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カテゴリ: 読書
前章では、村雲による出雲×徐福の統合と初期大和王朝の成立を見た。今回はその影で進行していた、出雲王国そのものの解体劇を辿る。記紀が「国譲り」という美談で描いた事件の、出雲口伝が伝える真の構造である。
◆「国譲り」という不思議な物語
記紀における「出雲国譲り」の物語は、不思議な印象を残す。高天原の天照大神が「葦原中国は我が子孫が治めるべき」と決断し、使者(最終的にはタケミカヅチ)を出雲に派遣する。オオクニヌシは息子たちに相談したうえで「異議なし」として国を譲り、自らは「幽界(見えない世界)」を治めることになり、出雲大社が建てられる――という筋書きだ。
長く続いたとされる出雲王国が、なぜこれほど簡単に国を譲ったのか――。
この疑問に対し、出雲口伝はまったく異なる「国譲り」の姿を伝える。それは「平和的禅譲」ではなく、徐福の野望とホヒ家の工作による、出雲王の謀殺事件だった。
◆第一部:ホヒとは何者か
徐福の家臣としてのホヒ
出雲口伝が伝えるホヒの正体は、記紀が描く「天照大神の子」とはまったく異なる。ホヒ(穂日)は徐福の家臣であり、紀元前3世紀末に息子のタケヒナドリ(武夷鳥)と共に渡来した、後の出雲国造の祖である。つまり「出雲側の人物」でも「天照大神の子」でもなく、徐福集団の先発隊員だったのだ。





先発隊としての来航
紀元前3世紀末、徐福は秦から大船団を率いて日本へ渡来する計画を立て、その先発隊としてホヒと息子タケヒナドリを派遣した。二人は出雲王国の八千矛王(大国主・オオクニヌシ)に会見し、徐福集団の翌年来航を控えて「出雲王国への居住の許可」を求めた。土産物として、銅剣と銅鐸に似た物を秦国から持参したと地元では伝承されている。一年後、徐福率いる大船団がイワミ(石見)国に現れ、五十猛海岸に秦人の集団が上陸し、彼らは五十猛から次第に東へ広がって住んだ。
ホヒの出雲来訪は、徐福集団の本格的な渡来の地ならしだった。
出雲王家での「陰険な動き」
その頃ホヒは出雲王家に仕えていたが、出雲口伝は「陰険的な動きがあると噂されていた」と伝える。表向きは王家への忠誠を装いながら、裏では徐福のための工作活動を行っていたのだ。
◆第二部:宗教戦争――ヤマタノオロチの真相
二つの宗教の衝突
出雲先住民と徐福集団の間には、決定的な宗教観の違いがあった。出雲王国の国教はサイノカミ(道祖神)信仰と太陽神信仰であり、従属神として竜神信仰・ヘビ信仰を持っていた。出雲では現在でも各村で、斎ノ木にワラヘビを巻いて竜神祭りを続けており、こうした竜神は「荒神」「オロチ」とも呼ばれる。興味深いことに、八重波津身〔事代主〕の娘・イスケヨリ姫〔踏鞴五十鈴姫〕がヤマトの三輪山に移住した際にも竜蛇神を三輪山に祭ったため、三輪山近辺にもヘビ信仰が広まったという。
これに対して、徐福の信仰は全く異なるものだった。徐福は神仙信仰の導師であり、海童たちを連れて夕方、丘に登り、北斗七星を拝んでいた。
斎ノ木のワラヘビ事件
徐福は星拝みの帰り道で斎ノ木のワラヘビを切って回った。先住の出雲人が抗議しても、徐福は受け付けなかった。両者の衝突は各地で起こり、特に斐伊川の上流の村々では多発した。出雲では「徐福が来たとき宗教戦争があった」と伝えられている。これがヤマタノオロチ伝説の歴史的真相なのである。
ヤマタノオロチは「八つの頭を持つ大蛇」ではなく、徐福集団による在地ヘビ信仰の破壊だったのである。「オロチを退治した」と神話で語られる行為は、実は「ヘビ信仰の祭祀施設を破壊した」ことを神話化したものだった。
◆第三部:徐福の野望と婚姻による浸透
「和国の王になる」という目的
徐福が和国に来た目的は「和国の王になること」だった。そのためには八千矛王(オオクニヌシ)に取って代わることが手っ取り早いと考えたらしい。徐福は単なる「不老不死の薬を求めた方士」ではなかった。和国の王位を狙う野心家だったのである。
戦略的婚姻と裏切りの計画
徐福は出雲国王の娘・高照姫を嫁にもらい、王家への正式な縁を結んだ。それにもかかわらず、内心では「出雲王国の王を無き者にしよう」と考えていた。婚姻による「正統性の獲得」と、暗殺による「権力奪取」を同時に計画していたのである。
◆第四部:出雲王・副王の謀殺
八千矛王の失踪
徐福の野望が決定的な行動として現れる。ある日、ホヒが八千矛王を出雲国西部にある薗の長浜に誘い出した。その後、八千矛は行方不明になった。ホヒによる謀殺と推測される。出雲王国の最高権力者が、ホヒの手引きによって失踪したのである。
副王・八重波津身の死
しかし、悲劇はこれで終わらなかった。八千矛王が行方不明になった時、東出雲の富王家の八重波津身王(事代主・副王)は美保港(松江市美保関町)のヌナカワ姫の屋敷にいた。そこにタケヒナドリ〔稲背脛〕が船で来訪し、八千矛の遭難を伝える。事代主は大国主を探すためにタケヒナドリの船に乗り、王の海(中海)を西に向かったが、そのあと八重波津身王も行方不明になった。後日、その遺体は弓ヶ浜西部の粟島(伯耆国西端)の洞窟で発見され、死因は「餓死」と判定された。遺体は熊野山(出雲国オウ郡)に埋葬され、この事件関連の記事は『伯耆国風土記』や『伊予国風土記』に逸文として残されている。
ホヒと息子タケヒナドリは、徐福の計画に従って、出雲の正・副二人の王を相次いで謀殺したのである。
タテミナカタの諏訪進出
八重波津身王の非業の死後、妻のヌナカワ姫は実家(糸魚川市)に帰ることになり、御子の建水方富彦(タテミナカタトミ)は出雲王国の領土を広げるために北に向かった。出雲兵を連れて糸魚川をさかのぼり、諏訪盆地を支配地とし、そこにサイノカミ信仰など出雲文化を伝えた。信州の道に多く建てられている道祖神の石像は、その名残である。
これが4章で触れた「諏訪大社の起源」である。タテミナカタの諏訪進出は、出雲王国の解体に伴う「正統な出雲の血の避難」でもあった。
「国譲り」神話への組み込み
このタテミナカタトミの出雲王国拡大を、国造果安はいわゆる架空の「国譲り話」の後に付け加えた。記紀の物語では、国譲り要求のために出雲に来た建御雷(たけみかづち)の神の所にタテミナカタが来て「力比べしようか」と挑み、建御雷がタテミナカタをつかんで投げ飛ばすと後者は逃げる。タケミカヅチはさらに追いかけ、信濃国の諏訪湖まで攻めて殺そうとしたが、タテミナカタは「諏訪の外に出ないから殺さないでくれ」と言った――というものだ。これは出雲国造家が旧出雲王家を嫌い、この話で出雲王国の王子を弱く描いた結果である。
◆第五部:「カイライ国造」という構造
国譲り後の出雲の二重構造
出雲口伝が伝える、国譲り後の出雲の実態は驚くべきものだ。表面的にはホヒ家当主が出雲国造として君臨していたが、実態は「財筋(たからすじ)」と呼ばれる旧王家親族集団が以前と同じように出雲国内を支配していた。つまり出雲国造は、言わば「カイライ国造」(表面上の傀儡)だったのであり、史実と異なる出雲神話も出雲国造が書かせたものだった。
これは重要な事実だ。国譲り後も出雲の実質的支配は、ホヒ系の出雲国造ではなく、旧王家の財筋ネットワークが継承していたのである。ホヒ家の出雲国造は「公式の神官」として表面に立たされていたが、本当の出雲の血と権威は、富家を中心とする財筋に保持されていた。
「国譲り建築説」と類似話の作為
「国譲り建築説」には類似話まで作られていた。例えば古事記のホムチワケノ御子伝説では、神のお告げに従い垂仁天皇が出雲大神を拝んだことにより、唖(おし)の御子が言葉を話されたとされる。しかし出雲人は知っていた。菟上(うのかみ)王とは出雲を征服に来た将軍の名前であり、ホムチワケとは関係がなかったのだ。このような重要人物の名前を、出雲人はまだ忘れてはいなかった。出雲国造による史実の改変は、国譲り物語だけにとどまらなかった。記紀の他の部分でも、出雲に関する史実が組織的に改変されていたのである。
◆第六部:徐福の名前が記紀から消えた理由
国造果安の提案
出雲国造・果安(はたやす)は出雲王国の歴史を記紀から除くことを提案し、右大臣により承認された。出雲王国史を書く代わりに、国造果安がそれを出雲神話に変え、記紀に加えることになったのである。
徐福の名の消去依頼
その後、ホヒ家の果安は、徐福の名前を記紀に使わないように忌部子人(こびと)に頼んだ。なぜならば、徐福の名前を聞くと徐福が出雲で行った悪事を出雲人が思い出すからだった。ホヒ家の祖が徐福の手先として出雲王を謀殺した歴史を、消去する必要があったのである。
スサノオへの名前変換
果安は、徐福をスサノオの名に変えて記紀に書くことを子人に求めた。事実上、記紀の記事決定の中心は官史編集の経験の長い忌部子人だった。右大臣もスサノオの名前の採用を認め、その結果、日本史の重要人物・徐福の名前は官史から消えた。天孫降臨を古事記に書く方針だと忌部子人から聞いた果安は、スサノオの出雲降臨を古事記に書くことを求め、それで古事記に「(スサノオノミコトが)出雲国の鳥髪という地に降り」と書かれることになった。
「徐福=スサノオ」という比定は、記紀編纂時の意図的な名前変換として、出雲口伝が明確に伝えていたのである。
地名に残る記憶――「船通山」
鳥上山の「上」の字は「髪」に変わっている。地元の人は史実を知っていて、古事記の「スサノオのオロチ退治」はおかしいと気づいた。徐福が船で渡来したのに、鳥上山の空が海になったことを不思議がり、その山を「船通山」と呼ぶようになった。地名そのものが「徐福は船で来た」という史実を保存しているのである。公式の歴史書(古事記)が「スサノオが空から降った」と書く一方で、地元の地名が「いや、徐福は船で来たのだ」と無言で訂正しているのである。
風土記焼却事件と『私撰出雲風土記』
奈良時代に各地の風土記が作られたが、提出された各国の風土記が記紀と食い違う箇所があるために焼却処分された。その話を出雲国造・広嶋は子人から聞き、残っていた下書きを基にして『私撰出雲風土記』(733年)を書いた。この記録では、古事記の作為に合わせて出雲王たちの事跡が神話に作り変えられ、またホヒ家が有利になるように書き改められたのである。
現存する『出雲国風土記』は、ホヒ家(出雲国造)が記紀の方針に合わせて作り変えた、二次的に改竄された記録だったのである。
◆第七部:富家による真実の継承
二つの出雲
国譲り後の出雲には、二重の構造があった。表の出雲は出雲国造(千家家・北島家)であり、ホヒ家の子孫として徐福集団の血を引き、出雲大社を管理し、朝廷から認められた公式の神官として、記紀の「神話化された出雲」を公式に語り伝える役割を担った。裏の出雲は富家(とみけ)であり、旧出雲王家の直系として八千矛王・八重波津身王の血を引き、「財筋」ネットワークの中心として真の出雲の歴史を口伝で継承し、長きにわたる沈黙を守った。
富家が守り続けたもの
富家の口伝が伝えたのは、出雲王国の真の歴史、ホヒによる王の謀殺事件、徐福の正体と野望、国譲り神話の創作の経緯、記紀における徐福からスサノオへの変換、タテミナカタの諏訪進出、「カイライ国造」の構造、財筋ネットワークの広がり――すべての真実である。
これらは文書化されず、一族の中で口伝のみで継承された。証拠を残せば、出雲国造(ホヒ家系)や朝廷からの弾圧を受ける危険があったからである。そして昭和53年(1978年)、富家の当主・富當雄氏がついにその口伝を公にし始めた。長きにわたる沈黙は、ようやく破られたのである。
◆まとめ
今回のポイントは十一ある。

第一に、ホヒの正体は徐福の家臣であり、紀元前3世紀末に徐福の先発隊として息子タケヒナドリと共に渡来した――「出雲側の人物」でも「天照大神の子」でもない。

第二に、徐福集団は五十猛海岸に上陸し、銅剣・銅鐸を土産物として持参して、五十猛から東へ広がった。

第三に、宗教戦争としての「ヤマタノオロチ」――徐福集団による在地ヘビ信仰の破壊が斎ノ木のワラヘビを切って回る行為として各地で衝突を招き、「徐福が来たとき宗教戦争があった」と出雲では伝えられる。

第四に、徐福の野望は「和国の王になる」ことにあり、出雲王に取って代わる計画のもと、王の娘・高照姫との婚姻と王の謀殺を同時並行で進めた。

第五に、王の謀殺事件として、ホヒが八千矛王を薗の長浜に誘い出して失踪させ、タケヒナドリが事代主を船に乗せて粟島の洞窟で餓死させ、遺体は熊野山に埋葬され、『伯耆国風土記』『伊予国風土記』に関連記事の逸文が残る。

第六に、タテミナカタの諏訪進出――事代主の御子・建水方富彦が出雲兵を連れて諏訪へ向かい、サイノカミ信仰を信州に広めた。

第七に、「カイライ国造」の構造として、3世紀以降も実質的支配は財筋(旧王家)が握り、ホヒ家は「公式の傀儡」だった。

第八に、「国譲り神話」の創作として、出雲国造(ホヒ家の子孫)が記紀編纂時に史実を改竄し、ホヒによる謀殺事件を隠蔽して「平和的禅譲」の物語を創作した。

第九に、徐福の名前の消去として、国造果安が忌部子人に依頼し、「徐福の悪事」を出雲人に思い出させないために徐福からスサノオへの名前変換を行った。

第十に、風土記の改竄として、各地の風土記が記紀と食い違うため焼却処分され、『私撰出雲風土記』(733年)はホヒ家有利に書き改められた。

そして第十一に、富家による真実の継承として、長きにわたる沈黙の末、口伝のみで真実が継承され、1978年に富當雄氏が公にした。「出雲国譲り」は、単純な「平和的禅譲」ではなかった。徐福の野望、ホヒの工作、王の謀殺、宗教戦争、そして記紀編纂時の徹底した歴史改竄――これらが組み合わさった、古代史最大の隠蔽事件だったのである。そして「ホヒ家は徐福の家臣として渡来し、出雲王を謀殺した一族の子孫」「富家こそが真の出雲王家の継承者」という構図が、国譲り以降、出雲という土地に二重構造として刻まれ続けることになる。
◆【附】出雲国造と財筋――山陰、本拠地に残る二重構造の痕跡
これまで見てきた「表の出雲」と「裏の出雲」という二重構造は、本拠地である山陰(島根県東部)に今も色濃く残っている。出雲大社を管理する出雲国造(千家・北島両家)は天孫の側についた「ホヒ族」の後裔とされ、一方で富家は出雲王家の直系後裔として「敗者の記憶」を守り続けた。表の権力(国造)と深層の権威(富家)が、1300年以上共存し続けたのが出雲という土地の特殊性である。
出雲の周辺には、この重層性を伝える神社が今も残る。クナトノ大神を祀り、サイノカミ信仰の中心地として出雲大社と並ぶ重要社とされる熊野大社(松江市)。イザナミを祀り、現存最古の大社造建築として出雲系神道の原型を伝える神魂神社(松江市)。そしてサルタヒコを祀り、サルタヒコ=サイノカミという説もある佐太神社(松江市)である。
【コラム】「船通山」という地名に刻まれた記憶
島根県と鳥取県の境にある「船通山(せんつうざん)」は、ヤマタノオロチ伝説の舞台とされる山だ。古事記では「鳥髪(とりかみ)」と書かれるが、本来の地名は「鳥上山」だった。
なぜ「上」が「髪」に変わり、さらに「船通山」と呼ばれるようになったのか。
地元の人々は知っていたのだ。古事記に書かれた「スサノオの天降り」が、実は徐福の渡来であることを。徐福は船で出雲に来た。だから「船が通ってきた山」――船通山と呼ぶようになった。
公式の歴史書(古事記)が「スサノオが空から降った」と書く一方で、地元の地名が「いや、徐福は船で来たのだ」と無言で訂正している。
地名というのは時に、書物よりも頑強に真実を保存する。船通山という名は、2000年以上の時を超えて、徐福渡来の事実を私たちに告げ続けているのである。





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Last updated  Jul 31, 2026 09:29:33 AM
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