を使った同盟軍のけん制、
同盟軍に参加しつつも空砲を官軍に撃って戦うふりなどあの手この手の対応です。
それでも、官軍から不信視されて、官軍合流後は先鋒となって戦いの最前線に立たされ多くの戦死者が出ました。
それも長岡や会津のように城や城下町が焼かれることなく、藩主も領民も生き残り被害も最小限でした。
討ち死、切腹はかっこいいかもしれませんが、領民にとっては迷惑なことです。
城下町の安全を守った藩の重臣の役割は、大きかったと思います。
状況は違いますが、ウクライナのゼレンスキーやガザのハマスの絶望的な戦い方が、頭の隅をよぎりました。