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皆様、こんばんは。残暑厳しいですね。さて、21日からお届けしてきました学童疎開船「対馬丸」の話も今日が最終回です。時計の針を、1944年(昭和19年)8月に戻して下さい。台風の影響で救助艇はすぐには来られませんでしたが、翌23日の午後3時頃、近くで漁をしていた開洋丸と栄徳丸が、遭難を知り救助に来ました。漂流中の学童・一般疎開者83名と砲兵隊7名、乗組員21名が救助されました。24日には、台風で1日出発を見合わせていた救助艇・第一拓南丸がやってきました。高波の中の救助作業は困難を極めましたが、学童・一般疎開者90名と砲兵隊13名、乗組員33名が救助されました。小関1等運転士もその1人でした。25日には第三拓南丸もやってきて、遭難者を救助しました。この遭難で生き残った学童は疎開者の生存者177名中、わずか59名にすぎなかったのです。「1944年8月22日、22時23分、悪石島真方位137度、6.7マイル(北緯29度33分、東経129度30分)、貨客船1隻撃沈す」「対馬丸」を撃沈した米潜水艦「ボーフィン」のジョン・H・コーバス艦長が記した航海日誌です。彼はこの船が「軍の輸送船」ではなく、「子供達を乗せた学童疎開船」という事を知らなかったのでしょうか。「ボーフィン」は、この「ナモ103船団」が門司を出航した時から、暗号の解読でこの船団に狙いをつけており、速度の鈍かった「対馬丸」はいいカモだったのかもしれません。この「ボーフィン」は、「真珠湾攻撃」の翌年・昭和17年に進水し、今まで多数の日本の輸送船や軍用船を撃沈している事から別名「真珠湾の復讐鬼」と呼ばれていたそうです。一方、最後まで学童達の救出に尽くし、学童達と共に海底へ沈んだ「対馬丸」の乗組員は、西沢武雄船長、菅田芳治2等運転士、西川三五郎機関長ら24名でした。その中には、有村看護手も含まれていました。難を逃れた2隻の疎開船「暁空丸」と「和浦丸」は、その近くでしばらく待機して様子をうかがった後、護衛艦である駆逐艦「蓮」と砲艦「宇治」に守られるようにして、8月24日に長崎へ入港しました。一方、「対馬丸」の遭難者達は鹿児島へ向かい、怪我のひどい者は病院へ、それ以外の者は各旅館などへ振り分けられました。当時は、安全面・機密面などから「無事ついた」という様な電報やハガキを出す事は禁じられていたので、遭難者達はただ鹿児島で「無事助かった」という思いの日々を送っていました。中には漂流の末、奄美大島に流れ着いた人もいました。そこで島の人達から、温かいもてなしを受け、「自分は生きているのだ」と感じていたのです。しかし、船が沈没した悪石島などには死体が流れ着き、島の人々はその供養に追われていたそうです。悪石島にある「対馬丸」遭難者慰霊碑[写真提供:T.N様]遭難した人の中には、荷物を「暁空丸」や「和浦丸」に載せていた人もいました。反対に「暁空丸」と「和浦丸」に乗っていて、荷物を「対馬丸」に積んでいたために、荷物を失った人もいました。遭難した全ての人の願い、それは「早く沖縄へ帰りたい」という事と、 「おなか一杯食べたい」というものでした。旅館や病院の食事だけでは、到底足りなかったのです。今なら公職選挙法で禁じられている事ですが、地元出身の貴族院議員(現在の参議院議員)の中には、義捐金をあちこちの旅館や病院へ置いていく人もいました。「対馬丸」遭難の知らせは、沖縄県官僚上層部の耳にも入りました。しかし、強い秘密が守られました。もしも、「対馬丸」が遭難したことが発覚した場合、台湾や本土への強制疎開が出来なくなるからです。そんな中で、数人の子供が船に乗せられ、憲兵の付き添いの元、沖縄へと帰ってきました。「これから特別の計らいで、お前達を親元へ返す事にする。但し、『対馬丸』の事は誰にも言ってはいけない!言った者はスパイ行為とみなす!スパイは銃殺刑だ!!」憲兵は子供達に強く言い、子供達はまるで罪人が護送されるかのように、1人ずつ人力車でそれぞれの家へ帰されました。「誰にも言わないから、うちのOOちゃんはどうしたの?」「お船でいったい、何があったの?」子供達は、親や親戚、そして他の親達から矢継ぎ早に質問を連日、浴びせ掛けられました。「ぼく、知らないよ!!」聞かれた子供は、その度に泣いて叫びました。しかし、「対馬丸」が航海途中に潜水艦の雷撃を受けて沈没した事は、いつしか何処からか伝わってしまったのです。すると、校長宅には連日の抗議をする親が押しかけました。「うちの子どもをかえせ!!」「あんたが強制的に疎開させなければ、うちの子供は死なずに済んだんだ!!」「うちの子どもを殺したのは、あんたら校長だ!!責任とれ!!」石をぶつけられ、物を投げられ、連日押しかけてくる親の抗議にたまりかねて、夜逃げをしてしまった校長もいるそうです。そしてその年の10月、那覇は激しい空襲を受けます。これが悲劇の「沖縄戦」の始まりだといいますが、本当の「沖縄戦」の始まりは、1944年8月22日の、この「学童疎開船対馬丸遭難」なのです。現在の「小桜の塔」。沈みゆく「対馬丸」を模っています。この「小桜の塔」には、「対馬丸」で犠牲になった学童の名前が彫られています。戦後の昭和28年、那覇市内の「波の上宮」の所に慰霊碑「小桜の塔」ができました。この台座には、「対馬丸」が沈没した悪石島のみたま石を敷き詰めよう、という事になり、当時の琉球海運株式会社の協力を得て敷き詰めたところ、1個の過不足もなく収まった、という話があります。昭和36年には、最後まで子供達の救出に尽くし 「対馬丸」と運命を共にした西沢武雄船長の未亡人・ふみ子さんが手作りのひな人形を捧げました。また、幸運にも救出された小関1等運転士は、その後会社への「対馬丸顛末書」や、子供達の死亡証明書を何度か書く機会がありました。その都度1人1人の姿が浮かび上がり、ペンを持つ手が震えました。その後航海に復帰した後も、遭難現場を通る度に、海底へ沈んだ「対馬丸」の船艙に小さな遺体が群がり、穴のあいた箇所から子供達が這い上がろうとする、その子供達の姿が見えてならなかった、と後に語っています。(「日本郵船戦時船史」から)その後、何度か「海上慰霊祭」等も開催されました。「対馬丸」とそして多くの遭難者達が眠る悪石島沖の遭難地点で立ち止まり、黙祷を捧げ、供養の品々を海へ投げ込むというものでした。1997年12月、海洋科学技術センターの無人深海調査機「ドルフィン3K」が、「対馬丸」と記されている船首部を発見しました。遺族らは、この部分の引き揚げを要求しましたが、船体の腐食が予想以上に激しいのと、沈没地点の深さがかなりの深さのため、現在の技術をもっての浮揚は不可能、という結論が出されました。そして1998年12月、船体の浮揚は正式に見送られる事になりました。そして数年前、「小桜の塔」近くに「対馬丸記念館」がオープンしました。貴重な遺品の展示や、当時の船室の再現などがされています。沖縄御来訪の折には、是非訪ねてみて下さい。対馬丸記念館ホームページこの記事の執筆にあたりまして、以下のものを参考文献と致しました。◎日本郵船戦時船史[日本郵船株式会社]◎ああ学童疎開船対馬丸[対馬丸遭難者遺族会]◎海に消えた対馬丸と七四一人の学童たち[三共出版社]◎対馬丸遭難の真相[琉球新報社]特に素人の私に貴重な資料や、船体写真を御提供下さいました、日本郵船株式会社総務部広報室様には、この場をかりてあつく御礼申し上げます。海の中へ消えていった741人の、罪もない子供達…。こんな戦争は、二度と繰り返してはならないのです…。最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。尚「楽天広場会員」以外の方で、御意見・御感想・コメントのございます方も、どしどし下さい。ご参加、お待ち致しております。最近ブームになっている「油そば」。私もこの間食べました。ここのショップのは美味しいですよ!
2006.08.23
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皆様、こんばんは。今日も暑かったですね。今日は「行政書士講座」でしたが、疲れていた余りに途中で居眠りしてしまいました…。さて、話を本題に戻したいと思います。時計の針を62年前の1944年(昭和19年)の今日に戻して下さい。「大丈夫でしょうか。」「今夜さえ乗り切れば、明日は無事に着きますよ。」心配して尋ねてくる引率の教師達に、船員達はこう答えました。空は曇りがちで、積乱雲や乱層雲等夏型の雲が空を覆い、時々スコールが降りました。台風が近づきつつある証拠でした。うねりは、昨日の那覇出航の時よりも高くなっていた。船艙では、朝食のカボチャが配られていました。「対馬丸」ら3隻の通称「ナモ103船団」は、間もなく奄美大島の焼内湾の近くに差しかかろうとしていたのです。「これからが一番危険な海域となる。引率の先生達は、今夜だけは眠らないで警戒していて欲しい。昨日乗組員から教わった救命具の着け方、そして退避の仕方等を学童の全員に今一度徹底して欲しい。」輸送指揮官の若い少尉は、教師達に伝達しました。前夜船酔いになった子供達も、うその様に治って先生達の心配を吹き飛ばすような元気な姿に戻り、一晩中寝ないで騒いだ子供もいました。彼らには楽しい船旅でした。乗組員達も砲兵隊達も暇のある限り、幼い無邪気な乗客とつきあいました。戦争の話や、前に遭難して助かった話などをしました。しかしその頃「対馬丸」の船長室では、西沢武雄船長と輸送指揮官の若い少尉が激しい議論を繰り広げていたのです。48歳の西沢船長は、開戦以来各方面の戦場を駆け巡ってきた航海のベテランで、このトカラ列島付近が一番危険な区域であると言う事を誰よりも知っていました。「本船は半老朽で、速度も最高に出しても10ノットしか出ない。従って狙われたら最後だから、複雑なジグザグコースを採用して、雷撃を避けるより他はない。」この西沢船長の意見に輸送指揮官は、「だめだ!それでは九州への到着が遅れる。全速力で突破して、この海域を逃げ出すのが一番だ!」と反論しました。長い議論が交わされましたが、「この船団の輸送指揮官は私です。船長は私の指示に従っていただきます。」と、西沢船長の意見は抑えられ、船団は之字運動C法にてほとんど直線的に進むことになりました。それが悲劇を産むとも知らずに…。之字運動C法とは、いわばワンパターンの動きを何度も繰り返す、という船の進み方です。これを米潜水艦「ボーフィン」が狙っているとも知らずに…。うねりは夕方になると尚、高くなりました。「今夜は救命胴衣を着けて起きているんだぞ。万が一の場合は、船の傾いた反対側から飛びこむんだ、いいな!おい、お前、その格好で救命胴衣を着けていると海の中で凍え死ぬぞ。」教師達は、輸送指揮官から伝達された事を学童達に伝えて回りました。その頃救護室では、石川裕子教諭が病人に付き添っていました。有村看護手によれば、どうやら盲腸の可能性があり、長崎に到着次第、すぐに病院に入れる必要がある、とのことでした。夜になり、3分の1位の学童は甲板に出て寝ていました。そこには1坪半位の救護筏があったので、学童達はその筏をハッチカバーやデッキの上に広げて寝場所を作っていました。しかし、手足伸ばして寝る程の余裕はなく、膝を抱えるようにして寝ていました。悪い事に雨もぱらついてきたので、船艙に戻る学童達もいました。これが運命の分かれ道とも知らずに…。西沢船長、小関保1等運転士(現在の職種で言えば「航海士」)、菅田芳治2等運転士ら甲板部の乗組員は、さっきまで騒いでいた学童達の声も静まり、エンジンと波の音がするだけの黒い海を一点に見つめていました。何としてもこの危険な海域を抜け出し、今夜だけは無事に切り抜けて学童達を内地に送りたい、そんな思いだけでした。しかし運命の時刻はやってきたのです。午後10時11分10秒、「対馬丸」が悪石島沖6.7マイル地点に差し掛かったとき、船橋の伝声管から「雷跡発見、左舷約80度、距離500、本船に向かって疾走中」という声が流れました。西沢船長は直ちに、「取舵一杯、両舷全速前進!」と命じました。むろんこの事態を知っているのは、乗組員と砲兵隊員の数人だけでした。米潜水艦「ボーフィン」から発射された魚雷は、数発あり、1発は交わし、もう1発も船首部分に交わしました。しかしその24秒後、第3魚雷が左舵側船首1番船艙に、その2秒後には第4魚雷が左舵側の船橋近くに命中したのです。ズドン!その衝撃は、まるで骨と肉がバラバラになるのでは、という程の強い衝撃でした。その6秒後には次の魚雷が左舷船尾に命中し、船尾楼と機関員室(砲兵隊員室?)を吹き飛ばしました。船尾にあった高射砲は、音を立てて海へ沈んでいきました。「総員退船せよ!」西沢船長は命じました。「起きろ!魚雷だぞ!すぐに甲板に出ろ!荷物なんかほっとけ!!」教師達は船艙に飛び込み、学童達を甲板へ上がらせようとしました。穴の開いた部分からは、既に海水がゴウゴウと浸水して来ています。学童達はうろたえるばかりでした。「怖いよー、せんせぇー。」15分20秒には、第8魚雷が機関室の辺りに命中し、大爆発を起こしました。「対馬丸」の心臓部がやられたのです。大音響と共に、同時に船内の電気は消えました…。「起きてよう!!」病人の子供を抱え、教員免状などの貴重品を持ち、医務室から石川教諭は出ました。「お願いです!ボートに乗せてください!!この子は急病人なんです!!」今、吊り下げようとされている救命ボートに向かって、石川教諭は叫びました!!しかし、その大爆発は救命ボートを吹き飛ばし、救命ボートに乗っていた学童や疎開者達は、絶叫と共に一気に暗黒の海へ叩きこまれたのです!「小関君、菅田君、子供達を頼むぞ!!」西沢船長は叫びました。小関1等運転士は甲板へ出て、他の乗組員達と共に破壊を免れた救命艇を降下させ、同時に救命ブイや樽を海上に投げ込み、「みんなこっち側から飛べ!早くしないと船に巻きこまれるぞ!!」と怒鳴りました。しかし学童達にはブルワーク(手すり)が高すぎて、自分でよじ登って飛び込む事がなかなか出来ません。「子供を投げろ!!」もどかしくなった小関1等運転士は他の乗組員達や教員達に命じて、ブルワークにつかまって震えている子供達を、次々と海へ投げ込みました。「怖いよーっ!!」という子供達の叫び声がしていました。次々と子供達は、投げられていきます。一方菅田2等運転士は、船艙に駆け込みました。そこには、甲板まで出られない子供たちが多数残っていました。何とかして梯子を上らせようとするのですが、幼い彼らの手では何度やっても落ちてしまいます。真っ暗な艙口からは、「せんせぇーっ!!」「たすけてぇーっ!!」「お母ちゃあーん!!」という、学童達の最後の絶叫が聞こえています。それを聞いているのが、小関1等運転士ら船員達や砲兵隊員達にとっては何とももどかしく悔しかったでしょう。船尾が沈みかけた午後10時19分頃、煙突には子供を背負った4.5人の婦人達が登っており、悲鳴が暫く聞こえていましたが、煙突が倒壊すると婦人達の絶叫と共に海に落ちていきました。この頃、輸送指揮官の少尉は「我の責任なり」と、船長室で割腹自殺を遂げていました。小関1等運転士も、海へ飛び込みました。すると「対馬丸」の船体は2つに折れ、午後10時23分、完全に沈没しました。その後には、燃える重油と乗客達の叫び声だけが聞こえていました。僚船の「暁空丸」と「和浦丸」は、炎上の様子から「対馬丸」の沈没遭難を認めました。そして護衛艦の駆逐艦「蓮」と砲艦「宇治」に守られるようにして、この場を立ち去ったのです。一見残酷なようですが、これには理由がありました。1つは、もしここで「蓮」なり「宇治」が爆雷を投下した場合、海上の遭難者を巻き添えにする恐れがあります。もう1つは救助に手間取っているうちに、他の2隻が危険にさらされる可能性もあります。こう判断して、この船団はこの地を去ったのです。海へ飛びこんだものも、船の渦に巻き込まれて沈んでいくものや、船の重油に焼かれて死んでいくものがありました。おびただしい数の死体が生まれていきました。それを見ながら小関1等運転士は、10人位の子供を乗せた筏につかまりながら、流れてくる子供を次々と筏にしばり付けていました。高波は、子供達を海の底へ引きずり込もうともしていました。生き残った他の船員や砲兵隊達も、筏まで泳ぎ着いては子供達をしばりつけていました。「みんなかたまっていろ。夜が明けたら、必ず救助船は来る。それまでの辛抱だ!!」小関1等運転士は子供達に向かって叫びます。何隻もの救助筏が流されていましたが、体力のないもの、低学年の子供は、海に次々と落ちていったのです…。それを見る度、年長者、特に船員や砲兵隊達は無念にかられるのでした。砲兵隊達や船員達は軍歌を歌い、子供達を勇気付けたりしました。「対馬丸」を撃沈した米潜水艦「ボーフィン」号[写真提供:東京都・T.N様](現在は、ハワイの「ボーフィンパーク」に展示されています)尚「楽天広場会員」以外の方で、御意見・御感想・コメントのございます方も、どしどし下さい。ご参加、お待ち致しております。
2006.08.22
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皆様、こんにちは。今日も残暑厳しいですね。皆様は沖縄の戦争というと、何を連想されますか?やはり「ひめゆりの塔」の激戦ですか?しかし、それよりも前にとても悲しい事件が沖縄ではあったのです。それも、犠牲になったのはいたいけな子供達でした。今日から3回にわたって、その話をしたいと思います。それでは、時計の針を1944年(昭和19年)7月に戻す事にしましょう。7月7日、サイパン島が陥落した日、沖縄県知事宛てに緊急指令の電報が届きました。その内容は「沖縄から老婦女子を計10万人、本土へ引き揚げさせよ」というものでした。すぐに各校の校長が集められ、臨時の校長会が開かれました。その頃沖縄の小学校は、どこも軍部に接収されており、子供達はまともに教育を受けられる状態ではありませんでした。既にこのトピックスでも述べましたが、内地では既に学童集団疎開が進められており、沖縄県でもそれを早急にやれ、というものでした。校長から担任へ、担任から父母へ。子供達が「ヤマト(内地)へ行く雪が見られる」、「お船に乗ってヤマトへ行ける」と、まるで修学旅行のようにはしゃいでいる中、教師や父母達は、一抹の不安を抱えていました。それは経済的なものもありましたが、道中の安全が大半でした。その頃、東シナ海周辺には米潜水艦が多数潜航しており、今までにも嘉義丸、湖南丸、台中丸、富山丸、宮古丸といった、県民になじみの深い輸送船や連絡船が、次々と潜水艦や魚雷の餌食となって沈没していました。これは極秘にされていましたが、いつしか情報は伝わっていました。学校の校長や隣組の世話人の中には「疎開へ行ってもいいが、必ず軍艦で行く様にしてくれ」と請願する所もあった程です。学校の教師達も学童の家々を次々と回り、疎開への協力を促しました。それでも、道中の安全を考えていたのか、参加希望者はなかなか集まりませんでした。業を煮やした沖縄県知事や那覇市長は、「何としてでも疎開希望者を集めろ!」とハッパをかけました。中には天妃国民学校の田名先生みたいに、「ここではまともな教育はできない、向こうで昭和の松下村塾を作るんだ」、と情熱に燃えて疎開者集めに走る先生もいました。そのようにして、何とか各国民学校ともも疎開者をかき集めました。中には、親に内緒で疎開の申込をする子供もいました。そんな中で8月21日、3隻の学童疎開船が那覇から長崎へ向けて出航する事になりました。1隻は、元・日本郵船所属の「対馬(つしま)丸」。この物語の主人公です。もう1隻は「暁空(ぎょうくう)丸」。香港の九龍造船所を接収した時に接収した「英国からの分捕り船」でした。そして、元・三菱商事所属の「和浦(かずうら)丸」。3隻の中では一番小さい船で、3隻とも貨物船を改造した輸送船でした。この3隻は駆逐艦「蓮」と砲艦「宇治」に護衛されながら、門司から上海へ一度行き、上海で兵士と干繭1,775梱と胡麻1,000梱を積みこみ、那覇へ来たものです。そしてその帰りに学童達を乗せて、長崎へと向かう予定でした。(大城立裕氏の小説「対馬丸」によれば行先は「鹿児島」となっていますが、これは大きな誤りで、後に私が「対馬丸」の保有会社だった日本郵船株式会社から入手した「日本郵船戦時船史」によれば、遭難状況にも「那覇から長崎向け航海中」と出ています。また、大城氏の小説の中で市長が「この船は3隻とも憎い英国からの分捕り品です」とスピーチしているシーンを書いていますが、先にも書いたようにこれも大きな誤りで、実際の「分捕り船」は僚船の「暁空丸」だけです。)敵の潜水艦に見つかってはまずい、という事なので派手な見送りはされずに、疎開者達は「大発」と呼ばれる舟艇(はしけ)に乗って、それぞれの船へ別れました。中には、疎開船が軍艦ではなくただの輸送船と知るやいなや、出発を取りやめた学校もありました。「軍艦じゃないんですね。」心配した学校の校長が言いました。すると市長は安心させるかのように、「大丈夫ですよ。3隻とも今まで、何度も危険を乗り越えてきた、運の強い船ですから。」と言いました。18時35分、「対馬丸」の教師側の責任者でもあり、今回の疎開の責任者となった田名先生の笛の合図の後、3隻の疎開船は2隻の護衛艦に守られるようにして、那覇港を出航したのでした。3隻の船は三角形の形を組むようにして進み、その外側に護衛艦が付くような形でした。子供達は救命胴衣を支給され、吊るされた梯子で客室となる、船艙(ダンブル)へと案内されました。そこは高さ3メートルほどの貨物室を上下2層にして、棚のように区切ってあるものでした。また普段貨物を入れる中央の大きな穴のところには、厚さ10センチ位の板が敷かれ、カバーをかけてここに各学校の引率教師や家族、または世話人などが陣取っていました。何度も遭難訓練が繰り返され、船員や教師達の手によって、救命胴衣の付け方や、船の遭難時の対処法の説明がありました。この「対馬丸」に乗っていた学童の数は741名、その他疎開者920名の合計1,661名でした。積載していた貨物に付いては、既に述べましたので省略致します。やがて夕食のライスカレーが出ました。普段は口に出来ないご馳走に、子供達は美味しい、美味しい、と大はしゃぎで食べていました。まるで修学旅行へ行くかの様に。この「対馬丸」は西沢武雄船長以下86人の乗組員の他、輸送指揮官の若い少尉が1人と、砲兵隊員が41名乗船していました。子供達があまりにも騒ぐので、輸送指揮官は教師側の責任者・田名先生をすぐに呼びつけ、怒鳴るように次の事をきつく注意しました。(1)船の航路を探られる恐れがあるので、サトウキビの食べかす等を海に捨ててはいけない。(2)むやみに甲板に出てはいけない。(3)敵の潜水艦はレーダーを持っているので、子供達に大声を出させてはいけない。田名先生はすぐに子供達を集め、輸送指揮官と共に、これらの注意を言い聞かせました。子供達は無邪気に「はぁい」っと、返事をしました。特に輸送指揮官は、「敵の潜水艦はレーダーを持っているぞ!」と子供達を半ば脅すように言いました。それでは、この「対馬丸」についてご紹介する事にしましょう。この「対馬丸」は大正3年12月22日、イギリス・ラッセル会社製の日本郵船株式会社所属の貨物船で、総トン数6,754トン、長さ135.64m、主機(エンジン)はレシプロ2基で最大4,396馬力、速力12ノットというものでした。大正6年6月21日、横浜~東回りパナマ運河経由~ニューヨーク航路第1便として就航し、昭和9年には横浜~ハンブルグ航路へ移籍するなど世界の海を駆け巡りました。しかし昭和12年を過ぎると、戦争の激化と老朽化から、あまり長距離の外航航路用としては使用されなくなり、昭和16年9月より陸軍期間傭船として徴用され、輸送船として活躍するようになったのです。「対馬丸」はこの3隻の中では一番大型でしたが、また一番老朽な船でもあり、速度も実際は10ノット(ほぼ自転車並みのスピード)しか出ない状態で、僚船の「暁空丸」と「和浦丸」が「対馬丸」のスピードに合わせているような状態でした。そして、護衛艦である駆逐艦「蓮」と砲艦「宇治」も「対馬丸」にほぼピッタリどちらかがくっついている様な状態でした。しかも、この護衛艦2隻も老朽艦だったと言うのですから、無事に目的地・長崎へ着けるかどうか心配な状況になってきました。さらに、子供達が寝静まった23時頃、「対馬丸」の機関に故障が発生し、速度は9ノットまで落ちました。また「真珠湾の復讐鬼」とも言われた米潜水艦「ボーフィン」が、執念深く久米島沖で待ち伏せしていたのです…。この続きは、また明日。学童疎開船「対馬丸」船体写真(提供:日本郵船株式会社)※尚、この写真は私が日本郵船株式会社様から資料を頂いた時に、共にいただいたものです。尚「楽天広場会員」以外の方で、御意見・御感想・コメントのございます方も、どしどし下さい。ご参加、お待ち致しております。
2006.08.21
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皆様、こんばんは。この日はさんざんな1日でした。親からはガミガミ言われ、友人関係でもめていました。家にいるのが嫌だったので、近くの駅前のDコーヒーショップで勉強。するとふと列車に乗りたくなりました。しかし、お金は余りない状態。そしてカバンをあさっていると、東武電車のパンフレットが出てきました。東武の浅草駅へ行ってみよう、こう思い地下鉄銀座線で東武鉄道浅草駅へ行ったのでした。浅草と言えば、いつも友人のA氏と浅草1丁目1番地の神谷バーで、1杯250円の「電気ブラン」(「電気ブラン」の話はこちらのページを見て下さい)を飲んでいますが、今日は松屋2階にある東武浅草駅へ。まずは1階の「特急券売り場」へ。本当は日光なり鬼怒川なり宇都宮なり遠くまで行きたかったが、懐具合が寂しい状態。そこで日光・鬼怒川方面ゆき「スペーシア」や赤城方面ゆき「りょうもう」号より特急料金が安い、東武宇都宮ゆきの「しもつけ」号で春日部までの「ちょこっと家出」を決行する事にしました。東武浅草駅と言えば、いかにも「下町のターミナル駅」という感じで好きな駅の一つです。JRの東京駅や新宿駅、上野駅にはない、「独特の雰囲気」があるような気がします。やはり「国際的観光地」日光への玄関口だからかもしれません。映画「下町の太陽」でも、若き日の倍賞千恵子が扮するヒロイン「マッちゃん」が、この浅草松屋でデートを楽しむシーンがあります。喫茶室でお茶を飲んだり、屋上の観覧車(現在はありません)に乗ったり。思わず、彼女が歌う「下町の太陽」のテーマ曲を口ずさみたくなります。3月18日に新宿~東武日光・鬼怒川温泉間の直通特急が運転開始されました。しかし、やはり日光・鬼怒川ゆきの特急列車の始発駅は浅草駅の方が良く似合います。「スペーシア」も新宿駅の洗練されたプラットホームに停車しているよりも、ちょっと薄暗い、浅草駅の「特急列車専用ホーム」に停車している方が絵になります。今回の主役は、浅草18時30分発の東武宇都宮ゆき特急「しもつけ281号」 。かっての赤城急行「りょうもう」号に使われていた1800系車両を改造した350系車両を、特急として使っています。そのため「スペーシア」や「りょうもう」号とはサービスや設備の面で劣るため、特急料金も安く設定されています。(註:平成11年3月より、赤城急行「りょうもう」号は車両が200系、250系新型車両に統一されてスピードアップされたため、急行列車から特急列車に格上げされました。この「伊勢崎線急行」の話についても後日、取り上げたいと思います。)1番線ホームには、北千住ゆきの各駅停車が停車していました。ふと見ると、8000系のオリジナルマスク車両です。このマスク、今ではほとんど見かけることがない。よし、写真だ。ギリギリの所まで入って、デジカメのシャッターを切った。小学校6年生の時も、この1番線ホームから10時50分発の臨時快速「林間学校1号」で行きました。あの車両も8000系で、前部にはヘッドマークが付いていました。そんな思い出のある駅なのです、東武鉄道の浅草駅は。特急専用ホームには、18時15分発の赤城ゆき特急「りょうもう35号」が発車を待っていました。18時15分に赤城ゆき特急「りょうもう35号」が発車していくと、鬼怒川温泉からの旅を終えてきた「スペーシアきぬ128号」が隣りの快速・区間快速専用ホームに入線してきました。方向幕はすぐに「回送」となりました。車内清掃を終えると、すぐにお隣り・業平橋の検車区に回送されて整備されるようです。やがて「回送」表示で、350系の4両編成が入って来ました。18時30分発の東武宇都宮ゆき特急「しもつけ281号」です。「特急 スノーパル」とか「急行 スノーパル」と表示を変えて、「特急 しもつけ」の方向幕に。この列車の停車駅に「おもちゃのまち」という駅がありますが、どんな所なのかなぁ、と空想をめぐらせたりもしました。車内は、リクライニングこそしないものの、ずらりと回転式クロスシートが並んでいます。またシートの背に折り畳み式テーブルが付いているのも、昔の「国鉄の特急列車」らしいです。また「東武らしさ」といえば、フットレストが全席に付いているのが豪華さを出していました。携帯電話が普及している今日では、ほとんど使う人はいませんが、このように3号車のデッキにはカード式の列車公衆電話が設置されています。1号車と4号車のトイレ前には、この様に清涼飲料水の自動販売機があります。18時30分の定刻に、特急「しもつけ281号」は東武宇都宮目指して出発しました。東武電車は、浅草駅を出ると隅田川の鉄橋を渡ります。その鉄橋から見える夜景を見ながら、缶ビールを開ける。すると「さらば東京よ。」という気分になってしまいました。このまま遠くまで、終点の東武宇都宮まで行ってしまいたい、そんな思いでした。しかし、経済的な事情がそれを許しませんでした。次の停車駅は北千住です。ここでかなりの乗客が乗ってきました。地下鉄日比谷線、半蔵門線からの乗り継ぎ客かもしれません。土曜日と言う事もあって、車内には空席が目立っていましたが、これが平日なら「ホームライナー」的な感じで、もっと混むのだろうなぁ…。草加、新越谷といった見覚えのある駅を、高速で特急「しもつけ281号」は飛ばしていきます。しかし所詮は元・急行用電車。やはり日光・鬼怒川特急「スペーシア」や、赤城特急「りょうもう」号のスピードにはかないません。ちなみに浅草から春日部までの距離は、同じ東武鉄道の東武東上線に換算したら、池袋から川越とほぼ同じ距離になります。どうせならこの300系を1編成、東上線に移籍させて「ホームライナー」的特急を運転させては、と言いたくなります。停車駅は、池袋の次がふじみ野、川越、川越市、坂戸、東松山、森林公園、武蔵嵐山、そして終点・小川町。愛称は勿論、名列車「フライング東上」の名前を復活させて。そんな事を考えているうちに、目的地・春日部到着。もっと乗っていたいのですが、降りなくてはなりません。春日部でも、かなりの乗客が降りるようです。春日部駅に停車する特急「しもつけ281号」やがて特急「しもつけ281号」は、夜の中へと消えていったのでした。この他、350系の6両編成バージョンである300系を使った特急「きりふり283号」というのが、平日のみ南栗橋まで運転されています。「きりふり」の名前は、古くは1700系「白帯車」特急に使われ、後に日光線急行として復活しましたが、その後廃止されて、現在は浅草21時30分発という、「ホームライナー」的特急になっているのです。この「きりふり」号、夏などの観光シーズンには「臨時特急」として東武日光まで乗り入れるとか。もちろん、「スペーシア」とは設備・サービスの面でも格差があるので特急料金は格差を設けています。まるで昔の1720系「DRC」と1700系「白帯車」のようですね。東武1700系ロマンスカー「白帯車」模型春日部駅と言えば、かっては接続する野田線電車の「ウイーン」という釣り掛けモーターの音が聞こえてきたものですが、現在は全て無くなりました。そして東武鉄道から釣り掛けモーターの電車が間もなく全廃されるらしいです。さて、気分も落ち着いたので、帰途につくことにしましょうか。旅に出たい時。お出かけする人も、そうでない人も、日本各地の観光情報なら、国内旅行情報サイト「日本の旅ドットコム」を是非、ご活用下さい。尚「楽天広場会員」以外の方で、御意見・御感想・コメントのございます方も、どしどし下さい。お待ち致しております。全国各地の宿泊施設の検索は、こちらでどうぞ。最近ブームになっている「油そば」。私もこの間食べました。ここのショップのは美味しいですよ!
2006.08.19
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皆様、こんばんは。ここの所、国家試験が近いのと体調が思わしくなく、執筆が遅れがちで申し訳ありません。疲れがちで、昼間も寝てばかりの毎日です。それでは、本題に移る事にしましょう。激しい戦争の中で「エルド」と「マカニー」の2頭の象を守り抜いた、名古屋の東山動物園。その観覧が再開されたのは、1946年(昭和21年)3月17日の事でした。一方その頃、東京の上野動物園にいたのは、サルや豚、山羊、ツル等ばかりでした。子供達の「大きな動物を見たい」、「猛獣を見たい」という希望を満たすために、園内で猛獣映画等が上映されたりしましたが、所詮、映画は映画。本物とは迫力は違いました。その頃「毎日小学生新聞」に、「妹に象を見せたい」というある少年の新聞記事が掲載されました。「エルド」と「マカニー」の2頭の象が生きている事が新聞等で報道されると、子供達の間で「この象が見たい」という声が出るようになりました。すると、「台東区子ども議会」で「東山動物園の象を、1頭だけでも上野動物園に貸してもらえないだろうか」という意見が出るようになりました。そこで、上野動物園の当時の古賀園長は昭和24年4月1日、「是非、本物の象さんを見せて下さい」という、子ども議会の「嘆願書」を持って名古屋の東山動物園を訪れました。その後「台東区子ども議会」を代表して、中学1年のO君とHさんが5月5日、名古屋の東山動物園を訪れました。二人はまず、名古屋市の「子ども議会」に出席し、その後塚本名古屋市長と北王東山動物園園長に「象を1頭貸して下さい」と陳情しました。そして鉛筆と紙を出して、「誓約書」まで書かせようとしました。しかし「エルド」は当時29歳、「マカニー」は当時32歳と高齢。東京まで行く体力がある様には思えませんでした。そこで、まず2頭を引き離してみる事にしました。「エルド」をオリに残し、「マカニー」を浅井飼育係が外に連れ出すと、大声を上げて鳴き、叱られてはしぶしぶ歩く。一方「エルド」は「マカニー」を追いかけて、鉄の扉に体当たりする。長年連れ添ってきた姉妹だけに別れたくないのです。結局「東京へ象を貸すのは不可能」という結論が出た時、Hさんは大声を上げて泣きました。この光景は、市の関係者の他、輸送を受け持つ国鉄の関係者も見ていて「可哀想で見ていられなかった」そうです。それだったら「東京の子供達を名古屋へ招待して、象を見せたらどうか」という意見が出ました。国鉄や名古屋市、日本交通公社等が協議した結果、一旦はその年の5月22日に運行する、と決まりました。しかし当時は輸送事情も悪く、鉄道運行に関する権限はCTS(連合軍民間運輸局)が持っていたため、簡単には事は進みませんでした。国鉄だけでは、臨時列車1本すら自由には走らせる事が出来なかったのです。けれども、「本物の象を見たい」という子ども達の声は強く、東京・名古屋の鉄道局長から部課長クラス、末端の職員に至るまで、ともかく相手が連合軍のCTSや現場機関のRTO(鉄道輸送事務所)の関係者であると見るや、「子供達にどうか象を見せてやって欲しい。そのための臨時列車の運行を許可して欲しい。」と請願を何度も繰り返しました。そして6月19日、東海道本線の彦根~名古屋間に子供達や学校の教師達を乗せた「象列車」の第1便が、日帰りで運転されました。更に6月25日夜、東京駅から1,156名の子供達を乗せた「象列車」が遂に運転されたのです。客車14両編成で、当初は10両編成・1,000名を予定していましたが、希望者が多かったため、東京鉄道局では稼動可能な客車を、あちこちの客車区からかき集めて運転しました。当時の新聞報道等によれば、下り便が東京発21時50分頃、名古屋7時47分着。上り便が名古屋発15時頃、上野着22時01分だったといわれています。名古屋に到着した子供達は、貸切の市電で東山公園電停まで行き、黄色い衣装を着た2頭の象・「エルド」と「マカニー」と対面したそうです。この時は名古屋の子供達との交歓会も開かれ、東京の子供達からは象に赤い腹巻きが贈られ、お返しに名古屋の子供達からは「瀬戸物」の小さな象がプレゼントされました。その後「象列車」は、三重、京都、大阪、滋賀、埼玉、千葉、神奈川、石川、福井からの各府県からも運転され、 「総勢一万人以上」の子供達が、2頭の象「エルド」と「マカニー」に会いに来るために、名古屋を訪れたのです。詳細は不明ですが、この「象列車」は近鉄でも運転され、上本町~近鉄名古屋間(伊勢中川連絡)を走ったそうです。また「台東区子ども議会」ではこの年の5月10日、参議院に「象輸入懇請」の請願書を提出しています。これを受けたインドのネール首相(当時)は、日本の子供達に1頭の像をプレゼントする約束をしました。そして、その象には首相の愛娘である「インディラ」の名前を付けることも告げられました。こうして9月25日、象の「インディラ」は上野動物園に到着したのです。その後昭和25年、国鉄では当時最大の有蓋貨車・ワキ1型を改造して「移動動物園」にして、4月28日から9月30日までの間、北海道・東日本の17都市を巡回し、大歓迎を受けました。このように多くの子供達に愛された、東山動物園の2頭の象「エルド」と「マカニー」は1963年(昭和38年)の秋にこの世を去りました。その後1990年(平成2年)8月26日、品川~名古屋間に41年ぶりに「第2回・ぞうれっしゃ号」が運転されました。普段は寝台特急列車を牽引する、EF65型電気機関車の1000番代(1115号車)が、ブルーの14系座席客車6両を牽引するもので、当時とはかなりの格差でしたが、それでも370名の子供達や市民グループが、当時を「語り継ぐ旅」をしたものでした。地元の子供達とは「ぞうれっしゃのうた」を歌ったり、楽しい一時を過ごしたそうです。おもちゃもお菓子も満足に無かった戦後直後。子供達は象さんに会える事だけを楽しみに、この「象列車」に乗ったものです。今にも「ぞうれっしゃのうた」が聞こえてきそうです。[参考文献]◎「ぞうれっしゃがやってきた」(小出隆司著・金の星社)◎「ぞうをください」(鶴見正夫著・金の星社)◎「象のいない動物園」(斉藤憐著・偕成社)[アニメ映画原作]◎「昭和を走った列車物語」(浅野明彦著・JTBパブリッシング)尚「楽天広場会員」以外の方で、御意見・御感想・コメントのございます方も、どしどし下さい。ご参加、お待ち致しております。
2006.08.18
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皆様、こんばんは。今日はわたらせ渓谷鉄道に乗って「星野富弘美術館」へ行ってきました。その時の話はまた後日、バーチャルツアー形式でお話したいと思います。今日も家族連れで賑わう恩賜上野動物園。本園の門を入ってまっすぐの所にある、ゾウのオリには4頭のゾウ達がいて、子供達の人気を集めています。現在の上野動物園の元気な、4頭のゾウ達しかし、そこから右に行った林の入口に小さな「動物慰霊碑」が建っているのにお気づきの方は少ないのでは、と思います。最近では、この話もアニメ映画「象のいない動物園」や、小学校の教科書「かわいそうなぞう」等で取り上げられるようになったため、知られる事も多くなりました。脇には、子供達が折った千羽鶴などが置かれています。上野動物園の「動物慰霊碑」それでは皆様、時計の針を1943年(昭和18年)に戻して下さい。1941年(昭和16年)12月8日に開戦した「大東亜戦争(太平洋戦争の事を日本ではこう呼んでいた)」が、激しくなっていくにつれ、ミッドウェー海戦での惨敗など日本の状態は悪くなりつつありました。そんな中で1943年(昭和18年)7月1日、東京府は「東京都」に変わりました。その初代長官(この頃は、まだ「知事」とは呼ばなかった)となった、大達茂雄(元・シンガポール市長)は国内の状況があまりにも、ノンキなのに驚きました。そんな中で軍部から、1つの命令がその年の8月16日に出されました。 「もし万が一動物園に爆弾が落とされて、獣舎が壊されて猛獣達が逃げ出したらパニックになる。猛獣達は全て殺すように!」という要求でした。動物を我が子の様に可愛がっている飼育係にとってみたら、これはとんでもない要求でした。当時から食糧事情も悪く、動物のエサどころか人間の食糧にまで事欠いているご時世ですから、軍の要求は絶対でした。そして、軍部から劇薬(私の記憶が確かでしたら「硝酸キニーネ」だった様な気がします)が渡されました。これを、動物のエサに混ぜよというのです。まず翌日の8月17日に、北満ヒグマとクマ各1頭が毒入りのエサで薬殺されました。翌日18日には、ライオン、ヒョウ、朝鮮黒クマがやはり毒入りのエサで薬殺されました。この時は「猛獣達の調子が悪いので臨時休園」という看板が掲げられました。その他、ニシキヘビなども首を切り落とされたり等の手段で殺されました。また薬殺ができない(毒入りのエサを食べない)動物に対しては、大変残酷な話ですが、射殺や刺殺などの手段も行われました。しかし、象だけは賢い動物で、毒入りのジャガイモを決して食べませんでした。そこで劇薬を直接、象に注射するという手段もとられました。けれども象の皮は厚く、注射針が途中で折れた程で失敗に終わりました。そんな折、仙台の動物園から「象を引き取ってもいい」という話が来ました。園長や象の飼育係は、喜びました。しかし、喜んだのもつかの間でした。当時は貨物列車の輸送に余裕が無かったのです。(1986年(昭和61年)に公開された映画「子象物語~地上に降りた天使」では、武田鉄矢扮する飼育係が子象を楽団のグランドピアノに見立てた箱の中に入れて東京から長野まで疎開させる、というシーンがありました。このシーンも、勿論、静岡県の大井川鉄道で撮影されました。)勿論、これを知った軍部は激怒しました。「このご時世に、何を考えているんだ!!こんな時期に象なんか運んでいる余裕なんかない!もしも仙台の動物園が空襲を受けて象が逃げ出したら、誰の責任になるんだ!まずは東京が手本を見せなきゃならないんだ!この大東亜戦争に勝ったら、象なんか1頭と言わず何頭でも買ってやる!」その頃、他の動物園でも同様の理由で、次々と猛獣達があるものは射殺、あるものは毒殺されていきました。飼育係の涙と共に…。そこで象は「絶食させて餓死させる」事になり、一切のエサと水を与える事が禁じられました。上野に3頭いた象のうち、まず8月29日に「ジョン」が死にました。9月4日には「動物慰霊式」が営まれ、「動物達もお国のために死んでいったのです。」と訓示がありました。そして子供達から花輪が捧げられました。一方、象の方は「花子」と「トンキー」がふらふらになりながらも生きていました。軍の命令で、エサも水も与えられず、それでも何とか気力で生きていたのです。そして、ふらふらの体で芸をするようになりました。芸をすれば、何かエサが貰える、そう考えていたのでしょう。ついに飼育係の一人は軍の命令を破り、エサと水を持ってきました。「お願いだ!食べてくれ、飲んでくれ!」こう叫びながら2頭に与えました。しかし2頭とも、もう食べる気力残っていなかったのです。こうして9月11日に「花子」が、23日には最後まで残っていた「トンキー」も死んでいったのです。 戦争を理由に殺された動物の剥製(江戸東京博物館の特別展示「かわいそうなゾウ-戦時中処分された動物たち」から)上野動物園の「動物慰霊碑」の位牌には「殉難猛獣霊位」と記されており、最終的に処分されたのは14種類27頭といわれています。また、当時の新聞記事では「非常手段を取らず、穏やかな方法で処置」(1943年9月8日付「朝日新聞」)と出ていますが、これは読者、特に子供達への配慮とみられています。この「戦争で犠牲になった象」の話は、あの藤子不二雄(故・藤本弘)氏の人気マンガ「ドラえもん」の第5巻「ぞうとおじさん」でも取り上げられておりますので、ご関心のある方はそちらもご覧下さい。しかし、そんな激しい戦争の中でも2頭の象を守り抜いたのが、名古屋の東山動物園です。戦争が始まった当時、名古屋の東山動物園には、サーカス団からやってきた「キーコ」と「アドン」、「エルド」と「マカニー」の4頭の象がいました。東京などで猛獣が処分されると、名古屋でも軍部は当然、猛獣の処分を要求してきました。しかし、当時の北王英一園長は「動物に罪は無い」と、これを断固拒否しました。ところが1944年(昭和19年)12月13日、名古屋市も空襲を受けたため、過剰に反応した軍部と警察(特に特高警察)には抗しきれず、午後3時からヒョウ、トラ、クマ、ライオン等が毒入りのエサで毒殺されたり、軍部の小銃で射殺されたりしました。その数日後には、ツキノワグマ等も「処分」されました。4頭の象たちも当然、軍部と警察からは「処分」を要求されましたが、北王園長らが「常時鎖で前足を拘束する」という条件で、中部軍司令部に助命嘆願をしたために「処分」はしばらく延期となりました。しかし、動物園の周りを警護していた自警団からは「このご時世に、動物を守ろうなんて非国民だ」とののしられました。1945年(昭和20年)1月13日から、東山動物園は軍の糧秣庫として使用される事になったため、観覧が停止されました。そんな中で1月末には「キーコ」が、2月には「アドン」が病死しました。2月15日には動物園も空襲を受け、自警団たちの怒りはつのるばかりでした。生き残った2頭の象、「エルド」と「マカニー」や他の動物達の食糧を確保しようと、飼育係達は東奔西走しました。動物の糞を近所の農家へ持っていき、肥料として使ってもらう代わりに食糧を貰っていましたが、それだけでは当然足りずにやむなく、軍が備蓄していた糧秣からマイロ(キビの実)やフスマを少しずつ盗んでは、象に与えていたといいます。これには軍もうすうす気づいていたのでしょうか、あるいは軍部の中にも動物擁護派の軍人がいたのでしょうか、中部軍管区司令部のM獣医大尉はこれを黙認していたばかりか、わざとマイロの入った袋を象のオリの通路に「置き忘れていく」こともありました。さすがの兵士達も「大尉殿のご命令」とあっては見て見ぬふりを続けていました。このような「陰の協力」もあってか、「エルド」と「マカニー」は、1945年(昭和20年)8月15日の終戦を迎える事が出来たのです。そして、この「生き残った象」を見るために全国から子供達が特別列車・通称「象列車」で集まってきたのですが、その話については、また明日書きたいと思います。尚「楽天広場会員」以外の方で、御意見・御感想・コメントのございます方も、どしどし下さい。ご参加、お待ち致しております。
2006.08.17
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皆様、こんばんは。数日間のご無沙汰でした。そろそろ国家試験が近いため、勉強とリフレッシュのため数日間、御休みをいただいておりました。その間はのんびりしたり、博物館めぐりや美術館めぐり、列車の「小さな旅」をしていました。その時の話は、また追々していきたいと思います。さて昨日まで3回にわたって「学童集団疎開」について特集してまいりました。この「学童集団疎開」について関心を持ったのは、小学校5年生の時、手島悠介著「二十八年目の卒業式」という本を読んだ時でした。学童集団疎開に行った女の子と、東京へ残留した子とのふれあい。そして昭和20年3月9日の「運命の帰京」に、東京大空襲。ここで親友同士は、逃げた場所によってそれぞれの運命を辿るのです。「東京大空襲」については、映画にもなった高木敏子著「ガラスのうさぎ」等で関心を持っていました。この「学童集団疎開」、同窓生達がお礼の旅をした、という話が新聞にも掲載された事があります。それだけ、地元の人との絆は強かったのでしょう。しかし、中には「疎開先の事は思い出したくもない」という方もいます。そうです、疎開先で「いじめ」に遭ったからです。修学旅行などと違い、何日も共同生活を送るのですから、生活の中に「ボス」が誕生してくるのは自然の事かもしれません。しかし、それが時にはいじめに発展する事もあるのでした。それは、前にも書きましたが、男児より女児の方が陰湿だったらしいです。 (具体的な内容は書けませんが)また、かの有名な藤子不二雄氏(故・藤本弘氏)のマンガ「ドラえもん」でも、「白ゆりのような女の子」という作品で、のび太のパパの学童疎開体験を描いています。(確か3巻に出ていたと思います)この作品はのび太のパパが、謎の女の子から貰ったチョコレート。勿論、当時としては大変な貴重品でした。藤子氏の作品では、映画にもなった「少年時代」(こちらは相方・安孫子氏の作品です)で、学童集団疎開と地元のガキ大将の交流を描いています。ご興味・ご関心のある方は是非、お読みいただければと思います。このトピックスを作成するにあたって、多くの「学童集団疎開」に関する本を調べたり、実際博物館に行って調べたり、博物館の公開講座で「学童疎開の体験を語る」という会に参加したり、あるいは当時、実際に疎開学童を受け入れていた旅館の方にお話を聞いたり、というようにしてこのトピックスは完成しました。二度と、悲しい戦争が、そしてこのような学童疎開が起こらない様な世の中になる事を願って、このトピックスを終わりたいと思います。最後まで読んでくださいました皆様、本当にありがとうございました。旅の季節、お出かけする人も、そうでない人も、日本各地の観光情報なら、国内旅行情報サイト「日本の旅ドットコム」を是非、ご活用下さい。尚「楽天広場会員」以外の方で、御意見・御感想・コメントのございます方も、どしどし下さい。お待ち致しております。全国各地の宿泊施設の検索は、こちらでどうぞ。最近ブームになっている「油そば」。私もこの間食べました。ここのショップのは美味しいですよ!ここの海鮮グルメは、食べて損なし!美味しい海の幸食べたい!という人はこちらのショップへ是非どうぞ。
2006.08.14
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皆様、こんばんは。今日も暑かったですね。今日は、川越へ友人に会いに行ってきました。「小江戸」川越は、空襲に遭わなかったこともあり、昔ながらの町並みが残っている場所もあります。またゆっくりと訪れて、皆様にもその旅をいつかお楽しみ頂ければ、と思います。それでは、昨日の話の続きです。1945年(昭和20年)3月10日未明の「東京大空襲」をはじめとして、名古屋、大阪、神戸といった大都市が空襲を受ける様になりました。また空襲の対象はこれら大都市だけでなく、学童が集団疎開していた甲府や松本、小田原といった地方都市にまで及んできました。また空襲の他、P51型グラマン戦闘機による無差別機銃掃射が行われるようになったのも、この頃からです。そうなると、地方だからといって子供達も安心して暮らせなくなりました。中には、「東京の空襲で焼け出されたので、家族ぐるみで田舎へ疎開する」と言って、親や親戚が子供を引き取りに来るケースもありました。それは5月に再度、東京を襲った大空襲の後になると、多くなりました。この5月の空襲では、山手方面まで一面焼け野原になったのです。そこで、あちこちの疎開地で「再疎開」が行われました。一方、食糧事情はますます逼迫するばかりで、配給の食糧も遅配となり、疎開責任者の教師と疎開受入先との間でのトラブルも多発しました。中には学童のために、買い出しに出る先生もいたほどです。また、こんな話もありました。ある旅館を学寮にしていた学校の話ですが、そこに若い軍曹達が宿泊しました。まだ若い彼等は、すっかり学童達とも打ち解け、航空隊の話や、色々な話をしたり、一緒に遊んだりしました。そして、彼らは旅立っていきました。数日後のラジオ番組「少国民の時間」で、彼らが特攻機に乗り敵国の軍艦に体当たりした、というニュースを聞いた時、学童達はわっと声を上げました。女児の中には泣き出す子さえあったほどです。その数日後、彼らから子供達に宛てた「最期の手紙」が届いたのでした…。6月に沖縄が陥落し、7月になると、今まで兵役を免除されていた若い教師たちにも、召集令状(通称「赤紙」と言われた)が届くようになりました。学寮では壮行会が催され、当時唱歌で教えられていた「お山の杉の子」や、「同期の桜」などが歌われました。そして、駅まで先生を見送っていったのです。8月6日、広島に原爆投下。9日、長崎に原爆投下。8月14日、「翌日正午から、重大放送があるので必ず聞くように」とあちらこちらで通達が出されました。8月15日、正午。時報の後、その放送は始まりました。そう、昭和天皇による「玉音放送」です。子供達は何の意味か分からず聞いていましたが、大人達や先生達の中には涙を流す人もいました。日本は負けたのです。そして、1931年の「満州事変」から14年間続いた戦争は終わったのです。その事実を知らされた子供達の中には、信じられない、日本は必ず勝つんだ、と信じこんでいた子供もいました。でも、大半の子供達が思っていたのは「これでお母さんの所へ帰れる」、その思いでした。しかし、戦争が終わったといっても「学童集団疎開」はすぐに終わった訳ではないのです。都会の混乱や、輸送列車の都合等からすぐには帰れませんでした。その間は、地元の人達が演芸会や、相撲大会、映画会などの慰安会で、子供達を勇気付けてくれました。「学童集団疎開」が終わり、子供達が帰京の途についたのは昭和20年10月から21年3月の間だといわれています。お世話になった村の人にお礼を言い、疎開先を後にしたのでした。家族が迎えに来た人もいました。だが、その一方で帰れなかった子供達がいました。そうです、空襲で家族を失ったり、一家離散になった子供達です。彼らは友達が楽しそうに帰っていくのを、悲しげに見つめているばかりでした。昨日まで賑やかだった学寮も、今はしーんと静まり返り寂しいものでした。しばらくは疎開先に預けられていました子供達ですが、やがて施行された「児童福祉法」のもと、児童相談所経由で、各地に作られた児童福祉施設へと送られていったのでした。しかし、そこでの生活になじめずに脱走し、都会で浮浪児になった子供もいました。その中にはヤクザの手下になり、鉄砲玉にされて死んでいった戦災孤児もいました。昭和22年7月から3年半にわたってNHKラジオから放送された連続放送劇『鐘の鳴る丘』は、この児童福祉施設を舞台としたラジオドラマです。昭和23年には、松竹によって映画化もされ、シリーズ作品は3本作られました。この『鐘の鳴る丘』の舞台となった児童福祉施設については諸説ありますが、戦時中、岩手県に家族を疎開させていた作詞家の菊田一夫氏が、疎開先の旅館から見た江刺市南町(現在の岩手県奥州市江刺区南町)の岩谷堂町役場(現在の明治記念館)の建物をモチーフにしたと言われています。現在、明治記念館からは、午前7時と午後5時に『鐘の鳴る丘』の主題歌「とんがり帽子」のメロディーが流れています。 この主題歌「とんがり帽子」は、古関裕而氏の作曲で、暗かった当時の世相に明るさをともすようなメロディーでした。この曲とほぼ同時に流行した、並木路子の「リンゴの唄」や、藤山一郎・奈良光枝の「青い山脈」と並んで、当時の人達の愛唱歌となりました。それでは、このような悲しい「戦災孤児」達を二度と出す事がない様願って、この「とんがり帽子」の歌詞をご紹介(長いので1番のみ)して、この話題を終わりたいと思います。ご存知の方はどうぞパソコンの前で一緒に歌って下さい。1.緑の丘の 赤い屋根 とんがり帽子の 時計台 鐘が鳴ります キンコンカン メーメー子山羊も 啼いてます 風がそよそよ 丘の家 黄色いお窓は 俺らの家よ[主な参考文献]◎「十六地蔵物語-戦争で犠牲になった子どもたち-」文研じゅべにーる(著/原田一美 画/福田庄助 文研出版)◎「二十八年めの卒業式」(手島悠介著 岩淵慶造画・岩崎書店)◎「学童集団疎開」(浜館菊雄著)その他、江戸東京博物館、東京都慰霊堂等での取材から、この記事は完成致しました。旅の季節、お出かけする人も、そうでない人も、日本各地の観光情報なら、国内旅行情報サイト「日本の旅ドットコム」を是非、ご活用下さい。尚「楽天広場会員」以外の方で、御意見・御感想・コメントのございます方も、どしどし下さい。お待ち致しております。全国各地の宿泊施設の検索は、こちらでどうぞ。最近ブームになっている「油そば」。私もこの間食べました。ここのショップのは美味しいですよ!ここの海鮮グルメは、食べて損なし!美味しい海の幸食べたい!という人はこちらのショップへ是非どうぞ。
2006.08.13
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皆様、こんばんは。いろいろバタバタしていたら、こんな時間になってしまいました。今日の東京は、昼過ぎの突然の雷雨。すごかったですね。近くに落雷したのかと思う位、激しい雷の音がしました。それでは、本題に入りたいと思います。集団疎開をしている内に、もう一つの問題が出てきました。それは、ノミとシラミの発生です。あまり衛生条件が良くなかったのと、ろくに栄養をとっていなかったため、ノミやシラミにとっては格好の発生源となりました。そこで教師や寮母達は、学童たちの洋服をドラム缶に入れて煮沸消毒する等しましたが、あまり効果はなく、2~3日後にはまた別のノミやシラミが発生するという有様でした。駆除薬も当然なく、シラミ潰しやノミ潰しが子供達の日課ともなりました。しかし、楽しみもありました。地元の婦人会や子供会等が慰問行事をやってくれるようになったのです。音楽会、映画鑑賞会、交流相撲大会など。これは疎開学童達の寂しさを少しでも紛らわせてあげよう、という必死の心遣いでした。そんな中で1944年(昭和19年)12月23日、皇太子(現在の天皇陛下)が11歳の誕生日を迎えたのに当り、皇后陛下より「疎開児童のうへを思いて」と題して「つきの世を せおふへき身そ たくましく たたしくのひよ さとにうつりて」との御歌と、疎開学童ならびに教職員に対し御菓子(ビスケット)一袋宛が下賜される旨、前日の22日発表されました。食べ物に飢えていた子供達は大変喜び、御歌よりも御菓子(ビスケット)がいつ来るかを、楽しみに待っていました。御歌は歌唱指導が行われ、朝礼など事ある度に歌われたそうです。このビスケットは、明治産業(現在の明治製菓)川崎工場にて製造され、翌年昭和20年1月11日から2月24日にかけて、疎開各地に向けて発送されました。そのため、地域によって到着が早かったり遅かったりした地域があり、到着時期は一定ではありませんが、到着した際には「伝達式」があり、疎開学童と教職員に配られたそうです。1袋にはビスケット25枚25匁(93.75g)が入り、地元学童や普段お世話になっている地元の方にも分ける様、文部省の指示がありました。また、「皇后陛下の御思召」を親元に伝えるため、数少ないビスケットの中から更に何枚かを親元に送ったそうです。支給対象となったのは、集団疎開学童36万8,258人、先生・寮母・作業員・嘱託医等教職員4万8,513人の合計41万6,771人でした。当然、当時は砂糖が統制品だったので、現在の味覚からすれば「ビスケット」というより「乾パン」に近い様な味だったようですが、それでも食に飢えていた疎開学童達にとっては、「またとない贈り物」でした。しかし、日々つのるのは親元への恋しさばかり。中には線路伝いに集団で脱走したり、貨物列車にこっそりと潜り込んで東京へ帰ろうとした子供もいました。しかし、大抵は途中で捕まり「少国民として恥ずかしくないのか!」と先生から往復ビンタを食らうのがオチでした。1945年(昭和20年)の正月を、子供達は疎開先で迎えました。地元の人達の心づくしによる餅なども僅かながら出て、戦争中でありながらもちょっとした「正月気分」でした。しかし、この頃から大都市は軒並み空襲を受ける様になりました。そして、今までは対象でなかった国民学校1.2年生の学童や、幼稚園児・保育園児も集団疎開の対象となりました。さらに、疎開の学童は増えていったのです。そんな中で3月に、6年生が卒業と中学校受験のため帰京する事が決まりました。低学年の学童達はそれを羨ましげに見ていました。6年生達は「これで親元へ帰れる」と喜んでいました。東京・下町の国民学校6年生達は、昭和20年3月9日に東京へ帰ってきました。その晩は、数少ない食糧で作られた、お母さんの心づくしの手料理で楽しい一時を過ごしたのでした…。しかし、その「幸せな時間」も長くは続かなかったのです。ここまでお読みの皆様は、この日に何があったかはもうご存知ですよね。そうです、あの「東京大空襲」です。9日の夜10時30分に警戒警報が発令され、2機のB29が東京上空に飛来して房総沖に退去したと見せかけ、都民が安心した翌日10日の午前0時08分に第一弾が投下されました。東部軍管区司令部はまだ気付いておらず、当然ながら空襲警報も鳴りませんでした。7分後の午前0時15分に空襲警報が発令されましたが時は既に遅く、それから約2時間半にわたって絨毯爆撃が行われました。各機平均6トン以上のナパーム式焼夷弾を搭載した344機のB29の大群が、房総半島沖合から単機または数機に分散して低高度で東京の下町に浸入しました。このB29の大編隊は、低空からアルミの細片をばら撒いて日本軍の電波探知機を無能にし、機体を捉えたサーチライトには機銃掃射を浴びせかけました。高射砲も、普段行っていた防空訓練も防火訓練のバケツリレーも、何の役にも立ちませんでした。B29の先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40平方メートルの周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断ちました。その後、約100万発(2,000トン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン(高温・発火式)焼夷弾が投下され、逃げ惑う市民には超低空のB-29から機銃掃射が浴びせられました。不意を付かれた住民達は、ただ逃げ惑うばかりでした。そこに折から風速30mの強風が吹き荒れ、火勢は一層激しいものとなり、火の玉のような火の粉が舞い踊り、強風に捲かれた炎が川面を舐めるように駆け抜けたのです!!「逃げるのよ!!」防空壕から飛び出した時、もう東京下町は火の海でした。消防団員や警防団員が「○○学校へ逃げろ!あそこならコンクリートだから安心だ!」と声をからして叫んでいます。消防車は消防車で、道行く人に水をホースで撒いています。しかしそれも文字通り、「焼け石に水」状態でした。人々はパニック状態でどうしたらいいのか分かりません。熱さのあまり、川に飛び込む人もいました。その川面にさえ、焼夷弾の炎は容赦なく襲ってきたのです!「熱いよー、助けてー!!」この叫び声もやがて消えていきました。溺れて亡くなる者、火に巻かれて亡くなる者、それはもう地獄絵でした。コンクリートの建物に逃げ込んだ者が無事だったか、ということですが、決してそうではありませんでした。窓ガラスという窓ガラスは、ことごとく激しい熱で飴の様に溶け、そこから火の海が襲ってきたのです!中には安全だ、と信じこんで地下室へ逃げ込んだ人もいました。しかし、そこも安全ではありませんでした。ぎゅうぎゅう詰めの地下室の扉を閉めた瞬間、その扉が熱を持ち、有毒なガスを出したのです。地下室に逃げた人や防空壕にいた人達は、言わば「蒸し焼き状態」になって死んでいったのです。背中に荷物を持っていた人が、焼夷弾の直撃を受けました!しかし、「火だるま状態」になって苦しんでいるのを見捨てて、逃げるしかありませんでした。もう自分の事だけで精一杯だったのです。やがて朝陽が水平線から昇り、朝がやってきました。一面の焼け野原となったそこには、多くの炭化した遺体がありました。性別も年齢も分からない位、それは焼け焦げていました。子供をおぶったまま、焼け死んでいる母親の姿もありました。川には多くの遺体が浮かび、焼け焦げた消防車には消防士がホースを持ったままの格好で、焼け死んでいました。言わば学童疎開から帰ってきた国民学校の6年生達は、言わば「死にに帰ってきた」ようなものでした。卒業式も出来なかった、悲しい最後でした。この物語は「二十八年めの卒業式」(手島悠介著 岩淵慶造画・岩崎書店から発行)という、小学校高学年向けの読み物に詳しく書かれていますので、もしご関心のある方は図書館等でお読みになって下さい。疎開先のラジオで東京が大空襲になった事を知った、東京の学校の先生達は、すぐに緊急の職員会議を開きました。そして何人かの先生が代表で、東京へ学童の家族の消息を尋ねに行く事になりました。しかし当時の長距離列車の切符は、枚数に制限があり、なかなか乗れなかったそうです。下町の焼け野原を見た先生達は、残留組の学童や、学童の家族達の消息を足を棒にして訪ね歩きました。家族が全員無事なところは本当にまれで、後は行方不明とか、中には悲しい事に一家全員全滅、というケースもありました。そして疎開先へ帰ってきて、悲しい結果を報告したのです。特に一家全滅、という学童にはどう説明したらいいか、心を痛めました。また学童の親戚の中には、疎開先までやってきて状況を知らせ、そのまま学童を自分の所へ連れていった人もいました。そして戦争はますます激しくなり、疎開先といえども決して安心しては暮らせない状況になってきました。中には再疎開先を模索するところもありました。そのお話については、また明日お話する事にしましょう。旅の季節、お出かけする人も、そうでない人も、日本各地の観光情報なら、国内旅行情報サイト「日本の旅ドットコム」を是非、ご活用下さい。尚「楽天広場会員」以外の方で、御意見・御感想・コメントのございます方も、どしどし下さい。お待ち致しております。全国各地の宿泊施設の検索は、こちらでどうぞ。最近ブームになっている「油そば」。私もこの間食べました。ここのショップのは美味しいですよ!ここの海鮮グルメは、食べて損なし!美味しい海の幸食べたい!という人はこちらのショップへ是非どうぞ。
2006.08.12
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皆様、こんばんは。今日も暑かったですね。今日は新宿住友ビル内にある「平和祈念展示資料館」へ行ってきました。館内は写真撮影禁止でしたので、その様子をお伝えできないのが残念です。出征列車の様子、引き揚げ船の船室内、シベリアの収容所の様子などが動く人形を使って再現されていました。また、図書室には数多くの資料がありましたが、学芸員らしき女性が無知なのには呆れました。「すみません、OOについて調べたいのですが、資料はありますか?」「わかりません。」こう冷淡に答えただけでした。日本の博物館文化が衰退していくのには、こういう背景もあるのではと思います。大学時代、学芸員資格の取得に失敗したひがみから言っているのではありませんが、最近の博物館の学芸員は物を知らない人が多い様です。ましてや戦争の祈念館を掲げているところで、その戦争について知らないというのは、戦後時代が長くなったと言う事を象徴しているのかもしれませんね。さて、時節柄戦争の話をしているこのブログですが、今日は「学童集団疎開」について取り上げたいと思います。まずは時計の針を、1944年(昭和19年)に戻してみる事にしましょう。この年になると、大都市の大半は空襲を受けるようになりました。そうなると、子供達は戦争の足手まといになるばかりか、ろくな教育も受けられない状況になってきました。そこで当時の政府は、「老人・子供等は縁故を頼って、田舎へ疎開させよ」というようになってきました。これが俗に言うところの「縁故疎開」です。しかし田舎や疎開できる親戚のない子供達もいました。そして遂に「国民学校(当時は小学校をこう呼んでいた)3年から6年の学童は、集団で田舎へ疎開せよ」という命令が下りました。これがいわゆる、 「学童集団疎開」です。家族にとって、これはとても不安なものでした。経済的なもの、家族がバラバラになる不安、そして万が一の事…。都市への残留が認められたのは、身体が弱かったり、特別に経済的な理由で集団生活が出来ないと判断された者だけでした。そしてその年の7月から、東京都の学童は埼玉県、栃木県、群馬県、山梨県、静岡県、茨城県、長野県などへと特別列車で疎開していったのです。疎開先は公民館、寺院、旅館、料亭などでした。最初は「泊まりがけの修学旅行気分」で出かけ、はしゃいでいた子供達も5.6日と日が経っていくにつれて東京が恋しくなり、低学年の子供の中には、家へ帰りたいと泣き出す子も多数いました。そして、それをなだめる上級生や、寮母さんまで泣き出す始末でした。またホームシックを防ぐため、疎開開始後およそ2ヶ月間は父母の面会は一切禁止、という厳格なルールがあるところもありました。もちろん、東京の家に書く手紙も全て先生に検閲され、「家に帰りたい」とか「おなかが空いているので、食べ物を送って下さい」というような文章は、「軍国の子供にふさわしくない」ということで目の前で消され、「おなか一杯食べて元気です」、「元気に暮らしています」というような、子供にとっては偽りの文章を書かされました。これは郵便局に直接出しても同じでした。この様な「泣き言」を書いた手紙は全て送られずに返され、先生に叱られる、というものでした。しかし、田舎に行ったからといって食べ物がそうそうあるはずもありませんでした。田舎でも食糧事情に困っていた所に、東京の疎開学童がわっと押しかけてきたのですから、たちまち田舎も食糧に困るところが出ました。それでも、精一杯のもてなしをして学童をなだめようとする所もあれば、「疎開っ子」として邪険に扱う所もありました。やはり子供達にとって一番の楽しみは「食べる事」でした。食事は、朝がうすい、米粒なんかほとんど入っていないおかゆとたくあん、昼が麦飯の弁当、夜が野菜の煮つけといった感じでした。時に夕食にライスカレー等が出たりすると、子供達は喜んだものです。しかし牛肉なんて当然ありませんから、鯨肉やカエルの肉が使われていたそうです。田舎でも、勉強は出来ない状況でした。防空壕掘りや、飛行機の燃料にするための松根油取り、農作業などが主な1日でした。そんな中、子供達は農家へ手伝いに行く事を楽しみにしていました。何故なら、作業のあとにはおやつをごちそうして貰えたからです。それは食糧の少ない都会で暮らしてきた、子供達の最大の楽しみでした。たとえそれが、ふかしたさつまいもであったとしても。食糧事情が逼迫してくると、子供達はいろいろと工夫をするようになりました。歯磨き粉をなめたり、女の子はお手玉の中に入っている大豆や小豆を煮て食べたそうです。親から食べ物を送ってもらう事は厳禁でしたが、薬は良かったので「エビオス」や「わかもと」、「ビオフェルミン」等をポリポリとかじっていました。中には「わかもと」を食べ過ぎて、全身に発疹が出来て病院に担ぎ込まれた児童もいました。野に出れば、イタドリを食べ、ツバナを食べ、スイバをかじりました。ヘビやカエルもたちまち食糧となりました。イナゴなんていったら、それはもうご馳走の部類に入ったほどです。集団で暮らしていると、子供達の間にも力社会が出てきました。そうです、ボスの登場と「いじめ」の発生です。仲間はずれ、食事の上前をはねる、等など。男児より女児の方が、そのいじめは陰湿であったと聞いています。私が仲間達と今年4月に訪れた、伊豆長岡温泉の南山荘も、戦時中は疎開学童を受け入れていました。本館に疎開学童を、離れに一般客・軍人客を宿泊させていたそうです。疎開学童の中には、後に歌手となった故・小坂一也さんもいました。小坂氏も、母親との面会が一番の思い出だったと、後にテレビ番組の中で語っています。父母の面会は、学童にとって何よりの楽しみでした。東京から持ってくる、父母の苦労して集めた食糧(特にお菓子類)、衣類など。外に連れ出して外食し、食べ慣れないご馳走を食べてお腹をこわす子供もいたとか。しかし、家庭の事情のため父母が面会に来られない学童は寂しさをつのらせていました。そんな学童に配慮してか、学童宛ての小包は教師立会いのもと開封し(食料品が入っていたらその場で没収となった)、面会に来る父母には「食料品を持ってくる場合には、その学寮全員分、無理ならその班全員分を持参する」様、通達を出していました。そんな中で1945年(昭和20年)1月29日、徳島県貞光町の真光寺本堂で火災が発生しました。大阪・南恩加島小の児童29人が疎開していましたが、逃げ遅れた16人が犠牲になったのです。皆、国民学校3年生のいたいけな児童達でした。この事件については小学校高学年向けの読み物「十六地蔵物語-戦争で犠牲になった子どもたち-」文研じゅべにーる(著/原田一美 画/福田庄助 文研出版)という本になっていますので、ご関心のある方は図書館等でお読み下さい。[後にアニメ映画にもなりました]学童疎開の事を書いた本として有名なのが、奥田継夫著「ボクちゃんの戦場」です。この作品も映画になった事がありますので、ご存知の方も多いと思います。ただこの映画の列車のシーンで、とんでもない時代考証ミスがみられているのを、鉄道マニアの方はお気づきでしょうか。それは疎開列車を牽引している蒸気機関車です。この列車シーンのロケは勿論、静岡県の大井川鉄道で行われたのですが、何と牽引している蒸気機関車が「C56-44」号機だったのです。熱心な鉄道マニアの方なら、もうお分かりですよね。C56型蒸気機関車の1号機~90号機の合計90両は、戦争が始まるとすぐにタイの泰緬鉄道へ輸出され、タイを走っていたのです。従って、日本を走っている訳がありません。(ちなみに大井川の44号機は、昭和54年にタイから里帰りして整備されたものです)この他にも、沖縄の学童疎開船「対馬丸」撃沈の話や、皇后陛下下賜のビスケットの話など、学童疎開の話はまだまだ色々ありますが、今晩はこの辺で失礼致します。(学童疎開船「対馬丸」の話は、8月22日にお届けします)皆様のご意見・ご感想もお気軽におよせ下さい。旅の季節、お出かけする人も、そうでない人も、日本各地の観光情報なら、国内旅行情報サイト「日本の旅ドットコム」を是非、ご活用下さい。尚「楽天広場会員」以外の方で、御意見・御感想・コメントのございます方も、どしどし下さい。お待ち致しております。全国各地の宿泊施設の検索は、こちらでどうぞ。最近ブームになっている「油そば」。私もこの間食べました。ここのショップのは美味しいですよ!ここの海鮮グルメは、食べて損なし!美味しい海の幸食べたい!という人はこちらのショップへ是非どうぞ。
2006.08.11
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皆様、こんばんは。今日はひときわ暑かったですね。我が家では書斎の新しい家具が入ったので、それを搬入して部屋の大掃除をやっていました。終わる頃にはもう汗びっしょりで、シャワー浴びてさっぱりしました。さて夜、渋谷の街角を歩いていると「鶴を折ってください!」と訴えている人がいました。千羽鶴というと、絶対にこの人抜きでは語れない人がいます。そう、「原爆の子の像」のモデルとなった故・佐々木禎子さんです。佐々木禎子さんは、昭和18年1月7日、理髪業を営む両親のもとに生まれました。2歳の時、爆心地から約1.6kmの楠町1丁目で被爆しましたが、奇跡的にも怪我等はありませんでした。その後昭和24年4月、広島市立幟町小学校に進学しました。運動会ではリレーの選手を努めるなど、活発な普通の女の子でした。しかし、11歳の時ひいた風邪で、リンパ腺の腫れが引きませんでした。そこで異常に思い、ABCC(原爆障害調査委員会)にて何度か検査を受けました。そして昭和30年2月18日、かかりつけの医師から「亜急性リンパ線白血病」と診断され、「あと3ヶ月、持っても1年の命」と診断されました。その後広島日赤病院へと入院したのです。卒業式も、中学校への進学もままならないものでした。同時にこの頃、佐々木家の家計はかなり逼迫していました。禎子の入院費用の他、輸血の血液代、「コーチゾン」と呼ばれる痛み止めの注射代などがかなりかさんでいました。この時代には当然「国民健康保険」なんてものはなく、血液も「血液銀行(血を売りに来た人)」から買うしかなかったのです。それから、人の良かった父・繁夫さんが借金の連帯保証人になったばかりに背負った借金のため、繁華街・鉄砲町の理髪店を手放さなければならなくなりました。そして当時「原爆スラム街」と言われた基町に引っ越しました。愛知淑徳高青少年赤十字団員が「原爆患者にさしあげてください」との手紙と共に,赤,黄,紫などのセロハンによる折り鶴4千羽が日赤病院に贈られたのは、この頃です。「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じた禎子さんは、その日から薬の包装紙やキャンデーの包み紙等でせっせと鶴を折りました。しかし運命というものは残酷なもので、昭和30年10月25日の朝、危篤状態となりました。家族や授業を放り出して駆けつけたかっての同級生に見取られながら午前9時57分、佐々木禎子さんは12歳、という短い生涯を終えたのでした。同級生達は大泣きしました。禎子さんのいなくなったベッドからは、数字の書かれた1枚のザラ紙が見つかりました。調べてみると、自分の白血球・赤血球などをメモしたものでした。おそらく彼女は、自分の死期が近い事を悟っていたのかもしれません。(このザラ紙は現在、彼女の折った鶴と一緒に広島平和記念資料館のガラスケースにおさめられています。)その死に衝撃を受けた同級生達は、「禎子さんの、いや原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう」と全国へ呼びかけました。「全国学校校長会」でチラシを配り、街頭に立って募金をしたり、それは精力的な活動でした。時には一部の学校から批判的な意見を言われたり、活動そのものが分裂しかかった事もありました。それでも、全国3,100校余りの生徒と、イギリスをはじめ世界9か国からの支援により、その動きは現実のものへとなっていきました。また、こんな逸話があります。彼女がこけしが好きだった事にちなんでその活動の会は「こけしの会」と呼ばれていたのですが、その会の歌「星の一つに」は、当時コロンビアの一流作曲家で、代表曲に美空ひばりの「港町十三番地」等がある上原げんと氏が、会の活動に賛同して無報酬で作曲した、というものです。そして昭和33年5月5日に完成したのが、高さ9mのブロンズ像「原爆の子の像」です。三脚ドーム型の台座の頂上に金色の折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、左右には明るい未来と希望を象徴する少年少女の像があります。像の下におかれた石碑には、「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれています。この像は、当時東京芸術大学教授だった菊地一雄氏によって造られ、塔の内部には、菊地氏とも親交があり、子どもたちの気持ちに感動したノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士が寄贈した古代の銅鐸を模した鐘と金色の鶴が吊るされ、風鈴式に音が出るようになっています。(現在この鐘と鶴は、広島平和記念資料館東館1階ロビーに展示されています)しかし、その後の佐々木家の運命は残酷なものでした。この物語が映画化されたり、新聞に取り上げられると、他の被爆者や遺族からやっかみや妬みを受けるようになりました。「禎子さんだけが原爆で死んだのではない!うちの子供だって、原爆で死んだんだ!何で禎子さんだけがちやほやされるんだ!」とか、「映画化されたり、記念の像が造られただけでいい気になるな!」とか、「記念の像ができたり、映画になったおかげで、さぞ儲けた事でしょうね。」とか。無言電話や、いたずら電話もかなりの数になりました。そして借金取りからも、「映画の原作料が入っただろう」と、より厳しい取立てを受けるようになりました。そのため、佐々木家は広島を追われるようにして、親戚を頼って遠い博多まで引越しをせざるを得ない状況になりました。今も「原爆の子の像」は広島平和記念公園の中にあり、修学旅行生等が折り鶴を捧げる姿を目にします。しかし近年、この折り鶴を引きちぎったり、焼いたりする心無い行為が多くなっているのは非常に情けない事です。この間のブログでお話した、「平和公園でのバーベキュー」や「相生橋からの遊び半分の飛びこみ」など、最近の世代は本当に「平和教育」というものを理解しているのか、ということが多く見受けられます。これから「戦争を知らない世代」が増えていきます。憲法の改正も、懸念されています。しかし、我々は広島・長崎で起こった原子爆弾の悲劇や、各地の空襲での悲劇を決して、忘れてはならないのです。次の世代に「戦争の悲劇とおろかさ」を伝えていく義務があるのではないでしょうか。また最後になりますが、今日のBGMは折り鶴の話にちなんで千葉紘子さんの大ヒット曲「折鶴」でお送りしました。(この物語とは全然関連のない曲ですが、やはりタイトルを聞くとこの物語を思い出しますので)旅の季節、お出かけする人も、そうでない人も、日本各地の観光情報なら、国内旅行情報サイト「日本の旅ドットコム」を是非、ご活用下さい。尚「楽天広場会員」以外の方で、御意見・御感想・コメントのございます方も、どしどし 下さい。お待ち致しております。全国各地の宿泊施設の検索は、こちらでどうぞ。日本の心・和の心。織部は、そんな和の心を大切にする美濃焼を窯元から直接提供している和洋陶器の専門店です。本店は、大きな店舗面積を生かした圧倒的な品揃えが魅力。うつわ邸は古商家屋を店舗として利用し、美濃の人気作家の器が並びます。様々の表情を持つ器たちとの出会いを、心ゆくまでお楽しみくださいませ。最近ブームになっている「油そば」。私もこの間食べました。ここのショップのは美味しいですよ!ここの海鮮グルメは、食べて損なし!美味しい海の幸食べたい!という人はこちらのショップへ是非どうぞ。
2006.08.10
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皆様、こんにちは。ここの所健康が思わしくなくて、執筆が遅れてすみません。今日、8月9日は長崎にとって、いや日本人にとって忘れてはならない日です。そう、 「長崎原爆の日」です。長崎は造船所がありましたが、戦時中は軍需工場化されていたので、小倉と並んで候補地となっていたのでした。この日の未明、テニアン島の基地から3機のB29が離陸しました。そのうちの1機「グレート・アーティスト」号(気象観測機)は、まず第1候補地の小倉へ向かいました。しかしスモッグと厚い雲から、投下を断念するよう、「ボックス・カー」号に連絡しました。この「ボックス・カー」号には、広島型ウラン235式原子爆弾「リトルボーイ」とはまた違った、プルトニウム式の原子爆弾「ファットマン」が積載されていました。いわばスモッグと厚い雲が、この小倉の町を救ったのです。そして「ボックス・カー」号は第2候補地・長崎へと向かいました。長崎も曇り空でした。そして長崎の上空をしばらく旋回していましたが、浦上天主堂の上空部分の雲があいているのに気がつきました。今しかない、と思い爆弾投下の用意をしたのです。こうして、原子爆弾「ファットマン」はゆっくりと投下されました。午前11時02分の事でした。その激しい閃光と爆風は、B29「ボックス・カー」号をも激しく上昇させたほどでした。人々は爆風に叩きつけられ、そして火傷を負ったのです。水を求め、市内をさまよいました。爆心地となった浦上天主堂は、あっと言う間に吹き飛ばされ、ガレキの一部は川の下まで落ちたほどでした。爆心地からかなり離れた大浦天主堂も、全壊こそ免れたものの自慢だったステンドグラスは全て割れました。それだけ、爆風はすごかったのです。市内を走っていた電車も、爆風で線路から脱線し一瞬のうちに焼かれました。広島と違い、木造車が多かった長崎の市内電車は、かなりの打撃を受けました。生き残った人も広島の時同様、放射能の影響を受け原爆症にかかりました。髪の毛が抜け落ち、歯茎から血が出て、やがて身体中に紫色の斑が出来て、血を吐いて死んでいく…。放射能のために身体の中に出来たガン細胞が原因でした。当時の凄さを物語る史跡としては、「神社の片足鳥居」や、前述した浦上天主堂の落ちたガレキなどがあります。それらを回るには、市内電車を活用するのが一番です。長崎の市内電車・長崎電気軌道は、全線100円均一で乗れる上にお得な「1日乗車券」でも500円、という安さです。長崎の旅。平和を考える旅も、いいのではと思います。またこの旅に出るにあたって是非読むことをお勧めする本をご紹介します。◎「Tomorrow(明日)~1945年8月8日」(井上光晴著)◎「女の一生・第二部」(遠藤周作著)現在、長崎市内を走っている最新型の電車。バリアフリー対応。最後に、原爆で亡くなられた方への慰霊として、「原爆許すまじ」の歌の3番をご紹介します。(実際は2番はあまり歌われる事がなかったようです。)ふるさとの空重く 黒き雲今日も大地おおい今は空に陽もささず ああ許すまじ原爆を三度(みたび)許すまじ原爆を われらの空にここをクリックすると、「原爆許すまじ」の歌詞とメロディーが流れます。尚「楽天広場会員」以外の方で、御意見・御感想・コメントのございます方は、どしどし下さい。お待ち致しております。
2006.08.09
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国際的観光地・日光。そんな日光にもかって、のどかな路面電車とケーブルカーが存在した時代があったのです。それでは、時計の針を1910年(明治43年)に戻しましょう。明治41年、日光町と古河合弁(現在の古河電気工業)は、合弁で資本金20万円の「日光電気軌道」を創設し、この年の8月に省線日光駅前~岩ノ鼻間8kmに路面電車を開通させました。次いで大正2年10月、岩ノ鼻~馬返間2.2kmの延長線も開通させ、観光客の輸送に活躍する事になりました。この「日光電気軌道」、観光客の輸送の他、途中にあった古河電工の精銅所の貨物輸送も担っていました。同時にこれは、日本で一番高い所を走る路面電車でした。また中禅寺湖畔には、外国人向けの日光レークサイドホテル(明治27年創業)や旅館などもでき、またそれまで日光町から中禅寺湖畔・中宮祠までは、ほぼ直線の急坂であったものをつづら折りの稲妻形の道路につけかえる工事が出来ました。いままで交通といえば徒歩か山駕籠だけであったのを、2人乗りの人力車が通る様になりました。しかし自動車が発達してくると、馬返から華厳の滝、中禅寺湖、男体山、戦場ヶ原、湯元温泉に通じる馬返~中宮祠間が急勾配の連続で危険であり、自動車は時間指定の上り下り一方通行で不便だったため、鋼索鉄道(ケーブルカー)の建設が要求されるようになりました。こうして昭和2年3月、資本金200万円で「日光登山鉄道」が設立され、その後昭和恐慌による工事の中断はあったものの、昭和7年8月に馬返~明智平間1.2kmの営業を開始しました。次いで昭和8年2月、明智平~茶の木平(展望台)間に架空索道(ロープウェイ)を建設し、11月に運行を開始しました。一方「日光電気軌道」は、既に東武鉄道の傍系会社となっており、後にバス会社・日光自動車も系列化して、社名を「日光自動車電車」としました。この会社は戦時中、「日光登山鉄道」をも合併して東武鉄道は名実ともに日光地区の輸送を一手に引きうける事になったのです。そして昭和22年6月1日、「日光自動車電車」は東武鉄道に吸収合併され、「東武鉄道日光軌道線」、「東武鉄道明智平ケーブル」になったのです。もともと貨物を運ぶために敷設された軌道なので、路面上では珍しく、電気機関車が貨車を牽引して国鉄日光駅まで走る姿も見られました。旅客の方も好調で、昭和28年には新型電車・100形が10両、当時としては画期的だった200系連接車も投入され、当時の路面電車としては最高基準の技術を駆使した車両でした。しかし、華やかな時代もこの時がピークでした。この年、有料道路の「第1いろは坂」が開通。その頃から乗客は減少の傾向を見せはじめ、昭和40年に「第2いろは坂」と「金精道路」が開通すると、奥日光へ向かう観光客は、乗り換えのある路面電車とケーブルカーを利用するよりも、バスやマイカーで行く様になりました。また、古河電工の貨物輸送も、昭和31年にピークを迎えたのを最後にトラック輸送に切り替えられ、赤字経営となりました。そして昭和43年2月23日、24日の「さようなら運転」を最後に、東武日光軌道線は廃止される事になったのです。110号電車他3両が「花電車」となり、その人気はすさまじく、始発から最終まで、この電車に乗ろうとする人達が長い行列を作って順番待ちをしました。別れの式典では、地元の小学生が花束や作文などを贈り、最後の別れを告げました。また日光市長をはじめ、市議会議長、観光協会長、古河電工日光精銅所長、鉄道友の会等からも花束が乗務員に贈られ、栃木県知事は持参のシャンパンを自らの手で、花電車に注ぎかけて長年の労をねぎらいました。その後金谷ホテルで開かれた記念パーティーで根津社長は、 「長い歴史をもつ日光軌道線を廃止することは、たとえ時代の流れとはいえ、みずからの手足の一部を切断する思いで、寂寞の感たえがたく、情においては忍びがたいものがある。」と胸中の苦哀を語りました。こうして開通以来、58年間にわたる「日本最高所の路面電車」東武鉄道日光軌道線の歴史に終止符が打たれたのです。また、残っていた「明智平ケーブル」も、接続の日光軌道線が廃止されてしまってからは、乗客数が最盛期の10分の1にまで落ち込んでしまいました。その後も乗客数は減少を続け、多額の赤字を計上する様になったのです。かくして、奥日光への観光ルートだった「明智平ケーブル」も非情な時の流れには逆らう事が出来ず、昭和45年3月31日、廃止されました。当時使用していた観光ガイドのテープ機械などは、現在東武博物館に保管されています。廃止された時に走っていた電車のうち、電気機関車1両は宮城県の栗原電鉄に、100系電車10両は岡山電気軌道に引き取られました。200系連接車は203号車1両だけが、宇都宮市内の集会所として引き取られた他は全て廃車解体されました。栗原へ行った電気機関車は、後にあるファンに引き取られました。岡山電気軌道では3000系として、集電装置をビューゲルから同社独自の「やぐら式パンタグラフ」にして主力車として走りました。その後昭和56年3月28日にオープンした、「東武動物公園」の展示物として「かって東武で活躍した車両たち」を展示する事になりました。その車両には、貨物を牽引した電気機関車、「東武最初の電車」デハ5型電車、「貴賓車」トク500型復元車、そして「友情出演」として都電6000系等が選ばれました。その中には、宇都宮市内で集会場となっていた日光軌道線の203号連接車も含まれていました。綺麗に化粧直しをされ、車内も整備されてたちまち「東武動物公園」の目玉展示物となりました。その後1989年(平成元年)5月20日、東向島駅にオープンした東武博物館に、電気機関車、デハ5型電車と共に運び込まれ、現在は東武博物館で展示物として余生を送っています。車内も公開され、椅子に座って目を閉じていると、吊り掛けモーターの音も高らかに、日光の町の勾配を上っていく姿が目に浮かぶようです。東武博物館で展示物として余生を送る「日光軌道線」203号連接車日光軌道線」203号連接車の車内一方、岡山電気軌道へ行った旧100系電車の3000系電車は一時は主力として活躍しましたが、冷房化などの関連もあり6両が廃車となりました。残る4両中1両は熱心な、生まれ故郷「日光」の熱心なファンに引き取られ復元中です。また車庫の片隅で廃車寸前になっていた3005号車(元110号車)は、路面電車と都市の未来を考える会(RACDA)が主体となり、全国から基金が募られて傷んだ車体が復旧され、37年ぶりに「東武日光軌道線」時代の塗装に復元されたのです。2005年4月29日、岡山電気軌道の東山車庫で出発式が行われ、この式には東武博物館館長の花上嘉成氏も出席しました。関係者の挨拶、テープカットの後、実際に日光軌道線で使用されていたタブレットが3005号車の女性運転士に授受されました。この「日光色電車」、冷房装置がないため7.8月以外の第1土曜日に東山線で運行されるそうです。残りの2両もレトロ調の塗装になり、元気に活躍しているのは嬉しい事です。では現在、「日光軌道線」の廃線跡はどうなっているのでしょうか。神橋のところをまずご覧下さい。手前にコンクリートの柱があります。これが実は「日光軌道線」の鉄橋の橋桁跡なのです。馬返の終点は長い間、駅舎が荒れ果てて残っていましたが、数年前に取り壊され、現在は喫茶店となっています。数年前に訪れた時は、当時の架線柱らしき柱がポツンと残っていたのが印象的でした。世界遺産・日光。今思えば、先走って路面電車を廃止する必要はなかったのでは、と思います。排気ガスも出さない「環境にやさしい乗物」路面電車。それは世界遺産の町・日光に一番ふさわしい乗物ではなかったでしょうか。確かに晩年、乗降客は減りましたが「さようなら運転」で、あれだけの人が行列を作って乗車の順番を待ったということは、それだけこの「日光の路面電車」が日光市の人に愛されていた、という証拠なのです。ある時は修学旅行生を乗せ、またある時は通勤通学の足となっていた「東武日光軌道線」。もう既に思い出の彼方に消えてしまった路面電車ですが、もうあと数年廃止を待っていたら状況は大きく変わっていたかもしれませんね。[参考文献]◎「東武鉄道百年史」(東武鉄道株式会社発行)◎「東武博物館だより 第80号」(東武博物館発行)
2006.08.08
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皆様、こんにちは。ブログの執筆が遅れてすみません。最近、夏バテ状態で身体がなかなか自由に動かないのです。今日は、所属する「説話研究会」の採訪調査の勉強会がありました。私は調査には行きませんが、交通・交易について調査・執筆したのでその発表をしました。そのプレゼンをしていると、自分がかって仕事をしていた事を思い出します。その後、「前期納会」ということで居酒屋へ。夏バテのため、あまり食は進みませんでしたが、それでも馬刺しとかスタミナのつくものを食べてきました。調査が無事に終わる事を、祈るばかりです。今日の写真は、東武鉄道・東向島駅で撮影した東急8500型の急行・中央林間ゆき「伊豆のなつ」号です。車内には、伊豆各地の宣伝が書いてあるようです。最近の伊豆急行も「ワンマン電車」ということで旧・東急8000型がこの塗装で幅をきかせるようになりました。尚「楽天広場会員」以外の方で、御意見・御感想・コメントのございます方も、どしどし下さい。ご参加、お待ち致しております。最近ブームになっている「油そば」。私もこの間食べました。ここのショップのは美味しいですよ!
2006.08.07
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皆様、こんばんは。いかがお過ごしでしょうか。今日も暑かったですね。今日はとあるオフ会に出かけてきました。大阪から来られた方もいらっしゃり、いい情報交換になりました。それでは、今日の話題に行きたいと思います。時計の針を昭和20年8月の広島に戻したいと思います。戦争も末期になり、日本各地が空襲でやられていく中で、軍都・広島だけは何故か空襲を受けませんでした。この頃米国では、「ポツダム宣言」を無視した日本に対して、開発した「原子爆弾」を投下する事を決定しました。当初の投下候補地は、広島・新潟・京都・小倉となっていました。しかし、スチムソン長官らの強い反対で京都は外され、替わりに長崎が加えられました。広島市内を走る広島電鉄は昭和18年、「広島電鉄家政女学校」を設立しました。これは電車の車掌をしながら勉強をするというもので、戦争に行った男性職員の不足を補うために設けられたものでした。14歳~16歳の少女達は、ある者は車掌として、またある者は腕を磨いて運転手として電車を動かしていました。そんな彼女達にとって、昭和17年に入線した新型車・650型電車5両は憧れの的でした。紺色と灰色の単車の中で、グリーンとクリーム色の大型車で輸送力も当時としては優れたものでした。しかしこれを運転できるのは、限られた男性運転手だけでした。そして昭和20年8月6日・月曜日を迎えます。この日の広島は快晴でした。午前3時19分頃テニアン島の基地を飛び立ったB29「エノラ・ゲイ(機長・ティベッツ大佐の母親の名前を付けた)」号は、先に気象観測に行っていたB29「ストレート・フラッシュ」号から「広島は快晴」という情報を得ました。この日も朝早くから、市内では広島電鉄の電車が忙しげに人を運んでいました。ある所では、学徒動員による作業が始まろうとしていました。そして運命の時刻・午前8時15分17秒を迎えます。T字型の「相生橋」上空で「エノラ・ゲイ」は、原子爆弾「リトルボーイ」を投下しました。それは43秒後の午前8時16分、広島県立産業奨励館(現在の原爆ドーム)脇の島病院上空で炸裂しました。市内は激しい光の後、猛烈な爆風に襲われ、そして火の波が襲ってきました。そして走っていた123両の電車も、ある車両は一瞬にして破壊され、ある車両は一瞬にして焼かれました。爆心地に近い「紙屋町」では、111・103・123・128・153・205の6両がいましたが、全て一瞬にして焼かれ、乗務員も乗客も即死状態でした。「横川」終点では、115が台枠を残して全て焼け、千田町の車庫では、待機していた118・137といった木造車がバラバラに壊れ、かろうじて生き残った101・134もどこかしらかが壊れました。自慢の新車だった650型も、5両全部が被災しました。相生橋の所にあった櫓下変電所も破壊され、従業員7名は即死。電車は完全に動けない状態となりました。千田町の車庫にあった本社も一瞬にして壊れ、従業員160余名が殉職しました。無事だった電車は、宇品の所に設置していた疎開用の引込み線にいた3両、宮島へ疎開していた10両などわずか15両にしかすぎませんでした。猛火が落ち着いた8月7日、救援部隊や応援部隊が次々と広島に入って来ました。焼け焦げた路面電車には、乗務員と乗客がその時のまま、焼かれて死んでいたのです。そして8月の暑さから、死体の肉はすぐに腐り、ウジ虫とハエが大量に発生していました。この辺の事は、有名なマンガ「はだしのゲン」(中沢啓治著)等をお読みの方は、お分かりではと思います。川には、水を求めて飛びこんだ多くの人の黒焦げの死体が浮かんでいました。しかし、広島電鉄の生き残った人達のパワーはすごいものでした。被爆を免れた宮島線の廿日市変電所から電気を送り、懸命に復旧作業をした結果、8月9日には己斐~西天満町(現在の天満町)間で、生き残った電車により折り返し運転をしたのです。「電車が走っている」、これは広島市民にどれだけ勇気を与えた事でしょうか。続いて8月18日までには運転区間が土橋まで延長され、千田町の広電本社前~宇品間も運転を再開しました。そしてその年の内には、主要路線は全線復旧したのです。では、650型電車5両の被爆状況はどうだったのでしょうか。◎651号電車…市役所前付近で被爆、半焼。◎652号電車…宇品付近で被爆、小破。◎653号電車…江波付近で被爆、大破。◎654号電車…江波付近で被爆、大破。◎655号電車…広島駅前で被爆、全焼。全焼した655号電車を除いて、昭和22年までには修理が行われました。655号電車だけは、昭和23年に修理が完了し、5両全部が揃いましたが、昭和42年に事故で廃車となりました。その後高床から低床への改造、後部ドアの締め切り、ワンマン化、大型方向幕の設置、冷房化等を経て現在に至ります。それでは、その650型電車を見てみる事にしましょう。広島電鉄651号電車(千田車庫にて、許可を得て撮影)650型電車の運転台後部には、この電車が「被爆電車」であるということの説明文があります。「被爆電車」650型の車内です。この650型電車は、長年広島市民の足として活躍してきました。また「被爆電車」ということで、毎年8月6日の午前8時15分には原爆ドーム前で停車し、1分間の黙祷を捧げるセレモニーが行われていました。しかしブレーキ系統、電気系統などの老朽化から速度が遅くなり、朝のラッシュ時以外あまり使われなくなりました。いつしか広島電鉄で一番古い車両となり「古武士」のニックネームが付けられました。そして今年の6月、653号電車と654号電車の2両が引退しました。654号電車は、広島市交通科学館に寄贈され、「平和を伝える展示物」として永久保存されることになりました。653号電車は「休車」扱いになり江波車庫で保管され、そこに保管されている「被爆電車」156号単車と共に、市内の小学生の平和教材として活用される事になりました。(先日も市内の小学生を招いて、「電車の中での被爆経験」を語った方がいらっしゃいました。)今回、広島市交通科学館に寄贈された、広島電鉄654号電車(千田車庫にて、許可を得て撮影)今年も「平和祈念式典」が、平和公園で開催されました。私は、それをずっとテレビで見ていました。しかし、その数ヶ月前には腹立だしい出来事もありました。深夜に平和公園でバーベキューをしたばかりか、相生橋からふざけ半分に3人が太田川に飛び込んで、1人が水死する、という事件です。あの日猛火に包まれ、熱さのあまり水を求めて川へ飛びこみ、そして亡くなっていった方々の事を思うと、本当に腹の立つ事件です。ましてや平和公園でバーベキューなんて、言語道断の行為だと思います。そういう事をする場所ではないはずです。このブログをお読みの皆さんは、どう思いますか?良かったら、ご意見などお聞かせ下さい。戦争、ましてや核戦争は絶対に許されない行為なのです。唯一の被爆国である日本は、もっとそれを考えるべきではないでしょうか。最後に昭和30年代、「うたごえ運動」で歌われていった「原爆を許すまじ」の歌をご紹介して、今日の話題を終わりたいと思います。1.ふるさとの町焼かれ 身よりの骨埋めし焼け土に 今は白い花咲く ああ許すまじ原爆を 三度(みたび)許すまじ原爆を 我らの町に…… (2番以下は省略させていただきます)尚「楽天広場会員」以外の方で、御意見・御感想・コメントのございます方もどしどし下さい。お待ち致しております。
2006.08.06
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