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松坂大輔さんが報道ステーションでドジャース・佐々木朗希の投球を解説 「不安に考える必要は一切ない」3/31(火)元西武の松坂大輔さん(スポニチ本紙評論家)が31日、自身がキャスターを務めるテレビ朝日系「報道ステーション」に出演。ガーディアンズ戦で今季初登板したドジャース・佐々木朗希投手の今季初登板を解説した。 佐々木はオープン戦4試合で防御率15・58。不安を残す開幕となったが、松坂さんは「ドジャースというチームでやっているので、メディアもファンも厳しい見方はしていると思うんですけど、僕は正直『オープン戦の結果なんて気にするなよ』と言ってあげたい。シーズンが始まったらガラッと変わることはよくあることなので。ガラッと変わることを期待しています」。 佐々木は4回0/3を1失点と奮闘。本人も「正直僕が一番不安だったけど、(これまでで)一番いいピッチングができたので。結果に対する自信は一つの収穫」と振り返った。 その投球を現地ドジャースタジアムで見届けた松坂さんは「大きなヒントになったと思います」と評価。 「キャッチャーのラッシング選手も真ん中に構えて、コースに寄るというよりはゾーンの中でボールが収まってくれればと、そういう感じで考えて投げさせていたのかな、と。『お前はストライクゾーンに投げられれば大丈夫なんだよ』というラッシング選手のメッセージだったのかな」。 試合後には自らクラブハウスでラッシングに取材。真ん中に構えていたことについて「ストライクを先行させて佐々木に気分良く投げさせるため。シーズン初登板としては大きな一歩。次が楽しみ」との答えだった。 「(佐々木は)どの球種も自信を持って腕を振っていける。しっかり威力もありましたし、ど真ん中のストレートでも空振りを取れることがあった。いわゆるボールの切れは全く問題ない。不安に考える必要は一切ないんじゃないかなと思いますね」と松坂さん。今後の登板に期待を寄せた。
2026.03.31
二宮先生が茨城県の青木村のために力を尽くされたことは」、私(福住正兄)の兄、大澤勇助が、烏山藩の菅谷八郎左衛門と協力して起草した青木村興復起事(おそらくは、富田高慶もこれを参考に報徳記の青木村の章を書き上げたと推測される)の通りである。 さて年を経て、先生がその近村の灰塚村を復興された時、青木村は旧年の報恩とため、冥加(みょうが)人足といって、毎戸一人づつ、無給で勤めた。先生はこれを検分されて、後にこう漏らされた。「今日来て勤めるところの人夫は、過半が次男、三男で、私がその昔厚く撫育した者ではない。これは表には報恩の道を飾るようでも、内情はどうかわからない。そうであるから私はこの冥加人足を出したことを悦ばない」青木村の領主の用人がこれを聞いて「私がよくよく説諭しましょう」と言った。先生はこれを止めてこう言われた。「これは道ではない。 たとえ内情はどうであれ、彼等は旧恩に報いるためといって、無賃にて数十人の人夫を出してきた。内情のいかんを置いて、褒めなくてはいけない。しかも薄きに応ずるには厚きを以てするべきである。これがすなわち道であるといって、人夫を招いて、「旧恩の冥加として、遠路来て、無賃で私の事業を助けた、その奇特を賞する」と感謝され、過分の賃金を渡して、帰村するよう命じられた。一日おいて、青木村の村民老若を問わず、皆朝早くから出てきて、終日休まず働いてしかも賃金を固く断って帰っていった。先生はまた金をいくらか贈られた。☆青木村の名主が復興の陳情に来た時、尊徳先生はこうおおせになった。「汝らは怠惰の習慣が久しい。今一時の約束がどうして永い年月保つことができよう。人情として困苦に迫られると、どんな苦労も厭いませんと言うけれども、少し欲するところが得られると、急に怠惰の心を起こして、旧来の弊害が再び起るものだ。汝がどうして後年そのようなことがないと言い切れるのか。いったん再興しても、後年廃棄するのであれば、始めから止めておいたほうがよい。」青木村の仕法は、後に領主の川副氏が分度を守ることができず、また村民もその後昔の悪い風を生じてたびたび紛争を生じ、嘉永元年(1848)に仕法を領主に引き渡し中廃し、桜町三村のような有終の美を飾ることができなかった。この夜話にもそうした青木村の人々の心のほどを尊徳先生は感じ取られ、冥加人足を悦ばなかったのだ。今日の名言薄きに応ずるには厚きを以てすべし、これ則ち道なり二宮翁夜話巻の1三〇 翁常陸国青木村のために、力を尽されし事は、予が兄大沢勇助が、烏山藩の菅谷某と謀りて、起草し、小田某に托し、漢文にせし、青木村興復起事の通りなれば、今贅(ゼイ)せず、扠(サテ)年を経て翁其近村灰塚(ハイツカ)村の、興復方法を扱れし時、青木村、旧年の報恩の爲にとて、冥加(ミヤウガ)人足と唱へ、毎戸一人づゝ、無賃にて勤む、翁是を検(ケン)して、後に曰、今日来り勤る処の人夫、過半二三男の輩(トモガラ)にして、我往年厚く撫育せし者にあらず、是表に報恩の道を飾るといへども、内情如何(イカン)を知るべからず、されば我此冥加人足を出(いだ)せしを悦ばずと、青木村地頭の用人某(ソレガシ)、是を聞(キヽ)て我能(ヨク)説諭せんと云、翁是を止(トヾ)めて曰、是(これ)道にあらず、縦令(タトヒ)内情如何(イカ)にありとも、彼旧恩を報いん爲とて、無賃にて数十人の人夫を出(いだ)せり、内情の如何を置(オイ)て、称せずばあるべからず、且(かつ)薄(ウスキ)に応ずるには厚(アツキ)を以てすべし、是則道なりとて人夫を招き、旧恩の冥加として、遠路出来(いできた)り、無賃にて我業を助くる、其(その)奇特(キトク)を懇(コン)々賞し、且(カツ)謝し過分の賃金を投与して、帰村を命ぜらる、 一日を隔(ヘダテ)て村民老若を分たず、皆未明より出来(いでき)て、終日休せずして働き賃金を辞して去る、翁又金若干(ソコバク)を贈られたり
2026.03.31
その大意を「富国捷径」へ書いておいたが、今またその詳細を記録してここに示しておく。老人の繰りごとと見すごさずに、その深意を玩味していただきたい。福住正兄記す〔「報徳」第6号p3〕 その2その1また質問した。「推譲の法を聞く事ができますか。」先生は言われた。「あなたの身代の分限をしっかりと定めることにある。だから私は、常に分限を定めることは、衆善の先、万善の源であると述べている。譬えば千円の身代の者は、五百円に分限を定めて、それで生活を立て、五百円を推し譲って、国益を勤めて、善を行なうべきである。八百円の者は、四百円の分限を定めて、それで生活を立て、四百円を推し譲るべきである。五百円の者は、二百五十円の分限を定めて、それで生活を立て、二百五十円を推し譲るべきである。これを報徳推譲法という。「書経」に堯帝の徳を称して、『欽明(きんめい)文思(ぶんし)安々(やすやす)、允(まことに)恭(うやうやしく)克(よく)譲(ゆづる)とあれ』と、この眼目はただ『譲』の一字にある。なぜならば、もし人が欽明(きんめい)文思(ぶんし)安々(やすやす)、允(まことに)恭くあっても、克(よく)奪(うばう)ならば、刑罰を免れない人となるであろう。そうであれば譲の一字が眼目であることは明かである。何事でもこのように猟師の鳥獣を打とうと狙う様子は、実に鞠躬如(きくきうじよ)として、気をひそめて息をしない者に似ていても、これは賞賛するに足りないのと同じだ。だから仁といい、義といい、礼といっても皆、推譲して、他の為にする名であって、自分の田にだけ水を引いては、どれほど恭くしても、仁ではなく、義ではなく、礼ではない。古語に『一家譲あれば、一国譲より興る』という。ここに今、十軒の村があったとしよう。一人がよく一衣をぬいで、寒がっている者のため推し譲る者がある時には、一衣の余りがある。若し十人が譲に興って皆一衣ずつ推譲する時には、十衣の余りがあって、隣村の寒がっている者を救うに足り、その美事さは言うことができないほどだ。ところがもし、心得違いの者があって、私欲の心をおこし、一衣を取ろうと欲するならば、たちまちに一衣の不足が生ずる。もし十人がこの奪う念いを起すならば、たちまち十衣の不足を生ずる。奪わなければ満足しないというならば、すなわち乱である。治乱興廃が別れるところもまたこのとおりである。推譲の道はなんと偉大ではないか。知らずんばならない。家産を多く持ってて、富貴安楽の人はその富栄を永遠に続かせ、後世に至っても、衰微することが無い事を願うならば、分度を定めて、推譲法を行うがよい。この法を立てる時には、ただ奢侈を止めて、放埓(ほうらつ)になるのを慎んで、今年を来年に送るだけで大善が行われ、譬えば右足を踏みしめて、左足を進めて歩行するようなもので、たとえ千里の遠きに到るのも、転びつまづく心配がなく、年数を経るに及んで、計算もできないほどの大業に至ることは、鏡に掛けて見るようである。そうであれば上帝の愛護も厚く、富栄も永遠に続いて後世の衰廃がない事は疑いないものである。没後、昇天して、神爵を受けるも、極楽世界に往って成仏する事もまた疑いの無いものである。」諭された。努めなければならない、勤めて行わなければならないことです。◎左の逸話は先師の教訓中最も大切の遺法なれば予先年其大意をば富国捷径へ書せしめかど今又其詳細を記して茲に示す事となしぬれば老の繰言と見過さず深意を玩味せられよかし。福住正兄記す〔「報徳」第6号p3〕或人先師に問て曰く人の家一時隆盛にして富栄なるも兎角長久には続かざるものなり。此の富栄を永遠に続かせて後世に至りても衰微すること勿らしむるの方法ありや。先生曰く、陰徳積善に在り、と。又問て曰く、積善の家には、必ず余慶あり、不積善の家には、必ず余殃あり。是則ち百木百草沃土に種(う)うれば茂り薄土に植うれば衰ふ、又漬物の如き、塩大きは三伏の暑を過れども味変ぜず、塩少なき、春寒未だ退かざるに香味共に損ずると、一般の道理明々了々既に教を聞けり。然と雖も親、善行ありて、子災に罹り又子善人にして孫栄へず此の類世間を見るに、往々多し。此に於て未だ疑ひなき事能はず、如何。先師曰く、此の理甚だ微なり。凡そ眼を以て見るべからず。夫れ汝は農なり。今農事を以て之を譬へん。爰(ここ)に一反歩の田あり。ロ莽麁作平年の実法(みのり)、一石に過ぎず、屡々収入の不足を見る。爰(ここ)に良農夫あり。此の田を作りて、耕耘(こううん)を精細にし、時を以て是に植ゑ培養懇到を究めば、秋に至り、実法(みのり)二石を得る必せり。是即ち力耕(りょくこう)培養の功にして秋実の報(むくひ)なり。積善の家、余慶あるも同じ。然りと雖も来年又秋実あらんや。一年の力耕(りょくこう)は一年秋実の報(むくひ)あるのみ。何ぞ一年の培養を以て、永年豊熟すべき理あらんや。一旦(たん)の善行は一旦(たん)の報のみ。一夕の隠徳は一夕の報あるのみ。何ぞ一回の善行を以て、余慶子孫に及び一度の陰徳を以て、陽報永久に及ぶの理あらんや。強(しい)て是を願はゞ、法を立て是を勤めるより如かず。当年の実法(みのり)平年に倍す。其の内平年の実法り一石を以て常産と定め、残れる一石を以て、来年耕耘(こううん)培養の資に充(あて)、又前年の如く、耕耘(こううん)培養を尽さば、又前年の如き、実法(みのり)あらん事必せり。年々此の如くなれば、歳々、秋実を培して、豊熟を得ん事疑無し。これ良農耕作の術にして解し易く知り易し。乃(すなはち)知り易き理を以て汝が解し難き疑を弁ず。只浅近の理として忽(ゆるがせ)にすべからず。此の理を以て、家道を立て、法を制し我が推譲法を行はば、千秋の栄、又期せざらんや。又問ふ、推譲の法、聞く事を得べきや。先師曰く、汝の身代の分限を確乎と定むるに在り。故に我常に分限を定むるは、衆善の先、万善の源なりと云なり。譬へば千円の身代の者は五百円に分限を定め、生活を立て、五百円を推譲りて、国益を勤め、善をなすべし。八百円の者は、四百円の分限を定め、生活を立て、四百円を推譲るべし。五百円の者は、二百五十円の分限を定めて、生活を立て、二百五十円を推譲るべし。是を報徳推譲法と云ふ。書経に堯帝の徳を称して、欽明(きんめい)文思(ぶんし)安々(やすやす)、允(まことに)恭(うやうやしく)克(よく)譲(ゆづる)とあれと、眼目は只譲の一字にあり。如何となれば、若し人欽明(きんめい)文思(ぶんし)安々(やすやす)、允(まことに)恭くとも克(よく)奪(うばう)ならば、刑罰を免れざるの人なるべし。然れば譲の一字眼目なる明なり。何事も其の如く猟師の鳥獣を打たんと狙ふ様は実に鞠躬如(きくきうじよ)たりしも、気を屏めて息せざる者に似たりとも云べきなれど、是は称するに足らざる同じ。されば仁と云ひ、義と云ひ礼と云も皆推譲して、他の為にする名にして我が田にのみ水を引ては、何程恭くすとも、仁にあらず、義にあらず、礼にあらざるなり。古語に一家譲あれば、一国譲より興ると云へり。爰に今十室の邑あらん。一人能(よく)一衣をぬぎて、寒者(かんじや)の為に推譲(おしゆづ)る者ある時は、一衣の余りあり。若し十人譲に興りて皆一衣づつ推譲する時は、十衣の余りありて、隣村の寒者を救ふに足り、其の美事言ふべからず。然るに若し、心得違ひの者ありて、私欲心を発し、一衣を取らんと欲せば、忽(すなはち)一衣の不足を生ず。若し十人此の念を発せば、忽ち十衣の不足を生ず。奪わざれば飽ずと云に至れば則乱なり。治乱興廃の別るゝ所も又是なり。推譲の道豈大ならずや。知らずんば有るべからず。家産を多く持て、富貴安楽の人は其の富栄を永遠に続かせ、後世に至りても、衰微すること無からん事を願はゞ、分度を定めて、推譲法を行ふべし。此の法を立る時は只奢侈を止め、放埓(ほうらつ)を慎み、今年を来年に送るのみにて大善行はれ、譬ば右足を踏しめて、左足を進め歩行するが如く、縦令(たとひ)千里の遠きに到るも、顛躓(てんひつ)の憂ひなく、年数を経(へ)る及んでは、算勘数量も、及ばざる大業に至るは、鏡に掛けて見るが如し。されば上帝の愛護厚く、富栄永遠に続き後世衰廃なき事疑ひなきものなり。没後昇天して、神爵を受ん事も、極楽世界に往て成仏せん事も又疑ひ無きものなりと、諭されたり、勗(つと)めざるべけんや、勗(つと)めて行はざるべけんや。その1
2026.03.31
駿河御厨郷中への教訓(この一篇は、天保8年春、駿州御厨郷(静岡県御殿場付近)に巡回中に尊徳先生が村民に教訓したものを記録したものであって、尊徳先生の口ぶりをよく伝える)家をたもつも身を治めるも、金銀のできるのも何の不思議はない。誠一つをもって貫くのじゃ。誠は天の道、これを誠にするは人の道というものじゃ。あわをまけばあわが生え、麦をまけば麦がはえ、米をまけば米が生える。皆その通りに生命を正しうする、これを天の道という。それをおのれおのれの勝手に、朝寝をしたり、遊んで食ったり、寝ていて食ったり、ぐたついて過ぎようとは、あわをまいても米を取ろうとするようなもので、田にも畑にもろくろくな夫食(ぶじき:食糧)もなさずにおいて、働かせようとするゆえ、去年のような凶作には人より先へ、夫食を天からお取り上げじゃ。これがあわをまいてあわが生えたのじゃ。田畑を飢えに及ぼしたからおのれおのれも飢えに及ぶのじゃ。何も不思議はない。これが天の道じゃ。かように善悪ともに報うのじゃ。さすれば飢えるともたおれるとも勝手しだいにするがよい。へいぜい田畑へ夫食をたんとやっておいた人は、去年も今年も夫食に差し支えはない。米をまいておいたから米がとれたのじゃ。皆々めいめい精根次第の手細工(てざいく)じゃ。それじゃによって、飢えるものは飢えても、たおれるものはたおれてもよけれども、同じ村に生まれて、同じお百姓どうしなれば、家内の肉のけずれるを見ていてもすまぬによって、有る者はこの節、融通してやるがよい。50年に一度のことなれば、この節、人の命の救いどきじゃ。救うたものは忘れるがよし、救われたものは子々孫々まで忘れぬがよし。またご拝借5ヵ年賦は、めいめいその日その日の家業のほかに夜、縄なり草履なり、また山付きならば定まりのほかに朝起きして炭なり何なり、それぞれ得手得手の余業を励み勤めるなり、世上一統申し合わせ大倹約をして、また祭礼仏事等にも、寺々の付け届け厚く相勤め、その外には普請家作・月待ち・日待ち・振る舞いごと、その外何事によらず、不用の事、不用の品を小分たりとも求めること一切慎むのじゃ。このたび露命をつなぎしことを忘れずば、5ヵ年や10ヵ年は何でもなく勤まる倹約じゃ。このところをよくよく感心して本心に立ち帰り勤めさえすれば、何ほど凶作でも、凶年もないが別に豊年もない。ぜんたい年々豊凶は6・7月より知れてあることじゃ。いよいよ今年5分・6分、2分・3分作の陽気と見えたら、それぞれの暮らしをつけねばならぬ。ことに凶年のこの辺は、2分3分と見定めても、それをうかうかと平年の7・8分の暮らしをしておるによって、さあ狂言が違うのじゃ。田畑の事ばかりじゃない、何事もこのとおり、前々より商売が不景気なら、そのとおり不景気の暮らし方を付けるべし。その時々を計りて暮らせば間違いはないが、その振る舞いが違うゆえに、凶作が来たらにわかに目が覚めたのじゃ。みな天の思し召しに背いたによって、かく難渋するのじゃ。今日より天の言いつけどおりに守りさえすれば、返すがえすも言うとおり、あわをまけばあわが実のり、米をまけば米ができ、善い種をまけば幸いが実り、悪い種をまけば害が実るのは天の誠の道、これを誠にするは人の道なりとは報徳のことなり。小人(しょうじん)は小金ができると上を見始める。それよりだんだん奢りがはじまり、衣食住、髪型、諸道具類、唐物(からもの)、和物(わもつ)を好み、遊芸、囲碁・将棋、茶の湯、俳諧、生け花と、処々の遊客寄り集まり、それより家業は次第に不精(ぶしょう)になるほど、飲食好きと色欲と、次第次第に貧乏不如意となるにしたがって、いよいよ奢りは強くなっては、人のいさめも聞かず、凶作がくると人より先へ飢える。その裏はまた小金ができるほど吝嗇(りんしょく)になり、おのが勝手で好みの利欲が強く、人を見下げ、人は心がらじゃとおのが自慢し、小金のふえるほど道を失う。それより貧乏人はおのれが不精は始末せず、惰弱は言わず、人をそしり恨みて、小言が始まり、悪いたくみの次第につのり、あるいは押借り打ちこわし、その小言が止むと色が悪くなり、いよいよ飢えに及ぶのじゃ。その時に至り後悔してもしようのない、これから本心に立ち帰り家業を励むよりほかはない。福者のためには貧乏人が福の神じゃ。貧乏人の寄り集まって売っては増やしてやり、つまるところは皆福者の果報になるじゃによって、少しは借り倒されても貰い倒されても、りょうけんしたがよい。これが世界中金持ちばかりでは、売りに来る人も買いに来る人もないが、その時には田も畑も預ける人ばかりで作る人がなくば、福者も金持ちも貧乏人に引き換えて、渇命に及ばにゃならぬ。ここをよくよく考えて見れば、貧乏人じゃとても見捨ててはならぬ。また貧乏人も去年より引き続いて種々恵みを受けても、有るものは当たり前などと冥理(みょうり)をしらぬ大罰当たりのものもまれにはあるものじゃ。心得の悪いと貧する上にも、またまた子々孫々までも貧する種をまくのじゃ。よって有り難いということを少しも忘れてはすまぬ。貧者と福者とは話が違う。皆耳にばかり聞かぬように、腹の中へ聞きこむがよい。天照大神宮様は田にも畑も鍬も鎌も何もない所へ天降りましまして、ご丹誠遊ばされたのじゃ。ただ誠の一つさえとり失わねば何も不足言うことはない。不足言うはおのれの皆嘘ばかり尽くしておいたその報いじゃ。
2026.03.31
人は 若い頃に 身体の芯から燃え上がるというような あるいは、自分にスイッチが入るというような、一種の感動、感激が必要なようである。そして、その感動が大きければ大きいほど、継続して専念する体験が必要なようだ。豊田佐吉や鈴木藤三郎といった発明者の伝記を読むとそんな感慨を抱く。豊田佐吉は、営繕大工の父の手伝いで小学校の窓から聞えてきた「西国立志伝」の話に強い感動を覚えた。鈴木藤三郎は、22歳のとき、実家で二宮尊徳の教えを書いた本を読んで感動し、報徳思想に生きた。 「王国の履歴書」池田政次郎著 抜粋 トヨタグループの歴史は「社祖」こと豊田佐吉の手によって開幕した。 静岡県の片田舎に生まれ、小学校しか出ていない豊田佐吉が、艱難辛苦の末、世界に類のない自動織機を発明、その努力の結晶が今日のトヨタグループの礎(いしずえ)を築くことになる。 あまり知られていない話だが、豊田佐吉は若い頃から「報徳教」の熱心な信奉者であった。 佐吉は慶応3年(1867年)の生まれで、当時は江戸末期に当たり、従って生誕地は「遠江国敷知郡山口村」となっている。 遠江(とうとうみ)は今でいう遠州であり、敷知郡は「ふちのごおり」と読み、現在の静岡県湖西市である。同市は名のとおり浜名湖の西側にあり、静岡県といっても、むしろ愛知県の三河地方に近い。 「報徳教」の祖は二宮尊徳である。 「報徳教」はなぜか遠州において、多くの『信者』を獲得した。 一種の『地付き信仰』となって広まり、佐吉の父・伊吉も熱心な信奉者であったらしい。 豊田佐吉は父親たちから報徳教の話を聞くたび、子ども心に、「いつの日か尊徳先生のようになってみせよう」 と思ったに違いない。 父の伊吉は農林業のかたわら、『便利大工』をしていて、在所の家や村の小学校からよくお呼びがかかった。 その父親の血を引いたのだから、佐吉が生来の機械好き、そして天才的な『からくり屋』に成長していったのもうなづける。 尋常小学校を出た佐吉は、13歳になった頃「強烈な体験」をする。その頃には父の助手のようなことをしていて、ある日、村の小学校にくっついて行った折のことである。 伊吉は校舎の屋根に上がって雨漏りの修理工事、そして佐吉は、下で父が要求する工具を投げ上げたり、ハシゴを登って手渡したりする役目。そんな佐吉の耳に窓越しに先生の授業が聞える。なんとはなしに聞いているうち、知らぬまに、「身体の芯から燃え上がってくるものを感じた」のである。 豊田佐吉は昭和5年10月30日に65歳で没したが、その発明研究人生の発端はこの時の原体験がバネになったといってよい。 佐吉が、晩年著した『発明私記』の中でこう書いている。『子供の頃、父に連れられてよく村の学校へ行った。父は営繕大工で高等小学校へ進めなかった私は、いつも窓の外から教室での授業を聞いていた。 あるとき先生が 「西国立志編」の話をしていて、その内容に強い感動を覚えた。 15~16の頃、あらためて本を読み、ますます心を魅かれ、自分の生きる道は物づくり以外にないと悟った。』「余の理想の人物」(抜粋)鈴木藤三郎(「実業の日本」明治40年1月1日号) 22歳の正月に実家へ年始に行ったところが二宮という本があった。何のことかと聞くと、二宮尊徳翁の御説を書いたものだという。私も報徳ということは聞いていたが、それは単に金をケチに貯めるとこととか、朝は早く起きるとかいうに止まり、その教えが書籍になっているとは思わなかった。これを借りて帰って読んでみると、すこぶる面白い。その大体は、こうである。 人は何故にこの世に生まれてきたのであるか。いかにして生くるのであるか。金銭も名誉もその目的とするものではない。人は国家社会のために、その利益を増進する仕事をなすべきものである。過去の人がなしておくことを、今人は更に増殖してこれを後世子孫に伝えもって国家社会の利益を増進する。云い換えれば、代々の人はその消費するよりも以上の仕事をして、前人から受け継いだ外に更に増して子孫に伝える。何事もせずして先人の事を後人に伝えるのは、恩義の賊である。されば人間は個々としては生まれたり死んだりするが、大体よりいえば人間は生きているのである。この目的は一人にてはできぬ、また一代二代にてできるものでない。すべての人間が、この目的に向って勤労する。その個人が分担して行うのが各自の職務となる。されば職務は人の賢愚不肖によって異なってはいるが、国家社会を利するという大目的に比ぶれば同一で、その間に上下尊卑の区別があるべきはずがない。ただ自分の職務とするところを遺憾なく尽くして明らかならしむべきである。いわゆる天地の秘を発(あば)くべきである。これが人生の大目的で、また人が禽獣と異なる所謂(しょい)である。 この人生の大目的の一分を達するために各人はその職務に全力を傾注するときは、たとえ自己の利益栄達を主としなくても、これらはその職務の遂行に伴うて自ら発達して来るものである。この主義を服膺(ふくよう)する間に自(おのず)から自己も発達せられるという意味であった。 ○神のごとき二宮先生 この書を読んで、私は豁然(かつぜん)として悟った。今まで金さえ貯ればよしといた思想は全く誤りであることを発見し、報徳主義の甚だ大切なことを知ることができた。自分は、ここに初めて人間の道ということを知ることを得た。まさに大河を渡らんとしたときに船を得た心地がしたので、今度はいかにしてこの道を進むべきかという問題を解くこととなった。 それからは、毎月開かれる報徳の集会には出席する。会日以外にも行って種々なことを質問し議論する。狂熱のようになって報徳主義を研究した。報徳記も当時は僅かに写本ばかりで、それすら容易に見ることはできなかったが、特に読まして貰った。 同時に他の方面の研究をする必要もあったので、また書見を始めた。12歳から以来全くやめていた経書などを漁(あさ)り読み、23歳の時には夜学に通うて勉強し、研究すればするほど他と対照して報徳主義が立派な教えとなり、ついには二宮先生は人間以上の、神のようなものに思われて来た。「黎明日本の一開拓者 父鈴木藤三郎の一生」鈴木五郎著フト近くで子どもが読本のおさらいをする声が高々と秋の空に響くように聞えてきた。それはなんだか、自分の思い切りの悪い態度を叱責する天の声のようにさえ思われる。自分が22歳になるまで、人生の目的は金儲けにあるもののように思いこんで平気でいたのは。小さい時から家業に没頭して、少しも読書するとか修養するとかいう機会がなかったからのことだ。現に最近まで同町内に報徳社があるということは薄々知りながら、報徳などというものは、朝早く起きたり、金をケチに溜めることだくらいに考えて、こんなに手近にありながら深く研究しようという気さえ起こさなかったのは、みんな文字の道から遠ざかってしまったからだ。このごろは文明開化の世の中になって来て、あんな子どもさえ一生懸命で勉強している。このままでいたならば自分は全くこれから先の長い生涯を、この非常な勢いで進んでいる世の潮流から取り残されてしまうのだ。今の自分の1時間は、あんな子ども達の百時間にも千時間にも当るのだ。時は命だ。命は金では買えないのだ。そう考え出したら例の気性で、もう一刻もジッとしてはいられなくなった。 立ち上がって単衣(ひとえ)の帯をしめ直すなり、父は表へ飛び出した。そして、取引先の問屋へ一直線に入っていった。父の勢いこんだ様子に、帳場机によりかかりながら鼻毛を抜いていた問屋の番頭さんは先ず驚いたが、今即座に持荷全部を買ってもらいたいう申出を聞いて、再び驚かれた。「それは、お引取りせぬこともありませぬが、せっかく今までご辛抱なさったのですから、もう少しお待ちになってはいかがですか。そのうち外国船が入港しましたら、きっと値が出るにきまっておりますから・・・」と親切にいってくれたが、そんな忠告は、もう父の耳には入らなかった。「いえ、どうしても、それまで待てない事情がありますので・・・」と無理に頼んで仕切ってもらった。 その金を懐にするなり宿をたった。鉄道は明治5年に東京横浜間が、同じく7年に大坂神戸間がようやく開通したばかりで、東海道は膝栗毛に鞭打つより外に仕方がなかった時代なので、もう9月とはいいながら残りの暑さに照りつけられて油汗を流しながら箱根八里の峠を越えて、松並木の長い長い東海道を一向に歩いたのであった。自分の1時間は、子ども達の百時間にも千時間にも当るのだ。そう思うと、汗をふく暇さえ惜しまれた。東海道を袋井まで来て、それから秋葉街道を北へ三里、水のきれいな太田川を渡るともう森町である。家では案外に早い帰宅を皆いぶかった。同じように茶の商売で横浜へ出かけている幾人かの人々も。まだ一人も帰ってはいないし、当分相場のあがりそうな見込みはないと便りが来たのも、ついこの間のことである。それに何やら様子が違う。そんな心配がみんなの心を暗くして、長の旅路の疲れをいたわる言葉にも舌の重い感があった。しかし、父はそんなことを気にもかけなかった。帰るなり帳場格子の所に座っている養父の前へ行って、「お父さん」と改まった調子で呼びかけた。家の者は、養母も妻も、やはり何かあったのだなと体中を耳にせずにはいられなかった。養父はタバコをすいながら、何をまた気まぐれ息子が言い出すかというような顔をしている。「お父さん、私は製茶貿易は昨日限りやめました。今日から、また家業の方を手伝わせてもらいます。」これには生来のんきな養父も、そうタバコばかりを吹かしてはいられなかった。「ほう、それは結構なことじゃ。わしはお前にそうしてもらいたいと思えばこそ、3年も前に隠居した訳なのだから・・・。」「それについて、たった一つお願いがあります。」「何かな、それは?」「私が、学問をすることを許して頂きたいのです。」「ほう、製茶貿易をやめて、今度は学問か?」相変わらず気まぐれだと思いながら、「それで、家業の方はどうするつもりかな?」「昼間は家業に精を出します。それで晩だけ学問させてください。」これを聞いて、養母も妻もホッとした。養父は、もともと菓子商に学問はいらぬという持説であったが、夜だけというのなら大して仕事の障りにもならないし、それに何よりそれで危険の多い製茶貿易をやめるというならおやすいことだと考えたので、「夜だけということなら差支えはなかろう」と許した。父はその許しを得ると、近くに住んでいる町の小学校の訓導の青木露生という先生がまことに篤実の人柄のように前から思っていたので、知人から父のために夜学の個人教授をしてくれるように頼んでもらった。(略)青木先生といろいろ研究した結果、まず9ヶ月でどうにかやれようという見込みがたったので、夜学の期間をこの10月から来年の6月までということにして、その間にできるだけ能率をあげるように細かいプランを立てて始めた。 この9ヶ月の間というものは、一日の家業を終ると夜学に行って、それから帰るとまた復習をし習字をして、一晩もかかしたことなく、毎晩12時前には寝たこともなかった。青木先生も父の熱心に心から感動して、実に親身になって教えてくれたので、この短い期間としては驚くほどの進歩が見られた。 翌10年の6月、予定以上の成績で課業を終ったので、父は形を改めて青木先生の所へ行って心から礼を述べた。先生も世話のし甲斐のあったことを真底から喜んでくれた。
2026.03.31
26「小野江善六自序伝」その1 私の履歴はさきに家政調べ帳というを作成して、ほぼその事を記し置いたが、世間で働いていた頃に、町内有志とはかって領主のために、あるいは有志のために行う事があったくだりはあの家政調べ帳にまだ尽さなかったので、このたび更にそのくだりを書きつづって次に掲げることとした。そうはいっても、先年、ことにふれ、ものにあって記し置いた帳簿は、火事のため灰燼したため、その年月を記すことができない。ただそのことがらを記憶のままに記しくまでである。 明治十九年秋 小野江豊長識しるす 生い立ちと家庭 豊長、通称善六という。父は遠江国(とうとうみのくに)周智郡(しゅうちぐん)森町の農・山中豊平である。豊長はその六男で、母はさちといい、同郡市場村加藤氏のむすめである。豊長は幼名を六郎という。七歳で母を失い十一歳で父を喪なう。後、流浪して十三歳になって同国、敷知郡(しきちぐ)浜松田町の商・小野江善六方に奉公し、商業に従事する事十五年間。時に年二十七歳。主家に一女があった。これにめとわせ豊長を養子となそうという。豊長おもうに「奉公の身でいきなりその家の養子となる。おそらくは家族や親戚の信用が無かろうと辞退すること再三であった。しかし主家はなお豊長の実家に迫って素志を遂げようとした。ここに安居院義道という人があった。この人は二宮尊徳先生の遺教である報徳の道を教え、その頃、豊長の実家の親戚である新村豊作方に逗留すると聞いて、直ちに行って豊長、進退の可否について教えをこうた。安居院先生はいわれた、「昔、堯舜の偉大な帝王は、天下をたもって、あずからずという。いわゆるその位に在っても、その位に安んぜず、驕慢の行いが無く、自分はあずからないという意味であって、すなわち一点も私心を挟まないという意義である。さらに賢を尊ぶときは惑わないとの金言がある。これを遵守するときは。たとえ主家の養子となっても、何の難かしい事があろうかと、このように諭して、ていねいにこんこんと教えられた。このお諭しは豊長の心魂に徹して、かつぜんとして白日に晴天を視るようだった。ここに意を決してその諭示に従って、ついに主家の養子となって、それから報徳の門に入って、もっぱら報徳の教えを修行し、安居院義道先生に師事し、弟子の道を失わなかった。先生病没のとき、遺体を田町の玄忠寺に埋葬して、後に法養を怠らなかった。 遠州、敷知郡島之郷村と同郡高林村の両村の入会地を字(あざ)山田四つ池という。この地は山間で特別に土地のやせてうすい地で、荒蕪不毛の地であったのを、万延二年、領主井上河内守殿へこの荒蕪地開墾方を願い上げて、お聞き届けの上、報徳の教えに随って耕うん・培養、大変労苦しすること数年で、ついに荒地を開く事、田二町八反歩余。ここにいたって新たに農家四戸を自費をで建設し、衰貧の者を集めてこれを補助し、農事を営なませた。「小野江善六自序伝」はしがき小野江善六翁の小伝をものせんとするに文献の徴すべきもの少なくその詳細を知るによしなし。ただ明治34年10月報徳結社の事について内務大臣に提出したる履歴の副本と翁の古稀の齢を迎えられし時、そが記念のため知人なる市川安吉氏が翁のために書きつづりし略暦一本とあるのみ。今この両冊子に基き、かたわら浜松館蔵の記録を探り、翁に関する数項を発見し、これを集録したるに過ぎず。これ九牛の一毛にして翁が多年経営尽瘁せられたる全般にわたるを得ざるを遺憾とす。見ん人これを了恕せられんことを乞ふ。 昭和3年10月 後進 神村直三郎識 「小野江善六自序伝」その1 予が履歴は曩さきに家政調帳なるものをものして粗ほぼ其その事を記しるし置きぬれど、世にありし頃、町内有志と謀りて領主の御為め、或は有志のため為す事ありしくだりは彼の調の帳にて未だ尽さざりければ、こたび更に其そのくだりを書きつづりて左に掲ぐる事とはなしぬ。しかばあれど、年頃ことにふれものにあひて記しるし置つる帳簿はかぐつちのあらび〔火の神の荒び:火事〕に烏有うゆう〔全くないこと〕となしつれば其その年月を記しるすによしなし。ただ其そのことがらを記憶のままに記しるし置ぬと云爾しかいふ。 明治十九年秋 小野江豊長識しるす 生立と家庭 豊長通称善六といふ。父は遠江国周智郡森町の農山中豊平なり。豊長は其その六男にして、母はさちと云ひ、同郡市場村加藤某の女むすめなり。豊長幼名六郎と云ふ。七歳にして母を失ひ十一歳にして父を喪ふ。後流浪して十三歳に至り同国敷知郡浜松田町の商小野江善六方に奉公し商業に従事する事十五年間。時に年二十七歳、主家一女あり。之に娶めと(はせ豊長を養子と為さんと云ふ。豊長以為おもへらく奉公の身を以て俄然がぜん其その家の養子となる。恐らくは家族親戚の信用無らんと辞すること再三。然れども主家尚豊長の実家に迫り素志を遂んとす。茲ここに安居院義道と云ふ人あり。此この人二宮尊徳先生の遺教たる報徳の道を教諭し、其その頃豊長実家の親戚新村豊作方に逗留すと聞き、直ちに行きて豊長進退の可否に就きて教を乞ふ。先生曰く、昔堯舜聖は天下を保つて与あずからずと云へり。所謂いはゆる其その位に在りと雖も其その位に安んぜず驕慢の所為無く己れ与あずからざるの謂いひにして乃すなはち一点も私心を挟まざる義なり。且かつ賢を尊ぶときは惑はずとの金言あり。之を遵守するときは仮令たとへ主家の養子と為るも何の難き事之れあらんと此この諭し周到懇々教示せらる。此この語豊長心魂に徹し豁然かつぜんとして白日晴天を視みるが如し。茲ここに於て意を決して其その諭示に従ひ、竟つひに主家の養子と為り、夫それより報徳の門に入り、純ら該教を修行し義道先生に師事し弟子たるの道を失はず、先生病没の秋、遺体を田町玄忠寺に埋葬して後法養怠らず。 遠州敷知郡島之郷村同郡高林村両村入会地字山田四つ池と云ふ該地は山間殊に瘠薄せきはくの地にて、荒蕪不毛の地なりしを万延二辛酉年領主井上河内守殿へ右荒蕪地開墾方願上御聞届の上、報徳の教に随ひ耕耘こううん培養辛苦勤行数年にて終に荒蕪を開く事、田二町八反歩余。爰ここに至て新に農家四戸自費を以て建設、衰貧の者を集め之を補助し農事を営ましむ。
2026.03.31
「永平家訓抄話」澤木興道 1-11「曩祖又道う、明暗おのおの相対して比するに前後の歩の如し」と。これはおもしろい。前足と後足と。前足は右足ともきめられん。後足は左足ともきめられん。瞬間瞬間に動いておる。だから、前足を前足ともいわれん。後足を後足ともいわれん。どちらが前足とも左足ともきめられん。それならきまりがないかというと、きまりがないことはない。 葛城の慈雲尊者の法語の中に「道は古今たがわず、首かみに位し足しもに居す、前後別有り、左足ところ定まる」右足は右足、左足は左足、右足を左足ともいわれん、左足を右足ともいわれん、前足を後足ともいわれん、後足を前足ともいわれん、男を女ともいわれん、女を男ともいわれん。男は男で女は女。それなら、男女同権というて、男が偉いか女が偉いか。なに、それは男は男で、女は女であるだけで、どちらが偉いとも偉くないともいうことはできない。 それで「大衆前後の歩を知らんと要すや」『華厳経』の中に「因は果を知らず、果は因を知らず」ということがある。前足が妄想分別であるわけじゃない。後足がおれは後足じゃと思っておるのじゃない。前後ともに、前足も非思量、後足も非思量。目は横、鼻は縦。臍が腹のまん中にあって、おれは中央に控えておるとも何ともいわん。足は、おれは馬鹿らしい、一生労働者で、手が遊んでおるときでも、おれの遊んでおるときはないじゃないかとも何ともいうておらん。黙っておる。頭も非思量、足も非思量、臍も非思量。だから比するに前後の歩の如し。大衆前後の歩を知らんと要すや。そこで「卓拄杖両下、曰く、前後を喚(よ)んで後歩と作すことは即ち得ず。後歩を喚んで前歩と作すことは即ち得ず」これはその通り。因が一定、果が一定。前足を後足とはいわれん、後足を前足とはいわれん。しかし前足が前足じゃと思っておるのでもない。 また葛城の慈雲尊者の法語の中に「業は報を知らず、報は業を知らず、この知らざるところに道存して滞らず、この中に楽しみあり、間断なく欠出なし」と。それはそうである。世の中には人に物をやって、あれだけやっておいたら・・・・・と、まるで釣りでもするように、これだけのよいエビの餌なら、よほど大きい鯛がつれるじゃろう。初めからこれだけやっておいたら、これが倍になってもどって来るじゃろうと考えるやつがいるからやり切れぬ。そこでよく人に物をもろうて「こんなものもろうてどうしよう、ほっとけん、何とかせんならん、どうしたらよいだろう」と心配するようなへちゃなやつがある。だいたい物をもらうと頭痛を病むなんて、めんどうな話だ。また物をやって他人に頭痛を病ますようなめんどうなやり方をするものもあるもろうたときには、ただ黙ってもろうておいたらよいじゃないか。やるものなら、ただやったらよいじゃないか。もろうためにやる、だから世の中がけたくそ悪くなってしまう。(「永平家訓抄話」p.237-239)
2026.03.31
191二宮翁夜話残篇【18】尊徳先生がおっしゃった。ある村のある者は強欲で蓄財に勤め、隣りに艱難があっても救わず、貧窮に陥いる者があっても憐れむことがなく、金を貸すとひどく高利を貪って、恨みを村中からかっても気にせず、その行いは大変憎むべきものだった。しかしその力を農事に尽すところを観察すると、近郷でも比類ない丹精ぶりだった。耕やし種を蒔き培養し、よくその時節にあい、春は原野に草を刈り、秋は山林に落葉をかき、夏は炎暑を厭わず、冬は雪や霜をおかし、朝早く起き、夜更けに寝て、力を農事に尽した。その勤農ぶりは実に模範となるといってよかった。聖賢が農業に勤めてもこれに及ばないほどだった。その作物のために尽せば、秋になれば自分に利益があることを知ることは、釈尊であっても、またこれに過ぎることはできないほどだった。もしこの理を人間の間でも用いて、自らよく勤める所の農術を人に教え、郷里のためにまごころを尽すならば、聖賢をほうふつさせた者であったが、惜しいことであった。二宮翁夜話残篇【18】翁曰く、某村(ぼうそん)某(ぼう)は強欲(がうよく)にして積財を勤め、隣りに艱難(かんなん)あるも救はず、貧窮に陥(おちい)るあるも憐(あはれ)まず、金を貸すこと酷(こく)にして高利を貪(むさぼ)り、恨みを村里(そんり)に結(むす)んで意(い)とせず、其(そ)の行(おこなひ)甚(はなは)だ悪(にく)むべきが如(ごと)し。然(しか)りといへども其(そ)の力を農事(のうじ)に尽(つく)す処(ところ)を見る時は近郷比類(きんがうひるゐ)なし。耕種培養(かうしゆばいやう)、能(よ)く時に先後(せんご)せず、春は原野(げんや)に草を刈(か)り、秋は山林に落葉を掻(か)き、夏は炎暑(えんしよ)を厭(いと)はず、冬は雪霜(せつさう)を侵(おか)し、晨(あした)に起き夜半(よは)に寝て、力を農事に尽(つく)せり。其(そ)の勤農(きんのう)実(じつ)に至れりと云(い)ふべし、聖賢(せいけん)をして農業を勤めしむるも之に過(す)ぐべからず。其(そ)の作物の為(ため)に尽せば、秋に至つて己(おのれ)に利あることを了知(れうち)すること、釈氏(しやくし)といへども又(また)之(これ)に過ぐべからず。若(も)し此(こ)の理を人倫(じんりん)の間に用ひ、自ら能(よ)く勤むる所の農術(のうじゆつ)を人に教へ郷里(きやうり)の為(ため)に懇誠(こんせい)を尽さば、聖賢(せいけん)に彷彿(ほうふつ)たらん者なり、惜しいかな。
2026.03.31
その大意を「富国捷径」へ書いておいたが、今またその詳細を記録してここに示しておく。老人の繰りごとと見すごさずに、その深意を玩味していただきたい。福住正兄記す〔「報徳」第6号p3〕ある人が二宮先生に質問した。「人の家は、一時隆盛になっても、富栄していても、とにかく長久には続かないものです。この富栄を永遠に続かせ、後世に至っても衰微することがないようにする方法がありますか。」先生は言われた。「陰徳積善にある」と。また質問した。「積善の家には、必ず余慶あり、不積善の家には、必ず余殃あり。これは百木百草を肥沃の地に植えれば茂り、薄土に植えれば衰える。また漬物のようなものでも、塩が多ければ夏の最も暑い時期を過ぎても味が変じない。塩が少なければ、春の寒さがまだ退かないのに香りと味と共に損じてしまう。一般の道理は明々了々に既にこの教えを聞いています。然しながら親に善行があって、子が災いに罹り、また子が善人でも孫が栄えない。この類いは世間を見るに、往々多いようです。ここにおいて、まだ疑いがないとまでいききませんが、いかがでしょうか。」先生は言われた。「この理は非常に微かです。およそ眼をもって見ることができない。あなたは農者である。だから今、農事でこれを譬えてみよう。ここに一反歩の田があるとする。土地は草深く収穫も薄く、平年の実りは一石に過ぎない。しばしば収入が不足してしまう。ここに良い農夫があって、この田を作るに、耕うんを精細にして、適切な時機に植え、懇切に培養を究めたので、秋に至ると、実りは必ずや二石を収穫する。これは力を尽して耕し培養した功積であって、秋になって収穫の報いがあったものだ。積善の家に、余慶あるというのも同じだ。しかしながら来年また秋になって収穫があろうか。一年の力を尽して耕しても、それは一年だけ秋の収穫の報いがあるのみである。どうして一年の培養で、永年にわたって豊熟する道理があろうか。一旦の善行は一旦の報いがあるのみだ。一夕の隠徳は一夕の報いがあるのみだ。どうして一回の善行で、余慶が子孫にまで及んだり、一度の陰徳で、陽報が永久に及ぶという道理があろうか。強いてこれを願うならば、家法を立ててこれを勤めるようにした方がよい。当年の実りは、平年に倍する。そのうち平年の実りの一石を常産と定めて、残った一石を、来年の耕うん、培養の資本に充てる。また前年のように、耕うんと培養を尽すならば、また前年のような実りが必ずある。年々このようにすれば、年々歳々、秋の収穫が豊熟することができることは疑いが無い。これが良農の耕作の方法であって、解りやすく知りやすいであろう。すなわち知りやすい道理であなたが理解しがたいという疑いを説いた。ただ浅近の理としてゆるがせにしてはならない。この道理で、家道を立てて、家法を制定し、私の教える推譲法を行うならば、千秋の栄えもまた期すことができよう。◎左の逸話は先師の教訓中最も大切の遺法なれば予先年其大意をば富国捷径へ書せしめかど今又其詳細を記して茲に示す事となしぬれば老の繰言と見過さず深意を玩味せられよかし。福住正兄記す〔「報徳」第6号p3〕或人先師に問て曰く人の家一時隆盛にして富栄なるも兎角長久には続かざるものなり。此の富栄を永遠に続かせて後世に至りても衰微すること勿らしむるの方法ありや。先生曰く、陰徳積善に在り、と。又問て曰く、積善の家には、必ず余慶あり、不積善の家には、必ず余殃あり。是則ち百木百草沃土に種(う)うれば茂り薄土に植うれば衰ふ、又漬物の如き、塩大きは三伏の暑を過れども味変ぜず、塩少なき、春寒未だ退かざるに香味共に損ずると、一般の道理明々了々既に教を聞けり。然と雖も親、善行ありて、子災に罹り又子善人にして孫栄へず此の類世間を見るに、往々多し。此に於て未だ疑ひなき事能はず、如何。先師曰く、此の理甚だ微なり。凡そ眼を以て見るべからず。夫れ汝は農なり。今農事を以て之を譬へん。爰(ここ)に一反歩の田あり。ロ莽麁作平年の実法(みのり)、一石に過ぎず、屡々収入の不足を見る。爰(ここ)に良農夫あり。此の田を作りて、耕耘(こううん)を精細にし、時を以て是に植ゑ培養懇到を究めば、秋に至り、実法(みのり)二石を得る必せり。是即ち力耕(りょくこう)培養の功にして秋実の報(むくひ)なり。積善の家、余慶あるも同じ。然りと雖も来年又秋実あらんや。一年の力耕(りょくこう)は一年秋実の報(むくひ)あるのみ。何ぞ一年の培養を以て、永年豊熟すべき理あらんや。一旦(たん)の善行は一旦(たん)の報のみ。一夕の隠徳は一夕の報あるのみ。何ぞ一回の善行を以て、余慶子孫に及び一度の陰徳を以て、陽報永久に及ぶの理あらんや。強(しい)て是を願はゞ、法を立て是を勤めるより如かず。当年の実法(みのり)平年に倍す。其の内平年の実法り一石を以て常産と定め、残れる一石を以て、来年耕耘(こううん)培養の資に充(あて)、又前年の如く、耕耘(こううん)培養を尽さば、又前年の如き、実法(みのり)あらん事必せり。年々此の如くなれば、歳々、秋実を培して、豊熟を得ん事疑無し。これ良農耕作の術にして解し易く知り易し。乃(すなはち)知り易き理を以て汝が解し難き疑を弁ず。只浅近の理として忽(ゆるがせ)にすべからず。此の理を以て、家道を立て、法を制し我が推譲法を行はば、千秋の栄、又期せざらんや。又問ふ、推譲の法、聞く事を得べきや。先師曰く、汝の身代の分限を確乎と定むるに在り。故に我常に分限を定むるは、衆善の先、万善の源なりと云なり。譬へば千円の身代の者は五百円に分限を定め、生活を立て、五百円を推譲りて、国益を勤め、善をなすべし。八百円の者は、四百円の分限を定め、生活を立て、四百円を推譲るべし。五百円の者は、二百五十円の分限を定めて、生活を立て、二百五十円を推譲るべし。是を報徳推譲法と云ふ。書経に堯帝の徳を称して、欽明(きんめい)文思(ぶんし)安々(やすやす)、允(まことに)恭(うやうやしく)克(よく)譲(ゆづる)とあれと、眼目は只譲の一字にあり。如何となれば、若し人欽明(きんめい)文思(ぶんし)安々(やすやす)、允(まことに)恭くとも克(よく)奪(うばう)ならば、刑罰を免れざるの人なるべし。然れば譲の一字眼目なる明なり。何事も其の如く猟師の鳥獣を打たんと狙ふ様は実に鞠躬如(きくきうじよ)たりしも、気を屏めて息せざる者に似たりとも云べきなれど、是は称するに足らざる同じ。されば仁と云ひ、義と云ひ礼と云も皆推譲して、他の為にする名にして我が田にのみ水を引ては、何程恭くすとも、仁にあらず、義にあらず、礼にあらざるなり。古語に一家譲あれば、一国譲より興ると云へり。爰に今十室の邑あらん。一人能(よく)一衣をぬぎて、寒者(かんじや)の為に推譲(おしゆづ)る者ある時は、一衣の余りあり。若し十人譲に興りて皆一衣づつ推譲する時は、十衣の余りありて、隣村の寒者を救ふに足り、其の美事言ふべからず。然るに若し、心得違ひの者ありて、私欲心を発し、一衣を取らんと欲せば、忽(すなはち)一衣の不足を生ず。若し十人此の念を発せば、忽ち十衣の不足を生ず。奪わざれば飽ずと云に至れば則乱なり。治乱興廃の別るゝ所も又是なり。推譲の道豈大ならずや。知らずんば有るべからず。家産を多く持て、富貴安楽の人は其の富栄を永遠に続かせ、後世に至りても、衰微すること無からん事を願はゞ、分度を定めて、推譲法を行ふべし。此の法を立る時は只奢侈を止め、放埓(ほうらつ)を慎み、今年を来年に送るのみにて大善行はれ、譬ば右足を踏しめて、左足を進め歩行するが如く、縦令(たとひ)千里の遠きに到るも、顛躓(てんひつ)の憂ひなく、年数を経(へ)る及んでは、算勘数量も、及ばざる大業に至るは、鏡に掛けて見るが如し。されば上帝の愛護厚く、富栄永遠に続き後世衰廃なき事疑ひなきものなり。没後昇天して、神爵を受ん事も、極楽世界に往て成仏せん事も又疑ひ無きものなりと、諭されたり、勗(つと)めざるべけんや、勗(つと)めて行はざるべけんや。
2026.03.30
26「伊藤七郎平翁伝」鷲山恭平撰 その40 九 伊藤七郎平の終焉と建碑 伊藤七郎平の一生は、道のために身命を惜しまない活動史であり、体躯頑健、元気旺盛、意思堅実、実に現代まれに見るところの模範的な人物であった。しかしどんあ英傑も、寄る年波と病魔に襲われても、これに敵することはできない。 明治28、9年の頃から胃病に苦しんで、後には胃ガンと診断された。伊藤氏は再び起つことができないと自覚するや、同31年7月になって、自宅静養のため、副社長辞任を請われたが、社員一同は深くこれを惜んで、とくかくなお第二館にあって療養を懇望して止まない。よって以来引き続き同館にあって療養していたが、その間また口に報徳を絶たなかった。常に訪問の客に対して、「報徳の道は、以来ますます盛んにならんとしている。私の生死のごときは何らの関係もない。諸君それ努力せよ」と激励し、また没する日の数日前、氏は水野信之助君を病床に招いて、遺族に与える遺言状を書かせた。その子孫を誡める趣旨は懇切丁寧であって、言句は赤誠をこめ、更に親戚連名宛てにその督励を依頼した。このように氏は自分の生を終わる際まで、報徳の道に最善の努力を尽し、また子孫のため、後事をも残るくまなく処置して、いわゆる人事を尽して天命を待つ、大悟徹底のもとに、明治32年12月9日午後3時30分、享年72歳をもって第二館において歿した。葬儀は越えて11日深見村の自宅において、仮りに執行され、翌年2月9日本社第二館において社葬で本葬儀を執行した。本社葬儀委員は永井五郎作、名倉太郎馬、八木良平、平野忠次郎、前嶋晴一、山本寸作の六氏で、当日の導師は西有穆山大導師、海蔵寺尊陽師、金剛寺奠茶師その他十二ヶ寺の住職等僧侶30余名の参列があった。会葬者は静岡県知事代理書記官池永端氏を始めとし、本県四課長伊藤悌蔵君、磐田郡長池田忠一氏及び町村報徳社長その他親戚知己の人々であり、およそ二千余名、遠近から来会し、皆涙を流して、氏の多年、この道のために尽された功績を賞揚し、かつ氏と永い泉下の別れを惜んだのは、誠に生前徳行の厚いことを知るに足る。そして当日柩の前に臨んで親しく吊辞を捧げた人々は、池永書記官初め十数氏であって、吊辞及び詩歌俳句は積んで柩前にうずたかく、実に当地における稀有の盛葬であったという。遺骸は同町金剛寺の先人の墓地に葬むる。おくりなを、恭照院大報義徳居士という。今その吊辞中二三を録す。(略) おわり 九 翁の終焉と建碑翁の一生は道の為めに不惜身命の活動史にして、体躯頑健、元気旺盛、意思堅実、実に現代稀に見る所の模範人物なりしが、如何なる英物も寄る年波と病魔に襲われても、之に敵する能はず。明治二十八、九年の頃より胃病に苦しみ、後には今の刀圭界に持余ましものの胃癌と確診され、翁は再び起つべからざるを自覚するや、同三十一年七月に至り、自宅静養の為、副社長辞任を請はれしも、社員一同は深く之を惜みて、兎にあれ尚第二館に在つての摂養を懇望して止まず。依て爾来引続き同館に在りて療養しつつありしが、其間又口に報徳を絶たず。常に訪問の客に対して、「報徳の道、爾来益々盛ならんとす。余の生死の如き何等の関係なし。諸君夫れ努力せよ」と激励し、又没するの前数日、翁は水野信之助君を病床に招きて遺族に与ふる遺言状を筆せしむ。其子孫を誡むる趣旨懇切丁寧にして、言々句々赤誠を籠め、更に親戚連名宛にて其督励を依頼せり。斯く翁は我が生を終る際まで報徳の道に最善の努力を尽し、又子孫の為後事をも残る隈くまなく処置し、所謂いはゆる人事を尽して天命を待つ大悟徹底の下に、明治三十二年十二月九日午後三時三十分、享年七十二歳を以て第二館に逝けり。葬儀は越えて十一日深見村自宅に於て、仮りに執行せられ、翌年二月九日本社第二館に於て社葬を以て本葬儀を執行せり。本社葬儀委員は永井五郎作、名倉太郎馬、八木良平、平野忠次郎、前嶋晴一、山本寸作の六氏にして、当日の導師は西有穆山大導師、海蔵寺尊陽師、金剛寺奠茶師其他十二ヶ寺の住職等僧侶三十余名の参列あり。会葬者は静岡県知事代理書記官池永端氏を始めとし、本県四課長伊藤悌蔵君、磐田郡長池田忠一氏及び町村報徳社長其他親戚知己の人々にして無慮むりょ二千余名、遠近より来り会し皆流涕長哭して、翁が多年斯道の為めに尽されし功を賞揚し、且つ翁と永き泉下せんかの別れを惜みしは、誠に生前徳行の厚きを知るに足るべし。而して当日柩ひつぎ前に臨みて親しく吊辞ちょうじを捧げし人々は、池永書記官初め十数氏にして、吊辞ちょうじ及び詩歌俳句は積んで柩前に堆うずたかく、実に当地に於ける稀有の盛葬なりしと云ふ。遺骸は同町金剛寺なる先人の塋域えいいき〔墓地〕に葬る。謚おくりなして、恭照院大報義徳居士と云う。今其吊辞ちょうじ中二三を録す。〔吊辞ちょうじ、略 おわり〕
2026.03.30
「永平家訓抄話」澤木興道 1-10 こう冒頭にこの問題をあげておいて「石頭曩祖(のうそ)の当に明中に暗有るべしというを知らんと要すや」とあるのを参究しよう。さあ高祖は石頭和尚が、「当に明中に暗有るべし」というのを知らんと要すやと。「卓拄杖一下(たくしゅじょういちげ)」拄杖で「どすん」とやられた。その時大衆はどう受け取ったか知らないが、わたしは今これを説明してもはてしがない。結局ただ「明中に暗有るべし」というだけのことだ。回互中の不回互、不回互中の回互と何回いいなおしてみたって、どこまでもぐるぐるまいしてはてしがないだけで、どうしても、われわれの、その分別妄想をやめてしまわんことにはかたがつかない。それが卓拄杖一下、「どすん」の実物である。 これは、天皇寺の道悟和尚が石頭大師に、「いかなるか是仏法の大意」と問うた。ところが石頭大師は「不得不知」と答えられた。そこで道悟が、「向上更に転処有りやまた無しや」もっと高尚な道がありますかとさらに問うと、石頭大師はところがあるというわけで「長空白雲の飛ぶを碍(さ)えず」と答えられておられる。これからみても、石頭大師の「当に明中に暗有るべしというを知らんと要すや」つまり同中に異ありで、そこの卓拄杖一下にー明と暗との間にみじんもすきまのない明即暗、暗即明、明と暗と、暗と明と、ここに明は明ながら明中に暗、暗は暗ながら暗中に明―そこの現ナマが具体的に躍動している。 だから次に、「曩祖甚(なん)としてか道う、暗相を以て遇うこと勿れと。這箇(しゃこ)の道理を明らめんと要すや」さあ、明中に暗有りというたって、その暗相を以て遇うこと勿れ。明中に暗有りというたって、暗は暗ぎりでない、明は明ぎりでない。仏法無辺の道理というものは、見た通りでない。聞いた通りでない。そこに大乗仏教を表現するためにぼうだいな大乗経典が生まれたけれども、そんなことが現実にあるものじゃないから、これは嘘じゃと言う人がある。 なるほど、眉間の白毫相の光が東方万八千の世界を照して、過去現在未来十方世界が一目に見えるようなものがあろうわけがない。そこで現実とあわんから嘘じゃというのである。それでは文芸ということがわからんことになる。こんな物わかりの悪い人間には、大乗仏教なんていうものがわかるはずがない。そういう手合いがなかなか多いから気の毒な話である。「曩祖甚(なん)としてか道う、明相を以てと。這箇の道理を明らめんと要すや、卓拄杖一下」これも妄想分別のはからいをみじんもまぜずに、まっすぐにこの躍動を見ねばならん。(「永平家訓抄話」p.235-237)
2026.03.30
191二宮翁夜話残篇【17】尊徳先生がおっしゃった。真菰(まこも:真菰は沼や川、あるいは田んぼの水路などの水際のいたるところに自生するイネ科の大型多年草。しめ縄や盆ござ、ムシロなどの材料として使われる)を俵に作ると、虫が食わないものである。木綿を入れるに用いるがよい。塵が付かないでよろしい。二宮翁夜話残篇【17】翁曰く、眞菰(まこも)を俵(たはら)に作る、虫(むし)食わざるものなり。木綿(もめん)を入るるに用ふべし。塵(ちり)付かずしてよろし。
2026.03.30
☆草野正辰、先生に謁し、国家の政体を問う。先生の大徳によって、民を救済する事業が行われることすでに多年であった。そのことがついに幕府に達して、天保13年の冬、幕府は先生を登用した。先生は、大久保候の邸に寓居(ぐうきょ:仮の住い)していた。相馬藩の家老である草野はこの事を聞いて言った。「私は、先生にお目にかかって道を尋ねたいと長いこと念願していた。しかし、遠路を隔てた上に、主君の用務が忙しく野州におもむくことができなかった。今、先生は江戸にいらっしゃるという。絶好の機会である。」そこで、人をつかわして面会を求めた。先生は、幕府の仕事で面会する暇がないと断られた。草野はしきりに面会を求めて止まなかった。先生は富田から草野正辰の徳のある行いや誠忠のほどを聞いており、その人となりを大変賞嘆されていた。そこで8月4日面会する事ができたのである。 草野正辰は、先生にこう言った。「不肖(ふしょう)私は先生のご高名を聞き、教えを受けたいと久しく念願しておりました。今、私の愚誠を察して、面会を許されました。このような幸いはありません。私の主家(相馬藩)の領村は旧来の艱難がことにはなはだしく、中古元禄年間(1688~1703)にくらべると、人員の減ずること5万人余り、収納の減ずること10万俵余りに及び、領中の大半は荒地となり、借債は山のようで実に亡国になりかねないところです。 先君の世に当たって文化年中(1804~1817)に大いに節倹を行って、旧弊を改め除きました。高6万石の一藩の費用を1万石の程度に減らして、専ら国の本源である郡村の再興を計りました。以来既に30年力を尽くしていますが、費用は多くかかり事業は半分にも至っておりません。私は既に極老に及んで、存命中に志願を達することができないことだけを嘆息しております。これはみな凡庸であって国家再復の道に明らかでないからです。しかるに先生は、多年廃亡の地を挙げて、百姓を恵んで、これを安撫することは意のままです。さらにその余沢は遠近に及んでいます。誠に不世出の高徳でなければ、どうしてこの大業を成すことができましょう。願わくば先生の至教を得て、わが相馬藩の衰国再興の志願を達することができれば、誠に上下の大幸はこれに過ぎることはありません。」先生は言われた。「私は、もと農村に生まれ、極貧に成長し、艱苦を尽くし、祖先の一家を再復せんことに勤めてきました。しかるに先君(大久保忠真候)が野州宇津家(うつけ)の領村を再復するように命じました。私は三年もの間、辞退しましたが君は許しません。やむを得ずかの地に至って、数十年を経て、ようやく旧復の道が立ちました。しかし、言うに足るようなものではありません。しかるに隣国の諸侯が仕法を懇望してやみません。私は固辞しましたが、なお再三求めるため、ついに少しばかり再復の事を告げました。今、またあなたが来て一言を求められる。どうして、その望みに応ずることができましょう。しかし往年一條氏が、尋ねられるにあたって、やむを得ず一言告げました。このゆえに今黙っているわけにいきません。およそ国家の政体は複雑多端のようですが、要するに取ると施すとの二つにとどまります。この二つのほかに何事がありましょう。盛衰安危もこの二つによります。存亡禍福もまた同じです。しかし世上一般に国の盛衰する原因がここにあることを知りません。これでどうしてその衰廃を挙げることができましょうか。なぜならば、取ることを先にすれば国が衰え、民は困窮し怨みの声が起こり、衰弱は極まります。はなはだしいときには国家が傾覆・滅亡するという大患に至ります。これに反して施すことを先にするときは、国は盛んになり民も豊かになります。民はこれになついて、上下ともに富んで豊かになり百世を経ても、国家はますます平穏です。聖人の政(まつりごと)は仁沢を施す事をもって先務とし、あえて取ることに心を用いません。暗君は取ることを先として施すことをきらいます。治平も動乱もその起こる原因は、皆ここにあります。今、相馬の政(まつりごと)は、施すをもって先とするか、取るをもって先とするか。取ることをもって先とすすならば、千万の労を積み、百年の辛苦を尽くしても、決して復興し再復するときはないでしょう。施すことを先とすれば、どうして国を興すことが困難だと憂慮することがありましょう。およそ天下の生物は無量ですが、血の通っているもので、手厚く与えて喜んで服さないものはありません。血の通っているものだけではありません。草木もこれに糞培を与える時は喜び服する色が顕われます。反対にこれを傷つけたり、切る時はどうしてそれを快くはしません。鳥獣虫魚が人を恐れて逃るのは、こちらに取ろうとする心があるからです。もし、これを愛し、食を与えればたちまち喜んで服します。ましてや人間も同じです。義のために命を軽んじ、万苦を厭わないのは何のためでしょう。君主が食を与えるためです。だから与える時は君臣となり、取る時は仇敵となります。ひとり百姓だけどうして与えないで服する理はありません。与える時は尭(ぎょう:古代中国の聖王)の民となり、取る時は紂(ちゅう:古代中国の暴君)の民となります。これをよくよく考えなければなりません。しかるに世の為政者は、貢税を取ることを先とし、与えることを後とします。まず与えなければ、民はその生活の安定ができません。民が貧しい時は放僻邪肆(ほうへきじゃし:勝手気まま・いかがわしい迷信)となります。ついに貢税は減少し、土地は荒れ、上下の大患となるのです。与えることを先とすれば、民は生活を楽しみ、家業を楽しんで、土地は毎年に開け、生財は窮まりなく国の衰廃を求めようとしても得ることはできません。このため、取ると与えるの先後を明らかにして、その後に政事を行うものがまつりごとを知るものとすることができましょう。私は廃亡を開き、百姓を撫育し、余沢は他邦(たほう)に及ぶのは他に原因があるわけではなく、ただ与えることを先務としたためです。あなたの国は衰貧しているといっても大いに仁沢を施し、下民を撫育する時はどうして再復しないということがありましょう。 」草野は言った。「誠に先生の教えは、古今の仁道です。政を行うにこの本源を失わなければ、国家の永安は疑いありません。領中数千町歩の荒地を開く方法はどのようにすればよいでしょうか。」先生曰く「およそ細を積んで大をなし、微を積んで広大に至るのが自然の道です。たとえば天下の耕田のようなものです。幾億万町とあっても、春は耕し、秋は収穫し、一畝(うね)の余すことがないのはなぜでしょう。他でもありません。一鍬(しゅう:くわ)を重ねて、もって耕し、一鎌(けん:かま)を重ねてもって刈り怠らないからです。いわんや荒地を一鍬(しゅう)を積んで、怠らなければ幾万の廃地であっても挙げるのに何の困難なことがありましょうか。廃地を開くのに廃地をもってする。これが開田の道です。」草野が言った。「廃地をもって廃地を起こすとはどういうことでしょうか」先生は言われた。「一反(たん)の廃田を開いて、その実りを来年の開田料とします。年ごとにこのようにする時には、用財を別に費消することなく何万の廃田であっても開きつくすことができるでしょう。」家老(草野)は大いに感動して、先生の教示のかたじけなさを感謝して帰った。大夫退きて歎じて曰く。「我、壮年より極老に至るまで国家を再興し、百姓を安んぜんとし、身命をなげうち、肺肝を尽くすといえども、志の達せずして終らんことをのみ歎きたり。思わざりき、野州にかくのごとく傑出の仁者あらんとは。この人を知らずして数十年空しく心力を老せる事遺憾(いかん)の至りというべし。然れども晩年この人に逢うこと我赤心空しからざるところなり。我先生の道を国家に開き、その規則を立つる時は、国の再復永安の道疑いなし。然る時は、我たおるるとも始めて安んずることを得んと心中快然たり。時に年既に70有4、実に世に希な忠臣なりと人々これを感じたり。先生もまた一面して曰く。「我、草野の忠臣たることをかってこれを聞けり。今、その人となりを見るに、内誠直にして外温和なり。しかのみならず、度量抜出、識見はなはだ高し。我が言、水をもって水に投ずるがごとく貫通すること元より知るもののごとし。卓見あるにあらずんば、何ぞよくかくのごとくならんや。この人ありて国政を執り、加うるに我が道をもってせば、相馬の興復せんこと難きにあらず」と歎賞せり。☆草野正辰(まさとき)は、1772年(安永元年)、中村藩士の子として生まれ、名を孫四郎、主計(かずえ)、後に半右衛門と改めた。正辰は、いろいろな役職を経て、家老、江戸家老となった。当時、相馬藩の急務は藩財政の建て直しで、富田高慶から二宮尊徳のことを聞いた正辰は、江戸にいた尊徳に会いに行き、一回の出会いで尊徳及び報徳仕法に心服した。藩財政の建て直しにはこの報徳仕法しかないという思いで、すぐ藩主をはじめ重臣達の説得にあたった。反対の多かった藩内の同意、また尊徳の了解を得て相馬仕法は1845年に開始された。 その2年後、1847年(弘化4年)、75歳の生涯を終えたのであった。http://www.city.haramachi.fukushima.jp/kouhou/2003/1215/121512.pdf☆相馬藩家老 草野正辰の逸話はその人となりが伺われてとても面白い。草野正辰が14,15歳の頃、母の言いつけで原釜浜に魚を買わせるため、お金を少し渡した。草野正辰は、すぐに出て数時間後に帰ってきた。母が「今日の魚の取れ具合はどうでしたか」と聞くと、「たくさん取れていました」と答えた。母は「魚は買ってきましたか」と問うと、正辰は「銭(ぜに)がなくて一匹も飼いませんでした」と答える。「お前が出かけるとき、少しあげたではありませんか。銭なしとはどういうことですか。」「さきほど浜辺に至ったとき、村の童らが遊びまわっていた。私が子供らに銭を散布すると童らが喜んで競ってこれを拾います。拾い尽くせばまた散じて、ついに一銭をも余さず散布して、魚を買うことができませんでした。お言いつけに背いたのは悪いことですが、村の童らが競って拾うのは大変愉快でした。」母は黙りこんでしまったという。
2026.03.29
台湾の利先生は亡くなられる1か月前、2011年9月11日に、鈴木藤三郎顕彰第3集の概説の台湾語翻訳が終るめどをつけられて、「おしゃべり」という標題でメールをくださった。「G様: 長い長いトンネルを焦りながら翻訳を続けて来ましたが、やっとトンネルの向こう側からの光が見えて来ました。間もなく翻訳は終わるだろうと思います。翻訳は中身を吟味しながら仕事を進めて行きますので、過去で起きたことが脳裏を掠めて行きます。鈴木藤三郎が考えた製糖会社が、自分で土地つまり自営農場を持つことです。でなければ立っていけない。これを裏付けることが戦後間もなく起きたのです。鈴木藤三郎が一人で台湾製糖を守って来たようなもののようにに成りました。それと言うのは、戦後47箇所あった台湾の製糖所はまず土地を持たない製糖所から順番に閉鎖されて行ったのです。事業と言うものはただたんにお金を儲ければ良いのではありません。多くの人を養って行かなければ成りません。この事は台湾の国民党は百も承知していました。これは二宮尊徳(=鈴木藤三郎)の教えとマッチします。だから国民党は農民や製糖に関係する人々を養っていくために、政府が犠牲になってでも製糖所を潰しかねたのです。土地つまり自営農場を持たない製糖所は自然淘汰の憂き目にあったのです。台湾の南部、中部、北部を問わず、自営農場を持たない製糖所は次々に閉鎖されて行ったのです。戦前は官憲の力が猛威を振るっていましたので、農民はおとなしく(植える作物がなかった時代)砂糖キビを植えていた関係もあったのではないかと思います。鈴木藤三郎が考えた自営農場を多く持った台湾製糖が一番最後に残ったのです。(略)台湾製糖であった湾里製糖所はいまだに製糖を続けています。鈴木藤三郎が選んだ第二番目の製糖所は、この湾里製糖所でした。結論として当時つまり100年前の鈴木藤三郎一人の考えで、製糖所の運命が決まっていたと言うても過言ではありません。 利」
2026.03.29
輸出額60倍増の企業も 海外で納豆ブーム起こした四つの追い風3/29(日)日本の納豆輸出が近年、大きく伸びている。 量・額ともに2025年に過去最高を記録し、一部メーカーは売り上げが「9年前の500万円から3億円超に伸びた」ほどだ。 外国人の多くが「ネバネバした見た目とにおいが無理」と顔をしかめていた時代も今は昔。追い風になったのは、日本食ブームだけではないという。 財務省の貿易統計によると、25年の輸出量は前年比44%増の5248トン。統計を取り始めた17年の1752トンから右肩上がりに上昇している。 輸出額は9億6000万円(17年)から、約3倍の32億1000万円(25年)に。最大の輸出先は全体の3割近くを占める中国で、米国、タイ、香港、台湾、韓国と続いた。 ◇グラミー賞歌手も一役 背景に何があるのか。 「和食が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録されたのが契機では」と指摘するのは、北海道農政事務所の東川博夫・輸出対策推進官だ。 「しょうゆや抹茶と同じように、日本食材を使う外食産業が海外で増える中、新型コロナウイルス禍で世界的な健康志向も高まり、複合的な作用が生まれた」とみる。 ちょうどパンデミック(疫病の世界的大流行)が始まった20年、世界4大医学誌の一つ「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(BMJ)」で、納豆が死亡リスクを低下させる食材として紹介されたことも追い風となった。 通常、輸出する納豆は冷凍輸送されるが、納豆菌は休眠状態となるため、発酵食品としての栄養素は損なわれないという。 日本貿易振興機構(JETRO)によると、日本人駐在員のために明治時代から輸出されていたとみられる納豆の海外需要が急激に伸びているのは、「インフルエンサーの存在が大きい」という。 動画投稿アプリ「TikTok(ティックトック)」で「natto」と検索すると、さまざまな国籍のユーザーが納豆パック内をぐるぐるかき混ぜ、口に運ぶ様子の動画が出てくる。 「私も食べてみた」「あなたも好き?」。英語、インドネシア語、韓国語、ポルトガル語などさまざまな言語で投稿文が添えられ、数十万回再生されている動画も珍しくない。 中でも大きなインパクトを残したのが、グラミー賞を受賞した米歌手のリゾだ。 2600万人以上のフォロワーを従えるリゾは自身のアカウントで23年、からしとタレを加えた納豆を白米に乗せ、うれしそうにほおばる姿を度々公開してきた。 動画は「何この食べ物」「フィルムの外し方が手慣れてる」などと、インターネット上で話題になった。 ◇汁物に、ハチミツと…食べ方多彩 全国納豆協同組合連合会によると、インバウンドの存在も納豆ブームに一役買っている。日本旅行中に宿泊先の朝食で納豆のおいしさを知り、帰国後も買い求める潮流があるという。 同連合会は、ここ数年で輸出額が急伸しているタイのインフルエンサーから「納豆の健康効果について知りたい」と取材を受けたこともある。 長谷川健太郎会長は「東洋の国の不思議な食べ物がこれだけ受け入れられているのは不思議だ」と話す。 長谷川会長によると海外での食べ方はさまざまで、アジアでは煮込み料理や汁物にも入れられる。 北米ではハチミツをかける食べ方があり、カナダ出身の落語家、桂三輝(さんしゃいん)さんはメープルシロップを薦めているという。 大豆生産量が全国1位の北海道で納豆を生産している「北海道はまなす食品」(江別市)は、17年に輸出を始め、中国、米国、スイス、ドイツ、アラブ首長国連邦(UAE)、サウジアラビアなど16の国・地域に販路を広げてきた。 海外向け売り上げは500万円から60倍の約3億円に伸長。秘訣(ひけつ)は、業者に頼らず自前で輸出できるノウハウを身につけたことと、各国の法令にきめ細やかに対応していることという。 萩原由希子営業部長は「世界情勢のリスクや輸出の手間を考えると決して楽な商売ではないが、まだまだポテンシャルがある商材。納豆という日本の食文化を世界に広める一端を担い、みんなで健康になった結果が、イコール売り上げになればうれしい」と話している。
2026.03.29
「日本から到達すべき基準を学んだ」森保Jに敗れたスコットランド代表に名手OBが辛口エール!「これが本大会で対峙するレベルなんだ」現地3月28日、日本代表はスコットランド・グラスゴーのハムデン・パークでスコットランド代表と対戦し、1-0の快勝。立ち上がりから目まぐるしかった攻防戦は0-0のままハーフタイムを迎える。日本は後半、実に10人のメンバー交代を施して打開を図り、そしてついに84分に均衡を破った。カウンターからゴール前の塩貝健人が落とし、走り込んだ伊東純也が蹴り込んだ。これが決勝点となり、森保ジャパンが5万大観衆の“聖地”で見事勝ち切った。英公共放送『BBC』でコメンテイターを務める元スコットランド代表DF、ウィリアム・ミラー氏「この試合から何か学べたか?」「シンプルに、もっと良くならなければいけないということ。これが(ワールドカップ本大会で)対峙するレベルだからだ。グループ内のすべてのチームがこうとは限らないが、これがワールドカップの基準だ。到達すべき基準を学べたと考えるべきだろう」伊藤純也がゴール!! 日本代表は28日、スコットランド・グラスゴーのハムデン・パークでスコットランド代表と対戦し、1-0で勝利した。若手選手が多く起用された前半は0-0で終えたが、多数の主力を投入した後半から猛攻を展開。最後は3-1-4-2の超攻撃的システムでMF伊東純也が決勝点を奪い、敵地で見事に勝ち切った。前半8分、良い対人守備を見せた渡辺がタッチライン際でボールを残そうとした際、相手のプレッシャーを受けてボールロスト。MFジョン・マッギンのクロスからMFスコット・マクトミネイに危険な左足シュートを打たれたが、これは鈴木彩がスーパーセーブでチームを救った。またこぼれ球がポストに当たってゴール前に落ちたが、藤田のカバーリングで難を逃れた。相手の攻撃を伊藤や瀬古が身を挺して止め、CBとしての存在感を発揮。さらに伊藤は上手く時間を使うビルドアップでも前向きな流れを手繰り寄せたほか、背後へのパスから前田が抜け出す場面も作っていた。すると前半29分には伊藤が空中戦で競り勝ち、藤田がつないだボールを佐野航がミドルシュート。GKの正面に飛んだが、久々に攻撃を完結させた。 その後は徐々に再び日本が盛り返し、前半33分にもセットプレーから後藤が惜しいシュート。同36分にも鈴木唯の右CKに渡辺が高い打点で合わせた。同38分には鈴木唯の斜めのドリブルからスルーパスを送り、佐野航のパスを受けた田中がダイレクトシュート。これはクロスバーを叩き、惜しくもゴールには至らなかった。 なおも攻める日本は前半40分、田中のボール奪取と後藤のポストプレーで右サイド攻撃を仕掛けると、菅原のクロスに佐野航が反応。ボレーシュートはミートせず、大きく枠を外れた。同42分には鈴木唯のミドルシュートがGK正面。同45分にはDFアンドリュー・ロバートソンのクロスを鈴木彩がなんとか阻むも、DFネイサン・パターソンのクロスがゴール前へ。マクトミネイがまたも飛び込んできたが、これは鈴木彩が押さえ、0-0でハーフタイムを迎えた。 後半開始時、日本は渡辺、佐野航、伊藤の3人を下げてDF谷口彰悟、MF三笘薫、DF鈴木淳之介を投入。その後はスコットランドの勢いが増し、同2分にはマッギンの折り返しからチャンスを作られたが、菅原のカバーで難を逃れる。同4分には三笘のスルーパスに後藤が抜け出すも、左足シュートは力なくGKの正面に飛んだ。 後半6分、藤田のファウルでスコットランドにゴール前でFKを与えると、マクトミネイのキックが枠内へ。だが、これは鈴木彩がパンチングで阻んだ。日本は同10分にもピンチ。ロバートソンのドリブル突破を菅原と瀬古が阻み切れず、シュートを打たれたが、ここも鈴木彩のファインセーブがチームを救った。 そのまま迎えた後半17分、日本は菅原、前田、鈴木唯、後藤を下げてMF伊東純也、MF堂安律、MF中村敬斗、FW上田綺世を投入。森保一監督は11人の交代枠を有効活用し、主力を一気に送り出した。すると同20分、伊東の右CKのこぼれ球から三笘がボレーシュート。惜しくも右に外れたが、局面のクオリティで上回れるようになっていった。 なおも攻める日本は後半22分、鈴木彩のロングキックが敵陣に送られると、これを上田が見事なヘディングでフリックし、三笘が抜け出すと、スルーパスに伊東が反応。伊東はボックス内での冷静なキックフェイントで相手をいなし、GKもかわそうと試みたが、シュートはGKに阻まれた。 さらに後半25分、谷口の縦パスにまたも上田がヘディングでフリックし、今度は三笘がゴール前に侵入。見事な右足アウトサイドキックでゴールを狙ったが、DFスコット・マッケンナのカバーリングに阻まれた。スコットランドは同26分、ロバートソンとマクトミネイを下げてMFビリー・ギルモアとDFキーラン・ティアニーを入れた。 その後も日本の優勢が続く中、瀬古、田中、藤田に代わってDF橋岡大樹、MF鎌田大地、FW塩貝健人を投入。塩貝がA代表デビューを果たし、上田との2トップに入った。システムは3-1-4-2。鎌田がアンカーに入り、堂安と三笘をインサイドハーフに置くという超攻撃的システムに踏み切った。 ところが後半34分、中村のサイドチェンジが相手に奪われ、カウンターを仕掛けられると、橋岡が相手に振り切られ、危険な位置で右足シュートを放たれる。これは幸運にも枠を外れたが、鈴木彩が守備陣に激しく指示を送っていた。 それでも後半39分、超攻撃的システムが奏功した。中村のパスから三笘が左の大外で起点を作ると、スルーパスに鈴木淳が抜け出し、折り返しのクロスを配球。塩貝の落としに伊東が走り込むと、冷静にゴール左隅に流し込み、待望の勝ち越しゴールが決まった。そのまま試合はタイムアップ。若手選手のテストも行い、勝利という結果も手にする上々の親善試合となった。鈴木「厳しい試合でしたが、アウェーでクリーンシートを達成し、勝利を収めることができたので素晴らしい試合になりました。スコットランドのサポーターは素晴らしく、とてもタフな状況でしたが、私たちは集中力を保ち続けました」「左手で反応したっていう感じですね。本当に本能的というか」
2026.03.29
映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を見て来た。面白かった!ネタバレあり。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、アンディ・ウィアーのSF小説を原作とした映画2025年3月20日に日米同時公開この映画は、未知の原因によって太陽エネルギーが奪われ、数十年後に地球が氷河期に突入するという異常現象を背景に、科学者グレースが宇宙に送り込まれ、故郷を救うためのミッションに挑む姿を描く。ライアン・ゴズリングが主人公のグレースを演じ、フィル・ロード&クリストファー・ミラーが監督を務める。まずヘイル・メアリーって何?と疑問がわく!「ヘイル メアリー(Hail Mary)」は、カトリック教会の祈りの一つ。日本語では「アヴェ・マリア」とも呼ばれ、聖母マリアに呼びかける祈りの冒頭が「Hail Mary」Hail = 「こんにちは」「敬礼」という古い英語表現・・・ハイル・ヒトラーの「ハイル」もこれが語源?Mary = 聖母マリア信者たちが心の支えや救いを求める際に唱える言葉で、宗教儀式の中だけでなく個人の祈りとしても用いられる。特に困難に直面したときに唱えることが多いため、「救いを求める最後の望み」というニュアンスも含まれるアメリカンフットボールでは、試合終了間際に負けているチームが逆転を狙い、残り時間わずかで大きく遠くにボールを投げるプレーを「Hail Mary Pass(ヘイル・メアリー・パス)」と呼びます。成功の可能性は極めて低いしかし失敗しても状況は変わらないため賭けに出るまさに「イチかバチか」の大勝負このフレーズは、アメフト以外のスポーツやビジネス、日常会話でも使われるようになりました。「最後の切り札」「崖っぷちの策」というニュアンスがあり、絶体絶命の状況で一縷の望みにかける様子を表現する。なるほど!ライアン・ゴズリング演じる主人公のグレース(中学校理科教師:元世界的科学者)は、地球を救うため、希望しないにもかかわらず、宇宙船で「プロジェクト・ヘイル・メアリー」として、宇宙飛行士・技術者とともに地球を救う最後の希望として片道燃料の旅に送り込まれる。しかし目覚めた時には、宇宙飛行士・技術者とともに死亡して、グレース一人という孤独な絶望的な情況に追い込まれる。ところが異星人ロッキーとの友情と協力により、さまざまな危機を乗り越え、ミッションを見事果たす。💛トランプさんはじめ世界の指導者へもっと宇宙的な視野をもって、世界平和に貢献しようよ!
2026.03.29
26「伊藤七郎平翁伝」鷲山恭平撰 その39◎勤勉貯蓄に係る講話(承前) 遠江 伊藤七郎平〔「報徳」第30号13~15ページ〕しかしながらその仕方に分量なるものがあって、その分に違えば一切効がないもので、たとえ田畑に肥料を施すも、その量を知らなければ功能がなく、かえって植物の害となり、また味噌をこしらえるよりも豆・塩・糀(こうじ)の仕込方の量が違い、あるいは大根茄子の香物でも糠(ぬか)・塩の加減が異なるならば、その味わいも異なるだぇでなく、遂に腐敗することもある。薬でも量が違えば毒になるもので、分量の関係するところは、実に大切なことであります。ですからわれわれ人間にありましても、大禄であれ小禄であれ富者であれ。貧者であれ、すべてその請け得た天禄の分度を守らなければ修身営々として安らぎを得ることが出来ないものでありますから、その分度を守ることが肝要であります。たとえば百石の禄があれば五十石にて暮らし、五十石の者は二十五石で暮らし、商家は富家であれば一ヶ年五百円の利益があれば二百五十円、百円の利益があれば五十円にて暮らす。このようにして余すところの半分は自譲・他譲と申しまして、自譲とは山林の植え付け、田畑の開拓金の貸付など、すなわち報徳金のように子孫に残すもの、または非常の備えとなすようなものをいい、他譲とは親族の困難な場合に慈善を行なうとか、あるいは公共のために充てる費用のようなもので、すなわち余す半額はこれらの費用に充てるのであります。これは二宮先生が分度を定める教訓の大本でありますが、五分を譲るという事は、創業の家なればとにかく普通では非常に困難な事で、たとえば月額十円の収入があるところで、五円で暮すようにする。これでさしかえなければ結構ですが、もし無理すると譲りのために暮し方に不足を生じ、ついに損を招く事に至るでありますから、そのよろしき中分を取って七分五厘を以て自分の暮しとして、二分五厘を譲るようにすれば、大いにそのよろしきを得ることと考えます。しかしこれが暮し方を立てるには、よくよく家政調べを行なうのが肝要であります。譲るの道という事は最も必要の事でありまして、前にも述べましたように、身代の五分あるいは七分五厘で自分の暮らしを立てて、その残りを以て他人に譲って徳行を積み、子孫に譲って永安をはかり、また貯蓄をして非常の場合に備えることにつとめるのでありますが、世の中、恐るべきは不時の天災のようなもので飢饉あるいは地震・火災などこれら世間一般、天運自然の循環であって免れることができないことである。また一家にとりましても病難・死亡などの災いのあることでありますから、これらのためぜひ前に述べたように分度を量ってこれをしのぐところの非常の備え、すなわち積み置きをしなければ他に道のないことであります。また慈善を行なうのも、結局その時はやりきりのようででありますが、決して去るわけでない。譬えすれば、盤中の水のように手で水を自分に引けば、流れて彼れに帰る。また彼に推せば、流れて我に帰る。その行うところと相反する。このようであって、もし自分が天災等にかかって、人の救助を受ける場合には、さきにそれだけの徳行が積み置いてあれば、こう災わいを逃れるので、もし前にその行いがなければ、決して逃れることが出来ない。結局救いを受けるのは、さきの徳行に代えて戻るに外ならないのであります。二宮先生がかつて言われたことがあります。冬至に至って、夜の長いのはすなわち天命である。たとえば夜の長いの憂えて短くしようと欲しても致し方のないもので、これは天命だからあんどんを点ずれば、明りを得て、長いこともさほど感じないで、またあんどんの皿に油の一杯あるも、長い夜を照すに足らない。今もしその灯心を細くして三本つけるところであれば二本、あるいは一本に減らして使えば、夜半に消えるべき灯びも暁にいたるまで達することができるものであるから、やはり天運だ命運だといって放任すればそのままの暗黒であるのを、人事を以て行えば、これを左右しどのようにも行い得るものだと、実にその言葉のようにこれは人事の尽さなければならないゆえんであります。また京都より東京に行くに路用は十円ですから、上下日数二十日間として、一日五十銭に当る。もしこれを一日に六十銭ずつ使うときには二円の不足を生じ、四十銭ずつ使えば二円の有余を生ずることであります。また今、火を焚かんに薪(まき)そのところにないときも、これを取って来れば、その用をなす。水桶に自然に水はないが、くみきたれば在るというようなもので、百年この道理で人事の勤惰によって天命も伸縮してどのようにも行うことができることであります。先生の説のようにこれを行うならば、たとえ家に借財があっても、貧困であっても、その分度をよく立てて勤倹してそその業に励むならば、数年ならずして富裕となり、安楽を得る事は決して疑うことができない事であります。ですからその分度を定めるには、ぜひその家政の調べを行なうのが肝要であり、もし家政調べを行なわなければ、その分度の定めが付かないもので、それ家政調べと申すことは、すなわち自分の暮し方、既往十か年も平均を取って実際いくらの費用を要しているかを図り、その平均一か年百円を要するならば、そのうち四分の一、二十五円を分度外として除いて、残る七十五円を一か年の暮し方に立てて、衣食住その他の臨時用等明細に調べ、なおこれを毎月収入と支出を調査して予算を立て、もしこれに超過すれば、なお翌月に層一層に注意を加えて、節約勤倹してしかとその度を量って、年の始め、月の初めにおいては必ずその収入と暮し方とを決算して、これを一家族の者に明細ねんごろに示すようにすれば決して誤りがなく、一家親睦して富栄は期して得られるべきにあるか。もしこれを怠れば、奢侈に流れ、吝嗇となり、暮し方は中道を得ず、災害を招くに至ることは明らかであります。実に先生の教訓である分度を立てることを以て体となすというのは非常に大切なる事でありますから、どうか諸君もその心して大小貧富を問わず、一家の分度は確乎としてその生活の安きを得られんことを希望致します(完了) ◎勤勉貯蓄に係る講話(承前) 遠江 伊藤七郎平〔「報徳」第30号13~15ページ〕然るに其仕方に分量なるものありて其分に違へば一切効なきもので仮令たとひ田畑に肥料を施すも其量を知らざれば功能なく却て植物の害となり、又味噌を拵こしらゆるよりも豆塩糀こうぢの仕込方量くくみかたれうに違たがひ、或は大根茄子の香物でも糠ぬか塩の加減異なれば其の味ひも異なるのみならず遂に腐敗することもある薬だとて量に違へば毒になるもので分量の関係する処、実に大切なることであります。故に吾々人間に在りましても、大禄なり小禄なり富とみまれ貧ひんまれ凡すべて其請け得たる天禄の分度を守らざれば修身営々として安やすきを得ることの出来ないものでありますから、其分度を守るが肝要であります。仮令たとへば百石の禄あれば五十石にて暮し、五十石のものは二十五石とし、商法家しやうはふかにして一ヶ年五百円の利益あれば二百五十円、百円の利益あれば五十円にて暮す。斯かくの如くして余る処の半分は自譲他譲と申して、自譲とは山林の植付、田畑の開拓金の貸付等、則ち報徳金の如き子孫に残すもの又は非常の備へとなすが如きものを云ひ、他譲とは親族の困難なる場合慈善をなすとか、或は公共の為めに充つる費用の如きもので、則ち余す半額は之等の費途に充つるのであります。是れ二宮先生の分度を定むる教訓の大本でありますが五分を譲ると云ふ事は、創業の家なれば兎に角普通にては甚だ困難なる事で、仮令ば月額拾円の収入ある処で五円で暮す様やうにする。之れで支つかへなければ結構ですが、若し無理すると譲の為めに暮方に不足を生じ遂に損を招く事に至るでありますから其その宜敷よろしき中分を取て七分五厘を以て己れの暮しとして二分五厘を譲る様にすれば大ひに其宜しきを得ると考へます。併し之れが暮方を立るには能々家政かせい調しらべを致すが肝要であります。譲るの道と云ふ事は最も必要の事でありまして前にも述たるが如く身代の五分或は七分五厘にて己れの暮しを立て其その残りを以て他人に譲りて徳行を積み子孫に譲りて永安を図り又貯蓄して非常の場合に備ふることに力つとむるのでありますが、世の中恐るべきは不時の天災の如きもので飢饉或は地震火災等之等世間一般天運自然の循環にして免るべからざることである。又一家に取りましても病難死亡等の災ひあることでありますから之等の為め是非前に述べし如く分度を量て之れを凌ぐ処の非常の備、則ち積置をせなければ他に道のなきことであります。又慈善を為すも畢竟其時はやりきりの如くでありますが決して去る訳でない。譬ますれば盤中の水の如く手にて水を我れに引ひけば流れて彼れに帰す。又また彼に推おせば流れて我に帰す。其その為す処と相反あひはんする斯の如くて若もし己れの天災等に罹りて人の救助を受くる場合は曩さきに其れ丈だけの徳行が積み置いてあればこう災わざわいを逃るるので、若し前に其その行ひなくば決して逃るること出来ない。畢竟ひつきよう救すくひを受うけるは曩さきの徳行に代かへ戻るに外ならぬであります。二宮先生曾かつて曰いはれたことがあります。冬至に至て夜の長きは則天命である。仮令たとひ夜よの長きを憂ひて短くせんと欲するも致し方のなき者で之れ天命だか行灯あんどんを点てんずれば明を得て長きも左程さほど感ぜず又行灯あんどんの皿に油の一杯あるも長き夜を照すに足らない。今若し其その灯心を細くして三本燼つく処なれば二本或は一本に減じて使へば夜半に消ゆべき灯ともしびも暁あかつきに迄まで達することを得るものであるから矢張やばり天運だ命運だとて放任せば其その侭の暗黒なるも人事を以てすれば之れを左右し如何いかんとも為し得るものだと実に其その言の如く之れ人事の尽さざるべからざる所以であります。又た京都より東京に行くに路用拾じゅう円なれば上下日数廿にじゅう日間として一日五拾じゅう円に当るが如し。若し之れを一日に六拾じゅう銭づつ遣ふときは二円の不足を生じ四拾じゅう銭づつ遣へば二円の有余いうよを生ずることであります。又今ま火を焚たかんに薪まき其その処ところになきも之れを取り来れば其その用をなす水桶に自然に水はなきも汲来くみきれば在ると云ふが如く百年此道理で人事の勤惰に仍よつて天命も紳縮しんしゆくし如何とも為し得べきことであります。先生の説の如く之れを行ふならば仮令家に借財あるとも貧困なりとも其その分度を能よく立て勤倹して其その業げふに励めば数年ならずして富裕となり安楽を得る事決して疑ふべからざる事であります。故に其分度を定むるには是非其その家政の調をなすが肝要なることで若し家政調をなさざれば其その分度の定めが付かぬもので、夫それ家政調と申すことは即ち己の暮し方既往十ヶ年も平均を取て実際幾何いくばくの費用を要せしやを図り、其平均一ヶ年百円を要するならば其その内うち四分の一、二拾五円を分度外として除き、置き残る七拾五円を一ヶ年の暮し方に立てて衣食住其他の臨時用等明細に調べ、尚之れを毎月収入と支出を調査して予算を立て、若し之れに超過すれば、猶翌月に層一層に注意を加へて節約勤倹して確かと其度を量り年の始め、月の初めに於ては必ず其収入と暮し方とを決算して之れを一家族の者に明細懇ろに示す様やうにすれば決して誤りなく一家親睦し富栄は期して得らるべきにあるか。若し之れを怠れば奢侈に流れ吝嗇となり、暮し方中道を得ず、災害を招くに至る明かであります。実に先生の教訓なる分度を立つるを以て体となすとは極々大切なる事でありますから、どうか諸君も其心して大小貧富を問はず一家の分度は確乎として其生活の安きを得れんことを希望致します(完了)
2026.03.29
「永平家訓抄話」澤木興道 1-9 雪舟が石頭大師の顔を描いたのが今も残っておる。それはカンカン干しの痩せたえらい顔である。行思大和尚の歿後は南嶽の南台へ行かれた。ところがその南寺の東には石台があったので、その石の上に、草菴を建てて住んだということである。それから世の中の人が、石頭和尚と呼ぶようになったといわれている。唐の貞元六年になくなり、今でも塔があって、その銘に見相宝塔とある。いくつでなくなられたかはわからないが、石頭大師というのは、こういう非常に偉いお方であった。その石頭大師の代表的な著作がこの『参同契』である。 そこで「兄弟見ずや石頭の道うことを」と。何と言われたか。「当に明中に暗あるべし、暗相を以て遇うこと勿れ。当に暗中に明あるべし。明相を以て覩(み)ること勿れ」と。『参同契』には明暗ということについて「霊源明(れいげんみょう)に皎潔たり。技派(ぎは)暗に流注す」「暗は上中を合するの言、明は清濁を明すの句」と三回この明暗ということが出ておる。明暗というてもこれはただ目で見る明暗ばかりではない。仏教を字の通り読んでは困る。どうも口でいえないことをいうのじゃから、そこに詩が生まれる。口でいうものだけなら、ただ読めばそれで済むのじゃろうけれども、口でいえないことは、詩の余韻で翫味するより仕方がない。そこで明というても何を意味しておるか、暗というても何を意味しておるかを味わうのである。『般若心経』でいうなら「明中に暗あるべし」ということは「色即是空」ということじゃないか。「暗中に明あるべし」とうことは「空即是色」ということじゃないか。 そこで『参同契』には「回互(えご)不回互(ふえご)」とある。回互ということは平等ということである。たとえば夫婦の間は回互しておらんならん。夫婦の間に回互なしでは困る。わたしの知っておる和尚のところで、丘宗潭老師が一泊されて翌朝お立ちになるとき、朝飯を差上げて送り出そうと、和尚はそのつもりでおった。ところが九時になっても十時になっても、細君がいっこう飯の用意をせん。和尚ジリジリして台所へ行って「オイ婆さん、飯は」というと、「飯は私の分だけあったから私が食った」「後は」「もうない」こんな婆さんをもらったら困る。不回互である。かかあはかかあで勝手なことをしておる。あるじはあるじで勝手なことを考えている。そうしてめいめい巾着も別なら生活も別、不回互ぎりならそれは夫婦ではない。それならというて、交替で赤ちゃんにおっぱいをやるとか、飯炊きは一日おきに交替でやるとか、いつもくっついて回互ばかりでもいかん。爺さんは山へ柴刈りに、婆さんは川へ洗濯に、これは不回互の方である。ところが一方では爺さんは婆さんの焚き物を取って来るし、婆さんは爺さんの糞のついた褌(ふんどし)を洗うておるからこれは回互である。回互と不回互と互い違いにちょうどうまく行く。明暗とか、有無とか、是非とか、善悪とか、色とか空とかあるけれども、一切諸法はみなこれ因縁生である。因燃生であるから無自性である。無自性であるから無相である。無相であるから皆空である。今「当に明中に暗あるべし」「明中の暗」であるから見た通りではない。だから「暗相を以て遇うこと勿れ」これは梟に聞いただけではいかん。鶏に聞いて見なければならん。われわれから見るとちゃんと鶏と梟と両方がわかるから「暗相を以て遇うこと勿れ」と、いつもちゃんとこれがなければいけない。 夫婦喧嘩をするのを見ても、それを岡目八目で見たら勝手なことをいうておるのがよくわかる。あまり夫婦が心易いものだから勝手なことをいうておるので、「暗相を以て遇うことなかれ」お前のいうのもごもっとも、どっちもごもっとも、どっちも嘘。そこに回互と不回互と。だから暗中に明あるべしは夜半正明。明中に暗あるべしは天暁不露。そこでこの道理をよく知らねばならん。 一切有為法は相似相続といって、一切の世界は似たものが相続しておる。ちょうど滝が落ちるようなものである。電気はついておるが、あれも時時刻刻消滅している。消滅しているけれども、これは同じものが続いておるように見える。すなわち相似相続しているわけである。今日の一切世界は昨日とは違うのだけれども、昨日と同じようなものが相続しておる。わたしの顔もその通りで、同じような顔でお目見えしておるようだけれども、去年よりは白髪がふえておる。これは一遍にふえたのではない。ぼつぼつふえた。そうして見ると、この人生はいつも初対面である。瞬間瞬間が初対面の人生であり、瞬間瞬間が御暇乞いであるわけである。それから瞬間瞬間に変って行くのが真実かといえば、永遠に変わらない一つのことを隆蘭渓は「諸仏衆生平等の自性」といい、指月禅師は「諸仏自住の本実」といわれた。こんな符牒がよけいにあるから人生もめんどうになる。また符牒があってくれるから話もしよいわけである。その自住の本実というのを事実にすいていって見れば「当に暗中に明あるべし、暗中を以て遇うこと勿れ、当に暗中に明有るべし、明相を以て覩(み)ること勿れ」こんなふうにいわんならん。ずいぶんめんどうくさいわけだが、仕方がない。(「永平家訓抄話」p.233-235)
2026.03.29
191二宮翁夜話残篇【16】尊徳先生がおっしゃった。人々の紛争を解決することは道徳の一つで、世を救うことの一つであるが、これについてはまた一つ心得なければならない事がある。訴訟を内済(内々に解決したりすること)したり示談することである。これはお互いに実に両全の道ではあるが、また弊害も少くない。私が桜町にいた頃、近郷でこの扱いが盛んに行われて、訴訟は大変多かった。法を厳しくしてその内済や示談を制限すれば、最近の訴訟はだいぶ減ずるであろう。なぜかといえばこの辺で内済の事を扱う者を観察すると、必ず智力もあり、弁才もあつて、白を黒にし、黒を白にする腹黒い悪人である。表を飾ってこの事を職業のようにする者がある。この者はよく弱い者を助け、強き者を折(くじ)いて訴訟を内々に解決して、衆の難を救うように見えるけれども、ひそかにその内情を聞いて、よくよく観察する時は、この紛議の原因はこの者によって起こる事が多い。村里に争いが起るや、ある時は激しく言い立て、争そわせ、またある時はやさしい言葉でこれを止め、始終その間をとりもって自分の利益と名誉を取る悪人がある。それであるのに世の中はよくわからずこれを尊び、これを用いる。かって桜町にこうした悪人がいた。私はまずこの者を退けたところ、訴訟の事はぴったり止んで、人柄の善い者が庄屋となることができた。そのような善い庄屋がいると、それまでの貧乏人や老人、寡婦、孤児に至るまで、みんな利益をこうむったのであった。およそ国家を治める者は、前に言う所のような悪人を退けて、良民を養うことを勤めとするべきだ。人道はもともと作為の道であるために、農夫が勤めて草を抜き取るように、悪民を抜き取って良民を養わなければ、良民は立つ事ができない。良民が立つ事ができなければ、国や家は衰廃をきたすであろう。悪人はたとえば稲の間に生える雑草のようなもので、雑草を抜き取って稲を助けるのが農業である。悪民を退けて良民を養うのが政治である。農業を勤めるは下の職業であり、政治を勤めるのは上の職業である。下がその職業に怠らなければ、国は豊かになる。上がその職業を勤めるならば国の財政にゆとりが生ずる。上下各々がその職業に勤めれば、天下は平らかとなるであろう。だから古人も政治を行うのは農民が田を作るようなものだと言ったのだ。農業は雑草を抜き除いて稲を育てることにある。上の職業は悪人を退けて良民を育てることにある。そして農民は雑草がはびこるのを憎んでこれを抜き去ることを勤めとする。この悪民を信用しこれを重んずるのは過ちである。彼の悪人は才力や弁舌が衆に越えており、さらによく世事に馴れ、上下に通じていて始終これをあやつって、事を起し、事をしずめ、その中間に立って利益を自分に占める。それを人が知らないで、これを尊びこれを用いるのは過ちだ。このような雑草を善とし、美とし、これを養うならば、国や家は衰えることであろう。二宮翁夜話残篇【16】翁曰く、夫(そ)れ人の紛議(ふんぎ)を解くは道徳の一つにて、世を救ふの一つなれど、又(また)一つ心得べき事あり、訴訟(そしよう)の内済(ないさい)示談(じだん)なり。是(こ)れ実に両全の道なれども、又(また)弊害も少(すくな)からず。予(よ)桜町にあり、近郷(きんがう)この扱(あつか)ひといふ事盛んに行はれて、訴訟甚(はなは)だ繁(しげ)し。習(なら)つて察(さつ)せず。法を厳(げん)にして之(これ)を制(せい)すれば、方今(ほうこん)の訴訟その幾分(いくぶん)を減ずべし。如何(いかに)となれば此(こ)の辺にて内済(ないさい)の事を扱(あつか)ふものを見るに、必ず智力(ちりよく)もあり、弁才(べんさい)もあつて、白を黒にし、黒を白になすの奸人(かんじん)、表(おもて)を飾りて此(こ)の事を業(げふ)の如(ごと)くする者あり。この者よく弱きを助け、強きを折(くじ)き訴訟(そしよう)を内済(ないさい)して、衆(しゆう)の難(なん)を救ふが如(ごと)く見ゆれども、竊(ひそか)にその内情を聞き、能(よ)く能(よ)く観察する時は、この紛議(ふんぎ)の因(いん)は此(こ)の者に因(よ)つて発(はつ)する事多し。それ村里(むらさと)に一紛議(ふんぎ)の起るや、或(あるひ)は激言(げきげん)して之(これ)を争はしめ、また和言(わげん)を以(もつ)て之(これ)を止め、始終(しじゆう)その間(あひだ)に周旋(しうせん)して利(り)と誉(ほまれ)とを己(おのれ)に取る奸人(かんじん)あり。然るに世の中不明(ふめい)にして是を尊(とほと)み、是(これ)を用ふ。往時(わうじ)桜町に奸人(かんじん)あり、予先(ま)づ此の者を退けぬれば、訴訟の事断然(だんぜん)止み、柔善の者里正たることを得たり。某(ぼう)の如き好(よ)き人里正に居(ゐ)て、従来(じゆうらい)の細民(さいみん)鰥寡(くわんか)孤独(こどく)に至るまで、皆其(そ)の利を利とすることを得るなり。凡(およ)そ国家を治むる者、前に言ふ所の如き奸民(かんみん)を退けて良民を撫(ぶ)するを以(もつ)て勤(つと)めとすべし。人道は元(もと)作為(さくゐ)の道なるが故に、農夫の勤めて草を去るが如く、悪民を去つて良民を養はざれば、良民立つ事あたはず、良民立つ事能(あた)はざれば邦家(ほうか)の衰廃見るべきなり。夫(そ)れ奸民(かんみん)は譬(たと)へば莠草(はぐさ)の如し、茂生(もせい)すれば田園(でんゑん)蕪廃(ぶはい)す。故(ゆゑ)に奸民(かんみん)志(こころざし)を得れば村里(むらさと)衰廃(すいはい)す。良民は譬(たと)へば稲(いね)の如し、莠草(はぐさ)を去りて稲を助くるは農業なり、奸民(かんみん)を退けて良民を撫(ぶ)するは政事(せいじ)なり。夫(そ)れ農業を勤(つと)むるは下(しも)の職なり、政事(せいじ)を勤むるは上の職なり。下(しも)其(そ)の職業に怠らざれば、国豊饒(ほうぜう)す。上(かみ)其(そ)の職を勤むれば国用(こくよう)余(あま)りあり。上下各々(おのおの)其(そ)の職分を尽(つく)さば、天下平(たひ)らかなるべし、故(ゆゑ)に古人(こじん)も政事(せいじ)をなすは農の田を作るが如しと云(い)へり。夫(そ)れ農の業(げふ)は莠草(はぐさ)を抜除(ばつぢよ)して稲(いね)を肥(こや)すにあり、上(かみ)の職は奸民(かんみん)を退けて良民を育するにあり、而(しか)して農は莠草(はぐさ)の憎むべきを知りて是を去るを勤めとす、その上この奸民(かんみん)を愛して是を重んずるは過(あやま)れり。彼(か)の奸民(かんみん)は才力弁舌衆に越え、是に加ふるに能(よ)く世事(せじ)に馴(な)れ上下に通じて始終之をあやつりて、事を起し、事を鎮(しづ)め、その中間に立ちて利を己に占むる物なり。然るを人之(これ)を知らず、是を尊(とほと)み之を用ふ、過(あやま)てり。夫(そ)れ此(こ)の如きは莠草(はぐさ)を以て善とし、美とし、之(これ)を糞培(ふんばい)せば、邦家(ほうか)の衰へざることを得んや。
2026.03.29
沢木興道「永平家訓抄話」 天桂和尚は、「目の鞘はずして見たるがよきじゃ」といつもいったが、みながめいめい目に鞘をはめておる。それでは何鞘をはめておるかというたら、男は男鞘、女(おなご)は女鞘、金持鞘、貧乏鞘、学者鞘など、おかしな鞘を各々はめておる。そこで天桂和尚は、「目の鞘はずして見たるがよきじゃ」といったのである。ちょうど双眼鏡でこっちから見るのと、あっちから見るのとで、こっちから見ると大きく、あっちから見ると小さく見える。それと同じことで、人間は絶えず千差万別、朝から晩まで、七面鳥よりもっとはげしく変わりどおしで、そして正味に行きつかずに死んでしまう。それが本当に幽霊である。つまり諸相非相(諸相は相にあらず)の正体を見ずして死んでしまうのである。諸相非相が決定すればそれが即見如来(即ち如来を見るなり)である。それがなかなか得られんから「邪見脱し難し」である。そこで議論を聞いても、何事かを話しているのを聞いても、みな誤解の上塗りばかりをやっているので、わたしはいつも気の毒でならぬ。先生が教えていることも、生徒が習っていることも、嬶(かかあ)のやきもちも、亭主の飲んだくれも、金持の金の張り番も、貧乏人の質置きも、みなこれ「邪見脱し難し」の邪見である。なぜかというたら、それらのことはみな我見というものから割り出して考えておるからである。二宮翁夜話【6】尊徳先生はこうおっしゃった。天理と人道との差別を、よく弁別する人は少ない。人身があれば欲があるは、すなわち天理である。田畑に草が生ずるのと同じだ。堤防は崩れ、堀は埋まり、橋は朽ちる、これがすなわち天理である。そうであれば、人道は私欲を制することを道とし、田畑の草を取り去ることを道とし、堤防は築き立て、堀はさらい、橋は掛け替えることを道とする。このように、天理と人道とは、別のものであるため、天理は万古変ずることなく、人道は一日怠るならばたちまちに廃してしまう。そうであれば人道は勤めることを尊び、自然にまかせることを尊ばない。人道の勤めるべきは、己れに克つ教えである。己れというのは私欲である。私欲は田畑にたとえれば草である。克つとは、この田畑に生ずる草を取り捨てることをいう。己れに克つとは、 自分の心の田畑に生ずる草をけずり捨て、とり捨て、我が心の米麦を、繁茂させる勤めである。これを人道というのだ。論語に、己れに克って礼に復(かえ)る(※)とあるのは、この勤めのことである。 ※ 論語第十二顔淵篇第12-1 顔淵、仁を問う。子曰く、己に克ちて礼に復(かえ)るを仁と為す。一日(いちじつ)己に克ちて礼に復れば天下仁に帰す。仁を為すは己に由(よ)る、而うして人に由らんや。顔淵曰く、請う、その目(もく)を問わん。子曰く、礼に非ざれば視(み)ること勿れ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。顔淵曰く、回、不敏と雖も、請う、斯(こ)の語を事とせん二宮翁夜話続編 42 尊徳先生は言われた。心が狭く局限されていると、真の道理を見る事はできないものだ。世界は広い。だから心を広く持たなければならない。しかしその広い世界も己(おのれ)といい、我(が)という私物を一つ中に置いて見る時には、世界の道理はその己に隔てられて、その見るところは皆半分になるものである。己というもので半分を見る時には借りたものは返さない方が都合がよく、人の物を盗むのはもっとも都合がよいようだが、この隔てている己というものを取り捨って、広く見る時には、借りた物は返さねばならないという道理が明らかに見え、盗むということは悪事であることも明らかに分るようになる。だからこの己という私物を取り捨る工夫をすることが専一である。儒教も仏教もこの取り捨てる方法を教えることを専一とする。論語に「己に克(か)って礼に復(かえ)れ」と教えたのも、仏教にては見性といい、悟道といい、転迷という。皆この私(わたくし)を取り捨る修行である。この私の一物を取り捨てる時には、万物不生不滅・不増不滅の道理もまら明らかに見えるものだ。このように明白な世界であるけれども、この己を中間に置いて彼れと是れとを隔てる時には、直ぐにその場に得失損益・増減生滅などのさまざまな無量の境界が現出するのである。二宮翁夜話続編 四二 翁曰、心狭く局りては、真の道理を見る事能はざる物なり、夫世界は広し、故に心をば広く持つべし、されども其の広き世界も己と云ひ、我と云ふ私物を一つ中に置て見る時は、世界の道理は其の己に隔てられて、其の見る所は皆半になるなり、己と云物にて半分を見る時は借たる者は返さぬ方が都合よく、人の物を盗むは尤都合よかるべけれど、此隔てなる己と云物を取り捨て、広く見る時は、借りたる物は返さねばならぬと云道理が明らかに見え、盗むと云事は悪事なる事も明らかに分るなり。故に此己と云私物を取り捨るの工夫が専一なり、儒も仏も此取捨方を教るを専一とす、論語に己に克て礼に復れと教えたるも、仏にては見性といひ、悟道といひ、転迷と云ふ、皆此私を取り捨るの修行なり。此私の一物を取捨る時は、万物不生不滅不増不滅の道理も又明かに見ゆるなり、如此明白なる世界なれども、此己を中間に置て彼と是とを隔つる時は、直ぐ其座に得失損益増減生滅等の種々無量の境界現出するなり
2026.03.28
橋爪「今までの朝ドラは、うまくいってない人が問題を乗り越え、何かを成し遂げていくというのが大きなフォーマットになっていました。でも『ばけばけ』は、何かが起こりそうで何も起きない物語。そんな物語がこれまでの朝ドラの視聴者にどのくらい受け入れられるだろうと、少し不安もありながら制作を始めました」「例えば、ヘブンが怪談をどう作っていったか、その部分にもっとスポットを当ててほしいとか、二人の見せ方についても多くの人にご意見をいただきました。もちろん、それもそうだと思ってはいたのですが、それ以上にトキとヘブンの関係性、何も起きない日常の風景を素敵だと感じてくれる人が多く、このドラマを楽しみに毎週観てくださる人がいることに感激しました。自分たちがやろうとして描いた物語が、たくさんの人に響いていたことが嬉しかったです」「ふじきさんのおかげで『ばけばけ』の作品は成り立っています。脚本家がこの世界をゼロから1に作り上げていくわけですから、ふじきさんの優しい目線や人柄までもが、結果的に物語に強く反映されていると思うんです」橋爪は、「ばけばけ」の世界観の構築に「すごく時間がかかった」と苦労も明かす。「第1週から第3週までの脚本は、一度書き直しています。このドラマの作風に行き着くまでに、苦しみがすごくあったと思います。でも、それを乗り越えてからは一度も止まることなく、すべて時間内に脚本が書き上がってきました。そういうことを思うと、この作品にはふじきさんのブレない部分がキャラクターだったり、物語に強く反映されています。それが結果的に、作品の良さに繋がったと思います」「日本語が話せることはもちろん、役者としてのレベルがすごく高かった」とトミーの才能を絶賛する。「どんな人も嫌いにならない、すごくいい人でした。どんなことを言わせても良い人に見えるし、悪いことを言わせても、実は根は良い人だなとか、本当に好きになれる人になってしまう。彼のプライベートでの人柄の良さが役に滲み出ていたと思います」「トミーさんだけでなく、ほかのキャストの皆さんもそうです。その人になりきって、それぞれが役を生きてくれる。きちんと準備をした上で撮影に臨むので、演じるキャラクターもブレないし、相手のお芝居に対してその人だからこその反応をする。セリフもその人のキャラクターにあったものに変化していて驚きました」 「レフカダ・ヘブンは結構かんしゃく持ちで、無理難題も言います。演じ方によっては、嫌な人にも見えると思うのですが、トミーが演じることで、頑固な一面がなぜか可愛らしく見えてきたから不思議です。今は撮影を終え、バンクーバーに行ってしまいましたが、これからも世界に羽ばたいていく役者になるだろうと信じています。それくらい力を感じたんです。これからの彼の活躍にすごく期待しています」主人公・トキ役を務めた高石について「受けの芝居が素晴らしかった」「何かボールが投げられたとき、それをキャッチして、ちゃんと自分の芝居で返せる力を持っていました。演技プランを立てて、それをその通りにこなしていくのではなく、役をきちんと生きてくれる役者さんだと思いました」「彼女も、これだけ長い作品に挑戦したことがなかったと思います。主演として一人で番組を引っ張っていくことも、ほぼ初めてだったはずです。すごく辛い時期もあったのかもしれませんが、決して表に出しませんでした」「最後の撮影が終わった時も『楽しかった』って言っていました。彼女が楽しく芝居に取り組んでいる姿に、周囲も救われたと思います。彼女が楽しいと思えるまま、行かせなきゃいけないと周りも思っていたはずです。最初はどうなるかと心配しながら見ていましたが、そういうのは杞憂に終わるぐらい、最後までみんなを引っ張ってくれたと思います。本当に感謝しています」○岡部松江の縁側のセットで、ヘブン役のトミー・バストウ、フミ役の池脇千鶴、トキ役の髙石あかり、そして子役らとともに花束を手にした衣装姿の集合写真を投稿「わしは今テレビの前で立ちつくしちょります 嗚呼終わった」「生活しちょるとなにかとうらめしいこと、転んだりすることあるじゃろう、そげじゃがわしは皆さまが日々ちょっとしたことで笑ったりすばらしがようけ訪れることほんに願っちょりますけん」
2026.03.28
26「伊藤七郎平翁伝」鷲山恭平撰 その38◎勤勉貯蓄に係る講話(承前) 遠江 伊藤七郎平〔「報徳」第28号13~15ページ〕その6守分の説二宮先生の教訓の四ヶ条の肝要な言葉があります。すなわち 誠心を以て本とし 勤労を以て主と為す 分度を立つを以て体と為す 推譲を以て用と為す右の四ヶ条のうち、分度を立つを以て体となすというのは、先生の古人が未だ発したことのない語だという事でございますが、ここにその訳を諸君にお話しいたそうと思います。この語は実に報徳の道において最も肝要な条項でありまして、またわれわれが忘れてはならない事であります。さてお互いがこの世に生息するものには、あるいは都会に生まれるものもあれば、辺鄙に生れるものもある。また大禄(高い俸禄)の家に生るるものあれば、小禄に生れるものもある。富有の家にうまれるものがあれば、赤貧に生れるものもあるが、これは皆いずれも天の命でありまして、その天の命ずるところのおのれの分に従って、その度を守るのが、すなわち分度を立てると申しまして、たとえ善行といっても自分の分度にはずれた事であれば行おうと欲しても成就するものではない。自分は富有だ天禄だからといって、安閑として日を送り、何にもしなければ、百事成ることもなく、富者も変じて貧者となる。また自分は貧者だ天命だといって放任すれば一日も立つことは出来ないから、やはりその天命に則って、以て各自の力で勤倹を尽すならば富者はますます富者となり、貧者は富裕となることであろう。もしこれに反して怠惰に流れれば、ついに富者は貧賤となり、貧者は遂にその命を絶つに至ることで、結局銘々の心掛け次第であって、天禄というものは、人為によって増減はいずれも出来るものであります。物はすべて自然に放任して置けばその性のままで、水の低いところにつくようなものであります。もし水をたくわえ、または他に水を引くはぜひ人為によって堰を設け、その下流するのを防がなければならないのでありますが、この水の低いところに付くというのは天道で、堰を設けるのは人道でありまして、ここに天道と人道の分れる理由であります。天道とはいわゆる自然であってこの自然を利用するのが人道であります、たとえば素地を茶園にするには、人道で開拓し、茶樹を栽植して初めて茶園となるので、もし茶園だといっても、数月間放任しておくならば、草木が繁茂して元との荒地となる訳ですから、百事すべて人道をもってこれが手入れをなさなければその要をなさないのであります。(未完)守分の説二宮先生の教訓の四ヶ条の肝要なる語があります。即ち 誠心を以て本とし 勤労を以て主と為す 分度を立つを以て体と為す 推譲を以て用と為す右の四ヶ条の内、分度を立つを以て体となすと云ふは先生の古人未発の語だと云ふ事で御座りますが、茲ここに其訳を諸君にお話し致さうと思ひます。此の語は実に報徳の道に於て最も肝要なる条項でありまして、又吾々が忘るべからざる事であります。偖さてお互が此世に生息せるものには、或は部街とがい〔都街?〕に生まるるものもあれば、辺鄙に生れるものある。又大禄の内に生るるものあれば小禄に生れるものあり。富有の内にうまるるものあれば赤貧に生るるものもあるが、之れ皆いづれも天の命でありまして其天の命ずるところの己れの分に従てその度を守るがすなはち分度を立つると申しまして仮令善行と云ふても己れの分度に外づれた事なれば行はんと欲しても成就するものでない。己れは富有だ天禄だとからと云ふて安閑日を送り、何にもせなければ百事成るともなく富者も変じて貧となる。又己れは貧者だ天命だ迚とて放任せば一日も立つことは出来ないから矢張其天命に則り以て各自の力で勤倹を尽せば富者は益々富となり貧者は富裕となることであろう。若し之れに反し怠惰に流るれば遂に富者は貧賤となり、貧者は遂に其命を絶つに至ることで、畢竟銘々の心掛次第にて天禄なるものは人為にて増減は何いづれも出来るものであります。物凡て自然に放任して置けば其性の侭にて水の低きに就くが如きものであります。若し水を蓄へ又は他に水を引かんには是非人為を以て堰を設け其下流するを防がなければならぬでありますが、此の水の低きに付くと云ふは天道で、堰を設くるは人道でありまして、茲ここに両道の分るる所以であります。天道とは所謂自然にして此の自然を利用するが人道であります、仮令たとへば素地を茶園にするは人道で開拓し茶樹を栽植して初めて茶園となるので、若し茶園だ迚とて数月間放任し置かば草木繁茂して元との荒地となる訳であるから百事凡て人道を以て之れが手入れを為さざれば其要をなさぬのであります。(未完)
2026.03.28
「永平家訓抄話」澤木興道 1-8 そのころ大師の村の漁師たちには、迷信があって淫祠に牛のいけにえを捧げ、お神酒を供して拝む習慣があった。それが子どもの石頭大師には気に食わなかったものと見える。そこへ出かけて行って、淫祠を壊し、牛を奪って帰った。その数は年に数十頭にも及んだが、郷老がそれをやめさせることができなかったということである。子どものくせによほどの自信があったものと見える。つまり石頭大師は、子どものときから全然迷信というもののなかった人らしい。そしてついにそのいけにえの風習をなくしてしまったということである。わたしは子どものときに、スリがお稲荷さんを拝んでどちらへ行ったら商売がございましょうかと伺うのを見た。すると「巽(たつみ)の方へ行け」「何里ばかり行くのですか」「二里半ばかり行け」その時そちらの方に市があった。観音様の会式であったか何かで、そこへは昔のことじゃからニッキ水売りや、覗き眼鏡などがガチャガチャやっておった。つまりその盛り場へ行ってスリに商売をして来いというのである。わたしは稲荷さんといえば神さまと思っておった。神さまが盗人の指図をする。こん畜生、神もへったくれもあるものか。この時分わたしの頭には、正直の頭に神宿る、これだけのことが入っておった。そうすると、不正直なこの稲荷は神じゃない、ど狐か、ど狸か知らんけれども、こんな者はろくな奴じゃない。よし屁をかましてやろうと思って、そこの人がある間にそんなことをやったらどつかれるから、お稲荷さんだけのときに、「コラッ、稲荷、貴様、スリの指図をするとは不届き千万、神でも何でもなかろう。おのれはおれの屁でもくらえ。罰を当てるなら当ててみろ」プッ、と屁をかました。ところが今日まで罰が当らん、いいことばかり。稲荷おろしの婆さんは、わしが後になって坊主になってからも、わたしをたいへん信頼していた。だからこっちは、お稲荷さんをだましてしまったわけである。 わたしが今日まで功利的なことにみじんの狂いもなく来たのは、このお稲荷さんがわたしを証明してくれたからである。石頭大師もそんな理屈で淫祠邪教は信じなかったのであろう。やがて大師は曹渓に行って六祖大師の弟子になった。ところが得度をして具足戒を受けないうちに、六祖大師がなくなった。もうおなくなりになるというときに、「私はあなたがおなくなりになったらどうしたらいいのですか」とたずねた。そうすると「尋思去」と六祖は答えられた。尋思ということは、ハテ何じゃいな、ゴーゴーいうておる、あれは飛行機かいな何じゃいなと分別することで、つまり仏教心理学のうちにある名称である。そこで六祖大師がなくなられてから、石頭大師は文字通りに尋思去しようと思って坐禅ばかりしておった。そうすると南嶽懐譲禅師がやって来て「お前は師匠がなくなったのに何をしておるのか」「尋思去とおっしゃったからわたしは坐禅しておる」といった。尋思去ということは、考えることと思うたのである。ところが南嶽は、「いや、そうじゃない。お前の兄弟子に青原におる行思和尚というのがある。だから尋思去というのは、青原行思を尋ねて去れということじゃ。自分で考えろということじゃない」といった。そこでサッパリした。それからまっすぐに青原に行って修行し、ついに青原行思大和尚、石頭希遷大和尚と、こう並び称されるようになったわけである。(「永平家訓抄話」p.231-233)
2026.03.28
191二宮翁夜話残篇【15】宇都氏の馬が、厩(うまや)を離れて邸内を走り回った。人々は大変騒いでいた時に、厩の管理人が出で来て、静かにしろと言って、飼葉桶をたたいて小声で呼びかけると、さすがに激しくはねまわっていた馬が急に静まって飼葉桶のところにもどった。尊徳先生がおっしゃった。あなた達も心得なさい。世の中は何も難しい事は決してない。犬もこっちへ来い来いと言うばかりでは来ない、時々食事で呼ぶ時はすぐに来る。ナスもなれなれと言ってなるのではない。肥料を与えれば必ずなる。猫の背中も順に撫でれば知らんふりして眠り、逆に撫でると一撫で爪を出す。私が桜町を治めたのもこの理を法として、勤めて怠らなかっただけである。二宮翁夜話残篇【15】宇都氏(うつし)の馬、厩(うまや)を離れて邸内(ていない)を馳(は)せ廻(まわ)れり。人々大いに噪(さわ)ぎ立ちける時、別当(べつたう)出(い)で来(きた)りて静かにすべし静かにすべしと云(い)ひて、飼葉桶(かひばをけ)をたたきて小声(こごゑ)に呼びければ、流石(さすが)に猛(たけ)く刎廻(はねまは)りし馬(うま)急(きふ)に静まりて飼葉(かひば)に付けり。翁(をう)曰く、汝等(なんぢら)心得(こころえ)よ、世の中は何も六ヶ(むつか)しき事決してなし。狗(いぬ)も来いよ来いよと云ふ許(ばか)りにては来ず、時々食(しよく)を以て呼ぶ時速(すみや)かに来(きた)る。茄子(なす)もなれなれと云(い)つてなるにあらず、肥(こえ)をすれば必ずなる。猫の背中も順(じゆん)に撫(な)でれば知らぬふりして眠り、逆(ぎやく)に撫(な)でると一撫でにて爪(つめ)を出す。予桜町を治むるも此(こ)の理を法(ほふ)として、勤めて怠らざりしのみ。
2026.03.28

友人から、「伊藤七郎平翁伝 その24」が見当たらないという連絡があった。せっかくなので、現代語訳してみよう。○伊藤七郎平氏は、ある年、巡回として小笠郡板沢上組報徳社に行った。その時に社長鈴木伊平氏は現量鏡*調整中で校合を行なっておられた。伊藤氏はこれを見て、「すべて勘定書の校合は、読み合せただけではダメだ。必ずソロバンを持って数字に当るに限る」と注意された。伊藤氏が万事において周到な用意があった事はこの一事でも知る事ができる。鈴木氏もまた伊藤氏の注意をこうむって、現量鏡を調整する上で、啓発する所が多かったと述べた。(鈴木伊平氏報告)○翁、某年巡回として小笠郡板沢上組報徳社に行けり。時に社長鈴木伊平君は現量鏡調整中にて校合を為し居られたり。翁は之を見て総て勘定書の校合は読み合せたるのみにては不可なり。必ず算盤を持って当るに限ると注意せらる。翁が万事周到なる用意ありし事は此一事にて知る事を得べく、氏も亦翁の注意を蒙りて現量鏡調整上、啓発する所多かりしと。(鈴木伊平氏報告)*二宮先生語録巻の2【178】私の仕法を施行するときの出納簿を称して現量鏡という。量とはマスでありタワラである。米は民の命を養う。しかしながら米の粒が散ずるならば、いたずらに雀や鼠の食となる。だからこれを集めてマスとなしタワラにして民の命を養うのだ。日課縄ない法もまた同じだ。縄の一ひろ、二ひろの値段では家を興すに足りない。ましてや郡村を興すにはなおさら足りない。しかしながらこれを集めるならば、国を興すに足りる。これをマスで米の粒を量るのに譬えて現量と名付けた理由である。【一七八】我わが法ほう施し行こうする所ところの出すい納とう簿ぼを称しょうし、現げん量りょう鏡かがみと曰いう。量りょうは升しょうなり、苞ほう(一俵)なり。夫それ米べい粟ぞくは民みん命めい(人民の生命)を養やしなう。然しかれども粒りゅう散さん(穀物が散布)ずれば則すなわち徒いたずらに雀じゃく鼠その食しょくと為なる。故ゆえに之これを聚あつめて升しょうと為なし苞ほうと為なし、以もって民みん命めいを養やしなう。日にっ課か索なわ綯ない法ほうも亦また然しかり。一二尋ひろ(尋は約一・五メートル)の値あたい、以もって家いえを興おこすに足たらず。況いわんや郡ぐん邑ゆうをや。然しかれども之これを聚あつめれば、則すなわち以もって国くにを興おこすに足たる。是これ猶なお升ますを以もって粒りゅう米まいを量はかるごとし。則すなわち現げん量りょうと名なずくる所ゆ以えんなり。
2026.03.27
念共讃裡(ねぐさり)抜粋序第一篇 求法1.駅長をやめて来い2.シャンとせぬ心3.毛一筋の望み4.後生一大事とは5.楽屋住まい6.浄玻璃鏡7.ただ念仏して8.火中の白蓮9 信心と念仏10-1 ご法席の和上 1-110-2 ご法席の和上 1-2第二編 安心1 寒が明いた 2 六種震動の日3 一等国民4 譲りに譲りて5 栖神浄域6 ちょっとの事で 7 松の影 その1 先日、道友と共にたまたま適睡庵を訪れる。庵主(あんじゅ)老爺嫗(ろうやう)欣然として迎えられる。 直ちに座を勧めて合掌念仏。 庵主旧懐もだしがたきか、時々和上ご在世を偲びて、その徳をのぶ。さすがに博多以来の古つわもの、言々句々うま味尽きずして時の過ぎるのをも知らず。「このお念仏する時の態度について、和上がこう仰しゃった事がありました。これは誰も聞かれんようですがーナ・・・・・。」「念仏する時は下腹に力を入れて姿勢を正して・・・・・」となアー。和上はいつもその人々に応病与薬されたので、ご法席では常に、「行儀じゃないのが行儀―、お念仏申すのが一番の行儀じゃでー。」と自ら安座された事さえありましたがー、私には特にそう仰せられました。それ以来体の具合もようなり、病も漸次駆逐せられましてなアー。」 時に松籟好菓を呼んで、老嫗(ろうおう)の堂に入る茶道、いと慇懃に茶を勧められつつ、「和上様がなアーよう『寺に法がなきゃ悪魔の住まい、在家に法がありや古刹の道場。』 と仰せられました。それになア。」たまたま良寛の書風に及んで、秘蔵の一軸を拝見する。貞心に与えたる和歌なり。「和上が『字や画(え)を見て、その書いた人の人格が見えぬようでは・・・・・』と仰ったが、なかなか字体や画法だけではなアー。」 和上の書体より話は転々して、また和上のご在世を偲ぶ。庵主愛玩の香炉を撫して曰く、「ズット昔、ソラまだ関西線の敷けなんだ頃ですがー、和上の居間で、『水谷さんー松の影さえ見えりゃシメタもんじゃわなアー。』とーこの味数十年も解せませんでしたが、漸く頂けるようになりましてなアー。」「―――。」 何の事やらサッパリ方角すら立たない自分を見かねて、あご突き出して、「ソラそうじゃわなアー松の影の見えるのは月が上がったからじゃはなアー。」 この一言にハタと心の内に膝打ちして思い浮かぶ「松影のくらきは月の光かな」の一句、己が黒暗無双の胸中、たとい一分たりとも知りうるは、慈光はるかにこうむれる故かな。ああ無明、長夜に月の早や既に登れるにと、己が不法を恥じ入りつつ感慨うたた禁ずるを得ず。低頭合掌庵を辞す。
2026.03.27
烏山(からすやま)藩報徳仕法の始り(報徳記より)○天保7年9月4日の事である。円応和尚は二宮尊徳先生のおられる桜町陣屋の前に立っていた。円応和尚は、烏山藩の大久保候の菩提寺であった天性寺の住職であった。博識で知られ、禅僧として胆力があった。烏山藩の領地が荒れ、領民が減り、百姓の疲弊がひどいことを嘆いて、自分の財産を差し出して開墾に励んでいた。ところが天保7年の飢饉は甚だしく領民が飢えに苦むのを見て心を痛めた。ある人から、「芳賀郡物井村は小田原の大久保候の親戚の宇津家の領地である。土地が荒れ、ほとんど亡村となっていたのを、大久保忠真公が二宮金次郎を農民から取り立てこの村の再興を命じられ、以来二十年、事業は大いに成果があがり、この飢饉も前もって知り準備をしたため、かえって平年より富んでいる。この人の力を借りられれば、必ず百姓を救うことができましょう」と聞いた。円応和尚はこのことを聞いて、大変喜んで家老の菅谷に相談したところ、ぜひ和尚が行って、百姓を救うことができればすぐ私に告げてくれと励まされ桜町陣屋に来たのである。円応和尚は先生に面会を請うたが、尊徳先生は許されない。「仏門にはお釈様の説かれた道がある。私が行っているところは廃村を復興し、民を安んじようとすることだ。どうして仏者に会って話す暇があろうか。すぐに立ち去れ」円応和尚は悠然として退かず「私は仏者だが、その志は民を救うことにある。今、烏山の民は飢えに迫られている。これを見るに忍びないで、はるかに先生の高徳を聞いて道を求め教えを請いにきた。しかし、先生は許されない、このまま故郷に帰って、民が飢えに倒れるのを見るに忍びない。こいねがわくは憐れみを垂れよ」これを門人は尊徳先生に告げた。先生は怒られて「かの僧は何を言うか。私には預かっている先務がある。烏山の民の安否はその君主の職分だ。私がどうしてそれに関わろう。しかるに僧の身でありながらここへ押しかけ、面会を強いて私が事業を行う妨げをするとは何事か。」と会われなかった。円応和尚は「私の進退に烏山の民の命がかかっている。先生がもし会うことを許されないなら、私はここを去らず、飢えて民に先立って死のう」と陣屋の門前の芝原に袈裟の衣のままで伏して昼夜動かなかった。翌日になって尊徳先生はこの事を聞いて怒られた。「かの僧は面会を強いて、あまつさえ陣屋の門前で餓死しようとは、比類ない曲者(くせもの)だ。よし私が会ってこれを誡めよう。すぐ連れて参れ!」と大声で命じられた。円応和尚は悠然と起き上がって「どおれ、案内せよ」と先生の前に来た。「坊主、何のためにこの陣屋に来て、私の事業を妨げ、門前に伏して死ぬと言う。どういうことだ。」「ほかではありません。先生の教えをうかがって烏山の飢饉に苦しむ民を助けようとするだけです。」「汝は仏者でありながら、仏の道を知らないのか。」「私は愚かですが、仏門に入って久しい。どうして仏の道を知らないことがありましょう。」「仏の道に荒れた田を開き、民を救い、また民の飢えるのを救おうとする道があるか。」「仏の本意は衆生を救うことにあります。民を憐れみ、飢えを免れようと欲することがどうして仏の願いでないことがありましょうか。」「汝がどうして仏の道を知っているといえよう。事おのおの職分があって互いに奪わず、領主は領主の道があり、臣下は臣下の道があり、僧は僧の道がある。領主でありながら、臣下の道を行えば、人君の道は廃し、国家を保つことはできない。臣として君主の行いを行うならば上を侵し暴賊の行いとなって、国の乱れはこれより大きいものはない。また領主として仏者の行いをすれば、どのようにして国民を治めることができよう。仏者として国家の君主の道を行うのをどうして独り道ということができよう。今、汝は僧でありながら国家の君主の道を奪ってこれを行おうとするか。いわゆる民を治め、荒れ果てた土地を開墾し、百姓の飢えや渇きを救うのは君主の職ではないのか。君主がこの職を去ってほかに何の職があろう。それであるのに烏山の君臣はこれを憂う心がなく、坐して国民が飢え渇くのを見ようとしている。国民が飢え渇くのを救うことはもとより汝があずかるべきことではない。あずかるべきでないことをみずからの任務とし、他国まで来て、私に談じようとする。どうして道を失っているということではないか。そもそも汝の道とするところは、災いがまだ来ないうちに、天地に祈り仏に誓い国民の平穏を祈り、五穀豊かで上下が安泰であることを願い、このように災いの憂いを免れさせ、国土の平安を祈念することこそ、仏者の先務であり、衆生済度の大なるものといえよう。汝が勤め行うところを怠り、この飢饉の年に当たって飢えた民を救おうとして力が足りず、私のところに道を求めようとする。これは仏道ではなく、汝の意志を押し立てて名誉を求めることに当たる。その志は不善から出たわけではないが、その行いは道を大きく失っている。汝が誠に民を飢えを嘆くならばどうして君主に告げ救わないか。告げても君主が愚かで救うことができなければ、これも運命である。どうすることもできない。せめて仏に祈って私の門前で飢えて死のうという行いを汝の寺で行えば汝の職は遂げたといえよう。このように行うべき道を廃して、汝の任務でないことを計画して仏の意にかなっていると言う。どうしてこれを仏の道を知っているといえよう。なお言うべき道があればすぐに答えよ」と天地に響くような大きな声で説いて示された。円応和尚は愕然(がくぜん)として自らの非を悟り、頭をあげることができなかった。尊徳先生は、「汝言うことがなければすぐに帰れ!私は復興の仕事に暇がない」と坐を立たれた。円応和尚は先生の影を三拝して大いに感激し、烏山に帰った。これが烏山に報徳仕法が行われる発端であった。☆この円応という禅僧はとても魅力的な人物である。飢饉で苦しむ民衆をほおっておけず、桜町で大きな復興の成果をあげていると聞いて僧の身でありながら救済してくれるように二宮尊徳先生に依頼にいく。尊徳先生は民の生活を安らかにさせるのは領主の行いであり、その藩の家老や役人のおこなうべきことではないか、その領主や家老たちが安穏としていて飢えに苦しむ民を救おうともしない。これでどうして民が救いえようかと厳しく諌める。しかもあなたは僧侶であり、僧侶の仕事は災いがまだ来ないうちに、天地に祈り仏に誓い国民の平穏を祈り、五穀豊かで上下が安泰であることを願い、このように災いの憂いを免れさせ、国土の平安を祈念することであると。しかし、尊徳先生は円応のこの民を飢餓から救いたいという願いの誠にうたれて、後に烏山仕法を始められるのである。烏山藩は、現在の栃木県那須郡烏山町に藩主の居城をおく譜代小藩であった。神奈川県厚木などに飛び地を持っていた。そして菅谷(すがや)八郎右衛門(はちろうえもん)という人物が烏山藩の家老であった。円応和尚は、尊徳先生の説諭に自らの非を悟って、また尊徳先生の人となりに感動して烏山に帰tって、家老の菅谷に「今の世にこのような偉大な人物がいようとは思いませんでした」とその次第を告げた。菅谷は、「ああ、二宮はなんという賢人か」と感嘆し、家臣をして桜町に遣って、近いうちに伺いたいと言わせた。二宮先生は他国の臣に面会する暇はないと断られたが、強いて面会した。二宮先生は「礼経に『国に3年の貯えがない国は国ではない』といいます。たかが1年の飢饉で国民を飢渇に陥らせるのは、君主も家老もその任務を果たしていないからです」と厳しくたしなめられた。菅谷はその言葉に感激して、「二宮は本当に賢人である。1年の飢饉で民を飢えさせるのは君臣ともに道を失っていたからだ。今の世にこのように君臣が道を失っていると公然と教える英傑がいようか。二宮の言は率直でその理は明らかである。この人に道を問わないで誰に問おう」そこで、菅谷はその主君に面会して言った。「今年は飢饉で、領内の民は飢渇が迫っております。臣は、百方道を求めましたが、金銀融通の道も絶え、どうすることもできません。しかるに桜町の二宮という者は、小田原候が民間から挙げられて、かの地の廃亡を再興することを任じられました。10年で復興し、それだけでなく飢饉の来ることを予知してその備えをし、領内の民を救い、むしろ平年より豊かになっております。この人は不凡の人です。君が懇切の直書を二宮に賜い、臣がかの地に赴いて、君の民を恵む仁心のかたじけなさを説けば、二宮は感動してきっと道を教えましょう。事の成否は君の心にあります。」烏山候は感動して筆を執って直書を書き菅谷に渡した。菅谷は、すぐに桜町に至って君命を述べ、直書を渡して救済の道を請うた。先生はため息して言われた。「烏山の民は、もとより私があずかりしるところではない。今、飢渇に及んだというのも、君臣ともにその道を失ったためである。しかし、君臣がその非を知って、その道を私に求めてきた。今、烏山の民の命の存亡は私一人の言葉で決する。ああ、いかにしよう。よし、これを救おう。特に烏山候は小田原候の親族でもある。これを救う縁がない訳でもない。」ここで二宮先生は菅谷に面会し、治乱盛衰の根元、禍福吉凶存亡の起こるところ、衰廃興復の道、富国安民の大道を諭された。菅谷はますます驚きますます感動した。二宮先生は烏山候から小田原候に依頼するよう順を踏むことを教えた。「しかし、この順路を踏むのに日数がかかれば、民が飢えてしまう。まずこれをもって切迫する救助に与えよ」と200両を菅谷に与えた。菅谷はその寛大な処置に三拝して烏山に帰った。 これが烏山藩における仕法の始まりであった。天性寺の境内に11棟の救い小屋を建てて、領内の飢えた民を集め、桜町から多くの穀物を運び込んで粥を作ってこれを配った。このお蔭で烏山藩の数千人に及ぶ飢民に一人の餓死者もなかったのである。先生50歳のときである。幸田露伴常陸(ひたち)の国(茨城県)真壁郡(まかべぐん)青木村というところは、その頃次第次第に衰えて、どうしようもなくなっていたが、二宮先生が桜町に三年ほどおられて荒れ果てた三ケ村(さんかそん)を復興された話を聞いて、青木村の地頭や村長などが先生の復興の仕法(報徳仕法)をしきりに尋ねるので、先生はよく教え、よく導いて復興の方策を授けて、ついに青木村を繁昌な所になされた。 また、ここに野州(やしゅう・栃木県)烏山(からすやま)の大久保侯の領地は、風気(ふうき)が悪く、領民が怠惰なので、次第に衰退して戸数も減り、荒れ地だけが増えて、上も下も困難な時に、烏山侯の菩提寺の和尚に円応という者がいた。性質は剛(つよ)く学問にも明るかった。仏の道も結局は苦を抜いて楽を与える以外にないと悟って、いたずらに経を読み香をひねるだけでなく、弱い人を憐れむ心の盛んなところから、農家が日に日に衰微して行くのを見かね、自ら得た浄財を使って他所からの流民を引き入れ、領内の農民を諭し勧め、教え励まして、多くの荒れ地を開いて田や畑にして、国のため民のためにと、心を尽くしてはかったが、天保七年になって飢饉が起きて、農民等の難儀は尋常では無い。円応は頑張って飢饉から民を救おうとするが、到底力が及ばない。せっかくここまで努力してきたことも水の泡と消え、百日の努力も一時に廃(すた)れるありさまとなり、大いに憂い悲しんでいると、芳賀郡(はがのこおり)桜町の衰退を二宮金次郎という人傑が復興に着手して十年、大いに復興したとの噂を聞いて、家老の菅谷という者と相談して「一緒に行こう」というと、菅谷もかねてから先生の噂を聞いて知っていたので、「噂の通りであれば二宮先生は当世の俊傑である。現在、烏山領では領民を導き育てる方策さえ立てることができない。和尚が行って、その方策を得て帰り、教えてもらいたい」という。それで円応は一人桜町に来て、先生に面会を申し込んだが、先生は人を介して「仏教者には仏教者のやり方があるハズ、私は今はただ数村を復興し村人を救うのに忙しい、僧侶に会って話などする暇はない」と断られた。円応はドッシリ落ち着いて引き下がらず、「私は僧侶ですが、その気持ちは民を憐れみ救おうとするだけです、現在烏山の領民は飢餓に悩まされていて見ていることができません。このため先生の教えを願って救おうとするのに、先生に面会も許されないでこのまま無駄には帰れない」それを取次ぎの者が先生に伝えると、「烏山の領民の安否はその領主の責任である」円応はこれを聞いて陣屋の門前の芝原の上にドッシリと坐って、「私の進退は烏山領民の死活にかかわっている、先生に会って方策を聞くことができなければ、今は何をしたら良いのか、私は先生に会わずに帰ることはできない、ここは少したとも動かない、サア飢え死にして民の死に先立とう」袈裟衣(けさころも)は露に汚れ、飢えは次第に迫るがひるまずに、一心に民を救おうとカラスがねぐらへ帰っても帰らず、日が暮れ夜が更けても石造りの羅漢(らかん)のように坐り込んでいる。翌日になってもなお帰らないので、見る人は驚いて、この様子を先生に告げる。先生は怒って、「けしからん坊主だ、ここに連れて来い」と命じる。円応はやがて先生の前に連れて来られた。 先生はその時大声を張り上げて堂々と説かれて、「お前は間違っている。人にはそれぞれ職分がある。領主には領主の務め、臣下には臣下の務めがあり、僧には僧の務めがある。領主の務めを僧が行うなどすれば国が乱れ民の不安が増すのも当然である。お前は僧の身でむやみに領主の職分を奪ってはいけない。荒れ地を開き領民を救うのは領主の職分である。説教や祈祷などしてこそ僧のすることであろう、お前の志は不善ではないが行おうとすることが間違っている。お前が領民の飢饉を悲しむのであれば何で国の領主に告げないのか、我が陣屋の門前で死なないで、何でお前の寺の中でお前の職分を行って死なないのか、お前がお前の道を誤り、領主が領主の道を間違えるようでは、領民の苦しみはいつになったら解消されよう、早く帰ってお前はお前の道を行え、早く行け」と、天地にとどろく大声で理路明白に示される。さすが剛直な円応も一言も無く、頭を垂れ黙然としていたが、座を立たれた先生の影に拝礼して、感激して自分の過失を謝罪して国へ帰った。 円応が帰って詳しく状況を報告すると、菅谷はますます感心し、遂に殿様に申し上げ、殿様から書状を頂いて直ちに桜町へ行き、主君の命令を申し述べ、書状を出してしきりに領民を救うことを求めたが、先生は歎息して云われる、「烏山侯が仁心深く領民を救われたいと思われても、私の使命ではないので仕様が無い。しかし私の主君の小田原侯の縁者であられるのであれば、烏山侯から私の主君に申し込まれるべきです。私からも主君に言上しましょう。その上で烏山の領民を救うべしと私の主君から命じられれば、その時は私も尽力いたします。しかしその手順で行うには数日かかるでしょう、その間の急場を救うにはこれをお使い下さい」と二百両を菅谷に与えると、領国が逼迫(ひっぱく)し、一金の余裕もない飢饉の時に、ただ一回の面会で直ちに二百両を与えられて、菅谷はぼう然と夢のような思いで帰った。 天保七年は諸国で米が実らず、士も民も大いに苦しんで、或いは草の根を食い、あるいは木の皮を食うほどになって、飢えて道端に倒れ死ぬ者もあったほどで、烏山の領内でも民は飢饉に苦しみ、ついには一揆を起こして町の富家を脅かし動揺が広がる。城中の群臣等はこれを聞いて、「モシ彼等が城内に乱入などしたら、仕方ない大砲を放って追い払おう」などと話し合い騒ぎ立ったが、小田原侯から「烏山は親族であるので救える方策があるなら救え」と二宮先生に命令があったので、そこで先生は二千両余りの米穀を桜町から運ばせたので、烏山までの十里の間を人馬が次々と断え間なくつづき、これを見て驚かない者は無かった。このようにして天性寺(てんしょうじ)の境内に十一棟の小屋を建て領内の飢民に粥を焚(た)いて与えると、数千の人民は恵みの露に枯れた喉を癒して、命は助かり騒動は止んだ。円応和尚は大いに喜び、日も夜も全く夢中で民のために心を尽くしたが、これからは烏山の君臣は深く二宮先生を尊んで、烏山侯はもちろん家臣一同一致して、「なにとぞ烏山の疲弊を救って、長く安泰にして頂きたい」とひたすら頼まれるので、先生はそこで節倹勤勉の方策を説明されて復興の仕法(報徳仕法)を授けられたが、果たして二年ほどで荒れ地が開かれること二百二十四町、生産は二千俵にも上がった。これは皆先生の寛仁至誠の徳風が烏山の君臣上下を薫染(くんせん)されたお陰である。 円応は深く先生の徳を仰ぎ行いに服し、先生の仕法より他に安民の道はないと信じて、菅谷と心を合わせ力を尽くした。或る時、円応が自ら川に入って網を張って鮎を獲ったところ、深い心が在ってのこととは知らない人々は、「殺生は仏が戒められるところなのに、僧侶の身で魚を獲るとは、有ってはならないこと」と批判したが、円応は反省もしないで、「私は民を救われた先生に、この鮎を供養するのだ」といって、獲った鮎を下僕に担がせて桜町へ行くと、道行く人はこれを見て、「おかしな和尚だ」と罵しる者もいたが、知らんふりをして先生のところに着いて先生に鮎を差し上げると、先生はこれを喜んで食(しょく)された。こうして円応は一二日を桜町で過ごしていて、突然お暇乞いをして帰ろうとすると先生は、「和尚、無駄にここ迄来たのではなかろう、何一ツ聞かないで帰るとはどうしたことか」と問われると、円応は改まって、「初め来た時は考えの善し悪しを伺おうとして来ましたが、二日ほど先生の御傍で過ごすうちにスッカリ分かりましたので、今は別にお尋ねして先生を煩わせる必要は無くなりました。烏山の処置も既に決まりました。」と云って帰れば、先生も感歎されて、「あの僧のような人は中々いない」と褒められた。円応は帰ってからもしばしば鮎を獲って、残らず売って銭に換え、安民の用に使ったという。 円応はその後菅谷と共に相州(そうしゅう・神奈川県)厚木領に先生の仕法を教えようとして行ったが、二人共流行病に罹って仕舞い、帰ってから菅谷は助かったが円応は世を去った。先生はこれを聞いて深く円応の死を悲しみ、「菅谷一人となっては、折角復興に向かっている烏山もこれからどうなることであろう」と愁い歎かれたが、果たしてその後菅谷は讒言のために追い落とされて、良い仕法は廃止され、負債は生じ人気(じんき)は衰え税入も減少するようになった。しかし数年後烏山侯は自ら悔い改められて、先生の勧めに随(したが)って菅谷を召し返し、再び復興を計られたが、残念なことに弘化の頃に菅谷が亡くなり、遂に烏山藩の再興の道は途絶えた
2026.03.27
26「伊藤七郎平翁伝」鷲山恭平撰 その37◎勤勉貯蓄に係る講話(承前) 遠江 伊藤七郎平〔「報徳」第28号13~15ページ〕その5天皇陛下にありましても、我が国の田畑山林作物のよく出来、豊かに取れ、物産が多く産出して余裕あるように、智識も開けて愚者のないように、陸海軍の備えも拡張して西洋人が本地に雑居していても頓着しないで恥もをかかないようにしたいと思し召すことである。父母祖先が思うところも、また子々孫々家内繁栄して富有ならしめようというに外ならないことであります。このような訳ですから、そのご恩を報いるに、そのお好みなさるところに応じてその職をつとめるがわれわれの義務であります。二宮先生が常にいわれました興国安民の法もこれに外ならない・すなわち国を開くとは原野を開拓して水利を導いて民屋を新築するなど、これが興国の基であります。衰国を復興する道は、荒蕪を開いて道路を修理し、家を施し、貧民を撫育するなどが肝要であります。またわが遠州のような貧国を富ますには、やせ地を改良して物産を繁殖し惰農を誡め、農業につとめることを奨励し、贅沢を押え、倹約を務め、負債を償却し、貯蓄を行うなどの義を専ら務めるところであります。すべて人々にはまた分限というものがありまして、一様には参らばい。したがってその仕方を違いますとその分に応じてすればよいのです。結局、各自その職業の勉強を行ない、研究して知識を開いて推譲を行ない、家内がなかむつまじく、貧富の者が和合して争訟のないように、風俗を正して、詐欺や偽りが止み、あるいは人と約束を違えるなどがないようにするが自分の本分で、遠州報徳社の取る所は、つまりこのような道を勉めるものであります。諸君にお勧めするのもここでありまして、皆様その分に応じて、かの神徳皇徳に報恩するため、その業務を勉強して余力を以てゾウリなり縄なりをこしらえ、日に2厘3厘を積んで、また節倹を行って、分に応じて有余を蓄積し、このうちを以て田畑を開墾し、山林を育てて、以て非常の備えとし、子孫に譲り、あるいは貧民を救助しまたは公共の用に寄附をしたりするのです。これを本社では分度法と申しますが、このようにすれば自然と富有となることでありますから、なにとぞ一人より二人、二人より三人、四人と団合し結社をして、協心その職に勉めるようににしたいものであります。そうすればすなわち一村は富んで、一村が富めば一郡が富み、ひいては一国、わが皇国の富となることであります。たとえ村長が数千円の貯えがあっても一村の富みといふことは出来ない。また郡長様が数万円の財産家だといって一郡の栄えだということは出来ない。いわゆる自分の富みですから、このような事は衆人一致合同して、一村一郡延いては皇国の富みというようにしたいことであります。さきほど述べました三徳に報いるには、この方法を以て国を富ますというのが、報徳の道であります。もし報徳の道を思わないで勝手気ままに私欲に迷ったり、職を怠って贅沢に流れたなれば、その身に災害を及ぼすることは勿論、一家子孫の滅亡ともなる訳ですから、実に自ら戒まねばならない。務めるべきは報徳の良道であります。報徳は実業以て勉めるのでありまして、すなわち日々に働いて精をいだし、勤倹して以て財を積んで天地人の恩徳を忘れないことを、誠心の証として差出しまして、すなわち神仏へ供する賽銭のようなものであります。これを本社では基本財産とするのであります。我が報徳社も現在社員は州立社員二百三十八名各地村社員四千六百七十三名で町村社数は百八十一社あります。そのうちには僅かに七八名位で一社に成ているものもあれば、あるいは数十名の結社もありますが、まずこの社に入っている人々は、あげてという訳にも参りませんが、概して活計にくるしむということもなく、公租の延滞することもなく、多くは多少の貯蓄もしていることであります。京都府は町村に農会があり、また郡に府に秩序立っていて誠に農業に結構なることでありますから、どうかいま述べましたこのような方法を立てて、これまた農会のように結社あらんことを希望いたします。◎勤勉貯蓄に係る講話(承前) 遠江 伊藤七郎平〔「報徳」第28号13~15ページ〕天皇陛下にありましても我国の田畑山林作物の能よく出来豊かに取れ物産の多分産出して余裕ある様、智識も開けて愚者のない様、陸海軍の備へも拡張し西洋人が本地に雑居しても頓着せず耻はじをかかぬ様にしたいと思召すことである。父母祖先が思ふ処も亦子々孫々家内繁栄して富有ならしめんと云ふに外ならざることであります。斯様かやうの訳でありますから、其の御恩を報ゆるに其のお好みなさる処に応じて其の職を力つとむるが吾々の義務であります。先生が常に云はれました興国安民の法も之れに外ならざることで則ち国を開くとは原野を開拓し水利を導き民屋を新築する等之を興国の基であります。衰国を復興するの道は、荒蕪を開き道路を修理し施家しかを起こし貧民を撫育する杯などが肝要であります。又我が遠州の如き貧国を富とますにはせ瘠地せきちを改良し物産を繁殖し惰農を誡め、力農を奨励し、奢侈しゃしょくを押へ倹約を務め負債を償却し貯蓄を行ふ等の義を専ら務むる処であります。凡すべて人々には又分限と云ふものがありまして一様には参らぬ。従つて其その仕方しはうを違たがひますけれど其その分ぶんに応じてすればよいのです。畢竟ひつきやうする処、各自其その職業に勉強をなし道を研究して智識を開き推譲を行なひ家内睦間敷むつましく貧富の者和合して争訟そせうのなき様、風俗矯正し、詐偽止み、或は人と約束を違ふる等なき様にするが己れの本分で、遠州報徳社の取る所つまり此の如き道を勉むるのであります。諸君にお勧め申すも茲ここでありまして皆様其その分ぶんに応じて彼の神徳皇徳に報恩する為め其その業務を勉強し余力を以て草靴ざうりなり縄なりを拵こしらへ、日に二厘三厘を積み、又節倹を行ひ分に応じて有余を蓄積し此内を以て田畑を開墾し山林を育てて以て非常の備とし子孫に譲り、或は貧民を救助し又は公共の用に寄附をしたりするのです。之れを本社では分度法と申しますが此の如くすれば自然富有ふいうとなることでありますから何卒なにとぞ一人より二人、二人より三人四人と団合だんかふし結社をして協心其職に勉むる様にしたきものであります。左すれば即ち一村の富みで一村の富みは一郡の富み延ひて一国我皇国の富となることであります。仮たと令ひ村長が数千円の貯へある方だとて一村の富みだといふことは出来ぬ。又郡長様が数万円の財産家だとて一郡の栄へだと云ふことは出来ぬ。所謂いわゆる己人の富みですから此の如き事は衆人一致合同して一村一郡延ひて皇国の富みと云ふ様やうにしたきことであります。先程さきほど述べました三徳に報ゆるには此の方法を以て国を富ますと云ふが報徳の道であります。若し報徳の道を思はずして勝手気侭に私欲に迷ふたり職に怠り奢侈に流れたなれば其身に災害を及ぼするは勿論、一家子孫の滅亡ともなる訳で実に自ら戒ねばならぬ。務むべきは報徳の良道であります。報徳は実業以て勉つとむるのでありまして、即ち日々働き精を出いだし勤倹して以て財を積みて天地人の恩徳を忘却せざる誠心の証として差出さしだしまして則ち神仏へ供する賽銭の如き者であります。之れを本社では基本財産とするのであります。我が報徳社も現在社員は州立社員二百三十八名各地村社員四千六百七十三名で町村社数は百八十一社あります。其その内うちには僅かに七八名位で一社に成て居るものもあれば、或は数十名の結社もありますが、先づ此社に這入はいつて居る人々は挙てと云ふ訳にも参りませんが、概して活計に困くるしむと云ふこともなく公租の延滞することもなく、多くは多少の貯蓄もして居ることであります。御本府は町村に農会あり又郡に府に秩序立ち誠に農業に結構なることでありますから、どうか今いま述ました此の如き方法を立て之れ又農会立の如く結社あらんことを希望致します。
2026.03.27
「永平家訓抄話」澤木興道 1-7 そこでその道理を「兄弟見ずや、石頭の道うことを」と、これから以下を起こすのである。石頭大師の『参同契』の文句をあげるために兄弟見ずやと。石頭大師は何とおっしゃったか。『参同契』というのは、石頭大師の御一代の代表的著作である。このほかに石頭大師には『草菴の歌』というのがある。よく石頭大師の結語は引用されるが、わずかにこの二つしか残っていないのである。石頭草菴の歌の中に「世人の住処にわれ住せず、世人の愛処をわれ愛せず」というような言葉がある。 この歌は昔からわたしの好きな歌だ。石頭大師はもと高要の人、高要とはシナの広東の西方二十里位のところで、今の肇慶である。香港から水路によって西江を遡るとたいへん便利である。六祖大師の郷里は、そこから西南十里ぐらいであまり遠くない。それで六祖大師の弟子になったのであるが、この石頭大師という人は、どんな身分であったかもわからんけれども、シナのような革命国のことじゃから、いろいろ変遷があって、かなりな人の末じゃろうということである。石頭大師を孕(はら)んだときにはお母さんの性格が変ったという。こんなことは、古い仏教の伝説ではよくあることで、たとえば舎利弗尊者がお腹に入ったらお母さんがむやみに聡明になって、その兄さんがどうしても議論に勝てなかったという妙なこともある。ここでもそれと同じで、お母さんは石頭大師を孕(はら)んでいる間は自然に精進潔斎であった。大師は子供のときには。お守役をちっとも困らすようなことがなかったというから、非常におとなしい子供だったに違いない。それからかなりになってからは、何でも物はわかっておるというような顔をして、同じ年頃の子供の相手にならなかったという。わたしの幼いときもそうだった。わたしは子供と遊んだことがなかった。私は子供のくせに、だいたい、子供というものはろくでないことをやるもんだと思うておったからである。(「永平家訓抄話」p.229-231)
2026.03.27
191二宮翁夜話残篇【14】ある人が言った。私は借金も千円で、貸している金も千円です、どのようにすればよいのでしょうか。尊徳先生はおっしゃった。それは大変面白い事だ。あなたが借金している相手に向かって言う心で貸した人に言い、あなたが貸した相手に向っていう心で借りた相手に向つて言う心で交渉するのがよかろう。そうすれば両全といえよう。二宮翁夜話残篇【14】或(あるひと)曰く、某(それがし)は借(かり)も千円なり、貸(かし)も千円なり、如何(いかが)為(な)して然るべきや。翁(をう)曰く、是(こ)れ誠に面白き事なり。汝(なんぢ)が借り方に向つて言ふ心を以(もつ)て貸し方にいひ、汝(なんぢ)が貸し方に向つて言ふ心を以て借り方に向つて談判(だんぱん)すべし、然(しか)せば両全(りやうぜん)なるべし。☆これは一見わかりにくい。「あなたが借金している相手に向かって言う心で貸した人に言い、あなたが貸した相手に向っていう心で借りた相手に向つて言う心で交渉するのがよかろう。」 私が金を借りている相手に向かって言う心で金を貸した相手にものを言う。 「あなたが貸してくれたお蔭で助かりました」とか「こんな事情がありますので返済はもう少し待っていただけませんでしょうか」とか感謝する心、お願いする心で、自分が金を貸した相手にものを言う。「そうですか、お役にたててよかったです、私も嬉しいです」とか「それはお困りでしょう、わかりました、そういう事情ならやむをえません、お待ちいたしまよう」と丁寧な態度であたるということであろうか。これは慈悲の心があって誠によろしい態度である。「あなたが貸した相手に向っていう心で借りた相手に向つて言う心で交渉するのがよかろう。」というのが少々わかりにくい。自分が金を貸した相手に言うように金を借りた相手に言う。「期限ですのできちんとお返し願いますか」と「返済の期限が過ぎていますからすぐにお返しください」というような気持ちで「期限ですからきちんとお返しします」とか「返済の期限が過ぎたのにお待ちいただいて有難うございました。その分の利子を上乗せしてお返しいたします」と自分に対して厳しい甘えのない気持ちで金を貸してくれた人に応対するということを言うのであろうか。
2026.03.27
クロムヱル伝[第1冊]上巻標題目次序言著作の事情及び精神時勢及び生涯序説第一章 衒学者の愚第二章 オリバーの伝記第三章 クロムヱルの一族第四章 オリバーの経歴第五章 オリバーの書翰及び演説第一編 第一内乱以前の記(一) 書翰第一(二) 書翰第二(三) 二年間(四) 書翰第三(五) 長期議会第二編 第一内乱の記(一) 前記(二) 書翰第四(三) 書翰第五(四) ローヱストフ(五) 書翰第六-第八(六) 書翰第九-第十一(七) 書翰第十二-第十五(八) 書翰第十六-第十八(九) 井ンスピーの戦(一〇) 書翰第十九、第二十(一一) 書翰第廿一(マーストン沼野)(一二) 書翰第廿二、第廿三(一三) 三回の演説(一四) 書翰第廿四(一五) 書翰第廿五-第廿七(一六) 書翰第廿八(一七) 急信(一八) 書翰第廿九(ネースピー)(一九) 書翰第三十(クラブ党)(二〇) 書翰第卅一(ブリストルの襲撃)(二一) 書翰第卅二-第卅五第三編 第二内乱以前の記(一) 書翰第卅六-第四十二(二) 書翰第四十三、第四十四(三) 軍隊の公書(四) 書翰第四十五-第五十八(五) 祈祷会第四編 第二内乱の記(一) 書翰第五十九-第六十二(二) 書翰第六十三-第六十六(ブレストンの會戰)(三) 書翰第六十七-第七十九(四) 書翰第八十-第八十六(五) 死刑執行礼状序言一、本書は英国文豪、カーライルが心血をそそいで成した『クロムエルの書簡及び演説』の翻訳である。もしこの不完全な訳書によって、カーライル先生が見た偉人クロムエルの精神の一端だけでも伝えることができれば、訳者の望みは尽きたのである。一、本書は原書の完訳ではない。厖大な大冊を一々ていねいに逐字翻訳にすることは訳者の精力のたえないところである。そのため訳者は、専ら原文の精神のあるところに着目してこれを伝えることに骨を折り、肝要でない部分は思い切って省略した。したがってある箇所は極めてていねいに逐字的に訳し、ある箇所はその大意を訳し、ある箇所は全部省くということになったのである。しかし、原著者の精神のあるところは余さず伝えたつもりである。ただ筆力が原意に添わない点は慚愧のほかない。一、巻頭に載せたところの「著作の事情」、「時勢及び生涯」、及び巻末に付したところの「クロムエル年譜」は訳者の作ったものである。これは皆本文の意味を得ることを容易にしようとのささやかな思いによるものである。特に「時勢及び生涯」の熟読は訳者が希望してやまないところである。本書を読む人の17世紀イギリス史の知識を備えることは訳者の切望するところである。一、本書を読む人が良好なる英国地図を友とされたならば、興味は数倍を増すことであろう。一、終わりに臨んで訳者は、日本におけるカーライルの弟子である恩師内村鑑三先生が、本訳書の成るについて与えられた指導と奨励、及びその文を巻頭に転載することを許していただいた厚意を心から感謝する。 1913年1月 訳者(畔上賢造)識☆カーライルという英国人は今はほとんどその名前を聞くことがない。 またその衣裳哲学もその意味がほとんど不明となっている。 ところが、明治後半に活躍した内村鑑三、新渡戸稲造、留岡幸助といったキリスト教系知識人に深甚なる影響をもたらしているようである。 鈴木藤三郎がサッカリン事件で日本醤油醸造会社の破綻の責任をとって引き籠っているとき、留岡氏は このカーライルの「クロムウェル伝」を持ち出して、将来必ず君の名誉を挽回してくれる人が出てくると励ましたのであった。 「クロムウェル伝」とはいかなるものか。訳文の雰囲気を壊さぬ程度に現代文に引きなおして少し紹介してみよう。
2026.03.26
念共讃裡(ねぐさり)抜粋序第一篇 求法1.駅長をやめて来い2.シャンとせぬ心3.毛一筋の望み4.後生一大事とは5.楽屋住まい6.浄玻璃鏡7.ただ念仏して8.火中の白蓮9 信心と念仏10-1 ご法席の和上 1-110-2 ご法席の和上 1-2第二編 安心1 寒が明いた 2 六種震動の日3 一等国民4 譲りに譲りて5 栖神浄域 6 ちょっとの事で 澄み切った鳥羽港の満潮を見下ろして赤崎念仏堂はさながら、七宝の宝池(ほうち)に浮かぶ瑠璃(るり)の楼閣であります。 和上は朗らかに、「この間この念仏堂をー仲さんの息子さんが来ていてくれるので、大掃除をしてもらいましてなア。」暫くかすかにお念仏されながら、古い思い出をたどられてはボツボツと、「畳というものは徳田というには、この徳田というのは畳屋で、ソラ正直な畳屋デシタ・・・・・。その徳田が問屋へ畳の表や緒(を)を買いに行くと主人が、「是は徳田が来たら売ってやれ」というて、ワザワザよりによった、良い物ばかりを残しておいてやるというー正直者!。そこで畳というものは両方から藁を合わしてククッタものじゃから、立てたり拝ましたりするほどツライ事はない。ベタッと横に置くのが一番―。」と、白いお手を何度も何度も、下にベタベタと丁寧につけられて、「とー徳田がいうてくれたことがあったので、仲さんにその話をした事でしたが・・・・・。南無阿弥陀仏。」 話はまたいつの間にやら傘屋の話になって行く。この傘屋の話ほど何度聞いたお話はないが、不思議にも何度聞いても有難い。「傘でもそうでー。私の兄が傘屋をしていたので、平屋でよう傘を張ったものです。 それで明覚寺を傘屋というたものでー。傘を張ってよう兄貴に叱られたものじゃ。骨折って叱られるーというてなア・・・・・。一つの死骸を皆してシャブルのじゃから、トテモ寺だけではやってゆけませんー。」 その残念なー驚惶なお口ぶりー。身の毛もいよ立って今さらながらホンニ寺院生活の怖ろしさに打ち驚きました。七日(なぬか)七日から三年七年―五十年と骨の髄までシャブリ尽す苛酷惨慄の情、身に粟粒をおぼえました。「お寺の者は皆顔色が悪い。胃じゃ腸じゃというて・・・・・。ソラそのはずですわい。死人バッカリ食らっているのじゃものー。私はこんな生き生きとピンピンしたのを食っているので顔色でよろしいはなアー。」と、参詣の一同を指さされつつ、大口開いて笑われるように、惨憺酸鼻(さんぴ)穴へでも逃げ込みたいくらいでありました。そしてこのご一言で真に今の宗教家を語り尽くされたように頂けました。「傘屋の兄貴はソレハソレハ貧乏で、張った傘は皆質屋へ入れてしまうという仕末。ソレデモ学生が傘を買いに来て、アノ蛇の目をーというと、お前達はこれで結構!と番傘を出す。否、あれをー。否、これで結構じゃ。買うのにコチラの勝手じゃないか。何でもかでも学生ならこれで結構、俺も若い時そういうふうじゃったから、今コンナニ貧乏しておるんじゃーと喧嘩―。それで傘の事はよう知っておるで、傘が日に干してあるのを見ると、気が気じゃない。蔭に干すならよいが日向なら水気が取れたら直ぐたたむ事じゃ。ことにズコを下に、コウ置く人がありますが、あれは傘にしては一番つらい。私はソンナのを見るとハラハラするー。」と念仏者の日常生活。微細な点にまでご注意あり。仏物として頂かれながら気づかぬ所までくわしく説明され、「ソコデーえろう話が横道へはいったが、畳を上げたら一面に白蟻がわいておる。どこを見ても一面の白蟻。ソコで誰かに聞いた話に、虫には灰が良いとの事を思い出して、キクかキカヌか分からんが一つやってみましょうと、畳の下へズツート灰を撒いてそのまま、ごゆっくりお休み!と畳をソット敷いて置きました所どうです。この間見ればスッカリ白蟻が逃げてしまうております。 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。でー方法というものは妙なもので、アンマリやっても埒があかず、ちょっとの事で用が足りるー。」 その最後のお言葉がいかにも、すべてを雄弁に力強く物語られたようでした。 ソレ南無阿弥陀仏ト申ス文字ハソノ数ワヅカニ六字ナレバ、サノミ功能ノアルベキトモ覚エザルニ、コノ六字ノ名号ノ中ニハ無上甚深ノ功徳利益ノ広大ナルコト、更ニソノ極(きわま)リナキモノナリの御文(ごもん)がいかにも胸の中に答えるようであります。
2026.03.26
26「伊藤七郎平翁伝」鷲山恭平撰 その36◎勤勉貯蓄に係る講話 遠江 伊藤七郎平 その4 これまで述べました恩をわれわれが受けて、その恩を知らないものは禽獣にも劣ったもので、たとえ禽獣であっても自分の内に養われているものであれば、主人が外から帰るとさも嬉しそーな表情を顕わしてあたかも迎えるような風がありますが、それが万物の霊たる人の恩を報いることが少いのは、実に禽獣にも恥じたわけですから、何でもこの天地人の至高なところの三つの恩徳は忘れることなく、その報いをしなければならないことであります。これを三才報徳と申しまして二宮先生の歌に 天地(あめつち)の神と皇との恵みにて 世を安くふる徳に報へやといわれましたが、これは報徳の御歌で、天地神明の御恩というものはいかばかりか量られないことであるから、十分これに報謝しなければならないことであります。また 天皇陛下の恩、政府の恩、祖先父母の恩、農工商人々相互の恩、これらはみなその徳に報ずるようにしなければならない。さてこの恩を報いるにはどのようにしてよろしいでありましようか。ただ終日、三拝九拝してありがたくございますと合掌したばかりで、天地の神がこれをうけられたということは、むかしから聞かない。また餅を奉り神酒を供して食したもうたということを聞きません。ある人が二宮先生のうちへ行ゆきまして、どうのようにすればこれらの徳に報いるのによろしいでしょうかと問いましたところが、先生が答えていわれる、われわれお互いが人に謝礼するのと同じ事だ。物を貰えばそのお返しをする。金を借りれば利子を添えて返済する。買物をすればその代金を払う。日雇いには賃金を与え、車に乗ればその労力に換える賃金を出すのと同じことで、つまり向うの人の好む所に応じてその礼をなす。もし人から物を貰って返しをするときに、向うの人が餅がすきであれば餅、酒がすきであれば酒、そばが好きであればそばを贈るのが、徳に報いるに足る事で決して天地人に礼をするにも、人々がおいがひにするのも異なるところはないといわれましたそうです。実にその通りで、神は決して三拝九拝するを好まれる訳はない。やはり国の不毛のところは開拓して田畑とし、険阻の場所は平坦にし、なるべくこの国をして富栄へだんだん開けて行くようにしたいというのが望みのことであります。之れ迄述べました恩を吾々が受けて其恩を知らぬものは禽獣きんじうにも劣たもので、仮たと令ひ禽獣きんじうと雖も自分の内に養はれて居るものなれば、主人が外より帰ると左さも嬉しソーナ相を顕はして恰あたかも迎ゆる如き風がありますが、其れが万物の霊たる人の恩を報ゆる少きは実に禽獣にも恥じた訳でありますから何でも此の天地人の主大至高なる処の三恩徳は忘るることなく其報ひをせねばならぬことであります。これを三才報徳と申しまして二宮先生の歌に 天地あめつちの神と皇との恵みにて 世を安くふる徳に報へやと云はれましたが、是れ報徳の御歌で天地神明の御恩というものは如何斗いかばかりか量られぬことであるから充分之れに報謝せなければならぬことであります。又 天皇陛下の恩、政府の恩、祖先父母の恩、農工商人々相互の恩、之れ皆な其徳に報ずる様にせなければならぬ。偖さて此の恩を報ゆるには如何して宜しきでありましようか。只ただ終日三拝九拝して難有御在りますと合掌した斗ばかりで天地神が之れを請けられたと云ふことは昔しから聞かない。又餅を奉り神酒しんしゆを供して食し給ふたと云ふことを聞きません。或る人が二宮先生の内うちへ行ゆきまして如何せば之等これらの徳に報ゆるに宜しいでしょうか問ひました処が答へて云はるるに、吾々お互が人に謝礼すると同じ事だ。物を貰へば其返しをする。金を借りれば利子を添へて返済する。買物すれば其代金を払ふ。日雇には賃銭を与へ車に乗れば其労力に換ゆる賃金を出すと同じことで、つまり向ふの人の好む所に応じて其礼をなす。若し人から物を貰ふて返しをするときに向ふの人が餅がすきなれば餅、酒すきならば酒、蕎麦の好きならば蕎麦を贈るのが徳に報ゆるに足る事で決して天地人に礼をするにも人々相互あひたがひにするも異なる処はないと云はれましたソーです。実に其通りで神は決して三拝九拝するを好このみなる訳はない。矢張国の不毛の処は開拓して田畑となし、険阻の場所は平坦にし、成るべく此国をして富栄ゑ段々開けて行く様やうにしたいと云ふのが望みのことであります。
2026.03.26
「永平家訓抄話」澤木興道 1-6「闇を息(や)めて明に帰す」暗がプロなら明はブルである。まるで羊羹でも切るように、世の中のつくり替えができるように思っておる。自分だけやっておけばいい。嘘をつかんように、怠けずに、皆が当り前にやったら世の中は住みよいものになる。汽車に乗って見てもわかるじゃないか。四人が四分の一だけで行儀よくしておったら汽車は結構なものじゃけれども、一人で三人前くらい占領している者がある。この間も汽車へ乗ったら片方の足を窓へやって、片方の足を前の席へやって三人前占領して寝ころんでいるのじゃからたまらん。汽車に乗っても社会問題はよくわかる。無理をしようと思うから、世の中が面倒になる。「闇を息(や)めて明に帰す」そうしたらどこからどこまでが苦悩で、どこからどこまでで安楽なのか。『信心銘』に「二は一に由って在り、一も亦守ること莫れ」とある。二というのが明なら暗というのが一。そこに一と二とが躍動しておる。二ぎりの二もないし、一ぎりの一もない。また『宝鏡三昧』には「宝鏡に臨むが如く」鏡を見るようなものじゃと。だから「形影(ぎょうよう)相覩(あいみ)るがごとし。汝是れ渠(かれ)に非ず、渠方(まさ)に是れ汝」と。しかるに外道は「闇を息(や)めて明に帰す」というのである。「明闇一如」明と闇というのは一つじゃとか、「善悪一心」とかいえば、善もない、悪もないことになる。もっとも善悪といっても、徹底した善とか悪とかはないが、そうかといって、善悪というものがないことはない。しかし固定した善悪というものもあるわけではない。同じ人殺しをしても、戦さのときに人殺しをすれば金鵄勲章をもらう。よう殺したというようなものである。ふだんに殺したら死刑にあわんならん。これについては『瓔珞本業経』の仏母品が引いてある。それには清沙王の国の外道の安陀師の偈に「明闇一相善悪一心」とある。『宝鏡三昧』ではそんなものではないというので「夜半正明天暁不露」とある。夜中が明るくて夜明けが暗い。こういうのはつまり詩であるから躍動しておるわけで、そう簡単にはきめられん。 「因果歴然」といえば、常見の外道になるわけだし、「刹那生滅」といえば断見の外道になるわけである。おめでたい顔をして「因果歴然として私なし、造悪の者は堕ち、修善の者は陞(のぼ)る」と、見て来たように、ただ憶えたまま『因果経』を丸呑みにしておるなら常見の外道である。「刹那生滅して諸行無常」と涙を流して無常をいうておるなら、それは断見の外道になるわけである。だから同じ因果というても、同じ無常というても、仏法を呑み込んで、これをよく睨みつけて見んと、とんでもない間違いになる。 だから「是の如く道(い)わば」以上の善悪一心明闇一相、「皆是れ外道の見なり」外道というのは、仏教以外の教えである。ところが仏教者の中に、仏教でない説教をしておるのが多いのじゃからあきれる。それぐらいならいいけれども、このごろは新興宗教よりももっと念の入ったやつも仏教の中にはあるから困ったものだ。「若し外道の見を認めて仏祖の道と為れば、石を握って玉とする者よりも愚かなり」道化者で山師でやっておるような者は外道までも行かぬ。これは山師だけれども、本当にまじめで涙を流して念仏を申したり歯ぎしり噛んで坐禅したり、氷の中で南無妙法蓮華経というて外道になったり、「オンアボキャーベイロシャノー」といっても外道になったりしている。この外道をまじめでやっておる者があるから、用心しなければならんわけである。そういうことを『宝鏡三昧』には「銀盌(ぎんわん)に雪を盛り、明月に鷺(さき)を蔵(かく)す」と、白いものと白いもの。白いと白い。白う見えるけれども同じことじゃない。「類して斉(ひと)しからず、混ずれども則ち処を知る」銀の盌は雪でないし、明月は鷺でないし、類して斉しからず。いくらごっちゃにしても間違わない。差別は差別、平等は平等。あるだけある、ないだけない。できることはできる。できんことはできん。せんならんことはせんならん。してはならんことはしてはならん。差別は差別、平等は平等である。しかもその平等ながら差別。ざっと物を見たりざっと考えてはならぬ。(「永平家訓抄話」p.227-229)
2026.03.26
191二宮翁夜話残篇【13】尊徳先生がおっしゃった。芭蕉の句に「古池や蛙(かはづ)飛込む水のおと」という句がある。この音はただの音と聞いてはならない。有の世界から無の世界に入る時の音と観じて聞くべきだ。木が折れる時の音、鳥獣が死ぬ時の声と同じだ。これを通常の水の音とする時には、褒め称えるところはない。二宮翁夜話残篇【13】翁曰く、芭蕉の句に「古池や蛙(かはづ)飛込む水のおと」この音は只(ただ)の音と聞くべからず。有の世界より無の世界に入る時の音と観じて聞くべし。木の折るる時の音、鳥獣の死する時の声と同じ、是を通常の水の音とする時は、称賛(しようさん)すべき処(ところ)なし。☆尊徳先生の詩歌に関する叙述は独特の観点がある、芭蕉の「古池や・・・」の蛙がポチャーンと池に飛び込んだその音を有から無へ入る音と観じて聴けといわれる。それは論語で鳥のまさに死なんとするときの声、人がまさに死のうとするときの声と同じく真実の音であると。論語泰伯第八四 曾子、疾(やまい)あり。孟敬子これを問う。曾子言いて曰わく、鳥の将(まさ)に死なんとするや、其の鳴くや哀し。人の将に死なんとするや、其の言うや善し。君子の道に貴ぶ所の者は三。容貌を動かしては斯(ここ)に暴慢(ぼうまん)を遠ざく。顔色を正しては斯に信に近づく。辞気を出(い)だしては斯に鄙倍(ひばい)を遠ざく。へん豆(へんとう)の事は則ち有司(ゆうし)存せり。
2026.03.26
慈覚大師円仁を読むと 霊夢 をよく見られたようだ。円仁には『入唐求法巡礼行記』という著書があり、読んで感銘を受けたことがある。円仁は延暦十三年(794)、今の栃木県下都賀郡内(しもつがぐんない)で壬生(みぶ)氏の次男に生まれた。桓武天皇が長岡京から、都を京に移した年でもあった。平安時代が幕を開けたのもこの年だった。円仁は早くに父を亡くし、母と兄に育てられ九歳のとき、栃木県の大慈寺の高名な広智(こうち)という僧に預けられる。15才になった円仁は、ある日不思議な夢を見ます。まだ見たこともないはずの僧侶が、自分の目の前に立って微笑んでいる。夢の中で見えない人の声を聞く。「このお方は比叡山にいらっしゃる最澄様です」。この夢をきっかけに、円仁は比叡山へ登り最澄様の弟子となることを願うようになる。十五歳(808)で、広智に連れられ比叡山に登る。そこには天台宗を開いて五年目の最澄がおられ、円仁をその弟子となる。円仁は夢の中で最澄にお会いした夢を見ていて、その僧が目の前におられるので、大いに驚いたという。最澄のもとで円仁は、厳しい指導を受けて修行に励み、二十一歳で得度。その二年後、奈良・東大寺で具足戒を受戒し、一人前の僧侶になった。二十四歳のときに円仁は最澄とともに関東へ布教の旅に出る。二十九歳のとき、最澄は一心三観の妙義を円仁だけに伝え入滅。円仁はその妙義を胸に三十歳で止観業の年分度者として十二年籠山に入り、一行三昧(いちぎょうざんまい)を修練する日々を送る。籠山六年目のとき、学問僧としても抜きん出た円仁は、先輩や後輩のたっての願いもあり、比叡山を出て布教活動に入る。法隆寺や四天王寺で法華経を講義、次いで東北地方へ出る。「法華経」や天台宗を広めるのが大きな目的で、東山道から故郷の栃木、青森から岩手方面にも及んだ。二年後に比叡山に戻った後も地方に足を運び、その布教活動は全国に及び、現存の由緒寺院は六百カ寺以上を数える。円仁が布教活動から比叡山に戻った四十歳のころ、重い病気にかかり横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)に籠(こ)もり、死をも覚悟していた。そのとき最澄が念願された如法経(法華経の写経)を神仏に祈りつつ、六千部を目標に行った。これこそが如法写経の始まりです。その功徳があったのか円仁は、ここでも夢を見て、天から与えられた妙薬で元気を取り戻します。後にこの写経を宝塔に納め本尊として祀り建立したのが、横川の根本如法堂です。円仁は、病後に師最澄の夢を見た。師は「天台教学の心髄と密教を伝えなさい」と告げた。そして三年後の四十五歳のとき、求法僧(ぐほうそう)としての勅命が下り、円仁は遣唐使の一員になって唐に渡ることとなる。円仁は 唐の長安へ行く。五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授けられる。また、金剛界曼荼羅を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせる。台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れ、曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子の円仁を深く拝した。"入唐求法巡禮行記"その後所在が忘れられていたが、明治に入って写本が東寺で再発見された。1955年には、駐日アメリカ合衆国大使でもあったエドウィン・O・ライシャワーが英訳して紹介し、各国語に翻訳されて広く知られる所となる全4巻、文量は7万字。原本は失われた。1291(正応4)年に京都祇園の長楽寺の兼胤という僧が72歳の時に書写した東寺観智院旧蔵本が最古の写本である。70歳を越えた老僧が老眼鏡もない時代に苦労して書写した写本であり、解読に困難な文字が少なくない。巻一 承和5年(836年)[要検証 – ノート]6月13日条 - 開成4年(839年)4月巻二 開成4年(839年)4月 - 開成5年(840年)5月巻三 開成5年(840年)5月 - 会昌3年(843年)5月巻四 会昌3年(843年)6月 - 承和14年(847年)12月14日条💛70歳を越えた老僧が苦労して書写した写本 が超高齢化社会の現代日本にぴったり。円仁の法を求めての冒険は 心がワクワク)する(^^)「鎌倉殿の十三人」でも高僧が夢の話をして「また夢の話か」と後鳥羽天皇に笑われて、しかも真剣に耳を傾けていた。慈円「過日、夢を見ました。壇ノ浦に沈んだ三種の神器。夢はこう言っていたように思います。失われた宝剣の代わりが武家の棟梁、鎌倉の将軍と。新将軍、大事になさいませ」
2026.03.25
安藤和津さんのエッセイ「私の母(現在84歳)は6年前に脳梗塞を患い、去年の5月に危篤状態になりました。話すことはもちろん、口から食べ物をとることさえもできなくなり、医師からは、母が再び意識を取り戻す可能性は低い、といわれたのです。私は絶望の淵に立たされたようで、ただ、ぼう然とするだけでした。そんなとき、私の友人で、テレビの女性司会者でもあるかたから、「植物状態の肉親に言葉かけをし続けたら、意識が戻った」という、アメリカでの実話を聞かせていただきました。それを聞き、私はすぐに実行に移しました。話しかけても全く反応のない植物状態の母に、「またお花見に行こうね!」「こんな楽しいことがあったよ!」「お土産は何がいい?」と毎日言葉をかけ続けたのです。家族や親戚、友人たちにも、お見舞いに来ていただいた際に、どんなことでもいいから母に言葉かけをしてほしい、とお願いをしました。そして、一ヶ月がたちました。看病疲れで、私が母のベッド横に座り込んでいた日のことです。「大丈夫?」突然どこからともなく、そういう声が聞こえたのです。まさかと思いましたが、母を見ると、目が合いました。その目は、過労で疲れた私を心配するようでした。母が私に声をかけてくれたのです。私は「心配してくれたの?」と母に尋ねると、それに答えるように、ゆっくりとまばたきをしたのです。これが奇跡の始まりでした。その日から、母は少しずつ意思を伝えられるようになり、現在は、自宅で療養できるまでに回復しています。担当医は、信じられない、とびっくりしていました。」
2026.03.25
カーライル は現在、忘れられた思想家である。せいぜい思想史のなかで「衣裳哲学」とか、断片的に知られているにすぎない。しかしながら明治後半の日本においては、その影響力は現在では考えられないほど強かった。とくに内村鑑三、新渡戸稲造、留岡幸助などに強い感銘をもたらしたのが、カーライルの「クロムウェル伝」であった。畔上賢造氏が大正2年(1913年)1月に発刊したその翻訳に、「日本におけるカーライルの弟子である恩師内村鑑三先生」の文章を序文として載せたほどである。「ここに内村鑑三氏の論文をその著『よろづ短言』より転載す。これ本書の了解に資せんがためである。 余が学びし二大政治書(略) その二、カーライルのクロムエル伝「雑誌の雑誌」記者ステッド氏曰く「余を利益せし書は第一にキリスト教の聖書なり、第二にカーライルの著コロムウェル伝なり、第三に米国詩人ローエルの詩集なり」と。しかしてステッド氏と同一の経験を持ちしものは他にも多からん。 今日まで地上に顕れし最も大なる国家は英国なり。しかして英国の二大政治家とは一はエリザベス女王にして、他の者はオリバー・コロムウェルなり。二者共に政治を学ばざる天然的政治家なり。政治の術、豈これを政治書においてのみ学ぶべきものならんや。 カーライルの「コロムウェル伝」は彼の50歳の時の作なり。これ実に彼の著述中最も大なるものなり。「フランス革命史」はそのドラマ的修飾において、「フレデリック大王伝」はその歴史的考証においてこれに優る所あらん。然れどもカーライルの精神はすべて彼のコロムウェル伝に籠れりといわざるべからず。彼の崇敬を呈せし人、彼が真誠に崇拝せし人はオリバー・コロムウェルその人なりし。 250年間大逆無道の臣として英国人の脳裏に存在せしこの人を恥辱の墓の底より発掘し来り、彼を英国第一の愛国者として、再び世界に紹介せし歴史家カーライルの功は偉大なるかな。余はおもう、もしカーライルがコロムウェル伝を以て彼の著述事業を中止せしならば彼は益のみを後世に遺して害を伝えざりしならんと。彼のフレデリック伝はあらずもがな。彼の「末世の冊子」は彼の公にすべからざりしものならん。彼の英雄崇拝論は多くの不健全なる思想を青年に供し、ことにその我が日本に伝わりてより以来、この書により生涯を誤りし青年少なしとせず。これカーライルの不平時代に成り書にして、これを読んで多少不平病に侵されざる者なし。 然れどもコロムウェル伝に至ては全く然らず。これカーライル氏の「愛の著述」なりという、彼をしてこの書をなさしめし動機は彼の母より受けしものなりという。彼女の深き宗教心と強健なる常識とはこの誤解されし偉人において真正のキリスト教的ヒーローを発見せり。しかして彼の幼時において彼女より注入されしこの思想はこの大著述となりて世に現れしなり。カーライルのコロムウェル伝は実に一平民が一大平民を弁護せし書なり。 オリバー・コロムウェル、彼は英国セントアイブスの一農夫なりし。家は富めりとは称すべからざりしも、さりとて貧しからざりき。畜類の飼育を以て業とし、大いにその道に熟達せりという。歳20にして結婚し、清き幸福なるホームを作るを以て彼の唯一の目的となせり。かくて彼は政治家に成るの必要なく、またその野心もなかりしなり。彼は心に神を拝し、手に正業を取り、以てこの曲がれる世にあって罪なき生涯を送らんとせり。 彼が政治に入りしは40歳の時なりし。しかも彼は大政治家となりて名誉を天下に博せんとて政治に入らざりしなり。彼は時の圧制を憤慨せり。ことに彼と同郷の人なるジョン・ブラインなる者が治安妨害的文書を頒布せりとて獄に投ぜられしを憤り、彼のために弁ぜんとて国会に入りしという。茅屋の下にて在て静かなる生涯を送らんと企てし彼れコロムウェルは人類的観念に迫られて止むを得ず国会議員と成れり。 然れども彼に政略なるもの一つもあらざりしなり。ありのままなる実に彼のごときはあらざりし。彼に丈夫の勇気ありて、また処女のそれのごとき涙と愛情とありし。敵と戦いてかつて敗を取りし事なき彼は友人の反逆に会しては悲歎痛哭に憂き日月を送れり。朝にダンバーに敵の大軍を敗(やぶ)って夕に家郷の妻女に送るに心情溢るるばかりの恋文を以てせり。人は彼を以て大偽善者なりとみなせり。然れども彼は偽善者にはあらざりしなり。彼は余りに感情の人なりしなり。故に彼は偽善者のごとくに見えしのみ。 彼の政策とは何ぞ。他なし。英国を以て地上における天国となし、終に英国をとおして全世界を天国と成さんとするにありき。故に俗人の眼を以て評すれば彼の行為は狂的なりしなり。彼はなし得べからざる事をなさんとせり。しかも彼はこれをなし得べからずとは信ぜざりしなり。彼はもし英国人にしてことごとく彼の信仰を懐きなば英国を以て真正の聖人国となし得べしと確信せり。しかしてミルトンは彼の書記官として彼のこの偉想を賛し、ブレークは彼の海軍を指揮して海上に彼のこの理想を実にせんとせり。世の智者はいう「幸福なるは無学なり」と。特別に政治学を究めざりしコロムウェルと彼の補助者とはこのイムポスビリチーを実行せんとせり。政治家の手を束ね彼の足を縛るものにして実に彼の政治学のごときはあらざるなり。「正しかれ、しかして懼(おそ)るるなかれ」。正義に因りて進む、大国何か懼るるに足らん。コロムウェル時代の英国はヨーロッパ第三等国に上らざりし。第一等国はスペインにして、フランスとオーストリアとはこれに次ぎ、オランダ、また新たに勢力を得たり。イギリスと対比すべき国とては北欧のスウェーデンかドイツ連邦の一二に止まりしなり。然れどもコロムウェルその主権を握りてよりイギリスは一躍してヨーロッパ大強国の一として算(かぞ)えらるるに至れり。意志と信仰とに富める一偉人の勢力もまた大ならずや。 時の大強国はすべてカトリック国なりし。しかして英国は新教国にしてコロムウェルは新教徒中の新教徒たりし。しかして彼は強国に媚びんために彼の信仰を曲げんとはなさざりし。否、彼は彼の信仰に基きて、弱き新教国を統一して強きカトリック国を挫かんとせり。彼の外交政略なるものはただこの一事に存せり。彼が提督ブレークをして海上にスペインの船舶を捕獲せしめ、西インドにその領土をもとめ、テスリフ島にその海軍を殲さしめしは皆「大教敵スペイン」を挫かんとの方法に外ならざりし。彼がサボイ山中にある新教徒の虐殺を聞くや、直にフランスに通牒して無辜(むこ)の血を償わせしも、また彼のこの信仰に基けり。彼は小にして新教国なるスウェーデンと同盟して大にして旧教国なるスペインに当らんとせり。彼の宗教的信仰は吾人の問うべきところにあらず。然れども彼の勇気と大胆とに至りては実に余輩の嘆賞して措くあたわざる所なり。 進歩的保守家、ハンガリーの愛国者ルイ・コスートのごとき人、米国のワシントンのごとき人、然りリンカーンのごとき、グラッドストンのごとき人、彼らは皆はなはだしく国人に誤解された人なり。しかしてコロムウェルはその最もはなはだしき者なり。彼の情性に貴族的分子ありたると同時にまた平民的分子ありたり。彼は天稟(てんぴん)の貴族が平民として生まれ来たりし者なり。彼の同情は平民にありし。然れども彼の平民なるものは凡俗の謂(いい)にはあらざりし。彼の平民とは彼並びに彼の書記生たりしジョン・ミルトンのごとき者なりし。すなわち人たるの品性を具え、位階と勲章によらずして高貴なる人なりし。彼がついに彼の国人の棄つる所となりしはまた故なきにあらず。世の平民は多数者にして貴族は少数者なりと思う者は誤れり。貴族は実に多数者にして平民は実に少数者なり。世にいわゆる平民なる者は実は貴族にして、彼らが平民的運動なるものを起こす所以のものは彼らが現在の貴族に代わりて自ら貴族と成らんがためなり。近くは東洋日本国の維新歴史においてこの事実を目撃するを得ん。薩長の族(やから)にして名なく位なき者、民の声なればとて四民平等を主張し、時の政府を倒し、しかして自身権威の位置に立つや直に新華族の制度を定め己れ自ら貴族となりて天下に臨む。彼らは昨日の平民にして今日の貴族なり。40年前の伊藤博文侯は渺(びょう)たる一平民にしてまた平民主義を唱え、時の貴族制度を憤りし者なり。今の平民主義者また然らざらんや。今の民間の政治家なる者も、一朝勢力の人となれば、直に貴族の中に列せん事を願う。彼らは貴族を嫌うにあらず。彼らは貴族を嫌うと称するのみ。彼らは実は生来の貴族にして、貴族たらんと欲して政海に乗り出せし者なり。言を休めよ。日本国の貴族は3千人にしてその平民は4千万人なりと。その平民4千万人の最大多数は貴族根性を以て生まれ来たりし者にして、彼らは機会あれば貴族たるを辞せざる者なり。吾人少しく歴史をひもときし者は彼らの平民主義なるものに欺かるべきにあらず。平民は平民を迫害す。これ隠語のごとく見えて実は明白なる事実なり。英国がついにコロムウェルを嫌悪するに至りしは、彼れコロムウェルは余りにまじめなる平民なりしが故なり。彼らは彼が少しく殿様然として天下に臨み、少しく国民の弱点に乗じその名誉心を充たし、その利欲心を満足せんことを求めたり。然れどもコロムウェルは厳として彼の平民的態度を守りたり。故に彼らはついに大偽善者として彼を記憶の外に葬り去らんとせり。彼らは再び彼のごとき政治家をもたざらん事を望めり。彼らはコロムウェルに勝り暗主チャーレス第2世を愛したり。然れども少数なりといえどもこの宇宙は平民の属(もの)なり。コロムウェルは死後300年の今日英国人の理想的政治家となれり。彼の肖像は今は英国国会議場の前に建てられたり。「コロムウェル再び出でよ」とは今は英国人の声となれり。英国永久の光栄はコロムウェルの理想を実行するにありとはその多数の政治家の所信となれり。「コロムウェル出でよ」。英国においてのみならず、支那においても、朝鮮においても、ビルマにおいても、ベトナムにおいても、すべて腐敗せる政治家の横行する国はコロムウェルの現出を要す。上、貴族を挫き、下、衆愚を抑え、少数者なる平民の勢力を地上に扶植せんためには、コロムウェルは幾回かこの世に来たらざるべからず。カーライルのコロムウェル伝はかくのごとき事を教うる書なり。(明治33年12月稿)」内村鑑三は言う。「コロムウェル伝に至ては全く然らず。これカーライル氏の「愛の著述」なりという、彼をしてこの書をなさしめし動機は彼の母より受けしものなりという。彼女の深き宗教心と強健なる常識とはこの誤解されし偉人において真正のキリスト教的ヒーローを発見せり。しかして彼の幼時において彼女より注入されしこの思想はこの大著述となりて世に現れしなり。」大正15年4月15日発行の柳田泉氏著作の「クロムウェル伝」(カーライル全集)があり、その解題に、このカーライルの母のことについて述べられている。「神と神のなす業とをこの上もなく畏れたトマス・ カーライルは、絶えて他人を恐れない人であった。だがその彼にも天下にただ一人の恐ろしい人物があった。それは無学で誠実な彼の母であったのである。この母は、トマスは幼い時にしばしば彼に諭してこう言った。オリヴァー・クロムウェルは世人のいうごとき悪人では決してない。英国の政治家中、最も偉大な英雄であると。40年の後、わがトマスが・・・・・・神の人オリヴァの真面目をひらくにいたった機縁の種子は、この時まかれたものといってよろしい。この母の諭しが、不断に若きカーライルの心のうちに転々して、彼の興味意識をクロムウェルなる人物に向けていたことは、次の事実によって推察される。すでに1822年、カーライルが、自分はなんらかの題目を借りて著作するよう神の冥命をうけていると感じたときに、その第一の書はイギリスの内乱時代、共和政治時代のことに関するものでなければならぬと考えて、この時代に関する文献を手に入るに従って読破したという。」しかし、このカーライルの試みは苦難の連続であった。1840年、カーライル44歳の時の日記には、「資料文献をひもとき、この仕事を続ければ続けるほど、自分の愚劣さが増加するように思われる。私は今やわれらにとって死物でおおわれた『時(タイム)』の言語に絶する泥沼ーから厳密な意味での歴史など決して作られないというにいたった。」と絶望のうめきをあげた。カーライルという人は、かんしゃく持ちで文章でも悪口雑言を怒鳴りちらすようなところがある。それはあの ハリー・ポッターにおける 謎のプリンスと自称する 先生にも似て 回りの人々にとっては、慣れっこになるようになっていたらしいことが、妻がカーライルの母にあてた手紙でわかる。「このごろカーライルは、新しい本を書くしたくとかで、大きな二つ折り本を貪るように恐ろしくたくさん読んでいます。そのほか、例のようにいろいろなことを怒鳴りつけますが、しかし誰だって彼の人の怒鳴るのには慣れて無頓着になります。でもなかったらとてもやりきれません。」このころカーライルはまったく行き詰っていた。「オリヴァ・クロムウェルは私にはうまくいかないかもしれない。この題目につい調べはじめてから、もう4ヶ月になる。こうして資料を何ほど集めてもほとんどなにも得ることがない。かといってまだ書き始めるほどの確信がもてない。紙に書いたものは一枚もない。どこから始めていいか分からない。私とこのテーマとにはまだ一枚の膜が破れずにいる。これを破ってこのテーマに純一に共鳴する心境には入っていない。だが私にはどうしてもこのテーマを捨てることができない。・・・・・天よ、私を導きたまえ!実に天の冥助がなくば、何事もできない。」満1年後の1841年、歎息しつつ意を決してかき始めるが、満足がいかず、その年の12月にはそれまで書いたものをすべて焼き捨ててしまった。このとき書かれたものは、いわゆる「クロムウェル伝」という伝記であったという。1842年11月25日の日記には苦悩が綴られている。「私はオリヴァーに関してはまだ一語も紙の上に書き付けていない。仕事を始めるのは、それを片付けるより恐ろしい。・・・・・こうした苦闘を経て、カーライルが悟ったのは、いわゆるクロムウェルの伝記の十分なものを書くことは絶対に不可能であること、可能なのは、クロムウェルの書簡と演説を収集編纂することだけであることであった。これこそが「泡沫と、混沌と、虚偽と、愚鈍の無限の大海のなかにそそり立つ一連の不動の岩山」ではないか。こうして、「方針を別にして始め直しました」と母に報告し、オリヴァーの現存している書簡と演説を収集し、その一遍ごとに考証と解説をつけて全体の連絡をもたせた、全く新しい形の伝記が誕生したのである。1845年(49歳)8月26日この故障困難だらけであった6年間を費やした労作が完成をみた。「私はたった今オリヴァーを終ったところである。hang it!善かれ悪しかれ彼は片付けられた。・・・・」10月には母のもとで、校正を終え、いわば 母への約束を成就したのであった。したがってカーライルのクロムウェル伝とは、実は『クロムエルの書簡及び演説』(Oliver Cromwell's Letters And Speeches.)にほかならない。カーライルは序文で主張する。「自分がクロムウェルの言を集めて整理してみると、次のことが次第に明らかになったように思われる。すなわちクロムウェルは清教徒革命の中心人物であって、彼がいなかったならば清教徒革命は世界史に一期を画する大事件にはならなかったであろうということ。もう一つは世間の人の考えと正反対であるが、クロムウェルは虚偽悪逆の人間ではなくて、真実の人間であり、その言は大いに意味があるということこの二つのことである。実にその言によって見れば、彼は立派な大人物であるとほか思えない。 善人か悪人かは別問題としても、とにかくオリバーの人格、その事業の性質は、その書簡・演説によって知ることができる。これらの言によって、彼は自分のうちにあるもの、自分の外にあるものを言い表わそうと努めたのである。それ故その言葉を知るは彼の事件の精神を知る所以である。願わくはこの書が数人の真面目な読者に迎えられんことを。かの清教徒事件がこの書によって少しなりとも明瞭になれば、後の著述家によってますます明瞭になることであろう。」鈴木藤三郎が、日本醤油会社社長のとき、サッカリン事件で失脚し、全財産を提供して自宅に謹慎しているとき、留岡幸助は自転車に乗って小名木川まで慰めに行った。藤三郎は面会謝絶していたが、留岡とききて特別に招き入れた。藤三郎が、失敗したことが仕方がないが、自分が最初から世人をだます目的だったとか、山師だとか、そしられていることに愚痴をのべたところ、留岡幸助はこう慰めたのである。 「それは君の平生にも似合わぬ繰言である。天下の人が皆、君を奸物であるといっても、それは皆利害の関係から君を評するのである。しかし自分のごとき、君とは何ら利害の関係がない人間が、君と共に公益のために尽くさんがために交わっておるのである。それ故自分は、自分の経営する家庭学校の事業のためには君を煩わすことをしないのである。これは公益をもって交わろうとの考えがあるからである。自分が聞くに、英国のクロムウエルは、多年奸雄と定(き)まっておった。ところがカーライルが出て、その雄勁なる筆を揮(ふる)って、クロムウエルは千古の大忠臣で、真に社稷(しゃしょく)のためにその身の毀誉を顧みなかったのであるといって、冤(えん)を雪(そそ)いだのである。君もこの際、泛々(へんへん)たる毀誉褒貶を眼中に置かず、前途の事を考えられた方がよかろうといって慰めたことであった。ちょうどその際クロムウエル伝の翻訳が出たから、翌日その書籍(ほん)を贈って置いたことである。その際自分は、ちょっと横を見ると、老母が私を拝んでおるのが眼に入ったが、その当夜の光景は真に厳粛な光景で今もなお眼前に見るごとき心地するのである。」(真に惜むべき人 本会評議員家庭学校長 留岡幸助)鈴木藤三郎氏顕彰第3集 は、「米欧旅行日記」および講演録などの史料集とした。いずれ、こうした資料をもとに留岡幸助氏が藤三郎に慰めたように「クロムウエルは千古の大忠臣で、真に国家のためにその身の毀誉を顧みなかったのであるといって、冤罪をそそいだ」ように、鈴木藤三郎氏が真に国家に報いるために一生を捧げたと雄勁な筆をふるう人が出でてくるやもしれぬ と。いつの日か、鈴木藤三郎氏の真の業績と思想が世に顕彰されんことを希(ねが)う。
2026.03.25
念共讃裡(ねぐさり)抜粋序第一篇 求法1.駅長をやめて来い2.シャンとせぬ心3.毛一筋の望み4.後生一大事とは5.楽屋住まい6.浄玻璃鏡7.ただ念仏して8.火中の白蓮9 信心と念仏10-1 ご法席の和上 1-110-2 ご法席の和上 1-2第二編 安心1 寒が明いた 2 六種震動の日3 一等国民4 譲りに譲りて5 栖神浄域 暖かい日差しが障子の裾を照り込めています。和上ご出仕あって、暫し、「念仏者が死ぬるとエラウ悲しんで泣くが、然しお阿弥陀様はおよろこびじゃ、今日もなアー、松坂の花山寺さんがみえて、居間でこんな有難いお話を聞きました。 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏花山寺さんの世話方同行で、ナカナカのお方ですそうなアー。その方へふだんご相続に参りなされ参りなされと誘うても、いつもヘイー今日はどこそこへ・・・・・、ヘイー今日は何やらで・・・・・とうまい事ばかりいうて、トントご相続に寄り付かず逃げ回っておりました。。。ソノクセ外の説教には熱心に参り歩いて、夫婦とも説教キチガイくらいじゃったそうなア。二三日前、花山寺さんが三里ばかりある山奥の同行の所へ法要に行っておられたら、突然人力車(くるま)を持ってその世話方の家の者が迎いに来てー。何事じゃなアー。実は家の奥様がもう臨終でトテモ助かりません。医者もかようかようで匙を投げだしましたので、奥様も死ぬるまでに是非一目。ご院主様に合わせてくれーとせがまれますので、こうしてお迎いに参りましたような訳でー。南無阿弥陀仏。その時、花山寺さんは行かれたかどうか、皆さん考えてごらん!南無阿弥陀仏。」長らくのご相続にお互い胸の内で自問自答していると、仕方がないので花山寺さんはその車に乗って行かれたそうです。スルト奥様が涙を流してよろこばれ、苦しい息の中から手を合わせて「私はいつもいつも貴師(あなた)のご相続に来い来いと誘われながら、何とか彼とかいうて逃げて、他の説教ばかりに参っておりました。がいよいよ臨終となってみると今は聞いたものや、信じたものは何一つ役に立ちませんー。聞いたもの信じたものは皆どこへやら行ってしもうて、もうただお念仏様より他は何んにもござりません。ホンニ何も彼もご成就で、今はただご恩の称名、ご報謝のお念仏という事に気づかして頂きました。こう気づくと、ふだん貴師のお誘い下されたのを逃げ回っておりました事のもったいないー。今はそれをお詫びして死んで行きたいと思いましたので、お忙しいなかご無理申し上げましてー。どうかお許し下さいませ―。」というて、死んでゆかれたそうであります。」 有難い合掌を解いて、お昼を宿にと帰るみちすがら、二三の老婆、橋のたもとに顔突き合わして、「お念仏に!お念仏にコチラから勝手に自力念仏じゃの、他力念仏じゃのと、計らうておりました事の・・・・・もったいない。」と懴悔の姿に、また有難い念仏行進曲。その日の午後、和上、言葉を継いで、「昔は自分で称える念仏じゃと思うておりましたが、今は称えさせて頂くお念仏じゃと思わせてもらうようになりましたー。」 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。 暫く合掌されて、またそれを否定され、「否―、否―、昔はじゃない。今でも時々そう思いますわい。」と笑われて衣の袖をかき合せながら、静かに、「その時、ああこれは称えさせて頂くお念仏様じゃったーと気づいたのが、心ハ浄土ニスミアソブ。心ヲ浄域ニ栖マシム。」 その時の尊い和上のお姿、真に私の胸中を隅から隅までえぐられた心地して「否―、否―、今でもそう思いますわい」の一語は穴へでもはいりたいようであります。「先日も平野へ帰ると孫が喪章をつけてもろうて喜んで飛び歩いておるので、ソレ何じゃーと尋ねると、喪章、喪章!というて恥ずかしそうに、手で抑えて飛び回っておる。これを見て実に有難うござんした。付けておる子供は有難いとも、尊いとも思わんじゃけれども、これを見た者は何となく尊く有難う見えるー。南無阿弥陀仏。こうして汚い心で称えていてもー、称える者はソレほどにも思わんけれども、これを聞かれた諸仏菩薩は、どんなにかお喜びじゃろう。」南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」(略)
2026.03.25
人を教え諭すことについて尊徳先生はこうおっしゃっている。「深く悪習に染まった者を、善に移らさせるのは、大変難しい。あるいは恵んで、あるいは諭す、一旦は改める事があっても、また元の悪習に帰るものなり、これはどうにも仕様が無い。何回でもこれを恵んで教えるがよい。悪習の者を善に導くには、たとえば渋柿の台木に甘柿を接いだようなものだ。ややともすれば台芽の持前の性質が発生して継穂の善を害する、だから継穂をした者は、心を付けて、台芽をかき取るように厚く心を用いるべきである。もし怠るならば台芽のために継穂の方は枯れ失せてしまうであろう。私が預った地に、このような者が数名あった。私はこの数名のために心力を尽したこと、はなはだしかった、そのように勤めたのだ。」「私が預った地に、このような者が数名あった。」とある。うん、この一人はかの岸右衛門(きしえもん)だろうな。報徳記にその教化の次第が活写されている。「物井(ものい)村に岸右衛門という者があった。少しばかり才知があり、性格は吝嗇(りんしょく)で剛気であった。尊徳先生が桜町陣屋に来てから、先生は日夜尽力して、衰村を興し、百姓を安じようとされていたが、岸右衛門はこれを嘲りこれをののしり、村人を先生の徳に服させないようにした。みずから大言を吐いて、三味線をひいて、再復の仕法を嘲笑して、歳月を送ること7年に及んだ。尊徳先生は寛大を主としてこれを戒めなかった。それは自然に自分の非をさとって、自ら悔いる時を待たれたのだ。尊徳先生の丹誠実業が月を重ね年を経るに及んで、功績が次第に現れ、良法の良法であるゆえんが明白になってきたために、岸右衛門はこう思った。『以前から小田原からこの地を再復するために出張してきた者はたくさんいるが、一年を待たないで退き、あるいは逃げ去った。二宮が命令を受けて来ても、必ずや前轍を踏むであろうとばかり思っていた。たとえどんな仕法を下したにしても、この地を再興成就する道があろうかと。ところが7年に及んで、その丹誠はますます厚く、功績は日々に顕著になってきた。私がこのように仕法に反対して、年を経過すれば三村の再興が近く成就したら、罪人に陥いることは眼前である。今速かに前非を謝まって、ともに復興事業に協力して、後の栄えを取ったほうがよい』と。そこで人を頼んで岸右衛門は仕法に感じ入って、協力したいと願っておりますと言わせた。尊徳先生は岸右衛門の旧悪は咎められず、喜んでその願いを聞き入れられた。岸右衛門は陣屋に来て、先生の指揮にしたがって、努力しますと言った。尊徳先生は岸右衛門に仕法の大意と人倫の大道を教えられた。岸右衛門は始て広大の道理を聞いて、大感激し、これから日々村に出て指揮に従って、土木事業の先頭にたって、一生懸命力を尽くした。ところが村人は岸右衛門の人となりを知っているからその言葉を信用しない。岸右衛門は大変憤りなげいた。尊徳先生は岸右衛門に諭(さと)してこうおっしゃった。「おまえは前非を改めて上下のために力を尽くすというが、人々がどうしておまえの本心を知ろうか。人が難かしいとする所は私欲を去ることだ。おまえが私欲を去らなければ、人はおまえを信じない。」岸右衛門は言った。「教えにしたがって、欲を捨てることをしましょう。何を先にすればよいのでしょうか。」尊徳先生はおっしゃった。「おまえが貯えてきた金銀器財をすべて出し、窮民を救助する資材としなさい、またおまえの家の田をすべて売り払って、その代金も出しなさい。私欲を去って、私財を譲り、村人のために力を尽くすことは人としての善行これより大きいものはない。人が人である道は、己をすてて人を恵むことより尊いものはない。しかるおまえの旧来の行いは、ただ自分を利せんとするのほか余念がなかった。自分を利せんとして他を顧みないのはケダモノの道である。人と生れて一生鳥獣と行いを等しくすることは悲むべきではないか。今、私の言葉に従って、ケダモノの行いを去って、人の道の至善を行う時は、おまえの心が私欲の汚れを去って清淨に帰する。村人もこれを見てその行いに感動して、お前を信ずるに違いない。」と教えられた。岸右衛門は憂い喜びがこもごも来て決断することができなかった。一つはこの善道を踏みたいとを欲し、一つは一家を廃絶することを憂えたためだった。尊徳先生はまた教えられた。「おまえの心が決しないのは、一家を失い、父母妻子を養う道がないのを憂えるのではないか。おまえが真直ぐにこの善道を踏もうし、一家田んぼをともになげうって、非常の行いを立てたら、私がどうしておまえの飢渇を見て、おまえが道端に倒れるのを待とうか。おまえにはおまえの道がある。私には私の道がある。三村が復興するのも廃するのも私の一身にある。無頼のも者が自分の責任で家を失うのさえ、教え諭してこれを再復させ、これを安んじている。まして今お前が上には君のため、下には民のために先祖伝来の家屋敷を売り払い、村を復興させる道を行う。このような奇特の者を道路に飢えさせれば、私は三村を復興する任務をどうして達成できよう。ただおまえの心が私欲を去ることができず、生涯鳥獣と同く、空しくちることを歎いているだけだ。」と愁いが先生の顔にあふれた。岸右衛門はこの一言に感動して、決意して、先生に答えた。「先生は私を憐んで、君子の行いを教えてくださいました。その恩義はたとえようもありません。すぐに教えにしたがって、この人の道を踏みましょう。」岸右衛門はすぐに家へ帰って、この道を父母妻子に説いた。家族は大変驚いて、なすところを知らず、泣き喚いた。岸右衛門はこれを見てまた疑念を生じ、婦女子を諭すことができませんと、人をやって先生に告げた。先生は嘆かれておっしゃった。「これは岸右衛門の一心にあって婦女子にあるのではない。岸右衛門の心が、目前の欲におおわれているだけだ、ああ小人に君子の行いを踏ませることはもともと無理であった。私がこのような者に教えたのが過りであった」と大息された。使いは帰ってきて岸右衛門に尊徳先生の言葉を告げた。岸右衛門はブゼンとして言った。「実に私の心が定まらないからで、家族にあるのではない」断然田んぼを売り払い、家具を売り払って、その代金を持って、陣屋に来て言った。「不肖の私がどうして復興の大道を行うことができましょうか。願はくばこれを殿様の復興事業の資金に加えて村のためにお使いください」と言った。尊徳先生はその志をほめて、この願いを聞き入れられた。そして岸右衛門に言った。「おまえは今日から力を尽くして荒地を起すがよい」と開墾させた。尊徳先生もまた人夫を雇って開発に従事させ、たちまち数町の田を開いて、これを岸右衛門に与えて言った。「この開田はおまえがこれまで持っていた田んぼにまさる。今年からこの田を耕すがよい。旧田は5公5民の税金がかかるがこの開田は100俵生ずれば100俵ともにお前の所有となる。7、8年を経過しなければ税金を出す必要もない。おまえが税金のかかる田を売って困窮した人々を救助し、無税の田を得てこれ耕すならば、一家のの生産は以前に倍しよう。これを両全の道というのだ。」と教えられた。岸右衛門は始て先生の処置の深遠であることに驚いて、とても喜んで力を尽くした。村人の信頼も得て、以前に倍するの幸福を得たのは皆先生の良法によったからである。」
2026.03.25
尊徳先生はこうおっしゃった。○世間の人は人情として、明日食べる物がない場合は、他に借りに行くとか、救いを求めようとする心はあっても、いよいよ明日は食べる物がないという場合は、釜や食器を洗おうという心がなくなってしまうという。人情としてはもっともだが、それが困窮がその人を離れない根元である。なぜかといえば、日々に釜を洗い、食器を洗うのは明日食べるためである。昨日まで用いた恩のために、洗うのではない。これは心得違いである。たとえ明日食べる物がなくとも、釜を洗い、食器も洗いあげて餓死すべきである。これは今日まで使って、命を繋いできた恩があるからである。これが恩を思う道である。この心がある者は天意に叶うためにその身に長く富を離れない。富と貧とは、遠い隔てがあるのではない。明日助かる事だけを思って、今日までの恩を思わないのと、明日助かる事を思って、昨日までの恩をも忘れないという二つである。これは大切な道理である。よくよく心得なければならない。○人が、来世がよい事を願うならば、現世で邪念を断って身を慎んで道を踏んで善行を勤めることが大事である。現世で人の道を踏まないで、悪い行いをした者がどうして、来世に安穏である事を得られようか。来世の善悪は、現世の行いにある。だから現世を大切にして、過去を思うべきである。まずこの身はなぜ生れ出たかと、振返って考えて見るがよい。この身体は父母の賜物である。その元は天地の令命と父母の丹精とに出る。まず、この道理から窮めて、天の徳に報い、父母の恩に報う行いを立てるべきである。この人の勤めを励む時は、来世は願わないでも、安穏である事は疑いがない。どうして現世を仮の宿と軽んじ、来世だけを大切とすることがあろうか。現在に父母があり妻子がある、これが現世の大切な理由である。釈尊がこれを捨て、世の外に立たれたのは、衆生を済度するためである。世を救うには、世の外に立たなければ、広く救い難いためである。たとえば自分が坐っている畳をあげようとする時は、外に移らなければ、あげることができないのだ。世間で一身を善くするために、父母や妻子を捨てるのは迷いである。しかし僧侶は世の外に立つ法を伝えた者であるから、世外の人であるために別である。混同してはならない。これが君子と小人の別れるところであって、私の道の安心立命はここにある。
2026.03.25
新井奥邃(おうすい)という人林竹二先生と森信三先生が別々の文脈で新井奥邃という人に触れられ、深い敬愛を示されている。「新井奥邃(1846-1922) 明治のキリスト教伝道師にしてトマス・レイク・ハリスの弟子。隠者。 仙台藩士の家に生まれ、藩校養賢堂に学ぶ。のちに江戸の昌平黌に留学するも戊辰戦争に従軍。さらに榎本武揚の幕府海軍に入り函館まで転戦。同地ではじめてロシア正教を知る。維新後は捕縛を恐れて友人宅にかくまわれていたが、この潜伏期間中にキリスト教信仰を深めている。やがて森有礼に見出され、1871年にアメリカのハリス教団に送り込まれる。教団ではおもにハリスの秘書として原稿を整理し、印刷出版に従事している。 1875年、ハリスとともにサンタローザに移住してさらなる信仰労働生活を送る。 1899年、実に28年余の教団生活ののちに日本に帰還。ほぼ無一文という身の上であったため、友人知人宅を転々とする。 1903年、巣鴨に私塾「謙和舎」を開き、伝道生活に入る。名誉欲など微塵もない人柄であり、一枚の写真も肖像画も残さぬまま隠棲し、1922年、巣鴨の謙和舎にて死去。享年77歳。 新井はハリスの信仰を引き継ぎ、生涯を貧のなかで過ごした。謙和舎には奥邃の無私無欲の人柄を慕う人が集い、幾多の奥邃語録が編まれていった。かれの塾に出入りした人間のなかには、内村鑑三や田中正造といった明治日本を代表するキリスト教関係者も見受けられる。」とある。いわゆる、キリスト教徒にして隠者である。しかも明治を代表する人物に深い霊的影響を与えた人物である。林竹二先生は「田中正造と新井奥邃」の論文で谷中村の闘いの中で田中正造がいかに新井奥邃という人との出会いで救われたかを詳述している。「久々にて新井奥邃氏を訪うて治す。厄介とまる。安眠す。ほとんど深山に寝たるごとし。清風静かに、身辺和らかに神心清きを感ず。」「安眠す」に田中正造の幼子が母のもとで安らかであるような気持ちまで感得できる。「新井奥邃氏と話す。一泊厄介を得て親しく長時間を対話するごとくするも、一物の存するなきがごとし。ただ何事か心清まりて高尚にすすむを覚ゆ。これ神のめぐみのみ。神は物をさして教えることなし。すべてを育するのみ。」田中正造の闘いの一生を考える時、この人と会うことに思いをいたす。森信三先生の教養小説「隠者の幻」の主人公のモデルは、新井奥邃師と西晋一郎先生の重ね合わせだという。「全国的な遊歴をして、漁師や農民などあらゆる職種と階層の人々の声に耳を傾けてみたけれども、結局自分というものが、根本的に名利の念を断たなければ、いかほど民衆の中に身を投じてみても、人生の根本真理は得られぬということが分かってきたのです。そこで主人公は、ついに意を決して比叡山の洞窟にこもることになるのです。 この主人公にはモデルがあるかとよく聞かれますが、強いてお答えするとすれば、わたくし自身がこの世でお目にかかる機会のなかった、明治以降最深の隠者というべき「新井奥邃先生」と、今一人は先ほど申した西晋一郎先生でありまして、卓れた学者でありながら、「現代の隠者」と申し上げるべき幽深な風格の方でした。 奥邃先生については、没後50年の近頃になって、一部の具眼の人々の間に知る人が出来かけているようですが、田中正造がその晩年、最も深く尊敬していた方でありまして、正造が晩年キリスト信者になったのも、この方の感化影響と申してよいのであります。 新井奥邃という名を初めて知ったのは、今から六十年以前のことでありますが、山川丙三郎先生のダンテの「神曲」の名訳の巻頭についていた序文こそ、実は新井奥邃先生の「語録」の一部でありまして、「日本にも一人の隠者がいる、その名を“新井奥邃”という」ことが、深く心に刻まれたのであります。 爾来六十余年後の今日まで、それが私の心中に消えずに生きているのであります。その後古本屋巡りをする際には、何とぞこの人の著述を見つけたいものだと、探し求めたものでしたが、見つからなかったのであります。 それゆえキリスト教関係の人に逢うごとに、いつも「新井奥邃という方についてご存知ないでしょうか」とお尋ねしたものでしたが、知っている方には出逢わなかったのであります。ところが京大の大学院に入った頃だったと思います。」「夫れ生命は知るべくして説くべからず。纔に之れを説けば真と違ふ。又生は感ずべくして知るべからず。之れを期するは私智なり。無我と反す」田中隆裕先生の訳「そもそも生命というものは知るべきものであって、人に説くべきではない。わずかであってもこれを説くならば真理から離れていくものである。また生は感じるべきものであり、頭で理解しようとしてはならない。頭で理解しようとするのは、私欲があるからである。これは無我と反することである」横田南嶺 生命は説くべからず
2026.03.25
【速報】イラン最高指導者・モジタバ師、戦闘終結に向けた米との交渉許可か イスラエルメディア報道3/24(火) イスラエルメディアは24日、イランの最高指導者モジタバ・ハメネイ師が戦闘終結に向けたアメリカとの交渉を許可したと報じました。イランのアラグチ外相が先週木曜日にアメリカのウィトコフ特使と電話会談して伝えたもので、モジタバ師は「イラン側の条件が満たされる前提で早期終結を承認した」ということです。イラン側はこれまで、アメリカとの接触を否定しています。
2026.03.25
「永平家訓抄話」澤木興道 1-5 そこでこれから下に外道の目録があげてある。「兄弟(ひんでい)」というのは皆様ということである。「兄弟(ひんでい)須らく知るべし」皆様すべからく知るべし。外道は「明無く暗無く」明ということは悟り、暗ということは迷い。明ということは差別、暗ということは平等。明ということは二、暗ということは一。こういういろいろないい方がある。あるいは哲学とか思想とかいろいろいうのが、この外道のどこかにひっかかっているのである。新興宗教のごときには、大いにひっかかりがあるわけである。わたしがどこやらで講演しておったら、あとで質問してもよろしいかといって、あなたはなぜ眼鏡をかけておるか、自分で治らんですかという。それはあとで聞いたら「生長の家」の信者で、「われわれに病いなし、とこう思うたら近眼でも治る」というのである。自分の近眼くらい治っても治らんでもいいじゃないか。わたしはそんなことなど感えたことはない。そんなことはほったらかしておいたらよい。西有穆山禅師が赤痢を患うたときに、日に何十遍血便をたれる。その西有禅師が、おれが治ったら五位の不能語を開講するというので、寝転んで『五位訣』の下調べをしておる。「あなたご病気のときに・・・」というと、「尻は尻で勝手にしておるわい」といわれた。病気は病気で勝手にさしておけばいい。わたしらでも年寄ったらいつも達者過ぎてしようがないということはない。一切その時その時の身体の調子にまかせぱなしである。 そこで「兄弟(ひんでい)須らく知るべし。明無く暗無く」と。これは無理な話である。あるものはあるのじゃ。明は明じゃないか。ふくろうにいわせたら、今、日が暮れた、明るいというだろうし、鶏にいわせたら、今、夜が明けた、明るいというだろう。それをよく物がわからんというと、片方にとらわれる。ブルがどうとかプロがどうとか、男がどうとか女がどうとか、片寄ってはいかん。全体が一目に見えなければ邪見を起こす。全体が一目に見えんから、「明無く暗無く」というようなことをいうのである。(「永平家訓抄話」p.226-227)
2026.03.25
26「伊藤七郎平翁伝」鷲山恭平撰 その35◎勤勉貯蓄に係る講話 遠江 伊藤七郎平 その3次に人民相互の恩です。仏法でいわゆる衆生の恩と申すそうですが、すなわち人民は互いにその職職によって業をして不自由を欠かさないようにするので、たとえばあって官員方は政府にあって、人民が安心して行うように保護してくださる。われわれ農民は日々田畑を耕して米麦や野菜すべてのものを作り出して、かみ 天皇陛下から しも工商人に至る。貴賎貧富の論なくこの作り物を供給して、今日万民の衣食をつかえしむることであります。商人はわれわれが作るところの茶や生糸とか、職人がこしらえる器械、織物などすべてのものを、甲の地から乙の地に持っていって、乙地からまた甲の地の不自由なものを持ってきて、互いに交換をし、また遠く海外にわが産出物を輸送して財に替え、望む所に応じてその品物を足すという商人の徳であります。職人はわれわれが住むところの居宅をこしらえて、雨露を防ぎ、橋を掛けて、往来の便を与え、船を造って航海に利用し、現在最便神速の鉄道を敷いて汽車を通し、電信を架して数百千里の遠隔の地と速やかに会話するという便利のものをこしらえる。またわれわれ農民が耕やすときに用いるすきや鍬、鎌万般すべての器具を調えるために都合よく不自由を欠かさず、安心してその業をすることが出来る。これはみな職工のお陰であります。このように今日われわれが安心して衣食住が出来るというのは、一つも自分一人の力ではない。やはり人民互いの恩であって、決して一人で万般のことをするのは、とうてい出来るものでありません。これがすなわち仏家のいわゆる衆生の恩であります。次に人民相互の恩です。仏法で所謂衆生の恩と申すソーですが、則ち人民は相互いに其その職々に由り業げふをして不自由を欠かさぬ様やうにするので、仮令たとへば官員方は政府に在て人民の安堵あんどにして行うるる様やうに保護して下さる。吾々農民は日々田畑を耕して米麦野菜総すべてのものを作り出して上かみ 天皇陛下より下しも工商人こうしやうじんに至る貴賎貧富の論なく此の作り物を供給して以て今日万民の衣食を支つかへしむることであります。商人は吾々が作る処の茶生糸とか職人が拵こしらゆる器械織物等凡てのものを甲の地より乙地に持ち乙地より又甲地の不自由なるものを持ち互に交換をし又遠く海外に我産出物を輸送して財に替へ望む所に応じ其品物を足すと云ふ商人の徳であります。職人は吾々が住む処の居宅を拵こしらへて雨露を防ぎ橋梁けうれうを掛けて往来の便を与へ船を造て航海に便じ、当時最便神速なる鉄道を敷きて汽車を通し電信を架して数百千里の遠隔の地と速すみやかに談ぜると云ふ便利のものを拵こしらゑる。又吾々農民が耕やすに用ゆる処の鋤すき鍬くわ鎌かま万般凡ての器具を調ととのふるが故に都合よく不自由を欠かす安心に其業をすることが出来る。之れ皆な職工のお陰であります。此の如く今日吾々が安心に衣食住の出来ると云ふのは一つも自分一人の力でない。矢張人民相互ひの恩で在て決して一人して万般のことをするのは到底出来るものでありません。之れが即ち仏家の所謂衆生の恩であります。
2026.03.25
191二宮翁夜話残篇【12】尊徳先生の家に出入する者が言った。私は今日真岡(まおか)でこんなことを聞きました。真岡町と久下田町(くげたまち)との間の道は敷地とのはばが十一間(けん)である。道は公共の土地であるから久下田町に米を運送しての帰り路に、道ばたの草を刈りとって戻ろうかと考えましたと。尊徳先生はおっしゃった。おまえの屋敷は本歩(ほんぶ)は五畝歩(せぶ)である。しかるに一反余りあるであろう。もし人が来ておまえの屋敷の竹や木を切り取っていけばどうか、おまえは黙っておられるか。よく考えるがよい。たとえ道路や敷地であっても自村と他村との区別がある。そのような事は言うべき事ではない。隣りの家の者の屋敷は広いから、余分の土地の竹や木で自分が必要であればは遠慮なくきり取ろうと言うならば無道である。自ら私の屋敷は余分な土地が多い、竹や木で入用でしたら遠慮なく切り取られてもいいですよと言うのは大変よいことだ。道ばたの草であっても、久下田の町のほうで、屋敷との間の地が十一間(けん)もあるから、他村の人であっても馬を引いて空しく帰るは損でしょう、草を刈って付けて行ったらよいでしょう言うならば大変よろしいことである。こちらから刈り取っても何の支障があろうと言うならば悪い、考えなくてはならない。二宮翁夜話残篇【12】翁(をう)の家に出入(でい)る者曰く、予(よ)今日(こんにち)真岡(まおか)にて聞きたり、同町(どうちやう)と久下田町(くげたまち)との間の道は敷地と巾(はば)十一間(けん)なりと。道は公地(こうち)なり、されば久下田町(くげたまち)に米を運送して帰路に、路傍(ろぼう)の草を刈りて戻らんと考へたりと。翁(をう)曰く、汝(なんぢ)が屋敷は本歩(ほんぶ)は五畝歩(せぶ)なり、然るに一反余(たんよ)あるべし。人来りて汝(なんぢ)が屋敷の竹木(ちくぼく)を取らば如何(いかん)、汝(なんぢ)黙するや、能(よ)く思ふべし。仮令(たとひ)道路敷地といへども自村と他村との区別(くべつ)あり、右様(みぎやう)の事はいふべき事にあらず。隣家(りんけ)某(ぼう)の屋敷は広し、さればとて余歩(よぶ)の地の竹木(ちくぼく)の入用(にふよう)の方(かた)は遠慮なく伐(き)り取らんと云(い)はば無道(むだう)なり。自(みづか)ら私(わたくし)の屋敷は余歩(よぶ)多し、竹木(ちくぼく)の入用の方は遠慮なく伐(き)り取らるるも苦しからずと云(い)ふは誠によし。路傍の草も、久下田(くげた)の町にて、屋敷地(やしきち)十一間(けん)なれば、他村の人たりとも馬を引いて空しく帰るは損なり、草を刈りて付け行くもよろしと云はば誠に宜(よろ)し。此の方より刈り取るも何かあらんと云(い)はば悪(わろ)し、思ふべきことなり。
2026.03.25
念共讃裡(ねぐさり)抜粋序第一篇 求法1.駅長をやめて来い2.シャンとせぬ心3.毛一筋の望み4.後生一大事とは5.楽屋住まい6.浄玻璃鏡7.ただ念仏して8.火中の白蓮9 信心と念仏10-1 ご法席の和上 1-110-2 ご法席の和上 1-2第二編 安心1 寒が明いた 2 六種震動の日3 一等国民4 譲りに譲りて端然たる老紳士問うて曰く、「阿弥陀様の一番大きなご苦労を聞かして頂きとうございます。」和上、莞爾として静かに会釈され、「それは大無量寿経に説いてありますが、アノ説き方は万分の一にも当らんくらいです。とても凡夫には分からん。分らんで分るように説いてあるのが大無量寿経じゃが、そのまたお経が分りかねますじゃ。南無阿弥陀仏。ちょうど今頃になりますと、蚊がチョイチョイ出てくる。母親が倉から蚊帳を出してくるー。その時母親は『この蚊帳はわしが嫁入りしてくる時、どこそこでー、いくらでー、母親が買うてくれたアー』など、思い出しながら持ち出してくるのじゃが、子供たちはこれをただ『倉から蚊帳が出て来たー』としか思わんようなものー。」 その適切な、しかも時期にふさわしきご譬喩に紳士、頭を垂れて、懺悔の様子、面に顕われたり。和上また語を継ぎて、「この間、ここへ帰ると(平野)子が生まれておりました。嬰児(あかご)は有難いですなアー。南無阿弥陀仏。あかごを見ていると有難い。あかごが泣き出すと親は腹がヘッタのかと思って乳をやる。乳を含めてもまだ泣くー。ゆすってやったらよいかしらんとゆすってやる。それでもまだ泣く。抱いてやったらと抱いてやってもまだ泣く。おんぶしてやったらとおんぶしてもまだ泣きやまん。ああもしたら、こうもしたらと母親の苦心はなかなかですのやー。どうしたら子供の気に入るのじゃアーというてなア・・・・・ 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏しかしいろいろと手をかえ品をかえ、しまいには、とうとう泣き止めさすー。あの通りですなアー。お阿弥陀様がこのヒネクレタ曲がりに曲がりた凡夫を、泣かすまい泣かすまいと難儀してついにお阿弥陀様の方から、曲がりに曲がり、譲りに譲りてー。易ク持テ称エ易キ名号を案ジ出シタマヒテ・・・・・。南無阿弥陀仏。」 また一人にその感激は高まり、老紳士と共に張り上ぐる念仏相続。和上暫くしてまた思い出したるごとく、「博多の和上様が仰しゃるのに、お客様があると母親がお茶を出そうとする。それを子供が見付けて「私が持って行く」というてきかん。それで母親が子供の両手の上から盆を持って、後からついて行って、お客様に進める。お客様は「おたからおたから」というて子供を誉めるー。子供は褒められて嬉しがる。その姿を見て母親もまた喜ぶというようなものじゃーと、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。大きなもののお計らいに預かって一声一声のお念仏が出て下さるー。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。病気にかかるのでも和上は、ちょうど子供が凧を揚げている時に、暴風雨(しけ)でも来ると思うと、皆がギュット紐を手繰って下ろすように、お計らいによって抑えておいて下さるのじゃ・・・・・。」と仰せられました。実に万劫にも遇い難き華座(けざ)に侍るを得て、この悲懐の涙を絞る幸い。老紳士をして尋ねしめたもうその善巧(ぜんぎょう)。(略)
2026.03.24
「永平家訓抄話」澤木興道 1-4 仏法というものは作ったものではない。また平等でもない。差別でもない。差別も平等も凡夫も仏も悟りも迷いも、一切合切ごそっと入るものであるが、しかし凡夫は仏ではない。たとえば趙州の公案にも、犬がワンワンとないていたから「狗子に還って仏性ありやまたなしや」と問うと、趙州が「無」と答えた。また「一切衆生悉有仏性、犬ころに何で仏性がないのですか」と重ねて聞くと、これに「業識のあるあり」と答えた。つまり犬のときには仏性はないのじゃ。しかし一人でも坐禅しているときは仏性がある。盗人するときには仏性はない。坐禅しているときは仏性がある。パンパン買いしているときには仏性がない、助平がある。それだけの違いがある。それをパンパン買いしも、仏性がいつもあるかというと、それが邪見である。それくらいようわかった話はないのだけれども、それがわからん者が取扱うておるととんでもない間違いをやる。そこで「外道に混乱すべからず」とおおせになる。 外道というのにもいろいろあるが、断見常見、平等に執着する者と差別に執着する者と、そのもとは何かというたら我である。自分というものを標準にしてどれだけありがたそうな顔をして涙を流して念仏申しても、それは仏法ではない。自分くらい蹴とばしてもおいて考えなければ、自分が威猛高(いたけだか)になることは何でもない話。悟りを聞いたら何になる、管長になるという、それでは一つの技術で、高文試験に骨折っておるのと同じこと。大したことはない。だから外道に混乱すべからず、である。(「永平家訓抄話」p.225-226)
2026.03.24
26「伊藤七郎平翁伝」鷲山恭平撰 その34◎勤勉貯蓄に係る講話 遠江 伊藤七郎平 その2また祖先や父母の恩であります。ご先祖において田畑には排水のために溝をうがち、用水のために水路を開き、山林には樹木が生育して、田畑山林が整然として、その区画境界も定めおかれ、農であれ商であれその為そうとするところの職業の計画もなされたために、その方向にくるしむということもなく、衣食住の不自由とも思わないで、お蔭で今日を送ることを得るのであります。また身に近いのは父母の恩です。二宮先生は幼年から極貧であって、そしてもっとも親に孝行を尽されたる人であります。先生なお老年に至るまでも、父母の恩について話しをされる、時には涙をこぼして、人に語られたというほどでずいぶん先生がやかましく説かれたことであります。われわれがこの世にあるのも、親の賜ものであり、父母があるからこの身もある。まず最初十ヶ月の間は母の胎内に在って、一日もして安心な心をもされず労苦をかけ、ようやくにして、生れて後もまた三年ほどは親の懐ろにあって、あえてその労をも悟らず、乳を飲んで生長する。この間は汚れたものも意に介することなく、その嗜好に応じて保育をされ、日夜、心力を尽したまう。それより三年にして懐ろを離れてようやく耳に聞き、目に黒白を分って、鼻にかぎ、口に片言もいい、手に物を持ち、足も立ち歩くというようになり、まず六才くらいになっても、やはり日々父母の食を食べ、父母の衣を着て、父母の部屋にいて、その家庭を受け、また小学校に至っても、その学資を受けて次第に生長して、後ち始めて人となることでありますが、その間の養育される千辛万苦というものは譬えるに比がない。父母の大恩は、一日片時とも決して忘れることは出来ない。人々またこの恩を受けないことはないのであります。ある人の歌に、 子を持ちて嬉しき事は父母の 深き恵みを深く知らるるとこの通りで最初の間は、ずいぶんお互いにもあることで、さほど親のご恩も十分には感じないようです。さて自分が子を持って、千辛万苦をするとその労も知って、父母の深い恵みというものもなるほどと、十分に知ることの出来るようになるものでございます。また又祖先父母の恩であります。ご先祖に於て田畑には排水の為めに溝を穿ち、用水の為めに水路を開き、山林には樹木の生育して田畑山林整然として其その区画境界けいかいも定め置かれ、農まれ商まれ其為さんとする処の職業の計画もなされたるが故に其その方向に困むと云ふこともなく、衣食住の不自由とも思わず、お蔭で今日を送ることを得るのであります。又身に近くは父母の恩です。二宮先生は幼年より極貧にして而して尤も両親に孝行を尽されたる人でありまする。先生尚ほ老年に至る迄も父母の恩に就て話しをせらるる時には涙をこぼして人に語られたと云ふ程で随分先生の八ヶ釜敷やかましく説かれたことであります。吾々が此世このよにあるも親の賜もので父母あるから此身このみもある。先づ最初十ヶ月の間は母の胎内に在て一日もして安き心をもさせず労苦を掛け、漸くにして生れて後のちも亦三年が程は親の懐ろに在りて、敢て其その労をも悟らず乳を飲んで生長する。此の間は汚れたものも意に介するなく其その嗜好に応じて保育をされ、日夜心力を尽し玉ふ。其れより三年にして懐ろを離れて漸く耳に聞き目に黒白こくはくを分ち鼻に嗅かぎ口に片言も云ひ、手に物を持ち足も立ち歩行あるくと云ふ様やうになり、先づ六才位に成なりても矢張やばり日々父母の食を喰ひ父母の衣を服し父母の室に居りて其その家庭を受け、又小学校に至るも其その学資を受けて漸々ぜんぜん生長して後ち始めて人となることでありますが、其その間の養育さるる千辛万苦と云ふものは譬ふるに比がない。父母の大恩は一日片時と雖も決して忘るることは出来ない。人々又此恩を受けざることはないのであります。或人の歌に。 子を持て嬉しき事は父母の 深き恵みを深く知らるると此の通りで最初の間は随分お互いにもあることで、左程さほど親の御恩も十分には感ぜぬ様です。偖さて自分が子を持もって千辛万苦をすると其その労も知り、父母の深きお恵みと云ふものも成程なるほどと十分に知ることの出来る様になるもので御座ります。
2026.03.24
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